妄想恋愛
第1話
「この子の病気はそう簡単にはうつらない、一体君たちは何の勉強をしてきたのだ?」
医学を学ぶ同士にそう叫んだ市川文太郎の髪は春風に揺られ、私は何故かその髪の毛の揺れから目が離せなかった。彼の髪の毛の揺れと私の心臓の震えは共鳴し、信念を持った凛々しい彼の横顔に潜んだ情熱は、私のような小娘には耐えることのできないほどの熱さだった。
私を罵った奴らが去ると両親すらも触れようとしない私の両肩を、彼は軽率にしっかりと掴んだ。
「君も君だぞ、あんな連中の言葉に少しも反論しないなんて。もっと胸を張って生きろ。」
―胸を張って生きろ。
そんな言葉を私にかける人間は彼が最初で最後だ。
「ありがとうございました。」
私はそう言って彼から距離をとった。
―うつるから、あっちに行け、
そう言った彼の同士たちの言葉を皆殺しにした彼の言葉に、私は自分の大切にしてきた壁がぶち壊される気配がして、一刻も早く彼の前から立ち去りたかった。
「おい」
私を呼び止める彼の言葉を無視して、私は彼に背を向け歩き始めた。
「君は何を恐れている。」
私はその言葉で足を止めた。
私は何を恐れている?他人?病気?それとも自分?そんな疑問が脳を掠める。
「少女よ、大志を抱け。」
私は彼の方へ振り返った。
「それは少年では・・・。」
私は彼を見て言うと、彼は日焼けした肌から真っ白な歯を見せた。
しまった、思わず振り返ってしまった、そんな風に思ったのも束の間で、その屈託のない向日葵のような笑顔で私は彼の全てを受け入れてしまえそうな、そんな気さえした。彼の笑顔に心を撃ち抜かれた、とでも言えば適切だろうか。
「君が振り返る言葉なら、何でもいいのだ。」
彼は私に小走りで近づいた。
「俺は市川文太郎、君は?」
私は彼を振り返ったことをやはり後悔した。
何故なら彼はいつも私が自分の目の前に作り上げている壁を優に乗り越えて、私の醜い顔を、目を見ようとしていたからだった。彼の眼差しは汗が垂れるほど暑い夏の日差しのようで、どんなに逃げてもどこまでも追いかけてくるような気がした。
私はほぼ反射的に顔を彼から背けた。日ごろから人に触れることはもちろんのこと、人と仲良くなることすら避けていた私は日常的に人の目を見るなんてことはしない。私が人とかかわりを持とうとしないのは病気をうつさないためでもあるし、平気を装いながらも自分が相手の言葉で傷つくのを心のどこかで非常に恐れていたからかもしれない。
彼の言葉に振り返ってしまった私には、彼の質問に答えるしか道はないのだ。私は彼からいち早く逃れるためにため息一つつくと顔をあげた。
「竹田結子です。」
「結子か、じゃあお結と呼ぼう。」
そう言って彼は私に一つ笑顔を見せると
「またな」
そう言って背を向けた。
「あの・・・?」
またな、の意味が分からず私は背を向けた彼に声をかけた。
「多分きっと俺らはまた会うよ。」
「何故です?」
「神様ってのは、必要な出会いは無条件に何度でも与えてくれるからな。」
彼は私に背を向け歩きながら私に手を振った。そんな確証のないことを当たり前のように言う彼の背中に私は、会えるものなら会ってみやがれ、そんな風に心の中で叫んだ。
私は五歳の頃からハンセン病を患っていた。
五歳になった夏、お風呂に入っていると顔に少し赤みがかった細い線が入っていることに気づいた。その線はお風呂から上がると白くなっていた。不思議に思ったが何もせず過ごしていると段々指先の感覚が鈍くなって熱さも感じにくくなっていった。ハンセン病、その言葉を兄が放った瞬間私は幼心に普通の人生を歩めないことを悟ったのだった。
家の中では私がいる部屋に仕切りが設けられていて、多くの可愛い兄弟たちを撫でることすらも両親から許されていなかった。
その代わり、一人で部屋を使えることや子守をしなくていいのは私の特権でもあったが。穀潰し、そんな言葉が似合う女だった。
「うつるから触るな。」
私は何度その言葉を投げかけられただろうか。
その言葉に傷ついていた日々はもうとっくに過ぎ去り、16歳になった今ではその言葉は挨拶のようにすら感じられた。
だから彼に出会った時も、差別を受けるという私にとっては何気ない日常の一コマにすぎず、彼が私を庇ったことに私はとても違和感を覚えたのだった。
―この子の病気はそう簡単にはうつらない
今までの私の中の常識を覆すその一言。
果たしてうつらないというのは本当なのだろうか?
私は帰路を辿りながら考えていた。
もしそれが本当なのだとしたら、私が今まで虐げられてきた相手を思いやる気づかいはすべて無駄だったということになる。
家に着いて、隔離された自分の部屋に入っても一向に胸のざわつきが収まることはなかった。私は机の一番上の引き出しから、かわいらしい私には不似合いな手鏡を取り出した。鏡は残酷なほどに私を正直に映し出す。私の左目の下から口元まで細長く存在する白いあざは欠陥品の印のようで、私は鏡から目を背けた。鏡を持つ左手の甲にも楕円型の白あざがあった。私は何度この手の甲にかじりついただろうか。噛んでも叩いても刃物で傷つけても、この白あざは消えない。
こんなに醜い私を誰が愛してくれようか。
―またな
そう言った彼も私を好いているわけではないだろう。
何にも期待しなければ何にも裏切られることはない、そんな道理はもうとっくに知っていた。
私は独りで生きて独りで死んでゆく。それがハンセン病の人間の生き方だ、私は目をつぶり自分にそう言い聞かせた。
いつもより鼓動が早まっている原因を、今日という日の非日常さゆえの動揺として私は片づけた。それ以上に考えを進める勇気は私には無かったのだった。 けれど ―君は何を恐れている。その言葉が未だに脳内でこだましていた。
「おはよう」
私の家は農家だった。毎日の日課である家の手伝いのために家から少し歩いた先の井戸へ水を汲みに行っていると、聞き覚えのある私の心をざわつかせる声が聞こえた。
声の方を見ると、やはり私の胸騒ぎの主犯だった。
「おはようございます。」
私は水くみの手を止めずに言った。
「ほらね、会えただろう?」
屈託のない笑顔を私に向けながら彼は言った。
「たまたまです。」
私は手桶に入りすぎた水を少し捨て、手桶を持ち上げた。
「春と言っても、やはりまだ寒いな。」
彼は私の汲んだ手桶の水に指の第一関節を突っ込みながらそう言った。
そして少し濡れた指を手桶から取り出し、私の前にその指をかざした。不思議に思って私がその指を覗き込むと、一瞬その指は弾け私に水をかけた。
「わっ」
私は思わず声を出した。そんな私の様子を見て彼はけらけらと笑っている。
「な、なにをするのです!?」
私は彼の行動が信じられず目を見開いて言った。
「今日も元気じゃのう。」
彼は私の頭をぽんっと軽く叩くと私から手桶を奪った。
「どこまでこの水を持っていく?」
私に謝罪もせず彼はあたりをきょろきょろ見渡しながら言った。
「いいです。」
私は彼の手に触れてしまわぬように、手桶を取り返そうとした。一瞬、手桶の横木に並んだ私たちの手に目が止まる。肩輪者の私と健常である彼の手は何だか細胞一つ一つまで違うような気がした。
そんな一瞬の気のせいもすぐに頭から過ぎ去り彼から手桶を奪い返すことに私は必死になった。
けれどガタイの良い彼の握力には勝てず、ただただ手桶に汲んだ水がこぼれてしまうだけだった。
土の上に水が落ち、それを彼は見つめていた。
「不思議だな。」
「何がです?」
私は結局彼から手桶を取り返せず、疲労困憊しながら聞き返した。
「これ。」
彼はさっき私がこぼした水を指さした。
「土に水がかかると泥になって汚く見える。」
「ええ、そうですね。」
何が不思議なのか検討もつかず私はてきとうに相槌を打った。
「でもさっき」
彼は土から目を離し、私を見た。
「お結に水をかけた時は、とても綺麗に見えた。」
彼は不思議だなあ、と言いながらまた土を見ていた。
私は顔に血が集まるのを感じ、まるで手桶の横木が熱いものであるかのように、横木から手を離した。
これまでに感じたことのない感情、これが羞恥というのか?
