【トンネルを抜けた時】

櫟 茉莉花

「またこの道か……」
 雨の夜、郊外の駅から我が家へ向かう細い道。平野は、安物の腕時計に目をやり、そろそろ日付が変わることを確認した。
「また、いつもの時間だな」

 都心部の商社に就職が決まった頃の記憶が、つい最近のことのように蘇ることがある。しかし、いつの間にか四十数年が経過していた。この間、それ以外の思い出は、皆無と言っていいだろう。それほど大きな会社でもないが、昨今の不景気の波にもどうにか持ちこたえたようだ。ただ、著しい業績の悪化は否めない。同期の仲間は勿論、自分の部下さえもリストラされていく中、何故か平野は生き延びていた。特に取り柄のない人畜無害な性格が、逆に功を奏したのかもしれない。
 しかし、その代償に得たものは、何事もなくただ時間だけが過ぎていく毎日だった。

 妻にせがまれ、無理して組んだ住宅ローンで我が家を手にしたのが二十五年前。ようやく返済は済んだものの、通勤に片道2時間を要する生活は、変わるはずもない。
「でも、こんな生活もあと少しの辛抱だ……」
 平野は、数ヶ月後に定年を迎えるのだ。
「俺の人生ってなんだったのだろう?」
 ただ、会社に仕えるだけの人生。往復4時間を通勤に費やし、同居しているはずの女房や息子にも滅多に顔を会わすことがない。辞めたい、逃げ出したい、という思いもとっくに消え失せ、毎日ほとんど無意識のまま、同じ行動を反復してきた。
 そんな平野だが、ここ数日、体に何とも形容し難い異変を感じていた。無気力というのだろうか、何事にも手が付かず、ぼんやりと過ごすことが多くなった気がするのだ。何も考えなくても、体が勝手に毎日の行動を、惰性と習慣で繰り返しているだけのような感じで、ふと我に帰った時、さっきまで何をしていたのか全く覚えてないのだ。
 昨日は、何時に帰宅したのだろう?
 そう言えば、いつ会社を出て、いつの間に電車に乗ったのだろう? それに、いつの間に電車から降りたのだろう? 全く覚えていない。一度、精密検査を受けるべきだろうか? 定年前なら、労災が下りるだろうか?
自分の行動履歴すら思い出せないくせに、そんなくだらないことに思いを巡らせてしまう。にも関わらず、体に染み付いた習慣からか、降りる駅は間違えない自分に苦笑してしまう。
 もう一度、思い出してみる。今日は、会社で一日何をしていたのだろう? 夕食は、どこで誰と何を食べたのだろう?
 しかし、何度試みても駄目なようだ。何も覚えてないし、ちょっと考えただけで、それ以上思い出そうとする気力もない。それでも、毎日が無難に過ぎていく。そして、気付いた時には、いつもこの時間にこの道を歩いているのだ。

 我が家まで、あと三百メートル程の地点に、小さなトンネルがある。と言っても、山を削って造ったそれではなく、新しく出来たバイパスの下をくぐるだけのトンネルだ。距離は、せいぜい五十メートルあるかないか。対面通行だが、歩道はなく、交通量も少なく、照明も極端に少ない。薄暗く不気味なトンネルで、数年前には忌まわしい事件の現場にもなった。幸い、その事件はすぐに解決したものの、それ以降、このトンネルを避けて通る人も多い。
 そう言えば、昨日もこのトンネルを通ったのだろうか? 思い出そうとすると、必ず何も覚えていないという現実に辿り着く。いや、でも駅から家までは、ほぼ一本道だ。記憶の有無に関わらず、通らないはずはないのだ。
「よし、今日は意識をはっきりさせたまま、帰宅しよう」
 平野は、どうでもいい決意を固めた。些細なこととはいえ、平野が自分で何かを決め、実行に移すことは珍しい。

 平野は、トンネルの中にいた。湿った空気は澱み、足元は泥濘み、そのまま別世界へ繋がっているかのような暗くて不気味なトンネルだ。二十五年間、毎日のように歩いたであろうトンネルだが、じっくりと観察して歩くのは、今日が初めてかもしれない。
そして、もう少しでトンネルを抜けようとした時、前方に車のヘッドライトが見えた。加速しながら、こちらに真っ直ぐと向かってくる。
「何てヤツだ! こんな道で、しかもトンネルがあるのに、スピードなんか出してやがって」
 その瞬間、平野はデジャブに陥った。確か、数日前にも同じ経験をしたような……
 よし、今度こそ思い出してみよう。確か、あの時も雨が降っていた。そう、今日みたいに小雨がパラ付く夜だ……
 そうすると、先週の木曜日か金曜日だな。トンネルの出口付近で、車が猛スピードで近付いてきて……危ないなぁ、と思って、壁に身を寄せようとして……そう、その時、確か……

 そうだ! 思い出したぞ! あぁ、そうだったのか……うん、間違いない、完全に思い出した。
 あの時、俺は、ひき殺されたのだ。

 記憶を取り戻した平野は、小さく安堵の息を吐き、久し振りにうっすらと微笑んだ。
 とても安らかな笑顔だった。

 そして、平野はまたゆっくりと歩き始めた。目的も行先も分からない。全てを惰性に委ね、意志を閉ざし、身体の赴くままに歩むだけ。そして、ふと気付いた時、見慣れた風景が広がっていた。
「またこの道か……」
 雨の夜、郊外の駅から我が家へ向かう細い道。平野は、安物の腕時計に目をやり、そろそろ日付が変わることを確認した。
「また、いつもの時間だな」

【トンネルを抜けた時】

【トンネルを抜けた時】

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-06-25

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