危ないイエロー

r.Takigawa

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「一種のタイム・トラヴェルのような、枕に向かって囁くときのような、習字帳の余白のいたずら書きのような」(The swimming pool library p6)

「ごめんなさい」

そう言って僕の腕の外側に発泡スチロールほどおそろしく質量のなさそうな身体をぶつけた彼女の声は想像していたよりもわずかワントーンほど、低かった。が、不満というわけもない。むしろ意外性は僕の鼓膜を柔く人知れずくすぐり、数秒前の彼女の残像を幾つもいくつも魅惑的なものにさせた。

行くぞと男がひとり、自分の彼女に触った――言葉はいつも都合が悪くそして良い――馬の骨の僕に対し粘ついた視線をくれる、もちろん嫌悪の。何処かで見た顔だった。緑と赤のラインの入ったスニーカー、おそらくGUCCI。が、上着のMA-1はどうみても国民的衣料品店のチャックだけはおそろしく丈夫なやつだった。人の匂いでむせかえるシネプレックス。PEPSIの服を着た烏龍茶とアールグレイティー。気休めあるいは主役より主役なフライド・ポテト。入場開始を知らせるアナウンスが聴こえ、左側のパンツに突っ込んでいたチケットを取り出し軽くしわを伸ばしてやる。若かりし頃の祖父なら今トイレに行っている僕の彼女を待っただろう。が、僕はすっと座高よりはるかに長い脚を進め、GUCCIじゃなくVANSの靴で、シアター1へと生まれつきすかした顔で入った。


映画はよかった。甘ったるすぎて逆に軽薄なラブロマンス。予告あたりですみません、と他人の前を横切り隣のJ-13に髪の長い女が座った。僕の彼女だった。

「ごめんね」 「何が?」

「怒って先に行っちゃったんでしょ」

僕は返事をせずスクリーンを観ているまんまだった。その時脳裏の監視室のよな僕のもうひとつのテレビにも、ちら、となにかが映った。カップを持ったままわずかに開いた脇の下の、あのカーディガンの中の、もっと下。はみ出した下着の色は淡く、それでいて官能的な――たぶん僕だけにとってだ――黄色をしていた。少しの間をあけ僕は「怒ってないよ」とようやく答えた。


僕は悲劇的なほどに劣悪な家庭状況のなか育った。客観的に見れば、という意味で。熱しすぎたフライパンに滴らせる水のよう、僕の親父は数年前どこかへ消えた、そして母も。いまだに思うのは何も買い物の途中で意を決しなくともいいのに、という事だ。スーパーからその足で祖父と祖母の家に行き、その日の夕方には「明日からじいちゃんちから学校に通うんだ」という祖父のつやっとした笑顔と言葉を、僕はポケットに手を突っ込んだまま受け入れた。それが中学一年生。僕のもうひとつ、悲劇的なほどのこの顔もあった。アルバムのどの時期にしてみても完成されているほどに整った顔。おそらくこの母方の祖父からの。プレイボーイだったらしい事が窺える昔のモノクロ写真は、まったく僕の兄だと言って通用するほど今の僕に瓜二つだった。

ばあちゃんも年のわりに清楚で、けど悪く言えば高慢ちきなふうの女性だった。なにかと火遊びを楽しむ祖父のハートを射止めた唯一の女という立場に酔ってるふうな感じもしたが、愛はあるようにも思えた。それに僕を祖父同様、すこぶる可愛がってくれたという事もある。時折向けられるにぶい性欲の視線にはかなり困ったが。なわけで、女性に困るシーンは人生で一度もなかった。ちなみに父と母の顔は、肝心なはずなのに、もう思い出せなかった。

「蛍」と僕を呼ぶ涼しげな声。同時に彼女の妖しいつるのよな両腕。ぽってりした唇が僕の形の良すぎる下唇を噛みそれから先をせがむ。人よりわずかに長い舌をアルコール臭のきつい口に突っ込み、ゆっくりと泳がせる。のけぞる彼女の上から顔を下ろす僕の額に、撫でつけていた前髪がぱら、と落ちた。


数日経ち、深夜にサッカーの試合を観ていたときにそれはふっと降りてきた。あいつじゃあなかったか?名前だけがまるで誠実だとひとり叫び歩いているような。クリスティアーノ・ロナウドが艶めく黒髪と張り出した脛でボールを勢いよく飛ばす。そうこうしボールがゴールに突っ込み、キーパーが魚のように跳ねた瞬間に思い出す僕のタイミングの良さ。手を頭の後ろで組む。「紺野」と僕は言っていた。あのGUCCI。僕の高校にいたような気がする――が、あの彼女の記憶が頭の中のケースから出てくる事はなかった――紺野拓人。彼に関しても情報はそこでぱたん、と途切れた。代わりにスクリーンにはまた、黄色いあの下着が声と共に再生された。


起きて仕事に行くといった単調な朝のルーチンが続くと僕はきまって過去を反芻した。が、まわりに心配されるような思いには至っていない。運転しながら母や父の事、昔付き合っていた彼女や祖父の想い出話とは名ばかりの武勇伝、腕っぷしではなくいかにありとあらゆる女たちが俺を愛したかといった類の。微笑ましいとさえ思えたのはきっと僕が、おそらく現役の――いつが引退時期だったかなんて知り得ないが――彼よりも果てしなくロマンスに恵まれた存在だったからだ。実際デートの途中に知らない女から声をかけられたり、モデルや舞台俳優にスカウトされる事も少なくなかった。そんな時、決まって僕のそのときどきの彼女達は妖しく笑い、無言で僕の腕を取り見せつけるような態度をとった。


