終わりへ向かう始まりの歌

深山瀬怜/浅谷てるる

  1. 登場人物紹介
  2. 序章「終わりへ向かう始まりの歌」
  3. 1-1「Ghost of a smile」Ⅰ
  4. 1-2「Ghost of a smile」Ⅱ
  5. fragment #1「Aアングル」
  6. 2「眠りの家」
  7. 3「うたかた花火」
  8. fragment #2「プール」
  9. 4「マネキン」
  10. 5「青い夜更け」
  11. 6「トランスルーセント」
  12. 7「ゼロの調律」
  13. 8-1「ひび割れた世界」Ⅰ
  14. 8-2「ひび割れた世界」Ⅱ
  15. fragment #3「風景」
  16. 9「Birthday Kid」
  17. 10「umbrella」
  18. 11「グライド」
  19. 12「Black Bird」
  20. 13「春の日」
  21. 14「最愛の不要品」
  22. 15「I'm out」
  23. 16「蜜蜂」

登場人物紹介

《主な登場人物》
藤崎(ふじさき)(かい)
 本作の主人公。『ぼくの手にまだ触れない』(以下「ぼく触れ」)では主人公サイドと対立する立場だった。
 本名・佐伯(さえき)(うみ)。藤崎海は画家としての名前であるが、日常的に通称として使用している。
 《光の雨》という結社のリーダーである。

植田(うえだ)(まさき)
 《光の雨》に囚われた大学教授。人工知能を専門としている。
 「ぼく触れ」のヒロイン・植田(うえだ)(きょう)(後述)の父親で、植田(はる)の息子。

《「ぼく触れ」からの登場人物》
佐伯(さえき)(しょう)
 藤崎海(佐伯海)の弟で、黒山(くろやま)理人(りひと)の弟子の一人。現在、あさぎ荘という下宿屋で、響、実紀、友香と暮らしている。

植田(うえだ)(きょう)
 植田匡の一人娘かつ植田治の孫で黒山理人の弟子の一人。「ぼく触れ」ではヒロイン。「ぼく触れ」登場初期は《光の雨》を脱走するために仕掛けられた策略のため記憶喪失だった。

黒山(くろやま)実紀(みのり)
 黒山理人の甥。「ぼく触れ」では主人公。響のことが好き。

南野(みなみの)友香(ともか)
 (しょう)、響、実紀が暮らす下宿屋「あさぎ荘」の管理人かつ、碧原(みどりはら)高校の音楽教師。理人とは大学の同級生。

下野(しもの)麻美(あさみ)
 《光の雨》の幹部の一人。本業は作曲家。植田治の弟子の一人(理人は兄弟子)。理人殺害の真犯人。

黒山(くろやま)理人(りひと)
 作曲家。実紀の叔父。植田治の弟子の一人であるが、植田治の死の原因を作ったと言われている。「ぼく触れ」時点で既に故人であるが、作中のほとんどの人に大きな影響を与えている。

《その他の登場人物》
椎葉(しいば)(めぐむ)
水無瀬(みなせ)愛梨(あいり)

序章「終わりへ向かう始まりの歌」

碧原(みどりはら)高校での実験の経過報告と、現状の変化を受けて、〈光の雨〉計画を大きく変更しようと思う」
 僕を見つめているのは、今はカメラ一台。けれどその向こうにはおよそ300の人がいる。その中でちゃんとこの声に耳を傾けているのは一割程度だろう。それで構わない。僕に一切の衆生を救う力があるわけではない。そもそも救おうだなんて思ってはいない。
 多くの人を欺いてでも、僕はこの道を進んでいくしかない。その先にあるのが偽りの箱庭に過ぎない世界だとわかっていたとしても、それが数多の屍の上に成り立つ砂上の楼閣だとしても。
「――君は、いつ頃僕に追いつくんだろうね」
 呟いた言葉はざらりとした手触りだけを残して虚空に消える。カメラの後ろの赤い光を僕は見つめた。
 僕は君の敵であり続けることを選んだ。信念があるわけでもない。慈愛の心などとうの昔に捨て去った。ただ、君が僕の前に敵として現れるその日まで、偽りの幸福で世界を蝕み続けると決めた。
 君に、この光を拒み続けることはできるだろうか。きっと抗い難いものだろう。僕には微笑まない光だけれど、それは僕たちの知る、一番の幸福なのだから。
 配信を終えて椅子に体を預けると、背中のスプリングが軋む音が聞こえた。計画の修正に伴い、やることが増えた。けれど以前の計画よりも進みは速くなるはずだ。
「……間に合って欲しいけれど」
 間に合わなければ飲み込まれていくだけだ。それならそれで構わない。偽りでも、欺瞞でも、その心にとっては真実の幸福なのだ。その中で過去の傷が癒えていくのなら、それでもいい。
 けれど――、
「僕を裁けるのは、君だけなんだよ」
 だからその日が来るまで、僕は。

 椅子に体を預けたままで目を閉じていると、背後のドアが開いて、着流し姿のくたびれた男が出てきた。僕は別に和服を着るように指示したつもりはないのだが、彼が勝手に普段はできない格好をしたいという理由で、通販で購入するように要求してきたのだ。新型コロナウイルスの影響で絵描きとしての収入がほとんどない状態では、それなりに痛い出費だ。嫌がらせなのはわかっている。
 彼は僕の背後に立ったままで言った。
「私は君を赦さないよ」
 元から赦されるようなことはしていない。今まで食べたパンの数は覚えていないけれど、この手で壊した人間の数は覚えている。
「でもあの装置をデザインしたのは先生でしょう」
「あれを響に使うなんて聞いてない」
「言ったら作ってはくれなかったでしょう。それに時間稼ぎくらいにしかならなかったし。それにあれが〈光の雨〉の効果を打ち消す可能性があるなんてハッタリを最初に言ったのは先生でしょう」
 およそ一年前の話だ。〈光の雨〉を無効化する可能性がある装置を持つ植田(うえだ)|(きょう)が計画の邪魔をしないように、一時的にその記憶を奪った。今は記憶も回復し、〈光の雨〉を無効化する装置というのも実はハッタリだったことがわかっているので、植田響は完全に自由の身だ。
「先生があんなこと言わなければ僕だってあんなことはしなかったですよ」
「人を軟禁するような人間に言われても全く信用できないんだが」
「無駄な殺傷はしたくないんですよ。殺せば殺すだけリスクになるし」
 警察などに捕まってしまうわけにはいかない。それまで生きていた人間に何かをすれば、それだけ痕跡が残る。残った痕跡を辿らられば容易に僕を見つけることができるだろう。
「それは今まで君がやってきたことを見ればわかる。だが君は――|理人(りひと)に関することになると少々冷静さを欠いているように見えるな」
「……理人さんを殺したのは僕ではないですよ」
「けれど君は、自分の部下が彼を殺してしまうのを止めなかった。普段の君なら、どれだけ邪魔な存在だとしてもそんなことはしなかったはずだ。だから出来る限り調べたんだよ。そこに君の弱点があるような気がしてね」
「先生、探偵か何かの方が向いていたんじゃないですか?」
「私の研究は人工知能について。人の手で思考するものを作るためには、人の思考について誰よりも知っていなければならない」
 彼の言葉に間違いはない。人間を模した物を作ろうとする者は、人間について知らなければいけない。構造を知らなければ紛い物すら作れないのだ。ただし、この彼の頭の良さは時に厄介だ。
「君は理人に拘っているわけではなく、理人の弟子だった君の弟に拘っているみたいだね」
「……口が過ぎると身を滅ぼしますよ、先生」
「響のことは赦せないが、理人のことについてはそれほど怒りは湧いてこないよ。ある側面だけを取って見るなら、君より理人の方がよほど残酷だ」
「恨んでいたんですか? あの人があなたの父親を死に追いやったこと」
 彼の父親は、厳密に言えば自殺だ。けれどその引き金を引いたのは理人だ。そして理人はおそらく、結末を知っていたとしても同じ行動を取っただろう。
「恨んではいなかったよ。だけど、それが理人の業だったとは思っている」
「業、ですか」
「それは今のところ機械には認識できないもののひとつだ。人はその言葉で全く無関係の二つの運命を結びつける。だからこそ興味を引かれる」
 相変わらず饒舌な男だ。理人もかなり饒舌な方だったと記憶している。この二人が一緒になったら話が止まらないだろう。似たもの同士だから仲良くなったのだろうか。僕は小さく溜息を漏らした。
「私が今気になっているのは専ら君のことだよ、|佐伯(さえき)|(うみ)
「本名で呼ぶのはやめてくれませんかね」
「だが、君が藤崎海になる前はその名前を使っていたのだろう? 私が知りたいのは君がその名を名乗っていた頃の話だ」
 他人に話せるようなことは何もない。けれど拒否すればすぐに引き下がるような人ではない。
「知ってどうするんです?」
「どうもしないさ。ただの興味だからね。私は君の業に興味がある」
 教科書に書いてありそうな善良な台詞とはかけ離れているが、それ自体は嫌いではなかった。
「私は学者だ。自分の外側にある暗闇に光を当て、絡まった糸をほぐしたり、バラバラに分解したりするのが仕事だ。それに対して芸術家の仕事は、自分の内側の暗闇から新しいものを引き出すことだ。君の暗闇とそこから生まれたものを見れば、芸術の何たるかを少しは見られると思ったのだが」
「生い立ちと作品が全然関係ない人もいますよ。理人さんもわりとそうでしょう」
「よし、じゃあ正直に言おう」
 今までのは正直ではなかったらしい。逆に僕がそんな言葉に騙されてくれるとでも思っていたのだろうか。
「君が計画を大幅に変更した皺寄せがそれなりにこっちに来ていてね。君が嫌がることのひとつやふたつやらせないと割に合わない」
「開発自体はやってくれるんですか? 響は絶対怒りますよ」
「もうひとつ言うなら、響が解放された今、君は私に対する脅迫材料を何も持っていない。私が君に従う理由はもう何もないんだよ」
 そのことには気がついていた。けれど一向に脱出を試みようとしない彼の出方を窺っていたところはある。
「……じゃあ何故、ここに居残ってるんですか?」
「私は学者として、君の計画の行く末に興味がある。人は人の心をどこまで識ることができるか。まあ、SF小説なら大抵失敗するところだけれど。でも、私が人間を識るためにここにいるのは都合がいいことに気がついたんだ。言えば何でも用意してくれるし」
 僕の懐は痛むのだが、それは気にしてはいないらしい。そしてもう一つ。
「その場合、響が敵になるのはいいんですか?」
「元々私たちは別々の人間だ。お互いに考えて選んだ道なのだから、互いに尊重されるべきだろう」
「……先生が何で出世できなかったのかは何となくわかりました」
 最愛の娘と意見が食い違うことすら恐れず、人の心を塗り潰す計画に手を貸すくらい倫理観も欠如している。正直、味方に引き込んでもすぐ裏切る可能性がある。けれど一番必要な人材なのも確かだ。
「私は人間そのものを識りたい。手始めに、君が君になった物語を聞きたいんだ」
「嫌だと言ったら?」
「とりあえず私がここから脱走して、警察にでも駆け込めば君は間違いなく捕まるよね?」
「脅迫が下手ですね、先生」
 倫理観が欠如しているとは言え、人を脅したことはないのだろう。それにここに来る前までは許される範囲での研究、踏み込んではいけないところの手前で好奇心にブレーキをかけて生きてきたのだろう。
「……まあ、ここで誰かに話しておくのも悪くはないかもしれないですね」
 過去の話。捨て去った本当の名前の物語。
 始まりは十四歳の夏、記憶の底から時折蘇る光。――僕自身も拒めない幸福の話だ。
「幸いにも時間はそれなりにある。ここは学者らしく、いったんは君の話を飲み込んでみせよう」
「人としては面白いですけど、先生って親には絶対なって欲しくないタイプですね」
「でも響にはそこまで嫌われてなかったと思うけどな」
「多分これからめちゃくちゃ嫌われますよ。仮に結婚することになっても挨拶にもきてくれなくなるんじゃ」
 彼女がこれからどういう道を選ぶかどうかはわからないけれど、彼女の未来の支えになるだろう人のことは知っている。それは父親である先生は知らないことだ。
「別にそれはいいんだけど……相手が理人みたいな奴でなければ」
「どうでしょうね」
 理人みたいな人でなければいい、というのがどういう意味なのかはわからないけれど、暫く響の近くにいるとある少年のことは黙っておこうと思った。少なくとも理人の血縁ではある。
「それじゃあ、お茶でも飲んでから始めましょうか」
 話すことは断片的な記憶を一本の線に繋ぐのにも役に立つ。どうせ世の中が足踏みしなければならない状態になっているのだ。言葉を紡ぐ時間はたくさんある。
 始めよう。終わりに向かう始まりの物語を――僕が僕になった所以と、その途上で犯した罪の話を。

1-1「Ghost of a smile」Ⅰ

「まずは、君に弟が生まれる前の話から聞きたいな」
「その時期には話すようなことはあまりないですよ」
「そうだとしても、弟が生まれることで君に起きた変化は、その前を知らないとわからないだろう?」
 そう言われても、どこから話せばいいものか。手元に置いた白い紙に鉛筆を走らせながら考える。昔から、記憶を辿るときは手を動かした方が上手くいく。描かれるのは何の形にもならない線だったりするけれど、脳内に散らばる断片を引き出す手がかりにはなる。

 僕の目は生まれつき、海を映し取ったかのような青色だった。だから海、という単純な名付けだったと聞いている。父の目も僕と同じように青かったけれど、近い親戚に碧眼の外国人がいるわけではなく、なぜかはわからないけれど、時々青い目の子供が生まれる家系だった、とのことだ。青の目は潜性遺伝らしいので、たとえ先祖に青い目の人がいたとしても、僕の代まで引き継がれるというのは珍しいのではないかと思うが、詳しく検査をしたわけでもないからそれはわからない。案外、そういうこともある、という類のものなのかもしれない。
 目の色については、同級生にもよく聞かれた。でも僕の目が青かったからといって、その人に何かあるわけではないのだ。そこに人を楽しませるような物語もないし、そもそもなんで、と聞かれても僕にもわからないのだから答えようがない。
 そんな中、たった一人だけ、僕の目を綺麗だと言った人がいた。彼女の名前は|椎葉(しいば)|(めぐむ)――小学三年生のときのクラスメイトだ。僕が言えた話ではなかったが、(めぐむ)はクラスで浮いていた。萌は教室に来るのが苦手で、一週間の半分は保健室登校していたからだろう。僕と萌が初めて言葉を交わしたのも保健室だった。
 僕は体育の授業中に膝をすりむいて、教師に一応保健室に行くように言われたので保健室に入ったのだが、そこに養護教諭はおらず、代わりに萌が静かに窓際の長椅子に腰掛けて本を読んでいた。
「先生ならもうすぐ戻ってくると思うよ」
 萌が僕の顔を見るなりそう言った。すぐ戻ってくるなら待っていればいいだろう。そう思って萌の座っている長椅子の端に腰掛けた。
「……カヤナイト」
「え?」
「今読んでる本に出てきたの。青色の鉱物の名前なんだって。見たことはないけど、あなたの目の色がそれに近いのかなって」
「僕も見たことないからわからないな」
「そうだよね。でも羨ましいな、そんな綺麗な目」
 真っ直ぐこちらを見つめてくる萌の瞳は眼鏡越しでもわかる透明な焦茶色だった。癖毛のせいであちこちから髪の毛が飛び出している三つ編みが揺れた。
「綺麗なんて言われたのは初めてだよ」
 それに、萌の目も綺麗だと思った。透明なはずなのに、暗い淵を覗き込んでいるような気分になる。
「前から話してみたいと思ってたの」
「どうして?」
「絵が上手いけど、前に図工の時間に先生に何か言われてたから」
「ああ、あれは……」
 そのときは保健室にはいなかったらしい。正直、萌がいつ教室にいていついなかったのかなんて覚えてはいない。しっかりと見られていたことが少しだけ面映かった。
「あり得ない色で塗ったら面白いかなと思ったんだけど、先生にはふざけてるように見えたみたい」
「前に読んだ本にそういう子が出てきたの。他のことは違う色に塗ったら、みんなはバカにしたんだけど、前の担任の先生だけはわかってくれたってシーンがあって。なんだかそれみたいだなって」
 萌は饒舌だったが、話題はほとんど本のことだった。本の世界に生きている子。その分、他のクラスメイトよりも言葉遣いや、考え方は大人びているような気がした。
「見えた通りに塗るだけが絵じゃないのにね」
「普段はもうちょっと普通に描くよ。お母さんがうるさいし」
「へぇ、お母さん子供の絵なんて見るんだ。うちはしまってはあるけど見てはないんじゃないかなぁ……まあ下手だしね」
「それならその方がいいよ。どこがおかしい、って毎回言われても、こっちは別に画家目指してるわけでもないし。お父さんは褒めてくれるけど、お父さんは絵が下手だから誰でも上手く見えてそうだし」
「私も下手だけど、上手い人くらいはわかるよ?」
 萌が唇を尖らせたとき、保健室の戸が開いて先生が戻ってきた。
「あら、どうしたの?」
「体育の時間にすりむいちゃって」
「そうなの。てっきり萌さんに保健室仲間ができたのかと。楽しそうに話してたから」
 先生はそう言いながら、手早く傷口を確認してから、大きめの絆創膏を貼った。これで本来保健室に来た用事は終わりなのだが、お互いにもう少し話したいと思っていた。そして萌が教室では話してくれないとわかっていた。
「また来るよ、萌」
 軽い気持ちで僕はそう言った。また萌が読んだ本の話を聞きたいと思ったし、絵の話もしたかった。けれどただそれだけのことが――僕には許されなかったのだ。

 萌のところに行くのは主に休み時間だった。さすがに授業に出ないのは何か言われそうだったから。僕が休み時間に保健室に足繁く通っていると、萌の方も前よりは教室に顔を出すようになって、担任も養護教諭も少し嬉しそうにしていた。萌の影響で僕も本を読むようになって、僕が絵を描くのを萌が見るようになって、僕たちが会う場所に図書室と図工室が増えた頃、夕飯を食べているときに母が言った。父は仕事が忙しくて、その日はまだ帰ってきていなかった。
「最近、クラスの不登校の子と仲良くしてるんだって?」
「不登校っていうか保健室登校? 学校には毎日来てるし」
「教室に行けないなら同じじゃない。仲良くするなら、もっと普通の子と仲良くなればいいのに」
「……萌と話してるのが一番楽しい。他の人が知らないこといっぱい知ってるし」
 萌は綺麗なものをたくさん教えてくれる。それは現実ではなく本の中にあるものだけれど、僕がまだ知らない甘い恋の話も、スポーツに青春を捧げる話も、幸せに終わる話も、悲しい終わり方をする話も、そのひとつひとつが美しいと思えた。そしてその話になるととても嬉しそうに喋り続ける萌のことも。
「本が好きな子なんだってね。でも、本ばっかり読んで教室に行けないなんて、お母さんには現実逃避しているとしか思えないのよ。いじめられてるわけじゃないんでしょ?」
 確かにそうだ。でも萌に教室は合わないというのはわかる。かなり本を読む子だから、小学3年生の授業の内容くらい、教科書を読んで問題を解けばある程度はついていける。無理をして、誰かと結びついていなければ身を守れないようなところに居続ける必要なんてないのだ。いじめられてなくても、特に理由があるわけでなくても、そこが自分に合わないならちょっと離れてみるくらい問題ないのではないか。
「なんか、萌がいじめられてればよかったみたいな言い方だね」
「そういうことを言ってるんじゃないのよ。私は海までみんなから浮いちゃって、教室に行けなくなったらどうしようと思って」
 もう既に目の色だけで浮いているのだけれど、とは言わなかった。どうせ何を言っても無駄だ。僕は母の言葉を適当に受け流して、早々に夕飯を食べ終わった。何を言われても、萌と会うのをやめる気はさらさらない。学校にいる間は母も何も手出しができないし、最悪先生に黙っていてほしいと言えばいいだけだ。

 萌と話すようになって半年ほど経った頃、最初に変化が訪れたのは僕の方だった。けれど僕はその変化の意味がわからなくて、何かの病気なのではないかと思いながら保健室に向かったのだった。
「どうしたの、そんな慌てて。先生ならしばらく戻らないと思うけど」
「萌」
 僕は自分の身に起きたことを萌に話した。萌は特に表情を変えたりすることなくそれを聞き、とりあえず病気ではないよ、と笑った。
「それは生理ってやつだよ」
「何それ」
「詳しく説明すると長くなるから、その前に……確かこの辺にあったはず」
 保健室の主と化していた萌は、先生もいないのに近くの引き出しを探り始めた。危険な薬などは鍵がかかる棚にしまってあるから、そこは誰が触っても問題ない場所ではあったけれど。
「とりあえず、この中にショーツと1日分のナプキンが入ってるから。あ、使い方は中に紙が入ってて、それに書いてあるって前に先生が言ってた」
 保健室のすぐ隣にあるトイレに送り出された僕は、病気ではない、という萌の言葉に安心しながらその袋を開いた。
 おそらく急にその日が来てしまった人のために、保健室にはそれが常備されていたのだろう。そして保健室登校が長かった萌は、先生がそれを渡すところを見ていたのだ。僕は中に入っていた薄っぺらいパンフレットを見ながら、どうにか処理を終えた。下腹から腰にかけて、内側から内臓を絞られているような違和感がある。
 パンフレットにはそれがどういう現象なのかという簡単な解説も書かれていた。自分が女であって、子供を産める体に成長したのだ、というただそれだけのこと。そのはずなのに、何故だか泣きたいような気持ちになった。
 とりあえず萌のところに行こう。何度か深呼吸をしてから僕はトイレを出た。
「おかえり。大丈夫だった?」
「うん。ありがと、萌」
「場所知ってただけだけどね。私まだ来てないし」
 萌の隣に腰掛けて、深く息を吐き出す。萌は何も言おうとしない僕を急かすことはなく、いつものように本を読み始めた。それがそのときはちょうどよかった。待たれていると思えば思うほど、きっと何も言えなくなっていただろうから。
「……自分の中に子供がいるって、そのための部分があるって……何だか気持ち悪い、気がする」
 萌は僕の言葉を聞くと、本のページをめくりながら言った。
「わかるよ、何となくだけど」
 けれどその気持ち悪さの正体を、萌ですら言葉にすることはできなかった。それから暫く萌は本を読み続けて、3ページほどめくったところで栞を挟んだ。
「この話、海にも読んでほしい」
 萌が今まさに栞を挟んだ本を僕に差し出す。僕は言われるがままにそれを受け取り、文字の羅列を追った。短編集の中のひとつの話。その中には、まるで今の僕のような少女が出てきた。
「……『そうなる準備があたしの体にできたのなら、すべてを一度にすませて、早く自由になりたかったの』」
「何となくわかるよ、としか言えないんだけど」
「うん。僕も……何となくわかる」
 少女の言う自由が何かはわからないけど、でも、僕たちは早く自由になりたかった。けれどその話に書いているような方法でも、僕は自由になれるのかわからなかった。そもそもそれが何かもわからないのに、最適な方法が見つかるわけもない。
「ねぇ、海」
 僕の手から本を受け取った萌が、その表紙を膝の上でそっと撫でる。現実にその本が存在していることを確かめるような手つきで、表紙に書かれたタイトルを親指で辿った。
「早く自由に、なりたいね」
 本の中の自由は何となくわかった。萌が口にした自由のことは、鍵がかちりと音を立てて開くときのように、それ以上言葉は必要ないくらいに理解できた。
 それは本にあったような、大人の男の人と体を重ねることではなくて、一人でもできることで――でもそのときの僕は、萌と一緒に自由になりたかったのだ。

1-2「Ghost of a smile」Ⅱ

「早く自由に、なりたいね」
 僕たちは死にたかったわけではない。ただこの世界から離れて、何もかもから自由になりたかっただけだった。けれどそれを説明したところで、理解できた大人はいただろうか。僕たちはお互い以外は誰のことも信じてはいなくて、だからそれは二人だけの秘密だった。
「どうせなら綺麗な方がいいな」
「でも死んだら自分の死体なんか見ないと思うけど」
 僕たちが自由になるための計画の話をするために、校舎の中で誰も来ない場所をもう一つ見つけた。屋上に続く階段。でも屋上は閉鎖されているから、階段を掃除する人くらいしかそこには来ない。少なくとも昼休みには誰も来ないから、僕たちはいつもそこに集まっていた。
「それに、綺麗に死ぬ方法なんてなかなかないよ」
 飛び降りは内臓が飛び散ったりすることもあるし、水死体が土左衛門と言われる状態になることは広く知られている。首を吊っても体液で汚れてしまうこともあるらしいし。
「じゃあ誰にも見つからないところで、っていうのはどうかな?」
「誰にも見つからないところ……」
 でも、僕の母親は地獄の果てまでも追ってきそうだ。それを愛だと呼ぶ人がいることは知っていたけれど、僕にとっては重い枷だ。
「それで、できれば景色がいいところ!」
「確かにそれはいいかもね。海とか」
「海だけに?」
「……海はやめとこうか」
 その計画は、おそらく実行なんてされないのだとお互いにわかっていた。完璧な計画なんてありえない。理想が高すぎて実現不可能。僕たちの計画はそういうもので、けれどその話をしているときは楽しかった。
「森の中に誰も知らない泉があって、その近くとか」
 (めぐむ)が言う。萌が見たい景色はだいたい本の中にあって、現実にはおそらくそんな場所なんてないと思うようなところばかりだった。それでも僕は、萌とその場所に行きたかった。白紙のスケッチブックに2Bの鉛筆を走らせて、夢の景色を描く。
「夜になると蛍とかも飛んでるといいなぁ。見たことある、蛍?」
「見たことないけど、蛍なら苫利まで行けば見られるんじゃない?」
「あそこはみんな知ってるじゃん。それに野生ではないし」
「そっか」
 萌は本を閉じて、僕の手元を覗き込んだ。そして何も言わずに僕の肩に頭をもたれた。
「海の絵って、なんだか優しい感じがするね」
「そう?」
「なんか安心する。私は好きだよ」
「……ありがと」
 萌はいつも真っ直ぐに人を褒めるから、うまく応えられなくなることがある。嬉しいのだけれど恥ずかしくてむず痒い。でも褒められるとその線のひとつひとつすら輝いているようで、僕はその線がぼやけないように、触れそうで触れない距離でそれをなぞった。
「そういえば、頸動脈の場所覚えてる?」
 その話をしたのは昨日のことだった。萌が読んでいた本に、首を吊って死ぬときのコツとして書いてあったのだ。できるだけそこを圧迫した方がいいらしい。
「この辺でしょ」
 萌の首筋に手を伸ばして、指先で脈動を感じる場所に触れる。萌はにっこりと笑って、正解、と言った。
「海のはここだね」
 萌の指が首筋に触れる。ジェットコースターで落ち始める瞬間のような浮遊感。僕は思わず萌の手を掴んだ。萌が不思議そうに首を傾げる。
 奇妙な感覚だ。喉が渇いているような、それでいて体は汗で濡れているような。このまま萌が手に力を入れたら僕は死ぬのだろうか。それも悪くはない、と思った。
 僕たちの静寂を裂くように、昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。どちらともなく立ち上がって、階段を降りていく。
「じゃあ私は保健室に戻るから。またね、海」
「うん。またね」
 その頃僕たちは死ぬことばかり考えていた。けれど死にたかったわけではなく、そういう遊びのようなもので――無邪気な子供が時折残酷な遊び方をするのと何ら変わりはなかった。
 そのまま誰にも気付かれなかったら、今頃僕らはどうなっていただろうか。――今でも時々そう考える。

