
背中
やっとの思いでオランダのフローニンゲンに着いた。アムステルダム中央駅から電車で二時間半のはずが、アンフォート駅の電気故障のため、二回乗り換え、ずい分遅れてフローニンゲンの駅に到達したのだ。その時は、どのくらいかかったか時間を見る余裕がなかったが、倍ほどもかかったと思う。
しかし、到着したレンガ造りのフローニンゲンの駅舎に入ったとたん、緊張してたどり着いたことをみんな忘れてしまった。駅舎があまりにもすばらしく、目を見張るようであったからだ。天井にあるガラス装飾の明り取り窓、ステンドグラスの窓、広々とした待合室と木のベンチ。
真(ま)朱(そほ)はぼーっと駅の中で周りを見渡していたが、やっと自分の目的を思い出し、駅舎から出て、街中にいくバス停に並んだ。雨が降りだしそうな、重い雲が垂れ下がっている空。オランダは、雨は多くないと聞いたのだが。
真朱は京都の大学の三年生である。英語はできる。どこに行っても問題がない。トッフルはかなりの高得点で、交換留学生になるのに何の苦労もなかった。日本の大学では文学部に所属し、宗教学のゼミに入っている。これから半年間、フローニンゲン大学で歴史学と考古学の講義を受けることになっている。
しかし、留学の動機はかなり不純である。真朱は猫が好きである。ヤフーを開いている時だった。猫新聞が目にとまった。オランダに何十年も猫に関する新聞を出している芸術家がいることが書かれていた。オランダが猫の国であることは知っていたが、それほどとは思っていなかった。それがオランダを選んだ動機の一つである。
さらに、オランダの大学を調べた時、面白い名前の大学があった。それがフローニンゲン大学である。おや、人間の大学だ、と興味を引いた。フローニンゲン市のあるフローニンゲン州はアムステルダムの北のほうにあり、北海に面しているとある。フローニンゲンには紀元前数世紀より人が住んでおり、遺跡がたくさんあるらしい。大学も古く宗教学が発達していたようだ。それで、自分の大学のほうを調べると、交換留学制度があることがわかり、フローニンゲン大学を選んだのだ。
大学は九月からだが、ドミトリーの留学生枠が空いているということで、六月に入ることにした。真朱の部屋には地元の学生、デルフトの陶工の娘だったが、その娘がすでに入居している。地元の学生と留学生が組み合わさるようになっているようだ。
前の留学生はオーストラリアから来た女性だったとのことだ。真朱は地元の子とすぐに打ち解けた。真朱も京都の伝統的な漆塗り職人の娘である。父親はそれなりの評判を得ている。
フローニンゲンの足は自転車である。誰も彼もが自転車だ。真朱も自転車を使うことになった。京都ではあまり乗ったことがないが、慣れるしかないだろう。ドミトリーを出て行く学生が置いていったものを貸し出しており、ほんの少しの費用を払うと、半年間借りることができた。お陰で行動範囲が広がり、町の隅々までに行くことが出来る。ただオランダでの自転車のルールを覚えるのは大変だった。
街の中はアムステルダムと同様、運河が発達している。多くの橋は船が通る時に跳ね上がるようにできている開閉橋である。街を行くと、時間によっては、必ず一度くらいは足止めをくらう。最初は物珍しさもあって、自転車から降りて、船が通り過ぎるのを見ていたものだったが、だんだんと当たり前になって、むしろ面倒くさく感じるようにさえなった。
ドミトリーで部屋が一緒の子はフェンナといった。芸術系学部の二年生である。ずい分たくさんの実技を受講しており、忙しくしている。オランダの女性は背が高い。しかし、フェンナは真朱と同じくらいだ。目線の高さが同じなのは親近感が増す。いつもにこやかで楽しそうな娘である。
「フェンナ、明日の夕ご飯どこかで食べない」
「いいけど、私、あまりお金ないの」
「大丈夫、あたし、昨日おやじが仕送りしてくれた」
などと言って、学校が引けてから、マルティニ塔のところで待ち合わせ、食事に行く。週に一度くらいは一緒に食事をしている。
よく行くのが、カット、ロードゥというカフェテリアである。日本語だと赤猫だろうか。彼女が頼むのは、必ずハーリングである。ニシンの塩漬けを戻したもので、真朱はさほど喜びを感じない。当たり前のオムレットや、ソーセージのメトヴォルストのほうがいい。いつもはよくあるサンドイッチを頼むが、彼女がいないときには、ちょっと高めの鰻のサンドイッチを食べたりする。一度、フェンナと一緒のとき、それを頼んだら、そんな高いものをという目で見られた。学生たちは本当に慎ましい生活をしている。
「猫が飼えないのは寂しいわ」と彼女は言う。
「私も猫大好き、オランダの人は猫が好きでしょう」
「でも、日本には猫カフェがたくさんあるでしょ、日本人の猫好きはよく知ってるわ。アムステルダムに初めて猫カフェが出来たのよ、昔から猫のミュージアムがあるけど、今じゃ、それよりも有名になってるの」
「実家では三毛猫を飼ってるのよ」
「デルフトの父も母も猫好きで、黒猫が二匹いるわよ」
「夏休みに、アムステルダムやデフルトに行って見たい」
「デルフトはアムステルダムから一時間くらい、うちに泊まっていいわよ」
そんな会話もした。
ある夜、教会で音楽会があった。フェンナの仲間に入れてもらって、聞きに行った。フェンナがみんなに真朱を紹介してくれた。絵を描いたり、彫刻をしている連中で、気楽である。
「マソホは音楽はやらないの」、絵画修復師をめざしているフェリクスが話しかけてきた。こちらの学生は英語を母国語と同じ程度に流暢にしゃべる。
「うん、好きよ、ピアノはちょっとやってた」
「今度、きかせてよ、フェンナはドラムをするんだよ」
真朱が驚いていると、フェンナが「まだ、始めたばっかりなのよ、ほんとは私もピアノをやってたの」と顔を赤らめた。
「アントンはベースギター、アマリアはキーボード、ファースはギター、バルテルはサキソフォーン、俺はフルート」とフェリクスが紹介してくれた。
音楽サークルの仲間ということである。様子を見ていると、フェリクスがフェンナの彼のようだ。
音楽会が終わると、カフェでビールを飲むことになった。
「フェンナから聞いたけど、猫が好きだって」とフェリクスが聞いてきた。
真朱は「好きよ」と頷いた。
「日本にいる猫は何色なの」
ビールを男の子たちよりぐいぐい飲んでいるアマリアが聞いた。
アマリアは背が高く、均整のとれたからだは、おそらく男性の目を強く引くものだろう。朱色のドレスを着て、他の学生たちよりずーっと大人に見える。まだ二十歳そこそこだろうと思うのだが。
