ヒラエス
赤い鳥居をくぐり抜けると、途端に陰鬱とした空気がまとわりついてくるような気がした。
退廃した空気はカガチの気のせいでしかないと、首を振って歩みを進める。
この場所は陰鬱としたものが集合してはいても、なぜか定まっていないはずのルールがそこかしこに敷かれ、適度な衛生を保っている。何かか誰かが勝手に掃除をし、そこらに転がった死体は勝手に消える。腐敗臭がする前に肉は片付けられていく。
通りごとに区分けのされていれるのは、入ってしまえば一目瞭然だった。もっとも、その区分けとルールが見えないものは端から消えていくので、ある意味では選別されているのかもしれない。
折り重なった塔のような建物を見上げて、カガチは何階だったかと首をかしげた。久方ぶりに足を踏み入れる場所は、なんとなくなじみがあるような安堵するような気配すらあった。それだけ、カガチが退廃とした空気に馴染みすぎた証拠でもある。
がたがたの歩かれすぎて丸みを帯びた石階段を上り始める。行きかうひとはお互いに顔を隠すようにしているか、反対にこれでもかときらびやかにしているかのどちらかだ。
そこは城、と称されているものの、城とは以て異なるものだった。がらくたが積み重なった末に塔になったような、秩序のない雑然さが上へ伸びてしまった、というほうが正しい。
それでもこの場所を、あるいはこの塔らを示して呼ぶのは『百重城』だ。折り重なり、法にも乗らぬ適当な建設をして広がっていくこの場所にはある意味ではふさわしいのかもしれない。
「あ、カガチ!」
そう声がして、カガチは狭い通路で足を止めてしまった。
呼ばれた声に四方へと顔を向けると、うふふ、と楽しそうな声が降ってきた。
「上よ、上!」
言われて顔を上げれば、赤い格子のある建物のそばに吊るされたブランコに腰かけて、足を揺らす少女がいた。
癖のあるふわふわとした赤い髪を二つに分けて、鶴と亀が刺繍された着物を着ている。裾は膝上までしかなく、その下にふわふわとしたスカートのような、綿のようなものをつめているようにカガチには見えた。
縁起物の赤い地の着物はこの地に似合わぬ不自然さを強烈に植え付ける。迷い込んだ人間をさらに落としていくような、強烈な違和感。
もっとも、娼館にせよ、別の意図の店にせよ、こうしたちぐはぐさはこの城ではよく目にするものである。ふらりと迷い込んでしまった男であれば、こういうものを目にしてしまえばひとたまりもないだろう。
だが、倫理とはとうに決別してしまったカガチは、この手の演出に、残念ながら落ちることができなかった。
「ああ、キンギョか・・・」
なんだ、とカガチは足を止めたことを少し悔やみ、歩行を再開しようとした。
「ひどぉい!」
しかしすぐにちゃりん、と音がして、上からどさりと何かが降ってきた。それは見事にカガチにのしかかり、カガチはう、と呻いて膝をついた。
「なんだって言ったでしょう!ひどいわ!ひどいんだから!」
煩い、と眉根を寄せて、ふわりとあまいにおいを漂わせる生き物を見やる。
幼い子供の形をした生き物が、あまり変わりはなさそうだと、カガチは手袋を外して頭をなでた。ふわふわとした髪は、光源の少ない中でもきらきらと光を弾く。
「あら、キンギョが鳴いてるわ」「また誰か捕まえたのね」
くすくすと姿の見えない女の笑い声が、どこからともなくこぼれてくる。
「キンギョ、いい子ね」「だめよ、鳴いてしまって」「戻ってらっしゃい」「さぁさぁ、捕まえて」
笑い交じりの女のささやきに、カガチはため息をこぼした。
「帰れ」
「やだ!」
笑顔で元気に返事をしたキンギョに、カガチは構わずに立ち上がる。
「俺は今日はお前に用はない」
今日は違う目的で来たのだと、そばで立ったままのキンギョに告げた。
「やだやだ!キンギョ、もっとカガチといたい!シゲイにも会いたい!」
「俺は金なんぞ払わないからな」
どいつもこいつも動かすには金が要る。ここはそういう場所だ。聖界で唯一、平等とは程遠い場所で、赤い眼をした貿易商が嬉々として交易をする、金ですべてを解決できる場所。
「キンギョ、泳いでくる!」
そう高らかに宣言すると、女たちはくすくすと笑った。
「暗くなる前に、帰っておいでなさいね」
まるで子供を甘やかすようなそれに、カガチは思わず顔を歪めた。
「はあい!」
にこやかに返事をするその姿は、まるきりただの童女だ。
よくできたものだと、カガチは鼻を鳴らすと、ちゃりん、と鈴の音を鳴らすキンギョをまとわせ、そのまま階上を目指した。
「キンギョね~、この間ね、きれいなおさかなもらったの~」
きゃらきゃらと話す生き物に、そうかと相槌を打って、カガチは目的の店を探した。そこかしこに広がる露店と、扉を閉めて入店を断るような雰囲気の店と、通路に転がる人間。時には人間ではないものも通路の端の闇の中で目を光らせている。
相変わらずごちゃごちゃとしていてわかりにくいな、とカガチはゆっくりと階段を上る。
「ねえねえ、カガチ、あれよ、キンギョがもらったの!」
長い服のすそを引かれて視線を向ける。すると階段につながる通りに、紫の鮮やかなヒレをもつ魚が、水槽の中で悠然と水の中を泳いでいた。
他に並ぶ魚よりははるかに高額な値のついたそれに、カガチはしばし視線を向ける。
「・・・珍しいな・・・あれが生きた状態だなんて・・・キンギョ、あれはちゃんと食べろ。食事用にもらったんだろ」
観賞用ではないのだろうと、己の知識をひっくり返してカガチはそう助言した。
あれは毒の沼にしか生息しない美しい魚だ。あたり一帯、瘴気と毒気でとてもではないが、魚を手に入れるところではない場所で生きている。そのため生態は謎が多いが、手に入れるのも育てるのも苦労する生き物だ。なにせ、普通の水に入れていても、水を毒水へと変える猛毒の生き物である。
普通の人間であれば、食べるなどとてもではないが、できたものではない。触れるだけで炎症を起こして肌を焼くため、特殊な手袋が必要なほど、扱いも難しい凶器だ。
「でもきれいよ」
もったいないと口の先をとがらせる童女に、あのな、とカガチは呆れ交じりにため息をついた。
「お前は『蟲』なんだから、そんなのは気にしなくていいんだ」
行くぞ、と足を進め、路の途中で折れ曲がる。
「きれいなものが欲しかったら、眼球でも買ってやる」
だからあれはあきらめろ、とカガチは冷淡に言い放った。
「お目め?」
こてりと首をかしげたキンギョに、そうだとうなずく。
「今日はそれを買いに寄った。魔眼のうち『水呼眼』があればいいが、商品を作るために、普通の眼球もな・・・。そろそろ作って売らないと、金がない」
道楽するにも金が必要だと、カガチは肩を落とした。
それに今は情勢がいい。カガチには稼ぎ時なのだ、できる範囲で大量生産したいと材料集めに必死である。
「むしは~?キンギョ、お友達いっぱいほしい!」
両手を上げて主張する生き物に、カガチは苦々しい顔を隠さなかった。
「お前を作るのに、どれだけ金と時間がかかったと思っているんだ・・・美しく、愛らしく、それでいて凶悪で人型・・・試しに作ってみただけでも、費用と労力があっていない。普通に何も考えず、蟲毒になんでもかんでも突っ込んだほうがましだ」
その時を思い出して顔をしかめていると、キンギョがここよ、と前を横切った。
足を止めた店の露店の中からは、おやおや、と年齢の図れない声が聞こえる。
