終わりへ向かう始まりの歌

登場人物紹介

《主な登場人物》
藤崎(ふじさき)(かい)
 本作の主人公。『ぼくの手にまだ触れない』(以下「ぼく触れ」)では主人公サイドと対立する立場だった。
 本名・佐伯(さえき)(うみ)。藤崎海は画家としての名前であるが、日常的に通称として使用している。
 《光の雨》という結社のリーダーである。

植田(うえだ)(まさき)
 《光の雨》に囚われた大学教授。人工知能を専門としている。
 「ぼく触れ」のヒロイン・植田(うえだ)(きょう)(後述)の父親で、植田(はる)の息子。

《「ぼく触れ」からの登場人物》
佐伯(さえき)(しょう)
 藤崎海(佐伯海)の弟で、黒山(くろやま)理人(りひと)の弟子の一人。現在、あさぎ荘という下宿屋で、響、実紀、友香と暮らしている。

植田(うえだ)(きょう)
 植田匡の一人娘かつ植田治の孫で黒山理人の弟子の一人。「ぼく触れ」ではヒロイン。「ぼく触れ」登場初期は《光の雨》を脱走するために仕掛けられた策略のため記憶喪失だった。

黒山(くろやま)実紀(みのり)
 黒山理人の甥。「ぼく触れ」では主人公。響のことが好き。

南野(みなみの)友香(ともか)
 (しょう)、響、実紀が暮らす下宿屋「あさぎ荘」の管理人かつ、碧原(みどりはら)高校の音楽教師。理人とは大学の同級生。

下野(しもの)麻美(あさみ)
 《光の雨》の幹部の一人。本業は作曲家。植田治の弟子の一人(理人は兄弟子)。理人殺害の真犯人。

黒山(くろやま)理人(りひと)
 作曲家。実紀の叔父。植田治の弟子の一人であるが、植田治の死の原因を作ったと言われている。「ぼく触れ」時点で既に故人であるが、作中のほとんどの人に大きな影響を与えている。

《その他の登場人物》
椎葉(しいば)(めぐむ)
水無瀬(みなせ)愛梨(あいり)

序章「終わりへ向かう始まりの歌」

碧原(みどりはら)高校での実験の経過報告と、現状の変化を受けて、〈光の雨〉計画を大きく変更しようと思う」
 僕を見つめているのは、今はカメラ一台。けれどその向こうにはおよそ300の人がいる。その中でちゃんとこの声に耳を傾けているのは一割程度だろう。それで構わない。僕に一切の衆生を救う力があるわけではない。そもそも救おうだなんて思ってはいない。
 多くの人を欺いてでも、僕はこの道を進んでいくしかない。その先にあるのが偽りの箱庭に過ぎない世界だとわかっていたとしても、それが数多の屍の上に成り立つ砂上の楼閣だとしても。
「――君は、いつ頃僕に追いつくんだろうね」
 呟いた言葉はざらりとした手触りだけを残して虚空に消える。カメラの後ろの赤い光を僕は見つめた。
 僕は君の敵であり続けることを選んだ。信念があるわけでもない。慈愛の心などとうの昔に捨て去った。ただ、君が僕の前に敵として現れるその日まで、偽りの幸福で世界を蝕み続けると決めた。
 君に、この光を拒み続けることはできるだろうか。きっと抗い難いものだろう。僕には微笑まない光だけれど、それは僕たちの知る、一番の幸福なのだから。
 配信を終えて椅子に体を預けると、背中のスプリングが軋む音が聞こえた。計画の修正に伴い、やることが増えた。けれど以前の計画よりも進みは速くなるはずだ。
「……間に合って欲しいけれど」
 間に合わなければ飲み込まれていくだけだ。それならそれで構わない。偽りでも、欺瞞でも、その心にとっては真実の幸福なのだ。その中で過去の傷が癒えていくのなら、それでもいい。
 けれど――、
「僕を裁けるのは、君だけなんだよ」
 だからその日が来るまで、僕は。

 椅子に体を預けたままで目を閉じていると、背後のドアが開いて、着流し姿のくたびれた男が出てきた。僕は別に和服を着るように指示したつもりはないのだが、彼が勝手に普段はできない格好をしたいという理由で、通販で購入するように要求してきたのだ。新型コロナウイルスの影響で絵描きとしての収入がほとんどない状態では、それなりに痛い出費だ。嫌がらせなのはわかっている。
 彼は僕の背後に立ったままで言った。
「私は君を赦さないよ」
 元から赦されるようなことはしていない。今まで食べたパンの数は覚えていないけれど、この手で壊した人間の数は覚えている。
「でもあの装置をデザインしたのは先生でしょう」
「あれを響に使うなんて聞いてない」
「言ったら作ってはくれなかったでしょう。それに時間稼ぎくらいにしかならなかったし。それにあれが〈光の雨〉の効果を打ち消す可能性があるなんてハッタリを最初に言ったのは先生でしょう」
 およそ一年前の話だ。〈光の雨〉を無効化する可能性がある装置を持つ植田(うえだ)|(きょう)が計画の邪魔をしないように、一時的にその記憶を奪った。今は記憶も回復し、〈光の雨〉を無効化する装置というのも実はハッタリだったことがわかっているので、植田響は完全に自由の身だ。
「先生があんなこと言わなければ僕だってあんなことはしなかったですよ」
「人を軟禁するような人間に言われても全く信用できないんだが」
「無駄な殺傷はしたくないんですよ。殺せば殺すだけリスクになるし」
 警察などに捕まってしまうわけにはいかない。それまで生きていた人間に何かをすれば、それだけ痕跡が残る。残った痕跡を辿らられば容易に僕を見つけることができるだろう。
「それは今まで君がやってきたことを見ればわかる。だが君は――|理人(りひと)に関することになると少々冷静さを欠いているように見えるな」
「……理人さんを殺したのは僕ではないですよ」
「けれど君は、自分の部下が彼を殺してしまうのを止めなかった。普段の君なら、どれだけ邪魔な存在だとしてもそんなことはしなかったはずだ。だから出来る限り調べたんだよ。そこに君の弱点があるような気がしてね」
「先生、探偵か何かの方が向いていたんじゃないですか?」
「私の研究は人工知能について。人の手で思考するものを作るためには、人の思考について誰よりも知っていなければならない」
 彼の言葉に間違いはない。人間を模した物を作ろうとする者は、人間について知らなければいけない。構造を知らなければ紛い物すら作れないのだ。ただし、この彼の頭の良さは時に厄介だ。
「君は理人に拘っているわけではなく、理人の弟子だった君の弟に拘っているみたいだね」
「……口が過ぎると身を滅ぼしますよ、先生」
「響のことは赦せないが、理人のことについてはそれほど怒りは湧いてこないよ。ある側面だけを取って見るなら、君より理人の方がよほど残酷だ」
「恨んでいたんですか? あの人があなたの父親を死に追いやったこと」
 彼の父親は、厳密に言えば自殺だ。けれどその引き金を引いたのは理人だ。そして理人はおそらく、結末を知っていたとしても同じ行動を取っただろう。
「恨んではいなかったよ。だけど、それが理人の業だったとは思っている」
「業、ですか」
「それは今のところ機械には認識できないもののひとつだ。人はその言葉で全く無関係の二つの運命を結びつける。だからこそ興味を引かれる」
 相変わらず饒舌な男だ。理人もかなり饒舌な方だったと記憶している。この二人が一緒になったら話が止まらないだろう。似たもの同士だから仲良くなったのだろうか。僕は小さく溜息を漏らした。
「私が今気になっているのは専ら君のことだよ、|佐伯(さえき)|(うみ)
「本名で呼ぶのはやめてくれませんかね」
「だが、君が藤崎海になる前はその名前を使っていたのだろう? 私が知りたいのは君がその名を名乗っていた頃の話だ」
 他人に話せるようなことは何もない。けれど拒否すればすぐに引き下がるような人ではない。
「知ってどうするんです?」
「どうもしないさ。ただの興味だからね。私は君の業に興味がある」
 教科書に書いてありそうな善良な台詞とはかけ離れているが、それ自体は嫌いではなかった。
「私は学者だ。自分の外側にある暗闇に光を当て、絡まった糸をほぐしたり、バラバラに分解したりするのが仕事だ。それに対して芸術家の仕事は、自分の内側の暗闇から新しいものを引き出すことだ。君の暗闇とそこから生まれたものを見れば、芸術の何たるかを少しは見られると思ったのだが」
「生い立ちと作品が全然関係ない人もいますよ。理人さんもわりとそうでしょう」
「よし、じゃあ正直に言おう」
 今までのは正直ではなかったらしい。逆に僕がそんな言葉に騙されてくれるとでも思っていたのだろうか。
「君が計画を大幅に変更した皺寄せがそれなりにこっちに来ていてね。君が嫌がることのひとつやふたつやらせないと割に合わない」
「開発自体はやってくれるんですか? 響は絶対怒りますよ」
「もうひとつ言うなら、響が解放された今、君は私に対する脅迫材料を何も持っていない。私が君に従う理由はもう何もないんだよ」
 そのことには気がついていた。けれど一向に脱出を試みようとしない彼の出方を窺っていたところはある。
「……じゃあ何故、ここに居残ってるんですか?」
「私は学者として、君の計画の行く末に興味がある。人は人の心をどこまで識ることができるか。まあ、SF小説なら大抵失敗するところだけれど。でも、私が人間を識るためにここにいるのは都合がいいことに気がついたんだ。言えば何でも用意してくれるし」
 僕の懐は痛むのだが、それは気にしてはいないらしい。そしてもう一つ。
「その場合、響が敵になるのはいいんですか?」
「元々私たちは別々の人間だ。お互いに考えて選んだ道なのだから、互いに尊重されるべきだろう」
「……先生が何で出世できなかったのかは何となくわかりました」
 最愛の娘と意見が食い違うことすら恐れず、人の心を塗り潰す計画に手を貸すくらい倫理観も欠如している。正直、味方に引き込んでもすぐ裏切る可能性がある。けれど一番必要な人材なのも確かだ。
「私は人間そのものを識りたい。手始めに、君が君になった物語を聞きたいんだ」
「嫌だと言ったら?」
「とりあえず私がここから脱走して、警察にでも駆け込めば君は間違いなく捕まるよね?」
「脅迫が下手ですね、先生」
 倫理観が欠如しているとは言え、人を脅したことはないのだろう。それにここに来る前までは許される範囲での研究、踏み込んではいけないところの手前で好奇心にブレーキをかけて生きてきたのだろう。
「……まあ、ここで誰かに話しておくのも悪くはないかもしれないですね」
 過去の話。捨て去った本当の名前の物語。
 始まりは十四歳の夏、記憶の底から時折蘇る光。――僕自身も拒めない幸福の話だ。
「幸いにも時間はそれなりにある。ここは学者らしく、いったんは君の話を飲み込んでみせよう」
「人としては面白いですけど、先生って親には絶対なって欲しくないタイプですね」
「でも響にはそこまで嫌われてなかったと思うけどな」
「多分これからめちゃくちゃ嫌われますよ。仮に結婚することになっても挨拶にもきてくれなくなるんじゃ」
 彼女がこれからどういう道を選ぶかどうかはわからないけれど、彼女の未来の支えになるだろう人のことは知っている。それは父親である先生は知らないことだ。
「別にそれはいいんだけど……相手が理人みたいな奴でなければ」
「どうでしょうね」
 理人みたいな人でなければいい、というのがどういう意味なのかはわからないけれど、暫く響の近くにいるとある少年のことは黙っておこうと思った。少なくとも理人の血縁ではある。
「それじゃあ、お茶でも飲んでから始めましょうか」
 話すことは断片的な記憶を一本の線に繋ぐのにも役に立つ。どうせ世の中が足踏みしなければならない状態になっているのだ。言葉を紡ぐ時間はたくさんある。
 始めよう。終わりに向かう始まりの物語を――僕が僕になった所以と、その途上で犯した罪の話を。

1-1「Ghost of a smile」Ⅰ

「まずは、君に弟が生まれる前の話から聞きたいな」
「その時期には話すようなことはあまりないですよ」
「そうだとしても、弟が生まれることで君に起きた変化は、その前を知らないとわからないだろう?」
 そう言われても、どこから話せばいいものか。手元に置いた白い紙に鉛筆を走らせながら考える。昔から、記憶を辿るときは手を動かした方が上手くいく。描かれるのは何の形にもならない線だったりするけれど、脳内に散らばる断片を引き出す手がかりにはなる。

 僕の目は生まれつき、海を映し取ったかのような青色だった。だから海、という単純な名付けだったと聞いている。父の目も僕と同じように青かったけれど、近い親戚に碧眼の外国人がいるわけではなく、なぜかはわからないけれど、時々青い目の子供が生まれる家系だった、とのことだ。青の目は潜性遺伝らしいので、たとえ先祖に青い目の人がいたとしても、僕の代まで引き継がれるというのは珍しいのではないかと思うが、詳しく検査をしたわけでもないからそれはわからない。案外、そういうこともある、という類のものなのかもしれない。
 目の色については、同級生にもよく聞かれた。でも僕の目が青かったからといって、その人に何かあるわけではないのだ。そこに人を楽しませるような物語もないし、そもそもなんで、と聞かれても僕にもわからないのだから答えようがない。
 そんな中、たった一人だけ、僕の目を綺麗だと言った人がいた。彼女の名前は|椎葉(しいば)|(めぐむ)――小学三年生のときのクラスメイトだ。僕が言えた話ではなかったが、(めぐむ)はクラスで浮いていた。萌は教室に来るのが苦手で、一週間の半分は保健室登校していたからだろう。僕と萌が初めて言葉を交わしたのも保健室だった。
 僕は体育の授業中に膝をすりむいて、教師に一応保健室に行くように言われたので保健室に入ったのだが、そこに養護教諭はおらず、代わりに萌が静かに窓際の長椅子に腰掛けて本を読んでいた。
「先生ならもうすぐ戻ってくると思うよ」
 萌が僕の顔を見るなりそう言った。すぐ戻ってくるなら待っていればいいだろう。そう思って萌の座っている長椅子の端に腰掛けた。
「……カヤナイト」
「え?」
「今読んでる本に出てきたの。青色の鉱物の名前なんだって。見たことはないけど、あなたの目の色がそれに近いのかなって」
「僕も見たことないからわからないな」
「そうだよね。でも羨ましいな、そんな綺麗な目」
 真っ直ぐこちらを見つめてくる萌の瞳は眼鏡越しでもわかる透明な焦茶色だった。癖毛のせいであちこちから髪の毛が飛び出している三つ編みが揺れた。
「綺麗なんて言われたのは初めてだよ」
 それに、萌の目も綺麗だと思った。透明なはずなのに、暗い淵を覗き込んでいるような気分になる。
「前から話してみたいと思ってたの」
「どうして?」
「絵が上手いけど、前に図工の時間に先生に何か言われてたから」
「ああ、あれは……」
 そのときは保健室にはいなかったらしい。正直、萌がいつ教室にいていついなかったのかなんて覚えてはいない。しっかりと見られていたことが少しだけ面映かった。
「あり得ない色で塗ったら面白いかなと思ったんだけど、先生にはふざけてるように見えたみたい」
「前に読んだ本にそういう子が出てきたの。他のことは違う色に塗ったら、みんなはバカにしたんだけど、前の担任の先生だけはわかってくれたってシーンがあって。なんだかそれみたいだなって」
 萌は饒舌だったが、話題はほとんど本のことだった。本の世界に生きている子。その分、他のクラスメイトよりも言葉遣いや、考え方は大人びているような気がした。
「見えた通りに塗るだけが絵じゃないのにね」
「普段はもうちょっと普通に描くよ。お母さんがうるさいし」
「へぇ、お母さん子供の絵なんて見るんだ。うちはしまってはあるけど見てはないんじゃないかなぁ……まあ下手だしね」
「それならその方がいいよ。どこがおかしい、って毎回言われても、こっちは別に画家目指してるわけでもないし。お父さんは褒めてくれるけど、お父さんは絵が下手だから誰でも上手く見えてそうだし」
「私も下手だけど、上手い人くらいはわかるよ?」
 萌が唇を尖らせたとき、保健室の戸が開いて先生が戻ってきた。
「あら、どうしたの?」
「体育の時間にすりむいちゃって」
「そうなの。てっきり萌さんに保健室仲間ができたのかと。楽しそうに話してたから」
 先生はそう言いながら、手早く傷口を確認してから、大きめの絆創膏を貼った。これで本来保健室に来た用事は終わりなのだが、お互いにもう少し話したいと思っていた。そして萌が教室では話してくれないとわかっていた。
「また来るよ、萌」
 軽い気持ちで僕はそう言った。また萌が読んだ本の話を聞きたいと思ったし、絵の話もしたかった。けれどただそれだけのことが――僕には許されなかったのだ。

 萌のところに行くのは主に休み時間だった。さすがに授業に出ないのは何か言われそうだったから。僕が休み時間に保健室に足繁く通っていると、萌の方も前よりは教室に顔を出すようになって、担任も養護教諭も少し嬉しそうにしていた。萌の影響で僕も本を読むようになって、僕が絵を描くのを萌が見るようになって、僕たちが会う場所に図書室と図工室が増えた頃、夕飯を食べているときに母が言った。父は仕事が忙しくて、その日はまだ帰ってきていなかった。
「最近、クラスの不登校の子と仲良くしてるんだって?」
「不登校っていうか保健室登校? 学校には毎日来てるし」
「教室に行けないなら同じじゃない。仲良くするなら、もっと普通の子と仲良くなればいいのに」
「……萌と話してるのが一番楽しい。他の人が知らないこといっぱい知ってるし」
 萌は綺麗なものをたくさん教えてくれる。それは現実ではなく本の中にあるものだけれど、僕がまだ知らない甘い恋の話も、スポーツに青春を捧げる話も、幸せに終わる話も、悲しい終わり方をする話も、そのひとつひとつが美しいと思えた。そしてその話になるととても嬉しそうに喋り続ける萌のことも。
「本が好きな子なんだってね。でも、本ばっかり読んで教室に行けないなんて、お母さんには現実逃避しているとしか思えないのよ。いじめられてるわけじゃないんでしょ?」
 確かにそうだ。でも萌に教室は合わないというのはわかる。かなり本を読む子だから、小学3年生の授業の内容くらい、教科書を読んで問題を解けばある程度はついていける。無理をして、誰かと結びついていなければ身を守れないようなところに居続ける必要なんてないのだ。いじめられてなくても、特に理由があるわけでなくても、そこが自分に合わないならちょっと離れてみるくらい問題ないのではないか。
「なんか、萌がいじめられてればよかったみたいな言い方だね」
「そういうことを言ってるんじゃないのよ。私は海までみんなから浮いちゃって、教室に行けなくなったらどうしようと思って」
 もう既に目の色だけで浮いているのだけれど、とは言わなかった。どうせ何を言っても無駄だ。僕は母の言葉を適当に受け流して、早々に夕飯を食べ終わった。何を言われても、萌と会うのをやめる気はさらさらない。学校にいる間は母も何も手出しができないし、最悪先生に黙っていてほしいと言えばいいだけだ。

 萌と話すようになって半年ほど経った頃、最初に変化が訪れたのは僕の方だった。けれど僕はその変化の意味がわからなくて、何かの病気なのではないかと思いながら保健室に向かったのだった。
「どうしたの、そんな慌てて。先生ならしばらく戻らないと思うけど」
「萌」
 僕は自分の身に起きたことを萌に話した。萌は特に表情を変えたりすることなくそれを聞き、とりあえず病気ではないよ、と笑った。
「それは生理ってやつだよ」
「何それ」
「詳しく説明すると長くなるから、その前に……確かこの辺にあったはず」
 保健室の主と化していた萌は、先生もいないのに近くの引き出しを探り始めた。危険な薬などは鍵がかかる棚にしまってあるから、そこは誰が触っても問題ない場所ではあったけれど。
「とりあえず、この中にショーツと1日分のナプキンが入ってるから。あ、使い方は中に紙が入ってて、それに書いてあるって前に先生が言ってた」
 保健室のすぐ隣にあるトイレに送り出された僕は、病気ではない、という萌の言葉に安心しながらその袋を開いた。
 おそらく急にその日が来てしまった人のために、保健室にはそれが常備されていたのだろう。そして保健室登校が長かった萌は、先生がそれを渡すところを見ていたのだ。僕は中に入っていた薄っぺらいパンフレットを見ながら、どうにか処理を終えた。下腹から腰にかけて、内側から内臓を絞られているような違和感がある。
 パンフレットにはそれがどういう現象なのかという簡単な解説も書かれていた。自分が女であって、子供を産める体に成長したのだ、というただそれだけのこと。そのはずなのに、何故だか泣きたいような気持ちになった。
 とりあえず萌のところに行こう。何度か深呼吸をしてから僕はトイレを出た。
「おかえり。大丈夫だった?」
「うん。ありがと、萌」
「場所知ってただけだけどね。私まだ来てないし」
 萌の隣に腰掛けて、深く息を吐き出す。萌は何も言おうとしない僕を急かすことはなく、いつものように本を読み始めた。それがそのときはちょうどよかった。待たれていると思えば思うほど、きっと何も言えなくなっていただろうから。
「……自分の中に子供がいるって、そのための部分があるって……何だか気持ち悪い、気がする」
 萌は僕の言葉を聞くと、本のページをめくりながら言った。
「わかるよ、何となくだけど」
 けれどその気持ち悪さの正体を、萌ですら言葉にすることはできなかった。それから暫く萌は本を読み続けて、3ページほどめくったところで栞を挟んだ。
「この話、海にも読んでほしい」
 萌が今まさに栞を挟んだ本を僕に差し出す。僕は言われるがままにそれを受け取り、文字の羅列を追った。短編集の中のひとつの話。その中には、まるで今の僕のような少女が出てきた。
「……『そうなる準備があたしの体にできたのなら、すべてを一度にすませて、早く自由になりたかったの』」
「何となくわかるよ、としか言えないんだけど」
「うん。僕も……何となくわかる」
 少女の言う自由が何かはわからないけど、でも、僕たちは早く自由になりたかった。けれどその話に書いているような方法でも、僕は自由になれるのかわからなかった。そもそもそれが何かもわからないのに、最適な方法が見つかるわけもない。
「ねぇ、海」
 僕の手から本を受け取った萌が、その表紙を膝の上でそっと撫でる。現実にその本が存在していることを確かめるような手つきで、表紙に書かれたタイトルを親指で辿った。
「早く自由に、なりたいね」
 本の中の自由は何となくわかった。萌が口にした自由のことは、鍵がかちりと音を立てて開くときのように、それ以上言葉は必要ないくらいに理解できた。
 それは本にあったような、大人の男の人と体を重ねることではなくて、一人でもできることで――でもそのときの僕は、萌と一緒に自由になりたかったのだ。

1-2「Ghost of a smile」Ⅱ

「早く自由に、なりたいね」
 僕たちは死にたかったわけではない。ただこの世界から離れて、何もかもから自由になりたかっただけだった。けれどそれを説明したところで、理解できた大人はいただろうか。僕たちはお互い以外は誰のことも信じてはいなくて、だからそれは二人だけの秘密だった。
「どうせなら綺麗な方がいいな」
「でも死んだら自分の死体なんか見ないと思うけど」
 僕たちが自由になるための計画の話をするために、校舎の中で誰も来ない場所をもう一つ見つけた。屋上に続く階段。でも屋上は閉鎖されているから、階段を掃除する人くらいしかそこには来ない。少なくとも昼休みには誰も来ないから、僕たちはいつもそこに集まっていた。
「それに、綺麗に死ぬ方法なんてなかなかないよ」
 飛び降りは内臓が飛び散ったりすることもあるし、水死体が土左衛門と言われる状態になることは広く知られている。首を吊っても体液で汚れてしまうこともあるらしいし。
「じゃあ誰にも見つからないところで、っていうのはどうかな?」
「誰にも見つからないところ……」
 でも、僕の母親は地獄の果てまでも追ってきそうだ。それを愛だと呼ぶ人がいることは知っていたけれど、僕にとっては重い枷だ。
「それで、できれば景色がいいところ!」
「確かにそれはいいかもね。海とか」
「海だけに?」
「……海はやめとこうか」
 その計画は、おそらく実行なんてされないのだとお互いにわかっていた。完璧な計画なんてありえない。理想が高すぎて実現不可能。僕たちの計画はそういうもので、けれどその話をしているときは楽しかった。
「森の中に誰も知らない泉があって、その近くとか」
 (めぐむ)が言う。萌が見たい景色はだいたい本の中にあって、現実にはおそらくそんな場所なんてないと思うようなところばかりだった。それでも僕は、萌とその場所に行きたかった。白紙のスケッチブックに2Bの鉛筆を走らせて、夢の景色を描く。
「夜になると蛍とかも飛んでるといいなぁ。見たことある、蛍?」
「見たことないけど、蛍なら苫利まで行けば見られるんじゃない?」
「あそこはみんな知ってるじゃん。それに野生ではないし」
「そっか」
 萌は本を閉じて、僕の手元を覗き込んだ。そして何も言わずに僕の肩に頭をもたれた。
「海の絵って、なんだか優しい感じがするね」
「そう?」
「なんか安心する。私は好きだよ」
「……ありがと」
 萌はいつも真っ直ぐに人を褒めるから、うまく応えられなくなることがある。嬉しいのだけれど恥ずかしくてむず痒い。でも褒められるとその線のひとつひとつすら輝いているようで、僕はその線がぼやけないように、触れそうで触れない距離でそれをなぞった。
「そういえば、頸動脈の場所覚えてる?」
 その話をしたのは昨日のことだった。萌が読んでいた本に、首を吊って死ぬときのコツとして書いてあったのだ。できるだけそこを圧迫した方がいいらしい。
「この辺でしょ」
 萌の首筋に手を伸ばして、指先で脈動を感じる場所に触れる。萌はにっこりと笑って、正解、と言った。
「海のはここだね」
 萌の指が首筋に触れる。ジェットコースターで落ち始める瞬間のような浮遊感。僕は思わず萌の手を掴んだ。萌が不思議そうに首を傾げる。
 奇妙な感覚だ。喉が渇いているような、それでいて体は汗で濡れているような。このまま萌が手に力を入れたら僕は死ぬのだろうか。それも悪くはない、と思った。
 僕たちの静寂を裂くように、昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。どちらともなく立ち上がって、階段を降りていく。
「じゃあ私は保健室に戻るから。またね、海」
「うん。またね」
 その頃僕たちは死ぬことばかり考えていた。けれど死にたかったわけではなく、そういう遊びのようなもので――無邪気な子供が時折残酷な遊び方をするのと何ら変わりはなかった。
 そのまま誰にも気付かれなかったら、今頃僕らはどうなっていただろうか。――今でも時々そう考える。

 秘密が発覚したのは、ひとえに僕たちの見通しが甘すぎたことが原因だった。昼休みに屋上に通じる階段を使う人はいない――とは限らなかった、というだけの話だ。
 そのとき屋上に来たのはあまり干渉して来ない担任でも、聞かないふりをしていてくれる養護教諭でもなく、厳しいことで有名な学年主任だった。僕たちは追い立てられるように生徒指導室に連れて行かれて、口角に泡を飛ばして熱弁を振るう先生の言葉を聞かなければならなくなった。
 本気ではなかった――なんて言っても解放してもらえる雰囲気ではなかった。学年主任にとっては、この世界には生きたくても生きられない人間がいるのに、今死ぬかもしれないという恐怖の中にいない僕たちがそういう話をしていること自体が悪らしい。けれどどこか遠くで死にそうになっている人たちのために考えることをやめたからといって、その人たちが救われるわけではない――そんな反論は、説教を長引かせるだけとわかっていたから言わなかった。
「……じゃあ、本当に死にたくなったときはどうすればいいんですか?」
 先生の言葉がひと段落したとき、それまで俯いていた萌が声を震わせながら言った。
「みんなそう。そうやって綺麗事ばっかり言って、助けたと思ったら、生きてればそれでいいって手を離す」
「椎葉」
「生きたい人のところに命はなくて、死にたい人のところに命はある。そんな風に言うなら、私の命を生きたいと思う誰かに使えばいい」
 萌の言いたいことはわかる。けれど先生には絶対にわかってもらえないことだろう。積極的に死にたいと思っているわけではないけれど、生きたいと思っているわけでもない。ただここから消え去ってしまいたいだけで、僕たちはそれを自由と呼んでいた。
「萌」
 何言っても無駄だよ、と目で合図する。真剣に話を聞いているふりをすれば、そのうち解放されるのだ。そのあとはもっと上手く隠れればいい。でも、萌は静かに首を振った。
「……別に死にたいわけじゃないけど、読みたい本も読めないなら、死んだ方がまし」
「椎葉……」
「先生、私がそういう本ばっかり読むのを嫌がって、何度もうるさく言ってきた! だから、私は――」
 萌の言葉で思い出したことがあった。この学年主任は、昨年までは二組の担任をしていた。そして萌は昨年二組に所属していた。僕が知らない事情があるのだ。そしておそらく、萌が教室に行けない理由はそこにある。
 この教師はおそらく善意で、萌の読書傾向を矯正しようとしたのだ。そして萌はそれから逃げて、自由に本を読める保健室で過ごしていたのだ。養護教諭は、基本的には干渉して来ない人だ。萌が読んでいる本も把握していないだろう。きっとそれが萌にはちょうどよかった。
 読みたくて読んでいる本を否定されるのは、萌にとっては拷問に等しい出来事だったのだ。大人の言葉を適当にいなして、隠れて読むようなことは出来ない不器用な人だ。
 でもこのままでは膠着状態だ。どうしようかと考えを巡らせていると、救いのように予鈴が鳴った。先生は授業がはじまるから、と話を切り上げて部屋を出ていく。静かさを取り戻した場所で、僕は細く、長く息を吐き出した。
「……ごめんね、巻き込んじゃって」
「巻き込まれたとは思ってないよ。僕も先生の言ってることには納得できないし」
「でも、どうして私は……」
 どうして私は、普通に出来ないんだろう。
 萌のその言葉が突き刺さった。涙を流す萌に何かを言うこともできない。僕が言ったところで説得力なんてない。繕うことができる僕と、できない萌。それは目が良い人と悪い人くらいの違いでしかないのに、それだけで大きな差ができてしまう。
「わかってるんだよ……自分がおかしいことくらい……」
 その小さくて、ほんの少しだけ丸みを帯びた体を抱きしめる。そのくらいしか今の僕にはできなかった。でも、僕は思う。
「萌はおかしくなんかないよ。……人の形は色々だから、ひとつの枠に当てはまらなかったら異常、なんてことはない」
 そんなことは綺麗事だとわかっていた。実際は、枠に当てはまらない人間は無理やり形を変えられるか、枠の外の、誰にも顧みられない場所に追いやられるか、だ。それでも萌には自由であってほしかった。

 萌の転校が決まったのは、その数週間後だった。父親の仕事の都合でフランスに行くらしい。後で知ったことだが、萌の父親は転勤族で、しかもこの碧原(みどりはら)特有のある仕事をしていたのだ。
 もう少し僕たちが大人なら、もっと色々なことに抗えただろうか。でももう少し大人だったら、きっと萌はそのときよりもこの碧原では暮らし難かっただろう。でも、声を発したところで聞いてはもらえず、逃げ出すにしても限界があって、あのときの僕たちは本当に何の力もなかったのだ。
「……もっと海と色んな話したかったのにな」
「うん」
「仕方ないってわかってるんだ。でも、せっかく仲良くなれたのに」
 僕たちにはどうにもできないことがある。それが世界にはあまりにも多すぎるのだと、僕たちは既に知ってしまっていた。
「ねぇ、海。最後にお願いがあるんだけど」
「何?」
「『そうなる準備があたしの体にできたのなら、すべてを一度にすませて、早く自由になりたかったの』」
 萌は本の一節を呟いて、少しだけ悲しそうに笑った。
 そんなことをしても自由になんてなれない。あの物語の結末では、結局少女は世の中の理不尽に押し流されて、その体を冷たくする。
 体が大人になった証に血が流されて、それなのに心は、自分自身はまだ子供のままで、そんなままならない全てに、無駄だとわかっていても抗いたくて。
 保健室には今、誰もいない。
 萌は今まで行儀よく座っていた長椅子に横になって、僕のことを静かに見つめていた。
「いいよ、萌」
 その体にのしかかるようにして、指を絡めて、恋人同士がするように唇を合わせる。その行為は、今まで本の中にしかなかった。けれど今、萌の柔らかさを、その温度を、僕の肌と粘膜が感じている。
 その先の行為は必要ないのだと、萌に聞くまでもなく僕は理解していた。そんなことで大人になんてなれはしない。自由にもなれない。
 これは屋上に続く階段で死ぬ方法を考えていたときと同じで、だからきっと、僕たちはこうやって窒息していくことを望んでいたのだ。

 さよならは言わない。
 けれど僕たちはもう、一生会うことはないだろう。何年か後に会ってこの瞬間を汚してしまうくらいなら、もう二度と会いたくはない。
 風化する記憶の中で磨かれて、今よりもずっと美しく補正されていけばいい。

fragment #1「Aアングル」

 まさか自分が結婚するなんて思っていなかった。望んでいなかったとかそういう話ではなくて、そこまで生きるイメージができていなかったのだ。けれどそれなりに歳を重ねて、大人と呼ばれる年齢になって、社会というものにも少しずつ慣れ、来月に結婚式を挙げることになっている。
 親の仕事の都合でフランスで6年過ごして、最初は言葉も通じなくて苦労したけれど、その場所は、少なくとも私には合っていた。いい意味で放任主義で、私は好きな本を好きなだけ読んでも何も言われなかったのだ。
 フランスにいた頃はそれなりに楽しかったし、日本に戻ってきてからも、良くも悪くも全部「帰国子女だから」で片付けられて、私が何か変わったことをしても、それを咎める人はほとんどいなかった。私の人生は私が思い描いていたものよりもずっと穏やかで、平凡で、それでも棘のように抜けない記憶があった。
 一瞬たりとも、海のことを忘れたことはない。
 2人でいた時間は短かった。でも、私の心に一生消えない思い出として残るには十分だった。
 最後の日、保健室でキスをしたとき、海がその先に進もうとしなかったからこそ、私の中には記憶がなかったのだと思う。もっと繋がってしまったら、互いの体を知ってしまったら、きっとそこで終わってしまっただろう。だから私たちはきっとあれでよかったのだと思う。
 海が今どこで何をしているのか、私は知らない。けれど元気であればいいと思う。連絡先を知らないから結婚式の案内状一つ出せなくても、私たちはきっとそれでいいのだ。

 婚約者は美術館通いが趣味だった。だからデートは五回に一度は美術館。私は絵を見る知識だけは本で得ていたけれど、感覚で楽しむ彼のようなことはできずにいた。
 入り口までは一緒に行って、そこからは好きなペースで見て回って、出口で落ち合う。それはデートなのかと友達に聞かれたこともあるけれど、この後喫茶店で話すところまでがセットだから問題ない。映画館デートだって、映画の間は黙ってスクリーンを見ているだろう。
 今日は若き日本人のアーティストの作品を集めた企画展らしい。企画展のテーマは「瞬き」。その言葉をキーワードにキュレーターが選んだ作品が中心らしい。
 気になる作品の前では長く立ち止まり、近付いたり、遠ざかったりする。そうやっているうちに自分の感覚が言語化されていく。言語化された感覚は、頭の中に詰め込まれた知識の索引から、感動の理由を引き出してくる。
 私は言葉がなければ生きられない。絵も、音楽も、食事も、愛情さえも頭の中で言葉に変換してからでなければ味わえない。
 そして私は、一枚の大きな絵の前で足を止めた。
 それはありえないほどに、美しい景色の絵だった。森の中の誰も知らない泉。雨のように降り注ぐ蛍の光。けれど目を凝らせば、泉の底には赤い紐で繋がれた骸骨が二つ沈んでいるのが見える。
 その作者の正体を突き止める必要なんてない。この絵は海にしか描けないと、私が知っている。絵の横の小さなプレートには「自由」というタイトルが掲げられていた。
 あなたのことを忘れたことは、一瞬たりともなかった。けれど記憶の中にある彼女よりも成長した彼女が、今、自分の目の前に立っているような気がした。
 私が手に入れたささやかな幸福は、あのとき望んでいたものとは大きく違っている。胸を張って幸せだと言うことはできる。でもその陰で、過去の自分が顧みられなくなっていたことに気付かされた。
 忘れたわけではない。ただ、どの道を選んでも間違いじゃない分岐点で、私たちがこの未来を選ばなかっただけだ。‪
 選ばなかったその道を見つめていた私が、まだ私の中にいる。それは私の幸せに少しだけ影を落とすものだ。幸福であることを拒み続ける幼い私。
 だって誰かが描いたような、普通の幸福なんていらなかった。普通はいつも私を閉め出してしまうから。そして私だって、自分を偽って普通である振りなんてしたくなかったから。
 ごめんなさい、なんて言ったら、海はきっと少し悲しそうな顔をするだろう。
 でも、世間で言われる幸福の中に身を置こうとしている自分に、どこか後ろめたさがある。私は違うんだ。ちゃんと考えて、自分をありのまま愛してくれる人がいて、その人と生きていきたいから結婚するんだ。そう叫んだところで聞いてくれる人はほとんどいないだろうし。
 そんな私を、海の絵は赦してくれるような気がした。そんなことなんて考えずに描いていたのかもしれないけれど、流れていく時に抗うように、私たちが藻搔いていたあの時間を縫いとめていてくれるから。
 いつかまた会えるだろうか。そのときは、最後まで海に言えなかったことを言おうと思う。
 ――カヤナイトが出てくる小説を書いたのは他の誰でもなく、私自身だ。
 その姿を一目見たときから深く透明な青色に惹かれて、戯れに書いた小説にその瞳を登場させた。私と海が初めて話したのはそのあとのことなのだ。
 私はずっと、あなたが好きだった。
 そして今も――青の瞳なんて珍しくもないような国に行ったあとでも、あなたの目ほど美しい青を私は知らないのだ、と。
 カヤナイトの瞳は、いま何を見つめているのだろうか。願わくば、それが少しでも美しいものであればいいのだが。

「気に入った絵でもあった? 随分熱心に見てたみたいだけど」
 出口で待っていた婚約者が言う。私は笑みを浮かべて、心の中で過去の輪郭をなぞった。
 海のことは彼には言わないでおこう。過去は過去のまま、誰にも触れられないところに、縫いとめておきたいから。

2「眠りの家」

 (めぐむ)の話を人にしたのは多分初めてだった。記憶はあちこち曖昧になっていて、実はもう萌の声を思い出すことができない。その姿は絵に残していたからわかるけれど。
「それで、その萌さんという子のお父さんは何の仕事をしていたんだい? なんかさっき匂わせるようなことを言っていたけど」
「原発関係ですよ。フランスは多分研修か何かかと」
「なるほど。小学生には確かに関係のない話だ」
「家によっては関係あったのかもしれないですけどね。あの家の子とは遊んじゃいけません、とか」
「酷い話だよねぇ。子供は関係ないのに。それで、フランス行った後の彼女のことは把握してるのかい?」
「事実は知ってますけど、特に知っておく意味はないことですね」
「会いに行こうと思えばいつでも会えるのでは?」
「……会わない方がいいですよ、きっと。僕と彼女の道は全く違うものになってしまったんだから」
 喋り続けると喉は渇くし、お腹が空くので、二人分の軽食と飲み物を用意してもらった。麻美が焼いたというフィナンシェを食べてからコーヒーを飲んで小休止を挟んでいると、同じようにフィナンシェを食べた植田(うえだ)先生が言った。
「それで、その少し後にいよいよ君に弟ができるわけだ。随分と歳が離れているよね」
「……僕と(しょう)の間に二人いるんですよ。まあその二人は両方とも安定期に入る前に流産してしまったんですが」
「不妊治療とかはしていたの?」
「一人いるからそれでいいだろう、と積極的にはしていなかったと思います。まあ、それは父の意見でしたが。母は二人目に――というか、男の子に拘っていたみたいです」
 父があまり不妊治療に乗り気でなかったのは、おそらくもうひとつ原因があるだろう。そして父が背負っていたものは僕にもしっかり受け継がれてしまっている。
「詳しくは調べてないんですが、どうも父方の方が遺伝子に何かあるんですよね。多分この目の色もそれに関係してるとは思うんですが」
「なるほど。そのあたりは専門じゃないから全然わからないね。……それで、君の母親は何故男の子に拘ったんだい?」
「……それについては回答を拒否します」
 理由は勘付いているが、口にしたくはない。それはその時代であればそれなりにあっただろう平凡な話。けれど母の事情についてはあまり考えたくない。
「わかった。君が話したくないことを無理に聞くつもりはないからね。――じゃあ、続きを話してもらおうか」
「ところで、僕からもひとつ聞いていいですか?」
 今まではたいして興味もなかったから把握もしていなかった。けれど、家族の話をする前に、自分がどこに立っているのかを知っておきたかった。もしかしたら参考にはならないかもしれないけれど。
「響の母親って、どんな人だったんですか?」
「今からでも私が産んだことにならないかな」
「何言ってるんですか」
「だって人類がこの世に誕生してからそれなりに月日が流れたんだよ? そろそろ男が子供を産めるようになっててもいいじゃないか」
 はぐらかそうとしているのか、本気なのか。いまいちこの人は掴めない。研究者としては優秀なのだが。
「人間は自然を利用して発展してきた。その中で自然を破壊するようなことも、摂理に歯向かうようなこともしてきた。それなのに生殖の面だけ聖域のように守られているのは、逆に人類の怠慢だと私は思うね」
「人間の生命そのものには触れてはいけない、と考えられているのでは?」
「でも医学を含むさまざまな科学技術が、私たちの寿命を本来のものよりもずっと長く伸ばしている。それは生命に手を加えていることになるのでは? 実際にそういう宗教もあるだろう。延命のための治療は神の意思に背く行為だって」
「……先生、子供産んでみたいんですか?」
 この人ならそう思っていてもおかしくはないが、僕だったらこの人からは絶対に生まれたくない。僕が言えた話ではないが、倫理観が多少捻じ曲がっている気がする。
「そうなれば、子供が欲しいという感情に男だけで始末をつけることだってできるなと思っているんだよ。あと、生殖の面は『そういうものだから』ということで、苦痛をいまだに除去出来ていないことも多い。人類はさまざまなものを自らの手で支配できるようになってきた。だったら生殖行為も支配すれば人類はもっと先にいけるかもしれない、というのが私の考えでね」
「で、僕の質問には答えてくれないんですか?」
 このまま話を聞いているのも面白そうではあったが、それでは日付が変わってしまいそうだ。僕は先生の言葉を遮って言った。
「響の母親、つまり私の妻は、ピアニストだったんだよ。とはいえ体が弱くて、演奏活動はほとんどできなかったんだけど」
「芸術家もなんだかんだ体力がなければやっていけませんからね」
「私の父親は作曲家だけど、ピアノを弾くのは苦手だったから、浩子(こうこ)が助手のような仕事をしていたんだけどね」
「理人さんも麻美も、ピアノはあまり得意ではないですもんね」
 けれどその名前は表には出ていない。裏方に徹したのか、それとも意図的に出さないようにしていたのか。
「……浩子が子供が欲しいと言ったとき、私は必死で説得した。出産に耐えられるような体じゃないとわかっていたから。でも、どうしてもと言ったから――愛の証を残したいのだって。私には全く理解できない気持ちだったけれどね。別に子供という形でなくてもいいと思うんだけど……その話は結局平行線のままだったな」
「正直僕にも全く理解できないので何も言えませんけど、先生の方が折れたってことですか?」
 先生なら色々と並べ立てて説得しそうだが、それでも意志は硬かったのかもしれない。僕には命を賭してまでやることとはとても思えないけれど、そう考える人がいること自体は否定しない。
「それで、出産自体はなんとか問題なく終わったけれど、そのあとに体調を崩してしまって――響が一歳になった直後だったな」
「そうですか」
「何で急にうちの話なんか聞くんだい?」
「僕には母親のサンプルがあの人ひとりだけなので、気になっただけです」
 僕にはわからない。あらゆる母親というものが不気味な存在に思える。どうして新しい命を生み出すそのためだけに命をかけることができるのか。そして自分の身の中で、別の生命を育むというその感覚が理解できない。
 それでも彰が生まれたときだけは、その小さな生命を愛おしく思っていたのは事実だ。

 2002年9月10日――。
 父に起こされて、弟が生まれたことを教えられた。夜に陣痛が始まって、深夜の出産になったのだ。僕は耐えきれず寝てしまって、その間に最初の沐浴まで済んでしまっていた。どちらにしろ分娩室に入れるのは父だけだったので起きていたところで何かできたわけではないけれど。
 新生児室のガラス越しなら面会ができると聞いて、僕は父に連れられてそこに向かった。生まれたばかりの赤ちゃんなんてだいたいどれも同じだと思いきや、すでにその顔立ちには個性らしきものがあった。
「……寝てるね」
「生まれたばっかりだからなぁ」
 感染予防のため、きょうだいが直接会えるのは退院してからだという。それまではガラス越しだ。透明なケースのようなベッドに入れられて、まだ何も知らない顔で眠っている。それが僕の弟だという実感は、さすがにすぐには湧いてこなかった。

 数日後、母子ともに健康な状態で退院となり、僕ははじめて彰と名付けられた自分の弟に触れた。
 かわいい、だとかそういう月並みな言葉を超えて、思わず顔が綻んだ。やわらかな生命そのものに触れたような、そんな熱が肌に残った。

 それから家にいる時間の半分は眠っている赤ん坊の近くで過ごした。と言っても本当に寝てばかりいる子供で、起きてくるのはお腹が空いたときだけだったけれど。
 母はそんな僕を見て少し呆れているようだった。可愛がっていればいいだけの人と、目を離すとすぐに死んでしまうような存在を生かすために世話をしなければならない人とは感覚が違うのだろう。代わりにできることは色々あるけれど、さすがに母乳がでるわけでもない。不規則に叩き起こされればうんざりもするだろう。
 けれどそのときは、なぜか根拠もなく幸せな未来なんてものを想像することができた。大きくなったらみんなでどこかに出かけようだとか、そんなことをよく考えていた。

「なんですか、その目は」
「いや……筋金入りのブラコンだと思って」
 否定はできないけれど、先生があまりにも引いているので、僕は溜息を吐いた。
「気付いてないかもしれないけど、一度も見たことのない顔してたから。君がそんなにニコニコ笑ってるところは初めて見たよ。表情筋、筋肉痛になるんじゃない?」
「ここぞとばかりいじってくるのやめてもらえませんかね。でも見てて飽きない子供だったんですよ。すごく寝相悪くて」
 寝返りを打てるようになる前から、気付けば体が90°回転したりしていた。それが面白くて、今では寝相アートなどと呼ばれる遊びをして写真を撮ったりもした。今でもその写真はこっそりしまってある。
 その写真をちらつかせたら、彰は絶対に嫌がるだろう、なんて。
「響は逆にすごく寝相が良かったな。寝返り返りもすぐに覚えて、自分で元の位置に戻っていったんだ。すごいだろう?」
「……僕のこと言えるんですか、その顔。しかも今は確実に娘に嫌われそうなことをしておいて」
「それは君も同じだろう」
 同じ人に奪われてますしね、とは言わないでおいた。あとで面倒なことになっても困る。このままだと埒があかないから話を変えよう。
「……理人さんの曲に、『蛍』ってすごく短いピアノ曲があるの、知ってます?」
「そりゃあまあ、響がたまに弾いてたからな。晩年の作品だろう?」
「あの曲、すごくよくできてるんですよ――最悪なことに」
 音で呼び起こされる記憶がある。その曲は、かつて僕が見た景色をそのまま思い出させてしまう。それが他の誰かの曲だったらどれだけよかっただろう。よりにもよって、あの人の曲なんて。
「……苫利(とまり)村の蛍。僕も彰も、そして理人さんも、それを見ていた」

3「うたかた花火」

 それは14歳の夏休みが始まる少し前のことだった。僕の夏休みといえば日がな一日机にかじりついていなければ母に怒られて、隠されて絵を描いているのが見つかろうものなら、その絵を問答無用で捨てられる。そんな生活だった。けれど父がいるときは母も少しは大人しい。怒りに身を任せる母を宥めるのはいつも父の役割だった。
 12歳離れた弟の(しょう)はまだ2歳で、他の子よりも言葉が遅いことを母が気にしていた。けれど成長には個人差がある、ということを僕は既に知っていた。母の本棚にある育児書の類を隠れて読んでいたからだ。だからこそ僕は教育熱心に見える母の欺瞞に気がついていた。母は本に書いてあることの半分も実践できていなかった。都合の悪い記述は見ないふりをしていたのだろう。
 そういうわけで、ずっと家にいなければならない夏休みは少し憂鬱だった。彰と過ごす時間が増えるのは嬉しかったが、あまり遊んでいても叱責が飛んでくる。父がいない昼間は大人しくしていなければならないのだ。
 そんな夏休み前のある日のこと、父が急に「蛍を見に行こう」と言い出したのだ。車で1時間ほど行ったところにある苫利村というところは蛍で有名で、その日は蛍祭りが行われるとのことだった。
 母は興味がないから行かないと言ったので、父と僕と彰の三人で行くことになった。
「そういえば前に買った浴衣があったよな」
「いいよ別に。サイズ合わないかもしれないし」
 数年前に買った青い金魚の浴衣。その当時はむしろ大きいくらいだったので、今ならきっとぴったり着られるだろうと思った。けれどその浴衣は母の気に入るものではなかったから、押し入れにしまい込んでいたのだ。
「ちょっとくらいなら短くてもなんとかなるんじゃないか?」
 そういうことではないのだけれど。父は僕の言葉を聞き流して、押し入れの中を探し始めた。溜息を吐きながら父から目を逸らすと、僕の後ろにはもう既に甚平に着替えさせられた彰が立っていた。僕が選んだ紺地に花火柄の甚平。父の着せたものには文句を言わない母は、無言のまま食器を洗っていた。
「あったぞ。ちょっと防虫剤の匂いするけど、虫には食われてないみたいだ」
 防虫剤の匂いがするのに虫に食われていたら、それは防虫剤が効いていないということになるのではないか。そんな至極当然のことを思ったりもしたが、口には出さずに浴衣を受け取った。出されたものを突き返すわけにもいかないし、白い布の上を尾鰭を翻して泳ぐ青い金魚たちは、数年ぶりに見ても僕の心を躍らせた。
「着替えてくる」
 部屋に戻って、覚束ない手つきで何とか着付けを終えてドアを開けると、父が彰と遊びながら待っていた。
「草履も見つけたぞ。そろそろ行こうか」
 浴衣は良かったけれど、草履は少し小さかった。けれど履けないほどではない。先に彰を右肩に乗せて車に向かう父が、振り返って少し遅れた僕を待っている。僕と同じ青い瞳。父の家系には青い瞳の子供が時々生まれるという。日本人には珍しいから、この目の色をからかわれることもあったが、僕にとってはそれが僕の体の中で一番好きな部分だった。
 車で一時間ほど走ると、苫利村の祭り会場に到着した。まだ日が完全に暮れていないのに、既にそれなりの人出がある。
 苫利村というのは人口規模はとても小さい村ながら、現在の財政状態は非常に良いと言われている。それはこの村だけの力ではなく、この村が受け入れた原子力発電所に伴うお金が財政を潤しているのだ。このときは知らなかったが、蛍の保護活動にお金を使えるようになったのもその関係なのだという。
 水路も、それを見るために人間が通る道も、何もかもが人の手によるものだったのに、そのときは気が付かなかった。夕暮れの中でも蛍は光り始めていて、どこかの子供が一番星を見つけたときのようにはしゃぐ声が聞こえた。
「足元、気を付けろよ」
「うん」
 それまで吹いていたぬるい風が、汗ばんだ首筋を撫でる心地よい風に変わる。空気は藍色を濃くして、本格的な夜がやってきた。
 あちらこちらで薄緑色の光が灯っては消える。父は光を見つけるたびに彰に話しかけていたが、彰は既に少し眠そうだった。確かにいつもならもう少しで寝る時間だ。私は父があまり話しかけてこないことをいいことに、蛍の明滅を目に焼き付けていた。
 蛍の姿は僕が想像していたものとは少し違っていた。もっと雨のように光が降り注いでくるのだと思っていた。けれどついては消えるその小さな光に僕は夢中になった。それが頭の中で思い描いていたイメージと結びついて一枚の絵を描き出す。
 今ここに紙と鉛筆さえあればすぐに描くのに。そう思ったけれど、小さな巾着の中には財布しか入っていないのだった。家に帰るまでこの絵を忘れずにいられるだろうか。そう思いながら蛍を眺めていると、父が僕に声をかけてきた。
「そろそろ帰ろうか。彰がだいぶ眠そうだ」
「うん」
 ちちに背負われている彰はもう目を閉じてうとうとしていた。その花火の柄の甚平を見ていると、父が言った。
「彰がもう少し大きくなったら、今度は花火大会とか行こうな。今はまだ音でびっくりするだけだろうから」
「うん、そうだね」
 車に乗り込んで、後部座席のシートにもたれかかる。もう家に帰るだけだから帯が崩れるだとかそういうことを気にする必要もないだろう。チャイルドシートに寝かされて目を閉じている彰の髪をそっと撫でた。子供が花火を綺麗だと思えるのは、一体何歳くらいからなんだろう。そのときになったら、今度は二人で浴衣を着たりするだろうか。そんなことを考えながら、僕もゆっくりと目を閉じた。

 結論から言えば、その「今度」が訪れることはなかった。
 だいたい五歳くらいになったら花火を楽しむこともできるんじゃないだろうか、と思っていたけれど、そのときを待つこともなく、父が死んだのだ。
 それは唐突な、自分たちに関係なければ数字でしか語られないような、何の変哲もない交通事故だった。
 長く病気で苦しめばよかったとかそういう話ではなく、ただあまりにも突然のことで、僕たちは何の準備もなく嵐に呑み込まれたのだった。人が死ぬとやることがたくさんある。生まれたときもたくさんやることがあって感慨に浸る暇もないけれど、死ぬときもそうなのだと僕は知った。子供の僕になにかできるわけでもないので、ただ母がやっていることを見ていることしかできなかったけれど、突然降って湧いた不幸に、僕たちに構っているような余裕はなかった。
 けれど僕よりも更に小さい彰にはそんなことがわかるはずもなく、父がいない上に母も忙しくしている状況でストレスを溜め込んだのか、友達を噛んだりするなどの問題行動をするようになった。その対応で母はさらに忙しくなる。完全な悪循環だった。
 だから家にいるときは、なるべく彰と一緒にいるようにした。それくらいしか僕にできることはなかった。とはいえそのときの彰は口数も少なく、僕は僕と話そうとはしない彰の隣で、ただ絵を描いて気を紛らわしているしかなかった。
 しばらくすると、彰が僕の手元を覗き込んできた。
「これって、はなび?」
「そうだよ。保育園で教えてもらった?」
 彰がうなずく。同じほし組のなんとかくんが花火大会に行った話をしていたらしい。そういえばこの忙しい日々で忘れていたが、二週間ほど前に近くで花火大会があったのだった。本当だったら今年ならもう一緒に見に行けたかもしれない。けれど浴衣を描いに行く時間すらなかったのだ。
「花火大会、行ってみたい?」
「うん!」
「じゃあいつか僕が連れて行ってあげるよ」
 彰は多分、父の「今度」を知らないだろうけれど。それでも約束をしようと思った。人はある日突然死んでしまうこともあるし、「いつか」が来るなんて保証はできないけれど、人は未来に光が見えなければ生きていけないから。
「そのときは浴衣でも買おうか。花火柄とかどう?」
 花火を見に行くのに花火柄なんて変かもしれない、と言ってから思ったけれど、彰はすっかり乗り気になっていたようだ。僕はそれから何度か花火の絵を描いた。
 ――実際には、そのあとも一度も花火大会になんて行けなかったけれど。

