ラヴリー・トリップ

原口光陽

ラヴリー・トリップ

学生時代のオーストラリア旅行を経て女性と出会い、男は恋に目覚める。

 先生は時とおれを戦わせた。おれは、時の力に負けた。時は純白で清らかなもの、無限にあるものと信じていた小学生の頃のおれは、灰色で有限の時を知った。先生の思う壺にはまり、班長を引き受けた。
 小学校の班長制度で、四十名が男女混合の十班に分けられる。各班で意見をまとめ先生に報告する班長を選ぶ。当時のK市内のある小学校で成績がよく、幾度も班長に推された。
 最初こそ、率先して自ら立候補した。そのたびに選ばれ、引き受けてきた。さすがにもういいや、と思う時が訪れた。週末の土曜日に班長会議があり、遅くまで残らなければならない。腹も減る。土曜日は昼過ぎに塾にいく予定が立て込んでいた。おれは級友の推薦を断った。他の班長は決まっていた。
 担任の、黒縁メガネの優しそうな若いヒッピー風の先生は、「どうしてもいやだというなら、あの柱時計の針が五十分を指すまでに、やるのかやらないのか、手を挙げて答えなさい」と一方的に命じた。クラスのみんなは急に押し黙り、動向を見守った。教室内は数分間、シーンと静まり返った。おれがどういう反応を示すのか、興味津々といった感じだった。
 早くに、やるかやらないかを決めてしまうか、ギリギリまで待つか。時間を使って考えこめば考えこむほど、時計の秒針がカチカチと無機的に音を立てる。円盤に沿って数字を移動し、心に無言のプレッシャーを生む。まるで心理戦だ。推薦を無視していいのかと責め立てるような後ろめたさ。今まで何度も引き受け、充分に責任を全うしたと回避を正当化する気持ち。二つの気持ちが絡み合った。数分間のドラマのように、心の中で殴り合いを始めた。息苦しかった。
 おれは時計をじっと見つめた。残り三十秒を切った時点で、「やります」と手を挙げて答え、おれが根負けした。班長は全員決定した。先生とクラス中がほっとひと息ついたような、和む雰囲気が漂った。まだ心の成熟していなかったおれは、時の持つ力と沈黙の波に飲まれたような苦い経験を味わった。
 往生際の悪い経験をしたと思った。いやな思いをしたのはそのときが初めてだった。試験や講義を受ける学生になると、時間や数字に慣れ、特に毛嫌いしていたわけでもなかった。大人になって、数字に敏感になった。仕事柄、金にも神経をとがらせるようになった。そのせいか、時計の文字盤ですら、なにかのトリックに引っ掛けられそうな気になる。時計につけタイムレコーダーにつけ、時間を測る、期限を切るというやり方は、ときに人の怠慢をもたらす。面倒な後処理の煩わしい作業を伴う。デジタル化の進んだ社会ほど、数字に縛られる時空もないだろうなと最近思うようになった。
 地震などが起き、壊れた建物の壁時計がその時刻を指したまま無残に止まっている光景を、たびたび目にしてきた。止まった時計は、自然の残酷さを象徴しているようだった。人々の生産活動を止めた、消しようのない証拠そのものだ。その記憶は、関係者から部外者まで、有為転変の無常さを感じさせる。この世の虚しさすら心に纏わりつかせる。
 夢に出てくる狂った時計の針は、逆さまで、グルングルンと急速度で回転した。いくつもの時計はカチカチ音を鳴らし、自分の生活をおかしくし、仕事のペースを乱そうとした。イタズラ小僧か時の妖怪のような気がして、ふだんの自分を見失いそうになった。働いている昼間ですら、白昼夢のように自分の力を吸い取られそうになることがあった。
 だから、あまり時を信用しなくなった。時計は人を欺く。数字は人に、欲と望みを交互に与える。そう思うからか、数字について考え込むのは仕事と車の運転以外、極力避けるようにしていた。

 思い立ったその日、時計を手首から外し、車に置いてきた。腕をまくり、ジーンズの裾をたくし上げて、手当たり次第に浅瀬に腕を突っ込んでまさぐった。夢中で貝殻集めをしつづけた。冷たさが手足に染みわたり、体に寒気が上ってくる。
 まっ白な貝を拾い、薄い灰色やほとんど白くなったベージュ模様の貝を凍えた手で掴んだ。とにかく、形の良い二枚貝の殻を集め続けた。持ってきたスーパーのレジ袋にそっと入れていく作業を繰り返した。手がかじかみ、紫色になりそうなくらいに冷えた。体は悲鳴を上げていた。腰も痛くなって、思わず伸びをした。
 早朝に目が覚め、起きがけに水道水を一杯飲んだ。特にすることがなく、近所の国道から一本入った道を数キロほど、徒歩で往復した。次第に目が暗さに慣れてきた。散歩の帰り道、公園に寄った。
 まだ夜明け前で寒かった。腹を満たすより先に、喉が渇いた。自販機でホットティーを買い、ごくごくと喉を鳴らして歩きながら飲んだ。甘ったるい紅茶が喉から食道を伝い、胃を満たした。その温かさに、体は温もってきた。防寒用ジャージの下がポカポカしてきて、歩く速度も早まった。
 家に戻った。そっと鍵を回し、自宅の台所に入った。家族の誰も起きてない。休日の朝。パンをトースターで焼いている間、お湯を沸かした。トーストができた。皿にのせテーブルに運んだ。お湯が沸いた。インスタントのコーヒーを淹れ、それもテーブルに運んだ。パンの香ばしい焼き具合を前歯で味わいながら咀嚼し、ゆっくりコーヒーを飲んだ。ほどよい苦味が舌を通して口を満たし、広がり終えて飲んだあとに酸っぱさが追いかけてきて、ジワっと体内に取り込まれた。
 散歩しているあいだに、午前の計画を立てた。食事が済むと、着替えて、自宅から車を走らせた。たまたま、朝の国道をドライブしたいだけだったのかもしれない。行先までは決めてなかった。気づいたら、広く伸びた西宮の砂浜に来ていた。無性に海の香りを嗅ぎたくなった。
 運転しているうちに、昔の旅の記憶を呼び起こしていた。大切にしている貝殻を見つけようと思い立った頃には、目的がはっきりしてきて、浜辺に向かった。「なんとしても貝を拾わなくては」と思った。半ば、背中から銃を突き付けられたような気分に駆られた。記憶の一部は飛んだまま、時の掟がおれを急かした。
 ほどなく砂浜に着いた。駐車場に車を停めた。車の中で靴を脱ぎ、無造作に靴下を詰めこんだ。はだしになってアスファルトの上を歩く。二月のアスファルトはひんやりしていた。冷たさが足の裏から伝わってきた。跳ねるようにして駐車場を抜け出し砂浜に着いた。
 砂浜にいるのは、子犬を連れて散歩するご婦人だった。少し離れたところに、そこらを走り回るわずかの子どもたちが混じっていた。他には、シギやユリカモメが舞っていた。飛び立つのもいれば、砂浜に降りて餌を漁るのもいる。冬の浜辺は物寂しく、ひそやかだった。ときおり冷たい風が体に吹きつけた。潮干狩りにはまだ早過ぎる二月の初め頃だった。
 砂浜に出るといっそう寒い。海から吹きつける風は刺すように冷たく、凍える体を煽って倒すくらいの強さで、おれを岸壁に押し戻そうとした。海で仕事をする者以外、寄せつけぬような強い意思の具現のように感じた。
 雲間から陽光が差してきた。足の裏に微かな熱を感じつつ、一歩ずつ波に近づき、浅瀬に入った。ぬうっと片手を伸ばして砂の中を掻き回した。手が凍るように冷たかった。滝修行のような限界を感じて、その場で手を引き抜いて立ち尽くした。
 傍らの渚で砂遊びに興じていた親子連れの冷たい視線を、背中に感じた。あのおじさんは普通の服を着て、まだ冷たい海の中に手を突っ込んで貝でも探している。さぞかし変わり者だろう。潮干狩りにはまだ数か月早いはずなのに。そう思われてもしかたなかった。
 おれは波打ち際まで後退した。頭をいったん冷静にしてから、ゆっくりと辺りを眺めてみた。打ち上げられている貝殻は、波打ち際や浜辺の方が多そうだった。
 同じ作業をまた再開した。波に乗って運ばれてきた貝のほとんどは、死んだ貝だ。二枚くっついたのが少しある。片方だけの方が多い。おれは集中的に片方だけを採っていった。砂が混じっていたが、手で振り払う程度にしておいた。
 おれは、朝の渚で風変わりな光景を演じ続けた。中年男がひとりで貝を拾う。単なる貝殻集めのコレクターか、物好きか。そんな風に映ったかもしれない。そのときは、どんな誤解や偏見を受けようとも別に構わないと思っていた。
 集めた貝殻は夥しい数になり、レジ袋の半分ぐらいに積み重なっていた。

   1

 きょうも一日、仕事を終えた。事務員専用の裏口から出て、職員用の駐車場に停めてある車に乗り込みエンジンをかけた。駐車場の出口をゆっくりと左折し、車は国道に入る。しばらく国道を走ると、前方左に大きな回転寿司チェーンの看板が目に飛び込んできた。その交差点を右折して北へ上る。こんどは和食レストランの煌々とした灯りが見えてくる。さらに道を進む。ひどい混雑もなく、左折する車を縫うようにすいすいと走った。
 やがて、紳士服店の巨大な建物が眼前に迫ってきた。最後の目印を過ぎ、国道を折れ、住宅街へ続く道に入る。交差点で止まると、照らし出された看板が見えた。信号が青に変わった。カーブを曲がる。
 家の近くまで来た。前方に映るのは、家の窓から漏れる夕餉の灯りだった。それにクリスマスのイルミネーションが被さるようにして点滅している。それはキラキラと家々を七色に照らし出していた。夜の闇に包まれた住まいは、小さな七色の蛍を散りばめたお伽話の世界のようだった。
 帰宅しても家族のだれ一人声を掛けてくれない。小さな子どもだった娘たちは、はしゃぐように飛びだして迎えてくれた。遠い昔になった。
 長女と次女は二階の自室に籠もったきりのようだ。次女の恵美里は受験生。大学入試を控え、よく勉強している。だが安心ばかりもしていられない。親はいつも心配だ。受験を控える不安定な娘を案じる気持ちもとうぜんあった。
「平日、予備校に通とるやろ。休日には、図書館に出掛けてみんなで勉強しとんねん。夕飯ギリギリまで」
 友だちで切磋琢磨し合っているかのようにいうが、実際は不安を共有しているように思う。助け合いながら励みにしている面もあるだろう。恵美里はちゃんと包み隠さず喋っているけれど、親にいえない悩みや秘密の一つや二つはあるようだ。「生理がこないよぉ」と妻に涙目で訴えているのを、リビングの外で見聞きしたことがあった。それは取り越し苦労でちゃんとすぐに来たが、性に関する悩みは同性の友人か妻に相談している様子だった。仲良しのMちゃんは、よく相談に乗ってくれる。ありがたい。そういっていた。こちらは、ひたすら見守るだけだった。
 おれの自宅は、K市にある木造一戸建てだ。二階建ての家屋である。長女の莉奈が九歳のときに新築して、もう十数年が過ぎた。隣の瀟洒な洋館とは対照的だった。
 うちの庭では、雑草があちこち伸び放題だ。梅の木が二本植えてある。花壇は塀沿いにある。昔ならパンジーやコスモスなどを植えていたはずだ。はずだというのは、古い記憶ではっきりしない。庭で撮った写真もない。どの花が長く咲いたか、どれをすぐに枯らしてしまって違う花に植え替えたかもさだかでない。
 その頃、娘たちは喜んで水遣りをした。絵日記に花の絵を書いた。クレヨンで塗っていた。花にひらひらと舞い降りる美しい羽の蝶などを観察した。娘たちは中学、高校と階段を上るように成長するにつれ、庭にあまり関心を向けなくなった。たまに梅の木が咲いているのを見つけても、長く見とれなくなった。自我の目覚めだと思った。
 妻は妻で、土いじりがあまり性に合わないらしく、園芸をやりたがらない。爪と肌の隙間に汚れた土が入る、ミミズの死骸や木につく毛虫が気持ち悪い、といっては避けがちだった。
 女三人が庭の手入れをさぼるので、おれが必然的に水遣りをしている。草抜きをするはめになる。なにぶん自分も無精な性格で、ついぞんざいに扱いがちだった。適当に水をまくものの、土に肥料をやるなんてことはしなくて、ほったらかしにした。花は育たなくなり、せめて梅の木だけは毎年花の咲くように育てたいと、植木職人を呼んで剪定してもらっている。肥料遣りや草刈り、消毒は自分で春におこなっていた。
 トタン屋根の付いた駐車場に愛車を停めている。その手入れをまめに施した。ほぼ毎日、通勤に使っている。休日になると、買い物にいく足になる。ボディの洗浄とワックス掛けから車内のクリーニングにいたるまで、週に一度は車の手入れにいそしんだ。セルフ方式のガソリンスタンドを使い、給油とセットでタイヤの空気圧を自らチェックした。
 出勤するときの気分が違う。朝日に照らされるガラスの光具合で気持ちが晴れ晴れとする。エンジンのスムーズなかかり具合でやる気のスイッチが入る。それで午前の気分が爽快かどうか左右される。物事は滑り出しが大事だ。そう思ってハンドルを握った。
 晴れの日はいい。雨になると車を使う人が増え、帰り道が余計に混んでしまう。そんなとき、フロントの丸い穴にMP3プレーヤーを接続する。心の落ち着くクラシック音楽を聴くことにしている。ほんの二十分程度で渋滞は抜けられるが、耳になじんだ名曲たちが、いらいらした気分を打ち消してくれる。夜の寂しい車内で、ムードを盛り上げてくれる。最近のお気に入りだ。
 玄関から真っ直ぐに伸びた廊下の先に、二階へと続く階段がある。一階左に洋室と和室があり、右に南向きのリビング兼キッチンがある。妻の希望のオープンキッチンは白で統一され、食器棚も同色だ。オープンキッチンにするとリビングも含めた全体の様子に気を配れるのがいい、と妻は話していた。収納にうるさい妻は、キッチンも綺麗に片付ける。二階は三部屋あって、物置の小部屋の奧に小さなベランダがある。新居に引っ越してから、莉奈と恵美里は北向きの個室を使っている。空き部屋一つは洋室の板張りだ。
 二人の性格上、趣味の異なる家具や雑貨が部屋に置かれている。それらの中には、成長するにつれて捨てられるものもある。その一部は物置に押し込められている。大きな不要品は空き部屋に移動し、放置状態になっていた。
 妻の使う洋室に西日が差すので、夏になるとブラインドが欠かせない。家事を終えて部屋に戻れば、夏だとかなり暑い。木目調のタンスが壁際にポンと置かれ、その前に座布団とガラスのテーブルがあり、下にはカーペットを敷いている。年齢を重ねるにつれて、淡い色調のピンクやブルーの椅子やベッドが、雑多な色の混合群へと変貌を遂げた。センスや趣味のこだわりを捨て、価格や使い勝手に目がいき、機能性に重点を置くようになったようだ。
 その点、シンプルで書斎らしいのがおれの和室だ。夜に手狭な押し入れから蒲団を出す。それ以外は、机に椅子、小さな本棚があるだけだ。読まなくなった本や漫画を段ボール箱に入れて物置へ運ぶ。畢竟、小さな本棚で事足りる。オーディオ装置もない。パソコンとMP3プレーヤーでジャズや昔のポップス、クラシックなどを聴く程度だ。
 蒲団をしまうと、部屋の広さが際立つ。余裕ができて、座布団を枕代わりにしてゴロンと横になれる。畳こそ黄ばんできたが、家具自体は長持ちしている。
 入れ替わりが多いのは、ノート型パソコンだ。壊れるたびに買い替えて三代目。それにタブレット型端末も加わった。仕事の整理や情報集めにタブレットを使うことが多い。連絡用に、スマホも使い出した。
 リビングには、ソファーと向き合うようにして大画面の液晶テレビが置いてある。引き戸を挟み、リビングの奥に、バスやトイレ、洗面所などの水回りがある。
 玄関からリビングに入った。自慢のオープンキッチンで洗い物をしていた妻は、きょうも遅かったのね、と背中を向けたままで、こちらを振り返りもせずにボソッと呟いた。
「ああ。いろいろと仕事でな」
「毎晩、毎晩」
「しゃあないねん」
「ちょっとは娘のことをしてあげてぇな」
 妻の紀代美は、ふて腐れたようないい方をした。
「何が? 莉奈のことか。あいつの就職先はもう決まったやろ。晩飯、ちゃんと食ったんか?」
「友だちと外で食べたって。さっき、電話があった」
「大学二年までは、余った莉奈の分をおれたちが食べとったもんな。『ちゃんと夕飯を自分で用意する』いうて、自分の方から宣言したんが、二年前やったなぁ」
「そうよ。気が引けるからって。しっかりしとるわ、あの子」
 乾ききった食器を食器棚にしまう手を動かしながら、忙しそうに喋る妻の言葉に、あのときの莉奈の様子を思いだした。莉奈は、「いつまでも子どもみたいに甘える自分が嫌やねん。そんなことをしたら、良心が咎めるねん」とおれたちの前で腰に両手を当てていい切った。食卓でひとり、遅い晩飯を食べていたおれは、そのとき思わず椅子の脚に自分の足をぶつけてしまった。痛さと唐突さで気が動転した。
「バイト代の一部を食費として家に入れるなんて、感心やないか」
「そんなことぐらい、みんなやっとるって。私も理解を示したわ。貰うたびに、ありがとう、いうとるよ」
「じゃあ、なんや? まさか、大学の単位が足りへんで、卒業できへんようなったとか」
「アホ。そんなわけないやろ」
 妻は、少し小馬鹿にしたような口調で否定した。洗い物の手を休め、エプロンで手を拭きながら、やっとこちらを見た。一日の疲労の色が表情に滲んでいた。
「じゃあ、なんやねんな」
「恋愛の話よ」
「また、ややこしい。休みの日にでもゆっくり聞かせてもらう。親がええ歳の娘に、口出しせなあかんことか?」
「そうよ。最近の親は、子どもが心配なんよ。いろいろと世話焼いたらな」
「ふん、そんなもんか。あんまり自信ないけどな。口下手やし」
「まあ、呆れる。じゃ、どないして私を口説いて、プロポーズにまで漕ぎ着けたのかしら」
「そのときには情熱があったからや。もう昔のことやし、忘れたわ」
「とにかく、家族のことを含めて、心配事は絶えないもんよ。それと、あなたの肉の付き方もね」
 さすがにおれの妻である。太り気味になった旦那の体を気にかけてくれていた。それ自体はありがたかった。
「それなら、太っとると自覚しとる。健康に気遣ってくれてありがとうな。まだまだ人生の折り返しや。生きんとあかん」
 そこまでいって一息つこうと、ソファーの上に放り出されたままのテレビのリモコンに手を伸ばした。妻はいいたいことを済ませたようで、残った洗い物をまた続けだした。おれは、リモコンのボタンを適当に押した。
 その瞬間、海を背景にして波と楽しそうに戯れる、ビキニ姿の娘たちが映った。「オーストラリア最高!」と叫ぶコマーシャルである。画面は有名な旅行会社のロゴマークと重なった。隅の方のツアー料金の値段が急にでかい文字になってせり出し、海の映像を覆いつくした。ナレーターは安さを強調して連呼した。いまならウン万円。ウン万円で真夏のオーストラリアへ、と。
「オーストラリアか。あそこはよかった」

 いま勤めているのは、大阪市内にある仁光会大阪西北病院である。経理課で課長を任されていた。病院の事務いっさいのお金に関することは経理を通さねばならない。経費節減のなか、槇野理事長、吉村院長の交際費にはあまり口を出さない。いや、口出しできるほどの権限はおれにない。その代わり、他の課のものが経理課に持ってくる領収書や取引先業者の請求書、伝票類には、無駄遣いや間違いがないか目を光らせている。
 こんなことがあった。
「真鍋先生、出張費、高くないですか?」
「え、高すぎます?」
「本当に宿泊費のみで一万五千円ですか? 師走の町に繰り出して飲みにいったんじゃ」
「え、そんなんとちゃいますよ。夜に、研修会の準備しとったし」
 真鍋という理学療法士は、口先を尖らせた。
「本当ですね?」
 茶褐色のフレームの眼鏡を下に向け、ひょろっとした真鍋の眼孔の移動を確認しながら、今回だけ大目に見ることにした。あれは限りなく黒に近い。あまり口うるさくしたらこちらの立場も悪くなると判断した。これだけ釘をさしておけば、療法室に帰ってみんなにいいふらして回るだろうと踏んだ。出張先で羽目を外す職員は減るはずだ。おとなしくホテルでテレビを観るか、スマホをいじるかでもしてくれと願った。
 こんな歳にもなると、胃がキリキリすることもよくある。ついさっきも、ため息が出て、目元がひくひくとひきつった。気分転換にガラス窓を開けた。
 もう少しで年末を迎える。どんよりと濁った鼠色の雲で隠れた、十二月の空を見上げた。雲の切れ間から真っ直ぐに伸びていく真っ白な飛行機雲を目で追った。子どもでもやる単純な遊びが、疲れた肩や目を和ませてくれた。
 立ったついでに、人の通れるぐらいの隙間を隔てて隣に座る総務課の朱美に、
「そろそろ料理教室にでも通ったらどないや」
 と軽い気持ちでからかってやった。相手は、
「はい、時間があれば。でも毎日忙しくて。暇を下さいよぉ。主任が頼りなくて、野中課長の思うほどこちらも気楽じゃないんです」
 と答に少し嫌味を足して切り返してきた。癖毛でぽっちゃりした朱美は、美声の持ち主だ。医事課の、キンキンした声の気の強いTさんとは違って、おっとりした雰囲気の持ち主だ。加えて、正直だ。それでいて茶目っ気もある。
 しかし、おれのやっとることはつくづく矛盾している。家に帰れば車のガソリン代や高速道路の料金から個人的な飲み会のレシートまで妻にチェックされ、逆に会社では、みんなの手足を紐でしばるような厳しい査定を要求する。やっていることが内と外で正反対だな、と思わず噴きだし、朱美に変顔をされた。
 医事課長が診療報酬のレセプトを仕切っている。レセプト期間に入ると、医事課の事務員を総動員させる。カルテや医者のコメント、病名漏れなどをチェックするので、みな深夜まで残業している。
 そういうとき、むこうはピリピリしている。経理の連中をさっさと帰らせ、課長のおれは、ひとりパソコン画面を睨みつける。上から下、左から右の隅々まで、病院の損益計算書や今月、前月、前年同月の日次売上額と残高の数字をつぶさに凝視する。記入漏れや数字違い、桁違いがないか、なんども確認しながら暇をつぶす。
 医事課のパソコンで最終的にプリントアウトされて上がってくる用紙一枚をひたすら待っているのだ。厚生労働省への保険請求書に目を通すまでは、いつも気が抜けなかった。それは患者さんの保険外の診療報酬という、もろに病院の重要な収入源になるからだ。
 総務課には、朱美以外に二名の女性と、加藤潔、松本晋太郎がいる。晋太郎は細身で背の高いイケメン男だ。女性事務員はみんな彼に惚れ込んでいる。バレンタインデーに向けて、抜け駆けなしねと誓って同盟関係を築き(本当は派閥に分かれているらしいのだが)、みんなで晋太郎さんに人気のチョコレートを贈ろうと計画を練っていた。
 仕事場の中にあって、緊張感ばかりが漂うと、ミスも増える。そんな楽しみぐらいなければ、病院内の活気がしぼんでしまうとおれも思う。晋太郎が羨ましい、と加藤や看護師の達也は肩を落としていた。
「達也は看護師長の博美さんからもらえるからええやん。加藤も医事課の女性から義理チョコもろとるやろ? 毎年の恒例で」
 晋太郎はできるだけ優しい言葉を選んで、二人に反感を抱かれないように慰めた。
 大阪西北病院は、窓のいくつもある開放的な雰囲気のモダンな病院だ。晴れの日は、射し込む光で明るさと清涼感に満ちていた。廊下は明るい水色で、壁と天井は白く塗られている。天井はやや低いけれど、そこそこ大きな窓により、病棟はまったく暗くない。一階の西側が玄関で、建物北側に救急搬送用の出入口がある。入って右手に受付と事務室がある。
 おれのいる経理課は真ん中あたりを占めていた。手前に医事課、奧に総務課、いちばん奧の窓側に事務部長の机、その右にひっつくようにして企画課がある。事務部長の机から、すべての課の人の動きを見渡せるようになっていた。隣の部屋が薬剤室、玄関左がかなり大きな救急室である。玄関と反対側の東側に、北から、作業療法室、機械室、言語聴覚室、理学療法室がある。
 玄関からすぐのところに階段があり、二階や三階へいける。その裏手の奧にエレベーターともう一つの階段があり、地下一階と二階以上へ上れる。二階、三階へ急ぐ人は手前の階段を使いたがる。お年寄りや車椅子の方、ゆっくり上がりたい人や入院患者もエレベーターを使う。トイレは、薬剤室の隣とエレベーターの隣にある。各階のトイレも一階と同じように配置されている。
 階段で二階にいくと、内科系統、レントゲン・CT室がある。三階は外科系統、小児・産婦人科、皮膚科、心療内科、泌尿器科、耳鼻咽喉科、採血尿の部屋、四階は検査室、眼科、歯科、麻酔科、ICU、手術室、材料室が占めている。地下一階には、MRI室とボイラー室、別棟の平屋にはケアハウスとデイサービスの診療所がある。病院敷地から近くに、訪問看護ステーションが併設されている。
 病室は個室、四人部屋、六人部屋に分かれている。その数は全体で四百二十室ある。受診科や検査室、ナースステーション、浴室、トイレ以外のエリアの地上二階から六階までを病室に割り当てていた。病室は主に東向きで、朝日とともに起床できるように設計されていた。築十二年のわりには全体に清潔感に溢れている。それが患者の心を落ち着かせ、評判の良さにつながっている。
 建物が都市部にあるせいで、空調は完備していた。いつも館内は、快適に保たれている。特に寒くも暑くもない。大阪の中心街にあり、好立地だ。
 職員用の駐車場はある。外来用の分はない。当院に来るには、駅から歩くか、タクシーや市バスなどを利用することになる。その旨を、病院のホームページや電話応対で患者に告知している。
 当初計画に上った駐車場案は、利益を得る医療外行為と見なされ、課税対象に含まれる。だから、売店の計画と共に立ち消えになった。代わりとして、その用地に、ケアハウスとデイサービスの診療所エリアを建てた。
「毎朝五時きっかりに起きるひとがいはってね。イスラム教徒のように床に足をベッタリつけて、日の出とともに太陽にお祈りをするの。変わった患者さんよ。三日前に四階に入院してきた」
 ベテラン看護師の美代子さんからの情報である。
「『過去の過ちを許しタマエ~。我に生きる命を与えタマエ~』いうて、床にひざまずいて、三度祈りを唱えるんよ。変な人やろ」
「たしかに変わっとるなぁ」
 おれはおかしな患者の習慣に、少しだけ好奇心をそそられた。
「二人部屋なんやけど、もう一人の患者の方が急によくなられて、四日で退院したわ。不思議よねぇ。西北病院の七不思議の一つやね」
 美代子さんも笑いをかみ殺し、首をひねるしかなかった。
「なんでやろ? おもろいな。まあ、悪いことが起きるわけとちゃうし、内緒にはしとくけど」
 少し信じがたい話だったが、美代子さんがおれをからかった試しはこれまでない。太陽信仰の恩恵が隣にいる患者の方に流れるのなら、本人は一体なんのためにやっているのか。病院内には、一部の人間だけで共有される秘密や情報が確かに存在していた。その真偽のほどは、あやふやだった。
 事務室は西側にあり、西日がきつい。夏になると朝からブラインドを下ろす。カステラのような長方形をした事務室の窓は、西に四つあり、南に大きいのが一つだけある。
 床に毛羽だった緑色のカーペットを敷いている。各課を早足で移動して歩き回るにはちょうどよく、滑りにくくなっている。受付に患者が来るので、大声で誰かを呼ぶわけにもいかず、担当者を呼ぶために、ちょこまかと動き回る事情があった。
 事務部門の雰囲気は、六十名の大所帯のわりにアットホームだ。ときどき、だれかが冗談をいい合うような、くだけた空気感とでもいえばいいのか。それでも外来の応対中や電話がかかってくると、みんなはピリッとした顔つきになる。
 男はスーツで出勤して、ロッカーに背広をかけ、革靴で歩き回る。女性は、更衣室で制服に着替え、ナースシューズで移動する。化粧をするものは少なく、時代の流れに従っていた。総合受付の女性だけが、ばっちりメイクを施している。それはみんな許していた。いや、入院患者へのせもてもの潤いであった。美の象徴といっても過言ではなかった。外来患者が最初に目にする事務員である。特別な接遇係としての役目も担っていた。
 受付カウンターで実務を担当するのは、化粧をしてない職員である。男女関係ない。手がすいたらすぐに受付の対応に追われる。外来患者の保険証の確認、診療科の案内、会計など、カウンターでやる業務は多い。始終立って歩き回り、働いている。
 事務員の多くは若い世代で、男女ともに二十、三十代だ。四十代以上は、おれと各課長に事務部長といった面々だ。役職に連動して世代のカラーが異なっていた。最近のテレビドラマや俳優、映画、グルメなどの話を好むのは、若い人に合わせようと努力するオジサンたちの哀しい性だった。
 十二月の第三週の月曜日。来年度から新しい会計ソフトを導入するにあたり、総務の永山課長とやり合った。永山のつるつるに禿げ上がった頭を、木魚のように叩いてやりたい気分に駆られた。はっきりいってストレスがたまっていた。よく総務と意見が対立する。
 かといって、いつまでも喧嘩するわけにいかない。水曜日、事務部長の大石も加えて両方の課合同で、飲みにいくことになった。目的は、互いのやり過ぎを慰労し合うことだった。今週末には事務部門の忘年会がある。深酒は避けるつもりでいた。経理課の持田主任は欠席した。
「持田は、口がうまいだけのお調子者です。日焼けした四角い顔は、典型的なスポーツマンタイプですね。仕事に手を抜きませんが、頭が切れすぎるのと、ひと言多い。思いやりに欠けるところもあります」
 おれは主任をそう評した。さらに、「事務部門の飲み会で、毎回人の倍は食いよる。三十過ぎたらぜったい太りまっせ」と大石剛事務部長に耳打ちしてやった。
 大石はうんうんと同意するように頷き、おれのコップにビールを注いだ。ありがとうございますといって、おれも大石にお酌した。
「ところで、相手の地位とプライドを傷つけんような駆け引きもしてくれよ、野中くん」
 おれに酒を注がれながら、年長の大石は諭した。酒の勢いもあるのか、大きな体を前後に軽く揺すった。大仰に両手を広げ、
「きみも永山くんも、病院のことを一番に考える人間なのはよう承知しとる。長い間、難しい仕事をやりおおせたよ、きみらは」
 と自信ありげに付け足した。
「ありがとうございます。意見を出し、最後に仲良くやりましょう。病院の事務は六十名のチームで持っているんですから」
 おれは永山にお酌をし、肩を叩いた。永山は朗らかに笑い、盃に口をつけた。
「まあ、雨降って地固まる。何が起きても落筆点縄。君らは名人やからな」
 大石は喧嘩の収まった様子を見て相好を崩し、旨そうなご馳走に箸をつけた。
「それにつけても、若い職員は、なにかと理由をつけて飲み会の参加を断りますね。事務部門の結束が弱なった気がしますな」
 永山の漏らしたひとことに、おれは、そうですねと大きく頷いた。気持ちが収まり、飲み屋の裸電球に照らされて輝く坊主頭は、まるで今宵の満月のように見えた。
 総合病院では、人の出入りも多く、あちこちで男女のトラブルが起こる。患者からの苦情は、看護師を介して日常的におれの耳に入ってくる。備品が壊れでもすれば、経理は黙っていない。が、それほど酷いことはめったにない。
 ベテラン看護師長の博美さんたちが、ちょっとした揉めごとや対立などの人間関係を仲裁する役目を果たしていた。口のたつ、経験豊富なマダムは一日の長で、仕事の腕同様、角を丸く収めてくれる。頼もしい存在だ。
 検査科で新しい医療機器を導入するという噂を看護師の美代子さんから聞いた。また、高いんだってよ。性能はええんやろけどね。耳打ちされた。見積もりが回ってくると頭が痛い。他の業者にも見積もりを取れ、とその分野でなかなか口出しできない。特殊な医療器具、特に最先端の医療機器は取引先が決まっている。固定しているといってもいいぐらいに、特定業者への発注が検査科などで続いている。
 高いのを買うからには、丁寧にメインテナンスして故障のないようにお願いしますよ、程度の口添えしか経理に為す術はない。それに関しては、会議の場で取り上げようかと思った。
 おれは高校時代、弁論部に入った。女子は少なく、ふたりだけだった。男子は四人いた。おれは部長でなかった。何かの主張や意見をはっきりいえるようになりたいと願っていた。中学時代、ずっと人見知りだった。人を前にして何を喋ればいいか分からず、自分は未熟だと感じた。そんな自分が嫌だった。恥ずかしかった。
 友人の少ないおれは、好きなものを選び取りたかった。弁論部に入ったお陰で人見知りはなくなった。遊ぶ友だちもできた。日常会話から社会問題まで幅広く喋れるようになった。口が滑らかになったのかもしれない。そういう自分を誇りに思い、好きになれた。大人になっても通用する武器を身に付けた気がした。
 弁論部では、主張を伝える練習から始めて、部内での弁論発表を週に二度おこなった。度胸と話し方が自然と身についた。発表を終えると討議に入った。あの主張の論点はよかった。そこの論理は飛躍していておかしい。いいたいことを簡潔にまとめろ。話すスピードの緩急をつけた方がいいのでは。部員らは批評し合った。
 成果は形となり、校内の弁論大会で一度だけ表彰された。そのときの感動は忘れていない。いまでも表彰状を額に入れて大切に書斎の壁に飾っている。
 自分の意見を述べる緊張感がとれた。次に、聞き手の力量を問われた。部員の発表を聞いて、その感想を喋らなくてはならなかった。むしろ、そっちに神経を使った。君の意見は一般論や。肌身で感じたことを主張してくれ。注文をつけた。いい合いになることもあった。やり合ううちに議論が白熱してディベートのようになった。「反論を参考に、さらに主張を一歩掘り下げよう」と部長は場をまとめてくれた。
 弁論部で培った経験のお陰で意見がいえるようになったと胸を張った。職場の会議で活かせていると思った。きちんと筋道を立てて喋るのが好きだ。
 ドラマや映画のざっくばらんな話をするのは、最近好きでなくなった。人は、「あれが好きやねん」と喋るけれど、わざとらしい演技にも見える。「あの子、可愛いよね」と振られても、「たしかに可愛いな」とはいいつつも、もっと他に可愛い子や綺麗な子もおるやん、と思ってしまう。
 集団生活を営む上では、人に合わせるのが基本だと分かって実践しているけれど、世間に浮かれた自分を平凡で哀れな存在に感じてしまうときもあった。
 絶えず物音や人の会話が行き交う事務室で、ほんのひととき、一日の中で静寂の訪れる時間があった。そんなとき仕事の手を止め、ふと妻の言葉を思い出した。
 子どもが大きくなった。特に恵美里に関しては、荒れて大変な時期もあった。ここにきて、やっと親子関係がよくなったやろ。私、取り込んだシャツやタオルなんかを丁寧に畳んで収納スペースに入れてくれる恵美里の姿が嬉しいねん。助かるだけやない。人のやるのを手伝おうとする気持ちが、いっちゃん嬉しいわ。
 感謝する言葉をおれにだけそっと漏らした。恵美里は高三だが、去年の後半あたりから、東京にいって一人暮らしをしたいといい始めた。勉強の合間などを縫って、妻は料理の基礎を教えていた。恵美里の腕前はまんざらでもないようだった。
「揚げ物を当面するな、ときつくいわれたわ。ウチ、米の研ぎ方からスタートして、この何か月かで、煮物や酢の物、和え物を作れるようになったで」
 おれは、料理の基礎を心得た娘の無邪気な笑顔と嬉しそうな口ぶりに、やっとええ方向に向かいだした、とひとり安堵した。
「自炊できるようになったら、一人暮らしは大丈夫やな。その先も安心やろ」
「先って?」
「まあ、先のことや」
「ふふぅん。働きながら家事もこなす、スーパー主婦が未来のウチや」
 平べったい唇から勢いのある言葉が飛びだしたのは、一昨日の夜だった。
 病院の窓から景色を見上げた。分厚い雲の層から冬の青空が少しだけ顔を覗かせた。午後から、いくぶん柔らかな陽射しが事務室に降り注いだ。
 その二日後、事務部門の人間は、みんな定時で仕事を切り上げ、忘年会の会場へ赴いた。店を貸し切って執り行われた忘年会は大盛況だった。日頃顔を出さない若手がはしゃいで盛り上げてくれた。お陰で、歌あり、踊りあり、物真似にマジックありの、さながら芸能大会のような様相になった。熱気と狂気に包まれていた。みんなは上気した顔で、終電ギリギリまで饗宴を味わった。
 おれは、二次会でおいとまし、三次会には参加しなかった。ひとり、ゆっくりと落ち着きたい気分に駆られた。
「今年も例年同様、いろいろあった。部下を叱ったし、厳しく監督したつもりや。おれは元来、真面目で責任感も強い。真摯ですね、とか、いざというときに頼りになる、とかいわれたこともある」
 レセプト期間は終わり、忘年会が無事に終了した深夜、駅ビルにあるバーのカウンターで、マスターの広田に話し掛けていた。
「職場で入りたての頃、ようミスして叱られたわ。でもなぁ。目ぇかけられとるから、きつくあたられるんや思て、注意されたことをメモした。短所を素直に受けとめた」
 広田は、そこが野中さんのええとこですわな、と相槌を打った。
「逆に、もうせえへんぞと自信を持ったわ。先輩や上司に鍛えられたからこそ、仕事を覚えられた思て、ほんま、周囲に感謝しとる。同じ気持ちを部下にも持ってほしい。そう願とる」
 広田は無言でグラスにモスコミュールを注ぎ、ポンとおれの前に滑らせた。
「ありがとう。またいつものモスコミュールを飲めるのも、マスターに感謝やな」
「いえいえ。当然のことです」
 長身の広田は細い体を伸ばし、グラスを布で拭きながら、眼鏡の奥で顔をほころばせていた。深い皺を刻み、おれよりひとまわり上の世代だと見た目ですぐ分かる。このバーを行きつけにして、半年ほど過ぎただろうかと振り返った。
「ほんまのこというと、飲み会のような打ち解けた場で、部下や若い職員と雑談に加わりたいねん。世代の壁のようなもんをとっぱらいたいねん。若いエネルギーに刺激を受けたい。分かるやろ?」
「ええ」
「これから伸びていく、病院を支えていくんは、若い人たちなんやから。どんなことに悩みを抱えとるんか。何を楽しみにしとるんか、単純に知りたい。それを小耳に挟んでおくのも人事管理のうちや。信念を持ってやっとんねん」
 そこまで喋り、グラスに口をつけて喉を潤した。
「まあ、管理職なら誰しもそうしますよ」
「そやろ。けしておろそかにはできへん。せやから、だれかが急に辞めたいといいだしたら理由を訊いて、慰めて引き止める。欠員募集を総務に依頼する。そういう対応をとらなあかんねん。常に内部に探りを入れとかんとな。部下やほかの課の職員から愚痴を聞く役に回っとんねん。『野中さんは駆け込み寺や』いう輩もおるわ」
 広田は半分聞き流しながら、ときどきこちらの様子を伺っている。多弁のとき、酒に酔いしれていて、お代わりを勧めたらよいのか、もうそれぐらいにしときましょうと止めるべきかを判断しているのかもしれなかった。もう少し様子見だと思ってか、広田はおれの顔を一瞥した。おれはしだいに無口になり、終電までの夜更けをしんみりと過ごした。
 十二月下旬、日曜の寒い朝、梅田の行きつけの喫茶店にいた。ひとり煙草を一服しながら、ついでにコーヒーを啜っていた。車で梅田まで来た。駐車場に車を停めて、ここまで歩いた。
 日本列島は昨晩から寒気にすっぽりと覆われた。冷気のコートに身を包むようだった。歩いていると思考が停止しそうなほど寒かった。体の芯から冷えた。
 途中、バス停で杖をつく頼り無げな老人に声をかけられた。老人は、通り過ぎるおれに身をよじり、「ちょっとすみませんが」と何かを訊ねようとした。おれは聞き終わるのを待たずにまっすぐ前を向いて、「急いでますんで」と無下に断り、足早に立ち去った。
 善人面した自分にとって、実に胸のすく気がした。たびたびおれの顔を見て、年配者が何かを訊ねてくる。たまには断ったって平気やろ。いや、いつも丁寧に応対する、お人よしの姿を裏切られて、かえって気分がよかった。自分の外面を映す鏡をたたき割ってやったようで、せいせいした。
 人に頼まれたのを断る。嘘をつく。いい加減にほったらかす。大学当時、東京にいたおれは、そういう人たちにたくさん出会い、憧れた。自分も無責任な生き方をしたい。気ままな男でありたい。そう望んだ。
 しかし、野中は真面目だと決めつけられた。きちんとした人というレッテルを貼られ、おちょくられているときがあった。操り人形のように動き、ぎこちなさを感じていた。それを思えば、心臓に毛がもじゃもじゃ茂り、甲子園球場の蔦のように絡み合うぐらいでちょうどいいと思った。図太い人間に変わったのを実感した。痛快だった。
 大学時代を振り返り、自分の中で時が交錯したのは、梅田の広告塔で、あの国の広告を観たせいだった。コアラを抱いた旅行者やカンガルーの飛び跳ねる写真が貼られた看板。オーストラリア旅行のバカでかいそれを町中で見かけた。向こうでは、冬の二月がまたとない観光シーズンにあたる。
 オーストラリアを旅したくなったのは、東京で一人暮らしの大学生活を送っていた三年生の頃だった。ふと、思い出を作る旅をしたくなった。自由気ままな旅にしたくて、卒業旅行に外国へいくひとり旅を計画した。
 当時、テレビで宣伝していたせいもあり、自然の豊富なオーストラリアに行き先を決めた。本屋へいき、ガイドブックをめくった。ざっと見て、だいたいの観光地を頭に入れた。本を買い、帰りの電車の中で読んだ。とてもわくわくした。魅力に富んだ国がおれを手招きしているような気がした。早くいきたくて、たまらなかった。
 家に着き、さらに詳しく知ろうと、本の頁をめくった。ここへいきたいな。あそこも訪れよう。文と写真だけで現地を想像し、胸は膨らんだ。オーストラリアに関して書かれた本も買って、夢中で読み耽った。
 それから一年のあいだ、大学の講義とサークル活動に精を出す日々が淡々と過ぎていった。計画は少しずつ進んだ。塾講師などのアルバイトで働き、ちょっとずつ銀行に貯金を蓄えた。増え続けた額は、出発までには、ある程度に達した。旅費のめどが立った。
 おれは渋谷にある小さな旅行会社を探して電話を掛け、自由旅行を申し込んだ。滞在期間が決まり、旅行日程に定められた日数で周遊できる場所を決めていった。行き先を決めても、具体的に何をするのか、いってみないと分からない部分も多かった。
 できるだけ出費を抑えて、高いツアーを敬遠した。かえって、それが楽しみとなった。計画を練ってやり繰りする時間を至福と思った。ガイドブックにはバスや飛行機などの交通費や所要時間も書いてあり、計画を煮詰めるのに大いに役立った。
 お金は、結果的に旅行途中で足りなくなった。旅の終わりになると、学生旅行用のクレジットカードに頼ったが、三週間の長旅を満喫できた。それだけの時間を費やして、オーストラリアの国土の広さ、人や自然の豊かさを知るいい機会となった。
 その自由旅行は、行きと帰りの飛行機の便、初日のホテルのみを押さえた簡素なものだった。料金はさほど高くなく、かといって低すぎもしなかった。ホテルの質はさておき、安全な航空会社にしてくれと旅行会社に申し入れた。
 長かった一年が巡り、ときは熟した。寒い中、講義に続いて試験が終わり、春休みになった。
 数日後、下宿近くの銀行でトラベラーズチェックと学生旅行用のクレジットカードを発行してもらった。荷物を入れるため、大きなバックパック、小さなリュックサック、それにウエストポーチを新たに買い込んだ。
 当日の朝、身支度を整えた。寒い空気に包まれて家を出た。早朝の電車を乗り継ぎ、京成電鉄に乗って成田空港まで向かった。列車内でなにを考えていたのだろう。思い出せなかった。きっと日本のことを忘れ去っていたに違いなかった。
 空港に着いた。ビジネスマンが慌ただしく急いでいる。旅行者は、足を止めて何かを見ている。人で溢れていた。おれも案内表示を見ながら、それらしき場所へ足を運んだ。ツアーの集合場所には予定時間どおりに着いた。
「野中こういちさんですね?」
 成田空港の待ち合わせ場所で、スーツ姿の男が呼び止めた。おれだけがそれとわかる恰好だったのか、その場に居合わせたのはカップルやグループだった。旅行会社の係員らしき男は、手に持ったリストに目を走らせながら、訝しそうに見るおれの顔を覗きこんだ。
「はい」
「では、全員揃いました。搭乗口はあちらです。よいご旅行を」
 それだけいうと、係員はきびすを返して立ち去ってしまった。
 たいそう簡単だと思った。行き先もバラバラのようだった。たまたま当日にその会社で申し込んだ客が空港に来ているかを点呼するためだけに集めた感じだった。
 おれは旅行会社で買い求めた航空券を手にして歩き始めた。着替えなどいろいろなものが詰まったバックパックを背負っていた。たぶん、首から紐付きのポーチを下げていただろうと思う。オーストラリアドルのトラベラーズチェックを中に入れていた。現地の空港や銀行で地元の通貨に替え、必要最小限だけの小銭をウエストポーチの財布に入れて旅するように決めていた。大金を盗まれないよう、防犯対策を施していた。買ったガイドブックに載っていた方法だった。
 外国の航空会社のカウンターを探し歩いた。やっと、シンガポール航空を見つけた。係の女性に航空券とパスポートを見せた。航空券を搭乗券に替えてもらった。バックパックを預けてタグが貼られた。それで搭乗手続きは終わった。少しの戸惑いもなかった。ガイドブックに書いてあるとおりだった。そのときからずっと、ガイドブックを手放せなかった。日本に戻ったとき、頁をめくり過ぎてボロボロになっていた。
 案内板でシンガポール航空の便の搭乗時間と日付入りの腕時計の時刻を見比べた。搭乗券に印字された飛行機内の席番号を、穴が開くほど何度も確かめた。機内に持ち込むウエストポーチが、なんだかやけに体にまとわりついた。気味が悪かった。出国手続きまで、まだ時間はあった。そのあいだ、何をしていたのか、記憶が鮮明でなかった。なにせ二十七年前のことだから。
 出国手続きを済ませた。外国の飛行機に乗ったのは初めてだった。機内に入ると、日本人は少なかった。欧米人が混じっていたし、行き先はシンガポールなので、アジア系の人が多数いた。肌の色は似ていても、喋る言葉が違った。オーストラリアへいく直行便は費用が高く、かかる時間も長かった。おれは、シンガポールを一旦経由し、一泊してからオーストラリアに入る経路を選んだ。
 予定どおりに三週間でオーストラリア大陸を半周するのは、かなり無理があった。けれど、東半分を強行日程で南下した。やってのけたとき、少し自信がついた。貴重な体験をしたと思った。旅は、何ものにも代えがたい財産となった。