暖簾には目をかたどった文字があり、カガチは躊躇なくそこをくぐった。
「久しぶりの顔だねえ」
目を覆って、姿など見えるはずがないのに、店主はそう言ってにたりと口元を割いた。
キンギョは瓶に詰められた様々な眼球を、菓子でも眺めるように見ている。
「・・・魔眼でいいものがあればほしい。他にもいくつかきれいなものを見繕ってくれ」
はいよ、と店主が腰を上げて棚に並んだ瓶をいくつか引っ張り出す。左手の歪な金属の指が、かしりとガラスを引っかきながら、液体に浸る眼球を選別していく。
「とりあえず、きれいどころだとこんなものでねえ」
横長の机に並べられた瓶を手に取り、鮮やかな色の眼を見比べる。取られてそう間もないのか、いまだ感情を残してさえいるかのような眼球に、相変わらず保存技術がすこぶるいいなとカガチは心の中で賞賛を送る。
「やはり青色系統が多いな」
聖界で覆い目の色の値段は低めだった。暖色系等になればなるほど、値段が上がっている。
「そのあたりはよくあるんでねえ」
見る、ということができればいいかと、青色の目をいくつか買い込む。手持ちの材料を頭の中で思い浮かべ、見た目のバランスを考えて、緑色と黄色も買うことにした。
値段交渉はわきに置き、魔眼の一覧を書面で見せてもらう。
「・・・魔眼はあまり変わり映えがないな」
前回訪れた時とそう変わらず、目的のものがなかったことに少しだけ肩を落とすと、店主は口の先をとがらせた。
「図書の国に逃げ込むのが多くて、そのあたりは最近厳しいでねえ」
でもこれだけそろってるのはうちだけだよ、という声に、それもそうだなとカガチは素直に同意した。
魔眼を持っている人間は、そもそも隠したがるものだ。こうして売買されるものであるし、そもそも希少性も高く、狙われやすい。
「その図書の国相手に戦争吹っ掛ける情勢が漂ってる、兵器は売り時だ」
つまりカガチの稼ぎ時だ。
カガチは道楽と研究を兼ねて、怪物を作りだしては兵器として売って生計を立てている。カガチの怪物づくりはとにかく材料が大量に必要で、いろいろなものを食わせて食い殺し合わせて作り出す。
遥か東の国では『蟲毒』と言われる技術だ。それを聖界の隅々を渡り歩いて、いろいろな材料を食わせ、時に魔物さえ食らわせて、自分の技術を少しずつ変えながら、実験し、怪物を作り上げては売っている。
キンギョもその作品の一つだ。
童女のように見えるように、それでいて人でなく、話し、笑い、泣かない蟲。その身に毒をため込み、相手を殺す呪い具だ。
「むだだよお~戦争なんて」
敵うはずなかろうという言葉はもっともだとカガチも思う。
知識をため込む勇者がいる、研究機関のような国に敵うわけがない。鉄壁の守りと、すべてを薙ぎ払う攻撃力。どれほどの戦力を抱えているのか、カガチにも想像もつかない。
「まあ、戦争は人間を狂わせるし、戦争時は『蟲』がよく売れる」
あまり高くはない魔眼をいくつか選び、値段交渉をする。ぎりぎりまで値下げし、妥当なラインに落ち着くと、交渉の中、追加で得た傷物の眼球も包んでもらう。
「まあ、眼も仕入れ時だけどねえ~」
でも戦争時はきれいでないものも多いから、考え物だとこぼす店主に、カガチはひっそりと笑った。
「いや、戦争は勝負だ、勝敗はわからないぞ・・・万が一、あの国が負けたら、大量にいろいろ、でてくるわけだろう。噂の魔眼も出てくるかもしれない」
その言葉に、店主は面白くもなさそうに口元を曲げた。
「『支配階級の眼』、ねえ・・・」
視界に入れたすべてを支配し、従わせる究極の魔眼。意識もないうちに他人を支配するという王のためのような眼。
血により継がれるその魔眼自体は、ひとつ、はるか古代帝国の為政者が持っていたものとして、かの国で所蔵が確認されている。
そしてまことしやかにささやかれている噂がある。
『支配階級の眼』の保持者が、図書の国にいる、というもの。
「眉唾物だよねえ・・・」
あるのかねえ、という店主が何回かその真偽を確かめに殺し屋を差し向けているらしいのだが、あの国に送りこんで帰ってきものはいないともっぱらの噂だ。
「ほかにも魔眼ならいろいろ出てきそうな気はするが」
ま、ない話をしても仕方ないねえ、と店主は肩をすくめた。
「お金に困っているなら、かの国はどうだね、あそこは研究者なら受け入れてくれるんじゃないかね」
包まれた眼球を受け取り、背負っていた荷物に入れる。店主の言葉に、カガチは眼を細めた。
「・・・だめだな、あそこは死体が買えないから」
培養された肉体は大丈夫でも、死したものは扱わない。人身売買も禁止されている。カガチには非常にやりにくい。
恨みを持つ死体だから必要な時もある。壮絶な生きざまが作り出す怪物が、カガチを魅了してやまない。食らい合い、殺し合い、腹に満たして、己の一部として、それでもなお生き残る『蟲』として生き残る美しさを、カガチは愛している。
店主は鼻を鳴らして、手を振った。
キンギョは終わった!?と立ち上がり、ちゃりんちゃりんと鈴を鳴らしてついてくる。
(しかし、)
戦争を吹っ掛けたところで、負けるだろう。
カガチは作り出した怪物を愛してはいるが、執着はない。消費される商品であることは、それで稼いでいる以上、仕方のないことである。
だが。
(勇者に一撃を与えられるような、『蟲』・・・)
それだけの蟲毒を作り上げるには、何が必要なのだろうかと考えると、口元が歪む。
それだけの毒物で、それだけの魔物で、それだけの、脅威。
そんなものをあるのだろうかと思考がうごめく。
「カガチ、とっても楽しそうよ。何考えてるの?」
「勇者を殺すのは、どんなものかと思って」
なあんだ、とキンギョは金色の眼を細めた。
「そんなの簡単じゃない!魔王よ!」
なるほど、と笑うカガチは、そのままキンギョを引きつれ、塔の奥へと姿を消した。きゃらきゃらと笑う童子の声と鈴の軽やかな声が、夜の暗闇に満ち始めた城で小さく響いた。
翡翠は見ることなく
ザーと水面に降り注ぐ雨が、あたりを白く染めている。
視界は弾かれた水が覆い、緑も木もかき消されそうになっていた。
ぽちゃりと水たまりに足を入れた男は、そのまま己の汚れた足元の中まで浸食されたことに気づいた。足先はずいぶんと冷えていたと思っていたが、そうでなかったようだ。じわりとしみこむ水の冷たさに、じくりと痛みのような寒さが足先から這い上がってくる。
「ほんとうに、ここまででいいのかね」
船の上から心配そうに視線を投げられ、カガチは小さくうなずいて返した。
「雨の中すまなかったな」
いいや、と老いた男は首を振った。
「これぐらいしか、できることもないでね。お気をつけなされよ、旅のお方様」
細い、骨に皮がついたような手が、祈りの形を見せた。
がりがりとしていて、しわの刻まれた手は、死人に近い。それほどに細かった。この老人は病に侵されていたのではないかとカガチは足を止めて見やった。
ざあざあと降りしきる雨に冷えた体をまさぐり、硬貨を取り出す。先払いのほかにと手を差し出すと、老人は苦笑して手を振った。
「旅のお方様、それ以上は身の程を上回りますよ」
「だが、」
あればあるほどよかろうと、カガチが手を引っ込めずにいれば、老人はひひ、と笑った。
「お優しいお方だねえ・・・。ああ、ああ、十分ですよ、十分ですねえ。なにせ、手伝ってもらったのはこちらのほうでね、そうだろう、なあ」
ひひ、と笑う姿に、カガチは黙って硬貨を戻した。
