無駄なビルディング
「僕」は、そんな彼女のことが、好きなんです。
「プディング。」
ひとつのプリンを前にして、スプーンを拳で握った彼女はぼそりと一言つぶやいてから、買ってきたプリンを食べ始めた。
自分は哀れな性格をしていると思った。見る人見る人、全員が卑しく見える。下品であざとくて、卑しいばか。そんなふうにしか周りを見ることができないなんて、悲しいじゃないか。
「俺って嫌な性格でしょう。」
彼女の口の中でスプーンがカチリと鳴った。
ちょうど口からスプーンを抜くところだった。
ちらりと僕を見て、はむっとまたプリンを食べた。
僕は、ついさっき彼女に話した、昨日僕が見た少年について改めて思い出していた。
はじめは、カフェの外の席からスクランブル交差点を眺めていた。下校中の高校生が、交差点の真ん中でバスケットボールを取り出して遊び始めた。10秒もしないうちに信号は変わったんだけど、なんとやめる気配も見せずに堂々と遊んでいた。すぐにクラクションをならされて、やれやれといったくらいの速度で道の脇へ寄ったんだけど、その間も互いに突っつき合ってゲラゲラ笑っていた。
1台の車が彼らの脇を通る際、運転していた女性が大声で怒鳴っていた。間もなく車も止めて少年らを罵った。「バカ」とか言ってたんだと思う。会社の車みたいだった。少年たちは無視したまま歩いていき、車も交差点を抜けると右へ曲がって民家の敷地内へ入っていった。
歩行者信号がもう二度くらい青になって、また赤に変わる頃交差点へ目をやると、ひとりの男の子が思い切り車の前へ飛び出すのが見えた。あ!と思った。間一髪でなんとか車は止まれたが、男の子はしかめっ面で車を睨みつけ挑発した。男の子が歩道へ戻るとゆっくりと車は動き出して去った。2台目がやってくると男の子はまた勢いよく車の目の前へ駆け出す。車は間一髪で止まる。僕はたまらず立ち上がってそちらへ駆けた。
飛び出す勢いやそのあとの仕草表情には一切の可愛げもなく、冷めきった死への勢いを感じた。なんだか怖くて、心の奥が竦んでしまったような気がした。
少年のもとへ着くと笑顔を作って「お母さんやお父さんは?」と聞いた。なんとも表情の捉えようのない細い目をしていた。笑顔になりかけで止まったような不気味な表情を一切変えずに「お前には興味ないよ」とでもいうかのように走り出した。思わず腕を掴もうとしたが、指が触れただけで逃げられてしまった。いよいよこのまま飛び出されたのではたまらない。僕も走った。間もなく、「誘拐に見えやしないかしら」と思った。なんとなく、この少年の背中は、僕を嵌めようとしてるんじゃないかと思えた。
所詮は小さな子どもと大人だった。すぐに僕が追いついた。むやみに掴めば乱暴だと思ったので、「このままじゃ危ないよ。知ってる大人の人は、そばにいないの?」そう聞いても、少年はさっきの表情のまま、またもと来たほうへ走り出した。
少年が車道へ飛び出す様子を見ていて心配だったのか、様子を見に来ていたおばさんが、「お母さんお母さん!」と言うのが聞こえた。
ああ、いるんだなと思った。なんと言って弁解しようか、このままだと少年を突然追いかけ回した危険な大人にしか見えないだろう。
走りながらそんな心配をしていると、前方に母親らしき女性が立っていた。
少年に、「どこ行ってたの」というようなことを怒鳴っていたと思う。
この女性が、さっき高校生を罵っていた人なんだとすぐに気がついた。事務員のようなスカートに、販売員のようなチェック柄の上着を着て、髪は束ねられてメガネをしていた。
すぐ向こうには車があって、少年はその中へ入ってしまった。よく見ると、オーガニックにこだわったことを謳ったような食品だか、肌に良いとか成分が特別だとかっていう生理用品だかの宣伝・販売の車だったと思う。
女性が僕に詰め寄って、大声で色んなことをわめき出した。あれはやっぱり、感情が抑えきれていない女性だった。とても暗く、破滅的な暴言ばかりをこれでもかというほど浴びせられた。本当にこれでもかと思う頃、さらにエスカレートして死とか地獄とか、そんなことばかり言われた。あの少年の歪みきれたような無表情は、これらの言葉が原因なんじゃないかと思った。
ひどくストレスのたまったこの人が見せる態度が、過去において少年の光を遮ったように思えた。あの少年は、本当に飛び出していたのだから。
プリンを食べ終えた彼女が顔の前で両手を軽く合わせて「ごっそ…。」と呟いたのを見て、なんだか安心した。
「そろそろ帰ろうよ。」
「帰ろう。」
「昨日俺が見た子、怖かったな…。」
ぼそりと言ってみた。
「いらない建物が多いよね。」
彼女は僕の発言を無視してそう言った。その顔は空を向いていた。
周囲のビルはそんなに高くないんだけど8階よりも高い建物なんかは、中でみんなどんな業務をこなしているのか全くわからなかった。
「皆も言ってるように、いまに都会の人たちが入ってくるよ。」
「そうなった時に、都会の建物が空くでしょう?すごく大きいんだし。」
確かにそうかもしれない。空っぽの建物が増えるんだろうな。
「無駄な建物でなされてた業務って一体なんだろうね。」
「無駄ってこともないよ。俺はよくわかんないけど、間接的にお金や物が動いてたんだよ、きっと。だから無駄ではないよ。」
「その子、私のいとこ。その女の人は、私のおばさん。」
唐突だった。
「エ、そうなんだ。」
「いまこの国で生きてるの、その二人しかいないって言うの。毎日二人で一軒一軒まわってね、『生きてる人』を探してるんだって。」
本当にそんな人がいたのか。いつの間にか僕は、誰が生きてるかなんて気にしなくなっていた。
「変な考え方になっちゃったの。」
定期券のカードを回しながら言った。
「だけど、なんか、まっすぐだね。」
「まっすぐではあるよね。」
駅につくと、そこには今日もたくさんの人がいた。
過ぎる人過ぎる人、丁寧に顔を眺めながら、確かに生気は抜けてるのかもしれないけど、このうちで生きてる人が1人もいないなんて信じられなかった。
彼女のおばさんは、本気でそんなことを言っているんだろうか。
もしかして、みんなが卑しい人間に見えるのは、僕が生きてる人で、みんなは生きていないからなんじゃないか。
しかし、それではまるで生きてることが優れてるかのような見方じゃないか。となると、僕だけが生きていないのか…。彼女のおばさんも、その子も、本当は生きていないんじゃないか。
彼女は…?
「ねぇ、自分は生きてると思う?」
改札を前にしてそんな事を聞いてしまった。何を焦っていたのだろう。
「ううん。私は小さな建物だから。無駄な。」
あぁ、そうか。と腑抜けた返事をしてしまった。
今晩寝る前に、また頭を抱えることになると思った。
「またね、来週になるかな。」
「うん。」
改札にカードを当てる瞬間に「無駄なビルディング。」と彼女がぼそりと言ったのがわかった。しかも、なんだか嬉しそうだった。
無駄なビルディング