ガーディン

福丸

ガーディン


小説という現実とは違うストーリーを編み出す能力は、
ベッドに入ったとたん寝入るのが早い特技に似ている。
現実逃避であり、
現実とパラレルワールドを同時にこなせる人間の特権で、
そして少々アンテナが敏感にできてしまった私にとっては、
理不尽な世の中を生き抜くために不可欠で唯一の避難出口で、レメディだ。

何十年と生きているうちに、現実生活には不用で邪魔にすらなるそういう思念が、普段のふとしたとき、湖の底の湧水みたいにふわりと浮かび上がるということに気づいた。
それが起こると、私は見ないようにして目の前のことに集中する。
しかし、その間もそれは広がり続け徐々に色を持ち、多彩な渦を作り出す。そうなったら、もう私の中に別の主人格が生成され勝手に物語を紡ぎ出すのだ。
妄想といえばそれまでなのだが、一度に二人分の生きているみたいで忙しい。そして放っておくと、それはいつか本当の自分を侵食し、一つの物にいくもの価値観を押し付けてくる。そして小説にして吐き出さなければ私は乗っ取られてしまう。
だから、私は筆を取らざるを得ない。

現実の暮らしの中で白昼夢のように見ているもう一つのパラレルは、メモをとらなくてもその時の人格を表に引き出せばとびだすえほんの表紙を開くように、思い出すことができる。だから、どんな風景も躊躇せずに見ておくことにしている。
そうして、いつか小説のネタとして吐き出すまでは、大事に取っておくのだ。
そう思っていた、先日までは。

それは夫と出掛けたときのことだった。
ちょっとした祝い事があって、二人で町の小さなレストランへ行った。
はやり病のせいで、駅前は閑散としていた。休日の午後六時は、まだ暗く、閑かさが町を祭りの後のように寂しくさせていた。
すこしうかれていたのかもしれない。
出がけにひっかけたピンク色のワインの炭酸割りが、視野の輪郭を緩ませていた。
時間貸しの駐車場に車を停め、年季の入ったガラスの扉を押して店に入った。
初めての店は洋食屋だった。ファミリーレストランや焼肉屋がひしめくその場所には不似合いなほどこじんまりとした店だ。

入り口にはおさだまりの色紙が数枚、食品ラップに包まれ飾られている。
奥へと長い店の長辺ほぼそのままのカウンターの奥には、白衣にコック帽のマスターが立っていた。
「いらっしゃいませ」
普段なら夕食の忙しい時間帯だろうに、伝染病の影響はこんな小さな町の路地の奥の店にまで届いていた。
私たちは、今晩の最初の客らしい。気難しそうなマスターがなけなしの笑顔で迎え入れた。それから困ったように私たちから視線をカウンタの上に移した。
そこには消毒液のボトルがあった。まずは手を消毒してくれ、というのだ。
プラスチックの白いボトルは、店には不似合いだった。ウッド調の調度で揃えられていた店内はとても重厚感があって、東京の老舗ホテルのバーみたいだ。

カウンターの背の高い椅子に腰をかける。

目の前にぬくもった赤い銅板が広がっていた。私たちが腰を下ろし、頼んでいたアルコールに口をつけほどほどに座が落ち着いたのを見計らい、マスターが手元のレバーを捻った。
暗く見えていた隙間に青い炎が灯るのが見えた。
すでに自宅で飲んでいた私は、すぐに酔いがまわ利それに任せ視線を泳がせた。椅子はすツースほどの高さがあり、足をステップに預ける。しっかりした背もたれには起毛素材の布が貼られ座り心地が良い。体を預けてもしっかりした安定感で支えられていた。
流れるような所作でマスターは、お祝いにと私たちが選んだ高級な肉を銅板の上に置いた。