菅笠のはしを水が伝い、涙のように流れていく。着こんだ油紙も水を弾ききらず、じわじわと体に水が染みてきた。
「ああ、ありがたいことだねえ・・・。お帰りは、お気をつけなされよ、旅のお方様よ」
行きのみの駄賃は安く済んだものだと、カガチは改めて法衣の襟を肩にかけなおした。
謝礼を言われるようなことはしていないと、カガチの口の端が歪に曲る。
だがそれでも、伝えられる言葉はあるだろうと、そらした視線を戻した。
「・・・俺は、あなたたちの女神とは異なる神を奉ろう国のもの」
申し訳ないと、カガチは手を合わせて詫びた。
「あなたの神に、あなたのことを祈れなくて、すまない」
カガチはすでに国を捨てた身だ。だが、たしかに違う神を信仰していた国のものだった。カガチたちの奉ろう神は女ではあったが、勇者と言われるものに資格を与えるものと伝え聞く姿が違う。
カガチの神は黒い髪に、黒い眼をした、ひとを愛し、ときにひとを攫う母のような女だ。ひととは違う摂理と違う愛で、ときにひとの命を奪う貴きもの。
金の髪をするという、やさしい姿のそれとはちがう神だ。
カガチは国から追放された身で、信仰心はどこへ行ったか分からない。
道中、生きながらえてここまでくる間に、置き場などとうに忘れ、泥水さえすすって生きた。
見えぬ祈りなど米一粒ほどの価値もないと、国をでて歩いたカガチはよく知っている。祈ったところで腹は満たされず、のどの渇きは癒せなかった。
だが、カガチが国で学び、国で尊んだそれらと、同じように尊ぶものがある人への敬意の示し方は覚えていた。
信仰心も、学びも、どこへ行ったか分からなくても、使い方は覚えている。
くそくらえと心の底から思ったこともあったが。
たとえ異なる文化であろうとも、尊ぶものがある。
その心はどこでも生きるもので、残るものだ。
カガチが国で祈りをささげることはなかろうと、祈るものと同じでなかろうと、この老人が尊ぶものを貶すどおりはない。
「ひひ」
やさしいお方だ、とざあざあと降りしきる雨の中へ言葉が消えていく。ぎし、と岸から船が動いた。ぎいぎいと木を揺らして、川べりから消えていく小さな姿を見送る。
(・・・俺は)
カガチは少しだけ、信仰心の置き場を忘れたことを後悔した。
川辺の白い雨の中で、ここまで歩いてきた日々をふと振り返ってしまう。
(俺は)
たまに、カガチは漠然としたさみしさに包まれて、足を止めてしまうことがある。
病に侵されていた老人に祈ることができない。幸あれと隣人を愛した日は遠く、歩き疲れた足で信仰心をどこかへやってしまった。
そんなものがあったとて、のどの渇きも腹の餓えも癒せなかったからだ。
菅笠をかぶりなおし、カガチは頭を下げた。
そして川に背を向け、目指す洞窟へと足を向ける。
己の足を使うのは、いつだって硬い地面を歩いた日々を忘れたくないからだ。足を使わず移動だってできるが、その利便性に頼ると、カガチは神を貶したことを忘れそうになる。
緑の中にいるとなおさらだ。
自然はカガチにはなじみ深く、その中で、古き生活をそのまま営む生活をしていた。
古き神を崇める国からでたのはもうずいぶんと遠い日のこと。
緑豊かな故国から、砂漠を越え、緑のない枯れ果てた高山を越えた。山にはカガチの国民が崇める神はいなかった。それどころか、生命の気配さえ乏しい岩肌が広がっていた。
暗い闇であるはずの夜、頭上に数え切れぬ星が輝いていた。
木さえない星空は銀をまぶしたようだった。精魂尽き果てるような疲労感と空腹の中、カガチは涙を流した。
記憶の中とは違う、それでいて国のように緑が茂る森の中を歩きながら、ずいぶんと歩きなれたものだと苦笑した。
国にいたころは、こんなに足の裏が固くなるとは予想していなかった。
ましてや、人を殺す生き物を作り出しながら生きていくことになるなど、想像もしていなかった。
ようやく目的の洞窟が見えて、カガチは足を止めた。
ぼたぼた、と水が流れを作り、滝のように入り口をふさいでいる。その洞窟の前に立ち、カガチは少し顔を上げる。
侵入を拒むようなこの滝を潜り抜けるのかと思うとげんなりした。だが、さっさと中に入ってしまったほうがよかろうと、覚悟を決めて目をつむった。
ざざ、と水をかき分けて洞窟の中へと足を踏み入れる。
ぼたぼたとふりかかる水の重みがなくなって目を開けると、奥のほうに緑に反射するものがあった。
菅笠を頭から外し、薬箱にかける。水を払い、法衣合羽の袖を絞った。
歩くのに便利だからという理由で選んだ、出奔したままの服の袖から目をそらす。
国から出た当時の服はとうにすり切れた。だというのに、どの服よりも着やすいという理由で、いまだに同じような服を着るのをやめないでいる。
もう無償で祈ることなどないというのに。
懐から、赤い石の入った鉄製の灯りを取り出した。赤い鉄格子でできたそれを手にし、小さく呪文を唱えると、ぼうと石が光る。
ふわ、と火のように光る石は、その大きさ以上の明るさを洞窟内にもたらした。
ざああ、と雨の降る音が先の見えぬ闇に反響する。暗い洞窟内は、黒い岩肌に覆われていた。じろじろと観察しながら、先へと足を進める。
蛇か毒虫くらいはでるかと期待したが、いくら足を進めても生き物の気配がない。
だが、洞窟の奥にあるはずの緑の石を見るまでは進まなければならないと、カガチは奥へと歩いていく。
進んでも一向に毒虫の一匹も見当たらないことに、カガチは肩を落とした。
服の中のあちこちに潜む蟲たちの餌の確保ができなければ、カガチは血をやらねばならない。
それは己の体力が削られ、ひどく億劫だった。血を分け与えた分、カガチも食うて寝て、体力を回復せねばならない。
服のあちこちに潜む蟲たちを思うとため息がこぼれそうになった。愛らしい呪いの塊は、愛した分だけ数が多い。体力も血も、ごっそりと減ることだろう。
蟲を作りだし、操るものを、カガチのふるさとでは『蟲氏』と呼んだ。
氏名として蟲がつくのは、呪いに対する恐れと、敬意の表れだ。国では忌む名として通ったものだが、国を出てしまえば知るものも少ない。毒と呪いと穢れを集めて作る『蟲』。その餌は、同じような毒と呪いに『穢れ』の類だ。
そしてそんなおぞましいものを作り出す『蟲氏』の血は、何よりも穢れている。
カガチがそうなってしまったように。
緑の輝きは宝石の類であることを願いつつ、カガチは岩壁を見回した。
宝石は欲を呼ぶ。その輝きはただ美しいだけではない。呪いもかかっているとされ、蟲たちの餌になる。
カガチがこんな森の深く、洞窟にまで足を延ばしたのは緑の宝石が目当てだった。下流の川で50年ほど前から翡翠の石が取れるようになった。それも、原石ではなく、研磨されたガラスのような緑の美しい翡翠の石たちだ。
下流の村に立ち寄ったとき、そのことを尋ねれば、村人たちはひどく口が重かった。誰もかれも、それは不吉だと言って、とれれば幸運程度にしか捉えていない。
しかもそれを探しに行くことを誰もかれも嫌がっていた。売れれば大きな利益になるだろうに、むしろ利益につながることを恐れていたようだった。
「船頭から聞いた話で、分かろうものだが」
ぽつりとこぼすと、細い枯れ枝のような手首を思い出した。
カガチが目を伏せると、ぼとりと上から何かが落ちてきた。
思わず目を見開いて足を止めると、シャーと鎌首をもたげて牙をむく蛇だった。
