七月の憂鬱、空虚。[完結]
七月の憂鬱、空虚 Prologue
照りつけるおひさまと透きとおった青い海が砂浜に打ちつけている情景をただただ見続けていた。
あー 私も海に呑み込まれそう。ううん、呑み込まれたい。
海の底はどうなっているんだろう。
暗い?明るい? 私は海に入ったことがないから分からなかった。
だけど、綺麗で透きとおった海だから美しい気がする。
美しい魚の群れが優雅に泳いでいるのを想像してみた。
そこはまるでどこまでも続く巨大な水族館みたいで魚のキラキラ光る鱗が目立っていた。
魚は自由なのか不自由なのか魚になれないからイメージでしか分からないけれど、
羽ばたくかのように冷たい水にゆらゆらと命が尽きるまでの長い時間泳げていたなら 私はもっと輝いていたのかもしれなかった。〈死にたい〉とは思わなかっただろう。
私はとある人を精神的に酷に傷つけることもなかったし、
私は自分に罪悪感を覚えることも
鳥になってみたい欲望で苦しむこともトラウマを抱えることも なかったはずだ。
ガラス越しではない美しい世界。一度は見てみたかった。
けれど現実はそんな綺麗な世界ではないことを知っている。
死に刻々と近づいている私に綺麗な海が私を誘う。
「こっちへおいで」と波が呼んでいる。
「友達になろーっ」と沢山の海の生き物たちが叫んでいる。
嗚呼、飛び込んでしまいたい。飛び込んでしまいたい。
海に溶け込んだ私はどれほど美しいのだろうか。
だれか見ていてくれないかな。
もう我慢できない。
"ヒューッ ザブンザブザブ バシャッ" 激しい音がした。
飛び込んでしまった。私の生命〈いのち〉は……
私が生きた時間は自分が止めてしまった。そう、この気持ちがそうさせたのだ。こうなるとは思っていなかったが。
私の面影を覚えている人や生きていた頃の私の記憶がある人は
いないと思う。
-海以外の全ての場所に呪いをかけてしまったからだ-
私が死ぬ直前に無意識にかかってしまった呪い。
それは〈死〉を連想する全ての存在、物質的な清潔でない存在、人間にショックを与えるコンテンツ、性的なコンテンツ、
地球上の生きている存在を傷つける(目に見えないものを含む)存在全てなどを消してしまう呪いだった。
勿論、ネット上からもそれらは排除された。
当然、いじめ、無差別テロ、犯罪など存在しない。
連想もできなくなっている。
悪影響を及ぼす生物・人間も生まれず、生まれる前に
死んでしまう。
純粋なこの世界を良く思う人もいれば悪く思う人もいた。
平和主義者はようやく理想の世界が生誕されたと感激していたし、
とある国では戦争が終わり、多くの人々に笑顔が戻り、
あの子は「素晴らしい!」と言い、嬉しそうにしていた。
残酷主義者は刺激が足りないと残念がっていて、他にはここまで綺麗すぎると頭がおかしくなるという人がいたり、
有名な哲学者は光があるから闇が良き存在として存在し、闇があるから光が良き存在として存在する。
それなのにこの世は不自然だ。お互いが役割を果たすことで、均等を保ち、
はじめて平和な世界が生まれる概念が長年、正しいと思ってきたのにそれを覆すとでもいうのか!?
この世界は間違ってる!偽りの世界で狂っているのに美しいとは思えん!と怒っていた。
やはり、人によって見え方・感じ方が違うようだ。
あなたは何もかもが美しい世界をどんなふうに思うかしら?
それじゃ、姉が自殺してから2年後の私の学園生活を話すね。
七月の憂鬱、空虚 Chapter1
廊下をスタスタと歩く。急いで
図書室に向かう。朝6時。学校に着くにはまだ早い頃だ。
教室に入ってもやっぱり人の姿は無かった。
つい最近、素敵な本を見つけた。
一人の木こりのお話。
とても感動するファンタジーなお話だった。
最後まで読んだけどこれほどの長い本は久しぶりだった。
今日、返さなきゃいけない。
返すのがもったいないくらいだった。ずっと手にしていたかった。
それでも返さないと。
「この本返します」
「はい」
「ついでにこの本借ります」
「了解、楽しんで読んでね」
「うん(笑)」
今日は2冊借りた。
楽しみだなぁ…と思いながら教室に戻った。
教室に着く頃には大半の生徒が居て友達とおしゃべりしてる子が多かった。
賑やかな教室はいつもの風景。
そこに私もいる。
「おはよう」と咲花に挨拶される。
「おはよう、明依」あとから水音も挨拶する。
「おはよう」と私は元気よく挨拶した。
「どこ行ってたの?」と咲花に聞かれた。
「ちょっとね、用事。」
「用事って?」
「トイレだよ」
「そっか、ごめんね。疑っちゃって。心配してたんだよ」
1時間目は数学。その次が理科。
数学は予習してきたから簡単だった。
今日は実験で、水溶液に物質を混ぜて色を確かめるやつ。
好きな授業だから明依は嬉しそうな笑みを浮かべている。
あれ?その次はなんだっけ?忘れちゃった。
必要な持ち物持ってきたかな、さっきまでの表情は一変し、明依はそわそわしだした。
キーンコーン カーンコーン
数学は予習してきたから簡単だった。
キーンコーン カーンコーン
3時間目は体育だった。あいにく、体操着を忘れたので隣の席の子に借してもらった。
体育は苦手だからあっという間に終わってほしい‥
*************
風のように1日が過ぎた。放課後。
いつも通り図書室の前を通りすぎると人の気配がした。
“あれ…誰かいるのかな”
そう思ったけど振り返ってみても誰もいなかった。
ということは図書室にいるのは私ひとり。
静かだし、楽しみにしていた本を読もうとしていたら、
ガタッ、ガタガタ、ドンッ
どこからか物音がした。
振り返ってみると知らない男子生徒が倒れていた。
「大丈夫ですか?」そう声を掛けると予想外の返事が返ってきた。
「誰?というか貴女のような不細工が気安く話しかけないでもらえませんか?今、寝ていたところなんで。」
「は?いやいや、物凄い音がしたし、あなたがその脚立から落ちたような気がしたから私は
心配して…絶対バランス崩して落っこちましたよね?あと、ブサイクじゃないし!!」
「あー心配して損した」と言いながら鞄を肩にかける。
図書室から出ようと思ったけど、折角だから聞いておこう。
「あの、姉の海憂について何かご存知ですか?あと、初対面でその態度良くないと思います!」
ちょっと強気になってしまった。
まあ、いっか。この人だし。
「もしかして舞浜海憂のこと?」
「そうです。あ、自己紹介まだだったね。」
「私、妹の舞浜明依といいます。3年A組の。」
「はぁ~どうでもいい。それより死んだよね、そいつ。なんで俺にそんなこと聞くの?」
「えっと、普通の自殺じゃなかったんです。死因について調べてて一人じゃ何も解決出来なかったから。
だから、少しでも力になってほしいんです、よろしくお願いします。」
「死因は溺死です。海憂さんは17歳の夏に海へ飛び込みました。
あと、助手にはなれない。もう解決したでしょ?これでおしまい」そういって見知らぬ少年は立ち去った。
「待って下さい。なんでそんなに姉に詳しいのですか?」と聞くと
「詳しくないし、有名な話だよ。平和で残酷な呪いかけた犯人だろう?」と訳の分からないことを言ってきた。
「呪い?それは何なんですか?」
「今は争いの無い世界で災害すらここ最近起こってないのは気づいてないの?」
「そういえば心当たりあるかも。言われるまで不思議に思わなかった。
でも、良くない?争いないし、平和じゃん。何も悪事ないのに何で呪いって言うの?」
「永遠にこのままだろうし、世界を歪曲させてるから環境に悪影響。あと、50年に一度受け
止めきれない渦が発生する。俺達はそれを阻止しなければならない。」
「えぇーーっ」
信じられない言葉に明依は思わず悲鳴をあげた。
「で、でも助かる方法はあるよね、、
このままだと死んじゃう…私はじゃあ何をしたらいいんですか!?」とキツくあたった。
明依の目からポロリと涙が零れた。
手にしていたペットボトルの水を飲み
ほすとその人はこう言った。
「君は何もしなくていい。俺は不思議な
能力を持ってるからそれでなんとかする。
なんとかなんなくてもいずれ死ぬんだから‥」
私は「そういう問題じゃないです!」と
反論した。
「そんなに言うんだったら君が阻止したら
いいんじゃない?凄い波がくるから
多分君の力じゃ抑えられないと思うけど。
どちらにせよ、死ぬことに変わりないね。
ただ、阻止できたら皆から称えられるね。
死んでからだから嬉しくもないけど。」
「あのさ、からかうの大概にしてくれない?
無理に決まってるでしょっ。」
「そっか、諦めが早いな。」
「諦めてませんが、あなたが阻止するなら
私は全力で応援します。
あと、今から対策しておかなくていいんですか?
ニュースになっていい内容だと思うのですが。
早めに町の人たちに知らせてあげなきゃ…」と私は言う。
「まあ、それもそうだね」
散らかった本を片づけている少年を見て
ふと思った。
“そういえば名前知らないじゃん”
「そういえばお名前は?」
「へ?何で教えなきゃいけないの?」
「あー何だっけ?名前?」
「普通、自分の名前忘れる!?」
驚いてしまった。この年で自分の名前忘れる
人がいるなんて。
「隣の隣のクラスに所属している
九十九里溯夜です。」
「えっともう一度お願いします。
つごもりさくあさん?」
「隣の隣のクラス?3-Cって言ってよ。」
あまりの自己紹介の下手さに呆れてしまった。
「もういいや、何と呼んでも返事しますよ。」
「分かりました、隣のキミ。」
「悲しいですね。まあいいでしょう。」
「そういう紛らわしい言い方をしていると
いつ誤解されても知りませんからね。明依
さんのことですから俺には関係ないですけど。」
「紛らわしい?何か変なこと言いました?」
「鈍感すぎる…」
―――そうして明依と溯夜の青春謎解きライフが始まった
「ああああああー」
「ど、どうしたんですか?」
ようやく本が片付いたというのに
まだ何かあるようだ。
「テンがああぁぁーっ!!」といきなり溯夜が
泣き叫び出した。
「テン?」
「テンってあのキツネに似た天然記念物
ですよね?」と明依が言うと、
「俺が愛してやまない家で飼っている
テンのことだ。俺が宿題やり終えた頃には
忽然と姿が消えてた。」と悲しそうに言った。
「翌日も隈なく探し続けた。結局その日以降、
あいつの姿は見ていない…
あの日から、ずっと、ずっと。」
そう言いつつも彼の目からは涙が零れた。
「隣のキミってこんなにも簡単に泣くんですね。」
「会った時から滅多に泣かないキャラだと
思ってました。」
「泣かないキャラ?」
そう言うと、
「ほら、いるじゃん?
アニメとかでみんなを助けたりするヒーロー的存在って泣いてる所、人に見せないじゃん。」
「確かに」
「でも俺、ヒーローじゃないし、あれは演技だけど産まれた時に泣けないと息してない事になって、それはそれで大変なんだよ。」
溯夜は涼しい顔でさらりと言う。
「え、演技?ちっともそんな風には見えなかったけど…それにヒーローじゃないにしても隣のキミ、皆を巨大な渦から助けてくれるって言ってたじゃないですかー。」
「世界救うとは言ってもまだ渦せきとめた
わけでもないし。まあとにかく見つけ次第、
俺に知らせて」
「その子を見つけたら隣のキミに伝えればいいんですよね。分かりました。」
「そのテン探しに協力してくれますか?」
「姉の事件を解明してくれるなら、ぜひ!」
「まだ事件と決まったわけじゃない。」
「‥‥。」
「事件かもしれないですよ!今は事件の確率の方が高いです!証拠も見つかりましたし…。」
「証拠?見せてくれないか?」と溯夜が要求すると、明依は「私の家にあります、今度来て下さい」と言った。
*************
日が暮れて、下校時刻を知らせるチャイムが
鳴った。
「やっべ、早く帰らないと…」
廊下を走る生徒の声が聞こえた。
「竹本君の音楽LIVE確か今日の6時からだったよね。」部活終わりの女子生徒だろうか。
何人かで喋っている声が聞こえた。
(もうそんな時間?)と明依が思うと、
「あーね。早くおうち帰ってテレビ見ないとね。うちは録画してあるドラマ見たい。昨日、見てる途中で寝ちゃって、後の内容さっぱりで…」
「楽しみー」と別の女子生徒も口を揃えて言った。
溯夜は今度こそカバンを背負って図書室の扉を開け、帰ろうとした。
その時、人の気配を感じて後ろを振り返ると「一緒に帰ろう!」と明依は誘ってきた。
溯夜は「一人でも二人でも帰りに楽しい事なんてないよ」と告げると、
「だって一人じゃ寂しいし、友達は部活終わって先に帰っちゃったし…」と悲しそうな表情で呟いた。
*************
帰り道、何も話すことが無かった為、
暫くは沈黙の間が続いた。季節は夏のはじまり。
葉っぱが生い茂る頃で、風に揺れる木が緑色に染まっている。
ザアァ‥‥という木の葉の音が、人のいない静かな小道を爽やかにしてくれた。二人の歩く速度はかなり遅く、図書室の掃除中転んで足を痛めた少年と本の片づけですっかり疲れてしまった少女だから仕方ないと言えばごもっともである。
ふいに明依が、
「テンちゃん?さんの色とかって覚えていますか?」と聞いた。
すると、「白だよ。」と溯夜は即答した。
「あーあと“テンちゃん”か“テンさん”の
どちらかにしてくれない?」と一瞬、惑わされそうになったと言わんばかりに明依に責めるように言った。
「ああ、ごめんごめん。」と明依が謝るついでに「テン様って名前(愛称)とかあったら嬉しいんだけど。」と言い、
「まさか、様付けするとは思わなかった。敬いまくってるよね、それ。俺でもそうは呼ばないって。」と笑いながら溯夜は言った。
「で、名前の事だけど。名前はないから舞浜さんが好きに付けて」と言われた。
「結構、愛してらっしゃるように私の目には映ったのにその子の名前はまだ決めてないの?」と不安そうに明依は聞いた。
「そりゃ、勿論、愛しのテンだよ。でもだからこそ付けてはいけないような気がしてねぇ…。」と溯夜は言う。
「そうなんですね。何となく分かる気がする。
あとそういえば、さっき言ってたけど天然記念物をペットとして飼っていいの?」と明依。
すると溯夜は「俺様が許可したからね」と言った。
「勝手すぎるでしょ!」と明依がツッコんでも動じることはなかった。
それに加え、
「色は白だから忘れないで」と溯夜が
再度言った。
「白ね、分かった。その子、絶対探すから。
だからお姉ちゃんを殺した犯人、絶対、退治してね。」明依が言っても全然シリアスには聞こえてこない。
ただ、二人のおしゃべりの空気だけは一変した。
「あ。」思わず明依は言う。
「何?」と溯夜。
「なんか、ごめんね。こんな事、初めて会った隣のキミに言って。私は感じてないけどかなり重くなっちゃったよね。」
「全然大丈夫。」と何事もなかったように
溯夜は言う。
「本当?それなら良かった。」とほっとした顔で明依は言った。
「もうすぐ家つくね。」
「そうだね。」
「バス停という名のハウスにね。」
「えぇーっ。は?え?」
驚いた表情で彼を見ると溯夜は
「はえ?虫?ああ、俺はそういう奴らが嫌いでね。詳しくないから」と言う。
すぐに「その“はえ”じゃありません!