「白も黒も、三色も、タビーもいるわよ、世界中、どこの猫も色は同じじゃない」
アマリアの目が光ったように見えた。
「ふふ、オランダにはね、赤い猫がいるよ」
「また、アマリアがはじめた」
バルテルとアントンは
「マソホ、信じちゃだめだよ」と笑顔で応じている。なにをだろう。
「赤い猫はね、火の神の使いなのよ」
そういえば、日本で火事のことを赤猫といったりするということを、大学の先生が言っていた。そのことを、言うと、アマリアが「さすが、火の国ね」と応じた。どのような意味があるのだろう。日の国の間違いではないのだろうか。
「だけど、火の神でも、ここでは火事ではないのよ、恋の火よ、赤猫にとりつかれると恋の火が燃えて、相手を死に追いやるの、それほど強い恋が燃え上がるのよ」
アントンが「いつもそういうが、アマリアは赤猫に会ったのか」と笑った。
「まだよ、いつか会うと思っているわ、でも会ったら、相手がかわいそうね」
アマリアはそう言って笑うと、ビールをまたぐーっと空けた。
「その伝説、私は聞いたことがないけど、誰から聞いたの」
フェンナが質問する。
「私の知り合いの、占い師の持っている本よ、古い本、五百年も前のものよ」
「妖術の本かしら」真朱も興味をもった。
「妖術じゃなくて、人の生活の本、気をつけなければいけないことがいろいろ書いてあるのよ、川にいて、人を引きずりこむ妖怪や、山に住んでいて、人を凍えさせてしまう山男だとか、いうなれば寓話的なものね、でも面白いのよ」
「不倫って、どう言うか知ってる」
アマリアが突然話を変えた。みんなぽかんとしていると、
「こっそり猫を盗むっていうんだよ」、そう言って、アマリアはまた笑った。
「そういえば、そんな言い方をすることを聞いたことがある」
ファースが頷いた。
「でも、赤猫ではないだろう」バルテルが聞く。
「赤猫ではないわ、もし、こっそり赤猫を盗んだらどうなるかしら」
アマリアはなかなか想像力が豊だ。
「どうだ、新しい曲をつくろう、赤猫を盗んだ、って題名で」フェリクスが提案し、みんな頷いて「私が曲をつくるわ」とフェンナが応じた。
フェンナは見かけによらず、何でも出来るようである。
「新しい曲をつくったら、演奏会をやろう、マソホも聞きに来てくれよ」
フェリクスが意気込んだ。真朱はもちろん頷いた。
「私の真朱という名前は、日本の、赤いという色の中の一つなのよ、ちょっと橙色がかった赤の色」と真朱がいうと、
アマリアが「私のこの服の色ね」とスカートを持ち上げた。
真朱は頷いた。「真朱、歌は歌うだろ」フェリクスが聞いたので、それにも頷いた。
「よし、ファースに詩を書いてもらおう、マソホに歌ってもらう」
「あたし、オランダ語わからないから」真朱が首を振ると「まず、アマリアがオランダ語で歌う、そのあと日本語でマソホが歌う、これがいい、フェンナと一緒に訳してくれよ」、フェリクスは大乗り気である。
こうして、みんなで歌作りがはじまった。赤猫を盗んだ、というタイトルである。夏休みに完成させて、秋にやろう、ということになった。
みんなアートをやっているだけあって、勘が鋭く、柔らかい。
ドミトリーに帰り、部屋に分かれる前に、アマリアにいつかその占い師のところに連れて行ってもらう約束をした。
その占い師は運河に停泊しているボートに住んでいるという。いつも同じところにいるのではないそうである。しかし連絡がつくから大丈夫ということだ。
日曜日の夕方、アマリアについていった。
自転車でその場所に行くと、赤い色の大きめのボートが係留されている。船の上によく目立つ赤い旗が風に揺らめいていた。
「ほら、あの赤いボートよ」
アマリアはそのボートを指差した。旗には赤っぽい猫の尾っぽが画かれていて、オランダ語で、アストロロロヒー、ビデン、ウォンダラとある。
「占い、祈る、悪魔祓いのこと、それに奇蹟と書いてあるのよ」
「なぜ、猫の尾っぽなのかしら」
「猫の尾っぽはアンテナよ」
「その人なんていう名前なの」
「カタリナ」
「お若いの」
「私と同じよ、二十一」
「ずい分若い占い師さんだこと」
「八歳の時から、未来が見える子どもだったわ、死んだ人の居るところがわかるのよ、だから、なかなか解決できない誘拐事件や、失踪事件の時に、警察にたのまれたりして、何回か亡くなった人の居場所をあてて新聞に載ったり、テレビで取り上げたりしたわ」
日本でも、そのような子どもを紹介する番組があった。だがそれは男の子だった。
「大きくなってからは、その能力をひた隠しにしてきたのだけど、十八のときに、大学受験を止めてその道に入ったの、きっかけは、自分の道が見えてしまったらしい、大学にいっても、結局そこに行くことになるってね」
自転車を降り、アマリアとともに赤いボートに乗り移った。船室の入口前が待合になっており、いくつか椅子が置いてある。すでに老女が一人腰掛けて俯いている。
「カタリナの名前は、占いの世界ではずいよく知られているのよ、ちょっと待つけど我慢して」
真朱たちもその隣に腰掛けた。
「日本の占いはどういうのがあるの」
そう聞かれたのだが、占いに関してあまり興味がなかったので知ることは少ない。
「手相占いが、町に出ているわ、私は見てもらったことはないでけど」
そう言って、自分の左手の筋を指し、
「これが生命線、途切れていると早く死ぬし、下の方までいってれば長生き」
そう説明すると、アマリアは「確かにそれも占いね、オランダでも黒子の位置で運勢を見たりするわ」と笑った。
「昔のことだけど日本には陰陽師という、鬼の存在を感じ、それを封じる能力のある人たちが政治家を助けていたりしたわね。今でも田舎に行くと、死人を呼び戻して、話をさせる、いたこ、と言う超能力をもった目の悪い女性たちがいるわ」
「やっぱり、どこでもそうね、勘のいい人はいるものよ」
一人の若い男性が船室から出てきた。さっぱりした顔をしている。
真っ黒のドレスを着た婦人が顔をだし、待っていたおばあさんを呼んだ。その婦人がアマリアを認めると「来ていたの、ちょっと待っててね」と会釈をした。
「あの方は」
「カタリナの母親のユリア、この店を切り盛りしてるわ」
おばあさんは二十分ほどすると、出てきた。見るからにさっぱりした顔をしている。
「入ろう」アマリアがさっさとドアを開けると中へ入った。呼ばれないのにいいのかなと思いながら後をついていく。キャビンは黒光りした木材で作られ、落ち着いていたいい雰囲気だ。アンティークのソファーが置かれ、木のテーブルの前にカタリナが腰掛け本を開いている。母親は奥にいるらしい。カタリナが顔を上げた。
