ホワイトペスト
長篇「ロザリンドの毒杯」の過去編です。
【登場人物】
ヴィンス 異教徒の医師見習い。
シャトー 結核の令嬢。
ライズ ヴィンスの師匠。
ジェラール シャトーの父。権力者。
【用語】
アスール人……異教徒。高い医療技術を持つ民族。東の僻地から西側諸国へ移住した。
カリスト王国……北方の大国。かつてアスール人を王宮医師として召し抱えていたが裏切られる。
ガラシア帝国……東と西側の真ん中に位置する自由な貿易国。暖かい気候。
ホワイトペスト(上)
七つの時に亡命した。自分はカリストという西洋の大国から逃げた。同胞に殺人犯が潜んでいたためである。いや、ただの殺人犯と呼べたなら、ここまで状況は悪くならなかったのかもしれない。我が同胞は移民でありながら、宮殿に住み着き、執政を担ってきた。だが、彼らは残虐な殺人事件を起こす。貴族の子供たちを何人も殺害したのだ。動機はまだ分からない。とにかく激昂した国王は機関の解散と、犯罪者達の処刑を言い渡した。ただ、それだけなら良かった。民間人たちによる秘密結社が我が同胞達の根絶を掲げて虐殺した。裏に誰がいたのかは分からない。没落貴族かもしれない、社会主義思想を掲げる知識人かもしれなかった。彼らに国外追放と何度叫ばれたことだろう。名を捨て、国を出るしかなかった。
自分達はアスールと呼ばれる、もとは国王の専属医となるためにカリストに移住させられてきた東方の少数民族のはずだった。優秀な医師の集団であった。政に手を出したのが運の尽き。おこがましさに救済の女神が激怒した。
どうやって国境を超えたのかはよく覚えていない。
十年近く前のことだ。
空は低く、雲間から光の筋が下り、屋敷の窓は木の葉に翳っていた。春風は濡れた土の匂いを含み、二つの新しい足跡は小さな泉となって、カエルが泳いでいる。ヒバリは草むらでくちばしをせわしく動かしていた。顔を上げれば、窓に自分の顔が映った。
蒼白な顔に、唇と頬だけが異様に紅い。細めた目は潤み、首から鎖骨にかけて掻きむしった痕が残っていた。シャトーは爪痕を指先で撫で、それから自分の黒髪を手で梳き始める。することが無かった。
結核 と診断されて半年。街から離れた屋敷で養生するように言われて半年。治療法なんて知らされていない。過ぎた日々を思い返しながら、今日は何もしなかった、咳が止まらなかった、痰に血が混ざっていたと自分の行く末に絶望した。――この半年間。
「だから、新しいお医者様が来たのが信じられないのよ」
彼女は窓に映る自分に言った。
階段を上がる音がした。三人分。シャトーはガウンを羽織ると、椅子に腰かける。ノックの後、扉がギーッと音を立てて開いた。男が蝶番に油を差さなければならないな、と呟いて部屋に入ってきた。
「別に差す必要はないでしょう。この部屋には誰も来ないわ」
ジェラール・マルタン卿は大きなマスクからはみ出た白毛の混じる顎髭を撫でた。彼は彼女の父親だった。
「新しい医師を雇った。紹介しよう」
窓から見えた、とは言わなかった。彼女はいぶかしげに父を見つめる。
「信じてくれ、最高の医師だ。結核の治療法を持つと聞く」
ジェラールは振り返ると、彼らを招き入れた。白髪で痩せぎすの老人と、すらりと背の高い金髪の青年だった。二人ともツンと鼻にくる涼やかな香りを身にまとっている。
老人はにこやかに微笑むと、しわしわの手を差し出した。
「医師のライズです。よろしくお願いしますよ、マルタン令嬢」
「シャトーでかまいませんわ」
彼女は老人の手を握り返した。かすれて、暖かい手だった。
「それでシャトーお嬢様、まず本当に結核かどうか検査しましょう。培養せねばならんので時間がかかるのです。急ぎで申し訳ない」
ライズ医師は手を離すと、鞄から赤子ほどの大きさの木箱を取り出した。その背後でくすんだ金髪の青年が肩をすくめる。まだ自己紹介してないのにな、とでも言いたげな表情で仕事に取り掛かった。
シャトーはほんの少し笑った。
ライズが透明な平皿を取り出し、彼女に痰を採取したいと言った。そして後ろの青年と目を合わせた。
「カルテの準備はしたのかね、ヴィンス?」
「今してます」
「一次検査は君に任せるよ。私はマルタン氏に話したいことがある」