綺麗、なんて一度も言われたことも、きっと思われたこともなかった。嬉しさと恥ずかしさとほろ苦さが一度に胸のあたりに集結して、何だか心拍数ばかりが早くなって時が進むのがだいぶ遅いような気がした。脈を身体全身で感じる。
それと同時に私は早く彼から離れたくなって、彼から逃れる方法を心の中で必死に探した。
「お結、これはどこに持っていくのだ」
彼が私の方を見ようとしていた。今自分の顔は紅潮していて、きっといつも以上に醜いはずだろう。それに照れている自分の姿なんて悔しくて見せたくなかった。
見られたくない一心で私は顔を下に向けた。その拍子に手桶に汲んだ水に映った自分と目が合った。今まで見たことがないほど自分の顔は紅潮していて、目はうるんで今にも泣きそうな顔をしているくせに、涙は心に溜まって流れてこようとはしなかった。酸素も心に溜まっていて、肺がとても苦しかった。けれどそんな自分の顔は不思議なことに、今まで見た自分の顔で一番まともだった。温めると赤くなる白あざが、紅潮した顔に馴染んでいつもより目に付かないからだろうか。
「お結、耳が真っ赤だぞ。」
彼が今どんな顔をしているのか私には分からなかった。このまま走り去れば赤面した姿を彼に見られずに済むはずなのに、彼の表情を知りたいと思う感情が、自分の顔を見られたくないと思う感情に負け、私はこの場に留まった。けれど見上げる勇気はない。
「結子」
彼が私の名前を呼んだ。
その瞬間、ただそれだけの事で私のあらゆる思考が今までも存在していなかったように綺麗さっぱりどこかへ消えた。彼に熱っせされ跡形もなく溶けてしまったかの様だった。考える能力を失った私は無抵抗のまま、彼の隣に自分が存在しているというこの現実に堕とし入れられ、私は手桶に映った自分から目を離し、ゆっくりと彼を見上げた。初めて見た時から変わらない彼の瞳は、直視できないほど眩しいはずなのに私の瞳孔は、彼を全て感じようと開きっぱなしだった。
「ほら、必要な出会いだっただろ?」
私の心中は彼にはすべてお見通しなのだろう。彼は手桶を土の上に置いた。そして私の両肩を掴んだ。
「目を見ろ、君は生きている。生きている人間は、人の目を見て話さにゃならん。目を背けるのは、死んであの世に行く時だけでいい。」
私は彼の目に吸い込まれるように彼の話を聞いていた。
「君は生きるのだよ、君の病気はきっと俺が治す。君のように美しい人は前を向いて生きるのだ。」
彼の口からすらすら出てくる華麗な言葉は、彼以外の口からでた言葉ならば私は受け付けられなかっただろう。けれど彼の私の両肩を掴む力強さは私の背筋を伸ばさせて、私に一本の芯を与えてくれた。彼の目はきらきらしていて夜空の星のように無限に広く、可能性に満ち溢れている様だった。
―俺が治す。
そんな胡散臭い言葉も、彼の目を見ていると訪れる未来のような気がした。
何にも期待しない、そう思っていた私が彼を信じたいと思ってしまった。それは私の人生において一生の不覚のような気もするし、幸運の鍵であったような気もする。
「私の家の畑はあっちです。」
私は自分の家の畑の方を指さしながら彼に微笑みを向けながら言った。上がる私の口角につられ彼も目を細めた。私たちの心の中で何かが通じ合った瞬間だった。
それからというもの、私たちはお互いを自分の心の中に住ませた。
医学生である彼は勉強の合間を縫って私に会い、私に難しい哲学や人体学を教えた。はっきり言って私には全く理解できなかったがそれでも、楽しそうに話す彼の横顔や大切そうに医学書を撫でる彼の手つきや、時折見せる考え込んで眉を顰め険しくなった彼の表情も全て好きだった。けれどやはりどんなに私たちがお互いを好きになっても、私の病気のせいでちらつく世間からの差別の眼差しは拭いきれなかった。時には石を投げつけられられたり、彼もハンセン病にかかったのではないかと噂されることもあった。何度も私は彼から離れようとしたけれど、彼は私から離れようとはしなかった。
「何故、文太郎さんは私と一緒に居るのですか?」
私は木が赤く色付き始めた秋にそんなことを聞いた。私の質問を受け、彼は一瞬だけ考えた。
「お結は何故俺と一緒に居るのだ?」
そして彼は私に同じ質問を返した。
「好いているからです。」
「俺も一緒だ。」
「それが、分からないのです。」
私には自分を好きになる人の心情が全くもって理解できなかった。今までの人生で一人もいなかった恋人の存在に、私は両想いであることを知りながらも、困惑していたのかもしれない。
「お前の魅力なんて、俺意外には知らなくていい。」
私はかすかに耳に入った彼のその言葉が聞き間違えではないかと疑い、え?と声を漏らした。けれどほんのり頬を赤くした彼の顔を見て聞き間違えではないことを知ると、ますます恥ずかしくなり私は思わず目線を彼の手元に落とした。
そして少しの沈黙が訪れた。
「好きだと言ったら、好きなのだ。」
彼は少しぶっきらぼうに言った。付き合い始めて知ったのだが、彼は自分の気持ちを伝える時に照れ隠しで少し怒ったような口調になる時があった。それも又、私にとっては愛くるしかった。けれど今はそんな愛くるしさに構ってはいれなかった。
「じゃあ私に口づけできますか?」
私はほぼ勢いでその言葉を口にした。私の言葉に彼は驚いて少しだけ身体をこわばらせた。
私たちは付き合って半年経つが、彼は口づけどころか手を繋ぐことなど私に恋人らしい接触はあまりしてこなかった。経験がないとは言え、私にも恋人同士の交わりの知識はある。
私は彼の目を見た。すると珍しく彼は私から目を逸らした。付き合い始めてからアイコンタクトは、私たちの心の繋がりを表していた。それが彼の方からプツリと切られたような、そんな気がした。
「口づけは、駄目だ。」
彼のその言葉で私はとても泣きたくなった。
―私の病気がうつるのが、やっぱり嫌なんじゃない。
私は涙を必死にこらえた。
「分かりました。」
私は涙がばれないように彼に背を向けて帰ろうとした。
「ちょっと待て。」
彼は私の腕を掴んだ。
「急にどうしたんだよ」
私は泣いていることがばれないように涙を拭い、できるだけ笑顔でいれるように心がけながら彼の方へ振り返った。
「何でもないのです、忘れてください。」
「嘘だろう。何か思っていることがあるのではないか?」
私の言葉に被せるように彼は言った。
けれど一度彼に目を逸らされた私は、彼の目を見たくはなかった。だから今度は私から、彼から目線を逸らした。
「もういいのです。」
私はその頃、彼が私と付き合っていることが原因で授業の差し止めなど、医大生としての勉強が妨げられていると知っていた。彼はハンセン病の女と交際している、じゃあ私の授業は受けさせられない、大学の教授はみんな口をそろえてそう言っていたらしい。その噂が真実かどうかは定かではないけれど、彼の最近の眼差しを見ればその噂の真偽がはっきりとわかる。彼は確実に差別を受けていた。
こんなにも苦しみながら、彼は何のために私と付き合っているのだろうか?もしかして、ハンセン病が伝染しないことを証明するため?
そんな考えがふつふつと湧いてきた。けれどその考えは私にとってあまりにも有り得ないことだった。
口づけを拒まれた、ただそれだけのことで私は、彼は私を好きだはないのだと思い込もうとした。
「良くない、お結は今苦しそうだ。」
誰のせいで、こんなに苦しんでいると思うの?
決して彼のせいではないはずなのに私の苛立ちの矛先は彼に向いていた。私は彼を睨んでやろうと彼を見た。
けれど彼は、今まで見たことがないほど悲しい顔で私を見ていた。
今、彼に本音を言えば彼を苦しめてしまう。
そう思った私は喉元まで出ていた、言おうとしたことを全て飲み込んだ。
恋に惑わされた私にそうさせるほど、彼は悲しい顔をしていた。勇敢であるはずの彼が、まるで怯える子犬のような眼差しで私を見ている。
「ほんとに、もう良いのです。」
私は彼の手を解くと走り出した。今彼のそばにいたら私はきっと心無い言葉で彼を傷つけてしまう、私はそれが怖くて必死に逃げ出した。
「待て!」
彼が私を走って追いかけてくる。彼は柔道をやっているので私の数倍体力はあった。すぐに追いつかれてしまう、そう思って私は走るスピードを速めた。しかし想定外のことに彼は私に追いつかなかった。あれ、と思った私が振り返ると息を切らし膝から崩れ落ちて苦しそうにしている彼が少し後ろにはあった。
「大丈夫ですか?」
私は彼から逃げていることも忘れ、苦しそうに肩で息をする彼に駆け寄った。大粒の汗が彼の額を伝う。私はハンカチを彼に渡した。
「最近柔道の練習を怠けていたからね。」
私のハンカチを受け取りながら、息を詰まらせながらも彼は少し苦笑いをしながら言った。
「少し運動不足かな。」
へへへと笑いながら彼は頭を掻いている。
「勉強のしすぎですよ。」
私が手を差し伸べると、彼は少し躊躇しながらも、私の手を取り立ち上がった。
「大丈夫ですか?」
その私の言葉にはあらゆる疑問が詰まっていた。きっと彼にはその全てが容易に伝わる。
「ああ、心配しなくていい。」
彼は未だ冷や汗が引かない顔で、私に安心感を与えようと笑顔を作っていた。けれど笑った時に出る彼の涙袋がいつもより黒くて、私の心には一層彼を心配する気持ちが深く刻まれてさっきまでの苛立ちなんてとっくに忘れていた。
「文太郎さん、私はそんなに頼りないですか?」
私は彼の少しの気持ちも残さず、全てを汲み取ろうと彼の顔を覗き込んだ。そんな私の様子に彼はたじろいでいた。
「そんなことはない!」
彼は私が目の前にいるにもかかわらず、叫ぶように言った。
少し驚いて肩をびくつかせてしまった私に申し訳ないと思ったのか、彼は一つ大きな息を吐いて冷静さを取り戻そうとしていた。私は彼の肩に自分の左手を置いて、彼の気持ちが少しでも平穏になるように願いながらさすった。
何度も噛みついた白あざのある左手で、誰かを癒したいと思う日が来るなんて、過去の私は想像すらしていなかった。
私の手を愛おしそうに見つめる彼は、ゆっくりと大きくて立派な自分の手を私の手に重ねた。
そんなに触ったらうつります、そう言おうと彼の顔を見ると、彼は私が言おうとしていることが全てお見通しである顔をしていた。お願いだから、今は何も言うな、そんな彼の言葉が私の手を握る力強さで感じ取れる。
「君がいるから俺は生きて行ける。」
優しい彼の声が私を包んで何だか胸が熱い。
「どんな言葉を言われたって君がいると思えば、そんな罵りだってむしろ喜びだ。けれど君が居なくなったら俺は何もする気力がなくなる。いつから君はこんなにも俺にとって大切になったのだろう。」
彼は一時も私から目を逸らさなかった。
私の信じた人は、いつの間にか私の愛する人になっていた。
私は自分の手に重なっていた彼の手を自分の口元に持って行った。一瞬だけ文太郎の手がびくついた。
けれど私は構わずそっと彼の手に口づけをする。消毒用のアルコールの匂いがすうっと私の鼻腔を通る。彼は医者になるために誰よりも努力しているのだ。私はアルコールの匂いが染みついた太くてたくましい彼の腕を抱きしめた。抱きしめた彼の腕の指が、私の頬に流れた涙を拭う。
「綺麗だよ」
彼のその言葉に胸の奥深くがツンと痛んで、私は生唾を飲み込むのも苦しい思いがした。
涙のせいで私の口から漏れる吐息が彼の手にかかってしまうのが申し訳ないような、けれど彼の手に私の吐息をかけて少しでも私を知ってほしいようなそんな甘酸っぱさに隠れた本能がぎらぎらと心の中で光る。
「今日はもう帰ろうか。」
夕日も大分落ちあたりは暗くなり始めていた。
彼はそう言うと私の顔の近くからの手を離し、私の手を握りなおすと何も言わず歩き始めた。
「あの・・。」
いつもは公の場で手を繋ぐことなどしない彼が、私の手を握り歩き始めたことで私はつい恥ずかしくなって追いかけるように足を動かし彼を見た。
「なんだ、口づけの方が良かったか?」
笑いながら彼は言った。
手を繋いだだけでもこんなにも心臓がうるさいのなら、口づけなんてしたら死んでしまう、私はそう思って首をぶんぶん横に振った。
「冗談だよ。」
大半が落ちてしまった夕日に照らされる彼の横顔にはやはり疲労の跡があった。
ちゃんと睡眠はとれているのだろうか、そんな心配が湧いたけれど、自分が彼の疲労の原因かもしれない、そう思うとうまく話を切り出せなかった。
「大丈夫だ。」
彼はそう言いながら私を見た。
「俺は負けないよ。」
そう言って彼は私の手を握る手に力を込めた。その暖かさは出会った時と変わらない。強くて優しくて、私に勇気をくれる。
「ええ、分かっています、文太郎さん。」
私はその愛おしくて大切な笑顔に、白あざのある私の笑顔を見せた。