 秘密が発覚したのは、ひとえに僕たちの見通しが甘すぎたことが原因だった。昼休みに屋上に通じる階段を使う人はいない――とは限らなかった、というだけの話だ。
 そのとき屋上に来たのはあまり干渉して来ない担任でも、聞かないふりをしていてくれる養護教諭でもなく、厳しいことで有名な学年主任だった。僕たちは追い立てられるように生徒指導室に連れて行かれて、口角に泡を飛ばして熱弁を振るう先生の言葉を聞かなければならなくなった。
 本気ではなかった――なんて言っても解放してもらえる雰囲気ではなかった。学年主任にとっては、この世界には生きたくても生きられない人間がいるのに、今死ぬかもしれないという恐怖の中にいない僕たちがそういう話をしていること自体が悪らしい。けれどどこか遠くで死にそうになっている人たちのために考えることをやめたからといって、その人たちが救われるわけではない――そんな反論は、説教を長引かせるだけとわかっていたから言わなかった。
「……じゃあ、本当に死にたくなったときはどうすればいいんですか?」
 先生の言葉がひと段落したとき、それまで俯いていた萌が声を震わせながら言った。
「みんなそう。そうやって綺麗事ばっかり言って、助けたと思ったら、生きてればそれでいいって手を離す」
「椎葉」
「生きたい人のところに命はなくて、死にたい人のところに命はある。そんな風に言うなら、私の命を生きたいと思う誰かに使えばいい」
 萌の言いたいことはわかる。けれど先生には絶対にわかってもらえないことだろう。積極的に死にたいと思っているわけではないけれど、生きたいと思っているわけでもない。ただここから消え去ってしまいたいだけで、僕たちはそれを自由と呼んでいた。
「萌」
 何言っても無駄だよ、と目で合図する。真剣に話を聞いているふりをすれば、そのうち解放されるのだ。そのあとはもっと上手く隠れればいい。でも、萌は静かに首を振った。
「……別に死にたいわけじゃないけど、読みたい本も読めないなら、死んだ方がまし」
「椎葉……」
「先生、私がそういう本ばっかり読むのを嫌がって、何度もうるさく言ってきた! だから、私は――」
 萌の言葉で思い出したことがあった。この学年主任は、昨年までは二組の担任をしていた。そして萌は昨年二組に所属していた。僕が知らない事情があるのだ。そしておそらく、萌が教室に行けない理由はそこにある。
 この教師はおそらく善意で、萌の読書傾向を矯正しようとしたのだ。そして萌はそれから逃げて、自由に本を読める保健室で過ごしていたのだ。養護教諭は、基本的には干渉して来ない人だ。萌が読んでいる本も把握していないだろう。きっとそれが萌にはちょうどよかった。
 読みたくて読んでいる本を否定されるのは、萌にとっては拷問に等しい出来事だったのだ。大人の言葉を適当にいなして、隠れて読むようなことは出来ない不器用な人だ。
 でもこのままでは膠着状態だ。どうしようかと考えを巡らせていると、救いのように予鈴が鳴った。先生は授業がはじまるから、と話を切り上げて部屋を出ていく。静かさを取り戻した場所で、僕は細く、長く息を吐き出した。
「……ごめんね、巻き込んじゃって」
「巻き込まれたとは思ってないよ。僕も先生の言ってることには納得できないし」
「でも、どうして私は……」
 どうして私は、普通に出来ないんだろう。
 萌のその言葉が突き刺さった。涙を流す萌に何かを言うこともできない。僕が言ったところで説得力なんてない。繕うことができる僕と、できない萌。それは目が良い人と悪い人くらいの違いでしかないのに、それだけで大きな差ができてしまう。
「わかってるんだよ……自分がおかしいことくらい……」
 その小さくて、ほんの少しだけ丸みを帯びた体を抱きしめる。そのくらいしか今の僕にはできなかった。でも、僕は思う。
「萌はおかしくなんかないよ。……人の形は色々だから、ひとつの枠に当てはまらなかったら異常、なんてことはない」
 そんなことは綺麗事だとわかっていた。実際は、枠に当てはまらない人間は無理やり形を変えられるか、枠の外の、誰にも顧みられない場所に追いやられるか、だ。それでも萌には自由であってほしかった。

 萌の転校が決まったのは、その数週間後だった。父親の仕事の都合でフランスに行くらしい。後で知ったことだが、萌の父親は転勤族で、しかもこの碧原(みどりはら)特有のある仕事をしていたのだ。
 もう少し僕たちが大人なら、もっと色々なことに抗えただろうか。でももう少し大人だったら、きっと萌はそのときよりもこの碧原では暮らし難かっただろう。でも、声を発したところで聞いてはもらえず、逃げ出すにしても限界があって、あのときの僕たちは本当に何の力もなかったのだ。
「……もっと海と色んな話したかったのにな」
「うん」
「仕方ないってわかってるんだ。でも、せっかく仲良くなれたのに」
 僕たちにはどうにもできないことがある。それが世界にはあまりにも多すぎるのだと、僕たちは既に知ってしまっていた。
「ねぇ、海。最後にお願いがあるんだけど」
「何?」
「『そうなる準備があたしの体にできたのなら、すべてを一度にすませて、早く自由になりたかったの』」
 萌は本の一節を呟いて、少しだけ悲しそうに笑った。
 そんなことをしても自由になんてなれない。あの物語の結末では、結局少女は世の中の理不尽に押し流されて、その体を冷たくする。
 体が大人になった証に血が流されて、それなのに心は、自分自身はまだ子供のままで、そんなままならない全てに、無駄だとわかっていても抗いたくて。
 保健室には今、誰もいない。
 萌は今まで行儀よく座っていた長椅子に横になって、僕のことを静かに見つめていた。
「いいよ、萌」
 その体にのしかかるようにして、指を絡めて、恋人同士がするように唇を合わせる。その行為は、今まで本の中にしかなかった。けれど今、萌の柔らかさを、その温度を、僕の肌と粘膜が感じている。
 その先の行為は必要ないのだと、萌に聞くまでもなく僕は理解していた。そんなことで大人になんてなれはしない。自由にもなれない。
 これは屋上に続く階段で死ぬ方法を考えていたときと同じで、だからきっと、僕たちはこうやって窒息していくことを望んでいたのだ。

 さよならは言わない。
 けれど僕たちはもう、一生会うことはないだろう。何年か後に会ってこの瞬間を汚してしまうくらいなら、もう二度と会いたくはない。
 風化する記憶の中で磨かれて、今よりもずっと美しく補正されていけばいい。

fragment #1「Aアングル」

 まさか自分が結婚するなんて思っていなかった。望んでいなかったとかそういう話ではなくて、そこまで生きるイメージができていなかったのだ。けれどそれなりに歳を重ねて、大人と呼ばれる年齢になって、社会というものにも少しずつ慣れ、来月に結婚式を挙げることになっている。
 親の仕事の都合でフランスで6年過ごして、最初は言葉も通じなくて苦労したけれど、その場所は、少なくとも私には合っていた。いい意味で放任主義で、私は好きな本を好きなだけ読んでも何も言われなかったのだ。
 フランスにいた頃はそれなりに楽しかったし、日本に戻ってきてからも、良くも悪くも全部「帰国子女だから」で片付けられて、私が何か変わったことをしても、それを咎める人はほとんどいなかった。私の人生は私が思い描いていたものよりもずっと穏やかで、平凡で、それでも棘のように抜けない記憶があった。
 一瞬たりとも、海のことを忘れたことはない。
 2人でいた時間は短かった。でも、私の心に一生消えない思い出として残るには十分だった。
 最後の日、保健室でキスをしたとき、海がその先に進もうとしなかったからこそ、私の中には記憶がなかったのだと思う。もっと繋がってしまったら、互いの体を知ってしまったら、きっとそこで終わってしまっただろう。だから私たちはきっとあれでよかったのだと思う。
 海が今どこで何をしているのか、私は知らない。けれど元気であればいいと思う。連絡先を知らないから結婚式の案内状一つ出せなくても、私たちはきっとそれでいいのだ。

 婚約者は美術館通いが趣味だった。だからデートは五回に一度は美術館。私は絵を見る知識だけは本で得ていたけれど、感覚で楽しむ彼のようなことはできずにいた。
 入り口までは一緒に行って、そこからは好きなペースで見て回って、出口で落ち合う。それはデートなのかと友達に聞かれたこともあるけれど、この後喫茶店で話すところまでがセットだから問題ない。映画館デートだって、映画の間は黙ってスクリーンを見ているだろう。
 今日は若き日本人のアーティストの作品を集めた企画展らしい。企画展のテーマは「瞬き」。その言葉をキーワードにキュレーターが選んだ作品が中心らしい。
 気になる作品の前では長く立ち止まり、近付いたり、遠ざかったりする。そうやっているうちに自分の感覚が言語化されていく。言語化された感覚は、頭の中に詰め込まれた知識の索引から、感動の理由を引き出してくる。
 私は言葉がなければ生きられない。絵も、音楽も、食事も、愛情さえも頭の中で言葉に変換してからでなければ味わえない。
 そして私は、一枚の大きな絵の前で足を止めた。
 それはありえないほどに、美しい景色の絵だった。森の中の誰も知らない泉。雨のように降り注ぐ蛍の光。けれど目を凝らせば、泉の底には赤い紐で繋がれた骸骨が二つ沈んでいるのが見える。
 その作者の正体を突き止める必要なんてない。この絵は海にしか描けないと、私が知っている。絵の横の小さなプレートには「自由」というタイトルが掲げられていた。
 あなたのことを忘れたことは、一瞬たりともなかった。けれど記憶の中にある彼女よりも成長した彼女が、今、自分の目の前に立っているような気がした。
 私が手に入れたささやかな幸福は、あのとき望んでいたものとは大きく違っている。胸を張って幸せだと言うことはできる。でもその陰で、過去の自分が顧みられなくなっていたことに気付かされた。
 忘れたわけではない。ただ、どの道を選んでも間違いじゃない分岐点で、私たちがこの未来を選ばなかっただけだ。‪
 選ばなかったその道を見つめていた私が、まだ私の中にいる。それは私の幸せに少しだけ影を落とすものだ。幸福であることを拒み続ける幼い私。
 だって誰かが描いたような、普通の幸福なんていらなかった。普通はいつも私を閉め出してしまうから。そして私だって、自分を偽って普通である振りなんてしたくなかったから。
 ごめんなさい、なんて言ったら、海はきっと少し悲しそうな顔をするだろう。
 でも、世間で言われる幸福の中に身を置こうとしている自分に、どこか後ろめたさがある。私は違うんだ。ちゃんと考えて、自分をありのまま愛してくれる人がいて、その人と生きていきたいから結婚するんだ。そう叫んだところで聞いてくれる人はほとんどいないだろうし。
 そんな私を、海の絵は赦してくれるような気がした。そんなことなんて考えずに描いていたのかもしれないけれど、流れていく時に抗うように、私たちが藻搔いていたあの時間を縫いとめていてくれるから。
 いつかまた会えるだろうか。そのときは、最後まで海に言えなかったことを言おうと思う。
 ――カヤナイトが出てくる小説を書いたのは他の誰でもなく、私自身だ。
 その姿を一目見たときから深く透明な青色に惹かれて、戯れに書いた小説にその瞳を登場させた。私と海が初めて話したのはそのあとのことなのだ。
 私はずっと、あなたが好きだった。
 そして今も――青の瞳なんて珍しくもないような国に行ったあとでも、あなたの目ほど美しい青を私は知らないのだ、と。
 カヤナイトの瞳は、いま何を見つめているのだろうか。願わくば、それが少しでも美しいものであればいいのだが。

「気に入った絵でもあった? 随分熱心に見てたみたいだけど」
 出口で待っていた婚約者が言う。私は笑みを浮かべて、心の中で過去の輪郭をなぞった。
 海のことは彼には言わないでおこう。過去は過去のまま、誰にも触れられないところに、縫いとめておきたいから。

2「眠りの家」

 (めぐむ)の話を人にしたのは多分初めてだった。記憶はあちこち曖昧になっていて、実はもう萌の声を思い出すことができない。その姿は絵に残していたからわかるけれど。
「それで、その萌さんという子のお父さんは何の仕事をしていたんだい? なんかさっき匂わせるようなことを言っていたけど」
「原発関係ですよ。フランスは多分研修か何かかと」
「なるほど。小学生には確かに関係のない話だ」
「家によっては関係あったのかもしれないですけどね。あの家の子とは遊んじゃいけません、とか」
「酷い話だよねぇ。子供は関係ないのに。それで、フランス行った後の彼女のことは把握してるのかい?」
「事実は知ってますけど、特に知っておく意味はないことですね」
「会いに行こうと思えばいつでも会えるのでは?」
「……会わない方がいいですよ、きっと。僕と彼女の道は全く違うものになってしまったんだから」
 喋り続けると喉は渇くし、お腹が空くので、二人分の軽食と飲み物を用意してもらった。麻美が焼いたというフィナンシェを食べてからコーヒーを飲んで小休止を挟んでいると、同じようにフィナンシェを食べた植田(うえだ)先生が言った。
「それで、その少し後にいよいよ君に弟ができるわけだ。随分と歳が離れているよね」
「……僕と(しょう)の間に二人いるんですよ。まあその二人は両方とも安定期に入る前に流産してしまったんですが」
「不妊治療とかはしていたの?」
「一人いるからそれでいいだろう、と積極的にはしていなかったと思います。まあ、それは父の意見でしたが。母は二人目に――というか、男の子に拘っていたみたいです」
 父があまり不妊治療に乗り気でなかったのは、おそらくもうひとつ原因があるだろう。そして父が背負っていたものは僕にもしっかり受け継がれてしまっている。
「詳しくは調べてないんですが、どうも父方の方が遺伝子に何かあるんですよね。多分この目の色もそれに関係してるとは思うんですが」
「なるほど。そのあたりは専門じゃないから全然わからないね。……それで、君の母親は何故男の子に拘ったんだい?」
「……それについては回答を拒否します」
 理由は勘付いているが、口にしたくはない。それはその時代であればそれなりにあっただろう平凡な話。けれど母の事情についてはあまり考えたくない。
「わかった。君が話したくないことを無理に聞くつもりはないからね。――じゃあ、続きを話してもらおうか」
「ところで、僕からもひとつ聞いていいですか?」
 今まではたいして興味もなかったから把握もしていなかった。けれど、家族の話をする前に、自分がどこに立っているのかを知っておきたかった。もしかしたら参考にはならないかもしれないけれど。
「響の母親って、どんな人だったんですか?」
「今からでも私が産んだことにならないかな」
「何言ってるんですか」
「だって人類がこの世に誕生してからそれなりに月日が流れたんだよ? そろそろ男が子供を産めるようになっててもいいじゃないか」
 はぐらかそうとしているのか、本気なのか。いまいちこの人は掴めない。研究者としては優秀なのだが。
「人間は自然を利用して発展してきた。その中で自然を破壊するようなことも、摂理に歯向かうようなこともしてきた。それなのに生殖の面だけ聖域のように守られているのは、逆に人類の怠慢だと私は思うね」
「人間の生命そのものには触れてはいけない、と考えられているのでは?」
「でも医学を含むさまざまな科学技術が、私たちの寿命を本来のものよりもずっと長く伸ばしている。それは生命に手を加えていることになるのでは? 実際にそういう宗教もあるだろう。延命のための治療は神の意思に背く行為だって」
「……先生、子供産んでみたいんですか?」
 この人ならそう思っていてもおかしくはないが、僕だったらこの人からは絶対に生まれたくない。僕が言えた話ではないが、倫理観が多少捻じ曲がっている気がする。
「そうなれば、子供が欲しいという感情に男だけで始末をつけることだってできるなと思っているんだよ。あと、生殖の面は『そういうものだから』ということで、苦痛をいまだに除去出来ていないことも多い。人類はさまざまなものを自らの手で支配できるようになってきた。だったら生殖行為も支配すれば人類はもっと先にいけるかもしれない、というのが私の考えでね」
「で、僕の質問には答えてくれないんですか?」
 このまま話を聞いているのも面白そうではあったが、それでは日付が変わってしまいそうだ。僕は先生の言葉を遮って言った。
「響の母親、つまり私の妻は、ピアニストだったんだよ。とはいえ体が弱くて、演奏活動はほとんどできなかったんだけど」
「芸術家もなんだかんだ体力がなければやっていけませんからね」
「私の父親は作曲家だけど、ピアノを弾くのは苦手だったから、浩子(こうこ)が助手のような仕事をしていたんだけどね」
「理人さんも麻美も、ピアノはあまり得意ではないですもんね」
 けれどその名前は表には出ていない。裏方に徹したのか、それとも意図的に出さないようにしていたのか。
「……浩子が子供が欲しいと言ったとき、私は必死で説得した。出産に耐えられるような体じゃないとわかっていたから。でも、どうしてもと言ったから――愛の証を残したいのだって。私には全く理解できない気持ちだったけれどね。別に子供という形でなくてもいいと思うんだけど……その話は結局平行線のままだったな」
「正直僕にも全く理解できないので何も言えませんけど、先生の方が折れたってことですか?」
 先生なら色々と並べ立てて説得しそうだが、それでも意志は硬かったのかもしれない。僕には命を賭してまでやることとはとても思えないけれど、そう考える人がいること自体は否定しない。
「それで、出産自体はなんとか問題なく終わったけれど、そのあとに体調を崩してしまって――響が一歳になった直後だったな」
「そうですか」
「何で急にうちの話なんか聞くんだい?」
「僕には母親のサンプルがあの人ひとりだけなので、気になっただけです」
 僕にはわからない。あらゆる母親というものが不気味な存在に思える。どうして新しい命を生み出すそのためだけに命をかけることができるのか。そして自分の身の中で、別の生命を育むというその感覚が理解できない。
 それでも彰が生まれたときだけは、その小さな生命を愛おしく思っていたのは事実だ。

 2002年9月10日――。
 父に起こされて、弟が生まれたことを教えられた。夜に陣痛が始まって、深夜の出産になったのだ。僕は耐えきれず寝てしまって、その間に最初の沐浴まで済んでしまっていた。どちらにしろ分娩室に入れるのは父だけだったので起きていたところで何かできたわけではないけれど。
 新生児室のガラス越しなら面会ができると聞いて、僕は父に連れられてそこに向かった。生まれたばかりの赤ちゃんなんてだいたいどれも同じだと思いきや、すでにその顔立ちには個性らしきものがあった。
「……寝てるね」
「生まれたばっかりだからなぁ」
 感染予防のため、きょうだいが直接会えるのは退院してからだという。それまではガラス越しだ。透明なケースのようなベッドに入れられて、まだ何も知らない顔で眠っている。それが僕の弟だという実感は、さすがにすぐには湧いてこなかった。

 数日後、母子ともに健康な状態で退院となり、僕ははじめて彰と名付けられた自分の弟に触れた。
 かわいい、だとかそういう月並みな言葉を超えて、思わず顔が綻んだ。やわらかな生命そのものに触れたような、そんな熱が肌に残った。

 それから家にいる時間の半分は眠っている赤ん坊の近くで過ごした。と言っても本当に寝てばかりいる子供で、起きてくるのはお腹が空いたときだけだったけれど。
 母はそんな僕を見て少し呆れているようだった。可愛がっていればいいだけの人と、目を離すとすぐに死んでしまうような存在を生かすために世話をしなければならない人とは感覚が違うのだろう。代わりにできることは色々あるけれど、さすがに母乳がでるわけでもない。不規則に叩き起こされればうんざりもするだろう。
 けれどそのときは、なぜか根拠もなく幸せな未来なんてものを想像することができた。大きくなったらみんなでどこかに出かけようだとか、そんなことをよく考えていた。

「なんですか、その目は」
「いや……筋金入りのブラコンだと思って」
 否定はできないけれど、先生があまりにも引いているので、僕は溜息を吐いた。
「気付いてないかもしれないけど、一度も見たことのない顔してたから。君がそんなにニコニコ笑ってるところは初めて見たよ。表情筋、筋肉痛になるんじゃない?」
「ここぞとばかりいじってくるのやめてもらえませんかね。でも見てて飽きない子供だったんですよ。すごく寝相悪くて」
 寝返りを打てるようになる前から、気付けば体が90°回転したりしていた。それが面白くて、今では寝相アートなどと呼ばれる遊びをして写真を撮ったりもした。今でもその写真はこっそりしまってある。
 その写真をちらつかせたら、彰は絶対に嫌がるだろう、なんて。
「響は逆にすごく寝相が良かったな。寝返り返りもすぐに覚えて、自分で元の位置に戻っていったんだ。すごいだろう?」
「……僕のこと言えるんですか、その顔。しかも今は確実に娘に嫌われそうなことをしておいて」
「それは君も同じだろう」
 同じ人に奪われてますしね、とは言わないでおいた。あとで面倒なことになっても困る。このままだと埒があかないから話を変えよう。
「……理人さんの曲に、『蛍』ってすごく短いピアノ曲があるの、知ってます?」
「そりゃあまあ、響がたまに弾いてたからな。晩年の作品だろう?」
「あの曲、すごくよくできてるんですよ――最悪なことに」
 音で呼び起こされる記憶がある。その曲は、かつて僕が見た景色をそのまま思い出させてしまう。それが他の誰かの曲だったらどれだけよかっただろう。よりにもよって、あの人の曲なんて。
「……苫利(とまり)村の蛍。僕も彰も、そして理人さんも、それを見ていた」

3「うたかた花火」

 それは14歳の夏休みが始まる少し前のことだった。僕の夏休みといえば日がな一日机にかじりついていなければ母に怒られて、隠されて絵を描いているのが見つかろうものなら、その絵を問答無用で捨てられる。そんな生活だった。けれど父がいるときは母も少しは大人しい。怒りに身を任せる母を宥めるのはいつも父の役割だった。
 12歳離れた弟の(しょう)はまだ2歳で、他の子よりも言葉が遅いことを母が気にしていた。けれど成長には個人差がある、ということを僕は既に知っていた。母の本棚にある育児書の類を隠れて読んでいたからだ。だからこそ僕は教育熱心に見える母の欺瞞に気がついていた。母は本に書いてあることの半分も実践できていなかった。都合の悪い記述は見ないふりをしていたのだろう。
 そういうわけで、ずっと家にいなければならない夏休みは少し憂鬱だった。彰と過ごす時間が増えるのは嬉しかったが、あまり遊んでいても叱責が飛んでくる。父がいない昼間は大人しくしていなければならないのだ。
 そんな夏休み前のある日のこと、父が急に「蛍を見に行こう」と言い出したのだ。車で1時間ほど行ったところにある苫利村というところは蛍で有名で、その日は蛍祭りが行われるとのことだった。
 母は興味がないから行かないと言ったので、父と僕と彰の三人で行くことになった。
「そういえば前に買った浴衣があったよな」
「いいよ別に。サイズ合わないかもしれないし」
 数年前に買った青い金魚の浴衣。その当時はむしろ大きいくらいだったので、今ならきっとぴったり着られるだろうと思った。けれどその浴衣は母の気に入るものではなかったから、押し入れにしまい込んでいたのだ。
「ちょっとくらいなら短くてもなんとかなるんじゃないか?」
 そういうことではないのだけれど。父は僕の言葉を聞き流して、押し入れの中を探し始めた。溜息を吐きながら父から目を逸らすと、僕の後ろにはもう既に甚平に着替えさせられた彰が立っていた。僕が選んだ紺地に花火柄の甚平。父の着せたものには文句を言わない母は、無言のまま食器を洗っていた。
「あったぞ。ちょっと防虫剤の匂いするけど、虫には食われてないみたいだ」
 防虫剤の匂いがするのに虫に食われていたら、それは防虫剤が効いていないということになるのではないか。そんな至極当然のことを思ったりもしたが、口には出さずに浴衣を受け取った。出されたものを突き返すわけにもいかないし、白い布の上を尾鰭を翻して泳ぐ青い金魚たちは、数年ぶりに見ても僕の心を躍らせた。
「着替えてくる」
 部屋に戻って、覚束ない手つきで何とか着付けを終えてドアを開けると、父が彰と遊びながら待っていた。
「草履も見つけたぞ。そろそろ行こうか」
 浴衣は良かったけれど、草履は少し小さかった。けれど履けないほどではない。先に彰を右肩に乗せて車に向かう父が、振り返って少し遅れた僕を待っている。僕と同じ青い瞳。父の家系には青い瞳の子供が時々生まれるという。日本人には珍しいから、この目の色をからかわれることもあったが、僕にとってはそれが僕の体の中で一番好きな部分だった。
 車で一時間ほど走ると、苫利村の祭り会場に到着した。まだ日が完全に暮れていないのに、既にそれなりの人出がある。
 苫利村というのは人口規模はとても小さい村ながら、現在の財政状態は非常に良いと言われている。それはこの村だけの力ではなく、この村が受け入れた原子力発電所に伴うお金が財政を潤しているのだ。このときは知らなかったが、蛍の保護活動にお金を使えるようになったのもその関係なのだという。
 水路も、それを見るために人間が通る道も、何もかもが人の手によるものだったのに、そのときは気が付かなかった。夕暮れの中でも蛍は光り始めていて、どこかの子供が一番星を見つけたときのようにはしゃぐ声が聞こえた。
「足元、気を付けろよ」
「うん」
 それまで吹いていたぬるい風が、汗ばんだ首筋を撫でる心地よい風に変わる。空気は藍色を濃くして、本格的な夜がやってきた。
 あちらこちらで薄緑色の光が灯っては消える。父は光を見つけるたびに彰に話しかけていたが、彰は既に少し眠そうだった。確かにいつもならもう少しで寝る時間だ。私は父があまり話しかけてこないことをいいことに、蛍の明滅を目に焼き付けていた。
 蛍の姿は僕が想像していたものとは少し違っていた。もっと雨のように光が降り注いでくるのだと思っていた。けれどついては消えるその小さな光に僕は夢中になった。それが頭の中で思い描いていたイメージと結びついて一枚の絵を描き出す。
 今ここに紙と鉛筆さえあればすぐに描くのに。そう思ったけれど、小さな巾着の中には財布しか入っていないのだった。家に帰るまでこの絵を忘れずにいられるだろうか。そう思いながら蛍を眺めていると、父が僕に声をかけてきた。
「そろそろ帰ろうか。彰がだいぶ眠そうだ」
「うん」
 ちちに背負われている彰はもう目を閉じてうとうとしていた。その花火の柄の甚平を見ていると、父が言った。
「彰がもう少し大きくなったら、今度は花火大会とか行こうな。今はまだ音でびっくりするだけだろうから」
「うん、そうだね」
 車に乗り込んで、後部座席のシートにもたれかかる。もう家に帰るだけだから帯が崩れるだとかそういうことを気にする必要もないだろう。チャイルドシートに寝かされて目を閉じている彰の髪をそっと撫でた。子供が花火を綺麗だと思えるのは、一体何歳くらいからなんだろう。そのときになったら、今度は二人で浴衣を着たりするだろうか。そんなことを考えながら、僕もゆっくりと目を閉じた。