 リビングにある電話が鳴った。
「こんばんは。寒い日が続くわね」
 電話口で聞き覚えのある声がした。懐かしさがこみ上げてきた。大阪の茨木に住む親戚の伯母さんからだった。小さい頃、よく甘えた父方の伯母である。
「そうですねぇ。真冬の寒波が西日本にも降りてきたらしいです。お元気ですか?」
「元気よ。そちらは?」
「元気でやっとります」
「そう。ほんと寒いよねぇ。とうとう年の瀬になったわね」
「ええ、そうですね。これから冷え込むので、お風邪を召されないよう、気ぃ付けて下さいね」
「ありがとうね」伯母ははっきりした声で礼をいった。
「腰痛の具合はどないです?」
「よくも悪くもならへんよ」
「そうですか。回復されるとええんですけどね」
「それはそうと、こういちくんは、来年で五十の大台やね。正念場よ」
 伯母は励ましの言葉を掛けた。
「仕事の方は相変わらずです。『調子のええときほど気ぃ付けるんや』が父の口癖でした。それを肝に銘じて励んどります。けど自分の健康や家族だけは、ままならなくて」
 最後は愚痴混じりになってぼやくだけだった。電話口から窓の外の景色見た。北風に吹かれ、枯れ葉が舞い散っている。いずれ道路に落ち、車や人、自転車に踏まれて朽ち果てるだろう。表を歩く人はコートの襟を立てている。
 小雪がはらはらと天から舞い降りてきた。赤い傘を差してどこかへ赴く和服姿の女性が通り過ぎた。その姿は惚れ惚れするぐらいに雅やかだった。昔、伯母は好んで和服を着飾った。もう高齢になったが、喋っている雰囲気では、まだまだ元気そうだと思った。おれは受話器を静かに置いた。

   2

 最初に入ったのは、オーストラリアの南の真ん中の都市、アデレードやったはずや。おれは莉奈に語っていた。せっかく思い出した壮大な叙事詩(そういう表現はわざとらしい大風呂敷になるけれど)を聞かせてやりたい。大きな財産のようなものを、家族の中でも聞き分けのよい莉奈にひけらかしたい。そんな気分になった。晩酌のビールを飲んだときから、そういうテンションだった。
 莉奈は、リビングのソファーに座り、キティちゃんのピローを抱いていた。ときどきそれに頭を載せて半分けだるそうに、父の卒業旅行こぼれ話を冷やかし半分で聞いてくれた。
 アデレードっちゅう町はな。中心部が特にちっこくて、大きな建物は少ない。店や家を過ぎるとすぐに角があって、ぴゅっといってぴゅっと曲がれば目的地に着くねん。道路が格子状に広がっていて、どこへいくのも分かりやすい。まあ、日本でいうたら、広島市ぐらいの大きさかな。人のぎょうさん住んどる住宅街が、どっかよそにあるらしい。
 目についたんが、日本女性ぐらいの高さの大きなゴミ箱や。歩道のいたる場所にあった。最初、清潔な町なんかいな思た。家庭ゴミの嵩が半端なく多いんやろと思い直した。まとめ買いして、どさっとゴミに出すためにあんな大きさなんやで。町の信号機も変わっとった。日本のそれとちごてた。歩行者用の信号機は、自分で押さんといつまでたっても赤のまんま。現地の人がそうしていて気ぃついた。なんでもそやけど、地元民のやるとおり、まねして慣れていかんとあかんな。
 アデレードの最初の宿泊先に、ドミトリーと呼ばれる寮を選んだ。中心部から外れた場所にあった。寮いうても門限があるくらいで、基本は自由や。厳しい規則はあれへんかった思うけどな。共用なんやけど、トイレとシャワー室とキッチンスペースがあった。割り当てられた部屋は二人部屋やった。一人部屋を希望したら、たまたま満室で、そこしか空いてなかったんやろな。一人分の料金で済んだわ。自分専用になってラッキーやった。
 朝食をどこかで適当に済ませて、昼飯を中心街のマクドナルドで食った。晩飯にピザを食べたわ。フードコートに入って。けっこう食費がかかるねん。あまりよろしくないなと思て、日本から持ってきたメモ帳をつけだした。その日を境にして、一日に使ったお金を一つひとつ記録し始めたんや。ちょっとせこいけど。節約せえへんと後々困る。飛行機にもバスにも乗るし。若いと食費を削っても旅はできる。あとからそう思た。
 アデレードの観光スポットは……。なにを見たかいな。植物園ぐらいかな。なんせ入園無料やった。ゆっくり町歩きして、三日ぐらいおったはずや。オーストラリア旅の始まりやし、雰囲気の落ち着いた町やったからな。二日目の夜、アデレードの夜景を一望できる丘にいくツアーに参加した。ガイドの英語はちんぷんかんやった。綺麗な夜景を見られた。
 アデレードを出て次に向かったんが、アリス・スプリングスという町。一枚岩で当時から有名やったエアーズロックの近くの場所や。エアーズロック、知っとるやろ? うん、知っとるで。映画『世界の中心で、愛を叫ぶ』で観たわ。莉奈は相槌を打った。
 エアーズロックは「地球のへそ」ちゅうて呼ばれるらしい。初めは、出べそやん思たけど、テツオに由来を教えてもろた。体の中心がへそやから、地球の中心という意味をこめとると。テツオは、あとで出てくる日本人や。
 エアーズロックの拠点のアリス・スプリングスまで、アデレード発の特急列車、「ガン」に乗った。小さく曲がる場所は少しあったかもしれへんけど、ほとんど真っ直ぐ。ひたすら北へ北へと走る。北海道の道みたいに。一本の線路をひた走る愚直な特急や。単線で駅もあらへん。踏切もめったにない。普通も急行もあれへんのとちゃうか。特急しかない。内陸は、わずかの草地と、赤茶けた広い砂漠で、ほとんど人は住んでなさそうやった。停車する駅が少ないのも頷けた。
 おれは景色のよく見える広い窓の横に座った。たぶん自由席に座ったと思う。エアーズロックまで来るのに、オーストラリアの他の都市から飛行機を使う観光客も多いねん。ガンで二十四時間かけて丸一日の車中泊に決めたのはな。なんちゅうても、料金がいくぶん安い点と、大自然を目の当たりにできる点。二つの考えに意識は傾いた。ただ、車窓の景色にも倦んできたわ。晴れ渡る青空と濃緑のブッシュや平原が少し続く風景から、緑の木が点在する赤茶けた地帯へと入るんや。単調な眺めが延々と何時間も変わらずに続くわけ。退屈で欠伸もでるし、やることがなかった。
 ガイドブックを読んだ。一冊だけ持参した本も読んだ。しだいに読み飽きてきた。ときおり窓越しに、遠方でカンガルーかワラビーがぴょんぴょん跳ねて走り去った。ガンと競争しているかのようにすごいスピードを出した。尻尾をしならせ地面に叩きつけ、それを合図に足で力強く地面を蹴り上げて跳躍する。人間では止められないような連続ジャンプの有り様は華麗であり、体を軽々と弾ませていた。まるで転がりながら曲線を描く特殊なボールのように、胸のすくようだった。疾走感と、大平原の主のような威厳に満ち溢れていたで。でも、見かけたのは、一、二度くらい。めっちゃ退屈やった。無味乾燥な景色と、のんびりした縷々たる時の無限さに、半分呆れてきた。
 隣席は空いていて、独り占めや。特に話をする相手もおらん。やることのないおれは食堂車にいってみた。そしたら、似たような連中がおった。日本人旅行者や。すぐに仲間意識が働き、おれたちは打ち解けた。さっそく、ビールを頼んで乾杯した。アサヒやキリン、サッポロなんてない。オーストラリアのビールやろな。グラスで運ばれてきた。銘柄なんて分からん。シドニーでフォスターを買うたら、現地の兄ちゃんが、「オー、フォスター!」ちゅうて、えらい喜んどったけどな。とにかくガンの長旅の道中、アルコールを飲めて、仲間ができた。列車での移動を選んで正解やったと思た。
 仲間のひとりは、偶然、高校の同級生の行永やった。違う部活やったけど、二人でよく釣りに行く仲やった。大阪の公立高校や。行永にはダイスケが同行していた。三人が揃い、仲良く話をしているうちに夜になり朝を迎えた。アリス・スプリングスに着いたんが昼頃やったかな。
 降りたら、おれたち三人を見かけて、ひとりの若者がニコニコしながら寄ってきた。彼もひとり旅をしている様子やった。同じバックパッカー。黒い帽子のツバを後ろに向け、あごひげを生やしとった。彼がテツオ。エアーズロックのうんちくを教えてくれた。
 三人から四人のグループになった。四人で群れて行動した。ひとり旅ちゃうやんと突っ込まれそうやけど、そうなんやからしゃあない。みんなバックパッカーで、大きな荷物を背負って歩く日本人の男たち。そろって大学生。共通点が多いと仲間になりやすい。
 エアーズロック近辺は、先住民アボリジニの聖地やねん。ほんまのところ、聖なる山を登るちゅう行為は、彼らにとって野蛮であり、侮辱以外の何ものでもないんやろう。神聖な一画を特別に観光用に開放しているのは、オーストラリア観光局との合意の上かいなとガイドブックを読みながら思た。登山自体は大したこととちゃう。岩に吊るされた鎖を掴みながら急斜面を登っていくだけで、二時間もかからへん。開けたてっぺんに辿り着く。頂上を目指すルートはそれ一本やった。観光客全員が列をなし、鈴なり状態や。
 景色は良かった。なにかの映画であったように、三百六十度の平面が広がり、砂漠と地平線が見渡せた。圧巻な景色とオーストラリアの広大なスケールに目を見張った。本当にびっくりするぐらいの壮観やった。真っ青な空と緑色の草地、地平線。人口の建造物がなに一つ見えへんねん。あっても豆粒ぐらいに小さかったんやろけど。あんな景色は死ぬまで見ぃへんやろな。あれだけでも、オーストラリアにいった価値はあったで。
 頂上に、紐で結わえられたノートが置いてあった。登山者の氏名と登頂した日付。英語や日本語、他国語でひと言メッセージなどが書かれていた。その場所にいって書いた人しか見ることのできない記念の証やな。
 ツアーバスの出発する時刻の関係で、長居はできへんかった。ツアーバスで立ち寄ったマウントオルガの巨大岩を背にして、何枚か写真を撮った。夕飯前、行永はダイスケと一緒に別便のバスで、夕陽のエアーズロックをまた観にいったらしかった。おれはアリス・スプリングスの売店で、夕陽に染まるエアーズロックの葉書を買うた。自分の土産として。
 その日、アリス・スプリングスに泊まった。ドミトリーの四人部屋やった。オーストラリア名物の蝿が、ぶんぶんうるさく、口や鼻に纏わり付いた。行永は蝿よけの帽子を被っとった。
「なんでこんなに蝿が多いんやろ?」
 おれは素朴な疑問をぶつけた。
「そうやな。手で払っても、払っても、まるで沸いてくるみたいや」
「それはさ。家畜の糞とかが多いせいらしいよ」
 したり顔で、東京出身のテツオは説明した。
「家畜? 羊か?」
 行永は羊毛を思い浮かべたのか、そういった。
「牛も」
 ダイスケが思い出したようにいい添えた。
「とにかく、内陸は蝿が多いってさ」
 テツオのひと声にみんなは無言で頷いた。そうしているあいだにも、蝿は人の鼻や口の周りの水分を吸おうと寄ってくる。汗にも反応する。ほんまに、地獄に垂れた蜘蛛の糸に群がる罪人かと思うくらい、我先にくっつこうとするんや。おれも最初のうちだけ手で追い払っていた。
 やがて、食べ物に群がるのを払うぐらいにした。顔や脇にくるのは無視した。蝿払うためにここに来たんとちゃう。時間がもったいない。そう思た。蝿の飛翔音を子守歌代わりにして、暑い夜、着の身着のままで寝入った。
 瞼が赤く腫れてしまいそうなくらいに眩しい朝日に起こされて、明るくなった外を見やった。遠くで、エアーズロックが朝日を受けて悠然と輝いていた。日の当たった部分は、キラキラと黄金色に照らされていた。
 アリス・スプリングスには、多くの日本人観光客が泊まる。たまたまドミトリーの近くで、日本人の若者グループから声を掛けられた。旅の途中で、これからバーベキューをやる。よかったら加わらないか。そう誘われて、いいよと快諾した。その晩、若い男女がスーパーへ買い出しにいき、安く手に入れた肉や野菜を焼いて、楽しい時間を過ごした。自己紹介もあり、マユミと名乗った美人だけ顔と名前を覚えた。残りの人たちは、残念ながら過去の記憶から外れた。忘却という底なし沼に沈んでしもた。
 そこから、高速バスに乗ってダーウィンを目指すことにした。バスは休憩のため、ときどき食堂に寄ってくれた。食堂で売られているハンバーガーはめっちゃ分厚くて、一個食うだけで満腹になった。オレンジジュースはとびきり新鮮で美味しかった。
 旅の中盤から食費を削り出した。簡単な自炊を始めた。パンをスーパーで買うて、囓って空腹を満たした。ソーセージの缶詰を炒めて食ったことがあった。安くて味のしないチャーハンを店で買い、凌いだときもあった。
 バスのコースは、アリス・スプリングスから右に曲がるのと、ダーウィンへ抜ける二つに分かれている。おれと行永、ダイスケはダーウィンの方を選び、テツオだけが右へ曲がってタウンズビル、ケアンズ方面のコースを選んだ。ここでテツオと別れた。
 帰国してから、写真入りの封書が下宿先に送られてきた。律儀な男やと思た。テツオが撮ったマウントオルガでの記念写真は、いまもアルバムに貼って大切に保管している。写真の中で、口ひげを生やした真っ黒い顔のおれ、行永、ダイスケの三人が赤い巨岩をバックに笑っていた。
 そういえば、オーストラリア滞在中、一度だけ大喧嘩した。テツオと。アリス・スプリングスのドミトリーやった。夕飯前、腹を空かせたときのことや。行永とダイスケは、二人してスーパーへ買い物に出掛けた。
 それを見計らっていたかのように、おれひとりになったのを見届けてから、宿の裏手へ呼び出した。揉め事の始まる予感がした。背の低いテツオは、おれと正面から向き合い、いきなりドンと胸を小突いた。
「なんや、テツオ!」
 挑発的な態度におれは抗議した。
「うるせぇ。オマエ、腹立つんだよ。俺の煙草、盗んで吸っただろ? テーブルの上に一本、置いてたの。見たら無いじゃん。パクるなんて最低じゃねえか」
 怒りにまかせ、テツオは手で肩を掴んできた。おれは相手の腹に右拳を見舞ってやった。
「い、痛ぇ……。なにすんだよ! やる気か!」
 いうが早いか、こんどはテツオの左アッパーが伸びておれの頬に炸裂した。おれの体は横っ飛びして腰から砕け落ちた。地面に仰向けになり、頬から血が出た。おれは、声を震わせて叫んだ。
「お前なんか、恐いことあれへん。もっとやってみぃ」
 頬に手を当てながら、けしかけた。テツオは仁王立ちしたまま、地面に背中をつけたおれをギロリと睨みつけた。
「オマエが罪を認めて謝り、俺に一本返すと誓うのなら、もうなにもしないさ。どうなんだ?」
 凄みを利かせて啖呵を切ったテツオに対して、おれは顔を背けて黙り込んだ。
「ふん。なにもいわないのか」
「盗んでへん! テーブルからのうなったなんて、知らんわ!」
 おれは周囲に響くような大声を腹から出した。大声にビクッとしたテツオは、観念したのか、ちらりとこちらを見てから背を向けて大股で立ち去っていった。
 たかが煙草一本で殴り合ったおれたちだが、あのあと、煙草のなくなった方が相手に恵んでもらった。そんな道中で、もとのまま、楽しい旅を続けた。みみっちいことより、旅することの方が大事やから。
 ダーウィンの途中でバスを降りた。マタランカという小さな拠点で途中下車した。温泉に浸かってみたかった。マタランカの温泉は、森の木立に囲まれた岩場にあった。ぬるい温泉やった。裸では入らん。ちゃんと、水着を穿いて。そこは日本とちゃうからな。スコールも降りよった。のんびりした雰囲気の安宿に泊まった。日本人はおれたち三人だけだった。
 旅は続く。キャサリンでは、鰐ツアーにいった。腹をすかせた天然の鰐をクルーザーの上から見られるアクティビティや。土色に濁った川の上空へ、羽をむしられたピンク色の鶏の肉塊を垂らす。匂いを嗅ぎつけ、それ目がけて灰色の数メートルある鰐がみるみる集まる。水面は波打つ。客の声を上げる間もなく、鰐は獲物めがけて猛然とジャンプしてくんねん。重い巨体が数メートル飛び上がり、大きな口を開けて鶏をあっという間に丸呑みにする。その残忍な食事風景をクルーザーの脇に付いた網の上から覗くわけや。ものすごい迫力やった。
 本土最北端のダーウィンを目指したのは、それをテーマに取り上げた、写真付きの本を読んでいたからや。ダーウィンの中心部は、アデレードよりさらにまた小さな、長細い町並みやった。町には、商店や銀行、ホテル、土産物屋、映画館などがそれぞれの角に建っていた。
 おれらは映画館に入り、松田優作の出演した『ブラック・レイン』を観た。当然、字幕なしの英語版だった。料金は安かったはずや。平日なので館内は空いていた。彼の存在感はピカイチで、有名なハリウッド俳優にも見劣りしなかった。
 他の日は、めいめいが好きな場所へ出掛け、同じ宿に帰ってくるというパターンで過ごした。おれは水族館にいってみた。多様なクラゲの展示を見た。オーストラリアの海では、てっきり、一年中海水浴できると思い込んでいた。あれ? クラゲ。海にクラゲはいとる。ビーチにそれが出よるシーズンなんてあるんかいな。不思議に感じた。あとで知ったんやけど、ダーウィンの海、鰐やクラゲが出よんねん。水泳禁止らしい。ビーチに人気が少ないはずや。納得いった。
 翌日、おもちゃのような、ドアも窓もない車をレンタルした。ファーニーベイという岩浜へ車を走らせた。草地に車を停めて、ごつごつした砂のない岩だらけの海岸沿いをひたすら歩いた。無数にある岩の窪みには、海水か雨水が溜まっていた。誰も人の近寄らなそうな岩場だった。歩いても、歩いても、岩と海以外なにもない。期待外れの呆気ない遠出も旅のうち。
 ゴーカート風情の車を元の場所に返した帰り道、地図に載っていた絶景ポイントへ向かった。太平洋に沈む夕陽を崖の上から眺めた。めっちゃ綺麗やった。まるで自分のためだけに用意されたような、見事な夕映えやった。黄昏の太陽がダーウィンの空と雲を赤く染め上げていた。なにか一区切りついた気がした。
 オーストラリアの北の地ダーウィンで、行永、ダイスケ二人組とお別れした。おれ一人、飛行機でケアンズへ飛び立った。トラベラーズチェックはかなり底を尽き、その頃から銀行に立ち寄った記憶はなかった。たぶん支払いは、全部カードで済ませたんやろう。
 ダーウィンを飛び立ったカンタス航空は、無事にケアンズの空港に着いた。オーストラリア人のワイルドな性格がよう出た町、ケアンズ。
 話はいよいよ佳境に入ってきた。すると、莉奈はすこしばかり話に聞き飽きてきたのか、キッチンにいった。ポットのお湯をティーカップに注いでいる。ゆっくりとティーパックをお湯に浸して引き揚げた。スティックシュガーと書かれた袋を破いて中身を開け、カップに入れ、レモン汁も少し加え、丁寧にスプーンを回し始めた。ここで聞いとるし、話の続きをどうぞ。生意気な口を叩くんやな、と思った。
 どこまで話したか、頭の中で辿ってみた。そうや。ケアンズからやった。ケアンズの町に着くと、真夏やのに、人はコンクリートの上をはだしで歩いとんねん。ほんまやで。おれもはだしになったった。せやけど、五分と熱さに耐えられず、すぐに靴を履いた。現地の人はワイルドや。
 もっとワイルドな男と出会った。ツアーの兄ちゃん。筋骨隆々とした、背の高いマッチョの男でな。ラフティングちゅう川下りのツアーに興味をそそられた。そのガイドがマッチョの男やった。見た目だけとちゃうでぇ。めっちゃ荒々しい。ラフティングの注意点を聞いて、だいたいは身振り手振りで分かった。いざ出発となってオールを漕ぐとき、彼の肘がおれの顎にガツンとぶち当たった。イタタって叫んで顎押さえたら、うっすら血が滲み出た。ワイルドもいき過ぎや。周囲をよう見んかい、ガイドの兄ちゃんよ。そういいたかったわ。
 ケアンズでは、ラフティング以外にバナナボートとクルージングをした。ケアンズの沖合でバナナ型のボートに跨り、ロープで引っ張られた。たいがいの客はボートが曲がるたびに、左右に振り落とされんねん。おれひとり、最後までバナナにしがみついた。死んでも落ちるもんか思て意地を張り、食らいついた。とうとうボートが停止するまで落ちへんかった。荒馬乗りのような、ちょっとしたヒーロー気分を味わった。
 半日のヨットクルーズは少し残念な結果になった。天気がぐずついた。甲板でサンドイッチを食べ、しばらくして、オレンジ色のライフジャケットを着込んでシュノーケルの装備をつけた。海に降りてシュノーケリングを楽しんだ。
 あいにく曇りのせいで海水も濁っていた。海中の視界は悪かった。魚もなんも見えへんかった。これがグレートバリアリーフのシュノーケリングかいな。まあ、しゃあないな。諦めた。綺麗な海ならば、エメラルド色のグレートバリアリーフを自分の目で見られたのに。出国の期限もあるから、先を急いだ。南へ向かって再びバス移動や。
 晩も遅くなり、莉奈が眠そうな目をこすって、続きはまた明日聞きたいといった。欠伸を一つして二階へ上がった。時計の針は、夜の一時を回っていた。
 翌日、職場から真っ直ぐ帰宅した。家にいた莉奈は昨日の続きを聞きたいというので、簡単に晩酌を済ませ、二階の莉奈の部屋へ上がった。どこからやった? ケアンズを出発したとこからよ。そうやったな。
 ケアンズから下ること数時間。本当に長かった。誰かに聞いたら、十時間以上かかるって。いよいよ、ここからが本当のひとり旅になってくる。そう思うと、やけに寂しいのを通り越して、自分の道をその手で切り開いていく探検家か、怖いもの知らずの冒険者のような気になった。勇壮感が胸に満ち、愉快な気分やった。痛快でたまらへんかった。
 アーリービーチという中継地点がある。そこのロータリーにバスは着いた。ハミルトン島を始めとするウィットサンディー諸島への足がかりになる港町だった。その当時、それほど栄えているように映らんかった。
 まず、ハミルトン島へのクルージングツアーに参加した。失敗したんが、帰りの遊覧船の出発時刻。間違えてしもた。二時四十五分を聞き違えて、三時十五分と思たんや。なんとかクオーター(十五分)ちゅうて、早口で告げられたのを聞き違えした。海沿いのプールでしばらく遊んでいた。島の桟橋から見えた遊覧船は、あっ、もしやと思たら出てしもた。切符は無効かと肩を落とした。時刻はずれてしもたけど、船長に泣きついた。どうにか次の便に載せてもろた。切符違いは大目に見てもらえた。やっぱり、オーストラリア人の情は、ざっくばらんで気さくやな。つくづく胸に沁みた。
 バスが着いたロータリーに戻った。明日来る高速バスの時刻を確認してから、その近辺をウロウロした。とりあえず今晩の宿になりそうな、適当なモーテルを探した。二階建ての長屋が目に留まった。表に掲げてあった宿代の安さに惹かれて中へ入った。さっそく、宿主に一泊分の宿泊料を前払いした。特にするあてもなく、再びロータリーへぶらりといってみた。
 そこにいた気さくな外国人に英語で話し掛けられた。その晩、ある宿で貸し切りのイベントがあるらしい。アーリービーチから少し離れた安宿の話だった。面白そうやから、いきたいと申し出ると、手刷りのチラシをくれた。その夜、なにも用事がなかったので、暇にまかせてチラシに書かれた場所にふらっといってみた。たぶん、送迎バスに乗ったと思う。日もとっぷり暮れていた。
 その晩のイベントは、実に怪しげなパーティーやった。乱交パーティーとか、そういう類のもんとはちゃう。ただ、恰好が変わっとった。飲み物や食べ物は会費に含まれていて前払いやった。受付に立つ若い男は、白いシーツのような布一枚を羽織っていた。
 首に下げたポーチから紙幣を取り出して会費を払うと、どういうわけか、同じ白いシーツを渡された。男は、服をその場で脱げ、という。目の前に、物入れのような、銭湯の脱衣所でよく見かける四角い木組みの棚が並んでいる。どう見てもただのシーツ。安物のカーテンのような、ペラペラで薄い、柔らかい生地や。透けているわけではない。ただ真っ白いだけ。
 よくわからないまま、まわりの人たちがしていたので、それに倣って、ティーシャツとズボンを脱いでパンツ一枚になり、シーツで体を隠そうとした。ウエストポーチも棚に置いた。首から下げた紐付きポーチはトラベラーズチェックが入っているのでそのままにした。
 そのときや。温泉の脱衣所のような狭いところで混み合う中、目の前にいた黒髪の小柄な女性が背中を向けて上の服を脱ぎ始めた。胸が見えるように前を向くバカはいないが、背中越しに胸元の膨らみがもろに目に飛び込んできた。
 すげえなぁ――。
 瞬間、おれは感嘆した。ためらいと好奇心の入り混じった目で、じっと背中を見つめた。数秒固まっていた。外国に初めて来て、ある意味、パーティーの持つ若者特有の雰囲気に飲まれていた。
 なにも見なかったかのような涼しい顔をして、渡されたシーツを左の肩口で結んだ。布を斜め掛けに垂らして体を覆い隠した。それはどこから見ても、まるでローマ貴族そのものやった。
 男も女も、同じローマ風の恰好に変身し、楽しそうなパーティーがすでに始まっていた。あるものは酒を飲んだ。煙草をくゆらすものがいた。ビリヤードに興じる若者グループがいた。当然ながら女に声を掛けて話し込むやつらもいた。女同士で喋りながら、盃を重ねている連中がおった。
 奇遇にも、さきほどの女性を見かけた。カウンター席にひとりで座っている。その日本人風の女性に声を掛けた。素肌を拝ませてくれたお礼にと思って。
「隣、ええかな?」
「どうぞ」
 素っ気ない日本語の物言いに、受け入れられた満足感が胸に溢れた。おれは、気兼ねなく、自然に振る舞えた。肌の色と素振りで日本人やなと直感していた。
 彼女はあっさりとした表情を作り、その声は猫の毛を撫でるように心地よく優しかった。体なのか、髪なのかは分からなかったが、醸し出す匂いも鼻をくすぐるように甘く、刺激的だった。彼女の容姿に思わず目を奪われた。髪は肩まであり、肌には艶があった。瞳は澄んでいた。口元は愛くるしかった。
 とりあえず、話し相手をひとり見つけられて安心した。相手が日本人やとこちらの心は落ち着いた。隣で腰掛けている女を口説く時間と、胸の高鳴りをくれた恋愛のキューピッドに感謝した。心は躍った。昂揚感で気持ちはフワフワと浮かれた。
「名前は?」
「ナオコよ」
「おれはこういち。どこに住んどるん?」
「どこでもないわ。ワーキングホリデー中なの」
 ナオコはウフフと軽く目を細め、意味ありげに艶めかしく体をひねり、こちらに顔を向けた。口角が少し上がった気がした。彼女なら、おれの孤独な気持ちをほぐしてくれる。そんな期待を抱かせる笑みを浮かべていた。
 まだ出逢ってわずかしかたってないのに、どこかで知り合っていたかのようで、まるっきりよそよそしさを感じなかった。後ろ姿の艶めかしい肌を見たときから、大胆で細かいことを意に介さない女やと勝手に思いこんだ。
 おれは、異国の地で巡り合った女性に惚れ、なにかしらの縁を感じ取った。心地良さは、山で譬えるならば八合目辺りまできていた。恋する刺激は脳を痺れさせ、電流計を当てて測るのが可能なら、右へ振りきれていただろう。
 相手が酒を飲んでいたので、おれは適当な酒をバーテンダーに注文して、グラスに口をつけた。頬が熱くなるのがすぐにわかった。酒と美女に酔いしれるとはこのことか、と得心した。ドラッグをやってないのに、充分にハイでトリップしているようだった。
 おれの歳は二十三なんや。あら、わたしの方が一つ上ね。東京から来たんや。へえ、そう。一人で? ああ。ナオコは……。まあ、聞かへんとくわ。パーティー、楽しいな。ええ。このパーティー、何で知った? チラシよ。おれも。なんか想像以上やな。うん。二人で喋るとカップルみたいやで。旅先でナオコのような女性に会えて嬉しかった。ありがとう。ねえ、ここどう思う? 
 酒が入り、ナオコの訊ねた質問にちゃんと返事もできないまま、沈黙が続いた。答や彼女の返事は頭に入ってこず、そのときから記憶の底に沈んだ。口説こうと思っていたのに、いざその段になると、口が回らなくなった。間近にいて、目と鼻の先に居合わせた至福を味わうことしかできないもどかしさ。それだけがナオコとのあいだに横たわる埋まらない溝をもぞもぞと徘徊し、流れていった。惜しむらくは、酔いやすい性質やった。相手の口の動きが次第に読めなくなってきた。強い酒がすぐに思考を狂わせたんやろう。
 二人のぎこちない様子を見たのか、外国人二人組が彼女の肩口から声を掛けてきた。ナオコは彼らに誘われて去っていった。大胆に咲き乱れる一輪の花に、別の蜂が蜜を吸いに群がった。人の食事にありつこうとする、内陸部でさんざん悩まされた目障りの蝿に似た光景が脳裏をよぎった。 
 しばらくのあいだ、ボーっとした。天井を見つめた。壁の模様に目を凝らした。カウンター席でひとり腰掛け、グラスに残った酒をチビリチビリとやりながら、あたりを見回した。
 楽しそうにはしゃぐ外国人が目の前に佇んでいた。せっかく外国に来て話さないのは損やなと思た。暇そうな男連れに、やあと声を掛けた。自分は日本人やというと笑われた。その当時、観光目的でオーストラリアを訪れるアジア系の人種といえば、ほとんどが日本人やったのかもしれへん。当たり前すぎる挨拶なので笑われたんかな。
 酒が入っていて少しムッとなったおれは、受付にいき、メモ用紙とボールペンをもらってきた。掌にメモを置き、ボールペンで「一、二、三」と紙に書いた。ワン、ツー、スリーの日本の字だといった。また、笑われた。そこで、これは? と「十」を書くと、プラスだと答えたので、今度はこちらが笑い返してやった。なぜだ、と首をひねる連中に、その字は英語のテンを意味するんやで、としたり顔で答えた。
 嘘つけと眉を「へ」の字に曲げるので、ほんまにしゃあないなあと思いつつ、もっとええことを教えたると提案した。女は好きかと訊ねると、ああもちろん、と胸を張った。その期待に応えようと、漢字で「女」に「子」と書くとガール(女子)になり、「好」はラブになるのだと説明した。東洋の文字に、フーンとやけに感心し、二、三度頷いた。日本の文字は便利だな、と一人がいった。妙にウケがよかった。
 男たちに、日本の何に興味があるのかと探ってみると、「寿司」、「忍者」、「盆栽」という答が返ってきた。たしかに、どれも伝統的で日本らしい。そのときはうまく説明できへんかったけど、もし通訳が側にいて、中年の歳になったおれにいわせれば、きっとこういうやろ。和の心は、細やかな心遣いに、たゆみない毎日の修練、周囲との調和やで、と。
 ところで、出逢った瞬間から瞼に焼きついた、背中の美女はどうしているやろか。どこへいったんか。混雑する人垣を避け、すり抜けるようにして彷徨った。あちこちを舞うようにして行きつ戻りつするうちに、眠気が勝ってきた。おれの身動きはなにかに操られ、引っ張られるかのようにして眠りたい欲望の方へと傾いた。
 遠のく意識の中、辿り着いたのは大部屋やった。パーティーのメイン会場から伸びた廊下の先にあった。なんやろ、ここ。広い暗がりの中、二段ベッドが浮かび上がった。
 おあつらえ向きや。眠くなってきたし、寝ちゃえ。泥酔したおれに、宿泊する権利やベッドを占有できる理由など説明しろといわれても到底できる状態になかった。でも、オールナイトのパーティーやから、みんな朝まで飲み明かすか、雑魚寝するんやろ。空いているベッドに寝ても別に構へんわ。そう思た。
 幸い、そこは寮のように、二段ベッドが数えるのに時間がかかるくらいぎょうさんあった。空いているのを目ざとく見つけた。よし、ここにするか。値段の割にはまあまあ楽しいパーティーやった。少々時間は早いけれど、寝るとしよう。ローマ風の衣装のはだけたまま、眠りについた。
 若さゆえ、どないしょうもないときは、なるようになってしまえ。そんな気持ちがもたげた。ある程度の英語は喋れるし、ゆっくり話してもらえば、相手のいうこと、大切なことは聞き取れる自信があった。単身でオーストラリアに渡り、周遊してみて、小さなミスはぎょうさん起きた。それを含めて良き思い出となり、大きな災難やトラブルに見舞われることはなかった。

