捨て聖

岡崎 勝耶

  1. 第一章 歩く人 一
  2. 第一章 歩く人 二
  3. 第一章 歩く人 三
  4. 第二章 異文 一
  5. 第二章 異文 二
  6. 第二章 異文 三
  7. 第二章 異文 四
  8. 第二章 異文 五
  9. 第二章 異文 六
  10. 第二章 異文 七
  11. 第三章 桜丸 一
  12. 第三章 桜丸 二
  13. 第三章 桜丸 三
  14. 第四章 夜光 一
  15. 第四章 夜光 二
  16. 第四章 夜光 三
  17. 第四章 夜光 四
  18. 第五章 青き光 一
  19. 第五章 青き光 二
  20. 第五章 青き光 三
  21. 第五章 青き光 四
  22. 第五章 青き光 五
  23. 第六章 緒方 一
  24. 第六章 緒方 二
  25. 第六章 緒方 三
  26. 第六章 緒方 四
  27. 第七章 同行 一
  28. 第七章 同行 二
  29. 第七章 同行 三
  30. 第七章 同行 四
  31. 第七章 同行 五
  32. 第七章 同行 六
  33. 第八章 聞名 一
  34. 第八章 聞名 二
  35. 第八章 聞名 三
  36. 第八章 聞名 四
  37. 第八章 聞名 五

 文永の年、紀州熊野を歩く念仏聖、智真は
一人の僧に行く手を遮られた。世俗の縁を捨
て、念仏を勧めて生きることに生命を懸けよ
うと、勧進に踏み出したばかりの智真は、僧
の疑念に応えることが出来ず、熊野本宮に篭
もる。そこでの幻想体験を通じ、智真は一遍
と名を改め新生する。
 一遍の成道を助けた男、スーフィーの異文
は、イスラム世界の薬物知識を使い、交易人
として禅僧の従者となり日本へ来た。
 その異文は魔神に追われる男でもあった。
魔神を宿した男、桜丸は、奇妙な巫女たちに
操られながらも、異文へ近付く。桜丸に潜む
魔神に意識を他界へ飛ばされ、異文はそこで
真実の祈りの空間を視る。唯一の神との合一
を探る異文は、魔神の探すものが自分と同じ
であることを知った。異文は魔神からの逃走
を止めた。
 桜丸は、身裡に宿った魔神との折り合いを
ついに制する。魔神の力を帯び、水の本質を
遣う桜丸に、他界から渡ってきた水妖の末裔
が引き寄せられた。
 元朝の伸張とともに、異文の通わす交易船
が長く止まっていた。南方の同族からの連絡
で肥前に渡った異文は、桜丸の知り合った水
妖の末裔、午王丸に案内され、共に水界の通
路を潜る。
 絶対他界の場所を求める異文は、南海の彼
方に黄金の島を見付けたと言うイスラムの兄
弟と、他界に通じると言うその場所で、スー
フィーの祈りである旋回舞踊を行なう。しか
し超越の条件が整った時、現われたものは他
界の水魔。その触手に吹き飛ばされ、異文も
桜丸も消えた。
 同じ九国を、一遍は一人で遊行する。衣食
にも事欠きながら、一遍は慈悲の在処を自分
に問い、念仏勧進の遊行の意味を問う。限界
まで修行に自分を追い込んだ一遍は、豊後の
大野川で施療を布施する老人、彼岸丸に病身
を拾われる。そこで一遍は、変わり果てた異
文に再会する。
 癩病みのように膿み崩れた体を漸く保ち、
異文は自ら祈りの在り方を思考していた。そ
の異文の与えるものを求めて、肉体をなくし
た桜丸が訪れる。桜丸は名を夜叉丸と改め、
魂に組み込まれた魔神と共存していた。
 回復した一遍が河原で念仏する時に、異文
は突然神懸りする。異文の顕した奇蹟に緒方
の人々は、大蛇の神の再臨と神に祭る。緒方
が、祭りに熱を持ち始めた。
 その同じ頃、大野川筋の流通を支配する菩
提院の非人支配に憤り、随縁房は風流の踊り
行列を率いて騒動を起こそうとする。熱狂す
る祭り騒ぎをきっかけに、暮露暮露の豊国と
力を合わせ、菩提院の支配を覆す。そう企ん
だ随縁房の風流の大群衆は、緒方で異文を神
と祀る集団と合同し、菩提院の僧兵たちと対
峙する。修羅を避けようと訪れた一遍に、菩
提院は矛盾を認めつつも、随縁房との対決を
決断した。
 大野川、滝河原に集結した大群衆は、飛礫
合戦から戦いを始めた。戦いが血で血を洗う
闘諍へと移ろうとした時、一遍の念仏が奇蹟
を起こす。
 異文は一遍の念仏が巻き込む大念仏を聞い
た。その称名の声に、異文は絶対の神の場所
を見出だす。
 異文の孤独が癒されたように、人々の修羅
に狂う心の飢えは癒され、滝河原の対決は未
発に終わった。
 次の朝、一遍は自分の念仏を携えて遊行に
発とうとする。随縁房以下、菩提院、豊国、
異文、夜叉丸の五人の男が一遍に従い、遊行
の旅が始まる。それは、後に踊り念仏として
知られる時宗の開始でもあった。
                了

第一章 歩く人 一

 いつしか人々の騒めきが、細い道の前後を
取り囲み始めていた。智真の耳にそれは、遥
かな伊予の海から届く海鳴りにも聞こえる。
しかし、届くはずがなかった。隠国の熊野、
岩田川の瀬音は聞こえても、真夏の陽光を湛
えた伊予の海は、時空の彼方にある。
(この男は)
 眼に塩辛く汗が沁みた。地面から昇る熱気
に、瞳の中の男の姿だけが、陽炎のように曖
昧に揺れていた。
(何者か)
 揺れる男の姿は、不思議に涼しい。この脳
天を灼く暑さとは無縁な、冷涼の風を身に帯
びている。夏越の祓の神官めいて、立ち姿が
如何にも静かなその男。確かに僧侶ではあろ
う。出家したての新発意のように、青々とし
た頭さえが涼しげに見える。
(何故、私に問う・・)
 炎天に山道を登り続けたせいか、呼吸から
熱が去らない。瞳の背後を真夏の光が、緑の
斑を残して眩暈のように過ぎた。
 意志すれば必ず、人は何処へでも行けた。
武蔵野の逃げ水の彼方へも、南海の浦添の王
城へも、道はいつも通じていた。が、たった
今、退路のみが全く無い。文永十一年、夏、
熊野本宮へ至る山坂に、智真は立ち止まって
いた。
 蒙古襲来するこの年の五月には、元と高麗
の軍はすでに合浦に集結し、秋十月には日本
へ向けて進発する。避けられない合戦が間近
に迫ることは、誰もが膚に感じていた。
 人走る西国では、戦稼ぎの好機に勇躍する
武士があり、都には、遠い筑紫の殺伐に怖気
を立てて、愛欲の黒髪に身を埋む貴族もあっ
た。そんな大地の焦げ付く夏に、智真は道を
歩く。
 祖父、河野通信の仕えた後鳥羽院は、三十
一度通ったと云う。その同じ、山の彼方の他
界への道を、色黒の異相の沙弥は称名しつつ
歩いていた。
 念仏札を賦算するこの旅が、果たして何処
へ続くのか、それはまだ知らない。しかし踏
み出したばかりの旅の前途を、涼しげな一人
の僧が遮っていた。
 いかが、と無言のままに僧は迫る。智真は
その問いの前に窮していた。答えを迫る僧に
は、悪意の裏は存在しない。自らの疑問をた
だ素直に言葉にする、そのことこそが、智真
には恐ろしくもあった。
 では、その問いとは。
「いま一念の信おこり侍らず」
 思えば余りにも当たり前のこと。信じる心
の起きないものを、何故受けることが叶うの
だろうか。僧の一言に、自分の衆生済度の誓
願は否定された。しかし賦算の札を渡さなけ
れば、舎宅田園をなげすて、恩愛眷属をはな
れた意味さえない。智真の呼吸は次第に上ず
る。賦算せずして何の面目か。
 何の企みも邪念も持たず、静謐を宿す瞳を
向けたまま、僧は智真の答えを待つ。その白
地の問いの深さに直面し、路上の智真は行き
惑っていた。
 胸も、瞳の裏も、熊野の緑に染まってしま
えば、この我が身は消えてしまう。
(私は、何処へ逃げようとしているのか)
 ざわざわと周囲で人の気配が動く。潜めた
声で「何ぞ、何ぞ」と囁き交わす視線の先に
は、当然自分の姿があるのだろう。
(私はここで、何をしているのか)
 智真は殆ど無意識に我が身の面目を思って
いた。皮一枚の下には、武士の恥を知る河野
水軍の血が熱く流れてもいる。僧の背後に並
ぶ麗しげな上臈たちの、市女の笠の虫の垂れ
絹が、含む微笑のように揺れていた。
(何故なのか)
 智真の反芻する自問は、今や殆ど叫びに近
い。自らに問う度、無意識な震えが来る。見
事に日焼けした額には、瘧病みのように汗が
流れた。が、その埃色に汚れた汗は、今は冷
たさだけを帯びていた。激しい動悸がする。
分厚い胸板を締め付ける理不尽な力が、身を
捉えて放さない。
(何故だ)
 智真は再び問う。全山蝉時雨の中にある真
夏の盛りに、何故自分だけが一人、震えてい
るのか。
 この時、智真はまだ、後世語り継がれるこ
とになるはずの一遍の名を称してはいない。
しかし熊野への道は、確実に智真を死へ、転
生へと追い詰めていた。
 振り返ればいつも、死の国の闇を潜るたび
に、新たな生まれ変わりが待っていた。信濃
善光寺、伊予の菅生の岩屋、そして高野山。
智真にとり死の国とは、常に妣の国でもあっ
たはず。
(僧でありながら、弥陀の救いを信じぬと言
うのか)
 目前の僧は言った。「いま一念の信おこり
侍らず」と。
 信じる心の起こらない今、たとえ極楽往生
を約束する念仏札であったとしても、受ける
わけには行かないと言う。もし信ずる心の起
きないままに賦算の札を受けるならば、妄語
をせず、との戒めを破する。僧は不妄語戒を
持していた。その戒の重さこそは、智真の進
退を阻むもう一つの障壁でもある。
 身の戒を理由とするからには、真言律の僧
でもあろうか。しかし今は、そんな推察に立
ち止まる刻ではなかった。僧の背後に揺れる
人影は、思考を重ねるほどに数を増す。名だ
たる蟻の熊野詣、一度詰まれば次から次へと
渋滞は伝わった。
 思い返せば、難波の四天王寺に制文を納め
て、十重の禁戒を受けてからほんの数か月。
その日の衆生済度の決意の興奮さえが、まだ
胸に熱く残っていた。目前の僧が持する戒と
は同時に自身の戒でもある。我が戒は重く、
他の戒は軽しとする理由は何処にもない。で
は、どうするのか。
 黒々と人の連なる道の上を、好奇の囁きが
渡って行く。「沙門の宗論ぞ」と、そんな声
までが聞こえた。憂い日常を離れた辺地巡り
に、穏やかな人の心さえ弾む。遊山気分の物
見高さは、容赦ない視線の矢と化して智真に
突き刺さった。
(痴愚ならば、恐るべき痴愚)
 往生は自明の理、思慮を巡らせば誰にでも
分かること。決定往生には全く一点の疑義も
ない。それをこの僧は、信おこらぬために受
けぬ、と言う。
 念仏札を握った智真の手は震えていた。そ
の手が、ゆっくりと動く。そして動くことこ
そが、いつも智真の思考を築いて行く。智真
は言う。
「信心おこらずとも、うけ給へ」
 苦しかった。余りにも苦しかった。或いは
それが、身に承けた武士の本能と云うもので
あったのかも知れない。頭上に白刃の風が迫
る時、命の際の魂が、躍り上がるようにして
反応する。
 瞬間、明暗が逆転した。確かに眼の前に念
仏札が翻ったことだけは記憶している。僧の
手にむりやり賦算の札を押し付けたその時、
大地が、ぐらりと揺れた。
 溶け合う緑が、津波となって一斉に押し寄
せる。紀州熊野の強烈な夏の光が、全てのも
のの輪郭を白く溶かしていた。耳鳴りするほ
どの強烈な蝉時雨に、巨大な山塊までもが揺
らぐ。頭上の天空が、急速に丸く狭まって行
く。足元の地面が妙に柔らかい。ずぶずぶと
何やら、地の底へ飲み込まれて行くようでも
あった。そこまでは微かに覚えている。それ
から、不意に記憶が途絶えた。

第一章 歩く人 二

 瞳の裏に激しく渦巻く星々があった。煌め
きは闇に散り、魔天が裾を引くように突然に
夜がやって来る。頭上を覆う闇に、智真は闇
の底から振り仰いだ。
(夜よ)
 瞬間、夜の中へ体がふわりと浮き上がる。
星空にその身が浮くと同時に、智真は強烈な
風を感じた。いきなり、果てしない彼方へと
意識が突き進み始める。
(風よ)
 びゅうびゅうと耳元を過ぎる風の唸り、頬
を切り裂く蒼穹の冷気、遠ざかり遠ざかり、
眼下に幾つもの世界が過ぎて行く。それが、
身に帯びた速さ。
 加速は続く。瞬く間に数十もの世界が過ぎ
て去る。世界を去り、世界を去り、すぐにそ
の数は百を越え、千を越えた。速く、さらに
速く、加速する智真の視野を、幾十万もの世
界が翔け抜けて行く。
 十万億土を過ぎるとは、このようなことな
のだろうか。では、いつか来る彼方には、阿
弥陀如来の浄土があるのか。
(速い、速いぞ)
 余りの速さ、余りの爽快さに、気が付くと
いつしか智真は声を上げて笑っていた。その
笑い声のなか、星々の真空を見回し、ふと我
が身を見下ろせば、体はいつか飛翔のための
形態へと異様な変化を遂げていた。
(天翔る、龍よ)
 そこには紅の翼を持つ龍がいた。
 打ちふるう翼に黄金と紫の輝やきを放ち、
龍が飛ぶ。満天の星空を龍は飛翔し、飛翔す
るたびに速さはいよいよ増した。星々と夜の
闇との明滅は、余りの速さにやがて渾然と溶
け合い、龍身はついに一筋の光そのものとな
る。光のなかで、全ては速さに溶けた。世界
は今や速さそのものとなっていた。自分自身
さえが、今ではただの速さに過ぎない。
(そうであろう、龍身も人も速さならば、浄
土の弥陀仏までも共に速さそのもの、全ては
南無阿弥陀仏の速さに帰一する)
 豁然と悟った。夢の中で智真はそう確信す
る。同時に世界を震わす哄笑を放った。その
瞬間、智真は闇の中で、夢から醒めた。
(ここは・・)
 熊野本宮、証誠殿。夜が更けていた。肩に
は夜露の重みもある。闇の中の記憶は模糊と
していた。が、いつの間にか社殿の長床に通
夜参篭をしていたらしい。
(いや、違った)
 よくよく自己を探れば、真実が浮かび上が
る。そうではない。確かに自分は、熊野権現
の啓示を受けるべく、この場にいる。自らの
意志で長床参篭していると思い出した。
 では、今見た夢は何だったのだろうか。こ
れが権現の啓示の霊夢なのか。信心を起こさ
ない者に対し、むりやりに賦算した行為の是
非は何処にあるのか。智真は再び思惟を戻そ
うとする。
 懐の嚢中から一粒の豆を取り出す。小粒の
豆は、この国ではまだ珍しい。大豆をやや押
し潰したような豆を、智真は見つめた。話で
は、禅僧の用いる茶と良く似た作用をする豆
だと云う。がりりと噛んでみると、やや油臭
い甘さが口中に拡がった。
 紀州、由良。その豆をくれた男は異国の装
いをしていた。鳶色の瞳をした男は、心地房
覚心の従者として、遥々と海を渡ったのだと
云う。
(やはり、渡るしかないのか)
 信州、戸隠奥社の行者道には、剣の刃渡り
と呼ぶ難所があった。一尺もない細い道の両
側は切り立った崖。右へ落ちても左へ踏み外
しても命はない。善光寺で見た二河白道図そ
のものがそこにある。
 三年前、覚心を尋ねて戸隠神宮寺へ回った
折りに、智真はその異国人の従者と知り合っ
た。名は異文と言う。
「この一筋の道、神への道」
 異文は、この国には神が多すぎると言って
いた。生命が濃すぎる、と。
「神は見えない、聞こえない、でもこの国で
は聞こえる、見える」
 それでも、男は自らを背教者と定義する。
同族から離れ、杭州を侵した蒙古の軍からも
逃がれてきたその男は、砂の荒野での祈りを
言う。平沙万里、人煙の絶え果てる天地が、
異国にはある。
「何もない荒野では、神と向かい合うほかに
ない」
 その言葉に智真は問い返す。
「見えない、聞こえないものに、どのように
して向かい合うのか」
 異文は濃い眉の下で笑っていた。
「道だけがある、その道は神への道、歩めば
神の光の裡に消滅する」
 隠れたる死の国、妣の国への道を、ただ一
筋に歩いた。称名し、称名し、浄土への道を
ひたすらに歩いた。だが今、ただ一人、立ち
塞がった僧のために、全てが崩れようとして
いる。
 いつも思っていた。自分は死の国から来た
のだと。死の国の暖かい闇から産まれ、見知
らぬ世界の中で赤裸のままに泣く子、それが
自分だと思っていた。
 夜気に冷やされた社殿が、ぴしりと鳴る。
昼の炎暑を吐き切った木組みが、身をすくめ
るように音を立てて縮んでいた。再びまた、
社殿が鳴る。
 一度どこかが軋めば、次には別の場所が辻
褄を合わせる。そうして気が付けば、突然に
眠りから醒めたように、証誠殿全体が音を立
てて鳴り動いていた。その時に白い道者の姿
が顕れる。
 異国の豆に仄かに酔いながら、智真は不意
に目の前に顕れた山伏の瞳を見た。その瞬間
に、全てを理解した。
 一遍の弟子、遊行上人真教から始まる教団
では、この熊野権現の神勅をもって一遍の成
道としている。
「御房のすすめによりて一切衆生はじめて往
生すべきにあらず」
 山伏の穏やかな言葉は、その静かさが持つ
重さで智真の全身を打ちのめした。
 己れほどの智者はないと常に思っていた。
仏法の理は明明白白であり、あえて説く必要
さえもない。余りにも当然のことをどう説け
ば良いのか。だからこそ二年も三年も、見知
らぬ人に与える慈悲のありかを、我と我が身
に問いかけていた。
 悟りたければ悟りは誰の掌の中にもある。
その掌中の果実を握ったまま、愚か者は足摺
りをする。蒙を啓くには、信ずる心を起こさ
せるほかにはなかった。それを、山伏は違う
と言う。
「阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は
南無阿弥陀仏と必定するところ也」
 往生はすでに決している。我が念仏勧進に
往生が定まるのではない。
「信不信をえらばず、浄不浄をきらわず、そ
の札くばるべし」
 山伏の言葉が消えたその時、再び智真の意
識は遠い彼方へ旅していた。

第一章 歩く人 三

 空に雨が満ちていた。灰色の明るさを保つ
空に、紛々と雨の光が踊る。風が吹けば流れ
のままに光は揺れ、揺れながら雨は音もなく
舞い降りる。世界に満ちた雨のその下に、智
真の見知らぬ人が立っていた。
 蓑も着けず、笠も被らず、ただ下帯一つで
雨の光を全身に浴び、男が立つ。陽に焼けた
膚は苦行者のように引き締まり、また、筋骨
の固まり切らない未熟さもある。
 緑に濡れた草を踏む足の一方は、白い光沢
を帯びた義足。革の装具で義足は腿に固着さ
れ、立ち姿は自然に溶け込んでいた。雨に燦
めく空へ、その人は僅かに顔を仰向ける。
(この草の丘は、古塚の丘)
 塚山の頂を風が渡れば、茅草は波騒いで露
を落とした。雨と露の輝きを浴びて、その人
は草の上に立ち、両腕を広げる。見たはずの
ない景色、知らないはずの場所、異国の顔立
ちをした裸の若者。智真は眼下の光景が何を
意味するものか、読み解きかねた。
(私は、何を見ているのだ)
 自らの身体意識は消えていた。五体を支え
る日常の記憶は、龍身を超克したその時に無
意味と知った。ならばこの視界に捉えた光景
は何か。
(意識に潜む幻か、それとも)
 静かに立つ若者の傍には、翡翠の横笛を唇
に宛て、巫女のように女が侍する。細やかな
雨は女と、翡翠の管にも舞い降りていた。そ
の女の視線が、智真の意識を揺るがせる。
(・・超一)
 はっとした。我が身に従う妻の名は、すで
に出家の法名のみ。自らの愛執は、とっくに
離れたものと思っていた。廻せば廻る執着の
輪鼓を捨て、もはや煩悩には動かぬ我が身と
思っていた。しかし、巫女の千早に似た羅を
纏う女の、その切れ長の視線が、記憶の痛み
を呼び覚ます。
(同じなのか)
 眼に宿る光の強さは、恋をする女に通有す
るものなのか、超一の視線の強さに、余りに
も似ていた。捨てたはずの愛執が、虹の皮膜
のように智真の視野を曇らせる。
 その身が遊女であろうことは、笛を構えた
形の優美さからも知れた。しかし見上げる視
線には微塵の媚態もない。委ねた心の在処を
信じ、恋心の彼方を見据えている。
(哀れ・・)
 智真の心が揺れる。塚山の芝草を吹く、柔
らかな風と雨の音が聞こえる。二人の示す背
中合わせの信頼の形に心は揺れ、智真の意識
は不意に風に煽られた。心引かれながら風に
流される智真の眼下で、片足に義足を履くそ
の人が、白い義足を軸にして緩やかな旋回を
始める。
 ぐい、と髪の根が引かれた。旋回の風が巻
き込むように、何かが意識の背を捉える。
(これは、魔障か)
 たとえば観法を行じていても、魔障は差し
込む。夜叉、鬼、美女、蛇形、果ては自分自
身まで、自らの心の何処にそんなものが潜ん
でいたのか、想像さえ出来ない奇怪な妖魅が
現われる。時にはそんな怪物に、意識を丸ご
と攫われそうになったこともある。が、それ
はみな自己の怯えの影に過ぎない。誰の身に
も起こり、誰もが通過する地点には、何の意
味も価値も存在しなかった。それでも、この
感覚は確かに魔障の引力に似る。
 緩やかに舞う旋回に捉えられたように、智
真の意識は引かれたままにその渦に巻き込ま
れ、次第に降下する。引き寄せられ、引き寄
せられ、やがて塚山の内部へと吸い込まれ落
ちて行く。
(暗い、何という暗さよ)
 緑の地表を過ぎ、呑み込まれた瞬間、視界
が閉ざされた。奈落とは、この暗闇を言うの
だろうか。智真は恐怖した。そして恐怖する
ことで初めて聞こえる声があった。その本体
が、智真を引き寄せる引力の根源。
(聞こえる)
 何者の存在も目に触れ得ない闇が、聞き慣
れない言葉を渡らせる。智真の漂う闇の場所
に、奇妙な呟きは満ちる。
(呪言・・)
 一瞬、未知の陀羅尼か呪縛の邪法かとも思
う。しかし呟きの言葉には、祈りの時に人の
上に降りる静謐さが満ちていた。
(いや、歌か・・)
 そう認識した瞬間に、智真の意識は内向を
始める。方向が変化したと同時に自らの重さ
に気が付く。重力は直接、落下を示した。闇
の中で落下することだけが意味を持つ。その
時に、はっきりと引力の正体を感じた。
(彼の人の旋回・・)
 回ることが重力を生み出していた。自らは
その人の旋回に巻き込まれている。呟きは恐
るべき力を秘めていた。旋回の軸へ向かう引
力は、意味も無意味も共に虚無の地点へと引
き寄せる。旋回をする義足の若者の紡ぐもの
は、果たして何か。
(これは、祈りなのだろうか)
 自らの身に凝集する重力を感じながら、そ
の重力の故に、遥かに暗黒の底へと墜落して
行く。
(それとも、絶対他界へ渡る歌なのか)
 そんな祈りがあって良いものか、そんな歌
が存在するのか、智真は耳を澄ます。
 呟きは異人の言葉の響きを持っていた。古
塚の死の穢れにも染まらず、熱い祈りの心に
も温度を帯びず、呟きは智真と同じに旋回し
ながら落下して行く。
(どこまでも落ちて行くのか、ならば一体、
終着は何処なのか)
 そう智真が思うと同時に突然、旋回が停止
した。落下の感覚は消え、四周は全て透視も
思考の指も拒否する虚無と化す。
(無いことすら無いのか)
 真空が耳を圧迫した時、智真はさらに恐怖
した。叫びながら自らの意識の眼を閉じる。
そしてその時に、世界を拒否したこの今こそ
が、自分自身の本然と不意に理解した。
(これが、私なのだ)
 この全てから切り離されて浮遊する状態こ
そが、自分。我が名さえもが、無い。
 そう、いつも思っていた。もしも人が生ま
れながらの故郷喪失者だとするならば、妣の
国を失い、泣きじゃくる幼子こそが、己れの
真実の姿なのだ、と。受け入れてしまえばこ
の暗黒の空虚は、まさしく我が胎。認めよう
と認めまいと、真実は何ら変化しない。
 智真は絶対無の闇の中で微笑した。
(熊野権現よ、これがあなたの啓示か)
 この闇が全有であり、また全無。世界の認
識は意志することで始まった。意志が方向を
生み、方向が時空を生む。過去現在未来の三
時の別は認識の中にしか存在しない。ならば
十劫の昔はたった今。
(そうであった、往生は十劫の昔に、この闇
の中で決していた)
 智真の笑いが闇を振動させる。笑い声は闇
に偏満し、闇そのものと一つに溶け合う。
(ああ、これこそが名号であるのか)
 阿弥陀仏とは無量光と訳す。
(この闇こそ、阿弥陀仏の無量の光に他なら
なかった)
 一とは孤であり、遍とは普く全てを意味す
る。六字名号一遍法。この時から智真は、一
遍と名を改める。
 目を開けばそこは同じ社殿の前。いつの間
にか、多くの童子たちが一遍を囲んでいた。
口々に念仏を称え、一遍の掌から念仏札を受
けては去って行く。いつ念仏札を取り出した
のかも覚えていなかった。ただ、手渡す相手
が誰であろうと、往生の機縁に何の揺るぎも
ないことを今は知る。
(ただただ、念仏まいらせるのみ)
 新たな始まりを模索しなければならない。
だが、もう苦しくはなかった。戸隠の剣の刃
渡りの険路を歩いた、あの時と同じに、歩く
ことこそが名号そのもの。歩き捨て、称え捨
てる。捨て聖一遍は、この時に誕生した。

第二章 異文 一

 いかに蟻の熊野詣とはいえ、歩く人すべて
が社参を目的としたわけではない。人の背に
乗る物資は、米ならば僅か二斗。消費経済を
支える屋台骨も、山国であれば常に人力に頼
らざるを得ない。
 川舟を使っても、牛馬を使役しても、最後
は結局、人が運ぶ。薪炭、蔬菜、塩も酒も、
人が担い人が牛馬の鼻面を曳く。社参の消費
行為に見合う生産が熊野の山中にない以上、
消え行く品々は運輸そのものでもある。何処
から誰が運ぶか。利権もそこに生まれた。
 聖地は遠いほど良いのかも知れない。熊野
先達が語る遥かな道の遠さ、辺地巡りに遭遇
する数々の危険と難所。聞くたびに胸の躍る
旅名物に、都の公家の口元を覆う扇が、どれ
ほど揺れたことか。聞くほどに、それでこそ
と旅への憧れはつのる。しかし同じその条件
が、陸運の阻害要素でもある。
 軽貨はともかく、重量物は遠路に阻まれ易
い。そのことは税である現物の米の輸送が証
明していた。距離で言うならば東は美濃辺り
から、京への現米は容易に上らなくなる。ま
して内国の信濃ともなると、陸送は皆無に等
しい。重量物輸送の限界距離を決める最大の
要因は、いつの時代でも経費にあった。
 例えば都を養う米の殆どが周辺で収穫され
たとしても、大量輸送の主役はやはり舟運に
頼るのだろう。同じように三熊野の大門は、
陸ではなく海に面していた。この海を扼する
者は誰であれ、熊野そのもの制する。
 海を越えて来るもの。それが熊野の本質に
関わる。
 血と砂の戦の気配も、胸に迫る異国の音曲
も、常に海を越えて来る。胡の国の人、異文
は鵜殿の鼻の石燈台に背を預け、彼方から吹
く海風の中にいた。
 熊野灘の向こうには杭州、泉州があり、さ
らに南には三仏斉、パレンバンがある。海は
続いていた。耳を澄ませば、遥かマラバルの
港の物売りの声も届く気がする。
「海はきっと、ひと続き」
 この国で異文の名乗る姓は蒲の一字。宋元
の事情を知る博多の廻船人であれば、泉州市
舶司の富豪の名をすぐに連想する。しかし今
の異文には、蒲寿庚は全く無縁の人でしかな
い。ムスリムを指す蒲の名乗りも、背教を自
認する身には半ば棄てたに等しい。
「だから一遍房、合戦も海を渡る」
 独り言のように異文は呼ぶ。
 一遍は異文の休む石燈台の日陰から、僅か
に突き出た巌頭に立つ。眼の下には、もう波
が寄せていた。鵜殿の岸に寄せる波は、夏の
うねりをぼってりと含んで分厚い。
「そこから見えるか、一遍房」
 言葉を返さない一遍の肩越しに、異文は細
めた視線を送る。
 眩しい光の踊る海を、一遍は異文と同じよ
うに眼を細めて見ていた。熊野新宮から鵜殿
の河口を出て南へ、黒潮が流れる藍青の海の
沖を、小さな帆影が行く。一遍と異文、二人
は海風の中に揺れる筵帆を見る。
 この朝の垢離は、眼の下の鵜殿の岸に寄せ
る波で取った。そのせいで一遍の皮膚には、
何か塩の湿りが残ってもいる。
「一遍の名、良い」
 異文の声は塩辛い。それが戦いの場で鍛え
られたものなのか、それとも長年の海の暮ら
しで嗄れてしまったものなのか、本人もとっ
くに忘れていた。しかしその声がひとたび歌
うと、鬼神も涙を絞ると云う。一遍が初めて
出会った時も、異文は山中の行場で一人、そ
の特異な歌声を上げていた。
「人は一、神は遍、とても良い」
 異文はただ、石燈台の影のように動かない
一遍の背に言葉を続ける。
「そう、とても良い」
 南ならば補陀落浄土へ渡海する船も行く。
しかし南海の観音浄土へ渡海する上人を乗せ
た船ではなくとも、その小さな帆影は一遍に
とり、想いを沈める入定船に等しい。見送る
彼方の船には、捨てなければならない己の甘
えが、家族の姿をして乗る。
 出家遁世が常に妻子との離別を意味すると
は限らない。家族を持つ在家の入道も、世の
中には多いはず。それを何故、今になって一
遍は別れようとするのか。
 石燈台の狭い日陰に潜む異文の頬に、海の
光が揺れて反映する。
「風も良い」
 一遍は妻子に対して「はなちすてつ」と強
く言う。胸が痛まないのではない。筵帆の汚
れた色さえ、六月の風の輝きには眩しく眼に
沁みる。
「船の帆が揺れる、光が揺れる、心の中の、
吾の師の笑顔が揺れる」
 異文の言う師とは、由良の心地房覚心か。
しかし異文のもう一人の師、遠いイル汗の国
の人こそが、神と人との合一を説く。
「神は光、人は孤独、でも、祈れば神の光の
中で一つ」
 大きすぎる折烏帽子を被る異文の顔は、白
髪混じりの灰色の髯に覆われていた。その口
元が不意に照れたように崩れる。
「これ、教えに背いた悪い人の言う言葉では
なかった」
 異文は自らを背教者と言う。
 巡礼もせず、断食も一日五度の礼拝も端折
る。六信五行を軽んじる者などは当然、正統
なムスリムではない。たとえ神を信じていた
としても、禅の師家に仕える者がどうしてム
スリムか。
「想う人、地上の何処へ去っても同じ」
 イスラムの神秘主義者が、愛しき想い人の
比喩を言う時、それは唯一の神への熱愛を意
味する。しかしこの今、異文の言葉は彼方の
帆影に向いていた。
「一遍の名、とても良い、遠い近いのない名
前よ」
 去って行く船は人との距離を目に見えるも
のとして見せる。そして渡ることの出来ない
隔たりは、ただ心の中だけに存在した。
 異文は胸を叩き、それから自分の頭を軽く
小突く。
「心にも遠い近いはないの、でも頭は間抜け
だから、それすぐに忘れるね」
 一遍の表情が僅かに緩む。
「そうか、頭は間抜けか」
「苦しむのは頭からよ」
 振り返らなくとも異文の表情は見える。一
遍の瞼の裏にはいつも、戸隠山中での出会い
が宿っていた。