ジェラールが眉を寄せ、目を丸くするヴィンスをよそに、ライズ医師が父を連れて部屋を出ていく。気まずい沈黙が下りた。
医師の青年が頭を掻く。
「自分はライズ医師の弟子、ヴィンセント・ウィットフォード。長ったらしいからヴィンスでいいです。これからよろしくお願いします」
「シャトローナよ。でもシャトーでいいわ」
少し口角を上げて言った。
ヴィンスが黒革の鞄を開け、真剣なまなざしで何かを探し始める。シャトーはその横顔にどこか異国の雰囲気を感じ取った。スッと通った鼻筋、やや釣り目がちな緑の瞳。
「どこの生まれなの?」
すると彼は驚いたような顔をして、シャトーの顔をまじまじと見つめた。
「カリスト王国ですよ。アスール……異教徒ではありますが」
彼はペンと質問の書かれた紙を取り出し、シャトーに渡す。問診票だと言った。
「分かる範囲でかまわないので記入をお願いします」
それから、ガラスで出来た平らな密閉容器に彼女が吐いた痰と口内の粘膜を採取する。僅かに血が混ざっていた。胸に聴診器を当てると、彼は額にしわを寄せる。
シャトーが聴診器のチェストピース が冷たくてくすぐったいことを伝えると、彼はパッと手を引っ込めた。そして器具をしまうと立ち上がる。
「検査は一旦終わりです。安静になさってください」
階下では大きなテーブルにジェラールとライズ医師が向かい合って座っている。置かれた紅茶のカップと花瓶がとても洒落ていた。
「早かったな、ヴィンス。お嬢様の様子はどうだったかね?」
「肺から濁音がします。咳もひどいし、慢性的に熱もあるようです。痰の一次検査結果は三十分後になります」
椅子を引きながら、彼は答えた。侍女がヴィンスのぶんの紅茶を淹れる。それを横目で見ながら、彼はカルテを懐から出した。
「あとで切診をお願いします」
ライズが無言で頷き、ジェラールに向き直った。
「弟子の姿を見ても貴方は驚かなかった。なぜ王国の権力者が、亡命した医師の力を借りようと思ったのか、お聞きしたいのです」
「娘の命が助かるなら、多少の法律を破っても構わなかった」
ジェラールが鷹揚として言った。彼はカリスト王国最南端の占領地クロバニアを統治している。医師の二人が暮らしているガラシアの隣国だ。王都から程遠いからか、自由に振舞ってきたのだろう。
「我々がどうして亡命しているのか、お忘れなのでしょうか」
ジェラールは微笑を浮かべ、答えない。ライズが腕を組む。
「ご令嬢はお助けしましょう。しかし、条件をひとつ」
「なんでも用意する。何がお望みだ?」
「ビザを」
ヴィンスが鋭く言った。ジェラールの目が大きくなり、ライズのほうをうかがう。老人は首を縦に振った。
ジェラールが頭を抱え、ヴィンスを睨みつける。
「カリストのビザか? 無理だ…流石に隠し通せはしない。国家反逆罪で捕らえられてしまうのがオチだ」
アスール人は九年前にカリストを裏切って国外追放になっている。ビザを発行すれば足が付く、情報が漏れればジェラールは確実に失脚するだろう。そこまで彼に酷なことを強いはしない。ヴィンスは静かに口を開いた。
「カリストのビザじゃない。東の国々のビザ、砕いて言うとシルクロードの通行証ですかね」
「シルクロードの通行証……なぜそんなものを」
「亡命先が貴殿方カリストに占領された時の保険でございます」
ライズが弟子のヴィンスを諫めるかのように、穏やかな口調で言う。ジェラールが眉を寄せた。
「ガラシアとカリストは不可侵条約を結んでいる」
「ですが。カリストは東西の拠点である都市ホルスタンノープル(ガラシア東部)を喉から手が出るほど欲しているのも事実でしょう?」
ヴィンスは薬箱の奥から茶色の小さな瓶を取り出す。
「おれはカリストがガラシアに踏み込んだ時点でシルクロードを通って、東方へ亡命します」
「…新大陸へ渡った方が楽じゃないのか」
ふいにライズがヴィンスの頭を軽くたたく。弟子は顔をしかめ、開きかけた口をつぐんだ。
「生意気な弟子を許してほしい。ヴィンスは一目で異教徒だと分かる形をしている。―娘さんの命を救う見返りにこの子に少しでも長生き出来る可能性を、どうか」