こんなに歩いたのに?嘘でしょ。君の家は隣の県なの?」と明依は聞いた。
「隣の県じゃないけど、近いっすね。」
それだけ言うと、バスの並びの最後尾で
足を止めた。
「そういえば、白いテンってオコジョじゃない?」
――――いきなりの明依の言葉に戸惑った様子の溯夜。夕焼けが消えそうなくらい溯夜の心はもうすでに闇真っ只中の暗さだった。
「その話は明日でいいや。」
(俺は今まで、とんだ間違いをしてたのか?あれは誰に何を言われてもテンだ。そうだよな?しらゆき。早く帰ってきてくれよ。)明依の後ろ姿を見ながら、そんな事を思っていた。
七月の憂鬱、空虚 Chapter2
「チリリリ、チリリリリ、チリッ」けたたましく鳴るアラームの音で明依は目を覚ます。
(まだ6時か…)
もう少し寝ようかなと思っていたけれど、廊下から澄み渡ってくる朝食の具材の香りが朝だということを知らせていた。
「明依、もうすぐ学校行かないと遅刻するよ!」何やら母は焦っているようだ。
「お母さん、まだ6時だし、昨日は早く学校着きすぎちゃったし。」
それだけ言い残すと明依はまたベッドへと戻る。
「ていうか焼きすぎじゃない!!この目玉やき」
「目玉やきはこのぐらいが丁度いいの」
母娘の声は家中に響き渡っていた。そんなやりとりをしても、まだ6時と10分ちょっと過ぎただけである。カーテンを照らすオレンジ色の朝日と心地良い空気が明依の部屋を優しく彩り、眠気を誘っていた。
(あぁ、昨日の人はあの人に似てたなぁ…)
「ちょっと、この本って返す予定だったんじゃないの?」
何やらフライパンらしき物を持ちながら、明依が先日借りた小説2冊を手に取り、明依を促している。
「ハッ。あやうく二度寝する所だった。ってお母さん!?あれ?焦げてない」
部屋中は焦げくさい匂いが漂っているというのに――。
「ちょっと!人の部屋勝手に入らないでよ」呆れた顔で明依が言っても母は全く気にしない様子だった。
母は昔から時間に厳しい人で、父が単身赴任中もこうして娘を起こすのが毎日の習慣であり、母の役目だ。姉が死ぬ前も2人の娘をフライパンをトングで叩きながら(叩くのは大袈裟だけど)起こしていた。勉強にはうるさくないけれど、管理してくれているのは母で生活の特に洋服なんかは洗濯から片付けまで全てやってもらっている。
そう、一家を女手ひとつで母が支えているのだ。父はいないだけで当然亡くなったわけではない。数年前に仕事で海外に行ったまま、未だに帰ってこない。どうやら、日本の仕事よりそっちの仕事の方が父に向いているらしい。姉が死んだ事は父も知ってはいる。でも日本――家には帰ってこなかった。
「その手に持ってる本は昨日借りたやつだし。あの本はもうその時返したはずだわ。」と明依が言う。
「あら、ごめんなさいねー。」謝る気持ちは微塵もないかのようにそう言いながら明るく振る舞う。昔から性格は明依にとても似ている。
「ほら、見て。さっき言ってた目玉やき、いい感じに焦げ目が付いてて、とっても美味しそうでしょう?」と自慢げに母は言った。確かに少し焦げくさいというだけで、中からはジュワーっと芳ばしい香りがする。
案外、明依は匂いに敏感なほうだった。
それが事件捜査にも役立ってくれるといいが。
*************
今日も明るい声で挨拶をし、家を後にして学校に向かう。いつも通りの朝の風景だ。明依の家はよく声が響き渡るが、あれは単に親子の声が大きいからではなく、40年ほど前から変わらない昔ながらの家だからだ。外装、内装ともにずっとリフォームされていない上に、娘が子供の頃につけた壁の傷などが両親にとっては忘れられない思い出だからと修理を施していなかった。
外装なんかは昭和時代を思い出すかのようなそんな雰囲気を醸し出していた。家の中も台所、廊下、壁など辺りを見渡しても誰が見ても古い造り、家風になっていた。ただ、海憂と明依の部屋だけは部屋全体を母が娘を生む前に夫には内緒で美しく新しい部屋に生まれ変わらしていた。
ちょっとしたバージョンアップ、リフォームみたいなものである。一応、業者に頼んでいた。特に父が古風な家にこだわりがあって、娘が「リフォームしたい」と懇願しても聞く耳を持ってくれなかった。
PMMをしても家は全く変わっていない。変わったのは人々の心、物事だけであろうか。つまり、人が変わっただけである。それから海が以前に比べてちょっとだけ。
PMMとはピースメイクマジックの略で、世界が平和になり、人の脳といっても(海憂に関しての)記憶が消される海憂がかけた呪いの俗称のこと。少なくとも捜査関係者(警察、この現象について調べている専門家や個人で追求している溯夜のような謎の人物)はそう呼んでいる。
後に溯夜に続いて明依やその周りの友人もそう呼び始めることになる。
*************
学校に着いてすぐの頃。始まりのHRの前の休み時間だ。明依はぼーっとしながら窓の外をじっと考え事をしながら見ていた。
(明日は今と変わらず来るのか。50年に一度訪れる渦って実際どういうものなのだろう。溯夜さんの言っていたとおり、いじめている人もいじめられている人もいないな。ましてや、自殺とか殺人とかテロなんていう言葉もニュースに出てこないしね。ニュースに流れているものといえば‥あれ?テレビつけてもニュースってやってたっけ?私、最近の天気予報と動物番組しか見てなかった気が…する)
「ねえねえ、近頃、一週間くらい前から今までなら何でもいいよ。どんなニュースやってたか覚えてる?」
「ニュース?」きょとんとした顔をしている。
その反応に明依は疑問に思った。
「て。え、ちょっとまって“ニュース”って何?どういう意味?ニュースってやるものだっけ?NEWSっていうアイドルグループなら知ってるけど。この前、コンサートやってたよね?」と友達は言った。
この友達の名前は宇奈月咲花。可愛らしい名前でペンネームのように思えるが本名である。
部活は茶道を専攻していて、お菓子が大好きな女の子。茶道部に入部したのもお茶菓子目当てだって昔、話していたのを明依は今でも覚えている。いわば、THE現代といったような今を象徴する、ファッションに興味があり、スイーツ女子で、カッコいい男性を夢みるどこにでもいそうな女子中学生である。ちなみにJK用語も多用し、流行に乗ったりもする。
クラスで孤立する地味で冴えないクールな女子とは対照的。もう本当にお菓子が好きで将来はパティシエールになるんじゃないかというくらい、お菓子を作るのが上手なのが彼女の取り柄。お菓子だけでなく料理の腕前もいい。度々、お菓子を学校に持ち込んでは先生に怒られていて、その度にヘコんでいる。
その時の言葉が毎回、「せっかく上手く作れたのに…ぴえん」だ。もう口癖と言ってもいいくらい何度も今日こそは、今日こそは、と心に重ね続けている。
余談だが、茶道部で使う和菓子は全部員の自前で手作りのお菓子を持参してお茶を飲む部活だと入部前は思っていたらしい。だから、料理がいっこうに上手くならないとか家庭科部の方が良かったんじゃないかとかぶつぶつ言いながら毎週部活に行っている。言われてみれば、咲花は家庭科部でもおかしくはない。むしろ、向いていたのかもしれない。
―――この世界ではニュースって放送されてないの?―――
嫌な予感が明依の脳裏を過った。
「その話って本当?」
明依はすかさず切り返す。しかし、咲花も様子を見ていた水音も明依を見ながら失笑するしかなかった。
藍染水音は大人しい性格で孤立しているのではないかとか恋愛の類についていけないとかで、すごく気に病んでいる。水泳部の副部長で全国大会3位になるほど優秀だが、“そんなにすごくないよ”と謙遜している。水泳部には明依・咲花・帆波・長閑に誘ったけれど誰にも入部してもらえなかった。
実は帆波に片思いしていて同性愛者。その事を誰にも言わず、内緒にしている。
優しくて顔も可愛い。名前を間違えられやすく、若干、腹が立っている。
よくお喋りする親友二人に笑われた明依はその後誰とも話さず、また一人で考え事をしはじめた。
(ニュースがないってことは芸能人のスキャンダルもスポーツの勝敗の結果も勿論、災害の情報も何もないってことか…)
友達に確認して正解だった。けれど明依は不満げな顔でやはり窓を見つめている。明依の席は窓側のため、外の眺めが良い席であった。
明依は鳥を眺めていた。明依はふと鳥がフンをしないことに気づいた。
―――あれれ?これって不自然じゃない?―――
(今まで私が気づかなかっただけだ。ああ、なんてこの世界は不自然で出来ているのだろう。誰かがそんな言葉を口にしていたような‥。そういえば人間のトイレすらもう既にないじゃん。鳥のフンが落ちてきて、体のどこかや服が汚れちゃうのはショッキングな出来事かもしれないけどお姉ちゃん、トイレ無くすのはいくら何でもマズいでしょw)そんな事を朝の時間ずっと明依は考えていた。
(あ、そういえば溯夜さんに会おうと思って、、)
(さくやさん、さくやさん、)心の中で彼の名を反芻する。この前、“つごもりさくあ”だと間違えてるなと感じたので、もう一度、溯夜に確認したのである。すると「さくあ」ではなく「さくや」なのだと理解できた。苗字は明依の脳内ではつごもりのままであるが。それはそれでよしとするか。
その時、丁度1日の初めのチャイムが鳴りだした。“キーンコーン”“カーンコーン”“キーンコーン”カーンコーン~♪
タイミングが悪い。そう明依は思った。ま、昼休みでも会えるし、なんなら放課後、図書室で会えばいいし。
《ズキっ》と胸に刺さるものを感じた。まさか?心不全・狭心症?この歳で!?
そんなことはないとは思うけど。もしかして、私恋してる?いやいや。昨日会ったばかりだし、私がこんなにも早くフォーリンラブするだなんて考えたくなかった。
これからもそのつもりでいよう、うん。
*************
それから授業。もう中3で今年が終わるとどこの高校に行こうか悩む、そんなシーズンだ。
これで何度目?と少々怒った様子で明依は黙々と英語の教科書とノートを目で追う。今は過去進行形をやっている。中2でやったのをより複雑化した復習問題を解いている。現在完了形や受け身、未来形、過去分詞など色々いっぱい出てきてややこしい。特に明依は英作文が苦手だった。それを教師の説明を真面目に聞きながら苦手ながらも頑張っている。
こんな時、溯夜さんなら――――って、あの人頭良いの?そのことを知らない明依は見当も付かなかった。でも、昨日のああいう感じだと頭良さそうなイメージだった。
冷ややかな目、爽やかな髪と仕草など何故か何でも軽々と物事をこなす。明依はそういう風に頭の中で連想しつつ、彼を捉えていた。
あぁっ!ってそうじゃない!
パンっと頬を叩くと明依は椅子に座ったまま、冷静に自分を落ち着かせようとしていた。教室中の生徒がまじまじと明依を見ている。
視線を向けられた明依は、はっと我に返った。
「あー舞浜さん。落ちついて下さい。今は授業中ですよ。っその、聞こえてますか?大丈夫ですか(小声)」英語担当の教師にもそう言われてしまった。恥ずかしい。思わず顔が赤くなる。火照った熱い頬を触りながら、こんな経験何年ぶりだろうと感じた。
それにしても分からない。ああ解けない。もう見たくないと思いつつも見なくてはいけない。
明依の苦しみを分かってくれる人は何処にもいない。周りの友達はそれぞれ成績優秀ってわけではないが少なくとも明依よりは良い。
水音は壁を見ながら寝ている(?)けど明依よりは勉強出来る。咲花はお菓子食べながらも黒板を見て、真面目に勉強頑張っている姿が目に映る。
それに比べて私は…
咲花と同じくらい英語苦手で、咲花の部活ない日なんかは放課後や休み時間など勉強に付きあってくれて、でもこの前の中間試験では咲花より悪く、英語ワースト12位だった。
当然、補習を受け、一人問題集に取り組んでいた。もう、机に向かうのは嫌なんだって。そう思ったとしても、時計の針は早まることもなく、呪文のような英文は唱えられて、終わらない問題だけが次々と溜まっていく。一日はその繰り返しだった。
授業が終わるまで明依は苦戦していて、明依を待つこともなく続いていた。
時刻は12時30分。ようやくチャイムが鳴り、明依は開放されたようだった。1時間目と2時間目は波のようにすぅーっと過ぎたが、お腹がへる頃の3・4時間目が2時間ちょっと、ぶっ続けで地獄の英語タイムだった。
そりゃあ勿論、苦手な明依にとってみればつらく苦しい退屈な長い戦いだったに決まっている。
七月の憂鬱、空虚 Chapter3
昼御飯はいつもと変わらず友達と食べた。さっき話していた友達だ。咲花と水音とは昔から仲が良く塾や小学校が一緒だったとかではなく、以前から親しみやすい集団的な間柄だった。
今日もたわいのない部活、趣味、スイーツ、動物など様々な話題で盛り上がった。
昼休みはいつもと違って、「本の用があるから」とことわって、明依は学校の廊下へと向かった。廊下の壁を凝視し、呆然と立ちつくす彼女を見て、帆波は不審に思った。
帆波は明依に睨みながら「なにしてんの?」と声をかけた。明依は吃驚して、後ろに二歩下がった。
「え、帆波じゃん?久しぶり。元気にしてた?」そう返すと
「うちは元気だけど。この距離でそれ?ていうか、明依の方こそ大丈夫?明らかに挙動不審だし、ずっと壁ばっかり見てるけど。何かあったわけ?」
「何かあったとかじゃなくて、そのね‥‥」
恋煩いとかそういうんじゃないというようなそぶりで疑ってそうな帆波と目を合わせる。
「うん。で、その何?まさか、k…」言おうとした帆波を遮るように明依は、「探してる人がいて、C組の男子」と迷わず言い放った。
「C組?C組ならうち、詳しくないけど。その明依の探してる人の名前は?誰なのかうちも知りたい」
「つごもり さくやさんという人で。漢字すらまだ分からなくて…」
帆波が“気になってる人”というフレーズを敢えて使わずに“探してる人”と言ってくれたことにホッと胸を撫で下ろした。
そういう所が帆波の優しい所だと一瞬だけ思った。
「晦 さくやさん?そんな人うちの学校にいないけど」
え、。驚いた表情で辺り一面を見回す。
すぐそばには小窓が二つある。そして、離れた所に流し場だけがどんと淋しげに置かれている。廊下にはあまり人がいない。お昼の休憩中は教室内で会話したりする少年少女か、外で遊ぶ少年しかこの学校にはいない。見渡す限りはちらほら、一人でいる生徒か明依と帆波しかいなかった。帆波は、しばらくは考えを巡らせて、顎に手を当て天井を見上げている。
「もしかして‥だけど、九十九里溯夜のこと?」
「へ?」
「もういちどお願い。聞き取れなかった。」
「あんた、耳大丈夫?」
「つくもりさくや君。前に一度だけうちとクラス同じになったことがある。でもねーあんまり喋んなかったし、休み時間なんかは本読むか寝るかってかんじだったよ」
「その話、本当?」と明依が言うと「嘘言ってどうすんの」と怪訝そうに帆波は唾を吐きながら言った。
もう既に腕を組んで箒を足に挟みながら、上目遣いをしていた。帆波の動作はヤンキーそのものっていう風貌だった。
「他には?」と明依が言うと、よく分かんないというように帆波は無視した。
「でも、漢字難しいよ。」聞いてもないのにいきなり帆波が話はじめた。
「99って書いてその隣に里」
「へぇー」と明依は言った。
「ああ、確かさっきC組って言ってたよね。」
どうやら思い出したようだ。
「なら、この人。うちの記憶が正しければ《彼》だったと思うよ」写真を指さして、得意げな表情を浮かべる。大会で賞でも取ったのだろうか。右から2番目に賞状を両手で持った無表情な少年が写っている。
「あ、溯夜さん!」ようやく明依は見つけることができた。そう、写真に写っている彼が昨日、明依と会って共に帰った溯夜なのである。
「ありがと、帆波」
「大したことなんてしてないし、礼なんていい、いい。」
「じゃ、うち行くね。のど渇いてきちゃった。今度会ったら沢山話そ。」
それだけ言い残すと、くるくる回りながら楽しそうに過ぎ去っていった。
喜怒哀楽は激しいが、気軽に話しかけてくれる帆波。今回は帆波に感謝。とても有力な情報を教えてくれた。
*************
明依は嬉しそうにC組の教室の扉を少し開けて、覗いてみると机に突っ伏している少年が一人。
(この人が溯夜さん?)と明依が気づくと、そこには前髪を均等に合わせ、二つに分けた短いポニーテールの微少女が少年に話しかけながら立っていた。“微”と表現したのは美しいとはいえないくらいの素朴な笑顔の少女だったからだ。
―――もしかして、この人が溯夜さんの彼女?―――
明依は恐る恐る二人に近づいてみた。
「おきてー。昼ごはん食べたからって寝なーい!」
「ちょっと、聞いてるの?無視しないでょ。あなたが私のこと嫌いでも私はあなたのこと良きメンバーだと思ってるんだからね。」
その微少女は馴れ馴れしく溯夜を起こしている。今、間に入っていいのだろうかー。
「すみません、ちょっといいですか」勇気を振りしぼって二人に声をかけた。
「は、はい。見慣れない顔だねぇ…」
微少女は明依の顔を見ながら返事をした。人当たりの良い子のような印象を受ける。
「私、バスケ部のマネージャーをしている千星といいます。」よろしくね☆と輝かしい声で挨拶してくれた。
バスケ部と溯夜さんにどんな関係がと思って、「あの、私は溯夜さんと昨日、図書室で会って、ちょっとその事情で詳しく言えないんですけど、一緒に謎を解いている者です。」
「ほほぅ、」と千星が若干、引き気味に相槌を打つと明依は「バスケと溯夜さんにどんなご関係があるのですか?」と聞いた。
千星は「あー、彼は一応バスケ部員で、シューティングガード務めてて、重要な大会とか試合には出席してるんだけどね‥。ただ、それ以外の基本練習の時には顔出さなくて、で、私が頻繁に注意してるわけ。」と答えた。
「そうだったんですね」
「バスケやってたなんて知りませんでした」
明依は意外という表情をした。
「でも彼、結構、優秀なのよ。試合には必ずと言っていい程、必要な存在で。味方にパス回す技とか上手いのよねー」マネージャーは自分の子供のように部活での溯夜について、明依に話す。
「上手くて何よりです。頑張って下さい」
「ほら、言われてるよ」そう言ってマネージャーは溯夜の肩をトントンとした。
ちょっとだけ上体を起こし、「ん?」とだけ眠そうに言うと溯夜はまた寝てしまった。
「溯夜さんが上達したのって千星さんがいたからだと思いますよ。誰だって最初は下手なものです。だけど、しっかりしたコーチや顧問、支えてくれるマネージャー(存在)がいるから強くなれるのだと私は思います。」
千星は「そういうふうに言われると、照れるなぁ…」と照れながら呟き、髪を片手で掻いた。
「今日はじゃあ、ひとまずありがとう」と言って立ち去ろうとした千星に、ちょっと待って。と伝える為、彼女の手を引いた。
「私、舞浜明依といいます。また会えたらよろしくお願いします。こちらこそありがとうございました。」と告げた。
はにかみながら手を振ると、千星はドアを開けてこの場から居なくなった。
