楽園の遺体
赤ずきんのお腹の中で狼が鳴いている。御伽噺に中指を立てた彼女は小さな絵本を開き、ゆっくりとページを破り捨てた。封じ込めた現実を焼く精神病者の悪夢には終わりがない。
「……揺れた」
赤ずきん━━ロゼは、消え入るような声でそう呟いた。
そうして、小さな体躯に似合わず大きく膨らんだ腹を撫でる。十歳ほどの幼い大地に、惑星ひとつを宿したような不自然な隆起。これは彼女の復讐劇だった。自らの祖母の命を手篭めにされ、そして殺められたことへの。しかしそれだけではない。彼女は一刹那、彼に恋をしていたのだ。嗅覚が溶けるような花畑の近くで、楽園を夢見る瞳でこちらを見つめ続ける白銀の獣の姿を、どうしようもなく愛しく思ってしまったのだ。
愛憎が入り混じって生まれた心は、狂ったように彼自身を自分の手で産み直すことを欲した。幻想妊娠などではない。揺らがない愛に溺れた心臓は、彼を母胎回帰させることを渇望した。
それが彼女の愛の形だったのだ。
ゆらゆら、ゆらゆら。彼女は白い光の中で揺蕩う。
「──痛む?」
隔てた白いカーテンの向こうから、心配そうな表情をした母親の声が聞こえた。
「……ロゼ、ロゼ、寝てるの?」
幼いロゼからしてもその姿は見るに堪えなく、日々母親を蝕み続ける病魔に彼女は痛切な感情を覚えている。それが精神の病だということははっきりと認識していないが、何となくロゼはそのことを「ふしぎに満ちた悪い魔法」だと思っていた。
「起きてる、ごめんねおかあさん」
──むかしむかし、英雄さまの手によって封じ込められた氷の魔女が、彼女に永遠の苦痛をガンのように転移させようとしているのだと。
「……痛い?」
母親はもう一度彼女に問う。
「ううん、だいじょうぶ」
ロゼはハッキリと首を横に振った。狼を妊娠してからというもの、秋の風情を思わせる栗色の長髪は日を重ねるにつれて白銀に輝き始めた。その神秘的な髪色は虚空に浮かぶ月の光であると同時に、ロゼが愛した残酷で孤独な狼の毛色と遜色ない。
しかし変わったのは、何も髪色だけではなかった。
「あ、おかあさん、わたしの目にお水をあげてくれる?」
四肢を投げ出した状態でロゼは言った。水晶の洞窟の壁に、一雫が落ちたような声だ。自分の身の丈には合わないほど大きなサイズのベッドに横たわって、天井をひたすら見つめている。
何となく今は動く気になれなかった。子宮の中で、彼が確かに脈動を打っているから。
「分かった、持ってくるわね」
「ありがとう」
彼女が言った水━━それは、右目に咲いた薔薇の花を死なせないために注ぐ水だ。髪色の変色が終わったその次には、瞳に本物の花が咲くという奇妙なことが起こった。触ってみても放っておいてみても、それは花畑に咲き誇る女王のようにビクともしない。
しかし彼女が飼う薔薇は、情熱の深い真紅ではなく深海のような色をしていた。
「φ(ファイ)、悲しいのね」
利き手で”子供”の薔薇を撫でると、自分が禁忌を犯したイブのように思えてくる。ロゼはその薔薇のことをφと呼ぶ。柔らかく、そして儚げな声で。
薔薇の花をガラスケースの中に保存して、真っ逆さまに御伽噺に落ちていった美女と野獣とは違う。ロゼは心の中で奥歯を噛んだ。
「でも、もうすぐ貴方も産まれることができるわ」
ロゼの右目を喰らって開花した一輪の花。これは二人の愛の結晶だろうと彼女は本気で考えていた。日々伸長を続ける無垢な薔薇は、もうすぐ荊をまるで手足のように生やし始めるかのように思われた。
「だから、そんな悲しい声を上げないで」
φに話しかけるロゼは聖母だ。
薔薇に唇はない。けれど彼女の目の奥に残った人間の涙で、φの感情をロゼは分かる。反対にその涙の泉が枯れてしまえば、その時はどうなるか分からないが。