そこでライズは口を閉じ、頭を下げた。弟子が苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべ、黙々と机上に薬瓶を並べていく。ライズは顔を上げた。黙ってジェラールの青みがかった瞳を見つめる。
「分かった。ビザは何とか用意しよう」
ジェラールが沈黙を破る。ライズの笑みが深くなった。
窓の外、黒雲が西の空を覆い始める。
床に耳を着けると、父に病気について説明する声が微かに聞こえた。シャトーは窓辺に寄り、頬杖をついて宵の明星を眺めていたが、ふと思い立って窓を開けた。風が彼女の黒髪を弄び、木の葉を薄暗い部屋に届ける。彼女は微笑んで、窓から身を乗り出した。
ガラシア帝国から吹く南風。向かいの山々の中腹には崩れた岩の古城や神殿の柱が見える。ここは、かつてのクロバニアとガラシアの静かな国境。
背後でノックが聞こえた。
「お父様?」
彼女は窓から離れ、扉を開ける。ビュウッと音を立てて風が吹き荒れた。シャトーの首横を用紙がすり抜ける。
「ああ、カルテが……」
腕が伸びてきて、紙を掴み取る。青年のしっかりとした腕だった。ヴィンスは片手にグラスと薬包の置かれた盆を持っていた。
「ごめんなさい、窓を閉めるわ」
窓を閉めると静寂が訪れた。宵闇と相まって部屋はしんと静まり、ほの暗かった。彼が盆を机上に置く音が響いた。
「水と薬を持ってきたんですが」
薬包を指先で摘まみ、少しかすれた低い声で彼は続けた。
「咳止めです。検査結果は陽性で―ホワイトペスト、結核です。しかし、これは粘膜の一次検査の結果であって、断定ではありません。培養結果を待つ必要があります」
機械的かつ業務的に言った後、ヴィンスが首に手を当てた。
「質問等はありますか、お嬢様」
シャトーは名前で呼んでよ、と呟くと彼の顔を見上げる。
「結核、治るのね?」
「必ず」
ヴィンスはお大事にと付け加え、盆を脇に挟んだ。よく磨かれた銀色のドアノブに手をかける。彼は足早に立ち去るつもりだった。
だが何を思ったのだろう、ふと振り返る。ぱちっと目が合った。その青みがかった瞳を見て、ああ、とヴィンスは一人でに納得する。―彼女は名残惜し気な目で、じっと見つめ返していた。
シャトーはヴィンスと目が合って、はっと我に返った。頬を微かに染めて、恥ずかしそうに眼を逸らす。艶っぽい黒髪が窓から指す光を跳ね返していた。
ヴィンスは微かに頭を下げると、部屋を後にした。
階段を降り、盆とコップを片付けている間も彼女の黒髪と瞳が頭の端々にちらついた。
ヴィンスは掃除をしていた侍女に紅茶を淹れてくれないか、と頼んだ。彼女は奇妙そうな顔をしていたので、ヴィンスは苦笑して付け加える。
「いえ。今日、お嬢様に処方した薬があまりに苦いものでしてね、お口直しが必要なんじゃないかと思ったまでなんです」
ヴィンスは紅茶のポットとカップ二つ、盆にのせて再び階段を登った。病室の前で立ち止まり、軽くノックする。
扉を開けた彼女は酷く驚いていた。
「どうされたの?」
「紅茶をお持ちしました」
ヴィンスはテーブルに盆を置き、カップに紅茶を注いだ。
「薬のお口直しと言っては何ですが」
彼が椅子に腰かける。彼女は突っ立ったまま紅茶のカップを凝視していた。
「…なにか可笑しいことでも?」
ヴィンスは訊ねた。シャトーはためらいがちに
「だって、カップが二つあるんですもの」
ヴィンスはとんだ令嬢だと、心内で舌打ちした。カップの一つを手にする。失礼しましたと心にもないことを言い、窓辺に立ってそれを捨てようとした。
「待って、違うの。そういうことじゃないのよ」
ヴィンスは紅茶を持つ手を引っ込めた。彼女の顔を見つめる。蒼白で血の気が無くて、かと思えば唇だけが妖しく紅い。こんなに綺麗な人を他に見たことがなかった。
彼女は言い募る。
「わたし、病気なのよ。酷い感染症だってカリストのお医者様が言ってたわ。お母様もお父様も、私の前で飲食どころかマスクさえ取らないのよ。こんなところでお茶するなんて……あなた大丈夫なの?」
ヴィンスは肩をすくめた。
「少しまずいかもしれない」
彼女が机に残っていたカップを手に取る。
「こんな場所でお茶会なんてしてはならないわ」
彼女は紅茶を捨てようとして―、やっぱり駄目だわ、とそのまま一気に飲み干した。
「ご馳走様。ありがとう、美味しかった」
