死化粧談義
はじめて使うので、テスト用に短篇を掲載してみます。
死化粧談義
その日、薄いベッドに臥せっていたのは自分の母であった。声援の中、外は自由を求めて飛び立たんばかりの英雄たちが列を成していたというのに、母は薄暗い部屋で外の声を聞くまいとしていた。
死化粧師のアベルには薬を買う金も医者を呼ぶ金もない。このままみすみす母を死なせるだろうことは、はた目にも見て取れる。彼はどうにかして金を作ろうと努力したのだが、それも虚しく、すべて水の泡となり消え果てた。今、彼の手には一ペンスも持ち合わせてはいなかった。そんな彼のもとに奇妙な依頼が来たのは神の救いの手だというべきだろうか。革命成功直後、凱旋の前日である。
「死化粧を施してほしい」
がっしりとした体つきで眉の太い男。目つきは鋭く、サバンナの獅子を連想させる。アベルは一目でその男が革命家のアイザックであることに気が付き、ぶるっと身を震わせた。
「ああ、申し訳ございません。僕はずっと真っ当に生きてきました。どうか、しょっ引かないでいただきたく……」
「君は何か勘違いをしているみたいだな。私はアイザックだが、今はただの依頼人。肩の力を抜いてくれ」
アベルは目玉が飛び出るのではないかと思うほど、目を見開いた。少し上ずった声でお客様?と尋ねる。
「そうだ。中に入れてはくれないか。少し内密な話がしたいものでね」
「ああ! ごめんなさい、偉大なる英雄を立たせたままで。どうぞこちらへ。お恥ずかしいほどみすぼらしいのですが」
アイザックは丸椅子に腰かけると、黒い大きな箱をザックから取り出し、ふう、と息を吐いた。葉巻煙草を燻らせ始める。白い煙が部屋に充満して、むせ返るような匂いがした。アベルは母の眠るベッドを一瞥したが、黙ったままだった。
それで、とアイザックは鷹揚として言う。
「処刑された国王の首に死化粧を施してほしいのだ」
「え?」
アベルは言葉を失い、急に現れた革命家を凝視する。
「死化粧とは本来死人の顔を美しくするものだが、今回は真逆だ。奴の顔を暴君らしく鬼の形相で頼みたい」
はあ…とアベルは眉をひっさげて、黒々とした大きな箱を見つめた。この中に生首があるのだと直感していた。
アイザックは重そうな袋を机上にドサリと置いた。中に詰め込まれた金貨がはずみでバラバラと床に落ちる。アベルは反射的にしゃがんで、落ちた金貨を拾い上げた。
拾い上げて、彼はハッと息を飲んだ。アイザックの顔色―侮蔑の表情だった―をうかがい、いそいそと立ち上がる。
「し、失礼しました」
アイザックはゴホンッとわざとらしく咳をした。
「私は明日の朝、悪魔となった国王の首を取りに来よう」
革命家は煙草を加えたまま立ち上がった。アベルは金貨を握り、深く礼をする。
「しっかり頼むぞ。今君に預けた首は明日の凱旋の主役なのだ。それが醜ければ醜いほど正当性が増す。国王は殺されて当然だと。私は英雄に近くなる。いや。明日、私は本当の英雄となる。ああ、分かっているだろうがこのことは他言無用だぞ。しゃべった暁にはお前の首も凱旋に据えてやる!」
酔ったかのように革命家は言い、国王の首と金貨の袋を残して出て行った。
日はとうに暮れていた。夜気が窓から滑り込み、月の冴えた光が銀盤に乗せられた王の首を冷たく照らしている。
薄く粉をはたいた国王の顔は若々しく、とても美しかった。死んでいるとはとても思えず、また彼が暴君にも見えなかった。―アベルは頭を抱えた。
「国王。僕はあなたの顔の血を拭い、少し粉をはたいただけです。ほとんどいじってないのですよ。それなのに。ああ、どうしてそんなに純真な目をしているのですか。これは罪を知らず、誰も殺さなかった人間の目ではないですか!」
化粧道具を持つ彼の手が震えている。
「悪魔にしなければならないのか、僕は。どうすれば良い? こんなの、ダヴィンチでもミケランジェロでも無理だろう!」
アベルは両手で顔を覆った。何度も首を振る。
「だけど、背に腹は代えられない……。あの量の金貨が僕には必要だ。やるしかないのだ、アベル。ああ、そうだ。あの顔をカンヴァスだと思えば良いじゃないか! あれは人間の顔じゃない、真っ白なカンヴァス! 僕はただ、悪魔の顔をそこに描くだけ……」
顔を覆っていた両手をどけると、若くして死んだ王と目が合った。ヒッと息を呑む。
「ゆ、許してください」
アベルは目を細め、まず国王の澄んだ青い瞳を墨で黒々と潰していく。青みがかった粉を頬にはたき、血色を悪くした。形の良い唇は紫色のルージュを塗り、ナイフで切り込みを入れ、針で縫う。不自然に歪んだ唇は悪意に満ちていて、毒ばかり吐きそうな気さえした。
「ああ、これこそ暴君だ。本当に化け物だ。こんなまずい顔の男ならたとえ正義であっても信じはしないだろうよ!」
アベルの疲れた声は静かな作業場に響いた。
彼の作業は一晩中かかった。目を吊り上げ、艶やかな髪をほつれさせ、王を残忍な悪魔に変化させる。
朝日が昇り始めた時、銀盤の上には悪魔の首が、その隣には憔悴しきった死化粧師の姿があった。少しして、玄関のチャイムが鳴った。革命家アイザックが首を取りに来たのだ。彼は首を見るなり、歓喜の声を上げる。
「なんて素晴らしい出来だ! これなら誰も疑うことはない! 私は英雄だ!」
アイザックは振り返ると微笑んだ。その笑みが国王の首と何ら変わらないことにアベルは気が付いた。
(ああ、そうか)
うすうす感じていた疑念が、腑に落ちた。
革命家が意気揚々と首を持って、踵を返すのをアベルは疲れた顔でただ見つめていた。
数年後。アイザックが死んだ。
肺炎だったというから、その遺体は綺麗なもので、加工はほとんどしなくて良さそうだった。
―彼は己の死化粧をアベルに頼んでいたのである。
死化粧師は十字を切ると、革命家の饒舌な唇を悪魔のように歪ませた。
死化粧談義
3年前に書いた話なので恥ずかしいですね。もともとは映像シナリオ用に書いたものを小説にリメイクしました。