見たことのない種類だな、と首をかしげていると、ずるりと袖の中からはい出る気配があった。
「ちゅう」
ずるり、と体の半分以上が蛇の尾になっている、ように見える、盲目のネズミが、蛇の首元に噛みついた。本当はネズミの尻尾だけが蛇になっているのだが、あまりにもアンバラスで、体の半分以上が蛇に見えてしまう。噛まれた蛇は、音もなくびくびくと体を震わせた。ネズミは噛んだ相手の反応を少しも気にする様子はなく、ばりばりと頭から飲み込んでいく。
「毒蛇か」
『蟲』たちの餌が確保できたことに小さく息をつくと、盲目のネズミは、そのまま蛇の尾をくねらせ、光の届かない奥へと進んでいってしまう。
「おい、待て」
「ちゅう」
ばりばり、と奥の闇からまた音がした。
どうやら奥には毒蛇がたくさんいるのかもしれない。
「一匹くらいは、生きて捕まえたいが・・・」
ぼとり、と腹の大きな蛾が袖から落ちた。ふさふさとした体に角の生えたそれは、這いずるように盲目のネズミに続いていく。
次々に『蟲』たちがぼとぼとと袖から自主的に降りていき、奥へと進んでいく。
「・・・」
カガチは音もなくため息をこぼした。
「どいつもこいつも・・・」
自由なものだと、雨音から遠ざかるように、『蟲』たちの後へ続く。
しばらく歩いた先で、光が左右の壁を映さなくなった。
その先は崖か、と足元を照らすものの、地面は変わらず続いている。壁が消えたあたりを光で照らせば、先には広い空間があるようだった。
「ちゅう」
足元にするりとまとわりつく気配がして、ずるりと這い上がってくるものがあった。先に進んでいたはずの『蟲』たちが次々とカガチのもとへ戻ってくる。体を這い上がり、服の中でぞろぞろとうごめく気配に、眉をひそめた。
(先に何かいるのか・・・)
『蟲』たちは魔物に対して力を発揮できない。
一番力を発揮するのは、対人だ。
生き物を殺し、呪う力はあるものだが、人間の感覚によって強く存在を定義されるため、そういった概念を向けない野生の生き物にはあまり効かない。
とはいえ、毒の塊でもあるから、毒が効く野生の生き物に対しては有効だ。
だが、先にいるのが魔物だった場合は、あまり戦力としては望めない。
(シゲイはでかすぎるしな・・・)
カガチは魔物と言える生き物を使役してはいるが、その一匹はひどく巨大で、狭い洞窟内での戦闘には向かない。そもそも戦闘用というよりは、旅の供という存在なので、移動用くらいにしか使わない生き物だ。
(うう~ん・・・)
どうしたものか、と首をかしげた。うつむいて頭を悩ませていると、地面できらりと光るものがあった。
思わずかがんで、地面に明かりを向けると、それは緑に反射している。
砂にまみれたその欠片を指先でとり、明かりのもとで汚れを払う。
きらきらと緑に輝く透明なそれは、まるきり人工物のようだ。天然のものとは考えられないほどの、森のような緑に、カガチは目を見張った。
「翡翠・・・」
研磨する前の翡翠は狐石と判別がつかない、緑がかった石の塊だ。宝石になれるのは、石の中でも一握り。削らなければその輝きは見えない。
翡翠は研磨されたすべてが緑色になるわけではない。時にその色に白濁が混じることもあり、濁ったような色も多い。緑色だけというのはかなり希少だ。
研磨された石はあまり大きなものではない。けれど希少な石がこの先にあるのだろうか、と期待をさせるには十分だ。
カガチは立ちあがり、先へと進んだ。
そろ、と先へ進み、明かりを向ける。広い空間に潜む闇は明かりを食らい、視界を覆う。少しも見えない空間に、どうしようかと迷ったのは一瞬だった。
「あまり得意じゃないんだが、手持ちはそうないし・・・」
カガチは魔法をたしなむ程度に使うことができる。
ただ、それも国を出てから、己の使うものが世間では魔法というものだと知ったくらいだった。なので、カガチの持つ魔法はかなりの独自の変化を遂げている『術』ではあった。
手持ちに魔法具があったらそれを使いもしたが、手持ちの道具もそうない。
はあ、とため息をつきながら、カガチはじゃらりと丸い石をつなげた紐を取り出した。
地面に届きそうなほど長いそれは、カガチの国では数珠と言い、神に祈る時に使うものだ。宗派によっても変わるのだが、カガチはこれがなくてはうまく魔法を使えない。
魔法使いが触媒を用いて魔法を使うのと同じで、カガチにはこれが魔法を使うための触媒だ。詳しく学べばいろいろと幅が広がるのだろうが、カガチはあまり興味がない。
数珠をぐるりと手と腕に巻き、何度も口にして覚えた言葉を口にする。
「・・・〈陰りを拒む天つ日嗣。我らは天堤、贖罪をゆるがせず行う者ら。届き給う、聞き給へ、身につまされることと無下にせず、吾が日嗣、この闇を陰りとし、拒むらくば、まことの日嗣なれば〉」
〈・・・ィ〉
すぐにか、と上空で白い光の塊が輝く。
洞窟内をすべて照らすような光に、カガチはやりすぎたかと目をつむった。
まぶしさに目を瞬くと、がちゃ、と目の前で動く気配がした。
がちゃ、ぎしぎし、と動いた存在に光に慣れた目をゆっくりと開くと、緑の宝石でできた巨大な蛇が、シャー、と口を開けていた。
自分の何倍もある大きさにカガチは思わず目を丸くして見上げる。
(な、蛇!?)
改めて見回した広い空間の洞窟内は、一面に緑の宝石が覆っていた。地面には白骨化した人間の遺体もあり、麓の村人が疎んでいた意図もなんとなく分かった気がした。
「どう考えても、魔物だよな、これ・・・」
こちらに敵意をむき出しにしているのは、とぐろを巻いた体でありながら先端の尻尾をぶんぶんと振っていることからわかる。巨大なそれで叩き潰されたらひとたまりもなさそうだ。
(どうしたもんかな・・・)
服の下でざわめく『蟲』たちは緑の宝石の蛇に敵をむき出しにしている。だが、魔物相手に戦力にはならない。
宝石はあきらめて引き返すべきかと迷ったとき。
〈・・・ィ、ォオオオオアアアアアアーーーッ〉
低い咆哮が轟き、がしゃり、と音がした。
カガチが目を丸くして頭上を仰ぐと、光をもたらした洞窟内で、黒い、影と粒子をまとわせながら、骨が宙に浮いていた。
「シゲイ!」
先端は顎と口であるが、それを支えるための骨はひどく長い。生前は細長い魚だったのだろうと推察できるものの、顔を縁取る四つの骨は、まるで凶器のようにとがっている。
肉のない古びた体は老木のように茶色く、そして白かった。
体はすべて表しきっていないというのに、ところどころ空間からのぞく顔と、ヒレと細長い尾は、蛇のそれとよく似ていた。尾びれがなければ魚と判断することは難しかっただろう。
その顔の中に、ぎょりろと浮かぶ一つの眼。
美しい青い目は、緑がまじりあう水面のようだ。それは光に反射して、色をゆらりと変えていた。
〈・・・名、つ呵、じィ〉
ノイズのようにひび割れた低い声で、壊れた機械のように、魔物がつぶやいた。
わ、と音波のような咆哮を発し、『蟲』たちがざわめいた。
警鐘を鳴らすように体を震わせ、魔物を厭うようにうごめく。
〈菜、ツ化、地ぃ〉
「待て、シゲイ、落ち着け、ちがう。ここは国じゃない、天津日嗣はいない。ここは、俺たちは旅に」
〈簿ゥ謝ぁ〉
ぎょろりと浮かぶ一つ目が、何かを見た。カガチには見えないものを見る目は、緑の宝石の魔物を捉える。
〈ぼ宇ジャ〉
動かない宝石の魔物の体が、ぼろりと崩れた。地面に落ちて鳴る音もなく、ただガラガラと崩れて、消えていく。
(・・・幻?)