私はこれから先の人生、きっと彼しか好きにならない。そう思わせるほどに彼は私を何度でも夢中にする。けれどそれがとても幸せな日常だった。差別がなくなることはきっとない、ならばせめて彼だけは失いませんように、私は消えかけている夕日に向かってそう強く祈った。
「赤紙が来たらしいぞ。」
いつもは私を存在しないかのように扱う父が私に話しかけた。
「え・・?」
私は思わず聞き返した。
「文太郎が赤紙を貰ったらしいぞ。」
父は、農作業が出来ない冬場は蚕を編んでいた。
その手つきを止めず、色のない声で言った。
❘赤紙・・・。
それは近々始まろうとしていた日中戦争への出兵を求める紙だった。
私は考える間もなく家を飛び出した。
彼の家の近くまで走ると彼の後ろ姿があった。
「文太郎さん」
私は急いで彼に駆け寄った。
「おう、お結どうしたそんなに焦って。」
「どうしたじゃないです!」
私の焦っている理由がてんで分からないと言うように彼はすっとぼけた顔をしていた。もしかして父の言葉は嘘だったのかもしれない、そんな風に思わせるような態度だった。
「赤紙が来たのでしょう?」
私は嘘であってほしいと願いながら彼に言った。
せわしなく私の口から出る吐息が冬の寒さで白くなって、二人の沈黙を埋めていた。その沈黙すらじれったい。
彼は少しだけ口を開いた。
「ああ、来たよ。」
あまりにもあっさりと言った彼に私は驚いて声も出ず、彼の顔を茫然と見た。
「何故、何故・・・。」
私は体全体の力が抜ける思いがした。
「何故そんなに平然としてられるのですか?」
私は自然と流れてしまった涙を拭うのも忘れ彼に詰め寄った。彼は少しだけ笑った。
「別に死ぬわけじゃあるまい。」
そう言うと彼は私の肩をポンと叩き、歩き出した。何故だかすごく、彼の手が冷たい気がした。
「死ぬかもしれないです。」
私は彼を追いかけて横を歩きながら、彼が戦場に行くことを止めようと必死になった。
「生きて帰ってこなかったら、私はどうなるのですか?誰が私を治してくれるのですか?」
私の勢いに負けて足を止めた彼の胸元に私は手を置いた。厚着をしているせいか彼の心臓の音は感じられない。
彼は少し困ったように眉を八の字にして私の手を掴む。そして私の手を体の横の定位置に戻した。
彼の返答を切羽詰まりながら待つ私とは対極的に、私が熱くなっていることが馬鹿らしくなるほど彼は冷めていた。きっとその温度差で世の中の大抵の物は壊れてしまう。
「俺はもうだめだ。」
「何故です?何が駄目なんです?」
彼がふっと息を吐く。
希望を無くした儚い蝋燭のような小さな灯火が灯る、彼の目が細められ私の黒髪を撫でる。その愛撫からは私を愛しいと思う戯れが感じられる。まるで夢に破れて成熟した大人が、将来の希望を語る子供を愛おしいと思うあの感じだった。
「俺に医者は無理だ。」
初めて聞く彼の弱音に、私はとても驚かされた。
「医者になるのも無理だし、せめて親孝行のためにお国のために働いて来てもいいのかなって思ったんだ。」
医者を諦める、それは彼の人生そのものを変えてしまう決断のはずなのに、彼は案外気楽そうに話していた。
そんな彼の態度が私には不吉に思えて仕方なかった。彼の強い信念がなくなって、彼が彼でなくなってしまうような、そんな気がした。大人になったのだと言えば聞こえが良いが、夢を諦めて妥協することが人間の生き方だとでも言うのか。
「そんなこと言って、何故無理だと決めつけるのですか。まだ頑張れますよ。それに戦争なんて人を殺すだけです。人を助けようとしている人が、何故人を殺しに行こうとするのです。」
私は外であることや戦争を批判することがご法度であることを忘れて必死に彼を説得しようとした。
彼は俯いて、私を見ようとはしなかった。
「文太郎さん。こっちを向いてください。」
私は彼の目を見たくて彼の名前を呼んだ。
彼の顔が私の方へゆっくりと向いた。
彼の目を捕らえた瞬間、私はもう彼が救いようのない所まで堕ちていたのだと、瞳の漆黒さで知らされた。希望を無くしたのではない。彼の根っこはとっくに断ち切られ、代わりに絶望や報われない現実を植え付けられていたのだった。
彼はもう出会った頃の自分を信じる、志高い青年ではなくなっていた。彼は絶望し自分の道を閉ざしていた。いつの間に彼はそうなってしまっていたのだろう。
何故今まで私は気づかなかったのだろうか。
そう言えば最近彼は医学の話をしなくなった。一緒に居てもどこか上の空で心ここにあらずであった気がする。
私は申し訳なさと自分の不甲斐なさで心臓が鷲掴みにされ握りつぶされたようだった。けれど私の何十倍も苦しんだのは彼だ。きっと彼は私と出会わなければ、医者になることが出来たはずだ。そしてその事実はきっと彼だって分かっているはずだ。私は今すぐにでも彼の人生上の私という存在を消し去りたかった。
そんな私の心情を少し前の彼なら察知しただろう。けれど今の彼に私の心情は分からない。彼は自分の足元に転がっていた石ころをつま先で弄んだ。
「お結は医者にならない俺を好いてはくれないだろう。君を助けてくれる医者は他にいるさ。」
「そんなことはないです。私は文太郎さんがどうなろうと文太郎さんが好きです。」
彼の言葉を否定したく、私は被せるように言った。
「じゃあなぜ医者にならないことをそんなに嫌がるのだ?」
私が嘘をついていると思い込んでいる彼は疑わしい目を私に向ける。私は彼の疑いを晴らしたくていつもより饒舌になった。
「あなたが自分の志しを諦める人じゃないことを知っているからです。医者になるためにあんなに努力していたのに、諦めるなんて文太郎さんらしくないです。」
私のその言葉に彼はあざ笑うように息を吐いた。
「何がおかしいのですか?」
私は自分の真剣さが伝わっていないことに若干の腹立たしさを覚えながら言った。
「やっぱり君は努力しない俺を好いてはくれない、条件付きの好きなのだよ。」
「そんなこと・・・。」
私はないとははっきり答えられなかった。
確かに私はひたむきに頑張っている彼が好きだった。でもだからと言って今の彼が好きでないわけではない。
「医者を目指さない俺に価値はないってわけだ。世間に負けた俺はお国のために尽くしてこなきゃなあ。」
そう言ってわざとらしく神妙な顔をしながら一度私に敬礼すると彼は自分の家の方に歩き始めた。
「待ってください、文太郎さん!」
雪がちらつき始めた寒空の中、私は彼に向かって叫んだ。
「別に死ぬわけじゃあない。必ず戻るさ。」
彼は一度振り返ってそう言うとまたふらふらと自分の家の方に歩いて行った。
私は初めて聞く彼の薄っぺらい言葉に茫然とした。これほどまでに信用することのできない彼の言葉は聞いたことがなかった。少しだけ降る勢いが増した雪にも気づかずに私はしばらくその場にいた。
―条件付きの好き
私は彼の情熱に惚れ込んだ、けれどそれは彼のほんの一部だということを知っている。私が今の彼を彼らしくないと否定したのは、私のわがままなのだろうか。
彼にとっての幸せは今のまま夢を諦めることなのだろうか。
改めて私は自分の心の汚さに触れた。
正解が分からない、ただ分かるのは彼が好きだと言う事だけだった。
「あねさ、どうしたの?」
茫然とする私にたまたま通りかかった私の弟が声をかけた。
「何でもない。」
私は歩く力を取り戻し自分の家へ引き返した。体が芯まで冷えたのは雪のせいだけではない気がした。
彼が戦争に行って数か月が経った。あの雪の日から気まずさはないとは言えなかったが、多い時には週に一度彼から手紙が届いた。内容は彼らしく素っ気なくて、でもどこかあの雪の日を思い出させる虚無感が伝わって来て、心配という言葉じゃ表せない私の心に積もる闇は、手紙が届くごとに増していった。けれど段々手紙の頻度は減り、月に一回届く程度になった。週に一度私が送る手紙に応えるというよりは自分の苦しみを私に訴えかけているような感じであった。
彼の目にあった無限の星は何かの強い勢力と言う光によってもう見えなくなってしまっているのだろう。
私はそう目を閉じて想像した。
けれどその星々は消えてしまったわけではない、見えなくなってしまっただけなのだ。植え付けられた絶望や現実は私が拭い取ればいい。もし彼のそばにいることで彼が不幸になるのなら私は彼の前から姿を消そう。きっと戦争が終わって帰ってきたら、またきっと彼は医者を志してくれる。
私はそう信じながらも足元がおぼつかない日々を過ごしていた。
けれどいくら待っても戦争は終わろうとはしなかった。
そして私の人生が大きく変わった1938年、私はその年に18歳になった。普通ならばお嫁に行く年頃であったが、ハンセン病を患っている私を貰おうとする人は一人もいなかった。ある日いつものように家の手伝いをしようと外に出ようとすると、父が家に急いで入ってきた。
「結子、隠れろ!」
そう言って私の背中を押した。
「え?どうしたの?」
私はいつもと様子が違う父に驚きながらも勢いに押され、父の言うことを聞いて部屋の押し入れの中に入った。
「この家にはらい病の娘がいたよな?」
知らない男の声が家の入り口から聞こえてきた。
「いや、娘はもう完治している。お前たちの収容所に行くまでじゃあない。」
父の声がした。父は嘘をついている。私の病気は未だに完治していない。
これがいつか噂に聞いた、無らい県運動か。
私は震える身体を抱きしめ息をひそめた。
「それは俺たちが決めることだ。」
私を捕えに来た男が家に入り込む音がする。
「ふざけるな、娘には指一本触れさせねぇ!」
聞いたことがないほど大きな叫び声をあげ、父が私を守ろうとしていた。そんな父の姿を生まれて初めて見た。いつも私を空気のように扱う父から愛情なんて感じたことはなかった。けれど今初めて、父の本物の愛情に触れた。
しかし父の抗いもままならず私の部屋の扉はすぐに開けられ、押し入れの襖は真っ先に開けられた。
ずかずかと土足のまま数人の男は私の元へ寄ってくる。
「ほぉ、文太郎が惚れただけのことはあるなぁ。勝気そうで綺麗なおなごだ。」
私の顎を持ち上げて男は言った。
「ハンセン病は治ってないみたいだが。」
私の腕の白あざを見てそう言うと私の顎を持ち上げた男は私から離れ、後ろにいた二人の男に合図した。
合図を受けた男たちは手袋と口元に布を装着し、私の腕を掴んだ。
「や、やめて下さい。」
私が必死に抵抗しても二人の男は私を捕まえることになんの苦労もなかった。
「いい加減にしろ!」
父が叫び男にとびかかるがすぐに床に押さえつけられた。
母は泣き崩れ、兄弟たちは大人の脅威に恐れおののいていた。
どこに連れていかれるのかも分からず私は二人の男に運ばれていった。
「お前らがハンセン病の患者を利用していることぐらい知っているぞ!」
父は男たちに叫んだ。
男たちは父の方へ振り返った。
「俺たちはお国の言うことを聞いているだけだからな、文句があるならお国に行ってくれ。」
一人の男が声をあげて笑った。
「お父さん」
私は助けを求め、父を見た。その時の父の不甲斐ない顔からは、私を助けることのできない絶望が感じられた。逆らえず見えない重圧は父と母を生き地獄へと堕とし入れていた。
「大丈夫だよ、可愛がってやろう。」
私は腕を引っ張られ外に連れていかれた。
「せめてこれだけは、」
そう言って母は私にどてらを差し出した。
男たちは顔を見合わせたが私の腕を一瞬離した。
母からどてらを受け取り私はそれを羽織った。
「代わってあげられたらどれだけ良いか。」
母は涙を流しながら私の頬を優しく撫でた。息を吸えば冷たい空気が肺を冷やす。けれど母の水仕事で荒れた冷たい手は、私の頬に温かさをくれた。
「丈夫に産んであげられなくてごめんね。」
母が今まで私にそんな態度を示したことは一回もなかった。いつも母は私を甘えさせるようなことは決してしなかった。けれどその態度すらも愛情だったのだと別れ際になって知った私は父と母の暖かさで、今まで虐げられてきたのは私だけではないことを思い知らされた。
「大丈夫。」
私は零れそうになった涙をぐっとこらえ、そう言って母に笑顔を見せた。
「すぐに戻るよ。」
泣き叫ぶ兄弟たちにも力強い笑顔を見せて私は自ら男たちの元へ行った。これ以上ここに居て家族の愛情を感じてしまったら私はここを離れることが出来ないと思った。
先ほどの父の叫び声を聞いてだろう、私の家の周りには野次馬が集まっていた。
「養生しなさいね。」
近所のおばさんが言った。その言葉に裏があるのかどうか、私には分からない。私を見る世間の目はいつだって同情、軽蔑、憐れみがほとんどだ。
私が一体何をしたって言うのだ。
ずっと一緒に生きてきた両親さえもハンセン病には感染していない。
彼は言った、私の病気はそう簡単にはうつらないと。
❘何が本当なの?