マスターの背後の棚に目をやる。
ヨーロッパの老舗の陶器がずらりと並んでいる。良質な食器は年代物に見えた。そこから見る風景は、ずっとこの店が開店してから変わっていないのだろう。
白髪の外国人と並んで微笑む若かりし頃のマスターの写真が誇らしいげだ。
さっきまで暗かった向かいの焼肉屋の提灯にあかりが灯った。
椅子に体をあずけ入口のガラス扉へ目をやる。外は一層暗くなっていた。駅前だから、この時間、もっと人通りがあって良さそうなものの、黄色いあかりの漏れた路頭を歩く人影はほとんどない。

残念だと思った。それほど小さいが木の温もりに溢れた店内は心地よかった。
ふと、こんな風景が自分の人生の真ん中にあったらいい、という思いが浮かび上がった。
自分の中心が、この店の営みと、ここを訪れた人たちによって織られた日常だったら、
きっと私は満足して目を瞑れると思った。
静かな気分だった。

ふと病室が浮かんだ。
とても弱っている。いつもなら、自分より、連れ合いや、子供や、店のことが気になっていっときもじっとしていられないはずなのに。今は腕を上げるのも億劫だ。
終わりが近いことはわかっていた。
いつもなら、そんな予感は思い過ごしだと自分を励ますけれど、間違いない事実だとわかっていた。抗う気持ちはあったが、それが間違いだともわかっている。
今は、ただ優しく、美しく死にたいと思った。
みんなを心配させるから泣き言を言わず、見舞いに来てくれる人には微笑んで応え、息絶えた後、みんなが幸せであるのを祈ろうと思った。
大丈夫、あの店があるから。あの店で紡いだ時間があるから、きっと大丈夫。
あの人は、今もあの鉄板の前で、気難しい顔で静かに仕事をしているわ。
長年使い込んだせいで、鉄板にできた三つの丸い跡。
そこが一番、お肉が上手に焼ける場所なのよ。
レアも、ミディアムも。でもウエルダンはだめ。お肉の風味がなくなるから。
いくら言ってもあの人はダメね。お客さんの注文でもダメなの。
昭和の人間は頑固だから。でも、その勘は確かよ。
だから、いくら銅版が広くても、一度に三枚しか焼けないの。

そんな時、私は、厨房に入って、簡単なアミューズを作る。
お父さんは料理は天才だけど口下手だから、怒っているんだと勘違いされちゃう。
だから長いカウンターはやめて、厨房を大きくしましょうって言ったのに、
あのアンティークショップのウエアハウスで見た十九世紀のビンテージカウンターに一目惚れしちゃったのね。

私たちは若かったわ。
お父さんは料理学校を出たばかりで皿洗いだった。私はホテル学校のサービスを勉強したばかり。あの頃のウエイトレスは、格があった。ホステスではないけど、お話が上手にできないとラウンジからの接待は担当させてもらえない。
昔、フレンチは、最低三時間かかったもの。ラウンジで葉巻をいただくところから始まるの。そして、最後は、メインダイニングからまたラウンジに戻って、コーヒーとお菓子をいただくの。
最初から最後まで、一組のお客様のサービスをさせてもらえるようになるには、たくさん勉強をしなくてはいけなかった。
葉巻の銘柄のこと、産地のこと、気候によって味わいが変わること。
それから、南の国が多い産地の、その土地の政治や自治のこと。

パティシェが用意した特別なお菓子の歴史や、お客様の好み、会食の目的。
ウエイトレスは誰にでもできる仕事、じゃないわ。

お父さんは、いつでも、一人勉強していた私を見ていた。
ロッカールーム前のタバコくさいベンチがいつもの場所で、
私は彼が洗い物を全て片付けて降りてくる時間までそこで勉強をした。
なぜなら、彼が最後に勝手口の鍵を閉める係だと知っていたから。