仕事終わりにスーツのままネクタイだけ外し、電車を降りてくる彼女を壁に凭れかかり待っていた。通行人のなめるような視線。慣れきらない方がおかしい。生まれたときからすかした顔、僕がぼくにつけたキャッチ・コピー。唾を飲む女の瞳は見ないがあからさまに変態だと見てとれる中年おやじの顔には眉をしかめてやるとすぐに立ち去った。数分し、僕に気づいた彼女と近くのバーに入った。出来立てほやほや、ベイビーブルーの看板、控えめなライト。食事する気分じゃあなかった。30分足らずで彼女のマンションへふたりで指を絡ませながら帰った。タクシーの運転手が穏やかに、こりゃあ、雨だな、と笑った。なにが可笑しいのか分からなかったが、ビジネスライクな笑顔を返してやった。スタイリッシュなそこに辿り着き1300円を支払い降りる。彼女の腰に手を掛け僕は笑い、また離した。さっそうと軽く、あたりさわりのないけど決して不幸ではないナイト&デイ。古臭い音楽と気取った文章、物わかりの良い僕のベイビー。過去は置き去りにされ、僕の髪型がころころ変わるようこんなふうに今が過ぎていく。そしてこれから先もずっと、恐ろしくなるほど永久に。かけたてのパーマがぴちょんと濡れてカールをきつくさせる、ヒステリックなほどに。出っぱった僕の鼻っ柱に当たるそれがこそばゆかった。向かいの歩行者通路に誰かいた。後ろ姿を数秒見つめた後、彼女に腕を引っぱられた――で、めちゃくちゃに雨が降り出し、僕達は走ってエントランスに入った。なぜ、振り返ろうと思ったのか分からなかった。振り向いたさっきの向こう側には、まだそこで立ち尽くしていた、あの「僕の」彼女がいた。

今朝は祖父の青春の1ページ――ザ・スウィート・メモリィを思い出していた。正確に言うとそれを聴かされていたあの頃の僕の事を。部屋でしこたま抱いた彼女を送っていった後のあの学生時代の僕。高原蛍から神田蛍になりたての、ピッカピカの中学三年のセクシー・ガイ。ちなみにこれはさすがに自ら名づけ親にはなってない。


「よくあいつ以外の女と」タールの強い煙草独特の、持ち手のコルク風カラーに目がいった。「一緒にいるところを見られてな。そりゃあもう、おっそろしい思いをした」70を過ぎておきながらばあちゃんの事を祖父は人に話す時も名前で呼んだ。が、たぶんアルコールの魔力も手伝って。僕はそれを何となく気に入っていた。

「連れ込んでたんだろう」
 とわざと笑ってやった。

祖父は煙草を僕にん、と向けたが、右手を掲げノーを出した。何も言わなかったのでまた僕が喋った――家で?外で?

「両方だな」

ねじらず灰皿に中間まで吸ったやつを押し付ける。

「段々、それが癖になってね」

「癖になるもん?」

「あぁ、なるね」

僕は笑いを噛み殺したが少し声が漏れた。

「飼ってた犬がいたんだが――年とった柴犬」
 そいつが小便したスリッパで顔をひっぱたかれた時は、さすがにまいったね。

こらえ切れず、僕の声はヤニで黄色くなった天井にまで届いた。ばあちゃんがクレンザーで病的なほど磨き上げた銀のやかんが僕の隣で同時に揺れていた。


信号が黄になり大人しく止まる。しばらく変わらないそれを見ていた。じゃあじゃあ降りの雨、昨日の。僕。「あの」彼女の事を思い出していた。ちなみに言わずもがな「僕の」ではない。が、気分は良かった。赤が青に変わる。僕はじわっとアクセルを踏み込んだ。朝からセックスしたからじゃあない。失くしていたものを見つけた時のような気分だった、例えるなら。それも、おそろしく長い間。何か。

仕事を終え夜がくると同じく一人になりたくなった僕は、彼女からのメッセージを一旦確認した後やたらでかい音のなる玄関を開けた。がらがらと石畳のそこに僕のでかいアディダスのマークの靴。和柄の木のサンダル、それも垢だらけ。僕は中一の頃急遽住む事になったこの家にいまだ籍を置いていた。二十歳の今も。ばあちゃんはかなり目が悪くなったし――そのぶん耳が死ぬほど良くなったように思えていた――あとかなり美味かった、飯が。祖父は去年、膵臓がんで79年の生涯を閉じた。いかした最期だった、ぎりぎりまできつい痛み止めを使わずに男を見せ、僕の祖父は逝った。ばあちゃんと大量のモノクロ写真、それにいくつもの危うい想い出を残し置いて。僕を置いて。


居間にいた祖母に声を掛け洗面所でうがいをし手を洗いながら鏡を見上げた。あの頃の祖父を現代版にしたよな男前がこちらを悩ましく見ていた――瞳の奥が心なしか少年のよう弾み、燃えているような奇妙なきらめきがそこにはあった。が、嘘くさく疑問に思ったりなんて、しなかった。自分の事は自分が一番分かっている。実際、僕は彼女より僕と固い何かで結ばれている。と、思う。軋む階段を上り二階へ。祖父の寝室はそのままで学生時代と変わらぬ僕の部屋。そこのベッドめがけてばたん、と倒れ込んだ。しばらくしてからランダムに並べてある本達の中からくじ引くよう一冊を抜き取る。いつの日か図書館のリサイクルブックコーナーから持ち帰った『The swimming pool library』。気に入っていた6ページの文章を読んだあと瞳と本を閉じた。胸から鼻へ不埒な思いが通り抜けていき、出た後、また戻った。そしてそれは血液にまで流れ込み、やがて、僕の全身を駆け巡った。

「蛍」という名前をつけたのは僕の母だったと聴いていた。ばあちゃんが反対しそうな名前だと思った――案の定「私は嫌だった」と憎らしい口調で言っていた。儚い命の生き物の名前なんて、と。が、母は押し切ったらしい、初孫にもかかわらず、姓名判断もろくにあてもせず。蛍と書いてケイ。悪くない――漢字はともかく読みはよかった。やたらと男っぽくも女々しくもない。少なくとも僕は。