結核には潜伏期間がある。抗体だって打ってある。だからといって保証されるものではないのだが……。ふとヴィンスは、自分は結核にはならないと思っていたが、それは浅はかな気がした。
彼はカップには口づけず、窓から紅茶を捨てた。
「足りない身分ではございますが、お嬢様の病期が完治したら、その時は」
ヴィンスは唇の端をゆがめた。
「その時は一緒に杯を酌み交わしましょう」
シャトーはこくんと頷いた。
「楽しみに待ってる」
二週間後、医師の二人組は検査結果を携えて屋敷を訪ねた。
手術しなければならない、客間でライズ医師がそう告げた時、シャトーはそこに居なかった。ヴィンスが彼女を連れ出していた。
屋敷の裏から森へ通ずる小路に、草木が揺れる音と柔らかな地面を踏みしめる音だけが響く。ポキンと枝が折れた。シャトーは尋ねた。
「なぜ、外へ出たの」
「ご家族に今後のことを説明するためです」
彼女は首を傾げた。
「わたしには説明してくれないの?」
「眠くなるだけですよ」
「ぐっすり眠りたいから聞かせて」
ヴィンスの目が少し大きくなった。シャトーは足元のフリージアを摘むと、岩に腰かけ、その黄色い花弁をめくる。ヴィンスは彼女の隣に腰かけると、ため息をついた。
「患者を不安にさせてはならない、師はそう言う。身体的苦痛を感じている人にこれ以上、精神的負荷をかけてはならないと。現実、心拍数及び呼吸が乱れるから、その言い分は正しいんだけどさ」
「何も知らないほうが怖いわ。―それに、貴方が扱うのは正真正銘、わたしの身体なのよ」
シャトーは我が身を抱いた。
「治してくれるのでしょう、必ず治してくれるのでしょう?」
ヴィンスは彼女の細い鎖骨の上、爪で引っ掻いたような痕に気が付いた。彼は口をきゅっと結んだ後、かすれた声で告げる。
「手術します。肺の一部を切除するんです。その後は薬物治療が中心となります。長く見て半年ほどかかるでしょう」
そそり立つ樹木が大きな影を作っていた。二人はその下でしばらく沈黙している。心地よい風が吹き抜けて、木の葉がさわさわと揺れた。シャトーは自身の胸に手を当てた。
「切り開くのね」
シャトーは訊ねた。
「痛む?」
少し間をおいて、ヴィンスが頷く。
「麻酔―。神経系を切り、痛みを感じなくします。でも、身体を切開するんです。その後、副作用の可能性もあるし、醜い傷は否めない」
シャトーは首を振った。
「それでもいい。治るなら」
彼女は空を滑るヒバリを見送ると立ち上がった。指先が冷え、自身の心臓の音がうるさいのを、気取られないように彼の前を歩いた。
咳の音が静かな森に響いている。
ホワイトペスト(下)
「手術を始めましょう。なに、眠っている間に済むことです」
ライズ医師が明るく言った。屋敷の角、シャトーの部屋で医師とその弟子が彼女を囲んでいる。扉の前には腕組みする父がいた。掃除婦は不安そうに部屋の中をちらちら見ながら、廊下を掃いている。
ヴィンスが懐からカルテを取り出し、シャトーに渡した。
「一番下のところ、サインしてくださいますか」
手術の同意を求む誓約書だった。シャトーは緊張した面持ちで羽ペンを受け取ると、自分の名前を書きつける。
「それではこれを」
シャトーはヴィンスの手から翡翠色の小さな瓶を受け取ると、少しためらってから一気に干した。
舌にじんとした痺れを感じて、頭がクラクラした……。
ベッドに身を預け、彼女は目を閉じた。ころんっと薬瓶がシーツの上に転がる。ライズが彼女の白い手を握るも、微動だにしない。ヴィンスはシャトーの瞼をこじ開け、瞳孔が開いているか確認する。それからライズに目配せして、ベッド下から医療器具を出した。若草色のシーツを眠る患者にかけ、ドレスの留め紐に指をかけた。
背後でライズがメスを手に取り、窓から差す光を跳ね返していた。
見慣れたアラベスク紋様の天井。カーテンは閉じられ、銀の燭台には蝋燭が二本、灯されていた。シャトーは視線を漂わせ、おもむろに上体を起こした。胸に手を当てる。妙な感覚がした。
「手術お疲れ様でした。――気分はいかがですか? 吐き気、悪寒等は」
ライズが、シャトーが目覚めたことに気が付き、微笑む。シャトーは違和感があるけれど大丈夫、と囁き返した。声がかすれた。