 結論から言えば、その「今度」が訪れることはなかった。
 だいたい五歳くらいになったら花火を楽しむこともできるんじゃないだろうか、と思っていたけれど、そのときを待つこともなく、父が死んだのだ。
 それは唐突な、自分たちに関係なければ数字でしか語られないような、何の変哲もない交通事故だった。
 長く病気で苦しめばよかったとかそういう話ではなく、ただあまりにも突然のことで、僕たちは何の準備もなく嵐に呑み込まれたのだった。人が死ぬとやることがたくさんある。生まれたときもたくさんやることがあって感慨に浸る暇もないけれど、死ぬときもそうなのだと僕は知った。子供の僕になにかできるわけでもないので、ただ母がやっていることを見ていることしかできなかったけれど、突然降って湧いた不幸に、僕たちに構っているような余裕はなかった。
 けれど僕よりも更に小さい彰にはそんなことがわかるはずもなく、父がいない上に母も忙しくしている状況でストレスを溜め込んだのか、友達を噛んだりするなどの問題行動をするようになった。その対応で母はさらに忙しくなる。完全な悪循環だった。
 だから家にいるときは、なるべく彰と一緒にいるようにした。それくらいしか僕にできることはなかった。とはいえそのときの彰は口数も少なく、僕は僕と話そうとはしない彰の隣で、ただ絵を描いて気を紛らわしているしかなかった。
 しばらくすると、彰が僕の手元を覗き込んできた。
「これって、はなび?」
「そうだよ。保育園で教えてもらった?」
 彰がうなずく。同じほし組のなんとかくんが花火大会に行った話をしていたらしい。そういえばこの忙しい日々で忘れていたが、二週間ほど前に近くで花火大会があったのだった。本当だったら今年ならもう一緒に見に行けたかもしれない。けれど浴衣を描いに行く時間すらなかったのだ。
「花火大会、行ってみたい?」
「うん!」
「じゃあいつか僕が連れて行ってあげるよ」
 彰は多分、父の「今度」を知らないだろうけれど。それでも約束をしようと思った。人はある日突然死んでしまうこともあるし、「いつか」が来るなんて保証はできないけれど、人は未来に光が見えなければ生きていけないから。
「そのときは浴衣でも買おうか。花火柄とかどう?」
 花火を見に行くのに花火柄なんて変かもしれない、と言ってから思ったけれど、彰はすっかり乗り気になっていたようだ。僕はそれから何度か花火の絵を描いた。
 ――実際には、そのあとも一度も花火大会になんて行けなかったけれど。

「理人さんの『蛍』って曲は、五曲くらいあるピアノ組曲のひとつですよね」
「そうだよ。君のせいで遺作扱いだけどね、あれ」
 作品としては完成していたが、未発表だったものが出てきたので出版されたのだ。その出版には植田(うえだ)先生も関わっていることは知っている。
「あれだけは死ぬ前に出してほしかったんだけどねぇ。響のお気に入りでもあるし」
「僕は嫌いですけどね」
「それはあまりにも出来が良すぎるからだろう?」
 認めざるを得ない。あれは理人さん以外には決して書けなかっただろう曲で、紛れもなく僕たちが同じ風景を見た証左でもある。
「苫利の出身だというのは聞いていたんですけどね。――あれが原風景というやつなのか」
「皮肉にも君の原風景とよく似ているんだね。私にはそこまであの曲の良さがわからないから。響は同じ組曲の『鐘』って曲が好きだって言ってたな」
 かつて僕が見た蛍と、それを見ながら思い結んだ一枚の絵。形になることはなかったそれが、楽譜の上に描かれているような気がしたのだ。僕だけが知っているものに、優しく触れられたような気がして、僕はただでさえ嫌いだった理人さんのことがさらに嫌いになった。
「でも結局、すぐに消えてしまうんですよね。蛍の光も、花火も――」
 この世界に消えることない光など存在しない。
 わかっているのに、音があの日々に僕を引き戻してしまう。
 でも、その傍らで一瞬だけ考えてしまうことがある。
 ――理人さんに出会うのが、もう少し早かったら、と。

fragment #2「プール」

「……その曲」
「あ、ごめん。うるさかった?」
「この辺あんまり家ないから夜にピアノ弾いても誰も気にしないぞ?」
 あさぎ荘の食堂に置いてあるピアノを響が弾いていた。夜九時。東京でやったら怒られそうな時間だが、この辺りにはあまり家がないので気にする人は少ない。
「なんだっけ、その曲。題名が思い出せない。理人の曲だっていうのは覚えてるんだけど」
「『蛍』だよ。五曲ある組曲の一曲」
「なんか妙に懐かしい気がするんだよな、その曲」
「私は『鐘』の方が懐かしい感じがするな。昔、理人と苫利村行ったときのこと思い出すから」
 理人が故郷のことを思って作った曲なら、懐かしく思うのも当然なのかもしれない。苫利村出身の実紀ならもしかして全部懐かしいかもしれないし。
「俺も一回だけ行ったことあるらしいんだよな、苫利村」
「そうなんだ」
「でも2歳のときだからほぼ何も覚えてない」
 それでも記憶の中に僅かに残った断片がその曲に反応するのだろうか。その曲を聞くと頭に浮かぶ景色がある。まずは題名通りに明滅する蛍の小さな光。そして、薄暗い夜の中を泳ぐ、青い金魚。
「……青い金魚なんていないよなぁ」
「だいたい赤とか黒だね。あ、でも紺色っぽい金魚の柄の浴衣なら見たことあるよ」
「紺色じゃないんだよなぁ、なんかこう、もっと目が醒めるような――」
 目が醒めるように鮮やかで、けれど深い青色の金魚が瞼の裏を泳ぐ。それがなんなのかを思い出すことはできないけれど。
「でもいいね、青い金魚って」
「そうだな」
「そういえば、実紀が今度の週末に実家帰ってついでに蛍でも見てくるけど一緒に来ないかって言ってたよ。お祭りは今年は中止みたいだけど」
「いやそれ明らかに俺お呼びじゃないじゃん……俺何も言われてないし……」
 響は理人のことを散々鈍感だと言っていたけれど、自分も大概だということに早く気がついた方がいいと思う。要するにミキちゃんは響とデートがしたいのだ。
 二人がくっつくのは当分先だろうな。少なくとも実紀がもうちょっと好きだということをアピールしないと気が付いてもらえないし、気付いてもらえたとしても、理人という壁を越えなければならない。
「ミキちゃんもなんか曲作ればいいんじゃないか?」
「何の話?」
「いや、あいつも苫利村の出身だし、なんか懐かしい感じの曲とかできるんじゃないかなって。タイトルは……まあ適当に『花火』とか」
「漢字一文字じゃなくなってるし」
「そこはオリジナルだよ、やっぱり」
(しょう)が考えてる段階でオリジナルじゃないよね……?」
 響は苦笑しながら、もう一度鍵盤に指を置いた。そういえば、響は理人のピアノ曲のほぼ全てを暗譜で弾けるらしい。子供向けの簡単なものからピアノ協奏曲まで覚えているのは、愛というより執念に近いような気がしなくもない。
 Aの位置に置かれた中指から曲が始まる。目を閉じれば、瞼の裏でまた青い金魚が泳ぎ始めた。

4「マネキン」



 少しずつ、少しずつ、歯車が回らなくなっていって、気が付けばもう取り返しのつかないところにまで来ていた。
 高校二年の夏――僕の進学した碧原(みどりはら)高校は進学校ではあったが、受験はまだ先。どこか牧歌的な雰囲気すらあった。けれど周囲の優秀な人たちに紛れて、僕の成績は良くも悪くもない、中途半端なものだった。父が死んでからの母は、そんな僕にこれまで以上に干渉してくるようになった。
 本当は絵の勉強がしたいなどと、とても言える状況ではなかった。別に美大を出なくても画家になる方法はあると言われれば確かにそうなのだけれど、母が僕が画家になるのを許すはずはないということもわかっていた。そもそも出口が塞がれているのに、途中の道を変えたところで行き止まりだ。燻った感情は静かな苛立ちとなって僕の心を常に覆っていた。
 苛立ちの理由は進路以外にもあった。母は父が死んでから、急に僕の言葉遣いを矯正しようとしてきたのだ。一人称は私で、イントネーションは辞典通りの正しいもので。それまで使ってきた言葉に強引に枷を嵌めるのは苦痛でしかなかった。それは息をするなと言っているようなものだ。新しい土地に行ったらいつの間にかその土地の言葉を喋っているのとは訳が違う。そして僕に課されたそれらの重い枷は、全て(しょう)のためのものだった。
 父という支えがなくなって、それまで抑え込んできたものが一気に溢れてきたのだろう。もう付き合いのない親戚の話を聞いて何となくは把握している。母は、女であることだけで、夢を叶えられなかった人なのだ。
 けれどそれを子供に背負わせるのは違う。血を分けていようが別の人間なのだ。ましてやまだ小学生にもなっていない彰に望んだ未来を押し付けるなんてあってはならない。まだ遊びながら学んでいくような年齢から、先を見据えた勉強をさせられる彰が不憫で、僕は何度も母に苦言を呈したが、その度に口論になり、平行線のまま何一つ解決しなかった。
 唯一落ち着けるのが学校にいるときだった。その時間は母が何か言ってくることもないし、彰も保育園に行っている。ただ目の前のことをこなしていれば1日が終わっていく。それは僕にとっては気が楽なことだった。変人揃いの学校は相互不干渉をそれなりに貫いていて、団結力は皆無だったけれどそれも心地よかった。
 特にすることがない休み時間に自分の席でぼんやりしていると、目の前に黒い髪を顎下あたりで切りそろえた少女が立っていた。決して派手ではないが整った顔立ち。底が見えない濡羽色の瞳。うっすら赤く色付いた唇から、歌うように言葉が溢れてくる。彼女の名前は水無瀬愛梨。クラスメイトだがほとんど話したことはない。そして水無瀬はあることで非常に悪い評判がある人間だった。
「佐伯さん、昨日うちの部誌読んでたでしょ」
「……読んでたけど、それが?」
「いやどう思ったかなぁって、私の小説」
 水無瀬は文芸部に所属している。昨日読んだものの中に彼女の小説があったのだろうが、僕は彼女の筆名を知らないので、それがどれなのかはわからない。
「『Printing Rain』ってやつ。真ん中くらいに載ってたんだけど」
 その話なら覚えている。一番印象に残った作品だと言えた。ただ読後感は最悪だったということだけは強調しておきたい。あんな作品を書けるということは小説の腕前はかなり抜きん出ているということか。
「読者に直接感想を聞きにくるなんて、よっぽど自信があるの?」
「というよりは、佐伯さんに合ってるんじゃないかなって。何となくだけど」
 それは決していい意味ではないだろう。何かを見透かしたようなその目に苛立ちが募る。僕の目を見て、水無瀬は蠱惑的な笑みを浮かべた。
「ゆっくり話できるところに行こうか、佐伯さん」
 ついて行くような義理はないし、それが危険なことだとはわかっていた。水無瀬の評判を知らないわけではない。蜘蛛の巣があるとわかっていながら向かって行くのは愚かだと、きっと誰もが言うだろう。
 けれど僕は、何かに突き動かされるようにして水無瀬の後ろをついて歩き始めてしまった。水無瀬は今は使われていない旧校舎の、本棚だけが残された図書室に入って行った。古い床は歩くたびに軋んだ音を立てる。水無瀬は本棚の間を進んでいき、奥にある小部屋の扉を開けた。
 埃っぽい匂いと、押し込められたまだ本が残る本棚たち。こんな部屋があるなんて今まで知らなかった。
「ここにある本はもう除籍になったやつで、文化祭のときに格安で売るらしいけど、それ以外のときは誰も来ないから」
「よく知ってるね、こんな場所」
「昨年卒業した先輩が教えてくれたの。文芸部の先輩だったけど、図書委員もしてたから」
 その先輩にどういう経緯で教えてもらったのかは聞かない方がいいだろう。僕は溜息を吐いて、近くの本棚に寄り掛かった。部屋の中央には作業用なのか、美術室の机のような大きな机が置いてある。水無瀬はそこに腰掛けて言った。
「で、どうだったの?」
「読後感が最悪だったから、掲載順をもう少し考えた方がいい」
「でも、それが最後でも最初でも嫌じゃない?」
「あれは次の話になかなか入れないよ」
「つまりそのくらい印象には残ったわけだね」
 読後感が悪いのを味わうジャンルもあるくらいだ。そのくらいならありふれた話でしかない。けれどプロと比べれば拙いその文章の中に、得体の知れない何かが巣食っていた。それはおそらく水無瀬愛梨の悪意のようなもの。彼女は見えない糸を張り巡らせて、そこに獲物がかかるのを待つ蜘蛛だ。
「……私をどうしたいわけ、水無瀬さん?」
「私は私が見たいものを見たいだけ。ずっとそれは変わらない」
 水無瀬は笑みを浮かべる。悪女の微笑みという絵を描くならこんな感じだろうか。僕は水無瀬からそっと目を逸らした。
 誰とでも寝て、その人を破滅させる魔性の女(ファム・ファタール)。それが水無瀬愛梨に対する周囲の評価で、概ねそれは当たっている。だが残念ながら、僕はそんな女に屈するほど安くはない。
「私はあなたみたいな誰とでも寝るような人間と関係を持つつもりはないから」
「やだなぁ、私だって人くらい選んでるよ。私は、佐伯さんみたいな人が崩れ落ちる瞬間を見るのが好きなのよ」
「私はあなたに堕ちたりしない、絶対に」
 もう話すことはない。部屋を出て行こうとすると、水無瀬がドアノブを掴んだ僕を後ろから抱きしめた。甘いけれど少し青い、生花の匂いがする。そういえば彼女の実家は花屋だったな、と思った瞬間、ふわりと脳の芯を眩ませるような薔薇の香りがした。
「『人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。』」
 毒のように甘い声で耳許に落とされた一節。坂口安吾の『堕落論』。それは水無瀬が書いた『Printing Rain』にも引用されていた。だとすればこれが彼女の核なのだろうか。
 そこまで考えたところで僕は我に返った。そんなことを考えてはいけなかった。水無瀬のことを考えてしまうなんて、彼女の思う壺だ。
 水無瀬の手がプリーツスカート越しに太腿をなぞり、足の付け根あたりで止まる。
「堕ちるのも悪くないと思うよ」
 水無瀬の美しく整えられた指先が、二枚の布越しに僕の中心に触れた。一瞬の突き上げるような動きに呼吸が跳ねる。
「……っ!」
「別に声を出しても、今ここに来る人なんていないよ?」
「っ……誰が……ッ!」
 水無瀬に啼かされるなんてそんな屈辱を許せるはずはない。水無瀬はくすりと笑みを零して、スカートの中に手を潜り込ませた。古くてあちこちが毛羽立っているドアに爪を立てて、声を漏らさないように唇を噛む。
「何も考えないで、堕ちてしまえば楽になれると思うよ?」
「んっ……」
 下着の布地に沿って、水無瀬が人差し指を何度も往復させる。それは慣れていない体にはあまりにも強い刺激だった。おそらくそれも水無瀬には見抜かれてしまっているだろう。
「何にも縛られなくてもいい。思うままに生きて――」
 ――獣に堕ちればいい。
 体の中で赤い絵具が滲んでいくような感覚。張り詰めていた感情の糸を弾かれて、高い音が頭の中で鳴った。微温湯のような液体が浅い傷口から垂れる血のようにじわりと溢れ出し始める。
 水無瀬が笑う気配がして、その指が下着をわずかにずらして中に入り込もうとする。その瞬間に、体が動いた。勢いに任せて曲げた膝を水無瀬の鳩尾に食い込ませる。不意を突かれた攻撃に体を折って咳き込む水無瀬の肩を蹴って、軋む床に押し倒した。臙脂色のネクタイを掴んで首から上だけを無理に引き起こす。
「調子に乗らないでよ」
 手加減は一切しなかったからそれなりに痛かったはずだが、水無瀬はそれでも口元に薄笑いを浮かべていた。
「佐伯さん。今、どんな気持ち?」
「……このまま窓から投げたら死んでくれるかなって思ってるけど」
「なるほどね。それはそれでいいかも」
 水無瀬は特に抵抗らしい抵抗もせず、僕にされるがままだった。けれどゆっくりと僕の手首を掴んで、熟しすぎた果実のような声で言う。
「今は違っても、いずれあなたはこっち側の人間になるよ」
「そんなものにはなりたくないね」
「でも、一度味わったら人はその味から逃れることはできない。佐伯さんは今、私を好きにすることができる。殺すことも、犯すこともできる。――その味を、人は一生忘れることなんてできない」
 けれどその味に酔いしれ、思うがままに行動する人間は人間とは呼べない。それは獣と言う他ない。水無瀬は間違いなくそちら側の人間なのだろうし、彼女は自分の側に人を引き込むことを得意としているのだろう。
 ああ、確かに――この味は。他人をどうにでもできるのだという事実が、じわじわと腹の奥底から体を蝕んでいく。それは破滅だとわかっているのに、理性の手綱を奪われそうになってしまう。
 それでも僕ははっきりと思う。
 僕は水無瀬愛梨のことが――大嫌いだ。
 僕は体の力を抜き、水無瀬のネクタイを離した。水無瀬がゆっくりと上体を起こして、不思議そうな顔をして僕を見た。
「僕は、君と同じ側の人間にはなりたくない」
「ふぅん。まぁ私はどっちでもいいけど」
 水無瀬は人を弄びたいだけで、どちらに転ぶかなんて興味はないのだ。人を堕とすだけ堕として、そのあとは放置だ。僕は水無瀬愛梨のその無責任さが許せない。それは、正論ばかりを並べて助けてあげようと傲慢に手を伸ばす大人たちと本質は同じだから。自覚と悪意を持ってやっている分、水無瀬の方がまだましかもしれないけれど。
「あ、そうだ。佐伯さん」
「何? もう僕は戻るよ」
「これまでの話は一旦置いといて、ひとつお願いがあるんだけど」
 その「お願い」の内容に僕は深い溜息を吐いた。今までのやり取りは本当に何にも関係なかったからだ。
 そして僕の答えは決まっている。
「何で僕が君の小説の挿絵なんて描かなきゃいけないわけ?」
「なかなか引き受けてくれる人がいなくて」
「僕は君に加担するつもりはない。他を当たって」
「残念だけどそうするよ。佐伯さんなら引き受けてくれると思ったんだけどなぁ」
 だったらもう少し友好的な関係を築こうとするべきだ。どちらにしろ引き受ける気などないけれど。
 水無瀬の小説は人を引き込む力がある。そこに関われば、深淵を覗き込んでしまった人間のように、こちらを見ている深淵に引き摺り込まれてしまうだろう。それが彼女と関わりたくない一番の理由だ。

 けれどその、一瞬と言っていいほどの関わりは、僕の中に大きな爪痕を残していった。
 その味を知った人間はもう戻ることはできない。ままならない日常。家に帰れば言葉さえ抑圧される日々。その中で僕は、僕の中に眠っていた感情に気付かされてしまった。
 水無瀬を組み敷いたあのとき、確かに僕は、他者を支配する喜びに酔っていたのだ。

5「青い夜更け」

 水無瀬のことは嫌いだが、彼女は大切なことを教えてくれた。人はその味を知ればそこから逃れることはできない。それは僕や(しょう)につらくあたる母も同じなのだということがわかったから。
 何もかもが自分の自由にできない人生だったのだろう。もう付き合いのない親戚に昔聞いた話では母はかなり優秀な人で、男であればよかったのにと言われて育ってきた。そして女だからこそ、この田舎を出ていく選択をほとんど用意されなかった。唯一高校受験のときにそのチャンスがあったらしいが、受験当日に降った記録的な大雪に阻まれて、試験会場にすらたどり着けなかった。そして地元の学校に進み、短大を卒業し、親の紹介で父と結婚して僕たちを産んだ。
 今の時代なら少なくとも名目上は許されないような抑圧だ。それに同情することはできる。けれどそのあとに母が僕たちにしたことについては、おそらく永遠に赦せはしないだろう。
 あの味を母は知っていた。母の言う全てが、実は愛なんかではないことを僕は知ったのだ。
 何一つ自分の手では操れなかった人生の中で、それを使ってしまいたくなることもあるだろう。けれどそれは使い方を誤れば、その下で抑圧されるものを生み、負の連鎖が続いていく。
 愛を騙る支配欲で、人は人をどこまでも貶めてしまえる。言葉で呪うことも、殴ることも、犯すことすらできる。
 水無瀬が操る言葉によって、世界が鮮明に見え始めた。けれど僕は、やっぱり水無瀬のことは大嫌いだ。

 家の中の状況は相変わらず――いや、悪化の一途を辿っていた。まだ小学校にも上がっていないのに、何年も先取りした学習をさせられていた彰が泣き言を言っているのを見ることも多くなった。
「さすがに今日はやめておいたらいいと思うけど。こんなんじゃ身につかないでしょ」
 どうせこの碧原(みどりはら)には小学生から入れるような名門私立があるわけでもない。せいぜいが中学受験だし、それも数は少ない。今から焦る必要があるとは思えなかった。
「何言ってるの。東京の子たちはこのくらいからやってるんだから」
「それもどうかと思うけど、僕は」
「海」
 母の声が低くなる。僕は心の中で溜息を吐いた。一人称くらいどうだっていいのに。けれど矛先が僕の方に向くのならそれはそれでいい。
「……彰。今日は休んでいいよ。部屋に戻ってな?」
 母を無視して、半べそをかきながらノートに向かう彰に言う。そんな状態でやったって何も身につかないというのは本心だ。そんなことで時間を無駄にするくらいなら寝ていた方がいい。
「でも……」
「今日はお姉ちゃんからのご褒美。ほら、今日は早く寝な?」
「うん」
 母の顔を見てしまうと、彰はそちらに従ってしまうから、わざと母が見えない位置に立って言った。彰は少し迷いながらも、部屋に向かって歩き出した。リビングの扉が閉まる。僕はゆっくりと息を吐き出した。
「……自分ができなかったことを彰に押し付けるのはやめて」
「じゃあ海はあの子に一生こんなところで生きて行けって言うの?」
「そんなことは言ってないでしょ。別に今から無理させることはないんじゃないかって言ってるんだよ」
 本来なら、遊べるだけ遊んで、疲れて寝るような年頃の子供だ。その遊びの中で学ぶこともあるかもしれないけれど、それは大人が操作するようなことではない。
「海は黙ってて。あなたはどうせ彰の一生の責任を持つわけじゃないでしょ」
 同じ血縁でも保護者と姉では立場が違う。それに母の価値観の中では、僕はいずれこの家を出ていく人間だ。
「それに海は県外の大学に行くんでしょ」
 それだって母が勝手に決めたことだ。学校の名前だけで、その中身なんて顧みられずに決めた志望校。合格可能性は高くても、そこで生きていくイメージが全くつかないような場所。行きたいかと言われれば、特に行きたくもない。
 かといって行きたい場所というのも特に思いつきはしなかった。やりたいことはある。けれどそれをいって許されるはずがないのはわかっていた。
「……別に大学なんていかなくても生きて行けるよ」
 母は自分が望んだ道を歩かせたいだけだ。子供は自由にならなかった自分の人生の代わりでしかないのだ。吐き捨てるように言うと、いきなり頬を打たれた。
「私がどんな思いで! あんたをあの高校に通わせてるのかわかってんの⁉︎」
 頬を叩かれるくらいは日常茶飯事で、もういちいち痛がることもしなくなった。母の苦労はわかっている。公立の碧高に通わせるのだって正直厳しい状態だということも。それでも無理をして通わせているのは僕のためなんだと母は言う。
「大学に行けば、選択肢が沢山増えるのよ。自由になんだってなれる。ここから出るチャンスなのに、どうしてそれをふいにするようなことを言うの⁉︎」
 母の言うことは正しいのかもしれない。でも、どうせその先だって、母が納得しない道には進めはしないんだろう。正解は少ないのに、間違いの選択肢ばかり増やしてどうするんだろうか。
「……わかってるよ、母さん」
 いつまでこの日々が続くのだろうか。母がいる限り、僕たちはずっとこの人に支配され続けなければならないのだろうか。もやもやと、暗い感情が頭をもたげてくる。自分では処理しきれないその感情は時折内側から僕自身を攻撃するのだ。僕はそれを抑えるためにリビングの扉を開けた。
「どこ行くの⁉︎ 話はまだ終わってないわよ!」
「部屋に戻るだけだよ。英語の宿題が沢山出たから」
 勉強を言い訳にすればまだ解放してくれる確率は高くなる。僕は重い足取りで部屋に戻り、手をつける気にもならない英語のテキストを机の上に広げた。
「……おねえちゃん」
 カーテン一枚の仕切りの向こうから、彰が顔を覗かせる。僕は筆立てから取り出したばかりのシャーペンをノートの上に置き、体ごと彰の方を向いた。
「どうしたの? 眠れない?」
「……うん」
 彰はここ最近、寝ると怖い夢を見るから寝られないらしい。不気味な黒い幽霊が襲ってきて、頭から食べられてしまう夢らしい。そういうときは眠るまで僕がそばにいれば、怖い夢を見ずに寝ることができるらしい。
 かなり精神的に負担がかかっているのは間違いない。けれどそれを母に訴えたところで聞いてはくれないだろう。今の僕では彰を連れてどこかに逃げて二人で暮らすこともできない。何もできない自分がもどかしかった。
 一緒の布団に潜って、お互いの体温を感じながら目を閉じる。このまま僕が高校卒業と同時に家を出たら、彰は母と二人きりになる。そうしたらどうなってしまうのだろうか。今よりもっと追い詰められてしまうのではないか。僕はそれをわかっていながら無視するなんてことができるんだろうか。
 隣であっという間に寝息を立て始めた彰を起こさないように立ち上がりながら、僕は英語の宿題にも手をつけずにベッドに潜り込んだ。大人は未来を語るけれど、僕にはそれが見えなかった。大人になったらこのままならない状況から抜け出せるのだろうか。とてもそうとは思えなかった。例えば母を捨てて彰と二人で生きていくとしたら、それは世の中の人が描く普通の姿からは外れていくということだ。それは果たして彰の望むところなのか。考えても答えは出ずに、もやもやとした想いだけが体に溜まっていく。
 体を丸めて溜息を吐き出した。下腹部が熱を持っている。何の脈絡もなく体には熱が溜まっていくけれど、僕はそれをどうすれば散らせるかさえ知らなかった。
「っ……」
 この前水無瀬に触れられた感覚が蘇る。知識はあるけれど、それに対する嫌悪感がどうしても拭えなかった。
 思えば、僕の周りからはそういったものは意図的に排除されてきたのだ。キスシーンがあるようなドラマは見せてもらえなかったし、少しでも性的な話を出すと窘められた。生理のときは家族の誰にも気付かれないように処理をしなければならなかった。けれど僕はそれを普通のことだと思っていたのだ。
 いや、本当はどこかで――自分の置かれている状態は異常なのだと気付いていた。ただ自覚したくなかっただけだ。
 寝間着のズボンの中に手を入れて、下着の上からおそるおそるそこに触れた。体が少しだけ痺れる感覚。車に乗っているときに急な下り坂に差し掛かったときに味わうのと少し似た浮遊感。その正体なんてわからないまま、自分の手だけが止められなくなっていく。
「ん、ぅ……」
 漏れそうになる声を、唇を噛んで必死で堪える。だったらこんなことやめてしまえばいいのに、転がり始めた石は止まらない。湿り気を帯びた下着を少しずらして、その下の部分に直接触れれば、それは熟れすぎてぐずぐずになった果実のように指を飲み込んでいく。
 布団の中でくぐもって聞こえる水音は、僕を責め立てるようにやけに大きく響いた。理性ではこの年齢なら自然なことだとわかっていても、感情がそれを拒絶した。体と心がちぐはぐになって、自分自身の穢れを心が突きつけてくる。
 細い指での刺激ではすぐに物足りなくなって、誰に言われたわけでもないのに指を増やす。体は即物的な快楽に堕ちていく。崖の上に立つような戦慄と興奮に肌が粟立つ。
 心を嘲笑うように、体は昇りつめていく。どこに触れればいいのか、誰にも教えられていないのに理解してしまう。溢れた液体で指どころか掌や手の甲まで濡れている。何でこんなことをしているんだろう。全身を侵していく耐えがたい疼きが僕を追い立てていく。
「ふっ、ぅ……」
 声を耐えるたびに異物を締め付ける果実から指を抜き、濡れた中指の腹で、その上の紅い芽を擦る。その瞬間、稲妻のような快楽が体を駆け抜け、僕は体を縮こまらせた。
 手は止まらない。それどころか愛液で滑って的確な刺激が与えられないことにもどかしさすら感じてしまう。乱れる呼吸をシーツに吸わせながら、僕はただこの悪夢が早く終わってくれることだけを祈った。
 中指と人差し指で挟み込むようにしてその場所を刺激する。体の底から湧き上がってくるものが破裂してしまわないように体を丸め、視界も意識も白く染め上げる絶頂に溺れていく。
「っ、はぁ……っ」
 弛緩する体がシーツに沈み込んでいく気がする。何かを考えようとしても、強烈な睡魔が襲ってきて、僕の体は易々とそれに負けてしまった。
 こんなことをして自分を慰めても、結局は虚しいだけだ。いっときの快楽は何も解決してはくれはしない。