ファミレスの有線で『Rock with you』のメロディが流れていた。ジャスト・フィットなフレィズ。君とロックしたい、君と。スクリーンには声だけが流れた。一週間経ったからだろう、あの僕のあいつ――馴れ馴れしすぎか――の姿も手掛かりも残り香ひとつだって嗅がせてもらえない、惨めな僕。見た目とのコントラストは傑作だった。どこかでひどくマイナーな賞を貰えるほど。


「よぉ、蛍」

待ち合わせに数分遅れて友人が向かいのソファに座った。中・高とよくつるんだ内の一人。といっても彼は私立、すべり止めで文字通りそこに滑り止まった。やたらと制服だけは上品だった。校風は最悪が裸足で逃げ出すほど最悪だったが。相変わらず、かわいこちゃんな顔してんなお前と友人はほくそ笑み声をかけた。隣のテーブルの女三人組がちらちらと、会話を続けながら僕を見る。

「仕事?」
 友人の声。

「あぁ。休憩中」

「へぇ」

煙草を取り出した彼は一度止まった後、それをしまった。喫煙席じゃあなかった。

「お前女と別れたんだってね」

事実だった。二日前なんの脈絡もなく彼女に別れを告げたのだ――が、眉をしかめる。どっ、と後ろの茶色いクッション部分に背中を擦り当てた。

「なんで知ってる?」

言った直後に、いや、言わなくていいと続けた。ソーシャル・ネットワークの便利すぎて不便なことよ、と今僕が考えていた事を見事に返され、歯を見せ笑った。

「まぁ、どうでもいいけど」と友人は言い、ボタンを押し水のお代わりと珈琲を頼んだ。

「お前の事、どうせ次がいんだろ」

「どうかな。自信ないよ」

友人が不思議そうな顔をした後ふと隣のテーブルに瞳をやり、さっきの女三人のうちの一人、こっちを見ていた彼女に「なぁ?」と言った。女は顔を真っ赤にして困ったように笑っていた。そして、残りの二人の方に助けてというような悲愴な表情を向けた。

「会えるけど会えないような気がする」

「何だそりゃ」鼻で笑い、口の片端を上げた。入り口から大学生くらいの男達や、小さな子供を連れた夫婦がぞろりと店に入ってきていた。午後13時を過ぎたあたり。無愛想な若い女の店員がまとめて水を出しに行っていた。

「僕の高校の――科にいた、紺野っての覚えてるか」

心なしか、友人の周りの空気がひんやりとした気がした。そして、気のせいというには不自然なほどの、彼のひきつった顔。カップに落としていた視線を戻し、身体を起こす。

「何だよ」

友人は、しぃぃ…と歯を閉じたまま息を吐き、続けた。一瞬だけ、僕の瞳に息を飲んだあと。隣の女がまた僕を見ていた。


「あいつ死んだよ」

夜中に呼び出されて家の前の色気のない通路を出、やたらとピンク色の花が咲いている公園へと僕は脚を進めていた。モノトーンのスポーツサンダル、相反するよう鮮やかな心。それもかなり、不謹慎な。この顔を持ってしてもそれは明らかに下品で、そしてこういった自己愛にまみれたジョークでさえ額面通りに人は受け取る。僕は思い上がった自惚れ野郎のナルキッソス。性的な視線とすけ透けな妬みはしばし僕を犯した。が、僕もそんなに馬鹿じゃあない。こう思えばいい。「やらせてやったんだ」。本人がそう感じてしまうのなら、それはレイプにはならないってなもんだ、と誰のものでもない口調で足元の硬い石を蹴った。


公園に痩せたシルエット、腰上までの長い髪。こんな時間にこんなところでこんな女性を一人にしておくんじゃあない、と金星に怒鳴られるような。あれはきっと怒りで燃えていたのだ。僕を見つけると彼女はばっと立ち上がった。風呂に入った後の強いシャンプーの香り。が、顔は夜にも構わずフルメイクだった――いつものようてからされた唇が街灯で光った。どういう事?という言葉に別に、と返した。名前を呼ばれる――が脳裏には、あのでかいレールの擦れる音の玄関を出、ひょいとオレンジ色の土だけしか入っていない植木鉢をまたごした瞬間から今の今まで、僕のスクリーン上にはあの黄色いブラジャーをめちゃくちゃにひっぱがすシーン――欲望に駆られたそれが上映されていた。支配されたと言っても正しい。『さや』というサブ・タイトル。音しか判らず、間抜けな平仮名だった。