第二章 異文 二

 多くの祖師伝が奇妙な伝説を付随するよう
に、一遍にも由来不明の伝承がある。
 由良の法燈国師、心地房覚心に一遍が参禅
したと云う。その折りに詠んだとされる妙な
歌が、今に伝わる。
「となうれば、仏もわれもなかりけり、南無
阿弥陀仏のこえばかりして」
 それに対して覚心は、それではまだ主体の
意識が残っている、と指摘する。一遍はさら
に次の歌を詠む。
「となうれば、仏もわれもなかりけり、南無
阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」。
 禅は不立文字と云う。言葉ではなく、自ら
の体験を至上とする神秘主義思想ならば、そ
の指摘は当然でもあったろう。そして異文。
イスラム神秘主義のスーフィーの中にも、重
なる思想はあった。
 スーフィーの言葉では、念仏称名に類似の
行為をズィクルと言う。ではそのズィクルの
目的と場所は何処か。
 スーフィーは言う。ズィクルの最後の段階
は「礼拝者が、礼拝の行為の中に、礼拝を意
識することなく己を消滅させることであり、
礼拝の対象に完全に没入して、もはや主体の
意識に帰ることのない状態」である、と。
 それは、覚心と一遍が交わしたとされる歌
の内容にも合致した。
 一体誰がそんな伝承を残したものか、その
詮索はまず措く。
 一遍は常に、梵我一如の汎神論的世界を感
じ続けていた。しかしそれだけでは不足なこ
とも同時に知っている。その答への道を、イ
スラムの異端である異文の祈りが、明らかに
示していた。
 記憶の中の異文は、夢の人のように光暈を
帯びていた。まだ風も眠りから醒めない戸隠
奥社の朝、熊笹に降りた露を踏み、異文は緩
やかに旋回をする。新月を招き寄せる呪術の
ように、緩やかな旋回。異文はそれが旋回舞
踊のメヴレヴィーの祈りだと云う。
 戸隠は山岳行者の拠点でもある。修験の中
には当然、道法仙術を修する者もいた。もし
その者が異文の旋回を見たとすれば、奥義中
の秘奥「営鎮抱一」の帰無旋回との類似性に
思い及んだろう。
 魂魄を、「動」と「静」とに区分すること
は、「万象」と内なる「我」との二つの常住
を立てることでもある。「万象」と分離され
「我」との合一を遂げることがヨガ行者の解
脱ならば、魂魄を抱いて一に帰す旋回も、ま
た孤独への道でしかない。では異文の旋回は
何か。一遍はそれを「慈悲」と訳す。
 その一遍を、異文はこう呼ぶ。
「吾と同じ、不器用な人」
 妻子を乗せて、船は伊予へ帰る。見送る一
遍に寄せる異文の共感が、今の一遍には深く
沁みる。
 新しい念仏札の版木と共に、妻と子は伊予
の異母弟、聖戒へと預けた。再嫁するならそ
れも自由。今に際して為すことは、今した。
さらにその後を考えるならば、想いに想いを
重ねる輪鼓の廻りに似るだろう。それこそが
愚でもある。
 想いは、想うままに捨ておくのみ。
「異文の国は遠いのだろうな」
「そう、遠いね」
「そこには今も縁者が暮らしているのか」
「ああ、そうだった」
 異文は海に向け、分厚い掌を振った。
「多く死んだ、多く逃れた、多く別れた」
「戦か」
「厳しい戦もあった」
 ひゅっと唇を鳴らし、一本立てた親指で喉
元を引く。鳶色の強い光を持つ瞳を上へ向け
て、異文は絶命のまねをした。
「殺した、死んだ、また殺した」
「極楽浄土へ近付くはずの西方の国でさえ、
やはり修羅の巷か」
「でも、女余る」
 深い皺を刻む異文の目尻が、その時だけ優
しく和んだ。
「男死ぬ、女余る、後家を養う、法に定めた
当然の義務」
「だがそんなに何人も妻が居ては、妻たちの
間で修羅が起きよう」
「おお」
 異文は神の思召しのままに、と祈りながら
頭を垂れる。
「正しく家を保つ、男の大切な事」
「吾には、異文ほどの器はない」
 己れに対する自負はある。だが一方で、無
様に世間をよろけ歩く拙さから、するりと抜
け出ることも出来そうにはなかった。自ら下
根の者と自覚するばかり。
 熊野灘はどこまでも明るい。その明るさに
顔を向け、二人は黙った。並んだその横顔は
兄弟のように良く似ている。異文を呼びに港
から来た男は、何か奇妙な景色を見たように
感じ、ふと立ち止まる。生まれも民族も異な
る二人が、その時だけは一人の人のように見
えていた。

第二章 異文 三

 北宋滅び、金が滅び、今また南宋が滅亡に
瀕している。青史の竹札が民族ならば、貫く
竪糸は戦争に尽きた。札一枚を捲れば支配者
の名が代わり、衣冠制度は革まるが、ただ積
み重ねる戦争だけが変わらない。天の簓擦り
が頭上に高鳴らす民族の札の下で、それでも
人は飯を喰い続けた。
 径山寺味噌、溜り醤油、この二つを繋ぐ伝
承は、紀伊の岩佐に今も残る。醤油醸造者の
間では、溜り醤油の起源を由良の法燈国師、
心地覚心からの系譜と位置付ける。では東大
寺で受戒した正しき僧が、何故食品文化に名
を残すのか、そこに全国を行脚する禅僧たち
が関わる。
 心地覚心は、日本帰国の折には一ヵ寺を維
持するだけの組織を率いている。その規模は
謂わば食堂付きの大学一つと思っても良い。
この食堂が味噌を製し、異国の食文化を敷衍
した。そして新しい文化の周辺には必ず新し
い人々がいた。
「異文さま」
 呼びかけは出雲の巫女、笹女。杵築の大社
の勧進に、奇験を顕わす妙薬を授け歩く。
 遊女の名所の鞆ノ浦では、長者の許諾がな
ければ他国の女は生きて行けない。笹女が異
文に纏わりつけるのも、この椿屋敷の中だか
らこそ。
 鞆の波止は縁先に爪立っても見えないが、
目の前には仙酔島が間近に迫る。転げるよう
に崖を下れば、木の香も優しい金宝寺の庭へ
と真っすぐに行けた。
 昼惚けでもしたように、異文はぼうっと椿
の葉色に見惚れている。突っ立つその足元に
片膝を突き、出雲の巫女は艶冶な笑みで見上
げていた。
「豊後の鉄輪では、天竺茶の種が芽を出しま
したとか」
「ほう、育つかな」
「陽の光、出湯の保つ熱、波切丸どのが手塩
にかけるならば必ずや根付くでしょう」
 禅に茶があるように、イスラムの神秘家に
はコーヒーがある。笹女が言う天竺茶とは、
コーヒーの種苗を指した。
 鞆の椿屋敷は、山水河原者の政所として庭
者社会に重きをなす。その定める本所御諚の
掟書きは、御庭者を直接に支配する公家や武
家の権威をも越えて確実に尊重された。世間
には不可解に映る支配力の根源は、過半を椿
屋敷の園芸技術に依存していた。
 椿屋敷を無視すれば、園芸の新しい情報は
入手出来ない。ここから出る花卉の種苗と栽
培方法の手引きは、新たな富の種として、庭
者の手で全国に散った。京の都はその内の一
つとして、大きな稼ぎ場所を提供する。
「天竺茶が根付きますれば、愚谷さまも一安
心でございましょう」
 愚谷とは、金宝寺の住持を言う。心地覚心
の足である愚谷も、椿屋敷の外護者の一人と
しての名の方が世間には知られていた。
「そんなに残り、少ないか」
「ええ、もう」
 笹女の笑い声は、ふくよかな柔らかさで異
文を包む。金宝寺の和尚の嚢中に残る豆の多
寡で、パレンバンからの荷の途絶状況が掴め
た。本来それは、途絶えてはならないもので
もある。
 文永の蒙古合戦の前後には、確かに凪のよ
うに私貿易が停まった。しかしそれも殆ど一
瞬。元であれ南宋であれ、役人に賄賂さえ送
れば貿易は成り立つ。商人にとり戦争とは、
巻き込まれさえしなければ莫大な儲けを生む
機会でもあった。途絶の理由はつまり、南方
にしかない。
「古豆は油臭い、もう捨てるのが良い」
 異文の声には独特の震えがある。その寂び
た震えが、笹女の胸乳に甘く響く。
 異文の声に初めて触れてから、どれほどの
歳月が過ぎたか。乳房に掌を宛てれば、その
まま重みを持て余してしまいそうに想える。
笹女は微笑を含んだまま、異文に言う。
「愚谷さまが、異国の笛の音を聞きたいと仰
せでございましたよ」
「一節切か」
「いいえ、葦笛とやら」
 その答えに異文は不意に黙り込んだ。バグ
ダッド陥落から十八年。パレンバンに移住し
てからでも十五年の時が経つ。コニヤの師が
餞としてくれた葦笛も、今では随分と古びて
しまった。しかしその葦笛が結んでくれた縁
は、一つではない。もう一人の師との縁が、
葦笛の音に絡んでいた。
 心地覚心の入宋は建長元年。もし同じ時に
異文が無門慧開の元にいなければ、スーフィ
ーの葦笛の音は覚心の耳には届かなかった。
葦笛を経て繋がる二人の師は、共に同じ回暦
六〇四、承元元年の生まれでもあった。
「由良の大徳さまは、異文さまの笛の音は禅
の音色と仰せです」
 異文の返事はない。笹女は几帳面に膝を揃
えると、目の前の武骨な素足の埃をふっと吹
く。異文の心の迷い出た先が何処か、とっく
に知っていた。
「もしもし、異文さま」
 吹いただけでは落ちない埃があるのか、笹
女は掌を猫のように曲げ、異文の足の甲の辺
りを何度も擦る。
「まったく、いとけなき童と同じでございま
すなあ」
 異文が、うっと呻いた。笹女の曲げた指の
間に脛毛が数本挟まっている。にっこりと見
上げた笹女だったが、異文の病は思いの外に
重そうでもある。
「笹女よ、一遍聖は今、何処あたりかな」
「はい」
 そう聞いて、仕方なさそうに首を振る。い
つか異文が語った時があった。「一遍聖は、
吾の亡き父に似ている。父の激しさをそのま
ま映したようだ」と。歳から言えば一遍の方
が随分と若い、それでも異文はそう言う。
「なぜ、彼の聖ばかりが気になる」
 異文の髭面に突然、ぽろぽろと涙が零れて
伝う。笹女は笑った。
「まあ、異文さま」
「教えてくれ、笹女。吾は、おかしいか」
 出雲巫女、笹女は如何にも可笑しそうに、
ころころと笑う。
「ええ、ええ」
 すっと膝を伸ばして立つと、笹女は異文の
身に寄り添う。痩せて骨張った異文の顎を、
ふくよかな指で塵を拭うように撫でた。
「一遍さまもあなたさまと同じで、本当に童
のままです。遊びに夢中になれば、何もかも
忘れて遊び惚けましょう」
「遊び、とは」
「神遊び、仏遊びをまいらせております」
「融通念仏を勧め参らせることが、傀儡の仏
廻しと同じ。笹女はそう言うか」
「きっと、遊びながら生きねばならない、そ
んな宿業をお持ちなのでございましょう」
「おん聖に、宿業とはまた」
「異文さまと同じ、不器用なお方でございま
すから」
「吾は拙いか」
「はい。同じ拙き一遍さまにては、さぞや今
頃は、大宰府辺りの女子の色香に迷い、困り
果ててもおりましょう」
「戯れ言を」
「尊き聖も人の子、見目良き女子に色動かぬ
は、人ではございませぬ」
 笹女は異文の肩に柔らかく頭を預ける。香
の匂いが仄かに立ち、異文は不意に我が身の
重さを感じた。
「ならば女子は罪深きぞ」
「世間は魔障そのもの、魔道修羅の中に生き
るは人の定め、それに・・」
「それに、何だ」
「拙き男子とは、面白きもの」
「罰当たりな」
 笹女の肩に回した腕に、いきなり鋼のよう
な力が加わる。と同時に右の掌からは、何か
が鋭く飛び出した。黒い光が糸を曳き、庭の
椿の薮影に音もなく突き刺さる。
「何か・・」
 笹女が不審な顔を上げた。異文の筋肉のう
ねりを当惑して受けとめる。
「指弾を使った」
 視線は植込から動かない。幼児の頃から仲
間と競い合った暗殺のための技術は、今も異
文の身を守る。
「人であれば、三日は動けまい」
 致死量の毒は使用していない。しかし確実
に麻痺と頭髪の脱毛を起こす。身辺に紛れ込
んだ者ならば、それだけで見分けがついた。
それよりも、自分の油断が解せなかった。
「阿武の親方」
 縁先に立つ異文の足元から声はした。
「おお」
「張の手下が潜り込んでいました」
 波切丸配下の山水河原者は、楽園の具現を
夢見ている。浄土の入り口を示す我が庭を汚
す者は誰であれ、這い虫のようにして摘み出
す。鹿威しの竹が、間延びして鳴った。
「捕えましたが、いかがいたしましょう」
「今のは、芝置か。早いな」
「阿武の親方の毒菱を食らった奴の他に、も
う一人、捕えています」
 一瞬に厳しく変化した異文の気配に、笹女
はこっそりと舌打ちする。異文は椿の植込の
下薮を睨んだまま動かない。そこに何か、意
外なものを感じている様子でもあった。
「芝置よ。その男、麻蒸しにかけようぞ」
「はい、では風呂へ」
 椿屋敷に設けられた風呂は、この時代の他
の風呂と同じに、湯風呂ではなく蒸し風呂を
指す。海桐庵の築地続きの背地の崖に、その
風呂を設置していた。
 博多に住まう宋人の商人が、どのような目
的を持って探りを放ったか、異文は大麻の酔
いを用いて聞き出すつもりでいた。
 衣擦れの音だけを残し、異文は素早く身を
翻す。すり足で立ち去るその気配を背中に聞
きながら、縁先に一人取り残された笹女は、
腹立ち紛れに床板を踏み鳴らした。
「いつもいつも、邪魔ばかりして」
「残念でしたな、もう少しのところで」
「笑うな、土竜め」
 土竜とはモグラのことではなく、漢方の赤
竜、蚯蚓を指して笹女は言う。床下の笑い声
はその罵りを聞き、いよいよ笑いを高くして
いた。

第二章 異文 四

 石菖には鎮痛の効果がある。良く叩いてか
ら風呂の床に敷き詰め、その上に身を横たえ
て痛みを除く。異文の用いる温熱療法は、蒙
古合戦に傷を負った武士たちには特に重宝さ
れていた。しかし、椿屋敷の岩室に敷かれた
草は石菖ではない。ヘロドトスは、スキタイ
人が焼き石の上で加熱した大麻に酔う話を伝
えているが、同じ使用法を異文は行なう。
「余り吸い込む、良くない」
 上半身を肩脱ぎした芝置に、異文は注意を
呼び掛ける。汗にまみれた芝置の両肩と首の
後には、天秤棒を担ぎ慣れた固い瘤が盛り上
がっている。
「今、風を入れます」
 潜り入りの狭い戸口は、さらに濡れた馬革
で塞いである。芝置は岩室の屋根に登り、換
気のための窓を引き開けた。その穴から、い
かにも楽しげな笑い声が響く。
「芝置。芝置。ほら、早く来いよ」
 気やすく己れを捕えた者の名を呼ぶ。
「お前と俺とは、大山寺の酒を一緒に盗んだ
仲じゃないか。なあ、おい」
 芝置は舌打ちしてから異文に謝るような視
線を送る。猫なみの身軽さで飛び降り、馬革
の留め具を外す芝置の背を異文が叩いた。
「知り合いか」
「ま、軽い」
「それは良い」
 何がどちらにどう良いのか、芝置は意味に
迷った。しかしその間にも異文は岩室の中へ
と消えている。芝置は慌てて続いた。
「さて・・」
 大麻はすでに取り除いてあっても、焼石の
熱気はまだ強い。僅かの間に汗が噴き出して
くる。異文は手に持った錫の器を、笑う男に
差し出した。
「飲むか」
「これは、ありがたい」
 氷室の氷を浮かした水には、清涼な効果も
ある。むさぼり飲む男の喉仏は、見事なくら
いに面白く上下した。
「吾は異文だが、そなたの名は」
「俺かい」
 器を返す男の手の中から、掌ほどの短い刃
物が床に落ちた。芝置の顔色が変わる。そん
なものを見落としたとあっては、警護の面目
が立たない。波切丸への聞こえもあった。し
かし横目で窺う異文の様子には、一向に気に
した風はない。
「これ、やる」
「良いのか」
「なんか、阿呆らしくなった」
 薄明りの中で男の顔が、だらしなく笑み崩
れている。
「俺、張親方の下人、桜丸」
「桜丸か」
「こいつ、もとは大山寺の稚児でして」
 芝置は見慣れない形の刃物を試しつつ異文
に言う。
「餓鬼の頃からの知り合いです」
「ほう」
「稚児にあがっている頃は大人しいものでし
て、娘のような派手な小袖は、絶対に着たく
ないなどと、良く泣いておりました」
 異文は桜丸に穏やかに語りかける。
「博多の張大人は健やかであるか」
「あ、怒ってない」
「何を怒るのだ」
「だって、薬王散が」
「薬王散だと」
 その言葉を聞いて、芝置は吠えた。
「この馬鹿めが」
 薬王散とは、肉桂を使用した生薬の配合を
言う。異文の異国処方は、このごろでは特に
銭になった。
「その銭の元を盗もうとしたのか」
 芝置の手が桜丸を拘束する縄にかかる。
「やい、桜丸。お前、少し痛い眼を見たほう
が良いようだな。おい」
「そなた、器用だな」
 異文の眼は桜丸の韜晦を許さない。
「真実を語るつもり、ないか」
 だらしなく崩れたままの笑顔を、桜丸はゆ
らゆらと揺らした。
「やあやあ、芝置。あんたの親方は良い人だ
な。俺の親方も良い人」
「それ、幻人の技」
 不意に異文が断言した。桜丸の制御された
身体反応は、大麻の酔いを完全に乗りこなし
ている。通常の技ではない。
「本当のこと、教えて」
 桜丸の両眼を捉えたまま、異文は顔を寄せ
て行く。しかし遣うつもりの心術の技は、逆
に異文を陥れていた。
 桜丸の両眼の光の中に、昴の星が見えた。
その昴の星が、異文を誘惑する。
 眼試しに昴の星の数を数えることは、船乗
りならば誰でも行なう。家畜と共に営地を移
動する野の民も、同じ遊びはしていた。つい
異文は昴の星を覗き込んだ。覗き込んだその
時に、異文は幻視へと誘い込まれていた。

第二章 異文 五

  昴の星が、満天の星に拡大する。
(星が拡がる・・)
 拡大して飛び散る星の光の下に、世界が展
開した。そこには数万の人々がいる。じっと
動かない人々。静寂の中で彼らは、たった一
人の人を取り巻いていた。
 異文の知らない黒い砂漠が眼下にある。石
切り場のように、摺り鉢状に切られた岩山の
底に、ただ一人立つ人がいる。岩山に張り付
くようにして周囲を囲んだ数万の人々は、そ
の白い姿の人に向かい合っていた。
(歌う人・・)
 その人は歌っていた。
 いや、正しく言うならば、まだ歌ってはい
ない。だが異文は、その人が歌うであろうこ
とを、遥かな昔から知っていた。
(知っている・・。何故だ。何故吾は、そう
と知っているのだ)
 白い衣を身に纏い、影は動かない。その立
つ場所は、花崗岩の石切り場跡そのままの摺
り鉢の底。真円の摺り鉢の底に溜まる闇にも
溶けず、歌うべき人は静かに立っていた。
 円形の底から、階段状に同心円を描いてい
て切られた棚の上へ、高処へと登って行くに
連れ、円もまた広がる。その円の形総てが、
彫像のように動かない人々の姿に埋め尽くさ
れていた。
 彼らは皆、ただ一点を見つめていた。じっ
と動かずに、誰もが沈黙に耳を傾けるように
見える理由が、その一点にある。そこには、
何かが現われなければならない。
 異文は空に星を捜した。冬の夜空に瞬くは
ずの星、昴はどこにも見えない。しかし激し
く震える星々の光は、凜冽たる冬の冷気を確
かに示した。
(星辰が、風に凍えている)
 イスファハンのモスクを飾った星々の夜、
ラジャスタンの沙場に仰いだ銀砂の光、大風
を知らせる耽羅の沖の激しい明滅、記憶の中
には幾つもの星空があった。懐かしい想いの
光景に意識が沈みかけた時、忘れていた肉体
の感覚が唐突に甦る。
(寒い・・)
 そう知覚すると同時に、研ぎ澄まされた冷
気が内部へと一気に浸透する。一瞬に冷気は
身を染め、脳髄までが寒気に痺れる。視覚に
は肉体の深部感覚が隣接していた。
 身体意識が急速に覚醒して行く。頭蓋を締
め付ける鈍い痛みの中で、異文はこの場所の
本質を直感した。
(これは、祈りの庭ではないか)
 太古に死に果てた精霊たちの囁きが、今も
冷たい木霊となって残る石の祭場。そんな場
所がこの世の何処にあるのか。
(神との交感の場所)
 数万の沈黙は、白い霜気と共に冷たい石に
舞い降りた。異文は思う。
(それが異教徒たちの祈りだとしても、祈り
はやはり、美しい)
 ただ一つの神の場所へと指向する意識が、
数万の感性を統御する手綱と化する。黄泉の
王の仮託が真実であれば、乗り手は如何なる
場所へも行けるはず。それが汎神論を奉ずる
スィンドのヨガ行者の結論。
(その場所とは、解脱か消滅か)
 石の祭場を埋めた膨大な意識の数は、それ
ぞれに満天の星と同期し明滅を繰り返す。寒
気に震える異文には、その数万の意識の瞬き
が地上の星空と映る。
(宝玉を鏤めた、闇色の絨毯)
 思惟が動くたび、身体意識は確実に甦る。
手を翳せばその指の動きまでが、今にも見え
そうに思えた。
(ああ、聞こえている)
 異文の耳には、沈黙の圧力が風の囁きに聞
こえた。再び聴覚を得たと異文が自覚したそ
の時、微かな音が生まれる。音の生まれた闇
の底へ、数万の人々の吐く息が白い霜となっ
て落ちて行く。
(始まる・・)
 無言の漣が波紋を落とすように、冷たい石
の上を沈黙が渡って行く。
 静かに移り、伝わる気配。影は確実に動い
ていた。その人の素足が石を擦ると、微かな
音が凍った石に響く。歩速の間合いが、最初
の律動をなしていた。
 幽かに木霊する素足の音が、静寂の中から
次第に大気の精霊を喚び醒ます。

第二章 異文 六

 歌うべきその人の衣は練絹の白。ジェラバ
に似た裾広がりの衣を緩やかに靡かせ、沙場
に彷徨う亡霊のように白く、仄かな光暈を帯
びた影が闇に立ち止まる。その帯びた白は天
空の白であり、神の光の白でもあった。神の
光を纏い、その人は星の下へと進み出た。
 戒律に照らして言えば、自分自身は不信の
異教徒に等しいと思う。定められた祈りも断
食も行なわず、ただ快楽に日々を送る。それ
でも、この不思議な場所を充たすものが何で
あるのか、異文には分かる。
(ズィクル)
 それは称名、或いは連祷を意味する。神と
の合一への道は人の魂の数だけある。連祷は
忘我の入り口であり、やがて己れの意識に帰
ることなく消滅に至る。
 吾が師、ルーミーこそは、常に倦む事無く
消滅への道を語り続けた人。
 人は彼の師を饒舌と言う。しかし語り続け
るそのことこそ、唯一の場所を示す標の数知
れなさを証明していた。
 それぞれの道はそれぞれのものであり、現
象を貫く公式は存在しない。ならば、無数の
部分は部分として、常に語り続けるほかはな
かっただろう。
 たった一つの祈りのために、数万の人々が
集う。
  回転する天球の歌は
  人が琴と声でうたう歌である。
  われらは皆アダムの後裔にして、
  天国でこれらの旋律を耳にしたのだ。
 異文は知らない。その詩をなしたコニヤの
師は、すでにこの世を去っていた。
 その人の訃報が異文の元に届いた時には、
三年の月日が経過していた。破戒不肖の弟子
は結局、遠い異国でただ涙する。
  人はその傾倒するものとなる。
 我こそは神、と叫んだスーフィーもいた。
人がその愛するものの性質を身に装うとした
なら、この沈黙のままに集う数万の人々は、
紛れもなくただ一つの祈りとなるだろう。
 風を揺らし、微かな律動が聞こえる。それ
は白い人の足元からしていた。猫の踏む足音
よりも軽く、柔らかく。そんな小さな音がな
ぜ聞こえるのか、天空も大地も、この広大な
空間の全てが突然に縮小を始めたように、律
動は微妙な変化をも伝えていた。
 中心は一点、数万の意識と視線は次第に圧
力を凝集し、そこに収束して行く。天空を暗
黒の物質で蓋したように、沈黙の重量は凝縮
を重ね質量を募らせる。やがて蟠龍が大地へ
降下するように、分厚い重量が圧倒する意志
を持ち、降りて行く。意識の量が、物理を超
えた。
 意識の空間は膨大な圧力に耐えかね、次第
に球形へと闇を圧縮させて行く。やがて来る
ものは、爆発の臨界。予感した時が、訪れよ
うとする。
 光は純白の絹の反射光ではない。仄かな燐
光が、その人の周囲には生まれていた。異文
の耳に、呼吸が聞こえる。凍りついた時が、
緩やかな溶融を始めたように。
 それが東なのだろう、一筋の光が斜めから
差す。月が現われて初めて、その人の顔立ち
が見えた。
 見慣れない種族の顔。ヒッパロスの風が運
ぶマラバルの海岸の港に、どこか似た顔の娘
がいたことを異文は思い出す。しかし月明か
りの中で孤独に浮かぶ顔は、すでに人の世界
に住んではいなかった。
 呼気は白い。その人の呼吸は今、この数万
の人々の呼吸でもある。一つの呼吸、一つの
皮膚、一つの脈動。脈動はそのまま魂の律動
に呼応する。
 コロマンデルの海岸寺院に寄せる波が、輪
廻する魂の苦しみを洗うように、律動は激し
さを秘めて繰り返す。足元を洗う最初の波は
小さい。しかし珍島の春の潮のように、脈拍
の鼓動は静かに満ちて行く。
 その人の素足が石を踏む。強く、弱く、強
く、弱く。搏動はそのたびに波打ち、足元を
浸して繰り返す。
 寄せて、返し、足元を浸した波は、やがて
踝を浸す。膝を浸し、腿を浸し、そして次の
瞬間には、雨季の激しい潮のように、頭上を
遥かに乗り越える。気がつけば一人の人の魂
の鼓動が、いつしか数万の魂を呑み込む巨大
な波へと変身を遂げていた。
 足を踏む、その度に巨大な海嘯が押し寄せ
る。寄せ、返し、寄せ、たった一人の素足の
踏む音が、数万の群衆を圧倒し、呑み尽くそ
うとしている。静かであった風は、次第に強
く吹き始めていた。
 風が渦を巻いていた。月に照らされて白い
衣が、渦に巻かれて人形に靡く。鋭く右手が
上方へのばされた。一瞬、全ての光が闇に溶
ける。左手は水平に横へ、掌は永遠の彼方を
指し示して大地へと向く。
(あれは、セマーの形)
 異文の耳にはその時、旋回舞踊の始まりを
告げる重い杖の音が、幻のように深く聞こえ
ていた。
 どの土地を旅しても、人の祈りの姿は変わ
らない。邪神を奉じる異教徒たちの祈りも、
忌まわしい偶像を崇める野蛮人でも、それは
同じ。異なるものはただ、風俗や言葉に過ぎ
ない。しかしそこに唯一の違いがあるとすれ
ば、祈りを興行する主体に因る。
 東方の偶像教徒の世界には、実に雑多な祈
りが存在した。異文がそこに住んで理解した
ことは、庶民の祈りは同じでも、宗教者たち
の祈りは全く異なる、と。
 神の司たち、僧侶たち、聖たちは何のため
に祈っているのか。勧進聖たちは大念仏を興
行したが、では彼らは何に祈ったか。蒙古合
戦の折には、宮々、寺々で異国降伏の祈祷が
なされたと聞く。彼らの祈りは一体何である
のか。異文には奇妙な出来事と映る。
(しかし、この歌は)
 美しさを感じる心が人にはある。美しさに
触れ、人は天の歌を幽かに想い出す。そして
失った場所の懐かしさに涙を流す。
(人とは、斯くも悲しいか)
 歌はいつか終わる。神への憧れと祈りに歌
が翼を与えるならば、天空への飛翔を終えた
その時に、着地する地上の場所は一体何処な
のか。新たに始まる日常は、ただ孤独な悲し
みだけの場所ではないのか。では、神など忘
れて生きた方が幸福なのか。
 人の争う世界を修羅と言う。修羅の巷に生
きるほかない人の世では、歌のない闇の方が
いっそ心が安まる。
 一面に葦の生い茂る川辺から、一本の葦は
切り離され、葦笛に作られた。
  ああ 独り寝のやるせなさに
   その胸を千々に裂かれた人に逢いたい
  私の胸に燃える恋慕をその人に
   せめて語って聞かせうものを
 たった独り、本源から切り離されて孤独に
生きる。そんな切なさを抱えてこの世にある
ことが、果たして人の幸せか。
 ただ一つの場所へ、神に対する切ない思慕
は、やがて恋となって燃え上がり、人の自我
を焼き尽くす、師はそう説いた。それでも異
文は、祈りの時から還る場所を探し、途方に
暮れる。
(やはり吾は、不肖の弟子よ)
 異文は幻視の中で涙を流していた。この美
しい歌が終わった時、精霊たちの死に果てた
この場所に集う人々は、どのような日常へと
還って行くのか。今は同じ一つの祈りに向か
いながらも、再び千切れ離れた葦笛の悲哀を
抱きに戻るのか、と。
(ではお前は、どこへ還って行くのだ)
 異文は密かに叫んでいた。それは自分にで
はなく、眼下の人にでもない。遥かな大宰府
にいるはずの一遍に向け、異文は問いを叫ん
でいた。
 その瞬間、幻人の呪縛は解けた。