「理人さんの『蛍』って曲は、五曲くらいあるピアノ組曲のひとつですよね」
「そうだよ。君のせいで遺作扱いだけどね、あれ」
 作品としては完成していたが、未発表だったものが出てきたので出版されたのだ。その出版には植田(うえだ)先生も関わっていることは知っている。
「あれだけは死ぬ前に出してほしかったんだけどねぇ。響のお気に入りでもあるし」
「僕は嫌いですけどね」
「それはあまりにも出来が良すぎるからだろう?」
 認めざるを得ない。あれは理人さん以外には決して書けなかっただろう曲で、紛れもなく僕たちが同じ風景を見た証左でもある。
「苫利の出身だというのは聞いていたんですけどね。――あれが原風景というやつなのか」
「皮肉にも君の原風景とよく似ているんだね。私にはそこまであの曲の良さがわからないから。響は同じ組曲の『鐘』って曲が好きだって言ってたな」
 かつて僕が見た蛍と、それを見ながら思い結んだ一枚の絵。形になることはなかったそれが、楽譜の上に描かれているような気がしたのだ。僕だけが知っているものに、優しく触れられたような気がして、僕はただでさえ嫌いだった理人さんのことがさらに嫌いになった。
「でも結局、すぐに消えてしまうんですよね。蛍の光も、花火も――」
 この世界に消えることない光など存在しない。
 わかっているのに、音があの日々に僕を引き戻してしまう。
 でも、その傍らで一瞬だけ考えてしまうことがある。
 ――理人さんに出会うのが、もう少し早かったら、と。

fragment #2「プール」

「……その曲」
「あ、ごめん。うるさかった?」
「この辺あんまり家ないから夜にピアノ弾いても誰も気にしないぞ?」
 あさぎ荘の食堂に置いてあるピアノを響が弾いていた。夜九時。東京でやったら怒られそうな時間だが、この辺りにはあまり家がないので気にする人は少ない。
「なんだっけ、その曲。題名が思い出せない。理人の曲だっていうのは覚えてるんだけど」
「『蛍』だよ。五曲ある組曲の一曲」
「なんか妙に懐かしい気がするんだよな、その曲」
「私は『鐘』の方が懐かしい感じがするな。昔、理人と苫利村行ったときのこと思い出すから」
 理人が故郷のことを思って作った曲なら、懐かしく思うのも当然なのかもしれない。苫利村出身の実紀ならもしかして全部懐かしいかもしれないし。
「俺も一回だけ行ったことあるらしいんだよな、苫利村」
「そうなんだ」
「でも2歳のときだからほぼ何も覚えてない」
 それでも記憶の中に僅かに残った断片がその曲に反応するのだろうか。その曲を聞くと頭に浮かぶ景色がある。まずは題名通りに明滅する蛍の小さな光。そして、薄暗い夜の中を泳ぐ、青い金魚。
「……青い金魚なんていないよなぁ」
「だいたい赤とか黒だね。あ、でも紺色っぽい金魚の柄の浴衣なら見たことあるよ」
「紺色じゃないんだよなぁ、なんかこう、もっと目が醒めるような――」
 目が醒めるように鮮やかで、けれど深い青色の金魚が瞼の裏を泳ぐ。それがなんなのかを思い出すことはできないけれど。
「でもいいね、青い金魚って」
「そうだな」
「そういえば、実紀が今度の週末に実家帰ってついでに蛍でも見てくるけど一緒に来ないかって言ってたよ。お祭りは今年は中止みたいだけど」
「いやそれ明らかに俺お呼びじゃないじゃん……俺何も言われてないし……」
 響は理人のことを散々鈍感だと言っていたけれど、自分も大概だということに早く気がついた方がいいと思う。要するにミキちゃんは響とデートがしたいのだ。
 二人がくっつくのは当分先だろうな。少なくとも実紀がもうちょっと好きだということをアピールしないと気が付いてもらえないし、気付いてもらえたとしても、理人という壁を越えなければならない。
「ミキちゃんもなんか曲作ればいいんじゃないか?」
「何の話?」
「いや、あいつも苫利村の出身だし、なんか懐かしい感じの曲とかできるんじゃないかなって。タイトルは……まあ適当に『花火』とか」
「漢字一文字じゃなくなってるし」
「そこはオリジナルだよ、やっぱり」
(しょう)が考えてる段階でオリジナルじゃないよね……?」
 響は苦笑しながら、もう一度鍵盤に指を置いた。そういえば、響は理人のピアノ曲のほぼ全てを暗譜で弾けるらしい。子供向けの簡単なものからピアノ協奏曲まで覚えているのは、愛というより執念に近いような気がしなくもない。
 Aの位置に置かれた中指から曲が始まる。目を閉じれば、瞼の裏でまた青い金魚が泳ぎ始めた。

4「マネキン」



 少しずつ、少しずつ、歯車が回らなくなっていって、気が付けばもう取り返しのつかないところにまで来ていた。
 高校二年の夏――僕の進学した碧原(みどりはら)高校は進学校ではあったが、受験はまだ先。どこか牧歌的な雰囲気すらあった。けれど周囲の優秀な人たちに紛れて、僕の成績は良くも悪くもない、中途半端なものだった。父が死んでからの母は、そんな僕にこれまで以上に干渉してくるようになった。
 本当は絵の勉強がしたいなどと、とても言える状況ではなかった。別に美大を出なくても画家になる方法はあると言われれば確かにそうなのだけれど、母が僕が画家になるのを許すはずはないということもわかっていた。そもそも出口が塞がれているのに、途中の道を変えたところで行き止まりだ。燻った感情は静かな苛立ちとなって僕の心を常に覆っていた。
 苛立ちの理由は進路以外にもあった。母は父が死んでから、急に僕の言葉遣いを矯正しようとしてきたのだ。一人称は私で、イントネーションは辞典通りの正しいもので。それまで使ってきた言葉に強引に枷を嵌めるのは苦痛でしかなかった。それは息をするなと言っているようなものだ。新しい土地に行ったらいつの間にかその土地の言葉を喋っているのとは訳が違う。そして僕に課されたそれらの重い枷は、全て(しょう)のためのものだった。
 父という支えがなくなって、それまで抑え込んできたものが一気に溢れてきたのだろう。もう付き合いのない親戚の話を聞いて何となくは把握している。母は、女であることだけで、夢を叶えられなかった人なのだ。
 けれどそれを子供に背負わせるのは違う。血を分けていようが別の人間なのだ。ましてやまだ小学生にもなっていない彰に望んだ未来を押し付けるなんてあってはならない。まだ遊びながら学んでいくような年齢から、先を見据えた勉強をさせられる彰が不憫で、僕は何度も母に苦言を呈したが、その度に口論になり、平行線のまま何一つ解決しなかった。
 唯一落ち着けるのが学校にいるときだった。その時間は母が何か言ってくることもないし、彰も保育園に行っている。ただ目の前のことをこなしていれば1日が終わっていく。それは僕にとっては気が楽なことだった。変人揃いの学校は相互不干渉をそれなりに貫いていて、団結力は皆無だったけれどそれも心地よかった。
 特にすることがない休み時間に自分の席でぼんやりしていると、目の前に黒い髪を顎下あたりで切りそろえた少女が立っていた。決して派手ではないが整った顔立ち。底が見えない濡羽色の瞳。うっすら赤く色付いた唇から、歌うように言葉が溢れてくる。彼女の名前は水無瀬愛梨。クラスメイトだがほとんど話したことはない。そして水無瀬はあることで非常に悪い評判がある人間だった。
「佐伯さん、昨日うちの部誌読んでたでしょ」
「……読んでたけど、それが?」
「いやどう思ったかなぁって、私の小説」
 水無瀬は文芸部に所属している。昨日読んだものの中に彼女の小説があったのだろうが、僕は彼女の筆名を知らないので、それがどれなのかはわからない。
「『Printing Rain』ってやつ。真ん中くらいに載ってたんだけど」
 その話なら覚えている。一番印象に残った作品だと言えた。ただ読後感は最悪だったということだけは強調しておきたい。あんな作品を書けるということは小説の腕前はかなり抜きん出ているということか。
「読者に直接感想を聞きにくるなんて、よっぽど自信があるの?」
「というよりは、佐伯さんに合ってるんじゃないかなって。何となくだけど」
 それは決していい意味ではないだろう。何かを見透かしたようなその目に苛立ちが募る。僕の目を見て、水無瀬は蠱惑的な笑みを浮かべた。
「ゆっくり話できるところに行こうか、佐伯さん」
 ついて行くような義理はないし、それが危険なことだとはわかっていた。水無瀬の評判を知らないわけではない。蜘蛛の巣があるとわかっていながら向かって行くのは愚かだと、きっと誰もが言うだろう。
 けれど僕は、何かに突き動かされるようにして水無瀬の後ろをついて歩き始めてしまった。水無瀬は今は使われていない旧校舎の、本棚だけが残された図書室に入って行った。古い床は歩くたびに軋んだ音を立てる。水無瀬は本棚の間を進んでいき、奥にある小部屋の扉を開けた。
 埃っぽい匂いと、押し込められたまだ本が残る本棚たち。こんな部屋があるなんて今まで知らなかった。
「ここにある本はもう除籍になったやつで、文化祭のときに格安で売るらしいけど、それ以外のときは誰も来ないから」
「よく知ってるね、こんな場所」
「昨年卒業した先輩が教えてくれたの。文芸部の先輩だったけど、図書委員もしてたから」
 その先輩にどういう経緯で教えてもらったのかは聞かない方がいいだろう。僕は溜息を吐いて、近くの本棚に寄り掛かった。部屋の中央には作業用なのか、美術室の机のような大きな机が置いてある。水無瀬はそこに腰掛けて言った。
「で、どうだったの?」
「読後感が最悪だったから、掲載順をもう少し考えた方がいい」
「でも、それが最後でも最初でも嫌じゃない?」
「あれは次の話になかなか入れないよ」
「つまりそのくらい印象には残ったわけだね」
 読後感が悪いのを味わうジャンルもあるくらいだ。そのくらいならありふれた話でしかない。けれどプロと比べれば拙いその文章の中に、得体の知れない何かが巣食っていた。それはおそらく水無瀬愛梨の悪意のようなもの。彼女は見えない糸を張り巡らせて、そこに獲物がかかるのを待つ蜘蛛だ。
「……私をどうしたいわけ、水無瀬さん?」
「私は私が見たいものを見たいだけ。ずっとそれは変わらない」
 水無瀬は笑みを浮かべる。悪女の微笑みという絵を描くならこんな感じだろうか。僕は水無瀬からそっと目を逸らした。
 誰とでも寝て、その人を破滅させる魔性の女(ファム・ファタール)。それが水無瀬愛梨に対する周囲の評価で、概ねそれは当たっている。だが残念ながら、僕はそんな女に屈するほど安くはない。
「私はあなたみたいな誰とでも寝るような人間と関係を持つつもりはないから」
「やだなぁ、私だって人くらい選んでるよ。私は、佐伯さんみたいな人が崩れ落ちる瞬間を見るのが好きなのよ」
「私はあなたに堕ちたりしない、絶対に」
 もう話すことはない。部屋を出て行こうとすると、水無瀬がドアノブを掴んだ僕を後ろから抱きしめた。甘いけれど少し青い、生花の匂いがする。そういえば彼女の実家は花屋だったな、と思った瞬間、ふわりと脳の芯を眩ませるような薔薇の香りがした。
「『人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。』」
 毒のように甘い声で耳許に落とされた一節。坂口安吾の『堕落論』。それは水無瀬が書いた『Printing Rain』にも引用されていた。だとすればこれが彼女の核なのだろうか。
 そこまで考えたところで僕は我に返った。そんなことを考えてはいけなかった。水無瀬のことを考えてしまうなんて、彼女の思う壺だ。
 水無瀬の手がプリーツスカート越しに太腿をなぞり、足の付け根あたりで止まる。
「堕ちるのも悪くないと思うよ」
 水無瀬の美しく整えられた指先が、二枚の布越しに僕の中心に触れた。一瞬の突き上げるような動きに呼吸が跳ねる。
「……っ!」
「別に声を出しても、今ここに来る人なんていないよ?」
「っ……誰が……ッ!」
 水無瀬に啼かされるなんてそんな屈辱を許せるはずはない。水無瀬はくすりと笑みを零して、スカートの中に手を潜り込ませた。古くてあちこちが毛羽立っているドアに爪を立てて、声を漏らさないように唇を噛む。
「何も考えないで、堕ちてしまえば楽になれると思うよ?」
「んっ……」
 下着の布地に沿って、水無瀬が人差し指を何度も往復させる。それは慣れていない体にはあまりにも強い刺激だった。おそらくそれも水無瀬には見抜かれてしまっているだろう。
「何にも縛られなくてもいい。思うままに生きて――」
 ――獣に堕ちればいい。
 体の中で赤い絵具が滲んでいくような感覚。張り詰めていた感情の糸を弾かれて、高い音が頭の中で鳴った。微温湯のような液体が浅い傷口から垂れる血のようにじわりと溢れ出し始める。
 水無瀬が笑う気配がして、その指が下着をわずかにずらして中に入り込もうとする。その瞬間に、体が動いた。勢いに任せて曲げた膝を水無瀬の鳩尾に食い込ませる。不意を突かれた攻撃に体を折って咳き込む水無瀬の肩を蹴って、軋む床に押し倒した。臙脂色のネクタイを掴んで首から上だけを無理に引き起こす。
「調子に乗らないでよ」
 手加減は一切しなかったからそれなりに痛かったはずだが、水無瀬はそれでも口元に薄笑いを浮かべていた。
「佐伯さん。今、どんな気持ち?」
「……このまま窓から投げたら死んでくれるかなって思ってるけど」
「なるほどね。それはそれでいいかも」
 水無瀬は特に抵抗らしい抵抗もせず、僕にされるがままだった。けれどゆっくりと僕の手首を掴んで、熟しすぎた果実のような声で言う。
「今は違っても、いずれあなたはこっち側の人間になるよ」
「そんなものにはなりたくないね」
「でも、一度味わったら人はその味から逃れることはできない。佐伯さんは今、私を好きにすることができる。殺すことも、犯すこともできる。――その味を、人は一生忘れることなんてできない」
 けれどその味に酔いしれ、思うがままに行動する人間は人間とは呼べない。それは獣と言う他ない。水無瀬は間違いなくそちら側の人間なのだろうし、彼女は自分の側に人を引き込むことを得意としているのだろう。
 ああ、確かに――この味は。他人をどうにでもできるのだという事実が、じわじわと腹の奥底から体を蝕んでいく。それは破滅だとわかっているのに、理性の手綱を奪われそうになってしまう。
 それでも僕ははっきりと思う。
 僕は水無瀬愛梨のことが――大嫌いだ。
 僕は体の力を抜き、水無瀬のネクタイを離した。水無瀬がゆっくりと上体を起こして、不思議そうな顔をして僕を見た。
「僕は、君と同じ側の人間にはなりたくない」
「ふぅん。まぁ私はどっちでもいいけど」
 水無瀬は人を弄びたいだけで、どちらに転ぶかなんて興味はないのだ。人を堕とすだけ堕として、そのあとは放置だ。僕は水無瀬愛梨のその無責任さが許せない。それは、正論ばかりを並べて助けてあげようと傲慢に手を伸ばす大人たちと本質は同じだから。自覚と悪意を持ってやっている分、水無瀬の方がまだましかもしれないけれど。
「あ、そうだ。佐伯さん」
「何? もう僕は戻るよ」
「これまでの話は一旦置いといて、ひとつお願いがあるんだけど」
 その「お願い」の内容に僕は深い溜息を吐いた。今までのやり取りは本当に何にも関係なかったからだ。
 そして僕の答えは決まっている。
「何で僕が君の小説の挿絵なんて描かなきゃいけないわけ?」
「なかなか引き受けてくれる人がいなくて」
「僕は君に加担するつもりはない。他を当たって」
「残念だけどそうするよ。佐伯さんなら引き受けてくれると思ったんだけどなぁ」
 だったらもう少し友好的な関係を築こうとするべきだ。どちらにしろ引き受ける気などないけれど。
 水無瀬の小説は人を引き込む力がある。そこに関われば、深淵を覗き込んでしまった人間のように、こちらを見ている深淵に引き摺り込まれてしまうだろう。それが彼女と関わりたくない一番の理由だ。

 けれどその、一瞬と言っていいほどの関わりは、僕の中に大きな爪痕を残していった。
 その味を知った人間はもう戻ることはできない。ままならない日常。家に帰れば言葉さえ抑圧される日々。その中で僕は、僕の中に眠っていた感情に気付かされてしまった。
 水無瀬を組み敷いたあのとき、確かに僕は、他者を支配する喜びに酔っていたのだ。

5「青い夜更け」

 水無瀬のことは嫌いだが、彼女は大切なことを教えてくれた。人はその味を知ればそこから逃れることはできない。それは僕や(しょう)につらくあたる母も同じなのだということがわかったから。
 何もかもが自分の自由にできない人生だったのだろう。もう付き合いのない親戚に昔聞いた話では母はかなり優秀な人で、男であればよかったのにと言われて育ってきた。そして女だからこそ、この田舎を出ていく選択をほとんど用意されなかった。唯一高校受験のときにそのチャンスがあったらしいが、受験当日に降った記録的な大雪に阻まれて、試験会場にすらたどり着けなかった。そして地元の学校に進み、短大を卒業し、親の紹介で父と結婚して僕たちを産んだ。
 今の時代なら少なくとも名目上は許されないような抑圧だ。それに同情することはできる。けれどそのあとに母が僕たちにしたことについては、おそらく永遠に赦せはしないだろう。
 あの味を母は知っていた。母の言う全てが、実は愛なんかではないことを僕は知ったのだ。
 何一つ自分の手では操れなかった人生の中で、それを使ってしまいたくなることもあるだろう。けれどそれは使い方を誤れば、その下で抑圧されるものを生み、負の連鎖が続いていく。
 愛を騙る支配欲で、人は人をどこまでも貶めてしまえる。言葉で呪うことも、殴ることも、犯すことすらできる。
 水無瀬が操る言葉によって、世界が鮮明に見え始めた。けれど僕は、やっぱり水無瀬のことは大嫌いだ。

 家の中の状況は相変わらず――いや、悪化の一途を辿っていた。まだ小学校にも上がっていないのに、何年も先取りした学習をさせられていた彰が泣き言を言っているのを見ることも多くなった。
「さすがに今日はやめておいたらいいと思うけど。こんなんじゃ身につかないでしょ」
 どうせこの碧原(みどりはら)には小学生から入れるような名門私立があるわけでもない。せいぜいが中学受験だし、それも数は少ない。今から焦る必要があるとは思えなかった。
「何言ってるの。東京の子たちはこのくらいからやってるんだから」
「それもどうかと思うけど、僕は」
「海」
 母の声が低くなる。僕は心の中で溜息を吐いた。一人称くらいどうだっていいのに。けれど矛先が僕の方に向くのならそれはそれでいい。
「……彰。今日は休んでいいよ。部屋に戻ってな?」
 母を無視して、半べそをかきながらノートに向かう彰に言う。そんな状態でやったって何も身につかないというのは本心だ。そんなことで時間を無駄にするくらいなら寝ていた方がいい。
「でも……」
「今日はお姉ちゃんからのご褒美。ほら、今日は早く寝な?」
「うん」
 母の顔を見てしまうと、彰はそちらに従ってしまうから、わざと母が見えない位置に立って言った。彰は少し迷いながらも、部屋に向かって歩き出した。リビングの扉が閉まる。僕はゆっくりと息を吐き出した。
「……自分ができなかったことを彰に押し付けるのはやめて」
「じゃあ海はあの子に一生こんなところで生きて行けって言うの?」
「そんなことは言ってないでしょ。別に今から無理させることはないんじゃないかって言ってるんだよ」
 本来なら、遊べるだけ遊んで、疲れて寝るような年頃の子供だ。その遊びの中で学ぶこともあるかもしれないけれど、それは大人が操作するようなことではない。
「海は黙ってて。あなたはどうせ彰の一生の責任を持つわけじゃないでしょ」
 同じ血縁でも保護者と姉では立場が違う。それに母の価値観の中では、僕はいずれこの家を出ていく人間だ。
「それに海は県外の大学に行くんでしょ」
 それだって母が勝手に決めたことだ。学校の名前だけで、その中身なんて顧みられずに決めた志望校。合格可能性は高くても、そこで生きていくイメージが全くつかないような場所。行きたいかと言われれば、特に行きたくもない。
 かといって行きたい場所というのも特に思いつきはしなかった。やりたいことはある。けれどそれをいって許されるはずがないのはわかっていた。
「……別に大学なんていかなくても生きて行けるよ」
 母は自分が望んだ道を歩かせたいだけだ。子供は自由にならなかった自分の人生の代わりでしかないのだ。吐き捨てるように言うと、いきなり頬を打たれた。
「私がどんな思いで! あんたをあの高校に通わせてるのかわかってんの⁉︎」
 頬を叩かれるくらいは日常茶飯事で、もういちいち痛がることもしなくなった。母の苦労はわかっている。公立の碧高に通わせるのだって正直厳しい状態だということも。それでも無理をして通わせているのは僕のためなんだと母は言う。
「大学に行けば、選択肢が沢山増えるのよ。自由になんだってなれる。ここから出るチャンスなのに、どうしてそれをふいにするようなことを言うの⁉︎」
 母の言うことは正しいのかもしれない。でも、どうせその先だって、母が納得しない道には進めはしないんだろう。正解は少ないのに、間違いの選択肢ばかり増やしてどうするんだろうか。
「……わかってるよ、母さん」
 いつまでこの日々が続くのだろうか。母がいる限り、僕たちはずっとこの人に支配され続けなければならないのだろうか。もやもやと、暗い感情が頭をもたげてくる。自分では処理しきれないその感情は時折内側から僕自身を攻撃するのだ。僕はそれを抑えるためにリビングの扉を開けた。
「どこ行くの⁉︎ 話はまだ終わってないわよ!」
「部屋に戻るだけだよ。英語の宿題が沢山出たから」
 勉強を言い訳にすればまだ解放してくれる確率は高くなる。僕は重い足取りで部屋に戻り、手をつける気にもならない英語のテキストを机の上に広げた。
「……おねえちゃん」
 カーテン一枚の仕切りの向こうから、彰が顔を覗かせる。僕は筆立てから取り出したばかりのシャーペンをノートの上に置き、体ごと彰の方を向いた。
「どうしたの? 眠れない?」
「……うん」
 彰はここ最近、寝ると怖い夢を見るから寝られないらしい。不気味な黒い幽霊が襲ってきて、頭から食べられてしまう夢らしい。そういうときは眠るまで僕がそばにいれば、怖い夢を見ずに寝ることができるらしい。
 かなり精神的に負担がかかっているのは間違いない。けれどそれを母に訴えたところで聞いてはくれないだろう。今の僕では彰を連れてどこかに逃げて二人で暮らすこともできない。何もできない自分がもどかしかった。
 一緒の布団に潜って、お互いの体温を感じながら目を閉じる。このまま僕が高校卒業と同時に家を出たら、彰は母と二人きりになる。そうしたらどうなってしまうのだろうか。今よりもっと追い詰められてしまうのではないか。僕はそれをわかっていながら無視するなんてことができるんだろうか。
 隣であっという間に寝息を立て始めた彰を起こさないように立ち上がりながら、僕は英語の宿題にも手をつけずにベッドに潜り込んだ。大人は未来を語るけれど、僕にはそれが見えなかった。大人になったらこのままならない状況から抜け出せるのだろうか。とてもそうとは思えなかった。例えば母を捨てて彰と二人で生きていくとしたら、それは世の中の人が描く普通の姿からは外れていくということだ。それは果たして彰の望むところなのか。考えても答えは出ずに、もやもやとした想いだけが体に溜まっていく。
 体を丸めて溜息を吐き出した。下腹部が熱を持っている。何の脈絡もなく体には熱が溜まっていくけれど、僕はそれをどうすれば散らせるかさえ知らなかった。
「っ……」
 この前水無瀬に触れられた感覚が蘇る。知識はあるけれど、それに対する嫌悪感がどうしても拭えなかった。
 思えば、僕の周りからはそういったものは意図的に排除されてきたのだ。キスシーンがあるようなドラマは見せてもらえなかったし、少しでも性的な話を出すと窘められた。生理のときは家族の誰にも気付かれないように処理をしなければならなかった。けれど僕はそれを普通のことだと思っていたのだ。
 いや、本当はどこかで――自分の置かれている状態は異常なのだと気付いていた。ただ自覚したくなかっただけだ。
 寝間着のズボンの中に手を入れて、下着の上からおそるおそるそこに触れた。体が少しだけ痺れる感覚。車に乗っているときに急な下り坂に差し掛かったときに味わうのと少し似た浮遊感。その正体なんてわからないまま、自分の手だけが止められなくなっていく。
「ん、ぅ……」
 漏れそうになる声を、唇を噛んで必死で堪える。だったらこんなことやめてしまえばいいのに、転がり始めた石は止まらない。湿り気を帯びた下着を少しずらして、その下の部分に直接触れれば、それは熟れすぎてぐずぐずになった果実のように指を飲み込んでいく。
 布団の中でくぐもって聞こえる水音は、僕を責め立てるようにやけに大きく響いた。理性ではこの年齢なら自然なことだとわかっていても、感情がそれを拒絶した。体と心がちぐはぐになって、自分自身の穢れを心が突きつけてくる。
 細い指での刺激ではすぐに物足りなくなって、誰に言われたわけでもないのに指を増やす。体は即物的な快楽に堕ちていく。崖の上に立つような戦慄と興奮に肌が粟立つ。
 心を嘲笑うように、体は昇りつめていく。どこに触れればいいのか、誰にも教えられていないのに理解してしまう。溢れた液体で指どころか掌や手の甲まで濡れている。何でこんなことをしているんだろう。全身を侵していく耐えがたい疼きが僕を追い立てていく。
「ふっ、ぅ……」
 声を耐えるたびに異物を締め付ける果実から指を抜き、濡れた中指の腹で、その上の紅い芽を擦る。その瞬間、稲妻のような快楽が体を駆け抜け、僕は体を縮こまらせた。
 手は止まらない。それどころか愛液で滑って的確な刺激が与えられないことにもどかしさすら感じてしまう。乱れる呼吸をシーツに吸わせながら、僕はただこの悪夢が早く終わってくれることだけを祈った。
 中指と人差し指で挟み込むようにしてその場所を刺激する。体の底から湧き上がってくるものが破裂してしまわないように体を丸め、視界も意識も白く染め上げる絶頂に溺れていく。
「っ、はぁ……っ」
 弛緩する体がシーツに沈み込んでいく気がする。何かを考えようとしても、強烈な睡魔が襲ってきて、僕の体は易々とそれに負けてしまった。
 こんなことをして自分を慰めても、結局は虚しいだけだ。いっときの快楽は何も解決してはくれはしない。

 昨晩の余波なのか、次の日の朝はなかなか起きられなかった。重い体を叱咤しながらリビングに向かうと、母と彰は既に起きていた。
「どうしてこんな簡単なこともできないの⁉︎」
 昨日の続きなのか、母が声を荒げていた。僕は溜息を吐きながら二人の間に割って入る。
「まだできなくてもいいじゃない。こんなのそのうちできるようになる」
 そもそもまだ小学生にもなってないうちからやるような内容ではない。それに怒鳴るだけでは萎縮してしまってますますできなくなるだけだ。
 彰は声も上げずに静かに泣いている。この時期の子供なんて、スーパーでお菓子を買ってもらえなかっただけで床を転げ回ってこの世の終わりかのように泣いているものだろう。それなのに、彰にはそれが許されていないのだ。よく見れば左の頬が赤くなっている。目の前が赤くなって、ぐらりと視界が揺れた。
「いい加減にしてよ! まだ子供なんだよ⁉︎」
 母に掴みかかるようにして言う。このままだときっと壊れてしまう――そう思ったから。
 しかし、返ってきたのは罵声と、焼けつくような頬の痛みだった。
「あなたはいつもそうやって邪魔ばっかり! 私に何か恨みでもあるの⁉︎」
 その勢いはあまりにも強くて、僕は受け身も取れずに床に尻餅をついた。骨盤に鈍く痺れるような痛みが走る。それでもここで折れるわけにはいかなかった。
「何よその目! あなたは本当にあの人に似て……厭な子ね」
 頭上から降ってきて体に当たった硬いものが何なのかを見る気力もなかった。僕が殴られることで彰が無事でいられるならそれでいい。
 けれど――こんな景色を、本当は見せたくなかった。生きていく上で汚いものを目にする機会なんていくらでもあるから、せめてなるべく沢山の綺麗なものを、その瞳に映していて欲しかったのに。
 心の中で、誰にも聞こえない声で、彰に呼びかける。

 ねえ、どうして。どうして僕たちは、こんな世界に生まれてしまったんだろうね。

6「トランスルーセント」

「君の同級生の――水無瀬という子の言葉は興味深いね」
「そうですか?」
「『人間らしさ』が何を指すかは時代によって変化してきた。今は人工知能なんかとの対比として語られる、感情だったり感性の部分を人間らしさと呼ぶことが多い。けれども『理性』こそが人間が人間たる所以だと言われた時代もあった。今とは真逆だね」
 その場合、人間と対立するのは動物――水無瀬の言葉で表すなら「獣」だ。
「人間の本質は獣なのか理性なのか、人間が言うことすら一貫していない。けれど彼女は人間の全てを剥ぎ取った下には獣がいると思っていたんだろうね」
「そうみたいですね。それだけは一貫してた気がします」
 一箇所には留まらず、人間が堕ちゆく様を見ることを楽しむ悪趣味な女。けれど彼女のやり方がその後多少役に立つことがあったことは認めざるを得ない。
 危うい場所に立つ人間を自分の側に引き寄せる方法。水無瀬のやり方を応用して僕の周りに集まる人間を増やしてきたのは事実だ。例えば、麻美を引き込んだのも。
「人間のなかに獣性があることは否定できない。だが、世間の大半は認めたくないだろうね」
「何かを支配したいという欲求は誰にでもある。違うのは、それに勝てた人と負けた人がそれぞれいるってことです」
 おそらく先生は自らの支配欲にはかなり自覚的な方だろう。その欲がまさか人類の精神構造そのものに向いているとは僕も思わなかったけれど。彼のような人は水無瀬でも動かすのは難しいのではないだろうか。もちろん彼女が性の手練手管を弄したらどちらに転ぶかはわからないけれど。
「僕は――勝てなかった人間です。結論から言えば、水無瀬の言うことはだいたい当たってたんですよ」
「……君って、自分の心の弱い部分に触れそうになる人間のことは嫌いになる傾向があるよね」
「サンプル二人じゃないですか」
 おそらく先生の言うことも当たっているのだろうけれど。僕は冷めた紅茶を飲み干して喉を潤した。
「いや、三人だね」
「へぇ。その三人目は誰なんです?」
「――君、響のこと嫌いだろう?」
 僕は溜息を吐いた。そんなにわかりやすかっただろうか。確かに当たっている。そして響のことが嫌いなのは水無瀬や理人さんのことが嫌いな理由とは少しだけ違う。
「あの子、自分が納得できるまで理由を聞いてくるじゃないですか」
「小さい頃に『なんで?』って聞いてくることに全部答えてたらいつの間にかそうなったんだよなぁ」
「答えてくれると思ってるから聞くんですよね。だいたい先生のせいじゃないですか」
「私も二割くらい嘘を教えて怒られたこともあったけど。でも理人は律儀だったからなぁ……調べてまで答えてたし」
 自分の疑問にちゃんと答えてくれる大人ばかりが周りにいたから、いつまでも子供のように自分が納得できるまで理由を聞いてくるのだ。彼女の周りには説明できないことがほとんどなかったのだ。
「でも、人によっては理由を聞かれることが叱責と結びついてしまっているから、その人を責めているように聞こえてしまうこともあるから気をつけるんだよ、とは言ったんだけどなぁ」
「あんまり届いてない気がしますよ」
「まあ、親の言うことを100パーセント聞く子供なんて気持ち悪いから、そのくらいの方がいいのかもしれないけど」
「気持ち悪いって……」
「だって親子なんて所詮、遺伝子が半分同じなだけの他人だよ? それで100パーセント言うこと聞いてるんなら、それは教育じゃなくて洗脳じゃないか」
 この親だから響は屈託なく人に「どうして?」と聞けるように育ったのだろう。響に誰かを責めるつもりなど全くないのだ。ただ、僕がそれを受け止められないだけで。
「さて、続きを聞く前にまた紅茶でも淹れてもらおうか。あ、欲を言うならハーブティーがいいかな。私はカフェインを摂り過ぎると少々具合が悪くなるからね」
「……確か棚に貰い物のハーブティーがあった気がします」
「じゃあそれで」
 僕は立ち上がって新しいポットと誰かから貰ったハーブティーの箱を取り出した。お湯を沸かすために電気ケトルのスイッチを入れる。
「お茶入れてる間は世間話でもしようか。お互い小休止も必要だろう?」
「最近の世間に世間話の余地なんてないと思いますけど」
「それもそうだねぇ。どこもかしこも新型コロナの話ばかりか。君も本業の方が大変だろう?」
「麻美の方が大変ですよ。ほぼ無収入だって言ってましたし」
「まあコンサートは本当にしばらく厳しいだろうね。でも自分の大変さをそうやって他人と比べる必要はないと思うよ。みんなそれぞれ大変。それでいいじゃないか」
 実際の世界はどれだけ損失を被ったかに線引きをして、お金がもらえたらもらえなかったりする。先生の言っていることは理想論だ。けれど嘘を言っているわけではないのはわかるから、不快に思うようなことはなかった。
「それに、最近少し苛立っているようだったしね」
「……芸術なんて人命の前では無価値だって言われたんですよ。いつもなら聞き流すんですけど、なんだか今はそれができなくて」
「世の中が暗く沈んでいるときは、多かれ少なかれその中にいる人間の心も影響を受ける。それ自体は自然なことだよ」
 世界はいまだに感染症の狂乱の中にある。それまで漫然と生きていたような人間が一本の蜘蛛の糸に群がるようにして生きようとしている。そして不安な気持ちを紛らわせるようにスケープゴートを探している。スケープゴートはできるだけ自分には関係なくて、世の中の多くの人から見れば真面目に生きていないように見える人がいい。それが芸術家だったり、夜の街に生きる人間だったりするのだ。
「――先生」
 もうひとつ、最近ずっと引っかかり続けている言葉がある。それは命と芸術を天秤にかける話よりもずっと重く響いている。命と芸術を天秤にかける人は、僕とは決定的に価値観が違うのだと言ってしまえばそれまでだ。命がなければ何もできないだろう、という意見も理解はできる。でも、それよりも。
「『こんな時代に子供を産むなんて、子供がかわいそう』って、どう思いますか?」
「君にしては投げっぱなしの質問だね。でも最近よく聞く話だ。確かにこの時代に子供を産み育てるのは大変だろうし、子供の方も大変だ。残念ながら大人がまともとは言えないからね」
「僕もそう思うんですよ。でも――何かが引っかかっていて」
 ケトルから聞こえる音が変わってきた。もうすぐお湯が沸くのだろう。ケトルのオレンジ色のライトを見つめていると、先生が静かな声で言った。
「そんな時代に生きている子供は、現実に存在しているわけだからね。産んでくれと頼んだわけでもないのに」
 ティースプーンを使って茶葉を入れながら、先生の言葉を聞く。ケトルのスイッチが切れる音が響いて、少し熱くなった取手を慎重に握った。
「大人たちがこんな世界で育つ子供がかわいそうだから子供は産まない、と言うたびに、こんな世界で生きている人間は絶望を深めていくのではないかな」
「……そうかもしれませんね」
「あとは、その言葉に含まれている、子供の人生をコントロールしようとする親の愛情に対して、おそらく君は特に過敏な方だろう」
 お湯を注げば、半透明のポットの中で茶葉が踊る。僕はくるくると回るそれをただぼんやりと見つめた。
「子供を幸せにするのは親ではないんだよ。親がどれだけ不幸の芽を注意深く摘んでも、急に隕石が降ってきたりしたらもうどうにもできないだろう。自分自身の精神すら解明できてない人類ができることなんてその程度なんだ」
「でも、自分の子供の幸せを願うのは親として当然のことなんじゃ?」
「――君がそれを言うのかい?」
 ちょうどいい色になったので、ポットからカップにハーブティーを注ぐ。手の動きに集中して、余計な考えは一旦頭から追い出した。
「いいかい、所詮子供なんてものは卵子と精子がタイミングよく出会って、そのあと運良く着床して、それから運良く育つことができれば産まれるものなんだよ」
「身も蓋もない言い方ですね。響にもそれを言うんですか?」
「私は誰に対してだって言うことは変えないよ。もちろん響にはわかりやすいように噛み砕くこともあるけれど」
 それでよくあんな真っ直ぐ育ったものだ、と一瞬思ったけれど、そういう親だから納得できるまで理由を聞いてくる子供に育ったのだ、というのは腑に落ちた。
「まあ、妻には最後までわかってはもらえなかったがね。でも私は『子供は愛の結晶だ、なんて幻想だ』と言うのは、その子供に対してだからこそ言うべき言葉だと思うんだよ」
「どうしてですか?」
 それでは子供が不安にはならないだろうか。誰だって自分が愛の結晶だと信じたいのではないだろうか。けれど先生は柔らかな声で、遠くにいる娘を慈しむような眼をして、それを否定する。
「響が私を嫌いになりたいとき、その方が思う存分嫌えるじゃないか。もちろん愛を持って育てはしたけれど、それは響が娘だから愛しているわけではない。愛にそんな肩書きはいらないんだよ」
「先生は、響に嫌われてもいいんですか?」
「嫌われたいわけじゃないよ。洗濯物別にしてとか言われたらそれなりにショックだよ? でも親だから愛さなければならない、子供だから愛して当然だというのは非常にナンセンスだと言ってるんだ」
 テーブルの上にハーブティーを置いて、少し息を吹きかけてそれを冷ましてから飲む。ほのかな薔薇の香りと、鼻を抜けるカモミールの香り。少し冷えた体を通り抜ける温度が、言葉にならない感情を解いていくような気がした。
「……正直な話、君が教えられてきたこととは正反対のことを響に教えた自覚はあるよ」
「世間一般とも多少ズレてますよ」
「大学の人間なんてそんなもんだよ。学者ってよく批判されるじゃないか。世間のことを何もわかってないって」
「芸術家もそうですね」
 僕も芸術家の端くれとして、世間一般なんてものに囚われてはならないとも思う。けれど自分の中に見えない糸で縫い付けられた何かがあって、それは今聞いたばかりの言葉やハーブティーなんかでは消えてはくれない。
「――先生」
「何だい?」
「引き返すなら今ですよ」
 ここから先の話は、自分でもまともに話せる自信はなかった。先生で2回目になるけれど、1回目のあとのことはあまり思い出したくない。
「元から引き返すつもりはないよ。こっちはもう二度と娘に口をきいてもらえないかもしれないと覚悟してここにいるんだから」
 そう言う先生はやはり柔らかな笑みを浮かべていた。僕は先生が何かを言おうと息を吸った瞬間に、右脹脛に取り付けたホルスターから銃を抜いて、その額に突き付けた。

「――先生。脅迫っていうのは、こうやってやるんですよ」

 ここから先は生半可な覚悟で聞けるような話ではない。なぜならこの先を知っている唯一の人はもう――この世にはいないのだから。

7「ゼロの調律」



 高校三年生の夏――その日は花火大会だったが、僕たちにそんなことは関係なかった。高校では短い夏休みの最初と最後に夏期講習を実施していて、その日は夏休み前半の夏期講習の最終日だった。受験生の夏休みなんてあってないようなもの、という人もいるが、祭りが好きな県民性が大人から子供まで浸透しているこの碧原(みどりはら)の人間は、やはりこの日は少し浮ついている。僕はその様子を見ながら教室の片隅でこっそり溜息を吐いた。他の人たちはもう受験する学校を決めていて、あとはそこに受かるか受からないかの話をしているのに、僕は未だに母が選んだ学校以外の選択肢を見つけられていなかった。そんな中で今日祭りに行くか行かないかの話に入っていけるはずがない。そもそも行けるはずがないのだ。
 浮かれているクラスメイトを尻目に、先日東京で行われた展覧会の図録を眺めていると、横からあまり聞きたくない声が聞こえてきた。
「――浮かない顔してるね」
「いつもこの顔だと思うけど」
 何の因果か、三年に上がるときにクラス替えがあったのにまた水無瀬と同じクラスになってしまって、しかも席替えの結果、僕たちは隣同士になってしまったのだ。何かの呪いではないかと本気で思う。別に彼女と仲良くするつもりはさらさらないのだが。
「花火大会、行くの?」
「行かないよ」
「私は今年は文芸部の人たちで行くんだ。部長だから、今年は遊べないなぁ」
 水無瀬を部長にする部はどうかしているとしか思えないが、もしかしたら人格より実力を重視しているのかもしれない。先日の文化祭ではあまりに話が長くなりすぎたので水無瀬の話だけ別冊で発行されていたけれど、それなりに手に取ってもらえたらしいし。
「今年は、ってことは、昨年までは遊んでたのか……」
「花火大会の日なんて、みんな羽目を外したがってるもの」
「条例違反で捕まったら、あることないことインタビューで答えておくよ」
「そんなヘマしないよ。あ、でも佐伯さんとだったら文芸部の方蹴って一緒に行ってもいいよ」
 たとえ自由に花火大会に行けたとしても水無瀬とは絶対に行かない。どうせ水無瀬は花火なんて見ないのだ。それに水無瀬と同類だとは思われたくない。
「そういえば、佐伯さんってまだ滑り止め決めてないんだって?」
「……何で知ってるの」
「先生から聞いた。密室だと結構人って口軽くなるからね」
 つまりは教師と密室にいたということになるが、そこで何をしたかは聞かなくてもわかる。かなり危うい橋を渡っているような気がするが、それで今まで何の問題にも発展していないのは、裏で何かをやっているからだろうか。
「……別に、大学に行く理由なんてないし」
「理由なんて私もないよ。ただモラトリアムを四年延長したいだけ。あ、でも図書館はいいところがいいかなぁって思ってるけど」
 多くの人はそんなものなのかもしれない。明確な夢がある人なんてほとんどいなくて、ただ今までの流れに従って大学に進む。僕も何もないというのならそれに流されれば楽なのかもしれない。けれど、流れに乗れずにそこで佇んでしまう石だってあるだろう。それが今の僕なのだ。
「美術館がある大学とかもあるよね。どうせ滑り止めならそういう理由で適当に決めちゃえば?」
「……たまにはいいこと言うんだね」
「常にいいこと言ってると思うんだけどな」
 水無瀬のアドバイスがためになってしまったのは悔しいが、何もそれを専門に学ぶ大学を選ばなくても道を開く方法はあるのだ。画家は医者や薬剤師になるのとは違う。それなら一つ、気になっている場所がある。
「あれ、どこか行くの?」
「先生と話してくる」
 水無瀬と関係を持っている先生は正直信用に値しないが、それを除けば一般的な教師だ。僕にとっては都合がいい。職員室に向かって歩いていると、途中の廊下で先生と出くわした。水無瀬に情報を漏らしたことは、ここでは不問としておこう。
「第二志望の学校決めたので、提出しに」
「そうか。――ここかぁ。成績的にはもう少し上も行けると思うぞ?」
「母子家庭で弟もいるので、浪人も難しいし、私立も厳しいと思うので、確実に受かるところにしようと思って」
「まあ第二志望だしな。わかった」
 あっさり納得してくれたので、僕は満足して教室に戻った。第二志望に書いたのは、碧原市内にある県立の大学だ。レベルはそこまで高くない。成績から言えばもう少し上を目指せるのは事実だ。でも、その大学には他の学校にはない、少し特殊な美術館があるのだ。県の芸術関連事業のひとつとして作られた国際美術センター。そこには毎年、夏になると世界のアーティストが数ヶ月滞在して作品を作るための施設がある。
 第一志望に行く気などさらさらないことは、しばらく黙っていなければならない。家を離れるつもりもないし、絵の勉強ができなくても、プロの仕事を近くで見られる機会はものにしたい。受験は受かるのは大変だが、落ちるのは非常に容易いのだから。



 第二志望の学校を決めたことは、母には言わないでおいた。直前に決めたことにしたほうが言い訳も作りやすい。反論しにくいシナリオを長い間練ることができるという利点もある。僕は、少し高揚した気分を隠しながら家に戻った。母も(しょう)もまだ帰ってきていない。この僅かな時間だけ、僕は誰にも邪魔されず絵を描くことを許されていた。
 けれど、最近絵を描けていないのも事実だった。描きたいと思えるようなものがなくて、練習のために手を動かしているだけの状態だ。自分が何を作り出したいのか。そのイメージは何となくできているのに、そこに辿り着くために何を描くべきなのかが見つかっていない。
 鉛筆を置いて、鞄の奥底にしまってある図録を取り出す。もし家に置いておいて、勝手に部屋に入った母に見つけられたら没収されかねない。常に学校に持っていく方が安全なのだ。
 この前買ったのは、東京の美術館で行われた《9.8の世界》展の図録だ。9.8は重力加速度のことを表していて、「落下」をテーマとする様々な作品が集められた。その中に、僕が好きな作品があったのだ。イヴェット・ローゼンタールの『Fall#21』。吊るされた無数の絵筆と、その下に落ちた絵具で描かれるインスタレーションだ。会期中に変化していくその作品を、図録では全て写真に収めていた。ただ絵筆を吊るして、本人は何も手を加えていないそれが芸術なのかと疑問を持つ人は多いだろうが、僕は好きなシリーズだ。
 イヴェット・ローゼンタールの作品は、その全てが《変化》をテーマにしているらしい。僕が彼女の作品の真髄を理解しているとは思えないが、何となく波長が合っているような気がしている。例えば彼女がこの碧原に来るようなことがあれば、何を作りたいと思うのだろうか。――というのは、僕の妄想だけれど。
 図録を眺めていると、いつの間にか二時間ほどが過ぎていた。そろそろ母と彰が帰ってくる時間だ。僕はさも勉強していたかのように机に問題集とノートを広げた。けれど数学の問題が頭に入ってくるはずもなく、シャープペンシルを持った手は、絵の形にならない機会な模様を描き出していた。
 一人で過ごす平穏は暫くして破られた。ドア一枚隔てていても母の声が聞こえてくる。僕は持っていたシャーペンで左手の甲を突いてから、ゆっくりと息を吐き出した。耳を澄ませて様子をうかがう。最近、母は彰に手を上げるようになっていた。母の努力に対して、彰が結果を出せていないのがその理由だ。母のやっていることは完全に逆効果だ。母に対して恐れを抱いている状態で実力が発揮できるはずもない。それに母は、教育のために手を上げているというよりは思い通りにならない苛立ちをぶつけているだけだ。徐々にそれがエスカレートしてきていることには気付いていた。ここで食い止めなければもっとひどいことになる。そんな状態で家を出ることは考えられなかった。
 カーテン一枚で仕切られた隣の空間に人が入ってくる気配がした。母はいない。彰一人だけだ。僕は立ち上がって、部屋を仕切るカーテンをそっと開けた。
「おかえり、彰」
 彰は何も答えず、虚ろな目をしたままベッドの上に腰掛けた。心臓が締め付けられるように痛む。けれど僕はなるべくそれを表情には出さないようにして、彰の隣に腰掛けた。無理に事情を聞くことはしない。彰が話したければ話せばいいし、話したくなくてもそばにいることくらいならできる。
「……」
 隣にいる僕にすら聞こえないほどか細い声で彰が何かを言った。僕はその言葉を聞き取ろうと、静かな声で聞き返す。
 暫く彰は何も応えてはくれなかったが、やがてもう一度口を開いた。今度はその言葉を聞き漏らすことがないように耳をそばだてる。微かに響いていた空調の音すら聞こえなくなるほどの静寂の中で、その言葉は鼓膜を通り越して、心臓に直接突き刺さった。
 五歳にもなれば、死ぬということがどういうことか理解できるようになるという。父が死んだときにはまだわからなかった言葉を、彼は今、口にしたのだ。
 死にたいと言っても、その方法もまだ知りはしないだろう。僕はその細い首筋に手を伸ばした。こんな場所で生きるくらいなら、と思った。五歳の子供なら、僕の力でも殺せるだろう。指先に微かな脈動を感じる。そこは頸動脈で、首を吊るときはそこが締まるようにするといい――昔得た知識が頭の中を巡った。
 僕はその場所から少し指をずらして、力を込めた。虚ろな表情は苦痛に塗り替えられて、小さな手が僕の手を引き剥がそうと動く。けれど僕は力を緩めなかった。いや、緩めることができなかった。
 指先から黒い煙のようなものが昇ってきて、それが僕の体を染めていくようだった。どうしてこんなことをしているのだろう、という意識の裏で、苦痛に歪む彰の顔を見て高揚している自分が確かに存在していた。こんなことをしたくはないはずなのに、自分が止められなくなっていく。
 まるで他人のもののように動く手に逆の手で爪を立て、彰の首からどうにか引き剥がす。酸素を一気に取り込んで咳き込む彰のことを抱きしめるようなことはできなかった。
自分が何をしたのか、理解できなかった。
 それなのに彰はベッドに横たわりながら、穏やかに笑っていた。本当は問い詰めたかった。僕が何をしたのかわかっているのかと。けれど聞くことはできなかった。僕がしたことを理解した上で笑っているのだとしたら、僕はきっとそれが示す事実を受け入れられないだろう。
「――彰」
 その唇が再びか細い音を紡ぐ。けれど僕はその言葉を聞くことができなかった。下がるようなその言葉を受け入れることを、心が拒絶した。
 でもそれは彰のことを考えたからではなかった。今もう一度彰の首を絞めてしまったら、今度はきっと止められない。自分の裏側で黒いものが蠢いている。それは深い深い沼の底に僕を誘っていた。

 いずれあなたはこちら側の人間になる――。水無瀬の言葉が、呪いのように頭の中に響いていた。

8-1「ひび割れた世界」Ⅰ

 最初は確かに、(しょう)がそれを望んだのだ。でもこんな言葉は言い訳でしかない。踏み越えてはいけない線を越えた後はどう足掻いても元には戻れない。人の心は不可逆だ。黒く染まったものをどれだけ漂白しようとも、元の色が蘇ることはない。
 高校を卒業する頃には、週に一度は彰の首を絞めるようになっていた。誰にも知られていないこの行為を罰してくれる人は誰もいない。彰ですら僕を止めようとすることはなかったのだ。
 母に叱られたときに、彰が発作のようなものを起こすことがあった。過呼吸に近いその発作を止めて、一時的でも彼を苦痛から解放するためには、彼自身を傷つけるしかなかった。いや、これも所詮は言い訳だ。
 そのとき僕の中にあったのは、愛情とはとても呼べないおぞましい感情だったから。感情と名付けることもできないようなその衝動は日常的に僕の奥底に潜んで、昏い淵へ引き摺り込もうとする。その力は日を追うごとに強くなっていき、自分ではもう振り解くことができなくなっていた。

 高校の卒業式が終わって一週間が経った今日、国公立大学の前期試験の結果が出た。受かっているはずがないとわかっていたのは僕だけだ。第二志望のためにセンター試験はきちんと受けたが、二次試験は英語を白紙で出した。もう泣いても喚いても僕がその学校に受かることはなかった。気持ちはすでに明後日の中期日程の方に向いている。けれど問題は、目の前の状況をどう切り抜けるかだ。これだけはどう足掻いても避けられないとわかっていた。
「どういうことなの?」
 母が低い声で言い、僕のことを睨む。どういうことも何も、合格者一覧に僕の番号がなかった。それだけだ。担任は「気を落とさないで中期に臨むように」と言うだけだった。教師としてはあまりに普通の反応だが、母はそうではない。
「……どうせあんなところに行く気もなかったし」
 そこは確かに難関と呼ばれる大学で、入ったらそれなりに楽しかったのかもしれないが、そこに僕が求めているものはないのだ。
「何よ、その言い草は! 私が今までどれだけあんたに金をかけてきたか!」
「どうせ僕がいい大学に行ったら、それが自分のステータスになるとでも思ってるんでしょ? 残念だったね、自慢できなくて」
 試験がうまくいかなくて落ちてしまったのだと落ち込む演技をしたところで結局何も変わらないのなら、思っていることを言った方がいい。僕は青筋を立てている母を冷静に見つめた。
「僕の人生は僕のものだ。僕はあなたの道具じゃないんだ」
 言葉にならない怒号が飛んでくる。僕はテーブルの下で左手の甲に爪を立てた。母が飽きるまで耐えれば、いつか嵐は過ぎ去るのだ。けれど次の瞬間に視界が揺らいで、次にはっきり見えたのはリビングの天井の模様だった。体に鈍い痛みが走る。
「どうしてお母さんの気持ちをわかってくれないの⁉︎ 私はずっと、海が苦労しないようにって!」
「それはあなたが勝手にやったことで、子供が親の期待に必ず応えなきゃいけないなんて決まってない」
 所詮は遺伝子を半分受け継いだだけの他人だ。子供は親の所有物などではない。けれどそれを母が理解してくれないことはわかっていた。この人に何を言っても無駄なのだ。だからこの人から彰を守ることができるのは僕しかいない。
 母が力任せに僕の髪を掴む。僕はどこか遠い世界の出来事のようにその光景を眺めていた。乱暴に浴室に押し込められて、水のままのシャワーを浴びせられる。
「私はあなたのためを思っているのに、どうしてそれがわからないの!」
 そんなことは一生わかりはしないだろう。母は人間として堕ちてはいけないところまで堕ちた獣だ。弱いものを支配する喜びに浸っているのに、その自覚を持っていない。そこにあるのが愛であるはずはない。
 冷たい大粒の雨の中で僕は笑った。僕は間違いなくこの人の血を継いでいる。今ならこのまま僕を殺してしまうことだってできる。それはさぞかし気持ちが良いことだろう。僕もその悦びを知っている。
 僕たちは同じ穴の狢だ。それなら、苦痛は獣の僕が肩代わりすればいい。
 満足したのか、母が濡れ鼠の僕を放置して浴室を出て行く。早く服を着替えなければ風邪を引いてしまうとわかっていても、芯まで冷えた体はなかなか動かなかった。
「……っ」
 かちかちと歯が鳴る。貧血を起こしたときのように視界が時折黒く落ちていた。それはまるで明滅する蛍の光のようだ。蛍の光は高いところから降りて、地面に落ちると水滴のように砕け散る。
 こんな光ではどうせすぐに消えてしまう。それなら最初から暗闇だった方がいい。僕の世界に必要な光はたった一つだけだから。それ以外に何もいらない。
 だからせめて――そう思ってみるけれど、僕には祈るための神なんていなかった。