「私も貴方も、そうよ。悲劇は産まれた時から始まっていたの」
そう言うとφが小さく揺れた気がした。
甘いお菓子と花々に囲まれ、天国を羊雲で泳ぐような日常は一瞬だった。彼を妊娠したおかげで幸福のひとときを味わえていることは事実だが、どうしても身体の不可逆的な異変には違和感を覚えざるを得ない。
「──お待たせ、目を開けててね」
母親が銀色のポットを持って帰ってきた。結露が滴り落ちる底を布巾で押さえ、彼女はゆっくりとφに水を注ぎ始めた。
「冷たい」
ロゼは滔々と流れ込んでくるそれに左目を細める。
ああ、氷が駆け巡るようにゆっくりと頭の中が冷え渡っていく。
「最近、よく熱くなるわ、彼女」
「φは興奮してるのよ。貴方のお腹も膨らんできたことだから」
ロゼはおぼろな脳で母親の言葉を聞いている。そうなのかしら。さっき感じたφの悲哀は、一体何だったんだろう。花がゆっくりと荊を伸ばしていくのをロゼは僅かながら感じていた。どうしてだろう。「もう戻れない」という言葉が頭に浮かんだ。それは一体「何」からだろうか?
「早く産まれると良いわね」
「うん」
二人はそう言って笑い合うと、人間の新生児一人分くらいに膨れ上がった腹部を撫でた。母親は三日月を見るようなうっとりとした瞳で口角を緩め、ロゼは虚空を見つめて憐れむような瞳で頬を赤く染めた。
その二つの双眸に隠れた感情の名前は分からない。
「名前、どうしようかな」
白光がロゼの髪を照らしていた。庭に植えられた木々が風に揺られて鼓動し、木漏れ日が彼女の顔色を占う。光と影の相関で満ちていく表情は、どこか不安げな色を宿していた。
「産まれてから決めればいいじゃない、そんなの小さなことだわ。私だって貴方の名前を付けたのは、貴方が産まれた数日後のことだもの」
「……それも、そうだね。私と彼の子だもん、ゆっくり決めたほうがいいよね」腹部を撫でる手に力が入る。
ロゼは、ふと今気になったことを尋ねた。
「……私の名前、お父さんもいっしょに考えてくれたの?」
ロゼには父親がいない。物心ついた頃には既に女手一つで育てられていた。小さなころの自分を抱きかかえてくれている母親を想像すると、乳房に吸い付いた時の唇の感触がまだ残っているような気がした。花の蜜を吸うように、膣を塞ぐようにそこに吸い付いていたあの日々。
父親がいなくても、家族は完成していたと思う。幸福であったと思う。満たされていたと思う。
ロゼの体内を、飲み込んだ冷水がゆっくりと循環する。
「そう、そうね……今は海の彼方に行ってしまったけれど、お父さんも貴方が産まれるのを楽しみにしていたはずよ」
母親がぽつりぽつりと紡ぎ出す言葉を、ロゼは沈黙して聞いていた。
家庭環境からか年齢よりも大人びたロゼは、母親が自分が喋っている時に口を挟まれるのを快く思わないのを分かっていたのだ。
「ねえ、今この時だからこそ言うけれどね」
暫くの沈黙のあと、母親はパッと顔を上げてロゼを虚ろな目で見据えた。
「なあに?」
お腹で胎児が腹部を蹴る幸せな痛みを感じながら、ロゼは返事をする。もっとたくさんご飯を食べなきゃ、などと思っていると、母親から飛び出したのは衝撃の一言だった。
「私が貴方を産んだ時、貴方のお父さんは死んだの」
「だから私は、彼の死に際に立ち会えなかった」
「私があそこに居たなら、彼は死なないで済んだかもしれないのに」
「え……」
ロゼは閉口した。母親の言葉を聞くと同時に瞬時に頭の中が凍ってしまったのだ。一体、私は何を言われているんだろう。どんな感情を向けられているんだろう。憎悪?嫉妬?悲哀?