さっき、明依と帆波が見た写真はバスケ部の大会の表彰式でのものだった。その時撮られた写真っぽい。
勝手な明依の想像だが、勉強が出来そうで図書室にいるクールボーイがスポーツにも専念してたなんて正直驚くべき事だ。
(勉強も出来て、運動も出来て、そのくせ、女子にもモテてるなんて最高か)と明依は妄想を膨らませている。
一度、冷静になった明依は「さーくーやーさぁん?」「聞こえてるなら返事して下さい」
怒ってノートで溯夜の頭を叩くと、「痛。いきなり何するの。今、昼寝中。話しかけないでくれるかなぁ?」溯夜は溯夜でイラついたムードで下からの視線を明依におくる。別に謙遜という意味での上から目線の反対で下から目線ではない。
やや睨みつつ、見上げるような状況だ。
「私の事、覚えててくれていますか?」
「ああ。あれでしょ?図書室の誰だっけ?」
とぼけた調子で明依を指差しながら問う。
「舞浜明依です!!ほんとは覚えてるくせに」
投げやりに言い放った。
溯夜は苦笑いすると再び寝ようとしたので、明依は「溯夜さんってバスケ部だったってマネージャーさんから聞きましたけど…」と言った。
「ああ、、半ば幽霊部員だけどね…」
溯夜が「それがどうかした?」と聞くと、「すごいじゃないですか…あまり参加率悪いみたいって小耳に挟みましたけど、でもシューティングガード任されるくらい強いってマネージャーの千星さんから聞きましたよ」と明依は自分のことのように語る。
溯夜は少しだけ(マジで‥!)と思いつつ、心底驚いた素振りを見せた。
「あの、千星ちゃんとお喋りしたの?」明依から話を聞いた直後の第一声がそれだった。
(千星“ちゃん”?私の事は“舞浜さん”と呼ぶくせに…なんだかずるくないですか)と心の中で嫉妬をおぼえた。
「大丈夫?今、ぼーっとしてたけど、あのこれでも俺、ちゃんと明依さんとの話に眠いながらも付きあってあげてるんだからね。明依さんこそしっかり聞いときな」
今度は私が聞いてない側だった。
「分かってるって…」
「千星さんと溯夜さんの部活での様子について少しだけ話はしたよ。何?普段の練習サボってるのって、図書室の無意味な埃取りの為だったりするわけ?」やや、キレた口調ではっきり問いただすと犯人の自白のように溯夜は「そういうわけじゃ…正確に言うとサボってるわけでもないんだけどね。なんていうか、同じメンバーと上手くいってないっていうか、試合自体は楽しいんだけど、マネージャーが悪いわけでもないんだけど…端的にめんどくさいってこと」
そう言うと腕を組んで机に猫背の状態で座ったまま俯せになった。
(また、こやつは寝ようとしてる)
「面倒だからって怠るのは良くないですよ…優しそうに笑顔でしたけど『待ってるから来なさい』って怒ってましたよ。千星さんに毎回のように催促しに来ては、呼び出し喰らってるんですね。見ていて呆れます。私、一つ気になりましたけど理由は面倒以外にもあるんじゃないですか?」
「はぁ…」溯夜は溜め息をつく。
「溜め息ついてても、仕方ないですよ。だけど、あなた面倒事、嫌いそうですもんね。もしかして、部活内でいじめられたり、パワハラ受けたりしてるというのも少しはあるんですか?」
「いや、一概に無いとは言えないけど」
溯夜が返事をすると、明依は心配そうな顔を浮かべた。
「ほら、男子部員ばかりでマネージャー女子1人なんだよね。なんか、わんさか取り合いになっててキツいというか‥それに川口なんて俺より強くて。同じ部員で1つ先輩だけど役割も同じで。そうなると自分って要らない存在なのかと常々思い始めて…」愚痴を明依に向かって長々と話し続けた。
「それは、いじめとかパワハラではないんじゃない?全部、愚痴でしたね(笑)」
「全て、あなたの妬みじゃないですか!!」と言いながら、再度、手に持っていたノートで溯夜を掠れビンタした。
掠れただけなので、溯夜にとっては痛くはなかったが、明依の声が非常に大きかったので教室にいた生徒らからの冷ややかな視線を目の当たりにした。C組の教室には冷たい空気が流れる。
「えっと、その、うるさくしてごめんなさい。」明依は緊張しながらそれだけ言うと、再び溯夜の方を向いた。教室にいる殆どの生徒が手を(そんなことないですよ)という風に横に振ってくれた。
「あの本当の理由を悟られたくないのかよく分かりませんけど、さっきから話、逸らし続けてますよね?」
確かに明依の言う通りずっと話を逸らし続けてきていた。ハラスメントだとか何だとか、ずっと曖昧なことしか溯夜はこれまで言っていない。
「話すと長くなるんだけど、父親が警察官で数年前までは君の姉さんの件で捜査を父親とやってた。図書室にも参考になる本とか新聞とか漫画とかまで幅広くあるから、掃除しながらパラパラっと目を通してた。でも、能力を酷使しすぎると疲れがブワっときちゃうのが唯一の難点なんだけどね…」
また、訳の分からないワードが彼の口から出てきた。能力?にわかには信じ難い言葉だ。
「やっぱり‥」としかめっ面で考える人ポーズを取ったから、明依の予想は的中したようだ。
明依にも部活を休む理由が図書室での推理と掃除だという理由なのは察せられた。
(溯夜さんのお父さんって警察官だったんだ。私がなにかしたらすぐ検挙されちゃう…怖い)と明依は思った。
明依は「今の発言で一つだけ気になることがあったんですが…」とひと段落置いた上で、
「姉の自殺の件で調べてくれているのは感謝してます。お父様にもありがとうございましたとお伝え下さい。それで、その、能力というのはどういったものなんですか?この不確かで歪曲した世界だと異能力のような第六感みたいな能力も存在するのですか…」明依はまだ少しも信じてないけれど興味をそそられたので溯夜の言葉を待った。
しばらく、溯夜は返答に困った様子で黙っていた。
「例の能力のことだけど…」
いかにも誰にも喋っちゃダメだよ?というような雰囲気を醸し出している。
「俺、実は透視能力持ってるんだ。あんま、人に言いたくない事情でざっと説明することしか出来ないけど手術によって、普通の人とは違う脳になってしまった。渦をせき止められるのも“限られた人だけ”なんだけど。まあ、その中に入ってしまったってだけ。ただ、それだけ。」
「でも、その能力は悪い作用もあるけれど、上手く使えたら君の姉さんの死んだ理由を突き止められたり、捜査への良い役割にもなるんだと思う」
「そうだったんですね!驚きましたっ!透視能力ってかっこいいです。。」と目を輝かせながら言う。明依は尊敬のまなざしを溯夜に向けている。
「あ、でも‥疲れてしまうんですよね。よくあるあるです。マンガとかアニメとかでも能力使うと疲れるとか倒れるとか言われてますもん。」
「それ!」と溯夜は自分と同じだと意思表示する。「俺、そうなるので明依さんとの姉の死についての件で、もし倒れたらよろしくおねがいしますね」溯夜は無茶ぶりした。
「だったら、能力者だとか、カッコつけて能力使ったりしないで下さい!時間決めたらいいじゃないですか」
明依は一つ提案をした。しかし、そんな簡単な事ではなかった。
「上手くいかないんだよな。それが。」と溯夜は呆れ顔で言う。
ひとまず、この一連の話は横に置き、「昨日の話は覚えてるか?」と溯夜が問う。
明依はそれに対し、「何のこと?」と言うと、溯夜は内心まさか忘れてるわけじゃないよな?と不安になった。
「テンのことだよ。もしかしたら気づかないってだけでオコジョかもしれないけど。」
「舞浜さんの家の近くでそれらしい動物はいなかった?」と溯夜は言った。
すると、「昨日は見かけなかったよ」とニコやかに返事した。
「そっか。ありがとう」と溯夜は感謝の言葉を述べた。
その様子を見ていた咲花が、「なになに~デキちゃってるかんじ?」と嘲笑しながら茶々を入れてきた。
冷やかされた二人は一瞬、硬直し、「いやいや、そんなことないよ!」と明依は言い、溯夜も手と首を横に振った。
「ですよね、溯夜さん」と明依は溯夜に共感を求めた。
「溯夜くんっていうんだ。良いお名前だね。私、明依と同じクラスの宇奈月咲花だよー。よろしくね!」と急に溯夜に話しかけてきた。
溯夜は「よろしく」とボソッと控えめに言うと、空気を読んでその場から立ち去ろうとしていた。
「この人、クールで静かで気障だけど、頭も要領も運動神経もいいんだよー」と明依が溯夜の代わりに紹介してあげた。
「そんなことないですよ。気障ではないし、頭が良いっていつ言ったっけ?定期試験は学年10位以内ですけど。総合?だったかな。」
「ほら、私の言った通りじゃないですかー」と明依は当たり前のように言う。
咲花は苦笑いしながら、「仲良くていいね」と間を入るように言った。
言われた明依は照れ笑いをし、溯夜はひきつった顔をした。
「(ついでに聞いちゃおっと)溯夜くんってお菓子作るのとか食べるのとか好きだったりする?」と咲花が宣伝質問すると、「あーそういうのとは縁はないっすね。」と溯夜は言った。
明依は咲花に対し、「別のクラスの生徒にもお菓子関連を広めたりしなーい!」とつっこんだ。
「ごめんね、溯夜さん。咲花は昔からこうなの。スイーツ好きすぎて、皆に共有したがる癖があるの」と明依は申し訳なさそうに言った。
「失礼な」と咲花は重ねて言う。
静かな教室内を咲花が来たことにより、3人の間には桜風のような空気が流れた。一人一人が教室内を鮮やかに彩ってくれる。春のような心地よい時間が流れた。
「明依!教室戻るよ。」と咲花が促すと、腕時計を見た明依は「ほんとだ、もうこんな時間!ヤバい。」と言い、一気に焦りが募った。
咲花が「また、いっぱい話そうね」と言うと、明依も「時間が空いた時に私も色々お話したいな」と口を揃えた。
溯夜も「眠かったり、忙しくなければいいよ。」と返事した。
こうして、明依と咲花は教室を後にした。溯夜は明依と咲花を目で追って見送った後、再び机に突っ伏して、俯せになった。
七月の憂鬱、空虚 Chapter4
それから授業が続き、気づけば放課後。図書室で昨日と同じように二人きりになった。明依は必死に新聞や本をあさり、姉の事件の手がかりを探しつつ、趣味で読書に勤しんでいる。溯夜は昨日とは違って、明依の手伝いである、資料探しをしている。
「溯夜さん、何か良い情報ありました?」
「いや、全然。どうでもいい魚の種類の資料が出てきた」と溯夜は呆れて言う。
「何処探してるんですか。」と思わず明依はツッコミを入れた。
「さっきの咲花。とっても人当たり良さそうでしょう。」と明依は続けて、
「スイーツ好きな私の親友なの。」と明依は自慢した。
とはいえ、溯夜は「へーそうなんだ」と興味なさそうに言った。
溯夜はいっときを境に人に興味を示さなくなった。孤独は好きでも嫌いでもないが、環境は常に独りになっていた。明依が自ら声をかけなければ、ずっとこのままだっただろう。今でも明依の事は過去の事件を掘り返しやがってとしか思っていない。男女として意識するのはよっぽどの事があっても永遠にない。それだけはハッキリしている。
明依は新聞を見ながら、「姉についてですが自殺ではなく、殺人事件とか偶然が重なって起きた事故とか病気の可能性はなかったんですか?ここにも高2少女何者かに突き落とされたか-。と書いてありますよ。」と溯夜に向かって聞いた。
溯夜は「同じ学校の高校の同級生とか色々調べたが、殺人ではなかった。他に殺すような動機を持ってる人はいない。ただ、君の姉さん、別の生徒をいじめていた主犯者だったらしいんだ。もしかしたら、それの復讐で殺された説も筋が通るけど、その生徒は特定は出来ているけど、現在失踪中だから捜査のしようがない。」と溯夜は淡々と説明した。
「あの、お姉さんのことは覚えてないの?いじめた事について何か知らない?」と溯夜が聞くと、明依は「その、当時は仲が悪くて、私とは全く違う性格してるから。併せて、記憶が曖昧で断片的にしか覚えてないんです。」と返した。
「ピース・メイク・マジックの効果か」と溯夜は呟いた。
溯夜の言葉に明依は「ピース・メイク・マジック?」と疑問に思って反応した。
「おそらく、海憂さんが掛けた呪い(いわば能力のようなもの)で世界を平和にするために様々な現象を発生させる。通称PMM又はPM。」
「昨日言ってた呪いの総称ですね。覚えておきます。」
「溯夜さんって何だか辞書みたいな喋り方しますよね。」
「そうかな?」と自覚ないかのように言った。
「明依さんの記憶薄忘もきっと呪いの効果が原因だと思う」
「さっきの話に戻るけど、事故路線は周りに車とか走ってなかったし、遺体の状況からして、解剖の結果、砂浜から海に入った可能性が高い為、考えられない。となると、病気路線だけど心の病気が考えられるけど、明依さんはそれで何が言いたいのかい?」と溯夜は冷めた顔で淡々と言った。
明依は「ただ知りたいだけなんです。死んだ理由だけでも‥‥母も絶対、生きている間に解明してほしいと思ってるはずです。私は当時、仲が悪かったですけど、今は姉の印象もいなくなった今だからこそ何かしら変わっています。だからお願いします」と今にも泣きそうな顔で溯夜に訴えた。
「あんまり俺も、当事者家族である君にペラペラ詳細の内容、教えてはいけないんだよね。秘匿義務っていうか…」と残念がった。
心の病気だとすると代表的な鬱病や幻覚・幻聴を引き起こす統合失調症が考えられる。だから溯夜は心理学の本を手に取った。
「いろんな病気がこんなにたくさん…」
独り言だが明依に聞こえる声の音量だった。
そこには様々な病気が詳しく掲載されていた。
「いじめる側が病むこともあるんだ…へぇ…。」と溯夜が他人事のように言うと、
「人によってはそうですね。いじめている人達が逆にいじめられていると錯覚しているケースやそのグループ内で仲間割れしてしまうケース、他にも社会的責任で制裁を加えられたケースなどは病むんじゃないでしょうか?」と明依は溯夜の独り言にまで答えた。
「よくもまぁ…単細胞が珍しく難解な考えをしていますね」と嫌みのように言ってきた。
「単細胞?そう思っているのは溯夜さんだけでしょ」と明依も負けじと言い返した。
明依の気持ちなどお構い無しに「心理学の本、読むといいよ。すごい良い事書いてあるし、ほらほら、」と溯夜が言っても明依は「私は楽しい小説や漫画とか、さっき話してた咲花が好きなスイーツの雑誌の方が好きなんですよ!単純に親しみやすくて。ごめんなさいね、子供っぽくて!!」と怒り口調で言って、その後は溯夜が話しかけても口を利いてくれなくなった。
「…」
これが明依と溯夜の初めての喧嘩となった。明依は親友とたまに口喧嘩したりするが、溯夜にとっては人と喧嘩したことがないと言っても過言ではないので戸惑ってずっと黙ってしまった。
(舞浜さんには言ってないけど言いたいこと沢山あるんだけどなぁ…舞浜さんの姉は気絶させられた上で海に流された説、船で海に沈められた説も考えられる。こちらの人間はこれ以上、死の真相を広げたくないから丸く収める為に自殺として片づけて、終わらせたいだけだったりするんだよ。これを舞浜さんに言ったらどれだけショックを受けるだろうか。考えられない俺はバカだ…)
落ち込みながら、それでも着実に明依のことも考えられるようになっていた。明依の姉の死についても以前より積極的に真相を追求するようになっていった。そう、溯夜は明依と出会う前と比べて少し変わったのである。
明依は無言でそのまま本だけ借りて、図書室を後にしたが溯夜には言い過ぎちゃったけど、資料を見ている彼を見て、再度、姉の死について一緒に調べたいと思っていた。明依は自分でも気づいてはいるが、少しだけ溯夜の事を恋愛対象として意識している。
*************
とある日の休み時間。今日も咲花と水音と明依の三人でおしゃべりしていた。図書室での喧嘩があって以来、相変わらず溯夜とは一言も喋っていない。最初に会った日から、明依から話しかけることしかなかった。だから、喧嘩は二人の気持ちが落ちついてからで長引くことになるだろう。
「でさー明依と溯夜くん、すごく仲睦まじく喋ってるわけ。私もキュンときちゃうわ。」
「分かる。だよねー」
「そんなことないよ。だって…。今のはなんでもないよ!なんでもないから。咲花はいっつも“男子といる”ってだけで、そういうこと言ってくるから困っちゃうわ。はぁ」
「えーなんでぇーちょっとくらい、いいじゃん。」
「いつもと口調違うけど、大丈夫?」と水音が心配そうな顔で聞いてきた。
「本当だー。ひょっとして、溯夜くんと何かあった?」
明依は「何にもないよ。別に。」と怒り口調で言った。「あと、勝手な想像でキュンとくるとか変なこと言わないで!!」
明依は今度こそ本気でキレた。
「ごめん。ごめんって…」
「難しいよね…そういう年頃なんだって。」
「水音も心配しなくていいから」
そう言って明依は席から離れた。その後も咲花と水音の会話は繰り広げられた。
「大丈夫かな?明依。」
「大丈夫でしょ。明依なら。すぐ元通りになるって。」
「それよりさー聞いてよ。一昨日、飴細工のピエスモンテで桜作れるようになったんだよ。すごくない?」と水音に自慢した。
「すご!もうパティシエールになっちゃえば?」
「勿論そのつもりでいる」笑顔で咲花は頷いた。
その頃、明依は暗い顔して教科書とノートの準備をしていた。
(失礼でカチンとくる発言をしたのは溯夜さんだけど、私も言い過ぎちゃった…青臭いな、自分。早く謝らないと。)と心の中で内省していた。
放課後、図書室に行っても溯夜はいなかった。部活があるのか先に帰っちゃってるのかなと明依は思った。
しんと静まりかえる下駄箱付近。生徒の人通りは少なく、外から蒸し蒸しとした暑い空気がブワっと漂ってきた。まだ、外は明るい。オレンジ色の綺麗な夕焼けが空に飾りをつけているようだった。明依が制靴を取ろうとしたその時、聞き覚えのある声が後ろの方から耳に届いた。
「舞浜さん、この間は癪に障る発言で怒らせてしまってすみませんでした」
溯夜にしては真面目な謝罪であった。
しかも、溯夜の方から謝りにくるなんて、予想も付かず、明依は吃驚して後ろを振り返った。そこには、以前のようなおちゃらけた感じのない落ちついた溯夜がいた。
「もうしょうがないなぁー許してあげる。」
「というか、何でそんなにかしこまっちゃってるの?ウケるんだけど。」と明依は目を点にさせながら言った。
確かに溯夜には友達や彼女がいない為、喧嘩の経験が浅かった。家族とも喧嘩したり、反抗したりといったことがなかった。だから、おどおどしていて当然である。
「それにしても溯夜さんから謝りにくるなんて意外だね」と明依が言う。
「人を怒らせるのはしょっちゅうなんだけど舞浜さんずっと黙ってたし、もうこのまま二人で君の姉さんの件を通して関われなくなっちゃうのかと思ったんだ」
「そんなことないよ」と諭すように慰めた。
「ちゃんと謝ったほうが許してもらえるっていうしな?」
「やっぱ一生許さない」
「えぇ…」と溯夜は悲しい顔をした。
「なんて嘘。ほら、帰るよ」と明依は溯夜の手を引いて、校舎玄関の方へ駆け出した。二人は手を繋いでまた一緒に帰った。夕焼け色に染まる空、梅雨も終わり夏になった。そうして、半袖を着た男女は夏へと溶け込んでいった。