僕の胸に、今はもう恋人じゃあない彼女が顔を押しつけた。泣いてるようだった。胸元のTシャツをぎゅっと掴み、怯えきった子供のようぶるぶると震えていた―――嫌。私はまだ。蛍と一緒にいたい。別れ際の際いつも、なぜ僕をそこまで想うのかが僕には本当に分からずにいた。僕の顔写真を貼り付けた別の若い男で事足りるんじゃあないか?狂った考えに気づけない事が、もう、狂っているのだと誰かに教えて貰えた事はなかった。急に首の後ろを掴まれ僕のぼけっとした顔に唇が押しあてられた。同時に手を取られ、張り出した乳の下へと持ってかれる。そのままいやらしく掴んでやると彼女は身体をくねらせ僕にしがみついた。吸いつく舌がただ「許さない」とだけ主張していた。痛みを感じるほどのそれに僕は芥子粒よりも小さいわずかな苛立ちを感じた。公園の樹に留まっている蛾が見えた後、彼女を植込みの方へ強引に引っぱっていく。蛍、と呼ぶ声を首筋に浴び、暗がりで今度は僕が舌を吸った。こんなシーンはそれこそあのシネプレックスを出て僕が人を変え何度も脚を運んだステーキ・ハウスや民家リストランテに行った後、夜風を浴びながらそれはいくつもあった――祖父の、僕の知らない話を足したとしても、濃密な時間で言えばはるかに僕のセックスは度を越していた。修羅場を予め阻止できる器用なところも、僕が僕に反吐を吐きたくなる理由のひとつだった。下着を下ろし、濡れたそこに中指を突っ込む。んん、と彼女がぴくりと胸を張りそして腰を反らせた。僕の技術がどうこうというよりか、僕のこの顔に抱かれる事に感じている、といったふうだった。遊ぶようわずかに曲げてやる。肩に顔をうずめていた彼女の右手がジャージのハーフパンツの下の僕を弄くりだした。じれったい手をどけ、中指を抜いた代わりに僕をそのまま突っ込んだ――虫の鳴き声よりもか弱く、色っぽいその声をBGMに、また瞳を閉じた。アルコール消毒液臭い入口のファミレス。での、友人の会話。蛍。速くなる心臓と、吐息。あぁ…け、い。僕達を見て当の本人より恥ずかしい思いをしてる見ず知らずの通行人。煙草を胸の内ポケットにしまう友。やめて――蛍。わたし、も…う。歌声のないロック・ウィズユー。ロックしたい。ロック、したいんだ。

 誰と?

「やだぁっ…!」と彼女は小さく叫んだ。腰から下がぶるぶると震えていた――がく、と力の抜けた身体を僕は片手で掴み、それから勢い良くあれを引っこ抜いた。側にあった針のような葉先の低く四角い茂みに、くそったれな気分の溶けたそれを出した。そしてなお何の脈絡もなく「別れよう」と言った僕に、彼女は小さくひっと息を吸い、それからきつい張り手を喰らわせた。顔が良かったら、何でもしていいと思わないで!叫んだ後、早歩きで去って行った。ぶたれた頬を親指で拭い、ジャージを元の位置に戻したあと僕は家路についた――たぶん笑えるほど無表情、そしてさっぱりとしていた――で、ばあちゃんを起こさないよう、家に入った。

この一週間の間まるでデトックスだとでも言いたげに僕は大人しくしていた――僕のこの下半身のこいつも――思ったよりパーマのすぐ取れた姿が気に入らなくまたヘアスタイルを変えてやった。わざとらしく濃くした黒髪の色を抜き、灰色をかぶせたベージュ。で、真ん中分けにしてストレート。パーマがうまくいかなかった事への無意識下での当てこすり。なんだかんだでまだ渋くなれないこの顔には坊っちゃんチックなショート・ヘアがベストだった。やたらと年上の女に声をかけられるのは失敗したと思ったが。本屋に来ていた。駅前通りやバーやスターバックスにいる時ほどあからさまな眼を向けられる事の無いこの空間は僕を包み込んでくれる母のような感じ――半分ジョーク、そして本当。伊坂幸太郎の『重力ピエロ』が目に入った。日本人にしては気取った彼の語り口調が好きだった。芸術家気質が垣間見える、小ネタをサンド・ウィッチしたよな文章も。隣のおやじが僕を見る。お前のような奴はクリスブラウンの曲がかかるクラブにでも行ってろというふうな横顔の中の瞳。金縁の眼鏡が蛍光灯でぎらりと光った。構わず本を捲り、読んだ後戻した。自宅の棚にも同じやつがある。「春が二階から落ちてきた」。

恋を春だと例えるなら今の僕に当てはまらなくもない。が、あのイエローにあれから会えた日は来ていないし、来ない。それもまた良い。『重力〜』の泉水よろしく真実の息の根を止めてもいいけど、わりと僕は今の僕のシチュエィションを気に入ってるみたいだった。飛んで火に入る夏の虫のごとく。休日だった――いつもなら彼女のマンションで下手くそに淹れられた珈琲、半分以上残すそれをを飲んでいる時間。で昼を外に食べに行くかベッド以外の場所でセックス。それか僕だけ気まぐれに友人に会いに行く。ふぅ、と口を閉じたまま鼻から溜め息。ポケットに手を突っ込んで、オールドスクールのつま先を見た後、店を出た。何の曲でもない口笛。どうするか。シネプレックスで特に観たくもない映画でも観る?彼女がいるかも、と瞬く間にそれは消え失せたが。死んだんだぞ蛍。あのベイビーの恋人は。

さや、という名前を空想でつけるほどいかれてない。あのファミレスの続き――煙を吸いたそうな友人と外に出た。灰皿もない無常感漂うこの街を象徴するよな空きビルの足元で、友人だけ煙草に火を点けた。ここにはついこないだまで、アジアン雑貨の胡散臭いテナントが入っていた。

「事故死だってよ」
 へぇ。

「葬儀に?」

「知り合いがね」と、彼は言った。

「あいつ、親の工務店の跡継ぎだったらしいよ。仲はどうだったか知らねぇけど、そいつ、複雑そうな顔が焼香より焼きついたね俺は、なぁんて言ってやがった」友人が鼻で笑う。「女も、いたんだろ。まぁ可哀想っちゃ可哀想か」

コンクリートの歩道で火を消し指で摘む。黄色いブラジャーの、と出かかる喉を堪え僕は言った。

「女って、顔と声が少し合ってない?」

彼の瞳が、なにわらっちゃってんのお前、と揺らめいた――が、口はそのまま続けた。「あぁ」白石・さや。

「同級だろ、確か」
 俺たちと。

友人はひとつ伸びをし、それから問いかけた。
「で―――紺野が、どぉしたって?」

「いや」

なんでもない、と僕は返した。そのまま彼に仕事へ戻ると告げ、別れた。特につっこまれる事もなく、んじゃあな――帰り道、襲われんなよという僕専用のジョークを飛ばし友人はその場を去っていった。