世間の目にさらされ心無い差別のせいで、無限の可能性を秘め多くの命を救うはずだったあの青年は、今は多くの人の命を奪い、今この瞬間も命の危機に晒されている。
私の大好きなあのアルコールの匂いが染みついた手は、お国のいいように使われ彼は今悲劇を見ているのだ。だれがこんな地獄のような世の中を創ったの?
私に一つ小石がぶつけられたらしい。私に当たって跳ね返った石が地面に転がる。
―胸を張って生きろ
彼の凛々しい声が私の頭の中にこだまする。
私は俯いていた顔を上げて背筋を伸ばす。そして石が飛んできた方向を見た。
一人の幼い少年が私の顔を見て体をびくつかせた。
「君は何を恐れている。」
私は少年に向かって言った。一瞬にしてその場が静まり返る。
「私はどんな差別にも恐れない。これから私に訪れる過酷な業務は、私の人生において与えられるべき試練でしょう。だから私はその試練をしかと受け止めます。
無知ゆえにお国が広めたハンセン病の感染力を信じ、お国の口車に乗せられ利用されていることにも気づかずに生きる皆さんに、明るい未来などあるのでしょうか。
けれど私は、私と私の家族と、市川文太郎の未来を邪魔してきた皆さんを許しましょう。私を差別していた皆さんが、お国に大切な家族や財産を、心の平穏を奪われ、苦しみの中にあることを知っているからです。この世の中に不幸がない人間など存在しません。だからみんな、自分よりも不幸である人を見て安堵し馬鹿にし一時の安心感に包まれる。けれどその安心感はまるで海辺の砂のよう。掴んでも掴んでもすぐに指の間から抜け落ちてしまう。そのことに気づいてまた自分が不幸だと自覚し居てもたってもいられず、自分より不幸な人を探し馬鹿にしまた一時の優越感という安心を手に入れる。あなた方はお国の作った空き箱の中に居る操吊り人形なんです。そんな状況に甘んじているあなたたちは、操られて自分の人生に一切責任を感じていない、むしろ被った不幸をいつまでも大切に背負っている。だからハンセン病の彼女がいると言う、あなた方から見たら不幸でなければならない男が、幸せそうに自分の志を信じ努力して生きていることが信じられず、許せなかった。彼を不幸にしたくてしたくて仕方なかった。そしてあなた方の願い通り彼は戦争に行きいわば不幸になった。さぞ満足でしょう?おまけにそのハンセン病の彼女が大切な家族の元から引き離され施設に送られようとしている。こんなにも不幸になって可哀そうに、そう思って今ここに皆さんはいるのでしょう。
でもこの男どもに連れていかれ収容所に入ることがハンセン病を患った人間の生き方ならば、私はその運命に従います。そして抗うことのできない自分の人生の中に幸福を見つけます。私は絶対に自分の不幸なんかに負けない。だって彼を愛していたから。彼がくれた人生の喜びは、私に訪れた不幸を一瞬で蒸発させるほどの情熱を私に与えてくれたから。」
私は群衆の中に涙を流す彼の両親を見つけた。
「最後の時まで、市川文太郎の女として私は生きます。彼がわけてくれたあの強い志が私の心の中で生きているから。
彼の生き方を知っている者の前に出ても恥じぬよう、私は前を向いて胸を張って生きる。彼がそう生きてきたように。」
私は彼の両親から最後まで目を逸らさなかった。彼の母が泣き崩れたのを見届けると私は男どもの元へ戻った。
「戦争さえなければねぇ」
そんな声がどこからか聞こえてきた。
戦争さえなければ何なのだ?戦争がなかったら私を助けてくれたのか?
私を差別してきた者は私の目を見ない。
―目を背けるのは死んであの世に行く時だけでいい。
彼はそう言った。
私は生きている限り目を逸らさない、過去にも未来にも今にも。彼に結子と初めて呼ばれたあの時、私はそう決めた。それが彼と共に生きるという事なのだと私は思うから。
第2話
私は男たちに連れられお召し列車と書いてある汽車に乗った。一般客とは隔離され、まるで荷物のように乗せられていく私と同じ病を患う人々は、私が考えているよりもずっと人数が多かった。そこで私は、自分の今まで悩んできた腕や顔のあざが軽症であり、確かに私は健常な人に比べれば手の感覚が鈍いが、私の症状は悩むほどの事ではなかったことを知った。
ハンセン病に呻き苦しむ人々に何もできなかった私はただ薄暗い汽車の中で、これから先私はどうなるのだろうかと考えた。きっと戦争は激化する。そうなれば真っ先に物資不足に陥るのは私たちのような差別を受けている人間だろう。
どんなに色々なことに思いを巡らせてもやはり私の脳裏に浮かんでくるのは彼の顔だった。
彼は今、何をしているのだろうか。
彼が医者を諦めたことなど、今の私には本当にどうでもよかった。ただ彼に生きていてほしかった。今頃家に彼から便りが来ているかもしれない。そう考えるとそわそわしてどうも心が落ち着かない。
「もし・・・。」
私は重い腰を上げ、近くにいた私たちの見張り役のお役人に話しかけた。そのお役人は私に話しかけられ少しめんどうくさそうな顔をした。
「これから私たちはどこに行くのでしょう?」
きっと私と同じ疑問を抱いていたのだろう。幾数人がこちらを見た。私の質問だけだったのならお役人は返事すらしなかっただろう、けれど幾数人の視線の重圧のおかげでお役人は重い口を開いた。
「群馬県だ。」
お役人の言葉が真実なら、私たちはあと数日間電車に揺られることになる。私はお役人に頭を下げると元居た場所に座った。一度立ったにも関わらず、木目のついた床は私の尻の感覚をすぐさま失わせた。落ち込む気分と共に自分の全てこの木目に沈み込んでしまうようだ。
今は昼なのか夜なのかそんなことも分からないぐらい汽車の中は暗い。車輪が線路に擦れて響き渡る金切り声のような音、鼻をもぎ取りたくなるほど血なまぐさい人の匂い、手を高く上げて何かから逃れようとして苦しみ呻く人の声、私の五感を休ませようとはしない刺激たちが、私を鋭利な槍の先でツンツンと突っつく。その刺激は、いっそ一思いに殺してくれ、私にそう思わせるような意地の悪いいやらしさがあった。
少しでも平穏が訪れるよう自分の肩を抱き身を縮める私の肩を、誰かが叩いた。
顔を上げ叩かれた方に顔を向けると、私と同じぐらいの年齢の、顔の膨れ上がった女の子がいた。どうやら指は曲がり切って指を伸ばす事が出来ないらしい
「これ、使って。」
そう言ってその子は私に白いシーツを渡した。
「何も掛けないよりはいいでしょ?」
口角をあげ目を細めたその子の笑顔はあまりにも固く、一般的な笑顔とは程遠かった。けれど十分すぎるほど私への労りは伝わってくる。
「ありがとう。」
私はシーツを受け取ると自分の肩にかけた。薄い生地だったが、なんだかじんわりと心が温まる気がした。
そんな私の様子を見て少し安堵の表情を浮かべた女の子は私の隣に腰かけた。
「あなたお名前は?」
彼女は少しボリュームの抑えた声で私に聞いた。
「竹田結子です。」
「結子ちゃんね。」
少し照れて恥ずかしそうに笑った女の子はよろしくねと言った。
「私は橋本京子」
「京子ちゃんね」
私はよろしくね、と私が呟くと京子は嬉しそうに微笑みを返した。
「結子ちゃんの事ね、実は前から知っていたんだよ。」
京子のその言葉に私は少し驚いた。私は必死に自分の脳内の記憶を駆けずり回るけれど、私に京子の記憶はなかった。
「と言っても、私が一方的に見かけていただけだけどね。」
「あ、そうなんだ。」
私が必死に思い出そうとしていたことが分かったのか京子はくすくすと笑った。
「どこで私を見かけていたの?」
「いつも同じ時間に結子ちゃんは水を汲んでいたでしょ?そこがちょうど私の部屋から見えるの。」
私はへぇ、と声を漏らした。
声をかけてくれればよかったのに、その言葉は私の喉元で止まった。きっと京子は私よりも差別を受けていたはずだった。そんな彼女が人前で声かけるなんてことできるはずがない。私たちは何よりも人から拒否されることを恐怖としているのだから。
私が言葉を無くし、何を話そうかと考えながら少し宙を仰いでいると京子はふふ、と笑った。
「何がおかしいの?」
私は京子の笑みの理由が分からず聞いた。
「結子ちゃんは気づいてなかったけれど、文太郎は結子ちゃんに声をかける前からいつも結子ちゃんを見ていたんだよ。」
私は文太郎と恋に落ちたあの時を思い出して少し体が熱くなるのを感じた。
「み、見てたの?」
「うん、二人が出会う前から、文太郎が結子ちゃんに見惚れてるのも全部見てた。」
「み、見惚れてた?」
私は京子が何を言っているのか分からなかった。そんな様子を見て京子は少し驚いていた。
「もしかして、文太郎は二人が出会う前のことを何も結子ちゃんに言ってないの?」
私は黙って頷くと京子はハア、とため息をついた。
「馬鹿だなあ、文太郎は。」
親しみを込めて文太郎と呼び捨てにする京子に、私は少しだけジェラシーとも言える嫌悪感を持った。私のそんな心情を京子は察さない。恋する乙女の嫉妬なんてきっと経験したことないのであろう。
「文太郎は結子ちゃんに一目ぼれしたんだよ。」
一目ぼれ、あまりに突拍子もないその単語に私は信じられず京子の顔を凝視した。
「え、そんなに驚く?」
私は強く頷いた。
「結子ちゃん、自分が綺麗で評判だったこと、知らないの?」
私は京子の言葉が信じられず首を大きく横に何度も振った。
「どんなに差別されたっていつも凛としてて、私も憧れてた。私はこんな容姿だから少しも外には出れなかったけれど結子ちゃんはしゃんとしていて、白あざだって自分の長所にしてるみたいだった。」
そんな風に見えていたんだ、私は京子のお世辞とも捉えられるぐらい大げさな言葉に心の底から驚いた。
「文太郎は私の幼馴染で、私がハンセン病になっても優しくしてくれた。きっといいお医者さんになるんだろうなって思う。」
京子の優しい笑顔を尻目に私の心には少し和らいだと思っていた罪悪感がまた現れた。
―やっぱり君は努力しない俺を好いてはくれない、条件付きの好きなのだよ。
そう私に言った時のあの悲しい文太郎の顔が私の脳裏をよぎる。文太郎の一番の味方になれなかった私は彼にとって何だったのだろうか。夢を諦めるまで追い込まれていた彼に気づかず、私の心は彼の隣に本当に居たのだろうか。
「私は手の神経がやられていて農作業だってろくにできない。生きていてもしょうがないわ。」
切ない笑みを浮かべ京子は声を潜めた。
きっとこの汽車には京子と同じ状況の人がいるだろう。私たちの会話を聞いて悲しい雰囲気が流れ始める。その空気感は仲間意識を高めお互いの傷をいやしあえる気がした。けれど私は悲しみを共有しあうような、その空気感が好きではなかった。確かに私は彼女ほどの差別は受けてこず、彼女の苦しみを理解できるのかと問われれば答えはノーである。けれど私は肩輪物として頭を垂れ、悲しい顔をして生きていくのは嫌だった。
「しょうがないかどうかは自分次第だわ。」
私はこの空気感を変えようと少し大きい声で言った。そして京子の曲がった指を握った。私の行動に京子は少し驚き身体をびくつかせた。きっと今まで身体を触れられたことがないのであろう。
「ハンセン病だって健常だって、自分の人生を謳歌できるかどうかは自分次第だと思う。京子ちゃんっていう存在がある限り可能性は無限大よ。諦めなければ京子ちゃんの生きる理由や価値は見いだせるの。例え指が曲がっていたって京子ちゃんには足がある。何かないなら何かで補えばいい。」
私のその言葉を京子は静かに聞いていた。
「こんなこと私が言うなんて、ふさわしくないかもしれないけど・・・。」
私の言葉を聞いた人たちはみんな同じく暗い顔をしていた。あなたに私の気持ちは分からないでしょう?そんな風な顔をしていた。
私は少しばつが悪い思いで口を閉じた。失敗だったかなと私は少し自分を振り返ったが、言ってしまったことは訂正できない。京子の次の言葉をただ黙って待ち続けた。
けれど私の罪悪感を吹っ飛ばすように、ふふと京子は声を出した。
その笑顔でわたしは京子を傷つけてしまっていないことを知って少し安堵した。
「ここでそんなこと言うなんて、文太郎が惚れるだけあるわね。」
京子はそう言って私の頭に手を伸ばす。そして手のひらで私の頭を撫でた。
「愛された人間って本当に強いわ。眩しくて涙が出そう。」
京子の言葉から嫌みは感じられない。むしろ自分の受けたかった優しさを私に向けている様だった。彼女はきっと両親からも足蹴にされていたのだろう。
私は自分の頭の上にある京子の手をそっと握った。そして彼女の過去を想像し彼女を労わる眼差しを向けた。すると京子はぽろぽろと涙を流し始めた。
私は京子をそっと抱きしめた。そうでもしないと目の前の純粋な少女は、悲しみで木っ端微塵に消えてしまいそうだった。
京子の背中が小刻みに震えだす。京子にもらい泣きした数名の声が胸に染みた。もしかしたら、同じハンセン病同士寄り添って生きていく生き方の方が幸せかもしれない。私は京子の背中をさすりながらそう思った。
何故こんなにも私たちは辛い思いをしなければいけないのだろうか。ハンセン病だから、お国のお荷物だから?