 昨晩の余波なのか、次の日の朝はなかなか起きられなかった。重い体を叱咤しながらリビングに向かうと、母と彰は既に起きていた。
「どうしてこんな簡単なこともできないの⁉︎」
 昨日の続きなのか、母が声を荒げていた。僕は溜息を吐きながら二人の間に割って入る。
「まだできなくてもいいじゃない。こんなのそのうちできるようになる」
 そもそもまだ小学生にもなってないうちからやるような内容ではない。それに怒鳴るだけでは萎縮してしまってますますできなくなるだけだ。
 彰は声も上げずに静かに泣いている。この時期の子供なんて、スーパーでお菓子を買ってもらえなかっただけで床を転げ回ってこの世の終わりかのように泣いているものだろう。それなのに、彰にはそれが許されていないのだ。よく見れば左の頬が赤くなっている。目の前が赤くなって、ぐらりと視界が揺れた。
「いい加減にしてよ! まだ子供なんだよ⁉︎」
 母に掴みかかるようにして言う。このままだときっと壊れてしまう――そう思ったから。
 しかし、返ってきたのは罵声と、焼けつくような頬の痛みだった。
「あなたはいつもそうやって邪魔ばっかり! 私に何か恨みでもあるの⁉︎」
 その勢いはあまりにも強くて、僕は受け身も取れずに床に尻餅をついた。骨盤に鈍く痺れるような痛みが走る。それでもここで折れるわけにはいかなかった。
「何よその目! あなたは本当にあの人に似て……厭な子ね」
 頭上から降ってきて体に当たった硬いものが何なのかを見る気力もなかった。僕が殴られることで彰が無事でいられるならそれでいい。
 けれど――こんな景色を、本当は見せたくなかった。生きていく上で汚いものを目にする機会なんていくらでもあるから、せめてなるべく沢山の綺麗なものを、その瞳に映していて欲しかったのに。
 心の中で、誰にも聞こえない声で、彰に呼びかける。

 ねえ、どうして。どうして僕たちは、こんな世界に生まれてしまったんだろうね。

6「トランスルーセント」

「君の同級生の――水無瀬という子の言葉は興味深いね」
「そうですか?」
「『人間らしさ』が何を指すかは時代によって変化してきた。今は人工知能なんかとの対比として語られる、感情だったり感性の部分を人間らしさと呼ぶことが多い。けれども『理性』こそが人間が人間たる所以だと言われた時代もあった。今とは真逆だね」
 その場合、人間と対立するのは動物――水無瀬の言葉で表すなら「獣」だ。
「人間の本質は獣なのか理性なのか、人間が言うことすら一貫していない。けれど彼女は人間の全てを剥ぎ取った下には獣がいると思っていたんだろうね」
「そうみたいですね。それだけは一貫してた気がします」
 一箇所には留まらず、人間が堕ちゆく様を見ることを楽しむ悪趣味な女。けれど彼女のやり方がその後多少役に立つことがあったことは認めざるを得ない。
 危うい場所に立つ人間を自分の側に引き寄せる方法。水無瀬のやり方を応用して僕の周りに集まる人間を増やしてきたのは事実だ。例えば、麻美を引き込んだのも。
「人間のなかに獣性があることは否定できない。だが、世間の大半は認めたくないだろうね」
「何かを支配したいという欲求は誰にでもある。違うのは、それに勝てた人と負けた人がそれぞれいるってことです」
 おそらく先生は自らの支配欲にはかなり自覚的な方だろう。その欲がまさか人類の精神構造そのものに向いているとは僕も思わなかったけれど。彼のような人は水無瀬でも動かすのは難しいのではないだろうか。もちろん彼女が性の手練手管を弄したらどちらに転ぶかはわからないけれど。
「僕は――勝てなかった人間です。結論から言えば、水無瀬の言うことはだいたい当たってたんですよ」
「……君って、自分の心の弱い部分に触れそうになる人間のことは嫌いになる傾向があるよね」
「サンプル二人じゃないですか」
 おそらく先生の言うことも当たっているのだろうけれど。僕は冷めた紅茶を飲み干して喉を潤した。
「いや、三人だね」
「へぇ。その三人目は誰なんです?」
「――君、響のこと嫌いだろう?」
 僕は溜息を吐いた。そんなにわかりやすかっただろうか。確かに当たっている。そして響のことが嫌いなのは水無瀬や理人さんのことが嫌いな理由とは少しだけ違う。
「あの子、自分が納得できるまで理由を聞いてくるじゃないですか」
「小さい頃に『なんで?』って聞いてくることに全部答えてたらいつの間にかそうなったんだよなぁ」
「答えてくれると思ってるから聞くんですよね。だいたい先生のせいじゃないですか」
「私も二割くらい嘘を教えて怒られたこともあったけど。でも理人は律儀だったからなぁ……調べてまで答えてたし」
 自分の疑問にちゃんと答えてくれる大人ばかりが周りにいたから、いつまでも子供のように自分が納得できるまで理由を聞いてくるのだ。彼女の周りには説明できないことがほとんどなかったのだ。
「でも、人によっては理由を聞かれることが叱責と結びついてしまっているから、その人を責めているように聞こえてしまうこともあるから気をつけるんだよ、とは言ったんだけどなぁ」
「あんまり届いてない気がしますよ」
「まあ、親の言うことを100パーセント聞く子供なんて気持ち悪いから、そのくらいの方がいいのかもしれないけど」
「気持ち悪いって……」
「だって親子なんて所詮、遺伝子が半分同じなだけの他人だよ? それで100パーセント言うこと聞いてるんなら、それは教育じゃなくて洗脳じゃないか」
 この親だから響は屈託なく人に「どうして?」と聞けるように育ったのだろう。響に誰かを責めるつもりなど全くないのだ。ただ、僕がそれを受け止められないだけで。
「さて、続きを聞く前にまた紅茶でも淹れてもらおうか。あ、欲を言うならハーブティーがいいかな。私はカフェインを摂り過ぎると少々具合が悪くなるからね」
「……確か棚に貰い物のハーブティーがあった気がします」
「じゃあそれで」
 僕は立ち上がって新しいポットと誰かから貰ったハーブティーの箱を取り出した。お湯を沸かすために電気ケトルのスイッチを入れる。
「お茶入れてる間は世間話でもしようか。お互い小休止も必要だろう?」
「最近の世間に世間話の余地なんてないと思いますけど」
「それもそうだねぇ。どこもかしこも新型コロナの話ばかりか。君も本業の方が大変だろう?」
「麻美の方が大変ですよ。ほぼ無収入だって言ってましたし」
「まあコンサートは本当にしばらく厳しいだろうね。でも自分の大変さをそうやって他人と比べる必要はないと思うよ。みんなそれぞれ大変。それでいいじゃないか」
 実際の世界はどれだけ損失を被ったかに線引きをして、お金がもらえたらもらえなかったりする。先生の言っていることは理想論だ。けれど嘘を言っているわけではないのはわかるから、不快に思うようなことはなかった。
「それに、最近少し苛立っているようだったしね」
「……芸術なんて人命の前では無価値だって言われたんですよ。いつもなら聞き流すんですけど、なんだか今はそれができなくて」
「世の中が暗く沈んでいるときは、多かれ少なかれその中にいる人間の心も影響を受ける。それ自体は自然なことだよ」
 世界はいまだに感染症の狂乱の中にある。それまで漫然と生きていたような人間が一本の蜘蛛の糸に群がるようにして生きようとしている。そして不安な気持ちを紛らわせるようにスケープゴートを探している。スケープゴートはできるだけ自分には関係なくて、世の中の多くの人から見れば真面目に生きていないように見える人がいい。それが芸術家だったり、夜の街に生きる人間だったりするのだ。
「――先生」
 もうひとつ、最近ずっと引っかかり続けている言葉がある。それは命と芸術を天秤にかける話よりもずっと重く響いている。命と芸術を天秤にかける人は、僕とは決定的に価値観が違うのだと言ってしまえばそれまでだ。命がなければ何もできないだろう、という意見も理解はできる。でも、それよりも。
「『こんな時代に子供を産むなんて、子供がかわいそう』って、どう思いますか?」
「君にしては投げっぱなしの質問だね。でも最近よく聞く話だ。確かにこの時代に子供を産み育てるのは大変だろうし、子供の方も大変だ。残念ながら大人がまともとは言えないからね」
「僕もそう思うんですよ。でも――何かが引っかかっていて」
 ケトルから聞こえる音が変わってきた。もうすぐお湯が沸くのだろう。ケトルのオレンジ色のライトを見つめていると、先生が静かな声で言った。
「そんな時代に生きている子供は、現実に存在しているわけだからね。産んでくれと頼んだわけでもないのに」
 ティースプーンを使って茶葉を入れながら、先生の言葉を聞く。ケトルのスイッチが切れる音が響いて、少し熱くなった取手を慎重に握った。
「大人たちがこんな世界で育つ子供がかわいそうだから子供は産まない、と言うたびに、こんな世界で生きている人間は絶望を深めていくのではないかな」
「……そうかもしれませんね」
「あとは、その言葉に含まれている、子供の人生をコントロールしようとする親の愛情に対して、おそらく君は特に過敏な方だろう」
 お湯を注げば、半透明のポットの中で茶葉が踊る。僕はくるくると回るそれをただぼんやりと見つめた。
「子供を幸せにするのは親ではないんだよ。親がどれだけ不幸の芽を注意深く摘んでも、急に隕石が降ってきたりしたらもうどうにもできないだろう。自分自身の精神すら解明できてない人類ができることなんてその程度なんだ」
「でも、自分の子供の幸せを願うのは親として当然のことなんじゃ?」
「――君がそれを言うのかい?」
 ちょうどいい色になったので、ポットからカップにハーブティーを注ぐ。手の動きに集中して、余計な考えは一旦頭から追い出した。
「いいかい、所詮子供なんてものは卵子と精子がタイミングよく出会って、そのあと運良く着床して、それから運良く育つことができれば産まれるものなんだよ」
「身も蓋もない言い方ですね。響にもそれを言うんですか?」
「私は誰に対してだって言うことは変えないよ。もちろん響にはわかりやすいように噛み砕くこともあるけれど」
 それでよくあんな真っ直ぐ育ったものだ、と一瞬思ったけれど、そういう親だから納得できるまで理由を聞いてくる子供に育ったのだ、というのは腑に落ちた。
「まあ、妻には最後までわかってはもらえなかったがね。でも私は『子供は愛の結晶だ、なんて幻想だ』と言うのは、その子供に対してだからこそ言うべき言葉だと思うんだよ」
「どうしてですか?」
 それでは子供が不安にはならないだろうか。誰だって自分が愛の結晶だと信じたいのではないだろうか。けれど先生は柔らかな声で、遠くにいる娘を慈しむような眼をして、それを否定する。
「響が私を嫌いになりたいとき、その方が思う存分嫌えるじゃないか。もちろん愛を持って育てはしたけれど、それは響が娘だから愛しているわけではない。愛にそんな肩書きはいらないんだよ」
「先生は、響に嫌われてもいいんですか?」
「嫌われたいわけじゃないよ。洗濯物別にしてとか言われたらそれなりにショックだよ? でも親だから愛さなければならない、子供だから愛して当然だというのは非常にナンセンスだと言ってるんだ」
 テーブルの上にハーブティーを置いて、少し息を吹きかけてそれを冷ましてから飲む。ほのかな薔薇の香りと、鼻を抜けるカモミールの香り。少し冷えた体を通り抜ける温度が、言葉にならない感情を解いていくような気がした。
「……正直な話、君が教えられてきたこととは正反対のことを響に教えた自覚はあるよ」
「世間一般とも多少ズレてますよ」
「大学の人間なんてそんなもんだよ。学者ってよく批判されるじゃないか。世間のことを何もわかってないって」
「芸術家もそうですね」
 僕も芸術家の端くれとして、世間一般なんてものに囚われてはならないとも思う。けれど自分の中に見えない糸で縫い付けられた何かがあって、それは今聞いたばかりの言葉やハーブティーなんかでは消えてはくれない。
「――先生」
「何だい?」
「引き返すなら今ですよ」
 ここから先の話は、自分でもまともに話せる自信はなかった。先生で2回目になるけれど、1回目のあとのことはあまり思い出したくない。
「元から引き返すつもりはないよ。こっちはもう二度と娘に口をきいてもらえないかもしれないと覚悟してここにいるんだから」
 そう言う先生はやはり柔らかな笑みを浮かべていた。僕は先生が何かを言おうと息を吸った瞬間に、右脹脛に取り付けたホルスターから銃を抜いて、その額に突き付けた。

「――先生。脅迫っていうのは、こうやってやるんですよ」

 ここから先は生半可な覚悟で聞けるような話ではない。なぜならこの先を知っている唯一の人はもう――この世にはいないのだから。

7「ゼロの調律」



 高校三年生の夏――その日は花火大会だったが、僕たちにそんなことは関係なかった。高校では短い夏休みの最初と最後に夏期講習を実施していて、その日は夏休み前半の夏期講習の最終日だった。受験生の夏休みなんてあってないようなもの、という人もいるが、祭りが好きな県民性が大人から子供まで浸透しているこの碧原(みどりはら)の人間は、やはりこの日は少し浮ついている。僕はその様子を見ながら教室の片隅でこっそり溜息を吐いた。他の人たちはもう受験する学校を決めていて、あとはそこに受かるか受からないかの話をしているのに、僕は未だに母が選んだ学校以外の選択肢を見つけられていなかった。そんな中で今日祭りに行くか行かないかの話に入っていけるはずがない。そもそも行けるはずがないのだ。
 浮かれているクラスメイトを尻目に、先日東京で行われた展覧会の図録を眺めていると、横からあまり聞きたくない声が聞こえてきた。
「――浮かない顔してるね」
「いつもこの顔だと思うけど」
 何の因果か、三年に上がるときにクラス替えがあったのにまた水無瀬と同じクラスになってしまって、しかも席替えの結果、僕たちは隣同士になってしまったのだ。何かの呪いではないかと本気で思う。別に彼女と仲良くするつもりはさらさらないのだが。
「花火大会、行くの?」
「行かないよ」
「私は今年は文芸部の人たちで行くんだ。部長だから、今年は遊べないなぁ」
 水無瀬を部長にする部はどうかしているとしか思えないが、もしかしたら人格より実力を重視しているのかもしれない。先日の文化祭ではあまりに話が長くなりすぎたので水無瀬の話だけ別冊で発行されていたけれど、それなりに手に取ってもらえたらしいし。
「今年は、ってことは、昨年までは遊んでたのか……」
「花火大会の日なんて、みんな羽目を外したがってるもの」
「条例違反で捕まったら、あることないことインタビューで答えておくよ」
「そんなヘマしないよ。あ、でも佐伯さんとだったら文芸部の方蹴って一緒に行ってもいいよ」
 たとえ自由に花火大会に行けたとしても水無瀬とは絶対に行かない。どうせ水無瀬は花火なんて見ないのだ。それに水無瀬と同類だとは思われたくない。
「そういえば、佐伯さんってまだ滑り止め決めてないんだって?」
「……何で知ってるの」
「先生から聞いた。密室だと結構人って口軽くなるからね」
 つまりは教師と密室にいたということになるが、そこで何をしたかは聞かなくてもわかる。かなり危うい橋を渡っているような気がするが、それで今まで何の問題にも発展していないのは、裏で何かをやっているからだろうか。
「……別に、大学に行く理由なんてないし」
「理由なんて私もないよ。ただモラトリアムを四年延長したいだけ。あ、でも図書館はいいところがいいかなぁって思ってるけど」
 多くの人はそんなものなのかもしれない。明確な夢がある人なんてほとんどいなくて、ただ今までの流れに従って大学に進む。僕も何もないというのならそれに流されれば楽なのかもしれない。けれど、流れに乗れずにそこで佇んでしまう石だってあるだろう。それが今の僕なのだ。
「美術館がある大学とかもあるよね。どうせ滑り止めならそういう理由で適当に決めちゃえば?」
「……たまにはいいこと言うんだね」
「常にいいこと言ってると思うんだけどな」
 水無瀬のアドバイスがためになってしまったのは悔しいが、何もそれを専門に学ぶ大学を選ばなくても道を開く方法はあるのだ。画家は医者や薬剤師になるのとは違う。それなら一つ、気になっている場所がある。
「あれ、どこか行くの?」
「先生と話してくる」
 水無瀬と関係を持っている先生は正直信用に値しないが、それを除けば一般的な教師だ。僕にとっては都合がいい。職員室に向かって歩いていると、途中の廊下で先生と出くわした。水無瀬に情報を漏らしたことは、ここでは不問としておこう。
「第二志望の学校決めたので、提出しに」
「そうか。――ここかぁ。成績的にはもう少し上も行けると思うぞ?」
「母子家庭で弟もいるので、浪人も難しいし、私立も厳しいと思うので、確実に受かるところにしようと思って」
「まあ第二志望だしな。わかった」
 あっさり納得してくれたので、僕は満足して教室に戻った。第二志望に書いたのは、碧原市内にある県立の大学だ。レベルはそこまで高くない。成績から言えばもう少し上を目指せるのは事実だ。でも、その大学には他の学校にはない、少し特殊な美術館があるのだ。県の芸術関連事業のひとつとして作られた国際美術センター。そこには毎年、夏になると世界のアーティストが数ヶ月滞在して作品を作るための施設がある。
 第一志望に行く気などさらさらないことは、しばらく黙っていなければならない。家を離れるつもりもないし、絵の勉強ができなくても、プロの仕事を近くで見られる機会はものにしたい。受験は受かるのは大変だが、落ちるのは非常に容易いのだから。



 第二志望の学校を決めたことは、母には言わないでおいた。直前に決めたことにしたほうが言い訳も作りやすい。反論しにくいシナリオを長い間練ることができるという利点もある。僕は、少し高揚した気分を隠しながら家に戻った。母も(しょう)もまだ帰ってきていない。この僅かな時間だけ、僕は誰にも邪魔されず絵を描くことを許されていた。
 けれど、最近絵を描けていないのも事実だった。描きたいと思えるようなものがなくて、練習のために手を動かしているだけの状態だ。自分が何を作り出したいのか。そのイメージは何となくできているのに、そこに辿り着くために何を描くべきなのかが見つかっていない。
 鉛筆を置いて、鞄の奥底にしまってある図録を取り出す。もし家に置いておいて、勝手に部屋に入った母に見つけられたら没収されかねない。常に学校に持っていく方が安全なのだ。
 この前買ったのは、東京の美術館で行われた《9.8の世界》展の図録だ。9.8は重力加速度のことを表していて、「落下」をテーマとする様々な作品が集められた。その中に、僕が好きな作品があったのだ。イヴェット・ローゼンタールの『Fall#21』。吊るされた無数の絵筆と、その下に落ちた絵具で描かれるインスタレーションだ。会期中に変化していくその作品を、図録では全て写真に収めていた。ただ絵筆を吊るして、本人は何も手を加えていないそれが芸術なのかと疑問を持つ人は多いだろうが、僕は好きなシリーズだ。
 イヴェット・ローゼンタールの作品は、その全てが《変化》をテーマにしているらしい。僕が彼女の作品の真髄を理解しているとは思えないが、何となく波長が合っているような気がしている。例えば彼女がこの碧原に来るようなことがあれば、何を作りたいと思うのだろうか。――というのは、僕の妄想だけれど。
 図録を眺めていると、いつの間にか二時間ほどが過ぎていた。そろそろ母と彰が帰ってくる時間だ。僕はさも勉強していたかのように机に問題集とノートを広げた。けれど数学の問題が頭に入ってくるはずもなく、シャープペンシルを持った手は、絵の形にならない機会な模様を描き出していた。
 一人で過ごす平穏は暫くして破られた。ドア一枚隔てていても母の声が聞こえてくる。僕は持っていたシャーペンで左手の甲を突いてから、ゆっくりと息を吐き出した。耳を澄ませて様子をうかがう。最近、母は彰に手を上げるようになっていた。母の努力に対して、彰が結果を出せていないのがその理由だ。母のやっていることは完全に逆効果だ。母に対して恐れを抱いている状態で実力が発揮できるはずもない。それに母は、教育のために手を上げているというよりは思い通りにならない苛立ちをぶつけているだけだ。徐々にそれがエスカレートしてきていることには気付いていた。ここで食い止めなければもっとひどいことになる。そんな状態で家を出ることは考えられなかった。
 カーテン一枚で仕切られた隣の空間に人が入ってくる気配がした。母はいない。彰一人だけだ。僕は立ち上がって、部屋を仕切るカーテンをそっと開けた。
「おかえり、彰」
 彰は何も答えず、虚ろな目をしたままベッドの上に腰掛けた。心臓が締め付けられるように痛む。けれど僕はなるべくそれを表情には出さないようにして、彰の隣に腰掛けた。無理に事情を聞くことはしない。彰が話したければ話せばいいし、話したくなくてもそばにいることくらいならできる。
「……」
 隣にいる僕にすら聞こえないほどか細い声で彰が何かを言った。僕はその言葉を聞き取ろうと、静かな声で聞き返す。
 暫く彰は何も応えてはくれなかったが、やがてもう一度口を開いた。今度はその言葉を聞き漏らすことがないように耳をそばだてる。微かに響いていた空調の音すら聞こえなくなるほどの静寂の中で、その言葉は鼓膜を通り越して、心臓に直接突き刺さった。
 五歳にもなれば、死ぬということがどういうことか理解できるようになるという。父が死んだときにはまだわからなかった言葉を、彼は今、口にしたのだ。
 死にたいと言っても、その方法もまだ知りはしないだろう。僕はその細い首筋に手を伸ばした。こんな場所で生きるくらいなら、と思った。五歳の子供なら、僕の力でも殺せるだろう。指先に微かな脈動を感じる。そこは頸動脈で、首を吊るときはそこが締まるようにするといい――昔得た知識が頭の中を巡った。
 僕はその場所から少し指をずらして、力を込めた。虚ろな表情は苦痛に塗り替えられて、小さな手が僕の手を引き剥がそうと動く。けれど僕は力を緩めなかった。いや、緩めることができなかった。
 指先から黒い煙のようなものが昇ってきて、それが僕の体を染めていくようだった。どうしてこんなことをしているのだろう、という意識の裏で、苦痛に歪む彰の顔を見て高揚している自分が確かに存在していた。こんなことをしたくはないはずなのに、自分が止められなくなっていく。
 まるで他人のもののように動く手に逆の手で爪を立て、彰の首からどうにか引き剥がす。酸素を一気に取り込んで咳き込む彰のことを抱きしめるようなことはできなかった。
自分が何をしたのか、理解できなかった。
 それなのに彰はベッドに横たわりながら、穏やかに笑っていた。本当は問い詰めたかった。僕が何をしたのかわかっているのかと。けれど聞くことはできなかった。僕がしたことを理解した上で笑っているのだとしたら、僕はきっとそれが示す事実を受け入れられないだろう。
「――彰」
 その唇が再びか細い音を紡ぐ。けれど僕はその言葉を聞くことができなかった。下がるようなその言葉を受け入れることを、心が拒絶した。
 でもそれは彰のことを考えたからではなかった。今もう一度彰の首を絞めてしまったら、今度はきっと止められない。自分の裏側で黒いものが蠢いている。それは深い深い沼の底に僕を誘っていた。

 いずれあなたはこちら側の人間になる――。水無瀬の言葉が、呪いのように頭の中に響いていた。

8-1「ひび割れた世界」Ⅰ

 最初は確かに、(しょう)がそれを望んだのだ。でもこんな言葉は言い訳でしかない。踏み越えてはいけない線を越えた後はどう足掻いても元には戻れない。人の心は不可逆だ。黒く染まったものをどれだけ漂白しようとも、元の色が蘇ることはない。
 高校を卒業する頃には、週に一度は彰の首を絞めるようになっていた。誰にも知られていないこの行為を罰してくれる人は誰もいない。彰ですら僕を止めようとすることはなかったのだ。
 母に叱られたときに、彰が発作のようなものを起こすことがあった。過呼吸に近いその発作を止めて、一時的でも彼を苦痛から解放するためには、彼自身を傷つけるしかなかった。いや、これも所詮は言い訳だ。
 そのとき僕の中にあったのは、愛情とはとても呼べないおぞましい感情だったから。感情と名付けることもできないようなその衝動は日常的に僕の奥底に潜んで、昏い淵へ引き摺り込もうとする。その力は日を追うごとに強くなっていき、自分ではもう振り解くことができなくなっていた。

 高校の卒業式が終わって一週間が経った今日、国公立大学の前期試験の結果が出た。受かっているはずがないとわかっていたのは僕だけだ。第二志望のためにセンター試験はきちんと受けたが、二次試験は英語を白紙で出した。もう泣いても喚いても僕がその学校に受かることはなかった。気持ちはすでに明後日の中期日程の方に向いている。けれど問題は、目の前の状況をどう切り抜けるかだ。これだけはどう足掻いても避けられないとわかっていた。
「どういうことなの?」
 母が低い声で言い、僕のことを睨む。どういうことも何も、合格者一覧に僕の番号がなかった。それだけだ。担任は「気を落とさないで中期に臨むように」と言うだけだった。教師としてはあまりに普通の反応だが、母はそうではない。
「……どうせあんなところに行く気もなかったし」
 そこは確かに難関と呼ばれる大学で、入ったらそれなりに楽しかったのかもしれないが、そこに僕が求めているものはないのだ。
「何よ、その言い草は! 私が今までどれだけあんたに金をかけてきたか!」
「どうせ僕がいい大学に行ったら、それが自分のステータスになるとでも思ってるんでしょ? 残念だったね、自慢できなくて」
 試験がうまくいかなくて落ちてしまったのだと落ち込む演技をしたところで結局何も変わらないのなら、思っていることを言った方がいい。僕は青筋を立てている母を冷静に見つめた。
「僕の人生は僕のものだ。僕はあなたの道具じゃないんだ」
 言葉にならない怒号が飛んでくる。僕はテーブルの下で左手の甲に爪を立てた。母が飽きるまで耐えれば、いつか嵐は過ぎ去るのだ。けれど次の瞬間に視界が揺らいで、次にはっきり見えたのはリビングの天井の模様だった。体に鈍い痛みが走る。
「どうしてお母さんの気持ちをわかってくれないの⁉︎ 私はずっと、海が苦労しないようにって!」
「それはあなたが勝手にやったことで、子供が親の期待に必ず応えなきゃいけないなんて決まってない」
 所詮は遺伝子を半分受け継いだだけの他人だ。子供は親の所有物などではない。けれどそれを母が理解してくれないことはわかっていた。この人に何を言っても無駄なのだ。だからこの人から彰を守ることができるのは僕しかいない。
 母が力任せに僕の髪を掴む。僕はどこか遠い世界の出来事のようにその光景を眺めていた。乱暴に浴室に押し込められて、水のままのシャワーを浴びせられる。
「私はあなたのためを思っているのに、どうしてそれがわからないの!」
 そんなことは一生わかりはしないだろう。母は人間として堕ちてはいけないところまで堕ちた獣だ。弱いものを支配する喜びに浸っているのに、その自覚を持っていない。そこにあるのが愛であるはずはない。
 冷たい大粒の雨の中で僕は笑った。僕は間違いなくこの人の血を継いでいる。今ならこのまま僕を殺してしまうことだってできる。それはさぞかし気持ちが良いことだろう。僕もその悦びを知っている。
 僕たちは同じ穴の狢だ。それなら、苦痛は獣の僕が肩代わりすればいい。
 満足したのか、母が濡れ鼠の僕を放置して浴室を出て行く。早く服を着替えなければ風邪を引いてしまうとわかっていても、芯まで冷えた体はなかなか動かなかった。
「……っ」
 かちかちと歯が鳴る。貧血を起こしたときのように視界が時折黒く落ちていた。それはまるで明滅する蛍の光のようだ。蛍の光は高いところから降りて、地面に落ちると水滴のように砕け散る。
 こんな光ではどうせすぐに消えてしまう。それなら最初から暗闇だった方がいい。僕の世界に必要な光はたった一つだけだから。それ以外に何もいらない。
 だからせめて――そう思ってみるけれど、僕には祈るための神なんていなかった。

