天使創造

申出書

 平成3X年4月30日
 国立※※大学医学部研究所所長 殿

 下記の研究内容に倫理的問題があると判断し、下記の通り申し出ます。
 皆川彰子

   記

1.申出人の氏名又は名称及び住所並びに電話番号

 氏名又は名称 皆本彰子
 住所 ※※県T市N区I町**町目*番地*号メゾン***号室
 電話番号 080―****―****

2.申出に係る通報の種類

 被験者に対する性的虐待。及び倫理的観点における暴力等

3.申出の理由

 申出人は事業者が運営する国立※※大学医学部研究所産婦人科村上研究室で研究員として勤務しているが、同研究所では室長及び複数の研究員が被検体Aを「天使」と称して性行為を強要するなど性的虐待を行っている。また村上室長は「天使」を人知を越えた人ならざる者にしようと目論み、その非道さは倫理的観点からみて人道から外れており異常と言える。
 村上室長は、本物の「天使」を作ろうとしている。

4.申出に係る事業者の氏名又は名称及び住所

 氏名又は名称 国立※※大学医学部研究所産婦人科村上研究室
 住所 ※※県T市N区I町**丁目*番地*号

5.申出に係る違法行為を行ってい事業者の場所及び氏名又は名称

 氏名又は名称 同研究室室長 村上正隆 及び研究員数名
 住所 ※※県T市N区I町**丁目*番地*号

6.備考

 本件申出をしたことが事業者に知れると勤務先で不当な扱いを受ける恐れがあるため事業者に対しては申出人の氏名を公表しないよう求める。
 
以上

 私の膣に、枯れ木のような細い指が入ってくる。嫌に冷たくて、節が骨張って、固く長い棒。私の中を迷うことなく探索する。何を見つけたいというのか。
「うむ、少し出血があるねぇ」
 指の主は舐めるような口調でラテックス手袋に付いた黒い血液を眺めた。
 研究室の隣にある診察室。白い壁と私たちを古い蛍光灯だけが薄暗く照らす。女性らしさを嫌に主張するピンク色のクッション。抵抗を許さず膝を広げさせられる内診台に私は乗って、この男の前で陰部を晒している。膝越しに見る男は、長く伸びた髪を無造作に肩にかけている。もつれた箒のように艶のない、嫌に石鹸の匂いばかりする髪。昔から変わらない、枯れた冬の針葉樹のような男だ。
 男は血液を紙で拭うと、もう一度、外陰部を広げてみせる。優しさなど微塵もない、引きつるような痛みが走る。でも、私は――。
「前より出血は酷くなっているねぇ。経血の量はどうかね?」
 男は目線を上げない。
「標準よりやや多いかと思います。月経痛も酷く、鎮痛剤を使用しています」
 そうか、と男は呟きながら私の性器を弄んでいた。私の欲しいものなど何もない。ただの観察対象として。
 男はエコーの先端に潤滑剤を少量つけると、何も言わず私の中に躊躇なく押し込んだ。押し広げられる苦痛に私は小さく声を上げる。甘美なものなどない。これはただの診察。私が求めるものを、男はくれないのだ。
 エコーが子宮の中をありありと写す。
「既存の筋腫が三ミリ肥大しているのと、新たに卵管付近にできているねぇ。肉腫ではないとは思うが、皆本君はどう思うかね?」
 皆本君、と呼ばれて私が男の元で働く研究員であることを思い出す。
 首をもたげて、薄暗いエコー画面を覗く。
「はい、私も肉腫では……ない、と……思います」
 男がエコーを動かす度に息が止まって声帯が止まった。内側から内臓が圧迫される。そんな私の吐息すらこの男は愉しんでいるのだ。
「ふむ、君も婦人科医としての知見が付いてきたようだ」
 ずるり、とエコーが引き抜かれ、私は息を吸うような悲鳴を上げた。
 男がエコーに付着した体液を拭き取る。もしもこの棒が、この男の性器なら。そこまで考えて、私の愚かさに病んだ性器が疼いた。