真朱は驚きで声を上げそうになった。アマリアにそっくりだ。
アマリアが、「今のおばあさん、何をみてもらいたかったの」と英語で聞いた。
真紅のビロードのドレスを着たカタリナがアマリアそっくりの声で、英語で答えた。
「孫が病になっているのは、お前が汚れた手で触ったからだと、飼猫に言われたと思い込んでいて、悩んでいたのよ」
「それでどうしたの」
「おばあさんの背中に手を入れて、黒い猫の毛を取り出してあげたのよ」
「飼猫は黒かったの」
「いいえ、茶色のタビーだといっていたわ」
「それで治ったの」
「そう、黒猫がお宅の飼い猫をたぶらかせて、そう言わせたのだ、と教えたのよ、おばあさんのからだにまとわりついていた黒猫の毛を取り除いたから、もう大丈夫、お孫さんもすぐ治る、と言っておいたわ、お孫さん、ただの風邪でしょう」
黒猫の毛はどうしたのだろうと思っていると、アマリアが、
「あんたの黒猫の毛を使ったのね」
と言っている。どこにいるのだろう。奥の部屋なのだろうか。
そこで、カタリナは黙って聞いていた真朱のほうに顔を向けた。
「アマリアの友達」
「うん、あ、ごめん、彼女はマソホ、大学の留学生よ」
「日本の方ね」
「はい、こんにちは」
真朱はお辞儀をした。それにしてもよく似ている。
「びっくりしたでしょうね、妹のカタリナよ、あのおばあさんのような対処療法もするけど、悪魔祓いの祈祷や透視は本物よ」
ということは、ユリアはアマリアの母親である。
「そっくりだからびっくりしちゃった」
「双子よ」。そうなのか、アマリアの感受性の強いのもわからないではない。
「マソホさんは、悪魔が近寄らないよ」
カタリナが急に言ったので、真朱もびっくりしたが、アマリアも驚いた。
「どうして」
「後ろに付いているものがいる」
つい振り返ってしまった。
「マソホを怖がらせないでよ」
「怖がらせているんじゃないよ、マソホには赤い猫が憑いている」
背中に憑き物がいるということは、日本の話しの中でもよく聞くことである。
「赤い猫は、火だと聞いたけど、しかも恋の火の神だと」
「アマリアが言ったのね、その赤い猫と背中についている赤い猫は違うもの、背中にいる赤い猫はあなたの守り神よ」
「火の神の赤い猫はどこにいるのかしら」
「恋と嫉妬の赤い猫は街の中をうろうろと歩いている。たまに飼われている赤い猫もいるけど、ほとんどは家なし猫よ、その赤い猫に魅せられた人に恋の火の神となって憑いてしまい、悲劇をもたらすこともある」
「背中に赤い猫がいる私にも、火の神は憑くのかしら」
「マソホさんには憑かない、背中に憑いている赤い猫が、火の神の赤い猫を鎮めるから」
大きな恋ができないということになるのかもしれない。
「マソホさんは、蠍座で、冥王星ね」とも彼女は言った。
真朱が浮かない顔をしているのでアマリアが説明してくれた。
「十月から十一月生まれっていうこと」
真朱は頷いた。十一月生まれのことは誰にも言っていない。
「シント・マールテンの日ね」さらにカタリナが言った。
なんのことだろう、またアマリアが説明してくれた。
「キリストの聖者の一人よ、聖マルティヌスっていうの、オランダではシント・マールテン、その日は収穫祭のお祝い、子どもが家を回ってお菓子をもらうの、仮装はしないけど、十月三十一日のハロウィンに似ている、十一月十一日よ」
まさに真朱の誕生日は十一月十一日だった。真朱は頷いた。やっぱり不思議だ。
「赤い猫に会いたければ南のほうに行ってごらんなさい」
「私の背中には赤い猫がいるのでしょう、それでも会えるのかしら」
「真朱さんは背中に赤い猫が居ると恋ができないと思ったでしょう、恋はできるわ、しかも背中の赤い猫が嫉妬や狂恋から守り、素敵な恋にしてくれる」
そうか、背中の赤い猫は私の感情をあやつっているのか。
「どの人も何かが背中に憑いているのよ、アマリアと私は同じ日に同じ女性から生まれたのだけど、背中にいる生き物は違うのよ」
アマリアが顔をひしゃげた。変な顔だ。だがすぐに理由がわかった。
「カタリナは私の背中に白いミジンコがいるんだって、なんとも可笑しいわよ、滑稽ね、気に入らないわ」
「アマリアの白いミジンコはとてもいいよ、いつも言ってるでしょ、一生楽しいわよ、それにくらべて、私の背中にいるのは蜘蛛よ、水色の蜘蛛、決して悪くはないけど、あまり表に出ることはない、こうして占いをしているのが一番なのよ、私は早くから自分の背中が見えたのよ」
「そこらの人の背中にいるものはみんな見えるの」
「ええ、見ようと思えばね、そう思わなければ、人だけしか見えない、いつも見えていたら、私はこの世の中の人が気味悪くて生きていけないじゃないの」
確かに、必ず人間に生き物がついていたら、見ているほうも疲れてしまう。
「私の赤い猫は今、背中でどうしてるの」
「私を見ているわ、背中の生きものは、どんな動物でもいつも回りを見つめている、主人を悪いことから守るためにね、あなたの赤い猫の守る力はとても強いわ」
「鳴いたりはしないの」
「あなたが寿命が尽きるとき、赤い猫も離れていく、お別れの鳴き声をあげてね、あなたは聞くことができないけど」
「マソホ、疲れたでしょう、普通の人だと聞いていることが耐えられないのよ、あなたは大丈夫だと思ったから連れてきたの、音楽仲間はまだ来たことないの」
「カタリナさん、これから私は私の背中の赤い猫をどのように扱えばいいのでしょう、私にできるかしら」
「もし、あなたにいいことがあったら、赤い猫はその幸運を少しばかり吸い込んで、幸せを一緒に味あうことになるの、だから忘れていていいのよ、何も考えなくていい、あなたが幸せなら赤い猫も幸せなの」
「赤い猫がいる真朱はうらやましい、ミジンコは蟹の仲間なんだから、なんだか、はずかしいよ」
「アマリア、そんなことはないんだよ、みんな同じ一つの命だから、背中の生き物はみんな同じ大きさよ」
そこに母親のユリアがアップルパイと紅茶をもってきた。
「日本のお嬢さん、よく来てくれましたね。日本の方ははじめてよ、きっとカタリナの力の世界が広がったと思いますよ、アマリアとも仲良くしてくださいな」
「よろしくお願いします」
真朱は美味しい手作りのアップルパイを食べた。
「私の背中には、野鼠がいるのですって、しかも黒い野鼠がね、生きる強い力があるんですよ」
ユリアは笑うと双子とよく似ていた。