 そして四月になり、僕は希望通りの大学に進むことになった。大学の講義に興味があるわけではない。一連の入学ガイダンスが終わったあと、僕はすぐに学生課に向かった。
「芸術センターでのアルバイトの募集って」
 そう言った瞬間に、奥から気の良さそうな痩せ型の背の高い男が出てきた。
「いやぁまさかこんな早く希望者が来るとは思わなかったよ。毎年、一番忙しい夏休みに入る直前まで決まらなかったりするんだけど」
「そうなんですか」
 男の名札には仁川と書いてある。芸術センター関連の業務はほとんどがこの仁川さんの管轄らしい。
「一応面接することになってるんだけど、今から時間あるかな?」
「大丈夫です」
「面接といっても、形式的なものだから緊張しなくても大丈夫だから。じゃあとりあえずそこのソファーに座って。えーと、あとお茶あったかな……」
 お茶を出したら面接というより応接のような気がするけれど、僕は余計なことは言わずに待っていた。ここで万が一不採用になることがあってはこの大学に来た意味がない。
「まず仕事内容なんだけど、普段は主に僕の手伝いだね。雑用を色々お願いすると思う。それで、夏休みになったらお客さんが来るから、そうしたらそのお客さんの手伝い……まあこれも雑用がほとんどだね」
 僕は頷いた。お客さん、と軽く済まされているが、夏にこの大学の芸術センターを訪れるのは現役で活躍するアーティストたちだ。そこにこの仕事の難しさがある。
「こんな早く来るってことは、英語の方は自信があるのかな?」
「実戦経験がほとんどないのでそこは不安要素ですが、通訳の仕事にも興味があって――」
「なるほどね。いや、うちの学校じゃそもそも英語を話そうってやる気を出す人が少なくてね。毎年なかなか人が集まらなくて。今年は佐伯さんがいてよかったよ」
 それを目当てに大学を選んだと言ったらどういう反応をされるのだろうか。仁川さんは上機嫌にバイトの勤務時間や時給の話を続ける。これは面接というよりはもう打ち合わせではないだろうか。
「じゃあせっかくだし今からセンターの方行ってみようか。この時期は展示棟しか使ってないんだけどね」
 鍵束を持った仁川さんに先導されて、森の中に足を踏み入れる。この大学は山の中にあることが特徴だが、芸術センターは山の中のキャンパスの、更に奥にある森の中に建てられているのだ。
「こんなところだからね、夏は虫がすごいんだよ。佐伯さん、血液型は?」
「A型ですけど」
「僕はO型なんだけどね、O型って蚊に刺されやすいって言うよね」
 ちなみに彰もA型で、Rh血液型はどちらもマイナスだ。蚊に刺されやすいかどうかは知らない。
 森の中を進んでいくと、まずは扇形の建物が顔を出した。これが展示棟だ。普通の美術館の部分。今は芸術センターが所蔵している作品を展示しているらしい。
「夏以外はここでの仕事が多いかな。ここは大学の人間だけじゃなくて外部の人も出入りするんだ。手が足りないから、作品のキャプション作りの手伝いとかもお願いするかも」
 展示棟の中はかなり音が反響する。人が大勢いたら気にならないだろうが、今は僕たちが立てる足音がとても大きく響いた。有名な建築家に設計を依頼したという建物は、美術館というよりは地下の礼拝堂のような密やかさと厳かさを感じさせる。この場所で仕事ができるというだけで少し心が躍った。
 展示棟を出ると、更に森の奥に進んでいく。残る二つは制作棟と宿泊棟。夏休みにここを訪れて作品作りに取り組むアーティストたちが使う建物だ。モダンなデザインながら森に溶け込むように作られた二つの棟。中でも目を引いたのは制作棟の方だった。何もない広い部屋と反対に狭い部屋、それから木工スタジオから銅版画、写真、映像などを編集するための部屋がそれぞれ作られている。
「すごいですね……これ、どこかの部屋は使わないとかそういう年もあるんじゃないですか?」
「そうだね。でもなんでもありますよってしておいた方が来てくれるからね。佐伯さんも何か作ったりするの?」
「少し絵を描いたりはしますけど……どうしてですか?」
「目の輝きが全然違うよ。うちの娘みたいだなって」
 仁川さんはそれから僕より二歳年上だという娘の話をし始めた。今は隣県の大学に通っていて、大学合唱団ではソプラノのパートリーダーを務めているらしい。音楽の話になると目の色が変わるんだ、と楽しそうに仁川さんが言う。
 親というのは本来はこういう顔をするものなのだろうか。仁川さんが特に人が好い、という可能性もあるけれど。少なくとも僕は母のこんな顔は見たことがない。
「佐伯さん、誰も使ってないときならここ使ってもいいからね」
「え?」
「道具は使ってあげた方がいいからね。夏は難しいけど、それ以外の時期ならメンテナンスも兼ねて。僕ができればいいんだけど、そっち方面はからっきしで」
 それなら娘さんと同じで音楽の方なのかと思いきや、それも違うらしい。趣味らしい趣味はなくて、強いて言えば車でどこかに出かけることくらいだという。
「使い方を聞かれたりもするから一通りはわかるんだけど、使い方を知ってるのと何かを作れるのは違うだろう?」
 夏にやって来るアーティストの仕事を見られればそれでいいと思っていたが、道具を使わせてもらえるとは僥倖だ。家では母に隠れて描かなければならなかったから限界があったのだ。
「僕は戻っているから、もう少しゆっくり見ていくといいよ。どこに何があるかとか、わかっておいた方が今後役に立つだろうし」
「ありがとうございます」
 学校の美術室なんかとは比べ物にならない広さと充実した機材。僕は仁川さんが帰ってからもしばらく、そこにあるものをひとつずつ見ていった。これだけあれば思い描いていたものを全て形にできそうな気さえする。僕は時間を忘れて、すっかり日が暮れてしまうまでそこで過ごしていた。

8-2「ひび割れた世界」Ⅱ

 すっかり帰るのが遅くなってしまった。しかも山奥にある大学なので、市内なのに家に帰るまで一時間近くかかってしまう。家の最寄りのバス停で降りた頃には、冷えた夜の風が吹き抜けていた。熱くなった頬を冷ましていく風は気持ちいいけれど、この時期はまだ肌寒い。大学近くは山だからまだ溶け残った雪が残っているし、家の周りもまだ花が咲き始めるには早いようだ。今年の桜は平年よりも早く咲き始めるらしい。確かに川沿いに植えられた桜の蕾が少し色付いていた。
 月見丘霊園に向かう道の桜はこの辺りの桜より少し遅く咲くから、そうしたら(しょう)と一緒に父の墓参りついでに花見でも行こうか。大学の敷地にも桜を植えているところがあるらしいから、そこでもいい。桜が終われば今度は藤の季節になる。芸術センターの周りには四季を通して楽しめるように植物が植えられているらしいから、おそらく藤もどこかにあるだろう。花のことはよくわからないけれど、藤の花の色は好きだ。彰はどう思うだろうか。花より団子かもしれないけれど、それならそれでいい。
 家に着いたとき、時刻はすでに七時を回っていた。一番外側の引き戸を開けた瞬間に母の声が聞こえ、高揚していた気分が沈んでいく。
「どうしてあなたはいつもそうやって私を困らせるの!」
 声を荒げる母と床に落ちて割れたコップ。安物だったから、かえって破片が出ることもなく綺麗に割れている。状況はそれだけで何となく察することができた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 彰は泣きながら謝罪の言葉を口にする。けれど反省しているというよりは、この状況から早く抜け出したいという気持ちでいっぱいになっているだろう。
「何でこんなことになったのかわかってるの⁉︎」
 コップを落とす理由なんて大人も子供も単なる不注意だ。テーブルの端には置かないとかそういうことくらいしか改善点はない。僕は帰ってきたことを二人に知らせるために、わざと大きな音を立てて荷物を置いた。
「どこも怪我してない?」
 彰は涙を浮かべながらも頷いた。
「じゃあ彰は危ないから、少し離れてて。私が片付けるから」
「でも……」
「次からは自分でできるように、今度教えるから。一旦部屋に戻ってて」
 柔らかい髪を撫でると、彰は躊躇いがちに頷いた。もう少し早く帰ってきていれば――その思考を頭の隅に追いやりながら、彰が出て行って扉が閉まるのを確認する。
「海はいつもそうやって彰を甘やかして。そんなんだといつかあの子もダメになるわ」
「まるで僕が駄目な人間みたいな言い方だね?」
 実際、母の中ではもう僕は失敗作なのだろう。母が望む通り生きることはできなかった。でも僕の未来は僕だけのものだ。それに触れることは誰にもできない。
「母さんは僕たちを自分の思い通りにしたいだけでしょ。自分の思い通りになれば彰がどう思ってたって関係ない」
「海に何がわかるの⁉︎ 私たちは人より立派に生きないと、片親だって烙印をずっと押され続けるのよ!」
「そんなことを言う奴には好きにさせておけばいい。母さんは自分がどう見られるかしか考えてないんだよ。僕たちのためなんかじゃない」
 このままではいけないと思った。この家にずっといたら、彰の将来も、僕の将来も潰されてしまう。僕は母に背を向けて歩き出した。計画なんて何もない。でも雨風が凌げそうなところなら知っている。芸術センターの中なら僕は自由に出入りできるし、宿泊棟にはそこで一通り生活できそうな設備が揃っている。何なら今からだって出て行ける。
「……これ以上あなたの好きにはさせない。彰と一緒に出て行くよ」
 これ以上、彰の悲しい顔は見たくなかった。行くなら今しかない――けれど母は何かを喚き散らしながら僕の腕を強引に引いた。
「そんなことできるわけないじゃない! まだ子供なのよ⁉︎ どうせすぐにどうにもならなくなって帰ってくるくせに!」
 床に引き倒されて、背中に痛みが走る。僕が倒れた場所には割れたまま放置されていたカップの破片があった。安い陶器の破片はそれほど鋭利ではなく、布を突き破るようなことはない。けれどせめて踏まないような場所に移動しようとしていると、今度は頬をはたかれた。
「あなたはまだ子供なんだから、出て行って生きて行けるわけないでしょ!」
「……ここにいるよりはマシだよ」
 僕が低い声で吐き捨てた途端、腹部に母の足が入った。母は僕を蔑むような目で見下ろしている。体を起こすこともできず身構えていると、母が床に落ちたカップの破片を拾い上げた。
「っ……!」
 かろうじて避けたが、その鈍い切っ先は間違いなく僕の首筋を照準に捉えていた。それは紛れもなく、殺意としか呼べないものだった。安い食器の破片では皮膚の下の血管まで傷つけるのは難しいだろうけれど、おそらく母はそこまで考えていない。
 僕が一体何をしたというのだ。歯向かうことはそんなに許されないことなのか。だったら大人しく殺されていろとでも言うのか。
 不意に、(めぐむ)と昔していた話を思い出した。死ねばこの苦痛からは逃れられるのか。だとしても死に方くらいは選ばせてくれ。殺されるにしても、母になんて殺されたくない。
 力の入らない体を叱咤して立ち上がろうとすると、胸倉を掴まれて罵声を浴びせられる。その内容を聞き取るような気力はもうなかった。
 しばらくすると、母は何か捨て台詞を残して部屋を出て行った。僕はあちこちが痛む体をさすりながらゆっくり起き上がる。とりあえずどこからも血は出ていなさそうだ。カップの破片を拾い上げて床を軽く掃除する。一つ割れてしまったということは買い足さなければならないだろうか。今度の土日は予定がないから買い物に行くのもいい。
 妙に冷静な自分を見下ろしながら、集めた破片の一つを手に取る。こんなもので体に傷が付くなんてことはないのに、僕は何を恐れていたのだろうか。溜息を吐きながら破片を全て紙に包んでゴミ箱に入れた。

 自室に戻り、彰の部屋とこの部屋を隔てるカーテンを開ける。彰は既に布団にくるまって寝息を立てていた。何となくその場を離れ難くて、ベッドの横に腰を下ろす。夕食を食べていないから、本当は少しでも何か入れた方がいいのだろう。けれど一度座り込んでしまうとそこから動けなくなってしまった。
「っ……」
 彰が微かな声を上げる。今日も良くない夢を見ているのだろうか。その夢の中に入り込んで、悪夢を壊してしまう力は僕にはない。それどころか、悪夢より酷いこの現実を変える力すらなかった。
「……ごめんね」
 まだ小さな体を抱きしめて、悪夢が終わるまでそばにいることしかできない。それなのに今日僕は浮かれていて、大学にいる間は彰のこともほとんど思いださずにいて、家に帰るのが遅くなってしまった。でも、たとえ現実がどんなに酷くても、絵を描くことだけは諦めきれない。それが自分にとって何の意味を持つのかもわかってはいないし、人間は絵を描かなくても生きていけるとわかっている。それでも、何も描けなくなったらきっと死んだと同じなのだと思ってしまう。画家を目指すのは夢ではなくて、僕が生きられる場所を作りたいだけだ。
 でもきっと、今の彰にはそういうものがないのだ。彰の生きる道は母によって狭められている。それを理解していながら、僕は僕の夢を追いかけていいのだろうか。
「……描けている間は、お願い」
 それを希望(ひかり)だなんて呼ぶのは大袈裟かもしれない。そもそも希望はパンドラの箱に収められている類のものだ。それは病魔のように人の心を蝕むものなのかもしれない。でも、それは人に明日を連れてくるものだ。それに縋ることさえ許されないなら、僕はこれからどう生きればいいかわからない。

 そして願わくば、彰の世界にもそれが灯ってくれますように。
 この世界がそれを許さないと言うのなら、それは僕たちではなくて世界の方が間違っているのだから。

fragment #3「風景」

(しょう)とこうやってちゃんと話をするのって初めてかもね」
「そうだな。理人が生きてたときもほとんど会ったことなかったし」
「聞きたいことはいっぱいあるんだけど」
「……まあ、そうだな」
 響は何でも知りたがる。ともすれば詮索好きなように思われてしまうけれど、彼女自身には悪気はないのだろう。響は「どうして?」と問えば答えが返ってくる環境で生きてきた。俺はそれを聞くことも許されてはいなくて、きっと答えてくれたであろう人にも聞けないままここまで来てしまった。ただ、それだけのこと。
「姉さんと、どれくらい話した?」
「三ヶ月くらい毎日顔合わせてたけど、そこまでは。多分嫌われてたと思うし。でも彰の話はたまにしてたよ」
「で、何が知りたいんだ? 答えられる範囲でなら答えるけど」
 答えられる範囲がそこまで広くはないけれど、それは姉さんが響にどこまで話しているかにもよる。
「全部聞いたら死ぬことになるって言わたんだけど」
「それは俺も初耳だ」
「じゃあやっぱり全部聞いた人は殺すぞって意味かな……」
「まあ積極的に聞かせたい話じゃないのは事実だ。あと俺の話を聞いた人間は、二人中一人はとりあえず生きてるから」
 ただ、もう一人はもうこの世にはいない。らでも理人が死んだのは俺たちの過去を知ったからではないのだ。
「……お母さんのことは、どう思ってるの?」
「いきなりそこかよ」
「だってどこから聞いてもいきなりになるかなって……」
「まあ、まどろっこしいことしてるよりはいいか」
 響はピアノの鍵盤を軽く拭いてから、その上に臙脂色の布を乗せて蓋を閉めた。真っ直ぐこちらを見つめてくる目は優しい割に鋭くて、嘘を言おうものならすぐに見抜かれてしまいそうだ。
「優しいときもあったんだよ。……だから、怒られるのは俺が駄目だからなんだって思ってた」
「でもそれは――」
「わかってるよ。もうそれは、何人にも言われてるんだ。だけど、それが愛ではなかったっていうのを受け入れるのは簡単じゃない」
 響の表情が曇る。顔を見るだけで何を考えているかわかった。でもそんな顔をする必要はない。母さんのことは何もかもが終わった話なのだ。もう俺のことも姉さんのことも認識することはないだろう。
「……誰だって、愛されて生まれてきたって信じてはいたいんだ」
「でもそれが苦痛を生むことだってある。絶対なんてどこにもないんだから」
「そうだな。……理人もそう言ってた」
 絶対なんてどこにもない。その言葉は人を解放するけれど、どうしようもなく寄る辺ないような気持ちになることもある。響もそれは同じなのだろうか。彼女はいつでも凛と立っているように見えるけれど。
「でも、自分が悪いって思うのがそのときは一番楽だった。俺が悪いから怒られてて、たまに手を上げられることもあるんだって」
「そう……」
「そんな今泣きそうな顔になるなよ。終わった話なんだから」
 響がわかりやすく泣きそうになるから、いじめているんじゃないかとさえ思ってしまう。そういう顔をさせたいわけではない。そのときはそうだったという話をしているだけだ。
「……昔の話かもしれないけど、でも、彰のその時間は永遠に戻ってこないんだよ?」
「そうだよ。どうやったって過去は変わらないんだから、そこは割り切っていくしかないだろ」
「でも、それは……その頃の彰は、いつまでもそこに置き去りになるんじゃないの?」
「……だったらどうすればいいんだよ」
 変わらない過去。そこで起きたことをいつまでも引きずっていては進めない。昔の自分を置き去りにしてでも足を踏み出さなければ、過去なんていつまでも越えられない。
「ごめん。どうすればいいかは私にはわからないけど……でも、今苦しいって思ってるなら、そうやって過去のことにしてしまわない方がいいと思う。過去の出来事でも、今も傷ついているなら、それは過去のことじゃないよ」
「……忘れたいんだよ。できることなら、なかったことにしたい」
「その気持ちを否定はしないよ。私だったら多分耐えられない」
「俺も耐えられてたわけではないけどな」
 父親が生きていた頃の記憶はほとんどない。そのあとを思い出そうとすると、心臓が引き絞られているように痛む。母に投げつけられた言葉よりも、過去の自分の呪いに苛まれるのだ。
 自分が悪いから、怒られるのだと思っていた。
 良い子でいれば、愛してもらえると思っていた。
 けれどなぜかいつも失敗してしまって、それを叱責されるたびに体が縮こまってしまって、更に失敗を重ねてしまう。
 こんな自分はいなくなった方がいいのではないかと思うと、頭の中が黒い泥のようなものに侵されていく。それが始まると、だんだん何も考えられなくなって、息ができなくなる。
「……っ、う」
 ああ、こんなとき――どうしていつも思い出すのは、姉さんのことなのか。
 昔のことははっきりとは覚えていないことも多い。気づけばこんな風に時々息の仕方がわからなくなって、そのたびに姉さんの冷たい手が俺の首を絞めた。どうしてだろうか。体に与えられる苦痛の方が俺を殺そうとしているはずなのに、それに安心している俺が確かに存在していたのだ。
 でも今は、何もかもが壊れてしまった。
 壊れなければよかったというわけではない。俺たちがいた世界は間違いなく異常だったのだから。先に進むべきなのだ。それなのに心の一部がまだ、あの日々の中に囚われている。
 不意に手に痛いほどの冷たさを感じた。思考を強制的に中断させる温度。気がつけば、響が俺の手に何かを握らせていた。
「……氷?」
「昔、お父さんから聞いたことがあって。色々考えて頭がぐちゃぐちゃになったときにいいって。効果あるかはわからなかったけど。すぐそこに冷蔵庫もあったし」
「――正直言うと助かった。ありがとう」
 手の中の氷はあっという間に溶けて水に変わる。額に手を当てると、冷えた手がとても心地よく感じた。
「助かったって言っても、私のせいだし……」
「いや、だってわざとじゃないんだろ?」
「それはそうだけど」
「避け続けて、それで時間が経ったら勝手に治っていてくれるようなものでもないから。そんな顔をしなくてもいい」
 俺は近くにあった椅子に腰掛けた。響はまだ眉を寄せて俺のことを見ている。
「話、聞きたいんじゃないのか?」
「それはそうなんだけど、話すことで彰が苦しむのは本意ではないというか……」
「二回できたんだから、今回に限ってだめってこともないだろ」
 最初は友香に、次は理人に話した。けれど俺が知らないことも沢山あって、その欠けたピースのほとんどは姉さんが持っている。俺の記憶はあくまで断片でしかないのだ。
「じゃあ、聞くね。――彰が覚えている中で、一番幸せな記憶は何?」
「答えにくいな、それは」
 事実を淡々と話すより、自分の感情を聞かれた方が話しにくいのは当然だろう。しかもわざわざ幸せな記憶の方を聞いてくるなんて。予想していなかったから、答えが出ない。
「……買い物に行って、そのあと姉さんが通っていた大学に花を見に行った。いつのことかも覚えてないけど、その日のことはうっすら記憶にある」
「買い物はどこに行ったの?」
「そこのジャスコだけど」
 今はイオンになっているけど、そのときは確かジャスコだった。コップがひとつ割れたから、今度は割れないものを買おうと姉さんが言って、でも結局俺たちが気に入ったコップは色入りガラスのもので、割れたらまた新しいのを買えばいいよ、と姉さんが笑っていた。
「あと、そのときだな。――これ買ったの」
 俺はポケットから掌に収まるサイズの十徳ナイフを取り出した。響の目が大きく見開かれる。
「あ、それ! どこ行ったのかと思って探してたのに!」
「これ響のじゃないだろ」
「まあ……ちょっとネコババしたっていうか……なんていうか……? でも彰も人のこと言えなくない?」
「俺はいいんだよ、俺は。あとこれは見つかるとややこしいことになるから、早めに捨てたほうがいいと思うぞ」
 響は自分の身を守るために盗んだのだろうが、こんなもので人は殺せない。キャンプのときは役に立つかもしれないけれど、正直これを持っていくなら新しいものを買った方がいい。
「ていうか、姉さんのもの盗むならもうちょっといい感じの武器あっただろ」
「だって銃は反動があるから慣れてないと使うのは難しいってお父さんが言ってたし、それより大きい刃物は持ち歩きにくそうだったし……」
「何で娘に銃の話してるのかは全くわからないが、まあそれはいいとしてだな。これは響には返さないからな?」
 そもそも本来の所有者は姉さんなのだが、姉さんに返す気もない。これはそれだけ、今この世にあってはならないものだ。
「まあ、いいけど。私のじゃないし……」
 響が大人しく引き下がったので、今度こそこれは処分しておこう。心の底から、響がこれを使う状況にならなくてよかったと思う。
「それで、買い物の後は?」
「バスに乗って姉さんの大学に行って……構内に色々植物が植えられてるところがあって、そこを案内してくれたんだよな」
 そこに生えている植物の名前のほとんどを姉さんは言い当てることができた。それはバイトの関係で覚えなければならない知識だったらしいが、そのことを知らなかった俺は、姉さんは何でも知っているんだと思い込んでしまった。
「それで、藤の花の色が好きとかそういう話をしたんだよな。で、そのあと芸術センターの中に入れてもらって」
「聞いたことある。他の美術館とは音が違うけど好きだって理人が」
「美術館なら作品を見ろよ……まあそういう奴か。でも俺が入ったのは展示棟じゃなくて、なんか作業するところだったな」
 そこで初めて見たのだ。姉さんが作品を作っているところを。いつも俺に見せている顔ではなく、挑むような、真っ直ぐな目で目の前のキャンバスを眺めていた。その表情を今でもはっきりと覚えているのは、俺がその姿に惹かれたという何よりの証左で、でも、このことは今まで誰にも言わずにきた。
 俺を見る目ではなく、自分の作品に向かう姉さんのその姿を、世界一美しいもののように見ていた。
「なんとなくは、わかるよ。私も理人が音楽のこと考えてるときの目が好きだったから」
「あいつは音楽のこと考えてないときがないくらいだろ。でもまあ――理人に惹かれたのは、多分その部分だったんだろうなって思ってる」
 俺が見たものの中で一番綺麗だったものを持っている人が、もう一人いた。蛋白色の石の中で揺れる炎のような目の光。それを宿したまま俺を見る人が、たまたま二人いたというだけだ。
 今でも思う。
 時よ止まれ、お前は美しい――仮に悪魔と契約を結んでいたとしたら、あのときにその言葉を口にしてしまったかもしれない。そして、そこで終わる物語なら、どれだけよかっただろう、と。
「姉さんは夢中になってて、結局帰るのが遅くなって、家に帰ったら怒られた。――あの日は本当に、帰らなきゃよかったって思ったな」
 もし帰らなければ、何か変わったのだろうか。廻り続ける運命の輪を止められたのだろうか。もしそうだったとしたら、あの日俺は――。
「あの日、時間だから帰ろうって言ったのは、俺だったんだよな。……そんなこと、言わなきゃよかった」
「彰……」
「結局、母さんが怖かったんだ。だから帰るしかなかった」
 あの日、家に帰らなければ。
 いやいっそ、あの日で時間が止まってしまっていたなら。
 そうやって仮定を重ねたところで過去は変わらないとわかっているけれど、それでも、後悔はいつまでも変わらずに残っている。