ばあちゃんに回転焼きでも買って帰るかと僕は考えていた。クリームと粒あんのを二つずつ――仏壇にひとつ供えるつもりだった。腫れぼったい瞼のお釈迦さまの手前でフレィムに納められた祖父の写真は、白い歯を見せばあちゃんの肩に手を回した60代頃のものだった。白いコットンシャツの下にちらと見える赤いインナー。金色の腕時計。色男特有の眼力。鏡にいつもそれはいた。隔世なんたらとか言うやつだ、まだ熱い茶色の竹皮プリントの包み紙をINしたビニール袋片手に家に帰った。まだ昼前だった。

「ばあちゃん」と玄関の石畳らへんから何度か呼び掛ける――台所でじゃがいもをめちゃくちゃな量、洗っているところだった。シンク内の白いボウルに泥水。饅頭を渡しじいちゃんの分もと仏壇へ置く。ダイニングテーブルにどかっと座ったところで、急に声がした。

「お前結婚しないのかい」
 ばあちゃんのいつも美容院まかせの肩までのオレンジ色の髪が揺れる。

「今、誰とも何ともないんだ」

僕はそう正直に言った。まさか二十歳になってまで赤裸々に言う気はないが、内向的過ぎる孫ではなかった。

「あたし達の時はね、もうあんたの年で二度目の結婚してるような人達もいたんだよ」

へぇ、と僕は笑った――頬杖を軽くつく。ばあちゃんの少しはみ出したきつい紫に近いピンク色の口紅を見た後、台所の目線の高さのすりガラスに瞳をやった。水道から緩い性欲のよう水が出っぱなしだった。

「あたしはあの人しか見えない不幸な娘だったけど」
 手を拭きながらそう言った。少しだけ笑ったような気がした。

「寂しいよな、ばあちゃん」

「寂しいよ。ろくでなしでも、いなくなると」

それからまた芋を洗い出して、黙った。居間に行く途中で祖父の顔を見、また歩き黒のソファに座った。片膝を立てそれから僕は知らぬ間に眠っていた、テレビをつけたまま。僕は夢の中で、僕が白石さやの白いキャミソールに手をかけ脱がし、めちゃくちゃにキスをするところを何処か遠くから見ていた。

夏が訪れようとしていた――祖父の一番好きな季節。マシュマロ級のウエイトで愛を語るにはうってつけのシーズン、それが嘘か真かは別として。シンプルな紺の水着になんてことないビーチサンダル、少し肌を焼くつもりで来たが友人の車を運転している途中でそんな思いは消え失せた。きつく、突き刺すような日の光だった。太陽までもが僕を恨めしく思うのかといった、針山を大量に投げられる時に近いそれに眉をしかめたが、波の音が聴けるのはよかった。目に見えない世界では音が心を洗うのだと僕は信じてもいた。そして、太陽は男だと思っていたが女かもしれない、どっちでも良いが。

マレン・モリスの『The bones』がかかっていた。僕が選曲したやつ。わざと窓を開け、人の吐息のような熱風と冷たい潮風、それにボリュームを上げた音楽を戦わせてみる。男だらけの車内。つんとするけどフルーティーなカーフレグランス。駐車場に車を停め、降りる。まぁまぁ人はいた。砂浜へおりていく途中で彼氏連れの女が僕を振り返る、ヴィクトリアズ・シークレットみたいなビキニの女。海が視界の端から端まで煌めいていた。苦しくさせるほど。二、三人で来ていた女の群れにさっそく声をかける別の友人。高い笑い声が波に混じって聴こえていた。

何となく気が削がれた僕はひとり別方向に砂浜を歩いた。奥の方に水色の建物。海の家みたいなスペースが右側の視界の隅に入る。蛍、と友人の呼ぶ声。さっきの女のうち、一人にかけていた肩の手じゃあない方を僕に向かって上げていた。とぼけた笑顔で。左から白いショートパンツ、ネイティブ柄の黒ビキニ、フリルのカーキ色。抜群にスタイルが良かった。もう20メートルは離れたそこへ向かって数秒見つめ返した後、僕は何も言わずに前を向いた。鎖骨の辺りをこする。欠けた貝殻。潮で傷んだ髪の男と女。頭の中で、車内で聴いていたBGM。水を差すよう誰かに話し掛けられた。女だった。

「あの――蛍くんですよね?」
 知らない奴だった。茶色い髪の毛先だけ巻いてある。返事もしないのに、また続きを話し始めた。

「あたし、――の友達の友達で。フォローしてるから、よく写真とか見てて――髪色が違うから一瞬あれって思ったけどすぐわかっちゃった」

いやにどぎまぎした瞳だった。じっと見つめると、彼女は自分から話し掛けてきたにもかかわらず恥ずかしそうにたじろいだ。確かめるよう「蛍くんですよね?」ともう一度言った。うんと答える。喋る合間あいま僕の唇や睫毛の端を熱い視線で見つめ続けていた。

「――と来たんですか?」 「いや。友達」 「そうなんだ」

彼女のSNSを見ておいてそれはないだろうと思ったが続けた。僕の友人が見てわかるのにしらを切る意図があまり理解出来なかった。センチメンタルな呟き、僕の顔の載らなくなったインスタ。自分を癒やそうと何やかんや奮闘する僕の元恋人。あからさまに会話を続けようとしない僕を見て見知らぬ女は黙った、が、「それじゃ」と動く気配もなかった――でかい大型バイクの音が通り過ぎ、鳥が鳴いた。水色の海の家に男二人、客が入るのが見えた。

「あの…」
 見知らぬ女が喋ったあと、店員が注文を取りに行くのが見える。…はい、分かりました。少々お待ちください。


髪型が違うがすぐに分かった――今の僕の事じゃあない――目の前の女の次の言葉も待たずに僕はすっとあっちへ向かって歩き出した。口がひとりでに僅かに横に伸びた。僕のビーチサンダル、足の裏との隙間に熱い肌色の砂が入る。