 私は服装を整えると、足早に研究室に戻った。国立大学の医学部産婦人科研究所。それが私の職場だ。今日はよく冷える。隣の棟まで戻る道すがら、北風が私の頬から熱を奪った。
「村上教授、戻りました」
 枯れた男は口角を二ミリ上げだ。
「皆本君、私はもう君の先生ではないんだ。室長とお呼びなさい」
「はい、室長」
 名前を呼ばれるだけで体温がよみがえった。村上室長は私の学生時代のゼミの教授で、進路に迷っていた私を研究室に招いてくださった。病理医の中でも噂されるほどの敏腕医師だと聞いている。――もちろん悪い噂もあったが。
「私の天使ちゃん。今日も美しい」
 悪い噂。その一つ、村上室長はいつも美少年を侍らせていた。片時も離さずに。
「天使ちゃん、皆本君にコーヒーをお出ししなさい。そう、いい子だ」
 村上室長に天使ちゃん、と呼ばれるのは少年と呼ぶのがふさわしいほどの年齢の男の子だ。過去の研究――開業医をしている私の姉も携わったという――によって産まれた試験管ベイビーで、私も本当の歳を知らない。でも、ここで私が勤め始めてもう八年が経過している。それでも、この「天使」は歳を取らない。気味が悪いほどに美しく、瑞々しく、たおやかな少年だった。細く長い手足。筋肉が発達する前の幼い手足。背中に羽が生えているわけでも、天の使いというわけでもない。ただ、村上室長がそう呼ぶのだから「天使」としてこの研究室では扱われている。
 天使が私のデスクにインスタントコーヒーが入ったマグカップを運ぶ。とことこ、という音がしそうなくらい心許ない足取りで。天使が言葉を発しているところを私は見たことがない。天使はマグカップを私に突き出し、受け取れと目で語った。腹立たしいほどに、憎らしいほどに美しい瞳をしていた。
「ありがとう」と受け取ると、天使は小さく頭を下げて村上室長の元へ戻った。
「よくできました、私の天使ちゃん」
 村上室長は天使の伸びたままの長い黒髪に指を通していた。天使は室長の膝に頬を寄せる。これは私の憶測だが、天使には知的障害と自閉傾向があると思っている。試験管ベイビーに何かしらの障害があることはよくあることだ。そんな行く宛てのない子供を研究室で育てる村上室長は生命の研究者のあるべき姿なのかもしれない。でもこの嫌悪感は、なんだろう。手の中のインスタントコーヒーが渦を巻いて時間を巻き取る。認めたくない何かが、そこにはあった。
「あきちゃんまた眉間に皺寄ってるよ?」
 私のことを「あきちゃん」と呼ぶのはゼミの後輩だった坂崎だった。私のデスクとは丁度背中合わせの位置にいる。回転椅子を私の方に向けてくるくるボールペンを回していた。
「そんなことない」
「まーたカリカリして。大好きな村上教授に嫌われちゃうよ?」
「うるさい」
 私はコーヒーに口をつけた。少し薄いことにさらに苛立つ。
「坂崎くん、あんまり皆本ちゃんのこといじめたら細胞採取するからね」
 隣のデスクの長谷川先輩がモニターから目を逸らさずに呟いた。ハスキーなアルト声だ。
「はせちゃんこそそんな体細胞ばっかり見てると婚期逃しますよ?」
 坂崎は憎めない笑みで言ってのける。私なら即バインダーで殴っていただろう。面ではなく辺で。
「そう、そんなに私に細胞採取してほしいのか。よし、坂崎くん今すぐ口開けて」
 長谷川先輩が私物の綿棒を出そうとしたところで私は止めに入った。長谷川先輩の趣味には困ったものだが、彼女が居るからこそこのプロジェクトは着実に進んでいる。彼女に見抜けない細胞の変化はないのだ。
「それより坂崎、今日の実験のデータまとめたんでしょうね」
 坂崎は飄々と「これからできまーす」と椅子をデスクに向けた。私はこの男のことが苦手だ。