9「Birthday Kid」

 藤の花が咲く頃に、(しょう)と二人で出かけた。割れたコップの代わりを買いに行って、それから大学に行って花を見たり、芸術センターに立ち寄ったりした。少しだけ進めてから帰るつもりだったけれど、途中でこのまま帰らなければいいのではないかとも思った。ここには泊まる場所もあるし、数日分の食料もある。家を出ている今が逃げるチャンスなのではないかと思った。
 時間だから帰ろう、と言った彰の声を無視することもできた。でも彰の目にはっきりと浮かんだ怯えの色を見て、何も言えなくなった。帰らなければ怒られる。そう思っているのだろう。このまま逃げればいいと言えればよかったけれど、僕には言えなかった。
 たとえこのまま姿をくらましても、どこまでも追いかけてくるのではないかと、そう思ってしまったから。
 バスに乗って家に帰ると、案の定母が待ち構えていた。
「今何時だと思ってるの?」
「つい夢中になってしまって。ごめんなさい」
 今回門限を破ったのはこちらの方なので、しおらしく頭を下げる。けれどそれで許してもらえるはずはない。左の頬を打たれる。そして次の瞬間には、隣に立っていた彰も叩いた。そして近くにあった箒を掴むと、僕が止める間もなく、それで何度も彰のことを打った。
「ちゃんと時間を見てなかった僕が悪いんだ。だから彰のことは怒らないでほしい」
 事実を言っただけなのに、母はテーブルの上のコップを掴み、中に入っていたお茶を僕の顔にかけた。彰が息を呑むのを背中で感じる。できれば見せたくない。こんな酷い景色は。
「ちょっとこっちに来なさい」
 母が僕の手を強く引く。母が目指すのは部屋の奥ではなくその逆方向の、外だった。心配そうにこちらを見る彰に一瞬だけ微笑んで、靴を履く時間も与えられずに風除室の外に出された。靴下を履いていても、アスファルトの微かな凹凸で足が痛む。
 母は外にある納屋の扉を開けると、そこに僕を放り込むようにして入れた。背中を強かにぶつけて咳き込んでいる間に扉を閉められる。外側からは簡易的な鍵で簡単に開けられるが、内側からは開けられない。
「一生そこにいなさい」
 母は捨て台詞を残して納屋を離れていく。乱暴に風除室の戸を開ける音が聞こえたから、家に戻ったのだろう。
 納屋の中には冬の雪かきに使う道具があるだけで、灯りや食料になりそうなものは特になかった。隙間から差し込む外灯の光が唯一の光源だ。
 携帯を入れた鞄を手放さずにそのまま持っていたらなんとかなったかもしれないのに。僕は膝を抱えて溜息を吐いた。別にもう凍死するような気温ではない。それなのに酷く寒く感じた。
 明日になったら気まぐれで出してくれるかもしれないし、本当にこのままかもしれない。どっちでもいいけれど、でも――今作っている作品を仕上げたいな、とぼんやり思った。
 今日は遅いし、脱出する方法を考えるよりもこのまま寝て、体力を温存した方がいい。眠れなくても目を閉じているだけで少しは体が休まると言うし。
 僕が家にいない間、彰はどうしているだろうか。母に何か酷いことをされていないだろうか。僕が帰るのを遅らせたせいで殴られたりするなら、それは僕の責任だ。
 それにしても暗い。寝てしまえば気にもならないのかもしれないが、目を閉じていても眠りはいつまでも訪れなかった。そればかりか、暗闇が僕の輪郭を侵して中に入り込んでくるような気さえする。
「……っ」
 目を閉じていても開けていても、同じことを考えてしまう。僕を丸ごと呑み込もうとする巨大な影。影は優しい腕で僕を抱きしめて、このまま暗闇に溶ければ楽になれると囁いてくる。でもそれは、僕が僕でなくなるということだろう。
 首筋に右手で触れる。指先に感じる脈動。
 誰かに、この暗闇に、僕という存在を侵されるくらいなら、いっそ――。
「っ……か、ぁ」
 首を吊るときは頸動脈を押さえること――。そんな知識はあったけれど、自分自身にそれを使うのは初めてだった。頭に血が上っていく。それでも力が足りないのか、意識が薄れていくような感覚はなかった。
「っ、はぁ……っ」
 それでも、僕を呑み込もうとする影は去った。束の間の平穏を感じながら目を閉じる。一生出してもらえないのだとしても、自然に死ぬのにはもう少し時間がかかる。だから焦る必要はない。
 でも、僕がいなくなった後の彰の未来と、途中になってしまった作品のことが気にかかった。けれど脱出を試みるほどの気力は湧かなかった。今はこの束の間の平穏の中、眠ってしまいたかった。

 それからどのくらい時間が経ったのだろう。閉じた瞼に光を感じて、僕はゆっくりと顔を上げた。納屋の扉が少しだけ開いている。そしてそこから遠慮がちに顔を出しているのは彰だった。
「どうして……」
「どこにもいなかったから、もしかしたらここかもって」
 ということは、探してくれたということなのだろうか。しかも、こんな場所まで。
「っ……ごめん……」
 視界が滲んでいく。輪郭が朧気になる中で、目の前の光に手を伸ばした。
「彰……っ」
 でも闇は光を簡単に侵していく。僕はそのまま、彰の細い首筋に唇を落とした。自分が何をしているのか自分でも理解できないまま、納屋の床に彰を押し倒した。
 もう手遅れだったのか。闇はいつの間にか僕を呑み込んでいたのか。今の僕に彰という光は眩しすぎた。
 状況がわかっていない彰が、目を見開いて僕を見ている。僕は彰の唇に自分のそれを重ねた。抵抗はなく、彰は何もかもを受け入れている。
 少しでも拒否してくれるなら、それで止まれるのに――そんな想いは、あまりにも身勝手で。けれど自分自身ではもうどうしようもなかった。
 開いた口に舌を侵入させながら、彰のTシャツをまくり上げる。微かに浮き出た肋骨を撫でて、その胸に触れた。それは紛れもなく欲望ではあったけれど、性欲と呼ぶのは違う気がした。
 指を動かせば小さな実が硬くなる。合わせた唇の間から彰の微かな声が漏れた。細い指が床を掻くけれど、僕のことを押し除けたりする様子はなかった。
 僕は何をしているんだろう。
 こんなことをしてはいけないとわかっている。それは血を分けた姉弟だからというわけではない。彰が望んでいないからだ。それはわかっているのに。
 彰のズボンのボタンを外し、下着の上からその部分に触れる。まだ第二次性徴を迎えてもいないその体を、僕は自分の欲望のままに塗り潰そうとしているのだ。
 その罪を意識すればするほど、僕の体は興奮に包まれる。獣と呼ぶ価値もないところまで堕ちて、僕は汗だけではないもので下半身が湿っていることに気が付いた。
「……っ」
 彰が微かな声を漏らす。まだ精通を迎えていない年齢であっても、刺激によって勃起することもあるし、そこから快楽を得ることもできる。僕の手に反応して顔を歪めて吐息を漏らす、その姿にさらに煽られていく。
 下着の中に手を入れると、さすがに彰は驚いたようだった。けれど僕の手を振り払うことはしない。それは受け入れたからではないと理解はしていた。姉と弟。そこには年齢差という絶対的な上下関係が存在する。特に彰は従順であることを求められて生きてきた。逆らえない立場を利用して、僕はこんなことをしている。――本当に最低だ。
 神様がいるなら、こんな僕をどこからか見て嗤っているのだろうか。それなら今すぐ僕を殺してくれればいいのに。
「っ、お姉ちゃ……ッ」
 彰が微かな声を上げ、その体を反らした。精液は出ていない。年齢的に、まだ精通を迎えていないのだろう。そのことを少しだけ残念に思ってしまった自分が、たまらなく気持ち悪かった。
「……ごめん」
 こんなことをしてしまった以上、姉の資格なんてない。触れることも許されない。それなのに、感情が理性を裏切って溺れていこうとしていた。もっと欲しい。渇望に変わった欲望を押し留める防波堤が静かに決壊し始めるのを、どこか遠くの出来事のように感じていた。

10「umbrella」

 先生に向けていた銃を下ろし、ゆっくりと机の上に置く。あの日僕を襲った暗闇がまた僕を呑み込もうとしている。あのときもそうだった。あの日のことを思い出すといつもそうだ。けれど抑えなければならない。この衝動に任せてしまえば、他人を傷つけることになる。
 右手の指先が首筋で脈打つ場所に触れる。躊躇いなく力を込めれば、目のあたりに熱を感じた。
 けれどその手を引き剥がそうとするものがあった。有無を言わさない強い力で首筋に食い込む指を外され、壁に押しつけられる。
「っ、離せ……ッ!」
 早く、早く、そうしなければならないのに。
 どうして止めようとするんだ。
 こうするしか方法はなくて、今度こそ完全に息の根を止めなければ、また誰かを傷つけてしまうから。
「っ……!」
 不意に手に触れた痛みに、思考を奪われた。いやこれは痛みではなく――冷たさだ。掌から手首にかけて冷えた雫が滑り落ちていく。
「氷……?」
「少しは落ち着いたかな?」
「……何なんですか、これ」
 平静さを取り戻した頭で、目の前の状況を確認する。ここには僕と先生しかいなかったのだから、僕を止めたのは当然ながら先生だ。
「響にはぼかして教えたが、君には正しいことを教えようか。これは自傷行為の代替として知られている方法の一つだ。その他にも腕を赤く塗るとか、輪ゴムをつけて強く引いてから離すとか、色々あるんだけどね」
「自傷行為……」
「君は自分がどれだけギリギリの場所に立っているかをもう少し認識すべきだ」
「……わかってますよ、そのくらい」
 初めてではないのだ。
 今までも何度も自分の首を絞めた。人に見られたのも初めてではない。そのとき僕を止めた人は、先生よりずっと拙い方法だったから、僕はその人のことも傷つけてしまった。自分がそういう人間なのはわかっている。一歩間違えれば大切に思っている人さえ殺してしまうような、ただの獣だ。
「今よりももっと深く理解すべきだと言ってるんだよ。そして君がそうなってしまったのは決して君のせいではない」
 僕は首を横に振った。立ち止まれる場所はいくらでもあった。けれどその全てを踏み外した結果が今の僕だ。
「君は自分自身の選択の結果が今だと考えているのかもしれないが、テストと違って、人生の選択肢には正解が一つもないこともある」
「……でも、僕は」
「君の選択肢は奪われてきた。君の父親が亡くなる前……いや、君の弟が生まれる前からだ」
 自覚しろ、と迫る声は優しいのに有無を言わさないほどに重い。今し方自分の口で語った過去の断片が、その言葉で繋ぎ合わされていく。
「君は女性であることを、君自身の選択を、度々否定されてきた。人間はそれを繰り返されると、否定されそうな選択肢は初めから消してしまうことがある。君は自分の心が血を流していることにもっと目を向けるべきだ」
「……そんなことをして、何があるんですか」
「意味があるかは私にはわからないよ。私はカウンセラーでも何でもないからね。だが、識るということを希求する学者ではある」
「僕は学者じゃないんですが」
「そうだ。君はどちらかというと芸術家だね。けれど、識らなければ描けないものがあることはわかっているだろう?」
 どんな画家も、自分自身の目で描くものの本質を見ようとした。そこに描かれたものが写実でなくても、それは目に見える形の奥にあるものを見て、それが何かを識った結果だ。けれど何かを識ることは、ときにそれまでの価値観を揺るがして、自己同一性の崩壊さえ招きかねない劇薬でもある。
「今の自分を壊したくはないんです」
「こちらとしても、いま君に計画を翻されても困る所までは来ている。だが、識ることで、今の君を強化することもまた可能だよ」
「――先生、僕は」
「君の計画は、いや、この世界を巻き込んだ作品は、あまりにも壮大だ。完成させるためには、君は揺るがない存在でなければならない」
 味方に引き入れるにはあまりにも油断ならない。けれど先生を形成するのがあまりにも大きい知識欲だというのはわかってきた。先生は気付いているのだろうか。その性質は娘の響にもしっかり受け継がれている。響が人に問うのは、識りたいからだ。けれど彼女はまだ答えてもらえる範囲のことしか知ることはできていない。反対に先生は穏やかに、しかし逃れられない強さで、僕さえも見えていなかったものを暴いていく。
「私は私の願望のために君を利用する。だが今の君は脆い。それでは困るんだよ」
「僕の話を聞きたがったのは、そういう理由ですか」
「ああ、そうだよ。君自身が君を識ることで揺るがない自己を手に入れられるだろうと私は考えているんだ」
 凶器を突きつけられているわけでもないのに、背中に冷たいものが走る。逃げられない場所に立っているのだと突きつけられる。
「僕がそれに耐えられなかったら?」
「耐えられなければ、君はその程度の人間だったということだよ。だが君なら可能だろう」
「買いかぶりかもしれませんよ」
「今のところ、そうは思えないけどね」
 先生は穏やかに微笑み、ゆっくりと椅子に腰掛けた。僕は息を吐き出す。あくまで優しい口調だが、先生が見ているのは自分の目的だけだ。でもそれでいい。僕だって利用価値があるから先生をここに留め置いているのだから。
「さて、話を戻そうか。――君は君が気付かないほど幼い頃から、選択肢を奪われてきた。そんなのよくあることだと言う人もいるし、実際に父親が死ぬまでの君の人生は普通と呼べる範疇にあっただろう。けれどその中でも、君の自由な思考は抑圧されてきた」
「……でも、それこそよくあることでしょう」
「よくあることと流してしまうと、見失ってしまうことがあるよ。たとえ親や教師だとしても、子供の尊厳を奪うようなことは許されない。でも親や教師は、容易くそれを奪えてしまうということを、もっと多くの人が理解すべきだと思うんだ」
「姉も、ですか?」
 もしあのとき僕が先生の言うことを理解していたなら、何かが変わっただろうか。僕は本当に僕が選ぶべきだった道を選ぶことができただろうか。
 あのとき本当はどうするべきだったのか――答えはもう知っている。
「自分でも驚いているんですよ。あのときは本当に、誰かに助けを求めるという選択肢が思いつかなかった」
 母のことを相談できる行政機関だってあったし、周りの人に相談するということもできたはずだ。けれど僕はそれをしなかった。できなかったわけではなく、そもそも思いついてもいなかった。それが選択肢を奪われていたということなのだろうか。
「DV被害者に対しても、何も知らない人間が『どうして相談しなかったのか』と責め立てることがあるけれど、あれは報復を恐れてのことも確かにあるけれど、助けてもらうという選択肢を奪われたまま苦しんでいる場合もある。その立場にならなければそれがどういうことなのかはわからないだろうけどね」
 安全な場所にいる人たちには、僕のしたことのなにもかもが滑稽に見えているのだろう。外に救いを求めれば簡単に助かることができたのに、どうしてそれをしなかったのか。自分だってそう思う。いくらでも機会はあったはずなのだ。
「だからこそ、どれだけ選択肢を奪われても何か一つくらいは思い出せる程度に選択肢を持っておくことが大切なんだけど――この国は親というものを信じすぎているね。愛なんてなくても子供は生まれるのに。しかも私がこういうこと言うと、お前は子供を愛してないのかって言われるんだよ? 馬鹿言ってんじゃないよ。私以上に響を愛してる奴がいるならここに連れて来いよって思うね」
「まあ……そのうち現れるかもしれないですけどね」
「君、絶対心当たりあるだろ」
 この父親では実紀くんは苦労しそうだけれど、そもそも響が父親に彼氏を紹介するかどうかもわからない。先生が選んだ道は、響に絶縁されてもおかしくはないものなのだから。
「まだ先生の域には達してはないですけど、というかそもそも響の気持ちがまだそっちには向いてなさそうですけど、でも――見所のありそうな子ですよ」
「何か嫌な予感がするんだよなぁ……こう、理人の顔がどうしてもちらつくというか」
「でも決めるのは響ですからね」
「それはそうだけど――って、そこで君が笑ってるともうほとんど確信に近いよ?」
「少なくとも僕の弟ではないので安心してください」
 全てはこれから実紀くんが選ぶ道次第ではある。僕としては先生が嫌がる方向に進んで欲しいと思っているけれど。
「まあこの話は置いといて、だ。君は自分を獣だと言ったが、私からしてみれば、支配欲を性欲や愛だと勘違いしたまま他者を傷つける人間の方が質が悪いと思うよ」
「結果だけ見ればどっちも同じでしょう」
「だけど君は、自覚していたが故に『愛してる』とは言えなかっただろう」
 言えなかった。何故なら、それは愛とは呼べないものだったからだ。
「虐待する親の中には、殴っておいて次の瞬間には愛を口にする手合もいるんだよ。そして子供はその矛盾した行動に自分で辻褄を合わせてしまう。自分が駄目だからこんなことをされるんだってね。一度その状態に入れば、その思考を捨て去ってしまうのには時間がかかる。おそらく彼は――そういうやり方をされてきたんだろう?」
「……何でもお見通しですね。母は、少なくとも表面上は(しょう)のことを愛していると言ってましたし」
「君は別として、かな?」
「少なくとも一度も言われた記憶はないですね」
 それどころか憎んでいたのかもしれない。それはきっと――。
「僕が男だったら、違ったのかもしれないですね。仮定の話をしても仕方ないけど」
「私としては愛してると言われて殴る方が残酷だと思うけどね。頭でわかっていても、その言葉で縛られていつまでも抜け出せなくなる」
「前に『それでも親ではあっただろ』って言われたことがあります。そのときは、僕は彰にとっては唯一の母親を奪ってしまったんだなって思いましたけど」
 今は違う。確かに産んだ人という意味では母親だけれど、母親はいればいいというものではない。もし母親があの人でなければ、僕たちはもっと幸せな姉弟になれたのだろうか。今でもふとそんなことを考えてしまうときがある。
「君が奪ったのは彼の母親ではないだろう」
「え?」
「彼は母親と同時に、姉も失ってるんだから。君は自分の影響を過小評価しているよ」
 本当はわかっていたんじゃないか、と頭の中で僕を責める声がする。けれどずっとそれを放置してきたのではないか。
 彰は僕がいなくなれば必ず探しにきた。そして僕のことを決して拒みはしなかった。僕はそれが依存ではないのかと思いながら、それでも――。
 必要とされるのは嬉しかった。彰以外には誰一人、僕を求めてくれる人なんていなかったから。だけどその気持ちは歪んでしまっていた。自分の中の一番醜い感情が引き摺り出されて、口から言葉となって溢れ出る。
「……できることなら、僕が母に成り代わってしまいたかった」
 本音を言えば、それが愛でなくても、依存でしかなくても、ただ君に――偽りでもいいから、愛されていたかった。
「彰が一番、僕のことを必要としてくれていたから」
 本当は僕のことなんて必要なくなるのがよかったのだ。僕は彰にとって傘のようなものだった。太陽が世界を照らす日が訪れるならその方がきっとよかった。けれどその日が来るのを僕はどこかで恐れていて――途中から、積極的に抜け出そうとはしなかったのは事実だ。
「私は君の選択を否定しない。何故なら識ることにそんな価値判断は無駄だからだ。酸化が悪で還元が善だと思って研究する人は誰もいないだろう?」
「……徹底してますね」
「それが私という人間だからね。それじゃあ、続きを始めようか」
 僕は頷いた。けれど心の片隅で、先生にあの人と同じことが起きなければいいと思っていた。
 奇しくも、僕はあの人のことも「先生」と呼んでいたから――。

11「グライド」

 家の問題は、大抵は家の中だけでは収まらない。僕は芸術センターのバイトを途中で切り上げて、(しょう)が通う小学校に向かっていた。緊急連絡先の一番上に書いたあるのは母の番号だったが、繋がらなかったらしい。
 僕も通った小学校は、懐かしさを想起させてはくれなかった。用件が用件だから仕方がない。そういえば昔、(めぐむ)と死ぬための計画について話して先生に見つかってしまったのもこの小学校だった。状況はそのときと似ている。
 僕が通された場所は、奇しくもあの生徒指導室だった。彰の担任は先に保護者代わりの僕と二人で話をしたいという。僕は低すぎる椅子に腰掛けて、詳しく事情を説明する男性教師の言葉を聞き流していた。
 要するに彰がクラスメイトに暴力を振るった、という話だ。経緯も説明してくれたが、正直それは無理もない話だと思った。暴力に訴えるのは正解ではないが、彰が怒るのも仕方がない。
「――僕……いや、私としては、指導内容にも問題があると思いますけどね。父親のことなんてあんまり覚えてないでしょうし」
 家族の肖像を描け、なんて課題に何の意味があるのだろう。単に絵を描かせたいだけなら目の前の人形でも描いていた方がよほど練習になる。技術を教えるわけでもなく、ただ絵を描かせて評価するなんて、たまたま聞かなくてもわかる人だけが得をして、そうでない人は自分には才能がないと絵から離れてしまうだけで何の得もないどころかむしろ害ばかりだ。
「それに話を聞く限り、向こうが先にからかってきたんでしょう? まあさすがに椅子で殴ろうとするのはどうかと思うけど」
 それが日常の家ではあるけれど、それは言わなかった。目の前の大人のことを僕は信用することができなかった。
「先生はそのときどうすればよかったか、ちゃんと彰に説明できるんですか?」
 何故、人に暴力を振るってはいけないのか。大抵の人は暴力を振るってはいけないと教えられ、理由もわからないままそれに納得して生きている。もしくは自分が殴られたら痛いから、他人を殴るのはいけないと考えている。でもそう思えるのは、その人が日常的に暴力に晒されていないからだ。
「解決を暴力に頼るのは間違っている。じゃあ向こうが言葉の暴力を使ってきたのはおとがめなしですか?」
 自分なら同じことをされたら椅子よりも殺傷能力の高そうなもので殴ってしまいそうだ。おそらく彰に凶器を選ぶような余裕はなかっただろうけれど。
 彰の担任は、「とりあえず暴力はいけない」と繰り返すばかりだった。その点については僕も同じ意見だ。でも根本的に解決する方法は見つからなかった。どうせ誰も答えなど知らないのだ。僕にも答えることはできない。人を殴ってはいけないなら、言葉で人を傷つけるのは許されるのか。暴力が許されないなら、理不尽に傷つけられたときは黙って耐えなければならないのか。そのとき、傷ついた体と心はいったいどうすればいいのか。
 いっそみんな死んでしまえばいいのに、と思った。どうせ生きている限り、人は人を傷つけることしかできないのだから。

「――彰」
 家に帰るまでの間も、帰ってからも、彰は一言も喋らなかった。本人が喋りたくないならそのままにしておこうかとも思ったけれど、さすがに気になって声をかけた。
「フィナンシェあるけど食べる?」
 大学の近くにある洋菓子店のフィナンシェが好きで、この前箱で買ったのだ。彰は小さく頷く。
「プレーンとアールグレイと抹茶とココアとオレンジがあるけどどれがいい?」
「……ココア」
「じゃあ僕はオレンジにしようかな」
 洗い物を増やしたくないから皿には出さない。けれど味は本物だ。袋を破って一口齧るとオレンジピールの苦味と酸味、外はよく焼けて、中はしっとりとしている生地の甘さが口の中で混ざり合う。
「……おいしい」
「僕が知ってる中で一番おいしいフィナンシェだからね。大事に食べて」
「うん」
 少しだけ彰が笑う。一瞬だけかもしれないけれど、甘いものは落ち込んだ気分を紛らわすのにちょうどいい。そしてそのとき食べる甘いものはできるだけ美味しいものがいい。
「……ごめんなさい」
「何が?」
「今日……お姉ちゃんにも迷惑かけちゃった」
「迷惑なんて思ってないよ。それに、彰は僕のために怒ってくれたんでしょ?」
 家族の絵を描け、と言われたとき、彰に描けるものはないに等しいと思っていた。適当に先生が及第点を出すものを描くような器用さもない。その中で彼が最初に描いたのは僕の絵だった。姉は家族だから別に課題はクリアできただろう。けれど問題はその色だった。
「まあ、みんななかなか信じてくれないからね。大学でもカラコンだと思われてたし」
 大学に服装の決まりはないから、カラコンをしていようがおとがめなしだ。瞳を大きく見せるカラーコンタクトを使用している学生もそれなりにいる。だから誰も僕の目の色に疑問を持ってはいなかったらしい。仁川さんも最初はカラコンだと思っていたようだ。この前何気なくその話をしたら驚いていた。
「……だって、気持ち悪いって言うから」
「言わせておけばいいよ。それはそいつの視野が狭いだけだから」
「でも、綺麗な色なのに」
「僕は彰がそう言ってくれるだけで満足だから。自分が綺麗だと思うものは、他人に何を言われたって綺麗なままだよ」
 でもそれが許せなかったのだろう。椅子で殴るのはやりすぎだと思うけれど、僕が同じように彰のことを馬鹿にされたら何をするかわからない。
「……殴るのはダメってわかってたけど、でも、止められなくて」
「うん。みんな簡単に言うけど、我慢するの難しいよね。でも暴力はダメだよ」
「どうして?」
「麻薬みたいなものだからだよ。だんだんそこから抜け出せなくなって、最後にはこっちが駄目になる。だから殴りそうになったら深呼吸して、そいつは本当に自分が殴るに値する人間なのか考えてみるといい」
 衝動のままに暴力を振るうのは獣の所業だ。彰にはその場所まで堕ちてきてほしくはない。僕はもう戻れないけれど、彰はまだ引き返せるところにいる。
「それでも難しいときは僕に言えばいい。いつでも止めてあげる」
 その方法もまた暴力でしかないことはわかっていた。けれど彰には手を汚してほしくなかった。
「そのときお姉ちゃんがいなかったら?」
「呼んでくれたらいつでも行くよ。もしくは彰が僕のところまで来ればいい」
 人間は容易く獣に堕ちるギリギリの場所に立っている。それはいつでも地の底から手を伸ばし、僕たちを引き込もうとするのだ。
「本当に? 呼んだらいつでも来てくれる?」
「ああ、約束するよ」
 そのさなかで僕自身がどれだけ汚れても、今更何か変わるわけではない。彰がいつか自分の足で立てるそのときまで、僕は僕の光が侵されないように守り続けたい。

 呼んでくれたらいつでも行く――その言葉は、その日のうちに果たされることになった。深夜、穏やかに眠っていた僕は、彰の声に起こされた。
「……っ」
 それでも必死に耐えようとしているのか、彰の拳は固く握り締められていた。僕はそれを両手で包む。蕾がほどけていくように、温めれば少しは和らぐような気がして。僕の手は冷たいから効果があるかはわからないけれど。
「ちゃんと来てくれたね、偉いよ」
 何に激昂しているのかはわからない。きっと言葉にするのも難しい状態だろう。それに理由なんて多すぎてどれなのか僕にもわからない。
「いいよ、楽にしてあげる――」
 ベッドに彰を寝かせてから、酸素の通り道を塞ぐように、その喉に手をかけてから力を込める。僕はそれしか手段を知らなくて、だからといって誰かに救いを求めることもできなかった。だってそうだろう。救いを求めて裏切られたら、今よりももっと悪い状況になる。周りの人間の誰を信じられる? どうせ誰も、僕たちの本当の苦しみをわかってくれはしないのだ。
 暴力こそが人間の本質なのだろうか。それともそれを押さえ込もうとする理性の方が本質なのだろうか。今のところ、僕の周りの人間は誰も暴力から逃れられていないように見える。僕や彰さえも同じ穴の狢だ。
 彰の首から手を離すと、彼の体から力が抜けた。布団に体を預けた彰は焦点を失ったようなぼんやりとした目で僕を見ている。
「彰……」
 呼びかけると、彼は一瞬笑ったように見えた。次の瞬間、彰が僕の耳を覆うように彰が手を伸ばしてきた。
「彰……っ?」
 何をされているのか、しばらく理解できなかった。唇に触れている柔らかなものが何なのか――。いや、本当は理解したくなかっただけだ。
 懇願するように僕を見上げる瞳に、何も言えなくなる。それにどの口が言えるのだろうか。僕がこの前彰にしたことは、もう消したりすることはできないのだから。
「――姉さん」
 それまでとは違う、大人びた表情で彰が僕を呼ぶ。けれどその目の奥には不安の色が揺れているように見えた。
 彰はきっと僕を試している。呼んだらいつでも来ると言ったのは嘘ではないか、自分を見捨てたりしないか。ここで拒めば、彰は縋るものをなくしてしまうかもしれない。そう思わせるほど、彰の表情は必死に見えた。
 愛してるとは言えないけれど、君を見捨てたりはしないと、それだけは誓える。
 もう一度、どちらからともなく唇を重ねる。罪悪感と、少しの幸福感。これは愛ではないと言い聞かせながら、それでも溺れていく自分を止めることはできなかった。