第二章 異文 七

 一瞬、炭焼き窯の中かと思った。病者のた
めに炭焼きの余熱を利用して、薬風呂を振る
舞ったことが何度もある。その時の記憶が何
故か前に立った。
「阿武の親方」
 嗄れた声は、芝置の身裡に欝した熱の量を
教えている。異文は重い腕を上げ、施療の中
断を合図しかけた。
「違ったか・・」
 苦笑する頬の筋肉が痙攣する。
「気が付きましたか、親方」
 問いかける芝置の言葉も、舌がいかにも邪
魔そうに縺れていた。
 まだ熱の残る石の内壁に、芝置は分厚い背
中を預け、そのままで異文の具合を窺う。薄
明りの中で、芝置の瞳が照れていた。ぐった
りと横に垂れた顎の先から、汗が床に滴り落
ちる。異文は低く声に出して笑った。笑って
初めて、自分の頬に残る涙の跡に気付いた。
温気の中で醒めてさえ、幻視の寒さは骨身に
沁みて容易に去らない。
「やられた、な」
「はい」
「お前は、何か視たか」
「はあ。いいえ、何も」
 その返事で、芝置には何も訪れていないこ
とが分かる。
「ただ、気を失っていたのか」
「面目も、ございません」
「良い、責めているのではない」
 では自分の視たものは何か。全身の筋肉が
解けて、だらしなく緩んではいるが、それは
決して大麻の酔いなどではなかった。肉体を
制御する意識の下部を探らなければ、意志を
裏切る身体反応は生まれない。間違いなく、
桜丸は幻人の技を遣った。
「奴は」
「逃げました」
「見たか」
「いえ、その、どうにも・・」
 異文は口元に掌をあて、己れの呼気を嗅い
でみる。
「阿片でもない」
 薬物を用いたならば、一体何をどう使った
ものか。少なくとも、異文の知るものではな
い。やはり道術の一つか。
「あの男、本当に芝置の知った男か」
「はあ、そのはずなんですが」
 子供の頃から知る桜丸が、いつの間にそれ
ほどの異常な技を会得したのか、芝置にはど
うしても理解が追い付かない。
「あれが桜丸とは、どうも」
「体動く、大丈夫か」
「あ、いくらかは」
「では、誰かを呼んでくれないか」
「それが」
 手の中の煤竹の呼子を、芝置は重そうに差
し出す。
「親方が正気に戻る前に、何度も鳴らしたん
ですが」
「誰も応えない」
「はい」
「そう。芝置の体動くなら、皆の様子、見に
行ってもらいたい」
「親方は」
「吾は大丈夫」
 恐らくはもう一人の間者も、とっくに姿を
消しているだろう。それとも、あの手応えの
ない指弾の感触も幻人の技か。建治二年、文
永の役に前後して、高麗も元も大量に諜者を
送り込んでいた。あの桜丸とかの幻人は、果
たして誰に雇われた者であるのか。
 芝置は男の仕える宋人の綱首の名を出した
が、博多の商人の誇りは、他家の薬物調合の
処方を盗むほどに低くはない。何よりも利が
何処に生まれるかを熟知していた。
 滅亡する南宋王朝の運命に殉じる商人も皆
無ではないのだろうが、商人の生きる場所は
あくまでも二つの価値のその間にある。政商
などは所詮、交易人の奇形として、一時の利
に依存して蔓延るだけの脾弱な生き物でしか
なかった。
 広州、泉州が元朝の支配に落ちても、それ
は関銭の納入先が変わるだけのこと。交易は
常に特殊技能であり、風を捉える商人は何処
の港でも重宝された。結局、不可思議な襲撃
の意味が思い当らない。
 では、誰が。幻人の目的が何かを探るほど
に、思い当る部分は減って行く。異文自身の
生命が目的ならば、他愛もなく涎を垂らして
いる間に易々と遂げたはず。しかしそうした
生命の危機を逃れたとの実感は、自分の何処
を探しても出てこない。
(吾の感覚・・)
 再びそう思った瞬間、異文は反応した。一
瞬に身が凍るように、思惟そのものに停止を
かける。
(止せ、考えるな)
 黒い翳が、視野を暗くする。認めたくない
古い記憶が、この感覚の内側に隠れている、
それだけを理解していた。しかしその理解が
逆に、異文を推論の帰結へとじりじり押し遣
る。全身に浴びた汗が、油の皮膜でも塗った
ように生温く滑った。
(もう良い・・)
 顔を背けるほど、目の前にぶらさがった事
実は強烈な匂いを放つ。
(そう云うことか・・)
 己の実感を探ったその時に、記憶の底に触
れたもの。眼を閉じて避けたいその感覚は、
いつか経験した魂の恐怖でもあった。
(・・ジンよ)
 その名はそのまま悪夢に通じていた。伝説
の山、カーフに棲むとされる有翼の魔族が、
我が魂の底を覗き込んでいた。
(そうなのか)
 ベドウィンの天幕の裾にも、バグダッドの
大スークの、眩い黄金の陰にも潜んでいるの
だと云う。人を喰う夜の悪鬼、羅刹に襲われ
たその時の感触が、桜丸の名の幻人の背後に
隠れていた。
(もしそうであるのならば、あの幻人は魔神
に取り憑かれた狂人、マジュヌーンそのもの
ではないか)
 ライラへの恋に狂ったカイスを、狂人、マ
ジュヌーンと呼ぶ。しかしその名が何であろ
うと、異文には恐怖の記憶でしかない。
 その時、偉大なる神の御名を称えても、破
戒の背教者の前から魔神は去らなかった。人
を魂ごと喰うその魔の精霊が、遠いこの島国
にまでも現われた。
(吾を追って、ここまできたというのか。恐
るべき、ジンよ)
 仔細に振り返れば、異界を視たと信じたあ
の時、眼下の光景を辿る何者かの意識の流れ
を感じたはず。全身の感性に触手を這わせ、
幻視の中の場所へ降り立とうとするように、
我が意識を伝うその動きを。
(やはり、逃げ切れぬか)
 忘れようとしていた悪夢が、再び戻って来
ていた。何度逃げてもそれは追ってきた。
 芝置が大義そうに立ち上がり、石室の口を
潜る。日の光の中へ、ふらふらと歩いて行く
その背中には、汗で流れかけた何かの顔料が
残っていた。
 異文は逆光に眼を細めた。赤い色をした縞
模様は、この国の者に読むことは出来ない。
ただ、異文にはそれが読めた。
「エリクシル・・」
 ジンの残した書き置きは、逃げても無駄と
告げていた。卑金属を貴金属に変える錬金の
秘石、化金石の名。それは同時に不死の仙丹
をも意味する。その魔神のかけた謎が、異文
の闘志に初めて火を点けた。
 我が生命、取れば取れる状態にあった。と
すれば魔の精霊の欲しいものは、別にある。
そう信じる他に、今この恐怖に立ち向かう方
途はなかった。
(逃げて逃げ切れぬ。ならば如何にせん)
 魔神の欲して手に入らぬものが、自分の魂
の何処かに潜む。それは何か。
 幻人のあの幻視に着地すれば、異界へ魂を
持ち去られたまま死んでいたのだろう。では
そのことには、一体どのような意味があるの
か。恐怖を克服する唯一の方法は、その正体
を掴むことにしかない。異文はそう、覚悟の
腹を自分に強いた。

第三章 桜丸 一

 全身が気味悪く濡れていた。落日の粉っぽ
い黄色さが、地べたをぶかぶかと白く浮き上
がらせる。黄昏の逢魔の刻に、乾いた地面に
水の跡を残しながら歩く姿は、水妖か井戸の
幽霊かと間違われても仕方がない。
 法師風に着流した小袖も、濡れてしまえば
裾の始末がどうにも悪い。しかし今の桜丸に
は、そんな自分の状態を気にかける余裕はな
かった。
 梛の木の神住森を背にした須崎の大路を、
築地に添ってひっそりと折れる。それだけで
夕闇は、一層濃さを増した。沈みかけの生々
しい夕陽に、密集する梛の梢が紗をかける。
帰る家はその下にあった。
 門木の前に白い顔を二つ浮かび上がらせ、
連れ立つ女の片方が、歌うように相手の女に
囁きかける。
「今日は何処で潮に濡れ遊ばしたやら」
 場所は須崎の八幡社の裏手。二人の女の身
の装いは、揃って白い小袖に緋の切袴。そう
であれば巫女に違いないが、しかし二人の女
の漂わす艶な気配は、神仕えの清浄さとは無
縁に見えた。
「さあ玉依や、流して進ぜましょう」
 用意してあった手桶の井戸水を、桜丸の頭
上から容赦なく浴びせかける。女たちの優し
げな様子とは裏腹に、扱いは手荒い。それで
も束ね髪をべとつかせた塩気は、水と一緒に
綺麗に流された。二人の女は笑いながら、桜
丸の体を自在に操る。
「阿夜子さま、帯を」
「まあ、このように冷えて」
 三人の関係も怪しければ、門木の背後の百
姓家風の家との釣り合いも整わない。何より
も桜丸自身の正体が不明。
「玉依が暖めて差し上げますから、中へお入
りなさいませ」
 内井戸の土間への通路へ、両側から挟むよ
うに招き入れる。上がり板の上に置かれた濯
ぎ桶に濡れた小袖を浸ける。竃の榾から燈台
に火を移す。乾いた布で桜丸の体を擦り、足
元を拭ってその背を押す。流れるように手順
が整っていた。
 板の間に立ったままの、下帯を解いた桜丸
の尻が、燈台の火明かりに白く浮く。その尻
を見て阿夜子が笑った。
「玉依や、心配をかけられた罰です、思い切
り抓っておやりなさい」
 何を言われても桜丸は応じなかった。女た
ちの華やぎに浮き立つ風もない。たった一人
の世界に閉じ篭もったように、ただされるが
ままに任せていた。
 椿の春は終わっていても、夜はまだ膚に沁
みる。玉依が衾に被く夜具は、綾織りの打掛
に羽毛を詰めた豪奢なもの。社家仕えの百姓
家にはそれだけでも異様だが、板の間に総敷
きされた畳はなお相応しくない。そして、二
間四方の寝間の天井には、切り抜きの幣を天
蓋のように吊してある。そこは修験の廻らす
結界に似ていた。
 玉依と桜丸が潜り込んだ打掛の周囲に、阿
夜子が四つの燈台を置く。全ての戸を閉めき
ると、阿夜子の顔つきが改まった。
「是」
 単音に言うと、阿夜子は玉依の放ち髪が畳
に散る枕元へ、揃えた膝をつく。じっと見下
ろす阿夜子の視線は、玉依の眉間から離れな
い。紅潮した頬を左右に揺らし、玉依は桜丸
の体の下で短く声を上げ続けていた。
 桜丸の解いた束ね髪が、野馬の鬣のように
荒々しく上下する。そのたびに玉依の小さな
顔に雫が落ちた。しかしそれは桜丸の汗では
ない。固く閉じた桜丸の瞼から溢れる涙が、
身を揺するたびに飛び散っていた。
 時間にしてどれ程か、仙道の房中術、導引
の技を駆使する玉依の顎が、突然高く上がっ
た。同時に桜丸が喪心する。
「・・玉依」
 阿夜子の何度目かの呼びかけに、玉依は漸
く低い呻きで応える。だが、その声は美しい
女の喉から出たものとは思えない。玉依が応
えた瞬間、魔の匂いが閉塞された結界の内に
立ち篭める。その声の持ち主こそが、審神者
である阿夜子の語る相手。
「迎え奉るは、何方であらせられるか」
 恭しく頭を垂れた阿夜子が起き直るよりも
前に、反応は素早く現われた。異国の言葉め
いて、玉依の喉が鳴る。その耳障りな音の下
に、依り代の身に潜むものが隠れている。
「またお前か」
 如何にも飽き飽きしたように、憎しみを篭
めた響きが玉依の全身から立ち上る。阿夜子
は咄嗟に九字を切った。ぱっと玉依の両眼が
開く。何者かを宿す魔の視線は、阿夜子の瞳
に真っすぐ向いていた。
「この女には用はない、俺を戻せ」
「戻すわけには参らぬ」
 胸前に合わせた智拳印の先を、鋭く玉依の
瞳に突き付ける。そのままで調息の気合いを
三度吐いた。
「そなたに確かめねばならぬことがある」
 内功を相手の操作に委ねれば、意識を彼方
へと飛ばされるだろう。阿夜子の対応は完璧
と言って良い。玉依の全身が憎しみを篭めて
唸りを上げる。
「人ごとき生き物に、確かめられるものなぞ
あるものか」
「人と申したか、愚かな」
 では、人でなければ何か。玉依に宿り憑い
たものは、一瞬怯んだ。
「取り殺してやる」
「羅刹のそなたに何が出来よう」
「その羅刹の力を借りなければ、お前の欲し
いものは手に入らぬ」
 阿夜子の指先が、桜丸の硬直した首筋を鋭
く突き刺す。経絡の秘孔を突かれ、気血の停
滞は一瞬に解けた。
「桜丸殿」
 ゆっくりと上体を起こす桜丸の背中から、
被いた打掛が滑り落ちる。その場所に真実の
桜丸がいた。

第三章 桜丸 二

 灯火に美しい横顔の翳を揺らすその女が、
自分を見上げている。しかし自分の視線の中
にも同じように、穏やかな悲しみの表情で見
下ろす自分が映っている。強い光を持つ瞳で
見上げている女が自分なのか、見下ろしてい
るこの自分が真実なのか、桜丸の自己認識は
二人の肉体の間で揺れ動いていた。
「阿夜子よ、このまま俺を殺してくれ」
「それはなりませぬ」
「そうだとも、その女の言う通りだ、お前に
死なれては、この俺が困る」
 女が恐ろしい声を響かせると、自らが自ら
に交合するように甘美な快楽が突き上げる。
自分は今、果たして誰であるのか。
(この俺は、一体誰なのだ)
 桜丸の思考に応えるように、玉依の唇の端
が吊り上がった。
「お前は俺に喰われたのだ、黙って眠り込ん
でいればそれで良い」
 目醒めればいつも、こいつはそう言う。
(それとも、こいつが俺の本性なのか)
 いつか大山寺の師の坊が恐げに語った。釈
迦牟尼仏の本生譚に出てくる、人体取り替え
の恐ろしい鬼の話。
 それは鬼同士の獲物の取り合いから、生き
たまま鬼の秘法で死体と手足を次々に取り替
えられる話だった。
(あの、最後にはとうとう頭まですげ替えら
れた男が、この俺なのだろうか)
 全て取り替えてしまえば、一体どっちが誰
か。それとも自分は、このまま巣食った夜叉
か羅刹に、内側から喰い殺されてしまうのだ
ろうか。
「お前は誰だ」
「俺はお前だよ」
「名があろう」
「名は・・」
 言いかけたその時、玉依の喉は突然発声を
拒否した。肩を抱いて締め付ける強烈な力が
加わったように、細身の背中が反り返る。そ
のままに置けば玉依の生命が危ういことは、
誰よりも阿夜子が覚っていた。切り付けるよ
うにして玉依に気合いを発する。
「羅刹であるそなたの名は、人の口に載せて
言える言葉にはならぬ。別の名で答えよ」
 一旦は反りかけた玉依の体が、桜丸を睨ん
だままで降りて行く。苦痛は桜丸と玉依の肉
体を占めた者のどちらにもある。
「そうだ。人が話せる名を、言うが良い」
「俺の名は、水府」
 何度も呼び出したその名を、玉依の唇が名
乗っていた。阿夜子は眼の端に凄絶な美を湛
えて微笑する。
「それでは水府よ、今宵もそなたの捜し人の
ことを語りなさい」
「語れば呪縛を解くか」
「解く」
 そう阿夜子が言った瞬間、身を支えた桜丸
の両腕が痙攣する。痛ましいものを見るよう
に、玉依の瞳の奥深くに表情が動いた。それ
は桜丸か、それとも玉依自身の情感であるの
か。水府の声が言う。
「苦しむことはない。あの男を見付けたから
には、この俺は不死の精霊となり、偉大なる
神と永遠を共にするのだ」
「見付けた・・」
 阿夜子がゆっくりと、分解した言語を再構
築する。羅刹の言葉は、いきなりには意味が
取れなかった。
「何を見付けたのか」
「愚かな、お前の捜す者だ」
「まことか」
「そうだ」
 阿夜子の眉が釣り上がる。
「たばかりは、許さぬ」
「嘘ではないわ。今度こそ、追い詰めた」
「おお、水府よ。それは、確かにその男であ
るのか」
「そうだ、お前の捜している男だ」
「知っていたのか」
「この女が教えてくれたわ」
「ならば話は早い、我らと手を組め」

第三章 桜丸 三

 琥珀色の酒が喉を灼く。赤朽葉色の小袖を
片脱ぎし、手にした瓢の欠け杯を呷れば、吐
く息はたちまち穀物の強い香りに染まる。
 女肉に溺れるか、酒に浸るかしていなけれ
ば、今の桜丸には我が身の置き所がない。こ
の今、身裡に巣食った化け物が許す自由は、
せいぜいがその程度に限られた。
 異国の強烈な酒は、僅かに残る理性の惨め
さを鈍らせてくれた。たとえば深く寝入った
夜にも、この身裡の化け物は、強引に自分を
眠りから引き起こし、こき使う。安らかな眠
りさえないのなら、酒の与えてくれる酩酊は
夢見る自由とも言えた。
 鮭の楚割の小片を齧り、また杯の酒を口に
運ぶ。夜の波打ちには一点の灯火さえない。
砂に沈む足取りは、多分ふらふらと揺れてい
たのだろう。春の夜の朧に霞む星空では、星
宿の座までが弱々しく定まらない。見上げて
も、腕を左右に広げても、星空に自分の魂が
吸い上げられる訳ではなかった。
 腰帯に吊り下げた甕の中で、舶載の強酒が
踊っている。揺すられている酒は、ここに揺
り動かす自分のあることを知らない。桜丸は
思わず笑った。笑うと、己を呑んだ天地が揺
れる。
(天地は、俺に揺すられていることを知らな
いのだろうなあ)
 ぐらりぐらりと揺れる天地の狭間に、波頭
を白くした夜の波が寄せてくる。目路の限り
続く白い水平は、黒々とした海を呑み込んで
何処までも迫る。深海の闇を白い波頭へ吸い
上げ、泡立つ光が体の上を通り過ぎる。気が
付けば砂地に倒れていた。何処でも良い、こ
の自分から逃れる場所があれば、黄泉路の彼
方へでも往く。
(この、夜叉めが・・)
 身裡に巣食う化け物を、桜丸は夜叉と名づ
けていた。そいつが、須崎巫女の阿夜子と交
わした取り引き。中身も懸け物も、自分だけ
が交渉の正体を知らない。
(俺にしても、結局は、この甕の中の酒と同
じなのか)
 思考を頼りに記憶を手繰れば、どうしても
危うかった。ただ桜丸の感じるものは、身裡
の夜叉が抱く欲望の熱に過ぎない。記憶の中
では、何処かの屋敷の中に捉えた異国人の僧
が今も浮かぶ。その僧が、確かにこの夜叉の
欲望を掻き立てていた。
(坊さんだったよな、あれは)
 印象では、そのはず。だが、視覚の記憶を
辿ってみれば、その男は烏帽子を被っていた
ようにも思える。それに、捉えたのは自分の
方ではなく、この身が誰かに捕まったような
気もしていた。
(芝置・・)
 思いがけず、記憶の中には夜叉の欲望とは
不似合いな、幼なじみの当惑した顔がある。
石室のような閉ざされた空間には、確かに懐
かしい庭者の男がいた。
(柿の枝から落ちて傷ついた、あの左目の瞼
の傷)
 年頃も、大山寺に上がった時期も同じ。思
い返せば随分と気の合った仲間のようにも感
じる。桜丸の取り縋るものは、そんな僅かな
慰めしかない。
 芝置の眉から頬骨にかけ、白い傷跡が残っ
ていた。それが、酒を飲めば必ず薄桃色に色
付いた。杭州から渡った烏衣の禅者に付き、
宋風庭園の作法を学ぶと勇んでいた。あれは
一体、いつのことだったのか。その庭者の顔
が、どうしてそこにあったのか。
(それも、俺の知らない間のことか)
 身裡の夜叉が望めば、行動の意志は軽く吹
き飛ぶ。では、この夜叉の意志する場所とは
何処なのか。夜叉の目撃した光景を辿れば、
桜丸にも幾らかの想像は出来た。
 夜叉が自分を知り尽くすように、いつから
か自分にも、この夜叉の眩い記憶を辿ること
が可能になっていた。自分と言う生き物が、
二つの視野を持ったように、曖昧に二つの記
憶が重なる。その知らない記憶の中に、夜叉
の巡った果てしない世界が存在する。
(そうだ。あの坊さんはその時、明け方の砂
の上にいたんだ)
 朝焼けの砂丘の上で、丸いだけの烏帽子を
被り、神への祈りを歌っていた。その歌が、
最初にこの夜叉を引き寄せた。
 朝の光と風に舞う翼が、突然に真空を博つ
ように頼りなく感じた瞬間、身を貫く神の光
が奔った。その光こそが、永遠の場所を指し
示していた。
(そこへ行きたいのだろう、夜叉よ)
 この夜叉の欲望が、今では自分のもののよ
うに馴染んでいた。閃光のように差し込む記
憶の景色には、何度もその坊主の祈りが存在
する。そのたびに夜叉が呻きを上げていた。
永遠の場所を示す神の光を知らなければ、こ
の夜叉にも苦しみはなかったのだろう。六十
万の精霊の王であることも、永遠の光輝の前
には物乞いに寄生する蝨に等しい。
(そうか、そうだったな。お前は確かに、眷
属を従えた魔族の王だったよな)
 張大人の船荷と一緒に隠岐の海に投げ出さ
れ、渦に捲かれて溺れたあの時、焼火の神が
闇に燈された神火を見たと思った。
 全ての闇と隔絶する神秘の炎は、不思議に
寂しい色をしていた。その時、赫く燃える清
浄の火炎を破って、夜叉の恐ろしい顔が現わ
れた。多分それが、生命の終わりだったのだ
ろう。巨大に迫る夜叉の口に、自分の魂が呑
み込まれた。
(それとも、俺が呑み込んだのだろうか)
 背中に砂の湿りが冷たい。小袖の布を透し
て、海が膚に沁みる。感触のままに海を身裡
に引き入れるならば、いずれは水の属性が膚
を染めるのだろう。
(この海を感じる体は、果たして俺のものだ
ろうか、夜叉のものなのだろうか)
 もうそんなことまでが分からない。
「夜叉よ、答えろ。俺は誰だ」
「それだったら、俺の方があんたが誰かを答
えて欲しいな」
「何を・・。俺をなぶるのか」
「俺はあんたをなぶったりしない。それに、
夜叉とは何のことかな」
 桜丸は自分を見下ろして立つ者があること
に漸く気付いた。春の水気を含んだ夜の空は
ぼんやりと灰色を帯びている。その淡い色を
背景に浮かぶのは、男の持つ人離れした特徴
でもある。
「面白い顔だな」
 酔った眼には、男の奇妙な顔は笑っている
ように歪んでいる。
「俺は午王丸と言うんだ。あんたの名は」
「多分、桜丸だろう」
「妙な言い方をするな、あんた」
「そうかい。でも本当に俺の名が桜丸かどう
か、分からないんだ」
「やっぱり、おかしな奴だ」
 午王丸の口の端が耳元まで裂けた。それで
笑ったことが分かる。
「何を言うか。おかしいのは、よっぽどお前
の方だろうよ」
 急激に回り始めた強酒の酔いが、いよいよ
視野を狭くして行く。喪心してしまえば、後
は自分の知ったことではない。酒に麻痺した
体でさえ、容赦なく使いこなすだけの技を夜
叉は持っていた。
「それにしても面白い顔だな、え、午王丸と
やらよ」
「まあ、それは仕方がない、俺のこの面は生
まれ付きだからな」
「その面で、俺に美味い水を持ってきてくれ
たのかい」
「祖神さまが許して下さるならね」
「俺にも神さまはいるぞ、おまけに今飲みた
いって言っているね」
「五遁の術は心得ていても、飲み水までは手
が回らないのかな」
「お、そりゃ何か、珍しい肴のことかい」
「本当に、おかしな奴だな」
 午王丸はまだ、足元の酔っ払いの下に隠れ
ている者があることを知らない。祖神の眠り
を醒ますほどの水精遣いが、どうしてこうも
だらしなく酔えるのか、そのことが信じられ
なかった。

第四章 夜光 一

 この我が身から、どうして慈悲が溢れださ
ないのか、一遍の思索はいつもそこへと行き
着く。
 説くべき教えは明確にある。しかし、聖と
して持つべき衆生への慈悲が、どうしても生
まれてこない。四苦八苦の修羅の巷で泣き叫
ぶ人を見ても、生まれるものは慈悲よりは、
憐愍と名付けた方が正しかった。因果にも情
け薄く生まれついたのか、絞りだそうとして
も涙のかけらさえ浮かばない。 
 執着は構い付けずに捨ておけば、妄念はい
ずれ去る。問題は己れの薄情さにある。
「南無阿弥陀仏を生きなければ」
 名号を生きるならば、慈悲は自然に溢れる
はず。しかし情けの薄い己れには、全てを捨
ててかからなければ、それが出来ない。
「げこん、下根」
 己れを下根と思い捨て、名号を称え捨てれ
ば南無阿弥陀仏。
「南無阿弥陀仏、一遍」
 ため息ばかりが出る。
 ただ、歩いて初めて分かったこともある。
歩くごとに、我と思う心の垢が落ちる。今は
この歩く道が、煩悩の二河に挟まれた白い道
なのだとも実感しつつある。
 彼岸の阿弥陀仏もなく、此岸の我もなく、
称える念仏が歩く念仏。だから、自分が道を
歩くことが、往生そのものでもある。今は考
えなくともそう身に沁みていた。
「それにしても、腹が空く」
 後の一遍の述懐では「九国修業の間はこと
に人の供養も稀なり」とする。仏の供養をす
る縁者も稀なら、布施も稀。衣食に事欠き、
眠るにも野に伏す日々が続いていた。それで
も一遍は、九国での念仏勧進を大事の修行と
考えていた。
 一遍の懊悩は深い。衆生への情の薄さは、
翻せばそのまま、我が身への愛着の深さであ
ることを知っている。
 闘争の場へ身を置けば、眼前に血潮が噴い
たように気を吐く自分がいる。我が身内と思
えば妻子の愛しさは、頭から喰らい尽くした
いほど。この愛着を離れなければ、まだ見ぬ
衆生への慈悲は顕れないであろうことも、一
遍は理解していた。
 曰く「衣食住の三を、我と求る事なかれ。
天運にまかすべきなり」。後に門人が書き留
めた言葉には、一遍の苦悩の跡がくっきりと
ある。そしてその天運は、時に奇妙な供養も
する。建治二年のこの夏、一遍は肥後の国、
球磨川を遡っていた。
 日没を礼拝することは、浄土門では重きを
占める。一遍は球磨川の流れに足を浸したま
ま、山際に沈む日輪を拝していた。
「南無阿弥陀仏」
 瞑目し合掌すると、瞼の裏に水面の反射の
ように光が満ちた。
「これ、御房」
 一瞬、目が眩んだと思った。誰が呼んだも
のか、声のする方へ顔を振り向けた途端、夜
が突然に覆い被さる。真っ暗な中で地虫が鳴
き、蛍が弱々しく飛ぶ。耳元には川の瀬音が
迫り、鼓膜に深く木霊していた。
「しっかりせんか」
 呼ばれて初めて気付く。ぼうっと烟る夏の
天の川が、眼の前に白く拡がっていた。
「これは・・」
 瞬きの僅かな間に、突然夜が来ていた。
「おう、正気付いたか」
「正気・・」
「川童が、御房の足を引っ張っておったぞ。
まったく危ういところよ」
「では私は」
 男は一遍の背中を武骨な手で支えたまま、
傍らの誰かに指図する。気配ではどうやら五
六人と言うところか。身形は皆一様に、非人
めいた姿に作っている。
「寒くはないか、御房」
「いささか」
 言われてみれば、全身に冷えた汗が、べっ
とりと重く張りついていた。
「では、火を馳走しよう」
 その言葉と同時に炎が上がった。瞬く間に
盛大に粗朶が弾け、人声が急に喧しくなる。
球磨川の流れの岸に、人臭い夕餉の匂いが漂
い始めていた。
「あなた方は」
「山人でござる」
 男の両眼には焚火の炎が双つ、赤々と映じ
ていた。
「で、御房は」
「一遍と申します」
「ほう、一遍房」
 にやりと笑った気がした。
「吾は暮露と言う」
「暮露・・」
「そう、ぼろぼろの暮露だ」
 初老の男は自ら名乗った後、次々に一座を
名指しする。
「切石、角間、申そう、二階軒。それに絹波
は、吾ら皆の妻でもある」
 妙な事を言う。妻と呼ばれた女は柄杓を手
に、一遍を振り向く。歯は染めていない。遊
女のような白い歯を見せ、絹波はゆったりと
微笑んだ。
「おやおや、絹波めは、一遍房どのの妻でも
良いと申すようだな」
「はい、好ましいお方かと存じます」
 山中に暮らす山人とは思えない言葉を女は
用いた。焚火に掛けた鍋に向かい、絹波は袖
をたくしあげ、二の腕を露わにする。一遍は
急に勢い込んだ。
「沙門ゆえ、女犯は断っております」
「それではなお、血が騒ぎましょう」
 正面からそう侮辱を受ける謂れはない。一
遍は弱った腕で、立ち上がりかけた。
「何と気の短い聖じゃ」
 二階軒の名の老人が、皺だらけの太い指で
曲げ物の器を差し出す。
「雑炊でも腹に入れば落ち着くじゃろう」
 受け取りかねる一遍に、二階軒は片目をつ
ぶって見せる。
「ほうれ、何を意地を張っておる。これはお
主に布施したわけではないぞ」
「そうそう、これこそ山神さまへのご供養と
申そうぞ」
 それが申そうと名乗る男。
「それとも、そこに見えるでかい体は、全く
あんただけの持ち物じゃろうかの」
 この人々は一体何者か、一遍は疑念を抱い
た。禅僧の仕掛けるような問答を吹っかけて
いるとしか思えない。
「まあ、召し上がれ」
 雑炊は確かに熱い。しかし焚火の炎が燃え
上がったのは、たった今と言っても良い。
「竹筒に飯と具と水を入れ、焼き石を投げ込
んでおく、熱いのは当たり前じゃ」
 一遍は曲げ物の器と匙を受ける。ぷんと鼻
につく雑炊の中身はどうやら獣肉らしい。
「これは・・」
「食えぬか」
「兎よ兎、跳ねるは兎」
「肉食も断っておるのか」
「ならばついでに己れの息も断たねば、羽虫
やらを吸い込み申そう」
 曲げ物の器の湯気の向こうで、絹波の滑ら
かな肩が笑っていた。
「いかがした、一遍房」
 暮露が迫る。
「酒肉五辛を断とうとするも、自力のはから
いであろう」
 一遍の手が震えた。この山の妖怪めいた者
たちは、実に恐ろしいことを言う。
「どうじゃのう、恣に我意に任せておりはせ
ぬか」
 自力の時、我執驕慢の心はおこるなり。後
に一遍は、門人にそう語った。智恵もすすみ
行もすすめば、我ほどの智者、われ程の行者
はあるまじとおもひて、身をあげ人をくだす
なり。
「南無阿弥陀仏」
 喰らわずには、身を保てない。喰らえば、
四十八軽戒中の第三を破る。
 一遍は器を目の前の石の上に置き、合掌す
る。果たしてどちらが己れの恣意で、どちら
が自力に頼る我執の姿か。
「一遍房の身命は、一遍房の持ちものか」
「身命を惜しまずと言うは、己れの我意に任
する増上慢にてはあらぬか」
 一遍の眼光が、ふと柔らかくなる。
「南無阿弥陀仏」
 戒も捨て、己れの身も捨てる。漸く見えた
ものがある。
  身をすつるすつる心をすてつれば
   おもひなき世にすみ染の袖
「や、喰ろうたな、一遍房」
「肉食戒を破るとは」
「なんと情けない、意地汚い」
 一斉に囃し立てる山人たちを見回し、一遍
は、にこやかに笑った。
「有り難く、頂戴いたしました」
「見たか絹波よ。受けて下されたぞ。今より
後は一遍房どのの妻ともなり、夫婦の契りを
篤うせいよ」
 暮露の言葉を受け、男たちが「おう」と唸
る。絹波は一遍の傍らに身を移した。
「これで私は一遍さまの妻となりました」
 絹波の腰の辺りが、急に重みを加えたよう
に見える。再び一遍は笑顔を開いた。
「身を捨ててあれば、命をささふる食物は、
あたりつきたる其のままに」
「これは味わい深きことを、ならば押し掛け
たる妻とても同じこと」
「身を捨ててあるものに、もはや妻のありよ
うはずもなし」
 一瞬、焚火が掻き消えた。黒々と迫る山塊
が頭上に覆い被さる。真っ黒な翼を持つ巨大
な鳥が、水辺に星の光を散らして鮮やかに飛
び立った。
「一遍房」
 頭上で星辰を震わす凄まじい声がする。一
遍は振り仰いだ。
「なにか」
 ざっと星を降らすように、激しい風が吹き
下ろす。
「問うて良いか」
「なんなりと」
「吾らこの世にあらざる者にても、往生は果
たしてかなうものか」
「他力称名の行者は、この穢身はしばらく穢
土にあろうと、心はすでに往生をとげて浄土
にありと信ぜられよ」
「生き身の肉を食らう、吾らとてもか」
「五欲を家とし三毒を食とすれば、三悪道の
苦患をうくる事、自業自得果の道理なり」
「酷いことを」
「しかあれば、みずから一念発心せんよりほ
かになし」
 木々がへし折れ、聳え立つ巨木が大地に倒
れる地響きがする。真っ暗な山中に多くの気
配が動いていた。迷い飛ぶ蛍の光はそれぞれ
が対になり、薄緑に明滅する光をこちらに向
ける。どう見てもそれは、闇の両眼が光ると
しか思えない。
「殺生こそは己れの生業。それを悪しとせね
ばならんのなら、吾らはいっそ、地獄に生き
申そう」
「それもよし」
 一遍は合掌する。
「だが忘れてはならぬ」
「おう、吾らに説け、一遍房」
「弥陀の誓願は、とうにそなたらの往生を定
めておる、地獄の苦しみあらば、その時はた
だ念仏申せ」
 風の音だけが騒いでいた。応えはどこから
も返らない。一遍は球磨川に向き、それから
もう一度向き直って山の暗闇へ向く。
「ひとつ聞きたい」
 一遍の問いを暗闇が吸い込む。
「言え」
「そなたらは眠るか」
「吾らとて、眠りもする」
「では、その寝顔の安らけんことを」
「眠る時に、安らかも何もあるものか」
「己れに寝顔を問えば、そのようなことはす
ぐに分かる」
「賢しらに、何を申すか」
 突然、山全体が唸りを発した。幾筋もの光
を上空へ向けて鋭く放つ。一遍は大音響に怯
まずに言う。
「ただ、念仏申せ」
 足元が激しく揺れ、地中の闇を何かが飛び
回る。大地が地震のように揺れていた。