ぶん、とシゲイが尻尾をふるった。硬質な骨は洞窟の壁の一部をたたき割り、緑の中に白いものを見つけ出す。
〈蛇血〉
呼ばれて顔を上げると、ぎょろりとした青と緑の眼が骨の隙間から、カガチを見下ろしていた。
〈蛇知〉
悼むような、同情的な目をしている魔物は、カガチとともに旅をしてくれていた。かろうじてある意識で、カガチを助けてくれる。
「〈死鯨〉」
国の言葉で呼ぶことはほとんどなかった。死した亡骸に宿る古き魔物。かつての古い話さえ知っているだろうに、長い年月は、分かり合うための力を奪っている。
〈那つ、カし〉〈府ルき〉〈ト尾気〉〈度ウ灰〉〈同簿ぅ〉
「・・・」
ずず、とシゲイは空間へと戻っていく。
暴走したものかと焦ったが、そんなこともなかったようだ。姿を消していくシゲイに安堵したのは、カガチのもとの『蟲』たちだけではない。
「古き同輩・・・」
はあ、と数珠を握りしめて、カガチは頭を抱えそうになった。
じわりと湧いてくる思いには蓋をした。懐かしい言葉で呼ぶ人間はとうにいない。カガチの国の人間は外へ出るものが圧倒的に少なく、外の世界で同郷の人間に会うことはない。
うずくまりそうになる体を叱咤して、シゲイが壊した壁の一部へ向かう。
「・・・これが同輩か?」
きらきらと反射する緑の壁の中には、人間が埋まっていた。
青い髪は女のように長い。だが着ている服は男のそれだ。旅の戦士のような装備された服と傍らには剣をおいていた。
雨宿りのために眠っていて、そしてそのまま、この翡翠の宝石に埋もれたようであった。
男は、生きているのと変わらないように、腐りもしない白い肌と、長いまつげを伏せて眠っていた。石の中に閉じ込められたせいなのか、枯れることも腐ることもない。生きているのと変わらないようなきれいな状態だ。
シゲイが壊した壁は一部のみで、白い肌が露呈するにとどまっていた。
翡翠の宝石はいまだ守るように男の大半を覆っている。
「でも、服もそう古いものではないし、別に・・・」
カガチはこれがシゲイの言う古い同朋なのか、と困惑した。
そしてそっと手を伸ばして、その肌に触れる。
その瞬間。
「っひ、こいつ!?」
カガチは手を引っ込めて、思わず数歩、後ろへ下がった。
「こいつ、生きて、る・・・?」
触れた肌が暖かった。
その感触にぞっとして、カガチは目を見張る。
翡翠の宝石に覆われて、その中で眠る男。
そして宝石の中でなお、男は生き続けている。
宝石を村人が嫌ったわけ。
ここへ来ることを嫌がる理由。
青い髪に、女かと見まがう端正な顔。そして人並み外れた生き方をする人間の姿。
その姿を、カガチは伝え聞いたことがあった。
「・・・もしかして、これが勇者って、やつ、なのか・・・?」
ガチャ、と背後で音がした。
反射で振り返ると、緑の宝石の塊が、入り口付近で柱のように積み重なっている。先ほどまではなかったその柱に、カガチはなんとなく察しがついた。
「・・・古き同輩は、お前たちだな、宝石」
宝石が寄せつけないようにしていたのか。あるいは、寄せつけるようにして、この男を目覚めさせたいのか。
蛇の幻もおそらくカガチに連なり、なじみがあるから現れただけだ。カガチの血は、蛇と因縁のあるものが入っている。
宝石が何をしたかったのか、その意図はカガチにはわからない。
だがきっと、長い間、この宝石たちは、この男に対してこうなのだろう。
カガチは眉根を寄せて、歯を食いしばった。
「・・・なぜだ」
なぜ、と答えがないことをわかっていて、カガチは問う。
「なぜ、この男をここで寝かせた?なぜ、美しい姿でここに留めた?なぜ、お前たちは原石でなかった」
宝石からの、答えはない。
けれど、細い船頭の手首が、カガチの脳裏によみがえる。
「お前たちがここにいるから、村が一つ、滅びただろうが」
100年近い、前の話。
この洞窟の近くには、村があった。
勇者がいるとか、宝石が取れるとかそんな話がわずかに残っているばかりだ。野党か盗賊かの襲撃にあって、村は焼かれたと下流で聞いた。
そんな洞窟に向かってくれる村人は誰もいなかった。誰もかれも嫌がり、緑の宝石は忌むものだと口々に言った。
「お前たちのせいであるという確証はない。だが、お前たちのせいだ、俺はそう思う」
川辺で一人の、幽霊に会うまでは。
カガチも、そんなことは思わなかった。
川辺に佇む、がりがりにやせた老人の幽霊に何の心残りがあるのだろうかと話してみた。
生前は舟渡しだったという老人は、上流に送る代わりに、確かめてほしいことがあると言ったのだ。
「この男を心配した人間がいたんだぞ」
洞窟に送った旅人のあとを、どうなったか知りたいと。
いないのならばそれで構わない。死んでいるのなら悼んでほしい。
確かめてはくれまいか。
自分は、切られて川に捨てられ、川から離れられない。
それが心残りで、こんなところにいると。
幽霊がどうして幽霊のままなのか。
見える人間もいなければ、弔っても貰えないからだ。あの幽霊の老人は、あの世の川を渡る駄賃もなかった。
カガチ程度の祈りでこの世から離れられるかわからない。だが、あの老人は、がりがりに痩せた骨と皮だけの手で、この宝石の中に留め置かれた男を気に留めていた。
それも随分と、長い時間。
「村一つ消えることは、よくあるだろう。古いお前たちならば、よく見たことだろう。だが、そこの男は、村に住むような、人間を救う者じゃないのか」
非難しても、意味のないことだと、カガチにはよくわかっている。
「・・・」
だがそれでも、やりきれない虚しさを、老人の手を、その手を握ることはできない苦しさを消しきれない。あの男は、家族に看取られる未来だってあったはずだ。切り捨てられて、川に捨てられなければ、彷徨うように、洞窟にいる男を気に掛けることもなかっただろう。
「・・・俺は、この男を起こしはしない」
何もしないと、宝石たちに宣言する。
このままであれば、厄災を呼ぶかもしれない。
下流の村人は、この男がここにいる限り、流れてくる翡翠の石に戦々恐々とする。
カガチは勇者でも英雄でもない。どちらかといえばくそくらえと神をなじった人間だ。何かを変える力など、たかが知れているし、何かを変えたいと思わない。
何かになりたいと夢などなく、生きていくために必要だと割り切ることができる。カガチはそういうものだ。
夢などなくとも、人間は生きていける。
「〈・・・その男目覚めし折、村の消失あらん、男ぞ悲しびに〉」
だが、呪うくらいは、カガチもする。
それがなくとも生きていける。理不尽に抗う力などない。どうにかできない。できたはずがない。どうにかしたかったと、そう思うのはすでに遅くて今更だ。
それでも、もうなくなってしまったものを、悼む気持ちは、カガチにもある。
不幸あれ、いずれ苦しめと思うのは確かに呪いだ。隣人に幸あれと願うのと、本質的には同じこと。ただ願うだけは意味のないことではないのは、カガチはよく知っている。
祈ることで腹は膨れなくとも、他人を殺すことはできるし、不幸は呼び寄せることができる。だが、他人を害することを願うことは、生きていくのに必要ない。そんなものはなくても生きていけるのだ。
他人やこの世を呪わなくても、飢えが凌げれば生きていける。
カガチは担いだ木の箱を降した。足元に散らばる翡翠を拾い、箱に詰める。
怒りはあるが、それでもだからこそ、この宝石は希少以上の価値があるとわかっている。
カガチは呪いと毒と穢れを帯びた『蟲氏』だ。
勇者を慕う宝石なんてものは、カガチにしてみれば恐ろしくて、おぞましい。それは恐ろしければ恐ろしいほど、『蟲』たちの優秀な餌だ。
(お前たちは欲を呼び、それは破滅を呼びさえするのだろう)
かしゃり、と緑の宝石を手に取って眺めた。
洞窟内はカガチの魔法があるため明るい。だが、光がなければ、暗闇の中、宝石は徐々に広がり、男を眠らせ続ける。
宝石たちに悪意も害意もない。
しかし、『美しい』という一点が、ただあるだけで争いを引き起こす。
カガチは背負っていた箱に蓋をし、再び担ぎなおした。
老人との約束は、ただ確かめることだけだ。
カガチは来た道を、明かりをもって戻り始めた。目的が達成された以上、因縁をつけてしまうような長居は避けるべきだ。
入り口でこの魔法が消えるように同じように長い呪文を唱えなくてはいけないかと、カガチは小さく溜息をこぼした。
雨がやんでいることを願いながら、カガチは宝石たちに背を向けた。
偉大な日輪は赦す
がたがたと揺れる動きが心地よくて、カガチは菅傘を顔に置き、うとうととまどろんでいた。あたたかな日差しは肌を焼くほどではなく柔らかだった。菅傘で見えない青空がまぶしいほどだ。うららかな日差しは眠りへと誘い、歩く必要もない場所の上であることが余計、起きていることを邪魔する。