 私の所属する村上研究室は不妊治療、現在は子宮、卵巣を含む人工女性器の開発に取り組んでいる。
 子宮や卵巣を失った女性にもう一度妊娠の可能性を。何の因果か現に私の性器は病に侵されている。発症して二年が経過しようとしていた。姉のクリニックで発覚して、子宮筋腫があると村上室長に話すと、村上室長自らが検診してくださることになった。私は最初躊躇した。私は村上室長に憧れ以上の感情を抱いていたと、躊躇したときに気付いた。これは恋の恥じらいだ。村上室長に私は――。
「皆本君、先日の実験データはあるかね?」
 私は緩んだ緊張を取り戻してデスクに向かった。
「はい、まとめてあります。今、転送します」
 私はこんなところで立ち止まっているわけにはいかない。村上室長の元で研究できることに感謝しなくてはならない。手が届かないことは分かっている。でもここにいることだけは……想うことだけは許して欲しい。
「ほう?」
 村上室長が両眉を上げた。
「サルへの移植が成功したと」
「はい、人工多能性幹細胞から培養した人工女性器を、去勢したメスのニホンサルに移植することに成功しました。経過は良好で、健康状態に問題は今のところありません」
 そうか、と彼はつぶやき、もう一度天使の頬を撫でながら、そうか、と呟いた。
「よくやった」
 村上室長の言葉に、私は震えた。喜びとはこのような感覚なのだと思い出した。胸の中に熱い花が咲くようだった。
「では私は少し席を外すよ。後のことは頼んだよ」
 村上室長はデスクから立ち上がると「天使」の肩を抱いて歩き出した。
「室長ってまさか天使連れて講義出てるのか?」
 坂崎は呆れたように声に出す。
「知らないよ、そんなこと」
 長谷川先輩はまだ細胞の拡大図を見ていた。今日採取したサルの細胞なのか、個人的に拾ってきた細胞なのかは分からない。
「さすがにないわよ。たぶん」
 私の言葉尻は小さくなっていた。研究室では片時も離れない天使。どこで暮らしているのかも、名前すらも知らない。
「あれで講義出てたらショタコンジジイって絶対俺なら呼ぶ」
 このときばかりは坂崎に同意せざるを得なかった。村上室長の天使への異常な執着。それは少年愛とでも呼ばれるものなのだろうか。私は糾弾してやりたかった。
「そうだ村上君」
 村上室長が私のデスクの横に立ち止まった。坂崎が急いでデスクに戻る。
「そうだねぇ……明日の午後、ちょっと付き合ってはくれないかい?」
 彼は腰を折って確かにそう言った。
――――もう一つの研究を見たくはないか?
 彼の湿った笑みが、私の脳裏に張り付いて離れなかった。

 家にどうやって帰ったのか覚えていなかった。
 村上室長のもう一つの研究。私は彼に許されたのだ。何か素晴らしいものを研究しているのだろうか。それとも。恐怖と高揚感が一緒になって燃えさかるような夕日を見ていたことだけを克明に覚えている。
 私はベランダへ続くサッシを締めて、ベッドの上のカタツムリのぬいぐるみを抱いた。姉には趣味悪いと言われたが、カタツムリだって可愛いと私は愛していた。ふかふかの私の体臭が染みついたぬいぐるみをきつく抱きしめてから、私は姉に電話をかけた。
「お姉ちゃん、私」
 姉の昌子は呆れたように「何よ、そんな嬉しそうに」と笑っていた。
「今の実験に成功して私、村上教授に褒められたの」
「そう、おめでとう。人工多能性幹細胞の実験だっけ」
「うん。人工女性器の開発も大詰めなの。いよいよ性器を失った女性の未来が明るくなるわ」
「彰子の夢だったものね。村上教授と研究することが」
 姉の一言に私の頬が熱くなる。
「ホント、男の趣味悪いわよね、彰子って」
「お姉ちゃん酷い」
「だって石鹸臭いやせぎすの枯れたおっさんでしょ? しかも極度のショタコン」
「それ、は」
 何も言い返せない。でも。
「好きなものは、しょうがないじゃない」
「もう少しマシな人を選びなさいよ。彰子の研究室ならもっと若くて優秀な研究者もいるのに」
「お姉ちゃん」
 私は、私は、
「そんな打算で恋できるほど、私は器用じゃないよ」
「そっか」
 スピーカーの奥の姉の声は私を包んでくれるほど優しかった。
「でも、気をつけなさい」
 姉の声が鋭くなる。
「あの男には不用意に近付かないこと。あの男は、人として間違っている」
 もう一つの研究。ぞわりと心がざらついた。
「お姉ちゃん、村上教授に『もう一つの研究』を見たくないか、って言われたの」
 姉の息が震えていた。
 おぞましいものが待っているのは分かっている。でも、私は知りたい。彼のことなら何でも。
「私は許されたの。だから、見てくる。村上教授のことだから、きっといいことだよ」
 これを人は盲信と呼ぶのだと、明日、知ることになる。