「違和感の正体は麻酔と呼ばれるものです。痛みを消す代わりに身体に違和感を残してしまってね。さあ、効果の切れないうちにお眠りください。でも、何かあったら遠慮なく我らを起こすように」
シャトーは頷いた。ライズがおやすみ、と優しく言った。
「あの、お弟子さんは?」
「ヴィンスなら、もう寝ましたよ」
ライズは笑って、お大事にと付け加え、部屋を後にした。
静寂の中、シャトーは燭台を掴み、大鏡の前に立った。ドレスの留め紐を解いていく。床に置かれた蝋燭の火が揺らめいた。
鏡に映ったのは、右胸の下、緩やかな円弧を描く手術痕だった。
彼女は息を飲んだ。力が抜けて冷たい床に座り込み、はだけたドレスを急いで直した。鏡に背を向け、痺れるような胸の違和感を抱いて、横になる。小さく咳をすると、ベッドが軋んだ。
彼女は再度、咳をした。胸の痺れがいつしか鈍痛に変わり、咳き込むたびに鋭い痛みとなった。留めようもない恐怖がこみ上げてきて、口元を抑える。閉じた唇から息が漏れ、喉が震えた。首に爪を立て咳き込む。唇の端が切れた。シャトーは胸をさすり、浅く息をする。
その刹那、階段を上る足音がした。ノックの前に彼女は扉を開けた。
「お医者さま?」
廊下にランプを持ったヴィンスが立っていた。彼は頷くとためらいがちに、夜分に悪いのですが、と呟く。シャトーは首を振って招き入れた。彼が言った。
「それにヴィンスと呼んでもらって結構です。こっちは雇われ人なので。―酷い痛みとかありませんか。結構大きな手術だったんです。手術痕もくっきり残るほどの……お嬢様」
彼女は服の上から手術痕をそっと撫でた。
「シャトーと呼んで。お願い」
ヴィンスが一瞬まごついた。
「ごめんなさい、気にしないで。忘れて。それに貴方、寝てたのでしょう? わたし、起こしてしまったのね。申し訳ないわ、ごめんなさ…」
「おれは医師です」
ヴィンスが彼女の腕を掴んだ。胸をさすっていたほうの腕だった。
「痛みますか」
シャトーは言葉を失って、頷くのが精一杯だった。ヴィンスはベッドに彼女を座らせ、カーテンと薄く窓を開けた。月明かりが部屋に差し込み、夜気が滑り込む。
ヴィンスはガウンのポケットから薬包を出し、小さな声で何か呟いた。苦虫を噛み潰したような表情だった。
彼女の咳が二人の張り詰めた空気を震わせた。
「失礼」
ヴィンスはドレスの留め紐に指をかけた。するすると解き、灯りをかざす。シャトーが喉を震わせた。
「な、なに……?」
白肌に浮く痛々しい縫合痕。糸には血が染みつき、その周りも赤黒くなっていた。彼の冷たい手が触れ、ぴくっとシャトーは身じろぎした。腹部に力が入って、肋骨が柔肌に浮く。息を詰め、シャトーは彼の手をじっと見つめていた。
「息を吐いて、力を抜いて」
シャトーは強張ったままだった。ヴィンスがかすれた声で続ける。
「少し縫合痕を確認するだけ……おれは医師だから……」
彼女は唇の端を噛んだ。
「分かってる。分かってるわよ」
シャトーの腹部がゆっくりと空気を含んで膨らむ。ヴィンスは手のひらで包み込むようにして、みぞおちから脇腹に触れ、上腹部の左側で手を止めた。異常なし、と彼は呟いた。
そして立ち上がり、自身のガウンをシャトーの肩にかけた。
「あまりに咳が止まらなかったら、この薬をお飲みください。気休め程度ですが。それと冷えると痛みが増します。暖かくしてください」
「ええ、ありがとう……」
その声が震えた。ヴィンスが口を開きかけ、つぐむ。急な風にカーテンがはためいた。今夜は満月。冴えた白い光が彼女の顔を照らした。
シャトーの瞳は、涙で潤んでいた。
「貴方が医師じゃなければ、どんなに良かっただろうと思ったのよ」
ヴィンスは目を見開いた。風が耳元で唸っていた。
「わたしがホワイトペストだと知った途端、誰も近寄らなくなった。皆、屋敷の前を通る時、息を止めるのよ。家族以外、わたしに会おうとはしない。ましてや誰もわたしに触れようとはしないのよ」
シャトーは顔を背けた。ごめんなさい、と嗚咽に混ざる。
ヴィンスは黙っていた。掛ける言葉が見つからないまま、ゆっくり膝を折る。ベッドのシーツに手を置く。ヴィンスの指が艶やかな黒髪に触れ、熱を帯びた頬に触れ、こちらに向かせる。そして、口づけた。