 一息つこうとカーテンを引き、窓を開けた。夜空を見上げてみた。目の悪いおれでもよく光る星ぐらいは目に入る。綺麗やと思った。さすがに南半球で見上げた南十字星は、北向きの部屋から見える天になかった。たぶん、南のベランダから見たって、見つからないはずだった。
 もうナオコに会えないのだろうか。本心は、異国の地で得た感動話を娘に伝えたくなかった。パパ、なにしとるん? 莉奈が背中越しに呼び掛けた。感慨に浸っているんや。ふと、昔のことを話しているうちに我を忘れ、親の立場を放り出して話にのめり込んでしまった。窓を閉めた。
 そのあと現実にはいろいろあったのだが、面倒臭くなった。残りを簡単に終わらせようと思った。
 あとは、ブリスベン、ゴールドコースト、シドニーと人気の観光地を訪ねた。コアラを見た。海で泳ぎ、ジェットスキーを楽しんだ。オペラハウスの見学をした。それだけや。帰国の時間が迫っていたから駆け足やった。だいたい以上やで、卒業旅行は。
 青春を熱く語る夜は急ぎ足で終わった。
「そのパーティー、かなり奔放ね。刺激的で多少危険な香りがするけど。合コンや婚活パーティーとまるで別世界。パパは面白い時代に生きられて、ほんまに幸せや。いま、そんな自由ないよ」莉奈は眉をひそめた。
「なるほど。そうかもしれん。危うい橋を渡るから刺激は生まれる。自己責任でなんでも挑戦できた頃かな。いまの若者は出会いの場かて、限定されとるよな」
 知ったかぶりしたような口調になった。
「そうよ。個人の活動半径が小さいねん。若いあいだに手近なところで恋人を確保しておかんと、出遅れたら最悪よ」
 莉奈はベッドに寝そべって、欠伸をかみ殺した。おれは再びカーテンを少し開けた。窓から、夜空にまばゆく瞬いていた星が雲に隠れ、見えなくなっていく様子を確認した。向かいの背の高いマンションの窓に、白やオレンジの灯りがちらちら見え隠れする。冬の闇に人の温もりを感じる風景や、と思った。
 莉奈は部屋で寝るやろと思い、ドアをそっと閉め、階段をそろそろと降りた。一階のリビングの灯りをつけた。人のいないリビングは寒かった。体を温めようと、食器棚の隅に隠しておいたスコッチを取りだし、水割りを作った。
 当時の若さと冒険譚に我ながら苦笑した。と当時に、いまの世の中、危険な落とし穴があちこち無数に掘られていると思った。いつどこでケガをし、命を落とすかしれたものでないと思った。そのやるせなさにスコッチの苦味が加わり、ふだんより、余分にアルコールが胃袋に染みわたった。
「パパ」
「なんや。まだ起きとったんか。真夜中の二時やぞ」
「眠くないねん。うたた寝しとった」
「そうか。それより、なんぞいいたいことがあるんとちゃうのか」
「そうそう。それそれ。恋愛のことやねんけど」
「ああ。例の彼氏のことか。また、そのうちな。高いチョコレートをあげて、とりあえず繋ぎとめとき」
 以前、娘に見せられた写真の彼の顔を思い出した。陸上部に入っているらしく、日焼けした凜々しい顔立ちに引き締まった細身の体つき。ハーフマラソンをしている。インカレで十位入賞を目指すのが目標らしい。ぞんざいないい方に気を悪くした莉奈はフンと怒って踵を返すと、足早に階段を上り、部屋へ戻った。
 ここから先は莉奈に話さなかった部分である。いわば後日談だった。本当は、濃密な時間をナオコと過ごした。外国人と寝た。娘の前で真実をありのままに語るには、少し扇情的だと判断して、あえて触れなかった。
 ナオコの背中を見た瞬間、恋に堕ちた。いま振り返れば、なにかの本に書いてあった一節――瞬間が時を越えて永遠になる――の意味が年を経て分かった気がした。
 パーティーが終わった翌朝、片付けもしないでそそくさと服を着替え、宿をあとにした。無料の送迎バスに乗り込み、ターミナルまで揺られた。
 浜辺で太陽を浴びようとして海岸にいくと、昨日の彼女がひとりきりでいた。ナオコだった。デニムのショートパンツ姿でヤンキー座りをして、海の彼方を眺めていた。なにか物憂げな表情に見えた。その横顔がやけに気になった。つとめて明るい声で訊ねてみた。
「おはよう。なに食べとんの?」
「えっ? ミートパイ……」
 心なしかナオコの声に元気がなかった。彼女は浜辺で足を畳んでしゃがみ、どういうわけか片手にミートパイを持って、無造作に囓り出した。パイ生地に挟まれた肉汁が白いティーシャツの胸元にポタポタと垂れていく。せっかくの服を汚していた。
「ああ、垂れとるで。ちょっと待っとき」
 おれも屈んで、ズボンからハンカチを取りだして拭いてやった。知ってか知らずか、そのとき、前屈みになった首元とシャツの隙間から胸の谷間が見えた。白く艶やかで、ハリのある胸だった。こんどは前を見せたのか。そんな妄想が朝から発生した。
 それ以上は、こちらが恥ずかしくなってきて、拭き終わると立ち上がり、手を振って別れた。相手の名前と歳、容姿しか記憶になくて、彼女と会うことはないだろうとその場を立ち去った。
 幹線道路までゆっくりと砂浜を踏みしめていった。ミシリ、ミシリ、と音を立て、足を取られそうになる。このまま何もせずに終わっていいのだろうか。未練の気持ちが心の奧で反復し、足取りがなんだか重くなった。やっぱり彼女が愛しかった。
 後ろ髪を引かれるようにして砂浜に戻った。ナオコはまだしゃがみ込んでいた。ミートパイはとうに咀嚼し終わっていた。
 おれが側に寄ると、ナオコは振り向いた。目元に笑みがこぼれた。
「どうしたの? 忘れ物?」
 おれは未使用の白いティーシャツをリュックサックから取りだすと、彼女に手渡した。
「それ、使てくれ」
 少し照れた。すると、昨晩の着替えを再現するかのように、ナオコはその場で汚れたシャツを脱ぎ始めた。おれは後ろを向いて、着替えが終わるまで待ってやった。もう、ええか? うん。振り向いてみた。彼女は真っ白なティーシャツを身に着け、眩しそうに輝いて見えた。渡した白のティーシャツは男女兼用のフリーサイズで、ナオコの体にぴったり合っていた。
「ありがとう。汚れた方は……」ナオコは、気恥ずかしそうに言葉を濁した。
「よければ、くれへんか。洗って綺麗にするわ。記念に交換しよ」
 少し考えこんだナオコは、いいわよ、と弾けた笑顔を浮かべた。沈んだ表情は消えていた。記念にあげる。彼女は申し出た。ナオコは晴れ晴れした顔で足元に置いた鞄から瓶を取り出した。ガラスでできたような、わりと大きな透明の瓶を。
 中身は白い貝殻だった。コルクの蓋を開け、いくつかを掌に出し、おれにくれた。貝殻はいま、自宅の小物ケースにしまってある。四つあった。真っ白い、形の整った貝だった。満足したおれは、手を振ってその場を後にした。
 その晩泊まった宿のシャワー室にナオコの汚したティーシャツを持ち込んで、石鹸でごしごしと揉み洗いし、だいたいの汚れを落とした。一晩乾かし、朝に取り込んだ。四つに畳んで、リュックサックにしまった。
 彼女の食べていたミートパイに刺激を受け、おれは同じものを食べたくなった。近くのレストランにいき、混んでなかったので中に入ってみた。カウンター席に座り、特大のミートパイを注文した。首から下げたポーチに押し込まれていたオーストラリア紙幣をくずし、店員に渡した。お釣りはウエストポーチの小さな財布に入れた。オーダーが通り、ほどなくして、醒めたパイがトレイに運ばれてきた。おれは腹が減っていた。さして不味くないなと思いながら咀嚼した。
 横を見ると、金髪の綺麗な外国人女性が座って食事していた。さらさらした毛を胸まで垂らし、おれと同じくらいの背丈だった。緑のティーシャツを着て、アイスコーヒーをストローで啜っている。
 その若い女性に話し掛けてみた。相手はリンダと名乗った。
「こんにちは。おれ、こういちです。日本から来た旅行者です」
「あら。日本から?」
「はい。ええもん、上げましょうか」
「え。いいの?」
 リンダは、挨拶を済ませたばかりで、いきなりプレゼントを渡されると知って、少し当惑気味に身構えた。おれはリュックサックの中から千代紙を取りだした。丁寧に角と角を合わせ、紙を折った。あら、オリガミね。折り紙が英語として通用するのにまず驚いた。見たことのない鳥ね。なあに? フラミンゴ? 意外だったようで、目を丸くしていた。鶴やで。へえ、首の長い鳥ね。鶴の折り紙は平和と健康の象徴なんや。青い目のリンダは、なぜ? と訊いた。
 拙い英語で相手の疑問に答えてやろうとしたが、うまくいかなかった。メモ帳を取りだし、適当な絵を描いた。身振り手振りで説明した。広島で犠牲になった被爆者の魂を追悼するために、日本中で夥しい数の日本人が鶴を折った。日本人は昔から、病気が治ることへの祈りを鶴に託す習慣がある。入院した人に折った鶴を渡す、と。意図したとおりに伝わったのかというと、かなり怪しかった。けれど、素晴らしいと彼女は感嘆した。
 気をよくして、次に、二色の折り紙で手裏剣を折って見せた。オレンジと水色の紙を選んで作った。彼女に手渡すと、忍者、忍者! としきりに叫んだ。興奮したのか、古びた板壁に向けて投げる真似をして見せた。こういうことは詳しいんや。逆に、感心した。日本に来ることがあるなら、折り紙や日本の昔の遊びに触れてみるとええで、といい添えた。一緒に記念写真を撮ろうと誘い、ウェイターにカメラを渡して写真を撮ってもらった。
 手を挙げ、バイバイといい、トレイを下げて返却口に持っていった。背後に人の気配がして後ろを振り向いたら、リンダが微笑んで立っていた。私の泊まるモーテルに来てよ。誘われた。おれは、ええでと気楽に答えた。ホテルの名前、部屋番号、簡単な地図。それらをメモした。晩になればリンダを抱けるんや。そう思うと浮き足だった。
 けれど、後ろ髪を引かれる思いがして、やっぱりナオコを探しに砂浜に戻った。あれから二十分ぐらいたっていたと思う。まだナオコは砂浜でしゃがみ込んでいた。おれが近づく前に彼女は振り向いた。明るい表情を浮かべ、真っ直ぐこっちを向いてはにかんだ。
「まだ、なにか……」
「写真を撮らせてくれへんか」
 おれは申し出た。ナオコはこくりと頷いた。リュックサックの中からカメラを取り出すと、彼女の姿を二枚、写真に収めた。脳裏に焼き付いた笑顔が、カメラのファインダーの四角に再現された。フィルムに焼き付けたことで、まるで小さな生け簀を逃げ回る金魚を自分の網ですくい上げたような気分になった。
「ありがとう」おれは本当に嬉しくて、心から礼を述べた。
「別にいいのよ。お礼なんて」
 ナオコはなにかをいいたげな眼差しだった。しばらく彼女と並んで海を見ていた。それで満足したらよかった。が、どうにもならなかった。そのとき、立ち去る気にはなれなかった。
 新しく着替え、露出した首筋や太腿から、オスを発情させるような、蒸せた独特の匂いが漂ってきた。爽やかな乾いた潮の匂いと混じり合い、おれの鼻腔はひくひくした。官能に痺れそうだった。
 朝にもかかわらず、性的衝動は最高潮に達した。十数日ためこまれた男の性欲は、まさに暴れださんとしていた。体は熱気を帯びた。心はサンバのリズムの渦に飲み込まれるダンサーのようだった。
 ナオコの手を引いて浜辺から連れ出し、道路を渡った。近くに人気のなさそうな草むらがあった。おあつらえ向きだと思った。彼女に抱きつき、ことに及んだ。ナオコは、やっと自分の意図に気づいてくれたと思ったらしく、にっこりと微笑んだ。おれの耳元で、したいのね、と囁いた。嫌がる素振りをみじんも見せず、それどころか待っていましたとばかりに、喜んで真新しいティーシャツをたくし上げ、豊満な胸をおれの頬に押し当ててきた。我慢できへん。心で叫んだ。
 甘い声とショートパンツのジッパーを下ろす音は、ほぼ同時に聞こえた。ナオコはショートパンツを脱ぎ捨て、その上にシャツと下着を無造作に載せた。彼女は、身ひとつの、太陽に輝く白い裸体を目の前に晒した。おれも素っ裸になり、ナオコの体を倒して覆い被さった。
 草が生い茂る中、朝の陽射しを浴びた男性器は固く膨張し、照り光っていた。ナオコの少し垂れ気味の両胸を手でもみ上げると、彼女の顔は少し紅潮した。場所柄、早くセックスを終わらせたかった。
 いつのまにかナオコは、ピンク色の輪っかになったゴムを手に握っていた。瞬く間に手でゴムを伸ばしたかと思うと、おれの性器にすっぽり被せた。股から突き出たペニスは、被せられたゴムをいっぱいに伸ばした。すっと入れて腰を突き上げ、すぐに射精は終わった。草いきれと朝の空気のにおいがツンと立ち込めた。先端が白い液体でまみれたゴムは、その辺の草むらに捨てた。ナオコの唇にキスをしてその場でズボンを直した。ナオコは恍惚とした顔を浮かべていた。
 念のため住所と電話番号を交換した。彼女のそれは、横文字のホテル名と住所、電話番号だった。そのとき、シドニーまで二人で旅をしようと約束した。アーリービーチのバス停で時間を調べ、一緒に乗るバスの便を決めた。
 なにをどうしたのか記憶が曖昧だった。刺激の多い朝を過ごしたせいで、ボーっとして昼を過ごしたら夜になっていた。
 朝と晩の営みは違っていた。その晩、初めて外国人を抱いた。鍵のかかっていない部屋で、リンダは服を着たまま待ち受けていた。彼女はすでにシャワーを浴び終え、腰や尻にぬるぬるした透明な液体を塗っていた。
 激しく絡み合う濡れ場を想像した。実際は違った。普通に服を脱がしあい、一度口づけしてから、リンダはおれの下腹部に液体を軽く手で塗った。リンダの白い胸と赤く日焼けした肌は、滑らかで艶やかだった。すでに高ぶっていたリンダは、抱き合うとすぐに交わろうとした。スベスベした肌と肌を擦りつけあうと性器に血が漲り、膨れ上がるのを感じた。が、意に反して、射精は実にあっけなく終わった。正確に再現するなら、リンダの発する英語で、ペニスが一旦だらりと垂れ下がった。リンダに口で勃起させてもらってやり直し、果てた。
 特になにかを要求してないし、されたわけでもない。深夜テレビでよくやっていたフランス映画の一場面そのままに、あっさりし過ぎて、肩すかしを食った。男女が寝るのは生活の一部で、歯を磨くか着替えをする日課のような印象を受けた。
 日本では、どうして性的営みがあれほど猥雑なものに扱われるのか、特殊なものに祭り上げられているのかと不思議に思う。リンダにそれを説明したら、たぶん、おかしな国ねと同情されるだろう。タブーや貞操に関して、いつかの時点で、誰かが性の歴史や捉え方を塗り替えたような気がした。リンダと寝た行為に愛があるかと問われたら、存在してないように思う。
 縦方向に驚くほど伸びる薄い色付きのゴムをつけた。彼女はピルを飲んだのよと笑っていた。行為が終わるとキスなど求めず、リンダはベッドの脇に置いた煙草に手を伸ばして一服していた。開いていた窓から吹き込む夜風が、体を舐めるようにして少しだけ冷やした。
「ダーリン。これからどうするの?」
「そやな。リンダのような人と仲良うなるか、立ち寄った場所でツアーに参加してアクティビティを楽しむか」
 本当はずっとナオコとくっついているつもりだった。リンダの心に配慮して言葉を選んだ。傷つけたくなくて、適当なことをいった。
「ずっと?」
「そうや。シドニーまで旅を続けて。きみは?」
「私は好きな人がいるから、その人のところへ戻る。いま休暇中なの」
 リンダはそういって、また煙草を吸った。白い煙を吸い込み、肺に溜めこんでから吐き出した。煙は、モーテルの天井に付いた、白い板のファンの回転でゆらゆらと宙を漂い、窓の外に消えていった。
 彼女は、朝が早いから、と電気を消した。お休みのキスをおれの唇にした。ペラペラの薄い生地の寝具を掛けて眠りについた。リンダはすやすやと眠っていたが、途中から大きな鼾をかき始めた。両方痩せて同じくらいの背丈なので、シングルベッドで添い寝したまま朝を迎えた。
 とくに約束はせず、「バイバイ、シー、ユー」と手を振りあって、男女の関係はなかったかのように別れた。思い返してみても、旅すがら、ゆきずりの恋だった。
 リンダと一夜をともにした翌朝、約束通り、バスのロータリーでナオコと落ち合った。おれは旅の続きに戻った。そこにリンダの姿はなかった。聞き上手でええ外国人やったと思った。ほんの立ち話のつもりが、一夜を過ごしてくれた。あえて住まいや国籍を聞かなかった。たぶん地元のオーストラリア人だろう。
 リュックサックの中に千代紙を入れて持ってきたかいがあった。まさか、あんなふうに役に立つと思わなかった。折り紙を教えた熱意がおれを誘惑へ導いたのか。あの夜の出来事は予想外だった。
 リンダに日本を知ってほしい、日本へ来てほしいという思いが沸いた。その朝、オーストラリアの空は青く晴れ、鳥が飛んでいた。鶴を折りたくなったのは、空を舞う自由な鳥からの連想か、日本への郷愁だったのかもしれない。リンダとはそれきりになった。
 おれはナオコと終始離れず、紐のように行動した。彼女が目に留めた土産物屋に寄りたいといえば、一緒に入った。ナオコは好きなものを手に取って、あれこれ見比べた。どうかしらと意見を求め、嬉しそうにおれに見せた。その屈託のない笑顔に、おれは相好を崩した。
 アイスクリーム屋に立ち寄ったとき、とても甘そうな、コーンを二段重ねにしたのを一つ買った。パステルカラーの緑や青やピンクの小さな粒ののっかっているアイスだった。それを受け取り、近くのベンチに彼女と並んで腰掛けた。
 溶けて落ちないうちに、おれの手にしたアイスを二人で舐め合った。ナオコは上の段のバニラアイスを攻め、おれは彼女の舐めた部分や、溶けて流れ落ちてきたアイスの汁をぺろぺろと舐め上げた。まだ溶けてない二段目のチョコレートアイスを舐め、コーンを齧った。食べ終わるとキスをした。甘い味が唇に残り、子どものようなじゃれ方だと思い、急に恥ずかしくなった。
 ある晩、ナオコを誘って、日本人向けのキャバレーにいってみた。
 天井に配置されたカクテルライトは、壁や天井を紫、オレンジ、赤、青、緑とまだらに染め上げていた。銀色に輝くミラーボールが、だんだん興奮のボルテージを上げていく。
 おれはアルコール度数の強い酒にすぐ酔った。ナオコは、地元のホステスと英語で何やら会話していた。笑っている姿を見て、おれは気分上々だった。
「その人、わたしのダーリンよ」
 ナオコはホステス相手にそういい放ち、酔ったのか、いきなり抱きついてきた。肌は赤味を増していた。たまには好きにさせてやろうと為すがままで放っておいた。隣の外国人ホステスとナオコは、両側から同時に頬にキスした。ちょっともてとる気がして、照れ臭くなった。
「幸せな場所やね、ここは」
 目尻を下げた。横のホステスはグラスに酒を継ぎ足し、もっと飲めと煽り立てた。昼間に歩いて日焼けした肌の温もりと酒の酔いの熱さが体の外と内から溶け合った。どちらの熱か区別がつかなくなった。体は火照りきった。
 ホステスの膝に手をやり、少し撫で回してみた。真っ赤なドレスを着た白人のホステスは、おれの手にさりげなく自分の手を重ねてきた。ぺたぺたしてしっとりした感覚がじわりと広がった。ヤモリのように吸い付き、包み込んでいる。おれの掌はじんわりと汗ばんだ。
「気分はどうなん?」ホステスに話しかけてみた。
「いいに決まってるでしょ」
 彼女は軽く口元をゆるめてウインクして見せた。天井から吊り下げられたミラーボールが光りを反射し、ラメの入った赤いドレスがキラキラまばゆかった。
 夜中まで飲み明かし、おれはかなり酔っ払った。酒に強いナオコが、抱えるようにしておれをホテルへ連れ帰った。冷蔵庫からエビアンを取りだし、半分記憶の飛んでいるおれに水を飲ませた。なんとか酔いを覚まさせようとしたらしい。
 そのとき、まだ意識が半分残り、悪酔いしていた。楽しい夜を過ごさへんか、と呂律の回らない口調でナオコに絡み、勢いに乗ってナオコの体を担ぎ上げ、ベッドに押し倒した。嫌がった彼女は、「お酒臭い人とは寝ないの」と撥ねのけ、さっさとバスルームにいってしまった。
 それからどうしたのか、まったく記憶になかった。服を着たままで朝を迎えた。横でスッピンのナオコがぐっすり寝ていた。体を起こした。ベッドの真ん中の備え付けのデジタル時計を見て、午前五時半を回っているのを確認した。寝ているナオコを起こさないよう、そっとダブルベッドから抜け出した。
 まだ頭が痛く、二日酔い気味だった。冷蔵庫からエビアンの飲みかけを取りだし、ちびちびと飲んだ。飲み干したが足りず、ナオコの分のエビアンを全部開けてしまった。体中汗ばんで、アルコール臭いのが自分で分かった。唇についた水気を手の甲で拭った。
 窓のカーテンを少し開けてみた。夏のせいで、朝は早くに白み始める。テラスに出て朝の空気を吸い込んでみた。清々しい乾いた匂いがした。もぎたてのフルーツを洗って、外から嗅いだような甘さとでもいえばいいのか。半分は、酔いが感覚を麻痺させているのかもしれなかった。
 あるとき、広く晴れ渡った上空で、ナオコは絶叫した。キャアアアアア。ものすごい勢いをつけて、回転しながら、おれたちの体を掴んでは振り回す巨人に揺さぶられていた。夢ではない。そのような遊びにおれたちは金を払って、日頃の憂さ晴らしをしていた。
「地面と空がグルグル回って、呼吸が止まった。頭がクラクラしたで」おれはのぼせて、興奮気味に話した。
「楽しいでしょ? なんだか人間の数十倍はある巨人に弄ばれている気分ね」ナオコは上手い表現で返した。
「そやな。巨人対小ネズミみたいや」
「ねえ。機械もひどい扱いをしてくれるわ。キャアア! お陰で楽しいんだけど。アアアアー」
 大きなアームについた輪っかに客たちは座っていた。その中におれとナオコは混じっていた。椅子の前に取り付けた横棒にしがみついていたけれど、巨人の腕が振り子時計のようにぶんぶんと揺れ、クローという名の不思議な絶叫マシンはおれたちを歓喜と恐怖の世界へ連れていった。
 あまりに衝撃的な体感だった。巨大な装置の意のままに飛ばされた。楽しんで遊んでいるのか、逆に機械が教えこまれた手順通りに人間を遊んであげているのか、分からない気がした。
 横一列に並んだ長椅子全体が左右のアームで捩られて回転する乗り物ワイプアウトは、驚くほどの浮遊感だった。椅子からフワッと浮かび上がりそうになるのを椅子に固定されたベルトで押さえつけている。加速が皮膚と臓器にかかり、生きている心地がしなかった。
 たまには大人の遊びを忘れて遊園地で過ごすのも悪くないやんと思った。遊園地ドリームワールドに出掛けようと二人の意見が一致したのは、先週末の晩だった。料金は高目だったが、乗り物を中心に楽しんだ。ジェットコースター、フリーフォール、クロー、ワイプアウト。すべて高低差と落差があり、爽快感は抜群だった。
 敷地内のベンチに横並びしてサンドイッチを頬張っていたとき、彼女は歯医者の話を始めた。虫歯か詰め物をしたのかと最初は思った。が、けっこう辛そうな話だった。
「わたし、歯医者で酷い目に遭ったのよ」
「どうしたんや?」
「あのね、英語が通じなくて。その歯を抜かないで、っていってるのに抜かれちゃったの。すっごく痛くて、痛くて……。まるで地獄ね。歯医者と衛生士が鬼に見えたわ」
「かわいそうに。さぞ辛かったやろなぁ。言葉が通じとっても、きっと強引に抜かれたんちゃうか?」
「そうよね」
「麻酔をかけんかったんか?」
「それがね。充分に効かないうちにやっちゃうのよ、特にこっちの人は。荒っぽい歯医者でね。衛生士まで顔を押さえ付けて。一時間以上待合室で待たされて、四十分悶え苦しんだ。助けて、助けてっていいたかったのに口が開いてるでしょ? こりごりよ」
「歯の痛みって、なった人でないと分からんよな」
 ナオコはわざわざ口を開け、抜かれた跡を見せた。確かにあるべき歯はポッカリなくなって、その黒い部分だけが窪んでいた。
 彼女の気分を元に戻してやろうと思い、クローの話を振り返って笑ったら、
「どうせ機械のいうことを聞かなきゃならないなら、いつまでも若いままでいたいわ」
 と意味不明の発言をした。おれはポカンと口を開けた。ベンチに座るおれの手を引いて、ゲームコーナーへいきましょうよ、とあどけない顔で誘った。
 ゲームに興じてしばらくたち、飽きてきた。噴水の見えるベンチに移動し、腰掛けた。
「ゴールドコーストって、テーマパークがある。海にゴルフ場もある。全部揃ってるのよね」
 ナオコは現地ガイドのように自慢気に語った。おれは、クローやワイプアウトには二度と乗らない、乗りたくないと思わずにいられなかった。でも、隣で絶叫する、子どものようにあどけない姿のナオコを見て、少し安心した。ふだん発しないような悲鳴と、彼女に似つかわしくない轟き声を聞けたのは、元気な証だと思い満足した。ナオコはその辺の若い娘とさして変わらないところがある。そう思いたかった。そのときはそう信じていた。
「ねえ。あそこに赤や青や緑に染まったカラフルなインコが見えるでしょ? レインボーロリキートって現地では呼ぶのよ」
「へえ。レインボー。虹か」
 文字通り、頭から尻尾まで七色の体をしたインコが目に飛び込んできた。そのインコは、噴水を囲むようにして植わっている、たくさんの葉を茂らせた木にとまっていた。体をこちらに向け、ギャアギャアと汚らしい声で啼いた。動物の擬態といって、周囲の色に体色を似せるのは図鑑で見て知っていた。人里に、これほど樹木の幹や葉と反対で目立つ色のまま生息する動物は珍しい。よほど天敵がすくないのだろうかと思った。
 ちょうどその途端、噴水の水が何メートルも舞い上がり、水しぶきが周囲にほとばしった。おれは、こう付け加えた。
「確かに虹のようで綺麗や。けど、かなりうるさいな。噴水が静かにしてくれって注意しとる」
 冗談をいったつもりだったが、ナオコは耳に入らない様子で、噴水に近寄っていった。おれはつられてあとを追った。水の噴き出すのが止まった。彼女は水面に姿を映していた。水の中を覗きこむようにして、彼女は呟いた。
「わたしは、また同じ道をそれと知らずに歩んでしまうのね。揺れる水面が心の動揺を表現しているのなら、映り込んだゆらめく顔は、苦しみ悩んでいる今のわたしのように歪んでいるわ」
 ナオコは眉をひそめて暗い顔をした。その横顔を見て、思わず無言で肩を抱いてやった。
「若いとき、いや、年取っても、失敗を繰り返すんやって。どないしょうもなくなるし、取り返しのつかへんことをしでかすねん。愚かなもんや、人間て」
「そうなのかしら。やっぱり」
「おれは身をもって体験した。いろんな小説に、そう書いてあった。現実世界には、それ以上のことも起きるわ」
「いろいろあったのね。わたしも経験した。これからも続くのね」
「そういうことや。揺れる水面か。光を受けてキラキラしとる。反射しとるやろ、ナオコの顔に。それは、ナオコに希望と勇気を与えるためとちゃうか」
 励ましの言葉のつもりだった。ナオコは俯いたまま無言で手を差し伸べた。小さな柔らかい手は、温もりを必要としているようだった。おれは握り返してやった。
「わたしね。父と妹の三人暮らしだったの。母には先立たれた。父が働いていると、わたしか妹が家事をする役でしょ? 妹はまだ中学生だったから無理で」
「そうか。大変やってんなあ」
「ええ、まあね。でもお陰で、料理、洗濯、掃除なんかはちゃんと身に付いたわ」
「おれなんて、東京で自堕落な大学生活を送っとるだけやけどな。全くちゃうな」
「こういちさんの家族は?」
「親父が会社員で、お袋は主婦。姉がOLしとる」
「そう。わたしは高卒。家族と暮らしながらアルバイトに明け暮れたわ。妹の学費を補助してきた。妹が大きくなって、自分でアルバイトするようになってから、わたしは少しずつお金を貯め始めた。それをワーキングホリデーの資金に充てたの」
「偉いなあ。ところで、英語上手いやん。日本で勉強したん? こっちで語学学校に通てたん?」
「語学学校は最初からいかなかった。日本人が多いって聞いたから。英語は日本で覚えたわ。父の勧めでインターナショナルスクールに通ってたの。授業は全て英語。友人は外国人が多かった。環境次第で話せるのよ」
「へえ。それはすごいなあ。なんか羨ましい。尊敬するわ」
「そう? わたしの友人の半分は外国人よ。カナダ、イギリス、インド、韓国」
「ナオコは、いわゆるバイリンガルってやつやろ?」
「まあね。就職なら有利だったかも。アルバイトの方がわたしの性に合ってる。日本に帰って外資系の会社でバリバリ働くなんて想像がつかない。向いてない気がするのよね」
「そうか。なんや、もったいないなあ。それだけの英語力があるのに」
「そうなんだけど。性に合ってないのよ。ワーキングホリデーの最初のひと月だけホームステイしたわ。ゴールドコーストで。そこでオーストラリアの食事や現地の人の暮らしぶりを知って、少しためになった。ウールワースによくいった」
「なんや? ウールワースって」
「え、知らないの? 大型のショッピングストアよ。食糧品から薬まで全部揃ってる、とても大きな倉庫みたいな建物よ。知らない?」
「看板だけは見かけたような」
「これからお世話になるわよ。わたしといると」
「ワーキングホリデーの期間は何年間や?」
「二年よ。わたしの場合、二年目」
「ビザ切れたら、どないするん?」
「さあ、決めてない。日本に帰るより、こちらで就職するかもしれない」
「それまでは?」
「目一杯、観光を楽しむわ。こういちさんというパートナーが見つかったし。二人の方が旅行、楽しいでしょ?」
「それは同感や。おれは日本の友人が多いし、日本に帰国して就職するで」
 そのひと言を発して、ナオコに日本に戻ってほしい、戻っておれについてきてほしいと内心願っていた。少しは心変わりしてくれないか、と。そんな期待を抱いた。彼女は、再び吹き上げだした噴水に目を移すと、それを眺めながら語った。
「日本の国に、いいたいことをいえる人ってどれくらいいるのかしら? だんだん大人になるにつれて、愚痴や不満を面と向かって相手に主張しづらくなるのよね。その点、海外は違う。それは嫌です、こうしたい、とはっきり意思表示すれば、状況がよくなる。わたしに向いてる気がするの」
 決定的とも取れる考え方の違いが鮮明になった。周囲に合わすのでなく、個人の意思を尊重してほしい。それが彼女の考え方だ。互いの間に横たわる深い溝に蓋をするかのように、わざとらしく行永の話を割り込ませた。
「ナオコに会うまで、行永って友人とこちらで合流して旅してたんや。行永はええ奴でなぁ。高校時代、よう二人で琵琶湖や淀川へバス釣りにいった。帰りには必ず大阪に寄ってな。タコ焼き食うねん。どうでもいいような趣味の話で盛り上がりながら」
「へえ、楽しそう」
「そや。めっちゃ楽しいで。自分でタコ焼き作るねん。店員さんが生地を穴に流し込んでくれて、そっから先は客が焼いてひっくり返す。串刺してクルクルッと回して。生姜や天かすも入れんねん」
「タコ焼き屋さんみたいね。わたし、一度やってみたいわ」
「簡単やで。日本に戻ったら一度連れてってやるで」
「いつか、ね」
 ナオコは小声で呟き、しばらく無言でデニムのショートパンツの裾を片手で触っていたが、急に何かを思い出したようにいった。
「わたしね。こっちのくだものが気に入ったわ」
「へえ、どんなの?」
「マンゴーやパイナップルもおいしいけど、カスタードアップルが好みなの。濃厚っていうか、すっごく甘いの」
「それで?」
「中を割って白い実にかぶりつくのよ。スイカみたく。熟れてると最高ね」
「うわぁ。こんど買うてきてえな。食べてみたいわ」
「一度食べてみて。病みつきになるわ。日本では手に入らないから」
 ナオコの機嫌はすっかり戻り、明るさを取り戻した様子に見えた。おれたちは閉園のアナウンスが流れるのを聞いて、ゆっくり門の方へと歩き出した。足取りは軽かった。
 些細なことで言い争いが起きたのは、一緒に泊まっていたモーテルで、朝、洗濯しようとしていたときだった。彼女の分まで洗おうとすると、ナオコは下着を後ろ手に隠し、「下着だけは手洗いするものよ」といって小さな喧嘩になった。
「別々に洗うのは時間と費用の無駄やで」おれは抗議した。
「ダメ。ダメなの!」
「一緒に洗えよ」おれは不機嫌な感情を露わにした。
「あなたってひとは……。女のことを知らないくせに」
 ナオコは馬鹿にして、そのへんにあった黄色のバケツを蹴飛ばした。よっぽど汚れているか、男の下着と混ぜて洗うのが嫌なんやと思った。でも、コインランドリーで乾かすとき、彼女はおれの洗濯物と一緒に放り込んだ。恐らく付き合う男が変わっても、きっと同じようにするやろなと思った。いつまで怒っているのかと思いきや、
「ホテルの向かいにあるパン屋さん。クロワッサンが美味しいんだって。買ってきて。できたら奢ってほしいな。わたし、細かいお金、切らしてるの」
 と鼻を鳴らして笑った。おれは少し安堵し、窓を開けて換気をしてから服を着替えた。
 彼女はおだてるのがうまかった。他の男をそうやってあしらってきたように感じた。態度で分かった。そのくせ、わがままをいい、たびたびおれは振り回された。その態度に不安を感じた。この女性は、おれのことをどう思っているんやろかと。その気持ちが、最後までおれをナオコという存在に縛り付けた本当の理由にあたるのかもしれなかった。
 さっきから、部屋の天井に備え付けられたファンが鈍い音を立てて空気を循環させている。嫌なムードすら拡散された気になった。
「暑いからすっきりとしたいわ。体を動かしにいきましょうよ」
 いうが早いか、ナオコは、ベッドの端に座っていたおれの腕を引っ張った。
「どこへ行くんや? もう現金ないけど」
「わたしが払うからさ。ねえ。せっかく海沿いにいるんだし、一緒に海で遊ぼ」
 パン屋でクロワッサン二個をおれのカードで買った。海へ向かうバスに乗った。空は突き抜けるほどに青かった。上空の天井は高く、いや天井なんて見えないぐらいはるか彼方にあったかもしれない。薄べったい雲は、そこにいるのが憚られるように引きちぎれそうな佇まいで、申しわけ程度にポツンと中途半端な高さに浮かんでいた。あと三十分ぐらいしたら消え入りそうだった。バスの中で、二人は立ったままクロワッサンを食べた。
 海辺に着き、バスを降りた。近くのレストランのトイレに入り、下だけ海パンに穿き替えた。オレンジ色でアロハ風だった。上は白いティーシャツ姿のままだった。ナオコは着替えなかった。濡れても平気なんやろと思った。
 泳げる渚はたくさんあった。砂浜を走って、さっそく海に入った。おれが先に泳いだ。バシャバシャと派手な音を立て、波をかき分けて泳いだ。海から上がり、ヤンキー座りのナオコに声を掛けた。
 おれは、脱いだシャツを砂の上に敷いて座った。交替で荷物を見張った。浜辺を眺めた。ナオコは得意そうに泳いだ。澄まし顔でスイスイと泳いだ。二、三十分くらい、交替で泳いだ。
 彼女は砂浜に戻り、水に濡れて体にへばりついたティーシャツの裾を両手でぎゅっと絞り上げた。おれはポーチを手渡した。彼女は、「ジェットスキーしましょうよ」と誘ってきた。
 ゴールドコーストの渚から少し離れたところに、小さな入り江がある。ジェットスキーを楽しむのは、生まれて初めてだ。入り江に着いた。ナオコはポーチの中からオレンジ色の財布を出した。紙幣を抜き取り、代金を払った。乗り場で、最初に簡単な説明と注意事項を聞かされた。それが済むと、係員は、係留してあったタンデムのジェットスキーを浅瀬から海に滑らせた。
 おれたちはタンデムの前後に乗り込んだ。係員がキーを回してエンジンを掛けてくれた。右のハンドルを握って回すとエンジンがかかり、さらに吹かすと大きな音を立て、すぐに動き出そうとする。おれは左手のブレーキを握り、右手のスロットルを押さえていた。
 ナオコは後ろ側に座り、両手を伸ばしておれの腰に手を絡めた。いいわよ、といったのを合図にブレーキを緩め、スロットルを吹かした。ボディはけたたましい音を立て、水を猛然とかき分けて水面を蹴散らすように前進した。水しぶきが飛んできて、顔は濡れた。ジェットスキーは白い筋を水上に刻んだ。入り江の風に当たるのがすごく気持ちよかった。
 サドルに跨がるタンデムは、立ち乗りするシングルよりも安定性がある。前に進みながら体重を左に預けるとボディは傾き、バイクのように大きな円を描いて旋回する。曲がるのは思ったより単純だが、直線を突っ走る方がなおよかった。水を切るスピード感が増すから。爽快感もたまらない。
 ナオコはキャアキャア騒ぎながら、おれの背中に回した腕に力をこめて必死に抱きついてくる。ああ、やってよかったと思った。向こうは岸壁になっていて、狭い入り江をグルグルと三十分回り続け、飽きがきた。
「もう飽きてきたわ。戻るで」
「えー。もっと乗っていたいのに」
 ナオコの意見を無視して、早めに元の場所に戻り、ジェットスキーを返した。
 ナオコは一見、素直そうだった。そうかと思えば、急に太陽の翳るようなときもあった。次の日の朝、彼女は唐突に哲学めいた言葉を発した。     
「わたしはなにをしたくて、ここにいるのかしら? 生きている意味ってなに?」
 ナオコは背中を向けていった。開いた窓の景色を眺めて窓際に立っていた。ナオコの言葉の響きに引っかかった。
「自分に問いかけとるんか?」おれは訊ねた。
「ええ。ときどき、自分のやりたいことが分からなくなって、頭が混乱するの」
「おれにもあるわ。誰にでもそういうときがあるんちゃうか?」
「そうよね。でもね。自分を突き詰めて、したいことを探さないと本当の姿は浮かび上がらないでしょ?」
「うーん。そうやな。いま、なにをしたいねん?」
「そうねえ。やっぱり買い物したい」ナオコは肩をすくめて、微笑んだ。
「そこから先は? なんで買い物したい?」
「新しい品物を身につけると嬉しいからよ。なんだか、しおれた心が生き返った気になる。服を買いたい。バッグを買いたい。靴も買いたいわ」
「ちゃんと突き詰められとるやん」
 おれはそういい、ナオコの哲学の時間を終わらせようとした。
「じゃあ、買い物に付き合ってくれる?」
「ああ、ええで」おれは気軽に応じた。
「ほしい靴があるから付き合って」
「うん」頼まれて引き受けた。
 買い物に付き合った日、天高く青い空がどこまでも上へ、上へと続いていた。
宇宙と青空の境目はどこにあるかわからないほどだった。
 オーストラリア旅行中、バスや飛行機の到着時刻を常に気に掛けて行動していた。デジタルの腕時計をいつも左手首にはめていた。黒いプラスチック製の枠にはまった時計で、とても軽い。ナオコが時計をつけているのを見かけたことは一度もなかった。当時、携帯電話など存在しない。長い睫毛を二、三度パチパチ揺らして、おれに時間を訊ねることがあった。
「何時?」
「九時四十分」
「そろそろ店が開く頃ね」
「そうやな。出掛ける準備をするか。時計、せえへんの?」
「だいぶ前になくしたのよ。いいの。こっちじゃ、気に入ったのがないから」
「そうか。でも困らへんか?」
「なんとかなるわ。どこにだって、時計ぐらい置いてあるでしょ? それに海外の人は日本ほど時間にうるさくないわ。多少の遅刻や早引きを許してくれる」
 なるほど。そういう考えができるか。おれも時刻に追われるのは元来好きでないので、ナオコの合理性に共感した。
 そういえば、初めて彼女に出会った晩、あのローマ貴族風の怪しげな夜会の場で、彼女はアクセサリーをつけてなかった。すべてを外せという趣旨かもしれないが、翌朝砂浜で見かけたとき、やはり時計をつけてなかった。
 十時が近づきホテルを出た。
 町に着いた。腕時計は十時を刻んでいる。開いている店と開いていない店があった。店主の性格というより、きっちり決まってなさそうな気がした。一緒にショッピングモールを歩き、靴屋に入った。
 あれもいい、それもいいと悩み出した彼女の姿に、だんだん痺れを切らし、視線を店の外にやった。よく磨かれた窓に、スラリとした足の長い白人女性の男と連れだってゆっくり店の前を過ぎていく姿が映った。
「ちょっと、どっちを見てるのよ!」
 靴を品定めしていたはずのナオコは、おれの視線を察知してか、機嫌を損ねた様子だった。
「いや、涼しげなサンダルを履いとるな思て」
 適当な嘘をついてその場を取り繕ったつもりだった。
「ウソ。綺麗な女の人の足に見とれてたんでしょ?」
 見透かされていた。顔の前で片手を振り払い、違うでと否定して、「ええの、見つかった?」とはぐらかした。
「ええ。ブラウンのと、淡いピンクの。どっちがわたしに似合うと思う?」
 ナオコは左手にブラウンのヘップサンダル、右手に甲を留めるストラップの付いたピンクのサンダルを持ち、お化けのようにおれの前に差し出して見せた。
 ブラウンのサンダルを指さすと、彼女はそうかなあ、と独り言のように呟いた。背中を向けてさらに違うデッキシューズなどの品定めを始めた。
 十分後、会計を済ませ、笑顔で戻ってきたナオコにいった。
「なに買うたんや?」
「ピンクのサンダルにした」
「じゃあ、なんでおれに訊ねたんや」恨みがましくいってやった。
「だってさ。ピンクの方が可愛かったんだもん」
 少し拗ねた顔をした。放っておいた。
 ある晩、ナオコと出会った記念に、と二人で高級レストランに入った。最初に地元のワインを注文し、牡蠣やサーモン、カンガルーの肉、デザートなどのコース料理を追加した。二人分で二百オーストラリアドルぐらいかかったと思う。けっこう奮発し、クレジットカードで支払いを済ませた。肉は赤身で軟らかく、美味しかった。牡蠣は少し生臭かった。
「カンガルーの肉なんて珍しいんかな。動物園で飼うとるのもおるし、中央にいけば砂漠をいくらでもピョンピョン跳ねとるやろ?」
 見てきたままのことをいったつもりだった。
「不謹慎な人ね。レストランに出されるのは、肉付きのいい若いカンガルーよ。観光資源を特別に食用にして調理してるの。よく味わいなさい」
 ナオコはさも地元の母親のように、噛んで含める言い草をした。
「分かってますよぉ」
 おれは悪ガキのような顔をして見せた。
「わかってない!」
 彼女は叫んで目を吊り上げた。せっかく、評判のいい店に連れてきてやったのに。それっきり、美味しかった料理は味気なくなった。楽しい雰囲気を帳消しにする言葉にむかついたが、おれの不用意なひと言が余計だった、とあとで後悔した。
 そんな失敗もありながら、無事にシドニーまで南下した。二人の仲はおおむね良好で、ときにいがみ合ったが、ずるずると続いた。
 彼女はワーキングホリデーで観光を続けながら、金が少なくなったら、ときどきアルバイトをした。本人次第でいつでも出国できた。おれの帰国する日付は定められていた。便の変更はできなかった。二人の立場は少し違うが、意思は通じ、互いを認め合っていたと思う。
 睦まじい生活を共にして、シドニーまで一緒に旅を続けた。実態は、夜の交わりのためにべったりくっついて離れられないようでもあった。ナオコは観光をしながら夜の奉仕を求め、若い体をおれにぶつけてきた。おれも若かったので、肌艶のいい綺麗な肉体にむしゃぶりついた。安ホテルに泊まっては、眠りにつくはずのベッドの上で、夜な夜な体を重ねる性愛に耽溺した。
 旅の途中から、観光をしているのか、自由恋愛を楽しんでいるのか、分からなくなってきた。境界線か仕切りのようなものがぼやけている気がしていた。あえて区別など必要ないか、と割り切った。
 シドニーへ辿り着き、出国期限が迫っていた。おれは説得を試みた。
「ワーキングホリデー、充分楽しんだやろ。日本に帰って、一緒に暮らしてみる気はないか? ナオコと離れたくないんや」
 すると、ナオコは、「嫌よ」と小声でポツリと呟き、じっとおれの瞳を見つめてきた。
「なんでや?」
 少しきつい口調でいった。ここまで旅を続けてこられたのも、互いに惹かれあっているからと思っていた。拒絶されたのが余計にショックだった。
「だって……」
 言葉に詰まり、すぐに泣き出しそうな、悲しげな表情を浮かべるナオコを前に、為す術を失った。しばらく、二人の間に、言葉にならない空気、せめぎ合う空気がどんよりと漂った。とりあえず慰めてやるべきか、と考えあぐねていたら、急に機嫌を直し、笑顔に戻った。
「先のことをいうのは、止めましょ。約束できないもん」ナオコの声は語尾だけ明るく弾んでいた。
「そうなんか……」半分あきらめとも、決心のつかない動揺ともとれる曖昧な受け答に甘んじた。ナオコの顔をまともに見られなかった。
 彼女は明るさを取り繕いながら、
「傷つくのが恐いの」
 と、背中に手を回してきた。ナオコの小さな体を抱きしめ、無理なものは押し通さんでおこうと思った。いまの刹那だけを感じていれば幸せだと思った。