「そういえばさ、君の家に重大な証拠があるって言ってたよね。今度、家行っていい?」ふいに溯夜が話しかけてきた。
「いいですよ。でも、誤解されるんじゃ…」と明依は戸惑いつつ言った。
「誤解?怪しまれるとでも言いたいの?」
(ほんと溯夜さんは疎いなぁ)と明依は思った。
「カレカノにだよ。家行くとかクラス違う上に男女だったら、よっぽどのことが無ければ無いし。」と明依は言う。
「あ、そっか。」ようやく溯夜は気づいたようだった。
七月の憂鬱、空虚 Chapter5
別の日。明依と溯夜は二人で一緒に帰って、明依の家に行くこととなった。明依の朝が早い為、途中から同じルートだが二人で登校することはない。溯夜はどちらかというと遅いほうである。寝るのが好きだからだ。
「舞浜さんの家ってそろそろですよね?」と溯夜が聞くと「もうすぐですけどまだまだです。そこを左に曲がって、真っ直ぐ直進すると住宅街へとつながります。あとは私についてきて下さい」と明依は案内した。
「俺、方向音痴なんで連れてって下さいね」
「分かりました」
「この前は森に迷いこんで大変でした(汗)」
「なんでやねん。どーしたらそうなるんですか」明依は呆れた顔をした。
「あとちょっとなんで頑張って下さい」
そう言って溯夜の背中を押すと溯夜はこくりと頷いた。しばらくして溯夜が話題を変えた。
「テンらしき動物ってここらへんで見かけたりしませんでした?」と問うとすぐさま、「今日はテン様を探しにきたわけじゃないでしょ!」と明依にツッコまれた。
「ああ、はい。そうですね」と溯夜は冷静に返した。
ゆっくりと二人で歩いていると、草の茂みから白い物体がいるのが見えた。
「あ!」と明依が大きな声を上げると「あれってもしかしてテンじゃない?」と溯夜に聞いた。
「え、どれ?」溯夜はまじまじと草を見つめた。
「ほら、あそこにいるの。」と言った。
(え、あれって猫じゃね?)と溯夜は思ったが何も言わないことにした。
すると、草の茂みの中から一匹の白い子猫が姿を現した。
「あ、違った。ごめん」と言うと、溯夜は「猫とテン間違えるとか」と腹を抱えて笑った。
「ちょっと、笑いすぎ。間違える事だってあるでしょ、ねえ。」と下を見下ろすように言った。
猫はその後、道路を渡り、家のある方へと消えていった。静かな温風が住宅街を包み込む。二人の額から汗が出ている。明依の家に姉が生きていたとされる証拠が見つかったらしい。明依が中学3年に進級したばかりのことだった。
「その、証拠というのは?」溯夜は事件の捜査をするかのように明依に質問した。
「それが、姉の名前が書かれているっぽい紙なんです。」と恐る恐る答えた。
「紙?どういう紙ですか?」と溯夜は疑問げに聞いた。
「普通の真っ白い紙です。」
「あーその紙は何かの切れ端とかですか?」と聞くと「そうかもしれないです。でも私には判断できません」と明依は答えた。
「しかも封筒の中に入っていたんです」
「封筒?」
「はい。茶封筒です」
淡々と表情を変えないまま、溯夜の質問に明依は答え続けた。
「それは君の姉さんの遺書かもしれない」と溯夜が真顔で言うと明依は一瞬にして涙を浮かべた。
すぐに「ごめん」と溯夜は言う。
まさか、あの明依が泣くとは思いもよらなかった。
「ううん、いいの。」泣き声と共に明依はそう言った。
「あの、もう少し軽く考えましょう。」と溯夜が落ち着かせるために言うと、
「人の命を軽くなんて考えられるわけじゃないでしょう!」と明依は本気で怒った。
すかさず、「そういう意味じゃなくて、気持ちを楽にして考えよってこと」と溯夜は言い返した。この言葉に明依は納得した。
「分かった、もう大丈夫。ありがとう」と笑って溯夜の方へ向いた。
(やっぱ、可愛いな)と溯夜は思ったが心の中で留めておくことにした。
(今の話が本当だとすると、舞浜さんの姉さんの遺書は一部切り取られて、現在は誰かが所持しているのが妥当だな)溯夜はそう推理した。正しいか間違っているかは確かめないと分からない。
「お姉ちゃんは遺書なんて書く人なんかじゃなかったのに‥一度も書いてるとこ見た事ない。」悲しそうにそう呟く。
「まあまあ、人に見せるものじゃないしな。」
その時、近所の犬がワンワンと吠えた。
びっくりしたー。こんな大事な話してる時に。
「てか、家もうすぐじゃん。」
「どうする?」と溯夜に語りかけた。
「なにが?」と溯夜は平静を保っている。
心臓が止まりそうになっているのは明依だけだ。
「彼氏彼女って紹介するか普通に知り合いです。って言うか悩んでんのー」と明依は叫んだ。
「え、何も言わなくてよくね?」
「あ、確かに。それもありかも」と明依は満足した様子だった。
喋っているうちに、もう家の前まで来ていた。
「随分、古臭い家だね」と溯夜が素直に言った。
「そうなの。父がリフォームしたがらなくてね」と申し訳なさそうに溯夜に向かって言いながら、明依はインターホンを押す。
インターホンを押してから、10秒以内でドアが開き、若々しい明依のお母さんが出てきた。
「おかえり、明依。」と明依に向けて言うと、溯夜には「いらっしゃい~か…」でそこで止まってしまった。
明依の母は目を大きく見開いて仰天した。
「ちょっと、明依!いつの間にこんな爽やかでかっこいい彼氏出来たの?」と明依の母は小声で聞いた。
「ちがっ、この人はね…」と明依が言おうとした瞬間、溯夜が「はじめまして。明依さんの彼氏を務めさせて頂いております。九十九里溯夜と申します。本日はどうぞ宜しくお願い致します。お邪魔します。」と丁寧に頭を下げた。
そうして、二人は家の中へと入る。今、軋む廊下を歩いている。足音が家中に響き渡る。
明依は「ちょっ、溯夜さん何、考えてるんですか」そう溯夜の耳元で囁く。
(彼氏って務めるものだっけ?)と明依は内心思った。
「作戦通りにいくから安心して」
「あの、この人はね、彼氏じゃなくて、友達のお兄さんなの」溯夜の言葉を否定した。
だが、明依の母は「この世に嘘なんか通用しないわよ。もう中学生だし、恋人がいてもおかしくないの。だから、自信持っていいのよ」と溯夜の言葉を完全に信じてしまっているようだった。
数歩進むだけでキシキシという音がすごい。壁などは修理されておらず、剥がれている箇所がちらほら見受けられる。
「この家、すごくボロいですね」と溯夜は言おうとしたが、この言葉を遮るように明依は溯夜の口を塞いだ。
「そういうこと素直に思ってても言っちゃダメ!」そう明依は溯夜を注意した。
「何か言った?お母さん聞こえなかったけど…」
「この家、古くて狭くてごめんなさいね、九十九里君。ちょっとだけだから、不便だと感じるかもしれないけど我慢して」と明依の母は言った。
「あ、俺は平気です」と溯夜は答えた。
*************
リビングへと招かれたが、海憂の死に関連する物は一切なかった。そこにあるのはテレビとソファーと木で出来たテーブルだけだった。下には絨毯が敷かれている。
「お茶でも飲んでく?」と明依の母が溯夜に言うと、溯夜は「御言葉に甘えて、お願いします」と言った。
明依は「気遣わなくていいよ」と笑顔で溯夜に言った。
二人はお茶を飲みながら、一息ついて、しばらくはお喋りをしていた。その頃、明依の母は台所で夕飯の準備をしていた。
「その、証拠はどこにありますか?」
「私の部屋にあるよ」
「分かった。二階だな」と溯夜は場所を言い当てた。
正確には偶然にして言い当てたのではなく、透視能力で突きとめただけである。
「すごいですね!何も言ってないのによく分かりましたね。なんで分かったんですか?」と聞くと、「ゲホゲホ、ゲホッ」と突然むせはじめた。
彼は頭を抑えながら苦しそうにテーブルに肘をついている。
「だ、大丈夫?」突然の出来事に驚いた様子で、明依の母は飛び込んできた。明依の母は溯夜の背中をさすっている。
「お茶熱かった?」「風邪引いてるの?」などと明依と明依の母は心配しているが、それに対し溯夜は「大丈夫です、能力使っちゃっただけなんで…心配なさらないで下さい」と二人に言った。
能力?と明依の母は一瞬、固まったが明依は「お母さん、溯夜さんは私が面倒みるから」と言って事態は落ち着いた。
溯夜は「すみません、お母様。頭痛いので薬、頂いてもよろしいでしょうか?」と問うと「勿論いいわよ。遠慮なく言って。」と言い、溯夜に薬を差し出した。
こうして、休憩し終わった後、明依の部屋へ行くこととなった。
「あーやっぱり駄目だったね」
「こんな所で能力使っちゃ駄目に決まってるでしょ!」こんなに心配したんだよと言わんばかりに溯夜は明依に叱責された。
「さっき、私の部屋が二階にあるって気付いたのって、勘ではなく、能力のお陰だったんですね。前に透視能力あるって言ってましたもんね」
「はい。まぁ…」と溯夜は頭を掻きながら答えた。
「頭が痛いのは治りましたか?」
「さっきよりは痛くなくなりました」
「それなら良かった」と言い、明依はほっとして胸を撫で下ろした。
明依の部屋へ行く途中、廊下を歩きながらそんなやりとりをしていた。
「ここが私の部屋です」そう言って出迎えられた部屋はシンプルで女の子らしい部屋だった。
「先ほどの古びた印象は全く見受けられませんね」と溯夜は率直に感想を述べた。
「そうでしょう?父がリフォーム反対してて、この部屋と姉の部屋だけ新しく入れかわったの。ごめんね、家の殆どがボロくて。」と明依は言った。
「そんなことないですよ。ボロいは言いすぎました」と溯夜は反省の言葉を口にした。
明依の部屋は和風ではあるが、洋風でメルヘンチックな可愛さもある部屋だ。特に窓、机、ベッド、クローゼットなんかは模様が付いていて、大変可愛らしい。本棚には150冊は超えるほどの沢山の本が並べられていた。明依は本当に読書が好き。そのことは一目見ただけで分かる。
「本、沢山読んでるんだね。漫画もあるようだけど」
「私、読書が趣味で…木こりのお話なんか取り分け良かったよ」と満面の笑みを浮かべながら明依は話す。
「本はあまり読まないからなぁ…」と溯夜は言った。
明依と溯夜はただただ本棚を見つめていた。沈黙が続いていた。が、明依は
「その、家に来たっていうのは姉が自殺した理由をハッキリさせるのと他殺か自殺かを立証するために来たんですからね。そ、その恋とか愛とか求めないで下さいね!!」
そう言っている明依が一番、動揺している。
溯夜はそんな明依を無表情ではねのけ、「俺は明依さんの事を捜査の依頼人だとは思っていますが、恋愛又は性的対象だとは今のところ思っていません。ですので、明依さんとセックスする気は一切ありません。」と返されてしまった。
「い、今なんて…」
「言葉の通りです」サラリと溯夜は言った。
「明依さんの年齢なら知ってて当然ですよ(ねっ)」溯夜が言いかけた途端、枕で顔をぶたれた。
「知ってますけどっ、そういうこと口に出して言っちゃマズいでしょ!その四文字は!」赤面しながら明依は怒っている。
*************
それからしばらくして、溯夜は辺り一面を見回すと、明依にこのように言った。
「その証拠を見せて下さい」
「分かりました。しばらく待ってて下さい」そう言って、明依は机の一番上の引きだしを開けた。そこにはルーズリーフやファイル、ノート、筆記用具、小物、それから糸で丁寧に編まれたマスコットがちょこんと顔を出していた。いずれにしても、色々な物が入っている。
そのルーズリーフとノートの間に茶封筒が入っていた。
「これです」と溯夜に手渡すように見せると、溯夜は「中身、拝見してもよろしいでしょうか?」と明依に聞いた。
「勿論。」と明依は言ったが、その後、「ずっと敬語だし、今日の溯夜さん変だよ。」と指摘した。
確かに、家に上がってから溯夜は常に敬語である。もしかしたら、喧嘩になって以降、ずっとぎこちないままなのかもしれない。少なからず、恋愛感情を抱いている明依にとっては心の距離ができてしまったようで、心細く寂しい思いをしているに違いない。
「緊張してるだけだから、気にしないで下さい」
そう言って、茶封筒の中の一枚の紙を取り出した。そこには、“舞浜海憂”という文字が丁寧に書かれていた。鉛筆やシャーペンのようなもので書かれたように見える。文字以外は真っ白だった。葉書のような厚みはなく、コピー用紙やプリントのような薄いペラペラした紙であった。溯夜は紙を凝視しながら、「やっぱり切り取られた形跡がある」と言いきった。
「明依さん、一応確かめたい事があるので、定規とかあれば嬉しいのですが…もし良ければ貸して頂けませんか?」
直後、明依は机の中から定規を取り出した。
「私のでよければ‥汚れちゃってますけど」と明依は言い、溯夜に差し出した。
すると、溯夜は何やら直角になっている場所――机の角っこに紙をあて、定規を下から上へとゆっくり動かしていった。
平行ではない。しかも、上の2つの角が直角ではなかった。溯夜の推理が正しかった。
「この紙は君の姉さんの遺書の可能性が高くなりましたね。でも、なんで舞浜さんの部屋にあるんでしょう?一部しか残ってないし、不自然すぎます。」
「ですよね。いつの間にか気づいたら入ってて、気味が悪かったの。しかも、なんで私の部屋にあるのか…」と明依は賛同する。
「先ほど舞浜さんの姉の部屋があるみたいなこと言ってましたけど、今も残っているんですか?」と溯夜が聞くと、「残ってる」と当然のように明依は答えた。
その言葉を聞いた溯夜は思わず、「マジですか!?」とすっ頓狂な声を上げ、明依の部屋を飛び出し、廊下へと走っていった。
「こら!廊下は走らない!!」と明依の母は注意した。ふいに溯夜と明依の母は目が合った。
明依の母はすぐさま、「あら、九十九里君だったの。ごめんなさいね。でも、廊下は歩くようにしてね。でないと古い家だし、床が陥没したら大変じゃない。これからは気をつけてね」と優しく言った。
溯夜も「急いでたので。こちらこそすみません、もう絶対走りません」とお辞儀をした。
後を追ってきた明依も「廊下は走っちゃだめ!あと姉の部屋はこっちじゃなくてあっちだよ」と遠くのほうを指さす。
どうやら溯夜が行こうとしていた右ではなく、廊下をまっすぐ行った先の左側にあるようだった。とはいえ、見えない場所に溯夜達はいる。
「もう注意はしたわよ」
「だったらいいの」
そうして、海憂の部屋へと向かった。まっすぐ進んだが右側は無かった。明依の母は再び台所へと向かった。
―――明依にお姉ちゃんっていたかしら―――
そんな疑問が頭をよぎる。明依の母は思い詰めた表情をしている。けれども料理をする手は止めていない。料理をしながら、昔の記憶を辿っていた。ショックのあまり忘れてしまったのか、PMMの効果なのかは分からない。ただし、言えることは明依の母も海憂に関しての記憶は明依と同じだということだ。二年も前の事だし、風化されていてもおかしくはないだろう。
その頃、明依と溯夜は海憂の部屋にいた。
「ついてくるなよ」溯夜は不機嫌そうな顔をしながら、こう言い放った。
「方向間違えてたし、そこは感謝するべき所でしょ?」と明依は言い、続けて「こら!え、何あさってるの」と言った。
「だから言ったのに…」
溯夜は海憂の部屋の隅々を懸命にあれこれと探りはじめた。まるで、行動が家宅捜索そのもののようだった。しかし、部屋中どこを見てもこれといった手がかりは見つからなかった。
部屋にあるのはお仏壇と窓の桟に供えられている一輪の花瓶だけだった。それ以外のものは死後に撤去されてしまったのだろう。
「やはり、何も見当たりませんね」
「これだから溯夜さんは。」
「焼香だけでも焚いていきましょ」
「そうしますか」そう言って残念そうな顔をして、諦めて溯夜は仏壇に向かって手を合わせて、一礼した。
けれども本当の意味で諦めたわけではなかった。ここでもなお、透視能力を使う気であった。全神経を一点に集中させる。両手を両目の前に持ってくる。そして、ひと呼吸すると溯夜には過去の海憂が視えた。部屋も2年前の状態である。海憂は俯いていた。そして、ノートのようなものに『罪有る者に裁きを』といったメッセージが記されていた。そして、その隣に『殺す』の文字もあった。溯夜は力尽きたのかその場に崩れるかのように倒れてしまった。
「大丈夫ですか!もしもし、聞こえてますか」
明依が体をゆすっても返事はない。熱はあるようだから生きてはいるようだ。
体を持ち上げようとしたその時、明依の鼓動が早くなった。ドキドキする‥。
(溯夜さん)
身体中から何かが込み上げてきた。
(やっぱり重い)そう思ったのか持ち上げようとしていた腕を一旦おろした。
明依は自分の部屋のベッドへと運ぶのを諦めたようである。そして、溯夜の意識が戻るのをひたすら待った。
*************
溯夜は意識が戻るとすぐさま「君の姉さん、ひどく落ちこんでいたよ。それに脅迫文のようなノートも視えた。これだといつ自殺してもおかしくはない」と明依に向かって激しく抗議した。
「それより、溯夜さん体調大丈夫なんですか?さっきまで気ぃ失ってましたけど」と落ち着いたようで驚いた様子で言う。
「そっちの方はなんとかなります。死んではないので」
「死んだら困りますよー。私だって渦せき止められなければ死んじゃうじゃないですか。」と悲しそうに言った。
「一体、脅迫文って何なんでしょう?」
明依が仕切り直した。
「多分、おそらく海憂さんのクラスメイトが書いたものなんでしょう。」冷静に溯夜はそう推理する。
「いじめていたようですし、恨みを買っているのは当然のように思えます。」
「なるほど」ようやく明依は理解したようだ。
「その書いた人物は特定できていますか?」
「特定はまだ、できていない」重々しい口ぶりでそう言う。
「いじめが絡んだ出来事って難しいですね。今はそういうのがない平和な世界ですけど」
「舞浜さんの言う通り、複雑ですよね。考えているこちらまで疲れてきます」
「疲れてきたなら、一度お茶でも飲みにリビングへ行きませんか?」と明依が促すと、「もう少しだけ海憂さんの部屋にいたいです。それでもいいですか?」と溯夜は言った。
「いいですよ」と明依は優しい表情で言った。
「遺書に関しては誰が切り取ったのか、おおよそ察しがついてるんですか?」と明依が聞くと「まあ、一応は」と溯夜は答えた。
「でもな、舞浜さんに今、全部話していいものなのか…」溯夜は顎に手を当てながら迷っている。
「私にだったら何でも話して下さい。どんなことを言われても受けとめる覚悟は出来てます」自信満々に言っているが、実際のところ覚悟は出来ていない。
(まず何から話せばいいのか‥)悶々とする。
「以前の図書室でのように喧嘩になるのも嫌だし、先程のように泣かれるのも嫌だし。」
溯夜は壁を見つめている。
「その節はごめんなさい…」
「いや、いいんだ」
「まず、犯人が誰っていうより、臆測ですが、遺書にいじめの自白が書かれていたということが考えられます」キッパリと溯夜は断言した。
そんなこと考えたこともなかったというような顔をしてから明依は「ああ。そういう解釈もできますね。流石、溯夜さん。頭、良いですね」と明るい笑顔で誉めた。