こちらに来てすぐに夏休みに入ってしまった。それにしても、京都のような暑さはない。むしろ涼しく感じる。みんな国に帰ってしまい。ドミトリーには他国の留学生か、卒業製作をしている学生だけが残った。フェンナも仲間も実家に帰った。アマリアだけは残っている。ときどきカタリナの手伝いをやっているようだ。
フェンナがデルフトに来いという。そこでアムステルダムを起点にしていくつかのところに行く計画をたてた。その中でデルフトにもいこう。ハーグ、ロッテルダム、行ってみたいところがいくつもある。オランダでのアイフォンの使い方もなれ、フェンナやアマリアとはメイルのやり取りをしていた。
アムステルダムではちょっと贅沢なホテルを予約した。レンブラント広場に面したスキラーホテルである。元ホテルの所有者であるスキラーの絵がかけてある、4つ星のヨーロピアンスタイルのホテルだ。少しはいい旅行をしてみなさいと母親がくれたユーロを夏の旅行で使うつもりだった。このホテルからだと見たいところは歩いていける。まずは猫だ。と思って細い通りを歩いていると、ショウウインドウの中にいた。パン屋のウインドウに三毛猫が寝ている。女性の小物を売っている店のウインドウには小太りのトラネコがこっちを見ていた。まだ開店していないカフェレストランのウインドウには白黒の大きな猫が足の裏を道のほうに向けて寝ている。アパートの下では、真っ黒な猫が足元に寄ってきた。確かに猫だらけである。
猫博物館を探し当てるのは一苦労だった。普通の家で、え、これがミュウジアムという感じだったが、入ってみるといろいろな猫がいて楽しかった。
運河沿いを歩くと、水鳥を見ているおじさん、本を呼んでいるおばさん、居眠りをしている若い人、そしてそばに猫がいる。みんな水と猫とともにゆったり生きている。
フェンナに行ってはいけないよといわれていたコーヒーショップには近づかなかった。オランダ語がわからない上に、真朱はそんなに冒険をする勇気はなかった。オランダは一部の幻覚剤の売買が合法である。コーヒーショップはそういうところである。ケーキにも入れてあるということだ。街の中にはそういう店がいくつもあった。入口の戸に奇麗な茸の絵の書いてあるコーヒーショップには惹かれたが、やはり入るのは止めた。そういえばフローニンゲンにはコーヒーショップのようなものはみられない。大学町だからだろうか。裏に行けばあるのかもしれない。
小さな雑貨屋に、奇麗なガラス細工品が置いてあった。なんだろうと見ていると、パイプだと店の男の子が言った。それで、幻覚剤を吸うものだということがわかった。飾っておくだけでも奇麗である。二本買ってしまった。
アムステルダムには茸の看板が多い。ショウウインドウの中には、茸のポスターが貼られ、標本瓶に入った粉が飾ってある。
ぶらぶら運河の岸を歩くのがいい。次の日朝早く散歩にでた。
運河を通る船や、水鳥を眺めながら歩いていくと、早起きの老人たちが思い思いのことをやっている。茶色の帽子をかぶったおじいさんがしゃがんで、なにやらやっている。近づいて立ち止まって見た。
赤っぽい猫が老人の手を舐めている。ひとしきり舐めると、老人は小さな紙袋に指を突っ込んで、赤い猫の前に出す。猫は赤っぽい舌を出して一生懸命舐める。何度かくり返すと、猫がふにゃふにゃになって、よろよろと歩き出し、こてんと横になる。すぐに起き上がると、今度は飛び上がり、馬のようにトロット歩きをする、また、こてんと、横になった。赤猫のへんてこな踊りだ。赤い猫がふっと立ち止まって、くるりと後ろを向くと、金色の目を真朱のほうに向けた。
老人は面白そうにながめている。老人の指の先についていたもののせいだろう。老人は自分でも自分の指を舐めている。老人が赤い目をしてふしだらな眼を真朱に向けた。真朱はあわててもときた方向に引き返した。老人が近寄ってくるような感じがしたからだ。あれが、マジックマッシュルームなのだろうか。
猫のおかしな動きはマタタビを舐めた時のものとは違う。猫も薬を飲むとあんなふうになるのだろう。振り返ってみると、老人が猫に何かをしている。真朱はその場を急いで立ち去った。そのとき、まさかあの赤い猫が私の背中についている猫じゃないよね、と思った。いや、そうかもしれない。私を守っているのかもしれない。
アムステルダムに来て三日経った。運河の遊覧など観光客がすることはだいたいしてしまった。真朱は美術館をじっくり見て回るような趣味はない。見たいものがあればその一点をじっくり見て美術館をでてしまう。
はやくデルフトに行きたくなった。フェンナにアムステルダムはみんな見てしまったと報告した。
すぐ来いという返事が来た。デルフトには電車だと一時間で行くことができる。あまり本数はないようであるが、フェンナがアムステルダムの出発時刻と列車番号を教えてくれた。明日その電車で行くと返事をすると、駅に迎えに行くと返事があった。
電車が入るまで、アムステルダムの駅を改めて見て回った。フローニンゲンの駅と同様に赤レンガ造りだが、もっと大きく立派である。東京駅のモデルだそうだ。
予定通りの電車に乗ると昼前にデルフトに着いた。デルフト駅もこれまた赤レンガの奇麗な建物である。電車から降りると、出口のほうでフェンナが手を振っている。いつものように青いジーンズにTシャツだ。
「アムステルダムはどうだった」
「素敵だった、日本にはないものばかり、でも、フローニンゲンが好きかな」
「デフルトは、小ちゃい町で、マソホはもっと気に入ると思うよ」
彼女について駅を出ると、駅の周りの自転車が目に入った。こちらの人は本当に自転車が好きだ。ぎっしりと並んでいる。
てっきり自転車でいくのかと思ったら、駐車場に連れて行かれた。車はあまり止まっていない。彼女は目の覚めるようなブルーのベンツに近寄ると、「乗って」と助手席を開けてくれた。自分は運転席にまわり、乗り込むとすぐにキーを回した。
びっくりしている真朱に「兄の車借りてきた、家は郊外だから、これで十分ほどかかるのよ」と言いながら車をだした。フェンナが地味な生活をしているものと思っていた真朱はちょっと気持ちがこんがらがった。真朱の父親もそれなりの漆塗りの職人だが、こんなすごい車を持つことはできない。
車の窓から見る町の景色はアムステルダムやフローニンゲンとまた違う。細い運河をはさんで、奇麗な石やレンガの建物がならんでいる。デルフト陶器の看板も見える。街中を通り過ぎ、緑の多い郊外でた。やがて丘の中腹にお城のような屋敷が見えてきた。まさかと思っていたら、その大きな屋敷の庭の中に車を滑らせて行く。