━━そんなこと、今はどうだっていい。
今は、今は、今は。
「お願い、お願い、貴方の顔を見ていると悲しくなるの……」この首に回された母親の温かい手から、何とか逃れなければ。「おが、さ……ぁ……ゃめ……」
揺り籠の小鳥を潰すような手つきだった。母親の「発作」が出たのだ。ロゼが産まれてから彼女は狂ってしまった。ふとした拍子に精神の切り替えが行われ、普段通りの温厚な姿は鳴りを潜めてしまう。
「貴方がいなければ、貴方がいなければ……ああ……私が貴方を産まなければ……」
彼女の独り言は長く続く。ぶつぶつと呪詛を紡ぐようにして懺悔は繰り返され、ロゼの心臓の奥深くにもそれは浸透していく。私がいなければ、よかった。ロゼは心の中でその言葉を反芻する。頬を滴るφの栄養の残滓が唇を濡らし、どうしようもなく死にたくなった。腹の子のためにそれは叶わない願い、いや叶えてはならない願いだと分かっていても、激昂し我を失った母親の悲しい暴力はロゼの心を蝕んだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんね、許して、愛しい私の子、ごめんね……」
嗚咽を漏らしながらなおもロゼの首を絞め続ける彼女の手。ロゼは薄れていく視界の中で母親の表情を観察した。
少女は泣くのをこらえました。耐えられない涙腺でこらえました……そんな風に自分の中で第三者のモノローグを流せば、自分が傷つけられていると認識しなくて済む。
自分に代わる人形が「罰」を受けているのだと、私も笑うことができる。「うっ、うっ、うっ……ごめんね、ごめんね……」
「…だ、ぃじょ…うぶ…………おが、さん……」
ロゼが見た今日の母親の顔は、いつも通り悲しさと憎しみを同時に暴発させたような表情だった。
ロゼは溢れ出そうになる涙を堪えた。涙を抑え、出来る限り笑顔を作ること。それこそが母親を落ち着かせる唯一の手段であることを彼女は分かっている。
それを苦しいと感じない訳でもなかった。むしろ苦痛だと感じていた。けれどそれを口に出してしまったら自分の命、ではなく母親の精神が壊れてしまうであろうことは目に見えていた。だからロゼは、何時も涙を流し続けるφとは対照的に、まるで道化のように笑い続けているのだ。
母親は掠れた声で泣き叫ぶ。
「怖い……怖いの、貴方がその子を産んだら……今度は貴方が死んでしまうんじゃないかって……貴方じゃなくても、私が、私たちが死んでしまうんじゃないかって……」
「……」
ロゼは押し黙り、昔の会話を思い出す。
花の都という場所があることを、かつて狼はロゼに教えてくれた。
そこでは愛されない生物はおらず、弱肉強食という概念が存在しない場所だと彼は夢見心地に語ってくれた。雨のように降り注ぐ静寂の箱庭のたもとで、遠い場所に憧れる物語ばかりを彼らは繰り返していた。
だって、現実はあまりにも悲しすぎるから。
「……ロゼ、ごめんね」
こうして癇癪を起こす時だけ、彼女は愛娘の名前を呼ぶ。
幼いロゼは滅多に疑問を持ったりしない。なぜなら目の前にただ一つの答えがいつでも転がっているからだ。
「……ううん」
瞳の裏に映り続ける楽園の形。
その瞳に神を飼う。
貴方のことを信じていれば、きっともう一度彼と結ばれるはず。
その日は何となく何も食べる気になれなかった。けれど腹の子は彼女の気も知らず空腹を訴え続けたので、彼女は今日も泣きながら人の形を留めていた肉を口に運んだのだった。
楽園の遺体
こちらは去年、「びっくり箱アンソロ」に寄稿させて頂いたものを加筆・修正したものです。