いやいや、そんなことないという風に溯夜は顔を掻いたのと同時に一輪の花がひらひらと揺れた。
「でも、どうして遺書に自分の犯してきた過ちを書く必要があったんですか?」
「それは…」と一段落置くと、「君の姉さんはひと一倍、罪悪感に苦しめられていたのだと思う」と溯夜は愁いを帯びたようにそう嘆いた。
「結構、つらかったんですね…」明依も同情する。
ただ、いじめられていた人には言うに言えない言葉だと思う。いじめがないこの世界の方が断然いい。本当にそうだろうか――――。これはこの物語を読んでいる人が考えてほしいと願っている。
「それで、君の姉さんと一緒にいじめ行為をしていた夕凪砂利って人、ご存知ですか?」
「ゆうなぎ、さり‥」ぽかんと口を開けて宙を見上げている。
「やっぱりそうなりますよね」
「お姉さんの記憶が薄いんでしたもんね。その人は君の姉さんの親友です」
「じゃあ、君の姉さん達にいじめられていた天光結架の事はご存知ですか?」
「あまひかりゆいかさん?その人も知らないです」
「ちょっと待って下さい。なんでそんなに姉の事に詳しいんですか?」と明依が目を丸くしながら聞くと、
「あーあの九十九里溯夜は探偵業をしていて、矢岬漣っていう助手みたいなのがいるわけさ。言ってなかったっけ、探偵してるってこと」
「言ってません。すごいじゃないですか!!これ絶対、姉の死への良いヒントになりますって!今度その人にも会わせてください。溯夜さんにも出会えて良かったです。」目を輝かせながら明依は言った。
「会えるかは交渉次第ですけど。その彼は別世界へ行ける能力を持ってる。君の言う通り、捜査には役立ってるよ。今いる世界は呪われた世界。で、別世界っていうのは本当の世界。夕凪砂利は本当の世界にいる人間だ。」
「でも舞浜さんは夕凪砂利には会えない。そういう仕組みなんだ。」と長々と溯夜は話した。
「それでも構いません。夕凪砂利って人も姉と一緒に結架さんをいじめていたってことですよね。それなら遺書を切り取ったことにも結びつきますね。」
「そゆこと」
そう言い残して溯夜はお仏壇に目を遣ると、そこに飾られていた遺影を見ながら、何かを決めたように手を組んでくるりと後ろを向いた。遺影には白いワンピースを着た、笑っている生前の海憂の姿があった。
そして溯夜は深呼吸をすると「もう一人、遺書を切り取った可能性のある人がいます。明依さんの知っている人です」と核心をついたように言った。
「それは、誰なんですか?」
「ここで言ったら、きっと驚かれると思います。覚悟していて下さいね。」
「はい…」
「その人は舞浜さんのお母さんです」
「えっ!」思わず驚いてしまった。明依にとっては予想外の展開だったから無理もない。
「どうして、母が姉の遺書を切り取るという考えに至るんですか?」と明依が聞くと、
「もし、俺が言ったいじめの自白が書かれていたという仮説が正しければ、親心で自分の娘がいじめの加害者だなんて思いたくもないだろう。性格がどんなに悪くても大切な娘であることに変わりない。庇いたくなる気持ちも分かる。」
明依は真剣に溯夜の話を聞いている。
「切り取った犯人が舞浜さんのお母さんだとしたら、もうハサミか何かで丁寧に切り取って、遺書の全文はシュレッダーなどで処分されていると思います」
「なるほど。大まかな事象は理解できました。でも、家にシュレッダーなんてないですよ」と明依は言う。
「だったら、破いて処分でもしたんでしょう。」
「でも、じゃあどうして私の部屋にわざわざ置いたんですか?おかしすぎます。」
明依からの問いに珍しく
「それは俺にも分かりません。唯一の謎です。」と諦めたようだった。
*************
丁度、その時トントンと部屋をノックする音が聞こえた。「はい」と返事をすると明依の母がトレイを持って、ドアを開けた。別に見られて嫌な動作はしていないが、一応、溯夜は会釈をした。トレイは白で上にはピンクと青のティーカップが乗せられていた。中には熱い紅茶が入っている。
「ピーチティーよ。甘くて美味しいから、存分に召し上がれ」と明依の母はそう言いながらピンクのティーカップを明依に青いティーカップを溯夜に手渡した。どうやらもてなしてくれたようだ。
「ありがとうございます」溯夜、渾身の作り笑顔で明依の母に言った。
「いえいえ。私お気に入りのなんですけど。お口に合うといいわ。でも、いいところ邪魔しちゃって悪いわね。」と明依の母は謙遜する。
「あ、お母さん、遺…」明依が言おうとした所を溯夜は全力で止めた。
「その事はまだ言っちゃダメ。まだ確定してないから」と小声で囁いた。
「ごめん。分かった」と明依は言う。
「このピーチティー美味しいです。独特の苦味も無くて、良い感じです。おしゃれでこういうの初めて飲みました。」と溯夜が本当に美味しそうな顔をして、明依の母の顔を見た。
「そう言って貰えて嬉しいわ。おかわりあるからいつでも言ってね。」と微笑みながら溯夜に視線を送ると、溯夜は頷いてみせた。
そして、明依の母は明依に「ここにいたの。明依の部屋に行ったけど、いないから探したわよ。」と溯夜には聞こえない声でそう言った。
明依は「ごめんね、お母さん。溯夜さんが走ってこっち行っちゃったから。それについ、長話しちゃって…」と謝った。
それから、明依の母は「どうぞごゆっくりしていってね」と言い残したあと、海憂の部屋を後にした。
「あの人が遺書切り取るなんて考えられないな」
「だから、言ってるじゃないですか。お母さんがそんなことするはずないって」
「でも確証はない」とやや強めに溯夜は言った。
「夕凪砂利については何か思い出せそうな事ってあったりしますか?海憂さんの親友だったので、家にも来たことあると思うのですが…」と明依に聞いた。
だが、「全く思い出せません。姉のことも名前しか知らないです。夕凪さんの名前も今日聞いたばかりです。」という答えしか返ってこなかった。
「そうですか…」
「それじゃ、そろそろ行きましょうか。」そう言って、一息ついた後、明依と溯夜は海憂の部屋を出た。
もうすでに、夕焼けが消えてなくなり、窓の外は青黒くなっていた。溯夜がもう帰ろうかなと思って、腕時計を見ると時刻は18時を過ぎていたので玄関へと向かうと「もし良かったら九十九里君も夕飯食べてく?」と明依の母はどうぞ、どうぞとリビングへと招き入れた。
テーブルには質素な和食がずらりと並んでいた。
「ああ、いえいえ。お気持ちはありがたいのですが、帰らなくては妹が心配するので遠慮しておきます」と溯夜は言った。
「溯夜さん、妹いたんですか?」思わず、明依は反応してしまった。
「まあ、一応。血は繋がってませんけど」
「そう言わずにほら、食べて。沢山あるから。九十九里君の分も作っておいたのよ」笑顔で言われると、どうも断りきれない。
「分かりました。じゃ、妹にはメールしておきますね。ありがとうございます」そう言って溯夜は座布団へ腰かけた。
「あ…」溯夜は思わずポロリと口にした。溯夜は好き嫌いが激しかった。
「はい、手を合わせていただきます」3人で言うと、より一体感が増していく。
美味しそうに明依と明依の母は食べるが、溯夜は途中で手が止まった。さっきから、溯夜は味噌汁の豆腐しか食べていない。
「あら、どうしたの。九十九里君。こっちの焼き魚とほうれん草のお浸しも食べて。」
「はい、頑張ります」
「頑張らなくていいのよ」
「てか、味うっす。何これ」と溯夜は思った事をストレートに口にしてしまった。
「ごめんなさいね。お口に合わなかったかしら。」と明依の母は申し訳なさそうに言った。
「あ…」途中で溯夜は気づいたようだったが、時既に遅い。
「味噌汁は味薄すぎだし、玉子焼は濃いし、ほうれん草苦手な上に焼き魚は焦げてんじゃん」
次から次へと駄目出しをしてくる溯夜に明依の母は戸惑いが隠せなかった。どうやら、ようやく本性を表したようだった。溯夜は明らかにマズそうな顔をしていた。
その一部始終を見ていた明依は「溯夜さん、バスケ部なんだからもっと食べなきゃだめでしょ!!」と怒った顔をして溯夜を注意したが、「バスケとは関係ないし。舞浜家、味薄いね。だから、バカなんだ。」と明依を罵ってきた。
「そんなことないです!」と負けじと明依は言い返すが、溯夜の箸の手は進まなかった。
結局、溯夜は玉子焼少しと味噌汁の豆腐と白米しか食べなかった。
「もういいの?」と明依の母は心配して言うが、「結構です。俺、少食なんで。」と溯夜は言った。続けて、「生意気な発言をしてしまってごめんなさい」と素直に謝ってきた。
「こちらこそ美味しい料理が作れず、ごめんなさい。気にしなくていいのよ。」と明依の母は優しく微笑んだ。
リビングにはまだ夕飯の美味しい匂いがぷんぷんと漂っている。
もう、さすがにヤバいなと思ったのか、仕度だけ済ませ、「今日はこの辺で失礼します。どうも長居させて下さって、ありがとうございました。今度、俺が来た時は野菜抜きで味ちょうど良いくらいでおなしゃす。」と言うと、玄関の扉を開けた。
「野菜抜きって、、思春期の男の子なんだし、ちゃんと栄養取らなきゃダメよ。」と明依の母は言う。
「もしかして、溯夜さんって野菜全部苦手な人ですか?」と明依が聞くと、
「きのこ(しいたけを除く)、いちご以外は全てアウトですね」と溯夜は答えた。
「それって、ほとんど野菜嫌いって言っていいレベルじゃないですか。だからこんなに痩せているんですね。普段、何食べて生きてるんですか。」という明依の問いに
「コンビニ弁当。ていうかコンビニに売ってて、その日の気分に合わせて様々。」とだけ答えると溯夜は家へと帰っていった。
もう辺り一面が真っ暗だった。夏なのに風が冷たい。その中を少年はただただ歩いていた。舞浜家からはしだいに遠くなっていく。
(舞浜さんに会いたいな)その想いを胸の内に秘めていた。
七月の憂鬱、空虚 Chapter6
翌日、明依が朝食を食べてから、玄関を開けるとそこには学生カバンを背負った制服姿の溯夜がいた。
「おはようございます」
「って、え!?溯夜さん?何でこんな所にいるんですか?」驚いた拍子で明依は腰を抜かしそうになる。
「お迎えに来ました。今日は晴れていて、気持ちがいいですね。」
「全然、気持ちよくないです!天気は気持ちよくても、心はとっても気持ち悪いです!!」と明依は怒った顔でドアを閉めた。
「今日は舞浜さんの為に早起きしたんですよ。誉めて下さい」と溯夜が言うと、
「あのー大体でいいですけど、もしかして私の事、好きなんですか?」と明依はうっかり恥ずかしい質問をしてしまった。
溯夜は急に表情を変え、「それは恋愛の意味ですか?それとも人間としての意味ですか?当たり前ですが、恋愛でも人間的にも俺が舞浜さんの事を好きになるはずがないです。もちろん嫌いですよ。」と言った。
「嫌いな人間によく早起きしてまでお迎えに来れますね」と明依は皮肉を口にした。
「それに溯夜さん、方向音痴じゃなかったでしたっけ?」
思い出したように明依が言うと、
溯夜は「わざわざ、舞浜さんの家までの道を知る為に、地図まで買いました」と言った。
「嫌いな人の為にそこまで出来るんですね、感激します!本当に“好き”と“嫌い”の意味分かってますか?」
「分かってます」
「今日が舞浜さんとの人生初登校になるのか」
「そうですね。一緒に行く予定ではなかったですがね」
「舞浜さんって得意科目とかありますか?」と溯夜が聞くと
「得意科目…」明依は少し悩んで顎に手を当てた。
「理科と音楽と数学かな」と明依は言った。
「ほぼ、理系ですね」
「そうです。リケジョです」
「溯夜さんは苦手科目ってあるんですか?」と明依が聞いても首を横に振るだけだった。
「まあ、強いていうなら体育とか。」と溯夜が言った途端、明依は「私も体育苦手です!あと英語も」と同意した。
「あれですか。英語は補習受けてるかんじですか?」意表をついたように聞いてみた。
「そうなんです。補習常連です。この前の定期テストは学年ワースト12位で‥最悪ですよね。」
「ああ。何とも言えねーな」溯夜は呆れてしまっている。
校門まであと少しの距離だ。お日様がギラギラと塀を打ちつけていた。暑い真夏の日差しは明依と溯夜をも照らし続けていた。
「今日って確か1時間目英語じゃなかったっけ?」と溯夜が言った。
「あ!ノート忘れた」
焦った様子でカバンの中を探すがない。
「やっちゃったな」と溯夜は言う。
「その、英語のノート貸してくれませんか?」
「いいけど、何時間目?」と溯夜が聞くと、「5時間目です」と明依は言った。
「分かった。おーけー。」と溯夜が言うと、助かった~というような表情を見せ、明依は「ありがとうございます!」と笑顔で溯夜の方を向いて、学校まで小走りした。
こうして、慌ただしい1日が始まった。HRが始まるまでまだ時間はたっぷりある。
*************
放課後。いつもの場所に行くとそこには、本を片手に持った溯夜がいた。本をペラペラと捲り、集中している様子だ。
「何の本読んでるんですか?」と明依が聞いても教えてはくれなかった。
「あ、舞浜さん。さっきのでよかった?」
「良かったよー」
「やってるとこ同じで助かった。ありがとう」
そう微笑みながら溯夜のほうに近付く。
「そう言ってもらえて光栄だよ」と溯夜は言った。
静かな時が流れる。時計の針の音だけが、ちょっとだけ耳に入ってくる。
「あの、今度の休日、俺と一緒に海に行きませんか?」
「は?」突然の誘いに驚きが隠せなかった。
(え、待って。これってデート?いやいやそんなわけ…って、はああぁあああっ!?)
「やだ?だったらいいけど。別の人誘うから。ってそんな人俺にはいなかったわ…」残念そうに溯夜は言う。
「やじゃないけど。溯夜さん、何考えてるんですか?これってデートってことですか。」明依は照れ隠しをしながら聞く。
「デートって…付き合ってるわけでもないのに。捜査だよ。君の姉さんが死んだ海に。それとも怖い?怖いなら無理にとは言わないけど。」と溯夜は言った。
「記憶がないので怖くないです!一緒に行きましょう、その海へ。」と言い、続けて
「でも、言われてみれば自殺者が出た海に行くのは少し怖いですね。」と明依は躊躇った。
躊躇っている明依に溯夜は同情し、頷いてみせた。
そして、本を閉じ、「じゃあ、日にちはいつにしますか?」と溯夜が言うと、
「今週の日曜日で」と明依は返事した。
「分かった」と溯夜は言った。
「じゃあな。」と言い、カバンを背負って図書室を出ていこうとする溯夜に「今日は一緒に帰らないんですか?」と明依は言った。
「今日は、ちょっと‥」と断り、溯夜は図書室を後にした。
(今週の日曜日か、。)胸騒ぎがした。
明依は胸に手を当て、大丈夫だよね?と自分を確かめた。
*************
金曜日。机の中を見てみると手紙が入っていた。一瞬、ラブレターかと思って溯夜はヒヤリとした。
(気のせいだ…)そう信じて封を開けてみる。
そこには可愛い字で『付森 昨夜君へ この前はノート貸してくれてありがとう。印象と違って字、きれいですね。感激しました!また、何かあったら、教科書でもノートでも貸して下さい! 舞浜明依より』と書かれていた。
(あ?なんだこれ。漢字間違えてるじゃん。てか、印象と違ってって失礼すぎだろ。にしても、わざわざ手紙まで…あいつも少し大人になったな。)と溯夜は思った。
今週の日曜日は明依と海に行く約束をした。確かにそれはそうだけど、溯夜にとっては初めて訪れる休日の予定だった。
これまで溯夜はどこかに誰かと行くということが無かった為、どういう服を着ていけばいいかとか何時ごろにどこで集合すればいいかとか、そういうのが分かっていない。
とにかく、こういうことに無縁なのだ。
溯夜は制服で行こうと考えていた。デートなんぞにそうそう興味はない。
(あとは矢岬が来てくれるかだな)そうひそかに企んでいた。
その頃、明依は宿題で切羽詰まっているのと同時に溯夜と海へ行く事も考えていた。
(あー好きな人との初デート。どういう服着ていこうかな。私服ダサいって言われたらどうしよう。家に来られた時点で恋愛みたいなことになってない?気づかなかった私はバカ…。今更、どうしたって手遅れなのは分かっているけど。)
捜査、捜査と明依は頭の中で思考を正しい方向へと転換させていた。これはあくまで捜査をする為に溯夜さんと私が海に行って調査する。お姉ちゃんが自殺した理由や誰かに殺された可能性を消す為に。
「明依、あのさー今週の土曜日か日曜日、どっか行かない?」と咲花が聞いてきた。
「え‥日曜日は無理!私、仕事があるの!」と下手な誤魔化し方しか私には出来なかった。
「仕事?明依、バイトやってないよね?それに校則で中学生はバイト禁止なはずじゃ…」
「あ、分かった!溯夜くんと遊びに行くんだ!!」と勘の良い咲花は的を突いてきた。表情は勝ち誇ったような顔をしている。
「違うし…」否定しているが、顔に出ている。
「じゃあ、土曜日で決まりね。」
「水音も行かない?」と咲花が誘うと、
「ごめんね。土日は水泳部の練習と大会があって…」と水音はやや寂しげに断った。
「そっか。部活頑張ってね」
「うん…。」
「それじゃ土曜日、どこ行こっか。」と咲花に場所まで聞かれ、明依は迷っている。
二日連続で予定が入るなんて忙しすぎる。私って人気者だなぁとつくづく明依は思った。
日曜日は海だし、水族館や動物園は子どもらしすぎるし、喫茶店だと咲花と予定開けてまで行く場所じゃないなと思ったので、
「ショッピングとか?都会でふらふら歩いて見よう」と言ってみた。
「それいいねー!」案外、咲花はノリ気のようだ。
「じゃ、ショッピングで決定ね。」
そして、土曜日は咲花と東京巡りに行くことになった。
あっという間に月日は流れ、東京でオシャレな洋服や高級なお菓子を買い、散々、咲花の破天荒ぶりに付き合わされた挙げ句、お小遣いがだいぶ減ってしまった。
疲れた。そう思って浴槽に浸かる。あったかいお湯だから心も体の疲れも癒される。
(明日か…)
窓の外を見つめた。溯夜さんは今頃なにしてるのだろうと考えつつ、顔の半分くらいが浸かるまで下へとずれていった。
*************
そして、ついにこの日がやってきた。
約束の時間より早く着いちゃったけど、それはそれでいいかもしれない。
風でワンピースが揺れる。渚から少し離れた海岸沿いの小道を歩く少女――明依。彼女はこの日の為に昨日買ったお気に入りのチェック柄のワンピースで、海憂が死んだ海に来た。
太陽の光でチェック模様が眩しくより鮮やかに見える。
(昨日は咲花と買い物が出来て良かったな。溯夜さんはまだかな…)
そう思って砂浜に目を向けると、そこには普段と変わらない溯夜の姿があった。
あっ!と思って駆け足で彼の方へと急いでいった。
「溯夜さん!おはよう。って何で制服なんですか?」と明依が言っても反応は無かった。
「ちょっと聞いてますか?」と再度、声を掛けると、「おはよう、舞浜さん。」と柔らかい表情で言い返ってきた。
「ちょっと遅かったね」と溯夜は言ったが、
「さっきからいましたよ。溯夜さんはいつからいたのか知りませんけど、いたなら探してください」