 シドニーで資金の尽きた彼女は、またアルバイトを始めた。勝手に働けないおれは、一人でオペラハウスへ足を運んだ。動物園にいき、コアラを抱いた。絶えず彼女のことを気に掛けていた。アルバイトの時間が終わるまで、とても長く感じた。待ち遠しかった。誰かが目をつけないかと勝手に嫉妬した。危険なトラブルに巻き込まれてないかと心配した。町中で会える時刻が近づくたびに、心はときめいた。
 シドニー市内には幾つかの美術館がある。彼女が平日に休みを取ったとき、その一つに出掛けてみた。
 館内は静かな趣だった。入口の部屋を中心にして回廊を横にふたつ繋げた造りになっていた。高い天井に宗教画が描かれていた。光の入るような窓はひとつもなかった。白い壁がずっと続いていた。昼間から館内は薄暗く、照明をつけて絵を鑑賞できる程度に照らしていた。
 ナオコは裸婦画を見て、「あの裸婦のぶよぶよした肉付きったらありゃしない。醜い体ね。わたしと比べたら、月とスッポン」とけなした。また、アボリジニの点描画を見て、「きっと内地で蟻塚に群れる蟻ん子の大群を、四六時中眺めて思いついたのね」と面白い見方を教えてくれた。たしかに、テレビを観ていると、アボリジニがマッチの軸をうんと長くしたような棒を壺につけ、ポツポツと点を打つ光景を目にしたことがある。
 蟻の群れ、か。蟻の黒点をカラフルな色彩に変える美的感覚が素晴らしい。それにしても、アボリジニの絵には影というものがない。明るい色の玉と暗い色の玉が同じ大きさで形作られ、キャンバスに整然と描かれている。上から見たのか、実に平面的だと思った。彼らにとって、エアーズロックの巨岩ですら、地球という巨大球体に貼り付いた、平面的な僅かの突起物でしかないのかもしれない。
 ナオコに感想を求めたら、
「そうなの? いわれてみたら、天空高くから見下ろす感じかしら。ほとんどの絵は平べったいわね」
 と賛同してくれた。
 次の部屋には、国内外の抽象画を中心にした作品が飾られていた。アボリジニのアートに影響を受けたような玉だらけの絵、直線と斜線の組み合わせだけの固い感じのする絵、黒線に細い白線で区切りをつけ、境目や点在する島を表現した絵、中世風の風変わりな人形と斜めにぶら下がる人の絵、東洋の花をあしらったデザイン風の絵、二色だけのグラデーションで不均一に塗った絵。さまざまな作品を眺めて回った。ナオコは一つひとつを興味深げに鑑賞しながら、
「人間の考えることって複雑ね」
 と印象を述べた。続けて、おれの腕に触れながら、「でも、ファッションは洗練されていて、色や柄がパターン化しているのよね。そういえば、無地はパターンではないわね」と少し考え込む顔を作り、「パターンを含めたカオス全体が芸術なのよ、きっと」といった。
 話が難しくなってきた。二人は黙って残りの作品を見て回った。美術館を出てからも、さっきの話が気になった。道ゆく人の服装、車の色や形、建物の形状など、目にするもの全てにデザイナーのパターンやカオスが反映されている気がした。日本でしか食べられない、黒いソフトクリームですら芸術に思えた。
 ナオコ特有の考え方は、常識に捉われず、固定観念から逸れた、自由な発想と表現力に現れていた。
 シドニーの高層ビルに入ったときだった。屋上までいくのにエレベーターを使った。エレベーターを待つまで退屈だった。床を蹴った。壁を小突いた。いったん箱に乗り込んでしまえば、一番上まで到達するあいだ、とてもわくわくした気分になった。最上階の通路を端から端まで歩き、勝手に非常扉を開けた。螺旋階段を回るようにして、はるか下の景色を見ながら上へ進んだ。
「屋上に忍び込みましょう。きっと誰もいないわ」ナオコがいいだしたのだ。いたずらな目でウインクして。
 屋上へ出た。柵に近寄り、体を凭れた。柵越しにシドニー市内を一望してみた。コンクリートの地面からニョキニョキ生えた人工の容れ物は、背丈を競うようにして空へ伸びている。ときおり、地上を歩く小さな影を吸い込んだり吐き出したりして活動している。人や車はただの点や四角でしかない。その小さな粒は、とてもゆっくり進み、静止しているようにも見えた。ビルの影は、真っ黒い三角の長い傘を作り、淡いオレンジ色の太陽光を遮った。
「世界中の都会となんら変わらない景色だけど、どこか牧歌的よね。だって、オペラハウスがあんな形をして海に面しているんだもん」
 ナオコは、おれの肩にしなだれかかった。どこか嬉しそうではあった。
「そうやな。ガイドブックには帆船のように見えると書いとるけど。おれにはカブトガニかシャコみたいに見えるわ。へんてこな殻が重なって」
「わたしには、子どもがいたずらして、砂浜に貝殻をいくつも突き立てているように見える。だからかなぁ。貝殻に惹かれるのよ」
「へえ、そうなんや」
「それより、シャコって食べたことないわ。どんな感じ?」
「殻がコリッとして……。味はない。いかつく武装したエビみたいな」
 おれの答に対し、ナオコは変わったことをいった。
「いかめしい形の動物なんてすぐに死ぬわ。いかめしい顔の政治家もね」
「へぇ、そんなもんなんか?」おれは、相槌とも疑問とも取れる声を上げた。
「死ねばいいのよ。そんな生き物たちは。骨になって、灰になって、消えてしまえば。地球は砂漠だけになるのよ。そうじゃなきゃ、海一色になる。そう思わない?」
「砂漠か海? なんでや?」急に話が飛躍し、オウム返しで訊き返した。
「そのどちらかよ。だって、その方が綺麗だし、潔いでしょ」
「うーん。なるほど」半分納得した顔を作ったものの、ナオコがそのときだけ宇宙人みたいに思えた。
「海ってどこまでいっても海でしょ。繋がっているわよね」
「つながってる」
「流れたり、揺れたりして」
「そうやな」
「人も、海みたいに繋がっていたらいいのに。優しく、穏やかに。海が荒れては自然と元に戻る。風が吹き、波が高くなっていずれ収まる」
 どう応じていいのか返答に困った。仕方なく、思いつきを喋った。
「人は海から生まれてきたのかな」
「さあ。難しいことをいわれても、分かんないわ。見て、あの車」
「どれ?」
「ほら、あの緑の車。黄色のバスの前の」
「ああ、見つけた。流れを邪魔しとるやん。あかんなぁ。ちゃんと前の車にくっついて走らんと」
「こういちさんみたいな人を『デイ・トリッパー』というのよ。ビートルズの歌にあるわ。今日はこっちの人の後を追いかける。明日はあっちの人のお尻を追い回す。そんな風に目移りしちゃう人のことよ。わたしの運転する車のお尻にだけくっついてくればいいのに」
「おれが『デイ・トリッパー』なんか? そんな覚えはないけど」
「いいのよ。若いんだから。ここでの体験はよかったでしょう?」
「うん。トリップいうほど刺激的な体験やないけど。法を犯したわけちゃうし」
「そうね。でも、人は海のように流れていくのね」
 首を傾けるおれを横目に、ボソッと呟いた彼女の言葉が胸に刺さった。ナオコの横顔にありありと寂しさが影を落としていた。おれはナオコを後ろから抱きしめてやった。なんでビルの屋上に入ったのか、もうどうでもよくなっていた。
 こういう女は、流されないように、誰かが繋ぎとめておかないといけない。波間に浮かぶビニール袋のようにフワフワとどこかへいってしまいそうだった。そう思って、強く抱きしめた。ナオコのさらさらした髪が首に心地よかった。
 そういえば、思い出したことがあった。ある晩、同じベッドで眠っていたとき、ナオコは夢を見てうなされていた。小さな唸り声が耳元で響き、寝ているところを起こされた。寝返りを打ち、息を潜めて寝顔を眺めてみた。
 暗がりの中、窓からこぼれ出る光。街灯のわずかな光に照らされた、薄黄色の端正な頬や鼻。それらは、目元の微かな上下動に合わせるようにして小じわを刻んでいた。その表情は苦しげで、もの悲しいストーリーを演じる舞台女優のように映った。
「か、彼を、彼を……返して……」
 切ない台詞が耳元でかすれた。かつて愛した人を失った様子を彷彿とさせるようだった。その囁きに思わず絶句した。また同じ思いをさせるのかもしれない不安から、なぜナオコと出会い、彼女の魅力に惹かれ、恋に堕ちたのだろうと真剣に悩んだ。偶然の成り行きが重なって、彼女の魅力に溺れたかもしれないが、日本を旅立つ前から愛する人を探し求めていたのだと思った。
 今と過去の積悪の層が重なり、おれまで感傷的になった。空から風が吹きおろし、ナオコの髪を翻した。もう寒くなったから降りへんか、と理屈をこね、彼女の手を強く握って前へ進んだ。ナオコも感傷に耽るのをやめたのか、素直に歩き出した。エレベーターで二人きりになった。ナオコの顎を上げた。瞳を見つめ合った。寂しさまぎれにキスをした。
 ナオコの豊満な肉体に吸い尽くされるようにして、おれの性欲は消耗した。けれど、彼女に対する愛情は尽きなかった。飽きるほどにセックスをして、尽きないほどに愛した。ひとつ分かったのは、日本人でないとやはりあかんという、極めて狭い了見だった。性欲を感じているときに萎えてしまうのは、リンダで経験済みだった。リンダと過ごした晩、愛情と呼ぶべき概念は火遊びに置き換わっていた。
 ビルを離れた。しばらく歩き広い目抜き通りに出た。ビジネスマンが歩いている。子どもを連れた白人の主婦がゆっくりと過ぎていく。観光客がゆったりとした間隔を空けて通っている。通りのはずれにちょっとした大きさの公園があった。中に入ってみた。一角の芝生の上で、小さな子どもらがなにかの遊びをしていた。
「可愛いわね」
「ああ、そうやね。無邪気や」
「子ども、好き?」ナオコは若い子のよく訊きがちな質問をおれに投げかけた。
「可愛いから好きやで」
「そうよね。子どもはとっても可愛い。子どもは無邪気だわ。悪さをしても許せる?」
「許すというか、他人の子なら許すで。自分の子なら、ちゃんと叱るべきやろうけど。叱れる自信は、まだないかな」
「ずいぶん先のことまで考えているのね」
 ナオコは発言のおかしさを指摘して手で口を隠し、いかにも愉快そうにフフと笑い声を上げた。
「そうかなぁ?」
 少し考えすぎなのか、と気にしたおれは、気恥ずかしくなって地面の砂を足蹴にした。土埃が立ち、靴のかかとに砂が付着した。
「ね、どうする?」
 ナオコは横目でこちらを見た。
「どうするって……。シドニーの空港まで見送ってくれへんのか?」
「それはどっちでもいいじゃない。そうじゃなくて」
「じゃなくて?」
「日本に帰っても会わないのかって」
「それはどうやろ? 先のことはいわないはずやで。会いたいと思たら、会えるんちゃうの?」
「確かにそういったけど。いちど会うくらいならいいじゃない。なーんか、醒めちゃってるひとね」
「ずっとナオコのそばにいたいで。できるなら」
 なんだか照れ臭い台詞を無理にいわされたようで、昼間の月がハートの形に見えた。おかしいな。おれは目を閉じてみた。しばらくたって瞼を上げると、月は普通に薄白い半月だった。
 ナオコはポツリと小声で呟いた。
「楽しかった。この旅行って『ラヴリー・トリップ』ね」
「トリップ?」
「そう、トリップ。こういちさんにとって、今回の旅全体は『トラベル』でも、二人の小旅行は、一つひとつの小さな『トリップ』よ。ラヴリーだし」
 やたらとひょろ長い痩せたオバサンがおれたちに挨拶して、前を通り過ぎた。小型犬を連れている。発情しているのか、よその犬をしつこく追い回している。帽子を被ってジョギングしている学生らしき若者が、腕時計を見ながらスーっと走り去る。日本では見かけない、鮮やかな原色に塗り分けられたインコは、公園の木の枝に止まり、ガーガーガーと姿かたちに似合わない騒々しい鳴き声を響かせている。
 のどかな光景は、ここが田舎の国であるのを象徴していた。暑い夏のオーストラリアで、おれはなにかを掴んだのだろうか。なにかの答を得たのだろうか。
「ねえ。何か考えてるでしょ? 当ててあげようか?」
「うん。いや、たいしたことやないけど」
「日本に残した好きな人とわたしのどちらを取るべきか、考えちゃってるでしょ?」
「外れやな。もっと漠然としたこと」
「漠然? 難しそうね」
 しばらく子どもを眺めていたナオコは、それが最後のようにきつく手を握ってきた。ひんやりした手。太陽に透かされた赤い手の膜が、ぺたんとおれの手に吸い付いた。
 出国前日、ナオコは日本からの友人を空港に出迎える用事で、ブリスベンまで戻らねばならなくなった。彼女はなにも語らず部屋から出ていった。あとを追って見送るおれに涙も見せなかった。ただ無表情でおれを一瞥してバスに乗り込んだ。別れ際にホテルの部屋で口づけをした。未練がましい気持ちが心の奧で空回りし始めた。やっぱり彼女を愛していた。
 シドニーを出る日の朝は、実に爽やかだった。好天に恵まれていた。シドニー市内からシャトルバスに乗り、空港に赴いた。おれは来たときと同じく、一人で空港に着き、搭乗機に乗った。
 交換しあったティーシャツは、大切な思い出の品になった。妻には全く話してない。クローゼットの半透明のボックスにしまって、自分の手で触れることすらしなかった。触れてしまうと、せっかくのあの夢のような日々が一瞬にして色褪せてしまう気がして怖かった。
 日本に帰ってから、なにかをする気が起こらなかった。魂の抜けた気がした。本音をいえば、ナオコを追って、もう一度オーストラリアにとんぼ返りしたかった。ただ、内定していた会社の予定があり、やむなく日本に留まった。蝉の抜け殻になった気分で、春の桜が花をつけて綺麗に咲き誇る様を、東京の下宿の窓からただぼんやりと眺めていた。
 ナオコの残像が頭を支配し、ベッドに入っても眠れない晩が何度かあった。テレビをつけ、旅行の特集やニュース番組を観ては夜更かしした。少しでもオーストラリアが映れば、記憶が蘇った。あそこは行永やダイスケと訪れた場所、別のところはナオコと過ごした思い出の場所、とフィルムを巻き戻すように。黒い四角のどこかにナオコの姿が映りこんでないかと食い入るように画面を見つめて、がっかりするのを繰り返した。百パーセントに近い確率で期待は裏切られた。
 そこに映るのは決まって、現地のオーストラリア人がこちらを向いて笑って手を振っている姿だった。あるいは、満面の笑顔の大学生風の若い旅行者がスキューバダイビングを楽しんでいる姿だった。そもそも、彼女はすでに帰国しているか、知らないよその町で働いているに違いないのは充分承知していた。詳しい話こそしなかったが、そろそろちゃんと人生を決めたいと語っていたから。

 年末に大掃除をした。学生旅行のアルバムが出てきた。いまから二十七年前だ。出てきたというより、未整理のままで段ボール箱の中に積み重なっていた。たくさんの写真は乱雑にページに貼られていた。オーストラリアの各地を訪れた順番に貼り直した。
 思わず手をとめた。あのとき撮ったナオコのスナップに見とれた。リンダとおれの写真を見つめた。ナオコは愁いを帯びた色香の漂う美人で、リンダは鼻筋の通った印象的な瞳の美人だ。あくまでおれの主観だが。
 青い瞳のリンダのことを思い返した。もうおれのことなどすっかり忘れただろう。折り鶴の記憶とリンダの控えめな笑顔に、ナオコと過ごした濃密な毎日が頭の中で混ざり合い、何かを紡ぐように交錯した。
 ナオコはいったいどこにいるのだろうか。なにをしているだろうか。あのときのパーティーを昨日のように思い出した。浜辺でのできごとが嘘のようだった。草むらでの情事で激しい熱さが蘇り、胸が一杯になった。シドニーまでの道中は実に楽しかった。全てが鮮烈に脳裏に焼きついていた。
 妻はおれの過去のことなど知らないはずだった。たとえ知ったとしても、素知らぬふりをしてやり過ごすべきだ。そう思う。最近になって、おれがある女性の(それはナオコのことだが)身の上を案じているのに気づき、業腹な様子だった。態度も少しよそよそしい。嫉妬していないようで、しないようにこらえようとして、やはりつむじを曲げた。
 次の日も掃除に追われ、疲れていた。晩に、リビングで喧嘩をした。おれの過去への拘泥に、妻は気づいていた。もちろん若いときの恋だし、そんなものに嫉妬してないはずなのに、最近までおれが誰かの身を気にしているのに勘づき、機嫌を損ねていた。そのとき、妻は、半分冷やかすかのようにいった。
「あなたって、案外ひとのことを思いやるんですね」
「さあ、なんのことか分からんが」かぶりを振った。まともに答える気は毛頭なかった。正面から相手にしたら噛みつかれそうで、矛先をかわしてみた。「掃除を終えたんか?」
「はぐらかさんとって!」怒っている。裏目に出た。「そうやって、しらばっくれるんやね。謝るなら、いまのうちやで」キッと睨んでくる。
「なんや。脅す気か。なんもしとらんのに」険のある言葉の応酬になった。
「思いやりが一線越えたら、首しめるからね!」
 最後のとどめは、ずしりと胸に響いた。そのとき、バタンと大きな音がして、リビングの扉が開いた。恵美里だ。顔が真っ赤だった。声を振り絞るようにして、叫んだ。
「もう、ええ加減にしてよ! 勉強の邪魔やろ?」
 次女の気持ちを思うと、情けなくなった。
「すまん、悪かった。恵美里を怒らせる気はなかったんや」
「ごめんなさい、恵美里。おとなの話だからね。大丈夫よ」
 おれたちはうなだれ、謝った。恵美里に罪はない。いや、ナオコに関しては、妻と出会う以前の話である。本来、野中家の誰とも関係がない。おれ以外は。
 小声で妻に囁いた。相手だってええ年や。どうせ結婚したにきまっとるんや。友人として、成り行きを心配しとるだけや、と。そういい残して、リビングから出た。不意にどこかへいきたくなった。
 年の瀬の慌ただしい夜中、自宅近くにあるK市内のホテルにいってみた。ラウンジがあり、カウンターに座った。輝くシャンデリアに照らされ、きらびやかに光るグラスの中のスコッチの水割りを傾けた。よく磨かれたグラスが照明を七色に変えるのを楽しみながら、前方一面のガラスに映る老けた自分の姿を見つめた。
 日本でナオコと連絡さえ取れていたら、違った未来が開けていたかもしれない。もし日本で再会していたら、おれの妻は紀代美でなく、ナオコだったのでは。角の生えた妻が後ろに佇んでいそうで、ちらりと後ろを見返した。がらんとしたラウンジに人の気配はなく、気が緩んで、さらに水割りを少しだけ飲んだ。
 飲みにきたくなった理由を思い出そうとすると、わけもなく頭痛がした。これからよくないことが起きそうな予感が胸騒ぎとなって、心を締めつけているように感じた。

   3

 朝陽にひざまずいてお祈りする、例の奇妙な患者の施しを受けたのが一月上旬だった。患者の親族が面会にやってきた。看護師の間で「ミスターX」と呼ばれている患者は、謎の信仰集団に属しているらしい。普通の服装なのに、グレーの覆面やピンクの仮面を被った、怪しげな人たちがどやどやと見舞いに訪れた。彼らはベッドを囲んで手を繋ぎ合い、不可解な呪文を唱和した。最後に両手を一斉に上にかざし、意味不明の言葉を三唱し、ミスターXに御辞儀をしてから立ち去った。美代子さんらの間で、そういう噂が広まっていると師長の博美さんはこっそり教えてくれた。
 ある日、院内の廊下を歩いていると、ミスターXとすれ違った。彼はすれ違いざまに低い声で、「つかれている」と囁いた。なんのことか分からなかった。彼自身のことなのかと思ったが、どうやらおれを指しているらしいと思い始めた。その上、「疲れている」ではなく、「憑かれている」ようなのだ。
 例えばそれは、ナオコが巨大化しトンネルのような大口を開け、おれを丸呑みにする夢だった。終電がなくなって、やむを得ず乗ったタクシーの後部座席の横にうっすらと半透明な白い影が見え、その席が湿り気を帯びていたことがあった。
 院内をひとり歩きしているときに限って、いく先々の天井の蛍光灯がチカチカと点滅しだした。もちろん、それは古い型の蛍光灯が寿命になっていたらしく、新しいのに取り替えたが、あまりに回数が多くて薄気味悪くなった。便所にいくと、閉めたドアの向こうからドンドンドンと激しく叩かれ、便器の中から白い蛇が十数匹ほど這い出してきて足に絡みつくような錯覚を体験したこともあった。
 いや、そこまでいくと錯覚では済まされない。妄想か邪気に近かった。妻にその事実を話したら、「疲れとるんやろ。きっと」と一笑に付された。本当にそれだけなのだろうか。おれはしだいに用心深くなった。
 神社にお参りしてお祓いを受けようかと真剣に悩みもした。心理的な幻覚作用を疑い、院内の心療内科にかかったら、「一時的な疲労でしょう。ひどくなったら、またいらして下さい」とすげなくあしらわれた。
 困ったおれは、ひとつの決断をした。ミスターXの力を借りようと思った。一か八かの賭けに出た。夜の八時に病室を訪ねてみると、彼は読書をしていた。おれは、あらかじめ用意した直筆の手紙を手渡し、読んでもらった。つかれていると評したのはXだったから、おれに起きる怪奇現象を説明し、解決法を教えてもらえると期待した。
 読み終えたミスターXは、ベッドの下に隠してあった黒いビニール袋を取りだし、袋ごと渡してこういった。
「家に帰るまで口をきくな。帰ってからも絶対に口を開いてはならぬ。中身を風呂の中で体中に貼りなされ。方法は中の説明書に書いてある」
 おれは指示に従った。ちょうどインフルエンザが流行していた。鞄の中にあったマスクを掛け、車を走らせて家に帰った。
 家に着いた。怪しむ者はいなかった。黒い袋を、おれしか届かない脱衣所の棚の上に隠した。ひと言も発せずに夜更けまで待った。深夜、家族が寝静まってから風呂に入った。
 裸になり、棚から袋を下ろして手に持ち、扉を開けた。説明書に従い、袋に入っていた赤い粉末を風呂の湯に入れてかき混ぜた。風呂は真っ赤に染まった。袋から何十枚もの黒いお札(赤いペンで書かれた漢字か漢詩が書かれてあり、おれには難しくて読めなかった)が出てきた。
 それらを素肌に貼り付けた。お札は薄っぺらで、赤い水で濡らすと簡単に貼り付いた。耳から鼻、脇に貼った。さらに、股から膝の裏、足のかかとまで全身を覆い尽くすように貼り付けた。説明書に書かれた意味不明の呪文を三唱し、ドボンと血の池の湯に浸かった。
 十秒も経たずに黒いお札はみるみるうちに岩海苔の如くドロドロになり、しまいに体にベットリと纏いついた。おれは湯船の血の池でそのドロドロを手で拭い落とした。
 バスタブの色は、黒色に変化した。その途端、肌がピリピリして、一瞬のうちに体中を電気が走るような痺れを感じた。ハッと我に返ると、何かが抜け出た気分になった。実に不可思議な体験だった。シャワーで湯船を掃除し、残った黒ずみを洗い流しておいた。妙な証拠を残したくなかった。
 それ以来、薄気味の悪い事件はぴたっと起きなくなった。おれは、すぐさまミスターXの大好物の宮崎産マンゴーを二つ贈り届けた。彼はたいそう喜んで看護師を呼び、皮をむいてもらって食べたそうだ。ミスターXはそのあとすぐに退院したと聞かされた。いったいどこが悪かったのか、最後まで聞けずじまいだった。
 十二月から一月にかけて、家庭の問題が一つ解決した。仕事に関しては、一喜一憂する日が続いた。
 家庭内の問題は、妻に関する悩みだった。妻は半年前から更年期障害を患っていた。不眠はさほどひどくないけど、いらいらが起きる。頭痛やめまいもあるのよ、と訴えた。こっちはとばっちりをくった。飯が出てこない。作ってくれなくなった。体調悪いからこれで済ませて、と食卓にメモ書きとレトルト食品が置いてあればまだましな方だった。
 昼間からカーテンを閉めてベッドに寝込み、「財布から二千円取って好きなもん買うて、勝手に食べて下さい。私の分はええから」と冷たくいわれてしまう回数が増えた。困ったもんやと思った。勤めているパートは休職扱いになっているらしかった。
 疲れやだるさがある。やる気がおきない。それが妻の口癖になった。家事は当たり前のようにさぼりがちになった。二人の女子学生を抱え、食事はどうにかなった。体調が悪くなる前から恵美里に料理を教えていたので、恵美里が頑張って三人分と妻のお粥を作ってくれる日もあった。休日には、おれが下手くそな腕を奮って、不味い料理を何度か作るときもあった。
 ただ、家の掃除がおろそかになりがちになった。おれがバスルームやトイレをこまめに掃除しなければならなかった。リビングや自室の床掃除や片付けをした。追い打ちをかけるように、たまっていた衣類をまとめて洗濯するのに追われた。休日は、車のメインテナンスどころではなくなった。家事に一日の大半を費やした。
 あれほど元気だった妻が、しょんぼりと肩を落とす背中を見て、こちらも声をかけづらかった。おれのできることがあれば手伝ってやりたいと申し出た。それは当然だ。見捨てるわけにいかない。放っておくわけにいかない。
 幸い、病院勤めの身分だったから、自分の病院の婦人科を勧めて、すぐに受診させた。昨年の八月だった。博美さんや美代子さんら看護師たちにもお願いし、ホルモン剤治療の効果や副作用の実例などについてアドバイスを聞かせた。
 受診して数か月で効果は見られ、十月くらいから家事を再開できるようになった。「『半年たてば、もっと改善するでしょう』と医者からいわれてん」と嬉しそうに語り、明るさを取り戻した。
 停滞気味だった頃の妻に比べて、ずいぶん家族も気楽になった。負担も減った。めまいや頭痛はなくなった。外出も以前と変わらずできるようになったようだ。
 いいことがあった。莉奈が賞を獲ったのだ。昨年八月に雑誌コンテストに応募した作品が、見事に入選を果たした。コンテストのテーマに沿って、「手紙」を書いたらしい。金賞でなく銅賞であり、少し残念がっていた。それでも莉奈は機嫌が良かった。
 家族みんな喜んだし、卒論を書いている最中で、家族や友人に明るい話題を提供できたとはしゃいでいた。莉奈は、「まさかと思たで」と面食らっていた。副賞の図書カード二千円分は、恵美里に上げた。
「これで、参考書でも買い。私は春になれば社会人やし、本にはあまり縁があれへんから」
 姉の殊勝なひと言に、恵美里は、
「ありがとう、お姉ちゃん。優しいなぁ。きっと、ええ人にまた巡り会えるで」
 と嬉しさのあまり気が緩んだのか、莉奈が彼氏と別れた事実を暴露してしまった。
「こら、エミリ。それは内緒にしといてというたはずやろ。もぉ」
 思わずふくれっ面をしてみせる莉奈は、半分笑っていた。
 体調がすっかり戻った妻は、日曜の朝、ソファーでくつろぎ新聞を眺めているおれに訊ねた。
「なんか、最近、元気あらへんね」
「そんなことないやろ」
「いいや。前は、もっときりっとして、頭も冴えとったで。病院の経理課長やろ。頭切れへんと、務まらへんやん」
「分からん。そうなんか?」
 妻の心配をはぐらかし、おれは新聞を眺めた。中身が頭に入ってこなかった。
「気がかりなこと、あるんちゃうの? 大丈夫?」
「大丈夫や。なんもないって」
「だって。年明けに、電話に出てスマホを落っことしたやろ?」
「そうやったかな?」
「誰か、知り合いに不幸でもあったの?」
「いいや。落としたんは、なにかの拍子に手が滑ったんや。ようあることや」
「そうなん?」
「ああ」
「……。隠しごとを話せというてへんで。秘密を白状せえともいうてへんねんで」
「それで?」
 もぉ、と妻はふて腐れ、続けていった。
「だからぁ。家族に迷惑のかかるようなことだけはやめてな。飲みは認めるとして、ギャンブルに手を出す。借金を作る。女に手を出す。惚れて浮気をする。な?」
「ああ、大丈夫や。それぐらい分かっとる」
「ほんまやろね。私もまだ少しいらいらするときあるし、病気に関係なく怒るときは怒りますよ」
 妻はいらいらしている。おれの態度が煮え切らないからなのか。更年期障害の症状がまだ少し収まっていないのか。判断はつかないが、おれの身になにか起きたのを察知し、かなり敏感になっていた。
 正直、なにがおれの胸を絞めつけているのか、自分ですら説明のつかない状態だった。
 仕事の上では、後輩を褒めたかと思えば、上司に怒られて部下を叱り、上下関係の難しさで苦労を経験した。あちこちのバランスを取るのに躍起になっていた。
 例えば、医事課の大山を朝礼の中で取り上げ、褒めちぎってやった。年始に緊急搬送された患者の氏名や住所、電話番号などを当直さんから引き継ぎ、家族への連絡と応対、入院措置の説明をそつなくこなして接遇したのが彼だった。
「病院事務の鑑です。みなさんも、大山くんを手本にして、日頃から仕事ぶりを見習うように」
 一同から大きな拍手が起こり、「幹部候補誕生や」とか、「大山さん、株上げたね」とか、「正月早々、気分ええぞ」と大山はもてはやされた。中堅事務員の彼は、名前と真逆の小柄な背中を丸め、照れ臭そうに頭を掻いていた。朱美や加藤、晋太郎らも、本当に嬉しそうに拍手を送っていた。
 また、年明け早々、事務室で異臭騒ぎが起きた。朝礼前、みんなが臭い臭いと口々にいい出した。さっそく、おれと永山、企画室長の前澤が大石に呼ばれ、原因を調べるよう命じられた。正月休みの間にいったいなにが起きたのか。なにかが腐ったのか。誰かが異臭のするものを事務室内に持ち込んだのか。
 しばらく、室内を嗅いでまわり、三人の意見は一致した。臭さの原因は、なにか食品関係の腐った臭いである。どこかの引き出しあたりから漏れ出て、年末年始の休みで密閉状態だった事務室の一角の空気を汚しているのだ、と。
 大石の言葉を待たずに、さっそくみんなの許可を得た上で臭いの正体を突きとめるべく、職員の机の引き出しを開けさせてもらった。
「あ、くっさー。ここやで、ここ」
 永山の声に即座に反応して、おれと前澤は振りむいた。恥ずかしさで思わず赤面しそうになった。経理課の若い女性事務員の机ではないか。そのスチールラックの右の真ん中の段が、プーンと酸っぱいような異臭を放っていた。すぐに「もの」も特定できた。食べかけのロールケーキが袋からはみ出して、齧った跡までついていた。ケーキのいたるところに紫色のカビが生えている。情けなくなった。
 事務部長に経理課事務員のだらしなさを叱られた。管理の不徹底を厳しく問いただされた。平謝りした。経理課長として厳粛に注意するようにいわれ、本人を廊下に呼び出した。事情を訊ねると、
「す、すいません。年末にもらったお菓子をつい食べてしまい、時間がなくなって、そのままにして帰って……。あとは……。年末からずっと忘れていました。本当に申し訳ありません」
 やれやれと、ため息をついた。お菓子みたいなものを事務室内で食べるなとはいわないが、余ったらちゃんとラップにでも包んで持ち帰れ。最悪でも、どこかに捨てなさい。そう注意して始末書を書かせた。おれが認印を押して、事務部長の席へ持っていった。
 人間のやることに間違いがあるのは当然だ。一歩手前で気づけばいいのに、とおれも若い頃には思ったものだ。
 最近は失敗を咎める側に回っていたが、この年齢になり、たまには五十男のしがらみから逃れて、気ままにひとり旅でもしたくなるときがある。頑固そうな老人の横柄さにむかつくときもある。先日、このバカ、殴ったろかと後ろから頭をはたきたいことがあった。人間いくつになっても未熟な生き物だ。
 かつてのおれには、何かに夢中になると我を忘れてしまう癖があった。ゲームソフトにはまっていた頃、仕掛かっていた用事を失念して、部屋で長時間ゲームに熱中した。コンロにかけたやかんから蒸気が湧き切って、底を焦がした。金属の焼ける嫌な匂いが部屋に充満して、ようやく気づいた。図書館で調べ物をしていて、昼飯を食べる時間をとうに過ぎたのに調べ続け、持参した弁当が半分腐りかけていたのを食った苦い記憶がある。
 本当に、実につまらない、独りよがりで口うるさい男だった。人のいうことを素直に受け止められなかった。生きていく理由を問い続け、不器用さゆえにいまでも人付き合いに苦労している。
 それを他人には見せないように気を付け、いっぱしの社会人を気取っているだけなのかもしれない。真面目で面倒見のいい課長と、一方では独善的で口達者な中年男。そのジレンマに押し潰されそうになるときがある。
 それを自覚して、高校の同窓会に参加するようになったのは、ここ最近だ。行永や周囲の仲間とにこやかに談笑するのが次第に楽しくなった。ある宴席で行永からじかにいわれた。
「お前は考え過ぎや。もっと楽に生きろ。人間なんて成長する。年とるにつれて丸うなるし、そうかと思たら、合わんと思う人とは絶対に合わんようになる。水と油の仲や。それを凌いで、家族、会社の中でどうにか自分の見られている姿と同化していく。虚像に付き合っていくんや。オレもそう。好かんもんは好かん。それをそうでないように見せて面目を保つふりを続けて生きとるねんで」
 そんなもんなんや、と力の抜ける思いがした。
 ある日、職場宛てに、マユミから手紙が届いた。
「野中さん。お久しぶりです。十年前は失礼しました。二十七年前、ブリスベンの一角で、偶然にナオコという女性と出会いました。日本人の方ですか。私の方から声を掛けたんです。ナオコは、ええ、と答えました。ワーキングホリデーで来ている。いま、ブリスベンのホテルに泊まっている、と教えてくれました。少し歩いて公園があったので、ベンチに腰掛けて話をしました。ふたりとも、たまたま猫好きでした。猫の話で盛り上がって意気投合しました。ナオコは野中さんの話を嬉しそうにして、親しい友人だと紹介しました。その人なら、アリス・スプリングスで一緒にバーベキューをした、写真を撮ったよと打ち明けました。別れ際に実家の住所と電話番号を交換し合いました。私は野中さんより遅れてシドニーに入ったようです。シドニーから大阪まで飛ぶ直通の飛行機で帰国しました。ナオコが日本に帰省したとき、一度だけ大阪で彼女と再会し京都と大阪を案内しました。ナオコの近況が分かればお知らせしますね」
 おれは繰り返し読んだ。手紙の内容はナオコとの出会いを中心に書かれていた。きっとナオコがマユミに心を許して、おれについて何かを喋ったのだろう。本文に、マユミなりの配慮を感じ取った。

