角砂糖と境界線
肉の記憶、というもので、おそらくいちばん古いのは、おかあさんのゆりかごのなかで揺れていた頃の、それ。ふいに、嘔吐。夜空の星が、かなしみを湛えて光っている、ことに対しての、無上の愛しさ、なんていうのは、ねおが、ばかみたいって、打ち砕いてゆく。理科室にいた、人体模型に、ときどき、恋にも似たときめきを感じていた、のは、あの、からだのなかの構造が、じぶんのからだのなかにも、存在しているから、たんじゅんに、臓器の形だとか、配置だとか、そういう話。この、ぼくの、外皮の内側にも、彼と等しいものが、つまっている、であろう、人体の神秘なるものを想像して、うっとりした。ねおは、そんなぼくを、きもちわるい、と一蹴して、それで、角砂糖たっぷりのコーヒーを、かぷかぷと飲みほす。合計、五つ投入。コーヒーカップの底で、とけきらなかった砂糖が、沈殿するガムシロップのごとく、もったりと残っているさまを思い浮かべて、うわあ、となる。真夜中、繁華街の、色とりどりの電飾をみつめて、くらくらする、二十四時の、おわりで、はじまりの、でも、ほんとうは、なにもおわっていなくて、はじまってもいない、完全なる、憧憬、が先行して、ひとびとは、えいえんに、夢のなか。
ねおが、コーヒーカップをこわす。爪をたてる、のは、ぼくの皮膚に。痛い、という感覚はない。はんたいに、きもちいい、というやつも。眠らない街では、ひとびとの憎悪だけが、濾過されないで、残滓は、夏のあいだに、焼き切れない思考回路のように、いつまでも、そのまま。
角砂糖と境界線