ヴィンスは彼女の紅色の唇に何度も口づける。月明りが彼らを照らし、風が立ち止まる。夜は深く、カエルや梟さえも沈黙した。
ヴィンスが唇を離した。そっと彼女の頬を撫でていく。
「そう……おれはクライシスコールに答えただけ」
彼が小さく呟き、シャトーは熱に浮かされたのようにぼうっとした瞳で彼を見つめていた。その目は歓喜に潤んでいた。
ヴィンスはシャトーを抱き寄せた。白い首筋に唇を押し当てる。
少しして彼は立ち上がった。ランプを掴み、おやすみと囁いて部屋を後にする。彼はそのまま自室に戻るのかと思えば、階段を下り外へ出た。月夜の下、井戸端に立ち、水を汲む。手を洗い、口をすすぐ。
アルコールで消毒し、眠りにつく。
結核菌が蔓延した、この部屋で口づける日々が続いた。シャトーは照れながらも微笑み、ヴィンスもまた微笑を浮かべる。二人はよく散歩に出かけた。季節が良かった。
物語の話をした。シャトーがカリストの戦争状況を話せば、ヴィンスはガラシアの商人たちの話をした。ホルスタンノープルを通って来る東洋の商人の話を面白がった。シャトーが父の話をすれば、ヴィンスはライズ医師の話をする。彼にいたっては半分以上、師匠の愚痴だったが、それもいつしか歴史や天体の話に変わった。カリスト人への文句は一切口にしなかった。
話が終われば、二人は黙っている。お互いにもたれかかり、寄り添った。くちづけを交わしたこともあった。
いつも変わらないのは、シャトーと別れた後、ヴィンスは井戸端へ行き、口をすすぐことだった。アルコール消毒も忘れなかった。
簡単な診察の後、シャトーの部屋で薬の配分表を眺めていた。彼女は向かいの椅子に座って、古い戯曲を読んでいる。紙をめくる音と、さわさわと木の葉が揺れる音だけが部屋に響く中、彼女がふいに顔を上げた。
「ねえ、ライズ医師はお忙しいの?」
最近いらっしゃらないから…とシャトーが口ごもる。
「足を悪くしたんです」
「え、怪我をされたの?」
ヴィンスは首を振った。躊躇いを感じながら、言葉をつぐ。
「十年前に無理して国境を渡ったのがいけなかった。治ったと思った怪我が老いをいいことに表に再び出て来るのは珍しいことじゃなくて」
「……それは我々への嫌味か?」
二人の話を聞いていたジェラールが冷たく言い放った。いつしか扉の前に立っていたらしい。シャトーは息を飲んで、父の顔を見た。
ヴィンスは書類から顔を上げない。
「いえ、事実を述べたまでです」
ジェラールとヴィンスの間に緊張した空気が流れる。シャトーは頬に汗が伝うのを感じながら、両者の顔をうかがった。
「シャトー、具合はどうだね」
ジェラールが尋ねる。
「良いわ。まだ少し胸が痛むけど」
シャトーは少し微笑むと、置いてあった薬を飲み干した。彼女はもう苦みに顔を歪めない。以前、そのことを訊ねるとシャトーは舌がどうかしたのよ、と囁いた。
ジェラールがじろりとヴィンスに目をやる。青色がかった灰色の瞳に射すくめられて、ヴィンスはしばし固まった。
短い沈黙の後、青年は立ち上がる。ジェラールがどこへ行くのか、と若い背中に尋ねた。
「家に帰るんです。他の患者も待ってるし、何よりライズ医師が心配なんで」
ヴィンスは振り返らずに言った。
秋。木々を見上げ、季節の変遷を知った。空高く、鱗雲は風になびき、その姿を留めない。頬をなぶる風が冷たかった。ヴィンスは革靴の紐を結びなおすと、立ち上がった。落ち葉が沢を流れ、岩陰で重なり合い、水をせき止めていた。
大きな屋敷の輪郭が見える。ヴィンスは重い鞄を持って、一人マルタン家を訪ねた。
ジェラールは奥の書斎だと、侍女が教えてくれた。
「入ってくれ」
ヴィンスは入るなり、壁の本棚に目を向けた。
「見事な書斎ですね。こんなのガラシアではそうお目にかかれない」
「……いや、ここはもうすぐカリストになるさ」
ヴィンスは弾かれたように振り返った。
「不可侵条約は破棄されるのですか」
「条約改定は今から一年後になる。西部戦線は落ち着いてきたからな。次は南部だろう。流石は占領国だ」
そうですか、という返事が幾分かすれた。ヴィンスは目を閉じ、呟く。
「ますますビザが必要ですね」
「そうだな」
ジェラールが机上に一枚の紙を置く。
「シルクロードの通行証の発行に必要な書類だ」