 茨木の伯母が入院したとの知らせを、いとこの克哉くんから聞いたのは、一月下旬だった。持病の腰痛がひどくなり起き上がれなくなって、大きな病院で療養しているという。
 土曜の午后、おれは車を走らせ、見舞いに駆けつけた。
 伯母のいる病室は四人部屋だった。ネームプレートで名前を確認し、開いている扉から中に入った。窓際のベッドに伯母がいた。横たわっていた。小さな体がいっそう小さく、弱々しく見えた。
「伯母さん、見舞いにきたこういちです」
「ああ。よう来てくれはったね」ベッドサイドには克哉くんが寄り添っている。
「どうしてまた?」
「季候がようなったやろ。散歩に出とうなったの。朝ベッドから立とう思たら、立てんかったんよ」
「お気の毒に」おれは眉をひそめて伯母の顔色を見た。心なしか生気がない。
「ほんま、かなわんわ」
「早よ、ようなって下さいね」
「風邪はひかなんだけど、腰が痛うて、痛うて」
 伯母は自力で起き上がれそうになく、克哉くんに支えられながらやっと上半身をベッドから起こした。
「入院期間が長引くとね。筋力や体力も衰えるんですわ。克哉くんに介助を手伝ってもろて、少しずつでいいから動いて下さいね」
「ありがとう。こういちくんに見舞うてもろて、嬉しいわ。ほんま、優しい子やね」
「いえ、それほどでも。天国に逝った父が生きていたなら、一緒に見舞いに連れてってくれ、と頼んだでしょう。亡き父の名代ですよ」
「そう。でも、入院生活も日にちが経つと退屈でねぇ。飽きてくるんよ」
 そういって、伯母は窓の外へ視線をやった。二階から見える樹木は枯れ木となり、葉の散った枝が無残な姿を晒していた。
 おれの父が他界したのは四年前だった。心筋梗塞だった。父より三つ下の母は、歩くのがおぼつかない。介護するのがだんだん重荷になり、三年前からケアハウスに入れている。ケアハウスには月に二度、日曜日に訪れる。自分の未来を考えさせられる選択だった。先のことなんて誰にも分からない。
 伯母はいった。
「わたしなんてもう年やし、先は長うない。でも若うして死にはった人もおるやろ。生きるって大仕事なんやで」
 その台詞に心の糸がぴんと弾かれた。同時に二つのことが頭に浮かんだ。例の妙な胸騒ぎがするのと、除霊の施しめいたものを受けたミスターXのことだ。科学では説明しようのない現象が起こるのを学んだおれは、信仰のパワーを共有したくなった。太陽でも、月でも、星でもいい。とにかく、大いなる自然に祈りを捧げ、生きる力を誰かに授けてもらいたいと願った。たとえ祈りが一場の慰みであったにせよ、何かしらせずにはおれなかった。ミスターXは、「我に生きる命を与えタマエ~」といったらしいが、おれの場合、守りたい誰か(その誰かが色褪せた記憶のフィルム上で黒く塗り潰されて思い出せないのだが)に命を与えてほしいという気持ちに駆られていた。
 誰か分からないけれど、その人を治してやりたい、回復させたい。そういう強い情動が心の中で高まった。医学でも神でも治せない病気なら、もはやスピリチュアルな自然崇拝しか拠り所のないように思えた。ただ、その人の顔も、形も、影すら頭に描けなかった。
 伯母に御辞儀をして病室を去ってから、心に明と暗がくっきりと現れた。
 明は、未来への兆しだった。兆しが見え始めたのは、ほんの先週だった。やっとSNSでナオコとつながることができた。なぜか、メモ用紙に、「ミネイシ・ナオコ」と書いてあった。時間のあるとき、SNSで、「峰石なおこ」の名前で検索をかけて、いろいろと調べてみた。ずいぶん探した。ずっと下の方に、やっとそれらしいのを見つけた。
 趣味は、猫好きと貝殻拾い、フラダンスと書いてある。その「峰石奈穂子」があのナオコのことだろうと思った。SNSの人物欄には、猫を抱きかかえた写真が貼り付けられていた。写真の顔にはボカシが入っていてはっきりと分からなかったけれど、たぶん本人だろう。首から下の姿にかつての面影が偲ばれた。
 SNSで「ともだち申請」をすると、向こうから「お久しぶりです」と書かれた返事がきた。二、三日して、短信のメッセージが届いた。おれはそれに目を通し、なんども読み返した。
「あのときはお世話になりました。ティーシャツ、大事にとってます」
 たったそれだけのメッセージは、心の中のわだかまりを捨てるのに充分だった。二月一日付のSNSのメッセージには、
「お久しぶりです。ハワイに住んでいます。もしよかったらお越し下さい」
 と書かれてあった。その一字一句を目で追ったとき、心臓の鼓動は早まった。兆しは心の中で希望に変わった。気持ちが高ぶり、落ち着くまでにしばらくかかった。胸を撫でおろした。ああ、やっとナオコとも繋がりができた、と。なぜかマユミから、頑張って下さいね、とコメントが付いていた。
 暗は、年明けあたりから、誰かに関する記憶が消えてしまったことだった。誰かに関する大事な記憶、その名前すらも頭から飛んでいる状態だった。胸騒ぎと記憶の消失がどこかで関係しているのなら、よくないことの暗示かもしれないと思った。もしかしたら、さっきの伯母の台詞にあったように、若くしてそのまま亡くなったのではという不安を感じた。確証はなかった。
 記憶の断片は粉々に砕けて糸くずのように漂い、思い出そうとして上昇し、すぐになにかに邪魔をされて底に沈み込むのを繰り返した。
 梅の綻ぶ少し前、庭先に名の知らぬ花が木の枝のあちこちに咲いていた。
「お母さん、庭のあの花、なんていうの?」
「蝋梅っていうねんで。花びら、蝋細工みたいやろ?」
「ほんまや。なんか少し厚めで、重なりおうとる。綺麗な花やね。黄色くて」
 恵美里は窓を開け、暖房のよく効いたリビングから寒気のする庭先へとつっかけを履いて出ていった。物珍しそうに眺め、香りを嗅いでいる。
 少し開いた窓ガラス越しに、妻はいった。
「毎年この時期にその花の咲いている姿を見ると、寒いのに健気だわって思うんよ、母さんは」
「ふうん。とってもいい香りやね。あまーい香り」
 妻と恵美里のやり取りに耳を傾けていたおれは、妻のほうがおれよりはるかに季節や自然に詳しくて敏感や、といまさらながらにして思い知った。蝋細工の蝋梅。
 寒いのに健気だわって思うんよ、母さんは――。
 そのなにげないひと言に、夫のおれを助けつつ、娘二人をここまで育て上げた実感と自負と苦労が込められている気がしてならなかった。
 夫婦関係は、互いの生活パターンや心のリズムを乱さぬようにそっとしておくのが大切だと最近目にした新聞の投稿欄に書いてあった。同感だ。おれも、引くところは引くようにしている。逆に、溜めこまないのは妻の方だ。
 いつか、恵美里に耳打ちされたのを思い出した。
「いらいらが頂点に達したんやろか。夕飯が終わった頃に、こっそり二階へ上がったんよ、お母さんが。安そうな皿二、三枚を手に持って、ベランダのコンクリートの床に叩き付けて割っとんねん。めっちゃ怖かった。派手な音が近所に響いとったで。ウチ、そっと覗いとってん」
 思い出しながら喋る恵美里の顔は、どことなく引き気味だった。ときに般若のような顔をして怒る妻は、いまおとなしく家事をこなしている。妻はいつも、料理や掃除、洗濯などの家事を手際よく、要領よくこなしていた。手を抜いてないように見せるテクニックはありそうだが。とにかく最低限のレベルは欠かさずやっていた。ゴミだらけの部屋や、汚れっぱなしの流しを見かけたことはなかった。ゴミ捨ては、おれがやるから確実にしている。
 妻は、息抜きに、近くの喫茶店にいっている。ご近所さんと紅茶を飲むらしい。いろいろと話に花が咲くといっていた。
 受験や一人暮らしで次女のことを心配し、喫茶店であれこれ相談を持ちかけ長話をしている。いろんな方からいい話を聞けた。本当にお世話になった。Yさんのとこなどは、息子が家出同然に飛びだして、東京でフリーターになり、五年もしないうちに大阪に戻った。
 Nさんの坊ちゃんは学業優秀で、いい大学に入って将来研究者になる。目をかけられているのだろう。そういうひとに限って、部屋が乱雑で掃除もしない。ときどき、友人か彼女か知らないが、遊びにきて飲み食いするついでに一緒に片付けてくれるらしい。みんなひとそれぞれだ。
 そんなふうにおれに打ち明けてくれた。しみじみ語る妻の丸味を帯びた肩に、家族の重みがずっしりと載っているようだった。
 かりに恵美里が東京で一人暮らしを始めたとして、どんな暮らしをするのか、どんなタイプの男を好むのか。その辺の話から始まって、大学生活をきちんと送れてお金に困らないのか、友だちとうまくやっていけるのか。本人にいろいろ訊ねた。あくまで先の話だ。恵美里の想像しているイメージだけでも訊きたかった。
「なんとでもなるわ」と気楽に構える娘に、「危ない橋だけは渡るんとちゃうで」というのが限度だった。やりたい道が明確に定まっている状況での東京行きではなく、それを見つけにいくとでもいいたげだった。確かに、人や夢の溢れかえっている大都会だが、生半可になり自分を見失わないようにしてほしいと願った。
 困っても困らんでも、つまらんことでええから、いつでも電話せえよ、とはいっておいた。おれの男ひとりの独身時代の話をよく娘に聞かせた。なにかの教訓になればという親心から。が、いまの世の事情は、昔とはずいぶん違ってきた。分からぬことよろずをネットで検索していく便利さと、迂闊に飛びつく怖さ。よくも悪くもあると思う。
 おれに訊いてくれたら、それはこうなんやでと助言できる。けれど、親の説教よりも大切なことがある。自分で考えて行動し、実際に経験してみることこそ大事やと考えている。簡単に答を教えるような真似はしない。経験こそが本人の理解や納得に繋がり、次になにかにぶつかったときの心構えや配慮、注意、ひいては財産になると思っている。
 グレーのダウンジャケットをニットのセーターの上から羽織った妻も庭に出た。陽当たりのよい庭先に干した洗濯物を慌ただしく、いや手際よく取り込みだした。
 三人のいたリビングはおれ一人になった。開けた窓の隙間から冬の風が吹き抜けて、思わず身震いしてしまった。恵美里の蝋梅の木を見上げる姿が視界に入った。ポケットからスマホを取りだし、カシャリ、カシャリと鳴らす、シャッターの小さな音が小気味いい。蝋梅の花を写真に収める次女は、毎年あるのに気がつかなかった、珍しい物を見つけた子どものようにはしゃいでいた。
 その姿に子どもの頃の彼女の姿を重ね、懐かしさを覚えた。おれはじっと眺めていた。きっとその写真は友だちのMちゃんに見せるか、ブログにでも載せてコメントをつけるのだろうと想像した。寒気の強まる真冬に見られた家族の一風景は、心を和ませた。世代や年齢を超えた共通の感性を同じ遺伝子に宿しているようだった。
 莉奈が大阪の大学を受験する頃、梅で有名な京都の神社へお参りにいって、合格祈願のお守り袋を持ち帰った。いまでも梅と聞くと、神にもすがりたい清らな娘の心持ちに、一枚いちまいの花弁がひらひらとはかなく散って朽ちていく様を重ねてしまう。梅の花の凜として咲いている姿に勇気づけられる。
「ウチも、お姉ちゃんと同じように京都の梅の神社へいきたい」と恵美里がいい出したのは、一月末のことだった。休日を利用して早朝から家を出た。ふだんは紺色の制服に同色のミニスカート、一分丈のスパッツを穿いて自転車にまたがりフルスピードで軽快に通学するけれど、きょうは休みだ。
 いつもと違う私服姿できめていた。ベージュのダッフルコートに赤のスカート、黒いストッキングを合わせていた。インナーには、黒と白のボーダーを着込んでいた。たとえ受験生でも、お洒落に気を遣う女の魂は捨てないんやなと思った。
 恵美里を車の助手席に座らせ、勉強や音楽、東京についての話をしながら、北野天満宮まで車を走らせた。熱心に勉強しているが、予備校の講師の指摘する弱点や間違いやすい箇所を、もうひとつ理解できていない気がした。よい点数のときもあれば、お粗末な点数を取るときもあるという。好きな課目は国語と英語らしい。
 気分転換にケイティ・ペリー、マルーン5、ジャスティンビーバーを聞くそうだ。そっちの方はさっぱり分からない。大目に見ている。実はおれも、受験の頃、レコードをテープに取って、繰り返し死ぬほど聴いていた経験があった。
 予備校の進路指導で、東京の私大受験に希望を出したらしい。A大学の法学部を受けると本人はいっていた。前から私大にいきたいと聞いていたけれど、本気かどうか分からなかった。恵美里の頑張りにエールを送りたいと思った。
 試験日まであと二十日あまり。追い込みの猛勉強期間中だった。たまには息抜きしたいわ、とおれに頼んできた。恵美里は、東京という言葉の響きに敏感に反応している素振りを見せた。瞳の奧がキラキラと光っている。
「お父さんも東京へいってたんや。素敵」
 憧れの大都会へと娘の気持ちは傾いていた。手に取るようにわかった。東京は人と情報の溢れた町だ。大きな駅やその周辺の商業ビルには、目立つようにずば抜けて大きな看板や広告が吊るされている。お金の管理と悪い人には気を付けろ。おれはそう注意した。人と金を飲み込みどこかへ吐き出す、得体の知れぬモンスターかブラックホールのような未知のものに、人は惹きつけられる。おれの抱いた東京のイメージだった。
 現地に着くと参拝客で賑わっていた。ときおり小雪が舞い散り、白い梅の花とよく調和しているなと思った。白梅は満開だった。紅梅はまだつぼみだった。開花した花に顔を近づけてみた。本殿近くの白梅は、実に綺麗に花を咲かせていて、いい香りが漂っていた。
 馥郁たる梅の香りが立ちこめとるね――。
 亡き父が伯母によく語っていた台詞を思い浮かべた。強いていうなら、ツンと澄ましたお嬢様のような、高貴で上品な匂い。それが白梅の香りの印象だった。紅梅の方が見た目は鮮やかだが、白梅と匂いが少し違うらしい。桜は列島をあっという間に駆け抜けるのに対し、梅は各地で早咲きから遅咲きまで楽しめる。見頃の長いのが嬉しい。二人で境内に入った。参道を進み、本殿の石段を上がった。鐘を打ち鳴らして静粛に願いを唱えた。
 儀式を終えた。娘はお守りを買いたいといい出した。また、例のパターンか。姉妹そろって甘えん坊なのは、似たもの同士かと覚悟した。お守りを二個買うからお金ちょうだい。姉のまねをするようにせびってくる。高校生だし仕方がないかと諦め、懐の革の財布から紙幣を二枚引き抜いて渡した。なんで二ついるんや? 訊ねてみた。友だちの分も、とさらりと答えた。
 ははぁ、彼氏の分か。親はお見通しだ。ドライブ中の会話から、それとなく彼氏のいそうな気配を感じ取っていた。東京暮らしの片道切符は、彼氏の進路が影響しているのか。そう思った。
 家に帰ってきてトイレに立ち、洗面所で手を洗った。鏡の中の頭は白髪が目立った。歳を感じざるをえなかった。肩、首がこる歳になった。心の重しがやけに取れなかった。
 雪が降って寒い日になったのは、バレンタインデーだった。事務室の外で、晋太郎は女性らの代表からたくさんのチョコを受け取っていた。おれも朱美から貰った。
 二月中旬、試験日の前日になった。新幹線を使っておれと恵美里は上京した。有給休暇をあらかじめ取った。付き添いで、都心のホテルの二人部屋に泊まった。おれが予約しておいた。ホテルから歩いてほど近いファミレスで二人して夕食を摂り、ホテルに戻った。恵美里は夜遅くまで部屋で参考書を開き、最終チェックに余念がなかった。
 次女は、試験が終わって合格したら、一人暮らしか、寮に入りたいといった。先のことまで計画している様子だった。そう簡単に合格するものなのか、と我が子の学力に首をひねった。
 試験当日を迎えた。なにも声をかけず、気楽な世間話をしてリラックスさせた。上野動物園には、その昔ランランとカンカンと名づけた雌雄二頭のパンダがきて、大ブームやった。父さんは、お爺ちゃんらに連れられて行列に並び、二頭のパンダを人の頭越しに見た。押し合いへし合いのすごい人出やってんで。日本初のパンダ見たさにぎょうさんの人が動物園に来園した、と。恵美里は、もうそろそろ上野のパンダにも赤ちゃんが生まれるかも、と嬉しそうに話した。
 発表が終わったら友だちと遊ぶといって、それは許した。ユニバーサル・スタジオ・ジャパンにいくそうだ。帰りの新幹線の中でも、あのアトラクションは面白いとか、絶対に並んでも乗りたいとか、さんざん思い入れを聞かされ、眠さをこらえて相槌を打った。
 次女には、誰に似たのか甘えん坊でおっちょこちょいだ。先日、予備校にいくとき、生徒用のカードを家に置いてきた。あれで出欠をチェックされ、授業をサボると担任からお咎めがあるねん。彼女はいった。結局、電話でやり取りして、間に合わなかったので妻が届けにいったらしい。あれを買ってくれ、これが欲しい、と成績次第でねだってくるのは常套手段で、小さい頃から変わってない。
 部屋の散らかり方が気がかりだ。友だちが不意に訪問したら困るだろう。だいいち、何がどこにあるのか。あるのかないのか。もう捨ててしまったのか。どこかに移動したのか。それすら、うろ覚えのときがある状態だ。その点に関しては、親としてきちんとしつけなかったと反省すべきだった。
 でもその割に、友だち想いでいい面がある。本人いわく、いじめに遭った子を慰めて勇気づけた。失恋した子がいたら友だちを呼んで、カラオケで派手に盛り上げて憂さ晴らしを手伝った、と。まだその程度ならいい。
 恵美里は、度を越した憂さ晴らしをしてときどき家ではしゃぐ。「はっちゃける」と俗に呼ぶらしいが、飼い猫のケイトのお尻を撫でまわし、好きすぎるあまりケイトの尻のにおいをクンクン嗅いでしまう。そんな変態行為を平然とやってのける。本人はいたって普通にニコニコしながらやっている。とても他人に見せられない変わり者の一面を持っていた。
 お陰でケイトは、毎晩のそのそとリビングにやってきてはお尻を突き出し、恵美里に嗅いでもらうのを要求するようになってしまった。彼女は、「ケイトがウチのことを信用しとるから、こんなに無防備になるんや。ウチのも嗅いでほしいわ」とおかしなことを口走った。
「そんなはしたないこと、いわんといて。人前でいうたらあかんよ」
 妻は汚いものを見るように顔をしかめ、忠告した。
「大丈夫やで。親友のMちゃんにしかいうてへんもん。ウチら、結束かたいねん。『おんなじ猫好きやし、その気持ち分かる』っていうてくれた」
 安心し、開き直っているのを横目に思った。まったく変な子だ、と。その程度の「はっちゃけ」なら許せる範囲だ。動物虐待や不正行為などに手を染めないでいてくれる恵美里を家族みんな信じていた。
 変態つながりで、昔付き合っていたクミという同級生を思い出した。高校時代の話だが、やたらと耳掃除をするのが好きらしく、「マイ耳かき」を持ち歩いていた。ことあるごとに、人気のない場所で室内外を問わず膝枕をして、おれの耳垢をほじった。それともう一つ。おれの傷口にかさぶたを見つけると、小躍りして喜んだ。「うれしい。見っけ。はがさせて~」とねだってきた。顔に満面の笑みを浮かべ、ソーっと人のかさぶたを慎重に、ゆっくりゆっくり剥がしていくのがたまらへんといった。
 最初は、どちらも、愛情表現か綺麗好きなのか、と勘違いした。どうやらそうでないらしかった。「異物」や「不要物」を好きな人から取り除いてあげるのが、趣味というか、快感らしいとあとで理解を示した。付き合った女のうち、そんなことをするのはクミだけだった。
 莉奈は少女の頃から大人びていて、早く自立したがっていた。大学に入るとさっそくバイトを始め、交際費や学費の足しにしていた。大学まで実家を出たことはなかった。門限をとくに課してないのに、友だち付き合いも遅くなりすぎないよう、その日のうちにしっかり帰宅した。自分自身に歯止めをかけられる子だった。その辺はさすがに長女だけあり、如才なかった。勘のいい子である。
 二月下旬、仕事で手をつけていない作業に専念した。気がついたら昼になっていた。ひとりで駅前に赴いた。ランチを食べにいく店は決まっている。行きつけの喫茶店だ。その店は喫煙可能だった。ポケットから煙草を取りだして一服した頃、B定食が運ばれてきた。B定食が大好きだった。
 それを味わい尽くし、再び煙草を吸い出した頃、店内のBGMにお気に入りの曲が流れてきた。小坂明子の『あなた』だった。食後に付くコーヒーを啜りながら、じっくりと歌声に聴き入っていると、「いとしいー あなたはー いーま どこにー」のフレーズが耳にこびりついた。
 ナオコ! ナオコはどうしているのだろう。こんな歳になって、男の象徴のモゾモゾとするときがあるのに呆れた。ナオコのあられもない姿態を妄想し始めたとき、思わずブッと鼻の両穴からコーヒーの汁が吹き飛び散った。われながら恥ずかしくなり、慌ててむせたように取り繕った。なんともいえぬ後味の悪さと情けなさだけが残った。無言で支払いを済ませ、ほうほうの体で店を出た。
 それほどナオコのことを思う気持ちは大きく膨らんでいた。ただなぜか、心の中で沈み込んだ糸くずは、なにかの拍子に舞い上がって虚しく沈下していく気配だった。
 金曜の朝、車にコーティングを済ませて出勤した。家を出るとき、雨は降ってなかった。雨降りのとき、予め、撥水性のコーティング剤をタオルに沁み込ませてフロントガラスを拭いておかなければならない。強い雨降りの日には、ワイパーをかけても視界が遮られ、特に夜間走行では運転しづらい。天気予報を見ると、週末にかけて雨続きのようだった。帰る頃、天気は崩れてひどい雨になった。用心したお陰で、心地良く運転して帰れた。
 雨の土曜日、とくべつにすることもなく、朝食を済ませてから、居間のソファーに座り、ぼんやり外を眺めた。昼前に雨はやみ、ガラス窓には小さい滴の粒が、三つ、四つと連なって筋状の軌跡をあちこちに作った。
 窓を開け、雨上がりの庭を覗いてみた。庭の蝋梅は長く咲いていたが、三月になり、ようやく早春の雨で花びらを落とした。片隅には、英語でハーブと書かれたプランターが置いてあった。木造りの風合いで、色褪せたプランターである。プランターに植えられたハーブの葉が、滴をのせて光っていた。
 近づくと、いい香りが鼻先をくすぐった。妻は、古くなった土を入れ替えてハーブを植え始めた。あれほど、土いじりが嫌だ、と敬遠していたのに園芸に手を染めた。
 動機は、最近になって友人が楽しそうにやっているし、ブログに綺麗なハーブの写真を上げているから、バジルやカモミールは実用的で食べられ、観ても綺麗だから、だという。
 ゴム手袋をはめ、せっせと取り組んでいた。先日、種をまいたカモミールは、水やりを欠かしたことがないと自慢していた。
「いぜん、虫が気持ち悪いから土いじりしとうない、いうてたやんか」
 おれは奥で床掃除をする妻に聞こえるボリュームの声で喋った。
「もう、虫ぐらい慣れたわ。ハーブには、夏が近づくとアブラムシなんかがつくねん。ちゃんと害虫駆除しとるんよ。都会やからそれほどおれへんけどね」
「これが、バジルっちゅうやつか?」
「そこにあるのはカモミール。バジル、もう収穫した。去年の秋に。寒さに弱いねん」
 バジルやカモミール。聞き覚えのある名前やと思った。バジルは食用に、カモミールは観賞用らしい。妻らしいといえば妻らしい選択だった。

   *

「はるばる日本から来てくれて、本当にありがとう。ずいぶんと久しぶりよね」
 ナオコは照れたような少女の笑顔で礼を述べた。本当に嬉しいわ、ありがとう。ナオコはなんども感謝の言葉を口にした。どうぞ座って、と手を差し出して食卓の椅子を勧めた。
「お茶を淹れるわね。ちょっと待ってて」ナオコはそういうと、広々としたキッチンの奥へ消えていった。
 おれは大きなリビングを見回した。天井を見上げると、南国らしい大きなファンがゆっくりと羽根を回して、空気を循環させている。生成り色の大きなソファーには猫が二匹いた。白猫とぶちの猫がちょこんと座っていた。ソファーの猫ちゃんは気まぐれからか、欠伸をひとつして、扉の向こうの部屋へ消えていった。もう一匹も、玄関へ続く廊下に隠れた。
 壁にカレンダーが掛かっていた。サーフィンする若者の写真入りである。きっと旦那の趣味なのだろうと思った。サーフボードは玄関の軒先と、部屋の中に飾られてあった。サーフボードの他に、可愛い猫たちの顔を大写しにしたポスターや、鳥の形に切り抜かれた空のような不思議な絵画が掛けられていた。
 絵が少し気になった。鳥の絵はどこかで見かけた気がした。画家の名前はもちろん、題名すらまったく出てこない。わりと有名な絵なのかなと思った。青空に白い雲が鳥の輪郭で縁取られ、中心に配置されている。その周囲には、雨の降りそうな暗い空と、下の方に白い波が見える。闇の暗示かそれを砕く望みか。どちらとも解釈できそうだと思いを巡らした。
 白い木製の棚の上には粘土細工が一つ置いてあった。三角形の山のようなものだった。こどもが作ったと思われた。顔を近づけてみた。粘土細工には小さな貝が埋め込んであった。貝は絵の具で塗られていた。
 しばらくして、白いお盆に載って運ばれてきたのは、香りのよい紅茶とハーブティーだった。クッキーが付いている。
「どちらがお好み?」彼女は訊ねた。
「じゃあ、紅茶をもらおうか」
 その言葉を受けて、ナオコはおれの前に皿とティーカップを並べた。彼女は食卓を挟んでおれと向かい合った。ハーブティーのカップに口をつけて、おいしいわと呟き、こちらを見て照れ臭そうに軽く笑った。
「まさかこうしてまた会えるなんてね」ナオコは少し考えるような表情を浮かべて、また笑った。「本当に夢のようね」ナオコは満ち足りた表情を浮かべた。少し恥ずかしさを感じたおれは、首を垂れた。
「うん、そうやな」ナオコの言葉におれは頷いた。夢ではなかった。
「最近、どうしてるの?」
 ナオコの問いかけに、とりあえず仕事と家族の話を頭に思い浮かべた。本当にいいたいことは、あとにした。
 胃の痛かった二月末が過ぎて以来、心は少し晴れ晴れとした気分が続いた。
 数えてみたら実に二十七年ぶりだった。シドニーのホテルで別れて以来、ずっと会ってないし、顔も見てなかった。三月の彼岸の三連休に有給休暇の二日を加え、おれはナオコの住むハワイを訪れた。
 十年前、マユミと大阪で再会した。そのとき、少しだけ言葉を交わした。ナオコと親しいはずのマユミの表情に、どこか冴えない影を感じ取っていた。あの日以来、その正体を気にかけていたおれは、ナオコの暮らしぶりを、どうしても自らの目で確かめておきたかった。その感情は抑えられなかった。心のどこかで彼女を慈しむ気持ちが、じわりじわりと広がっていた。
「仕事はぼちぼち。家族も健康や」
「それはよかったわ」かつての恋人は、胸元にかかる髪の毛を後ろへ払った。
 なにかいおうとして口が動いた。出てきたのは、とりとめのない説明だった。
「いろいろな雑念がわいて。なんや知らんけど、こうしてハワイに来てしもた」
 ホノルル空港に到着したのは、朝の十一時だった。ナオコは空港まで車で出迎えてくれた。SNSで教えてもらった番号に電話する必要はなかった。ナオコは恬淡とした表情を浮かべつつ、おれを見て顔をほころばせた。彼女の日焼けした顔立ちに最初は戸惑いを隠せなかった。話をしているうちに、あの頃と同じ無邪気さ、変わらぬ美しさを覚え、時の壁がなくなった。昔のナオコと寸分たがわぬ容姿を再確認した。
 ナオコは薄いピンク色のワンピースに身を包んでいた。駐車場までスーツケースを押して歩き、それを車のトランクに入れた。彼女の車の助手席に座ると、妙に二人の距離が近づいた気になった。車でしばらく走ると、青空と海の見える海岸が目に入った。
 ナオコはわざわざ日本から来たことに、なんども礼を述べた。ドライブがてらに、ハワイの自然や文化、流行りの音楽、通っているフラダンス教室について簡単に話をしてくれた。オーストラリアの思い出は、いっさい話題にのぼらなかった。
 自宅に着いた。車を車庫に入れ、バタンとドアを閉めた。鍵を出し、白く塗られた家のドアを開けた。笑顔でおれを家の中に招き入れた。わたしの仕事はきょう休みにしておいたが、旦那のミハウは仕事にいっているといった。
 建物は二階建ての白塗りの木造だった。椰子の木が二、三本高くそびえ立っている。広い敷地だった。日本なら家が三軒ぐらい建てられそうだと思った。家の中はカラッとした南国の空気に包まれ、香りのよい花の匂いがした。家具は飾り気のないものだった。白い壁に合わせ、白か生成り色に揃えられている。
 ナオコの髪の毛が後ろに撥ねていた。耳が露わになっていた。おれは小さな変化に気づいた。耳につけた赤いハートのピアスである。豆粒くらいのがいくつか連なっている。とても小さな代物だった。
「そのピアスは?」
「ああ、これ? 珊瑚よ。赤い珊瑚。ミハウの見立て。それが似合うよっていうから決めたの」
 ああ、本当に一途な女性やと思った。おれはあらためて、赤いピアスをしげしげと見た。ナオコの黒く日焼けした肌に、ちょっぴり女としての自覚とお洒落心を添えているように感じた。
「猫をずっと飼っとるんか?」差し障りのない質問をしてみた。
「ええ。ハワイに来てしばらくたってからね。ミハウと話して、二匹飼おうって決めたの」
「そっかぁ」
 おれは、猫以外のことは、訊かないほうがいいかもしれないと心のアンテナで敏感に感じ取った。もし、何かの存在があるなら、部屋のどこかにその手がかりを目にするはずだった。
「サーフボードがあるけど」
「ああ、ミハウのよ。ミハウ・シマンスキ。わたしは単にミハウって呼ぶんだけど。彼、サーフィンが大好きでね。はるばるポーランドからやってきて、わざわざハワイに移り住んだの。変わってるでしょ? 長くいるから、外見は真っ黒な体になっちゃって。もうポーランド人のかけらも感じないけど」
 そういって、ナオコは自分からケラケラと声を上げて笑った。
「むこうから声を掛けられたんか?」
「いいえ。友人どうしのパーティーで紹介された。彼、ポーランド人だけど陽気だし、わたしより英語がうまかった。互いに気が合って長話をして、親しくなったわ」
「そうか。それはええ出会いやったな」
「こういちさんは?」
「おれは、上司の勧めで職場結婚した。大阪に戻ってユーターン就職してな。最初のうち、銀行勤めをしとった。でもな。ちょっと嫌気が差して、辞めたんや。病院に転職した。そのうち知り合いの紹介で、大阪の別の病院で働くようになってなぁ。経理をやっとる」
「へぇ。ずいぶんと細かそうなお仕事ね。よそのお金を数えるんでしょ。金額を合わせたり、出納の計算をしたり。大変じゃないの?」
「特に大変でもないで。慣れたらなんのことはない。もう長いから。家族の方が大変や。娘が二人おるねん。受験の高校生と大学生の。いろいろ面倒で。女房も口うるさいし」
 ナオコは自分もそうかもしれないと思ったのか、口元をキュッと結んでみせた。
 こうして膝と膝を突き合わせて喋るだけで、こんなにも生でやり取りできるのかと思った。幸せを感じた。おれには、その束の間の幸福感が、たまらなく心地よかった。
 いつしか、目の前のナオコが若返って、木目調のカウンターに座り、こちらを見つめているような錯覚に一瞬とらわれた。それで、続けて、
「オーストラリアで過ごした日々を、おれはずっと忘れてへんで」
 と話を振ってみた。ナオコは首を左にひねって胸まで伸びた髪を左手で掻き上げた。片方に寄せられた髪の間から右の項が覗いた。ウフフとあのときを再現するかのように艶めかしく口角をキュッと上げた。おれは、誘惑の合図でなく、ナオコ特有の癖なのだといいきかせ、理性を保った。
 こちらがナオコの顔から一瞬だけ視線を外すと、ナオコは、
「オーストラリア……。懐かしい時代ね」
 と時の流れを辿るような目の輝きをした。
 あのとき感じた気持ちを歌にでもして聴かせられたならな、と少し残念に思った。間が空いた。
 貝の話をしてみようと口を開きかけたが、「見てほしいものがあるの」と相手に先を越された。ナオコは申し出た。
「わたしの習っているフラダンスを披露したい。まだ上手ではないけれど、一度見てほしい。自信はないけれど、おれだけのために見せるわ」
「ええよ」
 気軽に答えた。
 ナオコは、準備するからといって、いそいそと向こうの部屋に消えていった。リビングに戻ってくると、白い衣裳に着替えていた。耳には髪飾りを、首にはレイを巻いて、はだしになっていた。
「ふだん、地元の主婦仲間と練習しているのよ」
 楽しげに微笑む彼女の表情は、昔とさして変わらなかった。
 ナオコはオーディオコンポのCDをかけた。ハワイアンミュージックのBGMがスピーカーから流れてきた。彼女はフラダンスを踊り始めた。ガイドブックによると、目の前で踊っているのはアラアナと呼ばれる新しいフラらしい。男女の愛の要素を表現している。
 本番のフラは、ギターやウクレレの生演奏にボーカルも入るの、と彼女はいった。きょうは普段着で簡素だけど、客の前でフラを踊るときは、衣装もカラフルで美しいの。とても華やかなのよ。ナオコは踊りながら、そう語った。
 ナオコは音に合わせて腰をくねらせ、ゆらゆらと揺さぶった。左右に足を踏み出して、揃えるようにもう片方を引き寄せる。手も同様、胸で組んだ手を離し、上や左右に動かし、また引き寄せる動作を繰り返した。
「手つきは虹や雨、花、風、揺れる椰子、波の動きなの。自然を象徴しているの。昨今、フラをハワイでも伝統文化として見直し、ブームになっているわ」
 器用に解説を付け加えながら、フラを踊るナオコの顔つきは、二十七年前のときより生き生きとして見えた。優雅で、底抜けに明るい笑顔だった。陽気な印象さえ受けた。円らな瞳。長い髪の毛。こちらの心を奪って恍惚とさせてしまうような仕草。それらすべてが彼女の魅力をさらに増した。
 優美な踊りに時を忘れ、至福を味わった。大きな窓から差し込む陽光で床にできる濃い影は、踊りに合わせて揺らめいていた。まるでナオコの手や腰の揺らぎ、うねりに操られているかのように。
 ダンスが終わった。髪飾りとレイを外すと、ナオコは隣に座った。彼女はしばらく口をつぐんだ。思いつめたような表情を作った。
「実は、悲しいことがあったの。友人のマユミにしかいってないことよ」
 悲しげな面持ちでおれの顔を見つめた。ナオコは、語るときからすでに目を潤ませていた。

 わたしとミハウの間に子どもができた。ベンと名づけた。子どもが四歳になった頃だった。共働きに育児で、充実した生活を送っていた。けれど、不幸は突然訪れた。休日の夕方、ベンが家の近くの裏道で遊んでいたところを暴走した車が襲った。ベンは車に轢かれた。ベンの、ギャア、と周囲をつんざく声で、わたしは弾かれたように家を飛び出した。ベン、ベンと大声で叫んだ。ほどなくして、道にうつ伏せになって倒れている我が子を見つけ、駆け寄った。
 白い車を視界が捉えた。それは高速で走り、次の角で曲がって視界から消えた。ベンは脈がなく、息をしてなかった。とにかく病院へ連れていかねば。わたしは大急ぎで車を回すと、ぐったりした息子を助手席にもたれさせ、近くの病院まで飛ばした。数時間後、ベンは息を引き取った。なんともあっけない最期だった。
 犯人はまだ捕まっていない。警察は動いてくれた。ブレーキを踏んだ痕もない。道が濡れていてタイヤ痕が見えづらいといった。当日の昼にスコールが降ったのが災いした。わたしは茫然とした。すぐに、はらわたが煮えくり返るような怒り、憎しみ、愛する息子を失った絶望感などが混然となって、一気に胸に押し寄せた。目を瞑って唇を噛んだ。両手で顔を覆った。目からボロボロと涙が溢れ、止まらなかった。ミハウも嘆き悲しんだ。
 それ以来、しばらく仕事を休み、塞ぎがちになった。家に籠もった。ミハウは私を心配し、車であちこち連れ出した。観光スポットや夜景の綺麗な場所、おいしいと評判のレストランや静謐な美術館などへ。献身的といっていいほど、懸命にわたしの心の傷を癒やそうとしてくれた。
 わたしは、ベンがまだ小さい頃、無邪気に拾い集めた貝殻の一部を、あの透明なガラス瓶に加えてやった。しばらくして、パソコンを家に置くようになり、マユミと繋がりができた。マユミに子どもの話を打ち明けた。マユミはメールやSNSで励ましてくれた。ハワイに何度か足を運んで、わたしと会って直接慰めてくれた。
 ハワイの温暖な気候がよい影響を及ぼし、心は次第に回復の道を辿っていった。しかし、悲しいことに、その後、夫との間に子どもを授かることはなかった。子どものいるリンダには、どうしてもいえなかった。