「昔からの家なのよ、祖先がデルフト焼きの陶工で王室関係の人に仕えていたみたい。パパも陶工だけど、好きなものしか作らないからあまり売れないの。今通り過ぎた運河の脇に小さなお店をもっている。後で行きましょう」
車が玄関脇につき、真朱は降りた。「ちょっと向こうに止めてくる」とフェンナが車を出すと、玄関が開き、母親と思われる小柄の婦人が「いらっしゃい、どうぞ、こちらよ、日本のお客様は始めて、嬉しいわ」と笑顔を浮かべた。目の辺りがフェンナと似ている。真朱は広い居間に通された。真っ黒い猫が二匹、ソファーの上で寝そべっている。フェンナも追いついて入ってきた。
「ママのフランカ」
よろしくお世話になりますと、改めて握手をした。
「フェンナ、お部屋に案内して」
二階にいくと、いくつもの部屋が並んでいる。角の見晴らしのいい部屋に通された。ベランダもある。
「私の部屋は反対の奥よ、ここは客間の一つ」
「ずい分広いわね、それに大きなお屋敷、驚いたわ」
「昔、陶工たちがたくさんいたらしいの、だから、ここは工場のようなものだったのよ、おじいさんが、普通の家のように改築したの、おじいさんの作品は有名だったのよ、裏に父の窯があるけど、父はほとんど自分の趣味ね」
それにしてもベンツを持つほどの余裕のある生活をしているのである。だが母親にしろ、フェンナ本人もとても庶民的である。
「フェンナが車を運転するとは知らなかったわ、大学では車を使わないの」
「あそこじゃあ、いらないでしょう、母も父も仕事上、車は持っているけど、そういえば日本車よ、小さいニッサンの車、兄はベンツだけど、よしゃいいのにね、医者だから格好つけてるのよ、今日はイギリスの学会に行っているからあいてたの」
家族構成がわかってきた。
その日は自転車でフェンナとデルフトの町を回った。父親のデルフト焼きの店に寄ると笑顔の紳士に迎えられた。とても気さくな感じのすっきりとした小父さんである。絵付けのデモンストレーションをしていたところだった。
「よくきたね、この店のものはみんな私がつくったのだよ」とジェスチャーまじりで自慢をした。確かに他の店のものと比べると、個性的である。「すてき」と真朱が猫の焼き物を手に取ると、
「あげよう、記念にね、フェンナいいだろう」
なぜか、フェンナに許可を取った。フェンナも笑顔で頷く。
「ありがとうございます」。すきっとした青い猫で、威厳がある。
「マソホのお父さんも、伝統的な絵付け師なんだって」
「ほう、やっぱり陶器かね、デルフト焼きは日本の影響もあるんだよ」
「父は漆器の漆塗りの職人です」と何とか説明をした。漆がわからなかったので、ラッカーと言ったところ、彼は頷いて「ジャパニーズ、ラッカー」と言い直した。「あれはすばらしい」と知っていた。
「漆には黒と、赤があるのだけど、その赤は真朱といって、私の名前です」
そう説明すると「パパさんがつけたのだね」と笑った。
デルフトの青い色は、これで描くのだよと黒っぽい染料をみせてくれた。
「焼くとあの青い色になるんだ」。
「お父さん、今日、夕ご飯には帰るのでしょう」
「今日は寄り合いの飲み会だ、マソホには明日の朝の食事のときに会えるね」
父親は笑顔で彩色に戻った。
そこを出て、小さな運河のほとりに来ると、石畳の道の上でヨチヨチ歩いている黒っぽい水鳥にお年寄りが餌をやっていた。それを見てアムステルダムの猫に薬をやっていた老人のことを思い出した。そのことをフェンナにいうと、「マジックマッシュルームね、あれは禁止すべきだと思うわ」とオランダの制度を批判した。
「猫もおかしくなっていたようよ」
「そうでしょうね」
「ガラスのパイプきれいだったから、買ってしまった」
「使っちゃだめよ」と念を押された。
鳥に餌をやっていた老人が、動きを止めて、運河の中を覗きこんで何か言っている。
「猫って言ってるよ、マソホ、行ってみよう」
フェンナが自転車を引きながら、老人の脇によっていった。真朱も近づくと、老人が水の中を見ている。ここの水路には柵等がない。水がたっぷりあり、水面と路面がさほど違いがなく落ちそうで怖い。水草の間を黒っぽい鳥がぷかぷか浮いているが、そこを猫が泳いでいた。赤っぽい猫だ。アムステルダムで老人が薬を舐めさせていた猫によく似ている。
「赤猫ね」
そういえば、アマリアが南のほうに行くと会えると言っていた。デルフトはフローニンゲンからだと南のほうに当たる。
「火の神」と真朱が呟くと、フェンナが笑った。
「やだ、アマリアの言ったこと覚えてるんだ、忘れちゃいなよ、あの子、変わってるんだよ、絵も上手いし、キーボードも上手いけどね」
フェンナはアマリアが苦手なようだ。占い師の双子の妹がいるのを知ったら驚くであろう。
老人が手を振って「こっち、こっち」と猫に言っているようだ。
赤い猫は泳ぎながら、覗き込んでいる人たちをちらっと見た。金色の目をしていて、本当にアムステルダムで見た猫とよく似ている。赤い猫は老人のいる脇にたどり着き、岸に上がってきた。ぶるっと身震いすると、水しぶきが老人にかかった。老人がタオルを取り出すと拭いてやっている。また身震いをした。かなり大きな猫だ。老人の猫なのだろうか。いや、違いそうだ。赤い猫は歩き出すと、真朱のそばに来て足をそろえると、見上げて「にゃー」と鳴いた。真朱が手を伸ばすと擦りついて、鼻先を真朱の足元に押し付けた。
「マソホが猫好きなの、わかるみたいね」
フェンナも赤い猫の頭をなでた。老人がこちらを見ている。
「野良猫かしら」真朱がフェンナに言うと、フェンナは首を横に振った。
「野良猫はこんなに、人にくっつかない、どこかの飼い猫ね」
老人に向かってフェンナがオランダ語で何かを言った。老人は首を横に振った。
「あの人の猫ではなさそうね」
「可愛い猫」
「そうかしら、ちょっと気味が悪い」フェンナが否定した。
「行きましょう」
フェンナが自転車にまたがったので、真朱も自転車に乗った。ちょっと振り返ってみると赤い猫は後姿を見せて、反対の方にのそのそと歩いていく。家に帰るのだろう。我々もフェンナの家に戻った。
夕食はフェンナとフランカと三人だけだった。フランカの料理は、素朴で美味しかった。子羊の肉を軟らかく煮たものに、エンドウマメのスープ、ジャガイモのふかしたものにパン、それに赤ワイン。フランカも猫好きで、黒猫のベンジャミンとエスがいつもそばにいた。
京都の町の写真や飼っている三毛猫の写真を、アイフォンで見せた。寺や神社がとても珍しいらしく、二人にあれこれ質問されたが、あまり答えることができなかった。