「さや」


僕の声に振り向く黒のエプロン姿。少し痩せたあの「僕の」彼女は口を開け、安っぽい伝票を持ち、とうとう僕の方を見た。

墓参りに来ていた。祖父が死んでから二回目の盆。ばあちゃんの妹達もいた、10人姉妹の3番目と6番目。ばあちゃんは2番目で、上の姉はもう随分前に他界していた。僕があのスーパーから歩いてった日よかも前に。

「大きくなったねぇ――蛍ちゃあん」

福の神みたいな白い顔が笑う。こぉんな立派になって、と6番目の妹。おじいちゃんに似てよぉ男前やわぁ、そう思わん、とばあちゃんに向かって話しかけていた――「段々だんだん似てきよるけね、蛍は」。墓の下段の方を一生懸命掃除していたばあちゃんの額に玉のような汗。僕は墓に2リットルのペットボトルで水をぶっかけた後、濡れた手を振りパンツの太腿で拭いた。

「はよ結婚すりゃいいそに」

すぐよぉ、姉ちゃん、と3番目のすぐ下の妹が言った。「こんな男前、女がほっとかんやろ」。にこにことこちらを嬉しそうに見ていた。ひ孫の顔もすぐ見れそうやなぁい、あははと声を上げ笑っていた祖母じゃあないばあちゃん達に僕は歯を見せずに微笑んだ。まだ死ぬほど暑かった。夏の中の夏。さやのあの冷たさが死ぬほど恋しかった。気温のせいだけじゃあないが。


僕の車で今度は4番目のばあちゃんのでかい妹の家――でかいのは家の方――に行って、それから昼飯を食べ祖父の兄の家。かなり耳が遠く、玄関先で手土産だけ渡してじゃあね、また来るけねとだけ言って僕達は家に帰った。4番目のばあちゃんちで貰った桃やら和菓子やら昼食の残りやらを居間の机にごそっと置いた。冷蔵庫の匂いの移った麦茶を飲む。いったん二階に冷房をつけにいき降りてくる。畳の部屋で寝ていたばあちゃんが「ありがとね、蛍」と声をかけてきた。僕は祖母にタオルケットを掛け、下で気持ち程度テレビを観、二階へと上がった。思い出したように戻り、冷房を弱風にして、でまた上がった、今度こそ。

部屋の古臭さとのギャップが笑いを誘うBluetoothのスピーカーから流れてくるこれまた古臭いミュージック。さや。僕のベイビー。弾けないくせにギターの真似事。レイパーカーJrがアース&ウィンドがベン・E・キングが僕の気持ちを代弁する。君は美しい、君が恋しい、君が欲しい。背中をベッドに預ける、クーラーの風の愛撫。瞳を開けて本棚を眺めた。「春が二階から落ちてきた」。んで、夏は僕の舌を拒み、それでいて心を離さない、おそらく秋も冬も。額に腕をあてそれから呟いた。


「さや」
 永遠に。


海の家を離れて元いた駐車場近くの砂浜へと僕は戻っていた。友人たちがいなくなっていた――もちろん車はあるし、別に一人でも帰れる。大体どこにいるのか相場はついていた。海にさっきの女の子、黒のネイティブ柄のビキニと潜っていた僕の友人が頭を出したのが見えた。知り合ったばかりだと言わなければ分からないくらいのいちゃつきように僕は目を細め、笑っていた。好奇心がふと湧いた。岩場の方へと近づく、人の多い波打ち際から離れて。案の定、そこから真っ昼間にふさわしくない音と声が、ざ・ざぁというBGMに混じって僕の耳をくすぐった―――なに、人のセックスを覗く趣味はないが後で友人をからかうのにうってつけの口実。ショートパンツかカーキのフリルのどちらかの猫のよな喘ぎ声。笑いを堪え、緑がかった黒のごつい岩に肩を凭れさす。

「蛍くん?」

後ろを振り返るとさっきの女だった、僕の元恋人の名前を口走ったあの見ず知らずの。なにやってんのと小声で笑顔のまま話しかけられる。気分が、最高によかった。しぃ、と口元に手をあて「来ないほうがいい」と教えてやった。「友達に頼まれちゃって」、と向いのセブンイレブンの袋を見せた。前に進んでくる身体の肩を引き、いいから、と向こうにやる。ようやく気づいたのか、はっとし、意味深な笑みを見せてきた。とたんに僕の顔をじっと見、潤ませた瞳でただぼぉっと僕の唇、それに睫毛の長い瞳を交互に行き来させた。一瞬ためらった―――が僕の二週間ぶりの欲求に身体を逆らわせたくはなかった。岩場の陰から離れてバイパスの下のでかいテトラポットが夥しい数見下ろせる暗いそこでキスをしてやった。胸板にあたる手が僕の乳首を擦った。で、クロシェのレースのビキニを一瞬で取る。鼻からこらえきれない荒く短い呼吸を繰り返す彼女の胸に舌を這わせ、挨拶程度に撫でてやった。ろくに前戯もせずただずらしただけの下着を手で押さえ挿入する。けど、めちゃくちゃに濡れていた。頭上のダンプカーに掻き消される声。コンクリート造りのそこに彼女を押し倒し、剥ぎ取ったビキニで手首を縛ってやった。自分を見下ろす逆光のコール・スプラウス若しくは『太陽がいっぱい』のアラン・ドロン。但しよくてMade in China。久しぶりのセックスにただ僕は酔いしれていたと同時に、やはりくそったれな気分にもなっていた、あのシンク内の泥水のよう。