帰っても寝るだけの部屋は、勉強には向かない。寂しくなるもの。
私は、いつかフランスの老舗のレストランの女主人になるのが夢だった。
マダム、なんて呼ばれて、いろんなお客のために素敵な夜を演出するの。
昔から、レストランとカフェは、町の文化を作ってきたのよ。
映画を見ればわかるでしょ。人生が交錯する場所。そこで私は誰かの人生の一部になって、自分も誰かの人生を見ていたい。

でも夢があっても、一人では寂しさを止められない時がある。
だからできるだけ誰かがいるところで勉強することにしていたの。
それが、あのロッカールームの前だった。

あの人ったら、そんなことも知らないで、
私が自分に惚れてるって、思い込んでいたのよ。
面白いわね。
でも、当然ね。
それで、いつの間にか休みの日も会うようになっていた。
仕事を覚えさせてもらったホテルは私たちの聖地だったけど、
独立したら開きたい店とは違った。

開きたかったのは、洋食屋。
二人でよく行ったね、本屋街の路地の奥。
普通の家にしか見えない洋食屋。
夜になると、常連客だけでいっぱいになる。
私はそこで夫婦で店をやるという新しい夢を見つけた。
そしてあのウッドカウンター、自分たちで店をやるとき
きっとこんな店にしようって話をした。

だから、私たちの店のカウンターは私たちの歴史そのもの。
店が忙しくて、ヨーロッパの武者修行も新婚旅行も行けなかったけれど、
私は一生の思い出として、
私がこの世にサヨナラをいうとき、
まぶたの裏に思い浮かべる風景は、あの店の、
厨房の前の小さなサービス用の窓の前に立って、
お客さんが来るのを眺めたあの風景でいい。
とても豊かな人生だったと思うの。
私たちには店しかないけれど、店はいろんなものを見せてくれたから。


・・・また白昼夢を見ていた。


初めての考えだった。
自分の命が終わるのを実感した時、心静かに振り返る風景はどんなものがいいか、
なんて考えたこともなかった。

すると本当の私の理性が云った。
いろんな国へ行った。いろんな場所も人も見た。
話のネタに事欠かないくらいの経験もした。
でも、そのどれも、最後の時に思い浮かべる風景じゃない。
私はまだ動けるし、行きたい初めての場所もある。
この伝染病騒ぎが収まれば、また飛んで行ける。

でも、人生の半分を過ぎたいま、
『未来』がべつの意味を持ち始めたいま、
のこりを最後の脳裡の風景を探す旅にしてもいい。
実際の場所でも、心の風景でもいい。
静かに幸福な諦観を孕んだ心で、
悔いのない人生だったと思える心象風景を探そう。

新しい思いつきで、
鈍くなった脳に風が吹いた気がした。
気がつくと目の前のグラスは空になっていた。
カウンターの上で、フィレはまだ乾いた音を立てている。
短い時間だったらしい。

私は、次の一杯を決めかねて
背後の、ボトルが並んでいるキャビネットの方へ振り向いた。
琥珀色の生、なんていう文字が踊っていたのを店に入ったとき目が捉えていた。

背後には、洋食屋らしくギンガムチェックのクロスをかけたテーブル席が
壁に沿ったビロードのベンチシートの前に並んでいた。
そのどれも、片付けた後のように何も載っていない。
ベンチシートのビロードは、すりへたったところもなく均一な紅色を反射している。
磨きたてられたウッドの床。
私はぐるりと首を回して、キッチンのほうを覗き込んだ。

そこはお客の目を避ける作りになっていたが、
古いウッドの棚は生活が溢れていた。
年代物のキャッシャーが、その中心に構えている。。
古い例えだが銭湯の番台のような位置で、店全体が見渡せる。
その年季の入った木製の棚の天井に近い天板の上に置かれているものに目にとまった。
小さな写真たてだ。写真が入っている。
ロングヘアの中年の女性が微笑んでいる。
その女性は、テーブル席の客にもカウンターに座る客にも見えないが、
銅板の前に立つマスターに向けて笑いかけている。
遺影らしい。