父親の作る漆器を見ると、きれいきれいを連発した。陶器とは趣が違い、珍しかったのに違いない。日本に帰ってから送る約束をした。
次の日の朝、まだフェンナの兄が帰っておらず、車でどこか行きたいところがないかとフェンナが聞いてきた。ロッテルダムしか思いつかなかったので、そう言ったら、近代的な建物が並ぶつまらない町だから、そこにちょっとよって、キンデルダイクにつれていってくれるということになった。風車で有名な場所だ。
ドライブは楽しかった。周りの景色が全く日本と違う。ロッテルダムの中に入ると、確かにビル街である。そこを通り抜けると、田園風景のところをかなり走り、水の豊富な場所に出た。
「キンデルダイクよ」と彼女が車を止めた。水路に沿って風車がならんでいる。
「すごい、オランダに来てはじめて風車をみたわ」
「ここは世界遺産の場所だから残っているけど、他ではあまり見ないわね」
車を降りて、ぶらぶら歩きながら、写真を撮り風景を楽しんだ。すばらしい思い出になりそうである。フェンナに感謝。
田舎のレストランでお昼を食べ、「今度はハーグに行こう」と車を飛ばし、デルフトを通り越してハーグについた。どこも意外と近い距離にある。
ハーグは歴史を感じさせる公園の多い町だ。車で国会議事堂や公官庁街をまわり、公園の一角にある薔薇園、ロザリウム近くで車を止め歩いた。ハーグの町が見渡せる気持ちの良い場所だ。ティールームでコーヒーを飲んでいると、真っ赤な薔薇の咲いている繁みから赤い猫が顔を出した。からだに棘がついている。
「ここにも、赤い猫がいる」
真朱が赤い猫の毛についていた薔薇の棘を払い、耳に刺さっていた一本を抜いた。
「ほんとね、茶色の猫はたくさんいるけど、赤っぽい猫はあまりみないのよ、マソホが呼ぶのかしら」、フェンナも赤い猫に手を差し出した。
赤い猫は金色の目を細めてフェンナの手に擦りつき、真朱の前で前足をそろえて姿勢を正した。「ニャア」と鳴いて長い尾っぽを振る。フェンナが頭をさすると、ごろごろと喉を鳴らしだ。
「赤い猫を盗むの曲はできたのかしら」
「まだよ、ファースの詩が出来てから考えるわ」
「彼はどんな詩を書くのかしら」
「わからないな、意外とまともなのがくるんじゃないかな、マソホが日本語にすることになっているから、意識しているよ、きっと」
そう言ってフェンナは笑った。
「フェリクスはどこの人なの」
「彼はレワールデン、フローニンゲンに近いのよ、だけど行くには不便よ」
「夏休みは会わないの」
「彼は港でアルバイトよ、家が結構大変らしいから」
「フェンナはバイトしないの」
「するわよ、兄の勤めている病院のアルバイトよ、器具を消毒したり、配ったり、楽で結構ペイもいいの」
「お兄さんは何のお医者さんなの」
「産婦人科医」
「お父さんのあとを継ぐ人がいないのね」
「あら、私がやるかもしれないわ」
そういえば、フェンナは芸術学科だった。真朱は自分が大学を出たら何をしたいのかわかっていないのに気がついた。だが、父のあとを継ぐことはないのではないかと、今は思う。
次の日はフェンナがアルバイトの打ち合わせに行ったので、自転車を借りて一人でデルフトの町をぶらぶら歩いた。フェルメールセンターにも行ったが、フェルメールの絵そのものが置いてあるわけではなく、歴史が展示されており、あまり興味を引かなかった。やはりデルフト焼のお店を見るのが楽しい。
その夜遅く、フェンナの兄が学会から戻った。朝にちょっと挨拶しただけで、話をする機会がなかった。とても誠実で精悍そうな男性だった。オランダの人は背が高いが、その中でも高いほうだろう。フェンナと年が十歳離れていると言っていた。
その日、真朱はアムステルダムに戻った。
アムステルダムには二日ほど滞在し、フローニンゲンに帰った。ドミトリーにはよく知った顔の学生たちは誰もいなかった。アマリアもいない。フローニンゲンの遺跡を自転車で見てまわったり、運河の脇を散歩したりして過ごした。次第に退屈になってくる。アマリアにメイルをすると、カタリナのボートにいると返事があった。手伝っているということだ。遊びに来てとあった。ちょっとうれしい。
アムステルダムやデルフトで会った赤い猫のことを聞いてみよう、訪ねていいかメイルすると、この間の水路にいるからいつでもいいと返事が入った。すぐにでた。自転車で十分も行くと赤いボートはすぐ見つかった。待合の椅子に誰も腰掛けていない。着いたことをメイルすると、アマリアが船室から顔を出した。
「よくきたわね、カタリナも会いたいって言ってるわ、入って」
カタリナがソファーに横たわっている。真朱が入ると、起き上がって「アムステルダムとデルフトで、赤い猫にあったでしょ」といきなり言った。なぜ知っている。
「赤い猫に会ったのはいいことなの」
「自分を知ることになったでしょう、私は一度、自分の蜘蛛にあったことがある。ジョロウグモだったわ、捕まえた虫を無心に吸っていた。彼女は私を生かすため懸命に虫のエネルギーを吸収しているようだった」
思い出してみた。どうだっただろう、よくわからない。
「背中にいる生き物はいつか本人の目の前に現れる。ほとんどの人たちは背中にいる生き物だとは知らないから、ただの出会いとしか思わないでしょうね、でも、真朱は背中にいる生き物を知っている」
カタリナはこういうことも言った。
「薬を舐めた赤い猫、水路を泳いだ赤い猫、薔薇の棘をつけた赤い猫、みなあなたの背中の赤い猫が、猫たちにそうさせたのよ、赤い猫はあなたの身代わりに薬を舐め、水路を泳ぎ、薔薇の棘に刺さったのよ」
なぜ知っているの、と聞こうとしたとき、客が来てしまった。地元の人は避暑にいくので暇かと思ったら、逆に忙しいようだ。真朱はアマリアとボートから上がった。
「コーヒーでも飲みにいこう」
アマリアに誘われてカフェテリアに行った。
「赤い猫を盗む、の歌詞がなかなか書けないって、ファースからメイルがきたわ、出来た時にはマソホにも送るから日本語に訳してみてよ、フェンナは元気だったでしょう、あの子何でも出来るのよ、羨ましいくらい」
アマリアはフェンナをかっている。
夏も終り、ドミトリーは前の賑わいを戻した。フェンナはぎりぎりまでアルバイトをして稼いでから戻るようである。
そんな彼女からおかしなメイルが入った、赤い子猫が迷い猫で家に来たということである。きっと真朱の匂いがしたのではないかとあった。生まれて三ヶ月ほどの猫で、性格は穏やか、とてもいい猫なので、ドミトリーに連れて帰るそうである。よかったら日本に持って帰らないかともあった。