生きたい、そんな理由だけではこの世界では生存することが許されないのだろうか。誰かのために、もしくはお国のために自由を虐げられなければならないなんて、人間界とはなんて生きづらい世の中なのだろう。犠牲や苦労を美徳とするこの国に明るい未来なんてあるのだろうか。
「大丈夫。」
私はだいぶ落ち着いた背中に声をかけた。ゆっくりと京子の顔が私の胸元から離れて上がる。
「私がいる。一人じゃないよ。」
私は京子の濡れた頬をシーツで拭った。私以外にも多くの人が京子へ笑顔を向ける。
「ありがとう・・・。」
京子は少し恥ずかしそうに俯いた。
ほっとしたのか私は一つあくびをした。
「少し寝よっか。」
京子の言葉に波のように押し寄せる睡魔の中で私は頷きそのまま夢の世界へと入っていった
目が覚めると未だ汽車の中だった。ゆっくりと身体を起こしあたりを見渡すと見張り役さえ皆寝ていた。けれど逃げ出そうなんて考えは浮かばなかった。この汽車に乗ってから、私は行くべき場所に行くような気がしてならなかったからだ。
一つ気がかりなのはやはり文太郎の事だった。生きているだろうか?もしかしたら今頃家に文太郎からの手紙が届いているかもしれない。彼に私の所在を伝えることはできるのだろうか?多くの疑問がふつふつと湧いて、けれど答えを知る手段はただ時が経つのを待つのみだった。
汽車の扉の隙間からわずかな光が漏れている。どうやら今は朝らしい。段々と起きてくる人も増えた。
「おはよう」
そう言って京子も体を起こす。
「おはよう」
私は京子に笑顔で返した。
「まだ着かないのかしら。」
京子は小声で見張り役を見ながら言った。未だに見張り役は起きず私と京子は苦笑した。
その時汽車が大きく動き見張り役はやっと目を覚ました。
私たちの視線に気づきすました顔をして運転室の方へ向かう見張り役の様子は滑稽だった。
「あとどれくらいかかるのかな・・・。」
京子は自分のおなかを見た。
「なんにもしてないのにお腹だけは正常に働く。ご飯だけ食べて仕事はできなんていい身分よね。」
そう言って京子は自分のおなかを撫でた。
「生きているだもん、そりゃ腹は減るよ。」
私はそう言って自分のおなかを押さえた。
「穀潰しってよく言われたわ。」
京子はどこか遠くを見つめながら言った。
「誰に?」
「母さんと父さん。」
京子は自分の指に目を落とした。指はピクリとも動かない。
「じゃあ殺せばいいのにって私は言ったわ。」
京子は懐かしそうに目を細めた。その目には若いのにも関わらず人生の疲労が現れている様だった。
「そしたらそんなことできるわけがないだろって頬っぺた叩かれたわ。」
京子は右の頬を触った。
「もしかしたら私の記憶の中で親に触れられたのってその時だけかもしれない。」
痛かったなぁ、と頬をさする京子はどこか嬉しそうだった。
私は、さっき京子が言った穀潰しという言葉が胸に突っかかっていた。確かに真っ向から否定はできない。働けず食物ばかりを消費する、ただその文章だけでは穀潰しと言われてしまうかもしれない。以前私も文太郎に出会う前は自分のことを穀潰しだと思っていた。しかし私は今京子を穀潰しとは思えなかった。それは友情と言う彼女への愛着がそうさせているかもしれないが、ただそれだけではない気がした。
「本当に穀潰しだと思うの?」
私は京子に聞いた。想定外の私の問いにえっ、と京子は声を出した。
「働けずにただ生きている人間が穀潰しだと思う?」
私の質問には邪心はなかった。ただ自分の胸の突っかかりをとりたいだけだった。
「結子ちゃんって変な子ね。普通自分のことを穀潰しだって言っている人にその質問する?」
信じられないわ、と京子は笑いながら言った。
「だってなんだか変なんだもの。」
「変?」
私は頷いた。
「食べることは生きること。ただそれを実行しただけでどうして穀潰しなの?」
私の言葉に京子は唸った。
「養っている人にしてみれば不利益だからじゃないかな。」
京子のその言葉で私は手を顎に置いた。
「でも愛している人なら、生きていてくれるだけで利益じゃない?私にとって京子ちゃんは生きて隣に居てくれるだけでもう利益だわ。だとしたら京子ちゃんは私から見たら穀潰しじゃないじゃない。」
「京子ちゃんは私を愛しているの?」
京子は苦笑しながら言った。
「うん。」
私がすんなりと応えると京子は目をぱちくりさせた。
「それにどんな子供だって親にとって経済的に見たら不利益な存在だわ。けれど親は子供を愛しているから穀潰しなんて言わないわ。」
京子は未だに目を見開いて私をみていた。
「京子ちゃんだって親に愛されていたのだからやっぱり京子ちゃんは穀潰しじゃないわよ。」
私は京子がぽかんとしていることに気が付いた。
「京子ちゃん聞いてる?」
私が京子の顔の前で手をひらひらさせると京子ははっとしてごめん、と言った。
「愛してるなんて言われたことないから。」
京子は少し恥ずかしそうに笑った。
「よくそんな恥ずかしいこと言えるわね。」
京子のそんな反応を見て私は、初めて文太郎に愛していると言われたときのことを思い出した。
付き合って数か月経った夏、私は文太郎に花火に誘われた。
「花火ですか?」
「ああそうだ。見たことあるか?」
私は首を横に振った。
「綺麗だぞ。みんな浴衣を着て、打ちあがる花火に叫ぶんだ。」
「なんて?」
「たーまやー!」
文太郎は人通りの少ない道端で叫んだ。若干の視線が集まって文太郎は少し照れていた。照れた時の文太郎の笑顔は決まって右目だけを細める。本人は知らない癖だろう。その癖が見たくて私は時々文太郎が照れるだろう無茶ぶりを彼に振っていた。私の心情を知ってか知らずか文太郎は大概のことには応えてくれた。
「見に行きたいです。」
私は声に笑いが含んでしまいながら言った。
「そうか」
私の返答に文太郎は嬉しそうに呟いた。
二人の間にお互いの時間を共有できる喜びが広がる。
きっと文太郎の浴衣は勇ましくかっこいいんだろうと私は思った。
花火の当日は文太郎が見つけた、誰もいない瓦の土手で二人きりで見た。私が着た浴衣は母のおさがりの白くて赤い牡丹の花が描いてあった。本当は茜色の浴衣が良かったが、口では文句を言いながらも嬉しそうに私に浴衣を着つけてくれた母を見て文句も何も言えなくなった。文太郎は白の麻の生地に黒で幾数本の線が書いてある浴衣で、あまりのかっこよさに私は文太郎の浴衣姿を誰にも見せたくないと思った。
「綺麗だな。」
夜空に打ちあがる花火を見ながら文太郎は言った。
「本当ですねぇ。どうしてこんな色が夜空に書けるんです?」
「炎色反応だよ。」
文太郎は私に炎色反応とやらの説明をし始めたが、私には難しくいつものように私はただ頷いていた。私に理解できないことぐらい分かっているはずなのに、文太郎は一生懸命話し続けた。そんな様子が可愛らしくて私はいつしか文太郎の言葉を追うのを忘れて彼の顔に釘付けになった。花火の途切れ途切れの光では、彼の顔を見るのに満足できないほどしか彼を照らすことが出来ない。いつの間にか文太郎の口の動きが止まっていた。花火が光るたびに現れる文太郎の瞳には私の浴衣の色がはっきりと映る。私は今彼の隣に居るんだ、その事実が嬉しくて私は笑みを浮かべた。
きっと私の瞳にも文太郎が映っている。嗚呼、何故私の瞳の中の文太郎さんは見えないんだろう、そんな変なことを私は考えていた。
「綺麗だよ。」
文太郎は私に言った。
「花火よりもですか?」
私は冗談めかして言った。けれど真剣な文太郎の表情は変わらない。
「ああ、世界で一番綺麗だ。」
私は強ばった顔で言った彼の言葉のスケールの大きさに思わず吹き出した。私のそんな反応に文太郎は少し眉を顰める。
「本当だぞ。」
「ありがとうございます。」
私は未だに笑いをこらえながら可愛らしいお世辞にお礼を言った。
「本当って言っているだろ。」
文太郎は私の両肩を掴んだ。
「世界で一番、なんて胡散臭い。」
私は彼の冗談ともとれる言葉を笑った。けれどそれは彼の眼差しが許さなかった。私は彼のただ私を一直線に見つめる眼差しに、いつもとは違う熱っぽさを感じて狼狽えた。自分の心の置き場がなくなってしまうほど彼は四方八方から私を見ているようで、私は少しの息苦しさを感じた。けれど癖になる胸の苦しさと喉の奥の苦さで私はいつまでも彼に見られ続けたいと思った。
彼の手が私の座る地面の近くに落ちて彼の顔が私の顔に近づく。動揺のあまり私は体を彼から遠ざけたが彼の地面についていない方の手が私の腰に添えられて、私は逃げることが不可能になった。病気がうつります、その言葉は喉元まで来ているのに、異様な喉の渇きで声にならない。彼の顔が今までにないほど近くて、それでも私たちは目線を逸らさなかった。きっと逸らしても彼の視線は私を捕える。逃がさない、そんな風に言われている様だった。彼の顔が少し傾いた。私はギュッと目を瞑った。きっとこれから感じるであろう唇の感触の予感は私に期待と不安と羞恥を与える。けれどいつまで経っても唇には何も感じない。目を開いて彼を見ると彼は口を堅く結び至近距離で私を見ていた。私は彼の行動がよく理解できず彼に不思議な顔を向けた。すると彼はにこりと優しい笑顔を浮かべ私の耳に自分の口を近づけた。
「愛してるよ。」
耳にかかる彼の吐息に私は全身の神経を一気に刺激されたようになり体を震わせた。
「愛・・・。」
私は彼の言葉のロマンチックさと彼の顔の生真面目さのギャップにくすぐったさを覚えた。甘いささやきを滅多にしない彼からその言葉を聞けたことに私は心の底から喜びを感じた。
「お結」
嬉しそうな私の様子を見て文太郎は私の名前を呼んだ。私は彼に名前を呼ばれると何故かお腹の底がツンとして、何かが湧き上がってくる心地がする。私は文太郎を見た。
「愛しています。」
今まで発したことがなかったその言葉を私はまるで息を吐くように言った。大きい声ではなかったけれどその文字一つ一つが夏の夜の涼風に乗って文太郎の心に届く。私たちを通過した風たちは草木を揺らしどこか遠くで爽やかな風鈴が鳴った。その夏の蒸し暑さをどこかにおいてきた涼しい風を肺一杯に吸い込んでも体の芯の温かさは変わらない。少し熱っぽい文太郎の手が私の手を掴んだ。
「帰ろうか。」
私は帰りたくないという気持ちを隠しながら頷いた。
「生きていて、良かった。」
私は彼に聞こえるかどうか分からないほどの声の大きさで呟いた。
「文太郎のこと思い出しているの?」
京子のその言葉で私は頭の中の回想の世界から我を取り戻した。
「え・・・・?」
自分の考えていることが伝わった驚きは思わず声になって現れる。
「だって結子ちゃん、文太郎と一緒に居た時と同じ顔しているよ?」