「旅人さん、旅人さん!」
声をかけられて、カガチは菅傘を頭にのせて上半身を起こした。
馬車の先頭にいた男は、馬の綱を離すことなくこちらに視線を向けていた。
眠気に誘われたまま、ぼけっとした締まりのない顔で見返すと、御者の男に苦笑された。しかし目が開ききらず、重たい瞼は半分降りたままだ。
「ありゃ、余計な時に声をかけちまったかね」
「いや、あまりにも綱さばきがうまいもんでね、こんなにいい天気だと余計にさ」
カガチは眠気に誘われたぼんやりした頭でも口調を変えることは忘れなかった。愛想のよい顔を作り、にこやかに応じる。
「いやあ、ほら、王都に行く予定だと言っていただろう。それが、ちょいと寄り道をさせてもらっても構わないかね」
男の言葉に、カガチはもちろんだとうなずいた。
「こちらは乗せてもらってありがたいくらいだよ。この国は、想像以上に広いもんだったからさ」
とても歩ける国じゃないな、とつぶやくと、はは、と口を丸く開けて笑う男が、そうだろうと誇らしげにうなずいた。
「すべては女王陛下のおかげさ」
何度聞いたかわからない言葉に、カガチはあいまいに笑った。
上機嫌に前を向いてしまった男の背を見やり、カガチは再度体を横たえた。
(女王陛下か・・・)
大量に積まれた干し草の端で、カガチは横になって、積み荷とともに運ばれていた。
がたがたと揺れる荷車を馬が引いている。そのがたがたとする揺れがどうにも心地よい。干し草のおかげで衝撃はあまりないし、草から香る緑の匂いは、カガチにはよい香りだ。
新緑の香りは命の匂いで、包まれていると穏やかな気持ちになれる。
大きな道は土で固まっているが、舗装はされていない。馬車が時折すれ違えるほどの道は、この国の広さを表している。左右にはいまだ青々とした穀物の絨毯が、一面に広がっている。時折穀物の中に交じって、背の高い植物が生えているのが、見渡せるほどの地平でわかる。
荷台から見上げる空は、雨の気配の見えない青空だ。干し草の上から雲の散る青い空がのんびりと流れていくのを見ていると、なんだか夢を見ている気分になった。
こんなにいい気分は久しぶりだ。カガチは酒をいくら飲んでも酔う体質ではなく、酩酊感は体調不良以外で経験がない。いい気分、というのはこういう穏やかな心地以外に覚えがないものだった。
(・・・まあ、女王サマとやらに万歳三唱してもいい気分にはなるな)
くあ、とあくびをして、菅傘を腹に置き、ぼんやりと目を細めた。
カガチは相変わらずの法衣合羽で、菅傘に薬箱のような木箱を背負っている旅姿だ。
この姿は聖界を歩いていると人目を引く。カガチの国は独自文化を大きく伸ばしたと歩けば歩くほど思う。
だからどの国にせよ、国に入る前は気をつけねばならなかった。
だが、この国はそんな心配は杞憂だったようだ。
宗教者の姿であることは格好から間違えようもない。と思うのはカガチの価値観のみの話だ。この姿は聖界で広く信仰される女神教のものとは違う。
国によっては知識人がいると差別されたりするものだが、大多数の民は、これが宗教者の姿であるとわからなかった。それは情報があまり出ていかない故国の良いところだと常々思っている。
カガチの見た目は奇異に映るかもしれない。異文化に対する最初の印象は、奇異だ。
それでも聖界の大部分の民は旅人に寛容だった。
異国人だからと差別されることもあれば、好奇の目で見られることもある。だが旅人はそんなものだと受け入れる層が圧倒的に多い。
そんな警戒心で大丈夫かとも思うが、カガチには都合がいいので口にはしない。たまにカガチもうっかりとか、あるいは仕事とかで村を滅ぼしてしまうときもあるからして。
うごうごと体に潜む蟲たちがいい具合にあたたかくて、ふわりと風が吹いても気にならない。むしろ土と草の香りを強くするのはカガチにとっては心地よいばかりだ。
こんな牧歌的なところなら、蟲を出さないでほかの何かで儲けようとカガチはまどろんだ。
カガチは毒と呪いを売る仕事だが、薬を作ることもできる。毒が作れれば薬も作ることができるのは当然だ。
(いや、なんか使えるものがないか見て回って・・・別に儲けなくてもいいか・・・)
金が急いで必要なわけではないし、とすっかりただの旅人か、観光客にでもなった気分で、そう考える。
ぽかぽかとした陽気に、まどろむような時間が幸福だった。この幸福が、移動中でなければもっといいのになと考えがよぎる。
(うん・・・一度、帰るか)
捨てた国ではなく、カガチはいくつか拠点を持っている。
ひだまりで、それも自分の寝床でこうして寝られたら最高だろうな、と思う。だからこのあたたかな国から、次は自分の寝床に帰ろうと決めた。
(百重城は暖かくないから・・・森か、静かな国がいいか・・・)
暖かいところでまどろみたいなあ、とこの状態のまま考えていると、がたがたと揺れていた道から急に振動がなくなった。
カガチは思わず体を持ち上げて、走る荷台の下を眺めた。きれいに石で舗装された道に入ったことに、御者台を振り返る。
「・・・さあ、旅人さんよ、街についたぞ」
大きな門の左右に、鎧をまとった兵が立っていた。街の周りは建物で覆われているが、壁のようなものは見受けられない。
街へ入る前に、兵士が御者を呼び止めた。
荷台にいるカガチは旅人だと説明すると、あっさりと街へ入る許可がでる。
「・・・ここが寄り道かい」
兵士との話の合間を縫って問いかけると、そうさと男がうなずいた。
「南で隣国が攻め入ってきたらしい。だから女王陛下が赴かれると」
その言葉に違和感を持ったのは、カガチだけだったようだった。兵士はその言葉に異を唱えることはなかった。
「ああ、あんたも陛下を見に?」
兵士が会話に混ざったことで、カガチは口をつぐんだ。
「もちろんさ!途中で街を通ると聞いてね」
「だったら急いだほうがいいかもしれないな。もう街にはついてるはずだ」
「休まれては行かれないんだな。俺は見るために寄っただけなんだ。本当は王都へ行く予定で」
「ああ、じゃあ、門で馬車を預かろう」
ありがたい、と言う男が、背後を振り返り、首をかしげた。
「あんたはどうするね、旅人さん」
「・・・俺もせっかくだから、女王陛下を見ていきたいなあ。ついでにこの町も見て行ってもいいかね」
にこりと愛想よく笑うと、ああ、じゃあ、一日ばかりこの町で休んでいくかい、と男が言う。
「女王陛下がお通りなら祝い酒だろうさ」
兵士が笑い交じりに言い、とんとん拍子で明日の朝にまた集合ということが決まる。
カガチはあっさりと男たちと別れ、教えられたとおりに大通りへ向かった。
(隣国が攻め込んできた程度で、国の首魁が動くのか)
菅笠を背負った箱へしまい、布を深くかぶる。
水も弾かない布ではあまり旅では意味がない。だが、街の中では菅笠自体が目立ってしまうため、布を深くかぶっていることが多かった。
街は、露天が広げられ、果実や食べ物が所狭しと広げられていた。わいわいと人が行きかい、物を買っていく様は祭りにも似た狂騒を帯びている。
「すごい人だね。お姉さんさ、これを三つおくれ」
カガチは途中で果物の屋台の前で足を止め、そこにいた女に、三つを買い求めた。
「おや、旅のお方かね。運がいい。今日は女王陛下がこの街をお通りだ」
赤い果実はあまり見たことがなく、大ぶりだ。売れた色に興味を持って、女が紙袋に入れるのを待った。
「・・・喜ばしいことなのかい」
「めったに姿を拝めるお方ではないからね。それに、歴代の王の中で、正真正銘の王さ」
ほら、と女はほかの小さな果実も祝いだと言って袋に入れて渡してくれた。
「正真正銘の王?」
カガチが引き換えに銀貨を渡すと、にかりと、それは嬉しそうに、誇らしげに笑った。
「ああ、何せ、女神さまに選ばれたお方だからねえ。これまでの王らは、女王陛下が現れるまでの、つなぎなのさ」
「・・・ふうん」
カガチは教えてもらった礼を述べると、早々に大通りを目指した。
(神に選ばれた王ねえ・・・)
そこまで言われると、余計に興味をそそる。
カガチはあたりを見回しながら、通りへ向かった。ほとんどの人間に困惑はなく、誰もかれもが、女王と言う存在に浮足立っている。
祝いだというほどに、愛されている王だというのか。人々の反応は、女王がこの街を通るだけとは思えない喜びに満ち溢れていた。
だがカガチは、通りへ近づけば近づくほど、その人の多さに辟易した。
この町がどれくらいの規模かはわからないが、街中のほぼ全員が集まっているのではないかと思う。
(人が多すぎないか・・・)