そう言う彼の顔が不敵な笑みに歪んだ。ヴィンスはそれに気が付かない。
「サインしてくれるかな」
「もちろん」
ヴィンスは紙を眺め、異常がないことを確認した。ペン先をインクに浸し、さらさらと書き付ける。
Vincent‐Whitford
ペンを置いた。じっとジェラールの顔を伺う。
「書きましたけど?」
「ヴィンセント・ウィットフォード。見事なまでのカリスト名だ。すまないが、本名も書いてもらわなくちゃ困る」
ヴィンスは臍を噛んだ。
「本名ですか」
「ああ。ヴィンスはどうせ偽名だろ」
ヴィンスは再びペンを執った。じっとりと汗ばんでくる。
A、と書いて息を飲んだ。それから一気に書き上げる。
Ahrens‐Bel
「…随分、思い切りが良いな」
ジェラールがしげしげと呟きながら、書面を眺める。
「偽名の上に偽名を重ねるとは、見事なものだ」
ヴィンスの目が大きくなった。
「頭文字のAは本当なのだろう。そんな目で見ないでくれ。君の気持ちは分からなくないんだ。――元々アスールは本名を他民族に明かさない風習だしな。私に仕えていた彼らも自分達のことは一切話さずに新大陸に渡った」
ジェラールは唇の端をゆがめた。
「それに、本名を明かせば足が着くのだろう」
ヴィンスはジェラールを睨みつける。
「…分はこちらにあると判っています?」
半ば脅すように声音を強めると、ジェラールは一瞬ひるんだ。しかし、彼は咳払いすると極めて落ち着いた声で、
「図星か。明かされて足がつくとは。まさか白衣の害虫(カリスト王宮専属医師を揶揄した名称)の息子じゃなかろうな」
「言いがかりはやめてください。最初に取引したでしょう。肺結核を治した暁にはビザをくれると」
「ああ。だが偽造パスだとは言っていない」
ヴィンスは唇の端を噛んだ。血がにじんで鉄の味がする。
「……二か月。二か月で結核を陰性にまで持っていくと言いました。それは必ずしも完治ではありません。薬の服用が必要になります」
「何が言いたい?」
ヴィンスは挑むような視線をジェラールに向けた。
「ビザを発行してくださるまで、薬は処方しません」
沈黙が流れた。風が音を立てて吹き込んでくる。埃が舞った。ジェラールは何も言わない。ヴィンスは歯を食いしばったまま彼を見つめていた。
ビザの発行書がジェラールの手をすり抜けて、地面にはらりと落ちる。
ヴィンスが口を開いた。
「本当に処方しなくても良いのですか。シャトーは…」
「いや。君は薬を投与するだろう」
ジェラールの断言に、これは単なる脅しではない―とヴィンスは反論する。毒を盛ることだって可能だと付け加えるほどに。
「君は娘を人質に取ったつもりか?」
「そうです」
ジェラールは悲しげに首を振った。
「君はシャトーを殺すことが出来ない」
しん、と身体が冷えていくのを感じた。胸がふさがるような心地の悪さと、吐き気がこみ上げてくる。ヴィンスは机上に手をついた。
「…馬鹿にしないでください。自分が生き延びるためなら手段を選ばないと決めたんです」
自分の口から出る言葉がとてつもなく忌々しかった。嫌気が指してくる。また、カリスト人に手玉に取られているような気がして悔しかった。
(ああ、ジェラールは気が付いていたのだ)
自分がシャトーを好いていたことを。
肺結核だと知りながら、彼女にくちづけてしまうほどに。
床に落ちた書面が目に付いた。シルクロードの通行証。これがあればカリスト王国の占領から逃れられる。東洋には薬師が中心の医学があると聞いていた。そこで自分は楽に生きられるのだ。
本名を明かせば、ジェラールは権力を駆使して王城に仕えていたアスール人を調べ上げるだろう。そして釣り上げた獲物の大きさに驚き告発する。
辿り着かれるわけにはいかなかった。
手のひらがじっとりと汗ばんでくる。ヴィンスは微笑み、ふっと手の力を抜いた。
(白衣の害虫とは何と皮肉な)
ヴィンスは、おもむろに書面を拾い上げる。
「誰にも教えられない、あの名前は」
ジェラールの鼻先で彼は書面を破り捨てた。
枯れた木立の間で彼女は深く息を吸った。新鮮な空気が肺を満たし、鼻の奥がつんとなる。風が冷たかった、屋敷に戻ろうとシャトーは振り返り、目を丸くした。
「ヴィンス?」