第四章 夜光 二

 片島の夜の岸辺の砂の上に、桜丸は賽を転
がす。濡れて締まった砂地の浜から、西へ遠
く黒い断崖が続く。先端が駆け上がりの廂の
ように星空へと突き出す岬の上には、権現堂
の燈台の灯が、ぼんやりと点っていた。
 黒い砂の上に転げた賽の目は、四三と出て
いる。漁師にとってはなかなかに縁起の良い
目でもある。それは北斗の柄杓星の呼び名と
して、海に生きる者たちの吉方位を示してい
た。縁起の良い目の賽を摘み上げると、再び
桜丸は転がす。
「四三」
 決め付けて断言するが、獣骨を削った賽の
目は天地の一六と出ていた。桜丸は何事もな
かったように再び二個を手に取ると、また転
がす。
「四三」
 今度は一一と出る。またもう一度。
「四三」
 再び四三の目が転げ出た。新月の星明かり
程度で賽の目が見えるはずがなかったが、砂
地に座り込んだ桜丸の周囲には、仄かな緑味
を帯びた淡い光がある。その光が賽を浮かび
上がらせていた。
「四三」
 目は五二。
「四三」
 四五。
「四三」
 桜丸は執拗にその目を繰り返して唱える。
何度も賽を振る、そのたびに緑色の光は濃く
なるようにも見えた。
「四三」
 何度繰り返したか。
「もう、いやだ」
 ついに桜丸が叫んだ。殴り付けるように、
握り拳で賽を砂地に押しつける。その途端、
緑色の光暈が輪郭を明瞭にする。
「博打がやりたければ、自分ですりゃあ良い
んだ」
 水府がその緑色の光暈であるのなら、桜丸
の体はその内側にある。そして水府の光に内
包される桜丸は、その身の裡に、さらに水府
を内包する。羅刹の王の誤算は、桜丸を殺さ
ずに寄生したことにある。
 融合は一次元ではない、記憶にも身体意識
にも重なり、快楽も苦痛も共にする。桜丸が
水府の欲望を理解したように、水府もまた桜
丸の執着を引き受けていた。全てにおいて二
つの個性が重合する。その個性の一方が、支
配を覆しつつあった。
 大山寺の稚児であった桜丸の初学でも、一
念三千の意味は知っている。人の一瞬の念い
の中には、三千もの心の様相がある。一念の
欲望の精華である精霊が、三千の欲望の葩を
持つ人の心に融合した時、危機は果たしてど
ちらにあったか。桜丸の反攻は、水府の眩暈
から始まっていた。
 水府にとって三千の念の裡に巣喰うとは、
一方では無限の形象を像として宿す鏡の小函
に封じられたにも等しい。支配を拡大すれば
するほど、己の翳が差す影像を否応なく視野
に捉える。眩暈はそこに生まれた。
 黒い海を背に、桜丸は全力で衝動に堪えて
立つ。膝が震えていた。水府の視線がやはり
震える。自分自身の操り方は、水府の記憶が
教えてくれた。
「ばか野郎め」
 震えながら桜丸が罵る。呼気と吸気が同時
発動し、桜丸と水府は同じ苦しみを味わって
いた。水府の発する緑色の光が、桜丸の全身
を燃やし尽くすように激しく揺れた。
 三千の欲界の王として君臨するとは、一念
が三千の念いを消し飛ばすことを意味する。
そんなことが人に可能かどうか、水府には始
めから予測の材料はなかった。
 直面する危機を回避する方法は二つある。
重合を解くか、桜丸を完全に支配し喰らい尽
くすか。己を極大から極微へ陥れ、消滅へと
誘う無限数の罠から逃れるには、そのどちら
しかない。
「気付くのが遅かったな、夜叉よ」
「男よ、俺に毒念を流し込むな」
 桜丸の喉から、水府の言葉が迸る。引き攣
る筋肉は両者の葛藤を示していた。確かに勝
負は五分と言って良い。桜丸の輪郭をなぞる
羅刹の光暈が、角と翼を生長させる。
「駄目だよ」
 桜丸が呟く。
「逃がさないよ」
 遠くに見える権現堂の岬が吠えたように、
頭上を渡る唸りがあった。逆転は何処で生じ
たか。
「お前はもう、俺と一緒に生きるしかないん
だ、夜叉よ」
 人を喰らい尽くすことなく、人に寄生し、
そのものになる。水府は吠えた。
「偉大なる神よ、俺は誤っていたのか」
 砂丘の上で出会った男、異文の祈りこそが
罠だったのか。
「俺はあの光の中で、神と共に永遠に生きる
のではなかったのか」
 永遠の場所を叫ぶ水府の予測は誤ってはい
なかった。確かに人の肉体と云う通訳機械を
手に入れて、初めて人である者の祈りを読む
ことが可能となった。それは垣間見た憧れで
はなく、手を伸ばせば掴める実体の通路でも
ある。食餌を前に許されない犬のように、欲
望が水府の全てを占めて巨大化する。それが
精霊の王を罠に陥れた。
 精霊に出来ることは、ただ夢を見ることだ
けしかない。多重世界の属性を貫いて、世界
から世界へと飛往することは可能でも、地を
這う他に法を知らないはずの人が行なう神へ
の飛翔は、どうしても叶わなかった。
「偉大なる神よ、では何故、俺に光を示した
のか」
 桜丸は、水府の抱く深い嘆きに涙を流して
いた。泣きながら、それでも一瞬の油断が自
らの生命を奪うことを知っていた。誰よりも
この夜叉の苦しみを理解出来るのは、今は桜
丸自身に相違なかった。

第四章 夜光 三

 書を芸とする御筆先ならば、小町となる。
和歌を芸にする神降ろしならば、つまりは式
部か小式部。女の芸にはいつも、真実の名を
隠す取り名が前に立つ。笹女の名も出雲杵築
の大社の勧進に事寄せしていたが、芸は施薬
と心療にあった。
 八雲立つ出雲の神を背負っての遍歴には、
幾つもの神の御名が付き纏う。少彦名、大国
主、神農黄帝、役行者、何処でどの名を持ち
出しても良かったが、奇験灼かな薬と療法が
あってこそ、初めて巫女の勧進は成り立つ。
その薬種流通の組織図が示す経路に添って、
笹女は巡回と監察を行なう。
 文永の蒙古合戦以来、品が薄い薬種には、
蘇鉄や弟切草などの金創に効くものが多い。
特に舶載に頼るものが、近年騰貴していた。
蘇鉄は大隅辺りから南方の地域に産するが、
貴族の暮らしや宮中の法要にも欠かせない香
料などは、もっと遠い場所から来る。つまり
合戦の余波は、貴族の生活に最も強く現われ
ていた。
 鎌倉の幕府に、蒙古との合戦を避けるつも
りはない。しかし現実には、宮中や幕府の足
元にさえ困惑する者がいる。私貿易が止まら
ない理由もそこにあった。
 笹女の背負う神様は、山野に自生する薬草
を教える神でもある。
「異文さま」
 庭の蚊遣りの青い煙が、微風に靡いて横に
流れた。どうやら風が動き始めたらしい。濡
れ縁の端ぎりぎりに立てた、風除け燈台の燭
火も色を次第に濃くする。月は上弦、後朝に
は相応しくない刻限でも、潮時としては悪く
はない。
「良いことを教えて差し上げましょう」
 乙女と言うには齢を重ね過ぎているが、そ
れが笹女の本所での地位を示した。その乙女
が膝立ちし、突っ立ったままの異文の腰に大
事そうに掌を添える。
「伊吹衆が、伊豆に柴胡の群落を見付けたそ
うでございますよ」
「ああ、山の人は目が敏い。秋の終わりには
良い根が採れる」
 異文の想いはいつも、遠い場所にある。そ
れを知らない笹女ではなかった。が、女の愚
痴はやはりある。
「このまま、西と東ですか」
 異文は鞆から瀬戸内を西へ、笹女は東国の
常陸へと向かう。次に逢う時は、笹女が年役
を済ませてからのことになるのだろう。
「浮気者」
 指を曲げて、思い切り爪を立てた。
「姫さま、それ痛いね」
 異文が笑った。覚束ない言葉の方が、笹女
の恨みを和らげることを知っている異文は、
抜け目なく片眼を閉じた。
「これ痣、消えない。見て、笹女思い出す。
夜寂しいね、きっと」
「狡い男じゃ」
「良い月、良い潮、行くの良い」
 風早にでも吹かれてしまえ、と縁起でもな
い言葉を投げ付けかけた笹女が、目の端に差
した灯りの色に首を傾げる。自然に異文の様
子も改まった。
 鉄囲山を構築する石組みの背後には、築地
を目隠しする植込が繁っている。緻密に常緑
の樹種を混植し、見る者の意識を無限遠へと
誘う工夫がされていたが、その南西の一角に
柊が一本だけある。灯りはそこに差した。
「巴か」
 笹女は妹の名を呼ぶ。しかし応えはない。
他の屋敷は知らないが、この海桐庵には人は
いない。笹女は自ら縁の端へ出た。
 裏鬼門の封じとして植えた柊の陰には、丑
寅からの軸線を僅かに外して門がある。両脇
に樒を繁らせ、門木の間に紙垂を下げた注連
縄を渡す。未口の名の門の辺りに、松明の灯
が陰影を揺らしていた。
 異文が、ほっと息を吐いた。
「遅いから、迎えが来たね」
 そのまま庭へ降りようとする異文の膝を、
笹女が背に庇うように抑えた。
「良い、入りなさい」
 結界で躊躇したからには、何らかの理由が
ある。たった一度、奇妙な男が潜入したが、
それ以来異変はない。しかし笹女は穏やかで
はない胸騒ぎを感じていた。
 松明を低く持って先に樒の陰から現われた
のは、見知った鍛冶の徒弟に違いない。
 庭者の使用する特殊な刃物を専門に打つ鍛
冶は、椿屋敷の一族でもある。そこに不審は
なかったが、背後の市女笠の女は違う。何よ
りも、女が庭へ入る時に目立たずに踏んだ妙
な歩法が気に障った。
 笹女が声を上げかけた時に、もう一人、女
が現われた。先に立つ女と寸分変わらない白
の浄衣に市女笠。異なる点は年頃くらいか。
少年の持つ松明が、二人目の女の足元の石蕗
を照らす。
「手炭よ、そちらは」
 笹女の呼んだのは少年の名だが、応えるよ
りも先に、二人目の女が動いた。
「そなたが異文か」
 案内の少年は、突然の横柄な女の呼びよう
に、一瞬身を固くした。異文が片手を上げて
笹女と少年とを制する。女二人の市女笠の縁
が、殆ど同時に持ち上げられた。
 笹女は思わず自分の両手を背中へ回した。
浄衣の女たちの白い手甲の指先が、揃って怜
悧な色香を夜気に放つ。美貌もそこまで行く
と、刃物に等しい。
「異文は吾だが、何か」
 異文は女よりも少年に来意を確かめる。し
かし性急な女は案内者を笠で押し退けて前へ
出た。笹女は何か言いたそうな少年に頷いて
見せ、ふくよかな笑みを作る。
「良い、湊の朱鷺丸へ報せておくように」
「は」
 女の美貌に幾らか怯みを見せながら、少年
は横目で一度睨んでから身を翻す。軽々とし
た足音は、走って船まで行くつもりのように
意志を伝えていた。
「さて」
 異文が縁に片膝を突いた。

第四章 夜光 四

 須崎の巫女と称する玉依と阿夜子。その名
には、笹女の名と同じ程度の意味しかない。
女の本質を隠す取り名の背後には、きっと醜
いものもあるのだろう。それでも、二人の人
離れした美貌を想うと心が騒ぐ。
 何者が異文を訪ねてきたのか、そんなこと
は知らない。知ってどうなるものでもない。
が、後にしてきた海桐庵が小さな棘のように
心に刺さる。
 笹女は、鼻歌混じりに夜の坂道を下って行
く。振り返ることはしない。椿屋敷の海桐庵
の灯火を振り返れば、やはり平静なままでは
いられない。今はただ、妹の巴が待つ、天祐
丸の灯りを目指す方が賢かった。
 巴を妹と呼ぶ。それでも血は繋がっていな
い。生みの親も知らず、子もない。
  見るに心の澄むものは
   社毀れて禰宜も無く 祝無き
  野中の堂の又破れたる
   子生まぬ式部の老の果
 八幡の神を背負って歩く玉依と阿夜子も、
いずれ子生まぬ式部に変わりはなかった。
「面白い男よ」
 異文を思えばつい口に出る。
  男をしせぬ人
   賀茂女伊豫女上総女
 どんなに体を重ねても、惚れた男と一つに
はなれない。まして、遠い何処かを見つめる
男の心など、手に入ると信じるには世間を知
り過ぎていた。それでも、一人で生きるのは
寂しい。身を寄せ合う温もりくらいは、せめ
て男に望みたい。
 軽い気分で鼻歌を歌っているつもりでいた
が、気が付けばいつの間にか、涙声になって
いた。坂を下る足が、ふと止まる。夜でも盛
る湊の賑わいが、もうすぐそこに聞こえてい
る。笹女は坐り込みたい衝動を堪え、上弦の
月の下で唇を噛み締めた。自分でも今の今ま
で、そんなに男に惚れているとは思ってもみ
なかった。
「不覚だ・・」
 そう呟く自分の肩を、異文の匂いが包む。
夢でも、そんなことがあれば良い。
 湊で誰かが振る松明が見える。
「愚か」
 自分をそう罵るしかない。立ち止まった背
中を、このまま異文に抱きすくめられたいと
願う。異文の声をもう一度聞きたい、と。
「何を泣いている」
 拗ねて泣けば、仄かな笑みを含んだ声が聞
こえるはず。
「ほら、笹女よ」
 それでも、その声は現実に聞こえた。笹女
は小さく叫ぶ。
「あっ・・」
 嫉妬と恋心が見させた幻かと思った。しか
し、振り返れば異文がここにいる。
「異文さま」
 そんなはずはなかった。諦めて、潮時を逃
さないように海桐庵を出てきたばかり。異文
が追い付くには、やはりすぐに出てこなけれ
ばならないはず。
「何もなかった」
 そうではない。異文の匂いに混じる、別の
匂いがあった。ほんの僅か、笹女は身を引い
た。異文は咳払いをする。
「須崎巫女の用、済んだ」
「そんなはずは」
 照れて笑ったのだろう。異文の白髪混じり
の髭に、月の光が白く透けていた。その位置
からも、時刻がそれほど過ぎてはいないことが
分かる。
 異文が不審そうに笹女の視線を追った。
「そうか」
 いかにも感心したように異文は頷く。
「そんな不思議もあった」
「巫女どの方は」
「さあ」
 異文はふわりと笹女の視線を避けた。
 椿屋敷にも人は残っているだろうが、海桐
庵には自分たちだけがいた。二人が抜け出し
ていれば、残るのは須崎巫女。
「放り出してきたのですか」
「大丈夫」
 ほっと息をついて、異文はそう言う。しか
し笹女には、あの二人の異常な美貌は男には
直接の害そのものと映る。
「お優しいことでございます」
「笹女よ、あれは、哀れな生き物だ」
「哀れ、と」
 異文の狩衣にも、女たちの香りが移ってい
た。その香料の値を考えると、須崎巫女の二
人は相当の分限者と想像できる。異文の身に
移った匂いから、そこまでを連想してしまっ
てから、笹女は不意に真実に思い当る。
「もしや、あの巫女どの方は、白姫では」
 異文が頷く。
「この国では、そう言うらしい」
「それは、気の毒な」
 笹女の嫉妬は、一瞬で半ばは冷めた。もし
本当に女たちが白姫であるなら、半分は人で
はない。その人ではない部分が、女たちの異
常な能力に顕現する。
「覚えているか、桜丸の幻人」
「忘れるわけには参りませぬ」
「須崎巫女、あの幻人には、羅刹が取り憑い
ていたと言ったね」
 笹女は初めて異様な出来事の正体に迫った
思いがする。羅刹が取り憑いた男。それなら
ば、椿屋敷がそのたった一人の男に翻弄され
たとしても頷ける。
「羅刹の道。あの白姫たちは、それを我が道
と思った」
「道、でございますか」
「ああ、そう、だから吾を訪れた」
「異文さまが、白姫の豊旗雲ですか」
「何か、それ」
 豊旗雲の謂いを異文は知らない。
「美しく靡く横雲」
「ほう、そうか」
 それが瑞祥の雲だとしても、常人が雲に乗
り、天空を駆ることはできない。
「異文さまを、帰還への道と信じていたので
しょうか」
 そう問うと小さく頷くが、何処か曖昧な応
え方をする。笹女にはそれで、漸く見知った
異文が戻ったと分かる。
 異文は幾つかの地点を思い返していた。そ
の同じ生き物が彷徨う地上は、確かにまだ他
にもあった。
 初めに彼らの存在を知ったのは、亡き父の
指摘による。或る時父が、市場の一角に立つ
盲目の青年を指した。
「その男、高貴な美しさを持っていたね」
 淫夢の魔女、カリーナの息子だと父は青年
の噂を言った。その時の目眩むような官能の
記憶に異文は照れる。
「吾、少年だった」
「今でも、こどもではありませぬか」
「父は、近付くなと言った」
 賑わう市場の商いの塵埃にも、人の憎しみ
にも染まらない、この世とは隔絶した美しさ
が青年にはあった。
「市場に立ったまま何をしているのか、父に
訊ねたよ」
 その時、父は確か、額に痛みを感じたよう
に皺を険しく寄せた。それから静かに自分の
耳に指を触れた。
「そう、そして言ったよ。あれは人々の心の
音階を聴いているのだ、とね」
「そうですか。では、やはりその男の方も白
姫だったのですね」
「白姫が音階を捜す生き物なら、その通りだ
と思う」
 白姫の求める場所が地獄か魔界か、それは
知らない。しかし人の心の音階の何処か一つ
の調べが、彼らの求める場所へと通じる。
「誰も信じられない、哀しい生き物よ」
 異文の心の無意識の底まで覗いて、初めて
須崎巫女は、求めるその人ではないことを理
解した。そう異文は言う。
「だから、もう無害」
「それで、厭らしい匂いをさせている」
「ああ、違うね、笹女」
 急に異文が慌てた。
「笹女は、心配しない。大丈夫。吾は、笹女
が一番ね」
「この、大嘘つき」
 笹女は異文の傍らに身を寄せ、異文の手を
掴む。
「承知しませぬ」
「ああ、大丈夫よ」
 掴んだ異文の手を腰へ引き寄せ、笹女は自
ら袴の股立ちを寛げる。
「笹女の匂いを忘れたら、許しませぬ」
 耳朶を咬むように言い、股立ちの合わせか
ら手を押し込む。導かれた異文の指が、笹女
の潤いに触れた。
「良かった、笹女笑う、美麗」
「この暗がりでは、見えますまい」
 異文の指先に、笹女の生命が熱く伝わって
いた。
「吾には分かる」
「やはり異文さまは、嘘つきじゃ」
 甘くなじられたとしても、仕方がない。確
かに異文は、笹女に対して後ろめたい嘘をつ
いていた。異文の視線が闇に向く。
 須崎巫女を通じて確信した。あの羅刹は、
桜丸の意識を踏み台にして、永遠の神の場所
へと断絶を飛翔した。
(そうだ。そこまでは、誰でも叶う)
 問題は次の着地にある。降ろすべき足の、
地表は何処か。自らが羅刹の餌なら、餌でも
良い。逃れることが不可能なら、何処までも
行くしかない。羅刹と同じに、或いは須崎巫
女と同じに、今はその答えが欲しい。
「異文さま」
 異文の気配の変化を悟り、笹女は敏感に反
応した。体の重みをさらに預ける。
「どうした」
「生きておれば、必ずまた逢えましょう」
 異文は息を吐く。
「吾、笹女にはかなわないね。そう、知って
いたのか」
 異文の肩に、笹女の顔が埋まる。
「男とは、愚かなものでございます。命ひと
つも、自分のものと勘違いをなさいます」
「では、吾を呑み込む闇に、どのようにして
勝てば良いと思うか」
「夜を見つめるならば、闇が見えましょう。
笹女は夜の光より、昼の眩しさの方が好きで
ございます。異文さま」
「そうか、昼の光か」
 湊からの迎えの松明が、潮時に焦れた思い
を伝えて忙しく登ってくる。松脂臭い煙が小
路に流れ、遠くで犬が吠えた。

第五章 青き光 一

 高良山から見下ろせば、一面に稲穂の緑が
拡がっていた。一望遥かな筑紫平野の緑の水
面は、そのまま風の波打ちを目路の彼方まで
伝えて行く。白鷺は田面を低く飛び、眼に沁
みる白は鮮やかに夏の緑に映えた。
 彼方には背振の山塊が、青黒く靄を纏って
霞んでいる。西流した筑後川の本流は、高良
山の前で折れて南へと向かう。それでも一帯
が、筑後川氾濫原の湿地であることには変わ
りがない。諸富の州から有明の海へも、神埼
の山際から嘉瀬へも、水は迷路を潜るように
巡っている。そんな地形は、確かに水妖が棲
むには相応しい。
 沙場をうろつく幻影があるように、水界に
も理性を越えた現象がある。異文の目撃した
怪奇も、筑紫平野に棲む精霊が届けた木霊で
あったのかも知れない。
 筑後川から嘉瀬川へ、水系は微妙に連関し
ていた。例えば水上には小舟一艚通う幅さえ
ないように見えたとしても、水草の絡む下で
は流れが結んでいた。耳を澄ませば地下の水
音も、囁きのように聞こえてくる。
 異文は、本当にそんなことがあるのか、棹
を操る庭者に訊ねてみたかった。水の彼方で
待つ男が、本当にパハンで別れたパレンバン
の済度であるのか。異文は小舟から上体を乗
り出し、水音を聞くようにして水面に耳を近
付けて行く。
 野鯉が跳ねると雨が近い。俚言にそう聞い
ていたが、時折り陽が翳るほかには、それら
しい兆候はなかった。それよりも、こう蒸し
暑ければ、いっそ降ってくれた方が清々して
有り難い。
 姫蒲が穂を揃えて勢い良く繁り、岸辺を隠
す。藺草は青く上へ伸びて、視界の腰を遮っ
ていた。それだけでも微風を止めるには十分
だろうが、その上に、びっしりと生えた丈高
い葦に堰かれたなら、少々の風では水面にま
では届かない。
「こんな時、死んだようなと言うか」
 遣り切れずに異文は声に出して言ってみた
が、こう風が止まってしまうと、自分自身の
呟きも何か遠くに聞こえる。
「やれやれ」
 病葉も流れ藻も、ぐったりと動きを止め、
気怠く気泡を浮かべた水面からは、濃密な水
蒸気が立ち昇っていた。水は清いが流れも風
と同じで全く停止していた。その中を、諸富
の庭者が繰る小舟が辷る。
「まあこの辺りまでは、海へ出た真水が戻っ
てくるでしょうね」
 潮止まりの刻限に当たり、流れが死んでい
るのだと言う。異文を慰めるようにのんびり
と、とぼけた声が水面を渡った。
「彼岸の大潮ともなれば、押し寄せた水は軽
く田の畦を越えますね」。
「ほう」
「堰の管理が大事です」
 渇水期の農作業には、海から戻る真水でも
有り難いのだと男は言う。問題は下に潜り込
んでいる塩水を流れ込まさない工夫にある。
男はその辺りの自慢をしたいようだが、異文
は熱気に当たったように、ぼんやりと言葉を
聞き流す。
「龍の出る山、どれか」
「龍、ですか」
 泥の中からすっぽりと棹を抜き、小舟を操
る男は笠を上げた。紐を結んだ顎が、異様に
発達している。おまけに口がまた大きい。笑
えば耳まで裂けそうだった。
「それが金立山のことなら、ここからは見え
ませんね」
「そうか、見えないか」
 それでも異文には、連なる山並みの上空に
流れる龍脈が、ほんのりと感じられた。風水
に言う龍脈で悪ければ、それを水気と呼びか
えても良い。
 山水河原者にとって、風水の思想は庭園に
は欠かせない。地上に楽土を築くためには、
気脈の流れと瑞祥の配置が重きを占めた。当
然この小舟を操る男も、水気の靡く気配を感
じ取っているはず。しかし男は洞庭湖に浮か
ぶ君山のように曖昧に言う。
「済度さまが、先乗りしておりましょう」
 異文が唸った。
「気が重いな」
 済度の名は、やはりイスラムに由来する。
スマトラのパレンバンから薩摩の坊津へ、春
からの南風は香料を運んでくる。九月になれ
ば風は北に変わり、今度は帰帆の足を付けて
くれた。数年停まっていた交易の片棒が、突
然にこうして自分を呼び付けた。
 羅刹の男はあれ以来、全く接触がない。腹
を括ってみれば、馬鹿にしたように追っては
こなかった。何故か。
「吾、きっと堕落したと言われる」
「へえ、何か破戒をなさいましたか」
「破戒ばかりを」
「それはめでたい」
 頭上で棹を回し、男は笑う。その笑い声は
いかにも屈託ない。異文は思わず水面から顔
を上げ、男を見て苦笑した。
 小舟は葦の間を縫うように行く。滑らかに
水の上を辷る様子は、こだわらない男の笑い
に似ていた。
「うちの尊さまは天に聞けと言います」
「ほう、波切丸が」
「はい」
 この波切丸配下の河原者は土地の者だと言
うが、妙に軽い味があった。
「午王丸、言ったな」
 黙って笠を下へ向けると、午王丸は異文の
疑問を先回りした。
「尊さまの言われる天とは、阿武衆の崇める
さまと同じでしょうかねえ」
 異文は黙って語るままにさせた。
「西大寺さまは戒を保てと言われますが、我
らのような者にはとてもとても。そこへ行く
とうちの尊さまは、身内の天が許すことなら
それで良いと言われます」
「身内の天」
「天が、我が身の内にもあるそうです」
「ほう」
 異文の知らなかった波切丸の側面を、この
男は楽しそうに語る。
「我が身がひり出す糞も、やっぱり天なのだ
そうです」
「それは、まいった」
「そうでしょう。腹具合でも悪くしようもの
なら、一日中、天と付き合う羽目になる」
「ほう」
「そんなことなら、右見ても左を見ても天だ
らけ。でね、そんなに天がいっぱいあって良
いものか、尊さまに訊ねました」
「波切丸は何と」
「陽神も神なら糞神も神、いっぱいあっても
天は天、全部が一つじゃ、と」
 何がおかしいのか、午王丸はそこで噴き出
した。顔を上げて思い切り笑うと、本当に口
が耳まで裂けて見える。笠を被った顔が、顎
を首に残して、がっくりと二つに折れたよう
に危うい。異文は目を丸くした。
「お主の口、でかい」
「鯉が丸呑みできましょうか」
「おう」
「尊にそう言われてみると、それからは世渡
りが急に楽になりました」
「そんなものか」
「そんなもののようですね」
 意図した軽口は、明らかに異国の男の様子
を気遣っていた。それほど沈んで見えるか、
と異文は舌打ちする。
「午王丸よ」
「はい、阿武の親方」
「異文で良い」
 小舟の外へ手を伸ばし、異文は水を掬う。
ぴしゃぴしゃと首筋に水を叩き、ふっと息を
吐いた。
「風が動かんな」
「ああ、そう言えば」
 海風が吹けば鳶が舞う。午王丸は鳥の影を
探すように空を見上げ、棹を止めた。
「さて、異文さま」
 呼びかけに視線を午王丸に向けた瞬間、目
の隅の人の形が崩れた。
「午王丸」
 小舟は棹差す主人を欠いたまま、投げ遣り
に行き足を止めた。葦の間にゆらゆらと波紋
を揺らし、突き刺した棹に絡んだ舫いの綱は
ぴんと伸び切る。
「なんだ」
 どう脱ぎ捨てたのか、菅笠と腰切りの粗末
な小袖だけが艫の板の上に重なっていた。
「異文さまも、いかが」
 不意に浮き藻の漂う水の面に、ぽっかりと
午王丸の顔が浮き出た。
「やや温いようですが、それでも気持ちの良
いものです」
 異文は間近に午王丸の四角い顔を見た。
「やはりな」
「はい、ご案内致します」
 波切丸が吐いた不思議な言葉は、水に潜る
人々の存在を示していた。その子孫に、この
午王丸と名乗る男が繋がるのか。
「我らの祖先は、銀の民」
 太刀魚を神の魚とするのも、銀の民の伝承
だと言う。
「済度も同じ道を行ったのか」
「これは、済度さまの御蔭で見出だした道で
ございます」
「ほう、済度が」
「はい。遠い地で我らの祖神さまに遭われ、
その力を授かった、と」
「良く分からぬ」
 午王丸の口が耳まで裂けた。
「笑うな」
 妖怪に見えるわい、と言いかけて止めた。
己れ自身もまた、この世に巣食う妖怪に過ぎ
ないのではないか、と。異文はふと、そんな
気分になる。
「良い。吾は、何処へでも行く」
「異文さまも、済度さまと同じ勇気をお持ち
の方でございます」
 どこまで息が続くか知らないが、済度が行
けた場所ならば、行けないことはないのだろ
う。異文は肩口から身を捻り、生温い水の中
へ体を落とし込んだ。
「僅かの間ですよ」
 湿地に住むマンダ教徒のように、胸まで水
に浸かる。
「奇妙だな」
 身を包むこの水の感触は、海で味わうもの
とは違う。しかし、どこか記憶にあった。午
王丸は異文に言う。
「この世とあの世の境を流れる水は、みんな
こんなものだそうです」
「それでは、これは弱水か」
「常世の変若水と云う名もあります」
「不老不死の水か」
「この水と共にあれば、確かに不老不死なの
でしょうね。でも、何も起きない世界に取り
残されて、楽しいわけはない」
「なるほど」
 午王丸が手招きする。
「余りまだ自信がないのです。離れないよう
にして下さい」
「厭なことを言う奴だな」
 異文は周囲を見回し、午王丸の注意に頷い
た。当然小舟の上と、水に入って見る景色と
では大きく異なる。だがその時異文が味わっ
たものは、視点の位置による印象の変化だけ
ではなかった。すでに異世界に一歩、足を踏
み入れていたことを悟る。
「空が丸い」
 閉塞した空間を示すように、頭上の曇り空
が丸く狭まっていた。
「潜ります」
 午王丸は異文の後頭部に手を宛て、強く息
を吐き出すように言う。
「さっ」
 掛け声に息を吐き切ると、新鮮な空気が胸
一杯に満ちた。ぐいと押されると一気に水の
中へ突っ込む。一瞬舞い上がる泥に視界が濁
るが、午王丸の強い力に押し出され、急激に
澄明な水の中へ出る。
 水に流れがある。体の周囲を凄まじい勢い
で、冷たい水が走り抜ける。風に震える凧の
ように、異文はぶるぶると震えた。上も下も
右も左も、どこを見ても水だけしかない。空
も見えず、底も見えず、光がどこから来るの
かそれも見えない。ただ青い水だけが、体の
周囲を擦り抜けて行く。
(午王丸は)
 銀の民の末裔の姿はない。
(どこへ行ったのか)
 見回して初めて、自分もいないことに気付
いた。
(では、この体の感覚は)
 夢ならばそんなこともあるだろう。しかし
現実に味わう水の冷たさと、流れの速さと、
我が身の感覚の根源が理解できない。
(仏者の言う中有とは、そんなものよ)
(誰だ)
 誰が思惟するのか、異文の心に言葉がいき
なり割り込んできた。
(そうか)
 問い返すまでもなく、思いを発したその者
が誰か、異文は理解した。
(サイドだな)
(しばらくだ)
(最後は確か、パハンだったか)
(そう、北と南に別れた)
(サイドよ、どこにいる)
(肥前、清水)
(この水の中ではないのか)
 もしこれが移動の手段だとしたら、これほ
ど簡便な方法もないだろう。
(残念だなイブン、私も最初にそれを考えた
が、交易に使えるようなものではない)
(では、人だけであれば、自由に往き来でき
るのか)
(迷子を覚悟すればな)
 こんな水の世界で迷子になったとすれば、
一体どんな場所へ行き着くのか。
(それはリエラに訊ねなければ分からない)
(リエラとは)
(銀の民の祖神をそう呼ぶ)
(午王丸の血族か)
(血脈から言えば確かにそうらしいが、午王
丸は遥かに遠い末裔に過ぎない)
(リエラに会ったのか)
(ああ)
 しばらく、思惟の沈黙があった。沈黙の中
で異文は水の流れの彼方を意識する。この向
こうに、果たしてサイドはいるのか。それと
も、白昼に見た夢として、醒めてみれば同じ
日常の中にいるのか、異文は思惟の中で瞑目
した。その時、水の流れが変化する。
 背後へ落下するのだと思った。意識の背面
を鷲掴みされたように、不意に強く後ろへ引
き据えられる。同時に、水流の感覚が全く停
止した。宙吊りの厭な不安定感が、居心地悪
く浸透する。
(着いた)
 青い光の中に泡が一つ弾けた。ふっと動き
が生まれ、異文は上昇して行く。小さな泡は
頭上でゆっくりと丸く拡がる。次第に昇るに
連れ、その透明な広さを獲得して行く。やが
て青い色が見えた。
「待っていたぞ、兄弟よ」
 光の中に、眩しい済度の笑顔があった。
「まだ吾を兄弟と呼んでくれるのか」
 済度の峻厳な顔に宿る懐かしい笑みを見た
瞬間、異文は母国の言葉を口にしていた。