そう要求した。
「それより、私の話なんで無視するんですか?」
「波の音を聞いてた」
「は?なにそれ」
確かに波の音は静かで心地いい音ではあるけれども、それを楽しむ溯夜の気持ちは到底、理解しづらい。
「まあ、波の音が素晴らしいのは分かりましたけど…」
溯夜は相変わらず制服で来ていた。白いワイシャツに黒色のズボンに白い靴下、そして靴だけがいつもとは違い、海に適した靴だった。
「ツッコミどころ満載なんですけど。何故、あなたは制服でこの場所に来ているのですか?」と謎の生物を見るかのように聞いてみた。
「え、なんでって制服で来ちゃいけないの?」当たり前のように彼は言った。
「いやーこういう時こそファッションにこだわるべきでしょう。溯夜さん、爽やかなんだし、海コーデとか着てみたら絶対、似合うしカッコいいと思うのに…」と残念そうに言った。
正直、期待していた。溯夜の私服姿が見られる絶好のチャンスだと思ったのに。
「えぇ…そう言われても困るよ。俺、そういうのに興味ねーし。」
「ああ、そう。別に制服でも悪いわけじゃないから気にしないで」と明依はキッパリと投げ捨てた。
(そのワンピース可愛いねとか言ってくれたらいいのに‥)
青空を見上げながら、海の香りを感じつつ、明依は嘆いていた。さっきから、悲しそうな顔をしている。
「元気なさそうだけど大丈夫?」
「へーき」
「そ。それならいいんだけど。君の姉さんが死んだ場所はこのあたりだ。」と溯夜は明かした。
「ふーん。どこかから飛び降りたわけでもないんだ。」と明依は言った。
「だから不自然なんだよね」
普通、海で入水自殺を謀る場合、崖などから飛び込む事が多い。それなのに海憂は砂浜から普通に入っていったらしい。そうなると苦しみは相当なものだろう。
「ちょっと君の力を貸してくれないか?」と溯夜は言った。
「へ?私、力なんて持ってませんけど…」
「そう?舞浜さんならこの海で余裕に泳げそうな気するけど。」
「泳ぐ?何考えてると思いきや、そんな大それた発想をお持ちだったんですね。」
「泳ごうと思えば泳げますけど、泳ぎませんよ」と明依ははっきりと言った。
「ああ、それは残念」
そうしたら、溯夜の透視能力を使うしかなくなる。
溯夜は両手を顔の前にかざして、そっとひと呼吸おいた後、数年前の海にいる海憂を視てきた。
そこには白いワンピースを着た海憂がいて、そして砂浜に横たわっていた。目を閉じているようだから気絶、若しくは死亡しているのかもしれない。
「お姉さんは7月の18日の午後に白いワンピースを着てませんでしたか?」
急に事細かく、こういうようなことを言われても困る。明依は唖然としている。
「何の事ですか?姉が白いワンピースを着ていたかなんて覚えていません」
「でも、確かにあの部屋で見た海憂さんらしき人にそっくりだった」と溯夜は言う。
「また、透視能力使ったんですか?それに気絶してない!!」
「使ってるうちに慣れてきました」涼しい顔で気取っていた。
「ああ、で、倒れてたよ。」
「姉がですか!?眠っていたのかもしれないですよ」
「そうかもしれないけどな」
これだけだと何とも言えない。判断はしづらいだろう。だが、他殺の可能性が浮上してきた。
*************
どこからともなく足音がしてきた。後ろを振り返ると、茶髪の青年がいた。
「おはよう、溯夜。」
「おはよ、遅かったね」と溯夜は言った。
「ごめん。ちょっとそっちの仕事で手間取っちゃってね」と茶髪の青年が言った。
「あの、お知り合いですか?」と明依は謎めいた表情で聞いた。
「ああ。この人はね、前に言ったと思うけど俺の探偵助手です」
「はじめまして、明依さん。話は溯夜から伺ってます。僕は矢岬漣っていいます。よろしくね」と漣は自己紹介した。
明依も「はじめまして。舞浜明依です」と丁寧に自己紹介した。
「それで、舞浜海憂さんの自殺案件の事だけど、これが入手した当時の学生名簿だ」
そう言って黒い名簿を掲げた。
「これって私の姉のクラスの名簿ですか?どうやって手に入れたんですか?」と明依は困惑した様子で聞き入っている。
「僕は本当の世界に行けてね。それで、さっき取りに行ってた。海憂さんもここにいるよ」と言い、海憂の写真が写っている場所を指差す。
「これが‥お姉ちゃん。初めて見た」
「あれ?明依さんはお姉さんの記憶が無いの?」と漣は不思議そうに言った。
「あ、俺の説明不足だったね。舞浜さんは姉の記憶が薄く、曖昧になってます。PMMの効果です」と溯夜は言った。
「そっか。了解」
「それで本当の世界っていうのは呪われてない世界で合ってますか?」と確認の為に明依は聞いた。
「そうです」と漣は答えた。
風がぴゅーっと吹き荒れてきた。涼しい。
砂が舞っている。海の匂いも風と共にやってきた。
「明依さん、そのワンピース可愛いね」と漣が良いタイミングで口を挟んできた。
「ありがとうございます」と笑顔で明依は応えた。
「あ、でも風でめくれちゃうよ。大丈夫?」と気遣ってくれるが、
「全然大丈夫です。ご心配なさらず。」と明依はそそくさに恥じた。
(私は溯夜さんにワンピース可愛いって言われたいのに…)と明依の心の中ではぶつぶつとこういう言葉が次々と出てきた。
「矢岬、数分前に能力使ったんだけど、その時、舞浜海憂の脳内から麻薬が視えたんだ」と溯夜は冷静に話をこぼした。
「それは本当か!?」と漣は驚いた表情で問い詰める。
「嘘じゃないに決まってるだろ。LSDとヘロイン、ディスピアンが今の時点で検出された」と溯夜は淡々と口にした。
明依にはさっぱり理解が難しい内容だ。
「麻薬ってあれですよね。授業で聞いたことあります。でも、法律で禁止されてますよね。姉は麻薬やってたんですか?」と明依は言った。
「多分、集団内で譲渡しあっていたんだろう」と溯夜は言い、続けて、
「矢岬は麻薬を売っていた人間を特定、そして調べてくれないか?」と漣に言った。
「分かった」と漣は頷いた。
ここで麻薬の話が浮上した。他に麻薬を吸っている可能性のある人物と言えば夕凪砂利だ。でも、誰が配っていたんだろう…
「夕凪砂利の様子はどうだった?」
「変わらず荒れ果てていたよ」と呆れながら漣は言った。
「そっか…」
「関わるのも正直、面倒いくらい」
「だろうな。お疲れ様。俺だったらそんな捜査ぜってー嫌だけど」と溯夜は他人事のように呟いた。
「溯夜からの指示で動いてんだけど」と漣は冷静にツッコんだ。
水平線から太陽が昇ってくる。3人は太陽を見つめていた。ここの海は透きとおっていて、綺麗な海だ。珊瑚礁が辺り一面を覆いつくしていて、いろんな魚が泳いでいる。ここからの見晴らしも良い。
デートにはうってつけの素晴らしい場所だった。
「そういえば昼ご飯どこで食べる?」ふいに溯夜が聞いてきた。
「ファミレスとか?」と明依は言った。
「いいね、それ。」と漣も納得した様子だった。
そうして、昼ご飯は海から近いレストランで食べることになった。
明依は溯夜達とは離れて、少し砂で遊んでいた。お城のような山を砂で固めて作っていた。ただ一人で。
その頃、溯夜と漣はさっきの麻薬の話をしていた。
「海憂さんが吸っていたのは幻覚、幻聴作用があるLSD、不安の抑制、興奮作用があるヘロイン、そして神経細胞を麻痺させるディスピアンというわけだね」
「そうですね」
「だから、案の定海に入っていっても苦しい感覚がないから平気で普通に自殺できた」完全自殺をさも凄いことのように言う溯夜に漣は怒りを覚えた。
「明依さんがもし聞いてたらどうするんですか?故人に対して不謹慎すぎます。」と落ち着いた口調で訴えた。
「そんなに不謹慎な事言った?俺。まあいいや。夕凪砂利も興奮作用のある麻薬を摂取している可能性がありそうだな」溯夜は悪びれることなく語った。
「砂利さんも薬物中毒者(未定)の候補として今後、薬物鑑定する予定です」
「ああ。それなら安心した。そうしてくれ」と溯夜は依頼した。
二人は階段で手を宙ぶらりんにさせて、ポカリスエットを飲みながら座っている。ポカリスエットは先ほど自動販売機で買ったのだ。
「もう、本当の世界に戻した方がよくないか?溯夜と僕を含め七人集めて、海に能力を注いだら可能なんだし。」と漣は提案した。
だが、「それはそうなんだけど。あいつにはまだ、全てを受け止める覚悟が出来てない。それに幸せな日常を楽しんでいる者もいる」と溯夜は反論した。
「それともあれか?溯夜も過去に向き合えない自分がいるから嫌なのか?でも溯夜の脳は元には戻らないからノーダメージなんだよね…。」
「俺の事はどうでもいい。」
こうして、ポカリスエットを階段で飲んでいる間に時間は過ぎた。
「そういえば、明依さん、一人にしてて大丈夫なの?」
溯夜は(あ、そうだ!)と思い出したかのように慌てたそぶりを見せる。
「まあ、あいつの事だし、大丈夫じゃね?ほら、あそこにいるし。」
本当に溯夜と漣の視界の範囲内に明依はいる。楽しそうに砂遊びしてるし、もう少々話をするかというムードになった。
漣は缶の酒を飲んでいるからか、さっきまでの敬語口調ではなくなっている。完全に遊んでいるような話し方だ。そして、溯夜は漣の遊び相手になっているみたいだった。
「最初に僕が明依さんと会った時の事だけど、僕はそのワンピース可愛いねって明依さんに言ってたじゃん?溯夜は明依さんに“ワンピース可愛いね”とか“晴れてる時に君と海に行けて良かった”とか言ったの?」と漣は当然のように言った。
「言ってないけど」と溯夜は真顔で即答した。
「なんで言わないんだよ。絶対、舞浜明依って子、溯夜の事好きだぞ。それに、とっくに付き合ってるのかと思ってた。僕が明依さんを落としてるみたいじゃねーか。」と気が狂ったような顔で言った。
「は?意味分かんないし。どこで、そういう解釈になるの?まだ“好きだ”とも言われてないし。舞浜さんに好かれてるとかキモい。」と溯夜は率直な感想を述べた。
(キモいとか言われたら明依さん余計悲しむよ)と漣は思った。
「じゃあ、お前から“好き”って今日、海で告白しなければ溯夜の本名も家族絡みの事も全てバラす」と漣に溯夜は脅迫された。
「いやいや。舞浜さんとは関係無いし、無意味だよ。それとは別に好きでもない相手に“好き”って言うなんて無理だし…」と後ろめたさも交えて溯夜は言った。
漣の言う通り、照れた顔とか漣がワンピース可愛いって言った後の残念そうな顔とか悲しそうな顔とかも目に見えて分かった。今の明依は元気がない。
「そういう所だよ。溯夜の悪い癖。いつも冷静でいるのはいいけど、女の子に冷たく当たる所とか人をイラつかせる口の悪さや言動とか人間に興味を示さない所とかが悪いと思う。僕も溯夜のそういう所が嫌いだ」と漣は溯夜に厳しく当たった。
「なんだよそれ。全部ダメ出しじゃん。悪い部分ばかりで嫌な気持ちになる。ちょっとお酒の飲み過ぎじゃない?」と溯夜は漣を逆に批判した。
「かもしれない。言い過ぎた」
酒の力で告白の話は忘れてくれるかもしれないと溯夜は切に願った。もし、漣が忘れてくれず、バラされても溯夜は告白はしないつもりだった。
もう11時近い。明依を迎えに行って明依の希望でファミレスに行った。
ドアを開けると冷房の涼しさに魅了されるばかりだった。なにせ、外は暑い。太陽が当たっていたせいもある。
そして、テーブル席に着いた。
明依と漣はパスタとポテトやイカリングなどの前菜とデザートを頼み、溯夜だけは食べれそうなサラダしか頼まなかった。
「溯夜さん、食べなさすぎじゃありません?」と明依が心配した。
「そんなことないです。少食なんです。俺にとってはこれが普通です」と溯夜は言う。
「えーそんな…私のパスタかポテト、分けよっか?」
「それって間接キスになるんじゃ…どちらにしても分けなくていいです。これで充分なんで。」と断った。
急に明依の顔が赤くなった。かああぁぁ‥。
「なんですか!急にっ!矢岬さんもいるんですよ。そういうこと言わないで。親切心で分けてあげようと思ったのに…まあ、いいです。分かりました」と悔しそうで、かつ恥ずかしそうな仕草を見せた。
「ごめん、ね。」と溯夜は謝る。
その後は沈黙が流れた。
「まあ、ひとまず食べよ、食べよ。」と漣はにこやかに言うが、明依と溯夜の顔は険しい。
和むかと思ったが、ちっとも良い雰囲気にはならなかった。
そして、食事を終えた三人は再び海へと戻る。
歩いて5分程度の距離だ。橋からは綺麗な海が見える。輝いた水面に人は感動する。
海に着くと漣は「此城砦に行っていいかな?」と言い出し、溯夜は「いいよ」と返した。
なので、此城砦に行くことになった。
「あのー此城砦ってどんな場所なんですか?」と明依は素直に聞いた。
「此城砦っていうのは平行世界へと漣だけが行ける場所でそれには能力が必要になってくる。だから、俺達は見守っているだけなんだ」と溯夜は言った。
「そうなの。僕だけにしか行くことが出来ない世界なんだ。」と漣は連れていく事ができないことに対し、申し訳なさそうに言った。
漣に案内されて、短時間は歩き続けた。そして、ついに此城砦に到着した。
砦は岩に囲まれた低い崖のようで、ゴツゴツした岩が無数に散らばっていた。岩の頂上に足を踏んだその時、漣は一瞬にして、消えてしまった。
「矢岬さんがいなくなった」初めて見る光景に明依は驚きが隠せなかった。
「大丈夫。心配しなくていい。彼はまた戻ってくるから」と溯夜は冷静に言う。
「じゃ、行こっか。」と溯夜は明依を促す。
どうやら、空気を読んで二人きりにさせるつもりだったらしい。漣は気遣いができる大人なんだ。そう溯夜は思い知らされた。
「え、どこへですか?」と明依が言うと、溯夜は「さっきいた海にだよ」と笑顔で当然のように言う。
「あ、分かりました」と明依は言った。
「溯夜さん、ゴミ付いてますよ」と明依が指摘する。
確かにワイシャツの肩に白い糸がくっついていた。
「取って」と明依に頼む。
「もしかして、わざとですか?」と聞きながらワイシャツの糸を取る。
「わざとな訳ないじゃん」と溯夜は暗いトーンで言った。
*************
さっきいた海に戻ってきた。潮がさっきより引いている。
「あ、ヒトデだ」と溯夜は無邪気にヒトデを手に取った。
「デートじゃなくて捜査に私達は来たんですよね?」と明依は上目遣いで確かめる。
「まあ、そうだけど」と溯夜はスラッと言った。
海憂の死んだ場所を特定しようと考えたのか、溯夜は海にダッシュした。
しかも、制服のままだ。明依は驚いた様子で止めようとしたが、遅かった。
「溯夜さん!何考えてるんですか!?」と明依も海に向かって走った。
ビーチサンダルで来たためか、足に砂が入ってくる。気持ちが悪い。
しばらくすると溯夜がびしょ濡れの姿で戻ってきた。上の制服が濡れている。下着が丸見えだ。
「溯夜さん、心配したんですよ」と明依は少し怒り気味な声で溯夜を叱った。
「ああ。今の飛び込みは無駄だったね。君の姉さんの死んだおおよその場所を特定したかったんだけど…」と言い、そんな言葉で明依が納得する事もなく、「溯夜さん泳げるんですか?泳げても行動が無茶すぎます。」と言われてしまった。
「一応、上手くはないし、長距離は無理だけど泳げることは泳げる。あとはどのくらい海に入っていれば、沈んで息が出来なくなって死ぬのかも確かめたかったんだ」と後から付け加えた。
「溯夜さんは自殺願望あるんですか?死んだら私、泣いちゃいます。悲しいです‥」と今にも泣きそうな声で呟いた。
「いや、そんなつもりは。けれどもやってる事はそれに近かったな。ごめん。」と溯夜は謝った。
「それより早く服、乾かしましょうよ」と明依は溯夜を急かした。
「海では能力は使えなかった…」と落胆の意を表した。
「もう、いいですから。服乾かしてって言ってるでしょ!」
「分かりましたよ。もう。で、肝心なタオルは持ってきているんですか?」と溯夜は聞いた。
「私ので良ければいいですよ。」そう言ってピンク色の花柄のタオルを手渡した。
「あ、これ可愛い」溯夜がボソッと呟く。
勿論、お世辞だった。さっき漣に注意されたからだ。
「本当ですか!ありがとうございます」と明依は嬉しそうな笑みを見せる。
「そのワンピースも可愛いよ」と言葉を付け加えた。
急に明依の顔が火照る。太陽に照らされて更に熱くなりそうだった。
「そう言ってもらえて嬉しいです。これ、お気に入りのワンピースなんです。」
自慢しながら、花柄のタオルを持ち、溯夜の顔を拭いてあげた。
「急に何するんですか?気持ち悪いです」
いかにも嫌そうな顔を浮かべた。
「嫌でしたか。ごめんなさい」明依は残念そうに謝った。
「いや、いいんです。俺、女子に触られるのが怖いので…」と明依だけではないことを明かした。
「そうだったんですか。知りませんでした」
太陽の光が海に打ちつけるかのように光輝いていた。無数の海鳥が何羽も飛んでいた。パタパタと羽を羽ばたかせている。透きとおった海なので珊瑚礁も魚も見える。海憂の自殺願望とは関係なく、入りたくなる気持ちもよく分かる。夏の色とはこういうことをいうのだろう。
「そろそろ捜査もやめて帰りませんか?」
乾いていない髪をタオルで拭きながら、溯夜は「まだ、矢岬が帰ってきてない」と真顔で言った。
「あ、そっか。」と明依は納得した。
「てゆーか、着替えなくていいんですか?」と明依は当然の指摘をする。
「着替えシーンが見たいって?」とぶっ飛んだ質問返しをしてきた。
「そういうことじゃなくって!」と明依はツッコんだ。
「まあ、そう急がなくてもすぐ乾きますし、替えが家にしかないんで。」と諦めた顔で言った。
「じゃあ、なんで海に入っていったんですか!?」
「ちょっとは捜査の進展にもなると思って…」
「取り敢えず、矢岬を待ってましょう」と溯夜は冷静に切り返した。
七月の憂鬱、空虚 Chapter7
矢岬漣を待つこと20分。振り返るとそこに彼がいた。
「矢岬、遅かったな」と溯夜は待ちくたびれたと言わんばかりにそう告げた。
「ごめん、長びいちゃって。」と漣は謝った。
「それで、麻薬の件はどうなった?」と溯夜が冷静に聞くと、
「それが…」と言葉を詰まらせた。
「名簿リストを確認したところ、怪しい人物が浮上してきた。その人物に話を聞いたところ、『分からない』、『記憶にない』、『俺らには関係ない』の一点張りだった。」
「その人物の名前は…?」
「瀬戸内湘君と瀬戸内碇君だ。両人双子で、結架さんに好意を抱いていた可能性がある。」と真剣な表情で漣は言った。
「いじめられていた結架さんを庇うために、上手い話をして、麻薬を売り捌いていたことが考えられる。」
「そうか、分かった。ありがとう」と溯夜は礼をした。
一時間前のこと――――――。
「夕凪砂利さん。聞いてますか?」
「あ゙?もうその話は終わったじゃん。しつけーなぁ!」
怒りながらポテトチップスを食い荒らす。その様はまるで何もかもが終わった、人ならざる者を見ているかのようだった。まさにこの人こそ廃人といっていい人だ。
「その、薬物鑑定をして頂きたくて、検査キットがあるので、これに息を吹きかけて下さい。」そう言って漣は検査キットを渡した。