 ごめんなさい。仕事中なの。

なぜ名前を、とも聴かなかった。それでいて絶対に僕の事を、あの、シネプレックスでの刹那の記憶を彼女も憶えていたという確信がそこにはあった。はっとしたあときゅっと結んだ唇。気づいた時には僕は囁いていた、たぶんこっちが最初、死ぬほど小さい声で。それも恐ろしく。

「さや」。

彼女が短く高い声を上げ、また僕は僕を引っこ抜いた――それから大きく膨らんだりへこんだりする腹に、くそったれな想いをぶちまけた。飛沫が、胸元にまで飛んでいた。ビキニを解き自由にしたあと頬に軽くキスされる。浮かれた視線を受け流し、自然に別れた。前髪を掻き上げはぁ…と岩場のとこを通り過ぎる。とっくに終わっていた僕の友人達は浜辺の方で何か飲みながら会話をしていた。こちらに気づいた友から今度は僕がにやにやとした眼を向けられ、知らんふりをしてやった。帰る間際、連絡先を別の女から聞かれたがはぐらかし、先に車に行ってる、とあの海の家を覗いた。が、そこには僕のベイビーはおろか、ネオンのopenの文字の灯りひとつだって、この僕にはなんにも残ってやしなかった。

信号待ちでご機嫌に口ずさむ僕を友人が見たら何と言うだろう、クソ暑い外。丁度いいを知らない冷凍庫ばりに冷える僕の車の馬鹿な空調、でたらめに明るい音楽。頭の中で5人のアフロが舞い踊る、ん…シャウト、そして余韻のようでもある短い「Yeah」。急に差し出される花束のようなキング・オブ・ポップの青い声。ユージャス・ガッタ……サプライズにもほどがある、とでも言いたげな。「僕のベイビーは踊りっぱなし」、肩を並べ歌い踊る相手はいない、がそれでもよかった。太腿をぱた、と音楽に合わせ片手で叩いてやる。信号が青に変わる0.5秒前に右足にぐっと力を込めた。サンシャイン…ムーンライト…グッタイム。悪いのはブギー……車を停め、ポケットに手を突っ込み降りる。キーケースをハムスターの車輪のごとく何度か回したあともう片方のポケットに入れた。そう、悪いのはブギーだ。悪いのは。


僕のこの心臓のちょっと後ろにある他の臓器との間に挟まったジューク・ボックス、そこから流れるメロディはここ最近の僕の脚やハンドルを切るこの手――そして唇を、彼女に向かって囁く言葉全てをラフにコントロールしていた。


「いらっしゃいませ」


あれから僕はさやの行方を追った、まるで変質者ばりに。が、何もあの海から足取りを辿りそれから今の今までストーカーまがいな行為をしてるわけじゃあない――期間限定の海の家だけで生計を立てるのには無理があるとにらんだ僕は、地球はおれの庭、だからこの街なんか家にある埃の薄く被さった醤油の蓋みたいなもんさと口角泡を飛ばすおちゃめで顔の広い友人をそれとなく頼り、で9時からだいたい15時――もっと早い時もあるが――地元の隣の外れにある、駐車場のやたら狭い珈琲ショップで働くさやを、知り合いを辿り、みごと名前だけで見つけてくれた。で、あの海からそう遠からず僕と彼女はおそろしく静かに再会を果たした、ってなわけだ。ちなみにここに来るのは3回目だ、「まだ」。

「ご注文をどうぞ」

彼女が注文を取りに来る。ぞくぞくした――会うたび心で呪文をとなえるくらい――さや。僕のベイビー。最初の一瞬だけは別だったが、何食わぬ顔でカウンターより離れたテーブル席に座るが視線を離さない僕の事をろくに見ようともしないくせに、僕が店に入る一番初めの2.8秒間だけは別だった。見つめ合う時間。その瞬間のみ、僕の胸の聴いたことのないラブソングのボリュームは上げられ、耳鳴りがし出すほどジャズの有線や流しでカップやソーサー、フォークなんかがぶつかる音、外の国道を走るでかい車のマフラーの音はそっと息を潜めた――僕たちのために。僕たちだけのために。まるで誰かがそれを防音布にでもくるんで物置に放り込み、わざときつい音を立て扉を閉めてくれたかのよう。

「珈琲を」

「ミルクはおつけしますか」

「いや、いい」

「かしこまりました」

来る者拒まず去る者追わず、まるで天秤座的なそのスタイルは店の空気中にも漂っているかのように思えた――彼女がそうさせたのか、それとも店が彼女を呼んだのか。焦げ茶色のセンスの良い内装、ピカピカに磨き上げられた透明な窓硝子。奥のカウンターに30代位の夫婦。女は黒のベリィ・ショート。二人で色違いのボーダー服をさり気なく身につけていた。背もたれの深緑色のクッション部に右腕をかけたあと僕は瞼を下ろし、顔を1ミリたりとも動かさずに手首の時計を見た。13時15分。会社へは45分までに戻ればいい――それでも足りないくらいだが――車を飛ばして帰るなら40分手前に出てもかまわないだろう。曲げられた膝のせいで脚に張りつくスラックス。腿に涼しい空調、僕の車のやつとは違うでたらめに優しいそれがあたった。店内のと同じく焦げ茶色の四角いテーブルに人差し指と中指で創った脚をすたすた歩かせてたところでさやが珈琲とともに僕の方へとやって来た―――一日め、注文を取りに来たのは彼女より年上のやたらとフランクな態度の女だった。で、珈琲を頼んだこの客に死ぬほどビジネスライクに愛想良く――なわけでもないが、かといってあからさまな態度を取るでもないさやがそれを運んで来た。

「覚えてるかい、僕の事」なぁんて声をかけるほど馬鹿じゃなかった。そして彼女も。何の用ですかなんて聴けないし聴きたいとも思っていない。ただ生まれた時からすかした顔が仕事の休憩時間の容量と自分のフィーリングってやつにぴったり合うこの場所を見つけただけの事。そして私はそこに偶然居合わせただけ、が、知らないふりも忘れたふりもしない彼女にキスしたくなっていた。言わなくても分かるだろうが、その先も。