ドミトリーで動物は飼えないと思うが大丈夫なのだろうか。そんな返事をしたのだが、内緒で飼えば大丈夫ということである。オランダは大らかだ。
そうこうしているうちに、フェンナが戻った。赤い子猫が大きなリュックの中か出て来た。金色の大きな目をした、おとなしい雄猫である。フェンナは猫のトイレ、餌、あらゆるものを買ってきて、我々の部屋の隅に置いた。
フェンナは講義や製作に忙しいので、子猫の面倒は真朱がみることになった。真朱も九月から講義だが、科目は二つしかとっていないので時間がある。
フェンナが子猫の名前を付けろという、しかも日本語にしろというので、コロコロとふっくらしてかわいいので、玉にしようか、それとも色が赤っぽいので、赤にしようか迷ったが、結局「赤」にした。
バンドの連中も猫が好きなようで、講義の合間にみんなが見に来た。フェンナが言いふらしたのだろう。
「おお、かわいいね」、ファースが抱き上げて、「なかなか詩ができなくてごめん」と謝った。赤の金色の目がファースの青い目を見た。ファースがなぜかぎくっとした。
フェリクスが「マソホがアカと名前をつけたんだ、レッドだよ」と説明する。
アントンとバルテルがファースから赤を取り上げて、髭を引っ張ったりしている。
「いい猫だ」
そこへ部屋を出ていたフェンナが帰ってきた。
「みんな来てたんだ、デルフトの赤猫よ、マソホが日本にもって帰ったらいいと思うのよ」
アマリアが「それはいいわね」と頷いた。
「フェンナ、これ、頼まれてたチョコレート」、フェリクスが机の上に置いた。「ありがとう」フェンナが嬉しそうに応じる。誰が見てもカップルだ。
ファースがそんなフェンナを見つめている。その後、彼らは講義の時間だといってぞろぞろと出て行った。
「マソホ、アカをたのむね」、フェンナもフェリクスと講義に行った。
アマリアは真朱に耳打ちをした。
「きっと、火の神の猫かもしれないわ、ここにおいておくと何か起きるから、日本にもって帰ってね」
真朱もその気になっていた。
冬の気配になった。だが、夏の涼しさから想像していたほど寒くない。コートとマフラーがあれば何も問題がなかった。
音楽サークルの発表会が、冬休みに入る前におこなわれた。だが、「赤い猫を盗む」はとうとう作られずじまいになってしまった。彼らは今までの曲目で演奏した。よくまとまっていて、心地よい音をつくっていた。
「どうして、ファースは詩が書けなかったのかしらね」
アマリアが不思議そうである。
「あいつは、インスピレーションが強くて、いつもならあっという間に作ってしまうんだけどね」
演奏会にフルートの音がなかった。
「フェリクスはどうしたの」
「わからないのよ、冬になってずーっと講義にも製作にも出てきていない、ドミトリーにいないし、家で何かあったのかな、フェンナがメイルも通じないと言っていた」
アマリアは何か心配そうである。
「フェンナに聞いてみようか」
真朱がそう言ったが、アマリアはほっといたほうがいいと首を横に振った。
ファースが頻繁に部屋にやってくるようになった。赤を抱き上げていく。前はフェリクスがしょっちゅうフェンナに会いに来ていたのだがどうしたのだろう。
赤は誰にでもそばによっていって愛想を振りまく猫であった。もちろん真朱やフェンナにもよく馴れていて、掃除のおばさんも何も言わずにかわいがっていく。フェンナが、真朱が日本に持っていく猫で、それまで置いておくだけ、と言っているからだろう。大目に見てくれているようだ。
クリスマスの時期になった。クリスマスは家族で祝うもののようだ。フェンナも家に戻った。夏休み同様、ドミトリーは空になる。真朱は猫の赤と二人だけである。アマリアがときどき部屋に顔を出してくれる。
赤い雄猫はずんずん大きくなった。来年の六月の授業が終わった後、日本につれて帰る予定である。この大きな猫を持って帰ったら、親はどう言うだろうか。ルームメイトと一緒に赤い猫を飼っていると手紙を書いた。猫の写真は送っていない。両親はアイフォンを持っていないので猫の顔を知らない。
クリスマスイブにアマリアから夕食の誘いを受けた。カタリナとユリアが会いたいそうである。彼らはボート暮らしだからレストランで食事をして、ボートでケーキを食べようという申し出だ。赤と二人でクリスマスと思っていたのでとてもうれしい。
真朱は喜んで出かけた。案内されたレストランはエトの店である。カタリナとユリアが良く使うところだそうで、でっぷり太った店主が料理を作っている小さい店だ。
「ここは隠れた名店なの、もちろん観光案内にはでてないわ」
「エト、日本のお嬢さん、マソホよ、アマリアの友達」
「そりゃあいい、今日は旨いもん、たくさん出すからね、楽しんでいってくれよ」
気さくないい人だ。
それからいろいろな料理が出た。みな美味しい、またこようと思う店である。
「赤い猫は元気」カタリナは赤のことをアマリアから聞いたようだ。
「大きくなっちゃって、人懐っこいの」
「アカは火の神よ、真朱にはおとなしいけどね、きっともう何か仕掛けたわよ」
アマリアが「それ何、脅かさないで」と笑った。
「火の神は、火の神の役割を果たすわ、同じ部屋の子は大丈夫だけどね」
「フェンナのことかしら、アカをデフルトからもってきた子よ」
「そう、あなたの背にいる赤い猫は、火の神のアカから周りの人も守っている」
「そういえば、フェンナのボーイフレンドが大学に来なくなった」
アマリアはフェリクスのことを言った。
「かわりによくフェースが部屋に来るようになったわ」
真朱が言うと、カタリナが「その子はアカに会ったの」と聞いた。
真朱が「だっこしていく」と頷くと、カタリナがオヤッという顔をした。
「ファースはそんなに猫が好きではなかったと思うけど、どうしてかしら」
アマリアが気になる様子である。
「火の神がファースになにかをしたのかしら」、真朱がつぶやくと、
「火を付けたかもしれないな」、カテリナが言った。
「怖いことになるのかしら」
「マソホには関係ないし、マソホの背中の赤い猫にも関係ないこと、赤い猫の役割だから」
「マソホを心配させちゃだめよ」ユリアがワインを真朱に注いだ。
遅くまで食事を楽しんだ後にボートに戻った。
ユリアが作ったクリスマスケーキがでた。素朴だが美味しい。
「アマリアはどこで生まれたの」
