瑠夏の花火

ちぃひろ

「瑠夏も浴衣、着たかった?」斗真にそう聞かれて、瑠夏は慌てて頭を振った。自分たちを追い越した浴衣姿の女を無意識に目で追ってしまっていたのだろう。
「ううん。このままで良かったよ。私、着付けできないもん」周りを見ても、自分と同じような、ありふれたワンピースを着た女も、ちちらほらいた。勿論、香を薫きしめた良い浴衣を着た女もたくさんいたが、瑠夏はそういった人間を見ると、自分とは、お金の使い方の違う人種なのだと言い聞かせた。
 今日はもう充分に贅沢している。今から花火を見るのだ。花火は安くない。
 昔はタダで花火が見られたという。しかし、相次いで起こる豪雨によって、中止となる大会が増えたことや、隣国の戦争によって火薬の値が爆発的に高騰したことにより、今や花火はお金を払って見るものとなった。
 今、瑠夏が財布の中に大事にしまっている河川敷入場券が一枚五万円。これが観覧席だと一席十万円まで跳ね上がる。
 河川敷入場券の値なら、どうしたって払えないというような金額ではない。しかし、月の手取りが十万程度の瑠夏にとって、或いは瑠夏と大差のない斗真にとって、安易に買えるものではなかった。
 瑠夏と斗真にとって、この花火はハネムーンの代わりだった。
 瑠夏は自身の腕をそっと斗真の腕に絡ませた。昼間の祭りの余韻を残した腕は、まだ温かくて心地よかった。
 入場ゲートに向かう人で自然と流れが出来ていた。二人もその流れに沿って、土手を前へと進んだ。土手にはこの辺りで勝手に立ち止まって花火を観覧する者がいないよう、また、入場までの列が崩れないよう、ところどころにAI警備機が設置されていた。
 沈みかけた夕日が、列に並ぶ人の影を長く伸ばした。行列はずっと奥まで続いていて、人々が長く列をなしている景色は、やはり趣深いなと瑠夏は思った。
 いつもテレビで観ていた夏の景色だ。夏が来る度に、テレビは花火大会のゲートに向かう人の姿を映した。テレビに映っていた人々は、みな静かに高揚しているのが見て取れて、それだけで魅力的な絵になった。
 瑠夏はいつも花火をテレビの画面越しに観ていた。あるいは、少し離れた仕事場のビルの窓から小さな姿の花火を見た。それはそれで、充分に美しかった。
 けれども、昔一度だけ河川敷で見た大きな花火が忘れられず、今日を迎えた。瑠夏にとっても、おそらく斗真にとっても、河川敷で見る花火は特別であった。
 もう十五年も前のことではあるが、あの花火を見た日のことは、まだぼんやりと、おそらく少しばかり、鮮やかに飾られた状態で、覚えている。
 あの日斗真は、私を会場に引っ張って連れて行った。こっそり忍び込んで花火を見てやろうというという、そういう、いかにも子どもらしい、単純で浅はかな魂胆だった。当然、会場に入ることはできず、土手に並んだ列を眺めては、途方に暮れていた。すると、私たち二人をそっと引っ張る手が現れた。
「こっちへ、いらっしゃい。一緒に見よう」二人の話しぶりから二人が夫婦であることは、察された。
「私たち子どもがいないの。あなたたち、今日だけ、私たちの子どもにならない?」そう、おばさんは言った。
 あの頃は知らなかったが、花火大会のチケットは大人一人につき、小学生以下の子ども一人も一緒に入場することができる。夫婦は私たち二人を連れて河川敷に入場した。
 あの日見た花火の美しさ、弾ける音、肌で感じる大気の震えは忘れられない。
「俺な、大きくなったらな、いっぱい稼いで、今度は俺が、瑠夏を花火大会に連れてってやるからな」斗真は威勢よく言った。
「おっ。ぼっちゃん、その意気だ。かっこいい男になれよ」おじさんは手を叩いて陽気に笑った。
 あれから十五年。現実はもっと複雑で、難解で、あの頃の憧れの通りに、とは言えないけれども、それでもどうにか、二人でお金を出し合えば、花火を見ることができるというところまでにはこぎつけた。
 充分に幸せだ。瑠夏は斗真の腕の温もりを感じながら、そう思った。
 ゲートがゆっくりと近づいてきた。ゲートにはスタッフが3人ほど立っていて、河川敷入場券を確認している。
 そして、そのゲートの手前に、瑠夏は列から少し外れたところで佇む一人の少年を見つけた。身体に対して少々大きめのTシャツに短パンを履いた少年は、その場にじっと立って、ひたすらにゲートを見つめていた。
 列は順に進み、瑠夏達はその少年の脇に並んだ。
 瑠夏はもちろん、瞬時に少年がそこで何をしているか理解していた。
 そして、そのためには、自分がどうすれば良いのかということも、はっきりとわかっていた。
 瑠夏は少年に花火を見せたいと強く思った。きっと、一生の思い出になることだろう。
 しかし、瑠夏は瑠夏の手を強く握る斗真を感じて動けなかった。