見てはいけないものを見てしまった気がした。


「お待たせしました」
マスターがレアを頼んだ私の皿に、小さく切ったフィレをのせた。
現実と、妄想がリンクした妖しい思考のまま、
私は連れ合いの料理が供されるのを待たずに
口の中に肉を放り込んだ。

レアらしい期待より低い温度の肉が、口の中で溶ける。
赤い汁ともに、華やかな香りが広がる。
肉という別物を食んでいる感覚。
知らない食べ物に感じる。
美味しい。
嬉しくて思わず微笑みながら目をあげるが、
不器用なマスターは連れ合いの肉と格闘している。

妄想の結末を知りたくて、
写真のことを尋ねてみたくなった。
でも誰が私の妄想の話を聞きたがるだろうかと迷った。
それにそもそも、私はどこから説明するべきかわからなかった。

答えが見つからず、
口は開かずにいた。
わかったところで、答え合わせをしたところで何ににもならない。
いつものことだ。鮮明な想像もさほど珍しくない。
今感じているこの感覚を大事にして、書くべき時まで取っておこう。
また開けば音や温度まで思い出せる記憶の絵本が増えただけだ。

その反面、私はワクワクしていた。
この妄想は形になる予感がした。どんな味付けをしても、どんな時代の設定しても自由だ。
あるいは、ストーリーの結末にこの店の雰囲気を使ってもいい。
いや、あの、最期の風景というコンセプトも面白い。
私は、琥珀色の生ビールを含みながら、ホップでワインを作ったらこんな味になるだろうかと、また別の人格を作って真剣に考えていた。

デザートは柚味のシャーベットだった。
少し苦い柚子は、案外自家製だったのかもしれない。連れ合いが食べ終わるのをまって、外に出た。八時を回っていた。
夜闇の魔法は、伝染病を恐れる人心にも効くらしい。
食事の余韻に浸って店の外に佇んでいると、向かいの店から酔った男女が出てきた。
気軽な店で済ませてきた様子だ。
女性が立ち止まり、ガラス張のサイコロのようなメニューの入ったケースを覗き込んだ。
「わぁ、アワビのステーキだって。食べたーい!」
「こんどな」
男が女の肩を抱き寄せ、陸橋へ向かって歩き出した。
夜風が気持ちいい。二人は声を大きくして喋った。
「あの店、長いんだ」
「へぇ、そうなの?」
「ああ。もう四十年ぐらいじゃないかな」
「じゃあ、老舗じゃない」
「ああ。
そういえば・・・随分前だけど、奥さんが行方不明だってきいたことがある」
「何それ?」
「大騒ぎになってサァ・・・・」

二人はなだらかな勾配をあがって陸橋の中ほどにいた。
だんだん声が遠くなる。

行方不明かあ。

また、無駄な妄想しちゃった。
でも、仕方ない、そういう体質だから。
そろそろ、体質のせいにしだした。歳をとって悟ったことだ。
一人一人中身が違うように、体だって違う。その違う体が生み出した心の癖は
直しようがない。

私が、いつものように、自分にそう言い聞かせた時、
知らない声が頭の中でした。
それは一言こういった。

「私はここにいる」

私は振り返ってその声の出所を探したが無駄だった。
洋食屋は、カウンターの上の明かりを残して、
店の電気を落とした。

暗い店内で、キャビネットの上の、フォトフレームにカウンターの明かりが
反射して光っていた。

私の持っていたのは、
ストーリーを生み出す能力、
なんてものじゃなかったのかもしれなかった。

ガーディン

ガーディン

『ガーディンは、海馬の形成に必須の蛋白質である。また、新生神経細胞の配置を決定する蛋白質でもある。近年、海馬は統合失調症との関連が指摘されていたが、ガーディンが統合失調症の原因遺伝子であるDISC1と協調しているという説が上がっている』 Wikipedia より

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-06-22

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