 そして四月になり、僕は希望通りの大学に進むことになった。大学の講義に興味があるわけではない。一連の入学ガイダンスが終わったあと、僕はすぐに学生課に向かった。
「芸術センターでのアルバイトの募集って」
 そう言った瞬間に、奥から気の良さそうな痩せ型の背の高い男が出てきた。
「いやぁまさかこんな早く希望者が来るとは思わなかったよ。毎年、一番忙しい夏休みに入る直前まで決まらなかったりするんだけど」
「そうなんですか」
 男の名札には仁川と書いてある。芸術センター関連の業務はほとんどがこの仁川さんの管轄らしい。
「一応面接することになってるんだけど、今から時間あるかな?」
「大丈夫です」
「面接といっても、形式的なものだから緊張しなくても大丈夫だから。じゃあとりあえずそこのソファーに座って。えーと、あとお茶あったかな……」
 お茶を出したら面接というより応接のような気がするけれど、僕は余計なことは言わずに待っていた。ここで万が一不採用になることがあってはこの大学に来た意味がない。
「まず仕事内容なんだけど、普段は主に僕の手伝いだね。雑用を色々お願いすると思う。それで、夏休みになったらお客さんが来るから、そうしたらそのお客さんの手伝い……まあこれも雑用がほとんどだね」
 僕は頷いた。お客さん、と軽く済まされているが、夏にこの大学の芸術センターを訪れるのは現役で活躍するアーティストたちだ。そこにこの仕事の難しさがある。
「こんな早く来るってことは、英語の方は自信があるのかな?」
「実戦経験がほとんどないのでそこは不安要素ですが、通訳の仕事にも興味があって――」
「なるほどね。いや、うちの学校じゃそもそも英語を話そうってやる気を出す人が少なくてね。毎年なかなか人が集まらなくて。今年は佐伯さんがいてよかったよ」
 それを目当てに大学を選んだと言ったらどういう反応をされるのだろうか。仁川さんは上機嫌にバイトの勤務時間や時給の話を続ける。これは面接というよりはもう打ち合わせではないだろうか。
「じゃあせっかくだし今からセンターの方行ってみようか。この時期は展示棟しか使ってないんだけどね」
 鍵束を持った仁川さんに先導されて、森の中に足を踏み入れる。この大学は山の中にあることが特徴だが、芸術センターは山の中のキャンパスの、更に奥にある森の中に建てられているのだ。
「こんなところだからね、夏は虫がすごいんだよ。佐伯さん、血液型は?」
「A型ですけど」
「僕はO型なんだけどね、O型って蚊に刺されやすいって言うよね」
 ちなみに彰もA型で、Rh血液型はどちらもマイナスだ。蚊に刺されやすいかどうかは知らない。
 森の中を進んでいくと、まずは扇形の建物が顔を出した。これが展示棟だ。普通の美術館の部分。今は芸術センターが所蔵している作品を展示しているらしい。
「夏以外はここでの仕事が多いかな。ここは大学の人間だけじゃなくて外部の人も出入りするんだ。手が足りないから、作品のキャプション作りの手伝いとかもお願いするかも」
 展示棟の中はかなり音が反響する。人が大勢いたら気にならないだろうが、今は僕たちが立てる足音がとても大きく響いた。有名な建築家に設計を依頼したという建物は、美術館というよりは地下の礼拝堂のような密やかさと厳かさを感じさせる。この場所で仕事ができるというだけで少し心が躍った。
 展示棟を出ると、更に森の奥に進んでいく。残る二つは制作棟と宿泊棟。夏休みにここを訪れて作品作りに取り組むアーティストたちが使う建物だ。モダンなデザインながら森に溶け込むように作られた二つの棟。中でも目を引いたのは制作棟の方だった。何もない広い部屋と反対に狭い部屋、それから木工スタジオから銅版画、写真、映像などを編集するための部屋がそれぞれ作られている。
「すごいですね……これ、どこかの部屋は使わないとかそういう年もあるんじゃないですか?」
「そうだね。でもなんでもありますよってしておいた方が来てくれるからね。佐伯さんも何か作ったりするの?」
「少し絵を描いたりはしますけど……どうしてですか?」
「目の輝きが全然違うよ。うちの娘みたいだなって」
 仁川さんはそれから僕より二歳年上だという娘の話をし始めた。今は隣県の大学に通っていて、大学合唱団ではソプラノのパートリーダーを務めているらしい。音楽の話になると目の色が変わるんだ、と楽しそうに仁川さんが言う。
 親というのは本来はこういう顔をするものなのだろうか。仁川さんが特に人が好い、という可能性もあるけれど。少なくとも僕は母のこんな顔は見たことがない。
「佐伯さん、誰も使ってないときならここ使ってもいいからね」
「え?」
「道具は使ってあげた方がいいからね。夏は難しいけど、それ以外の時期ならメンテナンスも兼ねて。僕ができればいいんだけど、そっち方面はからっきしで」
 それなら娘さんと同じで音楽の方なのかと思いきや、それも違うらしい。趣味らしい趣味はなくて、強いて言えば車でどこかに出かけることくらいだという。
「使い方を聞かれたりもするから一通りはわかるんだけど、使い方を知ってるのと何かを作れるのは違うだろう?」
 夏にやって来るアーティストの仕事を見られればそれでいいと思っていたが、道具を使わせてもらえるとは僥倖だ。家では母に隠れて描かなければならなかったから限界があったのだ。
「僕は戻っているから、もう少しゆっくり見ていくといいよ。どこに何があるかとか、わかっておいた方が今後役に立つだろうし」
「ありがとうございます」
 学校の美術室なんかとは比べ物にならない広さと充実した機材。僕は仁川さんが帰ってからもしばらく、そこにあるものをひとつずつ見ていった。これだけあれば思い描いていたものを全て形にできそうな気さえする。僕は時間を忘れて、すっかり日が暮れてしまうまでそこで過ごしていた。

8-2「ひび割れた世界」Ⅱ

 すっかり帰るのが遅くなってしまった。しかも山奥にある大学なので、市内なのに家に帰るまで一時間近くかかってしまう。家の最寄りのバス停で降りた頃には、冷えた夜の風が吹き抜けていた。熱くなった頬を冷ましていく風は気持ちいいけれど、この時期はまだ肌寒い。大学近くは山だからまだ溶け残った雪が残っているし、家の周りもまだ花が咲き始めるには早いようだ。今年の桜は平年よりも早く咲き始めるらしい。確かに川沿いに植えられた桜の蕾が少し色付いていた。
 月見丘霊園に向かう道の桜はこの辺りの桜より少し遅く咲くから、そうしたら(しょう)と一緒に父の墓参りついでに花見でも行こうか。大学の敷地にも桜を植えているところがあるらしいから、そこでもいい。桜が終われば今度は藤の季節になる。芸術センターの周りには四季を通して楽しめるように植物が植えられているらしいから、おそらく藤もどこかにあるだろう。花のことはよくわからないけれど、藤の花の色は好きだ。彰はどう思うだろうか。花より団子かもしれないけれど、それならそれでいい。
 家に着いたとき、時刻はすでに七時を回っていた。一番外側の引き戸を開けた瞬間に母の声が聞こえ、高揚していた気分が沈んでいく。
「どうしてあなたはいつもそうやって私を困らせるの!」
 声を荒げる母と床に落ちて割れたコップ。安物だったから、かえって破片が出ることもなく綺麗に割れている。状況はそれだけで何となく察することができた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 彰は泣きながら謝罪の言葉を口にする。けれど反省しているというよりは、この状況から早く抜け出したいという気持ちでいっぱいになっているだろう。
「何でこんなことになったのかわかってるの⁉︎」
 コップを落とす理由なんて大人も子供も単なる不注意だ。テーブルの端には置かないとかそういうことくらいしか改善点はない。僕は帰ってきたことを二人に知らせるために、わざと大きな音を立てて荷物を置いた。
「どこも怪我してない?」
 彰は涙を浮かべながらも頷いた。
「じゃあ彰は危ないから、少し離れてて。私が片付けるから」
「でも……」
「次からは自分でできるように、今度教えるから。一旦部屋に戻ってて」
 柔らかい髪を撫でると、彰は躊躇いがちに頷いた。もう少し早く帰ってきていれば――その思考を頭の隅に追いやりながら、彰が出て行って扉が閉まるのを確認する。
「海はいつもそうやって彰を甘やかして。そんなんだといつかあの子もダメになるわ」
「まるで僕が駄目な人間みたいな言い方だね?」
 実際、母の中ではもう僕は失敗作なのだろう。母が望む通り生きることはできなかった。でも僕の未来は僕だけのものだ。それに触れることは誰にもできない。
「母さんは僕たちを自分の思い通りにしたいだけでしょ。自分の思い通りになれば彰がどう思ってたって関係ない」
「海に何がわかるの⁉︎ 私たちは人より立派に生きないと、片親だって烙印をずっと押され続けるのよ!」
「そんなことを言う奴には好きにさせておけばいい。母さんは自分がどう見られるかしか考えてないんだよ。僕たちのためなんかじゃない」
 このままではいけないと思った。この家にずっといたら、彰の将来も、僕の将来も潰されてしまう。僕は母に背を向けて歩き出した。計画なんて何もない。でも雨風が凌げそうなところなら知っている。芸術センターの中なら僕は自由に出入りできるし、宿泊棟にはそこで一通り生活できそうな設備が揃っている。何なら今からだって出て行ける。
「……これ以上あなたの好きにはさせない。彰と一緒に出て行くよ」
 これ以上、彰の悲しい顔は見たくなかった。行くなら今しかない――けれど母は何かを喚き散らしながら僕の腕を強引に引いた。
「そんなことできるわけないじゃない! まだ子供なのよ⁉︎ どうせすぐにどうにもならなくなって帰ってくるくせに!」
 床に引き倒されて、背中に痛みが走る。僕が倒れた場所には割れたまま放置されていたカップの破片があった。安い陶器の破片はそれほど鋭利ではなく、布を突き破るようなことはない。けれどせめて踏まないような場所に移動しようとしていると、今度は頬をはたかれた。
「あなたはまだ子供なんだから、出て行って生きて行けるわけないでしょ!」
「……ここにいるよりはマシだよ」
 僕が低い声で吐き捨てた途端、腹部に母の足が入った。母は僕を蔑むような目で見下ろしている。体を起こすこともできず身構えていると、母が床に落ちたカップの破片を拾い上げた。
「っ……!」
 かろうじて避けたが、その鈍い切っ先は間違いなく僕の首筋を照準に捉えていた。それは紛れもなく、殺意としか呼べないものだった。安い食器の破片では皮膚の下の血管まで傷つけるのは難しいだろうけれど、おそらく母はそこまで考えていない。
 僕が一体何をしたというのだ。歯向かうことはそんなに許されないことなのか。だったら大人しく殺されていろとでも言うのか。
 不意に、(めぐむ)と昔していた話を思い出した。死ねばこの苦痛からは逃れられるのか。だとしても死に方くらいは選ばせてくれ。殺されるにしても、母になんて殺されたくない。
 力の入らない体を叱咤して立ち上がろうとすると、胸倉を掴まれて罵声を浴びせられる。その内容を聞き取るような気力はもうなかった。
 しばらくすると、母は何か捨て台詞を残して部屋を出て行った。僕はあちこちが痛む体をさすりながらゆっくり起き上がる。とりあえずどこからも血は出ていなさそうだ。カップの破片を拾い上げて床を軽く掃除する。一つ割れてしまったということは買い足さなければならないだろうか。今度の土日は予定がないから買い物に行くのもいい。
 妙に冷静な自分を見下ろしながら、集めた破片の一つを手に取る。こんなもので体に傷が付くなんてことはないのに、僕は何を恐れていたのだろうか。溜息を吐きながら破片を全て紙に包んでゴミ箱に入れた。

 自室に戻り、彰の部屋とこの部屋を隔てるカーテンを開ける。彰は既に布団にくるまって寝息を立てていた。何となくその場を離れ難くて、ベッドの横に腰を下ろす。夕食を食べていないから、本当は少しでも何か入れた方がいいのだろう。けれど一度座り込んでしまうとそこから動けなくなってしまった。
「っ……」
 彰が微かな声を上げる。今日も良くない夢を見ているのだろうか。その夢の中に入り込んで、悪夢を壊してしまう力は僕にはない。それどころか、悪夢より酷いこの現実を変える力すらなかった。
「……ごめんね」
 まだ小さな体を抱きしめて、悪夢が終わるまでそばにいることしかできない。それなのに今日僕は浮かれていて、大学にいる間は彰のこともほとんど思いださずにいて、家に帰るのが遅くなってしまった。でも、たとえ現実がどんなに酷くても、絵を描くことだけは諦めきれない。それが自分にとって何の意味を持つのかもわかってはいないし、人間は絵を描かなくても生きていけるとわかっている。それでも、何も描けなくなったらきっと死んだと同じなのだと思ってしまう。画家を目指すのは夢ではなくて、僕が生きられる場所を作りたいだけだ。
 でもきっと、今の彰にはそういうものがないのだ。彰の生きる道は母によって狭められている。それを理解していながら、僕は僕の夢を追いかけていいのだろうか。
「……描けている間は、お願い」
 それを希望(ひかり)だなんて呼ぶのは大袈裟かもしれない。そもそも希望はパンドラの箱に収められている類のものだ。それは病魔のように人の心を蝕むものなのかもしれない。でも、それは人に明日を連れてくるものだ。それに縋ることさえ許されないなら、僕はこれからどう生きればいいかわからない。

 そして願わくば、彰の世界にもそれが灯ってくれますように。
 この世界がそれを許さないと言うのなら、それは僕たちではなくて世界の方が間違っているのだから。

fragment #3「風景」

(しょう)とこうやってちゃんと話をするのって初めてかもね」
「そうだな。理人が生きてたときもほとんど会ったことなかったし」
「聞きたいことはいっぱいあるんだけど」
「……まあ、そうだな」
 響は何でも知りたがる。ともすれば詮索好きなように思われてしまうけれど、彼女自身には悪気はないのだろう。響は「どうして?」と問えば答えが返ってくる環境で生きてきた。俺はそれを聞くことも許されてはいなくて、きっと答えてくれたであろう人にも聞けないままここまで来てしまった。ただ、それだけのこと。
「姉さんと、どれくらい話した?」
「三ヶ月くらい毎日顔合わせてたけど、そこまでは。多分嫌われてたと思うし。でも彰の話はたまにしてたよ」
「で、何が知りたいんだ? 答えられる範囲でなら答えるけど」
 答えられる範囲がそこまで広くはないけれど、それは姉さんが響にどこまで話しているかにもよる。
「全部聞いたら死ぬことになるって言わたんだけど」
「それは俺も初耳だ」
「じゃあやっぱり全部聞いた人は殺すぞって意味かな……」
「まあ積極的に聞かせたい話じゃないのは事実だ。あと俺の話を聞いた人間は、二人中一人はとりあえず生きてるから」
 ただ、もう一人はもうこの世にはいない。らでも理人が死んだのは俺たちの過去を知ったからではないのだ。
「……お母さんのことは、どう思ってるの?」
「いきなりそこかよ」
「だってどこから聞いてもいきなりになるかなって……」
「まあ、まどろっこしいことしてるよりはいいか」
 響はピアノの鍵盤を軽く拭いてから、その上に臙脂色の布を乗せて蓋を閉めた。真っ直ぐこちらを見つめてくる目は優しい割に鋭くて、嘘を言おうものならすぐに見抜かれてしまいそうだ。
「優しいときもあったんだよ。……だから、怒られるのは俺が駄目だからなんだって思ってた」
「でもそれは――」
「わかってるよ。もうそれは、何人にも言われてるんだ。だけど、それが愛ではなかったっていうのを受け入れるのは簡単じゃない」
 響の表情が曇る。顔を見るだけで何を考えているかわかった。でもそんな顔をする必要はない。母さんのことは何もかもが終わった話なのだ。もう俺のことも姉さんのことも認識することはないだろう。
「……誰だって、愛されて生まれてきたって信じてはいたいんだ」
「でもそれが苦痛を生むことだってある。絶対なんてどこにもないんだから」
「そうだな。……理人もそう言ってた」
 絶対なんてどこにもない。その言葉は人を解放するけれど、どうしようもなく寄る辺ないような気持ちになることもある。響もそれは同じなのだろうか。彼女はいつでも凛と立っているように見えるけれど。
「でも、自分が悪いって思うのがそのときは一番楽だった。俺が悪いから怒られてて、たまに手を上げられることもあるんだって」
「そう……」
「そんな今泣きそうな顔になるなよ。終わった話なんだから」
 響がわかりやすく泣きそうになるから、いじめているんじゃないかとさえ思ってしまう。そういう顔をさせたいわけではない。そのときはそうだったという話をしているだけだ。
「……昔の話かもしれないけど、でも、彰のその時間は永遠に戻ってこないんだよ?」
「そうだよ。どうやったって過去は変わらないんだから、そこは割り切っていくしかないだろ」
「でも、それは……その頃の彰は、いつまでもそこに置き去りになるんじゃないの?」
「……だったらどうすればいいんだよ」
 変わらない過去。そこで起きたことをいつまでも引きずっていては進めない。昔の自分を置き去りにしてでも足を踏み出さなければ、過去なんていつまでも越えられない。
「ごめん。どうすればいいかは私にはわからないけど……でも、今苦しいって思ってるなら、そうやって過去のことにしてしまわない方がいいと思う。過去の出来事でも、今も傷ついているなら、それは過去のことじゃないよ」
「……忘れたいんだよ。できることなら、なかったことにしたい」
「その気持ちを否定はしないよ。私だったら多分耐えられない」
「俺も耐えられてたわけではないけどな」
 父親が生きていた頃の記憶はほとんどない。そのあとを思い出そうとすると、心臓が引き絞られているように痛む。母に投げつけられた言葉よりも、過去の自分の呪いに苛まれるのだ。
 自分が悪いから、怒られるのだと思っていた。
 良い子でいれば、愛してもらえると思っていた。
 けれどなぜかいつも失敗してしまって、それを叱責されるたびに体が縮こまってしまって、更に失敗を重ねてしまう。
 こんな自分はいなくなった方がいいのではないかと思うと、頭の中が黒い泥のようなものに侵されていく。それが始まると、だんだん何も考えられなくなって、息ができなくなる。
「……っ、う」
 ああ、こんなとき――どうしていつも思い出すのは、姉さんのことなのか。
 昔のことははっきりとは覚えていないことも多い。気づけばこんな風に時々息の仕方がわからなくなって、そのたびに姉さんの冷たい手が俺の首を絞めた。どうしてだろうか。体に与えられる苦痛の方が俺を殺そうとしているはずなのに、それに安心している俺が確かに存在していたのだ。
 でも今は、何もかもが壊れてしまった。
 壊れなければよかったというわけではない。俺たちがいた世界は間違いなく異常だったのだから。先に進むべきなのだ。それなのに心の一部がまだ、あの日々の中に囚われている。
 不意に手に痛いほどの冷たさを感じた。思考を強制的に中断させる温度。気がつけば、響が俺の手に何かを握らせていた。
「……氷?」
「昔、お父さんから聞いたことがあって。色々考えて頭がぐちゃぐちゃになったときにいいって。効果あるかはわからなかったけど。すぐそこに冷蔵庫もあったし」
「――正直言うと助かった。ありがとう」
 手の中の氷はあっという間に溶けて水に変わる。額に手を当てると、冷えた手がとても心地よく感じた。
「助かったって言っても、私のせいだし……」
「いや、だってわざとじゃないんだろ?」
「それはそうだけど」
「避け続けて、それで時間が経ったら勝手に治っていてくれるようなものでもないから。そんな顔をしなくてもいい」
 俺は近くにあった椅子に腰掛けた。響はまだ眉を寄せて俺のことを見ている。
「話、聞きたいんじゃないのか?」
「それはそうなんだけど、話すことで彰が苦しむのは本意ではないというか……」
「二回できたんだから、今回に限ってだめってこともないだろ」
 最初は友香に、次は理人に話した。けれど俺が知らないことも沢山あって、その欠けたピースのほとんどは姉さんが持っている。俺の記憶はあくまで断片でしかないのだ。
「じゃあ、聞くね。――彰が覚えている中で、一番幸せな記憶は何?」
「答えにくいな、それは」
 事実を淡々と話すより、自分の感情を聞かれた方が話しにくいのは当然だろう。しかもわざわざ幸せな記憶の方を聞いてくるなんて。予想していなかったから、答えが出ない。
「……買い物に行って、そのあと姉さんが通っていた大学に花を見に行った。いつのことかも覚えてないけど、その日のことはうっすら記憶にある」
「買い物はどこに行ったの?」
「そこのジャスコだけど」
 今はイオンになっているけど、そのときは確かジャスコだった。コップがひとつ割れたから、今度は割れないものを買おうと姉さんが言って、でも結局俺たちが気に入ったコップは色入りガラスのもので、割れたらまた新しいのを買えばいいよ、と姉さんが笑っていた。
「あと、そのときだな。――これ買ったの」
 俺はポケットから掌に収まるサイズの十徳ナイフを取り出した。響の目が大きく見開かれる。
「あ、それ! どこ行ったのかと思って探してたのに!」
「これ響のじゃないだろ」
「まあ……ちょっとネコババしたっていうか……なんていうか……? でも彰も人のこと言えなくない?」
「俺はいいんだよ、俺は。あとこれは見つかるとややこしいことになるから、早めに捨てたほうがいいと思うぞ」
 響は自分の身を守るために盗んだのだろうが、こんなもので人は殺せない。キャンプのときは役に立つかもしれないけれど、正直これを持っていくなら新しいものを買った方がいい。
「ていうか、姉さんのもの盗むならもうちょっといい感じの武器あっただろ」
「だって銃は反動があるから慣れてないと使うのは難しいってお父さんが言ってたし、それより大きい刃物は持ち歩きにくそうだったし……」
「何で娘に銃の話してるのかは全くわからないが、まあそれはいいとしてだな。これは響には返さないからな?」
 そもそも本来の所有者は姉さんなのだが、姉さんに返す気もない。これはそれだけ、今この世にあってはならないものだ。
「まあ、いいけど。私のじゃないし……」
 響が大人しく引き下がったので、今度こそこれは処分しておこう。心の底から、響がこれを使う状況にならなくてよかったと思う。
「それで、買い物の後は?」
「バスに乗って姉さんの大学に行って……構内に色々植物が植えられてるところがあって、そこを案内してくれたんだよな」
 そこに生えている植物の名前のほとんどを姉さんは言い当てることができた。それはバイトの関係で覚えなければならない知識だったらしいが、そのことを知らなかった俺は、姉さんは何でも知っているんだと思い込んでしまった。
「それで、藤の花の色が好きとかそういう話をしたんだよな。で、そのあと芸術センターの中に入れてもらって」
「聞いたことある。他の美術館とは音が違うけど好きだって理人が」
「美術館なら作品を見ろよ……まあそういう奴か。でも俺が入ったのは展示棟じゃなくて、なんか作業するところだったな」
 そこで初めて見たのだ。姉さんが作品を作っているところを。いつも俺に見せている顔ではなく、挑むような、真っ直ぐな目で目の前のキャンバスを眺めていた。その表情を今でもはっきりと覚えているのは、俺がその姿に惹かれたという何よりの証左で、でも、このことは今まで誰にも言わずにきた。
 俺を見る目ではなく、自分の作品に向かう姉さんのその姿を、世界一美しいもののように見ていた。
「なんとなくは、わかるよ。私も理人が音楽のこと考えてるときの目が好きだったから」
「あいつは音楽のこと考えてないときがないくらいだろ。でもまあ――理人に惹かれたのは、多分その部分だったんだろうなって思ってる」
 俺が見たものの中で一番綺麗だったものを持っている人が、もう一人いた。蛋白色の石の中で揺れる炎のような目の光。それを宿したまま俺を見る人が、たまたま二人いたというだけだ。
 今でも思う。
 時よ止まれ、お前は美しい――仮に悪魔と契約を結んでいたとしたら、あのときにその言葉を口にしてしまったかもしれない。そして、そこで終わる物語なら、どれだけよかっただろう、と。
「姉さんは夢中になってて、結局帰るのが遅くなって、家に帰ったら怒られた。――あの日は本当に、帰らなきゃよかったって思ったな」
 もし帰らなければ、何か変わったのだろうか。廻り続ける運命の輪を止められたのだろうか。もしそうだったとしたら、あの日俺は――。
「あの日、時間だから帰ろうって言ったのは、俺だったんだよな。……そんなこと、言わなきゃよかった」
「彰……」
「結局、母さんが怖かったんだ。だから帰るしかなかった」
 あの日、家に帰らなければ。
 いやいっそ、あの日で時間が止まってしまっていたなら。
 そうやって仮定を重ねたところで過去は変わらないとわかっているけれど、それでも、後悔はいつまでも変わらずに残っている。

9「Birthday Kid」

 藤の花が咲く頃に、(しょう)と二人で出かけた。割れたコップの代わりを買いに行って、それから大学に行って花を見たり、芸術センターに立ち寄ったりした。少しだけ進めてから帰るつもりだったけれど、途中でこのまま帰らなければいいのではないかとも思った。ここには泊まる場所もあるし、数日分の食料もある。家を出ている今が逃げるチャンスなのではないかと思った。
 時間だから帰ろう、と言った彰の声を無視することもできた。でも彰の目にはっきりと浮かんだ怯えの色を見て、何も言えなくなった。帰らなければ怒られる。そう思っているのだろう。このまま逃げればいいと言えればよかったけれど、僕には言えなかった。
 たとえこのまま姿をくらましても、どこまでも追いかけてくるのではないかと、そう思ってしまったから。
 バスに乗って家に帰ると、案の定母が待ち構えていた。
「今何時だと思ってるの?」
「つい夢中になってしまって。ごめんなさい」
 今回門限を破ったのはこちらの方なので、しおらしく頭を下げる。けれどそれで許してもらえるはずはない。左の頬を打たれる。そして次の瞬間には、隣に立っていた彰も叩いた。そして近くにあった箒を掴むと、僕が止める間もなく、それで何度も彰のことを打った。
「ちゃんと時間を見てなかった僕が悪いんだ。だから彰のことは怒らないでほしい」
 事実を言っただけなのに、母はテーブルの上のコップを掴み、中に入っていたお茶を僕の顔にかけた。彰が息を呑むのを背中で感じる。できれば見せたくない。こんな酷い景色は。
「ちょっとこっちに来なさい」
 母が僕の手を強く引く。母が目指すのは部屋の奥ではなくその逆方向の、外だった。心配そうにこちらを見る彰に一瞬だけ微笑んで、靴を履く時間も与えられずに風除室の外に出された。靴下を履いていても、アスファルトの微かな凹凸で足が痛む。
 母は外にある納屋の扉を開けると、そこに僕を放り込むようにして入れた。背中を強かにぶつけて咳き込んでいる間に扉を閉められる。外側からは簡易的な鍵で簡単に開けられるが、内側からは開けられない。
「一生そこにいなさい」
 母は捨て台詞を残して納屋を離れていく。乱暴に風除室の戸を開ける音が聞こえたから、家に戻ったのだろう。
 納屋の中には冬の雪かきに使う道具があるだけで、灯りや食料になりそうなものは特になかった。隙間から差し込む外灯の光が唯一の光源だ。
 携帯を入れた鞄を手放さずにそのまま持っていたらなんとかなったかもしれないのに。僕は膝を抱えて溜息を吐いた。別にもう凍死するような気温ではない。それなのに酷く寒く感じた。
 明日になったら気まぐれで出してくれるかもしれないし、本当にこのままかもしれない。どっちでもいいけれど、でも――今作っている作品を仕上げたいな、とぼんやり思った。
 今日は遅いし、脱出する方法を考えるよりもこのまま寝て、体力を温存した方がいい。眠れなくても目を閉じているだけで少しは体が休まると言うし。
 僕が家にいない間、彰はどうしているだろうか。母に何か酷いことをされていないだろうか。僕が帰るのを遅らせたせいで殴られたりするなら、それは僕の責任だ。
 それにしても暗い。寝てしまえば気にもならないのかもしれないが、目を閉じていても眠りはいつまでも訪れなかった。そればかりか、暗闇が僕の輪郭を侵して中に入り込んでくるような気さえする。
「……っ」
 目を閉じていても開けていても、同じことを考えてしまう。僕を丸ごと呑み込もうとする巨大な影。影は優しい腕で僕を抱きしめて、このまま暗闇に溶ければ楽になれると囁いてくる。でもそれは、僕が僕でなくなるということだろう。
 首筋に右手で触れる。指先に感じる脈動。
 誰かに、この暗闇に、僕という存在を侵されるくらいなら、いっそ――。
「っ……か、ぁ」
 首を吊るときは頸動脈を押さえること――。そんな知識はあったけれど、自分自身にそれを使うのは初めてだった。頭に血が上っていく。それでも力が足りないのか、意識が薄れていくような感覚はなかった。
「っ、はぁ……っ」
 それでも、僕を呑み込もうとする影は去った。束の間の平穏を感じながら目を閉じる。一生出してもらえないのだとしても、自然に死ぬのにはもう少し時間がかかる。だから焦る必要はない。
 でも、僕がいなくなった後の彰の未来と、途中になってしまった作品のことが気にかかった。けれど脱出を試みるほどの気力は湧かなかった。今はこの束の間の平穏の中、眠ってしまいたかった。

 それからどのくらい時間が経ったのだろう。閉じた瞼に光を感じて、僕はゆっくりと顔を上げた。納屋の扉が少しだけ開いている。そしてそこから遠慮がちに顔を出しているのは彰だった。
「どうして……」
「どこにもいなかったから、もしかしたらここかもって」
 ということは、探してくれたということなのだろうか。しかも、こんな場所まで。
「っ……ごめん……」
 視界が滲んでいく。輪郭が朧気になる中で、目の前の光に手を伸ばした。
「彰……っ」
 でも闇は光を簡単に侵していく。僕はそのまま、彰の細い首筋に唇を落とした。自分が何をしているのか自分でも理解できないまま、納屋の床に彰を押し倒した。
 もう手遅れだったのか。闇はいつの間にか僕を呑み込んでいたのか。今の僕に彰という光は眩しすぎた。
 状況がわかっていない彰が、目を見開いて僕を見ている。僕は彰の唇に自分のそれを重ねた。抵抗はなく、彰は何もかもを受け入れている。
 少しでも拒否してくれるなら、それで止まれるのに――そんな想いは、あまりにも身勝手で。けれど自分自身ではもうどうしようもなかった。
 開いた口に舌を侵入させながら、彰のTシャツをまくり上げる。微かに浮き出た肋骨を撫でて、その胸に触れた。それは紛れもなく欲望ではあったけれど、性欲と呼ぶのは違う気がした。
 指を動かせば小さな実が硬くなる。合わせた唇の間から彰の微かな声が漏れた。細い指が床を掻くけれど、僕のことを押し除けたりする様子はなかった。
 僕は何をしているんだろう。
 こんなことをしてはいけないとわかっている。それは血を分けた姉弟だからというわけではない。彰が望んでいないからだ。それはわかっているのに。
 彰のズボンのボタンを外し、下着の上からその部分に触れる。まだ第二次性徴を迎えてもいないその体を、僕は自分の欲望のままに塗り潰そうとしているのだ。
 その罪を意識すればするほど、僕の体は興奮に包まれる。獣と呼ぶ価値もないところまで堕ちて、僕は汗だけではないもので下半身が湿っていることに気が付いた。
「……っ」
 彰が微かな声を漏らす。まだ精通を迎えていない年齢であっても、刺激によって勃起することもあるし、そこから快楽を得ることもできる。僕の手に反応して顔を歪めて吐息を漏らす、その姿にさらに煽られていく。
 下着の中に手を入れると、さすがに彰は驚いたようだった。けれど僕の手を振り払うことはしない。それは受け入れたからではないと理解はしていた。姉と弟。そこには年齢差という絶対的な上下関係が存在する。特に彰は従順であることを求められて生きてきた。逆らえない立場を利用して、僕はこんなことをしている。――本当に最低だ。
 神様がいるなら、こんな僕をどこからか見て嗤っているのだろうか。それなら今すぐ僕を殺してくれればいいのに。
「っ、お姉ちゃ……ッ」
 彰が微かな声を上げ、その体を反らした。精液は出ていない。年齢的に、まだ精通を迎えていないのだろう。そのことを少しだけ残念に思ってしまった自分が、たまらなく気持ち悪かった。
「……ごめん」
 こんなことをしてしまった以上、姉の資格なんてない。触れることも許されない。それなのに、感情が理性を裏切って溺れていこうとしていた。もっと欲しい。渇望に変わった欲望を押し留める防波堤が静かに決壊し始めるのを、どこか遠くの出来事のように感じていた。

10「umbrella」

 先生に向けていた銃を下ろし、ゆっくりと机の上に置く。あの日僕を襲った暗闇がまた僕を呑み込もうとしている。あのときもそうだった。あの日のことを思い出すといつもそうだ。けれど抑えなければならない。この衝動に任せてしまえば、他人を傷つけることになる。
 右手の指先が首筋で脈打つ場所に触れる。躊躇いなく力を込めれば、目のあたりに熱を感じた。
 けれどその手を引き剥がそうとするものがあった。有無を言わさない強い力で首筋に食い込む指を外され、壁に押しつけられる。
「っ、離せ……ッ!」
 早く、早く、そうしなければならないのに。
 どうして止めようとするんだ。
 こうするしか方法はなくて、今度こそ完全に息の根を止めなければ、また誰かを傷つけてしまうから。
「っ……!」
 不意に手に触れた痛みに、思考を奪われた。いやこれは痛みではなく――冷たさだ。掌から手首にかけて冷えた雫が滑り落ちていく。
「氷……?」
「少しは落ち着いたかな?」
「……何なんですか、これ」
 平静さを取り戻した頭で、目の前の状況を確認する。ここには僕と先生しかいなかったのだから、僕を止めたのは当然ながら先生だ。
「響にはぼかして教えたが、君には正しいことを教えようか。これは自傷行為の代替として知られている方法の一つだ。その他にも腕を赤く塗るとか、輪ゴムをつけて強く引いてから離すとか、色々あるんだけどね」
「自傷行為……」
「君は自分がどれだけギリギリの場所に立っているかをもう少し認識すべきだ」
「……わかってますよ、そのくらい」
 初めてではないのだ。
 今までも何度も自分の首を絞めた。人に見られたのも初めてではない。そのとき僕を止めた人は、先生よりずっと拙い方法だったから、僕はその人のことも傷つけてしまった。自分がそういう人間なのはわかっている。一歩間違えれば大切に思っている人さえ殺してしまうような、ただの獣だ。
「今よりももっと深く理解すべきだと言ってるんだよ。そして君がそうなってしまったのは決して君のせいではない」
 僕は首を横に振った。立ち止まれる場所はいくらでもあった。けれどその全てを踏み外した結果が今の僕だ。
「君は自分自身の選択の結果が今だと考えているのかもしれないが、テストと違って、人生の選択肢には正解が一つもないこともある」
「……でも、僕は」
「君の選択肢は奪われてきた。君の父親が亡くなる前……いや、君の弟が生まれる前からだ」
 自覚しろ、と迫る声は優しいのに有無を言わさないほどに重い。今し方自分の口で語った過去の断片が、その言葉で繋ぎ合わされていく。
「君は女性であることを、君自身の選択を、度々否定されてきた。人間はそれを繰り返されると、否定されそうな選択肢は初めから消してしまうことがある。君は自分の心が血を流していることにもっと目を向けるべきだ」
「……そんなことをして、何があるんですか」
「意味があるかは私にはわからないよ。私はカウンセラーでも何でもないからね。だが、識るということを希求する学者ではある」
「僕は学者じゃないんですが」
「そうだ。君はどちらかというと芸術家だね。けれど、識らなければ描けないものがあることはわかっているだろう?」
 どんな画家も、自分自身の目で描くものの本質を見ようとした。そこに描かれたものが写実でなくても、それは目に見える形の奥にあるものを見て、それが何かを識った結果だ。けれど何かを識ることは、ときにそれまでの価値観を揺るがして、自己同一性の崩壊さえ招きかねない劇薬でもある。
「今の自分を壊したくはないんです」
「こちらとしても、いま君に計画を翻されても困る所までは来ている。だが、識ることで、今の君を強化することもまた可能だよ」
「――先生、僕は」
「君の計画は、いや、この世界を巻き込んだ作品は、あまりにも壮大だ。完成させるためには、君は揺るがない存在でなければならない」
 味方に引き入れるにはあまりにも油断ならない。けれど先生を形成するのがあまりにも大きい知識欲だというのはわかってきた。先生は気付いているのだろうか。その性質は娘の響にもしっかり受け継がれている。響が人に問うのは、識りたいからだ。けれど彼女はまだ答えてもらえる範囲のことしか知ることはできていない。反対に先生は穏やかに、しかし逃れられない強さで、僕さえも見えていなかったものを暴いていく。
「私は私の願望のために君を利用する。だが今の君は脆い。それでは困るんだよ」
「僕の話を聞きたがったのは、そういう理由ですか」
「ああ、そうだよ。君自身が君を識ることで揺るがない自己を手に入れられるだろうと私は考えているんだ」
 凶器を突きつけられているわけでもないのに、背中に冷たいものが走る。逃げられない場所に立っているのだと突きつけられる。
「僕がそれに耐えられなかったら?」
「耐えられなければ、君はその程度の人間だったということだよ。だが君なら可能だろう」
「買いかぶりかもしれませんよ」
「今のところ、そうは思えないけどね」
 先生は穏やかに微笑み、ゆっくりと椅子に腰掛けた。僕は息を吐き出す。あくまで優しい口調だが、先生が見ているのは自分の目的だけだ。でもそれでいい。僕だって利用価値があるから先生をここに留め置いているのだから。
「さて、話を戻そうか。――君は君が気付かないほど幼い頃から、選択肢を奪われてきた。そんなのよくあることだと言う人もいるし、実際に父親が死ぬまでの君の人生は普通と呼べる範疇にあっただろう。けれどその中でも、君の自由な思考は抑圧されてきた」
「……でも、それこそよくあることでしょう」
「よくあることと流してしまうと、見失ってしまうことがあるよ。たとえ親や教師だとしても、子供の尊厳を奪うようなことは許されない。でも親や教師は、容易くそれを奪えてしまうということを、もっと多くの人が理解すべきだと思うんだ」
「姉も、ですか?」
 もしあのとき僕が先生の言うことを理解していたなら、何かが変わっただろうか。僕は本当に僕が選ぶべきだった道を選ぶことができただろうか。
 あのとき本当はどうするべきだったのか――答えはもう知っている。
「自分でも驚いているんですよ。あのときは本当に、誰かに助けを求めるという選択肢が思いつかなかった」
 母のことを相談できる行政機関だってあったし、周りの人に相談するということもできたはずだ。けれど僕はそれをしなかった。できなかったわけではなく、そもそも思いついてもいなかった。それが選択肢を奪われていたということなのだろうか。
「DV被害者に対しても、何も知らない人間が『どうして相談しなかったのか』と責め立てることがあるけれど、あれは報復を恐れてのことも確かにあるけれど、助けてもらうという選択肢を奪われたまま苦しんでいる場合もある。その立場にならなければそれがどういうことなのかはわからないだろうけどね」
 安全な場所にいる人たちには、僕のしたことのなにもかもが滑稽に見えているのだろう。外に救いを求めれば簡単に助かることができたのに、どうしてそれをしなかったのか。自分だってそう思う。いくらでも機会はあったはずなのだ。
「だからこそ、どれだけ選択肢を奪われても何か一つくらいは思い出せる程度に選択肢を持っておくことが大切なんだけど――この国は親というものを信じすぎているね。愛なんてなくても子供は生まれるのに。しかも私がこういうこと言うと、お前は子供を愛してないのかって言われるんだよ? 馬鹿言ってんじゃないよ。私以上に響を愛してる奴がいるならここに連れて来いよって思うね」
「まあ……そのうち現れるかもしれないですけどね」
「君、絶対心当たりあるだろ」
 この父親では実紀くんは苦労しそうだけれど、そもそも響が父親に彼氏を紹介するかどうかもわからない。先生が選んだ道は、響に絶縁されてもおかしくはないものなのだから。
「まだ先生の域には達してはないですけど、というかそもそも響の気持ちがまだそっちには向いてなさそうですけど、でも――見所のありそうな子ですよ」
「何か嫌な予感がするんだよなぁ……こう、理人の顔がどうしてもちらつくというか」
「でも決めるのは響ですからね」
「それはそうだけど――って、そこで君が笑ってるともうほとんど確信に近いよ?」
「少なくとも僕の弟ではないので安心してください」
 全てはこれから実紀くんが選ぶ道次第ではある。僕としては先生が嫌がる方向に進んで欲しいと思っているけれど。
「まあこの話は置いといて、だ。君は自分を獣だと言ったが、私からしてみれば、支配欲を性欲や愛だと勘違いしたまま他者を傷つける人間の方が質が悪いと思うよ」
「結果だけ見ればどっちも同じでしょう」
「だけど君は、自覚していたが故に『愛してる』とは言えなかっただろう」
 言えなかった。何故なら、それは愛とは呼べないものだったからだ。
「虐待する親の中には、殴っておいて次の瞬間には愛を口にする手合もいるんだよ。そして子供はその矛盾した行動に自分で辻褄を合わせてしまう。自分が駄目だからこんなことをされるんだってね。一度その状態に入れば、その思考を捨て去ってしまうのには時間がかかる。おそらく彼は――そういうやり方をされてきたんだろう?」
「……何でもお見通しですね。母は、少なくとも表面上は(しょう)のことを愛していると言ってましたし」
「君は別として、かな?」
「少なくとも一度も言われた記憶はないですね」
 それどころか憎んでいたのかもしれない。それはきっと――。
「僕が男だったら、違ったのかもしれないですね。仮定の話をしても仕方ないけど」
「私としては愛してると言われて殴る方が残酷だと思うけどね。頭でわかっていても、その言葉で縛られていつまでも抜け出せなくなる」
「前に『それでも親ではあっただろ』って言われたことがあります。そのときは、僕は彰にとっては唯一の母親を奪ってしまったんだなって思いましたけど」
 今は違う。確かに産んだ人という意味では母親だけれど、母親はいればいいというものではない。もし母親があの人でなければ、僕たちはもっと幸せな姉弟になれたのだろうか。今でもふとそんなことを考えてしまうときがある。
「君が奪ったのは彼の母親ではないだろう」
「え?」
「彼は母親と同時に、姉も失ってるんだから。君は自分の影響を過小評価しているよ」
 本当はわかっていたんじゃないか、と頭の中で僕を責める声がする。けれどずっとそれを放置してきたのではないか。
 彰は僕がいなくなれば必ず探しにきた。そして僕のことを決して拒みはしなかった。僕はそれが依存ではないのかと思いながら、それでも――。
 必要とされるのは嬉しかった。彰以外には誰一人、僕を求めてくれる人なんていなかったから。だけどその気持ちは歪んでしまっていた。自分の中の一番醜い感情が引き摺り出されて、口から言葉となって溢れ出る。
「……できることなら、僕が母に成り代わってしまいたかった」
 本音を言えば、それが愛でなくても、依存でしかなくても、ただ君に――偽りでもいいから、愛されていたかった。
「彰が一番、僕のことを必要としてくれていたから」
 本当は僕のことなんて必要なくなるのがよかったのだ。僕は彰にとって傘のようなものだった。太陽が世界を照らす日が訪れるならその方がきっとよかった。けれどその日が来るのを僕はどこかで恐れていて――途中から、積極的に抜け出そうとはしなかったのは事実だ。
「私は君の選択を否定しない。何故なら識ることにそんな価値判断は無駄だからだ。酸化が悪で還元が善だと思って研究する人は誰もいないだろう?」
「……徹底してますね」
「それが私という人間だからね。それじゃあ、続きを始めようか」
 僕は頷いた。けれど心の片隅で、先生にあの人と同じことが起きなければいいと思っていた。
 奇しくも、僕はあの人のことも「先生」と呼んでいたから――。

11「グライド」

 家の問題は、大抵は家の中だけでは収まらない。僕は芸術センターのバイトを途中で切り上げて、(しょう)が通う小学校に向かっていた。緊急連絡先の一番上に書いたあるのは母の番号だったが、繋がらなかったらしい。
 僕も通った小学校は、懐かしさを想起させてはくれなかった。用件が用件だから仕方がない。そういえば昔、(めぐむ)と死ぬための計画について話して先生に見つかってしまったのもこの小学校だった。状況はそのときと似ている。
 僕が通された場所は、奇しくもあの生徒指導室だった。彰の担任は先に保護者代わりの僕と二人で話をしたいという。僕は低すぎる椅子に腰掛けて、詳しく事情を説明する男性教師の言葉を聞き流していた。
 要するに彰がクラスメイトに暴力を振るった、という話だ。経緯も説明してくれたが、正直それは無理もない話だと思った。暴力に訴えるのは正解ではないが、彰が怒るのも仕方がない。
「――僕……いや、私としては、指導内容にも問題があると思いますけどね。父親のことなんてあんまり覚えてないでしょうし」
 家族の肖像を描け、なんて課題に何の意味があるのだろう。単に絵を描かせたいだけなら目の前の人形でも描いていた方がよほど練習になる。技術を教えるわけでもなく、ただ絵を描かせて評価するなんて、たまたま聞かなくてもわかる人だけが得をして、そうでない人は自分には才能がないと絵から離れてしまうだけで何の得もないどころかむしろ害ばかりだ。
「それに話を聞く限り、向こうが先にからかってきたんでしょう? まあさすがに椅子で殴ろうとするのはどうかと思うけど」
 それが日常の家ではあるけれど、それは言わなかった。目の前の大人のことを僕は信用することができなかった。
「先生はそのときどうすればよかったか、ちゃんと彰に説明できるんですか?」
 何故、人に暴力を振るってはいけないのか。大抵の人は暴力を振るってはいけないと教えられ、理由もわからないままそれに納得して生きている。もしくは自分が殴られたら痛いから、他人を殴るのはいけないと考えている。でもそう思えるのは、その人が日常的に暴力に晒されていないからだ。
「解決を暴力に頼るのは間違っている。じゃあ向こうが言葉の暴力を使ってきたのはおとがめなしですか?」
 自分なら同じことをされたら椅子よりも殺傷能力の高そうなもので殴ってしまいそうだ。おそらく彰に凶器を選ぶような余裕はなかっただろうけれど。
 彰の担任は、「とりあえず暴力はいけない」と繰り返すばかりだった。その点については僕も同じ意見だ。でも根本的に解決する方法は見つからなかった。どうせ誰も答えなど知らないのだ。僕にも答えることはできない。人を殴ってはいけないなら、言葉で人を傷つけるのは許されるのか。暴力が許されないなら、理不尽に傷つけられたときは黙って耐えなければならないのか。そのとき、傷ついた体と心はいったいどうすればいいのか。
 いっそみんな死んでしまえばいいのに、と思った。どうせ生きている限り、人は人を傷つけることしかできないのだから。

「――彰」
 家に帰るまでの間も、帰ってからも、彰は一言も喋らなかった。本人が喋りたくないならそのままにしておこうかとも思ったけれど、さすがに気になって声をかけた。
「フィナンシェあるけど食べる?」
 大学の近くにある洋菓子店のフィナンシェが好きで、この前箱で買ったのだ。彰は小さく頷く。
「プレーンとアールグレイと抹茶とココアとオレンジがあるけどどれがいい?」
「……ココア」
「じゃあ僕はオレンジにしようかな」
 洗い物を増やしたくないから皿には出さない。けれど味は本物だ。袋を破って一口齧るとオレンジピールの苦味と酸味、外はよく焼けて、中はしっとりとしている生地の甘さが口の中で混ざり合う。
「……おいしい」
「僕が知ってる中で一番おいしいフィナンシェだからね。大事に食べて」
「うん」
 少しだけ彰が笑う。一瞬だけかもしれないけれど、甘いものは落ち込んだ気分を紛らわすのにちょうどいい。そしてそのとき食べる甘いものはできるだけ美味しいものがいい。
「……ごめんなさい」
「何が?」
「今日……お姉ちゃんにも迷惑かけちゃった」
「迷惑なんて思ってないよ。それに、彰は僕のために怒ってくれたんでしょ?」
 家族の絵を描け、と言われたとき、彰に描けるものはないに等しいと思っていた。適当に先生が及第点を出すものを描くような器用さもない。その中で彼が最初に描いたのは僕の絵だった。姉は家族だから別に課題はクリアできただろう。けれど問題はその色だった。
「まあ、みんななかなか信じてくれないからね。大学でもカラコンだと思われてたし」
 大学に服装の決まりはないから、カラコンをしていようがおとがめなしだ。瞳を大きく見せるカラーコンタクトを使用している学生もそれなりにいる。だから誰も僕の目の色に疑問を持ってはいなかったらしい。仁川さんも最初はカラコンだと思っていたようだ。この前何気なくその話をしたら驚いていた。
「……だって、気持ち悪いって言うから」
「言わせておけばいいよ。それはそいつの視野が狭いだけだから」
「でも、綺麗な色なのに」
「僕は彰がそう言ってくれるだけで満足だから。自分が綺麗だと思うものは、他人に何を言われたって綺麗なままだよ」
 でもそれが許せなかったのだろう。椅子で殴るのはやりすぎだと思うけれど、僕が同じように彰のことを馬鹿にされたら何をするかわからない。
「……殴るのはダメってわかってたけど、でも、止められなくて」
「うん。みんな簡単に言うけど、我慢するの難しいよね。でも暴力はダメだよ」
「どうして?」
「麻薬みたいなものだからだよ。だんだんそこから抜け出せなくなって、最後にはこっちが駄目になる。だから殴りそうになったら深呼吸して、そいつは本当に自分が殴るに値する人間なのか考えてみるといい」
 衝動のままに暴力を振るうのは獣の所業だ。彰にはその場所まで堕ちてきてほしくはない。僕はもう戻れないけれど、彰はまだ引き返せるところにいる。
「それでも難しいときは僕に言えばいい。いつでも止めてあげる」
 その方法もまた暴力でしかないことはわかっていた。けれど彰には手を汚してほしくなかった。
「そのときお姉ちゃんがいなかったら?」
「呼んでくれたらいつでも行くよ。もしくは彰が僕のところまで来ればいい」
 人間は容易く獣に堕ちるギリギリの場所に立っている。それはいつでも地の底から手を伸ばし、僕たちを引き込もうとするのだ。
「本当に? 呼んだらいつでも来てくれる?」
「ああ、約束するよ」
 そのさなかで僕自身がどれだけ汚れても、今更何か変わるわけではない。彰がいつか自分の足で立てるそのときまで、僕は僕の光が侵されないように守り続けたい。

 呼んでくれたらいつでも行く――その言葉は、その日のうちに果たされることになった。深夜、穏やかに眠っていた僕は、彰の声に起こされた。
「……っ」
 それでも必死に耐えようとしているのか、彰の拳は固く握り締められていた。僕はそれを両手で包む。蕾がほどけていくように、温めれば少しは和らぐような気がして。僕の手は冷たいから効果があるかはわからないけれど。
「ちゃんと来てくれたね、偉いよ」
 何に激昂しているのかはわからない。きっと言葉にするのも難しい状態だろう。それに理由なんて多すぎてどれなのか僕にもわからない。
「いいよ、楽にしてあげる――」
 ベッドに彰を寝かせてから、酸素の通り道を塞ぐように、その喉に手をかけてから力を込める。僕はそれしか手段を知らなくて、だからといって誰かに救いを求めることもできなかった。だってそうだろう。救いを求めて裏切られたら、今よりももっと悪い状況になる。周りの人間の誰を信じられる? どうせ誰も、僕たちの本当の苦しみをわかってくれはしないのだ。
 暴力こそが人間の本質なのだろうか。それともそれを押さえ込もうとする理性の方が本質なのだろうか。今のところ、僕の周りの人間は誰も暴力から逃れられていないように見える。僕や彰さえも同じ穴の狢だ。
 彰の首から手を離すと、彼の体から力が抜けた。布団に体を預けた彰は焦点を失ったようなぼんやりとした目で僕を見ている。
「彰……」
 呼びかけると、彼は一瞬笑ったように見えた。次の瞬間、彰が僕の耳を覆うように彰が手を伸ばしてきた。
「彰……っ?」
 何をされているのか、しばらく理解できなかった。唇に触れている柔らかなものが何なのか――。いや、本当は理解したくなかっただけだ。
 懇願するように僕を見上げる瞳に、何も言えなくなる。それにどの口が言えるのだろうか。僕がこの前彰にしたことは、もう消したりすることはできないのだから。
「――姉さん」
 それまでとは違う、大人びた表情で彰が僕を呼ぶ。けれどその目の奥には不安の色が揺れているように見えた。
 彰はきっと僕を試している。呼んだらいつでも来ると言ったのは嘘ではないか、自分を見捨てたりしないか。ここで拒めば、彰は縋るものをなくしてしまうかもしれない。そう思わせるほど、彰の表情は必死に見えた。
 愛してるとは言えないけれど、君を見捨てたりはしないと、それだけは誓える。
 もう一度、どちらからともなく唇を重ねる。罪悪感と、少しの幸福感。これは愛ではないと言い聞かせながら、それでも溺れていく自分を止めることはできなかった。

