眠りの森
森に梟が戻ってきた。
「あの姫君は無事に旅立った?」
鴉が尋ねると梟は落ち着いた様子で頷き、それからいつものように目を大きく見開いて鴉をじっと見つめた。梟は寡黙な鳥である。
わたしたちはいつもの泉のほとりにいた。わたしはあたりに落ちている枯れ枝を集めて小さく盛り上げながら言った。
「百年は長かった。だがあの姫君にはそれだけの時間が必要だったのだろう。なんといっても、多くの人に守られながらなんの不自由もなく十五まで育てられていたのだから」
そして彼女は十五歳の誕生日に糸車の芯で指を突き、幼い日に魔女がかけた呪いによって百年の眠りに入った。もちろん魔女とは鴉のことだ。鴉が姿を変え、姫君が将来しかるべき日にしかるべく眠りにつけるように段取りをしたのだ。人は鴉がなぜそんなことをしたのか、と尋ねるかもしれない。だがそれは鴉が自らの意思で−−あるいは巷で語られているように、姫君のお披露目の際に王に招待されなかった怒りによって−−なしたことではない。姫君自身がそれを必要としていたのだ。鴉はそれを知っていたから、物事を正しく進めるために魔女の姿を借り、魔女の呪いという物語を使って、姫君のために道を敷いただけだ。鴉は知恵の鳥だ。鴉の知恵は昼を夜に導くために働く。そして梟は夜を昼に送るために己の知恵を用いる。
姫君は百年の時をかけてゆっくりと森を育てた。その森はいまここに広がっている森−−つまりはわたし自身ということだが−−とつながっている。どこでつながっているのか、と聞く者もいるが、それは「ここ」と手で指し示すことのできる場所ではない。だが、彼女の森はたしかにわたしの奥深くの、静かなところとつながっている。あの姫君の森だけではない。眠って森を育てるすべての者たちは、森を通じてわたしとつながるのだ。そのつながりをたどることで、わたしはすべての眠る者たちの存在を知ることができる。
「あの姫君はいい相手に巡り会った。幸せになるといいけど」
鴉が言った。だがわたしは微笑んだだけでなにも言わなかった。なにも言わなくても、わたしも鴉も梟も、みんな分かっていた。姫君は最初に眠り始めたときにはわたしたちの誰ひとりとして想像もしなかったような、素晴らしく深い森を作り出したのだ。百年眠る者も珍しいが、それによってこれほど豊かで錯綜した森を生み出す者も、めったにいるものではない。姫君はその森を存分に成熟させて、ふたたび自分の世界へ歩み出していった。彼女を連れ出した若者が姫君を幸せにするかどうか、それはわたしたちにも分からない。彼らの幸福は、彼らが二人の人間としてともに作り上げていくものだ。そして二人の人間の関係というものは、たとえ善人同士でもうまくいかないこともある。
「姫君は準備ができている」
先ほどからずっと黙っていた梟が言った。わたしと鴉はうなずいた。そう、姫君には準備ができている。たとえこの先なにかがうまくいかなかったとしても、姫君はそれを糧として人生をさらに豊かにすることだろう。彼女は森とともに大きく成長したのだ。
「姫君に幸あれ」
鴉が言った。
「姫君に幸あれ」
わたしも言った。あの姫君には祝福を受ける資格がある。
さまざまな者たちが眠りの森を育てるのを、わたしはずっと見てきた。わたし自身が彼らの眠りの森の中心だと言ってもいいだろう。なぜなら、先ほども言ったように、眠る者たちの森はわたし自身とつながっているのだから。わたしは森なのだ。
眠る者たちにもいろいろな種類の人間がいる。わたしは彼ら彼女らの作り上げる森を見るたびに感心せざるをえない。人の作る森は本当に多様で、ひとつとして同じものはない。東洋の海の向こうのある男の森は実に見事だった。樹々はすらりと伸びて野心的な勢いがあり、その一方でただやみくもに広がるのでもなく、きちんと区画が割られて整然とした佇まいがあった。おかげで陽の光もよく入った。わたしはあれほど明るい森をほかに見たことがない。あの森には、緻密な目論みと止むことのない意欲が満ち満ちていた。あの若者はきっちり三年眠ったあと、森を出ていった。そして鴉が後になって報告してくれた。あの若者は自分の村の近くの丘に登り、頂上にある大岩を力まかせに丘の麓まで転がしたのだという。それによって川の流れを変え、常に干ばつに苦しんでいた自分の村を救ったということだった。彼は眠っている間に森を育て、目覚めてからは作物を育てた。大した若者だった。
なかには目覚めたまま眠っていた者もいる。斉という国の威という王がそうだった。彼は、現世では目を開きつつ、心では三年間眠り続けた。そして実に狡猾かつ巧妙に、深く暗い森をこしらえ上げた。現世の彼は王となっても自分の務めを果たすことなく、酒色に溺れて手のつけられない暴君だった。心ある家臣は王から遠ざけられ、私利私慾のことしか頭にない奸臣たちが王を取り巻いた。彼が本当に目を覚ますまでは、ということだが。彼が眠りについて三年経ったとき、ひとりの家臣が彼に尋ねた。