人混みが嫌いなカガチは、いっそもうあきらめるかと思うものの、一国の首魁などそう見る機会もない。それにこれだけの賑わいをみせる存在だ。せっかくだから顔くらいは覚えていきたいと野次馬根性を発揮した。
女王が通るという通りに近づけない。人が多すぎると顔をしかめたときに、近くの建物を見上げた。
ふむ、と悩んだのは一瞬だった。
人が集まっているからこそ、人気の少ない場所を見つけやすい。カガチは人のいない裏路地に身を滑り込ませた。
「シゲイ」
人のいない路地裏で、カガチは自分と供に行く魔物を呼び出した。
普段はほとんど声も出さない魔物は、ぞろりとその姿を一部だけ表す。黒い粒子にまみれた体は、普段は現れない空間の深淵からこぼれていた。
シゲイの顔の先端は顎と口であるが、それを支えるための骨はひどく長い。生前は細長い魚だったのだろうと推察できるものの、顔を縁取る四つの骨は、器の外殻のようだ。
顔だけをだした魔物は、その空洞に眼球を一つ浮かび上がらせて、その眼だけでどうかしたのかと問うた。
「俺を、上にあげてくれ」
建物の屋上を指さすと、やれやれ、と言いたげな呆れた視線が投げられた。
それでもシゲイは体の一部を顕現させ、上へと浮かんでいく。
カガチは骨の一つにつかまり、ふわりと体を浮かす魔物の力で地上から離れた。
カガチは魔物をこういう使い方しかしない。疲れた時の長距離移動とか、高いところへ行くためがほとんどだ。
この魔物に戦闘能力はないのかと言われるとそれは正直よくわからなかった。
戦ってくれと言えば戦ってくれるかもしれない。実際、カガチが攻撃されると助けてくれることは多い。
だが、カガチは戦いというものが好きではないし、シゲイも戦わなくていいと思っている。傷つくことに、好んで身を投じる必要はない。そんなことをするのは勇者と英雄と魔王だけでいいのだ。
世界を変える力も、誰かを救う力も、そんなものを必要としないのであれば、戦う力など必要ない。望まなければ、世界も人生も、平和で終わることができる。
(まあ、たまに選択できないのが瑕だが)
国を出たことに後悔はない。
だがカガチは、国を追放された末での旅路だ。正確には、追放命令ではなく、国にいられなくなったというほうが正しいのだが。
旅人はなってしまえばカガチの性根にはあったものだった。この生活はそれなりに楽しいものだ。
ただ、もうカガチは、国に戻ったとて、出奔前と同じような暮らしができる自信がない。
そのことを、少しさみしく思うときは、ある。
国いたほうが、今よりも平和で、傷つくこともなく生活できただろう。古き神を崇め、他を遮断する生活は、古きままの営みで成立していた。
この街の住人のように、王の存在を誇ることはもうない。それは紛れもない事実であり、『蟲』たちと毒を愛してしまったカガチの定めだ。
いつか違う国で腰を落ち着けたとて、それは生まれ育った国ではない。それゆえに、望郷の念はカガチの中から消えることはないだろう。
屋根の高さまですぐ登り切り、カガチは手を離して、ガシャン、と屋根の上に降りた。陶器でできた屋根が想像以上に大きい音を立てたことに慌てたものの、壊してはいないようだと知って、胸をなでおろした。
雨を流すために三角の形にされ、斜めにされた頂上に腰かける。陶器でできた屋根は、風雨にさらされた様子があまりなかった。
見下ろす通りは人が詰め合っている。最低限の通路を確保するために兵士たちが立っているが、それすらも押しのけんばかりの勢いだ。
上を選んで正解だな、と腰を落ち着けたカガチは苦笑いした。
上を見上げれば、シゲイはとうに姿を引っ込めていた。相変わらずの青い空は暖かく、布では少し暑さすら感じるくらいだ。
カガチは赤い果実を紙袋から取り出し、服のすそで拭った。
太陽のもとでみた赤い果実はきらきらと輝いている。熟れた様子に、うまそうだ、と口の中に唾液が広がった。
「なーんだ、先客かよ!」
かしりと、歯を立てたあたりで、そんな言葉を投げられた。カガチは果実を歯ですくい、しゃくりと音を立てながら咀嚼する。
甘酸っぱい実は、あっさりとしていた。てっきり赤さから濃厚なものかと想像していたが、そうでもないようだ。中は白く、赤い皮が意外と薄い。
「おい、あんた、聞いてんのか!」
声をかけられてようやく目を向けると、緑の眼をした金髪の少年が、斜めの屋根の上で立っていた。つり目の緑眼は、気が強そうな猫のような印象を与えた。
「・・・俺に話しかけたのか」
人好きのするような愛想を取っ払い、果実を食べながら問い返す。すると、そうだよ、と返ってきた。
「・・・先客だ。じゃ」
かしり、と歯を立てて、果実を頬張る。大きな割に、味が薄いということもなく、よく実が詰まっていた。土地が豊かな証拠だ、とカガチは咀嚼する。
「じゃ、じゃねーよ!人んちに勝手に上がりやがって!」
なぜか近づいてくる少年に、カガチは眼もくれず、果実をしゃくりと食べた。いい天気な空の下で食べる果実は別格だ。人もなく、ゆっくりと食べることができる。
「それを言うなら、少年もだろ」
「俺んちだ!」
これはカガチが分が悪いな、と早々に悟った。
たらりと垂れた果汁が、腕を滴っていく。べろりと手首を舐めると、ぱさりと顔の半分以上を覆っていた頭の布が外れた。
「・・・あんたどこの人?」
「東のほうだ。せっかくなので、女王陛下を見たくてな。これで許してくれないか」
同じ赤い果実を差し出すと、少年は目を丸くして、まあ、いいけど、と口の先をとがらせながら果実を受け取った。
そして、口を尖らせたまま、カガチの隣に座った。
「・・・あんたも見たいの?」
「まあな。俺の国に、女王はいなかった」
国に攻め込んだ敵がいるごときで国境まで行く国の王。そんな王はどんな王なのか。
気にはなる。
ただ、国民からの支持がすごいのが不思議だ。普通であれば、そんなことごときで出てくる王など愚王と言われても仕方がないだろう。
だが、この国の民は、そう考えない。
これまでの王はただのつなぎ。今の王こそ正真正銘の王。顔が見れるだけで祝い。喜ばしいのだと、少なくなくともこの街の住民はそう思っている。
そんなことを、首都ですらない国民が口にするほどの徹底した教育。
ふうん、と少年は住民とは違った反応をした。
なぜか少し納得のいっていないような顔だ。
「・・・喜ばしくはないのか?」
「・・・俺は、あんまり」
へえ、とカガチは丸みを帯びた果実の芯にあたって、食べるのを終わらせた。この硬い芯には何があるのだろうと中をほじくる。
「なあ、旅人さんの国はどんなとこ?」
「・・・気になるのか」
まあね、と少年は遠くを見るように人々を見下ろした。
「俺、ここから出たことないから」
「・・・いい国だと思うぞ。ここは」
あたたかくてのどかで、空が青い。
人々は女王の存在に喜び、その存在だけで生を謳歌している。
戦い合うこともなく、荒れ果ててもいない。食料が豊かな、穏やか国だ。人々は笑い、喜びあっている。
「平和は、それだけで価値がある」
ぱきりと果実の芯を割ると、中には黒いような茶色いような塊があった。これが種か、と小さい袋を取り出して中に入れる。
「・・・そうなの?」
ああ、とカガチは小さくうなずいた。
隣の少年は首をかしげて不思議そうな顔をしている。
まさか、目の前にいる男の体には呪いと毒をカタチにした生き物がいるなんて夢にも思わないだろう。人を殺し、人を呪い、人が苦しみあえぐ毒たちを、その身に潜ませているなど、まっとうな人間の思考ではしない。
眼下で笑う人間たちを一瞬にして殺すことのできる凶器を、カガチは愛している。
カガチは、殺すことに意味がないことだとは思わない。
死んだ人間は、それだけで価値があるのだ。肉は肉として価値があり、生き物は死すればただの肉だ。人間も動物の一つとして、例外ではない。だから生存競争のように殺し殺されることは、生きるためには仕方がないことだ。
とはいえ、その狂うた愛に、さみしさとやるせなさがないと言ったらウソになる。
愛している。
どうしようもないほど。
だが、カガチの愛たちは、人を殺すし、人を犠牲にする。
「平和の価値は、他を見てから気づくものだ」
カガチが陽だまりの温度を恋しがるように。
退廃した空気になれた身でも、あたたかな日差しが差し込む窓辺で、木の揺れる音を聞きながら、うとうとしたくなる。
それは贅沢なことだと、今のカガチは知っていた。
「だが、それに気づいたときには、すでに何もかもが遅い。それでも、気づかぬままの幸福に浸り続けることも、きっとできない」
少年は隣で目を丸くしていた。
カガチは人々の様子を、静かに眺めた。