第五章 青き光 二

 苔の濡れた匂いが強くする。玄々たる渓の
奥には、白く光る一筋の滝が見えた。落下す
る滝の水音は、緑の色を吸い山に木霊する。
深々と覆い被さる樹木に隠され、渓流は苔石
の間を滑るように流れていた。
「ここは・・」
「肥前、高取山」
 膝を洗う冷涼な水の感触は、あの青い水の
流れに感じた冷たさでもある。足元で水は渦
を巻いて還流する。萌黄色した梅花藻が水の
中に夏の白い花を開いていた。幾つもの湧水
池が群れる崖の窪みに、異文は濡れたままに
立っていた。
「サイド・・」
 背後に大杉の神木を背負い、水神社の赤い
祠があった。丹の赤さが際立つ小社の横に敷
物を拡げ、片耳の済度が跪いていた。殊更に
方角を違えるその形は、東方の邪なる神を拝
していたのではなく、唯一の神たるアッラー
に対する。
 西方の聖地を向き礼拝を摂る済度に、異文
は照れた。泉の水の中に突っ立つ異文として
は、堕落を突き付けられたようで、どうにも
きまりが悪い。
「祈りの邪魔をするつもりはないのだが」
 水神社の泉の前には、太い注連縄を張り、
紙垂を水面にまで垂らして清浄域が護られて
いる。湧水は青黒い色を帯びて見えるほど、
冷たく澄んでいた。
「冷えるぞ、体を拭くが良い」
 済度が漸く祈りから起き直る。言われてみ
れば確かに体は冷えきっていた。つい先程の
暑さにうだった身ではない。湧水の強い勢い
に、砂を踏んだ膝の辺りまでも小砂利が舞い
上がる。色とりどりの小さな石の砂は、直射
に煌めいて激しく踊っていた。
 凍えかけた足を抜いて異文が上がると、同
時に、泉の中央に巨大な泡が浮く。済度が顎
で示した水面には、午王丸の顔が浮いた。
 四角い顔に蒼褪めた緑の隈を作り、午王丸
は人界から隔つ奇妙な心の生き物のように、
泉の中にぼんやりと放心をする。
「どうした、午王丸」
 午王丸を呼んだその声には、熱く苦い聞き
覚えがある。異文の表情が固まった。意志に
抵抗する筋肉をねじ伏せるように、視線を声
の方向へと振り向ける。
 間違いはなかった。聞き誤るはずもない。
水神社の背後に太い胴を見せる、巨大な護法
杉の陰から、幾つかの記憶に重なる男の下膨
れの顔が、ひっそりと現われた。
「幻人」
 異文は済度を振り向いた。何故、二人が繋
がるのか。椿屋敷で手玉にとられた、あの幻
人、桜丸。そして、もう一度向かい合わなけ
ればならない魔神の王。何故済度が、同じ場
所で自分を待っていたのか。
 桜丸は異文の様子には殆ど注意を払わない
ように見える。気遣うならば、午王丸。
「午王丸よ。心を、遠い何処かの場所へ置き
忘れて来たかよ。目を、覚ませ」
 午王丸の額を断ち割るように、鋭く言葉を
浴びせてから、桜丸は漸く、ゆっくりと異文
を振り返る。その微笑を含んだ穏やかな表情
が、異文にはどうしても不気味に映った。
 全く邪気を感じさせないその顔で、桜丸は
悠々と幻人の術を用いた。裡に潜む羅刹の企
みが何処にあるのか、異文は待ち伏せの意味
を、済度の視線に探っていた。
 桜丸は午王丸へと再び向く。
「どうだ、美味い酒があるぞ、午王丸よ」
「あ、桜丸・・」
「腑抜けて見えるな。おい」
「違いない、魂を抜かれた気がする」
 ぼんやりと呟く午王丸の足元には、何も不
思議は見えない。浅い湧水の底には、他界へ
の通路など、全くありそうにもなかった。
 水底の色とりどりの小石砂の粒が、水流の
勢いの形に盛り上がる。崖上に繁る樹木の葉
から零れた陽射しが、斜めに水に透ける。何
処にも潜ってきた通路など見えない。湧水の
煌めきは透明に、何の秘密も包まないように
冷涼に揺れていた。
「俺は、桜丸のようには遣えない。何度潜っ
ても、やっぱり恐ろしいよ」
 緑陰の反映を宿し、午王丸の全身は青い緑
味を帯びて見える。もし弱水の冷気が青く染
めたのならば、午王丸は紛れもなく他界に属
しかかっていた。彫像が柱から抜け出るよう
に、午王丸は泉の宿す色からそっと上がる。
脇を桜丸に支えられた様子からは、異文の数
倍の消耗を抱えているようにも見えた。

第五章 青き光 三

 桜丸が午王丸を介抱する。人を喰った羅刹
が、何故そんなことをするのか。
 済度との会話の間にも、桜丸は時折りこち
らへと視線を流す。そんな時に限って、眼が
あった。桜丸の眼の奥には、何か自分を見る
たびに、強烈な食欲にでも堪えかねているよ
うな色がある。異文はその視線に、膚を粟立
てる。
 何もかも、済度に質すべき不審と疑問は山
とある。それでも、それを解くのに最も早い
方法は、済度の話に耳を傾けることだろう。
異文は桜丸を片眼の隅に置いたまま、済度に
向けて顎を上げる。
「荷は受け取ったか」
「ああ、間違いなく」
 南方の香料は異文の手で、黄金と水銀と硫
黄に化ける。済度はその黄金を、泉州で宋銭
に替える。
 元朝は銀本位の紙幣経済を進めていた。そ
れでも、当時の東アジア全域は、中国の銅銭
に頼る通貨経済圏に属したとも言える。その
ことは、元朝との交戦当事国の日本でさえも
変わりはない。そうである以上、現実には銅
銭の輸出が禁じられていても、周辺の経済の
拡大に応じて禁令は破られた。
 日本からの密輸金は、史料に把握されただ
けでも膨大な量に及んだ。年に数千両、その
一部は済度の手で禁輸の銅銭に替わり、ジャ
バへと運ばれた。
「しかし、これが最後だろうな」
「ほう」
「マラッカに国を建てようと思う」
「フビライではないのか」
 済度がわざわざこの国を訪れた理由を、異
文は大都の政争に関連すると見ていたが、予
想は全く誤っていた。
「刺客とはまた別のこと」
 済度は削ぎ落とされた左耳の傷跡に指を触
れた。その痛みの記憶は、元朝の皇帝への憎
しみの記憶でもある。
「こう思ったことはないか。マラッカが我ら
ムスリムのものになれば、ベンガルからパハ
ンへも、ジャンビへも、わざわざスンダ海峡
を廻らずともすむと」
「ジャバが目的か」
「それだけなら、マラッカはいらない。そこ
からセレベス、モルッカ、チモール」
 済度は次々に南海の島々の名を上げる。
「マラッカは、ただの足場に過ぎない。イブ
ンよ」
「ハディースに則り、兄弟は世界を巡る。そ
して考えているものは、おそらく海の王国な
のであろうな」
「そうだ。血臭き野蛮人どもには陸を支配さ
せておけば良い、我らは海を支配する」
 海の王国。この血盟の兄弟は、常に行動の
真っ只中で生きてきた。構想した以上、たと
え何年かかろうとやり遂げるだけの強靭な意
志も持っていた。
「面白いな、サイドよ。だがこの国にも、ど
の地上にも、卑金属を黄金に変える賢者の石
は存在していないぞ」
「イブン」
 済度は複雑な眼色を遣った。
「それはもう良いのだ」
 一瞬異文は惑い、それから済度の顔をまじ
まじと見た。
「なあ、サイドよ。富の裏打ちがなければ為
替は通用せぬぞ。シナの銭はシナの富みの力
が護っているではないか」
「そうだ」
 複雑な眼色の答えはその次にあった。
「だから、吾が新王国の大蔵を支える賢者の
石となる」
 それがどのような意味を持つのか、咄嗟に
は理解しかねた。眼を見開いたまま、異文は
真っすぐに済度を見る。
「何のことだ」
「ワクワクだよ」
「何を・・」
「そう、金銀島だ」
「おお、サイドよ。ワクワクとは、倭国を呼
んだ名に過ぎないと知っているはず」
「そうだ。しかし財宝を産む宝の島は、確か
にあった」
 異文は信じられないように首を振った。
「では、その黄金の島は何処にあるのだ。マ
ダガスカルか、ランカーか、それとも水の底
にでも沈んでいると言うのか」
「ほう・・」
 済度が笑った気がする。
「・・まさか」
 熱を持ちかけた異文の思考が、急速に冷え
る。水の属性を帯び、道術遁甲を用いたとす
ればそれは水遁に相違ない。自らが渡った、
あの弱水の感触、それは水遁を借りた時に感
じるものなのだろうか。異文は済度の視線の
示す先を見た。
「午王丸、か」
「人喰いの悪龍の島々の彼方に、銀の民の祖
神がいた」
 そう話す時、異文には済度の横顔に仄かな
青い光が差したように感じた。
 それは、静けさを湛えた深海の群青と同じ
に、死を連想させる。その色に済度の全身が
染まり、やがて底なる海の深海へと沈んで行
く。そんな不吉な幻影が、異文の胸に陰を落
とした。
「吾は何か、良くない予感がする」
「そうかな、未だ知らざるものへの恐怖では
ないのか」
「良い。知らずに意見するのは愚と言うもの
でもある。しかしサイドよ、もう一人のあの
男は違うぞ」
 午王丸とそして桜丸は、浄域結界の外へ移
り、焚火の前に二人で屈み込んでいた。炉に
組んだ石は黒く煤け、その場所が繰り返し使
われた様子を示している。
「あれは、ジンの化身であろう」
 炎を上げ始めた薪の新しさから、火はまだ
入れられたばかりと思える。震えているのは
午王丸一人、とすればその焚火は、波切丸の
配下である庭者のために用意されていた。
「良く聞けイブン、この弱水の水路を確保す
る能力は、あの男に由来するのだ」
「午王丸ではないのか」
「違う、銀の民の直系でさえ、あれほどの深
みへは到達できない」
「長い話なのだろうな」
「ああ、長い話だ」
 異文は黙って頷く。済度は初めて午王丸と
桜丸に片手を上げて合図を送った。その指を
桜丸へと向ける。
「あの男は、最初に午王丸が連れてきた」
 一瞬異文の眼に強い光が宿る。午王丸はそ
の視線に、紫色の唇の端を僅かに引いて応え
て見せた。
「この場所の知識は、午王丸がくれた。この
場所を選んだのは、あのジンを宿す男。吾は
銀の民の祖神の力を借り、この場所を確保し
た。そしてお前を連れてきたのは、この国で
お前の使う、午王丸」
 異文はあらためて、済度が何度も繰り返し
て言う「この場所」を見回した。玄々として
霊気さえ漂う渓は、老子の言う玄牝之門その
ものでもある。谷神不死の句に相応しい霊妙
の気が、汪溢している。そして何より、その
三方を高い崖に囲まれた水神社の庭へは、川
を遡ってしか到達することが出来ない。
「ここはお前と、そして我々のために用意さ
れた、特別な場所なのだ。兄弟よ」
 済度の言う我々とは、一体誰と誰を含むの
か。異文は複雑な想いで、その熱い言葉を聞
いていた。

第五章 青き光 四

 肥前、高取山の麓。土地の通称では、清水
の竜宮池と云う。
 清水の滝音が幽かに聞こえるその湧水は、
底を潜ると竜宮にまで通じている。そう、土
地の古老は伝承した。
 異文は今、何だか不合理だが、それでいて
妙に納得する結論に至った気がする。結局、
この竜宮池に集う者は、この世に住めぬ出来
損ないと決まった。そう思うと、生まれ落ち
たと同時に、こうなるものと定まっていたよ
うにさえ感じる。
 そんな実感は、済度にしても同じことだろ
う。自らの国を立てる野望を抱くこと自体、
所詮は安住する地上がこの世にないことの証
でもあった。
 済度は梅花藻の緑が揺れる水際に立ち、異
文に奇妙な器械を示した。
「これを、気象儀と呼ぶ」
 言葉の始まりは、通過する祭儀の開始を告
げていた。
 気の象、それも水気の運行を象として封じ
た小さな玉を、済度は恭しくその掌に載せ、
ゆっくりと木漏れ陽の光に曝した。翡翠か碧
玉か、掌の上で青緑の靄が揺れるように陽光
が反射する。球形の玉の外側に巻き付いて覆
う、忍冬模様に似た透かし彫りは、黒く腐食
した銀のようでもあり、邪悪な海魔の髪のよ
うでもあった。済度はそれを、遥かな悪龍の
島の彼方で手に入れたと言う。
「これもまた、賢者の石よ」
 水神社に正対する湧水の下流へ、済度は気
象儀を捧げたまま踏み込んで行く。その足元
には鳥影さえ嫌う岩魚が、数匹も清水を慕う
ように泳ぎ寄る。
 囁くように午王丸は言う。
「銀の民の祖神は、あの気象儀を抱いて大洋
の底を潜りました」
 大洋とは、地上の海ではない。十方世界の
底部を貫流する水気の象を指す。
「それが何故、済度に」
「あれは、子孫の誰にも遣えなかった。気象
儀を遣える者が、即座に祖神さまの後継とは
思いませんが、それでも我らにとって、希望
には間違いありません」
 午王丸にとっての希望とは何か、異文は知
らない。それでも屈託を消した明るい声は、
真っすぐに胸に届いていた。
 弱水を保持する消耗から開放され、午王丸
の肩には再び精気が漲り始めている。もう一
度の集中に備え、修験の九字を幾度か続けて
切るその背中に、うっすらと汗が浮き出して
いた。
 そして桜丸は、自らの怯えに震えている。
青く据わった視線が、異文に同意を訴えかけ
ていた。
「阿武の親方。あんたは懐かしい人だ。俺の
苦痛も、希望も、あんたは知っている」
「羅刹に喰い尽くされなかった人、見たのは
初めて」
「あんたと俺は、今や同じ一つの生き物だ。
水府に依らなければ、共に生きて行く意味が
見出だせない。そうだろう」
「そうね。だから吾も、捜していた」
「分かりあえて、嬉しいよ」
 或る種の狂気を帯びなければ、死の恐怖か
ら逃れることは難しい。確かに人は「我恐れ
ず」と死地にも飛び込む。意志すれば、己の
存在を否定する危機に立ち向かうことも出来
た。それでも、人が本来持つ死を恐れる習性
を消すことは叶わない。だからこそ、誰にで
も訪れる死に対する慰撫がある。それが宗教
であり、葬送儀礼の価値でもあった。
 神の光の裡に個が消滅する。それは、神と
一つに生きることであり、直接には死を意味
していない。
 しかし、異文は恐れた。
 桜丸に宿る羅刹、水府。その羅刹が用いる
絶対界への飛翔が、彼の岸に着地する時。そ
の時には、或いは自分の存在も、桜丸の存在
も、共にこの世から隔絶した地点へ吹き飛ば
され、消え去っているのかも知れない。
「同じこと。還るため」
 飛翔ではなく、それが大いなる深部への沈
降だとして、やはり恐怖はあった。
「阿武の親方」
「ああ」
「俺は水府の欲望を抱え込んでしまった」
「だから吾を求めた」
「この欲望を抱えたまま、俺は生きて行ける
だろうか」
「試してみなければ、答えは出ない」
 午王丸が大きく息を吸った。気合いを発す
ると両手で裸の胸を交互に叩き、再び水の中
へ躍り込む。位置は済度の真向い。
 ここからは四人の場所は、言語の無意味な
世界へ移る。異文の旋回舞踊が始まった。

第五章 青き光 五

 世界は十方に存在する。しかしこの住む世
界に隣接する他界の認知は、容易には成立し
ない。人の知覚が一元である以上、個の認識
同士の擦り合わせは、ただ共通する世界の幻
影を構築するに過ぎないはず。だが、それで
も人は、その幻影が現実世界であると堅く信
じていた。そして神秘主義者の陥る罠も、そ
の個が認知する認識の地点にあった。
 異文は回る。両手を水平に開き、左右の掌
を天と地へそれぞれに向け。
 敬虔な済度の信仰では、呪術の儀式に偉大
なる神の御名を称えるズィクルは避けざるを
得ない。通常は葦笛の奏でる旋律を、済度は
言葉なき祈りとして朗々と歌う。
 ハイユル、カイアム、アッラーと聞こえる
はずの旋律は、しかし今の異文には如何なる
意味も持たなかった。ただ自らの息遣いを無
声の律動に易え、身を旋回させる。
 覚者の悟りと云う。しかし悟りもまた、個
の超越的認識に他ならない。もし修業する神
秘主義者が、神秘体験に得た個の認識を真理
そのものと取れば、それは魔境であり暗殺者
の狂気でもある。
 では、絶対認識は存在するか。異文はそれ
こそが神との合一と捉える。
(聞こえるか、桜丸よ)
(聞こえるよ、阿武の親方)
(水府は何処か)
(水府も、ここにいるよ)
(では、吾を見よ)
 物を見て眼底に宿る影像は、対象物そのも
のではない。視覚として得た情報は、その時
点で即座に身体の一部と化している。
 同様に五感六根の得た知覚認識は、全て身
体の延長に過ぎない。その身体意識が、人の
肉体の自覚を形成する。
 例えば人が、肢体の一部を切断して失う。
それでもやはり、存在しないはずの肢体に対
して、人は幻影の痛みを感じることがある。
それが人の獲得した身体意識の副作用だとし
ても、知覚の事実は変わらない。
(水府よ、そなたの欲望が導いた世界へ、吾
と桜丸を伴え)
 異文の記憶の中の旋律音階が、旋回舞踊の
螺旋の律動を、この認識する世界の律動とし
て繰り返す。
 右の掌は柔らかく上へ向き、天上の神の光
を受けるように。左の掌は下を向いて、大地
の闇を掌に摂取するように。
 僅かに首を傾げ、異文は旋回する。天と地
の巡りを内包するその緩やかな旋回は、やが
て徐々に、異文の身体意識を果てしない彼方
へと延長し始める。
 もしも、人を刺そうとして刃を突き出すな
ら、その動きそのものは、何処までも届く。
世界に果てがあるなら、その動きは軽々と果
てを超え、相手を貫くまで刃は届いた。
 それが愛する人を抱こうとする腕ならば、
拡げた腕が世界の限界を超え、その人を抱く
ために拡がり続ける。身体意識とは、動きの
至る距離に関わるのではなく、意志する動き
そのものの裡に潜んでいた。
 歩行ならば、その日常的意味は、移動の手
段として現われた。が、目的の場所をなくし
た歩行は、そのまま舞踏となる。
 日常の意味を持つ発声をしなければ歌とな
り、日常の身体を離れて、初めて隣接する他
界へと身体意識は伸展する。
 異文は旋回する。旋回し、旋回し続ける異
文の、視えざる中心には神の虚無があった。
その虚無こそ、異文が渡る身体意識の目的の
場所。
 そして意識の集中は、いずれ旋回そのもの
を自己と認識する。自己を旋回と認識したそ
の時に、神の虚無が遍満する。それが、人の
成り立ちでもあった。
 ただ、そこは魔の領域にも接していた。
 旋回を為す、その一点に純化された意志と
欲望は、強烈な力を秘める。それは精霊の抱
く欲望と同一の指向と威力を持っていた。も
しそのまま現実に立ち戻るならば、魔界を胸
に宿して現世に生きることとなる。
 験を示す神通とは、軸足を魔界に置いた者
が為す技でもあった。制御を失えば、羅刹が
人を喰うように、易々と魔界に侵食されて魂
を喰い尽くされた。
(まだだ、水府よ。桜丸よ)
 忘我はまだ入り口に過ぎない。忘我を通過
して、認識が全て無意味になる地点。そこが
神の彼岸への断絶の岸。
(水府よ、視えるか)
 視えざる神の顕れを、権と云う。しかし権
として現われた神はすでに有であり、神の虚
無とは隔絶している。では、隔絶を超える翼
は何処にあるか。
 その時、肥前清水に後世まで伝わる、伝説
の不幸が襲った。未熟な幼子が知らずに災い
を招くように、他界の存在が、異文の祈りを
嗅ぎ付け察知した。
 隔絶を超える翼は、確かにあった。或いは
竜宮へ通じる井戸が、道を開いたとしても良
かった。異文の旋回舞踊が廻る、その虚無の
中心に、潮臭い黒い息が流れた。
「何だ・・」
 最初に気付いたのは、気象儀を捧げ持つ済
度。掌の玉が急激に重さを増した。
 銀が硫黄に侵され腐食したような黒い金属
の下で、気象儀の緑色の模様が透明に渦巻い
ている。果てしない深さを持つように見える
曖昧なその渦は、緑色の玉が高速の自旋回を
して発する靄に似ていた。
 その靄が、ふと、凶悪の匂いを吐いたよう
に済度が感じた。
 突然、午王丸が壮絶な叫びを上げた。同時
に、気象儀全体が、どす黒く変色する。
「午王丸!」
 竜宮池の中央に立つ午王丸に、異常な黒い
藻が絡み付いていた。足元から這い上る藻に
下半身は完全に覆われ、それが見る間に上半
身へと拡がって行く。
「津、怒・・」
 言いかけた午王丸の言葉は、そこで途切れ
た。両眼を飛び出すほどに大きく見開き、午
王丸は完全に窒息しかけている。
「午王丸よ!」
 吼えながら、済度は走った。水を蹴飛ばし
て走る済度は、一瞬異文と桜丸の方を見た。
そして理解する。
「イブン!」
 異様な現象は、異文と桜丸にも現われてい
た。済度はそれが、異文の祈りに起因すると
直感した。
「止めろ!イブン!」
 旋回する異文から滲み出すように、黒い闇
が異文の体に重なり、同じように旋回をして
いる。二つの相容れない空間が同じ場所を占
め、そこから桜丸の場所へ向け、靄を纏う黒
い触手が伸びる。
 一瞬の間に二度三度と、異文から発した黒
い閃光が桜丸を覆い、さらに竜宮池の面を舐
めて過ぎた。桜丸からは背中を断ち割るよう
に、緑色の光を持つ翼と角が現われる。両者
が接触した瞬間、空気が重く震動した。
 竜宮池の周囲全体が、聳え立つ崖に囲まれ
たように、頭上の空を丸く閉塞して行く。そ
の空もやがて光を消し、深海の闇を溶かす黒
に変じていた。体がナフサの沼に捉えられた
ように重かった。
 済度が水を渡り、午王丸のいた場所に辿り
着いた時には、黒い触手か閃光に呑まれ、午
王丸の姿は掻き消えていた。
「午王丸!」
 世界に何も音がないように、済度の声が静
けさに沁みた。済度は立ち尽くす。何処か遠
い場所から届く震動が、水の面を小刻みに揺
らした。その時、済度は気付いた。
(水流が、停止している・・)
 思考も言葉も、それが最後だった。
 足元が突然、透明になったように視野が透
ける。素足の遥か彼方に何かが見えた。大地
の底から上昇する黒い柱が、巨大な蚯蚓のよ
うに迫ってくる。
 舞踊とは、自らの身体意識に潜行する行為
でもある。失楽の天使が世界の底へと墜ちる
ように、遥かな自己の深みへと降りて行く。
深く、深く、重力も届かない深みの彼方へ到
達する時、意識の大洋の底から見上げれば、
燦然と輝く無数の人々の意識がそのままに見
えた。そして、自らが一人ではないことに気
付く。
 誰もが、そうであったと気付く。己の生命
の躍動が舞踊者を突き動かし、ありとあらゆ
る生命が、掌中に燐光を宿して集合する。
 合掌すれば、そのまま生命は摂取された。
開けば、そのまま世界は拡大された。奈落か
ら究竟頂まで、融合された意識は行き渡り、
そして、一瞬の刹那に等身の自己へと回帰す
る。その時、観客は全てを受け容れられたと
知る。舞踊手と観衆の間に生まれる感動の瞬
間は、そうして訪れた。
 肥前、高取山の懐に抱かれた、清水の竜宮
池の名の湧水が、この日地上から消えた。伝
承では、竜宮池の底を破り、千年杉の幹ほど
もある黒い蚯蚓が現われたと云う。
 瘴気の毒を振り撒いて、盲目の黒蚯蚓は暴
れ狂った。そのために渓は崩れ、草木は枯れ
た。以後二十年、辺りは毒水の沼と化す。
 盲目の黒蚯蚓の正体を知る者は、銀の民の
他にはなかった。嘗て彼らの祖が逃れてきた
異界の海の底に、大海魔が坐していた。その
大海魔の、僅か髪の一筋。それが、百丈も越
える高さまで聳え、渓を崩した腐肉の柱の真
実なのだと云う。
 建治二年、夏は、そうして終わった。

第六章 緒方 一

 風気の入った鼻をぐずぐず鳴らしながら、
一遍は豊後大野川添いに上流へ向け、歩いて
いた。頭はぼうっと熱を持ち、歩く膝に何と
も力が入らない。汚い乞食坊主と見たのか、
道行く人も声をかけようとはしなかった。
「もはや、緒方辺りであろうか」
 一遍は顔を上げ、周りを見回した。が、そ
れが悪かった。急に世界が動き始める。自分
が神巫の体質を持つとは思えないが、体が極
限に近付くと、いつも或る感覚が生まれた。 
 目に映る全ての形象が、輪郭と境界を曖昧
にし、固有の形を解く。藍甕の底から湧き上
がる色素が、風に触れて発色するように、万
象の背後に潜んでいたものが滲み出す。そん
な感覚が身の裡を浸して押し寄せる。
 一遍の体が、限界を越えた。視野が全て色
を失うと同時に、大地を抱くように川岸の大
石の上へと倒れ伏す。遠くでその様子を見て
いたのか、人が呼ぶ。
「おうい、往き倒れだ」
 声を聞き付けて、川舟の中から岸の様子を
窺っていた老人が、供の小童に指図する。
「和郎、お助け申せ」
「はい」
 小童は老人の言葉よりも先に、身支度を始
めていたものと思える。声がかかったのと同
時に、もう水に身を躍らせていた。
「おうおう、行くわ」
 一度潜った後に浮き上がると、見事に水に
乗り、川波に抜き手を切る。まだ元服前の垂
髪の少年だが、煽り足の使い方は、相応の水
練を積んだものと見える。
 水に逆らわず、水を切る。それは我流の泳
法ではない。恐らくは鎧兜を着けても沈まな
いだけの技量は持っている。
 少年は瞬く間に一遍の倒れ伏す大石へと辿
り着く。山間から不意に現われた流れが、本
流の大野川に合する地点、そこに波切不動を
刻んだ石がある。洪水を鎮める不動の石に伏
して、一遍は熱に震えていた。
「御房」
 呼びながら、小童は一遍の額に手を宛て、
様子を確かめる。酷く汚れた一遍の身なりを
気にするでもなく、濡れた手を石で拭うと、
次には手首を取った。
 脈診をそんな子供が行なう。それだけでも
意外だが、小舟が岸に寄るまでの間に、小童
は小童なりの判断を終えてもいた。
「どうだ、和郎」
「はい、悪い風気を召しておられます」
 老人が降り良いように、小舟の舳先を岸に
固定する。同時に自らの肩を手がかりに、膝
を足置きに差し出す。手際良い動作の万事が
行き届いていた。
「ただ、水で体を冷やしましたので、この御
房の熱のほどは、私には計れません」
「うむ」
 老人は擽ったそうに頷く。頭を丸めて道者
風に作り、いかにも由緒有りげな武家の隠居
めいて見える。
「佐久に担いで貰って、舟へお移し申せ」
 櫓を操る下人が河原へ飛び降りる。小童は
空舟をさらに岸へ引き寄せ、踏み台にする足
場に石を置いた。
「和郎さま、もそっと」
 背後で佐久の名の下人が笑っていた。背に
負った汚い坊主を軽々と揺すり上げ、足の悪
い主人のためにもう一段、石を積むように助
言する。
 小童の頬が赤くなった。それでも素早く小
舟へ飛び乗ると、釣り竿を手早く退かし、病
人を横たえる場所を確保する。
「どうだな、佐久。ここならば、小野の庵の
方が近かろう」
「はい」
 夏摘みの薬草を干し終えて、秋の実り物へ
の準備が進められている。小野の庵なら、病
人を養う薬餌も豊富にあった。
「この辺りに曳き子はないか」
「なあに一里ばかり、曳き子の世話にならず
とも、櫓で押して行きます」
「一里とは、少々骨だな」
「和郎も居りますし、ちょうどの腹ごなしで
す」
「済まぬな」
「そのような。とんでも御座いません」
 下人相手にも決して横柄な対応はしていな
い。和郎と呼ばれた小童も、佐久の名の櫓を
繰る下人も、老人の傍に身を置き、謦咳に触
れることを喜びとしている。そんな様子が僅
かな遣り取りの中にも、はっきりと現われて
いた。おそらくは老人の存在自体が、周囲を
和ませる風韻を持つのだろう。
 緒方の荘から大野の荘、志賀村の郷まで。
田には稲の匂いが甘く満ちていた。
 二百十日も無事に過ぎ、秋蕎麦も蒔いた。
用水の池に菱の実が育ち、収穫の秋はもうそ
こまで来ている。春三月に異国警固番役が設
置され、蒙古防ぎの石築地の造営が急がれて
いる今も、戦の背後では人の営みが行なわれ
ていた。
 それでも山間の出湯には、文永の蒙古合戦
の戦傷を養う者がまだ多く訪れた。武家では
家伝の金創膏も殆ど底を突き、修験が届ける
秘薬も、このごろでは値が騰るばかり。刃物
の傷に湯聖の施療が良いと聞けば、縋る思い
で湯の房の戸を叩いた。
 一度は塞がったと思った傷口も、養生が悪
ければ何度でも口を開いた。塞がればそれが
何でもない傷も、化膿すれば生命に関わる。
清潔を保つためにも出湯は良かった。
 一遍を拾った老人、深田の彼岸丸は、薄汚
い坊主の正体を湯聖であろうと予測した。
「おん衣のこの穴を見よ。これは湯の花に焼
かれた痕ぞ」
 出湯の噴気が結晶したものが、時に布を焼
いてそんな穴を作る。墨染めの色も毛羽立ち
褪せた衣には、ぽつぽつと虫食いに似た小さ
な穴が無数にある。
「湯施行をする聖であれば、温良房が見知っ
ているやも知れぬ、呼んでくれ」
 一遍は眠ったきり目覚める気配がない。風
邪への手当ては行なったが、それ以上に消耗
が激しかった。山中で何やら捨身の行法でも
修した後のように、他の全ての営みを放棄し
て、ただひっそりと眠っていた。
「この版木は何でしょうか」
 和郎は一遍の所持する品物を揃えながら、
呆れたように言う。
「こちらの御房は、一体どのような修行者な
のでしょうね」
「托鉢の鉢も、勧進柄杓さえも持っていない
とは」
 佐久が薬湯を入れた大振りの木椀を差し出
す。受け取る彼岸丸の手元を気遣いながら、
一遍の後頭部へ掌を差し入れ、そっと起こそ
うとした。
「いや、まだ眠らせておこう」
 彼岸丸は佐久を押し止め、そのまま薬湯に
自分の口を寄せる。
「儂も今日は、老いの身に過ぎた働きをした
わい」
 目尻に皺を集め、椀の湯気の向こうから和
郎に言う。
「その版木、何と彫り付けてある」
「はい」
 和郎は傍らの白湯に指を浸し、版木を濡ら
す。上に薄紙を置き、軽く擦ると裏返した。
濡れた部分がやや透けて、乾けばまた元に戻
る。下に黒漆の盆を宛てがい、和郎は彼岸丸
の老いた目の距離が最も効く位置へ持つ。
「ほう・・」
 南無阿弥陀仏の名号。
「念仏行者」
「高野聖なのですか」
「にしては、この六十万人決定往生の文字が
解せない」
「数取りなのでは」
「まあそうではあろうが、なぜ六十万人とし
てあるのか」
「この御房の心願でしょうか」
 和郎の大人びた対応に、背後で佐久が笑い
を噛み殺している。
「どれ」
 彼岸丸は漆盆の上に張りついた薄紙に手を
伸ばす。和郎は一礼すると、振り向きざまに
佐久を睨んだ。佐久は片手を顔の前に上げ、
済まぬと詫びては見せた。しかしその間も、
眼の隅の笑いを消すことはなかった。
 彼岸丸は念仏札の写しを拝すると、丁重に
懐へと納める。いずれ消えてしまう水文字。
だがそこに何を感じたものか、彼岸丸は暫く
の間、瞑目をしていた。