 この花火大会が二人にとってのハネムーンなのだ。二人のための時間を手に入れるためにしてきたこれまでの努力が瑠夏にのしかかった。
 二人だけの特別な時間を諦めてまで、少年に楽しみを与える義務はない。
 勿論、瑠夏にじっくりと考える暇があれば、少年と一緒に入場だけして、後は少年を自由にさせる方法を考えたり、そうでなくても、過去の自分達を思い出し、慈愛に満ちた正義感で、少年とともに花火を見たりしただろう。
 けれども、瑠夏がほんの一瞬迷った間に、少年は二人の丁度後ろに並んでいた老夫婦に声をかけられた。
「おや、坊や。誰かを待っているのかい」
「待ってない。金持ちの行列眺めて、いつか絶対花火を見てやるんだって、誓うためにここに来ただけだ」
「あら、ずいぶん立派な志の少年ね。将来が楽しみよ」
「ああ、そうだね。だが、少年よ、こっちへおいで。今しがた、私は用事を思い出して、帰らないといけなくなったんだ。私のチケットは年寄りと子どもが使えるBチケットだ。君には是非、私の代わりに妻と一緒に花火を見て欲しい」
「あら。あなたじゃなくて、私が用事なのよ。あなたが、責任持って、この子の面倒をご覧なさい。男同士、水入らずで楽しんできなさい」
 概ねそういった内容の話が聞こえてきて少年は引き取られていった。
 瑠夏が自分の器の小ささに気づいた時には遅かった。瑠夏は斗真の分と二枚のチケットを鞄から出して、二人で入場ゲートをくぐった。
 そこには、かつて見た、あの憧れた景色が待っていたはずだった。河川敷に降りる階段から見下ろした景色は、確かに思い描いていたものと同じだった。オレンジ色の空の下、だだっ広い河川敷に、何千、何万もの人が所狭しと集っている。みながこれから始まるものに心躍らされ、会場は既に熱気に包まれていた。
 ああ、花火大会が始まるのだ。瑠夏は思った。
 しかし、かつて会場に入ったあの日ほどの感動はなかった。というよりは、先ほどの少年の一件に、感情を奪われてしまったのたのだ。
 なんて自分は弱い人間なのだろう。かつて自分が受けた思いやりすら、誰かに返すことができない。人間としてどこか足りないような、そんな想いが瑠夏を苛んだ。
 実際、先程老夫婦が少年にチケットを譲った時、瑠夏はホッとしてしまったのだ。ああ、これで自分は何もしなくて良いと安心してしまった。なんと情けなくて、意地の悪い心か。
 河川敷の草原に敷いたレジャーシートの上に座っても、その思いは拭えなかった。座った所が、丁度絵に描いたように幸せそうな四人家族の後ろだったこともあるかも知れない。まだ幼い兄と妹は、期待に満ちた顔で父と母を何度も見上げた。その度に、子どもたちにとっての花火の存在の大きさを思い知らされて、辛く感じた。
 いや、しかしあの少年は、何も私が施さなくとも、あの老夫婦のどちらかと花火を見ることになったではないか。きっとあの夫婦は、何度も花火を見てきた金持ちだ。だから、ああして、何の躊躇いもなく、チケットをあげることができたのだろう。それに比べて、私たちはどうか。この日の為にどれだけ努力したか。私たちだけで、その幸せ受けても、バチが当たることはないだろう。
「売店で何かお酒でも買ってこようと思うけど、瑠夏は何が欲しい?」斗真の声で、瑠夏は漸く我に返った。
「なんでもいい。けど、せっかくだから少しでも一緒に過ごしたい。買ったら急いで帰ってきて」瑠夏は少し甘えた声で言ってみせた。
 そうすると、斗真は売店に行くのをやめ、鞄の中から水筒を取り出して茶を飲んだ。そして、レジャーシートの上に体育座りしている瑠夏の肩をそっと抱き、自分の方へ引き寄せた。瑠夏は斗真の肩に頭を乗せ、暫くそうしていた。
 やがて、夕焼けが深い紺へと変わり、星も幾つか、ちらつき始めた。
 それを待っていたかのように、大会開幕のアナウンスとが流れ、色とりどりの花火が打ち上がり始めた。
 瑠夏は花火さえ始まって仕舞えば、少年のことなど忘れてしまうと思っていた。それは大きな間違いだった。寧ろ花火が上がる毎に、少年の存在が瑠夏の中で大きくなるのを感じた。
 どうしたって昔を思い出してしまうのだ。鮮やかに散る火花、心臓を震わす破裂音、人々から上がる「たまや」の掛け声。昔見たあの通りの景色がそこにはあって、ひたすらに美しかった。
 この景色が胸にあったからこそ、私たちは大人になるまで頑張れたのだ。あの日、あの夫妻が私たちに声をかけてくれたことがどれだけ幸運なことであったか。悔しいかな、あの日あのおじさんはこう言った。「こんな時代になっちまったがな。本当は、花火はみんなで見るから美しいんだ。誰のもんでもねぇ。誰もの思い出ん中に、どーんと大きく咲いていて、それが粋ってもんだ」情けないことに、瑠夏はその心意気を引き継げなかった。