私ははっとして自分の頬に手を置いた。
「恥ずかしい・・・。」
京子は顔を赤らめる私を笑顔で見た。
「大切なんだね。」
大切、京子のその言葉が変な味わいを残し私の心に残った。私はゆっくり頬から手を離して頷く。
「大切なはずだったの。この世の中で一番。」
私はふと汽車の天井を見上げた。今もあの日のように雪が降っているのだろうか、そんなくだらない疑問が、恋愛ボケしている私の鈍い頭に湧いた。
「はずって・・・。大切なんでしょ?」
私は首を縦に振った。
「でもね、思っているだけじゃ大切にしていた事実にはならないの。」
「へえ。」
私の言っていることが分からないと言うように京子はてきとうに相槌を打った。けれど私の言葉は止まらない。
「いくら大切に思っていたって、大切にできるかどうかは分からない。自分の世界の中だけで相手を愛したって、いつの間にか相手は居なくなってしまうの。恋は盲目だって言うけど、きっとそれは相手を勝手に自分の心に住ませて心の中にいる相手と恋愛してしまうことだと思うわ。だって心の中の相手は自分の思うままに動いてくれるんだもの。」
京子は私を凝視した。
「どうしたの?」
「結子ちゃんって色々なこと考えて生きているのね。」
感嘆の声を漏らしながら京子は言った。
「そりゃね・・・。」
京子は私の過ちを知らない。だからきっとこんなのんきなことが言えるのだろう。今更こんなことを言ったって、文太郎にしてしまったことは消えない。それにも関わらずまるで懺悔するかのようにべらべらと他人に自分の恋愛論を話す自分の馬鹿さ加減に私は笑みを漏らした。
「大切にすることって自己満足だと思っていたわ。」
京子はぼそっと言った。
「え?」
自己満足、そんな私の今までの価値観を真っ向から否定する単語は私を驚かせた。
「自分はこんなにも好きな人を大切にしているんだぞ、って見栄を張るみたいに生きていたってさ、どうせ人間は他人を大切になんてできるはずないもの。だって自分が一番大切で可愛くて、他人の気持ちなんて読めないじゃない。大切にするなんて幻想よ。」
私の脳裏には文太郎との日々が浮かび上がる。私は、確かに文太郎に大切にされていた。彼は私を守り私と共に生きようとしてくれた。そんな文太郎の行動は私を大切にしているということ以外何というのだろうか。
「そんなことないわ。」
私は京子を見た。
「そんなことない。」
そして笑顔でもう一度言った。その笑顔に京子ははっとした顔をした。
「そうよね。結子ちゃんは大切にされていたわよね。」
京子は少し悲しそうな笑みを浮かべ俯いた。
「私とは違うわよね。」
さっき京子は私が文太郎のことを考えていたことに気が付いた。けれど私は今京子が何を思い考えているのか分からない。私はあまりにも彼女の過去を知らなさすぎる。同じハンセン病患者なのに、私は恵まれすぎていた。
「京子ちゃん・・。」
私が口を開いた時、汽車は急に止まり私たちは体が揺さぶられた。
そして汽車の扉があく。
「着いたのかな?」
京子は外を覗き込み、もうさっきまでのことを忘れてしまったようだった。けれど私は未だ京子の言った自己満足、という言葉が胸に突っかかっていた。
見張り役が私たちを外へ誘導した。その間にも私は何度か京子にさっきの話をしようかと思ったが、なんと声をかけてよいのか分からず結局私は京子にその話題を振ることはなかった。
私たちは群馬県の栗生楽泉園に送られた。施設に着くや否やすぐに服を脱がされハンセン病の症状を聞かれ検査を受けさせられた。私は症状が軽度だったため治療をだいぶ先延ばしにされることになった。治療と言っても大風子油という薬を注射器で打つだけだったが。
栗生楽泉園では希望者には偽名を使うことが許されていた。それは残してきた家族がハンセン病患者の家族として知られ世間から差別されることを避けるためであった。私は偽名を名乗ることを望まなかった。もちろん自分の家族を守りたいと思う気持ちはあったがそれ以上に母の教えである病気に負けずに凛としなさい、という言葉は私に名前を変えることをさせなかった。名前を変えてしまっては自分の心情も過去も変えてしまうような気がした。なにより、結子、と彼に呼ばれた過去が消え去ってしまう気がした。
各部屋には軽度、中度、重度の人間5,6人で構成されていて、各部屋に一人親方と呼ばれる人がいた。親方の言うことは絶対で、軽度の人間は重度の人間を世話する患者作業というものをしなくてはいけなかった。私の部屋には寝たきりの重度が二人、中度が二人、そして軽度が私一人だった。親方は中度のうちの一人で私に重度二人の世話を押しつけた。
重度のうちの一人はいつも人形を抱きかかえていたのでぎょうさんと言われていた。もう一人は顔が変形し舌がいつもむき出しだったのでべーと呼ばれていた。二人とも歳は60過ぎで感覚まひや神経衰弱が酷かった。
「大変ね。」
京子は私の良き友達として私の話を聞いてくれた。栗生楽泉園には小さな公園があって私たちは良くそこで話をした。
「京子ちゃんは患者作業はないの?」
「私は中度だからね。」
私は少しだけ京子を羨ましく思ったがその心情は彼女には伝えなかった。病気で苦しんでいる彼女に羨ましいなんて言えるわけがない。
「名前は何にしたの?」
私は京子に聞いた。
「結子ちゃんは変えてないでしょ?」
「うん。」
「だと思った。私もよ。」
「え・・・?」
差別されてきた過去を忘れたいはずである彼女が名前を変えていないことに私は少し驚いた。京子は少し照れ臭そうに笑う。
「私、あなたの生き方が大好きよ。」
そう言うと京子は立ち上がって尻に着いた土をほろった。
「またね。」
そそくさとその場を去る京子に私はうん、とか細い声で返事をした。少しだけ患者作業の憂鬱さが忘れられたような気がして、私は立ち去る京子の背中を見て自然と笑顔になった。
驚くことに栗生楽泉園には一つの社会が出来ていた。商店街には洋服や日用品、理髪店があって同じハンセン病患者によって営まれていた。そこでは栗生楽泉園内でしか使えないお金が使われていて、そのお金は私たちの逃亡を防ぐ狙いがあった様だった。もちろん農作業や患者作業は苦痛だったが、自分と同じハンセン病患者しかいないこの社会は前居た差別や偏見に満ちたあの社会より、何だか居心地が良いようにも思えた。けれどやはり人の世話をするというのは大変で耐えきれないものがあった。いくら親身になって世話をしても一向に私の方を見ようとはせず、ずっと人形を抱いたままぼうっとしているぎょうさん、どんなものでも出しっぱなしの舌で舐めるべーさんは私の心労を体中に積もらせた。邪険にできず行った見返りのない労りは、いつも彼女たちを通り過ぎ色を濁して私の元へ帰ってくる。その泥水のような私の親切は私を一度も幸福にはしなかった。私はこの不満を彼女たちにぶつけてしまわないようにはち切れそうなほど手に力を込めていた。
毎晩決まった時間に私は起きて彼女たちの身体を動かした。寝返りが打てない彼女たちの身体は長時間同じ体勢で寝てしまうと血液が固まってしまう。時たまあげる苦しそうな彼女たちの声で私は起きていた。
「大丈夫?」
私は返答がないことが分かっていながら彼女たちの背中をさする。薄汚れたぎょうさんの人形と目が合って私は少し背筋が凍った。こんなにも寒いのにぎょうさんは寝汗をかいていた。
「ぎょうさん、着替えようね。」
私が未だ眠り続ける彼女の服を脱げせるために両手で抱きしめている人形に手を伸ばした。私が人形に触れたとたん彼女は今まで見たことがないほど目を見開いた。
「さわるな!」
少ししゃがれた声を上げぎょうさんは私を突き飛ばした。
「私の赤ちゃん、赤ちゃん・・・。」
私が驚いて顔をあげるとぎょうさんは人形の頭を優しくなでていた。私はそんなぎょうさんの態度に心の底から腹が立った。そんなに力があるのなら私の世話なんて要らないじゃないか、私は彼女に手をかけることが嫌になり一つため息をつくと彼女から離れてべーさんの元に行った。
こんなにもうるさいのに中度の患者たちは起きない。きっと重度患者の呻き声になれてしまっているのだろう。べーさんは目を開け天井を見ていた。
「動かすよ。」
私はべーさんに声をかけた。相変わらずべーさんは何も言わない。べーさんの身体を持つとチクリと私は自分の右手に痛みを感じた。右手薬指の腹に切り傷が出来ていた。きっとさっき投げ飛ばされたときどこかで切ってしまったのだろう。血がにじんでしまった。私はいったんべーさんを床に戻した。血が垂れて手の甲にまでいきわたる。こんな時文太郎がそばに居たら駆け寄って手当してくれただろう、なんてどうしようもないことを一瞬だけ考え私は薄っすら涙を浮かべた。
「ごめんね、ちょっと待っていてね。」
涙をぬぐい、べーさんの元から立ち手を洗おうとすると、べーさんが私の右腕を掴んだ。
「え」
私が声を出した次の瞬間、べーさんは私の傷口を舐めた。
「やめて!」
私はその身の毛のよだつ彼女の行動で思い切り彼女から手を引っ込める。よだれでべとべとして気持ちが悪い。最悪だ、そう思い自分の手から目を離しべーさんを見るとべーさんは私をまっすぐに見ていた。これまでべーさんからそんな視線を感じたことがなかったので私は思わずたじろいだ。べーさんは私の手に目を移す。血が垂れて何滴か床に落ちてしまっている。私はべーさんから逃げるように急いで手洗い場に行った。手を洗う間に私は何度もべーさんの視線を思い出した。怒りも悲しみもその視線からは感じられなかったけれど、私は彼女の親切心を垣間見た気がして、とてもいけないことをしてしまったのだと自分を責めた。私の後悔の念のように指の腹から流れ出る血液は止まらない。
「どうしたの?」
背後からひょっこりと私の手元を覗き込みながら京子は言った。
「ちょっといろいろあって・・・。」
私は苦笑いしながら言った。
「ちょっとのレベルじゃないでしょこの出血量。結子ちゃんの声が聞こえた気がして起きてきたの。」
呆れ顔をしながら京子は私の頭を撫でた。
「話してよ。」
私はまたべーさんの視線を思い出して心臓が押しつぶされそうになった。
「そんな顔しないで。」
優しい京子の気遣いに私は頷いた。
私はさっきあった出来事を全て京子に話した。
「結子ちゃんの気持ちはすごくよくわかるわ。」
頷きながら京子は言った。
「他人の背景なんて知っていても心は当事者にしかわからないものね。」
「背景?」
私は京子の言っていることが分からず聞き返した。
「あれ、もしかして知らないの?何でぎょうさんは人形いつも持っているのか。」
私は頷いた。
「ああ、そうだったの。」
「何か理由があるの?」