12「Black Bird」

 一度(たが)が外れると、止めることは難しい。僕は――いや、僕たちは、闇の中で互いを求めることから抜け出せなかった。そしてその泥沼の中で、僕たちの秘密はどんどん膨れ上がっていった。
 部屋の鍵を閉めて、布団の中に潜り込んで、その行為が許されざることだと知りながらも儀式のように続いていく。欲望は際限なく膨らみ、キスだけでは足りなくなっていた。
 そして(しょう)は――僕が思っていたよりもずっと早く、大人になってしまっていた。
 知識なんて巡り合わせだ。たまたま知ってしまうことだって世の中にはたくさんある。けれどあのときの彰が何も知らなければよかったのに、と今でも考えてしまう。もしくはもっと深く知っていれば、どこかで止まることができたのかもしれない。今更こんなたらればの話をしても遅すぎるとはわかっていたけれど。
「――姉さん」
 彰が僕をそう呼ぶのは、僕たちが二人きりで部屋に閉じこもっているときだけだ。その声を聞くと下腹部に疼くような熱を感じるようになっていた。彼が何を求めていたのか。その答えを僕は知っていて、それを与えられるのは僕ではないとわかっていながら、拒絶することはしなかった。
 僕が彼に抱いている感情は愛とは呼べないものに変質しているのに、彼が求めているのは愛なのだ。仮にそれを与えられる人がいるなら、その人に委ねてしまいたかった。けれどそんな人はどこにもいなかったのだ。
 本当は駄目なことなんだと何度も言おうとした。けれど何故駄目なのかという疑問に僕は答えられない。どうして姉弟で愛し合ってはならないのか。そう決まっているから、なんて思考停止もいいところだ。そんな答えで納得できるなら最初からこんな道に堕ちたりはしない。他の感情を愛と履き違えているだけだ、というなら確かにそうかもしれない。だったらこの場所からの抜け出し方を示してくれてもいいだろう。彰は僕に依存していて、僕は彰を依存させることによって支配しようとしていた。そう説明することはできる。でも説明できたからといって何も解決したりはしない。名前を与えたからといって、この激情が消えてくれるわけではないのだ。
 ここが地獄なら、せめてこの刹那だけでも幻想(ゆめ)を見ていたい。
 布団の中で下だけを脱いで、手の感覚だけで探り当てた幼い性器に触れる。部屋の外に漏れないように押し殺した甘い声が耳朶を刺激した。その声に興奮していく自分自身を徐々に隠せなくなっていく。許されないと理解しているのに、もっと欲しくなる。それは時折何の脈絡もなく襲ってくる波のような情欲よりも遥かに大きく、浅ましい願いは膨れ上がっていく一方だった。
 彰の手がその近くに伸ばされるだけで体が反応してしまう。人間は本能でそのやり方を覚えるのだろうか。それとも何かから学ぶのだろうか。少なくとも僕の体に触れる彰は、僕の知らない姿をしていた。人差し指で陰唇の間をなぞられる。それだけで濡れた音が響いて、僕は思わず強く目を閉じた。
 触れられることに悦んではいけないのに、どうしていつも体はあっさり僕を裏切っていくのだろうか。これまでは生理のときくらいしか意識しなかった自分の性を、女であることを、こんなに見せつけられることはなかった。
 自分が女であることに疑いはない。けれど初潮を迎えたあのときからそれがずっと気持ち悪くて、かといって男になりたいとは微塵も思わない。(セクシュアリティ)を表す言葉は数あれど、そのどれもが違うような気がしてしまう。試着した洋服のすべてが微妙に体に合わないような、そんな気分だ。僕は僕だからそれでいいと言いながらも、宙に浮く自分の性をどうすることもできないでいる。
 それでも彰に触れられるときだけは、自分の中にある女の部分を愛することができた。はしたない水音を立てる性器に嫌悪感を抱きはするが、徐々にそんなことはどうでも良くなる。
 僕を罵るなら好きにすればいい。けれどこの感覚だけは嘘ではないのだ。
 ああ、君になら――僕のすべてを奪われても構わない。
「彰……っ」
 僕の中に指が入り込む。小さな手では奥までは届かないというのに、自分でするのとは比べ物にならない快楽が体を貫く。僕は彰のものに触れる手は止めずに、喘ぎに変わってしまいそうな吐息を漏らした。
「姉さん」
 彰が僕を見つめている。その茶色の瞳の奥に、獣の炎を宿しながら。
 そしてそのときに僕が考えていたのは、きっと彼が考えているよりももっと穢らわしいことだった。
 まだ精通も迎えていないような子供でも、性行為をすることはできる。僕はもっと深く繋がりたいと言いながら、さらに深く彰を傷付けようとしていた。
 硬さを持った彰のものを潤んだ自分の中に導いていく。それは腰に重く響くような衝撃を僕に与えた。けれど同時に悦びに染まった声が漏れる。
「っ……あ、彰……っ!」
 何の隔たりもなく繋がってしまった僕たちは、それでもさらに互いを求めるように抱き合った。そこに愛なんてないと、これはどう足掻いたって罪でしかないのだと理解していたけれど、何故それが罪なのか、僕は結局説明することができないままだった。
「……ごめんね」
 聞こえないほどの声で呟いて、彰の上にのし掛かる。初めは戸惑ったけれど、徐々に快楽に任せて動けばいいことを理解した。自分の体の奥で彰を感じるたびに、臍の下を搾られるような快感が走る。
 赦されないことならば、どうしてこんなに気持ちいいのだろう。気持ち悪くて仕方ない行為ならば誰もそんなことしようとは思わないのに。
「姉さ……んっ……」
 二人分の乱れた呼吸が空間に満ちていく。彰は時折顔を歪めながらも、僕の目を真っ直ぐに見つめていた。僕の目は今、どんな色で彼を見ているのだろうか。綺麗と言えるようなものではなくなっているだろう。欲望に塗れて、こんなことをしてい僕の目なんて。
 それでもどこかで悦びを感じている自分がいた。最初から僕は彰のことが欲しくて欲しくて仕方なかったんだとさえ思った。
 他の男のものなんて絶対に受け入れたくないと思うのに、どうして彰のことはこんなにも欲しいのだろう。砂漠で水を求める死にかけの旅人のように、僕はどんどんと貪欲になっていく自分自身が怖かった。
 それでも彰の目に時折浮かぶ懇願の色に体の芯が疼いて、堕ちていくことをやめられない。
「彰……っ、あ、……い……ッ!」
 絶頂の瞬間に体が縮こまって、中に入っている彰の形を如実に感じてしまう。その瞬間に視界が僅かに滲んで見えた。
 汗か涙かわからないものが顎を伝って流れる。これは罪だとわかっているのに、それでもこのまま、繋がったままでいられないかと僕は思った。

 そのまま簡単な片付けをしただけで僕たちは寝てしまって、次に僕が目を覚ましたのは深夜だった。喉の渇きを覚えて台所に向かうと、そこには母がいて、食卓で酒を飲みながらぼんやりとしていた。
「――海」
「何?」
 僕は冷蔵庫から麦茶を出しながら、出来るだけ平坦な声で答えた。ここ最近まともに会話もしていないのに、急に話しかけられるなんて、悪い予感しかしない。
「彼氏でもできたの?」
「は?」
 あまりに唐突な言葉すぎて、嫌悪感を覚える前に面食らってしまった。今のところ特に浮いた話はない。
「女の顔になってる。自分では気付いてないかもしれないけど」
「悪いけど、心当たりはないよ」
 本当はないわけではないけれど、彰とのことを言えるはずもない。それとも何かに気付いていて鎌をかけているのだろうか。疑心暗鬼になりながらも、それを出さないように、コップの中の麦茶を一気に飲み干した。
「わかるわよ。母親だもの」
「……っ」
「でも、その人だって、どうせ海のことを愛してはいないわよ」
「……だから何?」
 そもそも彼氏なんていないし、愛されていないことくらいわかっている。彰が僕に向けている感情は、おそらく愛とは呼ばないということも。けれどそんなことを他人に言われる筋合いはないだろう。
「色気付いちゃって。どうせそれでチヤホヤしてもらえるのなんて若い間だけよ」
「そんなの母さんには関係ない」
「どうせみんなあなたのことを珍しがってるだけよ。その目のことだって」
「……だから、そんなの関係ないって言ってるじゃん!」
 自分では一度も綺麗だと思ったことはない。けれど綺麗だと言ってくれる人がいて、それが少し嬉しかったのに。どうしてこんな一言だけで全部塗り潰されてしまうんだろう。
「関係あるわよ」
 母は琥珀色の酒が注がれていたグラスを、僕の頭の上でひっくり返した。強いアルコールの匂いで頭がくらくらし始める。母は普通に酒が飲める体質だが、父は一滴も飲めないほど弱かったらしい。そして僕はどちらかといえば父寄りの方だ。
「彰に色目を使うのはやめてちょうだい」
「……何の話」
「あの子、あなたのことを言われてクラスの子を殴ったらしいじゃない。あの子はそんな子じゃないのに!」
 思わず笑ってしまった。彰の何を知っているというんだ。彰は僕ですら知らない部分を沢山隠し持っている。僕が知らないうちに大人になっていた彼が僕を呼ぶ毒のように甘い声も、この体に入り込んだ指や彼自身のことも、何も知らないくせに。
「何がおかしいのよ!」
「自分に都合のいい姿しか認めないから気付かないんだよ。――母さんも、僕も」
 彰は何も知らないと思っていた。けれど、それは僕がそう思いたかっただけだ。本当の彰の姿を一瞬でも受け入れ難く思ったのは、僕だって同じだ。
 母は空になったグラスを僕に投げつけると、一言、吐き捨てるように言った。
「――気持ち悪い」
 母でなくても、僕がしたことを知れば多くの人がそう言うだろう。血の繋がったきょうだいでの性行為なんて気持ち悪い。そんな不自然なことは許されるべきではない――と。
 だけど、そんな善良な人間の言葉が僕を救ってくれることは決してない。結局、当事者じゃないから軽々しくそんなことが言えるのだ。
「その目が気持ち悪いのよ! そんな目で媚売ったってどうせ愛されやしないのに!」
 体に走る鈍い痛み。蹴られた腹を庇うために丸めた背中に、酒が入っていた瓶が振り下ろされる。
 嵐に耐えながら、考えていたのは彰のことだった。嘘でもいい。錯覚でもいい。それが罪であってもいい。たとえ幻でも、愛されているのだと勘違いしていたかった。
 もう一度繋がれたら、またあの悦びを味わえるのだろうか。
 きっと他の人とでは駄目だろう。彰以外の人間が僕の中に入り込むことが全く想像できなかった。
 親子は一親等で、きょうだいは二親等と決まっているらしい。でも親なんかより、将来できるかもしれない僕の子供なんかより、彰と僕は近いような気がした。体の中に他人の臓器を入れるときだって、血液型だったり遺伝子が近い人の方が拒絶反応を起こしにくいと言うだろう。それなのに僕の中に他人の性器を受け入れるときだけは事情が違うらしい。その理由は僕にはまるで理解できなかった。
 いつの間にか嵐は去って、僕は背中の痛みを堪えながらゆっくりと立ち上がった。軽くシャワーを浴びてから部屋に戻ると、部屋を出る前は寝ていた彰が目を覚ましていた。
「……どこ行ってたの?」
「汗かいたからちょっとシャワー浴びてきただけだよ」
「起きたらいなくなってるから……」
 ベッドに腰掛けた僕の肩を押して、彰が僕の上にのしかかる。僕の知らない顔で、彰が真っ直ぐ僕を見つめている。
「勝手にいなくならないで」
「……うん。ごめんね、不安にさせて」
 これを愛だと呼べる人は多くはないだろう。見えない糸が自分の体に幾つも巻きついていくような感覚があった。でも、僕はその糸を解こうとは思わなかった。
 唇を重ねながら、頭の中に呪いのように響く母の言葉を聞いていた。
 どうせ誰にも愛されないのなら、なぜ僕はこの世界に生まれてきたのだろう。

13「春の日」

 2011年3月11日――。
 その日、僕は仕事を一通り終わらせてから美術棟にこもって作業をしていた。幸い碧原(みどりはら)市はそれなりに揺れたものの被害は少ない方で、湾にしか面していないために津波の被害もない地域だった。けれど地震の影響で停電し、美術棟の窓のない部屋を使っていた僕は、強い揺れと同時に突然暗闇の中に放り込まれてしまった。
 揺れはずいぶん長く続いて、頭を守るために机に隠れた僕は、暗闇の中で動けなくなっていた。
 暗くて狭い場所にいると碌なことを考えない。出来るだけ何も考えずに電気が復旧するのを待った方がいい。でもすぐに電気が復旧するのだろうか。今の段階で外に出れば、まだ昼だから明るくはあるはずだ。揺れもおさまったし、その方が得策だ。そう思っていても足がすくんで動かなかった。
「っ、はぁ……」
 特に理由はないはずだが、暗くて狭いところが苦手なのだ。暗いだけだったり、狭いだけだったりは大丈夫なのに、その二つが組み合わさると駄目だ。大抵ライトで照らすからそこまでは問題ないが、トンネルの類もあまり得意ではない。
 暗くて狭い場所にいると、暗闇が自分の輪郭を侵していくような気持ちになる。それならさっさと脱出すればいいのに、どうしても体が動かなかった。
 電気が復旧することを祈りながら目を閉じていると、ドアが開く音がして、僕は弾かれたように顔を上げた。外から差し込む太陽。そして懐中電灯の光。
「ああ、やっぱりここだ。大丈夫だった? 怪我はない?」
「仁川さん……」
「姿が見えなかったから、ここかなと思ったんだ。しばらく電気も復旧しなさそうだから家まで送っていくよ」
 呼吸を軽く整えてから立ち上がる。少しでも光が見えるなら大丈夫だ。ドアも開いている。そういえば、本当は地震のときは可能な限りドアを開けた方がいいということをすっかり忘れていた。咄嗟のことになると人間は案外うまくは動けないらしい。
「しばらく電気が復旧しないかもって話だから、ここの懐中電灯とか持って帰っていいよ。宿泊棟は暫く使わないしね」
 部屋を出ると、妙に静かだった。大学は山の中にあるからそもそもとても静かなのだけれど、今日は誰もが息を潜めているような静けさだ。宿泊棟に入って防災セットの箱を二つ出してきた仁川さんは、それをそのまま車のトランクに入れた。
「ごめんね、狭い車で。ここへの通勤にはこっちの方が便利だからね」
 軽自動車ではあるけれど四駆。雪が深い山の中に一人で通勤することを考えれば確かに合理的な選択だ。車の中に入るとラジオから各地の被害状況を報せる声が聞こえてきた。
 静かに車が動き出す。暫く無言のままラジオから流れる音声を聞いていたが、やがて仁川さんがカーオーディオに手を伸ばした。
「――今はやめておこう」
「でも……」
「どうしても気が滅入ってしまうだろう。そんな状態で運転して、事故でも起こしてしまったらことだからね」
 代わりに流れてきたのは合唱曲だった。車の中で聴くには向かないのではないか、と思ったけれど、イコライザーで調整しているのか、比較的聴きやすく感じた。
「そういえば、娘さんって確か仙台にいるって――」
「そうなんだけどね、さっき連絡が来て、今日はたまたま友達と大阪に旅行していたらしいんだよ。住んでるところがどうなってるかはわからないけど、とりあえず自分は無事だから、落ち着くまで大阪にいるって」
「ひとまず無事でよかったです」
「もしかしたら仙台には戻れないかもしれないっていうのは覚悟しているみたいだけどね。だからこそ、こっちはどっしりと構えていなきゃいけない。一番大変なのはあの子だろうからね」
 僕はそれには答えずに窓の外を流れる景色に目をやった。流れる音楽に集中して余計なことを考えないようにしようとしても難しかった。ラジオを少し聞いただけで、被害がとても大きいのだろうことはわかる。ざわめいている心を落ち着かせるように、カーオーディオからは美しい旋律が鳴り響き続けている。
 大学がある山の中は3月でも路肩に雪が残っている。けれど太陽は世界のことなど知らないと言わんばかりに、まるで春のように柔らかな光を投げかけていた。
 父が死んだ後で、死ぬとはどういうことなのだろうかと考えたことがあった。それはどんな人間でも必ず辿り着く地平で、多くの人はそれを悲しいことだと捉えている。遺された人間の悲しみを癒すために宗教が生まれたのではないかと思うほどに、昔からある宗教は死を語り、その死に意味を持たせる。けれど僕にとって死は何の意味もなかった。遺された人間はそこに何かを見出そうとするけれども、それぞれに訪れる死は誰にとっても唐突で、何か意図があってその人の命を奪っているわけではない。
 そう思っているはずなのに、ラジオの向こうの悲劇はまだ現実感を伴ってはいないのに、胸の奥に小さな棘が刺さっているような違和感が拭い去れなかった。
 山を抜けて市街地に出る。停電しているから、信号は真っ黒のまま沈黙していたが、交差点に立つ警察官の指示に従っていて、大きな混乱は起きていなかった。
「ここでいいのかな?」
「はい。ありがとうございました」
 車を降りて、積んできた防災グッズを下ろす。もし何かあっても三日くらいならどうにかなりそうなものが揃っていた。
「じゃあ気をつけてね。落ち着くまではバイトも無理しなくていいから」
「はい」
 どちらかというと無理をしない方がいいのは仁川さんの方ではないだろうか。安否は確認できているとはいえ、これからどうなるのかまるで決まっていないのだから。

 家に入ると、(しょう)がソファーに座って本を読んでいた。電気はついていないが、太陽の光が差し込んでいるのでまだ充分に明るい。
「母さんは?」
「今日は夜の仕事があるって」
「そう」
 その頃の母は昼間の仕事だけではなく、夜間の清掃の仕事もしていた。普通の生活をするには十分な収入がうちにはあったはずだが、彰を学習塾に入れることを考えていたらしい。
 夜の仕事があるということは、日付が変わるまでは帰ってこないということだ。僕はスマホでニュースサイトを見ながら腕組みをした。おそらくこの停電は何日か続くだろう。この地域は被害が少なそうだから回復も早いかもしれないが、すぐに復旧することは期待できそうにもない。
「彰、寒くない?」
「ちょっと寒いかも」
 この地域の3月はまだ春とは呼べない気温のことが多い。けれどうちにある暖房器具は全てが電気で動くものであった。厚着をしてやり過ごす他ないだろう。
 借りてきた防災用品の中には、簡易的な寝袋のようなものもある。寝るときは使うのもいいかもしれない。
「――じゃあ、今日は二人でキャンプごっこでもしようか」
 スマホの電源を落とす。モバイルバッテリーはあるけれど、いつ復旧するかわからない以上、あまりバッテリーを消費したくはない。それに見ていても気が滅入るばかりだ。
「テントは?」
「テントは……やっぱりキャンプだと必要かな……」
 うちにそんなものはないのは彰もわかっているはずだが。頭の中でテントの構造を思い描く。簡単なものなら作れるだろうか。家にある材料に出来そうなものをひとつひとつ思い描いていく。なかなか難易度は高い。でも明らかに期待している眼差しに負けてしまう。
「まあなんとかできるか……夜ご飯は何がいい?」
「カレー!」
「うん、キャンプと言ったらカレーだよね……コンロは使えるし大丈夫かな……冷蔵庫のものも使わないといけないし。手伝ってくれる?」
「うん!」
 今はまだいいけれど、夜になったら懐中電灯の明かりがあっても暗いだろう。いっそキャンプごっこをしているということにしてしまった方が夜を乗り切れるような気がした。

 懐中電灯の上に白い絵具で濁らせた水を入れたペットボトルを置いた簡易的なランタンと、かき集めた突っ張り棒で作った一人も入れないような小さなテント、パックのご飯以外は普段と対して変わらないカレー。それだけでも僕たちは狭い部屋でキャンプごっこを満喫した。実際は父が生きていたときすらキャンプに行ったことはなくて、これが本当にキャンプなのかは二人ともわからなかったけれど。
「じゃあ今日はそろそろ寝ようか」
 懐中電灯を消して、いつもより早い時間にそれぞれの寝袋に潜り込む。暗闇の中でも、現実から目を逸らして、ごっこ遊びの中で眠りにつけたら、それほど怖くはなかった。
 でも、わかっていた。
 現実は否応なく迫ってくる。今日は目を逸らして幸せなひとときを送っていても、明日は、明後日は、どうなっているかわからない。断続的に続く余震のことすら考えずにいられる時間には限界がある。
 絶望はいつまでも続くような気がするのに、希望は一瞬で消えてしまいそうな気がするのはどうしてだろう。
 目を閉じてしまう前に窓から見えた空は、街の明かりを全て奪ってしまったかのように無数の星の光を閉じ込めていた。

 許されない願いだとしても、そのとき僕は確かに思っていた。
 明日なんて来なければ。
 このまま何もかもが終わってしまえばいいのに。

14「最愛の不要品」

 碧原(みどりはら)の街に明かりが戻ってからほどなくして、僕たちは世界が今どんな状態にあるかを知った。テレビをつければどこのチャンネルでも同じ話をしているし、CMさえ公共広告機構の同じCMで埋め尽くされていた。現実感を抱けないまま非日常に放り込まれた僕たちは、それでも変わらぬ日常を送っていくしかなかった。宮城の大学に進学した同級生はそれなりにいたけれど、ほとんど連絡を取っていない。安否を確認するような関係ではないと思ってしまえば、することはほとんどなかった。
 そうして数日が過ぎた頃、あるアーティストが動画サイトに一本の動画を上げた。そんな動画なんて元々のファンや、そのアーティストが少し気になっている人くらいしか見ないだろう。けれどその行為は瞬く間に批判の的となった。
 曰く、今は音楽を聴いている場合じゃないだとか、支援したいなら金を出せだとか、音楽で腹は膨れないとか、被災した人は今は動画とか見られないだろうとか、果ては売名行為だとか。あまり流行の音楽に明るくない僕でも名前を知っているアーティストが売名する必要なんてないと思うのだが。
 例えば自分が被災していて、そのアーティストのファンだったとしたら、動画を上げてくれたというそれだけで、実物は見なくても嬉しくなるだろう。確かに音楽で腹は膨れないけれど、ただ心臓だけが動いている状態を生きていると呼べるのだろうか。その音楽で、自分が好きな音楽が死んではいないとわかるだけで前を向いて生きていける人だっているだろうに。
 それに――きっと彼らは何よりも自分たちのために歌ったのだろうと思う。金を出したり物資を送ったらボランティアに出かけたりもできたかもしれない。けれどこの未曾有の災害の中に放り込まれたときに、何よりも歌いたいと思うから彼らは音楽の世界で生きているのではないか。僕だってその気持ちを理解できる立場にはある。プロとは呼べないけれど、行き場のない想いは自分の方法で吐き出すしかないことを知っている。
 吐き出してしまわなければ、その想いは内側から自分を蝕んでいくだろう。だから彼らなら音楽に、僕なら絵に、それをぶつけるしかないのだ。そこに何か理由があるわけではない。強いて言うなら、そういう生き物なのだ。けれどそうではない大多数の人間にはおそらく理解できない。芸能の世界で活躍する人だって理解できるのは一握りだろう。
 僕はテレビを消して溜息を吐いた。ここ数日は悲しみよりも苛立ちが勝っていた。安全な場所にいる人たちはいつも勝手なことばかり言う。さっきのアーティストへの批判もそうだし、原発のこともそうだ。今まで見ないふりをしてきたくせに。もうその助成金がなければこの地域で豊かな生活なんて送れないから、リスクはあるけれどきっと対策してくれているはずだと信じて、かつての地域が分断されることすら受け入れてきたのにこの仕打ちなのか。しかもこの状況で原発誘致を推進してきた現職の知事が当選した地域の人たちをとんでもない馬鹿だと罵倒する意見さえあった。とんでもない馬鹿がいるところに住んでいたくないなら、さっさとどこかに逃げてしまえばいいのに。逃げる場所がないと彼らは言うかもしれない。だったらそのときは世界に絶望して死んでしまえばいいのに。――そんなことまで考えてしまう。
 けれどこの苛立ちはまだ形にはなれなくて、僕はそれを隠しながらも淡々と日々を送っていた。

「――明日から一週間くらいかな、ちょっと休みをもらおうと思って」
 その日、バイトに行くと仁川さんに言われた。暫く大阪に滞在していた娘さんが碧原に戻ってくるらしい。繁忙期ではないから一週間くらいは余裕だろう。けれど仁川さんの表情はどこか曇って見えた。
「今年の夏はもしかしたら難しいかもって言われてしまってね」
「どうしてですか? 別にこの辺りは地震の被害もあまりなかったのに」
「実はねーー」
 それから聞かされた話は、こんな田舎にも世の中の流れというものは襲ってくるのだという証左だった。そう片付けてしまえば簡単だけれど、僕たちにとっては頭の痛い問題だった。
「……暇な人もいるもんですね」
「とはいえ放置もできなくてね。今、センター長が大学側と対応を協議しているところなんだけど」
「中止になる可能性もあるってことですか?」
「それは考えたくないけど、あり得るだろうね。そもそも日本に来ることを渋っている方もいるみたいだし」
 夏に行われるアーティスト・イン・レジデンスは、この芸術センターの目玉とも言える行事だ。けれど毎年行われているそのイベントをこのご時世で中止しないのは不謹慎だそうだ。だからもしやるなら構内に爆弾を仕掛けるという。どう考えてもそっちの方が不謹慎だが、脅迫文を書き込んだ人は気付いていないのだろうか。
「センター長はやるつもりだけど、大学側が何と言うかわからなくてね」
「大抵は悪戯ですけどね、そういうの。でも本当にやる人がいないわけでもないから警戒しないわけにはいかないか……」
 今ここで僕たちにできることはないけれど、そんなことで中止になってほしくはない。僕にとっては、今年のアーティスト・イン・レジデンスが最後なのだ。大学を卒業したらどうするかはまだ決められていないけれど、芸術センターに関わることはなくなる。それがこんな馬鹿馬鹿しい脅迫で無くなってしまうことは考えたくない。
「――芸術なんて有事のときは何の役にも立たないって思われてるんですよね」
 そうではないと言いたいけれど、じゃあ何の役に立つのかと言われたらまだ言い返すことはできない。それに生かされている人は確かにいるけれど、生命を奪おうとする自然の強大な力の前には芸術なんて無力だ。そんなことは誰でもわかっている。
「絵で腹は膨れないけれど、誰かが夢中になっているものを『何の役にも立たない』なんて言うのはどうかと思うんだよね。でも確かに世の中にはそう考える人もいる。だからといって役に立とうとして安易にチャリティーとかに走るのもいかがなものかってセンター長は言ってたけど」
 バイトの僕が顔を合わせることはあまりないけれど、センター長の考え方は嫌いではなかった。おそらく純粋に芸術を愛している人なのだろう。収益を寄付するチャリティーは称賛されることも多いが、それは作品そのものの価値ではなく、作品の商品価値で支援しているだけだ。やらないよりはやった方がいいことではあるが、どこか釈然としないのは事実だ。