 残酷な運命のいたずらに、言葉を失った。話し終えた彼女はしくしく泣き出した。頬を伝う粒が、いくつもの銀色に光る雫に見えた。それはとめどなく伝って流れた。おれは、ナオコの肩を優しく撫でてやるぐらいしかできなかった。彼女は顔をおれの胸に埋めた。
 ごく自然に、どちらからともなく抱擁した。ナオコの熱い温もりは、ふんわりと蒸せるような特有の匂いとともにおれの胸と腹に伝わった。背中に回した手の所在なさがもどかしかった。落ちた花が水に流され、水は落ちてきた花とともに流れる。そんな気持ちになった。それ以上のことを求められても、あの頃には戻れなかった。
 おれの心に、薄い衣が幾重にも纏わりつき、全体を包んでいた。旅の追憶という色褪せたフィルムは、映写機から放たれた微細な光の霞となり、ただ宙を舞っていた。それは、保管庫に眠る映像資料か日記帳でしかないように思われた。二十七年前の一場面毎に、こま切れの情景が永遠の記憶になっている気がした。けして色褪せない記憶。それに、形而上のスポットライトが当たっていた。
 目の前で踊ったフラダンスは、亡くした子への慈しみを滲ませた一つの物語かもしれないと思った。実際、リビングのスピーカーから流れた音楽の一部は、ハワイで起きた自然災害のときに作られた鎮魂歌よ、とナオコは涙を拭きつつ教えてくれた。
 雨上がりに虹がかかる。ナオコとマユミ、リンダ、おれたち。友人や仲間を結ぶ虹の懸け橋や。風のように、波のように、揺れた心や傷ついた心は、いつしか収まって穏やかになっていくんやで。おれなりに、ナオコに言葉をかけてやった。ありがとう。ナオコは礼をいい、おれの頬に優しいキスをした。
 少しの時が流れて、二人は近況を交わしあった。ナオコは最近、貝殻の名前と形に興味を持っていると教えてくれた。テーブルの上に置かれてあるノートパソコンを何気なさそうに開いた。マウスを操作し、「貝類図鑑」という日本語のウェブサイトにアクセスした。突然、ある二枚貝の写真を指差して声を上げた。イガイダマシだってさ。下には解説項目もあった。
「それ、カワホトトギス科とあるわ。鳴くのかしら? 他にもウグイスガイっていうのもある。変わった形をしてる。ほら」
 ナオコはパソコン画面の貝の写真を、おれのほうに向けてみせた。貝の鳴くのを聞いたことはない。けれど、海辺で貝殻を耳に当てたら潮騒の音に共鳴する、と誰かがいっていた気がした。
「昼を食べにいこう。そのあと、海にいってみぃへんか」急に明るい声を出したくなった。
「ええ、賛成よ」
 ナオコはフラの白い衣裳からピンクのワンピースに着替えた。二人は家を出た。家から車を走らせること数分、道なりに大きな赤い看板のレストランが目に飛び込んできた。ナオコは駐車場に車を停めた。
 少し遅めの昼時のレストランは、客で溢れかえっていた。半分は大勢の観光客で埋まり、残りはハワイの人のようだった。ハワイの観光地で見かける服装には、原色の黄色や赤をベースに、黒や緑の蔓のような、牛肉でいう「サシ」が入っていた。
 おれはステーキの載ったプレートランチを食べた。四角の白いプラスチックケースの中に、ステーキ、雑穀米、ポテトサラダを入れ、ソースにポン酢を選んだ。食べ応えは満点で、腹一杯になった。ナオコはおれの旨そうに食べる顔をときどき覗きながら、自分はブルーベリー味のクリームチーズスコーンを食べていた。
 一息入れてから会計を済ませ、駐車場へ向かった。車を出して、平坦な道をしばらく走った。右手に美しい湾曲のカーブを描く砂浜が見えてきた。ナオコはエンジンを止め、車から降りた。肩からベージュ色のトートバックを下げていた。おれもドアを開けて彼女のあとをついていった。
 キュッキュッ。靴に踏みつけられて軋む砂の音。浜風の匂い。高い青空から降り注ぐ常夏の照りつける陽射し。南国の風景は惜しげもなく、いやおうなしに気分を開放的にした。二人は人々の大勢いる砂浜にやってきた。
 ナオコはトートバッグを砂浜の真ん中に置き、中から大きめのガラス瓶を取り出した。中には大小さまざまの貝殻がひしめき合っていた。コルクの蓋を開けた。白い三センチほどの貝殻を取りだし、右耳に当てた。ナオコは目を閉じた。周囲のざわつきを、彼女は一向に意に介さないようだった。
 しばらくして、声が聞こえる、と小声でいった。とてもうっとりした顔をしていた。それほど満足なら、本当に聞こえたんやろとおれは思った。ナオコの嬉しそうな顔を眺めていた。
「きっと亡くなったベンが、波の声を届けているのね」
「潮騒にベンの声も混じっとるで」
 おれは白波の寄せる砂浜から、沖でじっと動かずに止まったままの水平線にかけての風景を、ゆっくりと目で追った。
「休眠状態とか冬眠のことを、トーパーって呼ぶらしいの。ハワイのお医者さんにいわれた。家に帰ってトーパーを辞書で調べたら、無気力とか麻痺状態って出てたわ。ベンが天国にいってしまってから心が動いてなかったのね。わたしの心は滅入ってた。気持ちの奥底はトーパーなのかな。無気力状態」
 ナオコの瞳の奥に、僅かな銀の水晶玉が光った。
「さぞかし辛かったやろ。でも、ナオコにはミハウがおるやん。二人で失われた幼い命を胸に抱いて生きるんや」
 おれの励ましに、手の甲で涙を拭いたナオコは、
「こういちさんの真っ直ぐさが羨ましいわ」
 と小声でいった。
「闇の色も消えれば朝になるように、ナオコもきっと目覚めていくんやで」
おれは優しく肩に手を置いた。二人は揃って海を見つめた。波風が運ぶ潮の香りに浮かぶのは、二十七年前の思い出、ベンを亡くした記憶……。さまざまな思いが巡っては去就した。
 砂浜に立つナオコの姿を見た。横顔をみつめると、オーストラリアで見せた物憂げな表情とまったく同じ瞳をしていた。悲しみを乗り越えようとしているふうに映った。ふたりは砂浜から移動して、岸壁に並んで座った。
「仕事が忙しくて、これまでビーチにいく機会がなかった。でも良かった。こうして来られて。さっきわたしが砂浜で聴いたのは、ベンからの便りだったのね」
 ナオコはポツリと呟いた。それまでに起きた出来事や辛かったこと、嬉しかったことなど、話せる範囲のことを、まるで親友に語るように喋り合った。日が少し傾いてきた。しなった椰子の木の影は少しずつ伸びた。二人の影は寄り添うようにしてくっつき、長くなった。
 ナオコは、こうして出会えたのもベンのお陰かもしれないわ、と口にした。まるでベンがふたりを引き合わせたかのような口ぶりで。
 小さな男の子のベン。やんちゃで遊び盛りのベン。砂浜にいけば波と戯れるベン。砂の城を作ったかと思ったら、次の瞬間、両足で踏みつぶして喜ぶ無邪気な子。そんなときは、ミハウも一緒になって足で踏みつぶした。ベンを軽く持ち上げて、壊れかけた城の上にベンの尻ごと落として、遊んでくれた。
 砂遊びに飽きると、わたしがやっていたのをまねするようにして、夢中になって貝殻を拾っては一枚いちまいを見せにきた。貝って、いろいろある。ねえ、どうして? わたしは答えた。みんな海の中で、いろんな魚と遊ぶうちに、いろんな貝ができたのよ。魚にもいろんな魚があるでしょう? そうだっけ。ぼく、よくわかんない。そう答えては、また変わった貝、真っ白で形のいい貝を集め出すベン。
 わたしは、まだまだベンと一緒にいたかった。離れていても、親として一緒に生きたかった。食事を作り、教えを守らせ、いろんなことを学ばせる。やったことを褒めてやる。ともに成長していきたかった。
 あれ以来、子どもに二度と恵まれなくなった。だけど、不思議なの。庭に咲く花の一輪。窓から迷い込んで飛んでいる小さな蜂一匹。いつもと違う方角からリビングに吹き込む風の匂い。それらがときどき、ベンじゃないかって思う瞬間があるの。ベンが顔を見せに、天国から降りてきたんじゃないかって。フラにもそういう思想を感じて習い始めたのよ。
 ナオコの紡ぎ出す一言半句もおろそかにせず耳を傾けながら、家族のことを、ナオコの母性愛に照らし合わせて考えてみた。ナオコほどの深い愛情を持って娘たちに接してきただろうか。仕事にかまけて遅く帰宅し、話し相手になれない日が多かったのではなかろうか。反抗期だった頃の娘たちは、おれを避けた。ダサい。うるさい。ほっといて。むかつく。死ね。ずいぶん非難の言葉を浴びた。それはそういう時期だと思って聞き流した。
 うるさくいったつもりはなかったはずだが、結果を見越したようないい方をしたかもしれない。親心、世間的な常識判断から。それらを含めて、親とはそういう存在だと思う。
 その娘たちは、大人になる日が近づいている。まだ大人としての責任能力や判断力に乏しい部分は多い。しかし、社会に出て、嬉しいこと、もっと多くの辛いこと、悲しいこと、寂しいことを嫌というほど経験して、人として生きていける気がする。そんなふうに、家族の歩みを見つめ直した。
 おれはナオコの肩に、また手をやった。
「ナオコは己の宝、誇りともいうべき人物をひとり失った。楽しく遊ばせ、大人のルールを学ばせ、教育を受けさせる前に。そのひとりが全部で、ナオコにとっては百パーセントの自慢やった」
「ええ……」か細い声が、聞こえないくらいに漏れた。
「とても長くつづくトンネルの闇の中にナオコはいるんや。ナオコのすべてを理解するのは、おれにはできへん。ただ、辛いトンネルを抜けて、またトンネルに入っても、いつか先に何かを目にする。何かのゴールが見える。頑張れや。頑張って生きろ」
 おれは励ました。懸命になって彼女を励ました。それしかできなかった。太陽が雲から出て、ナオコの顔を半分照らした。さっきから口数の減っていたナオコは、眩しそうに目を細めて視線を下げた。彼女の顔半分は明るさを取り戻した。
「ありがとう」ナオコは小声で礼を述べた。
 傾いていた日は夕陽になり、そこいら中の海や空を赤く染め始めていた。ナオコはトートバッグを下げたまま、「忘れ物をした」といい残し、砂浜に戻った。戻りながら、夕陽に向かってひたすら走りだした。どこまでも続く砂浜を、ただひたすら走って、走って、走り続けた。ナオコの薄いピンク色の後ろ姿は砂浜で踊るようにして遠ざかっていく。さまざまな国の言葉が飛び交う中、ざわめきにかき消されるようにして音のないまま、どんどん小さくなる。
 おれはしばらく砂浜を逍遥していたが、ナオコの姿が小さくなる一方なのを、どうも不思議に思った。忘れ物ってなんや? まるでおれから逃げ延びようとするかのように走っていく。おれとの思い出すべてを振り切るかのように懸命に疾走している。何かを求め何かを失うのが怖くて逃避しているかのようにおれから遠ざかっていく。
 待ってくれ、ナオコ。おれは慌てて追いかけた。おれは叫びたかった。本当にここへ来た理由を聞いてくれ。貝の話を喋った。大声で年甲斐もなくわめきながら。周囲の水着姿の外国人が振り向くのも構わず、長い間、べらべらとハワイ訪問の理由を付会した。
「ひと月前、貝を拾った。西宮の渚で。なぜ貝を拾ったのか。きっちりと説明する。家に持ち帰って、水道水で綺麗に洗った。机の上に貝の山を広げて眺めた。二百個ぐらいあった。形の似た二枚貝の片割れはありそうやった。明らかにナオコのくれたのとは色や模様が違う。ナオコのくれた真っ白い貝と拾ってきた貝の輪郭にずれがなかったら二人の心の隙間まで埋められる気がした。昔、子どもの頃によく砂浜でやった貝の占いや。けれど、そう簡単にはぴったり合わん。根気のいる作業やった。晩飯を挟んでコツコツやること二時間以上たって、やっと一つの貝の輪郭がナオコのくれた貝と重なった。ミタマキガイという種類の貝らしい。二センチぐらいの長さの貝や。円みを帯びて膨らみが大きく厚みもある。もらった貝とは全体の陰翳もまったく違った。つまらない自己満足のために貝を拾たんや」
 反応はまるでなかった。おれは言葉を継いだ。
「二月に無謀な遊びに熱中したのは、二十七年前にもろた貝と拾ってきた貝の輪郭が一致したら、ナオコの心になにかしらの変化が起きるかもと考えたからなんや。貝の輪郭が一致してハワイにいくと、どうなるか確かめたかった。どうや、分かったか?」
 聞こえたのか、聞こえてないのか、まるで分らなかった。遠くの方で点になったナオコは、止まっているようにも、動いているようにも見えた。別人のようにも見えた。息が切れた。その場で立ち尽くしていたおれは、なおも叫んだ。
「おれのハワイに来た理由、聞こえたんか? 分かったやろ?」
 点はさらに小さな点となった。そのうちに空が黒く曇ってきた。
 突如、大きな青い鳥が現れた。鳥はその赤い嘴で点を飲み込んでしまった。青と白のストライプ模様の鳥は、次第に白雲のような斑に変わった。あの絵と同じやと思った瞬間、どこからともなく現れた蝿の大群が鳥を襲い、体という体を覆い尽くした。おれは呆気に取られ、足がすくんだ。身動きの取れない鳥は、空中でバサバサと羽をばたつかせていた。蝿の群れに体を吸いつくされるようにして、とうとう消滅した。あまりに身の毛のよだつような情景に思わず鳥肌がたった。
 突然雷鳴が轟き、耳をつんざいた。あたり一面は真っ黒と化した。真っ黒になったはずの光景は、よく見ると不規則に乱れた砂紋のような、アナログ電波のノイズ状態だった。点蝿どころではなく砂嵐が目の前に映し出された。
 それでようやく我に返った。五感が元に戻った瞬間だった。体中の水分が毛穴という毛穴から出るほどに、おれの体は汗みどろになった。長い間、自宅のソファーで寛いでいた。頭に装着したヘルメット型ディスプレイの存在に気がつかなかった。
 7Dビデオカメラ(それはCG映像を合成し、頭に装着したヘルメット型ディスプレイ装置で再生する、仮想現実よりさらに進化した人工現実のゴーグル型CG映像装置である)の映像をディスプレイで延々と再生していた。それが現実だと思いこまされていた。ハワイを訪れてナオコの生活を知悉していたマユミが、暮らしぶりをビデオに収め、行永と合作で編集したのかと思った。
 ゆっくりとヘルメット型ディスプレイを外し、床にそっと置いた。おれは日付入りの腕時計を見た。五連休のうち、およそ七十二時間近く、一睡もせずに映像鑑賞をしていたことになる。顎をしゃくったら、無精髭がぼうぼうと伸びていた。7Dビデオカメラは行永の勤める会社の新製品だった。撮影された7Dビデオにメッセージカードが添えてあった。バレンタインデーに自宅に送られてきた。二月十四日は、おれの誕生日でもあった。
「野中さん、お誕生日おめでとうございます。素敵な映像を用意しました。全部観るにはとても長い時間がかかります。見終わるまで何日もかかるので、春の連休にでもじっくり観て下さい 真由美」
 カードにそう書き記されていた。
 ナオコへの追悼と鎮魂を兼ねた、マユミの考えそうな演出だった。思えば、SNSのやり取りを始めたのは年明けであり、ナオコはすでにそのときこの世にいないはずだった。すべて、マユミがおれを喜ばせようとして……。
 7Dビデオは二十一世紀のテクノロジーの精緻を極めた新商品だ。ビデオで撮影した動画に精巧なCG映像を加えて構成されている。人工現実の世界は、本物の現実と見まがうほどに圧倒的だった。目で見ると、前にいるのはナオコ本人の姿そのままだった。肌触りはしっとりしていた。頬にキスされた感覚は生々しかった。抱擁したとき、現実と同じで違和感はなく、本当に触れている気になった。撫でるように優しい声や鼻をくすぐるような甘い匂いも、ナオコに違いなかった。
 ただ、五感を体現できる7Dビデオでも、舌の感覚だけは使うのにためらいがあった。もちろん、ステーキやサラダを、舌つづみをうっておいしく味わった。ナオコの淹れてくれた紅茶を普通に飲めた。ナオコはおれにキスをしてくれた。あのタイミングでなら、おれがキスをしてもよかったと思う。
 しかし、たとえ人工現実で可能だとして、ナオコの体を舐めてはならないと思った。それが仮想現実か人工現実か、現実そのものかは問題にならない。夫と寄り添って生きた元人妻と舌を絡め合う行為や、体の露出した部分を舐め上げるそれは、性的な行為の一部だと思う。不倫したといわれて、否定できないだろう。自宅で妻がキッチンにいるのに不倫してどうするのか。おれにとっては躊躇される不道徳だった。
 けれど、どっちにせよ同じことだった。ハワイになどいってないのだ。おれには分かっていた。ようやく頭がはっきりしてきて、残酷な現実を思い出した。ミハウは二年前にサーフィンで事故死した。未亡人のナオコは、クリスマスに肺炎を患って入院し、年末に病死した。年明けにマユミから訃報の電話が掛かってきた。リビングでテレビを観ていたおれは、ショックでスマホを床に落とし、取り乱した。気づいた妻は、どうしたのと心配そうに駆け寄ってきた。
 夢中で貝拾いをした理由をあえて探すなら、潜在意識下で、どんな形でもいいから死んだナオコにもう一度会いたいという思いがおれを導いたのだろう。不思議なことに、7Dビデオの中で、貝拾いの動機をおれ自身が語っていた。頭の中で記憶が飛んだまま、ナオコとのやり取りに心を躍らせていた。ナオコが帰らぬ人となったやり場のない悲しみの象徴として、糸くずのようなものが浮かんでは沈んでいた。貝殻を探せばハワイで再会できる。そんな夢想に耽り、ナオコとミハウの安否の記憶は閉ざされたままだった。
 すべてが氷解した途端、疲労と虚脱感に襲われた。思わず両手で頭を抱え込んだ。なんで……。なんで、そうなるんや! 心の中で絶叫したかった。いつかの明と暗は表裏一体やったんか。今ごろ気付いた。その晩は書斎に閉じ籠もった。クラッシックの名曲集を聴いて心を落ち着かせようとした。ダメだった。読書をしてみた。やはり、一行も頭に入らなかった。そのうち体が小刻みに震えだし、涙が溢れて止まらなくなった。ただ自失して、床につき、一睡すらできぬまま鳥の声を聞いて朝を迎えた。けだるい体を引きずり、車を遠慮して電車で通勤した。

   *

 年度末を迎えた。三月の春分を過ぎても朝晩の空気はまだ少し寒く、上着が必要だった。日中の陽射しや吹く風は少しだけましになり、町ゆく人々の心や開く花々は、歓喜をもって春を出迎えていた。春本番だ。もうすぐ桜がポツポツと花を咲かせるだろうと思った。
 莉奈は卒業式に出席した。レンタルで袴を借り、いそいそと大学へ出掛けていった。帰って来た莉奈は、弾けるような笑顔を見せた。さっそく着替えて袴を畳んだ。袋に入れ、郵便局に持っていくらしい。ついでに、溜めこんだスマホの写真をプリントしてくるわ。彼女はそういってバタバタと出掛けていった。
 入社まで一週間は遊べ、友だちと三泊四日の温泉旅行にいった。ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに遊びに出掛けた。
 果ては、一緒に映画にいこう、と誘ってきた。彼氏と別れて以来、いいように父親を代用にしていた。ホラー映画にはまっている。平凡だった日々の学生生活に飽きたとき、よくビデオを借りて観ていた。莉奈は嬉しそうに話した。学生最後の春休み、やることがなくて暇だった。とびきり恐ろしいホラー映画を劇場の大スクリーンで観たい。そう話す莉奈に付き合わされた。こっちは意中の人の死の記憶が蘇り、自失しながら機械的に仕事をしていた。辛い日常を早く忘れたい気分だった。
 映画は外国で実際に起きた事件を元にしていた。殺人犯の凶行が凄かった。元恋人を探して徹底的に追いかけ、女を車で連れ去る。森の小屋に閉じ込めて監禁する。五日間水だけ与え、椅子に縛り付ける。
 糞尿を下着から垂れ流させる。口には猿ぐつわを咥えさせる。弱り切った女に大麻を吸わせ、幻覚症状を起こさせる。気狂いの女の体を何度も犯した。劇薬を鼻から吸わせて殺した。
 殺してからが尋常でなかった。犯人は最後に極刑に処せられるはずだが、映画の中ではひたすらやりたい放題だった。
 死んだ女をまるで料理するかのように、皮膚を一枚ずつ、ピーラーとスライサーで剥ぎ取る。それを一メートル四方ぐらいのキャンバスに貼り絵にして、彩色する。キャンバスに糊で一つずつ貼り付けていく。その恍惚とした表情と、画材のように皮膚を扱い、慎重に色を塗っていく冷静さに、狂気の沙汰を見た。
 上映中、あまりに酷すぎる殺人方法に気絶する観客まで出て騒ぎになった。映画の興行は一時中止され、ネットでさんざんな評価を受けた。
 映画の後半、犯人は捕まって裁判にかけられ、死刑をいいわたされる。死後二十年して、貼り絵が評価され、何億円も出して買い取る画商が現れる。売却益を賠償金代わりに受け取った遺族の父親が、金を床に叩きつける場面で終わった。憤懣に満ちた迫力ある表情が名演やと思った。異常変質者のグロテスクな殺人鬼や。虫唾が走り、劇場を出た。
 グロテスクさが面白い。現実にあり得ないことが社会の中に潜んでいるかもしれない。そう思うと体がぞくぞくして、平凡な毎日に緊張感が生まれる。莉奈はそう評して、昼過ぎに入ったファストフード店で平然とハンバーガーを頬張った。一方のおれは、すっかり食欲をなくした。ポテトを数本つまんでは、ぼそぼそと胃に流し込むので精一杯だった。その晩、吐き気を覚えた。
 悪いことにしばらくの間、薄いレースのカーテン、ぺらぺらした下着、ビニール袋などを目にしたら最後、異常な嫌悪感でトイレに駆け込んだ。薄い紙などはまだいい方だった。薄くて透けていると皮膚の一部のように思われた。フィルム、薄いもの、透明か半透明な皮膜などを目にしたとき、触れたときなどには、全身が総毛立った。ひどくナーバスになった。一週間、気が滅入った。職場で、家で、自然と口数が減った。いつも以上にパソコンの入力を間違えた。事務部長から叱責を受けた。
「なんだか、野中課長、元気ないですよ」
 持田から声を掛けられ、心配された。むりもない。愛しい存在の人と再会が実現した途端、追憶と未来の希望、すべてが霞んで消え失せたのだから。ホラー映画の影響も災いしていた。
 アルバムの写真すべては思い出に変わると思っていた。ナオコだけはただの思い出と異なった。彼女と過ごした日々はおれの影法師となり、いく先々で隠れるようにして身を潜めた。ときに先回りして付いてきた。車を運転して帰るとき、助手席のグレーのシートから、「次、どこいく?」と声のする幻想に思わず囚われ、車間距離の縮まるときもあった。そんなとき、後ろからクラクションを鳴らされてようやく我に返った。
 心の中をよく切れる刀でスパッと斬ったら、ミルフィーユのように堆積した記憶の層が現れ、ナオコに関する古い化石や埋葬品がゴロゴロ出土するやろと想像した。
 ここ数日、職場の窓から見える景色は雨模様だった。蛍光灯の光が事務室を照らしていたが、心まで晴れないような鼠色の景色だった。ポツリポツリと降り出した雨は、いつの間にか激しさを増し、ポンポンと音を立てて窓を叩きだした。遠くの方で雷鳴も聞こえてきた。
 気持ちの奥底はトーパーなのかな。無気力状態――。
 誰がナオコのあの台詞を作ったのか。いずれにせよ、おれの気持ちをいい表しとると思った。ナオコは息子を失った。そのナオコをおれは失った。
 雷鳴が近づいてきた。慌ててパソコンデータのバックアップをとってから、おれは画面をロック状態にした。こうしておくと、どんな人間でも、パスワードを画面中央のボックスに入力しない限り、画面を開けない。会計ソフトの数字を見られないで済むのだ。
 気分を変えたくなって、事務室を出た。廊下を通り、正面玄関の自動扉の外へ向かった。扉を開けると、外気は湿り気を含んでいた。かなりの雨が降りしきる中、何人かの大学生と思しき集団が視界を遮った。傘もささずに歩道を小走りに駆けていく。黒や茶、栗色の髪の毛は雨に濡れ、項や額にへばりついている。上着のシャツは水を含んで濃く滲んでいた。若いから少々濡れても平気なんやろなと思った。大学生らはあっという間に通り過ぎ、向かいのコンビニの中へ吸い込まれていった。
 黒い傘を差したおれは、駅へ向かって歩いた。白い街路樹が雨に打たれてけなげに咲いていた。あれは、白木蓮よ。そばで、赤い傘を差した中年女性が連れの女性に話しかけている。そうか、あれを木蓮というのか。白くて綺麗な花だ。そう思った。その色に、ちょうど三月ごろに挙げた結婚式を思い出した。昔の妻の花嫁姿は可憐だった。雨の中、白さの際立つ花に清々しさを覚えた。いまの妻には見る影もなかった。
 通りに溢れる傘の花を縫うようにして進み、駅前のコーヒーチェーン店に辿り着いた。雨粒のついたガラス越しに外から中の様子を覗いた。あいにく満席のようだった。どうしても煙草を吸いたくて、少し周囲をぶらぶらしてから喫煙室の空席を確認して、店の扉をくぐった。
 ホットのブレンドコーヒーをカウンターで注文して、カップのままコーヒーを渡された。それを持って喫煙室に入った。煙草の匂いの充満する部屋で、ライターで煙草に火を点けた。煙草の匂いとコーヒーの香りが入り混じった中でコーヒーを啜った。ひととき、気分が安らいだ。啜りながら、ぼんやりと考えた。
 遺品の貝殻は遺骨とともに灰になったらしい。収納してある貰った貝。燃やされた貝殻。ナオコの骨。どれもみなカルシウム、同じ成分である。燃やせば区別はつかなくなるだろう。墓の中で眠るか、土に返されるか、ハワイの海にでも散骨されるか。
 もしかすると、海の中で珊瑚や貝としてまた蘇生するんとちゃうか。不意に、ルネッサンスの名画「ビーナスの誕生」を頭に思い浮かべた。貝殻から登場したビーナスのイメージは、沈んだ心にいくらかの輝きを与えてくれた。と同時に、考え直した。ナオコのことをいつまでも引き摺ってはならない。過去と訣別しよう。そう覚悟を決めた。
 コーヒーを飲み終わり、カップを返却口に置いて店を出た。雨は上がっていた。高い建物の上に薄い虹が低くかかっていたが、すぐに消えた。傘を閉じ町ゆく人々の喧噪に急かされるようにして、憂鬱と悲しみをひとまず押し殺し、足早に職場に向かった。
 翌日、昨日の雷雨がウソのように、薄い雲の帯ひとつを残して、空は晴れ上がった。事務室の窓から吹き込む三月の風はひんやりしていた。室内の空気を爽やかに変え、開け放たれた別の窓から外へ抜けていった。
 過去との訣別。カコトノケツベツ。
 帰りの車の中で、片仮名の文字を呪文のように反復した。気づくとハンドルを切り、ファミレスに車を入れていた。本当にナオコの死を受け入れ、心の奥を漂う糸くずを取り除けるのだろうか。すぐさま、問いかけを否定した。時間をかけてもいいから取り除こう。取り除ける。いや、糸くずを除去しなくてはならない。
 おれには家族がいる。勤め先の仕事がある。責任がある。おれがいつまでも辛さに打ちひしがれていては、頼られる存在になりえない。気丈に振る舞え。傷はいつか癒える。そう心に念じた。
 行永と会うときがあれば、今回のバースデープレゼントに関しては、平静を装おうと心に誓った。ナオコ名義のSNSを、見られない設定に切り替えておいた。マユミからメールが届いても見ないようにしようと考えた。終わったのだ。すべて終わったはずだ。正確にいうなら、訃報を電話で耳にした時点ですべてを受け入れ、終わらせるべきだった。終わらせなければいけなかった。
 人との出会いは楽しいけれど、必ず別れが訪れる。挨拶できればいい方で、ある日、なんの前触れもなしに、人はいなくなる。死別という一番悲しい、辛いパターンになってしまった。楽しかった記憶は、未練を残して辛い記憶に変わった。その事実は、やりきれなかった。
 写真の中で微笑むナオコ。オーストラリアで出会った若い頃のナオコ。7Dの映像で合成され、ハワイにいた人工現実のナオコ。いずれをとっても、それらしき魅力と面影は、まだおれの心の大部分を占めていた。電話を聞いて、ショックで記憶が数か月も飛ぶほど、おれはナオコのことを思っていた。思い入れが強過ぎた。
 映像の中で言葉を交わした架空のナオコは、貝殻を集め、息子の死を受け止めていた。旦那のミハウは、沈んでいたナオコを救った。泣き出した彼女をおれは人工現実の中でデートに誘い、少しだけ励ましてやれた。それだけで充分や。そう思い直した。ぷっつりと音信が途絶え、孤独に死んでいくより、まだあの7Dビデオを見られただけでよかったと考えを改めた。
 行永やマユミにいいたいことがあった。けれど、彼らとて、親友の気持ちを考えてくれた結果だろう。ああいう心象風景も、新しい人生の別れ方だと納得することにした。
 ファミレスでココアを飲んで心を落ち着かせ、三十分ほどして店を出た。車に戻り、エンジンをかけた。吹かす音が大丈夫、大丈夫と聞こえた。車を走らせると、周囲に目を配り、町の夜景を眺めながら、家路についた。
 玄関で靴を脱ぎ、真っ先にクローゼットに向かった。半透明のボックスの中から、例のティーシャツを引っ張りだした。次に、書斎にいき、アルバムを取り出した。学生時代の写真の数々から、ナオコと写った写真を剥がした。手にその二つを持って、よしと掛け声をかけ、二階の物置に向かった。物置の隅にあったアルミ製の菓子箱にそれらを入れ、古いタンスの一番下の段の奥の方にしまい込んだ。これでいいと思った。貝殻だけをそのままにした。勘のいい妻は、いつもと異なる行動に気づいて、
「あなた。なんか今夜は変ね? いつもとちゃう。怪しい。隠しごとでもあんの?」
 と訊ねた。いや、訊ねるというより、鎌をかけてきた。
「いや、その、仕事や。病院で昔の仕事に使うた古い資料をな、探しとんねん」
 その場しのぎの嘘で応じた。仕事といいわけすれば、経理の数字が並んだ紙の資料か病院の会議記録とでも思いこんでくれるとの甘い計算が働いた。妻はそれを見透かしたように、考え込むしぐさをして、
「なんかあったら、とことん吐かせるからね」
 と凄味を利かせた刑事のように、憎々し気にいった。昼間、木蓮から連想した純白の花嫁姿が、清らで可憐で控えめだった妻が、年月を経ていまや正反対になった。犀のように太く強い角を持ち、我が家を闊歩していた。うっかり、ナオコへの恋慕がばれたら、角を出すどころか正面から突き殺されそうだった。奥に引っ込んだ妻の口から、雨続きで布団が干せないわ、と誰に向けられたでもないぼやきがおれの耳に入った。

 三月終わりの空は曇りがちだった。桜の花がようやく咲き出した。枝のあちこちに花が開き、風にそよいでいる。はつらつとした希望と明るさを散りばめたように。やがて、見頃を迎えるだろう。帰らぬひと、元に戻せない思い出を、すっきり、さっぱり、桜の花びらが舞い散るように、風か春雨に流してもらいたいと願った。
 昨夜、いったんファミレスに寄り道してよかった。三十分かけて、心の中を清算できた。充実感が心の波紋を静謐に戻してくれた。調子は戻ったかに思えた。
 週末の土曜日、書斎でコーヒー片手に、タブレット型端末のパソコン画面を眺めて渋面を作った。病院の経営状況を如実に示す数字が、表計算ソフトのシートの上にびっしりと埋め尽くされている。予想を下回る厳しい数字だった。
 大阪西北病院の竣工は平成十六年度だった。二年後の六月から、医療法の改正により、社会医療法人として認可された。梅田駅から歩いて十五分前後の当院は、新築時六十億円かかり、八千坪あまりの土地に建てられた。地上六階、地下一階の立派な建物である。建物の減価率は五割まで下がり、建物の固定資産税だけで四千三百万円だ。これに坪五百万円の公示価格で計算した土地の固定資産税はおよそ四億七千六百万円に上る。土地と建物を合わせて、一期あたりだいたい一億三千万円の計算になる。税務署から送られてくる四期の納付書の以前の額は、それくらいの数字だった。
 大阪市に納付するのに、四苦八苦した。銀行に頭を下げて融資してもらい、経費の節減に努めたが、赤字は膨らむ一方だった。しかし、医療法の改正を早くから察知して、設立当初からデイサービスやケアハウスの運営など福祉事業を併せておこなっており、すぐに社会医療法人として認可された。莫大な固定資産税のかなりの額は非課税となった。各期に千七百万円の固定資産税を納付しているが、納期以外の八か月では、その金額だけ収入が支出を上回るので、年間を通して六千八百万円ほどの黒字経営に転換している。
 病院の収益はここ数年安定しており、大きな施設建て替えの計画がない限り安泰だった。けれど、将来の施設や建物の老朽化、耐震化に備えて貯蓄に回せる積立額は予想を下回り、なかなか貯まらなかった。昔勤めていた別の病院の経営は苦しく、納税期になると病院収入や蓄えを切り崩し、自転車操業の状態に陥った。そのせいで胃が疼き、食欲も落ちた。いまは、福祉事業のお陰で非課税となり、本当に助かっている。
 前の病院で学んだ経験を実践し、ふだんから病院の各部署に経費節減を呼び掛けている。使わない照明や暖房をちゃんと落とすとか、使い終わった医療器具の電源を入れっぱなしにしないとか、口酸っぱく注意を促している。昔の名残からだ。けしておれが吝嗇だからではない。少しでも黒字を増やして、新しい設備や機器への投資、病院の建て替え費用などに回そうと、病院の未来を視野に入れている。
「大変やろうけど、上手にやり繰りしてくれ。頼むでぇ。信頼してきみに任せとる。事務部門でなにかあっても落筆点蝿やで」。大石の十八番の台詞が耳にこびりついていた。落筆点蝿。失敗や過ちを逆にうまく処理せよという言葉。大石はこともなげに同じ台詞を毎年のように繰り返し、酒席でおれを労った。
 梅の花の咲く二月末。梅雨空を気にする六月末。連休やお彼岸で土産物が事務室内に出回る九月末。年の瀬の華やぎと喧噪の慌ただしい十二月末。それらの時期は、大阪西北病院という私立病院の収支が一時的に赤字に陥る。過去の苦い経験から経営戦略を考え直す節目でもある。それを知るのは、病院勤めの長いおれと少数の理事や事務部長などの幹部だけだった。
 宴の二次会で幹部グループからお呼びがかかると必ず、話題はお金と経営に集中する。病院経営や福祉施策の今後、看護師の確保や人件費、老朽化した設備の修理費用はどれくらいか、新たに老人向け施設を作るため投資するのかといった類である。「頼むで、野中課長」と励まされ、「時代を読み間違えんな」という叱咤激励され、「本当に大丈夫なんやろな」と釘を刺される。せっかくの楽しい酒席も気持ちよく酔えない。一方で、それほどに信頼され、裏方の重責を任されていると自負していた。最近のおれは、いい方に取るようにしている。
 事務室の火種は経理課にあった。今回ばかりは落筆点蝿とはいかへんぞ、と覚悟した。大石の鬼の形相が目の前にちらついた。
 どうやら、持田と女性事務員が付き合いだしたらしい。仕事中、二人は仲の良さそうな素振りは見せなかった。あまつさえ、わざと電卓計算を間違えているという話を耳にした。間違えと男女の仲は無関係だと誰もが思った。誰かがいった。計算違えは、二人で今晩逢いましょうという遠回しの誘いの合図になっている、と。本当かどうか分からない醜聞が立った。無論、本人たちは真っ向から否定した。二人ともどこ吹く風と涼しげな顔をしていた。終業時には正しい計算結果を持ってきてくれて、お金や帳簿類と計算が合致していた。咎めようがなかった。
 持田主任は、女性事務員の計算をそのつどチェックし、帳簿に転記してからパソコンに入力して印刷したものを持ってくる。あるとき、女性事務員と持田のやり取りを、そっと耳を澄まして聴いてみた。おかしいなと疑う余地はなかった。計算に時間のかかっている日は、たまにあった。男女の噂の火種は消えそうになかった。
 それはさておき、三月の年度末に貸借の合計が合わなくなった。火種がこちらにも飛び火したか。最初はそう思った。しかし、単なる電卓ミスでなかった。自分が電卓を叩き、請求書や帳簿をチェックするのはまずない。月次決算の数字をきちんとパソコンに入れていけば、決算期に大きく狂うことなどない。その年度の損益計算書、貸借対照表、キャッシュフロー計算書をパソコンで書き上げ、事務部長に提出して決済を得ればよいだけの話だ。ところが、なぜか数字が合わない。それまで合っていたのに最後の最後になって、なんでやねん。おれは途方に暮れた。なんでや。なにがおかしいんやろか。持田と渦中の女性事務員が素っ裸で抱き合いながら、こちらを指さして哄笑しているような絵面が頭の中で浮かんだ。焦った。焦れば焦るほど、変なことを考えるもんだ。
 調子のええときほど、気ぃ付けるんや――。
 亡き父の口癖が脳裏をかすめた。こうなると大変だ。おれひとりに責任が重くかかってくる。ちょっと待て。ここは冷静になるべきや。月次決算は確認してきたわな。どこかが狂っとんねん。計上漏れか入力ミスがあるんちゃうか。人を疑うのは簡単だ。しかし、自分は課長だ。数字が合わないとうろたえ、持田を呼びつけて問い詰めるのもどうかと思った。ここの数字がおかしい。思い当たる節はないか。そんなことを訊くのは恥だと思った。
 会計ソフトは、エクセル仕様の画面である。おれ以外誰にも見せない。そう決めている。落ち着け、落ち着け。自分にいい聞かせた。ゆっくり周囲を見渡してみた。事務室にいるみんなは、それぞれにパソコンの画面と向き合って入力し、マウスを動かしていた。あるものは電話をかけていた。事務部長に書類を見せて何かを説明しているひともいた。いつもと変わらぬ風景がそこにあった。おれ以外の人間は、ごく当たり前のように、ふだんと変わらずに働いているわけだ。
 大きなトラブルを抱えて周囲に迷惑をかけ、何かの締め切りに追われ、てんやわんやの状態で本人がパニクっていることはなかった。みんな、丁寧に、時間をかけて、やるべき任務にあたっていた。
 一方のおれは、突然乱れた数字を発見し、狼狽していた。なんどか目を凝らしてみたが、誰も開けない経理課のパソコン画面上では、数字が合ってなかった。ややや。神の仕業かピエロのいたずらか? おれに災いをもたらそうとしているのは誰や。おれ自身なんか、持田か。それとも経理課の女性事務員の誰かなんか。
 こんなはずはない。先月、先々月、ずっと帳簿上の貸借は、請求書や入出金と照らし合わせて一致してきた。なんで、最終コーナーを回ったところで無様なことが起きんねん。半ば呆れ、半ば放心状態になりかけていた。部下への猜疑心をなんとか押さえ込んだ。気を取り直し、過去に起きたミスの一つ二つを思い出そうとした。いろいろと原因を考え、腕を組んでは肘掛け椅子の上で貧乏揺すりを繰り返していた。横で見ていた朱美が胡散臭そうな眼差しを向け、
「野中課長、どうかされました?」
 と訊ねてくる。他言するわけにはいかないので、できるだけ平然と構え、
「いいや、別に」
 とすまし顔で取り繕った。すると、彼女は耳元で囁いた。
「なにか、やらかしたんとちゃいますか」
 あけすけな俗っぽい言葉と丁寧語を織り交ぜ、畳みかけてきた。
「なんもない。ほんまになんもあらへんよーん」
 軽い調子で言葉を締めくくった。怪しいなぁ、と古参の彼女は呟きながらも、さっきまで記入していた書類に目を移した。ふう。危ない。壁に耳あり。女の勘は鋭いな。内心、ビクッとした。
 とりあえず、三月だけの試算表にもう一度目を通してみた。おかしい。この月がおかしいんやと思った。すると、ああぁ。あった、と思わず声が出た。間違いを発見した。持田が提出したある日の帳簿の売上金額、「8,487,352円」と、おれ自身が会計ソフトに打ち込んだ売上金額、「8,478,352円」が入れ替わっている。8万7千を7万8千と打っていたのか。しもた! おれとしたことが。焦りと緊張が解け、口元がゆるんだ。全部揃ってくれよ、と願いをこめて入力し直し、みごとに三月の月次決算と本年度の貸借の金額が一致した。ああ、よかった。ちょっとしたミスや。目ぇでも疲れてたんやろな。胸を撫で下ろした。その様子に敏感に反応したのは朱美だった。
「なにがあったか存じませんが、いつもの野中課長の顔に戻られましたね」
 ニコリと、いやニヤリと笑って歯を見せた。
 ばたばたしたトラブルも終わり、ほっとしたら、もう春がそこまで来ていた。
 三月最終週、月曜の朝から会議があった。おれは事務室を代表して出席した。会議のテーマは、「病院経営の今後」だった。事務部長の名代として事務部門の意見を述べた。「総合病院としてどのような機能、役割を担うべきか」というテーマのもと、一時間を超える議論になった。他病院との連携をあげたのは吉村進院長だった。意見を求められ、おれは職員の能力向上が改善や改革を推し進める鍵だと熱弁を奮った。槇野宗市理事長は、組織の目標の明確化、経営の基本を守ること、患者本位の医療体制などを掲げた。多くの軽症患者が当院のような大病院を受診している。急性期医療が窮屈になって現場が混乱している現状を憂えて、大病院志向を是正したいと改めて強調された。
 医療サービスがいき届くこと、職員を大事に扱って育成すること、院内が清潔で綺麗であることなどは以前からいわれてきた内容で、話には出なかった。逆にいえば、当院ではすでにクリアしている条件だった。多くの患者を受け入れる病院として至極当然の前提である。会議は長引き、それぞれの一長一短をいい合い、少々疲れてきた。とにかく、医療政策に対応すること、地域住民の動向や患者の傾向の把握に努めることが、全会一致で決まった。
 堅苦しい雰囲気の会議が終わり、事務室に戻ったおれは、事務部長に議題と概要を説明した。後日、ICレコーダーに録音しておいたものを女性事務員が印刷してまとめ上げてくれた。
 経理の仕事もオフィスワークと同じで、パソコンのデータをプリンターで印刷するのは日常茶飯事である。印刷で紙を使い切ってしまい、補充のため新しいのを棚から運んで袋から取り出したとき、うっかり紙の束で掌を切った。うっすらと出血しておれは机の上のティッシュで血を拭いた。あらためてひとの皮膚というのは薄くて傷つきやすいものだと再認識した。
 その途端、例の変質殺人の手口が脳裏をかすめた。手が震えだした。幻影を振り払おうとすればするほど、皮膚を一枚ずつはがす殺人鬼の映像が頭に浮かんだ。傍に誰もいなかったら、思わずギャーッと叫びたくなる気分だった。ここは落ち着こう。席を外して裏口の喫煙所へ向かった。煙草を取り出し、火を点けて吸ったら少し楽になった。あんなものを観るんとちゃうかった。今になって後悔した。
 もうすぐ桜の見頃を迎えるというのに、雲の低く垂れ込めた曇天ばかりが毎日のように続いた。窓際に座るおれは憂鬱さを感じていた。
 ふと、リンダに会った年明けを思い出した。そういえば、あのときの彼女の顔はどことなく寂しげだった。一月二日のことだった。
 莉奈を連れてなんばへ出掛けた。たしか、その日から始まる新春バーゲンの送り迎えをさせられたはずだった。最初に買ったのが、白地に黒のミニスカート。お目当ての福袋も当然のように買った。福袋の中身はというと、生成り色のコート、紺と白のボーダーのカーディガン、淡いピンク色をした長目のスカート、黒いボストンバッグにその他雑貨などだった。八点入りで一万円だ。
 莉奈は袋を開けて、大喜びしていた。親としては、娘が喜んでくれて嬉しい。が、会計になると彼女はトイレにいくといって逃げてしまった。子どものように甘えているではないか。いつかの宣言はどこへいったんや、とぼやきたくなった。けっきょくおれの財布から出すはめになった。最初から親の金をあてにしていたというわけだ。しっかり者だが、その辺はちゃっかりしている。大小の袋を二つ、駐車場まで抱えて歩いた。荷物持ちのおれは、ひどい扱いやと愚痴りそうになった。
 そのあと、お腹が空いた、というのでどこかで飯を食うかといった。莉奈はどうしてもたこ焼きを食べたいといいだした。適当に空いている店を見つけ、寒い中待っていた。たこ焼きの焼ける匂いと甘辛いソースが香ばしく臭ってきた。
 出来上がった焼きたてのたこ焼きを爪楊枝でつついていたら、傍で、見覚えのある外国人がたこ焼きをふうふうしながら食べていた。隣にはハーフらしき中学生ぐらいの息子が寄り添っている。
「もしかして、リンダさんですか」
 日本語で訊ねると、怪訝そうな顔をする息子をなだめながら、
「はい、そうですよ。あなたは、あのときのこういちさんね?」
 というではないか。間違いない。あのリンダだ。四日前に写真を見たばかりで、すぐにぴんときた。オーストラリアにいたはずのリンダとコテコテの大阪なんばで再会を果たした。なんという奇蹟と偶然の配剤だろうと思った。
 リンダは簡単に挨拶して、語り始めた。
 あれから、地元で結婚した。平凡で幸せな生活に慣れたが、子どもには恵まれなかった。喧嘩が絶えず、夫の浮気から離婚を決意するに至った。辛い選択ではあったが、また独身に戻った。まだ若かったので、仕事と結婚を求めて、ヨーロッパやアジアを旅した。
 いつしか日本に辿り着いた。あらためて日本文化の奥深さに触れた。日本語を学んで大学院に入学し勉強を続けていたら、優しい日本人男性と巡り会った。それが旦那になり、待望の息子が誕生した。
 仕事は、留学生や外国から大阪に来る観光客を相手に、折り紙教室やイベントを開いて、日本文化や紙遊びの面白さを英語で伝えている。
「ちょっとした文化の橋渡し役ね」
 昔と変わらぬリンダは、はにかんだ。流暢な日本語を使って。
「しかし、よくここで会えたなぁ。感無量やで」
 おれはしみじみいった。そうね、と相槌を打った彼女は、
「ああ、そうそう。あのあとナオコと会ったのよ。知らないでしょう?」 
 と唐突にナオコの名前を口にした。おれは、顔が熱を帯びるのを感じた。
 出会ったとき、ナオコの過去を打ち明けられた、とリンダは語りだした。
 二十八年前、ナオコはゴールドコーストのビーチで遊泳中にクラゲに刺された。偶然、ライフセイバーのジャックというオーストラリア人の若者に助けられ、そこから二人の交際が始まった。
 だが、ジャックののんびりした性分に辟易して、あまつさえ女癖の悪さゆえに耐えきれず、半年たたぬうちに潮時だと心に決めていた。それでも心のどこかでジャックを愛していた。
 しばらくして別の女が現れ、ジャックを虜にして奪っていった。悪いことに、付き合いだした頃、彼に三千五百オーストラリアドル(日本円にして三十万円弱)を貸したままにしていた。別れるとき、ジャックに返してよと申し出たが、返してくれなかった。
 手持ちの金が底を尽き、銀行から借金していたナオコのとった手段は、手っ取り早く、金持ち相手の娼婦で稼ぐことだった。一日当たり百ドルいけばいい方だった。
 体を売り、身も心も疲れ果て、アーリービーチのパーティーにいってみたら、こういちさんに声を掛けられた。真摯そうな彼ならば、あのままついていってもよかったと後悔した。
 そんな一夜の幻想も現実にならず、あの朝、白波が寄せる海を眺めてミートパイを食べていると、またばったり出くわした。とても嬉しかった。
 国道沿いを歩いていると、私に出くわし、身の上話をした。昨日パーティーで出会ったこういちさんのことを話した。好感の持てるいい人だ、と。
 ナオコの輪郭にくっついている影らしきものがなんとなく判明した。出会う以前の秘密をいえずじまいで、出会ったばかりのリンダになにかのはずみで喋ったらしい。
「私は、ナオコの惚れた男性は、自分に鶴を折ってくれたあのこういちという旅行者じゃないか、とすぐに思ったわ」
 リンダは当時を振り返った。おれは思った。リンダは、ナオコの惚れた男と分かった上で、おれに抱かれたのか。ナオコは、さぞかし、心のつかえがとれてすっきりしただろう、と。おれがナオコの影を薄めてやれるならば、心の闇を照らしてやりたい。そう願った。彼女の生き様は哀れで切なかった。
「ナオコは知人の勧めでハワイに移り住み、そこで働きながら借金を返し終わった。そのあと、ミハウ・シマンスキというポーランド人の旦那に巡り会ったらしいの。家を買い子育てして、五十を迎えたというわけよ」
 リンダは語った。リンダはたこ焼きを食べ終わり、ペットボトルのお茶を呑みながら話を続けた。
「ハワイに移り住んだ話は、メールで知ったの。互いに連絡を取り合っていてね。ナオコは旧姓がミネイシ。結婚後は、ナオコ・ミネイシ・シマンスキと名乗っているわ。ミハウは実業家で、ハワイで不動産会社を経営している。社員はそんなに多くないけれど、物件を案内するでしょ。いつも車を飛ばしてはあちこちを回って、とてもタフに仕事をこなしている。ナオコも地元の観光局で事務や受付をして働いているわ。彼女は、ミハウの休みがまとまって取れると、たまに日本にも来るらしいの。波のある海まで出掛けて、サーフィンをした。貝を拾うこともあったって。二人ともこよなく海を愛しているのよ」
 リンダは丁寧に説明してくれた。いまになって記憶をたどると、リンダはどことなく暗い目をしていた。ナオコの話を手放しに喜べないような表情で、どこかに引っ掛かりのあるような遠い目をしていた。彼女は御辞儀をして、息子と去っていった。
 大人の事情を察したように、莉奈はわざとその場を外し、ハーフの息子の相手をしてくれていた。パパ、お友だち? 莉奈はやり取りを聞いていたわけではないが、父親の一面を表情から読み取ったように顔を曇らせた。
 そういうことだったのか……。事情を知っていたら、ミハウに出会うまでにナオコを日本に連れ帰り、交際を申し込んだものを。ミネイシという名字をその日に知り、家に帰ってメモ用紙に書き留めた。それからすぐに、マユミから電話があり、訃報で頭は混乱した。
 車で家に帰る途中、莉奈はおれの心の動揺に気づいた様子だった。
「いい思い出は、ときがたっても美しいんやろね」
 知ったかぶりをして髪の毛をいじっている莉奈に、
「人は流されて生きていくんやで」
 と意味深長に応じた。莉奈は、へぇ、と感嘆の声を漏らした。
「なんか深い。でも、若いうちが花やで。過去より今や。今、今。買った服、いつ着ていこうかな」
 沈んだおれを励ますように、いつものように明るく振る舞った。
 帰宅して車庫に車を停めた。エンジンを切りドアを開けると、外の寒さが首や袖口から入り込み、冬なんやな、と改めて思った。
 ドアを開けると、恵美里が久しぶりに、「お帰り~」とさっそく大声を上げて出迎えた。おれの持つ福袋に、興味津々なのが声と目つきに現れていた。若い女の子らしい振る舞いだと思った。玄関にどさっと紙袋をまとめて置いた。恵美里はさっそく袋の中身を物色しだした。気に入ったものを引っ張り出しては、黄色い声を上げた。
「うわぁ。このコート、ウチも欲しい。それと、ボーダーのカーディガンも素敵!  ピンクのスカートも可愛いわ。これ全部で一万円なの? 得やねぇ。いいなぁ、お姉ちゃんばっかり」
「仕方ないやろ。恵美里はまだ受験生の身分やし。大学入ってからお洒落しても、別に遅くないやろ?」
「だってぇ……」恵美里はため息交じりに、肩を落とした。
 年明けの様子を、本の頁をめくるように思い返した。