第六章 緒方 二

 物みな騰る世の中になっていた。武家は借
金に苦しみ、幕府は武家の恩賞を願う声への
対応に苦しむ。庶民は当然、嵩む戦費の調達
に応じなければならない。
 近来値の高騰したものには、特に木材が上
げられる。ことに鎮西では蒙古合戦以来、軍
船や所作事に用いるための良木が山から消え
ていた。
 迎撃する側の日本でもそんな事情だが、征
戦に大船団を仕立てなければならなかった高
麗側では、事態はもっと悪い。山々はめぼし
い樹木を引き抜かれ、一雨降れば水が出るほ
ど状況が深刻化している。それが今度は、二
度目の遠征に追いまくられていると云う。
 木材飢饉は経済の拡大に比例して進んで行
く。西アジアでは以前から慢性化していた状
況が、元の東方政策と共に、モンスーンの東
アジアへも移っている。
 フビライの欲しい水軍は、南宋の降軍を加
え、高麗の船団を編入してもまだ足りない。
船を操る人もそうだが、木材の飢饉もまず良
材から始まっていた。
「飫肥杉を、何とか購入したい」
 深田の彼岸丸に、そう持ちかけていた者が
いる。
「それは、無理であろうな」
「径山寺の一千枚の材、吾は、確かに見まし
た。飫肥杉は、素晴らしい」
 小野の庵の庭地の一角には、浴室を備えた
彼岸丸の施療部屋がある。病者を養う施療院
の経営は、主に下村田中で行なっていたが、
隠居所の小野でも、時には庵室を施療に充て
病者に布施した。
 施浴と施療は、共に彼岸丸の滅罪の行とし
て近隣に名を知られていた。では、どれほど
の罪業を重ねれば、そんな慈悲が溢れるもの
なのか。一遍が未だ小野を去らない理由も、
そこにあった。
 一遍自身は荒行には慣れていた。しかし、
食もなく苛酷な遊行を続けた身には、僅かな
風邪さえが大病のように堪えた。
 捨身とは、恣意に我が身を扱うことではな
かった。問題はその先にある。彼岸丸に身の
養いを預けた一遍は、大慈大悲の真実の意味
と向かい合っていた。
 志賀の近くにも石仏があった。大野川の辺
りに多い磨崖の仏たちを拝するたび、一遍は
その背後の名号を念う。ただの岩さえ名号の
機縁となる。人が何故、名号の機縁たり得な
いのか。そう思惟しながら、小野の周辺を賦
算して巡る。その一遍の耳に声が届いた。
「油津まで出れば、廻漕は大丈夫」
 胸に膿を持ったように、彼岸丸に語りかけ
る声は濁りを帯びていた。一つ咳払いをすれ
ば、声そのものが崩れてしまいそうに定かで
はない危うさがある。
 南面する川からの照り返しを網代で遮り、
施療の庵室の内は窺い知れない。庭先へ漏れ
聞こえる話し声を憚り、一遍は川辺へ降りよ
うとした。もう一度、昼に見た巨大な磨崖の
不動尊像の容貌を思い返してみたい。
「彼岸丸どの」
 膿が流れるように濁声が重なる。
「吾は、何としても送りたい」
 一遍の草鞋の先は、もう河原へ降りる石段
にかかっていた。しかし、ふと、網代の向こ
うの病者の声に足を止める。その途切れ途切
れにものを言う言葉使いの特徴には、確かに
聞き覚えがあった。
 一遍は物思いに伏せた顔を上げた。
「もしや、異文・・」
 深田の彼岸丸は、施療に生薬を扱う。異文
は異国の香料薬物を交易する。高貴薬の流通
販路が限られている分、二人が互いに知り合
いだとしても不思議はない。ただ、その前提
も、それが博多や大宰府であればの話。こん
な田舎で巡り合える知己は、やはり希有に等
しい。
 一遍の草鞋の下で、小石が弾けた。指先に
加わった力は、躊躇の方向へ小石を飛ばす。
彼岸丸が先に、網代の向こうの一遍の気配に
気付いた。
「そこにいるのは、佐久か、和郎か」
「あ、いいえ」
「ほう、一遍どのか」
「はい」
「では、柏野の賦算から、お戻りになられた
のだな」
「はい。大方の方へ廻りまして、今、佐久が
下まで送ってくれました」
「一遍、と・・」
 やはり濁りの声が言う。庵室の内で彼岸丸
が立ち上がり、悪い足を引き摺り歩く物音が
する。もう一人の客も、身じろぎをするらし
く、急に衣の音が乱れ立った。
 彼岸丸が網代の際へ寄る。しかし振り返っ
てものを言うようで、声の向きは庵室の奥へ
向いていた。
「一遍どのを、ご存じか」
「吾の知る、同じ一遍房なら」
 その声に、一遍も網代の前へと寄った。
「彼岸丸どの。そちらに居られる方を、どな
たと問うても宜しいか」
 濁りの声の持ち主が応えて言う。
「吾の名は、異文」
「やはり、そうであったのか」
「おう、一遍房」
「それは、懐かしい」
 網代の上の蔀が、内側から突き上げられて
僅かに持ち上がる。隙間から彼岸丸の鼻が覗
いた。
「一遍どの、こちらへ入られたが良い。但し
内庭の側へ回られてからな」
 それだけ言うと、蔀は下がった。
 彼岸丸が極端に陽を締め出そうとするのに
は、何らかの理由があるのだろう。一遍は南
庭の簀戸を一旦出て、袖垣の背後を回る。濡
れ縁を伝い、庵室の西北に切られた一間戸の
前に膝を突き、杉戸を叩いた。
 秋の午後の陽は深々と差し込むが、彼岸丸
と異文のいる畳敷の一室だけが、奇妙に空気
を沈めたように、一段暗い。
「異文・・」
 異様な姿に一遍は息を止めた。
「どうした、それは」
 体が縮んだように見える。
「魔物の瘴気に、あたったね」
 癩病みや非人がするように、白い布を巻き
付けて、ゆったりと面貌を包んでいる。それ
でも、腐敗のように嫌な臭いが立った。隙間
から見える顔の皮膚は、どす黒く濁った色に
変色している。
 烏帽子を掛けると苦痛なのか、爛れた頭部
は切り放った髪のそのままにしてある。その
髪も半分は抜け落ち、左のこめかみから頬に
かけては、骨を溶かしたように膿み崩れても
いる。ただその眼だけが、変わらない異文で
あることを、一遍に教えていた。
「会いたかったよ、一遍房」
「どうした。泣くのか、異文」
「嬉しければ、泣く」
 清潔を考慮してか、それとも差し込む風を
嫌ってか、異文は暮露暮露のように紙子の衣
を身に着けていた。墨染めの袴を穿けば、そ
のまま暮露としても通じる。その紙子の袖か
ら一遍に差し出した手には、指が何本か欠け
ている。
「どうだ、一遍房。吾は、悪業の報いを受け
たようであろう。な」
「何をした」
「ああ。人の智慧は、人の身の丈と同じ」
 異文の眼から、ぽろぽろと涙が零れた。
 彼岸丸の薬で、多く人気のあったものは、
神農丸の名の腹薬と、化膿止めの蜜没膏。
異文の全身は、その蜜没膏を塗り込めて辛
うじて保っていた。

第六章 緒方 三

 川の中州に烏が群れる。流れ着いた獣の死
骸に一羽が近付き、二三度突いて無害を確認
すると、仲間への食餌の合図に高く鳴いた。
すると途端に、その辺りに羽音が騒がしくな
る。黒い扇が舞うように、数羽の烏の翼が縺
れて乱れる。遠くで浅まし気にそれを眺めて
いた旅人が、何に腹立ったものか群れる烏に
飛礫を投げた。
 秋は旅人の季節でもある。夏の農事を終え
て、刈り入れも過ぎ、新嘗の祭りへ向けて節
季が巡る。商人の担ぐ荷が、どこの土地でも
待たれていた。
「悪戯はよしな」
 千朶櫃の下に荷杖を宛がい、僅かな休息を
取る。そんな間にも、若気の血気は何かをせ
ずにはいられなかった。
 犬飼の河原で三方へと別れ、十五人の隊が
五人づつとなった。護り役に傭う山人を一人
加え、総勢六人の緒方行きの組頭としては、
顧客の評判も気にしながら、注意深く地元を
歩かなければならない。
「それに乙子よ、そこらの娘っ子を、あんま
りじろじろと眺めるんじゃないぞ」
「何をしたわけでもないぜ」
「烏もな」
「ふん」
 そう横を向きかけた時に、中州の死骸が動
いた。そんなはずはないが、そう見えた。
「何だ」
 川の中から手が出ていた。川獺のような細
く黒い手が、半ば白骨化した水辺の死骸を掴
んで引き寄せている。
「あいつ、喰うつもりかな」
 組頭の無関心に、どうしても爪を引っ掛け
たいようで、若者は顔を顰めて顎で示す。苦
笑いをする組頭の男は、一声発すると荷杖に
預けた体重を前へ移した。
「大渡まで、休みは無しだぞ。泣きを入れて
も知らんからな」
 そう言って歩きかけた男を、別な連れの一
人が呼び止める。
「兼杖どのよ、あれは何か変だぞ」
「鶴一までが、どうした」
「いいから、ちょっと見てくれ」
 離れた所で山の葉色を見上げていた弓取り
の山人も、鶴一の声の只ならない調子に、護
り役としての出番を察知する。
「どうした、山立ちか」
 こんな里近い所に、盗賊などが現われるは
ずもない。何故なら、自分自身が山立ちの暮
らしに稼ぐ、一味の一人でもあった。
 上分を納めてあれば、保護はあっても襲う
ものはなかった。あれば、違背になる。まあ
それでも一応は、傭い主の手前、そう言って
もみる。
「どうだ、違うのか」
 呼びかけに応答が定まらない。山人は不意
に、仲間とは別の危害に思い及び、初めて緊
張を帯びた。
「何だ、おい」
「いや。その、どうも」
 鶴一の言葉は曖昧にならざるを得ない。見
えているものに対し、本人自身がその正体を
見極めかねていた。
「おう、兼杖どの、あれを」
 ゆったりと戻ってきた組頭の兼杖が、鶴一
の手に持った長柄の傘を取り上げ、隣の若者
に押しつける。
「乙子はこれでも抱えていろ」
 注意を自分に向けさせることで、乙子の即
発を防ぐ。視線がめり込むほど睨みつけられ
たが、別に痛くもない。その間に兼杖は鶴一
の示す異常を視認した。
「あの崩れようは傍居かなあ、兼杖どの」
 腐敗した人体のように、今にも肉が腐って
落ちそうに見える。兼杖は地獄草紙に描かれ
た餓鬼を連想した。腐った獣肉を貪る化け物
は、形こそ人に近かったが、その凄まじい様
子はとうてい人とは思えない。
「行こう、関わりにならん方が良い」
 中州の端の水際に坐り込んだ化け物は、一
瞬川岸の一行の方を見上げたが、すぐに関心
を失い再び腐肉の食餌へと戻っていた。
「あれは何だったんだ小頭」
「知らん」
「教えてくれても良いじゃないか」
「知らんものは知らん」
「知らないなら、何であいつが何か、確かめ
ないんだよ」
「この世で一番強い者はな、一番逃げ足の速
い奴なんだよ、分かるか乙子」
「その乙子も止めてくれよ、俺には仁多丸っ
て名があるんだから」
「仁多丸と呼んでやるから、もう振り向かず
に歩くんだ、良いな」
「ふん」
 あれは何か。それこそ兼杖が今、最も知り
たいことでもあった。この川筋で、あんな化
け物は見たこともなければ、噂すら聞いたこ
とがない。清浄な川水を汚されて怒る水妖な
らば、多くの里で親しまれてもいた。しかし
汚穢に塗れた化け物は明らかに違う。
(あれは、何か・・)
 兼杖の足は大渡へ向けて、さらに速まって
いた。

第六章 緒方 四

 陽射しが翳れば、雲の形が見えた。ぼんや
りと想うと、川岸を歩く旅の商人を、遠い昔
に見た気もする。桜丸は陽の光を見上げなが
ら、仰向けに水に浮いていた。
 今がいつか、ここがどこなのか、とっくに
忘れていた。風に木の葉が吹き寄せられるよ
うに、ただ水に流れてきた。
 腹が空けば、手に当たるものを口にした。
何処から来て、何処へ流れて行くのか、そん
な事もどうでも良かった。水流に任せて下る
のなら、いつかは海へ至るのだろう。けれど
も、いつまでたっても大海へ流れ着く気配は
なかった。
 寂しさは全くない。水に浮いても、沈んで
も、生まれてから死ぬまで、ずっとそうして
きたように、当たり前に、ただ流れた。
 百年か、千年か、それともただの一瞬か。
思考は何処までも取り留めなく、漂う感触が
全てに優先する快感になってもいた。
 また、陽射しが翳った。口の中に甘い草の
根の味が拡がる。そうやって、何度も陽が翳
る。
 陽射しが翳って暗くなる。すると、体の中
を何かが通過する。それもまた、水に身を委
ねる快感の源となる。鯉の躍動が通過し、鼠
の生命が通過し、水草と川海苔の匂いが通過
した。
 眩しい水の中に泡が見えて、それで、滝だ
と分かった。空中へ伸びた滝の水が、ぐるぐ
るといつまでも巡っている。それから鮎が、
白く精を放って流れて行く。その死んだ鮎と
一緒に、また下流へと流れ始める。
 いつからか、水の流れの音が定かには聞こ
えなくなっていた。それが次第に進む。その
うちに、水の中に満ちた音も、風に聞こえる
音も、何もかも音と云う音が届かなくなって
いた。それでも、流れて行く。音のない水が
周りを過ぎ、音のない風が陽射しと水の上を
過ぎて行く。
 そうして桜丸は流れて行った。
 或る時。それが、満ちるようにして満ちた
或る時なのか、それとも意味もなく訪れたの
か、それは分からない。突然桜丸は、水から
身を起こした。
「向こうだ」
 辺りを見回すこともなかった。身を起こす
とすぐに、歩き始める。そうして初めて、歩
く足がある事を桜丸は思い出した。
 水から出て、川の畔を歩く。何処へ。
「向こうだ」
 歩くうちに、何かが、ずるずると脱げ落ち
て行く。脱げ落ちて足に絡み付き、酷く歩き
にくいようにも感じた。けれど、それも僅か
の間のこと。
 足に絡み付く、何か濡れた感触のものにも
構わずに、歩いた。そうやって歩くうちに、
やがて脱げ落ちるものはなくなった。
「向こうだ」
 身が軽く、その身の軽さが心地好い。歩く
ことには川を流れることとは違う、別の快感
が伴っていた。何故歩くのか、苦しければ考
えもしたのだろうが、生温い快感に浸り続け
る桜丸は、何も思わず、ただ歩いていた。
 笹薮を抜け、葦原を抜け、幾つもの道を横
切る。市庭を過ぎ、畠地を過ぎ、刈り田の面
を渡った。家には人がいて、里山にも人がい
て、墓地にも葬列があった。
 人が此方へ向けてくる視線は、何も気にな
らなかった。誰かが見たとしても、視線は自
分を通り過ぎ、結局何処かへ行ってしまう。
歩いて向かう場所は、そんな視線の先にはな
かった。
 では、何処へ歩いて行くのか。桜丸は、や
はり言う。
「向こうだ」
 やがて、一軒の草庵が見えた。川靄と夜明
け前の青い光に包まれて鎮まる庵。桜丸は、
そこが目指した場所の一つであることに、唐
突に気付く。何故かは知らない。けれども漸
く、そこに着いたのだと分かる。
「着いたのか」
 疑問か断定か。言うまでもないことを、自
分自身に向けて言う。その時に、草庵の内か
ら人影が出てきた。
(来たか)
 その人の言葉が音であるのか、それとも心
に直接届いたものなのか、桜丸に判別する手
段はない。
(桜丸、それとも、水府か)
 そう呼ばれて桜丸は初めて気付いた。
「そうだな。それは変だ。俺は、誰なのだろ
う」
(吾の元へ辿り着いたのは、水府の欲望の方
であろうが)
「分からない。ただ、気持ち良かった」
(お前の体はどうした)
「何だ、体とは」
(この世の肉体だ)
「この世とは」
(吾の属する場所)
「俺は、この世に属していないのか」
(さあな、吾にはそんな知識はない)
「俺は、何でここにいるのだろう」
(お前の中の、水府が、吾を求めたからなの
だろうな)
「誰だ、その水府とは」
(お前の裡に巣食う、羅刹だ)
「俺の裡とは」
(そうか。肉体をなくしてしまえば、裡も外
も、何の意味を持たぬのか)
「肉体がないと、いけないのか」
(そうだな。お前が誰なのか、良く分からな
くなるな)
「分からないと、いけないのか」
(お前が何故ここにいるのか、それが分から
なくなる)
「そうか。それでは、俺が困る」
(やはり、困るのか)
「ああ。困る」
(自分が誰か、知りたいからか)
「ああ、そうだな。いや、多分そうなのだと
思う」
(だから、吾の元へ辿り着いた)
「そうかも知れない」
(そうとすれば、お前に教えることは、吾の
義務でもあろうな)
「不思議だな」
(どうした)
「前にも、こんなことがあった気がする」
(確かにあったよ)
 僅かの間が空いた。
「俺は桜丸か、水府か、どっちなんだ」
(もう、そのどちらでもない)
「死んでいるからか」
(お前は、死んではいないよ)
「死んだから、体がない。違うのか」
(そうではない。おそらくは、水府の属性の
方が、強く現われだけのこと)
「そうなのか。では、俺は水府だ」
(それも違う)
「あんたの言うことは、どうも俺には、良く
分からない」
(それなら、お前に名を与えよう)
「そうか。名があれば、それで俺が誰なのか
分かるな」
(さあ、どうか)
「何でも良い。早く俺の名を言ってくれ」
(・・夜叉丸)
「俺の名は、夜叉丸か」
(そうだ)
「よし。俺は夜叉丸だ」
(名を得て、自分が誰だか分かったか)
「いいや。さっぱり」
(では、吾と共に行こう)
「あんたと何処へ行くんだ」
(お前が誰か、吾が誰なのか、それが分かる
場所へ)
「ああ、そうだった」
 桜丸は再び言う。
「それが、俺の向かっていた、向こうのこと
なのか」
(夜叉丸よ、これを)
 異文は黒ずんだ金属塊を、指の欠けた自分
の掌に載せる。
(サイドの形見の気象儀だ)
「サイド、知っているぞ」
(夜叉丸よ、これを持ってみろ)
「持つのか」
 夜叉丸は無造作に、異文の手から気象儀を
取り上げた。
(やはりそうか)
 夜叉丸の手が水のように揺らいでいる。そ
の掌の中で、気象儀が徐々に黒ずみを消して
行く。同時に夜叉丸の全身が、空間に排他性
を持ち始めていた。
「夜叉丸よ」
 異文の声と一緒に、鳥の囀りが遠くから聞
こえる。朝露の中で、夜叉丸は突然に還り着
いた、地上の匂いを吸う。
「俺はやっぱり、人ではないのか」
「人、天、夜叉、どれも同じ事」
 聞こえてみれば異文の言葉は、変わらずに
やはり拙い。その異文の容貌は、桜丸の身体
記憶をなぞる夜叉丸の様子に比べると、寧ろ
化け物にも等しい醜さに塗れていた。
「吾のため、水府のため、桜丸のため。夜叉
丸よ、共に行くのだ」
「連れていってくれるのか、俺が誰だか分か
る場所に」
 夜叉丸は掌の気象儀を一振りする。途端に
気象儀の淡い光が、夜叉丸の腕から体内へと
消えた。
「この玉は、俺と同じだ」
 夜叉丸は体内の感触を楽しむように身震い
をした。揺すられた裸の皮膚には、小さく波
が立ち、四肢の端へ微妙に伝わった。
 異文は朝の光に面を背け、晒の白布で面貌
を包む。陽にあたる皮膚は、まだ灼けるよう
に熱く痛んでいた。

第七章 同行 一

 米は優れた穀物だが、運ぶ時にはやはり重
い。降られると、雨にも弱い。それでいて、
軍旅は大量の米に依存する。
 博多での異国警固番役勤仕は、三ヵ月の四
期交替と決まった。それでも、香椎浜の蒙古
防ぎの石築地、木柵の造営と、人手と費用ば
かりは莫大にかかる。喰わせる飯も、積算す
れば厭になるほどの量になった。
 京鎌倉の大番と同様に、勤仕の費用は武家
が自前で賄わなければならない。当然、食い
扶持も自らが負う。
 近場のことなら、兵站には現米を持てばそ
れで済む。経済性もその方が良い。が、遠け
れば、現地で米と清算する為替か、交易にも
便利な軽貨を持参した。自然、各地では経済
が活発化する。イスラムの商人がとっくに用
いていた為替の存在も、漸く世間に一般化し
始めていた。
 深田の彼岸丸の生薬の知識は、そのまま、
交易に有利な豊後の物産となる。守護、大友
頼泰にとって、外戚にあたるこの老人の果た
す役割は、小さくはない。
 博多の浜、香椎の宮に腰を据えれば、国元
との間に今度は多くの人々を往還させなけれ
ばならない。公文書から黄金、武具に馬疋と
運ぶ物は大量にあった。
 馬ならば勝手に歩く足があるが、嵩張る荷
は、それだけ輸送の無駄が多い。まして米穀
物などは、消費する現地で調達した方が、ど
れほど安く済むか。そう経済を比較してみる
と、守護である大友頼泰にも、彼岸丸の調製
する秘薬が、交易に富を産む軽貨の代表とし
て、貴重にも有り難く思えた。
 博多での彼岸丸の薬の人気には、このごろ
凄まじいものがある。武家の間では特に、化
膿止めの蜜没膏が、異常な高値での引き合い
になっていた。
 それほど持てはやされていたとなると、頼
泰にも今度は別の価値が見えてくる。神農丸
の名の常備腹薬と一緒に、武家への有効な使
途が幾つも派生する。その影響力が、窮迫す
る武家同士の宥和にも役立つことを、頼泰は
確信しつつあった。
 そして一方、蒙古合戦の金創を癒す武家の
間に、蜜没膏の人気が出れば出るほど、それ
だけ大野の荘の四村の蔵には米が集まる。そ
の米がまた、このごろ多く立つ市の庭で、別
な物へも易えられた。
 人が人と遇い、物が物と換わる。浮き立つ
ような弾みが市にはある。彼岸丸は目の醒め
るような思いで人と物の行き交う景色を眺め
ていた。
「不思議なものよ」
 彼岸丸は傍らの男に言うでもなく、しみじ
みと呟いた。
「誰もが己れの換える物の向こうに、別な幻
を見ておる」
 大野川と緒方川の合流する辺り。滝河原の
中州に七日の市が立つ。
 市は祭りの場所でもある。現世から隔絶し
て、滝河原が市姫神の祭りで市庭へと変貌す
る。善光寺聖が背に担ぐ御厨子か、さもなけ
れば修験の笈のように、簡単に担げる大きさ
の赤い小祠が滝河原に勧請されていた。それ
が祭りの印。
 祠前の中州を縦に区切って、筵掛けの粗末
な小屋が並んでいる。川の流れの岸には幾艚
もの舟があり、人と荷とを載せて対岸と此岸
を往来する。
 男が言う。
「その幻とは」
「さあて、異文どのの見る幻と、おそらくは
同じでござろうな」
 その男、異文は白い晒布の下で、済度の見
たはずの幻を、市の賑わいに重ねていた。
「サイドの見たは、海の王国・・」
 ジャバの胡椒、モルッカの丁香、チモール
の白檀。済度は泉州へ胡椒と丁香を運び入れ
ていた。この国へはスパイスよりも、白檀や
沈香の香木が主となる。西方のペルシャへ行
く胡椒はマラバルの産だが、イスラムに欠か
せない龍脳はスマトラから送られた。
 市は何処も似ている。スールーの海の中に
も市は立ち、異文に済度の最後の荷を届けた
男は、その海からやってきた。
 坊津から回漕された済度の荷の主体は、沈
香の塊と白檀に玳瑁。それから異文のために
積まれた小量のコーヒー豆と、何故か大量の
丁香。西方では麝香や龍涎香と並んで媚薬と
しても珍重された丁香だが、肉食の薄いこの
国での価値は余り高くはない。それでも、用
途はあった。
 ただハッジとだけ名乗るスールーの海の男
は、異文に荷を委ねると、無口なままに秋風
を負って南海へと去った。異文が土産に持た
せることが出来たのは、たった一つの約束に
過ぎない。その約束のために、異文は蜜没膏
に塗り篭められながら生きている。
 彼岸丸は丁香から精した油を歯痛に使う。
価格からすると贅沢の極みに似るが、抜苦与
楽を心願とするならばそれも良かった。そし
て丁香の精油こそが、蜜没膏の主成分の一つ
でもある。穏やかな鎮痛作用と腐敗防止の効
能が、今は異文の身を保護していた。
 異文は言う。
「その幻、一遍房も見てはいまいか」
 武士の世間に通じる名を捨て、今は彼岸丸
と名乗る。その彼岸の彼方へ往生したいと願
う者が、命を永らえるために殺生もする。矛
盾は滅罪する他にないと信じていた。
 和郎の肩に肘をかけ、彼岸丸は市の一遍を
見た。
「称え捨ての、念仏一遍」
 彼岸丸は胸元に左手を宛てた。そこには水
文字の消えた念仏札がある。消えてしまえば
それまでの、ただの紙。彼岸丸はそれが妙に
気に入っていた。
 その一遍は、市庭の外れで念仏札を賦して
いる。百の生業を持つ人々が集まる市庭は、
確かに念仏勧進には都合が良い。しかしそれ
は、一方で危険な行為でもあった。
 市は主催者がいて初めて成り立つ。この中
州の河原市も、市姫神の祠を扱う者の存在が
重きを占めた。その者こそ市姫神の神司であ
り、世俗の権威を退ける霊性を身に帯びて市
の上分を収納する。
 そして市は祭りの場でもある。神と人との
交わりの場は、日常の関係を断った無縁の空
間でなければならない。武士ならばまず、弓
矢の所持を禁じられるのだろう。
「さて、一遍聖はどのようなお心か」
 彼岸丸の呟きの意味は、異文には理解出来
ない。出家遁世はしていても、守護の権力に
近い彼岸丸がここにいて、一遍の背後を護持
している。危害は及びそうもなかった。
 律宗の僧が持つ市であろうと、禅宗の僧が
持つものであろうと、一遍が割り込む余地程
度はあるようにも思えた。しかし、秩序の破
壊者はいつも一瞬で弾かれた。
「おうっ!」
 野太い声が響いた。滝河原の中州の外れに
立つ卒塔婆の林から、非人らしき様子の数人
の男が現われる。賦算の札を受ける男女が、
怯んだように一遍から離れた。
 男たちがばらばらと、垣のように結われた
釘貫結界を跳び越す。着地するなり石を拾う
者がいた。
「喰らえ!」
 いきなりその手から、飛礫が飛んだ。石の
唸りは細く高い。それだけ、危険な速度を鋭
く持っていた。
 異文が短く呻いた。一遍の無防備な腹に、
糸を曳いて丸石が突き刺さった瞬間、一遍よ
りは異文の方が身を折った。
「何と・・」
 彼岸丸にしても、見知った非人たちがそこ
までやるとは思っていない。それでも、今の
はまだ、ただの警告に過ぎない。飛礫は明ら
かに腹を狙っていた。次に襲うときは必ず、
顔を狙う。
 一遍は詰まった息をゆっくりと吐き、苦労
して身を起こす。和郎は彼岸丸の顔を見上げ
てから、肩の腕を外した。前へ出ようとする
和郎の袖を、異文が何故か引く。一際図体の
大きい非人が、一遍を怒鳴りつけた。
「おい、お前。見れば、まあまあの身なりを
しているが、一体どこの聖だ」
 何処の聖と問いながら、素早く彼岸丸の方
を窺った。
「それとも、なにか。菩提院さまに、なんぞ
の意趣でも持っているのか」
 卑屈に彼岸丸を窺った様子からすると、全
く知らない訳でもない。すると、意趣は寧ろ
向こうにある。或いは、このごろの一遍の賦
算に対するものか。
「この滝河原の上分はな、菩提院さまが我ら
に布施して下さるのよ。お前のような聖が、
好きに荒らして良いものではないぞ」
 菩提院の大それた名を持つ僧が、市の主催
者と見える。それよりも一遍は、彼岸丸に布
施された編み衣が、意外に頑丈なことに喜ん
でいた。
「これは良い」
「何だと、なめた坊主だ」
 至近の距離から再び飛礫が飛ぶ。今度は一
遍の顔の真ん中へ、あやまたずに命中する。
その瞬間、薄桃色した美しい葩が、空中へ飛
び散った。まるで一遍の顔から噴き出す血潮
のように、葩は勢い良く風に散る。
「な、なんだ」
 非人たちが動揺して騒ぐ。妙な事態にどう
対処して良いのか、葩を顔に受けながら、そ
れぞれに戸惑っていた。しかし、やがて葩が
薄れると、そこに現われたものを見て非人た
ちが眼を見開く。
「嘘だろう・・」
 そこには黄金の光を浴びて、護法童子が一
遍を護るように立ち塞がっていた。
「嘘だ」
 左手に金色の法輪を載せ、右手にはぎらつ
く光を放つ降魔の利剣を持ち、護法童子が眼
光も凄まじく、非人たちを睨み付ける。
 あっと悲鳴にならない声を上げ、男たちは
一斉に跪く。額を地に擦り付けて、仏罰の許
しを乞う。その光景を、市庭にいた誰もが目
撃していた。
 異文は笑う。
「やったな」
 風に吹かれるように頼りない夜叉丸が、単
なる思い付きでやったことなのか。そうとす
れば、この先をどう締め括るのか、夜叉丸の
心が読めて見ものでもある。
 しかし護法童子とは、恰好の選択をした。
西大寺流配下の長吏たちは、自らを護法の夜
叉の如くに思っている。人に非ざる仏法外護
の存在として、護法童子は非人たちに最も身
近な現実感を持たせるだろう。
 夜叉丸の護法童子は全く身動きしない。男
たちはただ、額を擦り剥くほどに頭を低く地
べたに張りついている。遠巻きにした市庭の
人の中には、有り難く護法童子の姿を伏し拝
む者もいる。凍り付いた絵のように、事態が
止まっていた。
「異文どの。あの男の正体、承知か」
「夜叉丸の正体か」
 彼岸丸は頷く。
「あれは、正真の夜叉にて」
 仏典の夜叉とは、ヒンズーの大地の精霊ヤ
クシャであり、勇健なる鬼神を指す。羅刹と
は夜の悪鬼であり、人を害する魔を意味して
いた。
 水府と桜丸の今を言うなら、やはり夜叉で
あろう、と異文は思う。
「夜叉か・・」
 彼岸丸が口に呟くのと、一遍がその場の膠
着を解くのとが重なった。
「有り難き仏縁かな。人、天、夜叉、ともに
念仏まいらせうず」
 ふっと吐く息に称名が載る。息を肩越しに
受けて、夜叉丸の幻術が不意に破れた。
「南無阿弥陀仏」
 一遍が手ずから授ける念仏札を、非人たち
は半ば生命の反射のように、呆然と受ける。
称える念仏も、一遍の口移しかと思えた。そ
れを見て、一遍は初めて蓮華を含むように微
笑した。
 市庭に集う人々は、目の前の事態の変化と
夜叉丸の変容に、まだ追い付いて行けない。
昼に見る夢ならば、いかにも奇妙な緊張が張
り詰めていた。
「ああ、おん聖」
 張り詰めた緊張はまた、一瞬で弾け易い。
非人の一人が一遍の衣の裾に縋った。
「この市で勧進をされては、菩提院さまに申
し訳が立ちませぬ。どうぞご容赦を」
 敵意を剥き出しにした先程の態度は名残り
さえもない。突然、誰かが笑った。
「これ、止さぬか菜々女よ」
 干物魚を売る女が、どう言うわけか腹を抱
えて笑い転げている。亭主らしき男が周りを
気にして叱るが、笑いの発作は一向に止まる
気配がない。そのうち別の場所で笑いが起き
る。一人笑えば次に一人、結局笑いは伝染し
て、市の立つ滝河原の中州全体が、無遠慮な
笑いに満ちた。
 人が多く集まると、物事は思わない方向へ
展開する。いつもは温和な男が急に血を逆上
らせたり、どうと言うことのなかった男女の
仲が妙に近付いたり、離合集散が神輿を見知
らぬ場所へと運んで行く。異文もまた、知ら
ない場所へ赴こうとしていた。
 一遍は言う。
「慈悲と思う心を捨てた時、初めて慈悲が湧
き申した」
 捨てて、捨て続けて、それが情け薄い自分
の、唯一の行くべき道と知った。衆生への慈
悲は、慈悲を施さねばと思う心を捨てて、初
めて自ら顕れた。
 それが人の本源であり、本源は自然に無念
でもあった。無念であれば、後は南無阿弥陀
仏と称えるばかり。
「これが我が身、我が心と思うも迷い」
 慈悲にこだわればなおさら、慈悲は顕れな
い。菩薩の行いに捉われる必要など、何処に
もなかった。
 人々が笑いの発作に苦しんでいるその時、
異文は身裡に入り込んでくる歌を、静かに聴
いていた。琵琶の弦を弾く音が聞こえ、葦笛
の震える音が聞こえ、山羊革の太鼓の囁く音
が聞こえた。
 地水火風は我が身の裡にあり、四大は合し
て唯一の場所へと向かう。今度は、異文の視
野から色が消えた。