 昨晩はよく眠れなかった。きつめのコーヒーで頭を無理矢理覚醒させて研究室に向かう。寝癖が酷いと坂崎に笑われたのでバインダーで殴った。午前はサルの経過観察。健康状態のチェックをし、移植した女性器から原始卵胞を採取し長谷川先輩にデータを送った。午後はデータのまとめ。サルの健康状態のまとめと、他に培養中の女性器の記録もつけた。いつも通りに過ごしていても、私はどこか宙に浮いていた。天使ちゃんが今日もインスタントコーヒーをくれた。私は初めて天使の手に触れてみた。冷たくて現実味のない柔らかな手だった。私に触れられた天使は、困ったように笑っていた。
 今日、私は村上室長のことをもっと知ることができる。好きな人のことを――。
「皆本君、そろそろ行こうか」
 村上室長に声をかけられたのは、日が沈んだ直後の、濃紺の空を窓が切り取っている頃だった。
 彼の後ろについて歩くと、研究室の地下に案内された。この建物に地下室があると知ったのは今だった。地下室は彼の匂いが一層濃くて、彼の中に入っていった気分だった。
「まずはこれを見てくれるかね?」
 彼がスイッチを押すと、私は小さく悲鳴を上げた。
 たくさんの管が通された女性が横たえられていた。裸体に通された管の数。古い型の生命維持装置だ。彼女は、眠っている。きっと永遠に。そして女性の腹が不気味に膨らんでいた。
「君のお姉さんは非常に優秀で、この研究に大きな成果を残してくれた」
 お姉ちゃんが。何を。
「次はこっちだ」
 薄暗い地下室はダウンライトがまばらにあるだけで、村上室長の影が無数に散らばっていた。彼のシルエットはぼうっとして、この人元来の不気味さを演出する。驚きとときめきがせめぎ合った。
 村上室長がレバーを下ろすと、ここが何の部屋なのか姿を現す。
「何、この少年たちは……?」
 薄暗い部屋の左右壁面中に、管で繋がれた少年がいる。たくさんの、同じ姿をした――天使が。
「どうだい、私の天使ちゃんたちは。可愛らしいだろう?」
 私は唖然とした。ざっと数えて十数人。幼子から少年までの姿をした、天使たちがいる。翼のない、裸の少年たち。眠っている者は安らかに、起きている者は興味深そうに目だけで私たちの様子をうかがっている。
「私はね、天使を作りたいんだよ」
 彼は語り始めた。
「天使はね、人間以上の尊い存在なんだよ。皆、美しいとは想わないかね?」
「何を、言っているんですか?」
 私の声は微かに震えていた。
「そうだねぇ、実物を見せる方が早いだろう」
 おいで、と村上室長が言うと、暗闇の中から、白いワンピースを着ている少年――天使が現れた。黒く長い髪。何も写さない深い瞳。心許ない細い手足。
「天使ちゃん、皆本君に見せてあげなさい」
 天使と呼ばれる少年は側にあった診察台に腰掛けると、スカートをたくし上げて股を開いた。
 私は目を疑った。
「天使ちゃん、それじゃちゃんと見えないだろう? よおく開いて見せてあげなさい」
 少年は、いや、もう少年ではないのかもしれない。目の前の生き物は震える陰茎を手で持ち上げる。陰茎と睾丸の間に――肉の襞と穴がある。
「教授、これは一体」
 彼は小さく笑う。
「もう教授じゃない。室長とお呼びと言っているでしょう? 皆本君。これが天使ちゃん、私のもう一つの研究だよ」
 村上室長はいつから洗濯していないのか分からない白衣を脱ぐと、天使の小さな顎を掴み、唇を舐めた。