 新年度になった。新しい職員が入ってきた。院内を案内する姿が目立った。
 第三週目に、各部門で歓迎会が行われた。新人の醸し出す、初々しく溌溂とした空気に触れると、どことなく背筋をぴんと伸ばしたくなる。
 事務部門も、新人の歓迎会が梅田で開かれた。洋風居酒屋の宴席でおれの隣に座った朱美はやたらと席を空け、晋太郎のいる場所にお酌をする目的で入り浸っていた。色目を使って、「こんど、いつ会えるん?」などと甘い声で上目遣いに彼女は訊ねた。晋太郎は周囲を気にしながら、鞄からスマホを取りだし、指をスマホの上で滑らせ、やり取りを始めた。
 晋太郎は誰もが認める長身イケメンの王子。性格も温厚で優しく、なにかと機転が利いた。女にたぶらかされない限り、将来、事務部門の幹部を担う若手エースである。三角顔に垂れ目気味で、口は小さい。その甘いマスクを雌猫たちが狙っていた。
 先日も、こんなことがあった。ふだんからみんな、各自でマイカップを決め、それで茶などを飲む。自らゆすいで洗い、乾かしておく。
 ある日、西北病院にひとりで納品に来た業者と応対した晋太郎の話が少し長引いた。Tさんがお茶を運んだ。盆に来客用の湯呑み茶碗を二つ載せ、テーブルに置いた。業者と晋太郎は湯呑みに口をつけて茶を啜った。
 話が終わり資料を抱えた晋太郎の元にTさんがそれとなく近寄って、「私の淹れたお茶、おいしかったでしょ? しんくん」と馴れ馴れしくにやけた。飲み干した晋太郎の方の茶碗の縁を指で擦り、ペロリと指を舐め上げた。
 顛末を見ていた受付は、重大事件を他の事務員に漏らした。みんなTさんにおかんむりだった。Tさんは晋太郎ファンの抜け駆けをしたと陰口を叩いた。
 それがどうだろう。朱美は酔いに任せて、晋太郎に接近している。朱美と晋太郎は、そういう仲だったのか。少し面食らった。急に病院辞めますなんていい出すんやないやろな。心中で牽制した。朱美は総務の要。気になるのは、ここ数か月の朱美の変化だ。妙にのそのそしてきた。階段も使わなくなった。まあ、そのうちに尻尾掴めるわ。そう思った。
 翌週の月曜日、新年度の仕事で仕掛かりの作業に取り掛かった。なにごともなく、時間だけが単調に過ぎていった。昼を過ぎ、穏やかな春光が束になって事務室の窓から差しこんだ。眠くなりそうだった。事務室の空気も、気のせいかどんよりと淀んでいた。気が緩みそうになり、じっとしていられなくなった。持田が帳簿を持ってくる夕方までにやることは午后の二時で終わっていた。することといえば、三月の会議録の取りまとめと課題点について報告書を作るだけだ。
 あの映画以来、おれはびくびくしながら仕事をしていた。四月の風が窓を吹き抜け、カーテンがひらりと舞う。レース……。また、体がわなないた。肩や膝が小刻みに震えた。
 昨夜、テレビのCMを何気なく観ていた。結婚式の場面が映し出された。花嫁の薄いレースのベールが皮膚のように思えた途端、目を固く瞑った。衝動的にリモコンのボタンを押して電源を切った。
 先日も、ニュース番組で医学の発見があり、その解説図として細胞膜が映し出され、目をそむけた。相当な重症だろうかと思って、誰かに話したかった。
「ひとを始め、生き物全部、薄い膜で覆われた物質の集まりやで、きみ。気にし過ぎや」
 事務部長に相談したものの、当たり前のように笑われた。そんなことぐらい中学生でも知っている。恐怖症状を和らげる手がかりでも訊けるかと勘違いしたおれが馬鹿だった。
 院内の心療内科を再び訪れた。医者を前に症状を説明し、「パニック障害ですか」と訊ねたら、いくつか質問をされた上で、「息苦しさや動悸が起きないなら、大丈夫でしょう」と先生はにこやかに笑われた。
 後日、カウンセリングでなんとか症状を克服したものの、ナオコの記憶が一時的に飛んだ理由は不明だった。記憶が戻ったあとの憂鬱さも特に病気でなさそうだった。
 気を取り直して新年度の課題について考えた。名案が浮かばない。少し外出して考えてきます、と大石に告げ、院外へ出た。町を歩いた。リクルート姿の大学生と思しき連中が固まって移動している。ああ、あんな時代があったなぁ、と懐かしく思った。
 お決まりの喫茶店へ入って一服した。煙草をくゆらし、コーヒーを啜りながら思った。新人の莉奈が早く仕事を覚え、社会生活に馴れてほしい。ケアハウスに入っている母も、おれの若い頃、きっと同じことを思っただろう。春の空を漂う雲を眺めて。

   4

 卒業後、おれは地元の持つ力、愛着と地方の良さに吸い寄せられるようにして、関西に帰り就職した。いまは、梅田のとある一画で働いている。
 アデレードから走る特急列車、エアーズロックという一大観光地、同じバックパッカーの日本人の男。それらがおれ、行永、ダイスケ、テツオを結び付けた。共通点がいくつもあった。
 何の約束も交わさず、ときには揉め事も起きた。目的地まで共に寝起きして行動できたのは、長旅の不安と退屈を紛らすいい話し相手になったからだと思う。エアーズロックの近くでも、日本人の仲間ができた。
 その中にマユミがいた。オーストラリアの夏の風物詩、バーベキューに参加したくなったのは、同じ境遇からくる安心感や連帯意識が働いて、気軽に集まったからだ。どちらも、オーストラリアという土地の持つ魅力に惹かれて、たまたま出会った。
 一方、ナオコ、リンダと深い仲になったのは自分の人の好さからだと自己分析した。ハンカチで拭いてやった。ティーシャツ交換もした。折り鶴を折って日本の慣習を教えた。無視して通り過ぎる人もいるだろうに、放っておけなかった。
 ダイスケ、テツオ以外の男女五人に絆と呼べるものができたのは、マユミのお陰だった。彼女の持ち合わせた美貌に行永が惹かれ、社交的な性格からオーストラリアでナオコ、リンダと友人になった。それは想像がついた。そこから先、どうして女三人が接近したのか不思議だった。
 あるとき、マユミがおれに会いたいといってきた。仕事帰り、メールでマユミを呼び出して広田のバーに誘った。
 彼女は自身のことを喋った。本当は寂しがり屋なのだ、と。いつも人に囲まれて過ごしたい。だから、社交的で目立ちたがりといわれるのかもしれない。それでいい。ひとりぼっちになるのは嫌だ。彼女は薄暗いバーの中で、自身をそう評した。
 ナオコの実家やリンダの自宅を聞き出し、休暇を利用してわざわざ逢いにいったと話してくれた。そんな内面や行動を、おれは知るよしもなかった。ナオコのことも、ポツリポツリと回想してくれた。
 話に耳を傾けながら、おれはナオコのことを考えた。哲学の主題がひとに関することを扱い、個々の人間の価値観を育てるものだとすれば、ナオコの価値観は永続不変なものに憧れるものだと考えた。
 若いときに男で苦労し、借金を返した。せっかく手に入れた家庭でも、最愛の息子を事故でなくし、子どもに恵まれないという不幸を背負った。不幸の連鎖を断ち切れず、薄幸だった。とても辛い人生だったように、傍からは見えた。
 その人生から、自分が大切にしたものを次々となくしていくなかで、形のあるもの、今手にしている幸せより、心のなかでいつまでも生き続ける記憶や思い出、友人との交流に価値を見いだしたのではと推察してみた。
 ナオコの生き様はときに哀れで、悲しく見えた。つかの間の幸せも消え、息子をなくした。けれど、本当にそうなのかは本人しか知り得ないに違いなかった。
 ナオコの欲望の対象は、あくまでおれから見た主観では、異性であり、家族だった。が、男と遊ぶのも、家族を持つのも、寂しさを紛らわす手段のための欲望で、本当に得たかったものは、永遠の友人やわいわい騒げる仲間、常夏の海辺など、自分のもとから去らない自然や情景、忘れない思い出ではなかろうか。そう慮った。自分の手からスルリと落ち、なくなってしまうもののはかなさを嫌っていたようにも思う。
 ナオコの辿った人生は、若いときから苦労を重ね、傷ついた経験を積み、永続的なものを求めては寂しさが彼女を支配する構図の繰り返しのように捉えられた。
 それと比べて、おれの価値観は刹那的だった。仕事だけはきっちりし、家庭と職場に生き甲斐を感じるものだった。
 おれの欲望の対象は、女と地位、少しの酒と家族だった。それは、明日への活力源として女を抱いた若い頃、世間に認められたいと願い、出世を目指した三、四十代、酒と家族をよすがとして、長く不変で確かなものを求めた安定志向の今に至っている。
 いうならば、男女の欲望の典型がおれであり、ある意味、楽天的な生き様だった。
 先に帰りますといいだしたマユミをバーの出口で見送ると、席に戻った。黙っておれたちの様子を見て見ぬふりをしていたのだろう。広田は、お知合いですか、とだけ訊ねた。
「古くからの付き合いや。学生時代の元恋人の友だち」おれはそう告げた。
「そうだったんですか。懐かしかったでしょう?」
「まあね」
 ウォッカのロックを注文した。しばらくして出されたグラスの酒と氷をかわるがわる舐めるようにして味わった。広田を相手に喋った。
「人が人に出会うのは、偶然か縁なんかなぁ」
 おれの呟きに、そうですね、と小声で応じた広田は、
「浅い縁。深い縁。運命ですかね」
 と何かを探るように付け足した。おれは、運命ね、と深く息を吐いた。
「運命がいつしかうごめいているうちに、偶然の縁が必然になるんやろか。さっきの美人の女性、マユミっていうねんけどな。オーストラリアで卒業旅行中に会うたんや」
「ほう」
 広田は口をすぼめ、物珍し気に少し身を乗り出してきた。それで、と促した。
「彼女が同じ大阪界隈で働いていて、奇遇にも、ある居酒屋で十年前に再会を果たした。旅行から十七年もたっていてなぁ」
 酒のせいもあり、口が滑らかになってきた。広田は感心した面持ちで、
「会える人にはなにかが働いて、会うタイミングっちゅうもんができるもんですなぁ」
 としみじみといった。
「ほんまになぁ。マユミという存在が強い力で、オーストラリアで知り合うた仲間を引っ張ってくれたんや。譬えたら、天体ショーで目にする流星群みたいなもんかなぁ」
「なるほど。スケールが大きいですね」広田は少し驚き、目を広げてみせた。
「とにかく、そういう存在がおれば、人は離れていても繋がんねんな。そう思た。また、何年後かに、誰かと会えると思うと楽しみや」
「良かったですね」広田も調子を合わせ、機嫌よくおれの話に付き合ってくれた。
「そうやな」
「そうですよ。今夜は、いい顔してらっしゃいますよ」
 気分が良くなって、少し眠気が出てきた。店を出た。深夜だった。駅ビルの一階まで降りた。タクシー乗り場まで歩き、タクシーを拾った。自宅までタクシーに揺られていると酔いが覚めてきた。十年前の状況を振り返ってみた。あのとき、マユミに会った。
 行永正は、おれの高校の友人だった。東京に本社を置く大手電機メーカーのエンジニアである。彼とは気が合った。大学は違ったけれども、折に触れてどちらからともなく誘い、二人で飲みにいく仲だった。彼は、入社後数年、関東にいた。そのあとは、ずっと大阪支社で勤め上げている。
 飲んでいるときの行永は実に気さくだ。昔話や職場でおきた失敗談などを、許せる範囲で面白おかしく語ってくれた。
 十年前の三月、梅田で行永と飲んでいたときだ。
 ふと向こうのテーブルを見ると、マユミらしき女性がグループの中にいるのを見つけた。背広を着た男たちの集団の中で、ひときわ目立っていた。
 店内の奧にあるトイレに立ったとき、偶然を装って声を掛けてみた。やっぱり彼女だった。偶然ってあるもんや、と思った。マユミさん、と呼びかけて手招きしたら、こちらに寄ってきた。
「野中こういちです。お久しぶりですね」
「え、そういわれても……。あの……」
 急な挨拶に戸惑いながら、嬉しさと困惑の陰翳が顔に出たのをおれはしかと見た。それを隠すようにして、すぐに思い出そうとする表情に変わった。
「オーストラリアのアリス・スプリングスで一緒やったやろ? ほら、日本人の男女十人ぐらいでやったバーベキュー」
「ああ。あのときの野中さんね。お久しぶりです」
 思わず顔がほころんで緊張の解けたマユミは、「どうしていました?」と訊ねてきた。ほんの少しだけ、おれの昔と近況を告げた。マユミは愛想よく喋って微笑んでいたが、どこか決まり悪そうな気配を感じた。向こうで、マユミさーん、と呼ぶ声がした。
「知り合いか?」
「ええ」
 じゃあ、と彼女は席に戻り、手を振ろうとした。が、なにかを思い出したように、また中座して、こちらに近寄ってきた。携帯を鞄の中から出してきて、その場でメールアドレスの交換をした。携帯には白い猫のストラップがくっついていた。おれは名刺を渡した。
 大阪で働いているのかな。まだ独身なんやろか。それとも結婚はして――。
 あれこれ考えながらトイレで用を足し、自分の席に戻った。行永は、
「野中。ぼんやりした顔になって。なんかあったんか? 酔いでも醒めたか?」
 と訊いてきた。
「いや、まあな。仕事のことを考えとって。さあて、もう一杯頼むとしよう」
 取り繕ったおれは、四分の一ほど残った焼酎のグラスを飲み干し、近くを通った店員に、同じものを注文した。おれは二、三の仕事に関する煩わしさを例に挙げて、どうにかやっているとまとめた。
 唐突だとは思ったが、話を変えて、さっき目にした光景を語ろうとした。
「行永、十七年前の旅行を覚えているか? たしか、オーストラリアできみにばったり会うたやろ?」
 心の中に古い記憶が満ちた。
「ああ、あのときか。エアーズロックへ向かう列車の中で。エアーズロックに登って、バスに揺られたな。温泉やダーウィンへ行ったっけ」
 おれは大きく首を縦に振った。彼は昔の記憶をたぐり寄せ、口を開きかけた。それを待って、おれは続けた。
「アリス・スプリングスでバーベキューしたマユミが、そこにおるねん」
「えっ! あのマユミがおった? そこって、ここか?」
 行永は、半ば信じられないような面持ちで、おれの顔をまじまじと見た。彼はずいぶん目を白黒させていた。それが演技だと見抜けなかった。
「そうや、店の中。奥のテーブル席におるやろ?」
 おれのことを信用して、行永は座っていた畳から腰を上げ、奧を見つめた。
「ほんまや。マユミや。あのまんま。変わっとらんなぁ。懐かしい。相変わらず綺麗やな」
 そのいい方がおかしくて、おれは失笑した。すると、つられて彼も自然と頬を緩めた。照れ臭くなった二人は、相手の顔を見てなぜか互いに含み笑いをした。
 しばらく十七年前の旅行の話を交わし合い、思い出に浸った。そのうち話は、旅行から再び仕事の中身になり、最後は家族のことへ移った。行永は娘が受験でたいへんやと切り出した。
「娘がな。シホってゆうねんけどな。偏差値悪いのに、私大の難関校を狙っとってなぁ。無理やっちゅうてんのに聞けへん。困ったもんやで」
 やれやれと弱り顔を見せた。酒をあおってから、きりっとした父親の目つきになり、話を続けた。
「そのうえにな。好きなジャニーズ系アイドルのライブには絶対にいきたいちゅうて、金はせびる。そんな暇あるんやったら、参考書買って勉強せえと怒鳴ったんやけど、おれが怒ると女房に甘えやがる」
「まあ、そんなもんやて、青春時代は」
 適当な励ましの言葉が見つからず、おれは視線を彼の顔から外した。そのとき、マユミを含む連中が会計を済ませて店の出入り口から出ていくのが目に映った。すこぶるつきの美人で、目立ちたがりの女。まだ面影ありやな。おれは当時を懐かしんだ。
 一か月ぐらいたった頃だったか。仕事で梅田の銀行に入金しに出掛けた帰り道だった。マユミと行永が二人して並んで歩く姿を見かけた。なんだ、また会っているのか。最初はその程度にしか思わなかった。
 けれども、注意深く見ると、マユミは右手を行永の左手に絡ませていた。己の目で、しかと見届けた。仲睦まじい姿にただならぬ気配を感じた。
 おれは推測した。もしかしたら、二人は以前から人目を忍んで逢う男女の関係かもしれない。行永ともあろうものが。
 じゃあ、あのときすでに二人の付き合いは始まっていて、居合わせたのは偶然にせよ、よく逢っている女がたまたま同じ店に来ただけ、ということになる。あのふたりが……か。
 おれは、マユミの持つ美しさに惹かれたけれど、愛する対象には含めなかった。彼女の持つ、八方美人で社交的な雰囲気を売りにしているのが気に障った。おれのことしか眼中にない女性だけを愛してきた。ひとりの女性に執着せず、包容力のある行永のような人間を、羨ましく思うことはなかった。
 三か月たち、また行永と飲む機会があった。おれは意をけっし、訊ねてみた。
「行永。マユミと逢うとるやろ? 見たんや。梅田の町中で仲良く歩く二人を」
 すると、彼の顔は途端に青白くなり、言葉を失った。沈黙の時が流れた。場の雰囲気に、白けた気まずさがじわりと漂った。テレビをつけて生放送と勘違いしてしばらく見続け、やがて録画と分かったときのようで、二人の間に嫌な間があいた。場をなんとかしようと思い、ふと夕べのことを思い出し、行永に喋った。
「昨日のことやねんけどな。家に帰って普通に服を脱いだんや。ほな、『もう、また勝手なことして。いい加減にしてよ! 子どもとちゃうんやから!』いうて、女房が激怒したんや。罵声を浴びたおれより、おれに罵声を浴びせた女房に対してひどく心が痛んだ。仕事上、叱られるのは慣れとる。が、たかが脱いだ服をソファーやベッドに放っておいただけでおれを叱るのはなんでやと思た。なにしろ帰宅したばかりや。疲れとる。脱いだ服をクローゼットに吊し、ネクタイをきちんとかけ、ワイシャツと靴下は洗濯カゴへなんて、無理やろ。家の中を歩き回るスタミナなんて、とっくに切れとる。鬱積した怒りをためこんどったんかなぁ。女房の業腹な原因がおれにあるのなら謝りたいけどな。連帯感って大事やで。いざというとき、倍の力になるから。強い力が家族を引っ張り上げるやろ」
 話の最後は支離滅裂気味になり、理想の夫婦像を力説した。口当たりが辛いなぁ、今夜の酒は。行永はただそういって曖昧に笑い、コップに冷酒を注いでチビチビと飲んだ。
 どちらからともなく、店を変えようといい出した。二人でカラオケにいって八十年代のポップスを歌いまくった。行永はいつもの姿に戻っていた。それが十年前のことだった。
 男同士の友情が、秘密の暴露で壊れてしまうほど脆いと思わない。互いに性格や人生の瑕疵があっても、おれたちの関係はずっと変わらへん。そう思って行永を飲みに誘った。逆に誘われることもあった。自分だって口にしたくないこと、女性で失敗した経験は数多くある。分かり合える仲だから、ときどき会って話ができるのだ。それ以降は、互いの仕事の予定や都合などが重なり、会って飲むのは数年に一度ぐらいになってしまった。

 何年かぶりで行永を誘ったのは四月半ばの週末だった。遅くまで飲み明かした。
 行永は、自社ブランドの目玉商品、7Dビデオカメラについて、熱く、とうとうと語った。
「目で見る3次元に加えて、耳、鼻、舌、皮膚の4つのD、すなわち7Dを味わえる。人の持つ五感がフルに味わえる映像が頭の中で観られ、匂いもするし、味もするし、触ることもできんねんで」
彼はそこでいったん息をつき、また喋った。
「そのカメラでCG映像を合成し、頭に装着したヘルメット型ディスプレイ装置で再生すれば、いながらにして人工現実が体感できる。革命的や。すごいやろ?」
彼は豪語した。
「そら、すごいわ」おれは相槌を打った。
「新製品をお前の誕生日にプレゼントしたけど、どうやった? 気に入ったか?」
 彼は遠慮なしに訊ねた。どうもこうも、あれは無理やで。あんな人工現実は酷い。心を蝕む。そう吐き捨ててやりたかった。遠慮せず、本音をぶつけるか迷った。だが、こらえた。平静を装う、と覚悟したから。
「気に入ったで。ようできとる」熱のこもった言葉に反して、力なく笑った。
「そうか……。そら、よかった」
 行永は一瞬、意外そうな顔をした。友の心を思いやった行為が本当に良かったのか、不安そうな顔つきだった。しばらくその話を避け、会社の経営や部署の状況など、仕事の話をつぶさに説明した。おれはときどき相槌を打った。
 行永と飲んだあと、電車で帰宅した。広田のバーには寄らなかった。すぐに自室に向かった。背広をハンガーにかけ、書斎の隅に置いてあったヘルメット型ディスプレイをまた手に取った。罪悪感に体を震わせながら、心は躍っていた。
 西北病院では、経理課長として、筋の通らない請求書に渋面を作ることがしばしばあった。事務室が沈滞気味のとき、加藤や晋太郎の席を徘徊してつまらぬ駄洒落や謎かけなどを披露した。わざと大声で豪快に笑うときもあった。
 そんな現実世界に倦んできたとき、家族や友人では埋められない心の隙間を、7Dビデオが埋めてくれた。けして、心が荒んでいたわけではない。家族関係も職場での人間関係も順調だった。むしろ、うまくいっていたからこそ、さらに欲を出した。自分で思い描ける世界をさらに大きく広げようとした。
 たまたまそこに7Dビデオの世界があり、ナオコに関する記憶の糸がまだもやもやしていた。もやもやした糸くずのような代物をちゃんと成形したかった。形になれば、次の産物が見えてくる。糸くずも繭になれば、綺麗な着物を紡げる。勝手にそう思った。
 行永から細かい操作法を教わり、自在にナオコに会いにいけるようになった。注意点として、7Dビデオ装置が十数時間のタイマーで切れる設定をかけておかないと、面倒なことになる。ずっとナオコと暮らす悦楽の世界に置き去りにされてしまう。それは危険であり、永遠に現実世界に戻れなくなるのを意味した。
 なぜ、ヘルメットを被り再生ボタンを押した瞬間から、ナオコと二人きりで旅する世界に浸れるのか。詳しい原理の説明を受けたが、難しくて皆目わからなかった。
 けれど、頭の中で普通に再現する走馬燈のような思い出と比べ物にならないのは、火を見るよりも明らかだった。実に完璧で精緻な映像と肉声だった。リアルな別世界であるのは間違いない。CGとAV技術の進歩だと思った。
 その装置を使えば、使用者の選んだ時間と場所に、いてほしいひとやものがまさに生き写しのように存在する。それは、そのひとにとって半永久的な価値を持つ。瞬間が時を越えて永遠になるのは、こういうことかとまた思った。
 あまつさえ、映像は毎回変わり、ぜったいに視聴するひとの意思や欲求を裏切らないストーリー展開に自動編集されているのも大きな魅力の一つだと思った。
 7Dビデオ装置のパッケージには、「時空を選べる世界旅行」と書いてあった。おれにいわせれば、それは「桃源郷」だった。むかしオーストラリアでナオコが語った、「ラヴリー・トリップ」を再現する世界だと思った。
 例えば、何年前のオーストラリアと設定すれば、そこにその年代の風景と、若返ったナオコがおれを待っていた。五年後のパリに設定したら、パリに死んだはずの彼女がエッフェル塔を背景に佇んでいた。その地その地で、夢とも幻ともつかぬ、現実と瓜二つの世界に浸れるのは、実に好都合で、救いでもあった。
 救いを求めるうちに、忘れたはずの思いが復活した。断ち切ったはずのナオコへの恋慕は、性懲りもなくまた蘇ってしまった。一種の現実逃避行であった。家庭を顧みない、無責任な享楽行為かと思うと後ろめたかった。
 が、実利が勝り、桃源郷に酔いしれた。おれは都合の悪いときに、書斎に籠ってヘルメットを被った。被ってボタンをひねり、時空を超えたユートピアに遊ぶ姿は、その辺の少年や青年とさして変わりはないと思った。
 八年前の二月のオーストラリアに設定して、ビデオを再生してみた。気を失うような錯覚を一分ほど感じ、真っ黒の視界が次第に白み始めた。
 二十七年前のオーストラリアやナオコの容姿と八年前のそれらを自動合成したCG映像が浮かんできた。景色は最高だった。海沿いに車を走らせていた。助手席には、淡い水色のワンピースをつけたナオコが座っていた。おれは眩しい陽射しを避けるため、黒のサングラスをかけてハンドルを握っていた。
 カーブを曲がるたびに、エメラルドの海辺が目に飛び込んでくる。とても綺麗だ。ドライブに飽きて、モーテルに入った。車を一階の駐車場に停めた。料金を払って部屋に入った。ナオコは、まるで昨日も一緒に過ごしたかのような言葉を口にした。
「昨夜のこういちさん、とっても荒々しかったわね」
「なんのことや? セックスか?」
「違うわよ。感情が荒れていて、激しそうだった。高ぶっていたでしょ? だって、空になったトイレットペーパーの芯を思いっきり踏みつけて潰してたわ。見てたのよ」
「ああ、そうやったか。まあ、機嫌の悪いときもあるで」
 おれ自身は、昨夜の出来事などまるで覚えがなかった。ただ、八年前の異世界では、ナオコやものに当たったのだろう。妙に思われないよう、適当に相槌を打っておいた。
 とにかく、7Dビデオの世界では、たえずナオコの魂と肉体が生き続けていた。その筋書きは、おれの願望に沿う形で進行していくはずだった。まるで映画館で好きな映画を観ながら、幽体離脱してスクリーンの主人公に没入しているかのように。
 おれの心の奥まで知らない彼女は、モーテルの部屋で鏡台に向かい、長い髪を梳かしていた。椅子に座る後ろ姿に惚れ直した。と同時に、その姿に長年連れ添った女房のような風格を感じ取った。背中を向けたままのナオコに、おれは告げた。
「一週間前、おれは何してたんや?」
「あら。一緒にオペラハウスに出かけたでしょ? ちょうど、プッチーニ作の『蝶々夫人』のチケットが二枚手に入ったから。こういちさんがいい出したのよ」
「ああ、そうやった。『喋々夫人』を観たんやった。あれは良かった」
「しっかりしてよね。まだぼける年齢じゃないでしょ」
 ナオコに宥められて気付いた。勝手にこの世界で起きている自分の行動すらも把握できていないことに。ひどく己を情けなく思った。蝶々夫人といわれても、観たことのないオペラだ。答に窮するやろなと思った。
「『蝶々夫人』の美しい声がまだ耳に残っているわ。チケット取ってくれて本当に感謝してる」
「いや。ええんや、別に。オペラを観にいく機会なんてそう何度もあらへんやろ」
 おれはその場をうまく切り抜けようと懸命だった。なにしろ、いま目にしていることしか分からない。記憶喪失状態と他人にいわれてもおかしくなかった。少し不安に駆られ、ナオコに訊ねた。
「因みに、明日の予定は?」
「え? 何かあるの? とくに予定はないわよ。平日だし、こういちさんは、いつものようにスーツを着て、シドニーの貿易会社にいくんでしょ?」
「あ、ああ。そやな。そうやった……」
 どうやら今回の設定では、シドニーで会社勤めをしているらしかった。このまま朝を迎えたら、適当なスーツを着て会社へ出勤するふりをしなければならないだろうと思った。
 が、その前にタイマーが切れることになっているはずだ。元の現実世界へ戻れるなら、無用な悩みなど抱えなくてよい。そう思った。
 シドニー郊外のホテルで一夜を明かし、朝方のうちにうとうと夢を見かけていたとき、タイマーは切れた。軽い眩暈がして、K市の夜に戻った。おれは再び寝間着を身にまとい、自宅の床に入った。
 次の週末は、五年後の冬のパリに設定して、ラヴリー・トリップに出かけた。ダッフルコートを着込み赤いベレー帽を被ったナオコが、エッフェル塔を背景にして、橋の上で佇んでいた。おれの姿を見つけたようだ。橋の上から、川沿いに歩くおれに手を振っている。おれは、腹回りがいくぶんすっきりとしていた。裏地がボアになったロングコートを着こなしていた。
 橋の上で昼に待ち合わせをしていた。デッキテラスのあるカフェに入った。給仕にティーセットを注文し、コートの襟を立てて、デッキで話し込んだ。
「あの橋、なんていう名前か知ってる?」
「いや、知らん。パリに来たことあらへんから」
「アレクサンドル三世橋よ」
「アレクサンドル三世橋か。やたらと街灯が多いな。人通りも多いんかな」
「そうかしら。よく分かんないわ。実はわたしもパリ、初めてよ」
「腹減ったな。ランチでも食えへんか?」
「ええ、いいわ。食べてひと息ついたら、コンコルド広場にいってみましょうよ。そこから凱旋門まで歩いてみたいの」
「シャンゼリゼ通りを散策するんか?」
「そうよ。とっても楽しみ」
 二時過ぎにランチのキッシュを食べ終え、橋の向こうへ渡った。しばらくいくと、コンコルド広場に到着した。ひとが大勢集まっていた。凱旋門から広場に到着した人たちと、逆に凱旋門へこれから赴く人の群れが入り乱れ、広場はごった返していた。
 シャンゼリゼ通りは、背の高い街路樹とひっつくように街灯が等間隔で並んでいた。歩道は広くてとても歩きやすかった。お洒落なカフェやブティックなどを眺めるナオコに寄り添い、おれたち二人はゆっくり歩いた。ナオコに、「あれが素敵ね。ひとつ欲しいわ」とねだられ、ガラスの壜に入った香水を買ってやった。
 十二月なので、クリスマス商品を売る露店があちこちに出ていた。そのひとつで足を止め、ワッフルにホットワインを二人分買った。樽酒のスタンドをテーブル代わりにした台の上にグラスを置いて、立ち食いを始めた。
 方々で男女が即興で踊り始めた。ナオコも、「踊りましょうよ」と腕を引くので、少し照れたが、適当に背中を片手で抱え、踊ってみた。下手くそやと自分で決めつけていたが、ナオコは嬉しそうな笑顔を見せた。周囲のひとも全く気にしてない様子だった。息が上がるまで踊り続けた。
 踊りをやめて、ひと息つこうと道端のカフェに入った。パラソルの開いた席でコーヒーを飲み、エクレアとトリュフを摘まんだ。ナオコの口元からはみ出たクリームをハンカチで拭いてやった。
「ありがとう。でも、わたしも口を拭おうとしてたところよ」
礼と不平をいわれた。おれは少しムッとしたけれど、トリュフを頬張りながら、
「パリのお菓子は最高にうまいね」
 と意に介せず話を変えた。彼女は、
「そうね。もうしばらくパリにいたいわ」
 と名残惜しそうに語った。まるで本当の旅行者のように。いったい、この世界は、どこでどんなふうに繋がっているんやろうと思った。ナオコに訊いてみた。
「ナオコ。いま、どこに住んどるん?」
「ハワイよ。夫と子どもに先立たれたわ。でも、こういちさんが好きなのよ。それで、わざわざこうして旅してる。知らなかった?」
「ああ、そうやったな。十数年前、シドニーのオペラハウスで『蝶々夫人』を観たやろ?」
 おれの体感した情景をナオコに認めてもらおうと訊ねた。
「ええ。覚えてる。とても楽しかったわ」
 身じろぎもせずに答えてくれた。おれは少しホッとした。7Dビデオはおれにとって、その場限りの空間旅行。そこにナオコがいてくれる。もうそれだけでよかった。いつもそこに居て欲しい。そう願った。
 たとえ死後の旅行でも、幻のナオコがいて、二人で手を繋いで歩き、食事を共にし、会話ができるのなら、これ以上の贅沢な時間はない。
 シャンゼリゼ通りを一緒に歩いた余韻に浸っていたら、まだ夕方なのに眠気がしてきた。うっかりしてタイマー時間を早めにセットしたんやと気が付いたときには、カフェの椅子に座ったまま、意識が混濁した。
 朦朧として、一分ほど視界が暗くなり、光や風が流れ去るのを感じて目が覚めた。意識が正常になると土曜日の真夜中だった。服は部屋着のパーカーに戻っていた。ヘルメット型ディスプレイを外して畳の上に置いた。おれは、風呂場へいった。パリの情景とナオコの顔を思い出しながら、熱いシャワーを浴びた。洗面所の鏡を見た。元のぽこっとした腹に戻っていた。寝る前に、軽く缶ビール一本を飲み干し、現実世界で眠りについた。
 十五年後のバルセロナにいったのが翌週の土曜の夜だった。今回は数日泊まる設定でタイマーを長時間にセットしてみた。
 ラヴリー・トリップの世界に着くと、サグラダファミリアの前にナオコはいた。そこで記念写真を撮り、おれとナオコは観光をすることになっていた。旧市街を散策し、最後にフラメンコの見られるスペイン料理の店で食事とショーを堪能した。
 ナオコの情報によると(いつも情報を仕入れてきてくれてありがたいのだが)、フラメンコのショーをやるバーやレストランはタブラオと呼ぶらしい。おれたちもそのタブラオの一つに入った。
 中世の館を思わせる燭台が棚板の上にいくつも置いてあった。金色のメッキの錆びた古い燭台の上で、蝋燭が店の中を照らし出していた。薄明かりの中、ダンサーはフラメンコを踊り続けた。おれたちは、真夜中までフラメンコに魅入った。
 翌日は、ガウディ建築の一つ、カサ・バトリョにいった。世界遺産に数えられる有名な建築物である。仮面のような見事な曲線美のバルコニー、邸内の青いタイル、ステンドグラス、光と影で構成される廊下など、価値ある遺産を目に焼き付けた。とても感銘を受けた。CG映像でも充分に立体感や陰翳を楽しめた。
 十時間の電気代だけで空間旅行が楽しめるなんて、おれはなんて恵まれとるんや、と行永に感謝した。サラリーマン生活を続けていても、リタイアしないとなかなかここまで来られない。しかもバルセロナには五泊六日した。ビデオの設定で、六日間の滞在を圧縮して十時間にしておいた。
 向こうの現実とこちらの世界では時間軸の速さが異なっても成立する。なんとも不思議な話だった。六十を過ぎた設定のおれは、さすがに手を繋ぐのすら気恥ずかしかった。けれどナオコの方から、積極的におれの腕に自分の腕を絡ませてきた。もうこの年になると、ミハウやベンの話は欠片も出てこなかった。
 バルセロナに泊まった最後の晩、おれはしくじった。自分の服のポケットをまさぐった。冷たい感触が手から伝わった。ふだんからスマホをもっぱら仕事に使っていた。それが服のポケットに入っているのを思い出した。
 おれはスマホで仕事の確認をしようと試みた。異世界同士の時間の流れが異なるのに、同一時点で電話に出る持田の声を聞き取れるわけはない。十倍だけ時の流れの遅いバルセロナでは、主任の声は早回しのカセットテープのように高音のペラペラペラとした音が耳元で流れてくるだけだった。
 スマホの通話を切った。別にさほど重要な案件でもなかったから気にならなかった。それだけなら、こちらのミスで済むと思い込んでいた。
 こちらのくぐもった遅い低い声を持田が聞いてしまったことで、7Dビデオを介した別次元への経路に、新しい経路が加えられてしまった。電話をかけるという単純な行為が、閉ざされたトンネルの経路と別の経路を勝手に開けてしまったらしい。それをあとで知った。
 観光気分やナオコの微笑と温もりだけで満足していれば、これまでどおりにうまくトリップできたのに、とあとで悔やんだ。その晩に限り、別次元の暗黙の掟を破ってしまった。
 なにも分かってなかったおれは、いつものようにナオコの隣で寝息を立てていた。寝返りを打った拍子に、彼女はしくしく泣きだした。その晩の彼女は、寝る前からどこか変だった。妙に落ち着きがなかった。
 寝間着を着たナオコは、あっちを向いて寝ていたおれの背中に手をかけ、ポツリポツリと暇乞いをした。
「これまで、こういちさんといろいろな場所に出かけて会っていた。心の中に、輝く光のせせらぎがさらさらと流れているように感じてた。でも、いつも、もっといてほしかったのに、こういちさんはわたしの前からいなくなってしまうわ。今度はわたしが姿を消す番なの。もう会わないようにした方がいいのかしらって思っちゃって。今回で、会うのは最後になる。最後にした方が互いのためよ……」
 ナオコの言葉にハッと目を覚ました。語尾の方だけ聞き取った。おれは彼女の口調に動揺した。
「な、なんでや? なんで、いままでどおりに会えへんねん?」
「ごめんなさい。たくさんの思い出をくれてありがとう。こういちさんの優しさにさよならを告げるのは寂しいけれど、わたしは分かってるの。こういちさんは元の世界にいるべきよ。もう、わたしは、どこの世界にも留まれない。分かってほしい」
「……。なにがあったんや?」
 信じられない別れの通告だった。急に道を塞がれた気がした。どうしたらよいのか、判断がつかなかった。一方的な話だった。おれの問いかけに対する答はなしだった。
 きつい眠気が起こり、浅くうとうとまどろんでいたら、くらくらしていつものように目が覚めた。そこはバルセロナではなかった。自宅の寝床の中だった。布団から起き上がり、時計を見た。朝の九時過ぎだった。こめかみや額に大量の汗をかいていた。
 おれはこれまでの経緯を頭の中で整理してみた。
 ナオコは確かに死んだ。その記憶が飛んで、CG映像を見終わるまで、記憶は戻らなかった。見終わって、やっと死んだ記憶が戻った。糸くずのように上下に漂った正体は、悲しみの記憶の糸だと分かった。
 ナオコの思い出を断ち切るつもりでいた。その通りにいかず、逆にずるずると断ち切った糸が絡み合あって繭を作った。未練と辛さの繭。繭に少しでも近づこうとして、現実逃避の桃源郷、ラヴリー・トリップに依存するようになった。
 桃源郷へ誘う7Dビデオでは、いずれの場所、時間とも、正確無比に矛盾なくそれぞれに調和を保ちながら、映像内部の世界が進行していた。それは、ある種の隠遁手段であった。辛い浮世と縁の切れたCG映像が望みに沿った形で流れた。
 完璧な別世界がどこかにあるというのは、最初こそ信じがたかったが、SFの世界ではなかった。もはや、現実を凌駕して、好きな方で精神、肉体の充足した日々を過ごせるのなら、どちらに軸足を置いても構わない気がした。
 どちらが真の世界で、もう片方が虚構の世界か、そのときのおれは意識してなかった。十時間以上のトリップを何回も経験したのだ。脳の感覚が麻痺していたのかもしれない。
 どちらかというと、後味の悪かったプレゼントが、使い方次第で実に魅惑的で危険な香りのする、媚薬や麻薬以上の快感を生む禁断の味だと知った。心が舞い上がっていたのかもしれない。
 現実世界、仕事と家族とクラシック音楽を聴く程度の趣味で満たされた世界を取るか。なにも持たずに、青春の延長線上にある、元恋人との逢瀬をひたすら世界各地で繰り返す虚の世界を取るか。誰もそれを決められない。選ぶのはおれだった。おれの判断次第だった。そのはずだった。
 病みつきのアルコール依存症患者のように、ほぼ週に一、二度、7Dビデオの世界に浸り出すと、現実世界に戻るのが鬱陶しくなってきた。それでも潜在意識で家族を見捨ててはならないという責任感が働き、タイマーをかけて戻ってきた。離脱症状のようなものを感じながら、トリップを繰り返してリアルに映るナオコとのうたかたの逢瀬を繰り返してきた。
 このまま二つの世界に小舟を浮かべ、両岸を往復して気楽に漂いたかった。そう考えていたら、とうとう審判が下った。おれは無神論者で神の存在を否定していた。一度、床にひざまずいて朝日に祈りを捧げるあのミスターXに施しを受けたときだけは、どこかの神様の加護のようなものを信じた。それとは別に、いくつあるのか知らないが、この世界と別の次元、そのまた別の次元、と果てしなくある世界。そんなものがもしあるとすれば、の話だが、それらを束ねている「造物主」のような存在が(造物主すら、非科学的でおれは信用しないのだが)断罪の審判を下すときがきた。おれが空間旅行の掟、すなわち時の掟を破ったから。
 なぜ、どのようにして、その審判を知り得たか。一通の手紙だった。実際に、畳まれて枕元に置いてあった。誰かのいたずらかと思った。朝起きたときに見つけた。手紙には審判の趣旨がこう書かれていた。