12「Black Bird」

 一度(たが)が外れると、止めることは難しい。僕は――いや、僕たちは、闇の中で互いを求めることから抜け出せなかった。そしてその泥沼の中で、僕たちの秘密はどんどん膨れ上がっていった。
 部屋の鍵を閉めて、布団の中に潜り込んで、その行為が許されざることだと知りながらも儀式のように続いていく。欲望は際限なく膨らみ、キスだけでは足りなくなっていた。
 そして(しょう)は――僕が思っていたよりもずっと早く、大人になってしまっていた。
 知識なんて巡り合わせだ。たまたま知ってしまうことだって世の中にはたくさんある。けれどあのときの彰が何も知らなければよかったのに、と今でも考えてしまう。もしくはもっと深く知っていれば、どこかで止まることができたのかもしれない。今更こんなたらればの話をしても遅すぎるとはわかっていたけれど。
「――姉さん」
 彰が僕をそう呼ぶのは、僕たちが二人きりで部屋に閉じこもっているときだけだ。その声を聞くと下腹部に疼くような熱を感じるようになっていた。彼が何を求めていたのか。その答えを僕は知っていて、それを与えられるのは僕ではないとわかっていながら、拒絶することはしなかった。
 僕が彼に抱いている感情は愛とは呼べないものに変質しているのに、彼が求めているのは愛なのだ。仮にそれを与えられる人がいるなら、その人に委ねてしまいたかった。けれどそんな人はどこにもいなかったのだ。
 本当は駄目なことなんだと何度も言おうとした。けれど何故駄目なのかという疑問に僕は答えられない。どうして姉弟で愛し合ってはならないのか。そう決まっているから、なんて思考停止もいいところだ。そんな答えで納得できるなら最初からこんな道に堕ちたりはしない。他の感情を愛と履き違えているだけだ、というなら確かにそうかもしれない。だったらこの場所からの抜け出し方を示してくれてもいいだろう。彰は僕に依存していて、僕は彰を依存させることによって支配しようとしていた。そう説明することはできる。でも説明できたからといって何も解決したりはしない。名前を与えたからといって、この激情が消えてくれるわけではないのだ。
 ここが地獄なら、せめてこの刹那だけでも幻想(ゆめ)を見ていたい。
 布団の中で下だけを脱いで、手の感覚だけで探り当てた幼い性器に触れる。部屋の外に漏れないように押し殺した甘い声が耳朶を刺激した。その声に興奮していく自分自身を徐々に隠せなくなっていく。許されないと理解しているのに、もっと欲しくなる。それは時折何の脈絡もなく襲ってくる波のような情欲よりも遥かに大きく、浅ましい願いは膨れ上がっていく一方だった。
 彰の手がその近くに伸ばされるだけで体が反応してしまう。人間は本能でそのやり方を覚えるのだろうか。それとも何かから学ぶのだろうか。少なくとも僕の体に触れる彰は、僕の知らない姿をしていた。人差し指で陰唇の間をなぞられる。それだけで濡れた音が響いて、僕は思わず強く目を閉じた。
 触れられることに悦んではいけないのに、どうしていつも体はあっさり僕を裏切っていくのだろうか。これまでは生理のときくらいしか意識しなかった自分の性を、女であることを、こんなに見せつけられることはなかった。
 自分が女であることに疑いはない。けれど初潮を迎えたあのときからそれがずっと気持ち悪くて、かといって男になりたいとは微塵も思わない。(セクシュアリティ)を表す言葉は数あれど、そのどれもが違うような気がしてしまう。試着した洋服のすべてが微妙に体に合わないような、そんな気分だ。僕は僕だからそれでいいと言いながらも、宙に浮く自分の性をどうすることもできないでいる。
 それでも彰に触れられるときだけは、自分の中にある女の部分を愛することができた。はしたない水音を立てる性器に嫌悪感を抱きはするが、徐々にそんなことはどうでも良くなる。
 僕を罵るなら好きにすればいい。けれどこの感覚だけは嘘ではないのだ。
 ああ、君になら――僕のすべてを奪われても構わない。
「彰……っ」
 僕の中に指が入り込む。小さな手では奥までは届かないというのに、自分でするのとは比べ物にならない快楽が体を貫く。僕は彰のものに触れる手は止めずに、喘ぎに変わってしまいそうな吐息を漏らした。
「姉さん」
 彰が僕を見つめている。その茶色の瞳の奥に、獣の炎を宿しながら。
 そしてそのときに僕が考えていたのは、きっと彼が考えているよりももっと穢らわしいことだった。
 まだ精通も迎えていないような子供でも、性行為をすることはできる。僕はもっと深く繋がりたいと言いながら、さらに深く彰を傷付けようとしていた。
 硬さを持った彰のものを潤んだ自分の中に導いていく。それは腰に重く響くような衝撃を僕に与えた。けれど同時に悦びに染まった声が漏れる。
「っ……あ、彰……っ!」
 何の隔たりもなく繋がってしまった僕たちは、それでもさらに互いを求めるように抱き合った。そこに愛なんてないと、これはどう足掻いたって罪でしかないのだと理解していたけれど、何故それが罪なのか、僕は結局説明することができないままだった。
「……ごめんね」
 聞こえないほどの声で呟いて、彰の上にのし掛かる。初めは戸惑ったけれど、徐々に快楽に任せて動けばいいことを理解した。自分の体の奥で彰を感じるたびに、臍の下を搾られるような快感が走る。
 赦されないことならば、どうしてこんなに気持ちいいのだろう。気持ち悪くて仕方ない行為ならば誰もそんなことしようとは思わないのに。
「姉さ……んっ……」
 二人分の乱れた呼吸が空間に満ちていく。彰は時折顔を歪めながらも、僕の目を真っ直ぐに見つめていた。僕の目は今、どんな色で彼を見ているのだろうか。綺麗と言えるようなものではなくなっているだろう。欲望に塗れて、こんなことをしてい僕の目なんて。
 それでもどこかで悦びを感じている自分がいた。最初から僕は彰のことが欲しくて欲しくて仕方なかったんだとさえ思った。
 他の男のものなんて絶対に受け入れたくないと思うのに、どうして彰のことはこんなにも欲しいのだろう。砂漠で水を求める死にかけの旅人のように、僕はどんどんと貪欲になっていく自分自身が怖かった。
 それでも彰の目に時折浮かぶ懇願の色に体の芯が疼いて、堕ちていくことをやめられない。
「彰……っ、あ、……い……ッ!」
 絶頂の瞬間に体が縮こまって、中に入っている彰の形を如実に感じてしまう。その瞬間に視界が僅かに滲んで見えた。
 汗か涙かわからないものが顎を伝って流れる。これは罪だとわかっているのに、それでもこのまま、繋がったままでいられないかと僕は思った。

 そのまま簡単な片付けをしただけで僕たちは寝てしまって、次に僕が目を覚ましたのは深夜だった。喉の渇きを覚えて台所に向かうと、そこには母がいて、食卓で酒を飲みながらぼんやりとしていた。
「――海」
「何?」
 僕は冷蔵庫から麦茶を出しながら、出来るだけ平坦な声で答えた。ここ最近まともに会話もしていないのに、急に話しかけられるなんて、悪い予感しかしない。
「彼氏でもできたの?」
「は?」
 あまりに唐突な言葉すぎて、嫌悪感を覚える前に面食らってしまった。今のところ特に浮いた話はない。
「女の顔になってる。自分では気付いてないかもしれないけど」
「悪いけど、心当たりはないよ」
 本当はないわけではないけれど、彰とのことを言えるはずもない。それとも何かに気付いていて鎌をかけているのだろうか。疑心暗鬼になりながらも、それを出さないように、コップの中の麦茶を一気に飲み干した。
「わかるわよ。母親だもの」
「……っ」
「でも、その人だって、どうせ海のことを愛してはいないわよ」
「……だから何?」
 そもそも彼氏なんていないし、愛されていないことくらいわかっている。彰が僕に向けている感情は、おそらく愛とは呼ばないということも。けれどそんなことを他人に言われる筋合いはないだろう。
「色気付いちゃって。どうせそれでチヤホヤしてもらえるのなんて若い間だけよ」
「そんなの母さんには関係ない」
「どうせみんなあなたのことを珍しがってるだけよ。その目のことだって」
「……だから、そんなの関係ないって言ってるじゃん!」
 自分では一度も綺麗だと思ったことはない。けれど綺麗だと言ってくれる人がいて、それが少し嬉しかったのに。どうしてこんな一言だけで全部塗り潰されてしまうんだろう。
「関係あるわよ」
 母は琥珀色の酒が注がれていたグラスを、僕の頭の上でひっくり返した。強いアルコールの匂いで頭がくらくらし始める。母は普通に酒が飲める体質だが、父は一滴も飲めないほど弱かったらしい。そして僕はどちらかといえば父寄りの方だ。
「彰に色目を使うのはやめてちょうだい」
「……何の話」
「あの子、あなたのことを言われてクラスの子を殴ったらしいじゃない。あの子はそんな子じゃないのに!」
 思わず笑ってしまった。彰の何を知っているというんだ。彰は僕ですら知らない部分を沢山隠し持っている。僕が知らないうちに大人になっていた彼が僕を呼ぶ毒のように甘い声も、この体に入り込んだ指や彼自身のことも、何も知らないくせに。
「何がおかしいのよ!」
「自分に都合のいい姿しか認めないから気付かないんだよ。――母さんも、僕も」
 彰は何も知らないと思っていた。けれど、それは僕がそう思いたかっただけだ。本当の彰の姿を一瞬でも受け入れ難く思ったのは、僕だって同じだ。
 母は空になったグラスを僕に投げつけると、一言、吐き捨てるように言った。
「――気持ち悪い」
 母でなくても、僕がしたことを知れば多くの人がそう言うだろう。血の繋がったきょうだいでの性行為なんて気持ち悪い。そんな不自然なことは許されるべきではない――と。
 だけど、そんな善良な人間の言葉が僕を救ってくれることは決してない。結局、当事者じゃないから軽々しくそんなことが言えるのだ。
「その目が気持ち悪いのよ! そんな目で媚売ったってどうせ愛されやしないのに!」
 体に走る鈍い痛み。蹴られた腹を庇うために丸めた背中に、酒が入っていた瓶が振り下ろされる。
 嵐に耐えながら、考えていたのは彰のことだった。嘘でもいい。錯覚でもいい。それが罪であってもいい。たとえ幻でも、愛されているのだと勘違いしていたかった。
 もう一度繋がれたら、またあの悦びを味わえるのだろうか。
 きっと他の人とでは駄目だろう。彰以外の人間が僕の中に入り込むことが全く想像できなかった。
 親子は一親等で、きょうだいは二親等と決まっているらしい。でも親なんかより、将来できるかもしれない僕の子供なんかより、彰と僕は近いような気がした。体の中に他人の臓器を入れるときだって、血液型だったり遺伝子が近い人の方が拒絶反応を起こしにくいと言うだろう。それなのに僕の中に他人の性器を受け入れるときだけは事情が違うらしい。その理由は僕にはまるで理解できなかった。
 いつの間にか嵐は去って、僕は背中の痛みを堪えながらゆっくりと立ち上がった。軽くシャワーを浴びてから部屋に戻ると、部屋を出る前は寝ていた彰が目を覚ましていた。
「……どこ行ってたの?」
「汗かいたからちょっとシャワー浴びてきただけだよ」
「起きたらいなくなってるから……」
 ベッドに腰掛けた僕の肩を押して、彰が僕の上にのしかかる。僕の知らない顔で、彰が真っ直ぐ僕を見つめている。
「勝手にいなくならないで」
「……うん。ごめんね、不安にさせて」
 これを愛だと呼べる人は多くはないだろう。見えない糸が自分の体に幾つも巻きついていくような感覚があった。でも、僕はその糸を解こうとは思わなかった。
 唇を重ねながら、頭の中に呪いのように響く母の言葉を聞いていた。
 どうせ誰にも愛されないのなら、なぜ僕はこの世界に生まれてきたのだろう。

13「春の日」

 2011年3月11日――。
 その日、僕は仕事を一通り終わらせてから美術棟にこもって作業をしていた。幸い碧原(みどりはら)市はそれなりに揺れたものの被害は少ない方で、湾にしか面していないために津波の被害もない地域だった。けれど地震の影響で停電し、美術棟の窓のない部屋を使っていた僕は、強い揺れと同時に突然暗闇の中に放り込まれてしまった。
 揺れはずいぶん長く続いて、頭を守るために机に隠れた僕は、暗闇の中で動けなくなっていた。
 暗くて狭い場所にいると碌なことを考えない。出来るだけ何も考えずに電気が復旧するのを待った方がいい。でもすぐに電気が復旧するのだろうか。今の段階で外に出れば、まだ昼だから明るくはあるはずだ。揺れもおさまったし、その方が得策だ。そう思っていても足がすくんで動かなかった。
「っ、はぁ……」
 特に理由はないはずだが、暗くて狭いところが苦手なのだ。暗いだけだったり、狭いだけだったりは大丈夫なのに、その二つが組み合わさると駄目だ。大抵ライトで照らすからそこまでは問題ないが、トンネルの類もあまり得意ではない。
 暗くて狭い場所にいると、暗闇が自分の輪郭を侵していくような気持ちになる。それならさっさと脱出すればいいのに、どうしても体が動かなかった。
 電気が復旧することを祈りながら目を閉じていると、ドアが開く音がして、僕は弾かれたように顔を上げた。外から差し込む太陽。そして懐中電灯の光。
「ああ、やっぱりここだ。大丈夫だった? 怪我はない?」
「仁川さん……」
「姿が見えなかったから、ここかなと思ったんだ。しばらく電気も復旧しなさそうだから家まで送っていくよ」
 呼吸を軽く整えてから立ち上がる。少しでも光が見えるなら大丈夫だ。ドアも開いている。そういえば、本当は地震のときは可能な限りドアを開けた方がいいということをすっかり忘れていた。咄嗟のことになると人間は案外うまくは動けないらしい。
「しばらく電気が復旧しないかもって話だから、ここの懐中電灯とか持って帰っていいよ。宿泊棟は暫く使わないしね」
 部屋を出ると、妙に静かだった。大学は山の中にあるからそもそもとても静かなのだけれど、今日は誰もが息を潜めているような静けさだ。宿泊棟に入って防災セットの箱を二つ出してきた仁川さんは、それをそのまま車のトランクに入れた。
「ごめんね、狭い車で。ここへの通勤にはこっちの方が便利だからね」
 軽自動車ではあるけれど四駆。雪が深い山の中に一人で通勤することを考えれば確かに合理的な選択だ。車の中に入るとラジオから各地の被害状況を報せる声が聞こえてきた。
 静かに車が動き出す。暫く無言のままラジオから流れる音声を聞いていたが、やがて仁川さんがカーオーディオに手を伸ばした。
「――今はやめておこう」
「でも……」
「どうしても気が滅入ってしまうだろう。そんな状態で運転して、事故でも起こしてしまったらことだからね」
 代わりに流れてきたのは合唱曲だった。車の中で聴くには向かないのではないか、と思ったけれど、イコライザーで調整しているのか、比較的聴きやすく感じた。
「そういえば、娘さんって確か仙台にいるって――」
「そうなんだけどね、さっき連絡が来て、今日はたまたま友達と大阪に旅行していたらしいんだよ。住んでるところがどうなってるかはわからないけど、とりあえず自分は無事だから、落ち着くまで大阪にいるって」
「ひとまず無事でよかったです」
「もしかしたら仙台には戻れないかもしれないっていうのは覚悟しているみたいだけどね。だからこそ、こっちはどっしりと構えていなきゃいけない。一番大変なのはあの子だろうからね」
 僕はそれには答えずに窓の外を流れる景色に目をやった。流れる音楽に集中して余計なことを考えないようにしようとしても難しかった。ラジオを少し聞いただけで、被害がとても大きいのだろうことはわかる。ざわめいている心を落ち着かせるように、カーオーディオからは美しい旋律が鳴り響き続けている。
 大学がある山の中は3月でも路肩に雪が残っている。けれど太陽は世界のことなど知らないと言わんばかりに、まるで春のように柔らかな光を投げかけていた。
 父が死んだ後で、死ぬとはどういうことなのだろうかと考えたことがあった。それはどんな人間でも必ず辿り着く地平で、多くの人はそれを悲しいことだと捉えている。遺された人間の悲しみを癒すために宗教が生まれたのではないかと思うほどに、昔からある宗教は死を語り、その死に意味を持たせる。けれど僕にとって死は何の意味もなかった。遺された人間はそこに何かを見出そうとするけれども、それぞれに訪れる死は誰にとっても唐突で、何か意図があってその人の命を奪っているわけではない。
 そう思っているはずなのに、ラジオの向こうの悲劇はまだ現実感を伴ってはいないのに、胸の奥に小さな棘が刺さっているような違和感が拭い去れなかった。
 山を抜けて市街地に出る。停電しているから、信号は真っ黒のまま沈黙していたが、交差点に立つ警察官の指示に従っていて、大きな混乱は起きていなかった。
「ここでいいのかな?」
「はい。ありがとうございました」
 車を降りて、積んできた防災グッズを下ろす。もし何かあっても三日くらいならどうにかなりそうなものが揃っていた。
「じゃあ気をつけてね。落ち着くまではバイトも無理しなくていいから」
「はい」
 どちらかというと無理をしない方がいいのは仁川さんの方ではないだろうか。安否は確認できているとはいえ、これからどうなるのかまるで決まっていないのだから。

 家に入ると、(しょう)がソファーに座って本を読んでいた。電気はついていないが、太陽の光が差し込んでいるのでまだ充分に明るい。
「母さんは?」
「今日は夜の仕事があるって」
「そう」
 その頃の母は昼間の仕事だけではなく、夜間の清掃の仕事もしていた。普通の生活をするには十分な収入がうちにはあったはずだが、彰を学習塾に入れることを考えていたらしい。
 夜の仕事があるということは、日付が変わるまでは帰ってこないということだ。僕はスマホでニュースサイトを見ながら腕組みをした。おそらくこの停電は何日か続くだろう。この地域は被害が少なそうだから回復も早いかもしれないが、すぐに復旧することは期待できそうにもない。
「彰、寒くない?」
「ちょっと寒いかも」
 この地域の3月はまだ春とは呼べない気温のことが多い。けれどうちにある暖房器具は全てが電気で動くものであった。厚着をしてやり過ごす他ないだろう。
 借りてきた防災用品の中には、簡易的な寝袋のようなものもある。寝るときは使うのもいいかもしれない。
「――じゃあ、今日は二人でキャンプごっこでもしようか」
 スマホの電源を落とす。モバイルバッテリーはあるけれど、いつ復旧するかわからない以上、あまりバッテリーを消費したくはない。それに見ていても気が滅入るばかりだ。
「テントは?」
「テントは……やっぱりキャンプだと必要かな……」
 うちにそんなものはないのは彰もわかっているはずだが。頭の中でテントの構造を思い描く。簡単なものなら作れるだろうか。家にある材料に出来そうなものをひとつひとつ思い描いていく。なかなか難易度は高い。でも明らかに期待している眼差しに負けてしまう。
「まあなんとかできるか……夜ご飯は何がいい?」
「カレー!」
「うん、キャンプと言ったらカレーだよね……コンロは使えるし大丈夫かな……冷蔵庫のものも使わないといけないし。手伝ってくれる?」
「うん!」
 今はまだいいけれど、夜になったら懐中電灯の明かりがあっても暗いだろう。いっそキャンプごっこをしているということにしてしまった方が夜を乗り切れるような気がした。

 懐中電灯の上に白い絵具で濁らせた水を入れたペットボトルを置いた簡易的なランタンと、かき集めた突っ張り棒で作った一人も入れないような小さなテント、パックのご飯以外は普段と対して変わらないカレー。それだけでも僕たちは狭い部屋でキャンプごっこを満喫した。実際は父が生きていたときすらキャンプに行ったことはなくて、これが本当にキャンプなのかは二人ともわからなかったけれど。
「じゃあ今日はそろそろ寝ようか」
 懐中電灯を消して、いつもより早い時間にそれぞれの寝袋に潜り込む。暗闇の中でも、現実から目を逸らして、ごっこ遊びの中で眠りにつけたら、それほど怖くはなかった。
 でも、わかっていた。
 現実は否応なく迫ってくる。今日は目を逸らして幸せなひとときを送っていても、明日は、明後日は、どうなっているかわからない。断続的に続く余震のことすら考えずにいられる時間には限界がある。
 絶望はいつまでも続くような気がするのに、希望は一瞬で消えてしまいそうな気がするのはどうしてだろう。
 目を閉じてしまう前に窓から見えた空は、街の明かりを全て奪ってしまったかのように無数の星の光を閉じ込めていた。

 許されない願いだとしても、そのとき僕は確かに思っていた。
 明日なんて来なければ。
 このまま何もかもが終わってしまえばいいのに。

14「最愛の不要品」

 碧原(みどりはら)の街に明かりが戻ってからほどなくして、僕たちは世界が今どんな状態にあるかを知った。テレビをつければどこのチャンネルでも同じ話をしているし、CMさえ公共広告機構の同じCMで埋め尽くされていた。現実感を抱けないまま非日常に放り込まれた僕たちは、それでも変わらぬ日常を送っていくしかなかった。宮城の大学に進学した同級生はそれなりにいたけれど、ほとんど連絡を取っていない。安否を確認するような関係ではないと思ってしまえば、することはほとんどなかった。
 そうして数日が過ぎた頃、あるアーティストが動画サイトに一本の動画を上げた。そんな動画なんて元々のファンや、そのアーティストが少し気になっている人くらいしか見ないだろう。けれどその行為は瞬く間に批判の的となった。
 曰く、今は音楽を聴いている場合じゃないだとか、支援したいなら金を出せだとか、音楽で腹は膨れないとか、被災した人は今は動画とか見られないだろうとか、果ては売名行為だとか。あまり流行の音楽に明るくない僕でも名前を知っているアーティストが売名する必要なんてないと思うのだが。
 例えば自分が被災していて、そのアーティストのファンだったとしたら、動画を上げてくれたというそれだけで、実物は見なくても嬉しくなるだろう。確かに音楽で腹は膨れないけれど、ただ心臓だけが動いている状態を生きていると呼べるのだろうか。その音楽で、自分が好きな音楽が死んではいないとわかるだけで前を向いて生きていける人だっているだろうに。
 それに――きっと彼らは何よりも自分たちのために歌ったのだろうと思う。金を出したり物資を送ったらボランティアに出かけたりもできたかもしれない。けれどこの未曾有の災害の中に放り込まれたときに、何よりも歌いたいと思うから彼らは音楽の世界で生きているのではないか。僕だってその気持ちを理解できる立場にはある。プロとは呼べないけれど、行き場のない想いは自分の方法で吐き出すしかないことを知っている。
 吐き出してしまわなければ、その想いは内側から自分を蝕んでいくだろう。だから彼らなら音楽に、僕なら絵に、それをぶつけるしかないのだ。そこに何か理由があるわけではない。強いて言うなら、そういう生き物なのだ。けれどそうではない大多数の人間にはおそらく理解できない。芸能の世界で活躍する人だって理解できるのは一握りだろう。
 僕はテレビを消して溜息を吐いた。ここ数日は悲しみよりも苛立ちが勝っていた。安全な場所にいる人たちはいつも勝手なことばかり言う。さっきのアーティストへの批判もそうだし、原発のこともそうだ。今まで見ないふりをしてきたくせに。もうその助成金がなければこの地域で豊かな生活なんて送れないから、リスクはあるけれどきっと対策してくれているはずだと信じて、かつての地域が分断されることすら受け入れてきたのにこの仕打ちなのか。しかもこの状況で原発誘致を推進してきた現職の知事が当選した地域の人たちをとんでもない馬鹿だと罵倒する意見さえあった。とんでもない馬鹿がいるところに住んでいたくないなら、さっさとどこかに逃げてしまえばいいのに。逃げる場所がないと彼らは言うかもしれない。だったらそのときは世界に絶望して死んでしまえばいいのに。――そんなことまで考えてしまう。
 けれどこの苛立ちはまだ形にはなれなくて、僕はそれを隠しながらも淡々と日々を送っていた。

「――明日から一週間くらいかな、ちょっと休みをもらおうと思って」
 その日、バイトに行くと仁川さんに言われた。暫く大阪に滞在していた娘さんが碧原に戻ってくるらしい。繁忙期ではないから一週間くらいは余裕だろう。けれど仁川さんの表情はどこか曇って見えた。
「今年の夏はもしかしたら難しいかもって言われてしまってね」
「どうしてですか? 別にこの辺りは地震の被害もあまりなかったのに」
「実はねーー」
 それから聞かされた話は、こんな田舎にも世の中の流れというものは襲ってくるのだという証左だった。そう片付けてしまえば簡単だけれど、僕たちにとっては頭の痛い問題だった。
「……暇な人もいるもんですね」
「とはいえ放置もできなくてね。今、センター長が大学側と対応を協議しているところなんだけど」
「中止になる可能性もあるってことですか?」
「それは考えたくないけど、あり得るだろうね。そもそも日本に来ることを渋っている方もいるみたいだし」
 夏に行われるアーティスト・イン・レジデンスは、この芸術センターの目玉とも言える行事だ。けれど毎年行われているそのイベントをこのご時世で中止しないのは不謹慎だそうだ。だからもしやるなら構内に爆弾を仕掛けるという。どう考えてもそっちの方が不謹慎だが、脅迫文を書き込んだ人は気付いていないのだろうか。
「センター長はやるつもりだけど、大学側が何と言うかわからなくてね」
「大抵は悪戯ですけどね、そういうの。でも本当にやる人がいないわけでもないから警戒しないわけにはいかないか……」
 今ここで僕たちにできることはないけれど、そんなことで中止になってほしくはない。僕にとっては、今年のアーティスト・イン・レジデンスが最後なのだ。大学を卒業したらどうするかはまだ決められていないけれど、芸術センターに関わることはなくなる。それがこんな馬鹿馬鹿しい脅迫で無くなってしまうことは考えたくない。
「――芸術なんて有事のときは何の役にも立たないって思われてるんですよね」
 そうではないと言いたいけれど、じゃあ何の役に立つのかと言われたらまだ言い返すことはできない。それに生かされている人は確かにいるけれど、生命を奪おうとする自然の強大な力の前には芸術なんて無力だ。そんなことは誰でもわかっている。
「絵で腹は膨れないけれど、誰かが夢中になっているものを『何の役にも立たない』なんて言うのはどうかと思うんだよね。でも確かに世の中にはそう考える人もいる。だからといって役に立とうとして安易にチャリティーとかに走るのもいかがなものかってセンター長は言ってたけど」
 バイトの僕が顔を合わせることはあまりないけれど、センター長の考え方は嫌いではなかった。おそらく純粋に芸術を愛している人なのだろう。収益を寄付するチャリティーは称賛されることも多いが、それは作品そのものの価値ではなく、作品の商品価値で支援しているだけだ。やらないよりはやった方がいいことではあるが、どこか釈然としないのは事実だ。

 あらゆるところで不謹慎という言葉が躍っていた。その日に誕生日を迎えた人は人目を憚って喜ぶこともできず、咲き始めた桜を見に行けば老人に批判される。世の中には閉塞感が漂って、堰き止められた人間の声が澱み始めた。僕はSNSの類は一切やっていないが、それでも人間と人間の心がぶつかり澱む場所に怨嗟が溢れていることは肌で感じ取れた。
 くだらない。絆なんて一番気色悪いし、だからといってそこに参加しない自分がかっこいいと思っている手合いも嫌いだ。どうせなら箱舟もろとも押し流してしまえばよかったのに。安全な場所にいて誰かの自由な生活を不謹慎の一言で規制するような輩も、賢しらに助言を投げ続ける人たちも、みんないなくなってしまえばいい。
 どうせみんな最後には死んでしまうのだ。それが十年後なのか、それとも明日なのか、そのくらいの違いしかないというのに。
 苛立ちが募るほど、美術棟に籠る時間は長くなっていった。誰にも邪魔されず、誰にも咎められず、世界から隔絶されたような静かな場所で、自分の血が黒く染まっていくような感覚に陥りながら、ただ目の前の作品に没頭した。家に帰る時間は必然的に遅くなっていたが、本当はもっと長い時間美術棟にこもっていたかった。
 そんな状態が二週間ほど続いたある日、学校帰りの(しょう)から電話がかかってきた。今日は母が夜の仕事の日なのに鍵を持たずに出てきてしまったらしい。鍵を開けるために作業を中断して今から家に帰るのは正直面倒だと思っていると、彰の方から大学に行ってもいいかと聞かれた。
「いいよ。一人で来られる?」
《うん》
「じゃあ着いたら連絡して」
 作業を中断されるのは、それがたとえ彰であったとしても苛立つものだということを僕は知った。それどころか人間として当然の空腹や睡眠欲さえ邪魔だった。
 程なくしてやってきた彰は部屋の片隅の机を借りて自分の宿題を片付け始めた。物分かりがいいのは助かるけれど少し不安にもなる。僕は彰に我慢をさせてはいないだろうか。でもいつしか彰がそこにいることすら忘れるほどに自分の世界に潜り込んでいった。

 気付けばもう最後のバスの時間が近付いていて、鳴り響くアラームがそれを知らせてくれた。溜息と共に筆を置くと、遠慮がちな視線を感じる。
「ごめん、そろそろ帰らなきゃね」
 本当はまだ続けていたいけれど、流石に時間だ。それにまだ夕食も食べていない。
「どこかでなんか買って帰ろうか、彰」
 けれど彰は何も応えなかった。ただ真っ直ぐ、でもどこか遠くを見つめている。
「――これ、ここに飾るの?」
「え?」
「美術館があるって、前に言ってたから」
「いや、僕の絵なんてまだ飾ってもらえないよ。そもそもこれ完成してないし」
 どうしてそんなことを急に言い出したのだろうか。彰は僕の疑問をよそに、描きかけの絵をじっと見つめていた。

 僕の中で朧気だったものが、手を動かす度に現実に立ち現れる。けれど描きたいものはまだ遠く、僕は一日のほとんどの時間を美術棟で過ごし、家にも帰らない日が続いた。宿泊棟に行けばいつでも寝泊まりできるし、シャワーも使える。バイトの立場を利用して宿泊するのはあまり褒められたことではないとわかっていたけれど、自分の頭に手がついていかなくて、いつまでも絵が完成しないことに少し焦れてもいた。
 その上、良くない報せもあった。今年のアーティスト・イン・レジデンスは予定通り行われることになったのだが、大学にはまだ脅迫のメッセージが届き続けていた。早く捕まってくれればいいのだが、対応している職員の中には心身に不調をきたしている人も出てきているという。
 この世界に芸術なんて必要ないと思うのはその人の勝手だ。いらないならいらないで放っておいてくれたらいいのに。どうして自分に必要のないものがこの世に存在するのがそんなに気に入らないのだろう。それは姿の見えない犯人もそうだし、僕の母もそうだ。
 母は僕がこのバイトをしていることも気に入らないし、このご時世に夏の行事を強行する芸術センターの方針も気に入らないようだ。それを僕に言ったところでバイトの僕に何かを決める権限なんてありはしないのに。その言葉を聞きたくなくて、ますます家から足が遠のいていた。
「じゃあ僕は帰るから。あまり根を詰めすぎないようにね」
 二日前から復帰した仁川さんは、定時になると足早に帰っていった。僕も仕事は定時までだ。そもそもこの時期にあまり残業はない。けれどそのあとはずっと美術棟にこもっている。あともう少しのところでなかなか完成しなかったが、おそらく今日には仕上がるだろう。誰かに見せるつもりはなくて、ただ描きたくて描いた絵だ。

 思えば、絵を描くことは好きだったけれど、描きたいものがあるから描いたのは今回が初めてだ。その筆に込めた感情は決して褒められたものではないが、どうせ誰にも読み取れはしない。
 人形に釘を打ち込む儀式のように、僕は色と線を重ねていく。抽象的な絵はきっと誰にもわかってもらえないどころか、わかった風な顔をした誰かに適当な解説をつけられるのだろう。そんな目に遭うのなら、誰にも見られなくていい。
 僕は世界を呪っていた。
 不謹慎という言葉で誰かの大切なものを否定する奴らも、放射能への恐怖で混乱をきたす人も、逃げられない人に安全な場所から逃げろと言うだけの人も、死んでしまった人もその死を悼む優しい人も、みんなみんな死んでしまえばいいと思いながら絵を描いた。
 完成したらどうするかなんて考えてはいなかった。ただ思うままに手を動かして、ようやく最後の、たった一本の細い線を描き込む。
 時計を見ると、既に日付が変わっていた。当然今日はもう家には帰れない。このまま片付けをして寝ようと思って立ち上がった瞬間、今までの緊張の糸が切れたかのように、僕の意識は白に飲み込まれて、呆気なく途切れた。

15「I'm out」

 次に目を開けたとき、そこは見知らぬ天井だった。起き上がって周囲を見回して、窓から見えた景色でここが大学のどこかなのはわかった。けれど僕が今まで来たことがない場所だ。
「佐伯さん」
 仁川さんが、僕が寝ていたベッドの隣にある椅子に腰掛けていた。回らない頭で状況を整理しようとするが、意識が途切れたところから全く思い出せない。
「ここは……?」
「大学の医務室だよ。――あんまり寝てなかったみたいだね」
「……言われてみれば三日くらいほぼ寝てなかった気がします」
 ついでに言えばその三日間は食事も一日一食だった気がする。バイト中はちゃんと食べたけれど、それ以外の時間は空腹になったら食べようと思っていて、結果的にそうならなかったから食べなかった。
 完成したことで気が抜けてしまったのだろう。仁川さんに迷惑をかけてしまった。しかももう昼になっているということはバイトは無断欠勤状態だ。自己管理ができてないと言われたらぐうの音も出ない。
「すいません、迷惑をかけてしまって」
「迷惑だとは思ってないよ。熱中し過ぎるとたまにあることだっていう例は幸いにもたくさん見てきたからね。だからアーティスト・イン・レジデンスのときは『ちゃんと寝るように』ってみんなに言うわけだし」
「でも、僕はそれを言う立場の方なのに」
「経験者は語る、というやつだと思えばいい。何も知らない人が言うよりもむしろ説得力があるかもよ」
 けれど今の僕が無理をして作品を仕上げたところで、それに価値があるとはどうしても思えなかった。
 完成した作品には満足している。けれど所詮は僕の自己満足に過ぎない。絵を描いたところで、それが多くの人に見られるようになったところで、その人たちが勝手に解釈して消費していくだけ。あの絵が評価されるということは僕の呪いは見た人間の心を蝕めなかったことになる。全員が同じ解釈をする絵なんてないはずなのに、そんなことを考えてしまうのだ。
 みんな死んでしまえばいいと思って色を重ねた。けれどまだ――何も起きてはいない。結局は僕がしたことは僕の自己満足でしかないのだ。
 吐き出さなければ内側から自分を壊してしまうような衝動だった。だから絵を描いた。並べるのもおこがましいのかもしれないが、世間には叩かれていたあのアーティストとやっていたことは一緒で、ただ、そうするしかなかったのだ。
「もう少し休んでいくかい?」
「いえ、今日は帰ります。すいません」
 まだ頭は重いけれど、身体は正常に動くようだ。これ以上ここにいても迷惑をかけるだけだと思い、僕はゆっくりと立ち上がった。
「送っていくよ。ちょうど外に用事もあってね」
「すいません。……ありがとうございます」

 鍵を開けて家に入ると、微かに人の気配を感じた。平日の昼間は全員が外に出ているはずなのに。けれど空き巣が物色したような形跡もない。母が空けた酒瓶もむしろ整然と並べられていた。人がいる気がしたのは僕の気のせいかと思い、自室に入る。
「……(しょう)?」
 僕の部屋には、学校にいるはずの彰がいて、僕のベッドを占領して眠りこけていた。穏やかな寝顔。その頬にそっと手を伸ばそうとした瞬間に、閉じられていた瞼が開けられた。僕がいることに気がついた彰は飛び上がりそうな勢いで起きる。僕はふっと体の力を抜いてベッドに腰掛けた。
「怒らないよ。学校行かなかったの?」
「……最近あんまり行ってない」
「そっか」
「怒らないの? 学校サボってるのに」
「別に学校休んだって死ぬわけじゃないんだから」
 理由だって、彰が話したくないものを無理やり聞き出す必要はない。それが単に遊びたいだけだったとしても立派な理由だし、そういう休暇が必要な時期は誰にでもあるだろう。
「最近クラスに転校生が来て、その子が――」
 彰の話はどこにでもあるようなものだった。転校生があることをきっかけにいじめられていて、自分は巻き込まれてはいないけれどその雰囲気に耐えられないから学校に行きたくない、という。
「でもその子も悪いことをしたんだけど、でも、なんか――」
 発端はその転校生がクラスの女の子を執拗にからかったことらしい。それを問題視した女子に糾弾され、というところまではまだいいけれど、その後LINEグループを外されたりSNSにあることないかと書き込まれたりと、僕の時代とはまた違う形のいじめに発展しているようだ。目に見える暴力のように表には出てこないけれど、教室内に充満するその空気に耐えられないという。
「個人的に人が人を裁くとそういうことが起きるから法律ってものがあるんだけどな」
「どういうこと?」
 人の本質は獣だと、水無瀬はかつて言っていた。わざわざそれを引き出すような彼女の趣味は気に入らないが、言っていることはあながち間違ってもいないだろう。人間の根には獣の部分が――暴力性が確かにある。けれど社会生活を送るためにはそれを封じ込めなければならない。その時行き場がなくなった獣はどうするのか。消えてなくなるわけではない。大義名分を与えられればそれは目を覚まし、他者を攻撃する。正義はその大義名分としてよく使われるものだ。暴力のための正当な理由を与えられた獣は簡単に暴走する。相手が死ぬまで、いや死んでもなお攻撃を与えてしまうこともあるのだ。そんな人間の獣性を律するために法というものが存在する。そんな話を今しても難しいだけだろうか。けれど子供だからといって誤魔化すのも嫌だった。
「よくわかんないけど、悪い人だからっていじめたりするのは間違ってるってこと?」
「本当はルールに従って、先生なんかが注意したりするべきことだね」
「でもそれじゃみんな納得しないんじゃない?」
「誰もが納得する罰なんてないよ。生きていることが許せないっていう人もいれば、死んで楽になるより一生苦しんでほしいって人もいる」
 正義を掲げた暴力が気持ちいいのは大人も子供も同じだ。そもそも暴力が気持ちいいものなのに、それに正当な理由まで与えられているのだから。けれど暴力に酔っている人たちの中で居心地の悪さを感じる人は確かにいるだろう。何より彰は――何より理不尽な、正当性すらないような暴力に日常的に晒されているのだから。
「……そんな状態の学校に行くのは、むしろやめた方がいいかもね」
「でもお母さんは『自分がいじめられてるわけでもないのに』って。それに『その転校生が最初に悪いことをしたんでしょ?』って」
「一度暴力の味を知ったらもう戻れないんだよ。次にもし彰が悪いことをしてしまったらどうなると思う?」
 こんな脅しのような言葉は良くないだろうか。そう思いながらも言ってしまった。最初に悪いことをしたのが事実でも私刑は認められるべきではないし、一度その快楽を知った人間は、次もまた同じことをする。それどころか、どこかでそれを止めるものがなければエスカレートしていく一方だろう。
「僕の友達に、教室に行かずにずっと保健室で本を読んでた子がいたんだ。僕が知らないことを沢山知ってる、とても頭の良い子だった。――教室に行かなくても、そういうやり方だってできるよ」
「でも、またお母さんに怒られる……」
「そのときは僕が彰を守ってあげる」
 少なくとも死にそうな思いをしてまで行くところではないと思うから。けれど俯いたままの彰の姿に違和感を覚えた。僕は彰の腕を取って、袖をまくり上げる。僕がしようとしていることに気がついた彰が身を引こうとするけれど、僕の手の方が早かった。
 腕に、何かにぶつけたような痣があった。嫌な予感がする。僕がいなかったこの数日、彰に何があったのか。
「……僕が悪いんだ。学校行きたくなくて、行くふりして公園に遊びに行ったから、警察の人に見つかっちゃって」
 警察官は己の職務を全うしただけだろう。責めることはできない。問題はそのあとだ。
「彰は悪くない。学校は無理をしてまで行くところじゃないから」
 彰の頭を撫でながら、僕はここ数日の自分の行動を後悔していた。気にしていないわけではなかった。けれどそれよりも絵を描き上げたくて、鍵がないから家に入らないと電話をかけてきた彰のことを疎ましく思うことさえあった。
 でも、あれは本当に彰のことを放り出してまで描くべきものだったのだろうか。きっとこのまま誰に見られることもない、誰かの心を動かすこともないもののために、彰が傷ついていることに気付かずに熱中していた自分を嫌悪した。
「……ごめんね、彰」
 何よりも大事なはずだったのに。それなのに僕は、自分のことにかまけて彰とあの人を二人きりにしてしまったのだ。
 彰の華奢な体を抱きしめる。どうして言ってくれなかったのか、と言うつもりはない。きっと彰は僕に気を遣っているのだ。僕が絵を描いているとき、彰が邪魔をしてきたことは一度もなかった。それなのに僕は――。
 絵を描かなくても死ぬわけではない。でもこのまま放置すれば、彰は死んでしまうかもしれない。
「ごめん。次からは――」
 必ず、君のことを守るから。

 美術棟にそのまま置いてあった絵に布をかける。捨ててしまおうと思ったけれど、それは出来なかった。何の意味もない行為だったとしても、完成した作品自体は今の僕の精一杯だと言えたから。
 これが描けたことに満足はしている。だから、ここで終わらせよう。どうせ叶うはずのない夢なのだ。未だその夢に繋がるとっかかりも掴めていない。一流のアーティストにあって自分にないものもわかっている。区切りをつけるなら今だ。
 芸術センターの広い倉庫の中に、描き上げた絵をそっとしまう。木を隠すなら森の中。これまでここに滞在したアーティストが残していった、作品としては完成していない習作や断片がここに納められている。もし仮にここで作ったものが欲しいと言われたらいつでも渡せるように管理していて、最近ではその仕事はほとんど僕がやっていた。だからここなら紛れ込ませても気付かれることはない。温度管理もしっかり出来ていて作品が痛むこともない――などと考えているあたり、未練があるのだろうか。
 でも、もういい。
 僕の夢は、僕の一番大切なものを放り出してまで追いかけるものではないのだから。

 倉庫の扉に鍵をかける。重い錠の音が、指先から頭まで駆け抜けたような気がした。

16「蜜蜂」

「過去のことは変えられないから、ここで何を言ったところで無駄なのはわかっているんだけどね」
 先生が静かな声で言った。
「絵を描くことはやめるべきではなかったと思うよ」
「結局はやめてないですけどね」
「その話はこれからになるのかな?」
 僕は頷いた。一度は手放したはずの夢が、思わぬ形で運命の歯車を回した。僕を僕たらしめた出来事の話はこれからするつもりだ。先生は背もたれに体を預けながら腕組みをする。
「今の大多数の人間の価値観では、家庭と仕事を天秤に乗せたときに、仕事を選んでしまった人間は非難される。でも同じ天秤に乗せられるほどの価値を持っているはずなのに、片方を選んだら非難されるっておかしい話だと思うんだ」
「……先生は、もし仕事と響のどちらかを選ばなければならなかったらどうするんですか?」
「そもそも仕事と響が同じ天秤に乗るわけがないだろう。それは面積と体積を比べるようなものだよ。単位が違うものを比べられるわけがない。――まあ、こんなことを言えるのはいざというときは響の面倒を見てくれる人がいくらでもいたからだけど」
 大抵の人はそうではないから、同じ天秤に乗せられないものを無理やり乗せるしかない。でも今から思えば、あのときに誰かを頼っていればまた違う結末があったのかもしれない。
「血が繋がっていなくても幸せな家庭はあるし、逆に血が繋がっていても不幸な家庭はある。それなのに血の繋がりというのが変に神聖視されている気がするんだよね。窮屈な世の中だよ」
「他人に子供の世話を任せたら虐待だ、なんて言う人すらいますからね。殴るくらいなら他人の方がよっぽどましだと思いますけど」
「私も理人に響を任せるときが多かったから色々言われたんだよ。父子家庭だからどうたらこうたらとか、親としての自覚がないとか。失礼な話だよ。親としてちゃんと考えた上での人選なのに」
「いや、僕もその人選はどうかと思うんですけど」
「響との相性を考えたら麻美はないだろう。麻美が追い詰められかねない。それに理人は――絶対に響に手を出さないと思ったからね」
 麻美と響の相性が悪いという点に異存はない。自分が納得するまで「どうして?」と聞いてくる子供と二人きりになったときに精神的に追い詰められそうなのもわかる。相性だけ見れば確かに理人さんは適任だったのかもしれない。それよりも、理人さんが「絶対に響に手を出さない」という確信めいた先生の言葉が気になった。
「その頃にはもう『作曲する機械』に心を囚われていたからね。愛も、憎しみも、支配欲さえも人間ではなく、存在するかも怪しいそれに向けられていた。人間の段階で対象にならないんだよ」
 響が理人さんに恋愛感情を抱いてしまったのは構わないのだろうか。僕の疑問を察したかのように先生が苦笑した。
「そこに関しては誤算だったんだよなぁ。好きになっても絶対に報われないのに何でモテるんだろうな、あいつ……」
「さあ? 僕にはわかりませんね」
「君だって人ごとではないだろう。恋愛感情かどうかはわからないけれど」
「恋愛感情かどうかは僕も知りませんけど、理人さんがそこまで執着していたものを引き継ごうとしているのは事実なんですよ」
 せめて響や実紀くんのように音楽の道に進みたいと言ってくれれば何も言わなかったのに。(しょう)が理人さんから引き継ごうとしているものは、もしかしたら彼を破滅させるものかもしれないのだ。
「気に入らないかい?」
「……正直」
「実際、厳しい道だとは思うよ。私の研究だって反発を受けているんだ。前なんてなんかよくわからない宗教の人に、『神が作りたもうた人間の似姿を人間が作るなんて言語道断』とか言われたし」
「よくわからない宗教、という意味ではここも似たようなもんでしょうけど。クリエイティブな分野は人間の特権だと思っている人も多いから、反発は必至でしょうね」
「興味はあるんだけどね。彼が本当にそれを作れたとしたら、機械は本当の意味で意志を――心を手に入れる。同時に人間の心とは何なのかも解明されるだろう」
 先生の興味はあくまでそこにあるらしい。人間の心。それが何なのか完全に解明はされていないから、機械にそれを組み込むことは未だにできないでいる。
「でもそこまで人間に近く、人間よりも頑丈なものが出来てしまったら、人間がやることなんてもう何もないですね」
「私はそうは思わないけどね。機械の方が優れているからといってやめてしまえるほど、人間の衝動というのは単純には出来ていないよ。君が結局絵を捨てることができなかったようにね」
「でも――そんな衝動は、ない方が幸せなのかもしれないと思うこともあります」
 生きるためには必要のないものだとわかっているのに、止められないものがある。それを押し込めてしまえば自分自身を蝕んでいく。だから吐き出すしかないのだ。
「君とは全く逆のことを言っていた人が昔いたんだ。その人は――衝動を失った自分に生きる価値はないとさえ思ってしまった。他に大切なものなんていくらでもあったのに、それが消えてしまった自分はもう自分ではないくらいのことを――まあ、直接聞いたわけではないけど。日記が残ってたんだ」
「その話は初めて聞きました。麻美はその日記のこと、知らないんですね」
「麻美どころか理人にも言ってないんだ。警察やマスコミにも言ってない。父の言ってることを理解できる人は少ないだろうからね」
 植田(うえだ)治――先生の父親で、理人さんと麻美の師匠だった人で、曲が作れなくなったことを理由に自ら命を絶ったその人のことを、僕は伝聞でしか知らない。でも話を聞く限り、随分烈しい人だったようだ。
「……理人さんにも言わなかったんですね」
「父と同じ状況になったら死ぬことを選びそうな人には言わないさ。もしそんなことになったら響が傷付く。――まあ、結局その前に殺されたけどね」
 僕は黙って窓の外に目をやった。東京の夜は明るいとよく言われるが、明るい場所があればあるほど暗い場所が際立つものだ。碧原(みどりはら)の夜よりも東京の夜の方が逃げる場所があるように思える。
 あの日々の閉塞感は、今でもふとした瞬間に蘇ってくる。逃げ場のない感情は絵を描くことで発散していた。けれど絵を描くのをやめていた期間は――どこにもいけない感情は僕の光を蝕んだ。
 先生の言っていることは正しい。もうそれは過去のことで、今更言ってもどうにもならないというところまで。同時に、そもそもそんな感情がなければ良かったと思ってしまう自分もいる。きっとその方が楽に生きられただろう、と。
「先生は、受け入れられたんですか? 曲が作れなくなったからって、自分の親が自殺したことを」
「『それは家族より音楽を選んだということになるのに』って?」
 僕の意図を読み切って、先生は微笑んだ。それは彰には聞くことができなかった問いだ。
 一瞬でも君よりも絵を選んだ僕を、君はどう思っていたのか――。
「もう結婚して子供もいた頃だからね。もっと小さいときなら違う感情を抱いたのかもしれないが――そうする人だろうな、とは思ったよ。理人に対してもね」
 植田治の自殺を止めることができたかもしれない唯一の人間が理人さんだ。けれど彼はそれをしなかった。それが麻美が理人さんを恨む理由だ。でも先生は親族だというのに、麻美よりも冷静に事実を受け入れているように見えた。
「自殺するとまでは思ってなかったかもしれないけれど、様子がおかしいことはわかってた。それでも理人が何もしなかったのは――そもそも自分の存在が父を傷つけるだろうということがわかっていたからだろう。曲が書けなくなったからといって死ぬような人が、食事も睡眠も邪魔だと思うくらい曲が浮かんでる人を見たらどう思う? まあ、それでも理人が強引な手段を取れば、肉体が死ぬのは止められたとは思うけどね」
「……結局、死ぬことは変えられなかったってことですか」
 体だけ助かったとして、それは生きていると呼べるのか。それでも生きていて欲しいと願う人はいるだろう。麻美はおそらくそちら側の人間だ。けれど、抜け殻のようなそれを直視できる人はそう多くはない。
「少しは幸せに自殺するか、一片の希望さえ残らない状態で自殺するかの違いしかなかっただろうね。そういう意味では、この問題はどうしたって悲しい結末だ。けれど、私はそんな父のことを今でも尊敬しているよ」
「どうしてですか?」
「今のところは誰も説明できない衝動を抱えて、しかもそれがなければ生きていけないなんて、人間以外にそんなものになれる生物なんていないだろう」
 やはり先生は先生だ。正直何の参考にもならない答えに少しだけ安心した。答えは知りたいけれど知りたくなかった。いっそわからないままの方がいいかもしれない。昔がどうあれ、今の僕たちの関係はどうしようもなく破綻しているのだから。
「私がこうやって人間を識りたいと思うのも、一つの衝動なのかもしれない。そしてこの欲は人の道を外れさせたりもする。だけど、私はこれがない方がいいとは思わない」
 人の道を外れていることは自覚していたのか。僕は苦笑しながら続きを促した。
「人間以外の生物はそんなものになれないとすれば、それが一番人間らしいことだと思ってね」
「……『女装は男にしかできないから、最も男らしい趣味は女装』みたいな論理ですね」
「そう言われるとめちゃくちゃな論理みたいに聞こえるからやめてくれないかな……」
「冗談ですよ。――でも、この話でよくわかりました」
 そうなるだろうとは思っていた。先生は真っ直ぐではないけれど、確かに人間を愛している。僕に協力するのも「人間を愛しているから、人間を識りたい」という欲求からだ。
 ならば、いつの日か――僕たちは違う道を進まなければならなくなる。
「僕は先生が言う『人間らしさ』を奪おうと思っているんですけどね」
「そうなるだろうね。あの《光の雨》は」
「わかってるなら、どうして協力する気になったんですか?」
 先生はすっと目を細めた。例えば僕を裏切るつもりだったのなら、まともに答えはしないだろう。そんなことはわかっている。けれど先生は今まで何もごまかさずに答えてきた。どうして、と尋ねるのはまるで響のようだ――そんなことを頭の片隅で思った。
「今の人間は、私が思う人間らしさを摘み取るようにできているからね。君の『救い』に全人類が抗うことなく従うのなら、そんな人間を愛する必要などない。けれど抗うものがあるのなら、その姿を見てみたいんだよ」
「……まるで実験動物扱いですね」
「これでも人の可能性を信じているんだけどなぁ」
 悪びれもせず先生は言うけれど、その言葉は箱庭の人形が惑うのを見下ろしている神か何かのようだ。そもそも人工知能を研究する人のほとんどは人の助けとなる技術を求めてのことだが、先生はその中で、本当に人と違わないものを作ろうとしている点で異質だ。
「私はどちらに転んでもいいんだよ。人が抗って人としての誇りを取り戻すのも、君が目的を遂げるのも、どちらも人間性の奪い合いには変わらないからね」
「敵でも味方でもない、と?」
「そうなるね」
 先生が一番大切に思う響は僕に抗う側だ。それでも響の側に賭けるつもりはないのだろうか。
「そこは娘とか関係なく、もっと一般化して見ているつもりだよ。血縁に縛られたくはないんだ」
 普通はそこまで分けて考えられないのではないか、と思ったけれど言わないでおいた。この世界で普通も何もないだろう。逆に普通に堕していたら、気付かないうちに滅びる運命に足を踏み出すことになる。
 僕は溜息を吐いた。先生と話していると、囚われていると思っていなかったものに心を縛られていることを自覚させられてしまう。自分の奥底にある幼い気持ちがまだ夢を見たがっているのだ。
 愛のない家族があることくらい、嫌と言うほど知っているのに。
 血の繋がりなんて大したものではなくて、その間に暴力が発生することも、愛が裏切られることも、そもそも愛なんて芽生えないこともあるとわかっているのに、どこかで響を大切に思う先生が、僕を裏切ると言う筋書きを描いてしまう自分がいる。それが本来、当然のことなのだと思っている自分がいる。
 もう全部捨てたのだろう。家族も愛も何も要らないと、人の道を外れたのだ。
 それなのに、頭の靄が晴れてくれる気配はない。それに呼応するように指先が疼き始めた。それはまさしく「衝動」と呼べるもので、僕の意思で止められるものではなかった。
 やはりない方が幸せではないかと思う。けれどそれがなければ僕が僕である保証は無くなってしまうような気にもなる。
「今日は切り上げようか。私も疲れてきたし」
 何かを察したかのように先生が言う。なぜ何も言っていないのにわかるのだろうか。自分の父親や理人さんのことをずっと見てきたからだろうか。
 同じ括りに入れられるのは癪ではあるけれど、抗い難いこの衝動を抱えていた点では僕たちは似ているのかもしれない。だとしたら彰は、理人さんの中のこの衝動をどう思っていたのだろう。
 思考は結局同じところに帰ってくる。君があの頃何を思っていたのか――僕は君を守るつもりで、実際は君の気持ちなど何も考えてはいなかった。今更後悔しても遅いとはわかっているけれど、昔のことを思い出す度に感情が溢れ出す。
 今でも、君のことだけは助けたいと思う。
 それは家族の情なのか、それとも――。
 答えは見つからない。けれど、絵を描くための手は動く。

17「水のない水槽」

「続きの話、始めましょうか」
「いいけど……君ちゃんと寝た?」
「寝ましたよ。麻美によく眠れるハーブティーとか無言で出されたら寝ようかなって思うじゃないですか」
「あーそれ怒ってるやつだね……。どうりで今日一言も喋ってくれなかったわけか」
 夜中に話すことになったのは、先生が言い出したことだ。そのあと絵を描いたのは僕の都合だが、そのせいで夜更かししたことに対して麻美は腹を立てているらしい。
「でも麻美がいるなら、前みたいに三日くらい眠らないとかやらずに済みそうでよかったじゃないか」
「……別に世話係として雇っているわけでもないし。それに麻美がいつまで僕についてきてくれるかもわからないので、手放しでは喜べませんね」
「麻美は人を裏切るタイプではないと思うけど」
「違いますよ。麻美ではなく、僕の方の問題です」
 麻美には過去のことは何も話していない。(しょう)のことも昨年碧原(みどりはら)に行く前にようやく話したくらいだ。麻美はこちらが話さなければ余計なことは聞いてこない。こっちは彼女の事情を何もかも聞き出しておきながら不公平だとは思っているが、知られては不都合なことがあるのだ。
 仮に麻美がそれを知ったとき、彼女がどの道を選ぶかは彼女の自由。とはいえ彼女が僕のもとを離れる可能性があるというのは曲げられない事実だ。
「遅くなりすぎないうちに始めましょうか。また麻美に怒られたくはないでしょう?」

