スープと音楽
おんがくがきこえる。なまえもしらない、おんがく。
夜が反転して、白い顔のおとこのこたちの、笑っている声がする。赤く塗られた、じぶんの、右足の親指の爪をみつめて、きみの後ろ姿を思い出していた。顔はもう、忘れてしまったけれど。おとこのこたちの笑い声と、なまえもしらないおんがくが、ぐじゃぐじゃになった夜のなかで、星と星がぶつかりあって弾ける音と、いりまじっている。騒々しい夜だ。わたしは、おんちゃんがつくったスープを飲みながら、どうしておんちゃんのことを好きにならないで、きみのことを好きになったのかと、いまさらになって考えるのだ。ぼんやりと、後ろ姿しか覚えていない、きみと、物思いに耽っているあいだは人間的生活が疎かになるわたしの部屋に、かいがいしく料理をつくりにきてくれる、おんちゃんと、てんびんにかけたとき、日々、わたしのきおくからうすれていっているはずのきみの方に、どうして、好き、という気持ちが、かたむくのか。
開け放たれた窓から、ゆるやかに風が吹きこんでくる。
カーテンが揺れて、笑い声と、おんがくと、弾ける音が、わたしの雑然とした部屋を、みたしてゆく。
きみは、昨年の春に、あの、百年に一度の、空と海がいれかわる日に、いなくなった。おそらく、空におっこちたのでしょう、と言ったのは、捜索隊のひとたちで、朝になれば元にもどるので、そしたらきっと降ってきますよ、ということだったのだけれど、空が、空にもどっても、きみは、降っても、おちてもこなかった。わたしは、泣かなかった。きみが、空に沈んだのだと想って、なんだか、すごい、などと、ひどく場違いな感想を抱いていた気がする。きみにもう、逢えないかもしれない、というかなしみよりも、きみが、あの、海よりも広大な空のどこかに沈んで、でも、優雅に泳いでいるかもしれない、とか、星々を渡り歩いて、あたらしい生命体となかよくやっているかもしれない、なんて、わたしは想像していて、それで、わたしのなかのもうひとりのわたしが、わたしのことを、さいていだ、と罵っていた。ああ、それで、おんちゃんが泣いていたのだ。わたしのかわりみたいに、おんちゃんが、まいにち泣いていた。おんちゃんの泣き声は、一定のリズムがあって、抑揚があって、まるで、うたっているみたいだった。
お皿のなかのスープが、ちいさく波立っている。
しらないおんがくが、白い顔のおとこのこたちの笑い声と、星の弾ける音を、次第に、おんがくにしていっている。じぶんのなかに、とりこんでいっている。
夜が、深くなってゆく。
スープと音楽