「これに吸って吐いて下さい」
「分かった。数十万くれるんだな」
そうして、10分ほど経過すると麻薬の検査装置が陽性の色に変わった。
結果はコカイン、ヘロイン、大麻、MDMAだった。
「砂利さん、あなたは麻薬を摂取していましたね。麻薬の検査の結果、陽性反応が出ました。麻薬を吸ったり、飲んだのは覚えていますか?それとも知らずに吸っていましたか?」そう聞くと、「はあ?知らないし。麻薬なんて吸ったことないよ」と砂利は返事した。
「では、知らずに吸ったんですね。そしたら罪は軽くなります。しかし、人を騙し、金を奪ったりした詐欺・窃盗罪、複数の男性と売春行為をして金を得た売春防止法違反、その他殴ったり、物で叩きつけたりした暴力罪や店員を脅したりして、商品を持ち去った脅迫・窃盗罪等いくつかの罪に該当する為、あなたは近いうちに刑罰に処されます。」と漣は平然と説明をした。
「知らないし。あたしは悪くないっつってんだろ。この野郎。死ねよ」と砂利は暴言を吐いた。
「そういうことを僕に言っても無駄です。いつまでも楽な生活が続くと思わないほうがいいですよ。」と諭しても「うっせーなぁ!しばくぞ、オラ。」と漣が殴られそうになるだけだった。
力尽くで腕を抑えたが、一歩間違えれば怪我をするところだった。壁に当たって漣は背中が痛かった。
「もうそういう行為やめたら如何ですか?もう成人するんですし。」
「お前には関係ないだろ。」
「舞浜海憂さんについてお話聞かせてもらってもよろしいですか?」
ここで舞浜海憂の話題が出てきた。麻薬鑑定もそうだけど、以前から砂利は話を避けてきているので貴重な機会だ。
「みゅーのこと?もうその女の事は忘れた」
そう言って誤魔化そうとする。いつもそうだ。それでは何の解決にもならない。
「舞浜海憂さんの遺書が見つかったと溯夜から情報が入ってきました。何か隠したり、捨てたりした心当たりはありますか?」と聞くと、
「あ゙ぁ?あたしを疑ってんのか?正気か?殴られたいの?」と自分はやってないとアピールした。
「みゅーの件、まだ解決してないの?その九十九里溯夜って人と一度会って話してみたいんだけど。」と早く終わらせて欲しいという気持ちを砂利は露にした。
「それは出来ません。海憂さんがかけた呪いの効果で世界が真っ二つに分離してしまいました。」
「その呪いっていうのも信じられてないんだけど。冗談はやめてくれる?つまんねー。」
それはそうだ。呪いとやらは万人には信じようのない話だ。でも世界が分離しているのは事実だ。
「信じなくてもいいですが、遺書は切り取ってないんですね。」と漣は確めた。
「だから、さっきからそう言ってんだろ!死ね!」
砂利は暴言を吐いて、物を投げてきた。そして、漣の顔に命中した。
「痛い」
「疑ってばかりだから、そういうことになるんだよ。もう家には来んな、帰れ。」
言われるがまま、夕凪家を後にした。玄関の扉を閉める。そこには砂利の彼氏3~4人分の靴が散乱していた。いつまでも精神が子供のまま、浮気を繰り返し、遊びながら生きていく彼女の姿は他の誰よりも酷い惨状だった。
でも、暴力や気分の高揚などは麻薬の効果なのだろう。そう考えると憐れに思えるかもしれない。
夕凪砂利が遺書を切り取ってないのだとしたら、残るは海憂と明依の母だ。ただし、記憶がない以上、進展がある見込みがない。
*************
帰り道。漣は色々考えた。一先ず、海憂のクラスメイトを手当たり次第、探すことにした。
そうして、聞き込みを開始してすぐ事情を知ってそうな人が現れた。同じ学年だった男子生徒3人組だ。
「中学生の時、又は高校生の時に舞浜海憂さんと夕凪砂利さんを恨んでいたり、嫌っていた人っていましたか?」
「ああ。確か、天光結架って奴をいじめてた2人だよな。それなら…」
「いじめの話は当然ながらご存知かと思いますが、ちょっと聞きたい事があるんです」と漣は水が流れるかのように言った。
「そういえば、瀬戸内碇だっけ?天光にラブレター渡したとかなんとかって噂になってたって。」
「その話マジ?」別の男子生徒が口を入れた。
噂だから人それぞれ証言が異なるかもしれない。だけど、これは有力情報だ。好きな人がいじめられているのを見過ごせなかった可能性も充分ある。
「その話は本当ですか?」漣も続いて同じことを聞いた。
「合ってるかは分かんねーけど。天光って成績優秀だったし、顔も普通に可愛いし。友達とかで好きだったって奴もいたし、モテてたみたいだよ。」
「ありがとうございます。良い情報源になりました。それでは僕はこれで。」そう言って、歩道橋の別方面へと歩き出した。
漣はすぐに名簿リストを確認した。その名簿には瀬戸内という苗字の人物が二人いた。瀬戸内湘と瀬戸内碇だ。双子の可能性が高い。
しばらくすると、海憂・砂利と同じクラスだったという女子生徒2人組に遭遇した。
「突然、すみません。瀬戸内湘君と碇君について知っていたら何か情報頂きたいのですが…。それと舞浜海憂さんと夕凪砂利さんを恨んでいたり、嫌っていた人って他にいましたか?」と漣は聞いた。
「あー!瀬戸内君?二人とも結架の事、好きだったみたいだよ。告るとか言ってたけど、結局告白はせずに終わったんじゃなかったかな。」
「告白しないと負けみたいなゲームあったよね」
「そんな賭け事のようなことがあったんですね。」と漣は冷静に返した。
「その瀬戸内湘君と瀬戸内碇君は双子ですか?」
「そうだよー」と2人は口ずさむ。
「そういえばアンタ誰?」女子生徒の一人が急に聞いてきた。
「僕は探偵助手です。ある方から依頼されてまして。それで聞き込みとして今、話をしています。でも、込み入った話に付き合わせてしまってすみません。有難うございます。」と漣は軽く自分について話した。
「それにしても双子で同じ人を好きになるのは偶然というか取り合いになりそう。そんな気はしませんか?」
「そんなことなかったよ」と女子生徒は言った。
「あーでも、あれがあった。夕凪砂利って子は瀬戸内君の事が一時期好きだったって話を聞いたことがあるから訳ありかも。」
「だから、いじめに走って…。そういうことでしたか。」と漣が言うと、
「それはないない。いじめを始め出したのも海憂の方からだったし、理由は成績優秀で大人しくて狙いやすかったのと男に媚び売ってたとか何とかだったし。本人にその気は無かったんだろうけど」と否定された。
「まあ、兎に角、誰でもよかったんじゃない?」
「分かりました。情報ありがとうございました。それでは僕はこれで。」と帰ろうとする漣に、「ちょっと待って。海憂って、死んじゃったよね。何ていうかご愁傷様です。お悔やみ申し上げます」と女子生徒は丁寧に追悼の辞を述べた。
続けてもう一人の女子生徒も「いじめていたのはいけない事だと思うけど、親友が亡くなったみたいでショックだった。体育祭の時、励ましてくれたし。ご冥福お祈りします」と追悼の辞を述べた。
「本人の妹は生き残ってるし、伝えておくよ。良い言葉をありがとう。」そう言って今度こそはその場を立ち去った。
スタスタと人と人の間を器用にすり抜けていく。(今日中に瀬戸内君二人を見つけないと‥)と焦る反面、漣は時間を気にしていた。別世界へ行ける能力を持ってはいるが、平行世界であるため、年齢が止まった状態でキープされてしまう。漣が今までで本当の世界に来た時間を総計算すると数ヶ月は年齢が遅れていることになる。
実際、明依と溯夜が待っているので長くはここにいられない。
そう思っていた矢先、瀬戸内湘と碇に似た顔の人物が横を通り過ぎようとしていた。
「あ、ちょっと!」急いで声をかける。
「なんすか?」湘らしき人物が返事した。
「瀬戸内湘君と瀬戸内碇君で間違えないですか?合っていたらお伺いしておきたいのですが、長話になってもよろしいですよね。」
「そうだけど。ってキモ。何で俺らの名前知ってるの?それより先にお前の名前は?」と湘は言う。
「矢岬漣です。探偵助手をしています。現在、貴方方に麻薬所持及び密売の疑いがかけられています。警察にも情報を送致しました。」
「はあぁっ!?って嘘だろ。ちょっと待ってくれよ。」と湘は驚いた様子を見せた。
「落ち着け、湘。」と碇は言った。
そんな事をお構い無しに漣は「麻薬を持っていたり、人にあげたりしていた事に見に覚えはありますか?」と聞いた。
「そんなのない。記憶違いじゃねーの。証拠は?誰が俺達が麻薬やってるって言ってたんだよ!」急に怒り出した。
「麻薬やってたんですね」凜とした表情でそう論破した。
二人とも少し動揺した様子を見せたがすぐに、「証拠は?」としつこく質問を繰り返されるだけだった。
「これからどこかへ行かれるご予定とかありますか?」と聞くと、
「五月蝿いお前に関わりたくない。帰る。」
「ついてくんなよ。このストーカーッ」
という如何にも嫌そうな素振りを見せた。
「帰るんですね。家にもしかすると麻薬があるかもしれないので僕もついていきます」とあっさりと漣はこう述べた。
だが、湘と碇は全速力でダッシュし、逃げようとした為、慌てて漣も二人を追いかけた。
古びたアパートの階段を駆け上がる二人が目に見えたので、漣は階段を上って3階の一室へと辿り着き、鍵を先に掛けられた為、ピッキングしてドアを開けた。
「あー!って入ってくんな。住居侵入罪で矢岬さんの方が捕まりますよ」と碇は諭すように言った。
「俺らヤバくね?この状況どうにかしないと」湘はまだ焦りが隠せないようだった。
漣は靴を脱ぎ、廊下を歩いていった。
「もし、仮に麻薬捜査を妨害した場合、職務執行妨害罪が成立します。法の強制力があるので、僕が捕まることはありません。探偵も職業の一種ですから。」
漣にそう言われた湘と碇は「じゃあ、ぐちゃぐちゃに荒らさない事を条件に自由に探して下さい。もし見つからなければ虚偽の疑いをかけられたことになるので、その場合は俺と湘に謝って下さいね。」と捜査をしっかり了承した。
そして、探し始めて15分。結局、麻薬に似た物は見つからなかった。物置小屋やおしいれ、入りやすそうな怪しい引きだし等も隈無く探したが、これといった薬物は見当たらない。
(もしかしたら別の場所や瀬戸内家の実家、あるいは誰かに売り払った後かもしれない。諦めて手を引くか)と思っていたその時、瀬戸内湘の持つ携帯に一本の電話が掛かってきた。
「その音声をオンにしてくれ」と漣が頼むと、湘はもう勘弁してくれと言わんばかりにスピーカーにして音声をオンにした。
そして、電話口から「大麻、1970万で売れた。サンキューな。」という50代くらいの男性の声が聴こえた。
「やっぱり、瀬戸内君二人も関わってたんだ。部屋にはいくら探しても無かったけど、麻薬を渡していたりしていたのは今の通話で分かった。それも立派な犯罪だ。」と漣は言った。
「ああ。また何かあったら頼んでほしい」と湘はその電話主に返し、電話を切ろうとしたが、漣はすかさず「ちょっと待て。大麻売るのはいけない行為だ!」と激しく叱責するが全く耳には届かない。当然、詫びる気もない。
「おい。誰かいるのか?聞いたことない声だな。」と電話主は言う。
「じゃあ、切るから。またな」と湘に切られ、通話は終わった。
「はぁ…」と漣は溜め息をつく。
あともうちょっとだったのに。なんだかやるせない。
漣の事をいない人間だと思うかのように考えず、「だから言っただろ。この部屋には無いって。あれだけ探して無かったんだから謝れよ。」
「そうだよ。疑われた俺らの気持ちにもなってみろよ。気分、害された。頭が狂う。」と二人はやっていないアピールをした。
「でも、さっきの電話はなんだったんだ。大麻ってはっきり聞こえたぞ。」
「それは…」さすがの二人もその言葉には言い返せず、言葉を詰まらした。
「でも、疑って、家まで押し入るように入ったのは良くなかった。反省してます。ごめんなさい」と漣は謝罪し、
「ですが、どこかで麻薬を持っている、若しくは製造している疑いは晴れませんのでそれだけは言っておきます。」と冷静に事実を告げた。
そうして、麻薬が見つからなかった為に玄関へと向かい、帰る準備をした。そして、漣が靴を履こうとしたその時、誰かの(瀬戸内兄弟の父親の物だろうか)黒い靴の中に白い粉の入った袋を見つけた。
「あっ!」思わず声をあげた。
――――だから部屋とか探していいって言われたのか――――
「見つけてしまいました」そう言って、二人の目の前に袋を掲げる。
「これは指定薬物の何かではないのか?」と問う。
テンパる湘と碇。折角、バレないような隠し場所に隠しておいたのに‥という諦観の表情を見せた。
黙る二人に漣は追い討ちをかけるかのように「これは大麻かコカイン、ヘロインのどれかですよね?」と問い質した。
そして遂に湘が「間違えねーけど、今から逮捕でもする気か?」と自白した。
「警察に今から連絡入れますね。証拠も見つかっていますし、逮捕されるかはこれから次第ですね。覚悟していて下さい。」そう言い渡した。
漣が警察に連絡を入れて数分後、警察が来た。証拠を見せ、湘と碇は言われるがまま、パトカーへと乗せられ、無事警察に連行された。
書類送検も直にされるだろう。夕凪砂利の事も警察に通報済なため、逮捕されるのは時間の問題だ。
そして、ひと仕事終えた漣は本当の世界の此城砦の頂上に乗り、PMM効果により作られた明依達のいる世界へと戻った。
*************
戻ると明依と溯夜らしき人がいたので、急いで漣は駆け寄った。
「それで彼は今、どこに?警察にいるのか?夕凪砂利は捕まった?」溯夜からの質問攻めに疲れ果てた漣はちょっと待ってというポーズをした。
少し間を取ってから、
「瀬戸内君は刑務所で事情聴取をされています。夕凪砂利さんは罪が多いので、一つ一つ片付けないといけないらしいです。書類送検はもうなされていますが。だけれども夕凪砂利さんはニートですが、瀬戸内の双子君は大学在学中なので色々と大変でしょうね。」と漣は言った。
「にしても、そんな事があったんだな」疲れた顔をする漣に溯夜は労いの言葉をかけた。
「ああ。」
「瀬戸内って人の家から麻薬が見つかったんだろ。聞き込みでもいじめられてた天光さんの事が好きだったって噂されてるんだから、間違いなく瀬戸内双子は黒だろう。夕凪砂利も早く捕まってくれればいいのにな。」と義理の父親が警察官だってだけの内部の苦労も知らない溯夜は軽々しく言う。
「そんな簡単に事が進んでれば、こっちはこんなに疲れたり、苦労したりしないよ」と漣は大人は大変なんだという雰囲気を出した。
「本当にお仕事お疲れ様です。姉の事でこんなに親身になってくれたのは矢岬さんが初めてです!」と満面の笑みで明依は感謝した。
「ちょっと待って。矢岬が初めてって、だったら調べるの手伝った俺は?」と溯夜はまるで自分は何もしていないと言われ、落胆した犬のような目で聞いた。
その意外な言葉に明依は、「溯夜さんは別です。姉の件では凄く助かってます。ですけど、警察と連携してなさそうですし、今回みたいに手柄を何も立てたりしてないじゃないですか。」と否定と肯定を同時にし、事実を口にした。
それに対し、溯夜は「警察とは連携してるよ!父親は警察官だし、情報も渡してるし。手柄になるのは能力の問題とか逮捕に至るまでは大人の特権とか色々あるんだよ。俺にも感謝しろ」と抗議を申した。
「舞浜ちゃん、溯夜は僕と比較されるのを嫌うから、あんまりそういうこと言わない方がいいよ」と優しくアドバイスした。
「それに溯夜は探偵で、僕は探偵助手だし。今回の件は溯夜が透視能力で麻薬を見つけてくれたから砂利さんから麻薬が検出され、瀬戸内君まで辿り着けたんだから。」と続けて言った。
「そうですね。溯夜さんもありがとうございます!!でも、どうして張り合っているんですか。ライバル意識しなくていいじゃん」
「なんか負けた気がして悔しい、から?」
「なんですか、それ。とにかく負けず嫌いなんですね。溯夜さんって。そういうとこ可愛いです」
ツッコまれた溯夜は半分照れたような顔を見せ、再びいつもの冷めた顔に戻った。
ポカリスエットを飲みながらこうして話しているうちに時間が経過し、気づけば夕方になっていた。
漣は先に帰っていった。海に残る二人。もう夕日が沈みそうだ。捜査に時間を掛けたからだ。夕凪砂利は麻薬をやっていて、瀬戸内の双子が結架に好意を抱いていたという情報が漣のお陰で入ってきた。だから、麻薬を売り捌いていた説が濃厚だろう。
そして、世界を一つに戻すのか。(それは俺が決めなければいけない)と溯夜は思った。
舞浜さんをこれ以上不運にさせたくない。このままの明るい彼女でいてほしい。それが溯夜の願いだった。
「舞浜さん、もしこの世界が争いだらけになったら性格が純粋で明るく振る舞ってくれる舞浜さんじゃなくなりますか?」と不安げな声で言った。
「そんなことないですよ。何言ってるんですか、どうなろうと私はこのままです!」と笑顔で応えた(返した、返された)。
「そ、それなら世界を元通りにしよう。今じゃないけれど」
了承したように彼女はくるりと回った。本当に幼いなぁと溯夜は明依の事を常々思うが、明依には自分がどう思われているのかが分からなかった。勿論、漣がさっき口にした“好き”だってことも。
(それにしても告白の件、忘れてくれて良かったな)溯夜は安心した様子で胸を撫で下ろした。
《「くーちゃん」
「何?ねえね」
その小学生らしい容姿をした少女は貝殻を手に持ち、見せてくる。
「見て、綺麗でしょ」
「ほんとだ。僕のも巻き貝拾ったよ」
「くーちゃん、スゴい。私はカニ捕まえた」
こちらも最初に貝を披露した少女よりは少し幼い少女だ。
「海、綺麗だね」
「ね。」
そう口を揃えるともう夕日が沈む頃合いだった。
「もう、こんな時間だし、帰りましょう」
3人の母にそう言われ、この海を後にした。
もう二度と来れないことをみんなその時は知らなかった。》
いつぶりだろう。昔の頃のことが頭に浮かんでくるのは。溯夜は息を吐くのだった。
水平線から太陽が沈み始める。波の音が静かに耳に入ってくる。潮の匂いも感じる。階段に座り、溯夜は明依の掌の上に掌を重ね合わせた。
「綺麗ですね」
「ですね。ずっとこのままこうしていたい」
二人は夕日が沈むのを待った。
まるで輝いた星のようだった。
七月の憂鬱、空虚 Chapter8
ゆっくりと起きる。制服姿の彼は、顔を洗って、学校へ行く準備をする。いつもそうだ。年中制服の彼はTシャツや部活着等は持っているものの、可能な限り、制服で居続ける。
「兄様ー!」叫びながら、走って飛びついてくる女の子は溯夜の義理の妹のつくもだ。
「いきなり、大声出して飛びついてくるなよ」
「飛びつくなとは何たる無礼な。朝、何度も起こしたのだぞ。」
(さっきからガサガサと人の声や物音がしたのはお前だったのか)と呆れまじれに思う。
「つくも。お兄ちゃんはもっと寝たいんだ。分かるか、捜査で色々、大変なんだ。あと、早く学校行かないと遅刻する」とつくもに訴える。
「もう、そうやって拙者を忙しくさせる。でも、捜査に協力したいって申しても拒んだじゃないか。」とつくもは言った。
「悪いが、今はその話をしている余裕はない。」