 僕が絵をやめた頃から、母は僕に対する敵意を取り繕うことをしなくなった。その理由はわからない。人を虐げて楽しむ獣の顔を隠せなくなるほどに欲求が膨れ上がってしまったのか、それとも他の原因があるのか。そんなことを考えるのも疲れていた。ただ目の前の日々をこなしていくだけ。死んだように生きて、何も感じなくなれば楽だと思ったのに、時折胸の奥で暴れ出す何かがあった。どこにも行き場がないそれは、放っておけば自分自身を蝕んでいく。自分も被害者だなどと言うつもりはない。確かに原因は母にあったとしても、僕が彰にしたことは消えはしないのだ。
 いっそ殺されてしまいたいと思うようになったのはその頃だ。彰には僕を殺す権利がある。母が加減を間違えて僕を殺してしまうなんて死に方よりはその方が良かった。
 彰の首を絞めたあとで、同じように絞めて欲しいと求めても、彰がそれをしてくれることはなかったけれど。
 疲れたのか眠ってしまった彰の唇に自分のそれを重ねる。子供に、弟に、しかも寝ている間に手を出すなんて許されることではない。やっていることは母と何ら変わらない。わかっていても、湧き上がる衝動を止めることができなかった。
 未熟な性器に触れれば、眠ったままの彰が微かな声を上げる。その声に心臓が高鳴り、体が熱くなった。自分の体がどうなっているかなんて確かめる必要もない。彰を苦しみから救うためと言いながら首を絞めて、その苦痛に歪む顔を見ながら、僕は確かに高揚感を覚えていたのだ。
 触れてもいないのに股の間に濡れた気配がある。こんなことで、血の繋がった弟で興奮する自分はおかしいと思っていながらも、他のものには何も感じないのだ。普段は冬の蕾のようにぴたりと閉じられた陰唇は、今は容易く自分自身の指を受け入れる。粘ついた音が静かな部屋に響いた。
 屹立したものを自らの性器にあてがって、ゆっくりと腰を下ろす。圧迫感に詰めていた息を吐き出すと、それは隠しきれない色を含んでいた。
 彰の意思など完全に無視した、自分を満たすためだけのこの行為。僕の光を蝕んでいるのは僕自身だ。それがわかっているのに止められないのは、愛なんかではなく、ただ彰を自分のものにしたかったからだ。
 彰の呼吸が僅かに乱れる。その瞬間に心臓が跳ねて、自分の中の彰の一部を強く締め付けた。ほのかな熱が中に広がるのを感じて、僕は目を見開く。恐る恐る彰のものを抜くと、経血が垂れるような感覚とともに白いものが内腿を伝い落ちた。
 自分の中に異物が入り込んだという事実も、彰のものなら構わなかった。むしろ毒のようにこの体を蝕んで、根を張ってほしいとさえ思ってしまった。実際は一昨日生理が終わったばかりで、妊娠する可能性は低いだろう。そのことに安堵しつつも、自分の罪に目の前が闇に包まれていく。
 もしかしたら手に入れられたかもしれない彼の未来を僕が根こそぎ奪ってしまったのだ。尊厳も何もありはしない獣の行為で。
 神が存在するなら、僕から今すぐ酸素を奪って窒息させてほしい。決して僕を赦さないでいてほしい。
「姉さん……」
 茫然としていると、彰がゆっくりと目を開く。細く柔らかい腕が僕に向かって伸ばされた。まるで呼吸を分け合うような口づけをして、僕はまた赦されざる行為に溺れていくのだった。


 
 大事な話がある、と仁川さんに言われたのは僕が絵を諦めてからしばらく経った日だった。大事な話の割には僕の前にはお茶と芋羊羹が置いてあって、緊張感がまるでない。
「センター長おすすめの店で買ったんだよ。駅前の店でね」
「……あの、それで大事な話って」
「ああ、そうだ。そんな畏って聞いてもらうような話ではないんだけどね。実はセンター長が来年の三月で退職したいと言っていてね。何でも山を買ったらしくて、そこで悠々自適に暮らしたいと」
「それはいいですね。楽しそうな老後の過ごし方で」
 でもセンター長がいなくなるということは、そこに新しく誰かがおさまるということだ。でも僕は三月で大学を卒業するから、あまり関係のない話なのかもしれないけれど。
「それで、実は僕に来年度からセンター長をやらないかという打診が来ているんだけど」
「僕はいいと思いますよ。初めての人が来るよりも、仁川さんの方が事情も色々わかるでしょうし」
「センター長がどうしてもって言うから僕も受けようと思ってはいるんだけどね、でも僕は美術に関しては素人なんだよ。そして僕がセンター長になれば、僕がいるポジションに空きが出る。そこでね」
 本題に入る前に、仁川さんは湯飲みのお茶を飲み干した。
「君さえ良ければ、僕がやっている仕事を君に引き継ぎたい」
「――え?」
 寝耳に水とはこのことか。それは全く予想していなかった言葉だった。
「他に内定をもらっているとか、他にやりたいことがあるというなら断ってくれて全然構わないんだけどね。でも、君なら事情もよく知っているし、僕なんかよりよっぽど美術に精通している。何より君自身が作品を作っている。世界中からアーティストを呼ぶにあたって心得た方がいいことも君ならよくわかるだろうと思って」
「僕は――」
 絵はもうやめた、とは言えなかった。何よりもその申し出が魅力的だったから。就活らしきことはやっていたが、特にやりたい仕事など本当はなかった。母がこの仕事に納得するとは思えなかったが、母のために就職するわけでもない。ここに残れば家を出ずに済む。それに、世界中からやってくるアーティストの作品作りをこれからもこの目で見ることができる。自分が美術家になれなくても、他の人を支援することはできる。
「受けたいと思います、その話」
 仁川さんの顔がぱっと輝いたように見えた。そこまであてにされているとは正直思わなかったが、仁川さんがしれなくて僕が知っていることがこれまでに何度かあったのは事実だ。
 もう絵は描かない。けれど関わること自体は許されていたい。手が届いているものを手放したくはない。でもそのことが、この後の出来事を引き起こすとわかっていたなら、僕はどうしただろうか――。

 彰が寝た後で、母が夜の清掃の仕事から帰ってきた。母と話すのは気乗りしないが、仕事が決まったことは報告しなければならない。僕はできるだけ手短に事の経緯を説明した。けれど母は何も言わない。殴られるよりは無視の方がいいと思いながら部屋に戻ろうとすると、背中に焼けるような痛みが走って、気付けば僕は床に転がされていた。
 母がどうしてそんなことをするのか――そんなことを考えてしまうのは、まだ母がまともな人間だと思いたかったからなのか。それともまだ家族なんてものに縋りたかったのか。けれど途中から何も考えないことにした。その方が痛みも感じずに済む。ただ、今の苦痛から解放される瞬間だけを待ち続けた。
 けれど僕を殴りながら笑みを浮かべる母は、簡単に解放してくれはしない。その上最近は、ただ殴るだけでは満足してくれないようになっていた。
「――脱ぎなさい」
 言われた通りにしなければまた殴られるだけだ。上に着ていた黒いワイシャツを脱ぎ、下着も脱いで床に落とす。壁際に立たされて、母に背を向けさせられた。
 まるで自分の所有物と主張するかのように、母は僕の背中に傷を残すことを好んだ。
「っ……!」
 痛いのか熱いのか、一瞬わからなくなる。微かに肉が焦げるような匂いがした。煙草の火でも押し付けられているのだろう。母は煙草を吸わない。ただ僕の体に傷をつけるためにそれを使った。
 そして一頻り終わった後、決まって僕に囁くのだ。

 「可哀想。こんなに傷だらけじゃ、きっと誰にも愛されない」と――。

18「雨天決行」

 (しょう)の体調に異変が起きたのは、僕が大学を卒業し、仁川さんの仕事を引き継いで働き始めて数ヶ月が経った頃だった。自分が上に立って初めて動かす、芸術センター夏の恒例行事の《アーティスト・イン・レジデンス》。その準備に追われている頃だったと記憶している。
 最初は昼間に急に眠ってしまって、起こしてもなかなか起きないという症状から始まった。学校に行っているときにその症状が出ると、迎えに行くのはいつも僕の役割だった。明らかに病院に行くべきその状態を見ても、母はなかなか彰を病院に連れて行くことを許可してはくれなかった。黙って連れて行ってもいいのだが、彰の保険証は母が管理していて、僕にはそれがどこにあるのか見つけることができなかった。母は彰がわざとやっていると思っていたらしいが、僕にはそうは思えなかった。けれど反論すれば酷い暴力を加えられるとわかっていたから、あまり強くは出られなかった。

 そんな頃、母は仕事に出かけていて、僕と彰が休みの日があった。その日、僕たちは久しぶりに二人で出掛けることにした。少し目が悪くなってきた彰の眼鏡を買いに行く、というのが主な理由で、駅前の商店街の始点にある、商業施設と図書館が一緒になっているビルに向かった。
 彰が視力測定をしている間、僕は買う予定もない眼鏡を物色していた。僕はずっと目がいいので必要がないのだ。でも伊達眼鏡をかけてみても面白いかもしれない。
「どういったものをお探しですか?」
 色々試していたら、店員に声をかけられた。
「僕は付き添いです。でも伊達眼鏡とかいいかもなって」
「でしたらこちらの商品なんかは――」
 店員の口車に乗せられて安めのフレームを一つ選んで掛けてみてしまったところで、測定を終えた彰が衝立の奥から出てきた。
「これでレンズは決まったので、後はお好きなフレームを選んでいただいて――」
 彰は店員の言葉を聞きながらも、真っ直ぐ僕の方に歩いてきた。
「これがいい」
「え、これ今から僕が買うつもりだったんだけど」
「あ、同じものの在庫はありますので……」
 試しに彰にかけてみると、確かに悪くない。本人がこれがいいと言っているんだから拒否する理由はない。
「じゃあこのフレームで作ってください」
 まだ度が弱いから、彰の眼鏡もすぐにできるらしい。暫く眼鏡屋の椅子に座って待っていると、布張りのトレイの上に眼鏡を二つ乗せた店員がやってきた。掛けてみてから微調整をして、お金を払ってから店を出る。
「じゃあそろそろ――って凄い雨だね」
 さっきまで晴れていたはずなのに、信じられないほど雨が降っていた。にわか雨だろうか。別にバスに乗れば帰れるだろうし、傘もここで買えるけれど、好き好んでこんな雨の中バス停まで歩きたいと思う人は少ないだろう。
「喫茶店でも入ろうか」
「うん」
 ビルの中にできたばかりのタルトの店に入る。窓際に座る勉強中らしき高校生が、外を見ながら「雨やばい」などと話していた。雨やばいからゲーセン行こう、という謎の理屈。彰は不思議そうな顔をして外を見ていた。
「何か前より明るい気がする」
「眼鏡掛けてはっきり見えるようになったからじゃない?」
「そっか」
 伊達眼鏡だと大して景色は変わらない。けれどフレームは意外に見えるものだということがわかった。
「洋梨にするかナッツにするかベリーにするか……彰は決めた?」
「このマスカットのやつ」
「じゃあ僕は洋梨のタルトにしよう」
 店員を呼んで注文をして、タルトが来るまでの間ぼんやりと窓の外を眺める。雨はまだ酷く降り続いている。このままやまなければ家に帰れなくなったりするだろうか。バスも動かなくなって、車も水没して、このあたり一帯が冠水して。逆にそのくらいにならなければ普通に家に帰れてしまうのだ。
 運ばれてきた宝石のようなタルトを食べている間も、雨が降っていた。こんな風に彰と向かい合ってゆっくり話をするなんて久しぶりで、すっかり何を話せばいいかわからなくなっていた。それに話せるほど愉快な生活を送っているわけでもない。おそらく彰も似たような状態で、でも授業に熱が入るとサ行が上手く言えなくなってくる面白い先生の話だとか、そんな他愛のない話をしていた。
 暫く彰の話を聞いていると、急に彰が僕に話を振ってきた。僕の仕事について聞いてくることなんてあまりなかったのに。普段やっていることといったらメールを送ったり、書類を作成したり、機材の手配の電話をしたりで、面白いことなんてほとんどない。それでも嬉しいことが、実は一つだけあった。
「来年の夏、イヴェット・ローゼンタールが来るんだよ」
「今年じゃなくて?」
「オファーは一年以上前からするからね」
 交渉するアーティストを決める前に希望を出していいと言われたので、何人か名前を挙げたのだ。今年来るのは、先代の芸術センター長が呼んだ人で、新しい体制が本格的に動き出すのは来年になってからだ。あまり詳しくないから助かるよ、とは言われたものの、まさか会議を通ってしまった上に、イヴェット・ローゼンタールが受けてくれるとも思っていなかったのだ。
「前、好きって言ってた人?」
「そう。だから凄く楽しみ」
 欲を言えば、絵を描いているときに会えれば良かったけれど。でもイヴェットが日本に来て、どんな作品を作るのかにはとても興味があった。イヴェットの仕事を近くで見ることができる。それだけで来年までは何でも乗り越えられそうな気がした。
「まあでも、気難しい人らしいからね。来年になって急にやめるって言うかもしれない」
「大丈夫だよ、きっと」
「僕がヘマしなければ……って話なんだよね、実は」
 仁川さんは僕がイヴェットの作品が好きなことを知っていて、優先的に僕に仕事を回してくる。基本はイヴェットのマネージャーとのやりとりで、本人とはメールも何もやりとりはしていないからいいのだが。
「尊敬している人だから緊張するんだけど」
「え、全然緊張しそうにないのに」
「彰は僕を何だと思ってるわけ……? 僕だって人並みに尊敬する人の前では緊張するよ」
「その人はどういうところがすごいの?」
「どういうところって言葉で説明するのは難しいんだけど……」
 イヴェットはこれまで《変化》というテーマで作品を作り続けている。それが来年のアーティスト・イン・レジデンスのテーマである「空気のメタモルフォシス」に合うと思ったから名前を挙げた。ちなみにテーマは芸術センターのスタッフと大学側が協議して決めていて、議事録によると、経済学の教授がその言葉を出したらしい。どういう意図があるのかはよくわからない。
 イヴェットによると、そもそも作品を作るという行為が、人の手が加わることで起きる《変化》だ。その上で偶然性を含んだ《変化》――例えば天井から吊した絵筆から落ちる絵の具のような――をも作品に取り込もうとしている。絵は、録音でもしない限りすぐに消えてしまう音楽と違って、変わらないもの、永続的なもののように一般的には思われるのに、イヴェットはそれに異を唱える。どれほど適切に管理しても絵の具や紙が劣化するのも《変化》だし、画家が死んでからその絵の評価が変わるようなものも全て《変化》だ。その《変化》に焦点を当てたいと、数年前に来日したときのインタビューで言っていた。
 ひとしきり喋ってしまってから、彰には難しかっただろうかと思う。けれど彰はタルトも食べずに真剣に話を聞いていた。僕は食べながら喋っていたのだから、ちゃんと食べれば良かったのに。でもそんな不器用なところがかわいいと思えた。
「ごめん、喋り過ぎちゃった。タルト食べなよ」
「えー、もっと聞きたい」
 哲学にでも興味があるんだろうか。それならそれでいいけれど、そのうち僕がついて行けなくなったら少し困るな、と思った。不意に、自分が小学生だった頃を思い出した。(めぐむ)はよくそういう話をしていて、僕はついていくために少しだけ背伸びをしたこともあった。今、彼女はどうしているのだろう。彼女は僕に弟ができたことも知らないはずだ。
 話している間に雨が上がって、僕たちはゆっくりと店を出た。いつの間にか彰は饒舌になっていて、僕はその日だけで彰の知らなかった一面をいくつか窺い知ることができた。最近はからくり仕掛けだとか、寄せ木細工の秘密箱だとかに興味があるらしい。でも四つくらいの仕掛けだとすぐに解けてしまうらしいから、今度の誕生日には二十回以上仕掛けがある秘密箱を買うと約束した。そのあとこっそり値段を調べてみると、予想より少しばかり高かったけれど、許容範囲内だ。
「あ、休日ダイヤだからバスあと三十分来ないな……」
「じゃあゲーセン行っていい?」
「いいよ」
 さっきの雨がやばい高校生はまだゲーセンにいるんだろうか、と関係のないことを思ったりした。お小遣いとして持たせた五百円の握りしめて、彰は目的のゲームの筐体に駆け寄っていく。僕はそれをゆっくりと歩いて追いかけていたが、途中で何かがおかしいことに気が付いた。
「――彰!」
 糸が切れた人形のようにその場に倒れる彰のことを床につく直前で支える。今日は落ち着いていたから油断していた。けれど昼間に眠ってしまったり、体から急に力が抜けるこの症状は、強い感情の動きがあったときに起きやすいことがわかっていた。強い感情は何も怒りや悲しみなどの負の感情だけではない。喜びや楽しみだって感情なのだ。
「ごめんなさい……」
 消え入りそうな声で最後にそう呟いて眠ってしまった彰を背負いながら、僕は唇を噛んだ。負の感情だけを断ち切るように発作が起きるならまだ良かった。でもこれは彰から喜びさえも奪っていこうとするものだ。それを前にして、今の僕には何もできない。買ったばかりの二人分の眼鏡を外してケースにしまう。
 浮かれていた僕を嘲笑うように、再び雲が厚くなり始めていた。

fragment #4「きらきらにひかる」

「――最初のうちは、何回かに一回はわざとやってたよ」
「わざと?」
「発作が起きて倒れれば、周りの人たちは一応心配してくれるし、何より姉さんが迎えに来てくれるってわかってたからな」
 母親は変に敏感なところがあって、俺が嘘をついていることがあることには気付いていたようだ。当時の担任も少し疑っていた。何も疑わず、俺が言うことを全部信じていたのは姉さんだけだった。
 けれどいつしかその全てが嘘ではなくなっていって、でも嘘をつき続けていた俺を信じてくれたのは姉さんしかいなかった。姉さんが俺の嘘を見抜けなかったのか、それとも見抜こうとしていなかったのか、真実はわからないけれど。
「あの人のこと、どう思ってたの?」
 響の質問はまっすぐで、聞かれるとわかっていても答えにくい。けれど響の前では誠実でなければならないと思う。話すことになった以上、ちゃんと謝らなければならないこともある。
「……今はあれは『依存』だったと思ってるよ。でもあのときは――それが『愛』だと思っていた」
「どうして依存だって気付いたの?」
「――理人に言われたんだ」
 おそらく他の人なら躊躇って言わないでいただろうことを、理人だけははっきり言った。元から、子供だからわからないだろうとか、そういうことは一切考えない人間だ。そう思ったから、そしてそれを伝えた方がいいと思ったから言っただけ。
「理人なら言うかもね。こっちがそれでどれだけショックを受けるかとかあんまり考えないし」
「言ってもらってよかったと思ってるよ。――じゃなかったら、理人を殺したのは俺だったかもしれない」
「どういうこと?」
「あいつはどうやったって手に入らない人間だった。でも、どうしても『愛』してほしくて、強引な手を使ったんだ」
 そもそも人間である限り理人の目に映ることなんてできないことに気付いたとき、次に思ったのは奪うことだった。音楽を見つめているその目を自分に向けさせる手段を俺は知っていた。糸を張り巡らせて、逃れられないようにして、それが愛なのだと信じて疑わなかった。
「……要するに、寝込みを襲ったんだけど」
「はぁ!?」
 響に言えば怒られるとはわかっていたけれど、その怒りの瞬発力の高さに面食らってしまった。けれどそのあと響は深呼吸をし始めた。
「オーケー、大丈夫、私は冷静。冷静だから」
「冷静には見えないけど」
「大丈夫、六秒我慢したから」
 怒りのピークは六秒、という言説のことを言っているのだろう。
「話せって言ってるのは私だし、反省してるならいいんだよ、うん……。で、どうなったの?」
「どうなったも何も、キスすらさせてもらえなかったけどな」
 そしてそのあと、何時間にもわたって話をした。結果としては何も起きなかったに等しい。けれど俺がしようとしたことは変わらないし、俺が決定的に間違っていたのは事実だ。
「まあ、理人ならそうなるか……だからお父さんも私の世話を理人に任せてたんだろうし。だって世話だけならもっといい人がいたはずだもん」
「生活力皆無だからな、あいつ」
「台所は出禁にしたし」
 むしろそれまでどうやって生きてきたのか不思議なくらい音楽以外は何もできない大人だった。何もできなくてもいいから、響に手を出したりしない人間を選んだのだろう。それは同時に、どんなに好きになっても報われはしないことを表しているけれど。
「でも一回説得されたくらいじゃ納得はできなかったからな。……手に入らないなら殺してでも、って考えたことはある」
「考えた上で実行しなかったのはどうして?」
 考えるところまでは多くの人がたどり着いてしまう。けれどその中で考えを実行に移す人は一握りだ。その境界線はどこにあるのか。どうしてその俺はその線を超えずに済んだのか。
「色々理由はある。いくら理人が音楽バカの貧弱な人間でも成人男性で、それなりの力はあったっていうのもあるし、単純に会う機会が少なかったのもある」
 理人に言われた言葉の意味がわかったのは、取り返しがつかなくなってからだ。もっと早く理解していたら、何かが変わったのかもしれないと思うほどの。
「理人に何かする前に、姉さんに再会したのは大きい気がするな」
「……それは、解決ではないね」
「そうだな」
 依存対象がいなくなって、新しい相手を見つけて、けれど満たされないでいるうちに、いなくなった依存対象がまた現れた。何の解決もしていない。それどころか悪化している。
「……姉さんがなんで家を出て行ったのかは今でもわかってないから、そのときは俺のことを捨てたんだと思ってたんだ」
 今はきっと違うんだと思っているけれど。思い返してみれば、俺を最後まで信じていたのは姉さんだけだった。けれどどこかで思っていたのだ。嘘をついてまで『愛』を手に入れようとした自分には、いつか報いがあると。そしてあのとき、その報いを受けているのだと俺は思っていた。
 けれどそれだけでは説明できないことが沢山ある。姉さんは何故(光の雨)を作り出したのか。そしてこれからしようとしていることは何なのか。きっと俺が知らない話があるのだろう。
「私から話していいのかはわからないんだけど――実は、ここに来るのを手伝ってくれた人がいて、その人にあの人の調査をお願いしてたの」
「協力者がいたのか……どうりで、東京から一度も捕まらずに碧原(みどりはら)まで来れたわけだ」
「まあ、あの人がここまで私を泳がせたって可能性も否定できないけど。結局実験自体は止められなかったし」
 姉さんが今持っている力を全て投入すれば、女子高生一人くらい簡単に捕まえられただろう。でもそれができなかったのは、響が言うように泳がされた可能性もあるけれど、協力者がいることを想定できなかったのも大きいのではないだろうか。
「その協力者って、どんな人なんだ?」
「お父さんの知り合いで、表の顔はベーシスト、裏の顔は探偵って人がいてね」
「とんでもない人と知り合いだな……」
 何があったらそんな人と知り合いになるのかもわからないが、響がそういう人間を頼るのも意外に感じた。
「わからないことだらけだったから、少しでも何かがわかればいいと思って連絡を取ったの。……それで、その調査結果がこの前届いた。本当はもっと前に届くはずだったんだけど、記憶がなくなるとは思ってなくて」
 響は楽譜ケースの中から紙の束を取り出す。俺は迷いながらもそれを受け取った。
「少なくとも、あの人は(しょう)を捨てて家を出たんじゃない。それだけは確か。――あの人はきっと、復讐するために一人にならなければいけなかった」
「復讐? 誰にだ?」
 相手が多すぎて逆に見当がつかない。けれどそのどれもがしっくり来ない。響はまっすぐ俺を見て言った。
「――きっと、あなた以外の全て」
「何で俺は入らないんだ? この前軽く殺されかけたんだけど」
 だからもう情も何も残っていないのだと思っていたのに、それは違うのだろうか。
「一人だけ《光の雨》が届く前に殺そうとするのは、とんでもない特別扱いじゃない」
「特別扱い、か」
「……《光の雨》が最終的に目指しているものはこれを読んでも完全にはわからなかったけど、でも、《光の雨》が人を救うためにある、なんていうのは欺瞞でしかないし、あの人は多分欺瞞だとわかってやっているんだと思う」
 偽りの救済。消えない希望の光とともに人の意思を奪っていくもの。それを救済だと言って世界に振り撒こうとしている姉さんを許せないと思った。けれどその目的が実は別のところにあるとしたら? 本当の目的は、その先にある何かだとしたら。
「人間の意思を知らず知らずのうちに奪えるなら、そのあと何でもできるな……」
 希望をちらつかせて、足元が崖であることに気付かせないように誘導したら、そのまま落として殺すことだってできる。救済のあとの盛大な裏切り。それが本当の目的なのか。でも計画を直接聞いたわけでもない響がそれを確信しているのはなぜなのか。この紙の束にその理由があるのか。タイトルだけが書かれたシンプルな表紙をめくり、次のページに視線を落とす。
「……イヴェット・ローゼンタール」
 飛び込んできたその名前には聞き覚えがあった。姉さんが好きだと言っていて、姉さんが働いていた芸術センターに滞在していたことがあるアーティストだ。
 簡潔にまとめられた概要に目を通す。細かいことはこの後に書いてあるのだろうが、それを読むには、もう少し気持ちを落ち着ける必要があった。
 響が心配そうにこちらを窺っている。そんな顔をしなくても、いずれは向き合わなければならないことだ。
「……眠ってしまえば、苦しみから逃れられると思ってんだ。眠れば母さんに怒鳴られることもないし、姉さんが助けてくれる。でもその間――俺は姉さんの苦しみからは目を逸らしていた」
 気が付いてしまえば、壊れてしまうから。薄々わかっていたのに見ないようにした。そこにあったのはやはり愛ではなくて依存だったのだ。
「こんなんならいっそ、愛想を尽かされて出て行ったって方がマシだった――」
 それなら納得して、好き勝手に憎むことができたのに。

 気付くきっかけはいくらでもあったはずなのに、俺はその全てを無視した。奇妙な納得感と罪悪感が波となって押し寄せてくる。
 報告書に添えられた数枚の写真、そこに映る細い背中に指で触れる。愛でなかったとわかっていても湧いてくる言いようのない愛しさのようなものと、否定できない現実が心臓を突き刺していく。
 姉さんの背中には無数の傷があった。
 そして何もかもが壊れたあの日――姉さんが着ていた服には血が滲んでいた。前は母さんを刺したときの返り血だろう。けれどそれとは別の赤色が、その背を染めていたのだ。

19「銀猫」

「日本語でいいわよ」
 イヴェット・ローゼンタールが僕に放った最初の言葉はそれだった。イヴェットの母語は英語だが、言語を習得するのが趣味らしく、五ヶ国語を自由に操ることができた。
「あと、イヴェットって呼んで頂戴。別にファミリーネームが嫌いなわけではないけど、ファーストネームの方が好きなのよ」
「わかりました。先にお部屋に案内しますね」
 準備は入念にした。普段は宿泊部屋の整備は他の人に任せているけれど、こっそり最終確認もした。今隣にいるのは僕がずっと会いたいと思っていた人なのだ。そしてその作品を生で観たいとずっと思っていた。その夢がいま一気に叶っているのだ。
 とはいえ仕事は仕事だ。思いを顔を出さないようにして、淡々と業務をこなす。僕がすべきことはイヴェットが快適に作品作りに取り組める環境を整えることだ。
 宿泊棟の部屋に通すと、彼女はすぐにベッドに横になった。飴色の長くまっすぐな髪の毛の間から、違う色の光がこぼれる。それはイヴェットが片耳につけているピアスの藤色だった。銀色の金具部分に複雑な意匠が施されているピアス。僕はそれをどこかで見たことがある気がした。
「……ああ、これ? 一応これも私の作品なのよ。これは試作品だけど」
「完成品の方を図録で見た記憶があります」
「前に東京でやったやつね。そのときしか出してないから。装飾品はそのものも綺麗だけど、やっぱり人が身につけた方が面白いと思って」
 イヴェットが動くたびに光り方を変える藤色の宝石。これも《変化》ということだろうか。
「完成品の方も持ってきてるのよ。使えそうなら使おうと思って」
「そうですか。楽しみにしてます」
「あ、そうだ。ここって前に滞在したアーティストが置いていった作品とかその断片も保管しているって聞いたんだけど」
「はい。倉庫で管理していますよ」
「それを見せてもらうことはできる? 人の作品から得られるものもあるのよ」
 盗作の危険性など、一般的なことを一種考えかけたが、イヴェットならあり得ないだろうと思い直した。倉庫は僕の権限で自由にできる場所だ。
「後で鍵を持ってきます。鍵を紛失さえしなければ自由に使っていただいて構いませんよ」
「ありがとう。ここからは自由に過ごしていいのよね?」
「はい。でも食事の時間は決まっているので、そのときはセンター内にいてくれると助かります」
「わかったわ。これからしばらくよろしくね」
 イヴェットが僕に右手を差し出す。あの作品を生み出す右手に触れるのは少し躊躇いがあったが、僕はおずおずとその手を握り返した。少し骨張っていて、力強い手。この手がこれから生み出すものに僕は思いを馳せた。

 数日後、イヴェットが僕を呼び止めた。まだ構想を始めた段階で、作品に取り掛かってはいない。けれど倉庫を始め、センターの周りや大学構内を色々歩き回っているらしい。
「倉庫でひとつだけナンバリングされていない絵を見つけたんだけど」
「え?」
 倉庫に保管されているものは一つ残らずナンバリングして管理しているはずだ。何か見落としがあったのだろうか。仁川さんから引き継いだときにそれまでのものは全て確認したし、昨年のものも漏れなく登録したはずなのだが。
「木を隠すなら森の中、よね」
「それは……」
「これ、あなたが描いたんでしょう?」
 イヴェットが指差した先には、もう存在すら忘れかかっていた、僕が最後に描いた絵がイーゼルに立てかけられていた。
「どうして僕が描いたって」
「見つけたときにちょうどあなたがいなかったから、仁川さんに聞いたんだけど」
 別に口止めなんてしていなかったけれど、言ってしまったのか、と思った。何よりもう結構前の話なのに僕が描いた絵を覚えていたことに驚いた。
「その絵が何か?」
「あんなところにしまっておかないで、外に出してあげたらいいのに、と思って。私は好きよ」
「……そんな大した絵じゃないですよ」
 忘れていたはずなのに、右手が疼く。イヴェットはお世辞を言っているのかもしれないけれど、それでも認められたことが嬉しくて、でも何もかもが遅すぎて。
「自分の絵をそんな風に言うものじゃないわ。どんな作品だって、貶されたくて生まれてくるんじゃないんだから」
「……でも」
「あなたが貶すなら、私が褒めるわ。こんな世界中を呪ってるみたいな絵、なかなか描けるものじゃない」
 どうしてそれがわかるのだろう。きっと誰にもこの絵を描いた意図なんて伝わらないと思っていたのに。しかも理解してくれたのが、ずっと憧れていた人だなんて。不意に目頭が熱くなって、僕はそれを誤魔化すように深呼吸をした。
「どうしてわかったんですか?」
「……勘?」
 勘と言われてしまうと何と言えばいいのかわからない。イヴェットの言うことは正鵠を射ている。反論の余地はないのだ。
「本当に言葉にできるような根拠はないのよ。でも筆に感情を乗せられる人の絵ならわかる」
「……僕の絵がそうだとは思えないけれど」
「あら、私の目を疑うの?」
 イヴェットが僕の目を覗き込む。褐色の瞳はこちらを射抜くような強い光をたたえていた。この目を否定できるはずもない。イヴェットを芸術家として尊敬するということは、その審美眼についても信じていると同義になる。それは自分の絵に対する自己評価なんかよりも上位にある。イヴェットが良いと言うものに間違いはない。そしてそのイヴェットは今、僕の絵を確かに褒めているのだ。
「今からでも遅くないと思うわよ。絵は副業で、なんて人も沢山いるんだし」
「もう絵を描くつもりはないんです」
 絵をやめると決めたときにイヴェットがいたら、もう少し僕は揺れただろうか。でも僕がこの絵を完成させるために払われた犠牲は変わらない。
「……絵にかまけていたせいで、守れなかった人がいるんです」
「それなら今度は両方できるようにすればいいだけじゃない。……なんて、簡単には言えないわね」
 僕は頷く。簡単な問題ではないのだ。それに僕は、イヴェットに認められただけで満足だった。これ以上の喜びがあるはずもない。

 イヴェットが相談があると言ってきたのは、その数日後のことだった。
「実は日本に来る前から、やろうかなぁって考えていたことがあってね。色々考えたんだけど、やっぱりここでやろうって」
 イヴェットの褐色の瞳は光を閉じ込めたように輝いていた。まるで子供みたいだ。僕は苦笑しながらイヴェットの向かいに座る。
「この話、知ってるかしら?」
「谷崎潤一郎の『刺青』――読んだことはあります」
「刺青を彫られた女が、眠っていた悪女としての自分を目覚めさせる――これになぞらえた作品を作りたいの。でも刺青は一生残ってしまうし、ヘナタトゥーなんかも考えたけど、自分が使いやすい画材でやるのが一番だと思って、ボディペイントにしようって決めたの」
 谷崎潤一郎の『刺青』――イヴェットにしては耽美な題材だと思ったが、同時に女の《変化》という意味ではイヴェットのためにあるような気もした。蛹から蝶が羽化するように変身を遂げる女。イヴェットはそれを自分の手で再構成したいのだ。
「そういうわけでモデルというか、身体に描かせてくれる人を探そうと思ったんだけど」
「ボランティアの子たちに希望者がいないか聞いてみますね。あとはその友達とか」
 せっかく大学というそれなりに人がいる場所なのだから、それを利用しない手はない。けれどイヴェットは首を横に振った。
「そうじゃないのよ。もう私の中では誰にするか決まってるの」
「そうなんですか。学外の人でも、手続きすればいつでもここに入れるようにできますよ」
「その必要はないわね。だって目の前にいるもの」
 イヴェットが立ち上がって僕に近付く。彼女の目の前にいるのは僕だけだ。でもまさかそんなことを言うはずはないだろう。
「小説と全く同じことをやるつもりはないのよ。小説だと、女がどう変化するか、男はある程度わかっていた。でもそれじゃ面白くない。どちらに行くかわからない、そんな人間が私の筆でどう変化するのか。それを作品にしたいの。あなたはピッタリだわ」
「どこがピッタリなんですか? 僕には見当が付かないんですが」
「あなたの体つきよ。丸みを帯びてはいるけれど、華奢で、少年のようにも見える。その曖昧さが必要だわ」
 イヴェットの言うことは理解できる。確かに僕の体は、少年だと言えば信じる人もいるだろうし、よく見れば女の体だとわかる。けれど僕の体はイヴェットのキャンバスにはなれない。
「……他を当たってください。僕にはできません」
 この服の下は誰にも見せられない状態だ。ましてやここにイヴェットの筆が触れることはできない。
「あなたがどうしても嫌なら強要はしない。でも、本当に嫌がっているような顔には見えないのだけど」
 僕の体が綺麗なら、一も二もなく飛びついただろう。ずっと密かに憧れていた人の作品の一部になれるかもしれないのだ。その機会をみすみす捨てたいと思う人がいるだろうか。
「できないんです、僕には」
「差し支えなければ理由を聞きたいのだけれど」
「……人に見せられるような体じゃないんです」
 イヴェットの諦めの悪さが今は憎かった。僕と同じような体つきの人ならきっと他にもいるだろうに。
「あなたも私が何を作ってるか知ってるでしょう? あなたが自分の体を愛せなくても、私はそれを《変化》させてみせる」
 イヴェットからは、これまで数多の作品を作り出してきた自信が滲み出ているようだった。自分が積み上げてきたものに対しての揺るぎない自信。それは芸術家としては尊敬すべきものだけれど、この状況でそれを見せつけられることに無性に腹が立った。
 何も知らないくせに――そう思った。
 胸の中の黒い炎が僕の手を動かして、気が付けば僕は着ていたワイシャツ脱ぎ捨てて笑っていた。

「これを見てもそれが言えるんですか?」

 背中を埋めつくす傷は、人に見せるものではないとわかっている。きっとこんなことをしなくてもイヴェットはわかってくれただろう。それでも、僕は――彼女が何も知らないまま僕を見ているのが嫌だった。
 イヴェットは目を瞠る。彼女は目を逸らすのか、それとも。でもどちらにしろ僕たちの間の友好的な関係はこれで崩れ落ちた。たかが数ヶ月一緒に過ごすだけの相手の傷なんて、人知らぬ事情なんて、誰だって知らないままでいたいだろう。
「甘く見られたものね」
 それなのにイヴェットは、その褐色の目で、射抜くように僕を見つめて言う。その視線の力強さに、先に目を逸らしてしまったのは僕の方だった。

「私はイヴェット・ローゼンタールよ。私はこの手で《変化》を作り出す。――見くびってもらっちゃ困るわ」

20「共鳴(空虚な石)」

「私はイヴェット・ローゼンタールよ。私はこの手で《変化》を作り出す。――見くびってもらっちゃ困るわ」

 自信に満ち溢れたその言葉に呑まれてしまう。イヴェットは僕に近付いて、傷だらけの背中にそっと手を触れた。
「古くなったものも新しいものもある。殴られた痕と火傷の痕……かな。残念ながら私はこんな程度では怯まないわよ」
 イヴェットの視線を背中に感じる。それは嫌悪感でもなく、憐むようなものでもなく、ただ今から描こうとするものをありのままに見ようとする目だった。その視線に晒されると、全身に緊張が走るのがわかる。イヴェットの目は見透かそうとしている。傷の下にある僕の本質までを。
「あなたに教えてあげるわ。私がどんな思いで筆を持ってるのか、どんな仕事をするのか。この体に直接ね」
「……まだいいとは言ってませんよ」
 それは儚い抵抗と、自分自身を縛る罪の意識と――イヴェットはどんな作品を生み出すのかという興味。そして彼女になら全て暴かれても構わないという、僕の欲求だった。
「何も知らない人に描かせはしませんよ」
「そうね。変えるのなら、その前のあなたをちゃんと知らなくちゃいけない」
 今までしてきたことが赦されるとは思っていない。けれどイヴェットはこの暗闇から抜け出すための一筋の光、あるいは細い銀色の蜘蛛の糸のように見えた。

 洗いざらい、全部話すことを決めた。
 けれど今まで誰にもして来なかった話だ。うまく話ができるかどうかはわからなかった。日々をやり過ごすのに必死で振り返ることもして来なかった、隠された真実の話。
「満足するまで付き合うわよ」
 イヴェットに促されるまま、僕は記憶を紐解いていった。(しょう)が生まれてから、そして父が死んでから、今日に至るまでの全て。それを言葉にすることは過去をもう一度再生することに等しくて、気が付けば暗闇がすぐ傍まで迫ってきていた。
 このまま僕が彰にしたことを話してしまえば、イヴェットも僕を赦さないかもしれない。いや、そうあるべきなのだ。自分の欲望で彰の体をいいようにして、その心を踏み躙った事実は変わらない。
 暗闇が僕に囁く。
 隠していれば、愛してもらえたかもしれないのに。
 けれど罪を隠して愛を求めるのは欺瞞ではないだろうか。血で濡れた手をしているのに被害者の顔をするのは罪の上塗りではないだろうか。
 可哀想に。
 こんなに罪を重ねてしまったお前は、きっと誰にも愛されない――。
 暗闇が心臓を呑み込んで、気が付けば体が勝手に動いていた。どうせ最後に切れてしまう蜘蛛の糸ならば、最初からない方がましだ。
 この手で何もかも壊してしまえば、これ以上希望を抱かなくて済むだろう。
 喉元から溢れそうな濁った感情に突き動かされていて、そんな自分をどこかで自覚しながら止められなかった。
 耳許で囁く声。体の内側から無数の刃が皮膚を突き破って出てくるような、耐えがたい痛み。
 その刹那、白く飛んだ視界に赤が散った。
「――ごめん、ちょっと手荒にいくわよ」
 首に触れる指の感触。細くて、少し骨張っていて、熱を持っている。その指に力が込められた瞬間、意識が現実に引き戻された。
「っ……少しは落ち着いたかしら?」
 僕の首にまだ触れているイヴェットの手。その先に見える筋肉質な腕に赤い筋が見えた。僕の手には昔買って、普段から持ち歩いている十徳ナイフが握られていて、それだけで自分のしたことを理解するには十分だった。
「私の声はちゃんと聞こえてるわね?」
 どうしてだろう。イヴェットの声は、いまだに靄がかかる意識の中でもはっきりと聞こえた。
「〈それ〉はあなたのものではなくて、あなたにかけられた呪いよ。そんなものとこの私、大事なのがどっちなのかはわかってるでしょう?」
 どうしてこの人は笑っていられるのだろうか。その腕の傷は深くはなさそうだが、線状の傷の上に小さな赤い珠がいくつかできている。
 むしろ嫌ってくれれば、殴ってくれれば良かったのに。赦されてしまうと、また不安に押し潰されそうになる。
「あなたのしたことは確かに悪いことだけれど、だからといって今後一切の幸せを否定しなければならないわけではないわ」
「……そんなことより、その腕」
「こんなのかすり傷よ。切り傷だけど。これでもこっちは銃社会で生きてるのよ?」
 イヴェットの現在の活動拠点はアメリカだ。銃で撃たれるよりいいと言いたかったのかもしれないが、僕のしたことがそれで赦されるわけではない。
「――蝶は蛹の中で一度それまでの体を完全に分解して、成虫の姿になる。それは一度死んでいるようなものだと私は思うわ。私がやりたいのはそういうことなのよ。これまでのあなたを一度殺して、新しいあなたへ変化させる。でもそれを生きている人間にやるというのがいかにまともじゃないのかもわかっているわ」
 イヴェットの藤色のピアスが揺れる。そよ複雑な意匠は蝶をモチーフにしているらしい。蝶は《変化》の象徴。イヴェットの作品にも多く登場する。
「まともじゃない?」
「だって自分と違う意識を持っていて、人格もあって、言葉を喋れる存在の未来を捻じ曲げるって言ってるのよ。まあまともではないでしょう」
 それでも――その行為がたとえ正しくなくても、そこに希望を見出してしまいそうになる。
「でも、あなたは変わりたいと思っている。――でしょう?」
 イヴェットがモチーフにしようと言った小説、谷崎潤一郎の『刺青』。それに登場する刺青師の清吉という男も、おおよそまともとは言えない人間だった。けれどイヴェットほど自分のことを冷静に見られているような気はしなかった。まともじゃないと自分で言いながら、それでも進む彼女は、一体何に突き動かされているのだ
 僕はイヴェットの手を取った。それが本当に正しい選択肢でないことは、初めからわかっていた。
 けれど正しい道が決して僕を救いはしないことも、きっとお互いにわかっていたのだ。
「僕は、変わりたい。――この暗闇から抜け出したい」
「言ったわね?」
 イヴェットの指が僕の唇に触れようとする。流れ出た血がその指先まで辿り着いて、小さな赤い珠を作っていた。唇の上でその珠が割れて、鉄の味が広がる。
「あなたが変わりたいと言うなら、私は私の今持てる全てをあなたに注ぎ込むわ」
 僕は頷いた。イヴェットがそう言うのなら、僕はそれを受け入れるだけだ。

「傷はもう大丈夫?」
「傷だらけの人に心配されるような傷じゃなかったわよ」
 イヴェットに全てを打ち明けた数日後、僕はイヴェットが作業している部屋に呼び出された。確かに浅い傷に過ぎなかったけれど、だからといって僕がしたことが変わるわけではないのだ。
「色々考えてたのよ。元々はモデルの顔が出るようにと思っていたんだけど、あなたの場合はそうしない方がいいだろうなとか」
「僕は別にどっちでもいいけど」
「どっちでもよくはないでしょ。その傷を晒したあとの周りの反応を考えてみなさいよ。あなたの人生は周りの人間に大きく変えられてしまう。それは私の本意ではないわ」
「本意?」
「小説通りにするなら、引き出されるのはその人の本性だもの。周りが変えてしまうなんて、せっかくの私の作品が台無しじゃない」
 言いたいことはわかる。僕としてもその方がいいのだろう。イヴェットはしかし腕組みをしながら何か悩んでいるようだった。
「でもねぇ、これはつけてほしいんだけど、これつけると耳は描かないとだしなぁと思ってて」
 イヴェットが指し示したのは、彼女の耳につけられているのと同じ蝶のピアスだった。イヴェットがつけているのが試作品で、今指し示された方が完成品。完成品の方は、深い青色の石が使われていた。
「こっちはカヤナイトを使ってるんだけど、ちょうどあなたの目の色と同じだと思って」
「……昔、友達に同じことを言われたことがあるよ」
「サファイアじゃなくてカヤナイトを選ぶあたり、よくわかってる子ね。あ、でも穴あけてないんだ」
 僕はアクセサリーの類をほぼつけない。耳につけるのはピアスどころかイヤリングも一つも持っていない。でも機会がなかっただけで、イヴェットが言うならピアスの穴を開けてもいいと思った。
「あけるよ。イヴェットが言うなら」
「自分で開けるのが難しいようなら、病院に行ってあけてもらってもいいからね。私も最初あけるとき怖かったし」
 別に怖いわけではないのだが。そう思いながらイヴェットのことをぼんやりと眺めていた僕の頭に、不意に妙案が閃いた。
「――イヴェットがあけてよ」
 自分であけても、医者にあけてもらっても構わないけれど、何となく、イヴェットにあけてほしいと思った。たかがピアスホールに過ぎないのは自分でもわかっていたけれど。
「いやいや、別に私じゃなくていいでしょ」
「でも、教えてくれるんでしょ? 僕の体に」
「私の周りじゃピアスなんて珍しくないから、教えるもんでもないんだけど……まあそのくらいならいいわよ」
「じゃあ明日穴あけるやつ買ってくるよ、先生」
 ふざけて言うと、イヴェットの動きが止まった。大袈裟な溜息。でも本気で嫌がっているわけではないのは顔を見ればわかる。
「先生って……なんかむず痒いんだけど」
「でも僕に絵を教えてくれるなら、イヴェットは僕の先生で、僕はイヴェットの弟子でしょ?」
「じゃあいいわよそれで。弟子っていうのも少し興味はあったし」
「先生には師匠っていたの?」
 公開されているイヴェットの経歴はだいたい知っているが、非公開になっているものも多い。覆面ではないが謎を多く残したアーティスト。見られるのは作品だけで、その作者の過去なんてどうだっていい。この世界にはそんな優しさがあるような気がした。
「私は完全に独学だね。最初なんてその辺の壁にスプレーで描いてたわよ」
「それってすぐ消されちゃうんじゃ」
「いたちごっこだったね。でも消されない場所もあるから、まだ残ってるところもあるんじゃないかな」
 懐かしそうな目をしてイヴェットが言う。そういえば、僕は彼女がどうやって今の地位を掴んだのか、芸術家になるまで何があったのかについては何も知らないのだ。
「……そんな大した話じゃないわよ。それなりに金を持っている家に育ったけど、なんとなくどこにも居場所がなくて、ちょっと悪い友達とつるんでたってだけ。でも酒はいいけど暴力にも薬にも馴染めなくて、壁に絵を描くのが一番楽しかった」
 僕にとって暴力は身近にあったけれど、イヴェットが生きていた場所とはまた違うのだろう。基本の所作は上品さを感じさせるのに、妙に荒事に慣れていそうなところはその場所で培われたのかもしれない。
「で、ある日いつものように壁に絵を描いてたら、ホームレスのおじいさんに褒められてね。もう生きるのを諦めようと思ったときに、私の絵を見て『とりあえず今はいいや』ってなったって。その瞬間しか効果がなくても、私の絵を見てそう思った人がいたんだなって思ったら……じゃあこっちの道を目指すのもいいかなって」
「その絵、見てみたいな」
「覚えてないんだよね、実は。その頃毎日描いてたし毎日消されてたから、どれのこと言ってんのかもわからなかったし」
 イヴェット自身が覚えていないなら探すこともできない。さすがにもう消されてしまっているだろうし。けれどそうやって一瞬しかこの世に存在しないような絵で誰かの命を繋ぎ止めることができたのはさすがだと思った。イヴェットの絵には力がある。見るものの目を釘付けにして、一瞬だけその時間を止めるような。蝶が羽ばたいた姿のまま空間に縫い止められたような、変わっていくものが刹那に見せる美しさがある。
「……そういや、日本で壁に描いた絵は残ってるんだよ」
「え、どこにあるの?」
「東京のね……場所は忘れたんだけど、その辺りに昔の友人が住んでて。彼女、今は医者やってるんだけど。で、その彼女が『まだ残ってるよ』ってこの前連絡をくれて」
「その人に聞けばどこにあるかわかるよね、それ」
「確かに。でも別にいいかなって。私の絵だって言うつもりはないし、消されるなら消されるでいいし」
 何としてもその絵の場所を突き止めて、消されないようにしたいところだ。たとえスプレーで描いた落書きだとしても、それはイヴェットの絵なのだから。

 帰る途中でピアッサーを買って、それを鞄に詰めた夜。母が仕事でいない平穏な夜に自室で本を読んでいると、彰が部屋に入ってきた。
「何だか楽しそう」
「そうかな」
 どうやら顔に出てしまっていたようだ。イヴェットと過ごす時間は穏やかかつ刺激的で、現実のことには目をつぶって楽しんでいられた。イヴェットがどんな作品を作るのか。そして僕がその作品の一部になれること。間違いなくこれが幸せなのだと思えた。
「そういえば、僕に先生ができたんだよ」
「先生?」
「そう。僕に大切なことを教えてくれる人」
 鞄の中に入っている、掌に収まるくらいのピアッサー。そのことを思うだけで胸に暖かいものが広がっていくような気がした。イヴェットはこの夏が終わったらアメリカに帰ってしまう。とても短い期間。だから今イヴェットが教えてくれることを、僕は余さず吸収したかった。
「先生ってそんなにいいものなの?」
「学校の先生とは違うよ。師匠って言った方がいいのかな。僕がお願いして、その人の弟子にしてもらったんだ」
「そんなにいいものなら、僕も先生ほしい」
「いつか、どうしてもその人に教えてほしいことがあるときにお願いすればできるよ」
 彰がいつか誰かに教えを請いたいと思うとき、それがきっと彰が自由になれる瞬間なのだと思う。これまでの自分から新しい自分に変化する。そのときに手を貸してくれる人が、いつか彰にも現れるといい。
 その日は母が帰ってくる前にお互いに眠くなって、早めに布団に潜り込んだ。夢のない深い眠りが僕を包み込んで、瞬く間に朝を連れてきた。

21「流星群」

「じゃあ、動かないでね」
 どちらかといえばイヴェットの方が緊張しているように見えた。別に多少失敗するくらいなら問題ないのに。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ、先生」
「いや、一応人に凶器向けてるようなもんだからね?」
「イヴェットは自分でやったの?」
「そうだよ。それが仲間に入った証だからって言われて。よく考えたら医者の卵がいたんだから、あいつに開けさせればよかった」
 そうならなくてよかった。僕ではない、しかも医者でもない他人がイヴェットにピアスホールを開けたなんて、何だか面白くない。自分で開けたのならそれが一番いいと思う。
「意外に、そういう不良とかの方がイニシエーションを大事にするよね。日本でもヤクザとか」
「兄弟の杯ってやつ?」
「なんでだろうね。普通に生きられない人間には必要なのかな」
「そうかもね」
 僕が、イヴェットにそれを求めたように。僕を受け入れてくれる人がくれる証を、たとえそれが、放置していればすぐに塞がるような穴だとしても、何かを残していたかったのだ。
 イヴェットが緊張した面持ちでピアッサーで僕の耳朶を挟む。深呼吸をしてからイヴェットが言う。
「行くよ」
 その言葉から一呼吸置いて、小さく鋭い痛みが走る。想像していたよりは痛かったけれど、大したことはなかった。せいぜい注射くらいだ。
「はい、これでいいよ。あとはちゃんとこれに書いてある通りに手入れして」
「わかった」
「使わなければ塞がるから、私がアメリカに帰ったら好きにしていいからね」
 せっかくイヴェットが開けてくれたのにわざわざ塞ぐような真似をすると思うのか。僕は溜息をついた。

「じゃあそろそろ始めようか」
 言われるがままに服を脱ぎ落とす。イヴェットがこれから作るのは写真と絵と食刻(エッチング)を用いたかなり大きな作品だ。そもそもイヴェットがここにいる間に完成するのか、と疑問に思うほどの規模だが、それは間に合わせる、と自信を滲ませていた。
 写真に使われるのは首から下の部分だけ。レンズ越しに、あるいは直接見られているうちに、今まで嫌いだった自分の体がイヴェットの作品の一部になろうとしていることを実感することができた。それならこの体も悪くはないと、そう思うことができた。
「今日のところはこのくらいかな。時間でしょ?」
「仕事サボりたい……」
「あなたがいないとこの行事回らないでしょうが……今年はバイトが少ないって聞いたけど」
「それはイヴェットが心配することじゃないんだけどなぁ」
 来るアーティストが少ないことと、バイト募集にあまり人が来なかったのもある。でもずっと同じバイトをやってきたから、要領はわかっている。自分一人でも回せなくはない。
「あなた、他人に仕事を振るのが上手くなさそうだから」
「……否定はできないけど」
 自分でやってしまえば問題なく片付くとわかっていることに関しては、自分でやってしまう癖がある。数カ月前にそれを仁川さんに指摘されてからは気をつけてはいるのだが。
「イヴェットはどうなの?」
「私は面倒なことは全部ミレイに任せてるから」
「ミレイさんがやめたら大変なことになるよ、それ……」
 ミレイというのは、アメリカにいるイヴェットのマネージャーだ。確かに本人しか日本に来ないのに、事前のやりとりは全てミレイと僕とでやっていた。どうやらミレイもイヴェットが壁に絵を描いていたような時代からの知り合いらしい。
「ミレイが転職するって言うなら、それはそれで喜ばしいことだけどね。彼女一人で自分の人生を歩けるようになったってことだもの」
「天涯孤独の身なんだっけ、ミレイさん」
「そう。で、居場所がなくて悪い奴らとつるんでたんだけど、悪いことの才能が絶望的になくて、そこからも追い出されちゃって」
 それをイヴェットがたまたま見つけて、自分のグループに引き込んだ。そしてイヴェットが芸術家を目指すときに彼女をマネージャーとして雇ったのだという。
「面倒見いいよね、先生って」
「いや、別にそんなことないと思うけど。少しでも関わったことがある人が野垂れ死ぬかもしれないのに何もしないのは目覚めが悪いだけで」
 それを面倒見がいいと言うのではないだろうか。僕は反対に腰掛けていた椅子の背もたれに腕を掛け、イヴェットに尋ねた。
「僕も野垂れ死にそうに見える?」
「今のところ一番ひどい死に方しそうに見えるけど」
「別に死にたいって思ってるわけじゃないんだけどな、今は」
「そういうところよ。できるなら百年くらい死にたいと思わないでほしいわね」
「今から百年も生きたらギネスだよ……」
「日本人は長生きなんだからいいじゃない」
 長生きだからといって、平均寿命が三桁になっているわけではないのだが。だいいち、いくら死にたくなくても、明日急に事故に遭って死んでしまうこともあるのが人間だ。死という幕引きは誰にも訪れるもので、それがいつなのか、基本的に選ぶことはできない。
「あ、そうだ。明後日の深夜、あけといてね」
 イヴェットが僕の体に絵を描くのは深夜にすると決めている。そうしなければモデルが誰なのかわかってしまうだろう、というイヴェットの配慮だった。幸い僕なら二十四時間いつでも出入りできる。あとはイヴェットの都合で日取りを決めることになっていた。明後日ということは、もうだいたい構想は出来ているのだろう。
 ――だったらせめて明後日の夜までは、何が起こっても生きていようと思った。