女王陛下、とささやかれる声の多さが、カガチには心地よい。人が押し合いながら、まるで宝石のように輝く目で、その存在を心待ちにしている。
王とは、かくあるべきだと、カガチは思った。
「・・・旅人さんは、手遅れだったの?」
「さあな。・・・だが、旅をするからこそ、ふいに気づいて、国を思うときもある」
それでも、カガチは国には帰らない。遠い場所で、遠い故郷を思うけれど、その方向に、足が向くことはなかった。
「帰らないの?」
「世界は、国より広いからな。帰っている暇がない」
世界のあれやこれやが、カガチを刺激する。世界はきれいで汚くて、見がいがあった。どれもこれも、面白いものばかりだ。
そしてカガチの愛は、故国の中では大きく育てない。
旅をするのは楽しい。見たことないものに出会うと心が躍る。
それでも国に置き去りにした同朋と家族の存在を想って、寂しくなるときもあった。
「・・・少年は、旅をしたいのか?」
乾いた空気の中で訪ねれば、少年は口を開きかけ、そして閉じた。うつむき、どうかな、とうっすらと笑う。
「俺、魔力がたくさんあるんだ」
「そうか」
「母さんたちは、国の騎士になって、女王陛下にお仕えしろっていう」
「そうか」
「俺なら、騎士の試験に受かるって」
「そうか」
「すごいことなんだぜ。国の騎士になる試験は難しくて、厳しくて・・・・」
途切れた声の続きを待てば、少年は大通りを見やった。
「・・・でも、それでいいのか、わからないんだ」
そうだな、とカガチは、少年にうなずいた。
「俺も、正しいのか、わからないでいる」
「旅人さんもか?」
ああ、とカガチはうなずいた。
どおん、と音がして、カガチは通りの先を見やる。通路が埋め尽くされるような流れに、ようやく目当ての女王がやってきたのだと知る。
「・・・正しいかどうかは、難しいことだ」
カガチはほぼひとりごとのようにつぶやいた。
カガチは国でさえ忌まれたし、差別を受けた。
どれだけ悪事を働いた人間を殺そうと、殺人はいいことではない。正しいことではないと言われればそうだろう。殺人は、人間の中での最大の禁忌だ。
悪事を働いていると言われればその通りだが、悪事を働く人間を100人殺せば英雄だ。英雄は人殺しだと非難する人間が、果たしているのだろうか。
どおん、と鳴る音が近づいてきた。
それに呼応して、わあ、と人々の歓声も大きくなる。
先頭を行く兵士は白銀の鎧をまとっていた。胸を張って歩く姿に、カガチは膝の上に頬杖をついた。
「もうすぐだ」
「女王が?」
うなずく少年に、カガチが目をそらさずにいれば、ぱか、と白馬にまたがる少女が、通りにやってきた。
『ああ、陛下!』『女王陛下万歳!』
歓声は最高潮に達し、花々が投げられて、祝福の声が上がる。
『正当なる我らの王!』『神に与えられし我らの陛下!』『偉大なる日輪!』『女王陛下の治世に幸あれ!』
カガチは、赤いドレスの上から、白銀の鎧をまとう少女を見た。
太陽に反射する金色の髪は編み込まれてまとめられている。白銀の鎧に、染み一つない白い肌は、まるで彼女自身が発光しているかのように輝いていた。幼さの残る顔立ちは、無表情ではあるが、まだ姫と呼ばれても差し支えないような年齢に見えた。
少女は周りからの、溺れるような歓声にも一切微笑まなかった。不遜ともとれる強さがにじみ出る顔に、国民からの不満はない。その横顔にすら、民たちからは美しい、凛とした強さ、と賞賛がほとばしる。
彼女は、声援にこたえることなく強い意志の宿る赤い眼で先を見据えていた。
『ああ、神よ!』『神は我らを見てくださる!』『偉大な陛下!』『大らかな日輪!』『この陽の祝福よ!』
少女が、ふいに視線をそらした。
すう、と視線が、カガチに突き刺さった気がした。
赤い、血のように赤い眼が、カガチを捉える。
(な、)
その目の硬質さに、ど、と心臓が爆ぜた。
(な、)
ぞわ、と背筋に冷や汗が滴る。
(なんて、目を、する・・・)
彼女の眼は、あまりにも年齢に不相応だった。硬い眼は、この国の国民を映してはいるが、ただ反射のように映すだけだ。鏡のように映す赤い血に、女王陛下と呼ぶ国民たちに向ける愛は見受けられない。まるで硬い金属板が一枚、その眼窩に入れられているように、受け入れているのに拒絶しているような色があった。
彼女がこちらを見たのは一瞬だった。
もしかしたら、カガチの錯覚かもしれない。
そう思うほど、彼女は変わらず、そしてこの世の地獄を映しているようだった。
『晴える勇者の陛下に、祝福を!』
(ああ・・・)
その声に、ぞわ、と悪寒が走った。
(勇者・・・あの子が勇者・・・)
年端も行かない少女に見える。普通であれば、あれくらいの年齢であれば、服に楽しみを覚え、着飾ることに熱を注ぐ年頃だろう。
だが、違う。
少女というには、あまりにも不釣り合いな顔をしている。
国の頂に立つ、支配者の顔だ。
地獄と絶望が、ないまぜになった、城壁のような眼。血の色なのに、ひとの体温のないような、冷ややかな色。
あの目を知っている、とカガチは思った。
カガチが、戦場で出会う兵士や、飢え死にそうな子供がしている目だ。
この世を呪い、この世を恨み、この世を儚み、違う世界を夢見て、そしてあきらめ、死んでいく者たちの、絶望の眼。
(ああ、なんという・・・)
痛ましい少女か、とカガチは顔をしかめた。
彼女を愛し、彼女を敬愛する国民の多さに、彼女は女王をやめることができない。この国から出ることも叶わないだろう。旅人になるなどできない。
彼女は国で、国こそが彼女なのだ。
「・・・少女に幸よあれ」
カガチは思わず祈った。
彼女はどれだけ疲弊しても、どれだけ絶望しても、その頂からは降りられない。
仮に反抗勢力があったとして、彼女を愛する国民によって、無垢なる国民によって、それはつぶされることだろう。
国民は信じている。
王が正しい。
今世の王が正統だ。
女王がいる今世が、素晴らしいことだと。
通り過ぎて行った女王の一行を追う国民たちと、満足した国民の二手に分かれ、通りから人が消え始める。
カガチは大きく息をつくと、隣を向いた。
少年は眉根を寄せて、苦悩を露わにしていた。
少年の迷いも、カガチは少しだけ察することができた。女王のそばに行くことを選ばず、この国から出たら、裏切りものと糾弾されるだろう。他の人間にとっては、女王のそばに行くことが正しく、当然だ。
当然のことを選べない国民は、愛国心が、女王への敬愛がないとされてしまうのだ。
女王が意図せずとも。
彼女は、未来ある若者の芽を潰す。
選択の余地を奪う。
(・・・勇者とは、残酷なものだ)
彼女があれだけ絶望に身を置いていようとも、彼女を救うものは現れない。なぜなら、彼女自身が救うものだからだ。
いい国だと、カガチは思う。豊かで国民は王を愛し、政治に不安を覚えることもない。彼女は強いがゆえに、この国は平和だ。
彼女の犠牲を憐れむことはあれど、カガチはこの国を嫌いにはなれない。彼女の犠牲は尊く、ゆえに維持されるこの国を、カガチは愛せると思った。
愛国と敬愛という毒にむしばまれるあの赤い瞳を。
カガチは心底、美しいと思う。
どれだけ苦しもうとも、彼女はその場に立ち続けるのだ。
「・・・少年」
カガチは立ち上がり、悩ましい顔をする少年の顔を上げさせた。
「悩んで、よいと思うぞ。正しいか正しくないかを誰にも決める権利はないからな。迷い、そして後悔することは、間違いではない。たとえ間違いでも、間違うことを非難されるいわれはないだろう」
「・・・どうして?正しくないのは、悪いことだ」
「逆に問う。どうして悪い?」
少年は言葉に詰まった。
カガチは苦笑し、すまないと謝った。
「質問を質問で返すのは良くないな。けれど、あの日輪のごとき女王が、赦さないわけはないと思ったんだ」
ほら、と青空を背にして、カガチは口の端を持ち上げた。
「この空は、間違っているものだけを焼くのか?」
その言葉に、少年が目を見開いた。
迷った挙句、若者の選択が潰されることをあの少女は望まないだろう。たとえ彼女自身が知らなかったとしても、知らぬところでこれは繰り返される。彼女の責任だ。責任の数を少しでも減ればいいと思うことが、カガチの彼女への祈りだ。
十分、美しいくらいに毒に犯されたあの女王に、少しでも幸あれとカガチは願う。
「・・・そんなことは・・・いや、そうだな」
うん、と少年はうなずいた。
勢いよく立ち上がり、にかりと笑う。
「悩むことにする!」
「言い張ることじゃないな」
く、とのどを鳴らすと、いいんだよ、と少年は口の先をとがらせた。
青い空は晴れやかで、日のもとで笑う少年の顔を、輝かせて見せた。
カガチもつられるようにして、うっすらと微笑んだ。
ヒラエス