ごゆっくり どうぞ。

あの心地良い声がそう言い、肩のすぐ下までに切られ綺麗な色の柔そうな髪をふわふわさせ自分の持ち場へと帰ってゆく。化粧をしてなきゃあ子どものような顔立ちだった、制服の下の小さくつんとしたバスト。滑らかな白い二の腕。信じられない位夢中だった。これは真夏の昼下がりにたまに見ていたえらくショートな悪夢じゃあなく、目に見えない世界からの僕へのとびきりの贈り物だ。彼女をなおも見つめていると別の店員が僕に気づいた。同い年くらいだろう、針金のよなストレート・ヘアの女。僕をきょとんと見たあと後ろへいたさやに何か話しかけていた――デジャヴも覚える、3回目ともなると。しかもきっかり同時刻。さやは困ったように薄く微笑んで流しの皿を手を止めず洗っていた。女が僕の方へ「頑張ってね」とでも言うような哀れみを含んだ笑みを向けてきた。僅かに口角と眉を上げ返事してやった。時間になったので会計を済ませ店を出る、ドアベルの慰めるような音色。マタ・キナヨ。鼻で笑い脚を車の運転席のドアの数歩前で止める。振り返った。僕がいた席のテーブルを片付ける彼女が少し経って僕に気づき、また元の方を向いた。ジューク・ボックスが震える音を確かに聴いた後僕は鍵を取り出し、それから車に乗り込んで会社へと淡い気持ちで帰っていった。

欠点こそが人の魅力を増幅させるのだと横にめいっぱい伸びた唇がジェスチュアを交え主張する。白スーツに赤とオレンジの混同した口紅、きっちりとセットされた肩下の巻き髪。手元のボタンを押したグレーのスーツ姿の心理学者の男が異論を唱える。それにしてはあんた・綺麗だし・性格も良さそうだけどね。スタジオの和やかな笑い声の後たじろぎ微笑む恋愛コンサルタントの女の表情が見えたところで切スイッチを押した。

アルコールが全身、僕の手足まで疾走し出すと途端に性欲がマックスになった――泥酔するとこうもいかないが――職場での上司や同僚との会話、朝たまたま入ったチェーンの喫茶店の窓際の匂い、前の車からこちらに笑いかけるディズニーキャラクターの凍りつくような瞳の光の無さ。ばあちゃんのサンダルと僕の真新しさを感じるほど手入れの行き届いたスニーカー。発展途上国の貧しい子供と一人でコンビニにも入れないハリウッド・セレブが仲良く肩を擦り合わせ着席しているかのような奇妙さ。そこには友情や愛情といった類ではない、もっと深い絆が確かに在った――遠い国の外国の子供あるいは遠い国で活躍する別世界の大人が自分と血縁関係にあると知らされた時のよな衝撃。それも笑えるほどさり気なく。拍子抜けするほどに。そういったその日一日の映像の一番最後に決まって現れるさやの全て。その間おもちゃのプラネタリウム、寝室の天井に映し出されたおとぎ話の主人公達のような僕の中の反芻映像は消え失せ、かわりに彼女の上半身や顎から耳にかけてのラインが映し出される。スポット・ライトを浴びたそれ。潤った瞳。なのによく冷えた湖の中に脚先を突っ込んだ時のような涼しい感覚が身体中を支配した。触れられた、訳もなしに。

こないだの海水浴の時のと同じ友人たちと街中で合流した。夕食を外で食べるのも悪くはないがばあちゃんの料理の方が心が調子がよかった。十分ほど皿を水に浸けた後洗って軽くシャワーを浴び着替える。8月終わりのわりには涼しかった。まるで獅子座から乙女座へと変わりましたよ、どう?気づいてますか、蛍くん?どこぞの女神が僕に口横に手をあて必死こいて呼びかけている、なんて。片手にでかい星のついたステッキ。店の硝子越しに外を歩いている僕を見る女。向かいのもう一人がそれに気づく。横目で見たあと前を向き、歯の隙間から忍び笑いを漏らす友人の隣で首を鳴らした。「誰か蛍の事守ってやれよ」。やるどころかやられちまう。こないだのは、と僕が問いかけると友人は「はん?」と阿呆な声を笑顔のまま出した。

「女」

数秒経ってあぁ、と納得しこう続けた。この通り。僕は勢いよく鼻から息を出し呆れたよう笑った。ひと夏の恋というよりかはまるでジャンクフードだとでも言いたげな態度だった――「よかったけどね」。くそったれの、勿論僕を含むこのコミュニティが死ぬほど心地よかった。部屋で一人音楽を聴く、ばあちゃんの飯、そしてあの小さな珈琲ショップ。とどめに忽ち沸き起こる――節度のない性欲のよな――インスピレーションにまかせた欲求。それはこの仲間内にでさえ打ち明ける気も起こさない、「書きたい」というものだった。絵は苦手だ――だから違う。文章の事、だ。過去も、さやとどうにも進展しない事も隠さない癖にジューク・ボックスの秘密のスペースに僕のこれはひっそりと守られていた、か弱い雛のよう。祖父が聴いたら何て言っただろう。ブルーノ・マーズが食堂で淡い花柄のエプロンを着け必死こいて配膳するくらい不似合いなものだった。

一軒目よか落ち着いた雰囲気の店に入ると知ってる女がいた、5つか6つ上、よくこの界隈で顔を合わせる事のあるあけっぴろげた性格の女。僕を見るなり声をかけてくる。

「蛍!死んだかと思ってた」

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危ないイエロー

危ないイエロー

あたりさわりのないけど決して不幸ではないナイト&デイ。古臭い音楽と気取った文章、物わかりの良い僕のベイビー。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-06-20

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