「そういえば、アレルギーとかないわよね?」
「それ今日確認するの遅すぎると思うよ。まあないんだけど」
「でも流石に肌にいいもんじゃないからね。終わったらすぐに落としたほうがいいかな」
 すぐに洗い流さなければならないのは残念だ。多少の肌荒れくらいなら構わないとも思ったが、イヴェットを困らせそうなのでやめた。髪が汚れないようにシャワーキャップを被らされて、布が敷かれた床の上に座るように言われた。
「これ、痛くないの?」
「今日聞くのはさすがに遅すぎない?」
「いや、改めて見るとね。人ってこんなに人のこと痛めつけられるんだなって」
「イヴェットならもっとひどいのも見てるんじゃないの?」
 イヴェットがいたところは、アメリカに一度も言ったことのない僕でも治安が悪いことを知っているような場所だ。家はその外側の、ある程度お金を持っていて穏やかに暮らしている人たちが住む地域にあるらしいが。
「まあひどいはひどいけど、だいたいやりすぎちゃってその日のうちに病院送りか死んでしまうようなのばっかりだったから。あと、銃を使っちゃうと、もう動ける程度に痛めつけるとかは出来ないからね」
 イヴェット自身も、多少喧嘩をしたりはあったらしいけれど、性に合わなかったらしい。おそらくほとんどが誰かを守るための戦いだったのだろう。それこそ今はマネージャーを務めるミレイなんかは、そんな場所に放り出されたら真っ先に狙われそうだし。
「人間は簡単に鬼になれてしまうんだよね。抵抗できない人を痛めつけるっていうのは本当に残酷なことだよ。酷いやつは相手がもう死んでても殴るんだ。でもその殴ってる人は他のところで殴られてたりして」
「……どうしようもないね、そう考えると」
 僕だってそうだ。この傷は嘘ではないけれど、だからといって(しょう)にしたことは変わらない。人は簡単に鬼になれてしまう。理由はどうあれ、それは人の道を踏み外すことだ。
「でも私は人間を信じているよ。だって人間は《変化》することができるんだからね」
「僕も?」
「何にだってなれるわよ。これからね」
 芋虫は蛹の中でその体を一度分解して、それから蝶に変わる。イヴェットがそう教えてくれた。まるで何かの儀式の前のような緊張感が部屋に漂っている。深夜というのもあるかもしれない。彰も母も眠ってしまっている間に僕はここで生まれ変わるのだ。
「じゃあ始めるわよ。――いい? 今から私がその体に教えてあげるんだから、ちゃんと吸収しなさいよ」
 イヴェットが日本にいるこの期間だけは、イヴェットは僕の先生だ。イヴェットが今持っている全ての技術と作品に向かうその姿勢を、僕のこの体に刻みつける。今の僕の体はそれを受け止めるためのキャンバスだ。そして僕は体に刻まれたイヴェットの全てを盗んで自分の絵に活かすのだ。それを教育と呼べないのなら、他に何と呼べばいいのだろうか。
「わかってるよ、先生」
「その先生っていうの、やっぱり慣れないなぁ……」
 イヴェットが苦笑する。僕だってイヴェットが少し戸惑うのが面白くて言っているだけだ。でもイヴェットが僕の先生であることは紛れもない事実だ。
 この暗闇を抜け出すための光を、イヴェットが示してくれる。背中の中心に置かれた一筆目は少し冷たくて、僕は何故か暫く感じなかったはずの痛みを覚えた。

 何時間が経っただろうか。それまで全く筆を止めていなかったイヴェットが深く息を吐いた。
「まだ出来てないから、動かないでよ」
「うん」
 それにしてもよくこんなに集中力が続くものだ。時計を見ればすでに二時間が経過していた。イヴェットは冷蔵庫からペットボトルの麦茶を取り出して、勢いよくその半分ほどを飲み干した。
「あなたも水分補給した方がいいわよ」
「いや、動くなって言ったのそっちでしょ」
「そうだった。あ、確かバイトの子が忘れていったストローがあったはず」
 コンビニで一リットルの紙パックを買ったときにつけられる長めのストローだ。今日は夜のために日中は有給休暇をとって、仕事はバイトに任せたので、その人が忘れていったのだろう。忘れていかないでほしいが、今日はそれが功を奏した。
「あと一時間くらいかな。かなりいい感じに出来てるわよ」
「背中の方、自分じゃ全然見られないんだけど。やたら細かいとは思ったけど」
「ぼかし彫を筆で再現してるのよ。この画材だと結構面倒」
 谷崎潤一郎の『刺青』に出てくる刺青師が好んで用いているという彫り方だ。殊更に痛いと言われるそれをわざわざ用いるところに男の嗜虐心が見て取れる箇所なのだが、実際に彫っているわけではないから体の痛みは少ない。それなのに何故だろうか。急に視界が滲み始めた。
「っ……なんで……」
「『苦しかろう。体を蜘蛛が抱きしめて居るのだから』――なんてね。そもそも蜘蛛は描いてないし」
 そう言いながら笑うイヴェットは、小説の刺青師に負けず劣らず悪趣味だと思った。けれどそのことは本人も自覚しているのだろう。
「『お前さんは真先に私の肥料(こやし)になったんだねえ』……とか言えばいいわけ?」
「それはもう少し先ね。でも私の魂を打ち込んだのは事実よ」
 イヴェットは刺青師の言葉を諳んじる。
「『己はお前をほんとうの美しい女にする為めに、刺青の中へ己の魂をうち込んだのだ、もう今からは日本国中に、お前に優る女は居ない。お前はもう今迄のような臆病な心は持って居ないのだ。男という男は、皆なお前の肥料になるのだ』」
 女はそれまでの自分の臆病な心を捨て、美しい女として生まれ変わる。肥料になった刺青師の中には、自分の手でそれを成し遂げたという昏い悦びがあっただろう。そしてそれが本当に女の本質であったかはわからない。
 でもイヴェットの手で生まれ変われるのなら、僕はそれでいい。不思議と、これまで頭を覆っていた霧が晴れていくような気がした。
「――ねぇ、先生」
「何? もう少ししたら再開するけど」
「もし僕が色々片付けてからアメリカに行くって言ったら、僕をまた弟子にしてくれる?」
 自分の罪と向き合いきれず、ずっと閉じ込めていたものを、今なら解き放ってあげられるような気がした。けれどすぐには無理だ。何もかも放り出したりはしない。彰のことも、母のことも、僕の罪も、全て精算してからなら、前に進んでもいいだろうか。そんなことを思っていた。
「それは――また絵を描きたいってこと?」
「うん。それから、イヴェットの正式な弟子になりたい」
「教えるようなことはもうそんなにないけど……まあ、アメリカに来たときは、ね」
 多少時間はかかるかもしれないけれど、前に進みたいと思った。イヴェットは傷さえも美しい絵に変えてくれる。そんな力が人間にあるのなら、僕にもそれがあると少しは信じたくなった。
「あ、そうだ。ならアーティストとして使う名前を決めないと」
「気が早いってそれは。最悪本名でいいし」
「駄目よ。新しく生まれ変わったものには新しい名前が必要だもの。それに、もう放っておいてもあなたの絵は世に出るわよ」
「え?」
「実はあの絵、ミレイのところに送ったんだよね。ミレイはどこに出せばその絵が活きるか考えるのが得意だから任せちゃった」
 弟の履歴書をアイドルオーディションに勝手に送る姉のような行為だ。でも弟の履歴書を送る姉は「まさか本当に通るとは」と思って送っているようだけれど。
「人の絵を勝手に……僕がもう二度と絵を描かないって言ったらどうするつもりだったわけ?」
「いいんじゃない? 一枚しか絵のない画家だって存在するわよ。ただ歴史に名を残さないだけで」
「しかもあの絵……まあ海を渡ってしまったものを今更取り返そうとは思わないけど」
 あのときの自分の未熟さを突きつけられる気がして、正直あまり自分では評価していないのだが、イヴェットがそれを黙ってアメリカに送るくらいには評価していることはわかった。それならもう黙って事態を眺めていよう。それが本当に良いものなら他の人からも評価されるだろうし、そうでなければ忘れられるだけだ。
「で、新しいあなたの名前はどうするの?」
 急に聞かれたって、何も考えていなかった僕に妙案が浮かぶはずもないだろう。僕は目の前に立つイヴェットの腕を掴んで引き寄せた。イヴェットがかすかに驚いた声を上げる。仕方ないだろう。動いていいとは言われていないのだから。
「――じゃあ、イヴェットがつけてよ」
「日本の文化は名前を大事にするって聞いたんだけど? 本当の名前を知られるとその人に運命を握られるとか」
「……実はアニメとかかなり見てるでしょ」
 それも最初はきちんと元になった伝承なり文化なりがあったのだろうけれど、それを模倣して作ったものを更に模倣する人がいて、そのせいで独自の発展を遂げる文化もある。イヴェットの日本に対する知識が若干偏っているのはここでは置いておこう。
「――イヴェットになら、生殺与奪権を握られても構わないって言ってるんだよ」
 それに、作品に名前をつけるのは、現代では作者の仕事だ。昔はそうではなかった例も枚挙に暇がないけれど、今はたとえナンバリングに過ぎなくても、絵の題名を決めるのはその絵を描いた人間だ。
「わかったわよ。ちょっと考えさせて」
 それからイヴェットは近くにあった紙に筆で何やら文字を書きながら悩み始めた。ちらりと見えただけでも、ひらがなと漢字とアルファベットが書かれていて、その上右から左にも文字を書いているので、アラビア語でも考えているのだろう。頭の中がどうなっているのか全く想像できない。他言語習得が趣味とは言っていたけれど、ここまで来ると通訳の道もあったのではないかと思ってしまう。正直、大学で単位を落とさない程度に勉強したはずの僕よりも通訳に向いている。
「よし、決めたわよ。気に入らなくても文句言わないでよね」
「言わないよ。改名は見当するかもしれないけど」
「まあ、しょっちゅう名前を変える画家もいるものね。じゃあわりと軽い気持ちで聞いて」
 改名なんて冗談だ。イヴェットからもらった名前をそんなふうに扱うわけがないだろう。僕はピアスの穴を開けるときより緊張しているイヴェットの目をまっすぐに見つめた。
「あなたの新しい名前は――」
 イヴェットの唇がその音を作った瞬間を、僕が僕になった瞬間を、僕は永遠に忘れはしないだろう。それまでの名前を捨てて、新しい自分へ。目の前の霧が晴れて、夜が明け始める。

 藤色はイヴェットの好きな色。そこに何となく響きの良さそうな二文字目をつけて、そして最後の一文字は、僕の本名の読みを変えただけ。
「蛹の中で一度分解されると言っても、それまでの芋虫がゼロになるわけじゃないからね。それに、ちょうど目の色と合ってていいんじゃない?」
 思いつきのわりには悪くないでしょう、とイヴェットは笑っていた。
 悪くないどころではなかったけれど、そのことは言わないでおいた。いつか本格的にその名前を使うときになったら言おうと思っていた。そのときは僕が今までのことを精算して、新しい道を歩き始めているときだから。

 ――けれど、その言葉を届けられないまま、何も解決はしないまま、僕は僕のかつての名前を捨てることになったのだ。

22「蛍」

「一仕事終えたって感じだね」
「まだ会期は残っていますけどね」
 碧原(みどりはら)国際芸術センター主催のアーティスト・イン・レジデンス「空気のメタモルフォシス」の展示期間が始まった。夏の間ここに滞在したアーティストが作った作品を展示する。ここまでくればあとはどうとでもなる、というのは前センター長の言葉だ。
「今年はちゃんとここまでに完成した人が多くてよかったよ」
「まあそれに関しては、僕たちではどうしようもできませんから」
 身の回りの世話をしたり、必要な機材などを揃えることはできても、実際に手を動かすのはアーティスト本人で、展示期間に作品が間に合わないという人もそれなりにいる。テーマに適合するなら過去の作品の展示もできるので、そういうときは過去の作品で誤魔化すのだけれど。
「君のおかげでいい展示になりそうだ。前センター長も遊びに来るって言ってたよ」
「僕は大したことはしてませんよ。やらなきゃいけないことをやっただけで」
「いや、色々助かったよ。僕は本当に美術に関しては仕事柄少し詳しくなった程度だからね」
 仁川さんは満足そうに展示棟の中を見回している。そうしているうちにスタッフに奥の部屋に呼ばれ、急いでそちらに行ってしまった。僕もまだ自分の仕事が残っている。けれど誰も来ないうちに、イヴェットが「展示室で初めて完成する作品」だと言った僕の絵を見ておきたかった。
 あのあと体を洗う前に鏡で見たから、何が描かれていたのかはわかっている。けれどそれは作品の一部分に過ぎない。僕に内容が知られないようにバイトの子に頼んでいた機材もあるようだし、それがどう使われているのかは知らない。
 深呼吸して、絵の前まで歩いていく。絵の前に人が立つとセンサーが反応して、天井に取り付けられたプロジェクターが動き出す仕組みになっているらしい。
 わずかな作動音を立てながら機械が動き出し、光が頭上から降り注ぐ。その光の通り道でちょうど絵が強調されている。傷だらけの肌。その上に少しずつ増えていく鮮やかな色。描かれていたのは無数の植物と蝶の姿を歪めた誰も見たことのない模様だ。そして絵の目の前に立つ僕の肌にも、プロジェクターの光が同じ模様を描いていく。
 それはイヴェットが僕にしたことを何度も再生する装置だった。そこに立ち、目の前の酷い傷を直視した人間だけが、絵の中で起きた《変化》を追体験できる。絵の前に立つ人間が存在して、初めて完成する作品。確かに完成品を見られるのは展示室だけだ。
 元来、イヴェットの作品にはそういったものが多い。天井から吊り下げた筆から落ちる滴で絵を完成させる《Fall》というシリーズはその性質上、その場所に行かなければ見られない。あくまで絵であるのに時間に逆らわず、一度きりしかそこに存在しえないのは、それこそ壁の落書きにも似ているかもしれない。
 しばらくすると、肌に模様を映していたプロジェクターからの光が変化し、肌に落ちていた色彩が壁を伝い、空中に舞い上がったように見えた。振り返れば、もう一台のプロジェクターが見える。贅沢な使い方だ。制作費のほとんどをこちらが負担している、というのもあるだろう。けれどおそらくそれだけではない。
 イヴェットはこの作品に何かを賭けているような、そんな気がした。それは僕が知らない何かだ。彼女が何を考えて、これまでどう生きてきて、今ここにいるのかはわからない。けれどこの作品がここにあって、それが僕の心を揺らしたというたった一つの事実がここにある。
 同時に鑑賞者としての自分が、違和感を覚える。違和感というよりは予感のような、得体の知れない心のざわめき。僕はそれを打ち払うために首を横に振った。
「――どう?」
 気が付けば、背後にイヴェットが立っていた。僕は振り向くけれど、言葉は何も出てこなかった。
「……聞く必要はないわね」
 滲む視界。僕の頬に触れた手からは、絵具の匂いがしていた。
「間違いなくこれが私の最高傑作。――あなたに出会えてよかった」
「でもそのうちこれを超えるんでしょ」
「そうね」
 笑みを浮かべるイヴェットに、何かいつもと違うものを感じた。けれどその正体が掴めなくて、僕はただ呼びかけるしかなかった。
「……先生」
「やっぱりそれ、なんだかむず痒いわね」
「でも、僕は弟子だから」
 弟子だからってそう呼ばなければならないというわけでもない、と言われるのかと思っていたら、イヴェットはただ僕の、僕の肩越しに自分の作品を見て、静かに微笑んだ。
「アメリカに来るなら、早めにしてよね」
「うん、わかってる」
 そのときは、この国を離れて、新しい一歩を踏み出せるのだと無邪気に信じていた。けれど――蛍がすぐに死んでしまうように、降り注ぐ希望もまた、儚く散っていくものだ。

 事が起こったのは、展示が始まって三日が経ってからのことだった。初日にメディアの取材があって、それは毎年のことなのでお互いに事務的な対応に終始したのだが、その記事が世に出るなり、大きな反響が起きたのだ。そして僕から言わせれば、噴き上がった意見の全てが的外れだった。
 『絵を描く前に助けるべきだろこれ』だなんて、確かに傷を見た段階で然るべき機関に通報するとか、本来ならそうしなければならないことをイヴェットはしなかった。それどころか、僕の生活自体には一切触れていない。けれどそれでよかった。傷つけられるだけの体を、美しいものに昇華するなんて、イヴェット以外に誰ができるというのだろう。それなのに善意の姿をしてそれを奪おうとする無関係の人たちがいる。何も知らないくせに。作品を直接見たわけでもないのに。そう思っていても、表向きは何も言えなかった。
「――佐伯さん」
 対応に追われていると、仁川さんが声をかけてきた。
「アルバイトの子たち、全員今日までにしたって聞いたけど」
「給料は満額支給しますよ。こんな業務、学生にやらせることはできません」
 想定外の苦情に対応させても彼らは何もわからないし、脅迫めいた電話がかかってきている中で通常業務にあたらせて何かあったらことだ。
「大学からお預かりしてる大事な学生だからね。それは確かにそうなんだけど――それを言うなら、君もこの業務からは外れた方がいい」
「……責任者の立場でここを離れるわけには」
「責任感を持って仕事をしてくれるのは大変ありがたいことなんだけど……つらいだろう。君はずっとイヴェットのファンだと言っていたし」
「でも」
「前のセンター長が、こういうときはアウトソーシングだって言ってたからね。こういうことを専門にしてる業者っていうのもいるんだよ」
 どんな強靭な精神をしていればそんな業者に勤められるのかわからないけれど、いっそ自分は無関係だと思っていた方が気も楽なのかもしれない。実際、電話をかけてくる人のほとんどは文句を言いたいだけで、実力を行使しようとする人なんてほんの一部だ。そして実力行使に出るような人をどうにかするのは苦情係ではなく警察の仕事だ。
「震災の年もそこから人を借りていたからね。前例がないわけではない」
「……仁川さんは、どう考えているんですか? あの絵のこと」
 アーティスト・イン・レジデンス期間中に仕上げた絵だから、モデルもこのあたりの人間を使っているはずだ、という予想も立てられていた。イヴェットはモデルに配慮して、性別を含め一切の情報を語らなかった。それは予め僕たちの間で決めていたことだから問題ない。けれど今度は矛先が僕たち芸術センター側の管理責任に向いていた。
「基本的にはここで作った作品の事前の審査はしてこなかった。それはポリシーがあるというよりは、そうしないと間に合わないという理由だったんだけどね。それに作品を作る前に届けを出してもらったって、その通りに作るとは限らない。その方が自由に創作ができるからいいだろう、という方針でずっとやってきた。いわば放任だね。こちらとしては、それが悪いことだとは思ってない」
 でも、どうしても考えてしまう。イヴェットが当初の予定どおりの作品を作っていたなら、僕があくまで彼女の要請を拒んでいれば、こんなことにはならなかったのではないかと。
「それに、個人的な意見を言うなら――あの作品は素晴らしいと思うよ。あのままならただの傷だ。けれど彼女の手によって、美しい絵の一部になる。どんなものも美しく変化できるというのは、もしかしたら誰かの希望になるかもしれないと思ったんだ」
「正しいやり方でなくても?」
「人を救うのは正しさだけではない。例えば音楽に救われるのだって、結局元の問題は何も解決してないじゃないか、と言ってしまったら確かにそうで、でも歌うことで生きながらえてきた人たちだってこの世界には存在するんだ」
 何も解決していないけれど、何かが暗闇に小さな光をくれることがある。誰かにとってはそれが歌で、僕にとってはそれがイヴェットだった。それだけのことなのに、実際に目の前で体験したわけでもない人がそれを壊そうとしている。
「……僕もそう思います。でも」
 イヴェットがこれ以上貶められるのは耐えられない。彼女がしたことは間違いでないと、僕なら証明することができる。
「――そろそろ十二時だね。少し長めに休憩してくるといいよ。あと、イヴェットさんがこのあたりで有名なお菓子が食べたいって言ってた気がするから、これを持っていって」
 僕の言葉を半ば遮るように仁川さんが言う。手渡されたのは僕も知っている洋菓子店の包みだった。
「わかりました。行ってきます」
 きっと気を遣ってくれているのだろう。僕は十二時のチャイムが鳴ると同時に部屋を出て、イヴェットがいる宿泊棟に向かった。

「久しぶりだね、なんか」
「一昨日も会ったよ。昨日は仕事離れられなくて」
「大変そうね、苦情処理係」
 イヴェットはベッドで寝転びながら本を読んでいた。読んでいた途中のページに栞を挟んで、イヴェットがゆっくりと起き上がる。
「これ、仁川さんが」
「あ、本当に買ってきてくれたんだ。言ってみるもんだね」
 袋を開けると、大きなアップルパイが二つ入っていた。イヴェットはケトルのスイッチを入れてお湯を沸かし始める。けれど僕はアップルパイを食べようなんて気分にはなれなかった。
「――先生」
「何よ、そんなにかしこまって」
「モデルが僕だって、公表して」
「それは駄目よ」
 間髪入れずにイヴェットが答える。悠長にカップを選んでいる場合ではないと思うのだが、イヴェットの表情は変わらない。
「僕だって言えば、批判されてる内容の八割は的外れだってわかる。それに僕はモデルになることを強制されたわけでもない」
「あれが成人女性だとわかってない人は結構いるみたいね。写真もわからないように写したし。でも、それじゃあの作品が死んでしまうのよ」
「でも」
「むしろ、私の目論見は成功しているとも言える。少年なのか女性なのかわからないから、どう変化するかも予想がつかない。私はそれがやりたかったからあなたをモデルにした」
 それなのにモデルの性別や年齢がわかってしまうのは本意ではない。イヴェットの言い分は確かにわかる。けれど今のままでは、イヴェットは何も弁明できずに批判を受け止めるしかない。しかもその批判は人の心を切り刻む暴言に形を変え始めている。
「僕は、納得してやったのに」
「私がやったことが正しいとは言えないのもまた事実よ。それにあなただって、こういう形で全世界に自分の体に傷があるって知られたくはないでしょう?」
「それはそうだけど」
「それに、私が嫌なのよ。せっかくあなたの絵がそれ単体で評価されるかもしれない場所を探してるってときに、そういう余計な作者の情報が入り込むのなんて」
 僕がモデルだと公表されれば、僕が描いた絵と僕自身の結びつきが強くなってしまう。絵だけを見てもらうには、作者の情報などできればない方がいい。何もわからない人が僕の傷と色の一つにありもしない因果関係を見出したりするのは僕だって嫌だ。
 でも、それ以上に。
 叫び出したい思いだった。何も知らないくせに、と世界中に向かって。今まで僕のことになんて気付きもしなかったくせに。
「いいのよ。――覚悟はしていたから」
「覚悟してたからって許せるものじゃない!」
 イヴェットが微笑んで僕の頬に手を伸ばした。零れた雫を優しく拭う手は、何故だか少し震えているような気がした。
「私にとっては、今あなたが私のために泣いてくれている方が重要よ」
 僕は首を横に振った。泣いていたのはイヴェットのためなんかではなかった。ただ、悔しかっただけだ。
 ――蝕まれていく希望を前に、何もできないままの自分が。

23-1「私とワルツを」Ⅰ

 芸術センター側は、「モデルとの同意は成立しているが、それは素性を明かさないという条件のもとである」というイヴェットの言葉を信じ、作品の展示を続行した。彼女は何も嘘を言っていないのだから本来はそれでいいのだ。けれど、噴き上がった批判はいつしかイヴェットの過去や、芸術全体にまで波及した。
「まあ荒れてたのは事実だからねぇ。人を殴るのは無理だったけど、物なら壊せたし。そもそも壁の落書きも犯罪だしね」
「そうだけど、でも今はちゃんとしてるのにわざわざ掘り返さなくても」
「『あなたたちの中で罪を犯したことがない者が、まず石を投げなさい』って言われてやめる人なんて本当はそんなにいないからね」
「もしかしたら最初にやめた人がいたから他の人が続いたのかもよ」
「今の世の中なら、ここで投げた後で自分の些細な罪が暴かれて批判されるのが怖いから投げるのやめるって人も出るかもね。あーやだやだ」
 イヴェットは読んでいた本を投げ出して、ベッドに体を預けた。
「あんまり見ない方がいいよ。仁川さんがそう言ってた」
「それはあなたもじゃない?」
「……気をつけていても、入ってくるのはどうしようもない」
「私もそれは同意見」
 気をつけていても、どうしても考えてしまう。全ての情報から離れるなんて無理だ。それに、当事者である以上避けられない情報もある。
「芸術は人を傷つけてまでやるものなのか、って話になってるみたいね」
「いつのまにか話が大きくなっててね。続報がないからだろうけど」
「海はどう思うの?」
 イヴェットは僕の新しい名前で僕を呼ぶ。でもそれはまだ秘密だから、二人でいるときだけだ。
「そもそもまだ芸術がなんなのかもわからない。僕は今まで、描きたいものを描いてきただけ」
「私も。そこには綺麗な感情も汚い感情もたくさんあって、私はそれでいいと思ってた。それを見たたった一人でもいいから、心を動かされればって」
 イヴェットの原点は、壁に描かれた絵を見たホームレスが自殺を思いとどまったということを聞いた、というところだ。そこから今まで、ずっと同じ気持ちを作品を作り続けていた。それが芸術かどうかなんて考えたことはなかったのかもしれない。ただ、無我夢中だった。
「別に傷つけたくてやってるんじゃないのよ。描いているときは描いているものとの闘いだし」
「うん」
「でも、今までもたくさん言われてきたんだ。お前のやってることは芸術なんかじゃないって。この世界でもやっぱり女ってだけで舐めてかかる人たちもいたし」
「……その人たちは、芸術をちゃんと定義できてるわけ?」
「さあね。定義できてたとして、それが正解だって言ってくれる人は誰もいないよ。でも、何だか……だんだんわからなくなるんだ」
「何が?」
 イヴェットはしばらく何も言わなかった。けれど僕は彼女の言葉を辛抱強く待った。何かを話したいと思っているなら、それを急かしてしまったら二度と聞けなくなるから。
 しばらくすると、イヴェットは天井に手を伸ばしながら呟いた。
「……自分がこの世界にいていいのか、わからなくなる」
 耐えられなかった。彼女にこの言葉を言わせたのは、彼女のことも、僕のこともろくに知らない人間たちだ。綺麗なものだけをありがたがり、自分の基準から外れたものを踏みつける。けれどそんな大多数から弾き出された僕たちは、傷や、痛みに救われてしまったりする。正しく美しい神様が取りこぼしてしまったものを、悪魔が掻っ攫おうとするかのように。
「私、結構お金持ちの家に生まれてさ。最初は壁に絵を描いてるような不良のことなんて全然理解できなかった。きっと悪い人たちなんだって。でも、だんだん家の方が居心地が悪くなってきて、もうどうなってもいいやって夜に治安の悪い地域に遊びに行ったんだ。――あの場所は、私を隠してくれた」
 明るくて綺麗な場所に佇んでいれば、すぐに見つけられてしまう。暗くて汚い路地裏に隠れて、そこでようやく息が出来ることもある。それなのに大多数の人は、そこでしか息が出来ない人のことなど考えずにその場所を奪っていく。そんな場所は犯罪の温床だとか、景観を乱すだとか、そんな大義名分を掲げて。
「そこで友達もできて、絵を描くことを覚えて、あのホームレスに会って。それで私はようやく明るい場所でも少しだけ生きられるようになった。――あのホームレスがそのあとどうなったかは言ってなかったよね?」
「うん」
 嫌な予感がした。そもそもたまたま出会っただけのホームレスのその後を知っているなんてあまり考えられないことだ。
「殺されたんだ。しかもどっかのエリート大学生に。彼らとしては社会にいらないものを排除しただけ、らしいけど。……私の絵が救った命は、そうやって理不尽に奪われた」
 自分が絵を描き始めるきっかけになった人の結末を知っていながら、それでも絵を描き続けていたのか。それなのに、一つの作品から始まって、彼女の芸術家としての軌跡を全て否定する状況はあまりにも残酷すぎる。
「綺麗なものだけの世界なら、みんな幸せなのかな」
「……先生。僕はそんな世界は嫌だよ。そんな世界、気持ち悪い」
「そうね。私もそう思う。でも時々考えるのよ。――多くの人が、実はそういう世界を望んでいて、世界の現実を映そうとする私たちの試みなんて、きっとその多数の人を動かす力なんてないんだって」
 今日のイヴェットは弱気だ。いつもは自信に満ち溢れていて、自分の作品を何よりも愛していて、僕のことを導く太陽のような人だったのに。
 でも、今まで眩しすぎて見えていなかった彼女の姿が少しずつ見えてきた。イヴェットを支えてきたのは、彼女が作り出した作品そのものだったのだろう。元々強かったわけではなく、絵を描くことを繰り返して、その積み重ねを肯定することで強さを手に入れた。それが壊されつつある今、奥にあった弱さが剥き出しになってしまっている。
「それでも僕は、先生の絵に救われた。ずっとずっと会いたいとも思ってた。だから――」
「そんなに必死な顔しないでよ。ちょっと弱気になっただけ」
「……先生」
 どうしてそうやって、無理をして笑うのだろう。でも僕はそんなイヴェットに何かしてやれるわけではない。その手に救われたのに、僕の手は彼女を救うことはできないのだ。
「私の作った作品はみんな、私がそのときの精一杯を、命をつぎ込んだもの。その存在を否定されるのはやりきれないなって、そう思っただけだから。だからもう、そんな顔しないで」
「でも、イヴェットは何も悪くないのに」
「そんなことないわよ。……正しいことは、何もしてないんだから」
 イヴェットそう言って目を閉じる。何か考えているのだろうかと様子を窺っていたが、やがて寝息が聞こえ始めて、僕はそっと息を吐き出した。

 傷を持った人間を利用して作品を作り上げるのは芸術ではない、という意見が盛り上がりつつあった。血を描くのに血を使うな、という一見高尚な意見だ。でもいくら暗喩を用いて血を血でないもので描いても、誰にも気付かれなかったら意味がない。その血こそが最も伝えたいことだったとき、素直な表現方法をとることを安易だとか安直だとかいう風潮は何なのだろうか。そもそもイヴェットの作品の下敷きにされているのは谷崎潤一郎の『刺青』という小説だ。刺青を入れられた女のように、人は変わることができるか。それが一番のテーマで、作品そのものはその実験の結果報告のようなもの。
 それでも「変わらなければならないのか」、と一般化された議論も起きているようだ。誰かに虐待された人間は変わらなければ生きていけないのか。僕のことを知らない人たちが勝手に僕を心配してイヴェットを責め立てている。彼らが僕の罪を知ったらどんな顔をするのだろう。僕は可哀想な被害者というだけではない。間違いなく加害者でもあって、だからここから抜け出すためには変わらなければならない。いや、変わりたいと願ったのだ。
 脅迫めいたものは警察に任せてはいるものの、大学の構内にある施設である以上、大学関係者に何か被害が及ぶようなことがあってはならない。あくまで作品の展示を続けると言ってきたセンター側も、毎日のように襲ってくる現実にしだいに展示の取りやめを提案する声も上がっていた。
 結局何も決まらない会議が終わり、僕は溜息とともに大学構内を出た。構内にずっといたら同じことばかり考えてしまう。このあたりは大学を出たら無数の木くらいしかないが、誰もいないという意味では都合がいい。警備員に会釈をして裏門を潜ると、向こうから大きな缶を持った初老の男が歩いて来るのが見えた。
 業者にしては一人は不自然だし、こんな山奥の大学にわざわざ遊びにくる人もそう多くはない。しかも裏門なんて学生でもほぼ使わない。すれ違ってからも不思議に思ってさりげなく様子を窺っていると、男は警備員に対して何かを喚き散らし、警備員を管理室から引き摺り出そうとしていた。
 警備員が気付かれないように呼び出しボタンを押す。すぐに人が来るとわかっていても、僕の足はその場から動かなくなってい
た。
 男の声は大きく、僕のところまで何を言っているか聞こえてくる。彼にとってはあんな作品の展示を続ける芸術センターが県の施設として稼働しているのが許せなくて、県の恥だから燃やせという、いったいどっちが犯罪者だよと言いたくなるような主張だった。
 それでも、こんなくだらない人たちのために僕の幸福は脅かされたのだと思うと怒りが湧いてきた。そしてこんな人たちが今イヴェットを苦しめているのだと思うと我慢ができなかった。
 警備員と揉めているその男に掴みかかり、足をかけて転ばせる。その隙に警備員が男を取り押さえた。こちらに向かってくる応援の人たちのざわめきも聞こえてくる。けれど冷静でいられたのはそこまでだった。
 男は床に転がされて取り押さえられたまま、まだ何かを喚き散らしている。お前たちも同罪だとか、自分の言ってることが世の中の総意だとか。そんなの知ったことか。
 そのとき僕を呑み込んだ衝動を一言で言うなら、それは殺意に他ならなかった。
「――あんたに何がわかるんだ」
 殺すのなんて簡単だ。
 そう誰かが囁く声が聞こえた。
 例えば小さな刃物でも、頸動脈を切れば人は死ぬ。僕の手はポケットに忍ばせた十徳ナイフに伸びていた。
 難しいことではない。作り出すのにはとてつもなく時間がかかるのに、それを壊すのはあっという間。それは全てにおいて共通する真理だ。人の命も、作品も、幸福さえも。
 死んでしまえばいい。こんな奴らなんて、みんなこの世界からいなくなってしまえばいい。
 批判する人は、どうせ誰もあの絵をちゃんと見てはいない。だってそのモデルが目の前にいるのに気付きもしないのだ。
 けれどナイフを取り出すことはできないまま、男は駆けつけてきた警察に取り押さえられた。息を吐き出してナイフから手を離す。
 けれど心臓を食い破ろうとする黒いものを抑え込みきれなかった。そんなことをしたって事態を悪化させるだけだとわかっている。けれど、連行されていくその男が、義憤に駆られているのに僕のことには全然気付かないその男がこの世界に存在することが許せなかった。
 聞こえてくるのは自分自身の声だ。
 どうして殺してしまわなかったのか。お前の望みはわかっているんだ。そう囁いてくる。
 どうせ誰もわかりはしないのなら、正しく美しい世界しか望まないなら、みんな死んでしまえばいい。
「っ……!」
 けれど僕は前に進むと決めたのだ。イヴェットが僕の傷を肯定してくれた。だから、罪は精算して、この闇を抜け出すと決めた。だから――それがどんなに唾棄すべき人間でも、殺してはならないのだ。

 事情聴取からはすぐに解放された。警備員が一部始終を見ていたので、僕はただ通りがかって警備員を助けただけの人、ということになった。結局何もしていないのだから、事実はそれだけだ。僕があの男を殺したくて仕方なくても、それを自分の中にしまって、行動を起こさない限りは何の罪もない。
 宿泊棟に戻り、イヴェットの部屋の呼び鈴を鳴らしたが、返事はない。マスターキーを使って中に入ると、少しだけ出かけるつもりで部屋を出たのだとわかる状態になっていた。つい数分前まで彼女がいたような気配。僕はゆっくりとベッドに腰掛けた。
 しばらくろくに家にいないせいで、新しい傷は増えていない。今の傷は少し前につけられたものだというのに、何故か痛んで仕方なかった。誰もいないのをいいことに服を脱いで、鏡台で背中を確認する。これだけ痛いのだから膿んでいたりするのかもしれないと思ったが、特におかしなところは見当たらなかった。
 傷を見ているだけなのに、イヴェットがこの上に乗せた色彩を思い出す。ひとつひとつ、彼女がどうやって肌を動かしたのかさえ思い出せる。イヴェットはこの体に自分の技術の全てを教えてくれたのだ。いま背中が痛むのは、その全てを僕がまだ吸収し切れていないからかもしれない。
 そのままもう一度ベッドに寝転んで、携帯電話に手を伸ばす。この時間なら繋がるだろうか。もしかしたら迷惑かもしれない、と思いながらも履歴の一番上を選んで、電話を耳に当てる。一度目のコールで電話が繋がる。
「――いま電話して大丈夫な時間だった?」
『大丈夫だよ、休み時間だから』
 (しょう)の声を聞くのは久しぶりのような気がした。最近楽に家に帰っていないし、帰ったとしても彰が寝ている時間になっているから当然なのだが。
『どうかしたの?』
「特に用事はないんだけど……何となく、彰の声が聞きたくなって」
 少しだけ気持ちが落ち着いてくる。電話越しの音の波が、布に染み込む一滴の雫のように広がっていった。
『何があったの?』
「仕事でちょっと嫌なことがあって。でも彰の声を聞いたら少し元気出た」
 視界が滲んでいく。光を抱きしめるように体を丸めて、僕はそっと目を閉じた。
『大丈夫? ちゃんと寝てる? ご飯食べてる?』
「うん。ちゃんと寝てるし、ご飯も食べてる」
 彰の心配の仕方が遠方の子供に電話をしたときの親みたいだ、と少しおかしくなった。どこで覚えたのだろう。母も僕も、彰にそんなことを教えた覚えはないのに。
 きっとこれからもそうやって彰は成長していくのだろう。僕の知らないところで、僕の知らない何かを教わって、その先にもしかしたら希望を掴んだりするかもしれない。
 信じるしかない。幸せな結末がきっとどこかにあるはずだ、と。そうでなければこの手を離すことはできないから。
 電話越しに予鈴の音が聞こえる。そろそろだ。もしかしたら僕たちは永遠に引き離されてしまうかもしれないけれど、それでも、このままでは前に進めない。
 君はいつか、イヴェットの作品を見ることがあるだろうか。変化の先がどうなるかもわからないけど、変わることで失うことがあるかもしれないけれど、その先があると信じなければ《変化》は訪れない。僕の体に刻まれた彼女の教えを、君がいつか目にする時があるなら。
 そのときなら、今まで言えなかった言葉が言えるかもしれない。
 本当は誰よりも君を愛しているのだと。
「もうすぐ授業だね。そろそろ切るよ」
『もういいの?』
「うん。大仕事が片付いたら、家でゆっくり話そう」
 僕が、君を手放すための話を。
 君が、これから目指していく光の話を。

 電話が切れて、少しだけ熱を持ったその機械を横に置く。誰が何と言おうと、僕の体に描かれた色は本物で、それが与えてくれたものを壊すことができないはずだ。
 ――そのときは、確かにそう思っていたんだ。

23-2「私とワルツを」Ⅱ

 誰かの手が背中を撫でている。慈しむような手つき。こんな風に触れてくれる人なんて今までいなかったから、これはきっと夢なのだろう。でも夢にしてはその手の温度を肌で感じる。
 微睡の中にあった意識がはっきりとし始める。そうだ。さっき(しょう)に電話して、そのまま眠ってしまったのだ。じゃあ、いま隣にいるのは。
「――マスターキーで人の部屋に入っておいて眠りこける人は初めて見たわよ」
「帰ってきてたんだ」
 イヴェットの手が僕の背中から離れていく。そういえばどこに出かけていたのだろう。別に行動を制限されているわけではないが、あんな騒動があったあとなのに。
「大変だったみたいね。私は騒ぎの少し前に出かけてたから話を聞いただけだけど。怪我はしてない?」
「この体で今さら怪我も何もないと思うけど」
「現状維持と増えるのは違うから」
 イヴェットが僕を嗜めるように言う。顕になった背中の傷を指で確かめるように辿り、静かに言う。
「今のこの状態から傷が薄れて消えていくことは考えて描いたけど、増えたら私の完璧なバランスが崩れるからやめてほしいんだけど」
「気をつけるよ」
「気をつけるって言うなら無茶はしないでほしいわね。本当に怪我はない?」
「大丈夫だよ」
 今まで誰かに怪我の心配をされた記憶がなくて、何と答えればいいかわからなくなってしまう。本当に何の怪我もしていないのだから、大丈夫だといえばそれまでなのだが。
「イヴェットはどこ行ってたの?」
「ちょっとお土産を買いに。予定より早く帰ることになりそうで」
「……何でそれを僕に最初に言わないの」
「急に仕事の顔になるわね。確定してからの方がいいと思って。手配はミレイに頼んであるから大丈夫」
「そうじゃなくて、何で予定より早くなったのか説明してよ」
 大体のところは察しがつくけれど。寸前で止めたけれど、暴漢が大学構内に入ってこようとしていたのは事実だ。しかも批判が収まる気配もない。ここにいるのは危険だと向こうの人間が判断してもおかしくはない。
「……私の判断よ。ミレイはアメリカに帰っても状況の厳しさは変わらないって」
「何で……イヴェットは何も間違ったことなんてしてないのに」
「私は、あなたを危険に晒したくないのよ」
 イヴェットが静かな声で言う。笑ってもいなければ泣いてもいないその表情の真意は掴めなかった。
「危険なんて」
「さっきのことは偶然みたいだけど、今、あの作品のモデルを特定しようとする動きも出始めている。……正直、ここに来てから私と関わった人間に絞れば特定は難しくないわ」
「……っ、でも」
「その人たちはあなたを保護しようとするかもしれない。だけど私はあなたを可哀想な被害者にはしたくないの」
 その扱いが一番欲しかった。僕が被害者であることも加害者であることも理解して、その上で僕が立ち上がるために手を差し伸べてくれる人がいればよかった。イヴェットがそれをくれた。でもまだ何も解決できてはいないから、もう少しだけ彼女にそばにいて欲しい。それだけなのに。
「アメリカで待ってるわよ」
「……いつ発つの?」
「明後日の便を取ったってミレイが言ってたわ。急だとは思うけど」
「本当に急だね。あの絵はどうするの?」
「元々ここに収蔵してもらう予定だったから、仁川さんに任せるわよ。あの人と……あなたなら、悪い扱いはしないでしょう?」
 つまり会期が終わる前に展示替えを行ったとしてもイヴェットはそれに関与しないということだ。僕は唇を噛む。未遂で終わったが、実際強硬手段に出ようとした人がいる以上、どこまで屈しないでいられるかはわからない。あくまで公立大学の中にある施設で、今はほとんど放任されている状態だが、誰かが介入してくる可能性も否定はできない。
「……それは、負けのような気がして」
「そうね。私も不本意だわ」
「だったら……!」
「いいのよ。あなたが一生懸命守ろうとしてくれた、それだけで」
 けれど納得できない。もし何もなかったら会期が終わるまでイヴェットはここにいて、もしかしたら僕と同じように傷を持つ誰かがあの絵を見たかもしれないのに。どうして、傷なんてない人たちが僕たちを勝手に決めつけて、こんな絵があったら傷つくだけだと言われて、これまで積み上げてきたものさえ全て否定されなければならないんだ。
 そんなに美しいものだけの世界がいいなら、永遠にそこに閉じこもっていればいいのに。
「……今思ってることを、作品の形で残しておくといいわ。絵の方は少しブランクもあるんだから、感覚を取り戻さないと」
「急に先生面……」
「だって私はあなたの先生なんでしょ?」
「それはそうなんだけど」
 再びイヴェットが僕の背中をなぞる。慈しむようなその指がくすぐったくて、僕は目を閉じた。

「別に見送ってくれなくてもよかったのに」
「……義務感で来ているわけじゃないから」
 日々はあっという間に流れていき、特に状況は変わらないまま、イヴェットが帰国する日になった。見送りは僕だけだ。他の人はイヴェットが断ったのだと聞いている。
「でもこっからアメリカに直接行くわけじゃないから、なんだかね」
「東京に泊まるんだっけ」
「そう。前に言ってた医者の友達のところに一泊。会うのは久しぶりね」
 どんな人なのだろう、と思った。そしてイヴェットが日本で最後に過ごすのが僕のところではなくその人のところだというのが、なんとなく嫌だった。
「ケイトっていうんだけどね。壁に絵を描いてた頃の友達だから、まあそんな感じの人」
「ふぅん」
「医者だけど、まあまともな医者ではないわね。普通の病院に行けない人から高額な治療費を毟り取る感じの。腕はいいらしいけど」
「闇医者じゃん……」
「医師免許は持ってるらしいわよ。まあ、アメリカにいたときは免許もないのにやってたけど」
 僕とは違う暴力の世界に身を置いてきた人なのだということはわかる。近くて遠い。これから彼女は彼女が元いた世界に戻るのだ。
 このままここにいてほしい、なんて言ったら、イヴェットはどんな顔をするのだろうか。
「――あ、そうだ。あなたの絵のことだけど、多分暫くしたらミレイから連絡があると思うわ」
「すっかり忘れてたよ。そんなこともあったね」
「忘れないでよ。あなたにとっては何より大事なことでしょ」
 夢だったの事実だ。けれどそれが今目の前にあるということは信じられなかった。急展開だったのもそうだが、今はイヴェットのことで頭がいっぱいになっていた。
「……大丈夫?」
「私は大丈夫よ。向こうには面倒なことを引き受けてくれるミレイもいるし」
 イヴェットの笑顔には何も影がないように見えた。けれどなぜか酷く不安な気持ちになる。ここで送り出してしまったら、もう二度と会えなくなってしまうような、そんな予感がして。
「すぐに追いかけるから、待ってて」
 けれど何もかも放り出して、今すぐアメリカに飛ぶことを、イヴェットは望んでいないとわかっている。だからなるべく早く行けるようにする。僕にできることはそのくらいだ。
「無理しない程度にね。あなたは放っておくとすぐにご飯食べなかったり寝なかったりしそうだから」
「それは気をつけてるよ、一応」
 保安検査があともう少しで終わるというアナウンスが流れて、イヴェットは「そろそろ行かないと」と言って、僕に背を向けた。けれどすぐに振り返る。
「――忘れてた。海に渡したいものがあったのよ」
「別に今度でもいいけど」
「いいからちょっとじっとしてて」
 言われるがままに立っていると、イヴェットが鞄から小さな箱を取り出した。青色の蓋を開けると、そこには見覚えのあるピアスがあった。持ち歩き方があまりにも雑だが、それもイヴェットの作品のひとつだ。
「そんな高価なもの受け取れないんだけど」
「私の作品の中では安い方でしょ。海は私の弟子なんだから、これはその証」
 イヴェットが開けたピアスホールに、青色の石が揺れるピアスを嵌められる。その手が少し震えているような気がして、僕はイヴェットの褐色の瞳を見つめた。その目はまるで深く静かな湖のように凪いでいて、僕は何も言えなくなる。
「じゃあ、行くわね」
 まるで今日の夜には帰って来そうな口調でイヴェットが言う。僕が何かを言う前にその背中は保安検査場の扉の向こうに行ってしまって、僕はただそこに立ち尽くすことしかできなかった。
「先生……」
 止められるものなら止めていた。けれどあの目を見て、何かが言える人なんているのだろうか。言葉がなくても、それだけで何もかもを悟ってしまった。
 苦しいと訴える人に、それでも歩けと言えるのか。自分が悲しいからなんていうエゴだけで、終わりのない痛みの中で生き続けろと言えるのか。
 ――きっと、もう二度と会えない。
 わかっていても、そのときはまだ運命をねじ曲げることもできるような気がしていてた。
 歩き出した僕の耳元で、青い宝石が揺れる。それは振り子時計のように、加速する時間を僕に告げていた。

 一刻も早く、日本を離れる準備をしなければならなかった。そうしなければ取り返しのつかないことになってしまうから。必要なのは身辺の整理。あとはアメリカに渡るための準備だ。何よりも家のことを片付けなければ身動きが取れない。
 けれど仕事もまだ沢山残っていて、あらゆることに忙殺されているうちに、イヴェットが日本を発ってから一ヶ月が過ぎた。
「――お疲れ様」
 書類を決済に回してからパソコンの前で溜息を吐くと、横から芋羊羹と緑茶が差し出された。
「仁川さん、お疲れ様です」
「ようやく解放されたよ。あまりにも実のない会議はさすがに疲れるね」
 会期が終わってからも、いや強引に会期中は展示を続けたからこそ、その後処理に追われることになってしまった。名目上は県立の大学の中の施設で公共の施設ということになっているこの芸術センターであのような展示をするのはいかがなものかという意見が方々から湧いて出てきているそうだ。その人たちが要求しているのは、来年から展示前に審査をすること。今までは展示中に作品が壊れて怪我をしたりしないかなど、安全性だけを確認していたのだが、これからは公序良俗に反しないかどうかも基準に入れるべきだという意見が出ているのだ。しかしそれは二つの意味で現実的ではない。一つは会期前に作品が完成するとは限らないこと。もう一つはその審査が自由な創作を阻んでしまう可能性があることだ。芸術センター側は当然受け入れられないと突っぱねているが、「それなら補助金を打ち切る」と言っている人もいるようで、結論はまだ出ていない。
「こちらとしては、あの作品が公序良俗に反していたとは思っていないし。県のプロジェクトに相応しくないっていう人もいるみたいだけど、今の日本の私立の美術館であれだけの展示をやる力があるところは少ないと思うんだよね」
「……生きるためには必要のないもの、ですからね」
「でもそれに生かされている人は確かにいるし、傷を昇華するあの作品に救われた人だっているのかもしれないのにね」
「そうですね……」
 会議の結果によっては、今後、あの作品はしまわれたまま、人の目に触れることはなくなってしまうのだという。あの作品はそれでは駄目なのだ。そこに誰かが立って、目の前の傷と対峙しなければならない。それなのに。
「やりきれないね。僕にもっと力があればいいんだけど」
 誰かの心を癒すだけが芸術ではない。時に傷つけるようなものだってある。けれど否応なく襲ってくる剥き出しの現実とは違っている。光の中の影、苦痛の中の美しさ、そんなものを見出すこともできる。現実はただただ理不尽だ。
「彼女も――アメリカでも、大変みたいだし」
「……そうですね」
 結局国が変わったところで、人間なんて大差がないのかもしれない。文化の違いはもちろんある。けれどどこの人間も、大義名分が与えられれば平気で人に石を投げられる。インターネットではそれが特に顕著だ。石をぶつけられている人が見えないから、投げる方は自分はたった一回しか投げていないと思っても、そういう人が百人いたら、百回石を投げられていることになる。
 イヴェットを送り出したあの日から、ずっと嫌な予感がしている。
「強い人……だから、大丈夫だとは思いたいですけど」
 でも、強いだけの人ではなかった。世界に触れているとき、先生の感覚はいつも繊細に研ぎ澄まされていた。そうでなければあんな作品を作ることはできないだろう。瞼の裏に焼き付いている彼女の姿はいつも凛としていて、透き通っていて、まるで光のようだった。
 不意に、仕事用の携帯が鳴った。ディスプレイに表示された名前を見て、慌てて通話ボタンを押す。
『お久しぶりです、佐伯さん。――いいえ、藤崎さん』
 流暢な日本語。けれど今まではずっと英語でやりとりをしてきた相手だ。ミレイ・ウォーカー。イヴェットのマネージャーで雑務を一手に引き受けている昔馴染みの女性。電話でやりとりしたのはイヴェットが来る前に二回だけ。それでもミレイの声だけで、何かが起こったことは容易に想像できた。
 あのとき、もしイヴェットを止められていたなら、僕はこの言葉を聞かずに済んだのだろうか。事務的な口調に、隠しきれない影を滲ませた、ミレイの静かな慟哭を。
 予感は確かにあった。けれど現実のその言葉を突きつけられたとき、僕は息をする方法すら忘れてその場に立ち尽くした。怒りも悲しみもそこにはなくて、ただ真っ白な部屋に自分だけが取り残されたように感じた。

 そしてその真っ白な柩(へや)の中で、僕は思った。
 イヴェット・ローゼンタールは自殺した。それは事実だ。
 ――けれど、彼女を殺したのはこの世界だ。

 目を閉じれば、少し低い声も、飴色の髪も、褐色の瞳も、僕の背中に触れた手も、はっきりと思い出せる。
 それを壊したのはこの世界。
 けれど同時に、もし僕たちが出会わなければ――彼女は今頃青空の下で笑っていたのかもしれないと、真っ白な壁の向こうで、誰かが囁く声がした。

24「生きていたんだよな」

 それから、どうやって電話を切ったのか覚えていない。電話でミレイが葬儀は関係者数人だけで執り行うと言っていたのは覚えている。けれどその言葉をうまく飲み込めないほどに、何もかも現実感がなかった。
 砂のような時間が一日、二日と過ぎていって、その間の記憶はあまりない。ゾンビが意思もないのに生前の行動を繰り返してしまうみたいに、日常を消化していたのだろう。イヴェットがいない世界でも、太陽は西から昇ったりしない。僕の生命もそのまま続いている。
 手を動かしていれば終わる仕事を片付け、定時の鐘が鳴ってから、すっかり片付けられた美術棟の中に入った。イヴェットが使っていた作業室の鍵を開ける。ここでイヴェットと過ごした日はまだほんの少し前。それなのにその温もりは何もかもが消えてしまった。
 違和感はあった。いくらなんでも作品として作ったものを簡単に人にあげるなんて変だし、何よりも最後の日に見たあの目が、何もかもを諦めたように澄み切っていて。
 あのときもし引き止めていたら、結末は変わっただろうか。
 けれど仮に時間を戻せたとしても、僕は同じ選択をしてしまうだろう。生きることが辛いという人に生きろと言うのは、所詮僕のエゴでしかない。僕のわがままで、もう生きていたくない、苦しみから解放されたい、という人をその苦痛に押し留めることはできなかった。
 だからもし時間を戻すなら、僕たちが出会う前にするだろう。もし僕たちが出会わなければ、あの作品が生まれることもなかったのだから。
 でもそれは、あの幸福な時間さえも否定する願いで。それがなければイヴェットは死ななかっただろうとわかっていても、あの時間がなかったことにはなって欲しくはなかった。
 不意に、子供の頃の疑問が頭を過った。
 開けてはならないと言われた箱の中には数多くの厄災が詰まっていて、それが解き放たれたあとで箱の中には希望が残ったという、パンドラの箱の話だ。厄災が詰まっていた箱の中に入っていたのなら、希望もまた厄災の一つなのではないか。子供心にそう思った。
 希望は言葉の響きは美しいくせに、失われたときの苦しさは希望を抱く前とは比べものにならない。それなら最初からない方がいいとさえ思う。どんな希望も儚く消えてしまうと言うのなら、なぜ中途半端に手を差し伸べたりするのだろう。
 わかっている。イヴェットを責めることは誰にだってできないし、それは僕自身が許さない。イヴェットを叩いている無責任な人たちは、批判されることは予想できただろうとか、傷つくくらいならば作らなければよかっただとか、彼女が死んでからも酷い言葉を投げつける。でもそんなことができるはずもない。批判されることが予想できたとしても、それが本人の許容できる量を超えることもあるし、傷つくくらいなら作らなければ、なんて何も生み出せない人間だから言える戯言でしかない。イヴェットを殺したのが、よりにもよってそんな無価値な言葉だったのが、何よりも許せなかった。
 誰かが言っていた。死は人間に与えられたもので唯一平等なものなのだと。生まれてくる前に死んでしまう子供にさえも死は平等に訪れる。
 でも、こんな終わり方があっていいものか。姿が見えない誰かに、正義の名の下に、積み重ねてきたもの全てを否定されて、その上で選んだ死と、例えば僕の父親のようにある日急に事故で死んでしまうのと、結果だけ見れば同じ死だけれど、その死を同列に語れるはずがない。
 こんな風に己の誇りを踏みつけられた結果の死なんて、あまりにも残酷だ。しかもイヴェットを傷つけた人間は、自分が投げた石が人を殺したにもかかわらずのうのうと生きている。それどころか彼女が死んでもなお彼女を否定し、彼女の心が弱かっただの、芸術家たる資格はないだの、自業自得だの、知りもしないくせに勝手なことばかり言う。
 たとえイヴェットのしたことが本当に間違いだったとしても、それでその人格までをも他人に否定されるいわれはないのに。人が人を裁くのはどうやっても私刑にしかならない。だから法で裁くようにと人の歴史が教えてくれたところで、無知蒙昧な人間たちは止まらない。
 ――安全圏から人の誇りを踏み躙るのは楽しかったか?
 こんな世界、全部壊れてしまえばいい。やっと手に入れたと思った希望を戯れに奪われるくらいなら、もういっそ、何もかもが消えてしまえばいい。
 自分にとっての世界を終わらせるのは簡単だ。自分が死ねばこの意識は残らないだろうし、何かに煩わされることもない。けれどイヴェットの後を追うつもりはなかった。僕が今死んだら、きっと僕がイヴェットの作品のモデルであることが露見するだろう。死んだその後で、僕たちの関係を勝手に想像されて憐れまれるのは我慢ならなかった。僕と彼女の間にあったことをこれ以上誰かに汚されたくはない。
 それならどうすればいいだろう。ここに閉じ籠もっていても、どうせ世界は変わりはしない。イヴェットを傷つけた人間の人生は何事もなく続いていくのだろう。黒い炎が体を内側から灼いていく。何故そんな理不尽がまかり通るのか。神なんていないと知っていても、この世界の理(ことわり)を憎む気持ちが溢れ出しそうになる。
 人を傷つける作品は芸術ではないと誰かが言った。じゃあお前は芸術の定義を言葉にできるのか。うわべだけの美しいものを見て、それで芸術を堪能したつもりになっているのか。その醜悪な心にその美しさは何も突き刺さっていないというのに。
 それなら、僕は一つだけ、この無価値な世界のためのものを創り出そう。
 復讐なんて生易しい言葉で括られたくはない。僕は僕の持つ力の全てを使って、この世界の何もかもを壊してやろう。
 イヴェットは死んだ。何をしたってもう戻ってくることはない。彼女は自分を支えてきた何もかもを踏み躙られたあとで、自分自身が完全に壊される前に死を選ぶしかなかったのだろう。それなら、僕が選ぶ道は一つだ。
 イヴェットを殺したこの世界に――遍く、尊厳のない死を。
 彼女が何もかもを奪われて死んだなら、彼女の命を奪った世界に対する報復は、人間としての尊厳を全て奪った上での理不尽な死しかない。勿論自死など選ばせはしない。飽和する希望に溺れながら、その希望に手ひどく裏切られてしまえばいい。イヴェットがそれを望んでいないことなど百も承知だ。けれど僕の道を決めるのは僕自身で、イヴェットにすらそれは止められない。
 けれど遍く降り注ぐその雨に、巻き込まれて欲しくはない人も確かにいる。
 会いたい、と思った。毎日顔を合わせているけれど、それだけでは足りなくて、胸が軋むように痛む度に――(しょう)に触れたいと思ってしまうのだった。
 イヴェットがいなくなる前と、やると決めていたことは変わらない。一朝一夕でできるようなことではないし、これまでのような生活を送っていてできるようなことでもない。イヴェットのいないアメリカには行かないけれど、自分のことを精算して家を出ることに変わりはない。