何故ぎょうさんはいつも人形を持っているのか考えたこともないことに私は気が付いた。
「ぎょうさんは身ごもっていた子供を無理やり中絶させられておまけに堕胎手術まで受けさせられたのよ。」
「え・・・。」
私はその悲しい衝撃的な言葉にかなり驚かされた。
「だからぎょうさんは未だにショックで人形を抱いているのよ。」
私はぎょうさんが叫んだ言葉を思い出した。
「だから、私の赤ちゃんって言っていたのね・・・。」
京子は頷いた。
「きっと今も忘れられないんだろうね、ハンセン病ってだけで女の権利まで奪われるなんてどうかしているわ。」
ぎょうさんの心情を思うと私は胸が詰まる思いがした。我が子に向けたかった、行き場のないぎょうさんの愛情は今もなお人形に注がれている。もちろん人形は動き出すどころかぎょうさんと心を通じ合わせることもない。私は下唇を噛んだ。
「見返りがない患者作業だけど、ちゃんとまっとうしていて結子ちゃんは本当に偉いわ。」
京子のその言葉に私は首を横に振った。
「全然だめよ。私は知らない間に見返りを求めていた。」
「当たり前じゃない、人間なんだから。」
私の言葉に被せるように京子は言った。
「見返りを求めたっていいじゃない。そうやって自分を責めるから自分が苦しくなってくるのよ。人間出来ることに限度はあるし、心を壊してまでするべきことなんてないはずよ。結子ちゃんは頑張っているんだから、あんまり自分を責めないで。」
私は深くため息をついた。京子の慰めがじんわりと心を温める。人間は些細なことで自分を見失いやすい。物事を完璧になんてできないことや偽善の心が湧いてしまうことはしょうがないと、どうしていつの間にか忘れてしまっていたのだろう。文太郎と離れ彼を恋しく思う日々の中で心が疲れてしまったようだった。
「ありがとう。」
私は京子に礼を言った。
「いいのよ、最近結子ちゃん元気なかったからね。きっと色々思うことはあるんだろうけど良かったら何でも話してね。」
色々、その言葉の真意を京子から感じ取る。月に一度面会に来る母は文太郎からの手紙を毎回持っていない。届いてないんだと少し気まずそうに話す母の様子は私に余計な心配をするなと遠回しに伝えているが、そんなことは無理である。便りが来ないことは彼の死を意味しているようで、私は毎晩真っ暗闇で彼を想い身体を震わせ、月に彼の無事を祈っていた。
私は京子にありがとうと伝えると血が止まった傷口に包帯を巻いて部屋に戻った。ぎょうさんを見ると寝ているはずなのにいつもより人形を抱く力が強まっている様だった。彼女の過去の苦しみはきっと私には理解できない。けれどぎょうさんの強まる腕の力でひしひしと痛みが伝わってくる。どれほど辛かったのだろうか、人形の汚さやボロさで私は彼女が苦しんだ歳月の長さを感じ取る。私は心の中で先ほどの無礼をわび、べーさんの方へ体を向けた。べーさんは未だ起きていた様で目を見開いて天井を見た。
「べーさん、さっきはごめんなさい。」
私はべーさんに謝った。いつものごとく反応はないだろう、そんな私の予想とは反して彼女は首を横にして私を見た。
そして私の怪我をした手に曲がり切った指を重ねる。
相変わらず表情は何も変わらない。
そう言えばべーさんは舌以外の肌の感覚が全て働いていないこと私は思い出した。私の怪我を案じたべーさんは唯一残った感覚で私の怪我の状態を知ろうと私の傷を舐めたのだった。そんな行為を私は気持ち悪いという言葉で片づけた。自分のしたことの残酷さに私は肩を落とした。ハンセン病同士分かりあえる、なんて甘い考えを持っていた自分に私は若干の怒りすら覚える。つきっきりでべーさんに関わっていながらも私は、表情が変わらないべーさんにまるで感情のないロボットであるかのように接していた。彼女は確かに人の心を持つ優しい女性だった。
「ごめんなさい・・・。」
私はべーさんの手に自分の手を重ねた。涙があふれそうだったけれど押し堪えて彼女の顔を見た。やはり彼女の表情は変わらない。けれどその時べーさんの目から一滴の涙が零れ落ちた。見返りがないなんてそんなことはなかった。ただ私にそれを感じ取る気持ちの余裕がなかっただけだった。
「ありがとう。」
私は一言そう言ってべーさんから貰ってしまった涙を引っ込めるために笑顔を作った。手から伝わる体温は暖かくて優しくて、私はべーさんからありがとうと言われている気分になった。私はそっとべーさんから手を離し彼女の身体を動かした。朝焼けが窓から漏れて新しい一日の訪れを告げる。この朝焼けを文太郎は見れているのだろうか、美しすぎるこの朝焼けは何だかとても残酷な気がした。
お見合いの話が聞こえてきたのは施設に来てから一か月経った二月だった。ハンセン病同士の結婚は子供を作らないことを条件に許されていた。私は文太郎がどうしても忘れられず、お見合いをすべて断っていた。
「何故俺との見合いを嫌がる。」
けれど一人だけ私に対してしつこくお見合いを迫ってくる男がいた。坂東一と言って偽名なのかどうなのかは知らない。私より10歳年上で軽度のハンセン病患者だった。
「付き合っている人がいるんです。」
私は農作業の手を止めずに言った。
「戦争に行って便りもない男を待ち続けるのか?」
その厭味ったらしい言葉に私は手を止めて鋭い眼差しを向けた。
「ええ、勿論。」
「何故だ。」
しつこく聞いてくる坂東に私は苛立ちを覚えた。ほかに女はいくらでもいるはずだ、他を当たってくれと私は思いながらももう話すのが面倒くさくなりそっぽを向いた。
「おい、答えろよ。」
けれど坂東は私の腕を掴んで私の無視を許そうとしなかった。
「しつこいです!ほかにあなたと結婚できる女性はここには沢山いるでしょう?お願いですから他を当たって下さい。」
私は坂東に掴まれた自分の腕を解放させようと力を込めながら言った。
「お前じゃなきゃダメだ。」
「何故です?」
私がそう聞くと坂東は口を開いたまま固まった。何か言いたげな顔をして私を見ている。私は硬直する坂東の顔を不思議に思って覗き込んだ。
「す・・・。」
「す?」
かすかに坂東から聞こえた声を私は反復する。
「きだからだ」
「何言っているんですか。」
私は胡散臭いその言葉を鼻で笑った。
「本当だぞ!」
「へぇ、そうなんですか。」
私は坂東の冗談に呆れて農作業に戻った。
「せっかくの告白をそんな風にてきとうに流すなんて、お前ほんとに行き遅れるぞ。」
「いいです別に。」
「戻ってこないかもしれないぞ。」
「うるさいです!」
いつまでも追いかけてくる坂東に私は我慢の限界だった。
「ついてこないでください!」
私がそう言って坂東の方へ振り返ると坂東は私の肩を掴んだ。私は驚いて坂東から離れようと彼の肘を掴んだ。その瞬間、私の唇に坂東の唇が重なった。体全体の力が抜けて坂東の肘に添えられた私の手は、はたから見るとまるで合意の口づけであるかのように演出した。唇が離れても私の唇には坂東の唇の感触が残っていた。私は自分に起こった出来事が信じられず口元に手を置いて目を見開いた。
「なんだ、したことなかったのか。」
悪びれもせず坂東は私に言った。
「信じられない・・・。」
「お前が俺の告白を流すから、態度で示したまでだよ。」
「そんな勝手に・・・。」
私は何だか胸が潰れそうで喉の奥がキュッと閉まる思いがした。
「まさかしたことなかったとは思わなくて。」
泣き出しそうになっている私にさすがの坂東も申し訳なさを覚えたのか謝罪に似た言い訳をした。
「文太郎さんは私を大切にしてくれました。」
「手を出さないことがどうして大切にしていることになるんだ。」
その言葉に私は自分の言葉を詰まらせた。
「本当に好きなら口づけだってなんだってしたくなるだろう。付き合っているならなおさら。」
私は始終黙っていた。
「本当に好きだったのか?」
「それはそうです!」
へぇ、と坂東は声を漏らした。
「あなたに私たちの何が分かるんですか?恋愛なんて口づけとか行動だけが全てじゃないでしょう?」
「行動が全てさ。」
坂東は私の必死の反論を真っ向から否定した
「人間、行動にしなきゃ何にも伝わらない。実際君たちは本当に気持ちを通わせられていたのか?」
私はあの雪の日を思い出した。彼が医者になることを諦めたことに気づかなかった私は、彼の恋人になれていたのだろうか。お互いの恋心を行動に表せないまま私たちは離れてしまった。
「その顔だと怪しいな。所詮恋愛ごっこだったってわけだ。」
「ごっこって・・・。」
「お前の脳内だけで繰り広げられた生ぬるい愛情なんて所詮ごっこ遊びさ。妄想恋愛ってか。」
厳しい坂東の言葉に私は何も言う気力を無くし下を向いた。文太郎の声を忘れかけてきてしまっていた私は、愛も恋心も所詮は私の中の幻想だったのか、そう坂東によって気持ちが揺さぶられ自分の気持ちが信じられなくなった。
「俺は好きだぞ、お前の事。だから俺と結婚しろと言っているんだ。」
ぶっきらぼうに偉そうに言う坂東に私は嫌だと言おうと彼を見た。すると彼は口調からは想像もつかないほど、彼は照れた顔をしていた。私はその照れた顔に呆気に取られて彼を貶すことも忘れた。久しぶりに思い出した好きだと言われる切なさや思いをぶつける真剣な眼差し。こんなにも胸が躍るものだったかしら?私は生唾を飲んだ。そんな私の様子を見て何かを感じ取った坂東は私から目を逸らした。私より10歳も年上のくせにこの人は告白した相手の前で手を握りしめ震える足元を必死に隠している。なんて可愛いんだろう、私は擽られた母性に似た愛着を坂東に抱いてしまった。
「デート」
私のその言葉に坂東は握りしめていた手の手汗を拭きながら
「どこに行く。」
と即座に言った。ぶっきらぼうでありながら嬉しそうなその様子は自分の感情を私に隠しているつもりなのだろうか?私は思わず口角をあげた。
「何を笑っているんだ。」
「いえいえ、別に。」
私は口を手で覆いながら言った。私のそんな様子に坂東は少しだけ安堵したようだった。
「じゃあ明日、迎えに行くから部屋で待ってろ。」
そんな言葉を残し坂東は私にすぐさま背を向けた。歩いた先で何だかご機嫌だな、そんな声を坂東は掛けられていた。坂東が目の前から去った私に訪れたのは文太郎への罪悪感だった。もし、彼が生きていたら、私は浮気者ということになる。彼はどれだけ傷つくだろうか。ハア、と私はため息をついた。坂東に流されてしまった自分の、文太郎への愛情の薄さに呆れる。
「そんなもんさ。」
そんな時私たちの会話を陰で始終見ていたおばさんが私に声をかけた。
「女なんてすぐに見える愛情に流される。けれどそれでいいんだよ。幸せにしてくれる人が自分の一番好きな人とは限らないさ。」