「この地には大きな鳥がいて、宮廷の庭に留まっておりますが、この三年というもの鳴くことも飛ぶこともいたしません。この鳥の名をご存知でありましょうか」
威王が真に目覚めたのはまさにこのときだった。彼はこう答えた。
「この鳥は、飛ばないうちはそれきりだが、ひとたび飛べば天上にまで達するだろう。この鳥は、鳴かないうちはそれきりだが、ひとたび鳴けば人々は驚くだろう」
この言葉を聞いた梟は珍しく興奮した面持ちで威王の森へ飛び、自分を出迎えた他の鳥たちに告げた。
「梢の鳥たちよ、大鳥の天に届き、その声に人の驚くをしかと見届けよ」
寡黙な梟がその後、威王のことを語ることはなかった。だが鴉がわたしたちに教えてくれた。
「威王は評判の悪い小領主のいる地へ行った。実際はそこはみごとに治められていた。小領主の評判の悪かったのは、王の取り巻きに賄賂を贈らなかったから。王はこの小領主にもっと領地を与えた。反対に、評判のいい領主のいる地では、ほんとうは悪政が敷かれていた。民の暮らしぶりはとてもひどかった。領主は賄賂で評判を買っていただけ。威王はこの領主を処刑した」
彼は眠りながら自分の暗い森に入り、人々が心に正しい光を持つか見極めていたのだ。あの不思議な深みを持つ森はいまでもしばしばわたしの心に鮮やかによみがえってくる。深い森とは光をさえぎって暗闇を抱え込むところであるばかりではなく、その闇の中で小さな光を見定めるための場所でもある。威王はそれを知っていたし、その闇に平然と足を踏み入れる度量を持った君主だった。
百年眠った姫君に話を戻そう。わたしはこの姫君には祝福を受ける資格があるといった。彼女の将来が現実にどういう方向へ進むにせよ、それが幸福な将来となる可能性を持つという点において、彼女はすでに幸福なのだ。森を生む者たちは、ときとして最初から悲劇的な未来を運命づけられていることもある。わたしと鴉と梟は、そんな者たちをいく人も見てきた。かつて数十年の時をかけて森を育てたある女神、といっても、彼女が眠りについたときにはその神性を奪われて、すでに人間の女になっていたが、彼女は美しくも深刻に病んだ森を生み出していた。
彼女の森の樹々は丈高く伸び、太い根を力強く大地に下ろして密に枝を絡ませ、みずみずしい葉を茂らせて、そしてどこか微妙に歪み、ねじれていた。樹々の下の暗がりには声にならぬ悲しみの予感が満ちていた。森の深奥の小さな泉のほとりには、威厳に満ちたトネリコの大樹が一本あった。美しい木だったが、大枝を折り取られたあとには醜い傷がつき、その傷は木全体を芯から蝕んでいた。そしてその木は、昼も夜も常に燃え続けていた。それはかの世界樹ユグドラシルに生き写しの、炎にゆらめく幻影だった。
彼女は現実の世界で岩山の頂上に眠っていて、彼女を取り囲んで恐ろしい魔の炎が燃えていた。世界を統べる大神オーディンが、自らの娘をこうして岩山に縛りつけたのだ。やはり自らの血を引く別の若者がこの炎を乗り越えることを期待して。そしてこの二人が悲運の末に、神々の救い手となることを切望して。
その若者が大蛇を倒し、小鳥の知恵に導かれて魔の炎を乗り越えたとき、眠っていた乙女ブリュンヒルドは眠りの森から出て、ふたたび自らの足で歩き始めた。目覚めて最初に太陽に挨拶をしたときの彼女の神々しい美しさといったら、それはもう言葉には尽くせないほどだった。だが、彼女と彼女を目覚めさせたジグルズの歩む道は、呪われた意志によって避けがたく死に導かれていった。何より胸が痛むのは、彼らを生み出した者がそもそもの初めから二人の破滅を望んでいたことだ。彼らの進む先には死せる戦士の館ヴァルハラのみがあり、幸せな別の未来へ続く別れ道は与えられなかった。人の世の幾世代もかけてオーディンは遠大な計画を張り巡らし、ラグナロクによる神々の世の終焉を回避しようと躍起になっていた。
「ブリュンヒルドは呪いを解いた」
梟が静かに言った。わたしの思いを読み取ったのだろう。わたしはうなずいた。わたしにもそれは分かっている。ブリュンヒルドは自らを犠牲とすることでジグルドにかけられた呪いを解き、自分たちの最後の誇りを守ったのだ。もちろんそれは彼ら自身に定められた破滅を取り除くものではなく、あくまでも運命が許す範囲でできる限りのことをしたというだけのものだ。だがそれによって、たとえわずかとはいえ、ブリュンヒルドに救いがもたらされたことは間違いない。
隣で鴉が居心地悪そうに羽をばたつかせた。わたしは物思いから覚め、鴉に向かって微笑んだ。鴉はふたたび静かになった。オーディンはかつて鴉たちの主人だったのだ。わたしはふたたび自分の心を百年の眠りの姫に向けなおした。いまはあの姫君の旅立ちを祝うときだ。
わたしが集めた枯れ枝に向かって梟と鴉が調子を合わせて息を吹きかけ、小さな火を起こした。このささやかな炎がいつまでも消えることなくあの姫君の生涯を照らし続けることを、わたしたちは静かに祈った。
祈りの火は、わたしたちの心に穏やかな希望を照らし出して、静かに燃え続ける。
眠りの森