 けれど最後にもう一度だけ、箱の中に残った美しい厄災(ひかり)に触れたかった。
 完全な暗闇では、人の眼は自分自身の体すら見ることができない。このまま放っておけば自分自身が輪郭を失って暗闇の中に溶け出していきそうで。

 イヴェットのいないこの部屋は、電気を消すと一切光が差し込まない。これ以上彰を傷つけるようなことをするつもりはなかった。僕が望んで、彼が応えてくれたとしても、僕たちがお互いの奥深くへ触れることは赦されない。それに彰がまだ、本当の意味で彼自身の選択ができるような年齢でないことも理解している。
 だからせめて、夢の中くらいは。
 僕のその願いに応えて体に優しく触れる誰かの指は、僕自身が美しい思い出をつなぎ合わせて作った幻想。でも僕は今、自分自身の存在すらわからない暗闇の中にいるのだ。たとえ夢でも、この世界にある数少ない美しいものに、別れを告げる時間くらいは欲しかった。

25「未完成」

 一枚の絵を描いた。それは作品と言うよりはラフスケッチのようなもので、これから作り上げるものの設計図のようなものだった。この世界を壊すための計画、そしてそのための装置。荒唐無稽だと笑う人がほとんどだろう。僕だってこれをどうすれば実現できるかわからない。
 イヴェットはそんなことを望んではいない。そんな月並みな言葉は聞きたくなかった。そんなことは百も承知だ。ただ僕が、この世界の何もかもを許せなかっただけだ。正義も道徳も摂理も、その時代の中で生きられる幸運な人しか救ってはくれない。そこからこぼれた僕たちは自分自身で救いを掴まなければならないのに、ようやく手にしたそれさえも、安全圏の人間が奪っていく。イヴェットにしてみたってそうだ。荒れていた彼女が唯一見つけた希望が絵だったというのに、世界は彼女の絵を否定した。この世界に僕たちの居場所なんてない。
 それなら、こんな世界は壊してしまえばいい。愚昧な人間に取り入り、内側から食い破る獅子身中の虫になる。そのためには捨てなければならないことがいくつかあった。
「――辞めさせてください」
 芸術センターでの仕事は楽しいことの方が多かったけれど、普通の人間として生きるつもりはもうない。元々アメリカに行くために引継ぎの準備は密かに進めていた。人さえ見つかれば、僕がやっていた仕事のほとんどはどうにかなるだろう。
「この状況で引き留めるのは難しいね。……本当は、もっと晴れやかに送り出してあげられたらよかったけれど」
「……元々、退職を考えてはいたので」
「聞いているよ。アメリカに行く予定だったんだろう? イヴェットさんが言っていたよ」
 イヴェットは本当に限界まで生きようとしていたのかもしれない。僕を待っていてくれると言ったことに嘘はなかったのだと信じたかった。
「これから、絵の道に進むつもりなのかい?」
「どうなるかはわかりませんが、作りたいものはあります」
 仁川さんは僕がこれから作ろうとしてくれるものを愛してくれる人ではないだろう。けれどそれでよかった。仁川さんは正義や道徳を振りかざす人ではなく、それでいて暗闇の中で生きる人でもない。できれば最後のその瞬間までは、僕に巻き込まれずに生きていてほしい人だ。
 話を終えて部屋を出ようとすると、仁川さんが僕を呼び止めた。
「佐伯さん。もしかして君――」
 近くにいた人なら気が付いてもおかしくはない。ここでイヴェットに一番接触していたのは間違いなく僕だった。少し考えれば、あの作品のモデルが僕であるとわかるだろう。でも口外したりはしない。懸念があるとすれば、その善良さから僕の事情に踏み込もうとすることくらいか。
「いや、答えは聞かないでおくよ。彼女は『モデルの将来のために、素性は明かせない』って言っていたからね」
 僕の将来のことなんて気にしないで、自分を守ることだってできたのに。けれどそういう人なのだ、とも思った。イヴェットは自分の絵がいつか誰かを助けることがあればいいと思って描いていた。でも彼女にそれを問いかけたなら、きっと笑って言うのだろう。私は自分のために描いているんだよ、と。
 これから僕は、誰のために筆を持つのだろう。その答えは光とともに失われてしまった。
 今までありがとうございました、と言って部屋を出る。イヴェットが最後に作った作品は、予定通りここに収蔵されることになる。表に出ることはないかもしれないが、悪い扱いは受けないだろう。
 四季折々の花を咲かせるアーチを潜り、芸術センターをあとにする。終わりに向かって、秋の冷えた風が流れていった。

 家に帰ると、まだ誰も帰ってきていなかった。ジャケットを脱ぎ、シャツのボタンを数個外してだけでベッドに横になる。終わらせなければならないことはまだある。けれど、この先にイヴェットはいないのだ。
 しばらくそのまま目を閉じて微睡んでいると、玄関の扉が開く音がした。小さな足音が少し早くなってこちらに向かってくる。
「姉さん!」
「――おかえり、(しょう)
 最近彰が起きている時間に帰ることがほぼなかったから、顔を合わせるのは久しぶりだ。家から遠ざかっていたのは、仕事に打ち込んで何も考えないようにしていたのもあるが、母を避けていたのもある。けれど、もうここにはいられない。
「大事な話があるんだ」
 このとき、僕が彰に何を言ったのか。今となっては思い出せない。どこまで説明したのかも、これからのことを明かしたのかも、ここからどう動けばいいのか教えたのかも、記憶から抜け落ちてしまっている。そのとき彰は何を思ったのか。僕はちゃんと別れを言えたのか。今となっては誰も覚えてはいない幻の時間だ。
 話をしてから二人で夕食をとって、彰は自分の部屋に戻った。それから僕は鞄の中に最低限必要なものを詰め込んで、家を出る準備をした。持って行きたいものはさほど多くはない。これまでの自分は、佐伯海としての人生は捨てて生きていくことに決めたのだ。

 小一時間後に母が帰ってきた。彰は部屋にいて出てくる気配はなく、話をするなら今しかないと思った。説得を試みるつもりは毛頭ない。けれど最後に、自分の中で整理をつけたかった。
「――話があるんだけど」
 母にそう言って、食卓で僕たちは向かい合った。母は僕に冷ややかな視線を向けながら煙草を吸っている。それほどまでに僕が憎いのなら、どうして産んだんだろうか。産んでくれなんて頼んだ覚えはない。もしかしたら父がどうしてもと言ったのかもしれない。それなら、父がいなくなった後で僕を手放すことだってできたはずだ。それをしなかったのはきっと――この人もまた、イヴェットを殺した人たちと同類だからだ。正義を気取っているわけではない。けれど子供を手放すなんて真似は世間体が気になってできない。そのくせ思い通りにならなければ理不尽に暴力を振るって、自分の支配欲を満たそうとする。
 決別のための手は既に打っている。ただ、黙って家を出ていくような真似はしたくない。それだけだった。
「急な話だけど、明日この家を出て行くよ」
 用件はたったそれだけ。そのあとこの家に起こることに、僕は表立っては関与しないことに決めていた。彰のことは気になるけれど、僕もまた彼を傷つけ支配しようとした加害者で、もしかしたら彰はまだそれに気が付いていないのかもしれないけれど、いつか全ての意味がわかるときのために、僕は彼の前から姿を消した方がいいのだとわかっていた。彰は保護されるべきだ。母でも僕でもない、決して彼を支配しようとはしない、正義を振りかざすでもない、本当の愛情を持っている人に。
「そんなこと許されると思ってるの?」
「僕はもう成人してるんだ。自分の人生は自分で決める」
 誰の許可も必要ないんだ。そう言うと、母は煙草を灰皿に押し付けてから笑った。
「彰のことはいいの?」
「……彰だって、自分自身の生きたいように生きるべきだよ」
「よく言うわね。あんなことしておいて。私が気付かないと思った? 知ってるのよ、全部。あなたが彰に何をしたのか」
「だったら尚更、僕は彰の前から消えた方がいい」
「今更遅いわよ。消えるなら、もっと早い方がよかったわ。だってあなたがいたら、みんなが不幸になるんだもの」
 そうかもしれない、と思った。
 イヴェットだって、僕がいなければ今頃生を謳歌していただろう。彰だってそうだ。でもそんなことは自分が一番わかっている。
「――でも、出て行くなんて許さないわよ」
「どうして? 邪魔なのが消えて母さんも嬉しいと思うけど」
「あなたのような失敗作を外に出すわけにはいかないのよ」
 失敗作。それなら僕がどんな子供だったら母は満足だったのか。従順で、母が求める通りの道に進む、意志のない操り人形ならよかったのか。でもそれは、たとえ心も体も傷つかなかったとしても、僕という人間のことは完全に否定されているも同然だ。結局母は、どうあがいたところで自分の子供を一人の人間だと認めることはなかったのだろう。
 それならもう、誰にも愛されなかった佐伯海の人生をここで完全に捨てていこう。僕にはもうイヴェットがくれた新しい名前がある。彼女が筆を通して伝えてくれたものは愛と呼べるかはわからない。でも、それは確かに僕の存在を優しく肯定するものだった。
「僕はこの家との関係を完全に切る。僕が失敗作だろうがあなたにはもう関係ない」
「言うようになったわね。弟を犯すような獣(けだもの)のくせに」
「……誰のせいでこんなことになったと思ってんの」
 全部母が悪いとは言えないかもしれない。けれどこの人がもう少しまともな母親だったら、少なくとも子供を自分の所有物だと思って支配しようとする人でなければ、僕たちはもしかしたら、もっと普通の姉と弟であれたかもしれないのに。
 でももうそんなことはどうだっていい。遅かれ早かれ、この人は彰の母親である資格を奪われるだろう。
「全部私が悪いって言うの? この家はあなたが生まれたからおかしくなったって言うのに。あなたがいたから私はそれまでの自由を全部奪われて、こんな家に縛られた! 知ってる? この家は呪われてるのよ」
「そんなの僕には関係ないだろ!」
「関係あるわよ。だってできるだけ血を濃くするために、可能な限り血の濃い人間同士で子供を作ってきた家なんだもの。あなたも同じ穴の狢よ」
 母と父はいとこ同士で結婚したのだという。それ自体は法律上何の問題もない。問題はその前までに、その時代で許される限り近い人同士が子供を作り、血を濃くしていたという事実だ。
「最初はそれでも、お父さんと一緒に徐々に佐伯の家からは離れるつもりだった。私とお父さんがいとこだということを隠していたのもそのため。でも――あなたがその目を持って生まれてきてしまったことで、私は逃れられなくなった」
 点と点が繋がっていく。母が僕を憎んでいた理由。母が二人目の子供に拘った理由。母はどうしても、青い目を持たない子供が欲しかったのだ。
 確かに呪いなのかもしれないと思った。自分の中でどれだけ否定しても、彰に対する想いは消せない。
 それでも、呪いだとは思いたくなかった。全部自分自身の独立した感情だと思いたかった。そのための罰ならいくらでも受け入れる。僕は他の誰でもない、ただ一人の僕でありたかったのだ。
「……そんなに僕が憎かったなら、さっさと殺せばよかっただろ」
「そんなことで私の恨みは消えないわ。過ぎ去った時間はもう戻らないんだから。でも大丈夫。あなたはこの家の血を次に継ぐことはないわ」
 母が立ち上がり、僕の黒のワイシャツのボタンを一つずつ外していく。逃げればいいとわかっていても、なぜか体が動かなかった。
「こんな体、誰にも見せられないでしょう? これがあなたが生まれてきたことに対する罰。――あなたは誰にも愛されない」
 違う。それだけは明確に否定したかった。この傷を見て、それでも僕を描いた人がいた。優しく背中に触れてくれた人がいた。呪いだったものを美しく《変化》させてくれた人がいた。けれどその光は理不尽に塗りつぶされていく。母が僕のシャツを脱がせて、僕の背中に触れた。
「出て行かせないわよ、海。あなたは私と一緒にこの家に縛られたまま死んでいくの」
「僕の人生を決めるのは僕だよ。あなたには関係ない」
「人生、なんて。――人以下の獣のくせに」
 不意に背中に鋭い痛みが走った。生暖かいものが背中を伝っていく感触。振り向くと、母の手にはカッターナイフが握られていた。切られたのか――そう思った瞬間、糸が切れるような音が全身に響いた。
 イヴェットはあのときの傷を元に、完璧なバランスで絵を描いた。だから傷が減るのは構わないけれど、なるべく増えないで欲しいと言っていた。それなのに。

 ――気が付けば僕はポケットに入れていた十徳ナイフを手に取り、その刃を母の体に突き立てていた。

 母が倒れる姿と、溢れ出る血を、僕は呆然と眺めていた。ただ、傷が増えてしまったと、それだけを考えながら、床に落ちていた黒のワイシャツを着て、手元を見ずにボタンを留めた。
「姉さん……!」
 彰が叫ぶ声でようやく僕は我に返り、自分が何をしたのかを思い出した。思い出したというのは正確ではない。その状況を見たら誰でもわかるだろう。僕が母を刺したという単純な事実。こんな風に終わらせるつもりはなかった。もっと手続きを踏んで、ちゃんと精算するつもりだった。けれど僕は自分がそのために準備してきたことを、自分の手で壊してしまったのだ。
 それなら、僕はどうすればいい。
 どうすれば――彰のことを助けられる?
 家を出て行くことはあらかじめ決めていた。そこに、逃げなければならない理由が加わっただけ、と考えればいい。このまま母が死ねば僕は殺人犯になるが、死んでくれた方がこれから母が何かをしてくるんじゃないかと考えなくて済む。
「姉さん、どうして……」
 答えられなかった。冷静だったらこんなことはしない。今まで積み上げてきたものが一瞬で崩れてしまった。何だって、壊すだけなら簡単だ。
「どうしたもこうしたもないよ。刺したかったから刺しただけ」
「でも、こんなことしたら姉さんが」
「――煩いよ」
 その一言を発するだけで、彰の喉がひくりと鳴った。その眼に恐れの色が浮かんでいる。僕たちの間に、一本の白い線が引かれたような気がした。
「自由になりたいんだ、もう」
 それはこの家からでもあったし、この世界からでもあった。僕は床に落ちた十徳ナイフを拾い、部屋に戻って最低限の荷物が入った鞄を手に取った。やることは変わらない。それでも僕は、こんな幕切れを望んでいたわけではなかった。
「姉さん……!」
「――僕はもう、君の姉なんかじゃない」
 きっともうすぐ、君を助けに来る人がいる。僕の役目はもう終わりなんだ。これから僕とは違う道で、どうか、自分だけの光を掴んで欲しい。

 僕たちの道を隔てるようにドアが閉まる。
 願わくば、もう二度と会わないことを。

 ――なぜなら僕はこれから、この世界の全ての人間を敵に回すことになるのだから。

fragment #5「ドーナツホール」



 響に渡された資料を読み終わったところで、友香が食堂に入ってきた。南野友香――このあさぎ荘の管理人であり、俺たちが通う緑原高校の音楽教師であり、今は俺の親代わりでもある。友香は短く切り揃えた髪を揺らしてこちらに近づいて来た。
「まだ起きてたのね。夜更かしはあまり良くないわよ」
「教師みたいなこと言うなよ」
「……私、教師なんだけど。何の話をしてたの?」
 友香は俺の事情のほとんどを知っている。話しても問題はないだろう。俺は今まで響と話したことを簡単に説明した。
「――なるほど。それでこれがその調査結果ってわけね」
「イヴェット・ローゼンタールのこと、友香は知ってたのか?」
「知るわけないじゃない。藤崎さんに関しては、基本的に(しょう)から聞いた話しか知らないもの。でも――あの人も、家を出て行ったあと、彰が何をしたかは知らないわけよね」
 俺は頷いた。ある程度調査をすればわかるかもしれないが、それでも俺が何を思って行動したのかはわからないだろう。
 結論から言えば、姉さんは母さんを殺し損ねた。姉さんの性格から考えて、計画的な犯行であれば殺し損ねるということはないだろうから、おそらく本当に衝動的な犯行だったのだろうと推測できる。あの日何があったのか。それは母さんと姉さんしか知り得ないことだが、その後に何があったのかを知っている人は同様に少ない。
「響には言ってなかったな。――母さんを刺したのは姉さんだけれど、世間的には俺だってことになってる」
「どうして? 衝動的な犯行なら、調べれば犯人なんて簡単にわかりそうなのに」
「俺が自分でやったって言ったから、そこまで真剣に調べなかったんだろうな。じゃなかったら子供の思いつく偽装なんて簡単に見破られてる」
 凶器が見つからないままだったり、俺の記憶が曖昧だったり、怪しむところはそれなりにあったはずだ。けれど基本的には俺が話した嘘が真実だということになった。
「じゃあ捕まったってこと?」
「あのとき十二歳だからな。しかも誰かが数日前に母親のことを児童相談所に通告していた。それで虐待があったのだろうってことになって――不処分ってことになって」
 けれど母は刺されたせいなのか、意識を回復した後は自分自身のこともわからないほどになってしまい、姉の行方は杳として知れず、俺はある施設に入所することになった。その施設を運営していたのが友香の伯父で、俺と友香はそこで出会った。
「何でそんなことしたの?」
 なぜ、姉さんを庇うような真似をしたのか。当時の記憶はどれも曖昧で、はっきりとはわからない。断片的に残っているものが正しいのかもわからない。それでも、自ら罪を被った理由ははっきりと覚えている。
「――そうすれば、戻ってきてくれると思ったから」
 今なら、そんなことをしても意味はなかったと、むしろ真実を話して姉さんがそこで捕まった方がよかったのではないかと思う。けれどそれは過去になったから言えることだろう。そのときは真実を隠すのが一番いいと確かに思っていたのだ。
「そういえば、彰はどうしてここに住むことになったの?」
「伯父さんのところに入ったはいいものの、あまりに問題行動が多すぎて、落ち着くまでって約束で伯父さんがもう一つ運営していたこの下宿屋に私と住むことになったのよ。そのときは誰も住んでなくて開店休業状態だったからね」
 俺の代わりに友香が先に答えた。特に間違っているところはないので否定はしない。
「問題行動って……」
「――そこは聞かないでくれるか」
 友香ももちろん知っているし、俺もあとから何があったのか整理はできたが、あのときは普通ではなかったのだ。俺だけ隔離することになったのも、友香の叔父が運営する施設に入っていた他の人たちの安全を考えれば致し方なかったのだと思う。
「まあ、まともに話ができる状態ではなかったわね。あのころは発作も酷かったし」
「その時期のことはほぼ何も覚えてないんだ。その前の記憶だって怪しいけどな」
 はっきりと覚えているのは、最後に聞いた姉さんの低い声。俺を突き放すような、冷たくて、肌に切り傷を残していくようなざらりとした残響。それだけだった。その声が当時の自分の何もかもを支配していて、振り払うのに必死だった。
 今はそうではなかったと理解している。けれどあのときは――姉さんは俺のことを捨てたのだと思った。いつか自分が母の望むような子供になれたらあの家は幸せになるのではないかと思っていた。けれどそうなれない俺に嫌気が差して、姉さんは何もかもを捨てたのだと、そう思っていた。
 最後の日、姉さんが何か話していたのは覚えている。けれどその内容は今になっても思い出せないままだ。それが思い出せたら、真意がわかるのだろうかとずっと思っていた。でも今は、もしかしたらわからないままでいた方がいいのかもしれないと思い始めている。
「……そのときは、あの人のことを恨んでたの?」
 響が躊躇いがちに尋ねてくる。気を遣っている割には質問はいつもと同じ調子だ。
「恨んでたよ。どうして俺を捨てたんだって思ってた」
 だから、戻ってくるように、逃れられないように、母を刺したその罪を自分のものにした。そしてその頃から同じ夢を繰り返し見るようになった。
 夢の中では黒く大きな怪物が暴れていて、俺の手には一本のナイフが握られている。俺が怪物にナイフを突き立てると、怪物の体に纏わりついていた黒が磁力を失った砂鉄のように地面に落ちて、その中から血まみれの少女が――写真でしか見たことがないはずの、俺が生まれる前の姉さんが現れる。それに目を奪われていると、地面に落ちた黒い砂が、今度は俺の体を侵食するように昇ってくる。そうすると体の自由が利かなくなって、自分の意思に反して目の前の少女の首を絞めて殺してしまう。そんな夢だ。その夢が何を意味するかは今でもわかっていない。けれどひとつだけわかっているのは、その夢を見た直後は感情の制御が利かなくなるということだ。
 姉さんを許さないからそんな夢を見るのか。だとしたらどうして夢の中の姉さんは俺の知らない少女の姿をしているのか。自分自身のことなのに何もわからない。
「今はどうなの?」
「今は――許せない理由が変わった」
 姉さんがいなくなったあとの、混沌とした日々に差した一筋の光があった。けれどその光を、理人を俺から奪ったのも紛れもなく姉さんだ。
「理人とはどういう経緯で会ったの?」
 友香に目配せをすると、友香は頬杖を突きながら溜息を吐いた。
「彰がここに来て暫くしてから、少しの間ここに泊まらせてくれって厚かましいことを言ってきてね。こっちで仕事があったらしいんだけど、理人の実家は苫利だからちょっと遠いじゃない? で、知り合いだから安くならないかなと思ったらしいんだけど」
 その理由は初めて聞いた。俺からしてみれば、ある日急に知らない男が家にいた状態だった。
「彰のこともあったから最初は断ったんだけどね。……でも、私も一対一でいるのは疲れていたし」
 理人は良くも悪くも自由で、俺の事情はある程度知っているはずなのに、気を遣うようなことはなかった。自分のやりたいことだけをただ淡々とやる。急に増えた見知らぬ人間に俺が敵意を向けてもどこ吹く風だった。
「……根本的に人間にあんまり興味ないのよね、理人って」
 人間よりも音楽が優先されるような世界に生きていて、そこに立ち入らない限りは誰にも平等に優しく、同時に誰に対しても冷淡だった。
 そんな調子なので、理人が来てから一週間くらいで、その辺の観葉植物くらいに思っておけばいい人間なんだとわかった。こちらが働きかけなければ害のない人間。そうして理人がいる生活に少し慣れてきた頃、理人が食堂のピアノ――つまり、さっきまで響が弾いていたピアノを使っているところを見たのだ。
「……理人の曲を初めて聴いたとき、この人優しそうな顔してとんでもない曲を作るなって思ったんだ」
 それは理人が隠し持っている激情に初めて触れた瞬間でもあった。音楽に対する愛、なんて生優しい言葉では表現できないもの。届かないものに対する憧れと嫉妬と憎悪を込めたような、混沌とした、それでいて美しい旋律と和音。一瞬で心を掴まれて、離れられなくなった。
 ピアノに向かう理人の目の奥に炎が見えた。何もかもを灼きつくす業火。それは姉さんが時折見せる目によく似ていると思った。
「お父さんから聞いたことがあるの。おじいちゃんが理人を弟子にしたのは、このまま放っておくと絶対に道を間違えるだろうと思ったからだって」
 音楽を愛して、けれどその愛は拗れてしまっていて。確かに道を間違いかねないものを持っていたのだろう。けれど理人はなんだかんだで正しい道を歩んだ。それは響の祖父――植田(うえだ)治の指導があったからこそなのか。
 植田治が理人を放っておいたらどうなったのかはわからない。けれど理人は正常と狂気の境界線の上に立っているような人間だったのはわかる。誰もいなければその線を踏み越えていたのかもしれない。理人の音楽への想いはそれだけ強い――強すぎるものだったのだ。
「……未だに彰を理人に会わせたのが正しかったのか、私にはわからない。でも相性は確かに悪くなかった。理人は人に合わせるということを知らないで話すけど、むしろそれがちょうどよかったというか」
「実紀との相性は最悪だったな、逆に」
 今こうしていられるのは理人と出会ったからだ。けれどそれは溺れそうなときにたまたま手に触れたのが浮き輪だったくらいの幸運で、理人でなければ結果は違っていただろう。理人がいなければ今頃どうなっていたのかわからない。それを考えると少し怖かった。
「理人のおかげで小康状態になったのは事実なのよ。依存相手が代わっただけとも言えるけど」
 友香の言うことは間違いないのだろう。理人と出会って、その音楽に魅了されて、頼み込んで弟子にしてもらって――けれど、いつだって不安だった。理人は姉さん以上にいついなくなるかわからない人だった。散歩にでも行くようにどこかに行ってしまいそうで怖かった。
 いつしか俺は理人を繋ぎ止めることだけを考えるようになっていて、そしてその頃からまた発作が起こった振りをするようになった。けれど理人は姉さんよりは冷淡で、繰り返すたびに自分が壊れていくような感覚を味わっていた。
 どうやっても理人の目を音楽から逸らすことはできなくて、膨れ上がった感情が自分自身を蝕んでいく地獄の日々。夢の中で殺すのが姉さんだけではなくなって、風が吹けば谷底に落ちてしまうような状態だった。
 けれど音楽はその感情を少し和らげてくれた。もしそのままの日々を重ねていたら、時間が少しずつ解決してくれたのかもしれない。
 けれど運命は残酷に点と点を繋いでいく。分かれたはずの道がもう一度交わったとき、運命の輪は終わりへ向かって回り始めたのだ。

26「AM1:27」

 家を出たけれど、行くあてなんてどこにもなかった。それでも漠然と東京に行こうとは思っていた。碧原(みどりはら)のような田舎では、あてもなく歩く人は悪目立ちしてしまう。けれど木を隠すなら森の中と言うように、人が沢山いるところなら、僕を隠してくれるような気がした。
 深夜まで営業しているカラオケ屋やネットカフェ、ファミレスを転々としながら少しずつ南下していく。ネットカフェはシャワーも使えるし、同じように居場所がない人たちが深夜に雨風を凌いでいるから、そこでは少しだけ安心感を覚えた。
 お金がかかる移動手段は使いたくない。在来線だけでも東京へはたどり着ける。けれど東京に行って何をするというのだろう。そもそもここで野垂れ死にそうなのに。
 暗闇を選んで歩いた。危険なのは分かっていても、誰かに見つかる方が怖かった。けれど何日か経っても警察が僕を捕まえに来る気配はないし、そもそも母のことは報道されてすらいなかった。
 (しょう)はどうしているだろう。安全な場所で、ちゃんと眠れているだろうか。あんな形で放り出すつもりはなかった。まして傷つけるつもりなんてなかったのに。
 食事と睡眠を切り詰めて移動する日々の中で、何度か夢を見た。いつも同じ夢だ。ナイフを突き立てた母がそのままの姿で起き上がってきて、僕の肩を強く押す。僕の後ろはいつのまにか水面に変わっていて、強い力で押されたせいで体が沈んで息が出来なくなる。
 母は僕を憎んでいた。生まれてからただの一度も、僕はあの人に愛されたことなどなかったのだ。もっと早く消えてしまえば、こんなことにはならなかったのだろうか。夢を見た後は、しばらく息が出来なくなる。最悪なのは、それが寝ているときだけではなく起きているときも襲ってくることだ。人が少ないところなら休んでいればいいけれど、人が多いところだとそうもいかない。親切に声をかけてくる人達が煩わしかった。僕のことなんて放っておいて欲しかった。
 東京に到着してからも行くあてはないので、雨風を凌げる場所を転々としていた。けれどこんな生活をいつまでも続けられるわけでもない。それなりに資金はあるけれど、当然使えば減っていく。稼ぐ手段を見つけなければならない。けれど先のことを考える余裕はなくて、夜の明るさから逃れて、暗がりへと足を進めることしかできなかった。
「ねえ、君」
 高架下の通路を歩いていると、向こうから絵に描いたような不良に声をかけられた。東京にもこんな典型的な人たちが残っているのかと思いながらも無視しようとすると、すれ違いざまに肩を掴まれた。
「家出でしょ?」
 だったら何だ。どうせいたぶる相手を探しているだけだろう。それなら他をあたってほしい。こっちは今日どこで寝るかも決まっていないのだから。
「家出なら俺たちがいい場所教えてあげようか?」
「――あんたらに教えてもらうくらいなら野垂れ死んだ方がマシ」
 どうせロクなことにはならないのだろうし。そう吐き捨てて先に進もうとすると、最初に話しかけてきた男の隣にいた金髪の男が通路を塞いだ。
「邪魔なんだけど」
「君、女? 男? どっち? まあ俺どっちでもいいけど」
「出たよ変態。コイツ突っ込めれば誰でもいいらしいからなぁ」
 下卑た笑い声が耳に触る。こんな典型的な馬鹿は、このネットの発展した時代では絶滅危惧種かと思っていたけれど、どうやらそうでもないらしい。
「でも結構キレイな顔してんよ? 目もキレイだし。カラコン?」
「触らないでくれる?」
 こんな変態に好きにされるくらいなら金を取られた方がまだいい。相手は複数だ。刃物も一応持ってはいるけれど、殺傷力は高くない。ここは逃げた方がいいだろう。一瞬の隙を突いて走り出す。
 どこまで逃げればいいのか。逃げた先に何があるのかもわからないのに。道を覚えることもせずに男たちが諦めるのを期待しながら走り続けて、その気配が完全に消えたところで詰めていた息を吐き出した。
 これからどこに行けばいいのか。そもそもここはどこなのか。高架下の通路で、上には電車が通っている。そこから考えればここが大体どのあたりなのかを割り出すことはできそうだが、そんなことを考える必要があるとも思えなかった。
 どこだっていい。どうせこの世界に僕の居場所なんてないのだから。
 長い時間走り回ったせいで、ただでさえ削られていた体力が更に削られて、落書きで汚れた壁に手をつかなければ前に進めない状態だった。
 長く薄暗い通路の先に光は見えない。東京の街は眠らないなどと言うけれど、それは一部の繁華街の話だ。視界が時折霞む中でも惰性で体を動かしていると、不意に藤色の蝶が舞うのが見えた。死んでいた頭が覚醒する。
 見間違えるはずはなかった。それは紛れもなくイヴェットの絵だった。東京のどこかにあると言っていた絵がこれなのか。コンクリートが古くなってできた小さな穴を見る限り、これはかなり前に描かれたものだろう。
 決して明るい絵ではなかったし、そもそもここに描いた時点で落書きとみなされてもおかしくはない。けれど壁の落書きと芸術の境目なんて一体誰に決める権利があるのだろう。どんなものでも、そこにあるだけで人の心を捉えるものがある。
 スプレーで描いているとは思えない繊細な線と複雑な色使い。コンクリートのひびを活かされて描かれた割れた真紅の球体と、そこから溢れた血のようにも見える液体、そこから飛び立つ蝶の姿――見ようによって不気味な絵だろう。けれどイヴェットが未来にある何かを、《変化》を信じて描いたものだというのは説明されなくてもわかる。
 壁の絵は直接触れられる分、今まさに彼女がここにいるのではないかと思うほど近くに感じる。彼女はもうこの世にはいないのに。
「……どうして」
 自分を支えてきたものを全て否定されたあとの絶望感は痛いほどわかっている。彼女を責めるのはお門違いだ。その人がどれだけ苦しんだのかは、その人でなければわからない。
 それでも、溢れ出した感情の行き場はどこにもなくて。
「どうして、僕を置いて行ったの……!」
 わかっている。そんな余裕なんて彼女にはなかったのだ。背負いきれない荷物は下ろしたっていい。それで一緒に過ごした時間が嘘になるわけではない。
 けれど一人取り残されたこの世界で生きていけるほど僕は強くはない。かといって自分自身だけで終わりたくはない。ここで僕が死んだら僕の世界は終わるけれど、この世界には変わらず朝日が昇って、イヴェットを傷つけて死に追いやった人たちはその光の下でのうのうと生きるのだ。それだけはどうしても許せなかった。僕が死ぬなら、いっそ世界を道連れにしてしまいたい。
 世界を壊す計画を、きっとイヴェットは望んではいないだろう。復讐なんてしなくていいからと笑うだろう。それでも僕は、こんな世界ならいっそ滅びてしまえばいいと思うのだ。
 世界が僕たちを除け者にするのなら、僕の方から世界を呪ったっていいだろう?
 許さなくてもいい。けれど呪いのために筆を握ることを、否定しないで。
 閉じた瞼に微かな光を感じる。パンドラの箱に残った最後の災厄に、希望という名の魔物にこの世界全部呑み込まれてしまえばいい。ひとりでに喉から溢れ出した声にならない叫びと共に、僕の意識は黒の中に沈んでいった。

 目を開けると、真っ白な天井が見えた。体を起こして辺りを見回してみようにも体が重くて動かなかった。けれど自分がしっかりとしたベッドで寝ているのはわかる。
「――おや、目覚めたかな?」
 天井と僕の間に割り込むように、紫色のフレームの眼鏡をかけた女性が顔を出した。白衣を着ているから医者なのだろうか。
「何が何だかわからないって顔だね。あたしの名前はケイト。名前くらいは聞いてるでしょ?」
「……イヴェットの、友達」
 イヴェットが日本で最後に会った人だ。職業は医者。ただし普通の病院には行けないような人を専門に診ている闇医者だ。
「そう。で、三日前にあの絵のところで倒れてる藤崎ちゃんを見つけたからここに運んで、それなりに治療をして今に至る、というわけ」
「……どうして、僕のこと」
「ごめん、治療するときに普通に服脱がせちゃった。藤崎ちゃんだってわかって運んできたわけじゃないんだよ。医者としては、そこに倒れてる人間がいたらとりあえずなんとかしたくなるってもんで」
 背中の傷を見れば、イヴェットの作品を見た人なら僕の正体はすぐにわかるだろう。逆に見ず知らずの親切な人間に見つけられて、普通の病院に運ばれなくて良かったと思う。
「――で、何がどうしてこうなったわけ?」
 この人はどこまで知っているのだろうか。信用できる人だろうか。イヴェットの友人だというから少しは信じてもいいのかもしれないけれど、信じて裏切られるのは嫌だ。
「言いたくないならそれでいいけど。でもあたしは闇医者だからね。これまでヤクザの癌を切ってやったこともあるし、人殺しの腸閉塞を治したこともある。大抵のことでは驚かないし、秘密は守るよ」
「僕は――」
 母を刺して家を出てきたこと。あてもなく東京に来て、彷徨い続けたこと。簡単にそれだけを説明した。ケイトは僕の寝ているベッドの横にある椅子に腰掛けた。
「とりあえず無事で良かったわ。まあ無事って言っていいかわからないけど、医者から見ると軽症だからね。自発呼吸できてるし。で、もう一つ聞かなきゃいけないことがあるんだけど……これはあたしが聞かない方がいいかな」
 ケイトはそう呟いてから、部屋の奥の扉に向かって声をかけた。
「入ってきていいわよ、ミレイ」
「――別にケイトが聞いても良かったんだけど」
 不満そうな声と共に扉が開いて、褐色の肌に白銀の髪の毛を一つに束ねた女性が現れた。姿形は初めて見るが、その名前と声には覚えがある。
「ミレイさん……」
「芸術センターに電話したら辞めたっていうし、一応教えてもらった個人用の携帯は全然繋がらないし、アメリカで手に入る日本の情報はどうしても限られてくるのでどうしようかと思ってたんですよ。そしたらケイトから連絡があったので、すぐに日本に飛んできたんです」
 心配したんです、とミレイは少し呆れたような顔をして言った。今までほとんど事務的な話しかしていなかったのに、心配する義理なんてあるのだろうか。
「後を追うんじゃないかと思って。実際、アメリカではそれを警戒されています。イヴェットと同じような立場の人がイヴェットの訃報に触発されて死んでしまうんじゃないかって。まあ私は、イヴェットを見捨てたアメリカの美術界なんてどうなったっていいと思ってるんですが」
「本音が漏れてるよ、ミレイ」
「この人に気を遣う必要なんてないですよ」
 ミレイが僕を一瞥して言う。確かに気を遣う必要はないけれど、微妙に敵意のようなものを感じるのも事実だ。いや、厳密には敵意とは違うかもしれない。ミレイの感情の正体がはっきりとは掴めない。
「あたしはミレイも気に病んでるんじゃないかと思って心配してたんだけど」
「……日本だったら、止められたかもしれないとは思ってる。日本では銃が使えないから」
 昔、(めぐむ)と死ぬ方法について考えていたときに出た話だ。日本では銃が手に入らない。手に入ったとしても足がつくかもしれないから、死ぬ前に捕まってしまうかもしれない。だから銃を使った自殺については選択肢から除いた。けれどイヴェットはよりによってその方法で自らの命を断った。
「アメリカに戻ってから、私が監視してたことは気付いてたんでしょうね。目を離した隙に、一瞬でした。銃も全部隠しておけばよかったとは思いましたけど、でも、本当に死のうとする人はそれなら他の方法を探します。簡単に止められるもんじゃないんです」
 簡単に止められるものではないと言いながら、ミレイの表情が、なぜ止められなかったのだと自分を責めているように見えた。だからこそ、ミレイの感情の正体が何となく理解できた。きっと彼女は僕と同じだ。
「イヴェットが最期まで気にしていたのはあなたのことでした。だから私は、あなたの選択を聞きに来ました。当初の予定通りアーティストとして世に出るのなら、その方法は考えてきました。でもやっぱりやめると言うならそれでもいいです。――仮に他の道を考えているの言うなら、協力できることは協力します」
 ミレイははっきりと物を言う。仕事をしていたときから感じていたが、よく頭が回る人だ。けれどその有能さで本心を隠そうとしているようにも感じる。僕はミレイと、その横に立って様子を窺っているケイトを見つめた。僕が考えていることを口にしたら、二人はどう反応するだろうか。
 どう思われたっていいじゃないか。頭の中で誰かが囁く声がした。そうだ。どうせ最終的には皆死んでしまうのだから。
「――もし、僕が世界の敵になると言っても、協力してくれる?」
 ケイトが身を乗り出し、ミレイが訝しげに僕を見る。一人では荒唐無稽で、不可能だと笑われるような計画でも、この人たちが協力してくれれば前に進めるかもしれない。特にミレイはきっと僕と同じことを考えている。
「人類でも滅ぼすつもりですか?」
「そうだって言ったら?」
「おそらくイヴェットはそんなこと望んでませんよ。……私個人としては、イヴェットを追い詰めたこんな世界が今日も普通に続いていることに憤りを感じてはいますが」
 本音を隠さずに、ミレイが言う。その目に宿る鋭い光が、彼女の憎悪の深さを物語っているように感じた。
「とりあえず、もう少し詳しく話を聞かせてください」
 僕は頷いた。きっとイヴェットは僕たちのこんな選択を望んでなどいないだろう。それでも、もう僕には、この世界に価値があるなんて思えないのだ。

27「不協和音」

「……可能なんですか、それ」
 僕の話を聞いたミレイの第一声はそれだった。僕もできるかどうかはわからない。ほとんど妄想の段階だ。けれど人間が人間を滅ぼすことは今まで誰も成し遂げていないのだから、どんな計画でも荒唐無稽になってしまうだろう。
「不可能ではないとは思うわよ。あたしの力ではできないけど……そういうものに詳しい人なら知り合いにいるし」
「けれど、実行するにはもっと沢山の協力者がいる」
「でも人類滅ぼすので協力してくださいって呼びかけるわけにいかないしねぇ」
 ケイトが腕を組む。ケイトは案外真っ直ぐに物事を考える人だ。そういう意味では、どちらかといえばミレイの方が厄介だ。
「人の意思を奪って、感覚を鈍らせてから滅ぼすっていうことは、麻酔かけてから体を切り刻むみたいなものですよね? だったら本当の目的は隠して、麻酔の方だけを広めるために人を集めればいいんじゃないですか? それこそ宗教でも作って」
「……ミレイ、あんた恐ろしいこと考えるわね」
 ケイトが言う。話を聞く限りケイトの方が荒事には慣れていそうだったが、もしかしたら逆なのかもしれない。
「宗教の恐ろしさは誰よりも知ってるからね」
 ミレイの過去に何があったのかは聞かされていない。けれど日本で暮らしているよりは、アメリカにいる方が宗教の恐ろしさに触れる機会も多いだろう。
「宗教がらみの大きなテロ事件は日本が元祖だけどね」
 ケイトが口を挟む。そういった事件を調べたことがないから本当はどこが最初なのかは僕にはわからないが、確かに日本にも宗教がらみのテロ事件がかつてあった。けれど、それでもこの国の人たちは宗教を自分たちから遠い、どこか違う世界の人の話のように考えている。
「どこが最初なんてどうだっていいんですよ。とりあえず、どうやっても時間がかかりそうなのは事実ですね」
「あとはお金もかかるわね。お金はどのくらい持ってるの?」
「……今現金で持ってるのが全財産」
「全くと言っていいほど足りないわね」
 東京に来るまでに使ってしまった分もある。時間がかかる計画だから、これから貯めていくこともできるが、資金面はやはりネックになる。
「時間がかかるんだから、表向きは画家になって稼げばいいと思いますけど、でもそれだけでは足りないですしね……」
「あとは……体を使って稼ぐとか?」
 僕にそれができると思っているのだろうか。この傷だらけの貧相な体が売れるとは思えない。
「いやいや売春はないでしょ。稼げるのも所詮はした金程度だし」
 ミレイが僕より早く言う。けれどケイトは首を横に振った。
「いやいやそっちじゃなくて、もっと物理的な方」
「物理的?」
「臓器ってそれなりにお金になるわよ?」
「うっわこの人、普通に人に臓器を売れって言った……」
 ミレイが顔を顰める。その辺りの常識はあるらしいが、どっちもどっちのような気がしてきた。
「腎臓なんかは二つあるから一個くらいなら死なないわね。あと卵巣とか子宮とか、子供を作る予定がなければ――まあ全部冗談だけど」
「冗談でも言っていいことと悪いことがあるでしょ……臓器って」
 確かに違法だし、危険を伴う方法だ。けれど手っ取り早くお金を稼ぐには悪くないかもしれない。ミレイは常識的に反対しているようだし、ケイトも本気ではないのだろう。
「……臓器って、背中に傷つけずに取れるの?」
「まあ今言ったのはだいたいお腹の方開くし、あたしの腕ならあまり傷が残らないようにできるけど……ていうかさっきの本当に冗談だからね!? さすがにそこまではしな……」
「僕は僕の血を残すつもりはない。だったらいらないでしょ」
 むしろこんな呪われた血なら、ここで絶ってしまった方がいい。それで目的のための金が稼げるなら一石二鳥だ。
「別に明日売らなきゃ死ぬような状態じゃないんです。もう少し考えてみてもいいと思いますよ」
 ミレイが深く息を吐き出してから言った。もう少し考えても結論は変わらないが、この体調で体を切り開くことが危険なのもわかる。ひとまずは保留ということにした方がいいだろう。
「――よく考えてください。今ならまだあなたは日の当たる、真っ当な道を歩くこともできる。あなたが犯した罪にも、情状酌量の余地は十分あります。けれどあなたが自分の体の一部を売るようなことをしたら、もう堕ちるしかなくなる。そこは覚えておいてください」
 今更、もうそれを悩むような段階ではない。この世界を呪うために失うのが、元々使う予定のない臓器くらいなら安いものだ。

「ミレイはさ、テロで両親を失ってんのよ」
 ミレイが部屋を出て行き、僕とケイトの二人になったとき、ケイトが言った。
「それで親戚に引き取られたけど、そこであまりいい扱いを受けてなくて――逃げた先が良くないところで」
「良くないところ?」
「薬を売ってたのよ。しかも粗悪品。でも足を洗いたがってた」
 本人は自分が売る粗悪品の薬を買う金すらなくて、出口のない地獄の日々の中を生きていたという。
「で、あたしは流石に粗悪品の薬が出回ると、いくら元から治安が悪い街でももう手がつけられなくなるから、売人をシメようと思ってミレイに行き着いた。でもあの街でのミレイの商売を潰したのはあたしではなくイヴェットだった。イヴェットはあいつにしかできないやり方でミレイを助けたんだ」
「イヴェットにしかできないやり方?」
「そのときのミレイは取引場所を壁に暗号で書いてた。でもその上から絵を描いてしまえばミレイの文字は読めなくなる。それで取引がおじゃんになって彷徨ったジャンキーと売人を一網打尽、というわけ。まあミレイも辞めたいと思ってたからイヴェットを放置したんだろうけどね」
 僕の生きてきた世界とは全く違う。けれどミレイがイヴェットに入れ込む理由はなんとなくわかった。暗闇の中で繰り返される、変化のない地獄の日々。そこに変化を与えたのがイヴェットだったのだ。
「――そういうわけで、ミレイは元からこんな世界滅びちゃえばいいと思ってたけど、イヴェットがいたからそのことを考えていなかっただけ、とも言える。でも……あの子は、君にはこちら側に来て欲しくないと思ってるんだよ、多分ね」
「どうして……」
「君が、イヴェットの最後の作品の一部だから――だろうね」
 ケイトが静かに言う。だとしたら、ケイトは僕をどう思っているのか。その真意は見えなかった。
「イヴェットの絵は、壁に元から描かれているものだったり、元からあるヒビを活かして描かれているものが多い。イヴェットは君の傷を作品に昇華した。同じように、ミレイが壁に書いていた暗号は、ミレイにとっては君の傷と一緒なんだと思うよ」
「……でも、僕は」
「わかってるよ。許せないんだろう、この世界を? それはあの子も同じだし、あたしもね」
「ケイトさんも?」
「あたしは両親とも日本人で、アメリカで生まれた。その上で自分がどちらでもないと思っている。まあ、日本で暮らすのに都合がいいから、書類上では日本人になってるけどね。――でも、この世界にはあたしのような中途半端な人間を受け入れてくれる場所はない」
 それぞれに事情を抱えて、それでも何とかこの世界を生きて行こうとしている。それなのに世界の方は、普通に生きられる人間の方は、必死で生きる人間を迫害する。
 そんなに美しい世界がいいなら、その中で溺れて死んでしまえばいい。なけなしの希望に縋ったあとで何もかもを奪われる気持ちを少しは味わえばいい。
「でもあたしはこっち側で、まともに病院にも行けないような人間を助けることに決めた。ヤクザとかからは金を毟り取ってやるけど、それ以外にもヤク中だったり、どうしても事情があって二十二週を超えてから子供を堕ろしたいって人も来る。でも……臓器を売るっていうのは、助ける行為ではないのよね」
「それを使ってもらったら誰かが助かるんじゃない?」
「それはそうなんだけど……あたしは、それが本当に君のためになるのかわからない」
 荒んだ世界に生きている人のはずなのに、妙に優しくて面食らってしまう。例えば母なら、僕の臓器なんて簡単に売っただろう。金にもなるし、これ以上佐伯の家が続くことを阻止できる。
「……一番愛している人とは、どうやって結ばれない。それならこんな機能はなくてもいい」
「他に好きな人ができるかもよ?」
「仮にそうだとしても、その人と子供を作りたいとは思わないし……そんな日は多分来ない。来て欲しくはない」
 もしそんな日が来たら、(しょう)に感じていた思いは嘘になってしまう気がして。そんなことはないと頭ではわかっているけれど、一時の気の迷いや、血筋ゆえのものだとは思いたくなかった。
 けれど、それが本当に自分の意思だったかどうかなんて、証明することは難しい。
 僕の言葉を聞いたケイトは、少しだけ眉を寄せた。
「……一度進めば、もう引き返せない道よ。もしかしたら、いつか全部思い出になる日が来るかもしれない」
「僕の中で解決したところで、世界は何も変わらない。解決してしまったら僕はこの世界に取り込まれることになる。そんなのは嫌だ」
「でも君にもまだ迷いはある。――巻き込みたくない人がいるんでしょう?」
「それは……」
 彰は巻き込みたくない。彰が他の人間と同じように尊厳のない死の中に突き落とされるのは嫌だ。でもそれは所詮僕のエゴでしかない。
「でも、迷うことも悪くないわ。自分の意思があるから人は迷うのだから」
 けれど僕は人からそれを奪おうとしている。自分だけがそれを行使していいのか。その是非はわからない。
「……迷いは確かにある。でも、引き返すつもりもないよ」
 イヴェットが死んだあとの世間の人たちは彼女の死の理由を無責任に書きたてたり、死を悼む振りをして歯の浮くような台詞を吐いたり、死んで当然だと暴言を投げつけたり、彼女の苦しみに本当に寄り添おうとした人なんてほとんどいなかった。けれど死んだからこそまだ優しいのだと思った。イヴェットが生きていたらまだ彼女に対する中傷は続いていただろう。美しい世界のために、人を無間地獄に落として平気な顔をする人たちのことを、僕は永遠に許すことなどできないだろう。
 美しい世界を望む人たちは、僕の傷からも顔を背けた。あの人たちは僕を救ってくれなどしない。そのくせ打ち明けてくれればよかっただとか、然るべき機関に頼るべきだとか、正論を並べ立てる。彼らは群れでいることに安心しているだけだ。群れからはじき出された異常者とは違うと胸を撫で下ろしているだけ。
 そんな風にはなれなかった。
 弾き出された僕たちはどこにいけばいいのか。行ける場所なんて暗闇くらいしかないじゃないか。
 不要な臓器くらいいくらでもくれてやる。僕の手に残るのは前に進むための、世界を焼き尽くすための、この憎悪だけで十分だ。
 それに――結局今に至るまで、この身に新たな生命を育むという行為に対する嫌悪感は消えなかった。自分が女であることが気持ち悪くて、かといって男になりたいわけでもない。他の性を与えられるのも嫌だ。何もかもが僕には馴染まなくて、僕はきっと、この世界に生まれるべきではなかった鬼子なのだと思った。
 どうせ鬼子として生まれたのなら、本当の鬼になってもいいじゃないか。
「――ちなみに、売ればいくらになる?」
「誰に売るかにもよるかな。やるなら出来る限り吊り上げるけど。……そう聞くってことは、引き返すつもりはないのね」
「最初からそう言ってるよ」
「それなら――あたしはあたしの出来る限り、完璧な手術をするよ」
 話が早い。けれど納得しているわけでないこともわかってはいた。優しい人だ、と思う。イヴェットも、ケイトやミレイのそばにいるのは心地よかったのだろう。そしてケイトとミレイは、イヴェットがこちら側に堕ちないように、彼女を守り続けてきたのだろう。
 二人の優しさは、今後の枷になる可能性もある。最終的にこの計画を止めようと言い出す可能性も否定できない。それでも構わない。いつか僕一人でいかなければならないとしても構わない。今の僕が手放せないのは――強いて言うなら、イヴェットにつけられた、この名前くらいなのだから。

28「漂流」

「……本当に、君はそれでよかったのかい?」
「今のところ逆に快適ですよ。生理の心配もないし」
 先生が眉をひそめる。誰に話してもこういう反応になるのは理解していた。けれどそれがなくなったときに、自分が女であることから解放されたような気がしたのも事実だ。
「けれど、自分の肉体を著しく傷つける行為には変わりないからね。あまり推奨される行為ではない」
「わかってますよ。でも、後悔はしてません」
「それならまだいいのだけど、君の母親が残した呪いのような気もするからね……」
 初潮が訪れたときから変わらず、自分が女であることに、子供が産める体であることに嫌悪感があった。今から思えば確かにそれは呪いだったのかもしれない。どれだけ消そうとしても消えない、生まれた瞬間から続いている母の呪い。
「……それで、池内慧都が私を見つけてきたんだね?」
「知り合いの知り合いだと言ってました。先生は知ってたんですね、ケイトの本名」
「彼女、一瞬だけ大学病院の医局にいたことがあって、そのときに結構すごい症例報告を出してて、それこそその共通の知り合いがその話をしていたなと思って」
「本人曰く、失敗しない女医らしいですから。闇医者だけど」
「どっちかというとブラック・ジャックだよねぇ」
 計画を実現させることができるかもしれない専門家として、ケイトが先生を――植田(うえだ)匡を挙げた。僕はそこから、先生を引き込むために様々な手を打った。断ることができないように、逃げられないように、そして同時に日本で自由に使える手駒が欲しかった。
「……ケイトから、先生は変わり者で取り入るのは時間がかかると聞いたので、外堀から埋めることにしたんです」
「闇医者に変わり者って言われるとはね。それで私の周辺の人物について調べて……麻美に行き着いたのか」
「――関係者に当たる人は他にもいました。でも……彼女が一番こちら側に引き込めると思ったんです」
「まあ理人とか絶対無理だろうからね。特に君との相性は最悪だ」
「……本当は、そのときに理人さんの周辺も含めて調べておくべきだった」
 そうすれば、あんなことにはならなかった。僕は目的を遂行することに集中しすぎて、引き寄せてはならないものを引き寄せてしまったのだ。
「普通はそこまで調べないだろう。そもそも君が選んだのは麻美だ」
「そうですね。彼女の現在、それから過去……おそらく師匠である植田治に恋愛感情を抱いていたこと。そして植田治が自殺したこと。――この人を引き込むことは難しくないと思った」
 麻美は僕にとって都合がいい人間だった。植田匡との接点を作るため、そして自分の思い通りに動く人間を作り出すため、僕は麻美に近付いた。
「僕は麻美を騙しているんです。――今日に至るまで、ずっと」