おばさんは固い土を鍬で穿り返しながら言った。私は何も言わずに鍬を手に取った。
「戦争に行った人間が、戦争に行く前の精神状態で帰ってくると思っちゃいけないよ。」
その言葉で私は鍬の動きを止める。
「人を殺して帰ってくるんだ。正気の性じゃないだろう。」
私はただ俯いて話を聞いていた。あの志高かった彼を思い出す。もうあの彼は失われてしまったのだろうか。それを知る手段は今の私には無い。
「流されてしまえばこっちのもんさ。」
始終私は返答もせず、私はまた腕を動かし始めた。土を掘るエネルギーは自分への戒めから来ている様だった。
「おはよう」
朝の七時だと言うのに坂東は私の部屋をノックした。
「まだ七時ですけど。」
私は寝起きの姿で坂東に言った。
「もう七時だ。」
きっと心待ちにしていたのだろうな、私は坂東のポマードを髪に塗りいつもとは違う様子からそう感じ取った。
「待っていてください。」
私は一つため息をついて言った。
「待つ待つ、いくらでも。」
私は扉を閉めると服を着替え始めた。
「デートかい?」
親方が私に話しかける。
「ええ、そうなんです。」
何か小言を言われるかと思ったが他に言い訳も見つからないので私は正直に答えた。
最近買った赤いスカートをはいて白いシャツを着た。
「ちょっと待ちな。」
親方は私の前に立った。
「目をつぶって」
私は何をされるのか分からなかったが親方の言う通り目をつぶった。唇にくすぐったい感触がある。
「やっぱり似合うね。」
親方のその言葉で目を開けると鏡が差し出された。私の唇がほんのり色付いている。
「楽しんでおいで。」
親方はそう言うとそそくさと部屋を出て行った。お礼を言いそびれてしまった、そう思い少しの申し訳ない気持ちと感謝の気持ちを感じながら鏡を見ると、いつもとは違う私がそこには映っている。私は自分の姿に少し見とれたが、坂東が待っていたことを思い出し、鏡を机に戻すと坂東の元へ向かった。
「お待たせしました。」
「ああ、かまわない。」
読んでいた本から目を離し坂東が私を見ると、彼は一瞬動きを静止させた。変だったかな、と私は彼の反応を見て心配したが、けれど少し赤くなった彼の頬を見てそうではないことを知った。こんな時でも私は文太郎を思い出す。私の浴衣姿を見た時、文太郎は今の坂東のように頬を赤らめていた。私は彼の照れた顔やしぐさが好きだった。文太郎がそばに居ない寂しさから私は文太郎と坂東を重ね合わせている。私の愛おしいあの笑顔、目を閉じても今もなお鮮明に思い出せる。私は今、いったい何をしているのだ?隣に居る坂東のことなんて私は今これっぽっちも考えていない。いつの間にか歩き始めていた坂東を私はとぼとぼ追いかけていた。
坂東は何かを必死に話していた。きっと私との間に沈黙があることが嫌なのだろう。けれど私は坂東の声が耳に入ってこない。忘れてしまった文太郎の声を私は求め続けている。
女は愛すよりも愛された方が幸せ、そんな言葉を聞いたことがある。本当にそうなのだろうか。だったらなぜ私は今なぜこんなにも苦しいのだろうか。
「結子、どれがいい?」
私は坂東に顔を覗かれはっとした。気が付けば私たちはアクセサリーのお店に居た。
「買ってやるから、好きなもの選べ。」
目の前に並ぶきらきらしたアクセサリーは、何だかとても眩しかった。その綺麗さに息を吸うと共に目頭が熱くなる。
「これなんかいいんじゃないか?」
坂東は黄色のバラのコサージュを手に取って私の洋服に着けた。
「良く似合うぞ。」
坂東は私の今の心情を知らない。私が他の男のことを想っていることの残酷さを知らない。だからそんなにもまっすぐに私を見つめる。その眼差しが文太郎の眼差しと重なって、私は文太郎に見られているような気分になった。優しく細まって少し皺の寄った目じりは、私の首をゆっくりと力強く絞めた。かすかに景色が揺らぐ。
「どうした?」
私の様子に気が付いて坂東は私の顔を覗き込む。見ないでください、あなたじゃないんです。そんなことは口が裂けても言えなかった。
「すごく可愛いぞ、もっと派手なのが良いのか?」
愛おしいほど鈍い坂東は私の好みのアクセサリーを探そうと必死になって店内を見回る。けれど私はいつまでもありもしない文太郎の面影を探す。嗚呼、駄目だ。私はやはり文太郎のことが忘れられないらしい。このまま坂東と一緒に居ても寂しさは募り、坂東の気持ちを弄ぶことになるだけだ。私は自分の最低さを身にしみて感じ、坂東へ別れの言葉を告げようとした。
「結子ちゃん!」
そんな時京子が私を見つけアクセサリー屋に急いで入ってきた。病気であまり体を動かせないはずの京子が走ってきたので私は酷く驚いた。
「京子ちゃん、どうしたの?大丈夫?」
「手紙が来たのよ!」
私の心配の言葉を無視し京子は言った。
「結子ちゃんのお母さんが文太郎からの手紙を持ってきたの!」
私はその言葉を聞くや否や坂東に目もくれず店を飛び出した。
「結子!」
そう坂東に呼ばれた気がしたが私はそんな言葉を気にせず走った。走って面会所まで駆け抜ける。面会所では母が待っていた。
「これ・・・。」
母は私に手紙を渡した。息を切らしながら私は受け取った。固い鉄格子越しに母は私に落ち着かせようと声をかけていたがそれすらも私の耳には入ってこない。
面会所に京子と坂東も入ってきた。私は震える手で封筒を破り割くように開ける。確かに私の名前を書くこの字は文太郎の字だった。京子が私の背中を撫でる。私はこんなにも鮮明に自分の心臓の音を感じたことはなかった。
『竹田結子様へ
大きい爆撃音の中、私は貴方の優しい声を思い出して思わず涙ぐんでしまいます。戦争というものはどんなに残酷な表現で示しても表現しきれないほど残虐で非道なものです。貴方と言う存在を思い出さないと私は武器と少々の知恵を持った獣と化してしまいそうです。普通の便りなら貴方のお体のことを聞くのが筋でしょうが貴方へ送る便りのために筆を持った私には理性がほとんどありません。自分の辛さを貴方に分かって欲しくて、貴方が恋しくて、貴方に会いたくて、貴方に触れたくて仕方ないのです。
多くの人を殺めたこの手で綺麗な貴方に触れたら、私の罪を貴方にこすりつけているような、そんな気分に私はなるでしょう。私の恋した貴方なら一緒に罪を背負いましょう、なんて言うのでしょうね。けれど安心してください。貴方に罪など背負わせません。
少しだけ昔話をさせてください。私が貴方に初めて出会ったのはある寒い日でした。医学生として勉強に勤しんでいた私は恋なんてするつもりはありませんでした。恋は自分には必要ない、そう思っていたんです。
けれどあの日私は道端で貴方に恋をしました。ハンセン病を患っていることで後ろ指を指され悪口を言われていた貴方は一つも悲しい顔をせず、ただ一心に前を向いて歩いていました。あの時の綺麗な眼差し、凛々しい横顔は今でも忘れられません。その日から私は貴方を毎日探して目で追って、時には話しかけようとしましたが、貴方の美しさにたじろいでしまいました。やっと声を掛けられたのは二か月後の四月で、もうだいぶ暖かくなってからでした。貴方と話してからは毎日が夢の様でした。出会った時にももうすでに綺麗だった貴方は私と付き合ってからはさらに美しくなって、いつか誰かに取られてしまうのではないかと内心ハラハラしていました。そんなハラハラも貴方と一緒に居る時は嘘のように忘れられて、私は貴方が大好きになりました。
けれど私はあの花火の日の後、大きな失敗をしました。貴方と一緒に生きると言う褒美を貰った私には、少しだけ差別というハンデがついて来ていました。けれどそれは私の人生において小石が飛んでくるような些細なことだったのですが、私はそのハンデのせいで、大きな過ちを犯してしまったのです。医大生の私は勿論勉強しなければいけなかったのですが、差別故、授業への参加が認められない時がありました。私の授業が受けたかったら結核の患者を百人診て来いと教授に言われ、私は結核の患者の治療を一日中行っていました。そんな日々を送り段々疲れが溜まっていった私は、患者に刺した注射器の針を一瞬の気のゆるみで自分の指の腹に刺してしまいました。私の失敗はまさに致命傷でした。その日から約一か月後、陰ながら行っていた自分自身への治療の甲斐もなく私は結核を発症しました。ちょうどその頃、私は貴方から口づけを求められました。理性を飛ばしすぐにでも貴方に口づけし身も心も貴方と一緒になってしまいたかった。けれど結核というハンデによって、私はそれを実行することができませんでした。その後めでたく教授に努力が認められ授業の参加の権利が与えられました。けれど私のやる気に比例するかのように私の体調は悪くなって気持ちに体が追い付かなくなりました。自分の中の理想が毎日死んで行って、そして段々医者になる希望どころか生きる希望すら、見失いました。
医学の勉強をしていたばっかりに私は自分の死期が手に取るように分かりました。
そんな時に私に赤紙が届いたのです。病気から、医者になる道から逃げるように私は戦場に向かいました。私は自分の身体のことを誰にも言いませんでした。
免疫力が弱いはずである貴方にも私は自分の身体のことを告白しませんでした。感染してからも貴方から離れなかったことをどうか許してください。貴方に結核を移さない為に貴方と距離を取るなんて、人生の残り時間が少ないと分かっている私には出来ませんでした。貴方のいない世界に私は少しも居たくなかったのです。でもいつか私の死は訪れます。それが来るのが怖くて、怖すぎて、私は真実を求める貴方から逃避しました。
隠していたこと、そしてあなたに口づけしなかったこと、どうか許してください。私だって、いやきっと私の方が貴方に触れたかった。貴方が生きていることを肌で感じたかった。貴方をもっと知りたかった。
けれど、そろそろなんです。背後から忍び寄る死の足音が段々大きくなってきているんです。今だって筆を持って貴方を想いたいと貴方の記憶を呼び戻そうとしても死の現実ばかりが私の全身を覆って、気が狂いそうです。口を抑えた袖が赤く染まって、けれどこれが今日何回目の吐血なのか分からない。そんなこともうどうでもいいです。どうせ死ぬのですから。
筆を持つ手が震えています。きっと文字で伝わっているでしょうが。もう手紙もこの辺にしましょう。何だか、疲れました。
嫌だ、死にたくない。怖い、なぜ僕なんだ、なんで結核の患者なんか診なきゃいけなかったんだ、嫌だ、生きたい、でももう遅い、死にたくない、生きたかった、なぜ、なぜ、なぜ
アア、ボク ハメ ヲソ ムケ ル』
最後に記された、殴り書きの文章。
私は膝から崩れ落ちた。
妄想恋愛