 やがて花火大会はクライマックスを迎え、赤、黄色、桃と激しく乱れて打ち上がる花火に、そこかしこから歓喜の声が上がっていた。しかし、瑠夏はそれを黙って眺めることしかできなかった。
 今は美しいものを見ることが、辛かった。自分に花火を見る資格はないのだと思った。
 そして、花火大会は終演した。辺りからは大きな歓声と拍手がおこった。薄っすら烟った空の下、それぞれが感動の余韻に浸り、顔をほころばせている。
「瑠夏。行こうか」そう斗真に呼びかけられて、瑠夏は言われるままに立ち上がった。二人は流れに沿って二言三言何か言葉を交わしながら、まだ火薬の香が残る河川敷を後にした。ただ、何を話したか瑠夏はもう覚えていない。
 帰り道は、どこも興奮した人で溢れかえっていて、漸く落ち着いたのは最寄駅に着いてからだった。
 辺りが静かになったことで、自分たちが、殆ど話していないということが、どうしてもはっきりした。
 けれども、瑠夏は何か話そうという気分になれない。少年を思いやれなかったという事実で頭の中がいっぱいで、どうしようもなかった。しかし、また一方で、自分勝手に沈むのも、斗真に申し訳ないと理解していた。これはハネムーンなのだ。これまでの人生でずっと憧れてきた時間であり、この最高の瞬間を私が潰すのは正しくない。
 そんなことを考えれば考えるほど、どう振る舞えばいいのかわからなくなって、結局黙り込んでしまっていたのだ。
しかも、この勝手な落ち込みはもう既に斗真に伝わっていると思われる。斗真も瑠夏と同じように妙に静かなのだ。突然機嫌を損ねた婚約者をどう思っているだろう。そう思うと、余計に情けなくて、切なくて、苦しかった。
 角をいくつか曲がって人気のない通りに差し掛かった時、ふと、斗真が繋いでいた手をぎゅっと握った。
「斗真……?」瑠夏は斗真の横顔を覗いた。唇が強く噛み締められていた。
と、次の瞬間、瑠夏は腕を引っ張られ、そのまま斗真に抱きしめられた。痛いほど強く抱きしめられた。
多分斗真は泣いていた。背中が震えていた。
「どうしたの、急に」斗真は瑠夏が知る限り外で泣くような性格ではない。瑠夏も流石に驚いて、自分が落ち込んでいたことなんて忘れて、思わず斗真の背中をさすった。
 斗真は暫くそうして、瑠夏にさすられるままになっていたが、やがて声を絞り出して言った。
「ごめん……。やっぱり、結婚は待ってくれないか。まだ俺は相応しくないよ」突然の言葉に頭が真っ白になった瑠夏に斗真はこう続けた。
「さっき土手の上でさ、瑠夏はあの少年を俺らのところに呼ぼうとしたじゃないか。なのに俺は、それが嫌で引き止めてしまって……。情けないよな。俺らは、昔、花火によって結ばれたのに、他人には同じだけの優しさをあげられないなんて」そう言っておいおい泣いた。
 瑠夏は斗真の言葉を噛みしめながら、彼の背をそっと何度も撫でた。そして、不意に胸に少しずつじんわりとした温かさが広がるのを感じた。
 斗真は優しい。他人のために、こんなに傷つくことができるなんて。こういう優しい斗真だから、私は好きになったのだ。
そうして、さっきまで自分も大体同じようなことを考えていたことを思い出した。そこで漸く、満更自分も悪い人間ではないと気がついた。
 きっと、あともう少し冷静に考えることのできる時間があれば、斗真も私も少年を呼んだだろうし、もし二人が毎年チケットを買えるようなお金持ちであったなら躊躇しなかっただろう。
 そもそも、私たちが少年のことを思いやる義理なんてないのだ。あそこにはどれだけ沢山の客がいたのか。私たち以上に少年を引き取るのに相応しい大人は山ほどいたはずだ。現に少年は誰かに引き取られた。
なぜ私たちだけがこんな思いをしなければならないのか。
 そこで、初めて瑠夏は気がついた。花火がみんなのものだというのが悪いのだ。私はただ花火を見たいのではない。私は斗真と花火を見たいのだ。二人だけの花火が欲しいのだ。
 僅かの優しさに付け入られて、悔やむのはもう終わりだ。
「ね、今から線香花火しようよ。コンビニで買ってさ。誰にも邪魔されず、私たちだけの花火」瑠夏はしがみついて、斗真を見上げた。
「へ?」斗真は泣き腫らした目で瑠夏を不思議そうに眺めた。

瑠夏の花火

昨年の夏の終わりに思いついて、少しずつ書いていました。

どうかこんな世の中にはなりませんように。
みんなで花火を拝める平和な世でありますように。

瑠夏の花火

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更新日
登録日 2020-06-08

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