「朝餉は作っておいたぞ。はよ、戦に行ってまいれ。」
「朝飯、作ってくれてありがとう。でも何だよ、“戦”って。」と溯夜は笑いながら言う。
溯夜を見届けるかのようにおたまを持ちながら台所へと過ぎ去っていくのだった。
*************
学校に着いた。溯夜は教室中を見回した。あの時、手を重ね合わせた時、確かに温もりを感じた。(もっと触れていたかった。手を繋ぎたかった)この気持ちは何だろうと溯夜は思う。テンとは違って、大事にしたくなるこの気持ち。でも、教室中どこを見渡しても彼女はいない。そして、溯夜に話しかけてくれる人もいない。何だろう、この孤独感。以前は感じなかったのに。なぜだか泣きたくなった。
放課後、図書室の扉を開けても誰もいなかった。(やっぱり人気ないんだな)と溯夜は思った。最近はネットで小説や漫画が読めてしまうため、圧倒的にここに来る人は少ない。居ても、溯夜と明依くらいだ。
溯夜はもうバスケ辞めて、図書委員、図書部(?)にでも入ろうかと思っていた。だって、そのほうが舞浜さんと多く接する事ができるから。毎日、ここで会っているのに‥‥。
いつものように意味無い埃取りをしていると、明依がいつもの溯夜より少し遅い時間にやってきた。
「この間は捜査を一緒にしてくれたこともそうですし、海に行こうって俺が言ったら快くOKしてくれたこと、海に一緒に行ってくれたこと含め、ありがとうございました。楽しかったです、良い想い出になりました。」
「こちらこそ、ありがとう!楽しかったよ、また行こうね」と明依は笑顔で言った。
「またって…もし今度、一緒にどこか行ったら、どうなっちゃうのか分かんない…」と溯夜はぎこちない様子で呟いた。
「なんでですか?」と明依はあからさまに意味不明だという態度を示した。
「何でもないです。でも、俺、こうやって舞浜さんと話せて、毎日のように会えて嬉しいです」
「私もです。溯夜さんといると笑っちゃいます。。」
「え、そんな!?笑える?そうかな」
静寂な図書室は二人の会話でそこがまるで特別な場所のように感じられた。二人が男女だから――同性でも学年が違っても誰かと過ごす時間は青春なのだと思い知らされる。
「でも、姉が麻薬やってたなんて、初めて知りました」明依は、冷静に新鮮かのようにそう口にした。
「まあ、能力使わない限り、よほどの事がないと分からないからな」
「でも、こうして君の姉さんは麻薬による間接的殺人ってことがハッキリ証明されたよ。協力してくれてありがとな」と溯夜は礼を言った。
「いえいえ、私は何もしていません。むしろ、矢岬さんにお礼言ってあげて下さい」
「もう、言ったよ」当然のように言う。
彼女のそういうでしゃばらない所が好きだ。何か自分が成し遂げたとしても謙遜している姿。溯夜には彼女が輝いて見えた。だけれど、それを明依に伝える勇気はない。
そうして一日は過ぎてゆく。
「そういえば、世界を元通りにしてもいいって言ってたよね‥」
「言ったけど、それって私が決めちゃっていいものなんですか?」明依は不安な目をして言った。
「いや、そういうわけではないけど。でも、舞浜さんが海憂さんに一番関係してるから。舞浜さんがいいって言ったら、その流れでいこうと思ってる」溯夜は物怖じしない様子だった。
「じゃあ、人集めるから」
溯夜は埃を落としっぱなしで、帰る支度をした。
明依は今日は借りる本が無かったのか、溯夜に続く感じで準備をした。
「人って能力者の事ですか?」ふいに聞いてみた。
「そう。俺と矢岬を入れて7人。全員男だから」と溯夜は返す。
「はぁ。」明依は呆気に取られていた。
「世界を元通りにする事は平行世界の2つの世界を一つにするって意味だから。舞浜さんは危ないからついてこないで欲しい」
「え、嫌です。そんな…何で?」明依は明らかに私だけなんで?っていう仕草をした。
「嫌でも舞浜さんを危険な目に遭わせたくない。俺は舞浜さんを守りたい」溯夜のその思いは揺るぎない精神だった。
「でも私、溯夜さんと一緒に死ねるならいいです」
思いがけない言葉に溯夜は驚いた。
「は?って嘘でしょ。」
「嘘じゃないです。私、絶対ついていきます」
いつまでもこの話は永遠に続くと踏んだのか、溯夜はもうどうとでもなれと投げ捨てたのだった。
「もうそろそろ帰ろうか」
「そうだね」
そう言って図書室を後にする。二人はまた一緒に帰るつもりだ。
「そう言えば、溯夜さんって謎ですよね?」
「何が?」
「今度、家行っていいですか?私の家にも来てもらったので…」と明依は控えめに聞いた。
「え、何でそうなる?舞浜さんの家に行ったのは捜査の為で俺の家に行くのは完全にプライベートになるのでご勘弁下さい」
溯夜はだめ押しした。
「ああ、そう」明依は傷ついてはなさそうだった。だけど、残念そうな顔をしている。
「溯夜さんって歩いてその後バス帰りでしたよね?」
「そうだけど。それがどうかした?」と溯夜は聞いた。
「それって何分くらいなんですか?歩くのもいれて」と明依は言った。
「あー35分くらいかな」
「そうなんだ」
二人の足音が乱れながらもコツコツという音が鳴っている。溯夜がちょっと歩くのが早めで、それに早足で追いつこうと明依は歩幅を合わせる。
「溯夜さんの家族の事とか知りたいです」
「……」溯夜は黙ってしまった。言ってはいけない言葉だったらしい。
しばらくは無言が続いた。
「どうしたの?何か悪いこと言った?私。」明依は心配そうにそう告げた。
「ううん。気にしないで。俺の家族のことも直に知ることとなるよ」溯夜は優しい目をしていた。
七月の憂鬱、空虚 Chapter9
そうして、日がどんどん過ぎていき、海に能力者達が集まってきた。
ついてくるなと言ったはずなのに、明依もそこにいた。日にちを教えてないのに、ずっと毎日待ち続けていたのだろうか。
「舞浜さん、ついてこないでって言っただろーが。すみません、俺のミスです」
「いいや。居てくれていい」とメンバーの一人が言う。
「妹さんは遠くから見守ってくれれば大丈夫だから」別のメンバーもそう言った。
「え、本当にいいんですか?」溯夜が目を丸くしながら言った。
「「うん」」皆、口を揃えて言う。
「覚悟は出来てる?」溯夜は明依に向けて言った。
「はい」
「これからはどんな苦しみだって訪れる。でも、それに向きあえきれるなら、もう迷いはない」
「私もそのつもりです」
そして、一行は此城砦へと向かった。
漣はいつもなら別世界へと行ってしまうのに誰かが念をかけているのか、消えていかない。
能力者7人は紫色の丸い円のような魔法を空中にかけ、願うように指を交差し始めた。
次に英語にしか聞こえない呪文を唱え、僅かな時間も経たないうちに海が砂浜側から地平線に向けて、消えていくのが明依の目には映った。
砂が削られて沖へと向かうにつれ、深くなっていく光景が分かるが、その中に死んだはずの海憂が眠るようにうずくまっていた。
「お姉ちゃん!」明依は思わず叫んだ。
記憶も能力者の能力のお陰で戻ったのだろうか。
そして、溯夜が海憂の元へ行き、「もう一人で背負わなくていいから」と優しい言葉をかけながら肩に触れた。
すると海憂の姿が消え、消えたはずの海がこの世界へと帰ってきた。
見渡すと観光客もいる。
そう、この世界は本当の世界に生まれ変わったのだ。2つの世界が一つになり、元通りになった。これからは争いも起こるし、不潔な存在もいるし、又、今まで目を伏せてきた困難にも直面する。覚悟は出来てる?と溯夜が明依に聞いたのもそのせいだ。
平和でもあり、残酷でもある。
この世界が良いものかは分からない。けれど、もし今いる環境が愛せるのであれば、それは幸せといっていいのではないか。
筆者はそう思えるようになりたい。
気づけば明依が漣と溯夜の近くにいた。
「溯夜さん、」そう言って泣きじゃくる明依を溯夜は抱きしめた。
「良かったです!世界が前みたいに戻って。お姉ちゃんの事も全部、思い出せました!」
「俺もそう思ってる」
抱きしめていると温もりを感じる。あったかい。お互いがそう感じているだろう。
*************
記憶が戻った明依はすぐさま家へと帰った。母に遺書を切り取って隠してないか確認するためだ。
溯夜もそれに同伴した。
明依の家に行き、インターホンを押しても応答はなかった。なので、明依が鍵を使ってドアを開けた。そこには溯夜の読み通り、明依の母が廊下に泣き崩れていた。
そして、手には遺書がぐしゃぐしゃになっていて握られていた。
「お母さん、お姉ちゃんの事はもう忘れて」
「忘れられるわけないじゃない」
「お母様」そう言って溯夜は背中をさする。
その遺書を手から外し、明依は読み上げた。
“私はつらいです。もう生きるのがしんどいです。私はある子をいじめていてそれを楽しんでいる卑劣な人間です。最初は単なるターゲットにしやすかったから私より成績が良かったのの嫉妬心からでした。親友の砂利もちょっと引くくらい酷い事をしていて、途中から私の行為に加担してきました。でも考えてみれば私の行動は幼稚だったのかもしれません。結架に対する行為が結果的に自分を苦しめ、脅迫文まで送られてくるようになって、砂利からも親友やめようって言われました。いじめをしていくうちに楽しくなくなってきて、飽きてきて、自分がちっぽけな人間に思えてきて、日々が空虚に感じられ、いつしか死にたいと思うようになってきました。『罪有る者に裁きを』全くその通りだと思います。『殺す』とも机の中に入っていた手紙には書かれてたけど殺しに来ないので自分から死にます。お母さん、産んでくれてありがとう。お父さん、育ててくれてありがとう。いっぱい遊んだよね。私は幸せ者だった。最後に妹へ、喧嘩ばっかりしてごめんね。こんな穢れた姉を持って可哀想だったと思う。でも、これからは幸せに生きて。私も天国から見守ってます。1994年7月17日,舞浜海憂.”
これは海憂が自殺する前日に書かれた遺書だった。本当は海憂と明依の母が切り取っていたのではなかった。PMMの効果で全て海憂に関する情報や物が無くなっていたのだ。
「ばか…私のお姉ちゃんは穢れてなんかない。いじめは悪い事だけど、脅迫文が書かれた手紙を送られて苦しめられてたなんて。家ではあんなに元気そうだったのに…。ぐすっ‥仲悪くても好きだったよ。誕生日プレゼントも小さい頃くれたっけ?覚えてる?私、その時嬉しかった。誰かに相談して死なないで欲しかった。自殺する人ほど“死にたい”って言わないって本当だったんだね」泣きながら、明依は手紙を読み上げ、自分の想いを表した。
溯夜も連られて涙ぐんでいる。
「そうだよ。明依の言う…通りだよ。同級生をいじめてた事は知らなかったけど、非行をしてたのは担任の先生から聞いてた。いじめをするような子に育てた覚えはないっていうけど、海憂も脅迫文送ってきた奴にいじめられてたんだよ。お母さんの育て方も悪かった。海憂がしたいじめはお母さんだけが許してあげる。結架ちゃんには謝罪して、償うしかないけれど。もっとお母さんに一度だけでも相談して欲しかった。昔から海憂は弱さを見せたり、本音を言ったりしない子だったもんね。地獄じゃなくて天国にいるといいなぁ…」そう言い切ると涙をハンカチで拭いた。
そして、笑ってみせた。
何かが、心の隅にある闇が一瞬でふっと消えたみたいだった。
二人が泣いている最中、口を開いたのは溯夜だった。
「俺と舞浜さんは口には出さなかったとはいえ、舞浜さんのお姉様の遺書をお母様が隠していると疑っていました。本当に申し訳ありません。失礼極まりました。そして、舞浜さんのお姉様は当時、いじめの被害者に好意を抱いていた方から上手い話をされ、騙されて麻薬を摂っていました。これは麻薬による麻痺を伴う、間接的殺人でもあります。その方は現在、刑務所にいます。」溯夜は明依の母の気持ちを思いながら淡々と述べた。
溯夜はありのままの真実をそのまま告げた。
「えっ!海憂は殺されたってことっ!!」驚いた表情で明依の母はこちらを向く。
やはり、知らないほうがいい事実もある。だけど、伝えないとこの先に進めない。
「そうです。」まるで、殺人犯を言い当てるかのように溯夜は言った。
明依は勿論、この事を知っている。
ただ悲哀と憎悪と怒気が漂う空気の中、明依と溯夜は舞浜家を去っていったのだった。
*************
帰り道。終始無言のまま、明依と溯夜は歩いていた。アスファルトを歩く足音だけが際立って響く。
これで、数々の事柄が解決し終わった。明依と明依の母は記憶を取り戻したし、遺書は誰も隠してない事が判明し、PMMの効果だと分かった。二つに分かれていた世界は一つに戻り、完全なる平和ではなくなった。そして、麻薬を配っていた瀬戸内双子兄弟は捕まり、非行を繰り返していた夕凪砂利も逮捕された。瀬戸内の二人はただいま休学中だ。
明依は泣いている。涙がポタポタと地面に零れ落ちる。そんな明依を溯夜は肩に腕を回し、「もう、大丈夫だから」と慰めた。
「溯夜さん。私、悪くないよね?」不安そうに目で訴える明依を溯夜は
「なんで舞浜さんのせいになるの?」と聞いた。
「だって…」
「もう、分かったから。俺が舞浜さんは悪くないって認めてあげるから、もう泣かないで」
溯夜はそう励ました。少し、今回の事もあって優しくなれたのかもしれない。本人は気づいていないが。
*************
図書室にいつも来るはずの明依が、何日も姿を見せなかった。本があんなに好きなのに…。
溯夜はいつも通り、図書室の埃取りをする。こんなにも会えないなんて、すごく寂しかった。
(あれ?)溯夜の目からは涙が頬を流れていた。
(なんで、涙が?俺、舞浜さんのこと、、好き、なのか‥?)そう思っていた時、そっと図書室の扉が開く音がした。
「舞浜さん!」
声をかけると彼女は振り向き、「溯夜さん、お久しぶりですね。って、何で泣いてるんですか?」と痛い所を付かれてしまった。
「泣いてないよ?別に。」溯夜は慌てて涙を制服の袖で拭う。
でも、明依には見透かされていたようだ。
「ひょっとして、私がいなくて寂しかったんですか?もう、本当に孤独に強いのか弱いのかハッキリさせて下さい!」
「そんなこと、あるわけねーだろ。気のせいだ」
溯夜は平静を装う。
まあ、そんなことはいいとして、明依は「お姉ちゃんの事、思い出せました。話していいですか?」と聞いた。
「いいよ」
「じゃあ、話すね。お姉ちゃんは昔はいつも笑ってて、家族を明るくさせてくれる、そんな人だったの。だけど、途中から変わった。小学校高学年くらいからだったかな。大好きだったピアノ教室も辞めて、親に反抗しだして、友達に意地悪するようになった。勉強に疲れちゃったのかな。怒ったり、泣いたり、無視されたり、私の宝物を壊したり、警察に補導されたり。思い出したくもないけど、でも昔のお姉ちゃんは好きだった。優しかったのにあんなに豹変するとは思いもしなかったけど。」
明依からの話は以上のようだ。
溯夜は真面目に聞いていて、そっかと頷いていた。
「今は、舞浜さんが俺を明るくさせてくれてるよ」その時、初めて自然に溯夜は笑った。
「えっ?なんですか?急に。」明依は当然ながら驚く。それから照れ笑いをしてみせた。
「その笑顔、ずるいです!」
明依は本を持ちながら溯夜の頭をべしっと叩いた。
そうして、いつもの日常が戻ってきた。笑い声、誰かと誰かの喧嘩、喋り声、騒がしさ、おいしい空気の澄み渡る廊下。その全てが学校という場所の中に確かにある。青春とはそういう事だ。
七月の憂鬱、空虚 Epilogue
地面に打ち付ける雨。外はザアザアと五月蝿い音が鳴り響いている。
誰もいない連絡通路を歩いていると、どこからか聞き覚えのある微かな声が耳元に途切れ途切れに聞こえてくる。
「っやさ‥の‥が‥き‥‥」
(ん?)溯夜は訳が分からなかったが、自分に言われていることに気づいたのか後ろを振り返った。
振り返ると、そこには黒色のスカーフが目立つ、ワンピーススカートの制服を着た明依がいた。
もっと近づいてみると、今度は鮮明に聞こえた。
「その…ずっと前から溯夜さんの事が好きでした。」顔を真っ赤にしながら俯き加減で溯夜に言った。
「今後はっ!捜査じゃなくて、スキンシップを含めた私との恋に付き合って下さい!」
「ごめんなさい…その、舞浜さんの事は俺も好きです。ただ‥体に触られたりするのが怖くて、嫌なんです。」涙声で溯夜は言った。
「私でも、駄目ですか?無理やりとかしないので信じて下さい」明依は溯夜の目を力強く見つめ、確かめた。
「まだ、信じられません。だから、少し心の整理をするので待っていてもらえると嬉しいです」
「考え中ということですね、分かりました。」
そう言った後、明依は過ぎ去っていった。
(告白か…)
溯夜は自分から告白したことは一度だけあったものの、告白されたのはこれが初めてだった。
たった一回の告白は水音にしたものだった。けれども、水音は同姓愛者であり、単純に顔が可愛いからという理由だけの溯夜からの告白はあっさり断られてしまった。
明依からの告白を了承してしまうと溯夜の中で捜査の依頼人ではなく、彼女になってしまう。
しかも、溯夜にはまだ愛が分からない。どうしたら愛せるのか、その方法を知らなかった。
*************
3年C組の授業中、溯夜は窓を見続けていた。舞浜さんからの告白はマジでビビった。
どうしようかと考えていると、教師から「九十九里君、この問題を答えて下さい!」と言われ、我に返った。
「あ、ごめんなさい。1874年、佐賀の乱です」と慌てて答えた。
「流石、九十九里君。正解です。ただし、授業には集中して下さいね」と指摘された。
「はい」
*************
明依は友達の前では平然とするよう心がけていた。
早速、咲花に「溯夜くんと遊びに行ってどうだった?」と聞かれた。
「別に。溯夜さんとじゃないし。普通かな」と返事した。
「なにそれ~なんか変化あったんじゃないの?」と疑わしい目をしながら言われる。
水音には「ちょっと、明依、雰囲気変わったよね」と言われた。
「そういえば、そうだね!」と咲花も納得していた。
「そんな、変わったかな」と明依は明後日の方向を見ながら言った。
「そうだよ~溯夜くんと何かあったんだよー」と咲花はまた鋭い勘を働かせる。
「気のせいだよ」と明依は何もないふりをした。
*************
放課後、いつものように図書室に明依はウキウキしながら向かった。
返事が来るかドキドキしながら楽しみに待っていた。
「溯夜さん、この前の返事、聞かせて下さい」恐る恐る言ってみる。
「俺でよければ、いいですよ」
その言葉を待っていたかのように明依は飛びはねた。
「ほんとですか!?やったー」明依は嬉しそうにしている。
そうして、二人は恋人同士になった。もう捜査の肩書きなんていらない。いつでも会える仲だ。
いつもどおりの日々が少しずつ変わっていった。彩られていく日々。
恋人同士になってから初めて、「明依、こっちにこい」と言われ、図書室で二人きりになった静寂の中、頭をポンポンとされ、強く抱き締められた。温かいぬくもり、それは夢心地で羽毛に包まれているかのようだった。
七月の憂鬱、空虚。[完結]