 作曲家と画家は、接点を見つけようと思えばいくらでもある。広島のある街での総合芸術祭。そこで仕事をしていた麻美に声をかけた。最初は仕事の何気ない話から。警戒心が解けたのを見計らって懐に入り込む。幸いなことに麻美が僕を信用するのに時間はかからず、女性同士であることもあって、二人だけになる時間は容易に作れた。
 旅先での出会いは展開が早い。深夜に入った静かなバーで、麻美の方から植田治の話をし始めた。
「もう何年も経ってるのに、いまだに引きずってるんです。先生は曲を作れなくなって死んだのに、私は生きて、今でも曲を作っている。作りたいわけでもないのに、生きるためにそうしてるんです。……こんな話、会ったばかりの人にされても迷惑ですよね」
 誰かに吐き出したかったのだろう。何年も何年も、傷から血が流れているとわかっていながら、それを隠して普通の生活を送ろうとしていたのだろう。麻美の考えていることは手に取るようにわかった。なぜ止められなかったのかという後悔。どうして置いて行ったのかと相手を責める気持ち。自分が普通に生きていることに対する罪悪感。その全てが、僕にも覚えのある感情だった。
 だから、つけ込むのは簡単だった。
「迷惑じゃないよ。自分の家族や友人には言えなくて、逆にネットや出会ったばかりの人には言えることもあるし。――僕で良ければ、だけど」
 麻美も本当は理解していた。どうしようもなかったのだ。死を決めた人間の意思を翻させるのは簡単なことではない。四六時中監視しているならまだしも、少しでも目を離せば人は死ぬことができる。それを阻止しようとすれば、自殺を止めようとしているのに自分が死んでしまいかねない。止めることはできなかった――麻美にも、もちろん理人さんにも。
 理解できていても、死ぬことでようやく楽になれたのだと言い聞かせても、消えずに残る感情はどうすればいいのか。どうして置いて行ったのだと言いたくても、それを言える相手はこの世にいないのだ。
「自分のことを大切に思うなら、置いていかないでほしかった?」
 それは自分自身にも突き刺さる言葉だった。麻美にももちろん響いただろう。優しさで覆い隠しながら、出会ったばかりの人間の傷口を抉る。しかも、これから利用するために、だ。
「そんな風に取り残されると、どう生きればいいかわからなくなっちゃうよね」
「藤崎さん……」
「僕も、小さい頃に父が亡くなって……父の場合は事故だったけど、それでもそんな風に思ったから」
 イヴェットの話をした方が都合がいいとわかっていても、その話をすることはできなかった。麻美が植田治の話になると冷静ではいられなくなるように、僕自身もイヴェットの話をすると冷静ではいられなくなる。目的のためには、麻美を騙すためには、僕は冷静なままでいなければならなかった。
「そういうとき、誰かが道を示してくれたらいいのに……って思うよね」
 その道が正しいのだと、誰かが言ってくれたら。自分一人で道を決めなければならないから、正解がわからずに苦しいのだ。他人が決めた道なら正しさが保証されるし、失敗したときは他人のせいにできる。
 偽りの灯火。その先には滅びが待っていても、心が疲弊した人間はそれに手を伸ばす。
「藤崎さん……」
「ごめん、泣かせるつもりはなかったんだけど……」
「違うんです。今まで、そんな風に言ってくれる人なんていなかったから」
 それは麻美が打ち明けなかったからでもあるし、周りにいる人間の癖が強すぎたからでもあるだろう。僕は静かに涙を零す麻美を、自分が泊まっていたホテルの部屋に誘った。
 僕が男であればきっとうまくはいかなかっただろう。こういうときだけ自分が女であることを利用する、自分自身が嫌だった。

「――紅茶でいいかな?」
「ありがとうございます。ご迷惑をかけてしまって……」
「いいんだよ。ゆっくり話もしたかったし。それに部屋に空きがあるからってツインの部屋をあてがわれて、広すぎて困ると思ってたんだ。広ければいいってもんじゃないのにね」
 窓側の椅子に腰掛けて、ホテルの部屋に備え付けられていたポットの湯を使って紅茶を淹れる。アルコールは適度に抜いておいた方がいい。麻美があとで、あのときの自分は冷静で、自分で選択したのだと勘違いさせる程度に。
「……藤崎さんは、強い人ですね」
「そう見えるかな?」
「私から見れば、凛としていて、まるでチェレスタの音みたいな――」
「そんなこと初めて言われたよ。それに僕はそこまで強い人間じゃない。人並みに迷うし、これからどうすればいいかわからなくなって途方に暮れることもある」
 麻美の望みはわかっている。それを知っていて、僕は彼女に近付いたのだから。
「そんなに苦しまなくていいんだよ。楽になりたいって思うことは、決して間違いじゃない」
 そう。誰だってそう思うし、それ自体は間違っていない。間違っているのは、それにつけ込もうとする僕の方なのだ。
 麻美の頭を抱えるようにして、その柔らかな体を抱きしめる。繊細で、力を込めたら潰してしまいそうで、でも、彼女の体には傷がないのだろうとも思った。
「……大丈夫。苦しいなら、今日は僕に委ねて」
 甘い毒で、その心を蝕んでいく。僕は麻美の耳元で囁いた。彼女が一番望んでいて、一番求めてはならない言葉を。
「――もう何も考えなくていい。君は十分苦しんだんだから」
 楽にして欲しいと訴えるその目を見つめてから、ゆっくりと唇を重ねる。抵抗はされなかった。されないように、僕のことを警戒しないように、僕の言葉を鵜呑みにするように、彼女を操作したからだ。
「――いい?」
 断ることなんてないとわかっていて、同意を求める。それは麻美自身が選んだのだと錯覚させるため。傷ついた心に優しく触れるものであればなんでもいいなら、僕は簡単にそれに擬態してしまえる。ただそれだけのことだ。
 そっと服を脱がせると、麻美の白い肌が顕になる。本当に傷一つない、積もったばかりの雪のような肌。その肌に、数日もすればすぐに消えるような痕をつけながら、心だけでなく体も蝕んでいく。掌に収まりきらないほど柔らかで大きな胸に触れると、麻美が微かに声を漏らした。けれど何かに気を遣っているのか、その表情には躊躇いが見られる。
「いいよ。――他の誰かを、重ねても」
 僕は彼女の望みを叶えるだけ。生きていてもどうせ届かぬ思いだった。けれどずっと、優しく触れられて、愛されたいと思っていたのだろう。僕はそれを与えてやるだけだ。美しい夢に足を取られて、彼女が決して逃げ出さないように。
 先生、とか細い声で麻美が言う。まだ少し残っていたアルコールのせいもあって、その体はすでに潤んでいる。触れるだけで音を立てるその場所に、僕とは違ってちゃんと女性としての機能を持ったその場所に、そっと指を沈めていく。
 なんて冒瀆的な行為なのか。僕は今、もしかしたらこれから前に進めたかもしれない人の未来を奪っているのだ。
「――愛してるよ、麻美」
 ああ、愛なんて知らないくせに。流れるように口を突いて出た言葉に、麻美の体が解けていく。僕の指で、体を反らすようにして感じる彼女を綺麗だと思った。
 同時に、その彼女の大切なものを奪っていることに、微かな高揚感も覚えていた。きっと今首を絞めても、おそらく彼女は抵抗しないだろう。
 でもそれは、麻美に対しての行為ではない。僕がその首を絞めて、苦痛に歪む顔を見たいと思うのは(しょう)だけだ。他の誰にも代わりはできない。
 おそらく麻美にとっても、僕では代わりにならないだろう。でもいま彼女に必要なのは、心に空いた穴を少しでも埋める何かでもなく、その穴を忘れさせてくれる、偽りの優しさだった。
 ふわりと耳に触れる甘い声を残して麻美が達する。疲れたような、安心したような顔で目を閉じる麻美の体をシーツで覆い、僕はカップに少しだけ残った、すっかり冷めてしまった紅茶を飲み干した。

「正直、麻美には申し訳ないことをしたと思ってます。騙されたことに気付いたら、麻美は僕から離れていくかもしれない。――そうなっても仕方ないと思っています」
「……だそうだけど、どう?」
 先生がドアの方に向かって言う。気が付かなかったけれど、いつの間にか少しだけドアが開けられていて、そこから隠れて立っている麻美の姿が見えた。
「ちなみに私が呼んだわけではないよ。ただ時間と場所を教えただけ」
「それ呼んでるようなものですよ……」
 やはり先生は油断ならない人だ。こんな形で麻美に知られるとは思わなかった。何もかもを知ってしまったら、きっと麻美は僕を憎むだろう。僕は彼女を利用した。それは紛れもない事実だ。
 ドアが開いて、麻美が部屋の中に入ってくる。僕はゆっくりと、彼女からの最後通告を待った。
「……私のこと、何にもわかってないじゃないですか、藤崎さん」
「え?」
「しかも人を騙すには優しすぎます。……この人は私を騙そうとしてるんだって、でも本当はそんなことしたくないんだって、最初からわかってましたよ」
 麻美が優しく笑う。その上、手に持っていた小さな箱を開け、その中に入っていたフィナンシェを僕の前に置いた。
「……最初からわかっていたなら、どうして」
「本当にわかってないんですね。全部見透かしてるみたいな顔をしてたのに」
「どういう……」
 麻美が僕の前に立って、柔らかな笑みを浮かべる。これまで僕は彼女を利用してきたはずだった。その心を蝕んで、彼女に人まで殺させてしまった。それなのに、どうして。
「私はあなたのことが好きなんです」
「でも、君は――」
「この世すべての人間が生涯に一人しか人を愛さないわけではないんですよ。先生のことは今でも忘れられません。でも――私はあなたに惹かれたから、あの日部屋までついて行ったんです。騙されてるとわかっていて、それでも愛したいと思ったんです」
 そんな風に言われる資格なんてないのに。僕は麻美を利用するつもりだったのに。麻美は強い瞳で僕を見つめている。
「……僕は、君に人を殺させた。そんな風に言ってもらう資格はない」
「資格があろうがなかろうが、私の気持ちに影響はありません。それに理人さんのことは、私がやってしまっただけのことです」
「でも、僕は」
「私は何があっても、絶対にあなたの傍を離れるつもりはありません。あなたの過去に何があっても、裏で何を考えていても、私があなたに惹かれたことだけは嘘ではないから」
 彼女にこんな芯の強さがあっただろうか。もしかしたら僕は本当に、彼女のことを何もわかったいなかったのかもしれない。
「――麻美」
「何ですか?」
「それなら、ここから先の話は、君にも聞いてもらうよ。あともう少しだけだけど」
 ここに至るまで何があったのか。麻美を利用して先生に近付いたあと、運命が僕にどんな仕打ちをしたのか。全てを明らかにしよう。この世界の終わりを歌う、始まりへと至る話だ。

「わかりました。でもその前に、お茶でも飲んで少し休憩しましょう。そのフィナンシェに合う、いいハーブティーがあるんです」
「――ありがとう。じゃあ、お願いするよ」

29「If」

 麻美を味方に引き込み、植田(うえだ)匡との交渉が始まった。本来の目的は隠し、出来るだけ先生が興味を持つように話をした。
 人類を救うなんて、思っていることとは逆の言葉を並べ立てて、協力させようとした。けれど最初の頃はなかなか首を縦に振ってくれず、膠着状態が続いていた。
「今は協力しているのに、最初は断っていたのは……理人がいたからだよ」
「やっぱりそこなんですね」
 当時から「興味はある」と言っていた。だから誰か枷になる人がいるのだろうと推測はしていた。当初は響なのだろうと思っていたが、彼女と離れたとはいえ、いま協力すると言っているところを見ると、別の人が原因だとわかる。だとしたらその人は理人さんである可能性が高いだろう。
「麻美の友人を装って君が近付いてきたときに、最初に気を付けた方がいいって言ったのも理人だったね。あいつ鈍感なくせに、なんか妙なところだけ鋭いんだよ」
「……どんな風に言ってたんですか、僕のこと」
「『少なくとも僕とは相容れない人だ』って。まあそれはお互い様って感じだろうけどね」
 向こうも相容れないと思っていたなら、案外気が合うのかもしれない。そもそも僕と理人さんには似ている部分がある。
「作品に怒りや憎悪をぶつけているところはよく似てるんだけどね。でも理人はそれを隠そうとはしなかった。そして誰かを救おうなんてことは絶対に言えない人だった」
「それは――自分の作品が、人を殺したからですね」
「そう。実際は引き金に過ぎないけど……引き金になるくらいの力はあった。だからこそ、音楽の持つ恐ろしさを知っていたし、誰かを救いたいという言葉が欺瞞に過ぎないと思っていたみたいだね」
「理人さんの曲は――本人が込めた感情が音に乗り過ぎている。だから利用するのは難しい」
 何を抱えている人だったのかはわからない。けれど、美しいだけの曲を書く人ではなかった。憎しみや悲しみ、怒りがその根底に流れる音楽。強すぎる感情は僕には制御できる気がしなかった。だからこそ《光の雨》に組み込んだのは、麻美の音楽だったのだ。
「まあ、どうしようもないよな。作曲してるのに音楽をあそこまで憎んでいる人なんて他にいない。逆にその憎悪が衝動になって、理人に曲を作らせていた」
「音楽を、憎む……」
 麻美がぽつりと呟いた。彼女には想像できない世界かもしれない。麻美は純粋だ。真っ直ぐに音楽に向き合って、それを愛してきた。
「どれだけ愛してもそれが自分のものにならないから、愛がいつしか憎悪に変わるんだ。……けれどそれは人間に向けられたものではない。そんな人がいるんだなぁと、私としては興味深かったけど」
「だったらそのまま音楽のことだけ見ててくれればよかったのに」
「音楽に近付くのに人間の体でどこまでいけるか、生身で無理なら機械でも、なんて考えてた人が、その衝動を奪いかねないものに首を縦に振るわけがないだろう」
 その生き方は苦しくはなかったのだろうか。いや、苦しんでいたからこそのあの音楽なのか。自分を突き動かす原動力を奪われると思ったなら、否定したい気持ちもわかる。でも僕は思う。理人さんの生き方は、僕とは違う方向で破滅的だ、と。
「私は理人に壊れてもらっては困るから、最初は君たちの計画には乗らないと言った。でも君たちとそれ以外の人間との、人間性の奪い合いには興味があったんだ」
「……既に壊れてるような気もしますけど、それは響のためですか?」
「そう。少なくとも響が自分の力で受け止められる年齢になるまでは、と思っていた」
 何歳になれば受け止められるのか見当もつかないけれど。でも好きな人が何もかもを奪われてしまう姿は、子供であれば尚更受け入れられないだろう。
「あとは……理人が言う『作曲する機械』を作り上げたい、という気持ちはあったね。あれは――〈Schweigen〉は、理人が父の死を乗り越えるために必要なものだった」
「あの頃、理人さんは『作曲する機械』の試作を見るために、先生の研究室に時折顔を出していた。そして――僕たちがアポを取った日に、急に理人さんがやってきたことがあった」
「……でもあの日、研究室に来たのは麻美だけだった」
 先生もあの日のことはしっかり覚えていたらしい。先生との交渉はほとんど僕が直接やっていたから、僕が行かなかったのはただ一回だけ。そして行かなかったのには理由がある。
「――あの日、大学までは行ったんですよ」
 急な雨が降り出して、傘を持っていなかった僕は、麻美の折り畳み傘の中に入って先生の研究室を目指していた。雨の中歩く学生は少ない。だからこそ僕は――僕たちは、お互いの姿を見つけてしまったのだ。

 先生の研究室に向かって歩く僕、そしてどこかに行った理人さんを待っていた(しょう)。彰はずいぶん背が伸びていた。それでもお互いの姿を捉えた瞬間にわかってしまった。
「――藤崎さん?」
 異変を察した麻美が声を掛けてくる。そうだ。僕はもう佐伯海としての人生は捨てた。今の彰は僕とは無関係の人間だ。どうしてここにいるのかなんて彰の勝手だし、何事もなかったように通り過ぎればいい。よく似た別人のことでも見つけてしまったのだと思えばいいだけだ。
「何でもないよ、行こう」
 僕のやろうとしていることに巻き込むわけにもいかない。僕たちはもう違う世界に生きているのだ。そう言い聞かせているのに、どうしても後ろ髪を引かれてしまった。もう失ったはずの器官が疼いているような気さえする。僕の中にある悍しい欲求が頭をもたげ始めるのがわかった。
 あと少し、その姿を見るだけなら――そう思った瞬間に足は止まってしまった。数多の神話に謳われるように、決して振り返ってはならないのに、人間は振り返ってしまうからそれが物語になる。何度戒められても人間は同じ過ちを繰り返す生き物だ。
「藤崎さん?」
「ごめん、少し用があるから――先に行っててほしい」
 麻美は何も聞かずに頷く。彼女は僕が話したくないことは決して聞かない人だ。僕は麻美から離れて、元来た道を歩き始める。けれど数歩で思いとどまった。
 最後の日、僕は彰を突き放した。その前までも沢山の罪を重ねてきた。今更姉を名乗る資格なんてない。彰が今誰かのところで幸せになれているならそれでいいはずなのだ。
 そもそも未練がましく過去にしがみついてどうするのだ。これから僕は過去も現在も未来もこの手で壊してしまおうとしているのに。
 深呼吸をして、もう一度麻美の背中を追うために歩き出す。けれどそのとき、強く腕を掴まれた。
「――姉さん」
 記憶より低い声。そういえば僕たちが離れたときの彰は、まだ声変わりも終わっていなかったのだ。記憶にない声のはずなのに、その声で体の中に炎が広がる。
「……僕たちはもう他人だ。僕は君の姉なんかじゃない」
 それでも、拒まなければ。そう思っているのに、彰は僕が抵抗できないほどの力で僕の腕を掴んでいる。
「勝手なこと言うなよ。何も言わずに出て行って、これからは他人ですなんて、そんなの納得できるかよ」
「全部捨てたんだ。あんな家族はいらないから」
「説明になってない!」
 彰の目には怒りが浮かんでいた。当然だ。彼にしてみれば、久しぶり帰ってきたと思ったら、急に母親を刺して出て行ったことになる。
 だったら僕のことを憎めばいい。もう僕たちの道は別れてしまった。万が一にでも再び交わることなどないように。
「説明? そんなの邪魔だったからに決まってるだろ」
「……姉さん」
「僕に家族なんて必要ない。だけどあの人は僕を邪魔するから刺した。それだけだよ」
 掴まれたままの腕を引き寄せられる。僕たちの距離がなくなった瞬間、彰の唇が僕の唇に触れていた。
 お願いだ。これ以上呼び起こさないでくれ。君と違う道を歩むという決心が揺らいでしまうから。本当は誰よりも君を愛してると言ってしまいそうになるから。
「彰……」
「俺が邪魔なら何で、あんなことしたんだよ」
 今の彰は、僕がしたことの意味をきっと知っているのだろう。それだけ成長したし、きっと彼を成長させた、彼を本当に見守っている人がいるのだ。僕は用済みどころか、こうして顔を合わせることすらも彼のためにはならない。
「――僕が、彰のことが好きだったからあんなことしたとでも思ってるの?」
 だから、僕は君を傷つける。
 積み重ねてきた僕たちの日々の全てが、嘘になるように。
「あんなの、ただ欲望の捌け口にしてただけだよ。僕の言うことを聞いてくれるなら、相手は誰でもよかった」
「……本気で言ってるのか」
「今更嘘を言う必要なんてないでしょ。それとも何? 僕に愛されてるとでも思った?」
 愛なんかじゃない。そう何度も言い聞かせた。愛を言い訳にやっていい行為ではなかったから。僕は彰を自分のいいように扱いたかっただけだ。
 この気持ちも、失った部分が痛くて仕方ないのも、全部嘘だ。
「いいことを教えてあげる。……人は愛してる人にこんなことはしない」
 その首筋に触れて、指先に脈動を感じてから、ゆっくりと手に力を込める。どうせ遂げられない想いなら、君を大切に思うことがこんなに苦しいなら、いっそ自分の手で壊してしまおうとさえ思った。希望なんていらない。何もかも消えてしまえばいい。
 期待したあとで、その光を奪われるくらいなら――全部否定して、暗闇の中で生きる方が。
 それなのに、僕はやはり手を離してしまうのだ。君さえいなければこの世界に未練なんてないのに。揺るがない自分を手に入れられるのに。
「っ……姉さん……」
「僕はもう君の姉じゃない。もう二度と僕の前に現れないで。次は本気で殺すよ」
「どうしてだよ……! こんなの勝手すぎるだろ……!」
 そう。全部僕の勝手だ。だから君はもう、僕のことを忘れてしまえばいい。僕たちは、ただ血が繋がっていただけの他人に過ぎないのだ。
 彰を無視して先に進もうとした瞬間、向こう側から歩いてくる人影が見えた。全ての歯車が軋みながらも噛み合い、歪に回り始める。
「――何をしてるの?」
 警戒と、敵意。
 それが彼が――黒山理人が、僕に直接向けた、最初の感情だった。
「僕は植田先生に用事があって来ただけですよ」
「……彰に何を言った?」
 その一言で何もかもが理解できるほど僕は聡くはなかった。事態が飲み込めないながらも、僕は動揺を覆い隠して、理人さんと向かい合った。
「――何も言ってませんよ。知り合いに似ていただけです」
 冷たい視線を感じる。同時に、彰が理人さんに向ける視線にも気がついた。彰が今心を預けているのは理人さんの方だ。どうしてよりにもよってその人なのか、と責めたくなった。けれど何もかもを放り出した僕に何かを言う資格はない。
「帰ってくれないか。匡にも、麻美にも、もう関わらないでほしい」
「あなたには関係ないことでしょう。僕は別に何かを強要したわけではないんだから」
「君の計画のことは匡から聞いた。君がやろうとしていることは、救済を騙った破壊だ」
 おそらく理人さんは、誰よりも僕がやろうとしていたことを理解していたのだろう。真逆のものが何故か似通ってしまうように、命題とその対偶の答えが同じように、僕たちはよく似ていた。
「選ぶのはあの二人ですよ。僕は一つの道を提示しているだけ」
「その道が危険だから言ってるんだ」
 腹が立つ。人には興味がないような顔をしておきながら、彼が愛する音楽を生み出す人間の営みを彼は正しく愛している。
 人間に絶望したこともないくせに。苛立ちが口を突いて溢れ出す。
「だったら、僕よりも魅力的な道を提示してみればいい。先生にも、麻美にも――彰にも」
 僕はそう吐き捨てて、理人さんの横をすり抜けた。その瞬間に理人さんが意志のこもった声で言う。
「少なくとも――僕の音楽は君が作る偽りの光を砕くものになる」
 自分の音楽に対するその自信は、イヴェットにも似ていると思った。だとしたらその全てを否定すれば、僕は彼を殺せるだろうか。
 思い浮かんだことを苦笑とともに否定して、僕は二人から離れていく。二人が僕の敵になるならそれで構わない。誰が何をしようと、もう僕自身でも止められないのだから。それにその光はまだ足元すら照らせないほどのものだ。
 けれど、例えば彰が自分自身の光で僕を否定するのなら、そのときは――僕たちの道は再び交わり、そしてどちらかの道が途絶えるのだろう。

30「Q&A」

「……実際に、理人さんの曲は〈光の雨〉の効果を消してしまう。それは理人さんも麻美も同じ人に影響を受けたのに逆方向に進んだから、なんでしょうね」
「曲にもよるけど、『遊色』は特に効果があるみたいだね。ピアノパートだけで効果が半減した」
 植田(うえだ)治を絶望させたほどの曲。人を絶望たらしめるには、やはりそれだけのものがあるということだ。
「私の曲は先生のものを引き継ぎ、理人さんはあえてそれを壊すような曲を作った。その違いなんですね」
「どちらが優れているとかではなく、ね。父を尊敬し、それを下敷きにして発展させる人と、バラバラに解体してその部品で新しいものを作った人。どちらが正しいかという問題ではないから」
 何よりも厄介だったのは、芸術家としてはあまりにも正統な、理人さんのあり方だった。そして僕自身が、自分の思想を認めてはいなかったことだ。
「……本来は、君は理人側の人だろう」
「否定はできません」
 〈光の雨〉の効果が完全に出れば、偽りの希望に満たされた穏やかな日々と引き換えに、全ての芸術も死に絶えるだろう。絵にしても音楽にしても、それは何も知らない人が思うほど生易しい行為ではない。身を切るような苦痛を伴って、ようやく完成するものだからだ。自分の体の中には収まらないような衝動が新しいものを創る。けれどその衝動を抱え続けることはつらいことだ。
 なくなってしまえばいいと思ったことは一度ではない。けれど、それがなければ芸術家としての僕は死んでしまうのも事実だ。
「そして、君と同じように何かを創り出そうとしている人間を巻き込むことを嫌がっている。……昨年碧原(みどりはら)に行ったとき、響や君の弟を最終的には見逃したように」
 先生には言っていないのだ。昨年碧原に行ったときに何があったのか。理人さんがその下の世代に引き継いだものを目の当たりにしたあの短い日々を。
「響や(しょう)を見逃したのはあくまで副次的なものですよ。僕が見逃したのは実紀くんだけ」
「……聞いたことがあるな、その名前」
「理人さんの甥ですよ。そして――理人さんが彰や響とは違う関わり方をしたせいで苦しんでいた子でした」
 最初は、簡単に僕の手の内に堕とせると思った。そして彼を手中に収めることによって理人さんに勝とうと思った。けれどそれは阻まれた。――楽になりたい。道を示してほしい。そんな想いとは裏腹に、彼の中には燻っていても消えない炎が燃えていた。そして僕はそれを消したくはないと思ってしまったのだ。響や彰がそれを守ろうとしていたのと同じように、彼が自分でその炎を取り戻すのに手を貸しさえした。
「それは……将来的に自分の首を絞めることになると思うけどねぇ」
「――理人さんみたいな生き方ができる人なんてごく少数ですよ」
 だからこそ、〈光の雨〉を支持する人間は少しずつ増え続けている。今更数人見逃したところで大勢に影響はない。ほとんどの人はお手軽で、穏やかな幸福に包まれていたいと望んでいるのだ。
 そんな愚昧な人間なんてさっさと滅びてしまえばいいと思いながら、僕はそんな人間に手を差し伸べている。救いの手に見せかけた破滅に気付かず、世界が少しずつ壊れていくのを見つめている。
 でも本当は、本当に見ていたい世界は。
「もう今更戻れない。――僕はやっぱり、この世界を許せないから」
 何かを創り出すのが苦しいのは、溢れ出す衝動を形にするとき、何もかもを自分で決めなければならないからだ。自分が選んだ道が道が正しいのか間違っているのなんて誰も教えてくれない。誰かに決められた道の方が本当は楽なのだ。だけどそれができないから、僕たちは自分の道が獣道だとしても歩くほかはない。
 それなのに、大多数の人間は決断を他人に委ねて、それで安心している。誰かが悪と言えばそれは悪で、悪とみなされたものの姿を見ることもなく拳を振り下ろす。
 いま僕が握っている全てを使えば、きっと僕の大切なもの全てを悪にしてしまえる。僕にとって大事だったものは、僕に寄り添ってくれたものは、この世界には不要で、状況によっては悪にもなりうるもので、穏やかな日々を脅かすものとして人々に認識されているものだ。
「『尊厳のない死』を創り出す過程で、君は君が一番軽蔑しているものに手を差し伸べる。――けれど、平気な顔でそれが出来る人はそう存在しないと思うよ」
「……先生は一体どっちの味方なんですか」
「私は蝙蝠のようなものだからね。今はこちら側だよ。……この世界は、絶望するには充分すぎる状況だ。けれどこのまま突き進むには、今の君は優しすぎる」
 迷いが消えていないのは事実だ。心のどこかで誰かに止められることを想像してしまうほどには。僕の息の根を止める銀の弾丸は理人さんではなかった。それなら誰なのか。彼の想いを引き継いだ響なのか、彼の執着を受け継いだ彰なのか、突き放されて、迷いながらもとりあえず進むことを選んだ実紀くんなのか。
「それならどうしますか? 僕の心でも殺しますか?」
「残念ながらそれは得策ではないんだよ。何より私が面白くない」
 先生のあまりに正直で身も蓋もない言葉に麻美が立ち上がる。僕はそれを片手で制した。先生を完全に信用できないのはどうせこれからもこの先も変わりはしないのだ。
「君の計画のもう一つの欠点は、とても時間がかかるということだ。下手したら完成する頃には私なんて老衰で死んでるかもしれない」
「……老衰で死ねたらいいですね、むしろ」
「ロクな死に方しなさそうってよく言われるよ。だから、誰かがいなくなって回るようなシステムを作るんだよ。そういう意味では宗教も立派なシステムだね。そのうちトップが何も言わなくてもその下が勝手にやってくれるようになる。――君ひとりで無理をする必要はもうなくなるんだ」
 けれどそのシステムが僕が望まぬ方向に転ぶこともあるだろう。そのときはどうすればいいのか。
「普通のシステムでは、確かに途中から意に沿わぬ方向に行くことがある。そして自動的に動くものは止めるのが難しい。けれど私が作るものは違う。――私は、君自身を複製するつもりだ」
 僕を知らなければ僕を複製することなどできるはずはない。だから僕の話を聞きたがったのだと納得できた。けれど僕は首を縦に振るつもりはない。
「たとえそれが心を持たぬ機械でも、僕のものを明け渡すつもりはない。僕の苦痛も、憎悪も、僕だけのもの」
 それで僕がいなくなった後に、作り上げてきたものが壊れても構わない。僕は僕の似姿を作るつもりもなければ、誰かに引き継ぐつもりもない。誰かが勝手に二代目になるというのならそれは止めないけれど、今ここで僕が僕を引き継ぐものを用意するつもりはない。
「そうか。まああんまり期待はしてなかったけどね。それなら他の方法も考えてはいるけど――この話は後にしよう」
 先生が微笑んだ瞬間、僕たちがいた部屋のドアが開いた。細く開いたドアから顔を出したのは、今はアメリカにいるはずのミレイだった。
「どうして、ここに」
「そこの学者先生に呼ばれたんですよ。ていうかガードが甘すぎるんですよ藤崎さん。ナイフは持ち出されるし、通信機器を勝手に使われるし……いやこの親子の手癖が悪いだけかもしれませんけど」
「いやさすがに犯罪行為までは教えてないけど……でも、防犯のために知っておくと便利な手口はあるからね」
 それは教えているようなものだが、今はそんなことを言ってはいられない。確かに先生の専門は人工知能で、それに付随して様々なことに精通してもいるから、僕の通信機器を僕に気付かれずに使うことも可能だろう。けれどミレイの話をしたのは今日が初めてのはずだ。どうして彼女に連絡を取ることができるのか。
「絵の仕事も〈光の雨〉の活動も、君ひとりでどうにか出来る範疇を超えている。それならどこかに優秀なマネージャーならなんなりがいると思ったんだよ。それで君の通信機器を少し覗いて、おそらくこの人だろうと予想をつけて話をした」
「……何のために?」
「調べてほしいと言われたんです。あなたから話を聞く予定だけど、裏付けがほしいからって」
「つまるところ、先生も僕のことあんまり信用していなかったってことですね」
 それはそれで構わないのだが、まさかミレイに頼むとは思わなかった。ミレイならば僕が彼女に話していないことまで色々調べあげそうだ。彼女は優秀なだけではなく、世の中の裏側にも精通しているのだから。
「君を信用していないというよりは、人間の記憶自体が信用ならないときがあるからね。客観的な事実を知りたかったというのはある。それに関しては、君の記憶は概ね正確だということがこれまでの話でわかったんだけど、彼女が別の情報を掴んでね。しかも私なんかには伝えられない話だと言うからね」
 先生もまだ知らない情報を伝えるために、わざわざ日本まで来たのか。しかも新型感染症の影響で海外からの渡航が制限されているこの時期に。
「むしろよく来れたね、ミレイ」
「……これを伝えるにあたって、あなたから目を離したくはなかったので。同じ失敗はしたくないんです」
「同じ失敗、なんていうからには、僕が死んだりするような話なのかな?」
 イヴェットはミレイが目を離した一瞬のうちに命を絶った。それが彼女の傷としてずっと残り続けている。ミレイが無理を通してまで日本に来たのは僕を監視するため。だとしたら、彼女が握った情報は何なのか。僕はミレイに先を促した。
「あなたの母親についてです。――伝えるべきかは、迷いましたが」
 ミレイは僕にはあまり気を遣わずに物を言うので、ここまで歯切れが悪いのは珍しい。同時に良い知らせでないこともわかった。
「――いいよ、言って」
 ミレイが頷く。良い知らせではないとしたら、それが何かはあらかた予想できる。そのはずなのに、酷く動悸がした。
「あなたの母親は長らく錯乱状態にあり、話もできない状態だし記憶も混濁している、とされていましたが――どうやらここ半年ほどで、急速に回復しているようで」
「……思いつく限りで最悪の事態だね。今からでも捕まったりするかな」
「あなたが捕まっても、あの事件に関してはあなたはほぼ被害者だからどうとでもなります。虐待の証拠もイヴェットがしっかり残しているわけですし」
 ミレイの口調には焦りが滲んでいた。僕を気遣うように見る麻美の視線を感じる。
「彼に言われてあなたの過去を調べているうちに、おそらくあなたの知らない情報が出てきました。問題はそれです」
「僕の知らない情報……まあいい話ではないんだろうね」
「――あなたの父親の事故には、いくつか不審な点があります。それが私の憶測であれば問題ないのですが」
 最悪すぎて笑いさえこみ上げてくる。どこから始まっていたのか。僕が生まれたときから? いやもしかしたらもっと前から。母は青い目を生み出すために近親での婚姻を繰り返す家に縛りつけられるのを嫌がっていた。けれど僕は青い目を持って生まれたがために母に憎まれた。そして――父もまた、僕と同じ色の目を持っていた。
「藤崎さん……」
「最悪だね。これ以上ないくらい。……むしろなんで今まで気付かなかったんだろうな」
 あの人に関しては、僕の判断力は全く正常に機能していないようだ。そのことも腹立たしいが、ミレイの憶測が正しければ――母が次に何をしようとするかは予想がつく。
「所詮一般人ですから、あなたにそれなりの護衛をつければ問題ないとは思います。ただ……一番の不確定要素は、正直なところあなたなんですよ」
「護衛がいると行動が制限されるから好きじゃないんだけど……そこは問題ではないね。ここにいる僕以外の全員が、きっと同じことを心配してるんだろうね」
 僕がどうすればいいかなんて、僕自身が知りたい。今まで無力化されているから問題を先送りにできただけだ。けれど――父の事故さえ、母が仕組んだことだとするならば。
「――先生」
 決めるのは僕自身。けれど意見くらいは仰ぎたかった。

「どちらを選んだら、僕の憎悪は完成すると思いますか?」

 沈黙が流れる。誰もが固唾を飲んで、先生の答えを待っていた。

31「この闇を照らす光のむこうに」

「私にそれがわかったら苦労しないね」
「……それは確かにそうですね。僕ですらわからないんだから」
 細く長く息を吐き出す。僕はどうするべきなのか。あるいは――どうしたいのか。
「殺さないと自分が死ぬと思ったことはあるけど、殺したいと明確に思ったのは、背中に傷をつけられたときだけだった」
 殺したいと思っているのか、それとも思っていないのか。自分のことであるはずなのに全くわからないままだ。
 でも、自分の過去を話してきて、わかったこともある。わかったところでどうにもならない小さな望み。どうしたいのか、と自分に問いかけてみるとその言葉だけが浮かんでくる。
 殺したいとは思っていない。ただ、愛されたかったのだと、それだけを思う。天地がひっくり返ってもそんな日は来ないけれど。
 過去を話したことで、普段は底に沈めていたものが浮かび上がってくる。幼い頃の自分の感情に今の感情が引きずられた。
「……っ、う」
 胸が塞がれたようになって、息がうまくできなくなる。この感情に今なら言葉を与えることができると思った。
「少し、一人にしてほしいんだけど」
「それはできません」
 間髪入れずにミレイが言う。ミレイが何を心配しているかはわかっている。けれど今の状況に耐えることもできなかった。
「――それなら、麻美はここに残って。だったらいいよね?」
「わかりました。麻美さん、お願いします」
 ミレイが先生を追い立てるようにして部屋を出ていく。ドアが閉まると、部屋には痛いほどの沈黙が流れた。
「藤崎さん……」
「……ごめん、今は何も話せる状態じゃない」
 それだけ絞り出すように言うと、麻美は静かに頷いた。麻美はこちらが何も言わなければ、何も聞かないままでいてくれる。話せるようになるそのときまで、彼女はきっと待っている。そんな人だ。
 この感情に蓋をしたのはいつだろう。考えてみれば、父が生きていたときからずっとそれを感じていて、けれど僕はいつしかそれを克服したように思っていた。本当はただ見ないようにしていただけだ。先生に話をしたことで、それがイヴェットに話したことを入れると二回目だったことで、乱雑に放置していた記憶が整理されて、その奥にあったものが見えるようになった。
「僕は、ずっと……」
 その言葉を発すれば、きっと自分を守ってきたものが崩れてしまう気がした。けれど今言わなければ、一生言えないような気もした。
 イヴェットの筆の感触を思い出す。傷さえ昇華する彼女が、僕に教えてくれた沢山のこと。絵を描くのは対象に深く向き合う行為だ。僕を描いたイヴェットは、僕よりも僕のことを見つめていてくれた。傷を否定する必要はない。隠す必要だって本当はない。人はそれさえも美しいものに変えられる。だからちゃんと、その傷を真っ直ぐ見つめなければならない。
「ずっと……怖かったんだ」
 恐怖が呪いのように僕自身を縛り付けていた。本当は指の一本ですら自由に動かせないような状況で、そのことから目を逸らして生きてきた。そのせいで子供のまま時を止めた自分自身が、僕の中に隠れている。僕はその子供をずっと閉じ込めていたのだ。
 恐怖は、今更母を殺したところで消えはしない。死んだ人間に縛られる人なんて、これまで何人も見てきた。
「母のことももちろん怖かった。……理人さんのことも」
 麻美をここに残したのは、彼女が一番恐れを知っているからだ。麻美が理人さんを殺したのは衝動的なものだったけれど、そこには紛れもなく理人さんに対する恐怖があった。
 理人さんは、いつか自分も植田(うえだ)治のように何も生み出せなくなるんじゃないかという思いを抱きながら、宛てのない荒野を歩き続けているような人だった。怖くはなかったのだろうか。いや怖かっただろう。下手をしたらこれまでの希望を帳消しにするほどの絶望を味わい、自分も師匠と同じ道を選ぶかもしれないとわかっていたのだから。それでも進み続けることを、逃げないことを選んだあの人が、僕は怖かった。
 きっとそれは麻美も同じで、おそらくは――実紀くんも。
 差し伸べられた誰かの手を取ることは、希望をつかもうとすることは、いつかそれがなくなる恐怖に勝たなければ出来ない行為だ。恐怖という感情に蓋をしていた僕にそれができるはずはない。
 でも、ようやく掴んだものを奪われ続けてきて、怖くならない人なんていないだろう。僕が誰も信じられなくなったところで、誰が僕を責められるのか。
 その感情を認めたときに、少しだけ肩の荷が下りたような気がした。
「怖いものは怖いんだよ。……もうそれは受け入れるしかない」
 きっと理人さんはそんな自分を受け入れて、自分の恐れを赦して、それと共に歩んでいたのだろう。自分のせいで死んでしまった人がいることも、自分が同じ道を辿るかもしれないことも受け入れた。だから理人さんは目を逸らして逃げる道を――〈光の雨〉を選ばなかった。
「麻美。僕の携帯取ってくれる?」
「――もういいんですか?」
「おかげさまでね。……でも、もう少し傍にいて」
 麻美が白い花が綻ぶように微笑んだ。白く柔らかな手から携帯電話を受け取った僕は、画面上に表示されたその名前をなぞってから、通話ボタンを押した。思いの外、すぐに不機嫌そうな声が聞こえてくる。
『……今何時だと思ってんだ』
 視界が滲んでいく。届かなくても、道を違えてしまっても、記憶のものとは変わってしまっていても、(しょう)の声はいつでも僕の心を溶かしていく。
『……姉さん?』
「――南野さんに替わってくれるかな」
 母についての正式な情報を一番正確に掴んでいるはずの人だ。これからどうするにしろ、正しいとされる情報が何なのかを知ることは必要だ。たまたますぐ近くにいたのか、マイクの向こうで少し話し声がした後、訝しげな南野友香の声がマイクを通して聞こえてくる。
『替わりました、南野です』
「母について、今の正確な状況を教えてもらえますか?」
『……その聞き方は、ある程度知っている人の聞き方じゃないかしら』
「直接会ったわけではないので。でもあなたは定期的に母が入所している施設を訪問してるはずです」
 大きな溜息が聞こえてきた。ミレイの話では、回復し始めたのは半年ほど前からだという。それなら確実に把握しているだろう。
『概ね全部思い出していると言って差し支えない状態のようね。……この前見たときは、これまでとは別人のようだった』
「むしろそちらの姿の方が、僕や彰が知っている姿だと思いますけどね」
『そうなんでしょうね。正直な話、壊れたままでいてほしかったくらい。……それで、私にそれを聞いてどうするつもりなの?』
「向こうが何かしてこない限りは放っておこうかなと思って」
 先送りには変わりがないのかもしれないが、これがひとまずの結論だ。今から母を殺したとしても過去は変わらないし、僕の中に残る恐怖が消えることもないのだ。どうせ何も変わらないなら、わざわざ手を下す必要はない。
『意外な結論ね』
「合理的な選択ですよ。あくまで向こうが何もして来ない限り、ですし。……僕としては、あの人が彰に接触しようとすることを一番警戒しているし」
 今の彰がそう簡単に誰かの手に落ちるとは思えないが、その心の中に母からの呪いが根付いているのは僕と大差ないだろう。けれど僕が彰のためにできることなどさほど多くはない。
「でも、あなたもいるし――響や実紀くんも傍にいるから、きっと大丈夫だと思います」
 誰かに託すのは、本当は不安で仕方ないけれど、でも彼らなら悪い方向にはいかないだろうとも思う。僕一人が傍にいるよりはずっと。
『出来る限りのことはするわ。――もう一度、彰に替わる?』
「彰が嫌でなければ」
 また電話の向こうで会話が聞こえて、相変わらず不機嫌そうな声の彰が電話口に出る。
『……母さんのこと、本当にそれでいいのか?』
「彰は僕に人殺しをさせたいわけ?」
『それに関してはほぼ手遅れだろ。でも、復讐の動機としては十分すぎる』
「世界には復讐したいと思うけど、母さんにはあまり思ってない。それに殺したところで……きっと、怖いままなんだ」
 電話の向こうで物音が聞こえる。移動しているのか、古い板が軋む音がした。
『……あまり聞かれない方がいいだろ』
「聞かれて困るような話をするつもりはなかったけど。でも、ありがとう」
『別に……怖いなんて、初めて聞いた気がするから』
 遠く離れた場所にいるのに、まるで彰が隣に座っているような気配がした。体と体を無理につなげたときよりもずっと近いような気がする。けれど僕たちはもう違う場所を目指し始めてしまった。もっと早く気がつけば、過ちを重ねずに済んだのだろうか。
「自分がそう思ってたことに、初めて気が付いたから。今だって本当は――」
『……うん。俺も多分同じだ。姉さん一人だけじゃない』
「――でも、僕を許せないとも思ってるんだろ?」
 通じ合った気がしたとしても、僕たちはもう敵同士になってしまって、それは今でも変わっていないのだ。
『理人のことは、多分一生許せないし……姉さんがやろうとしていることも』
「でも、やめるつもりはないよ」
 誰に何を言われても、今のところは変えるつもりはない。例えば世界が様変わりして、僕が何かをする必要がなくなってしまったら別だけれど。
「彰たちがいくら抗ったところで、大多数の人間は違うんだよ。この世界では、迫害されるのは僕に抗う君たちの方だ」
『俺は世界がどうとかどうだっていいんだよ。どうせ俺には関係ない。でも〈光の雨〉が奪おうとしているものは、俺にとっては大切なものだ』
「けれどその世界では、考えることをやめた大衆が君を責め立てるかもしれない。……どっちもどっちだね」
 彰たちが信じる希望はあくまで自分の力で自分を照らすもので、それが世界に波及する可能性は低い。その希望が世界に無残に壊されることだってあるだろう。けれどその光でいつか僕の目論見を全て砕く日が来るのなら、そのときは君を笑って送り出そう。その世界に幸あれと、消えない呪いを残して。
『――俺のことは、もういいのか?』
「そういえば昨年言ったね。君のことは必ず手に入れるって。でも意味わかってないじゃないか、君」
 それはたったひとつの、僕の身勝手な願い。激烈な副作用を伴うけれど、殺してでも守りたいものがある。この世界の人間すべてに尊厳のない死を与えたとしても、同じ方法で君を殺したくはなくて。
「その意味を教えてあげるつもりもないけどね。結局みんな死ぬんだし」
 〈光の雨〉に仕込んでいる、彰だけに作用する効果がある。昨年使ったものはまだ実験段階のものだから、その行動をある程度操作するに留まったけれど、〈光の雨〉が完成すれば完全に僕の望む効果を発揮することになるだろう。
 身勝手だとわかっている。けれど君だけは巻き込みたくないから、世界が終わる前に、君だけはこの手で。
『その前に、俺が姉さんを止める』
「やってごらんよ。――期待してるから」
 その言葉とともに電話を切り、息を吐き出した。体から力が抜けて、椅子に体が沈み込んでいく。
「……藤崎さん」
「大丈夫。むしろ、少しすっきりしてるくらいだ」
 結局明日からやることは、これまでとあまり変わりはない。けれど霧が晴れたように、自分自身が何をしたいのかが見通せるようになっている。もしこれが先生の望んでいた結果なのだとしたら、とんでもない策士だ。敵には回したくないし、味方でも油断ならない。
「ミレイと先生を呼んで来るから、麻美はその間に苦くて体にいいお茶とかがあったら用意してほしいな」
「匡さんに嫌がらせするつもりですか……?」
「体にはいいんだから問題ないよ」
 そのくらいの嫌がらせは許されるだろう。僕はゆっくりと体を起こして、部屋の扉を開けた。

最終話「We're Still Here」

「――それで、どこまで思い通りだったんですか?」
「人に質問する態度じゃないよね……あんな苦いお茶飲ませておいて」
「体にはいいそうですよ。良薬口に苦しというやつです」
 だいいちこちらが出したものを何の疑いもなく口にする方が悪い。先生は麻美が用意した水を一気に飲んでから話し始めた。
「君の母親の話は完全に想定外だった。本当はもう少し理人のこととかを使って切り込もうと思っていたけど……結果としては望み通りになった」
「僕が改心でもしたらどうするつもりだったんですか」
「私はどちらに転んでも構わないからね。その上で君がどちらを選ぶのかは興味があったけど」
 自分自身のことが少しわかるようになって、それでも憎悪は消えずに残った。霧が晴れた分それは前よりもはっきりと見えている。
「難儀な人だね、君は。君自身はどちらかというと反対側に立つ人間なのに」
「……今の世界を見ていると、壊したいなって思ってしまうだけですよ」
 その世界で自分の作品を残そうとする人たちと、根底のところでは変わらないのだと思う。違うのは、世界の可能性を信じられるかどうかだけだ。自分が生み出したものが誰かに届いて、その人の心を震わせることができると思えるかどうかだけ。
 多くの人は、それ単体で腹を満たせるわけでもないものの価値を低く見積もる。そこに誰が何を込めていたとしても、命を賭けていたとしても、所詮は生きるのには不要なもの扱いだ。それがこの新型感染症に怯える世界で顕著になった。そしてそれを不要なものだとみなす人たちが、僕たちが命を賭して作ったものを叩き、貶めて、知らず知らずのうちに人を殺してしまうこともある。
 そんな世界に向けて、僕は呪い以外の何かを残してやりたいとは思わない。そして美術館の中に収まるような呪いは、呪いたい人間のところには届きはしない。ただ不快だと目を背けられるだけならまだいい。彼らは自分の不快を正義の名の下に排除しようとさえする。このままの世界が続くなら――きっとイヴェットのような人は増え続ける。
 この世界の人間になんて期待はしていない。彼らは変化を望まない。何となく生きていければいいと思っている。そんな人たちが普通で善良な人間であるための踏み絵にはなりたくないのだ。
「美しいだけの世界で生きていたいなら、その中で溺れて死んでしまえばいい」
 この世界には苦しいものも、汚いものもある。目を逸らしたくなるほど残酷なものだって。少なくとも僕の世界はそんなものばかりで満ちていた。それでもわずかな希望に縋ろうとすれば、それを奪われるばかりだった。
 いま僕を歩かせているものは、この世界に対する憎しみと――それを打ち砕くかもしれない、今は小さな光。
「……とりあえず、新型コロナはさっさと収束してほしいんですけどね。全人類が死に絶えるようなものでもないわけだし」
「猶予ができたって考え方もあるよ」
「――最近は早く人間滅ぼしたいなって思うことばっかりですよ」
「でもなぁ、実際作るの難しいんだよ。人間の頭の中の何もかもがわかってるわけじゃないからね」
「先生は好きに追究してくれればいいんですよ。必要なものは用意しますから。お金でも、何でも」
 限界は確かにあるけれど、今は協力者も、何も知らずに僕に縋る人たちも増えてきた。それを使えば先生が求めるものを用意するのは難しくない。
「お金用意するのに臓器売買とかはしないでほしいな。そのお金使いにくいからさ」
「あれはもうやりませんよ。……あのとき、自分自身の感情に気付いていたら、ミレイやケイトの説得に応じていたと思います」
「――そうか」
 あのとき、もし――。考えてもどうにもならないとわかっていても、どうしても考えてしまう。
 もし(めぐむ)が転校しなければ、僕は家のことを彼女に話したかもしれないし、彼女なら僕の感情に言葉を与えることは簡単にできただろう。
 もし父が死ななければ、母があそこまで狂ってしまうことはなかっただろうし、もしかしたら歪ながらもどうにか家族の形を保っていたかもしれない。
 もし僕が水無瀬の手に落ちていれば――もしかしたら今よりも最悪な状態に陥っていたかもしれない。けれど今の状況とは確実に違っていた。
 何より、イヴェットが生きていたなら。どうにもならない運命の歯車を止める力が僕にあったなら。
「済んでしまったことを後悔してもどうにもならないのはわかっているんですけどね。それに、煩わしいことが減ったのは事実だし」
「でも後悔はしてるんだ?」
「……母への恐怖から取った行動だったってわかったので、何となく気に入らないだけです」
「それでもいい。そういうところから始まるんだからね」
 何が、とは言わなかった。けれど先生が今の僕に望んでいることは何となく理解している。
「……先生が、僕の親だったらよかったのに」
「私、しょっちゅう親失格って周りから言われてきたんだけどな」
「その人たちは無責任に言ってるだけですよ」
 少なくとも僕の親よりはましだろう。僕がしたことを、もう子供が産めない体であることを母が知ったらどんな顔をするだろうか。きっとどちらを選んでも同じなのだ。母は僕の存在そのものを憎んでいるのだから。
「……ところで、計画の変更についてだけれど」
「今の〈光の雨〉は人が密集している密閉空間で最も効果的に働く。でもこれからの世界、そういう場所は減っていくかもしれないし……今の状況を見て、そこで〈光の雨〉を使うのは、僕の好きなものを先に壊しかねないって思ったので」
「自分勝手だね。実にいいと思うよ」
「普通逆じゃないですか?」
「でもその方が、悪の組織のトップみたいでいいじゃないか」
「……先生、ニチアサの見過ぎですよ」
 自由に時間が使えるのをいいことに、普段はゆっくり起きてくるのに、日曜日だけは早起きだ。それもテレビを見るため。
「大人が見ても面白いものだよ? 響も昔はよく見てたし。戦隊の女の子がカッコよくて好きだってね。君は見てなかったの、子供の頃?」
「そんな家じゃなかったんで。セーラームーンも世代ではありますが、よく知らないし」
「そうそう、ニチアサといえばね、それを見て作ってみたものがあるんだけど、ちょっと君にモニターを頼みたいなって」
 いつの間にそんなものを作っていたのか。先生は懐から銀色の半球状のものを出して、僕の目の前に置いた。
「……何ですか、これ」
「人間のそばにいて、話を聞いてくれるだけのAIっていうのが元ネタでね。で、これはそれを少し発展させて作った、新しい『作曲する機械』」
「――今すぐ破壊していいですか?」
「最後まで聞いてくれるかな。それは今のところは何にもできない。ただ様々な音楽をラーニングしただけの機械。それを『作曲する機械』に育てられるかどうかっていう実験をしようと思ってね。君はただ、ときどき話しかけてあげるだけでいい。あとは――響か君の弟にでも送ろうかな。人によってどんな感じに育つのか、誰が『作曲する機械』に育てられるのかが気になるんだよ」
「育ったら、これが今後脅威になる可能性もありますよね。〈光の雨〉で一番攻略が容易なのは音の部分だから」
 先生は満足そうに微笑む。どうして自分で自分の弱点を育てなければならないんだ。僕は溜息を吐いた。
「それを含めて、どうなるか気になるからね。ちなみに言葉を発する機能はつけなかったけど、代わりに話しかけると様々な色に光るし、話はちゃんと聞いてくれるから、サボテン育ててるようなもんだと思って」
「……花が咲くといいですね。あと送るなら響の方がいいと思いますよ」
 どちらにしろ、あの下宿にいる全員が関わることになるだろう。どんなものになるのか僕も少し興味がある。僕は掌に収まるほどの大きさの銀色の半球を、両手でゆっくり包み込んだ。

 蛍の光は小さく明滅して、雨のように降り注ぐことはない。だから僕が描いたのは、この世には存在しない、僕の頭の中にだけ存在する幸福だ。けれどこの中には、僕と(しょう)の、数少ない家族としての幸福な思い出が宿っている。
 降り注ぐ蛍の光――光の雨。これをモチーフに選んだのは、それが自分の一番幸せな記憶だと思ったからだ。幸福な記憶を捧げて、貶める。世界を滅ぼすための素材にする。それで過去と決別するつもりだった。
「……捨てる必要は、ないのかもね」
 過去が糧になるとか、すべてに意味があると言うつもりはない。けれどそこに確かに存在した自分自身を置き去りにする必要はないのだと悟った。
 僕はもう佐伯海という名を名乗ることはない。けれどイヴェットのつけてくれた名前には、過去の僕の断片が、しっかりと残っている。
「もう一度、描いてみようか」
 今度は目を逸らさず、あの記憶の中にいる自分自身と向き合いたい。けれど、この〈光の雨〉でこの世界を殺したいという気持ちはそのままで。

「――怖いかな。大丈夫、僕もだよ」

終わりへ向かう始まりの歌

終わりへ向かう始まりの歌

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • SF
  • 青年向け
更新日
登録日
2020-06-20

CC BY-NC
原著作者の表示・非営利の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC
  1. 登場人物紹介
  2. 序章「終わりへ向かう始まりの歌」
  3. 1-1「Ghost of a smile」Ⅰ
  4. 1-2「Ghost of a smile」Ⅱ
  5. fragment #1「Aアングル」
  6. 2「眠りの家」
  7. 3「うたかた花火」
  8. fragment #2「プール」
  9. 4「マネキン」
  10. 5「青い夜更け」
  11. 6「トランスルーセント」
  12. 7「ゼロの調律」
  13. 8-1「ひび割れた世界」Ⅰ
  14. 8-2「ひび割れた世界」Ⅱ
  15. fragment #3「風景」
  16. 9「Birthday Kid」
  17. 10「umbrella」
  18. 11「グライド」
  19. 12「Black Bird」
  20. 13「春の日」
  21. 14「最愛の不要品」
  22. 15「I'm out」
  23. 16「蜜蜂」
  24. 17「水のない水槽」
  25. 18「雨天決行」
  26. fragment #4「きらきらにひかる」
  27. 19「銀猫」
  28. 20「共鳴(空虚な石)」
  29. 21「流星群」
  30. 22「蛍」
  31. 23-1「私とワルツを」Ⅰ
  32. 23-2「私とワルツを」Ⅱ
  33. 24「生きていたんだよな」
  34. 25「未完成」
  35. fragment #5「ドーナツホール」
  36. 26「AM1:27」
  37. 27「不協和音」
  38. 28「漂流」
  39. 29「If」
  40. 30「Q&A」
  41. 31「この闇を照らす光のむこうに」
  42. 最終話「We're Still Here」