会うのは半月ぶりだった。少しくたびれた革靴と上着。本人も少々くたびれている様子だった。シャトーは彼に駆け寄った。
「元気だった?」
「おれはね。――体調はいかがですか、シャトーお嬢様」
彼は苦笑すると、懐から一枚の紙を差し出す。
「検査結果だよ。おめでとう、陰性だった。治ったんだよ、結核が。もう他人に感染することもないさ。でも、まだ油断できない。薬の服用は続けること。再発する可能性があるうちは」
シャトーはヴィンスに勢いよく抱きついた。
「本当? 本当なのね? 嬉しい!」
「ああ」
ヴィンスは鞄を地面に捨て置くと、彼女を抱き上げ、微笑んだ。
「薬、飲むの忘れんなよ、お嬢様」
「分かってる。ふふ、でも嬉しい。薬を届けにこれからもこの屋敷を訪ねてくれるのでしょう? 用が無くても来てほしいわ、ね?」
「出ていくよ」
ヴィンスはシャトーを降ろし、薄い唇を歪めた。
「明日の朝、ここを出ていく」
彼女の青みのある灰色の瞳がみるみる内に潤んで涙が零れ落ちた。ヴィンスはその滴を指先でただ拭うだけだった。
翌朝。すっきりと晴れて、心地よい風が吹いている。ヴィンスはショールを被り、荷物を背負い短靴をつっかけた。
屋敷の侍女にシャトーの薬を渡してある。検査書類をまとめたから、他の医師が来たときは参考にしてほしい。
(……やるべきことは終わった)
だから、心置きなく出ていける。振り返らなくとも彼女は完治できるだろう。これからはまた、ガラシア帝国で養父と潜りの医者をしながら生きていく。逃れながら生きていく。
気配を感じてヴィンスは顔を上げた。
二人でよく歩いた小道に彼女は立っていた。濃い青色のスカートが風にはためき、黒髪が揺れる。
「待っていたのか、シャトー」
「ええ。挨拶しないで出ていきそうだったから」
彼女は目を伏せた。
「行かないでとは言わない」
本当は言いたいけれど、と彼女は付け加え、顔を上げた。
「父から聞いた。貴方が私の看病する代わりにシルクロードの通行証を欲していたこと。父が発行できなかった……いや、発行しなかったことも。貴方が私を人質にできなかったことも」
口の中に苦いものが広がった。ヴィンスは顔を背ける。
「今からでも遅くないわ。本当の名前を教えて。私が発行する。ねえ信用して、黙りこくらないで。わたし、貴方に生きていて欲しいのよ。ガラシアがカリストの属領になったらどうして生きていくの、医師として生きてはいけなくなるのよ……答えて、ヴィンス」
彼女はすがるように言い募る。ヴィンスは黙ったまま諦めの滲んだ笑みを浮かべた。彼女は口を閉ざすしかなかった。もう何を言っても無駄のように思えた。
ヴィンスは身をかがめ、シャトーの紅色の唇に自分の唇を重ねた。再び目が合ったとき、彼女は涙を浮かべた目で自分をじっと見上げていた。ヴィンスはようやく口を開いた。
「お元気で、シャトローナ嬢」
彼女は涙をぬぐって頷いた。
「もう二度と病気しないわ。絶対よ。貴方以外の医師に診てもらう気はないもの」
ヴィンスの目が少し大きくなった。しばらく彼女を凝視すると、くすっと笑みを漏らした。荷物を背負いなおすと、別れの時刻を告げるかのように小さく頷く。
「さよなら、気を付けてね。カリストの警邏隊に捕まっちゃだめよ。ねえ、ヴィンス」
「ヴィンスって誰だ?」
にやっと笑って言うと、彼は踵を返した。
青年は小道を歩きながら、水の流れる音を耳にした。近くに小川が流れているのだ。本当に綺麗でおいしい、その水でよく口をすすいでいた。―くちづけのあとに。
彼は川べりに座り、両手で水をすくった。じっと揺れる水面を眺め、あることに気が付いていた。
「ああ、そうか。もう良いんだ」
すくった水が彼の手から全て零れ落ちる。
ホワイトペスト
クライシスコールとは「極限の苦痛や孤独感を自傷行為によって他人に伝達すること」だそうです。
こんにちは、更級です。復讐の医療ファンタジー「ロザリンドの毒杯」の主人公ヴィンスの苦い過去についての物語でした。4年ほど前に書いたものですが、けっこうお気に入りなんです。
最後に、この物語はフィクションですので治療方法などは実際のものとは異なる点が多々あります。どうかご容赦ください。拙作をお読みくださり、ありがとうございました。