第七章 同行 二

 人の言葉で神を呼ぼうとすれば、ただ「ラ
ララ」としか声に出ない。それはそのまま、
否定の言葉でもある。
 口にする言葉は我が身と神との対立を造る
ばかり。人の言葉の届かない、命さえない場
所に神はいる。異文は聞こえる歌を、その心
に響くままに歌い始めていた。
 歌いながら緩やかに旋回する異文は、滝河
原、中州の端へと移って行く。非人たちの現
われた卒塔婆の林の中へ、釘貫の向こうへ、
異文は歌いながら、歌いながら次第に移って
行く。
 風が一遍の頬を撫でた。桜花のように頼り
なく、夜叉丸の姿が異文の後を追う。
 神秘体験には然したる意味はない。物を食
えば消化するように、解脱も悟りも同じ不思
議の延長にある。しかし、その、物を食うこ
とで人は生きていた。奇蹟を求める念いの向
こうには、彼岸への断絶を跳躍する願いがあ
ることを一遍は知る。
 人々は異文の姿を追った。突然に歌いだし
た異形の男の後を、祭りの列を追うようにし
て人々が付き従う。移り、移りして、市庭を
設けた場所よりも低い、捨て墓の砂州に人々
の中心が動いて行く。
 異文の歌う言葉は、誰も理解が出来ない。
恐らく唐天竺の言葉であろうと言う者もある
が、本当のところは分からない。しかし誰に
でも分かることが、一つだけあった。
 異文の歌う歌は、祈りそのものと分かる。
その祈りは、誰もが還る真実の場所を示して
いる。そう人の本能が告げている。何処と名
指す訳ではない。指で示せるはずもない。だ
が誰もが知っている場所を、異文の歌が示し
ていた。
 異変はその時起こった。異文の頭上に三つ
の光が現われる。人々は異文の僅か上空に漂
う銀色の光を、それぞれの指で差し、それぞ
れの口で示した。
 三つの光は、決して強い光輝を放ったりし
てはいない。だが、曇り空を流したように曖
昧ではあるが、一方では昼の陽光を打ち消し
てしまうほどに異様でもある。突然に夜を招
き寄せたように、現実離れした色を放って光
が浮かぶ。
「あれは、北条さまの紋所では」
 誰かが言った。確かに北条氏の三鱗の紋に
も見える。
「いや、三郎さまだ」
 緒方三郎の伝承は今もこの地に残る。
 源頼朝の頃、緒方を領した武将は、恐ろし
きものの裔と呼ばれた。その恐ろしきものと
は三輪の大神、大蛇を意味する。では異文は
なぜ、大蛇の鱗を頭上に戴くのか。
 一遍は初めて理解した。
「ああ、そうであったか」
 人は誰でも、世界の始原から連綿と続いて
いた。そう一遍は知る。
 人は「今」生まれて、「今」ここに生きて
いるのではない。切断された「今」などは、
何処にもなかった。
 そんな「今」がないように、同時に、過去
未来現在の三時の別もない。世界の始まりか
らの存在として、人は連綿と続き、そしてこ
の場所にいる。黄泉の境界とは、最初から人
の胸の内側にあった。異文はその、世界の始
まりそのものを頭上に戴いていた。
 己れの幻視と世界とが交錯する。黄泉の境
界が闇を露出する。異文の歌が、その場所へ
と一遍を連れて行く。
 一遍の眼の前に、静かな闇が降りていた。
光の存在しない闇が全てを覆い尽くした時、
一遍の耳に聞こえる歌がある。
 真空の闇から響く歌とは、異文の聞く歌で
もあった。人の声ではない、天地の響きでも
ない、否定でしか表すことの不可能な歌、そ
の歌が闇に微小な綻びを生む。一遍は今、時
が誕生したと知る。
 「五千余軸迦人之小歌也」。大蔵経五千余
巻も釈迦一代の小歌と隠者は言う。「風行き
雨施すは、天地の小歌なり」と。それより約
三百年の前に、一遍は言っていた。「山河草
木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずと
いふことなし」。聞こえるその歌こそ、今を
「今」と知る念仏に他ならない。
 一遍の漂う闇の中で、歌の紡ぎ出す時の狭
間から、やがて三つの龍が現われる。
 漆黒の闇の中で、三つの龍は、それぞれに
絡み合い、頭を一つの方向へと向けた。極大
の弦が弾かれて震えるように、三つの龍が震
え、波動する歌が響きを満たす。
 闇に一つの方向が生まれたと同時に、絡み
合う龍は融合を始めていた。三つの龍は闇を
融合の波動で満たし、黄金に輝く始原の龍へ
と変身する。完全な融合の瞬間、光輝が闇を
駆逐した。
「や、浮くぞ」
 低い呻きが耳元で聞こえた。一遍の肩に彼
岸丸が掴まっている。
「いかなる技か」
 旋回する異文の爪先が、白く埃の尾を曳い
て砂州から離れる。二筋の白い尾は、風の流
れを旋風のように巻いていた。
 その時にはもう、異文の日常の意識は失わ
れていた。身体の感覚は全て変容し、大地の
水を吸う樹木のように、闇を飛ぶ蝙蝠のよう
に、感性が位置と意味とを置き換えて行く。
肉体の獲得した行為の記憶が、自分自身を破
壊する暴力の嵐となって吹き抜けて行く。全
ての細胞が自己を否定して、爆発的な遠心力
を生み出した。
(神よ)
 火と煙を噴く山が見えた。巨大な口を開い
た火山が真下に見えた。瞬間、紫電の翼を持
つ龍の影が頭上を覆った。異界へ連れ去る電
光の龍は、鬼女の爪を持ち異文を掴んだ。
(光よ)
 恐怖が色を放った。黒い天空を斜めに斬っ
て、逆さまの月が駆け抜けた。
(吾は死ぬのか)
 死を意識した時、奇妙な響きが聞こえた。
歌ではない、誰かの笑い声が響き渡る。星々
の間を凄まじい速さで過ぎる深紅の天体が、
異文を遮って停止する。暗黒の星を背景に浮
かぶ深紅の半球から、笑い声は届いた。
(なにもの)
 酷く矮小な存在に思えた。朱塗の盆に水晶
の蓋を被せたように、透明な半球の中から覗
く者がいる。
(面白いやつだな)
(お前は、なにものか)
(自分が何者か、先に答えてみろよ)
(吾は異文)
(何だそれは)
(吾の名だ)
(名、なな、なな、な)
 馬鹿にした笑いが響く。
(面白いな、名)
(分かった)
 瞬間に異文は思量を放擲する。落下は同時
に起きた。青い光が拡がり、大地が拡がり、
やがて闇の底へと突き抜ける。
 一遍が見た異文を巡る異変は、事象の断片
に過ぎない。しかしその断片が、一方では現
象の全てでもある。誰も他人と同じ視座には
立てない。一遍の見たものと彼岸丸の見たも
のとは、明らかに違っていた。
 その日から半月もの間、異文は三輪の大神
の依り代として、斎祀られることとなる。そ
の間の異文は、異形の姿の来訪神そのもの。
己れへと向かう意識を全く喪失した、異形の
傍居は、それだけで神の依り代に相応しい。
木偶人形にこそ、神は宿る。
 里人は口々に言う。「緒方の里に、大三輪
神が降臨された」と。稔りの秋の収穫は滞り
なく済み、籾の乾燥も終わった頃に、祭りは
挙行される。斎く神は、傍居三郎神。それが
新たな神の名として顕れた。

第七章 同行 三

鶴崎から、異類異形の行列が発する。
 覆面頭巾に綾藺笠、笠の天辺には天道花の
飾りが派手に揺れる。身の装いは、揃いの紙
子小袖を着流して、股引袴を細目に穿きこな
している。緒方まで歩けば三日の道程を、七
日をかけて踊り続けると云う風流の行列が、
鳴物の音も騒がしく動き始めた。
  やれこ とんとと 振り捨てて
   風流 風流と舞い いたる
 行列の先頭は、三本角の鬼に扮している。
鉢叩きの行人坊主そのままの身形の鬼が、口
に高声念仏を称えて音頭をとる。
  南無阿弥陀仏 名号不思議
   人ともに 融通念仏参らせうず
 胸前に懸けた鉦架は、猫が前脚で招くよう
な舐めた形をしている。その吊り手を片手で
鷲掴みにし、撞木を派手に振るって銅鉦鼓を
乱打する。
  踊らばや 舞わらばや
   舞わらば 蓮の台なり
 きんきんと、金臭く鳴る鉦鼓に併せて念仏
が続き、続く行列が鼓を遣う。
  ていとうと 振りたる鼓 鳴る鼓
   振振毬杖 振り太鼓
 やがて物尽くしが始まり、歌の詞は延々と
豊後の名物を数え上げて行く。
 音頭の調声が導入を歌えば、すぐ後を一党
行列が鬨を揃えるようにして続け、紙子の風
流行列のさらに後ろには、非人が群れをなし
て従っていた。
 角三つ生いたる鬼が言う。
「緒方に生まれた傍居三郎神が、福徳を授け
て下さるのじゃ」
 自らを賎民漁師の子と言った日蓮まで、前
世の業の報いには、黒癩白癩などにも生まれ
変わる、と信徒に語った。
 謂れのない差別に人が苦しまなければなら
なかった時代、乞食非人や癩者には、非日常
こそが生きる場所でもあった。
 ざんばら髪に筵を肩に担ぐ。柿色衣に覆面
をする。漂泊する非人たちに定住の場所と仕
事を与えた西大寺叡尊も、彼らを菩薩とまで
表現しながら、結局は賎民の身分の固定化を
招き寄せていた。
 或る人の苦しみは、その或る人にしか、分
からない。それでも人が生きて行けるのは、
自分がたった一人の生き物ではないことを知
るから。
  角三つ生いたる鬼なれば
   うとまるる
  池の萍となりぬれば
   と揺り かう揺り 揺られ歩く
 穢れ多き不浄の者と遠ざけられて、疎まれ
て、流れ歩く。前世の業の報いならば、いっ
そ珍奇な鳥にでも生まれ変わり、人の耳目の
慰みにもなれかしと願う。
  女子にや 生まれけん
   娑竭羅王の宮をいで
  龍女は変成男子とか
   夫ある身には 惨かるを
  児にやる乳を 如何にせん
 女人には、五障ありとされる。不浄だ、と
も。往生するのかしないのか、清浄なのか不
浄なのか。そんなことは、女人自身が判断す
れば良かった。
 異形の癩者がそのま蛇身の神へと変じた。
傍居三郎神こそは、確かに不浄の者たちに福
徳を約する神に相違なかった。

第七章 同行 四

 角三つの鬼の念仏は、勇ましい。それでい
て、何故か悲しい。胸に迫る哀感は、調声の
音頭を取る角三つの鬼が胸に抱く悲しみと、
同じものなのか。
 音頭を取る随縁房の表情は、角三つの鬼の
面に覆われて見えない。それでもやはり、そ
の念仏の声には、随縁房の悲しみが滲み出て
いる。聞く者の胸に沁みる哀感は、それが、
死んだ人を送る随縁房の葬送念仏であるから
なのか。風流行列の誰もが、高声念仏をする
鬼の面の下に、熱い涙が流れることを知って
いた。鬼面に隠れ、随縁房は泣きながら念仏
を称えている。
 踊り歩けば人が加わる。筑後草野、善導寺
辺りの人である一向俊聖は、踊りながらの念
仏を行儀に諸国を遊行する。その一向が宇佐
八幡で行なった四十八夜の踊り念仏を、随縁
房は目撃していた。
 僧俗男女入り混じり、野馬の如く騒がしく
踊り回る。側聞すればそうかもしれない。し
かし随縁房はそこに、輝かしい生命の躍動も
見ていた。
 命輝く時には貴賎も浄不浄もなく、自己も
他も仏性のそのまま踊躍する。だからこそ、
この風流には、世に与えられた非人の区別も
消え失せた。
 風流とは、奇抜に仮装して、歌舞音曲も賑
やかに練り歩く非日常の行為を言う。神にも
仏にも風流があり、田楽にも風流はあった。
浮かれ騒いで日常を再生させる。そんな生命
躍動の本源が風流行列。
 元は念仏鎮西義の僧でも、今は菩提院法観
の下で丹生里に悲田を営む。その西大寺流の
随縁房が、風流を率いていた。
 何故か。そこに葬送念仏の訳がある。
 菩提院法観の非人支配を、随縁房は完全に
否定する。大慈大悲の菩薩行を、自ら擲って
憤ってもいた。そんな行為は金剛宝戒寺山内
の、三山三院が支配する大野川筋では、決し
て許されてはならなかった。
 随縁房の喉は潰れかけている。両耳は鳴り
続ける鉦鼓に、とっくに麻痺していた。七日
七夜、踊り続けて緒方の仮宮に参する。それ
が明日のない人々を今救うのだと思う。
「随縁さま。これ以上は、菩提院さまへの憚
りもございます」
 後ろから袖を引く男が、随縁房の身を案じ
てか、頻りに言う。
「もう、もう、良いではありませんか。本当
に、もう、お止め下さい」
 男の身形は絵描きの紙子に黒袴と、全く暮
露そのもの。額の鉢巻きが汗に汚れて薄黄色
に変じている。
「あなた様のお心は、十分に存じ上げており
ますとも。さあもう、ここいらで打ち上げと
致しましょう」
「出来ぬよ、おん父君」
 父とは随縁房の父のことではない。随縁房
の悲田には、子たちを世話する集団もいる。
その集団の父として、葬送念仏に弔う娘の実
の父として、随縁房は男をそう呼んだ。
「いつかは壊れなければ、方々が輝いて生き
る世にはならない」
「いいえ、随縁さま。我らはこの通り、世間
に布施されて、こう有り難く、修行をさせて
頂いている身にございます。決してそのよう
な、大それたことなどは」
「豊国どの」
 豊後一国を束ねる、暮露暮露の元締め。そ
の男の名を呼ぶ僅かの間だけ、随縁房の足が
止まった。乞食修行者の暮露に対して、随縁
房は身分制の上から被せる物言いをしていな
い。それが随縁房の慈悲の形でもある。
「豊国どの、思い違いをなされますな。宮子
のことが、全ての理由ではありません」
「ああ、そのような。めっそうもない」
 豊国の娘が、自ら縊れて死んだ。原因は菩
提院の非人長吏の苛斂による。
 随縁房の憤りはそこにあった。菩提院配下
の非人の若者が、丹生里の暮露に混じり、非
人から抜ける。そのことの何処が悪いのか。
十六の娘が抱いた恋心が、何故世の中の秩序
を覆す悪であるのか。そう随縁房は憤り、打
ち殺された若者と、縊れた娘のために葬送念
仏を称えていた。
 娘の死に最も心を痛めるのは、母の媼であ
り、父親の豊国でもある。それでも娘の非道
の科は、豊国に集まる。人として暮露の娘と
公家の姫君とは、一体何処が異なるのか。癩
者と僧侶では何処に価値の違いがあるのか。
随縁房の悲しみも怒りもそこにあった。
 西大寺律宗ならば、人の死には光明真言で
供養をする。しかし、随縁房は浄土宗の念仏
で葬送をする。反逆は明らかに、誰の眼にも
見えていた。
 随縁房は鬼面の下で泣く。そして鬼面の下
で憤っていた。十一面観世音菩薩の慈悲相の
背後にも、大笑暴悪の面が牙を剥く。そんな
恐ろしい面を自分が持つとは、この時まで随
縁房は思ってもいなかった。
 豊国の引く袖を振り払い、随縁房は撞木を
持つ手を頭上で華麗に回した。その所作に、
背後の風流の行列の一同が、わっと沸く。長
身の随縁房が所作をすると、見事に映える。
返す手首の熟れた美々しさに、群衆は歓声を
上げて踏む足を鳴らした。
「随縁さま・・」
 豊国は疲れ切ったように立ち止まる。すで
に二日、随縁房を説得し続けた。学もあり、
徳も身分もある一廉の僧侶が、我が娘の死を
悲しんで生命を懸ける。豊国は随縁房の怒り
の行為をそう受けとめていた。しかしそこに
は、些かの勘違いもある。
 悲田に多くの孤児を養い、丹生里の灌漑と
架橋に精魂を傾ける随縁房。菩薩とも拝まれ
る僧侶が、暮露に過ぎない我が娘の縊死に憤
り、ついに身を誤ろうとしている。豊国はそ
う思っていた。それがいかにも有り難く、ま
たそれでこそ、惜しい、と。
 金剛宝戒寺別当、菩提院法観の慈悲は、暮
露の娘に自死を選ばせた。随縁房の真実の憤
りとは、その慈悲の在処にこそある。
 菩薩行を勧める西大寺流の律僧が、大慈大
悲の高所に立つなり、下辺の悲哀に全く同意
も同情も示さない。確かに一見、僧たちは慈
悲心に溢れる行為をするように見えた。貧者
と同じ食を摂り、粗衣を纏って路上の行き倒
れを救け起こす。しかし、それは一人一人の
僧が慈悲として接しているだけのこと。流儀
を全体として見る者は、そんな現場の僧侶さ
えも振り向かない。
 世間に対しては、自らを弱者の堤防としな
がら、その弱者に対しては、管理こそ愚者を
養う慈悲とばかり、智慧誇りの大上段から呵
責の杖を振り降ろす。しかしそれこそが、矛
盾なのではないか。随縁房は、そう思う。
 背後に取り残された豊国が、豊後一国元締
めらしい、不敵な笑みをした。随縁房はそれ
を知らない。
 随縁房の憤りは自分をも責めていた。寝食
を忘れて励んだ自分自身が許せない。その背
中に書いてある文字が、豊国にも二日かかっ
て漸く読めた。
「なあるほど」
 豊国は一つ頷いた。
 随縁房は、愚かにも智慧だけで人を救える
と信じていた自分を振り捨てて、風流の音頭
を執る。
  やれこ とんとと 振り捨てて
   風流 風流と 舞い いたる
 民人の抜苦与楽が己れの額の汗で叶うと、
増上慢にも思っていた。随縁房は、そんな自
分が情けない。
 怒りを仏者が抱いて良いものか、それは知
らない。多分、いけないのだろう。しかし随
縁房は、角三つの鬼面の下で、涙を流しなが
らも憤っていた。
「損なお方よ・・」
 暮露として、命ぎりぎりに生きる豊国は、
随縁房の潔さに感じ入りもする。乞食修行者
の娘の事情などは、葬ってしまえばそれで終
わるものでもあった。
 日常はいつも、あるべき姿にある。とっく
にそう諦めていたつもりなのに、今は腰の打
刀がどうにも重い。豊国はそのまま困り果て
た顔で、笑った。
「もはや、戻れぬ、か・・」
 豊後元締めの豊国の名を、身の血潮と一緒
に川に流す。そう開き直った。肩に会下傘を
担いだ男に、豊国は合図する。
「暮露暮露ふぜいが積んだ富、どれほどの遣
いでがあるか、試してみるか」
 それで大勧進の振る舞いを賄う。山ほど飯
が喰えれば、乞食も近在の下人百姓も群がり
寄る。緒方の傍居神三郎神を担いで、地頭の
屋敷へ押し掛けるも面白い。国府の蔵を破っ
て逃散するのもまた一興。騒ぎ始めた血は、
風流の念仏踊りが掻き立てたもの。
 ふ、と豊国は鼻先で己を笑った。
「いざ、踊り抜かん」
 鶴崎から始まった風流の行列は、川筋の船
を巻き込んでいよいよ盛る。夜は松明が火の
粉を水に散らして美しく映え、昼は擦り鳴ら
す繞鉢が金銅の光を眩しく返した。
 船路に運ばれる大太鼓が、ずんずんと鳴り
響き、やがて道々に合流する非人たちと、税
逃れの逃亡百姓なども加わる。後に「菩提院
崩れ」と呼ばれる大暴動が、この瞬間に誕生
しつつあった。

第七章 同行 五

 緒方の来訪神の仮宮には、宮迫の崖に掘ら
れた岩穴が充てられていた。
 妙見を祀る山頂には七星壇が設けられ、真
言律の僧侶が尊法を修する。権威の構築は混
乱を招く異文を内に取り込むことにある。そ
の僧を送り込んだこと自体に、菩提院の意図
がはっきりと見えていた。
 往生とは幻想ではない。もしも幻想に住す
るとしたら、人は狂気と呼ばれるだろう。し
かし奇蹟は常に狂気の熱を帯びる。この緒方
でも、蒙古防ぎの賦課に苦しむ者たちから熱
は発生していた。
 田地一町毎に二筋の征矢、所領十町につき
盾一枚、舟板と竹釘、その外に旗、立杭。現
物にしろ代銭納にしろ、課役を担う者には、
ずしりと重い。身柄そのものが税の一環であ
る場合も当然生まれた。そんな時に異文は、
神言葉で妙な託宣までも始めた。
 神言葉を人の言葉に通訳する審神者は、夜
叉丸が務める。
 山中に天狗の倒した大木が有り、その根方
の洞を掘ると金銅の像が出ると云う。行って
みるとその通りであることが分かり、尊像は
地湧の菩薩として丁重に迎えられ、荘厳を施
されて妙見の堂に祀られる。
 初穂の稲に黄金の虫が宿るとのお告げがあ
れば、血眼で黄金の光を探しまくる。子供に
見つけられた虫は神子虫と名付けられ、今度
は常世の宮に祀られる。
 次々と傍居三郎神から下し降ろされる託宣
は、予言の成就を繰り返す毎に、緒方の里を
熱狂へと駆り立てて行く。そして寄り付く奇
蹟と人々の熱が、次の新たな事態を招き寄せ
る。事態はもう停まらない。
 建治二年のその秋は、川筋利権の菩提院支
配が覆った年として、大野川一帯では長く記
憶されることとなった。
「菩提院さまの、お渡りに御座います」
 粗衣に素足。菩提院法観の風貌は、実に一
遍に似ていた。違いは袖なしの衣と足駄を履
くか履かぬか。炯々とした眼光の強さまでも
が一遍に似る。
 法観の背後で油断なく控える従者は、寺家
の房人。武者姿も凛々しい若者が、必死の形
相で周囲を睨みつけている。
「よいよい、構わんでもよいぞ」
 崖に迫り出して懸けられた広縁には、異様
な気配を帯びた人々が居並んでいる。眼ばか
りを光らせ、異文の託宣を腰を浮かして待つ
様子は、すでに神懸かりの領域へ移っている
ことを示す。
 異文は岩穴の中で座ったまま、眠るように
動かない。夜叉丸だけは相変わらず頼りなさ
そうに、無関心そうに、柱を背負って薄笑い
を浮かべていた。
 法観の足は真っ黒く陽に焼け、指の又だけ
が生白く見える。衣の膝前を拳で軽くぽんと
割ると、座も敷かずに板の間に腰を落とす。
満面の笑顔を夜叉丸の前へと突き出し、法観
は分厚い掌を叩いて派手な音を立てた。
「げにも神仏とは有り難い」
 夜叉丸は薄笑いを消さず、黙って法観を無
視していた。眼光の深さに相反する柔和その
ものの法観の笑みは、夜叉丸の無礼にも動か
ない。ただ背後の武者が、体躯を僅かにそび
やかす。
「この法観が参ったのも、実に神仏のお導き
で御座ろう」
 そこで法観はゆっくりと頷く。金剛宝戒寺
別当の高位にあれば、威儀を華麗に整えたと
しても、誰からも苦情はこない。寧ろ、そう
振る舞うことを要求される場面の方が多い。
それでも法観は粗衣を纏っていた。
「いかがであろうか、菩提院の内へお迎え申
し上げたいが」
 夜叉丸は笑って首を振る。全く相手にする
風はなかった。護衛の房人が咳払いを何度か
する。それでも、事態は動かなかった。
 この数日間の異文は常の人ではない。酒を
飲まない異文ではあるが、神による酩酊に深
く陥っていた。
 酔いに高揚したまま眠りに就き、醒めるこ
となく目覚めが来る。世界は新たな輝きを放
ち、新たな地平が限りなく開ける。近侍する
田舎巫女の泥臭い容姿さえ、ライラに恋する
カイスも魅惑する天上の美貌と見えた。外道
数論の学者ならば、今の異文に、頭頂の千蓮
華で踊る歓喜天の姿を観想する。
「傍居三郎神」
 法観はいきなり言った。
「たわけは大概にせよ」
 仏法の法力を以て妖神を調伏する。菩提院
法観にはそれだけの自負もある。しかし、周
囲の里人が先に狂気を放った。
「うぬは何さまのつもりじゃ。三郎さまの御
前を穢すでないぞ、立ち去るがよい」
 房人が怒る。
「たわけの傍居を神に担いで、何さまとは、
どちらを言うのだ」
 ざっと立ち上がる衣擦れの音が、いきなり
の雨のように起きた。房人の刀が鞘走る。
「よい。血を見たくはない」
 法観は素早く身を翻し、足音も高く広縁を
渡った。抜き合わす刀を持たない里人は、房
人の白刃に阻まれて法観の退出を見送る。異
文は居眠りし、夜叉丸は相変わらず、にやに
やと薄笑いを浮かべていた。
 それが、鶴崎に風流踊り行列が発した当日のこと。

