せんせいの鱗

あおい はる

 せなかに、鱗ができて、せんせいが、ほんとうは魚なのかも、と思ったとき、でも、ぼくは、ちゃんと、魚でも、魚ではないものでも、また、にんげんではないにしても、せんせいのことを、愛しつづける自信、みたいなものは、あった。
 海に、いる。
 せんせいは、百年ぶりに明けた冬の、おわりごろに、海にかえった。星の温度が、氷点下に達したときには、町のひとびとは、地下のシェルターにいて、ぼくと、せんせいは、シェルターには入らず、ずっと、学校に、いて、それは、ほぼ、学校に住んでいる、という状態だった。学校は、長い冬がはじまって二年目には、すでに、学校としての機能をうしない、つめたい校舎に、ぼくと、せんせいだけが、のこった。学校のなかにいた、いきもの、生物室の小動物や、昆虫の類は、みんな、きっと、凍え死んでしまって、暖を取る術を持っている、ぼくと、せんせいは、それでも、ふたりでは当然、もてあますことになる空き教室のほとんどを捨て、ときどきしかつかわれていなかった宿直室で、寝食を共にした。そこには、おふとんがあって、こたつも、ガスコロンも、ちいさなシャワールームもあって、最低限の生活、というものはできて、テレビはなかったけれど、どうせ、まいにち、おなじような内容のニュースしかやっていなくて、ぼくらの町から電車で二十分くらいのところにある、それなりの都会も、ふだんの華やかさは鳴りを潜め、暗澹としていた。ぼくには、家族がいるけれど、せんせいにはいなくて、ぼくが、せんせいの家族になるのは、それは、もう、必然であるかのように、ぼくはせんせいのそばにいて、せんせいも、それを拒まなかった。せんせいの指は、どんなにあたためても、いつも、つめたくて、なんとなく、しめっていた。指だけではなく、からだじゅうが、水を浴びたあとのように、うるおっている感じで、つまり、これらはやっぱり、せんせいが、魚めいたものであることの証拠、であるのだと、あとになって思った。あとになって思ったことは、ほかにもたくさんあって、それは、すべて、せんせいが海にかえったあとに、そういえばあのとき、と、結びつくことが、多いのだった。
 永遠につづくような、冬のあいだに、せんせいの皮膚は、着実に、鱗となり、その、ざらりとした手触りも、なれれば心地がよいもので、せんせいに抱かれているあいだに、ぼくのからだにわずかな傷がつこうと、かまわなかった。せんせいは、エラ呼吸のひとなの、と、たずねたことがあり、そのとき、せんせいは、水炊きをつくっていて、ぼくのどこにエラがありますか、と微笑んで、菜箸で鍋の具をうごかしていた。確かに、せんせいに、エラらしきものはなかった。けれど、おそらくせんせいが、魚類、という疑いは、いくつも点在していて、でも、結局は、なんでもよかったのだと思う。せんせいがなにものでも、せんせいとふたりで暮らしている、という事実が、ぼくのなかで、真実よりも勝っていた。せんせいが、すきで、すきで、すきだった。どうしようもないくらい。いまも、そう。せんせいがかえった、海に、ぼくはいて、離れられないで、まるで、地縛霊みたいだと、しらない誰かに言われた。冬が明けたばかりの、春の海は、どこまでも青い。

せんせいの鱗

せんせいの鱗

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-06-09

CC BY-NC-ND
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