「フローニンゲンよ、城塞があるでしょう、今は公園になっているけど、そこに昔からの家があったということよ、古代の占星術者の末裔だとおじいさんはよく言ってたの、ずいぶん古くからそこにいたんだって、でも市が公園にするときに家を渡したの、おじいさんは水上生活者になった。それで後を継いだカタリナもずーっと水の上よ、だから今でも家はないわ、このボートが家よ、いつか落ち着くかもしれないけど」
そう言っていたが、この家族は今の生活が好きなようだ。
こうして、アマリアの家族とともに、クリスマスの夜はとても楽しく過ごすことができた。
ドミトリーに戻った真朱は赤を抱き上げると、四角張った顔の髭を引っ張った。
「おいたはしないでよ」
赤は金色の目を大きく見開いて真朱に擦りついた。
一月の半ばになるとフェンナも戻ってきた。浮かない顔をしている。
「どうしたの、フェンナ」
「フェリックスに何度電話をしても出ないから、気になってレワーデンに行ってきたわ」
「フェリクスに会ったの」
「うん、海運会社でアルバイトをしていたわ、大学に戻れないって言ってた」
「お金の問題なの」
「違うの、彼、目の上に絆創膏を撒いて、左手にも包帯を巻いていたわ」
「事故にあったの」
フェンナは首を横に振った。
「赤い猫なの」
真朱は聞きなおした。
「赤い猫ってどういうこと」
「フェリクスが荷物を運んでいるときに、真っ赤な大きな猫が突然襲ってきて、運河におとされたんだって」
「でも、なぜ大学にもどれないの、ここに居る赤のせい」
「違うよ、赤い猫は猫の顔をしていたけど、誰だか分からない男の顔もしていたって言うの、赤い猫が襲ってきたのはそれ一度だけではないんだって、大学に戻ろうと用意していると、窓を開けて入ってきて、噛み付いたり、引っ掻いたりするんだって、だから大学に戻れないって、いつも見張られているって言ってた」
そんなことがあるのだろうか。すぐには信じられないことである
「アマリアに相談してみたらいいんじゃない、そういうことよく知っているから」
フェンナは迷っているようだったが、顔を上げて真朱を見た。心配そうだ。
「マソホ、一緒にアマリアに話してくれる」
真朱が連絡をとると、アマリアはその日の夕方、部屋にやってきた。
「帰っていたのねフェンナ、それでどうしたの、マソホ」
「私が、マソホに頼んだの」
フェンナはフェリックスの様子を詳しくアマリアに話した。
「わかった、カタリナに頼む」
「カタリナって誰」
フェンスはアマリアの妹のことは知らない。
「妹、それに大昔からの術を受け継いだ占い術師よ」
フェンナは驚きを隠さなかった。
「よく話していた占い師って、妹さんだったの」
「そう、双子のね」
アマリアはアイフォンで連絡を取った。
「今日の八時なら空いているって、行こう、きっと解決する、マソホも一緒にね」
その夜、三人そろって自転車をこぎ、占いの赤いボートに行った。
紫色の衣装に身を包んだカタリナはアマリアそっくりでフェンナは眼を見張った。
アマリアがいきさつを説明し終わると、間髪を要れずにカタリナがフェンナを見た。
「フェンナが連れてきたデルフトの赤い猫のことね、ファースは前々からフェンナに気持ちがあったよ、赤い猫が火をつけて、ファースの代わりに動いているのよ、だけどファースはフェリクスがそんな風になっていることは知らないのよ」
「私はどうしたらいいの」フェンナがうつむいた。
「フェンナの連れてきた赤い猫はマソホの言うことは聞くのよ、マソホにお願いしましょう、時間はかかるけど、赤い猫をなだめてちょうだい、赤い猫は役目をはたしただけ、ファースにとり付いたけど、赤い猫を火の神の役目から解放すれば、もう現れない」
カタリナがさらに続けた。
「マソホ、あなたは、アカを可愛がって、仕事を忘れさせるの、きっと日本人の猫の可愛がり方は、火の神を静めるわ」
真朱は頷くしかなかった。しかしどうやったらいいのだろう。
「自然でいいから、もっとアカと一緒にいてちょうだい」
「ファースが部屋に来て赤い猫に会いたがったらどうしたらいいのかしら」
「会わせてはいけない」
カタリナはきっぱり言った。
「ファースはフェンナにも会ってはいけないの」アマリアが聞いた。
「それは、フェンナが決めること、フェンナが解決することよ、ともかくアカには会わせてはだめ」
カタリナはいつになくきつい調子で言った。
「今日の話しはみなには言わないほうがいいわ、フェンナとマソホそれにアマリアの心の中にしまっておいて、フェリクスもファースも知らないことよ」とも言った。
それから、真朱は赤をいつも膝の上に載せ、咽を擦り、ごろごろいわせた。赤は真朱に擦りつきうっとりとなる。いつも真朱のベッドの上で丸くなっていた。
フェンナがそれを見ると言ったものである。
「日本猫というのはとても人になついて、おとなしいというのは、きっと飼いかたなのね、赤はもう日本猫になっているわ」
しばらくすると、フェリクスが大学にもどってきた。また音楽のサークルが復活したようである。フェンナは赤に会いたがったファースもフェリクスも部屋に入れなかった。赤を日本式に教育するためとわけの分からない言い訳をしていた。
六月の末、真朱の留学期間が終わりに近づいた。
真朱に飼いならされたデルフトの真っ赤な猫を日本に連れて行く準備は、アマリアとフェンナがほとんどやってくれた。
とうとう別れの日になった。真朱は猫の入った籠をさげてアムステルダムにむかった。フローニンゲンの駅では手を振るみなに送られ電車に乗った。
オランダの不思議な出来事はこれで終わった。
京都の家に帰ると、すぐに父親の真朱塗りの椀のセットをデルフトのフェンナの家に送った。アマリアたちには小箱を三つ、仲間達には真朱塗りのストラップを送った。
フェンナやアマリアはもちろん、みんなからメイルが入る。必ず音楽サークルのメンバーで京都に行くと書いてきた。真朱も会いたかった。
みんなが来た時、赤に会わせていいかとアマリアにメイルで尋ねた。もう日本猫になって、火の神でなく日の神になっている、だから大丈夫、そうカテリナが言っているとの返事がきた。
今、うちの三毛猫の脇で、倍ほどもある大きな赤い猫が丸くなっている。赤と呼ぶと、面倒くさそうに顔を上げ、金色の目をちょっとあける。京都が気に入ってくれているようだ。三毛猫とも仲がいい。それに両親とも。
真朱は自分の背に赤い猫がいることを知っている。火の猫だった赤もいる。二匹の赤い猫たちが、これからの自分をどのように変えてくれるのか楽しみなである。大学を出たらどうするか、漆塗りの職人にはならないだろう。ふっと、巫女になってみようかと思ったりもする。
背中
私家版 赤猫幻想小説集「赤い猫、2019、279p、一粒書房」所収
木版画:著者