第七章 同行 六

 上津の山襞を囲む杉林の青い匂いが、菩提
院を包んでいる。その我が院へ戻った法観の
顔色が、白っぽく変じていた。誰も、そんな
法観の様子を見た者はいない。
 法観は、慌ただしく床に腰を落とした。
「あれは、何者だ」
 自問したはずが、随従する房人の若者に問
うように、つい声にしていた。それだけ法観
は狼狽を含んでいたが、房人の若者は一向に
気付かず、烏帽子の紐を緩めて顎の緊張を解
していた。
 桃のような頬をした若者は言う。
「お上は、どのように見られましたか」
 その堅い声に、初めて法観は自己を取り戻
す気がした。
「傍居三郎神、審神者の夜叉丸、共にこの世
の者とは思えぬ」
「さて・・」
「小野の彼岸丸の老人が、あの二人を知って
おるとか」
「川北の草庵には、例の不届きな念仏聖も、
まだおりますが」
「乞食聖は、今はどうでも良い。が、この混
乱がどうにも気に障る」
「川筋三山への、帰依が揺らぐ、と」
「いいや、そうは思わぬ。だが、如何にも危
ういものを感じてならぬのよ」
 直感はいつも正しい。しかし、その直感を
読み解く時点で、誤ちは起きた。菩提院法観
は直感に怯える我が身の器を恥じ、自らの勇
に溺れるように決意する。
「夜討ちに、備えよ」
 各僧坊へ動員をかけ、戦構えの武装を整え
るよう、異例の通達を発する。柔和な慈悲が
通じなければ、不動明王の嚇怒を以て、事に
当たらざるを得ない。確かにいつも、そうし
て生きてきていた。
 法観は顎を引いた。人は愚かに流れる。だ
からこそ、誰にも、自らが愚かで哀しい生き
物なのだとの自覚が要る。
「さもなくば、慈悲は渡るまい」
 但し、菩提院法観はその原則を、自分にも
当て嵌めてみようとは思わない。
 三山と呼び慣わすが、三寺が並び立つ訳で
はない。金剛宝戒寺別院の川筋三院を、その
存立基盤の特異さから三山と通称する。東か
ら大乗院、極楽院、そして法観の菩提院。そ
の菩提院法観の元へ、念仏聖は現われた。聖
は名を、南無阿弥陀仏一遍と告げた。そのこ
とが、法観に増上慢との憎しみを誘う。
 一遍が訪れた時、菩提院の内外は、如何に
も戦支度の最中に見えた。房人は胴丸姿に竹
箙を負い、僧侶は裹頭頭巾をして腹巻を巻き
付け、僧兵の姿に身を変えている。
 菩提院内の要所各所には、揃えた弓が朱漆
黒漆の色も不穏に立ち並び、征矢は纏めて革
篭に投げ入れてある。武家の屋敷のように櫓
門を作った上へは、菩提院の紋所の木盾を、
ずらりと掛け回していた。確かに、三山は戦
の襲撃に備えている。
 法観は念仏聖、一遍に応じるべく、畳を取
り外した方丈の板の間へと進む。
「ちっ」
 意図してか、法観が低く舌打ちする。木戸
の内庭には、房人の武者たちが殺気を含んで
行き来していた。
 生き生きと、また、躍動を持って荒々しく
出入りする、その房人たちの傍らに、如何に
も物知らぬ気に、念仏聖が賦算の札を持って
立っていた。その不釣り合いな景色が、どう
しても法観の意に添わない。背後の僧兵姿の
巨漢が、法観の肩越しに一遍に恫喝の視線を
送り込む。
「呑気なものよ」
 この忙しい時に、する相手でなかった。ま
して向こうは一介の念仏聖。当然、法観は直
接に会わなくとも良かった。が、檀那でもあ
る小野の老人の紹介とあれば、口惜しくとも
そうは行かない。
 法衣の上に腹巻を着けた、髭の僧兵が法観
の背後で長柄の石突きを落とす。床が破れて
砕けそうな音を立てた。その音に、一遍は漸
く眼を上げて法観を見た。
 法観が見下ろして言う。
「見ての通りに忙しい、用あらば迅く告げら
れよ」
 方丈の畳は全て引き剥いである。寒々とし
た板の間から庭先の一遍を見下ろし、法観は
さらに言う。
「滝河原の市庭での行状、聞き及んでいる。
乱暴はやはり、止めておいた方がよかろう。
そうではないかな」
「南無阿弥陀仏」
 一遍はそう称えると、いきなり縁先から跳
び上がった。
「何をする」
 法観を後ろへ庇った髭の僧兵が、凄まじい
形相で睨み付ける。長柄の柄巻を鷲掴みにし
て頭上に構え、まるで鍾馗の絵のような形に
姿をつくる。
「念仏札を授けに参った、受けられよ」
 言う通り、拝む片手のその下から、念仏札
が揺れている。
「南無阿弥陀仏」
「受ければよろしいか」
 面倒と見たのか、法観は横を向いて掌を差
し出す。遠くで何か、喚声が上がったような
気がする。先刻からの櫓門の上の武者の動き
が、どうにも気になっていた。小手を翳す方
向は、三山の最も東、大乗院。
「ならば迅く」
「では」
 一遍の手から念仏札が渡るその時、法観は
低く呻いた。
「しまった」
 僧兵が目を見張る。一遍が何かをしたと勘
違いをした。
「この乞食めが」
 ぶん、と左手の拳が唸りを上げたが、法観
に対し、拝するように軽く頭を下げた一遍に
はそれが当たらない。
「止せ、波東房」
「わんの親方」
「良い、違うのだ」
 法観の息が荒い。良く見れば自分と似た年
頃と容姿を持つ一遍の、その視線が法観の両
眼を射る。
「遅かった」
「遅くはない」
 僧兵姿の波東房には、何の問答が始まった
のか、見当が付きかねた。二人は殆ど向き合
うようにして、再び言葉を交わす。
「もういまさら、元には戻れない」
「戻る要もなし」
 僅かな一遍との接触で、法観は確実に何か
を感じ取っていた。やはり、それだけでも凡
庸な僧ではない。機縁さえ誤らなければ、ど
のような大徳となっていたか。法観は息も荒
く、一遍に問う。
「では、どうせよと」
「捨てるばかり」
 ますます、波東房には訳の分からない話が
続いていた。その間にも櫓門の上から、四方
へと盛んに指示が飛ぶ。何事かの異変が、確
実に菩提院へと迫っていた。喚き呼び交わす
声が、いかにも切迫している。
「御前」
 房人が一人、駆け寄ってくる。垂髪を背後
で束ね、まだ稚児臭さの抜け切らない若者が
法観を呼ぶ。
「大乗院が」
 風に焦げ臭さが混じっていた。房人の言う
大乗院にでも火が入ったか。それとも上津の
三山から一斉に炊煙でも上がったのか。
「一遍房、どの、であったな」
 法観は何故か笑った。ゆっくりと頷き、一
遍を見た。念仏札を握ったその手で、一遍の
手をとる。
「捨てるわけに行かないものも、世間にはあ
り申す。が、この念仏札、有り難し」
 それだけを言うと、法観は大音に一声、お
うっと吼えた。
 一遍はまだ、称名をする。
 法観は背を返した。どう惑っても、何れは
同じこと。床板を踵で踏み鳴らし、こう、激
しく歩くことこそが、今の自分には最も相応
しい。結局法観は、そうと諦めた。荒々しく
踏み鳴らすその足で、法観は修羅の大地へと
身軽く飛び下りた。
「行くぞ、波東房」
 垂髪の房人はその法観の先を走り、僧兵姿
の波東房だけが、称名する一遍を振り返りつ
つ、首を捻っていた。

第八章 聞名 一

  大野の荘の領家は、京都の三聖寺になる。
その預所代官が記した所の当時の記録によれ
ば、三院三山方と風流の群衆との衝突は、当
地では滝合戦と呼称されたと云う。聞けば、
その名そのものが、日常から離れた異類異形
の闘争のようでもあった。
 風流も七日の夜に入り、大群衆はついに宇
佐神宮領の緒方側にまで乗り入れていた。鶴
崎を発した時には、規模は百人程度の流し踊
りに過ぎない。それが一夜を経るごとに、確
実に倍に膨らんでいる。七日の夜のこの日に
は、傍居三郎神を担ぐ人々を加えれば、その
数は万にも達する勢いを持つ。
 それだけの人数が動けば、これはもう国を
覆す一揆にも等しい。公文も雑掌も、年預も
判官も、支配階層の全てが息を飲んで、事の
成り行きを見つめていた。誰もが手を出しか
ねる勢いが、鶴崎から緒方まで、川筋の岸を
削りとる大海嘯のように上ってくる。
 責任は、三山方にある。そう周囲は指弾す
る。混乱の及ぼす影響は、在地の領主も現地
の代官も等しく被るが、誰もがその責任を逃
れたい。風流の大群衆が物尽くしに数え上げ
るものが三山の非ならば、三院は全てにおい
て責任を取らなければならない。それが支配
の形と云うものでもある。しくじれば、水に
落ちた犬が叩かれる。
 上津側の岸には三山方、川中と滝河原には
風流の大群衆。双方の集団は互いに喚きを上
げて対峙する。
 菩提院、大乗院、極楽院の川筋三山方が、
ずらりと袈裟頭巾の僧兵を並べれば、踊り方
は常設の市庭のある三重郷辺りからも、異形
異類の者を誘い集めていた。
 川中から滝河原の向こうは、びっしりと踊
る風流の異装の色で埋まっている。昼は紙子
に摺った派手な金銀の模様が眩しく反射し、
夜に入っては大松明を中心に踊りの輪が出来
る。銅鉦鼓も鼓も鳴り続け、音頭の調声は人
波を煽り立てて左右へと駆け廻らせた。時折
り野太く吠える合の手が、万余の声を揃えて
如何にも不穏な地鳴りを渡らせる。
 法観は憎げに笑った。
「なるほど、愚か者ほど良く吠えるわ」
 頃は修験の秋峰も終わりに近付き、法観と
しては、助勢の山伏を傭い入れるのにも都合
が良かった。風流が農閑の百姓下人を集める
ならば、打刀と金剛杖を携えた修験の方が、
武力としての価値はある。
 秋の日は釣瓶落とし。井桁の縁から蹴り落
とせば、負け犬は井戸の中で情けなく吠える
のだろう。法観は大篝火に火を入れるように
命じた。どちらが負け犬か、川筋一帯に示さ
なければならない。その強い意志が、自らの
明日を作った。
 大篝に燃える炎を見るたびに、法観は焼き
討ちされた大乗院を思った。小さな庵室から
始まり、金堂が建てば次は法堂。そうして漸
く一院を建立した。次の夢は宝塔を聳えさせ
ることでもある。三山三院を支えるだけの檀
那を獲得し、組織を維持することが、どれほ
どの労苦を要するか。踊る阿呆には、代価を
支払わせなければならない。
 夜に入っていよいよ盛る風流念仏の大騒ぎ
は、河原を越えて鳴り響く。腹を据えた今と
なっては、騒ぎは盛るほど良い。その方が、
手に入る果実は良く稔っているのだろう。
「わんの親方よ」
 波東房が鞘を払った長刀を突く。法観だけ
が腹巻も巻かず頭巾もしない。武装らしきも
のを一切退けた法観の傍らで、魁偉な法師は
太太しく言い放つ。
「せっかくここまで出世したんだ。行くとこ
まで、行きましょうや」
「これを機会に志賀から下流、荘々地頭方の
首根っ子でも抑えてみせるか、波東房」
「領家方は、どうせ決まりのものが上がれば
良いと逃げ腰だし、中村田中の禅季房あたり
も、志賀の惣領には楯突いておるわな」
「ほう、おぬしは欲が深いな」
「欲ではないぞ、わんの親方。漢土では、そ
れを天意と言うそうだ」
「天の与える所をとらざれば、これ、災いを
受くるか」
「そうじゃ、そうじゃ」
 法観は苦笑して瞼を閉じた。押し引きの頃
合はまだ満ちてはいない。矢戦が緒戦を制す
れば、後は首魁を獲り他を蹴散らせば済む。
波頭を堰かれた水流は、行きやすい方向へ逃
れて行く。要は巻き込まれないように、上手
に勢いを避けること。
 視界の裏に、篝火の炎が赤く透ける。眼を
閉じてみると、風流念仏の称名の声が、それ
だけはっきりと聞こえる。意外にも調声の声
は、胸に沁みる哀感を湛えていた。
「ほう・・」
 非人たちが三山に歯向かい、結束する。確
かに意外でもあるが、もし自分が同じ非人に
生まれていれば、同じにそうしていたのかも
知れない。法観は調声の震える声に、ふと、
無情の風を感じかけた。
 そんな感懐を抱くとは、自分でも意外に思
えた。別に弱気の虫でもないのだろうが、随
分と奇妙な己れの心の有り様に、法観は違和
感を覚える。
 まあ、理由はあった。そんな己れを嗤うよ
うに、法観は眼を閉じたままで小さく笑う。
見付けた波東房が、髭を撫でた。
「何じゃ、わんの親方よ。太い腹をしておる
ではないか」
「いや、そうではない」
 調声の音頭の声が交替した。今度のは妙に
軽い弾みがある。
「違うのだ、波東房」
 どう違うか。法観はすでにこの時、自分が
終わったと感じていた。何故そんな風に思う
のか、理由は一つ。
「あの、房よ・・」
 瞑目したままの法観に、波東房はただの独
り言と見たのか、それ以上を問う気力をなく
していた。一度、辺りを見回す。それから、
後ろを向いた。
「おい」
 垂髪に鉢巻きをした背後の房人へ、指図の
指を立てる。頷いた若者は、配置の確認へと
走った。誰かが張った弓の弓弦の具合を確か
めて弾く。その唸りが、魔を払う鳴弦のよう
に太く響いた。
 波東房は凝りを解すように首を回す。手持
ち無沙汰に堪えかねて、大篝の鉄篭に割り木
を投げ入れる。ぱっと新たに火の粉が舞い散
ると同時に、彼方で喚声が上がった。
「くっ、非人ばらめ」
 罵る波東房の前に、突然、篝火を映して角
三つの鬼の面が現われた。
「お、何だ」
 そんな所へ風流の一味が現われるはずがな
かったが、三山の行人にしても妙なことをす
る。風に流れて汗臭さが、ぷんと臭った。
「持ち場を離れて、何を戯けたことをしてお
るのだ」
「いや、菩提院さまに」
 随縁房は面をとる。波東房は長柄を肩に担
ぎ直した。
「何だ、随縁房どのか」
 その声に法観は、物思いから戻るようにし
て表情を取り戻した。そう、あの風流念仏の
調声の声は、丹生里の随縁房の声にも確かに
似ていた。
「これは、随縁どの。まだ丹生里かと思った
が、その妙な姿では、あ奴らの惚けの様子で
も、探ってこられたかな」
「いいえ」
 法観はそう返答を聞きながら、ゆっくりと
眼を開けた。違いない。その声は全く、今聞
いた念仏の声。
「随縁どの」
「はい」
 随縁房は頷く。
「あの風流は、鶴崎から、私が音頭をとって
率いて参りました」
「戯言を」
「そう、聞こえますか」
 波東房が低く唸る。法観は余人を寄せ付け
ないように、視線で鋭く波東房を制した。
 法観が問う。
「それは随縁どの、如何なる意趣があっての
なされようか」
「お分りであろう、菩提院さま」
 法観は黙って随縁房の視線を受け止めた。
随縁房は、唇を真一文字に引き結び、法観へ
の愛憎に堪えている。そのまま、沈黙の時は
流れ続けた。
 特別に語り合わなければならないほど、お
互いの理解が薄くはなかった。ここ数年、意
を合わせて死に狂いに働いた。三聖寺の権威
に抵抗し、宇佐八幡の勢力に反駁し、本寺の
金剛宝戒寺からは離脱する。帰依者を殖やす
ことが、三山三院の死命を制する。
 川筋の経済と土木事業を縦糸にして、真言
律の教線を張る。洪水を防ぎ、旱の害をなく
す。橋を架け、津を整備する。貧を養い、富
を導く。それが富者の滅罪の徳ともなり、貧
者の救いともなる。万民のため、そう信じて
いた。
「随縁どのの、情けの深さよ」
 法観は言う。
「しかし、思うてもみよ。愚か者は、十日を
生き延びる大事の飯を、たった一日に喰い尽
くして飢えて死ぬ。そうでもあろう」
「確かに」
「ならば我らは仏者の慈悲として、そんな愚
かにどう向かえば良いか」
 随縁房は胸を張る。
「一緒に喰らい、一緒に飢え、一緒に死ぬ。
それで良いか、と」
 法観が、やはり笑った。
「合戦を仕掛けるか」
「お望みとあらば」
「我らは強いぞ」
「こちらも、最初から命のないものと決めて
おりますから」
「で、誰と戦う」
 随縁房が妙な顔をした。それを見て法観が
再び破顔する。
「誰とは」
「愚僧は降りた」
「降りた」
 今度は波東房が笑った。
「わんの親方よ。随縁房どのが、眼を白黒さ
せておるぞ」
「そうか、波東房」
 法観は笑顔を引き締めた。
「なあ随縁どの。武士でもなし僧でもなし、
非人や暮露が合戦をして、獲るものが何かあ
ると思わるるか」
「有り申す」
「非人長吏を打ち殺したとしても、自由な世
間はないぞ。とすれば、所詮は上に戴く権威
が、ただ此れと彼れと、取り替えになるだけ
ではないのか」
「いいえ、菩提院さま。命懸けで戦った事実
が残ります」
「ほう」
「菩提院さまが降りるとは、川筋から退かれ
ると言うことでしょうか」
「いや。それも、もう止めたよ」
 波東房が気合いを込めて、長柄の石突きで
河原石を叩いた。
「随縁房どのよ、言うことはそれだけか」
 尾峯辺りで何かが光った。火光が飛んだよ
うにも見える。随縁房は静かに言った。
「川筋の幾らかを、非人持ちと致したく、菩
提院さまに願います」
「面白いな」
 鞘を払った波東房の長柄が唸る。首筋の皮
一枚を擦るか擦らぬか、風だけが随縁房の耳
元を通り過ぎた。
「随縁どのは新しい夢を得られたようだ」
「なりませぬか」
 法観は一瞬、黙り込んだ。そして瞑目し、
眼を開け、それから言う。
「所詮来た道。何処までも、行くまでよ」
 波東房がもう一度振り上げた長刀に、法観
は手を上げて制止する。
「あの烏合の奴輩をどう纏め上げるか、随縁
どのの手並みを小坊主どもにも習わせたい。
見事、なされよ」
 言葉の無力さは、論理に依拠する人の無力
さでもある。滝合戦は、その夜のこと。

第八章 聞名 二

 木地山続きの台ヶ峯からは、上津の前一帯
の滝河原までが、まるで松明の海に見えた。
盆の送りの万燈会のように、暗い滝河原に無
数の炎が揺れていた。
 一遍は台ヶ峯に立ち、思慮を包んだ瞳を炎
の海に向ける。対岸の上津側の篝火の列は動
かないが、こちら側の松明は、喚声と一緒に
頻りに揺れていた。両者の川中には、盆の精
霊船に見立てて飾り付けた高瀬舟が、何艚も
曳き綱で固定されている。舷側に並べた松明
からは、火振り漁のように大量の火の粉が、
黒い水面に弾けて落ちた。
 水に炎が弾けると、天狗の神輿担ぎのよう
に、わっと喚声が谷から谷へと渡る。夜が深
くなるに連れ、喚声が湧く間合いが次第に詰
まっていた。
 踊りながら酒を飲み、飯を喰い、踊り疲れ
ては倒れて眠る。目が覚めれば走って追い付
き、再び踊りの行列に加わった。七日七夜、
積み重なった興奮と熱狂は、そうして頂点に
至ろうとしている。だが、始まった祭りはい
つかは終わらなければならない。
 一遍が九国修行に模索していたものは、情
け薄い己れの、衆生への慈悲。この眼の下に
揺れる松明の海の、その炎の一つ一つが衆生
の、生きた命の躍動でもある。
 法師に全ての要なし、と思っていた。では
今、修羅闘諍の巷と化して行く人の世に、仏
者はどう関われば良いのか。
 一遍の背後に人の荒い息がする。
「異文さまの神輿が、仮宮を降りました」
 欅の切り株に坐る彼岸丸に、佐久がそう報
告する。地頭分も領家分も隔てなく、各在家
屋敷から下人百姓が走り出る。鶴崎からの風
流行列に合流する形で、異文の神輿が熱狂の
中で迎えられようとしていた。
 風流は恐ろしい。行方も目的も知れない騒
ぎは容易に暴動へと転化する。支配の日常を
覆す風流への禁令は、歴史上に何度も登場す
る。しかしそれだけ禁じても人は踊った。
 無秩序な風流を放置すれば、騒ぎは一層大
きくなる。支配を示すためには、武家の家人
も所従も武装して駆け付けざるを得ない。武
力さえ整えば、必ずそうした。
 今は秋三ヵ月の異国警護番役勤仕に、守護
の勢の殆どが博多へ出ていた。そんな事態で
もなければ、三山の僧兵と房人に矛を揃え、
郡衙の兵も荘々下司の武家も突っ込む。そう
なれば多くの者が生命と利益を失った。
「どうなされる、一遍どの」
 彼岸丸は心臓の痛みに堪えるように、分厚
い掌を胸に宛てた。その下にはただの白い紙
に戻った念仏札がある。
「これでは、どちらにとっても不幸なことに
なってしまう」
 施療施薬の行ないは、金剛宝戒寺への寄進
と同じ滅罪の布施と信じていた。三山の非人
支配には酷い面もあるが、それがなければ野
垂れ死ぬ乞食も多い。
「彼岸丸どの」
 一遍の額に力が漲っていた。
「おう」
「見えましたぞ」
「見えたとは」
「この修羅からの出口が」
 慈悲と慈悲との衝突に、慈悲の在処を問わ
なければならなかった自分がどう関わるか。
それが賦算の意味でもあった。
「一遍どの」
 彼岸丸の指す眼下に、青い夜光がふわふわ
と漂う。その夜光の飛ぶ先に、異文の神輿が
あった。板輿に神笹を立て回し、四方紙垂の
中心に異文が坐す。台ヶ峯から見えた一瞬の
後に、青い夜光は異文を追い越して滝河原へ
と向かう。月を隠し、星を隠し、低い雨雲が
緒方の空を覆い始めていた。

第八章 聞名 三

 自力の行の往き着く果ては、結局「我が悟
り、我が教えのみ貴し」の驕慢に尽きる。物
の道理から言っても、善と善とが対立するは
ずはない、対立が起きるとするならば、双方
がその時点で不善でもある。
 対立の起きない場所。そこが南無阿弥陀仏
と一遍は思う。
 阿弥陀仏は本願ではなく、本願は南無にあ
る。能帰の心の南無は、始覚の機であり、本
覚の法である阿弥陀仏は、所帰の行。機法一
体、心行相応、始本不二が南無阿弥陀仏。
 定義して言えばややこしいが、つまりは簡
単なこと。
「称うれば、仏もわれもなかりけり」
 純一に「今」を観るなら、対立は存在しな
い。
「聞名欲往生」
 人のよそに念仏するをきけば、我心に南無
阿弥陀仏と浮かぶ。一遍の、捨てて捨て続け
る捨身の意味は、今、ここにこそあった。
 河原一面の炎の海を、青い夜光が狂い飛び
回る。それを見て、誰かが叫んだ。
「見よ、夜叉の釣瓶火が、傍居三郎神さまの
露払いをしてござるぞ」
 その雄叫びを受けて、人々の喚声は鬨のよ
うに轟いた。
「おう」
「おう、おう」
 一遍は走った。走りながら己の企みを捨て
る。企みを捨て、作意を捨て、自らを自らと
思う心を背後へ振り捨て一遍は走る。
「南無阿弥陀仏」
 彼方では風流行列が、鉦鼓と太鼓で同じ南
無阿弥陀仏の名号を称えていた。
 河原の人には風が走ったとしか思えない。
一遍の衣の裾が、一瞬焚火の火の粉を舞い上
げた。かつかつと忙しく鳴る下駄の音は、そ
のまま名号の調子を刻んでいた。
 すでに飛礫が双方から飛び始めていた。高
瀬舟にも滝河原にも、小石は山と積まれてあ
る。その小石を手に手に取り、火光に白く尾
を曳く餅のように、飛礫が夜空を飛ぶ。
 応じる三山方も、上津河原の石を一斉に投
じている。
「良いか」
 波東房の大地を震撼させる号令が轟いた。
居並んだ射手の鏑矢に、火が点じられる。
「放て」
 放物線を描いて火矢が飛ぶ。矢は過たず、
天道花の綾藺笠に突き刺さった。
「仕たり」
 天道花が燃え、笠が燃え、人が燃える。高
瀬舟に突き立った無数の鏑矢の火は、そのま
ま精霊船の送りのように、舟を激しく燃え上
がらせた。
「燃えるわ、燃えるわ」
 炎が上ると、闇が一層暗く濃く見える。高
瀬舟の舷側に櫂のように突き出た松明は、元
からも同時に火を放ち、ばちばちと派手な音
を立てながら水面へと落ちる。僧兵と房人た
ちはそれを見て、盾を叩いて口々に喚声を上
げた。
「わんの親方よ、舟が勿体ないなあ」
「仕方あるまい」
 法観の眉宇に、強い意志が浮かぶ。迷いも
気の弱さも、ただ大慈大悲の妨げとなる。自
分の一瞬の躊躇が、それだけ衆生に不幸を及
ぼす。それだけのこと。法観はそう信じよう
としていた。
「盾を前へ」
 失われて良い生命などは何処にもない。そ
んなことは分かっている。だが、それでも人
は戦をする。
 裹頭の僧が低く唸った。見事に燃える高瀬
舟に、一際大きな炎が上がる。同時に大音響
が轟いた。舟に積まれた大太鼓の皮が、火に
炙られて乾き切り、耐えかねてついに破れ弾
けた。その時に、深々と大地を揺るがす響き
が起きた。
 おうっと云う声が、寄せては返す波のよう
に滝河原を何度も渡った。
「何だ・・」
 波東房が小手を翳した。川向こうの松明の
海に、何事かが起きている。瞬きをする僅か
の間に、青い火柱が夜空へ昇った。
「わんの親方、あれは何でしょうなあ」
 法観は奇妙な胸騒ぎに、その青い火柱の根
元を凝視した。

第八章 聞名 四

 一人ではない。そう誰かが囁いていた。
 風流の熱に狂うのも、踊りの足を揃えるの
も、孤独を逃れたいから。踊りの躍動が、直
面する生命のはかなさを忘れさせてくれるか
ら、だから人は踊る。
 旋回舞踊の廻る中心には、人を孤独に陥れ
る、動かざる存在があった。絶対不在の不変
の中心を廻るなら、無常遷流の人の生命はた
だ一瞬に過ぎない。そう気付けば、誰もが生
命のはかなさに悲哀を抱いた。
 だから踊る。踊れば誰にでも、踊躍の一歩
が世界の果てへの跳躍に等しいと分かる。そ
して孤独を際立たせる踊りが、孤独を突き抜
けた時に、一人ではない、と世界が囁く。
 異文には風が視えていた。その風は、旋回
舞踊の中心にある。踊ることは、神の光の裡
に消滅すること。
(が、何故悲しいのだ)
 悲しさは何処までも続く。神の光に抱かれ
て、神人一つの合一の時が輝けば輝くほど、
日常のくすみは暗く重い。
  何せうぞ くすんで
   一期は夢よ ただ狂へ
 神への愛に狂うことは、至福の夢でもあっ
た。しかし、その夢に狂い続けて生きること
は誰にも出来ない。
(狂い続ける、それが叶わぬからこそ、狂い
人ぞと我が身を呼ばわる)
  繰る繰る繰るとぞ 糸の繰る
   繰りたる糸の 糸車
  思ひ廻せば小車の 小車の
   繰りたる小車 小楢葉車
 狂いの舞踊から戻った日常には、果てしな
く静止した大地の重力がある。
(では、人は何方に生きるのだ)
 異文の酔いは醒めつつある。その酔いは意
識の闇から湧いていた。淵源に指を延ばし、
盲目のままに手探りする異文は、その闇から
見上げる視線のあることに気付く。
(夜叉丸)
 産まれたての仔のように、夜叉丸が見上げ
ていた。その時、喚声が肉体の鼓膜に届いて
聞こえる。
「傍居三郎神!」
 異文の体が、その怒号に震えた。角三つの
鬼が吼え、闇を埋め尽くす松明の炎が渦を巻
いて旋回する。
 夜叉丸が問う。
「何処へ行くんだい、異文」
 異文は膿み崩れて欠けた指のそのまま、一
点を指す。
「あそこね」
 異文の視た風の場所。旋回する祈りの地点
は、炎の海に囲まれていた。
 その一画だけに、全く色の違う時が流れて
いる。その色こそは求めていた色と、異文は
知る。
「見付けたよ、夜叉丸」
「あれかい」
「そう、吾と共に行く、彼方の岸」
 神は不在。神は不可知。絶対の虚無に向か
い合い、一つの体で生きる日常などは、何処
にもない。しかし、一遍は言う。
「称うれば、仏も我もなかりけり」
 うつろうことのない、決定である阿弥陀仏
とは、異文には神の光そのもの。
 人の心は決定ではない。三千に偏する不定
の心を抱える只人が、どうして神の光の永遠
と、一つに生きられようか。
 しかし、一遍は言う。
「六字名号は一遍の法」
 孤なる人と、遍なる神が、名号に合して一
遍の体となる。
 異文の耳に、風流の激しい律動とは異なる
称名念仏の声が届く。
「夜叉丸よ、あの声だ」
 その声は、迷いを去り、我を去り、悟りを
も去る。救いを求める心を去り、菩提を願う
心を去り、仏を思う心をも去る。
「ああ、吾、遠回りをした」
 称名する声は、彼岸の阿弥陀仏を求めては
いない。求めずに、ただ称名する。
 異文の孤独は、神と切り離された悲哀にあ
る。しかしその称名は違っていた。異文は魂
の耳を澄ます。
「聞こえるよ」
 異文の潰れかけた片眼から、涙が零れた。
そのズィクルは、神を求めてはいない。
 阿弥陀仏を求めるとは、我が身の外に、絶
対の存在を立てることでもあった。絶対の光
である神を求めずに、ただ神の名を称える。
それが人の裡なる、ただ一つの神の場所でも
あった。その称名が、そう告げている。
「ああ、夜叉丸よ」
 異文はそこにいる者が誰であるのか、もう
知っていた。夜叉丸は、我が身の裡の水府の
声に耳を傾け、我が身の裡の桜丸の称名を聞
いていた。
 異文は言う。
「人は、歌うために生きていた」
 そして、生命を踊るために、生きていたと
知る。
 滝河原が揺れた。一点の青い夜光が、赤い
松明の炎の色を駆逐して拡大する。その時、
上津から台ヶ峯まで、滝河原を挟んだ谷間が
全て、大念仏の称名を聞いていた。
 菩提院法観は、いつの間にか川の中へ踏み
入っていた。河中水行をするように、腰まで
浸かって滝河原の異変を見つめていた。
 見上げれば周囲の山々には、奇妙な夜光が
点っていた。天上の星々が降りたように、黒
い稜線を対の夜光が並んで飾る。さらには山
腹の闇を埋めて夜光は明滅した。それらの全
てが双つの対となり、明滅して眼下の滝河原
を囲んでいた。

第八章 聞名 五

 雨の上がった朝靄の中に、薄青く煙が流れ
ている。夜半の雨に消されて、滝河原のあち
こちでは篝火の燃え殻が燻っていた。
 放棄された松明の数だけ、人はいた。しか
し夜が明けた滝河原には、もうそれだけの群
衆は見えない。湿った河原に筵を巻いて坐る
者も、殆どが祭りの後の脱け殻のように、物
憂く表情を失っていた。
 盆地の底に溜まった霧は、川靄と一緒に気
流の下へと流れる。その靄の流れる川中の岩
に、無残に燃え落ちた精霊船の残骸が、危う
く引っかかっていた。
 親鳥を慕うように、黒い高瀬舟の骸に烏が
二羽、舞い降りる。二羽の烏は鳴き交わし、
燃え殻の炭を嘴で突いた。鳴き声が谷間に木
霊し、返らない声に烏は飛び立つ。
 異文の担がれていた板輿は、河原の地面に
放り出されていた。その傍らを、ふらふらと
投げ遣りに傍居の非人が歩く。
 男は朝の飯を漁るのか、誰かの捨てた行器
の中を覗く。何もないと分かると、つまらな
そうに行器を蹴飛ばして、やはりふらふらと
立ち去って行く。
 行く先は、賑わう三重郷の市庭か、それと
も海の際の坂ノ市か。朝靄の中を男は、祭り
の終わった虚脱を纏い、漂うようにして下流
へと去って往った。
 傍居三郎神の、捨てられて毀れた板輿の向
こうには、数人の動かない影が、ひっそりと
鎮まる。朝の静寂の中に、青い秋の靄を墨染
めの衣とするように、男たちは静かに坐って
いた。
 影が動く。一人の男が五人の中から抜け出
し、一人の聖の前へと進む。
 一遍は、念仏札を随縁房に差し出す。
「受けられよ」
「南無阿弥陀仏」
 随縁房は合掌し、決定往生の念仏札を受け
た。
「あなたさまの、おん名は」
「南無阿弥陀仏、一遍」
「一遍房と」
「あなたは」
「私は・・」
 随縁房は名乗りかけて、束の間、口篭もっ
た。今の自分は、果たして誰か。
「随縁房、真教と申します」
 一遍の厳しい眼光が和んだ。
「随縁とは、幼き頃出家した我が名と同じで
もある」
「それは」
「その名、よろしからず」
 懐かしそうに、一遍はそう言う。真教は眼
を上げた。
「私もまた、南無阿弥陀仏の名号であること
を知りました」
 一遍は黙って頷く。真教は続けた。
「一人の南無阿弥陀仏は、全ての人の南無阿
弥陀仏でもありました」
「あの時」
 一遍は言う。
「あの時に、慈悲とは何かが顕れた」
「私に、新たな名をお授け下さい」
「では、吾も南無阿弥陀仏ならば、他も阿弥
陀仏、と」
「他阿弥陀仏」
 真教は伝法潅頂を受けるようにして、頭を
下げた。この人こそ、後の遊行上人。遊行二
祖、他阿弥陀仏真教はこうして生まれた。
 慈悲の在処を求めても、貯えた蔵がある訳
ではなかった。生まれつきに性質があるので
もない。他人がいて、初めて慈悲がある。孤
独に慈悲の在処を求めたところで、自己への
偏愛しか生まれない。そんな当たり前のこと
に、自分は気付かなかった。
 一遍は、慈悲と思う心を捨てた。
 他阿弥真教、菩提院法観、暮露の豊国、そ
して異文と夜叉丸。この時から彼らは、一遍
の念仏賦算の遊行に随従する。傍居も夜叉も
暮露暮露も、捨て聖一遍と共に、捨てる遊行
の捨てる旅へと出発する。
 建治二年、秋。一遍は孤の悟りを捨て、名
号が名号を聞く世間へと、その踊りの足を踏
み出した。

                了

捨て聖

捨て聖

文永の年、紀州熊野を歩く念仏聖、智真は一人の僧に行く手を遮られた。世俗の縁を捨て、念仏を勧めて生きることに生命を懸けようと、勧進に踏み出したばかりの智真は、僧の疑念に応えることが出来ず、熊野本宮に篭もる。そこでの幻想体験を通じ、智真は一遍と名を改め新生する。 時宗の始まりの物語。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-06-18

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