『如何なるものも、異世界であるこの別次元へトリップしたら、通信装置以外の手段を用いてトリップ前の世界と連絡を取ってはならない。これを犯したものは、直ちに断罪に処せられる。野中幸一は、いま申し述べた罪を犯し、時の掟を破りしものにて異世界への立ち入りを禁じ、永久に追放するものとする。もし、この禁令を破るようなことがあれば、命を持って償うこととする。
(異世界法廷からの告知状)』

 断罪や追放、命を持って償うといった厳しい言葉に、ようやく自分の犯した行為を知った。時の掟を破ったという通告に、時間にねじ伏せられて班長になった少年の経験が苦々しく蘇った。時の持つ力に人は逆らえない。そんな漠然とした条理が壁となって立ちはだかる気がした。スマホの通話が二つの隔離された世界を結び、時の掟を破ってしまったのだと気づかされた。
 何かの刑に処せられるより、7Dビデオ装置を使えず、もう二度とナオコと会えないことの方が重要だった。ずしりと重く心にのしかかった。ナオコの暇乞いの意味をようやく理解した。
 もう一度、手紙に目を通そうと手に取った。すると、印字された手紙の文字は瞬く間に灰色の粉となって床に零れ落ちた。まるで何も起きなかったかのようであり、灰色で有限のときを暗示するようでもあった。粉のなくなった手紙はまっさらの白紙になってしまった。不思議な光景だった。
 調子のええときほど、気ぃ付けるんや――。
 また、父の口癖が後から追いかけてきた。証拠は消え失せた。使用できないと分かっていても、7Dビデオ装置を取り出し、スイッチを入れてみた。真っ黒な視界のまま、まったく作動しなかった。応答もなかった。装置はただのヘルメットになってしまったのを残念に思った。
 スマホで仕事の確認を試みたのをひどく後悔した。自分に失望した。畢竟、夢物語はおれの独り相撲で幕を閉じた。機械に頼ってしまった自分、異世界に遊んだ人間の業と欲深さを痛感した。
 けれど、これでよかったのかも、と思い直した。仕事のことが気になり、こちらの世界に留まれた。何らかの故障が起き、あの人工現実の中に閉じ込められたら、おれの実体は失われてしまうかもしれない。ナオコへの未練を断つにはあのタイミングしかなかっただろう。
 トリップを始める前にタイマーをかけるのは、必ずこちらに戻る意思があるからだった。楽しさの比重は人工現実の方が多いかもしれないが、家族や職場の部下らと喜怒哀楽を通して体験や成果を共有してこそ、その起伏が味わい深い人生の道程になると考えた。
 月曜の朝、目覚めが悪かった。西北病院に向かう車中でクラシックをかけ、気持ちを整えた。病院に着き、タイムレコーダーを押すと、先にきていた持田が声を掛けてきた。
「課長。きょうはいつになく、表情がすっきりしていますね。税理士さんがくる日ですか? それとも美人の方が来られるんですか?」
「いや、どちらでもない。ちょっと家のことでな」
 歯切れの悪い応じ方で、お茶を濁してその場を立ち去った。
 昼休み、スマホのメールをチェックしていると、行永から、また飲もうとメールが届いていた。それで、十年前の行永を思い出した。おれだって行永のような許されぬ道にはまったのだ。人工現実の中とはいえ。仮に行永のプレゼントがなくとも、ナオコがハワイにいるのをもっと早くに知っていたら、家庭を捨ててミハウから奪いにいった可能性がある。妻と離婚して、人妻を略奪するような決断を下したかもしれない。メロドラマのような泥沼のパターンだ。
 だから、どうだというのだ。落ち着く場所が家にあるから、そこまでしなかった。それでも生前のナオコに会うことは、いくらでもできた。不倫行為に羞恥心を抱かなければ、ナオコとダブル不倫して構わなかった。
 愚かしいと頭では分かっている。その愚かな自分を許せる心をおれは持てるようになった。つまずいて道から外れ、滑稽な人生でいい。否定しない。順風な人生なんて、面白いわけがない。最近、そう思えるようになった。東京時代に憧れた無責任さや身勝手な人物への憧れが根底に流れている気がした。社会通念上、よくないことなのは充分に承知している。
 その一方で、自分の素直な気持ちを否定しない生き方は潔いと思う。それに、理性だけで体面を保つのは、疲れてきた。もう、十年前の行永を責める気持ちになれなかった。
 それからずっと噂は聞いてなかった。不倫は解消されたんやろなと見ていた。飲みにいったときの雰囲気で、だいたい想像がついた。
 ある日、それを裏付ける話が妻の口から飛びだした。晩飯が終わり、食卓で茶を啜りながら妻と向き合っていたときだった。かなり意外な展開だった。おれは思わず座っていた椅子から身をのけぞらせ、目を見張った。
 妻は一年前からパートを始めていた。自宅からほど近い、自転車で十分ほどの場所にある小売チェーン店だった。恵美里の学費に、と始めたのがきっかけだった。昨年、東京暮らしを味わってみたいと恵美里がいいだした。おれの仕送りだけでは足りないと妻は主張して、行動を起こした。おれは、奨学金制度を使えばええ、と助言しておいた。妻の稼ぎを合わせ、少ない預金を少しずつ増やしていかざるを得なくなった。
 けっきょく、恵美里の結果は不合格だった。やっぱり落ちた、浪人決定。彼女は落胆して、己の不甲斐なさを嘆いた。四月から高校時代と同じ予備校に通っている。
 東京行きは諦めようか。地元の私大で妥協するか、と悩み始めていた。姉の莉奈は慰めた。実家から大学に通ったらええやん。神戸も、大阪や京都だって、まだまだ知らへんだけで、ええとこいっぱいあるで、と。それもそうやなと考え直した恵美里は、予備校仲間に刺激を受け、地元志向に戻りつつあった。親としては、取り越し苦労になったかもしれないが、娘のために働いて頑張った妻と自分自身を讃えたかった。
 あとで聞かされたもう一つの働くきっかけはこうだった。
 私は、恵美里がすさんでいた中二時代に暴言を吐かれた。成績の悪い恵美里に小言を並べたら、
「どうせアンタなんて、外では使いものにならない社会のお荷物やん!」
 といわれ、黙り込んでしまった。専業主婦一筋で生きてきた道が間違っていたのか。しかし、それが心の火種となり、いつかパートで働き見返してやるという意欲に繋がった。主婦の根性、見せたる。強い意思が固まった。
 娘のスマホを借りてラインを操作し、簡単にパートの求人を探し出した。志望動機と面接の印象がよかったと私は思った。よく、人当たりのよさそうな顔やといわれるから。応募してすぐに面接があり、パート社員として採用された。さっそく制服を貸し出され、販売スタッフとして店で働き出した。衣料業界の大手チェーンの中規模店舗だった。レディースの洋服を中心に、子ども服も扱う店だった。名前ぐらいは知っているはずや。K市の近隣にも数店舗が展開している。
 妻はそう打ち明けた。さらにまだ話は続いた。
 あるとき、女性社員が私に相談を持ち掛けてきた。相談というのは、恋愛に関するのが半分、残り半分が身の処し方に関する内容だった。店で働くうちに、その社員と親しくなった。仕事上は先輩であり、作業や接客を教えてくれる社員だ。歳がたまたま同じで、いつしか打ち解けて親しく話すような間柄になった。ラインを交換し合ってやり取りをするうちに、いろんなことを知った。始めは商品に関する知識や情報、仕事上の注意などが多かった。
 けれどそのうちに、その社員が自分の過去のことをさらけ出してきた。数多くの恋愛を経て、いろんなタイプの男の人と付き合ったが、けっきょく実を結ぶことはなかった、と自分の男遍歴を嘆きだした。性格的に真面目で、相手のささいな欠点を許すことができず、それがネックになって、だれとも長くは続かなかった。ある妻子持ちの男性と不倫をしたが、最後は逃げられ、うまくいかなかった。ずっと独身のままのわりに、すこぶるつきの目立つ美人だ、とよくいわれる。もういい歳になると、良縁につながる出会いが全然ない。自分はひとりでどう生きていけばいいのだろうか。漠然とした問いにぶつかった。
 仕事に生きても、幹部に関しては、まだ男性が多い。少数の女性幹部の意見はなかなか会社全体に反映されない。もちろん、店舗の中では女性の意見が多く採用されて、それはそれで、店のよりよい雰囲気作りや品揃えにつながっている。しかし、どうせ仕事の成功を目指すなら、会社組織の実権を握るぐらいの仕事がしたい。中間管理職では、上と下に挟まれる。現場で接する社員の意見を吸い上げて業務全般に反映させたい。上は何かと理由をつけて私の提案を却下してしまう。もどかしさに腹が立つ。そんな内容の相談を、店を出てからカフェに誘われ、ふたりきりで長々と話しこんだ。
 妻は、女性社員から聞かされた話を明かした。おれは、もしかして、マユミ、藤本真由美という人か、と訊ねた。妻は意外そうに、
「あら、なんであなたが知っとるんよ?」
 ときょとんとした顔つきになった。おれは、十年前の居酒屋での出来事を語った。十年前、ある居酒屋に入って行永と飲んどった。彼のことは前に話したな。大阪の電機メーカーで働く同級生。よく飲みにいく仲や。仕事や家庭の悩みなど、互いの近況もまじえ、飲み食いしとった。しばらくして、おれはトイレに立った。通路を歩いているとき、向こうのテーブル席に目立つ美人がいた。その女性がマユミ。二十七年前、学生時代の卒業旅行先のオーストラリアで知り合った日本人女性の一人や。
 どうやら、会社の同僚と飲んでいる様子やった。照れ臭かったが、頭を下げて挨拶し、名刺を渡した。二言、三言、声を掛けて、トイレにいってから行永の待つ席に戻った。だいたいそんな感じや。おれは述懐した。
 正直に打ち明けたが、妻は目を白黒させて、複雑な顔色を見せた。行永とマユミが不倫関係にあったと噯気にも出さなかったはずなのに、勘のいい妻は見抜いた。
「あの行永さんね。そういうことか。マユミさんが不倫した妻子持ちの相手って行永さんでしょ?」
 鎌をかけてきた。先生にウソを見抜かれた子どものように、罰の悪い気持ちになった。おれは黙り込んでしまった。
「やっぱりね」妻はいった。自信ありげな顔が妙に怖い。妻は続けた。「マユミさんは、あなたのような堅いタイプに対しては、やましい心を持たんかったんよ。そやけど、ガードの甘い行永さんには近づいた。すり寄って、甘えるようにしてしなだれかかり、不倫したんや。きっと」
 妻は、不倫現場を覗いていたかのように、なにもかも見抜いた鋭い目つきで指摘した。おれは、友人として行永をかばう余地もないと諦めた。ただ、あとひと押しを訊ねてみたくなった。
「どうしてそこまで分かっとるんや?」
 そのひと言を喉から絞り出すのが、やっとだった。
「だって、私に喋ったで。電機メーカーに勤めている一つ違いの男性と不倫しとったって。どう考えてもビンゴでしょうが。『男女の関係は終わったのよ』っていうてたけど、赤裸々に何度寝たかを教えてくれたんよ。別れ際はすがりついたらしい。奥さんと別れてくれって」
 妻は、おれの友人の恥部といえる秘密を、ぺらぺらと吹聴した。
「もうそのへんにしておけ。他人の知られたくない一面やろ。下世話なことや」
「そやけど、行永さんはあなたと同い年やろ?」
「そうやで」
「まぁ、マユミさんと行永さんには、ふたりの事情があるとして、あなたはおかしなまねだけ、慎んでちょうだいね。娘の教育上、よろしくないんやからね。分かっとんの?」
 妻はピシャリと話を締めくくった。歯に衣着せぬ物言いに、またか、と思わされた。
「うん、分かっとるって」
 妻の剣突を食わせる勢いに思わず体をそらせ、夕刊に手を伸ばし、半分広げて顔を隠した。
 おれは、けして妻の機嫌をとるつもりなどなかった。ただ、一家がばらばらの状態でいるのは淋しいと感じた。いずれ巣立っていく娘らを巻き込んで、挽回しようとささやかな企画を練っていた。
 莉奈が夜遅くに仕事から帰ってきたとき、玄関口で出迎えた。四月下旬だった。
「お帰り」
 おれは、社会人になった莉奈の様子を窺おうとした。
「ただいま」
 下を向いて靴を脱ごうとする莉奈に問いかけた。
「こんど、家族みんなでランチでも食べにいかへんか?」
「え、なんで?」
 疲れた様子の長女は、ハイヒールを脱いでスリッパに履き替えると、顔を上げた。
「いや、別に。都合が悪いなら見送るけど」
「私は構わないけどね。エミリがなんていうか」
「そやな。恵美里は受験生やし。でも、休日のほんの一、二時間や。そのくらいええんとちゃうか?」
「じゃあ、呼んでこようか?」
 莉奈はゆっくり廊下を進んで、トントンと階段を上り、手前の部屋をノックした。莉奈は恵美里の部屋の中へ入った。扉をバタンと閉める音が二階から響いた。二人のやり取りは聞こえず、くぐもった音が内側からするだけだった。しばらくして、扉の開く音がした。恵美里と莉奈が勢いよく階段を降りてきて廊下に姿を現した。恵美里は上気した表情でいった。
「ほんまやったら、友だちといくけどな。お父さんの顔立てて、いってもええよ」
「ほんまか!」おれは色めき立った。
「その代わり、高いもんにしてな。高級中華か、フレンチあたり」
「分かった。なんとかしてみるわ」
 たまには奮発してもよかろうと思った。パートで働く妻は怒るかもしれんが、新地で飲んだと思えばええと自分を納得させた。これで外堀は埋まった。あとは妻しだいだ。だめ、そんな贅沢、と簡単に却下されてしまう可能性があった。
 それなりに応じてくれる理由を考えてみた。なにか、妻の喜びそうなことはないか。妻のために金を使うより、まず、家事かなにかを手伝ったらどうだろうか。恵美里が洗濯物を畳んでくれただけで破顔した妻の様子を思い出した。
 土曜の朝、早起きしてみた。トイレ、風呂場、洗面所の水回りを綺麗にしておいた。丁寧にスポンジと洗剤で汚れをこすりとった。作戦は成功した。妻はおれに礼をいった。
「トイレとお風呂場、掃除してくれたんやね。助かる。うれしいわ」
 久々に、朗らかな妻の顔を拝めた。
「気分、良さそうやな」
「ええ」
「じゃあ、ついでにというのはなんやけど、家族揃って梅田でランチせえへんか? 中華かフレンチの高いのを」
「え! ええの? 大丈夫なの?」
「なーに。飲む回数と煙草の量を減らせば済むことや」
「じゃあ、甘えるとするか」
 妻はふふんと鼻を鳴らした。話はまとまった。恵美里の合格祝いは後回しになったので、莉奈の入社祝いを名目にした。
 五月の連休中、ホテル阪急インターナショナルの二十五階にあるフレンチレストランで食事会をすることに決めた。ランチ四名で予約を入れた。莉奈があらかじめ、インターネットで代行予約してくれて助かった。あとで、おれが店に電話をかけた。窓際の席をお願いします、といい添えておいた。
 食事会の当日がきた。家族揃って車で出掛けた。中津にある高層ホテルの二十五階は異世界だった。ロビーが吹きぬけで、まるで王宮の中庭か神殿のようである。中央に金色の球体を載せた台座があり、その周囲に水を張っていて、噴水が湧き出ている。噴水を囲う大理石の四隅に、白い花が石彫刻の花壇に植えられていた。全体に少し暗くなっている分、黄金球と頭上の壁の半円がまばゆく輝く。
 レストラン内に入ると、内装は豪華でクラッシク調だった。二層になった金色のシャンデリアが天井から八方に伸びてテーブルを照らしている。窓からの眺めは最高にいい。床は大理石を使っていた。
 ロビーを目にしたときから、きゃあきゃあ叫んでいた娘たちは、窓際の外が見える席に腰掛けた。「景色がすごく綺麗、店もお洒落!」と大はしゃぎした。おれは、「他のお客に迷惑やろ。もう少し静かに、しとやかにせぇ」と落ち着かせた。正直、おれだって、若いときにこんな素敵なレストランで食事をしたら、とても緊張しまくるか、舞い上がって騒ぐか、どちらかだろうなと思った。
「夜景やったら、めっちゃロマンチックやで」莉奈は目を細めた。
 スタッフのサービスもよかった。ランチの料理はいくつかのコースに分かれていた。
 選んだのは、ベーシックなコースである。前菜、サーモンのテリーヌ、タラのムニエル、鴨肉のなにか(複雑で覚えられない横文字だった)とオレンジのソース、デザートの果物に、コーヒーか紅茶だった。テリーヌはピンクのサーモンとキノコや緑の野菜の彩りがよく、上品な味である。タラのムニエルは緑野菜のトッピング付きで、皿にはクリームソースと空豆が散らしてある。噛むと薄い塩気を含んだ魚肉と汁があふれ、淡い甘みを残して、スーっと舌の上から消えた。見た目と味がいい。鴨肉は柔らかく、ソースとの相性もよかった。
 おいしくて、三万二千円の会計は、ランチのぶん、大した出費にならなかった。雰囲気に唖然とし、飲まれていた女三人を尻目に、おれは料理を目と舌で存分に味わった。
「こういうレストランは、結婚式場と同じや。上品に、静かに、礼儀正しく、料理を頂くんや」
 おれは得意気に語り、向かいに座るカトラリーを動かす娘二人に目配せをした。
 恵美里は、料理の写真を一枚ずつ、スマホで撮っていた。Mちゃんに見せるのだという。第一志望の関西私大に現役合格した彼女と恵美里は、親しい間柄が続いているらしかった。いまでも休日になると、なんばへ出かけて服を買い、梅田へ映画を観にいく。
「パパ、ありがとう。素敵なレストランに連れてってくれて」
 莉奈は礼をいい、本当に満足げな顔を浮かべ、拳をぐっと握りしめて目を瞑った。おれは嬉しくなった。
「じゃあ、ウチが大学に合格したら、またここに来ようよ」さっそく、先の話を恵美里がねだってきた。
「ああ、第一志望ならば、な」
「うん。ウチ、頑張っとるで。予備校で」恵美里は上機嫌で応じた。これで家族のいい思い出ができた上に、結束の固さが強くなったと思った。
 おれは、無類の煙草とコーヒー好きだ。よく喫煙可能な場所を求めて喫茶店探しをする。おまけに、職業柄、数字や金にうるさい。煙草が値上げされ、何十円も上がるたびにため息が出る。値段を見るとすぐに消費税を計算し、いくら払うかあたりをつける癖がついてしまった。額が大きいと帳簿上バカにならない。税額を間違えたら帳尻が合わないのも何度か経験した。
 経理の数字は期待を裏切ることが多い。やっぱり数字は人を欺くのだと思うときがある。あといくらあれば交際費は落とせるのにと思う。領収書をもらえない不規則な出納が発生するとミスして収支が合わないのはよくある。職員が辞職するたびの退職金、勤続表彰や職員・理事死亡の慶弔費の計上漏れなどだ。
 大口の支払いで病院の金をどっさり持ち出すときがある。大雑把な数字を普段から把握して、金庫のなかの現金の総額をいつも主任に確認させている。自分の財布に関しても、クレジットカードを持たない主義だった。
 あるとき飲んだ帰りのことだった。財布に入っていた電車用カードで梅田から乗った。最寄り駅の改札を出ようとしたらブザーが鳴り、出られなくなった。カードの残高が不足していたらしい。コノヤローと舌打ちした。仕方なく精算機の列に並んだ。財布の小銭をまさぐると、あいにく十円足りない。また舌打ちした。小口の金に足元を掬われたと思った。
 現金主義で通すおれは、たまに小さなミスを犯し、自分に腹が立つ。夜間にコインパーキングを利用して駐車場から出るとき、財布の小銭を落としてしまった。周囲が暗くて見つけるのを諦めた。
仕事でも数字に関する失敗を犯した。ホームページで勇み足をした。病院のホームページを更新する際に職員数を更新したのだが、一部分を古いままコピペして忘れていた。しばらく気づかなかった。あとでホームページを閲覧した総看護師長から間違いを指摘された。赤恥をかいた。しくじりに、大石から心配された。
「野中課長、大丈夫か?」
「なんでもありません」
 おれがそう答えるとき、たいてい何かあり、互いの暗号のようになっていた。職員が帰ってから、喫煙所に大石が現れ、「どうなった?」と訊ねてくるのだ。
「いや、ホームページで小さなミスをしてしもて。数字って怖いですね」
「そら、そうやで。なんも知らんとき、人はまず数字を見て判断しよるから」
 大石のいうのも頷けた。敷地面積何平米、ベッド数なん床、最寄り駅から何分。数字に実情が現れている。数字はよすがとなり、ときにトリックや魔物にもなると感じた。
 ゴールデンウィーク前に、院内で財布を落としたと訴える老女がいた。おれは事務室を出たとき、老女の困っている様子に気づいた。一緒に廊下やトイレを探してあげた。老女は着古して糸のほつれた服を着ていた。見るからに貧相な身なりだった。
 財布は遺失物の箱に届いてなく、その方は困っていた。家に帰れない、食べ物もないと訴える老女を前に、二千円を貸してあげた。老女は礼を述べ、受付にあるメモ用紙に連絡先を書いた。
 二週間ほどして忘れかけた頃、その女は公共施設ばかりを狙う寸借詐欺だと警察が来て説明した。善意で貸してあげたのに、となんだか切ない気持ちになった。

 ゴールデンウィークは終わった。緑のまぶしい五月がやってきた。
 妻はきまって、月、木、金曜にパートに出かける。病気も治り、以前のように勢いよく自転車のペダルを踏んでパート先に通っていた。休職期間はあったが、元通りのシフトで店に立っている。そうおれに語った。
 パートを始めて一年以上が過ぎた計算になる。恵美里の進路変更で学費はかなり抑えられる計算が立った。私は一度きめたことを頑張るタイプやねん。職場でめっちゃ重宝されとるねん、と本人から気丈な言葉が口を突いて出た。さぞかし、衣料店では愛敬を振りまいているのだろうと想像した。
 ある平日の朝、シフトが休みの妻と朝食の席でかち合った。別に気まずくもなかったけれど、いつもしているように、それとなく顔を新聞で隠した。片手で半分に折った新聞を持ち、もう一方の手でトーストを食べようと手を皿に伸ばしたとき、話し掛けられた。
「なあ。たまには、夫婦揃ってロードショー観にいかへん? お得な割引とかあるやろ?」
 思いがけず誘われて、危うくパンの塊を喉に詰まらせるところだった。
「そんなもん、あんのか?」おれは慌てて牛乳の入ったカップを手に取り、ふたくち飲んでパンを胃袋に流し込んだ。
「あるある。五十になったら、一人分で二人観られるの。カップル割引でもいけんねん」
「カップル!」頓狂な声を思わず上げた。何考えとんねん、といいたかった。
「なんか、おかしい?」
「便利な世の中になったなあ」はぐらかした。
「そうやろ? 安いで。得や」
「そうやけどなあ」
「映画、観とうないん?」
「いや、別に」おれはコホンと咳払いをした。
「ほな、いこ。来週末にでも」
「いやぁ。週末はちょっと……」
「あら。なんかあんの?」
「洗車せな。車は大事な仕事道具やから」
「そんなん、いつでもできるやん。なあ、ええやろ? 昼間の二時間だけやん」
 急に甘えてこられても、と弱った。トーストの残りを無駄にゆっくりと咀嚼しながら、どうかわそうかと思案した。
 そのとき妙案が浮かんだ。娘と観にいった、あのホラー映画だ。あれをいいわけにしようと思った。
「この前、莉奈とホラー映画にいったやろ? あれで気分悪うなって、しばらく映画は観とうないねん」
「そうなん? 残念やなあ……」
 新聞の陰から妻の顔をチラッと見た。本当につまらなそうに落胆していた。
「まあ、ええわ。ほな、私がパートで稼いだ小遣い、好きなように使わしてもらうで。パーッと使って憂さ晴らししたろ」
「ああ。好きにしたらよろし」おれは胸を撫でおろした。
 数日後、帰宅すると、玄関に大きな箱がひとつ、ボンと置いてあった。
「おーい。なんや、この大きい箱は?」
 奥の方で妻が叫んだ。
「ああ。それは、私が買うた甘夏やねん。通信販売で注文したの。代金は払たよ。重たいからそこに。頼みがあるねん」
「なんや?」
「それ、リビングに持ってきて。隅の方に置いといて」
「え! 帰ったばかりでこんな重そうなもんを? おれに運べって? 十キロって書いとるがな」
「そうよ」
「本気か。しゃあないなあ」
 映画を断ったつけがここで回ってきたと思った。おれは、手提げ鞄を玄関に置いた。腰を痛めぬよう、甘夏十キロの箱をそろそろとリビングの隅に運び入れた。毎日のように死ぬほど甘夏を食わされるわと思いながら。
「それ、愛媛県からなんよ。穫れたての無農薬の甘夏で、四千五百円。二十八玉入りや。みんなで食べたら、ちょうどええ具合やろ? ええのん見つけたんやで」
 妻は威勢よく豪語した。さすがに食べ物の選び方に関しては賢明やなと思った。
甘夏が届いた晩から二日後だった。おれは、いつものように夜の八時を回った頃に仕事を済ませた。少しばかり歩かなければならないコインパーキングに車を停め、駅まで歩いた。
 会う約束をしていた。夜の八時から十二時間預けて、翌朝取りにいく腹積もりだった。飲む予定が入っていた。ふたりして外で飲むのは、初めてだった。
「パパ、一緒に飲みに連れてって」
 娘の莉奈に頼まれていた。研修期間も過ぎ、大阪支社配属が決まっていた。
 新たに仕事を覚えるのは苦痛でないが、毎朝早くに起きるのと、満員電車で押し潰されそうになりながら会社に通うのが辛い。莉奈は愚痴をこぼした。
 OLになった莉奈の姿を思い描いてみた。上司にいわれたことをそつなくこなしているのか。早くも残業をして頑張っているのか。それならば、親馬鹿と呼ばれてもいいから、娘を助手席に乗せて会社まで送り届けてもええかな。
 そんな思いを頭に浮かべ、駅から少し離れた場所へ向かった。とある小じゃれた洋風居酒屋の前まで来た。中では娘が待っているはずだった。
 洋風居酒屋の自動扉の前に立つと、スーっと扉が開いた。若い女性店員が近寄ってきた。
「何名様でしょうか」
「二名です。すでに一名、連れが来とりまして」
「お連れ様が。お名前は?」
「野中です。私はその父です」
 ちょっと照れた。そこまで話す必要はなく、思わずひと言出てしまった。同じ店で娘と飲むという状況が気恥ずかしかった。けれど、店員はお構いなしにずんずんと大股で奧へ案内し、こちらです、と告げた。
 テーブル席に莉奈がちょこんと座って、サワーを飲んでいた。冷めても食べられるつまみも、少し用意してあった。
「来たぞ」おれは莉奈に声を掛けた。
「よう来たね。待っとったよ」
 娘の元気な声に促されるように、さっそく店員を呼んだ。つまみと生ビールの中ジョッキ一杯を追加した。ほどなくして生ビールが運ばれてきた。おれは娘と乾杯をした。莉奈の方から誘ってきた。よっぽど大事な話か仕事の相談でもするのかと思っていた。莉奈は、意外なことを口にした。
「パパ、三月の休みのとき変やったけど大丈夫? なんか目を真っ赤に腫らしとったけど」
「あ……、いや。ちょっと。昔を思い出して。それは、もうええんや。大丈夫や」
 作り笑顔でその場をしのいだ。莉奈が気づいたのなら、家族みんながそうなんやろなと思った。
「私、保険会社で頑張って働いてみて、あかんかったら転職も考えとんねん」
「おいおい。もうそんなことを。まだ先の話やろ?」
「そりゃ、そうやけど」莉奈は俯いた。
「とにかく、地に足着けて、保険の仕事の基礎を学ぶべきや」
「そうやね、やっぱし。でもね」そこで一旦話を区切り、グラスの残っていたサワーをぐいっと飲み干した。近くを通りかかった店員に、「私も生ビールの中を下さい」と注文してから、「大学時代にね。地域活性化や地域再生をテーマにして勉強したの。卒論のためにテーマを選んで、九州や四国の現地へ何度も足を運んだんよ」といった。
「それは知っとるで」
「だから、そっち方面の仕事、NPOかシンクタンク。地方公務員の道も転職先に考えとんねん」
「なんや、それ。それなら、保険会社に決めずに、最初からその方面に絞って就活すればよかったんとちゃうんか?」
「そうやねんけど、いろいろ上手くいかへんくて。でね。やりたいことを仕事にしとる人って少ないもんなんやろ?」
「まあ、そういわれとるけどな。どうやろ。五十過ぎて好きな道に入る人もおるしな」
 物分かりのいい娘に感心する気持ちと、転職まで視野に入れているといいだした莉奈への戸惑いの気持ちが入り乱れて心がざわついた。本気なのか、少々心配になった。娘が心から望んでいる道を歩むのを見守るしかできないと思った。
 莉奈の仕事の内容や将来性はどうか。転職して、現実にそこで長く勤まるのか。本当にやりたいことをやらせてもらえるか。実現できる見通しはあるか。飲み食いしながら語り合った。
 気づくと予定の時間を回っていた。女性店員が近寄り、「もうお時間ですので」と退店を迫られた。お前は社会人やねんから、と割り勘にして莉奈に自分の分を払わせた。
 二人で店を出た。夜空にひときわ明るい星が見えた。駅まで歩く途中、酔った莉奈は何を思ったか、
「パパ、高校時代、弁論部に入っとったんやろ? なら、市議会議員に立候補できるやん。みんなの前で演説して。そんで、私はくっついて横で座っとんねん。秘書として」
 とふざけた。
「おい、何をいい出すんや。出馬なんてせえへん。第一、金もないのに、立候補なんてするわけないやろ」
 こちらのたしなめに応えず、莉奈はさらに調子に乗った。
「それでぇ。当選して何年後かに、こんどは私が地盤を受け継いで立候補や。野中こういち元議員の娘です。地域再生を目指して、ここK市政を変えてみせます、とかいうたりして」
「ええかげんにせえよ。お前は酔うとる。酒と破天荒な夢に」
「ふふーん。ウソやで。引っ掛かった。焦った?」
 軽薄なからかい半分の言葉に呆れ、肩を小突きながら、おれたちは駅に着いた。隣を歩く莉奈は、眠そうに目をこすり、無言でついてくる。
 梅田駅の長いエスカレーターを昇りながら、あの人がゆっくりと天に召されていく姿を思い浮かべた。おれはそっと胸に手を当てて冥福を祈った。一つ飛ばしの段に立っている女性の後ろ姿がナオコとだぶって見えた。
 この年になると、いつものことだが、何かをしようと思ってある場所へいき、なんの用だったか忘れることがよくある。本当にハワイへいったとしたら、おれはなにをしようとしただろうか。三月時分のおれに、なにができただろう。過去の思い出に麻痺していただけではないか。
 おれにとりついたナオコの霊から解放された。彼女に会える空間旅行は途絶えてしまった。ナオコへの幻想と、この世から消え去った事実を思うと、たまに落ち込んでしまう。
 あの記憶。二十七年前の過去とリンクし、三月に目に焼き付けた残像。四月まで続けたラヴリー・トリップ。いずれも素晴らしかった。しかし、切なさと寂しさの入り混じった追体験でしかないと思った。
 酒臭さの漂う車内で、広告や車窓を眺めながら電車に揺られた。ドア付近に立つと、ときおり停まる駅の空気が入り込んで、ひんやりして心地よかった。自宅の最寄り駅に着いた。
 家までの道すがら、五月の夜風が何かを打ち消すかのようにおれの頬を軽く撫でていった。家近くの高層マンション二棟のあいだを風が通り抜けた。勢いが強く、莉奈の髪は後ろに激しくなびいた。おれは、長女の髪を優しく、いとおしく押さえてやった。父の姿に戻って、並んで夜空の下を歩いた。
 自宅に帰り着いた。リビングのソファーに座ろうとして、壁の古時計を見た。針が前後に揺れていた。電池切れのようで、秒針が狂っていた。

 人生は節目を迎えても、心に節目はない。春は巡り、夏がくる。繰り返し、繰り返しやってくる。その途中で、いつか、忘れた残像に素直に向き合える日が来ると思った。時や機械装置では解決しようのないけじめのようではあるが。
 おれは、車を走らせながら、西北病院へ向かっていた。四百人を数える職員を抱えた病院に、朝の爽やかな空気を届けるために。出勤してくる事務員らを温かく迎え、励ますために。
 きょうも一日、日が昇る。雲が太陽を隠したかと思うと、ときおり晴れてくる。日光が窓から射し込めば、院内や事務室は明るさを取り戻すだろう。
 退職した朱美は、晋太郎と堺市の新居で楽しく暮らしているらしい。先日、新婚旅行の千葉から帰ってきた。ディズニーランドにいったのではなく、九十九里浜で二人してサーフィンを楽しんできた。心斎橋に雑貨を見にきたついでに、梅田で晋太郎と待ち合わせてランチを食べた。病院まで足を伸ばした。皆さん、相変わらず頑張っていて、熱心に仕事に取り組む姿を見ると、懐かしさを覚える。
 通いなれた事務室の横で、受付の女と明るく話しながら、まだ新しい姓の呼び方に慣れないと朱美は笑った。初めて目にする鶯色のワンピースを着ていた。お腹が少し目立っていた。愛想のよさは変わってないなと思った。
 マユミにはとても感謝している。彼女がいなければナオコとの縁は切れていただろう。誕生日のプレゼントもありふれた品だったに違いない。広田のバーで飲んで以来、会っていなかった。いつか、なにがしかのお礼をしたいと思っていた。
 知り合いにワインの会社を経営する人間がいた。彼がオーナーを務める店が、三周年を迎えるらしい。一緒に飲んだとき、頼み込んでおいた。三周年祝いを前倒しにして、五月にバルを開いてもらうように。
 マユミをメールで誘い、オーナーから貰ったバルの無料優待券を贈った。出席するかどうかは、彼女の意思に委ねた。当日、おれは仕事の残業があって出席を諦めた。翌日、マユミからメールが届いた。
「無料優待券でワインバル、いってきました。いろいろな業種の方々と知り合い、話も弾んで楽しめました。ワインもおいしかったです。どうもありがとうございました。 真由美」
 彼女らしい、几帳面な内容のメールが返ってきた。マユミの婚活を応援しようという意図ではなかった。八方美人のマユミの抱える孤独を知る友人として、少しでも心の隙間を埋めてやれたら、と考えた。
 マユミの趣味は、食べ歩き、お酒、ゴルフ、ショッピングだった。こんど、おれのゴルフ仲間でコンペがあるから、誘ってみようかなと思った。コミュニケーションが弾み、彼女の良さが周囲に伝わるだろう。ほとんどの男性参加者は既婚者だ。美人で話の上手い女性がいると知ったら、どこかで縁談が持ち上がるかもしれない。景品に和牛やケーキなどを用意するらしい。彼女にはぴったりかなと察した。
 週末、西宮の浜に来た。今日、貝を拾わないつもりだった。大阪湾から瀬戸内海へとつながる海は、太平洋まで渡っていくことだってできる。
 十年ほど前、西宮浜にある『西宮市貝類館』という施設をふらりと訪れた。堀江謙一さんのヨット『マーメイド号』が併設展示してあるのが印象に残った。
 太平洋を単独横断して世界一周を果たした冒険家は、ミネイシ・ナオコとは別の意味で海を愛していたはずだ。貝に愛着を持ったナオコの魂。波と潮風、眩しい太陽、夜空の星を愛した堀江謙一さんの魂。双方がともに太平洋の波間に浮かんで、渡り鳥の群れにエールを送っているような情景が脳裏をかすめた。
 この浜の先に、ハワイがあり、オーストラリアがある。その現実だけは、いまも昔も、未来だって変わらない。退職したら、なにかの冒険に出かけてみるか。孫ができたら、浜に連れてきて貝を拾おうか。なんとなく、想像してみた。先の話やなと呟いた。少し滑稽に思え、口元が緩んだ。
 混乱し、絡まっていた糸は、ようやく繭からほどけ、過去と今と未来を一本の糸で結んでいる。糸は他の仲間をつなぎ、蜘蛛の巣のように綺麗に張られていた。
 旅、出会い、再会で得た記憶。それらを結ぶ絆の糸は、目に見えないぐらい細く、銀色を帯びている気がした。艶のある丈夫な糸だ。それは、たしかに仲間の周囲を結び、いつまでもそこにあり続ける気がした。なんだかとても心強い気になり、おれは水平線を眺め続けた。
よきにつけ悪しきにつけ、区別しない、区別しない――。心でそう念じた。
                                  〈了〉

ラヴリー・トリップ

ラヴリー・トリップ

外国旅行を通じて自由な恋愛を経験し、その後の男の人生に旅先で出会った女が深く関わる。部分的にSF的、絵画的な要素も含む。

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