 あらゆるところで不謹慎という言葉が躍っていた。その日に誕生日を迎えた人は人目を憚って喜ぶこともできず、咲き始めた桜を見に行けば老人に批判される。世の中には閉塞感が漂って、堰き止められた人間の声が澱み始めた。僕はSNSの類は一切やっていないが、それでも人間と人間の心がぶつかり澱む場所に怨嗟が溢れていることは肌で感じ取れた。
 くだらない。絆なんて一番気色悪いし、だからといってそこに参加しない自分がかっこいいと思っている手合いも嫌いだ。どうせなら箱舟もろとも押し流してしまえばよかったのに。安全な場所にいて誰かの自由な生活を不謹慎の一言で規制するような輩も、賢しらに助言を投げ続ける人たちも、みんないなくなってしまえばいい。
 どうせみんな最後には死んでしまうのだ。それが十年後なのか、それとも明日なのか、そのくらいの違いしかないというのに。
 苛立ちが募るほど、美術棟に籠る時間は長くなっていった。誰にも邪魔されず、誰にも咎められず、世界から隔絶されたような静かな場所で、自分の血が黒く染まっていくような感覚に陥りながら、ただ目の前の作品に没頭した。家に帰る時間は必然的に遅くなっていたが、本当はもっと長い時間美術棟にこもっていたかった。
 そんな状態が二週間ほど続いたある日、学校帰りの(しょう)から電話がかかってきた。今日は母が夜の仕事の日なのに鍵を持たずに出てきてしまったらしい。鍵を開けるために作業を中断して今から家に帰るのは正直面倒だと思っていると、彰の方から大学に行ってもいいかと聞かれた。
「いいよ。一人で来られる?」
《うん》
「じゃあ着いたら連絡して」
 作業を中断されるのは、それがたとえ彰であったとしても苛立つものだということを僕は知った。それどころか人間として当然の空腹や睡眠欲さえ邪魔だった。
 程なくしてやってきた彰は部屋の片隅の机を借りて自分の宿題を片付け始めた。物分かりがいいのは助かるけれど少し不安にもなる。僕は彰に我慢をさせてはいないだろうか。でもいつしか彰がそこにいることすら忘れるほどに自分の世界に潜り込んでいった。

 気付けばもう最後のバスの時間が近付いていて、鳴り響くアラームがそれを知らせてくれた。溜息と共に筆を置くと、遠慮がちな視線を感じる。
「ごめん、そろそろ帰らなきゃね」
 本当はまだ続けていたいけれど、流石に時間だ。それにまだ夕食も食べていない。
「どこかでなんか買って帰ろうか、彰」
 けれど彰は何も応えなかった。ただ真っ直ぐ、でもどこか遠くを見つめている。
「――これ、ここに飾るの?」
「え?」
「美術館があるって、前に言ってたから」
「いや、僕の絵なんてまだ飾ってもらえないよ。そもそもこれ完成してないし」
 どうしてそんなことを急に言い出したのだろうか。彰は僕の疑問をよそに、描きかけの絵をじっと見つめていた。

 僕の中で朧気だったものが、手を動かす度に現実に立ち現れる。けれど描きたいものはまだ遠く、僕は一日のほとんどの時間を美術棟で過ごし、家にも帰らない日が続いた。宿泊棟に行けばいつでも寝泊まりできるし、シャワーも使える。バイトの立場を利用して宿泊するのはあまり褒められたことではないとわかっていたけれど、自分の頭に手がついていかなくて、いつまでも絵が完成しないことに少し焦れてもいた。
 その上、良くない報せもあった。今年のアーティスト・イン・レジデンスは予定通り行われることになったのだが、大学にはまだ脅迫のメッセージが届き続けていた。早く捕まってくれればいいのだが、対応している職員の中には心身に不調をきたしている人も出てきているという。
 この世界に芸術なんて必要ないと思うのはその人の勝手だ。いらないならいらないで放っておいてくれたらいいのに。どうして自分に必要のないものがこの世に存在するのがそんなに気に入らないのだろう。それは姿の見えない犯人もそうだし、僕の母もそうだ。
 母は僕がこのバイトをしていることも気に入らないし、このご時世に夏の行事を強行する芸術センターの方針も気に入らないようだ。それを僕に言ったところでバイトの僕に何かを決める権限なんてありはしないのに。その言葉を聞きたくなくて、ますます家から足が遠のいていた。
「じゃあ僕は帰るから。あまり根を詰めすぎないようにね」
 二日前から復帰した仁川さんは、定時になると足早に帰っていった。僕も仕事は定時までだ。そもそもこの時期にあまり残業はない。けれどそのあとはずっと美術棟にこもっている。あともう少しのところでなかなか完成しなかったが、おそらく今日には仕上がるだろう。誰かに見せるつもりはなくて、ただ描きたくて描いた絵だ。

 思えば、絵を描くことは好きだったけれど、描きたいものがあるから描いたのは今回が初めてだ。その筆に込めた感情は決して褒められたものではないが、どうせ誰にも読み取れはしない。
 人形に釘を打ち込む儀式のように、僕は色と線を重ねていく。抽象的な絵はきっと誰にもわかってもらえないどころか、わかった風な顔をした誰かに適当な解説をつけられるのだろう。そんな目に遭うのなら、誰にも見られなくていい。
 僕は世界を呪っていた。
 不謹慎という言葉で誰かの大切なものを否定する奴らも、放射能への恐怖で混乱をきたす人も、逃げられない人に安全な場所から逃げろと言うだけの人も、死んでしまった人もその死を悼む優しい人も、みんなみんな死んでしまえばいいと思いながら絵を描いた。
 完成したらどうするかなんて考えてはいなかった。ただ思うままに手を動かして、ようやく最後の、たった一本の細い線を描き込む。
 時計を見ると、既に日付が変わっていた。当然今日はもう家には帰れない。このまま片付けをして寝ようと思って立ち上がった瞬間、今までの緊張の糸が切れたかのように、僕の意識は白に飲み込まれて、呆気なく途切れた。

15「I'm out」

 次に目を開けたとき、そこは見知らぬ天井だった。起き上がって周囲を見回して、窓から見えた景色でここが大学のどこかなのはわかった。けれど僕が今まで来たことがない場所だ。
「佐伯さん」
 仁川さんが、僕が寝ていたベッドの隣にある椅子に腰掛けていた。回らない頭で状況を整理しようとするが、意識が途切れたところから全く思い出せない。
「ここは……?」
「大学の医務室だよ。――あんまり寝てなかったみたいだね」
「……言われてみれば三日くらいほぼ寝てなかった気がします」
 ついでに言えばその三日間は食事も一日一食だった気がする。バイト中はちゃんと食べたけれど、それ以外の時間は空腹になったら食べようと思っていて、結果的にそうならなかったから食べなかった。
 完成したことで気が抜けてしまったのだろう。仁川さんに迷惑をかけてしまった。しかももう昼になっているということはバイトは無断欠勤状態だ。自己管理ができてないと言われたらぐうの音も出ない。
「すいません、迷惑をかけてしまって」
「迷惑だとは思ってないよ。熱中し過ぎるとたまにあることだっていう例は幸いにもたくさん見てきたからね。だからアーティスト・イン・レジデンスのときは『ちゃんと寝るように』ってみんなに言うわけだし」
「でも、僕はそれを言う立場の方なのに」
「経験者は語る、というやつだと思えばいい。何も知らない人が言うよりもむしろ説得力があるかもよ」
 けれど今の僕が無理をして作品を仕上げたところで、それに価値があるとはどうしても思えなかった。
 完成した作品には満足している。けれど所詮は僕の自己満足に過ぎない。絵を描いたところで、それが多くの人に見られるようになったところで、その人たちが勝手に解釈して消費していくだけ。あの絵が評価されるということは僕の呪いは見た人間の心を蝕めなかったことになる。全員が同じ解釈をする絵なんてないはずなのに、そんなことを考えてしまうのだ。
 みんな死んでしまえばいいと思って色を重ねた。けれどまだ――何も起きてはいない。結局は僕がしたことは僕の自己満足でしかないのだ。
 吐き出さなければ内側から自分を壊してしまうような衝動だった。だから絵を描いた。並べるのもおこがましいのかもしれないが、世間には叩かれていたあのアーティストとやっていたことは一緒で、ただ、そうするしかなかったのだ。
「もう少し休んでいくかい?」
「いえ、今日は帰ります。すいません」
 まだ頭は重いけれど、身体は正常に動くようだ。これ以上ここにいても迷惑をかけるだけだと思い、僕はゆっくりと立ち上がった。
「送っていくよ。ちょうど外に用事もあってね」
「すいません。……ありがとうございます」

 鍵を開けて家に入ると、微かに人の気配を感じた。平日の昼間は全員が外に出ているはずなのに。けれど空き巣が物色したような形跡もない。母が空けた酒瓶もむしろ整然と並べられていた。人がいる気がしたのは僕の気のせいかと思い、自室に入る。
「……(しょう)?」
 僕の部屋には、学校にいるはずの彰がいて、僕のベッドを占領して眠りこけていた。穏やかな寝顔。その頬にそっと手を伸ばそうとした瞬間に、閉じられていた瞼が開けられた。僕がいることに気がついた彰は飛び上がりそうな勢いで起きる。僕はふっと体の力を抜いてベッドに腰掛けた。
「怒らないよ。学校行かなかったの?」
「……最近あんまり行ってない」
「そっか」
「怒らないの? 学校サボってるのに」
「別に学校休んだって死ぬわけじゃないんだから」
 理由だって、彰が話したくないものを無理やり聞き出す必要はない。それが単に遊びたいだけだったとしても立派な理由だし、そういう休暇が必要な時期は誰にでもあるだろう。
「最近クラスに転校生が来て、その子が――」
 彰の話はどこにでもあるようなものだった。転校生があることをきっかけにいじめられていて、自分は巻き込まれてはいないけれどその雰囲気に耐えられないから学校に行きたくない、という。
「でもその子も悪いことをしたんだけど、でも、なんか――」
 発端はその転校生がクラスの女の子を執拗にからかったことらしい。それを問題視した女子に糾弾され、というところまではまだいいけれど、その後LINEグループを外されたりSNSにあることないかと書き込まれたりと、僕の時代とはまた違う形のいじめに発展しているようだ。目に見える暴力のように表には出てこないけれど、教室内に充満するその空気に耐えられないという。
「個人的に人が人を裁くとそういうことが起きるから法律ってものがあるんだけどな」
「どういうこと?」
 人の本質は獣だと、水無瀬はかつて言っていた。わざわざそれを引き出すような彼女の趣味は気に入らないが、言っていることはあながち間違ってもいないだろう。人間の根には獣の部分が――暴力性が確かにある。けれど社会生活を送るためにはそれを封じ込めなければならない。その時行き場がなくなった獣はどうするのか。消えてなくなるわけではない。大義名分を与えられればそれは目を覚まし、他者を攻撃する。正義はその大義名分としてよく使われるものだ。暴力のための正当な理由を与えられた獣は簡単に暴走する。相手が死ぬまで、いや死んでもなお攻撃を与えてしまうこともあるのだ。そんな人間の獣性を律するために法というものが存在する。そんな話を今しても難しいだけだろうか。けれど子供だからといって誤魔化すのも嫌だった。
「よくわかんないけど、悪い人だからっていじめたりするのは間違ってるってこと?」
「本当はルールに従って、先生なんかが注意したりするべきことだね」
「でもそれじゃみんな納得しないんじゃない?」
「誰もが納得する罰なんてないよ。生きていることが許せないっていう人もいれば、死んで楽になるより一生苦しんでほしいって人もいる」
 正義を掲げた暴力が気持ちいいのは大人も子供も同じだ。そもそも暴力が気持ちいいものなのに、それに正当な理由まで与えられているのだから。けれど暴力に酔っている人たちの中で居心地の悪さを感じる人は確かにいるだろう。何より彰は――何より理不尽な、正当性すらないような暴力に日常的に晒されているのだから。
「……そんな状態の学校に行くのは、むしろやめた方がいいかもね」
「でもお母さんは『自分がいじめられてるわけでもないのに』って。それに『その転校生が最初に悪いことをしたんでしょ?』って」
「一度暴力の味を知ったらもう戻れないんだよ。次にもし彰が悪いことをしてしまったらどうなると思う?」
 こんな脅しのような言葉は良くないだろうか。そう思いながらも言ってしまった。最初に悪いことをしたのが事実でも私刑は認められるべきではないし、一度その快楽を知った人間は、次もまた同じことをする。それどころか、どこかでそれを止めるものがなければエスカレートしていく一方だろう。
「僕の友達に、教室に行かずにずっと保健室で本を読んでた子がいたんだ。僕が知らないことを沢山知ってる、とても頭の良い子だった。――教室に行かなくても、そういうやり方だってできるよ」
「でも、またお母さんに怒られる……」
「そのときは僕が彰を守ってあげる」
 少なくとも死にそうな思いをしてまで行くところではないと思うから。けれど俯いたままの彰の姿に違和感を覚えた。僕は彰の腕を取って、袖をまくり上げる。僕がしようとしていることに気がついた彰が身を引こうとするけれど、僕の手の方が早かった。
 腕に、何かにぶつけたような痣があった。嫌な予感がする。僕がいなかったこの数日、彰に何があったのか。
「……僕が悪いんだ。学校行きたくなくて、行くふりして公園に遊びに行ったから、警察の人に見つかっちゃって」
 警察官は己の職務を全うしただけだろう。責めることはできない。問題はそのあとだ。
「彰は悪くない。学校は無理をしてまで行くところじゃないから」
 彰の頭を撫でながら、僕はここ数日の自分の行動を後悔していた。気にしていないわけではなかった。けれどそれよりも絵を描き上げたくて、鍵がないから家に入らないと電話をかけてきた彰のことを疎ましく思うことさえあった。
 でも、あれは本当に彰のことを放り出してまで描くべきものだったのだろうか。きっとこのまま誰に見られることもない、誰かの心を動かすこともないもののために、彰が傷ついていることに気付かずに熱中していた自分を嫌悪した。
「……ごめんね、彰」
 何よりも大事なはずだったのに。それなのに僕は、自分のことにかまけて彰とあの人を二人きりにしてしまったのだ。
 彰の華奢な体を抱きしめる。どうして言ってくれなかったのか、と言うつもりはない。きっと彰は僕に気を遣っているのだ。僕が絵を描いているとき、彰が邪魔をしてきたことは一度もなかった。それなのに僕は――。
 絵を描かなくても死ぬわけではない。でもこのまま放置すれば、彰は死んでしまうかもしれない。
「ごめん。次からは――」
 必ず、君のことを守るから。

 美術棟にそのまま置いてあった絵に布をかける。捨ててしまおうと思ったけれど、それは出来なかった。何の意味もない行為だったとしても、完成した作品自体は今の僕の精一杯だと言えたから。
 これが描けたことに満足はしている。だから、ここで終わらせよう。どうせ叶うはずのない夢なのだ。未だその夢に繋がるとっかかりも掴めていない。一流のアーティストにあって自分にないものもわかっている。区切りをつけるなら今だ。
 芸術センターの広い倉庫の中に、描き上げた絵をそっとしまう。木を隠すなら森の中。これまでここに滞在したアーティストが残していった、作品としては完成していない習作や断片がここに納められている。もし仮にここで作ったものが欲しいと言われたらいつでも渡せるように管理していて、最近ではその仕事はほとんど僕がやっていた。だからここなら紛れ込ませても気付かれることはない。温度管理もしっかり出来ていて作品が痛むこともない――などと考えているあたり、未練があるのだろうか。
 でも、もういい。
 僕の夢は、僕の一番大切なものを放り出してまで追いかけるものではないのだから。

 倉庫の扉に鍵をかける。重い錠の音が、指先から頭まで駆け抜けたような気がした。

16「蜜蜂」

「過去のことは変えられないから、ここで何を言ったところで無駄なのはわかっているんだけどね」
 先生が静かな声で言った。
「絵を描くことはやめるべきではなかったと思うよ」
「結局はやめてないですけどね」
「その話はこれからになるのかな?」
 僕は頷いた。一度は手放したはずの夢が、思わぬ形で運命の歯車を回した。僕を僕たらしめた出来事の話はこれからするつもりだ。先生は背もたれに体を預けながら腕組みをする。
「今の大多数の人間の価値観では、家庭と仕事を天秤に乗せたときに、仕事を選んでしまった人間は非難される。でも同じ天秤に乗せられるほどの価値を持っているはずなのに、片方を選んだら非難されるっておかしい話だと思うんだ」
「……先生は、もし仕事と響のどちらかを選ばなければならなかったらどうするんですか?」
「そもそも仕事と響が同じ天秤に乗るわけがないだろう。それは面積と体積を比べるようなものだよ。単位が違うものを比べられるわけがない。――まあ、こんなことを言えるのはいざというときは響の面倒を見てくれる人がいくらでもいたからだけど」
 大抵の人はそうではないから、同じ天秤に乗せられないものを無理やり乗せるしかない。でも今から思えば、あのときに誰かを頼っていればまた違う結末があったのかもしれない。
「血が繋がっていなくても幸せな家庭はあるし、逆に血が繋がっていても不幸な家庭はある。それなのに血の繋がりというのが変に神聖視されている気がするんだよね。窮屈な世の中だよ」
「他人に子供の世話を任せたら虐待だ、なんて言う人すらいますからね。殴るくらいなら他人の方がよっぽどましだと思いますけど」
「私も理人に響を任せるときが多かったから色々言われたんだよ。父子家庭だからどうたらこうたらとか、親としての自覚がないとか。失礼な話だよ。親としてちゃんと考えた上での人選なのに」
「いや、僕もその人選はどうかと思うんですけど」
「響との相性を考えたら麻美はないだろう。麻美が追い詰められかねない。それに理人は――絶対に響に手を出さないと思ったからね」
 麻美と響の相性が悪いという点に異存はない。自分が納得するまで「どうして?」と聞いてくる子供と二人きりになったときに精神的に追い詰められそうなのもわかる。相性だけ見れば確かに理人さんは適任だったのかもしれない。それよりも、理人さんが「絶対に響に手を出さない」という確信めいた先生の言葉が気になった。
「その頃にはもう『作曲する機械』に心を囚われていたからね。愛も、憎しみも、支配欲さえも人間ではなく、存在するかも怪しいそれに向けられていた。人間の段階で対象にならないんだよ」
 響が理人さんに恋愛感情を抱いてしまったのは構わないのだろうか。僕の疑問を察したかのように先生が苦笑した。
「そこに関しては誤算だったんだよなぁ。好きになっても絶対に報われないのに何でモテるんだろうな、あいつ……」
「さあ? 僕にはわかりませんね」
「君だって人ごとではないだろう。恋愛感情かどうかはわからないけれど」
「恋愛感情かどうかは僕も知りませんけど、理人さんがそこまで執着していたものを引き継ごうとしているのは事実なんですよ」
 せめて響や実紀くんのように音楽の道に進みたいと言ってくれれば何も言わなかったのに。(しょう)が理人さんから引き継ごうとしているものは、もしかしたら彼を破滅させるものかもしれないのだ。
「気に入らないかい?」
「……正直」
「実際、厳しい道だとは思うよ。私の研究だって反発を受けているんだ。前なんてなんかよくわからない宗教の人に、『神が作りたもうた人間の似姿を人間が作るなんて言語道断』とか言われたし」
「よくわからない宗教、という意味ではここも似たようなもんでしょうけど。クリエイティブな分野は人間の特権だと思っている人も多いから、反発は必至でしょうね」
「興味はあるんだけどね。彼が本当にそれを作れたとしたら、機械は本当の意味で意志を――心を手に入れる。同時に人間の心とは何なのかも解明されるだろう」
 先生の興味はあくまでそこにあるらしい。人間の心。それが何なのか完全に解明はされていないから、機械にそれを組み込むことは未だにできないでいる。
「でもそこまで人間に近く、人間よりも頑丈なものが出来てしまったら、人間がやることなんてもう何もないですね」
「私はそうは思わないけどね。機械の方が優れているからといってやめてしまえるほど、人間の衝動というのは単純には出来ていないよ。君が結局絵を捨てることができなかったようにね」
「でも――そんな衝動は、ない方が幸せなのかもしれないと思うこともあります」
 生きるためには必要のないものだとわかっているのに、止められないものがある。それを押し込めてしまえば自分自身を蝕んでいく。だから吐き出すしかないのだ。
「君とは全く逆のことを言っていた人が昔いたんだ。その人は――衝動を失った自分に生きる価値はないとさえ思ってしまった。他に大切なものなんていくらでもあったのに、それが消えてしまった自分はもう自分ではないくらいのことを――まあ、直接聞いたわけではないけど。日記が残ってたんだ」
「その話は初めて聞きました。麻美はその日記のこと、知らないんですね」
「麻美どころか理人にも言ってないんだ。警察やマスコミにも言ってない。父の言ってることを理解できる人は少ないだろうからね」
 植田(うえだ)治――先生の父親で、理人さんと麻美の師匠だった人で、曲が作れなくなったことを理由に自ら命を絶ったその人のことを、僕は伝聞でしか知らない。でも話を聞く限り、随分烈しい人だったようだ。
「……理人さんにも言わなかったんですね」
「父と同じ状況になったら死ぬことを選びそうな人には言わないさ。もしそんなことになったら響が傷付く。――まあ、結局その前に殺されたけどね」
 僕は黙って窓の外に目をやった。東京の夜は明るいとよく言われるが、明るい場所があればあるほど暗い場所が際立つものだ。碧原(みどりはら)の夜よりも東京の夜の方が逃げる場所があるように思える。
 あの日々の閉塞感は、今でもふとした瞬間に蘇ってくる。逃げ場のない感情は絵を描くことで発散していた。けれど絵を描くのをやめていた期間は――どこにもいけない感情は僕の光を蝕んだ。
 先生の言っていることは正しい。もうそれは過去のことで、今更言ってもどうにもならないというところまで。同時に、そもそもそんな感情がなければ良かったと思ってしまう自分もいる。きっとその方が楽に生きられただろう、と。
「先生は、受け入れられたんですか? 曲が作れなくなったからって、自分の親が自殺したことを」
「『それは家族より音楽を選んだということになるのに』って?」
 僕の意図を読み切って、先生は微笑んだ。それは彰には聞くことができなかった問いだ。
 一瞬でも君よりも絵を選んだ僕を、君はどう思っていたのか――。
「もう結婚して子供もいた頃だからね。もっと小さいときなら違う感情を抱いたのかもしれないが――そうする人だろうな、とは思ったよ。理人に対してもね」
 植田治の自殺を止めることができたかもしれない唯一の人間が理人さんだ。けれど彼はそれをしなかった。それが麻美が理人さんを恨む理由だ。でも先生は親族だというのに、麻美よりも冷静に事実を受け入れているように見えた。
「自殺するとまでは思ってなかったかもしれないけれど、様子がおかしいことはわかってた。それでも理人が何もしなかったのは――そもそも自分の存在が父を傷つけるだろうということがわかっていたからだろう。曲が書けなくなったからといって死ぬような人が、食事も睡眠も邪魔だと思うくらい曲が浮かんでる人を見たらどう思う? まあ、それでも理人が強引な手段を取れば、肉体が死ぬのは止められたとは思うけどね」
「……結局、死ぬことは変えられなかったってことですか」
 体だけ助かったとして、それは生きていると呼べるのか。それでも生きていて欲しいと願う人はいるだろう。麻美はおそらくそちら側の人間だ。けれど、抜け殻のようなそれを直視できる人はそう多くはない。
「少しは幸せに自殺するか、一片の希望さえ残らない状態で自殺するかの違いしかなかっただろうね。そういう意味では、この問題はどうしたって悲しい結末だ。けれど、私はそんな父のことを今でも尊敬しているよ」
「どうしてですか?」
「今のところは誰も説明できない衝動を抱えて、しかもそれがなければ生きていけないなんて、人間以外にそんなものになれる生物なんていないだろう」
 やはり先生は先生だ。正直何の参考にもならない答えに少しだけ安心した。答えは知りたいけれど知りたくなかった。いっそわからないままの方がいいかもしれない。昔がどうあれ、今の僕たちの関係はどうしようもなく破綻しているのだから。
「私がこうやって人間を識りたいと思うのも、一つの衝動なのかもしれない。そしてこの欲は人の道を外れさせたりもする。だけど、私はこれがない方がいいとは思わない」
 人の道を外れていることは自覚していたのか。僕は苦笑しながら続きを促した。
「人間以外の生物はそんなものになれないとすれば、それが一番人間らしいことだと思ってね」
「……『女装は男にしかできないから、最も男らしい趣味は女装』みたいな論理ですね」
「そう言われるとめちゃくちゃな論理みたいに聞こえるからやめてくれないかな……」
「冗談ですよ。――でも、この話でよくわかりました」
 そうなるだろうとは思っていた。先生は真っ直ぐではないけれど、確かに人間を愛している。僕に協力するのも「人間を愛しているから、人間を識りたい」という欲求からだ。
 ならば、いつの日か――僕たちは違う道を進まなければならなくなる。
「僕は先生が言う『人間らしさ』を奪おうと思っているんですけどね」
「そうなるだろうね。あの《光の雨》は」
「わかってるなら、どうして協力する気になったんですか?」
 先生はすっと目を細めた。例えば僕を裏切るつもりだったのなら、まともに答えはしないだろう。そんなことはわかっている。けれど先生は今まで何もごまかさずに答えてきた。どうして、と尋ねるのはまるで響のようだ――そんなことを頭の片隅で思った。
「今の人間は、私が思う人間らしさを摘み取るようにできているからね。君の『救い』に全人類が抗うことなく従うのなら、そんな人間を愛する必要などない。けれど抗うものがあるのなら、その姿を見てみたいんだよ」
「……まるで実験動物扱いですね」
「これでも人の可能性を信じているんだけどなぁ」
 悪びれもせず先生は言うけれど、その言葉は箱庭の人形が惑うのを見下ろしている神か何かのようだ。そもそも人工知能を研究する人のほとんどは人の助けとなる技術を求めてのことだが、先生はその中で、本当に人と違わないものを作ろうとしている点で異質だ。
「私はどちらに転んでもいいんだよ。人が抗って人としての誇りを取り戻すのも、君が目的を遂げるのも、どちらも人間性の奪い合いには変わらないからね」
「敵でも味方でもない、と?」
「そうなるね」
 先生が一番大切に思う響は僕に抗う側だ。それでも響の側に賭けるつもりはないのだろうか。
「そこは娘とか関係なく、もっと一般化して見ているつもりだよ。血縁に縛られたくはないんだ」
 普通はそこまで分けて考えられないのではないか、と思ったけれど言わないでおいた。この世界で普通も何もないだろう。逆に普通に堕していたら、気付かないうちに滅びる運命に足を踏み出すことになる。
 僕は溜息を吐いた。先生と話していると、囚われていると思っていなかったものに心を縛られていることを自覚させられてしまう。自分の奥底にある幼い気持ちがまだ夢を見たがっているのだ。
 愛のない家族があることくらい、嫌と言うほど知っているのに。
 血の繋がりなんて大したものではなくて、その間に暴力が発生することも、愛が裏切られることも、そもそも愛なんて芽生えないこともあるとわかっているのに、どこかで響を大切に思う先生が、僕を裏切ると言う筋書きを描いてしまう自分がいる。それが本来、当然のことなのだと思っている自分がいる。
 もう全部捨てたのだろう。家族も愛も何も要らないと、人の道を外れたのだ。
 それなのに、頭の靄が晴れてくれる気配はない。それに呼応するように指先が疼き始めた。それはまさしく「衝動」と呼べるもので、僕の意思で止められるものではなかった。
 やはりない方が幸せではないかと思う。けれどそれがなければ僕が僕である保証は無くなってしまうような気にもなる。
「今日は切り上げようか。私も疲れてきたし」
 何かを察したかのように先生が言う。なぜ何も言っていないのにわかるのだろうか。自分の父親や理人さんのことをずっと見てきたからだろうか。
 同じ括りに入れられるのは癪ではあるけれど、抗い難いこの衝動を抱えていた点では僕たちは似ているのかもしれない。だとしたら彰は、理人さんの中のこの衝動をどう思っていたのだろう。
 思考は結局同じところに帰ってくる。君があの頃何を思っていたのか――僕は君を守るつもりで、実際は君の気持ちなど何も考えてはいなかった。今更後悔しても遅いとはわかっているけれど、昔のことを思い出す度に感情が溢れ出す。
 今でも、君のことだけは助けたいと思う。
 それは家族の情なのか、それとも――。
 答えは見つからない。けれど、絵を描くための手は動く。

終わりへ向かう始まりの歌

終わりへ向かう始まりの歌

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  • SF
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-06-20

CC BY-NC
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