「皆本君、天使の性別を知っているかね?」
 私が震えて声も出せずにいると、彼は続けた。
「両性具有。天使には男も女もない。アダムとイブのような俗物ではない神聖な存在なんだ。天使は、人間以上の、尊い存在なのだよ」
 村上室長は天使の耳をついばみ、小さな口に彼の長い舌を押し込む。静かな地下室に淫靡な水音がする。嫌だ。やめて。
 天使のワンピースをゆっくりと脱がせる。美しい少年の身体。でも、あれはもう少年なのか分からない。小さく胸が隆起しているのが分かる。村上室長は何をしているんだ? 私は、何を見せられている。
 不思議なことに、私の思考は止まることがなかった。この状況を把握しようと必死だった。薄暗い地下室。育てられているたくさんの少年。いや、もう少年ではないのかもしれない。目の前の天使にはおそらく女性ホルモンの投与がされている。あの丸みはそういうことだ。村上室長が勃起した性器を天使に咥えさせている。私が求めていた性器に天使が触れている。小さな手と口で応える天使の髪を撫で続けている。きっと性的接触は初めてではないのだろう。そしてあの穴。私の予想が間違っていなければ――培養された人工女性器が移植されている。
 村上室長が熱い吐息を漏らした。こんなの研究者として間違っている。被験者と性行為するなんて間違っている。なんで天使を抱きしめて熱い瞳をするの。なんで。
「皆本君。ここからはまだ成功していない実験なんだ。しっかりと見ておくんだよぉ?」
 村上教授は天使を寝かせると、そそり立った性器を、天使の性器に――私たちの研究物に挿入した。
 天使が悲鳴を上げる。声にならない声を上げ続けている。でも私は知っている。これは性の悦びの声だ。異物が身体に入ってくる恐怖。そして支配される悦び。天使の瞳から涙が落ちる。村上室長に突かれながら規則的に喘ぐ。艶やかな唇の端からよだれが落ちて、天使の顔は汚れているはずなのに、どうして美しいのだろう。憎い。憎たらしい。なんで。なんで。
――なんで抱かれているのは私じゃないの?
 村上室長は体位を何度か変えて、天使は素直に応じた。小さなペニスは勃起し、そこからも透明の液体をとろとろと流していた。天使をうつぶせに診察台に寝かせ、腰を高く持ち上げて彼は天使を犯している。天使の声はもう喉がすり切れたようで、湿った息だけを規則的に吐き出していた。
「ん? 天使ちゃん、いきそうかね?」
 天使は今、来ようとしている性の波を恐れて頭をいやいやと振った。悲鳴と呼ぶにふさわしい声を長く上げる。身体が細かく痙攣している。そして、天使は背を反らせて翼を広げた。
 村上室長がずるりと天使から己を出す。彼のエゴで創り出された穴からは、血と精液の混ざったものがどろどろと流れ続けていた。
「おや? 天使ちゃん?」
 天使の胸が、動いていない。だらりと四肢を垂らして、そこにただの肉体として存在している。
「そうか、また失敗か」
 村上室長はそれだけ呟くと、天使を仰向けに寝かせて紙で汚れた身体を拭いていた。その儀式は、神聖で、私が触れてはいけないものだと私に強く伝えた。
「村上室長、これって……」
「私はね、天使を創りたいんだ。雌雄同体。両性具有。性別のない完全な天使をね」
 そして、と村上室長は続けた。
「天使を妊らせたら、私は神にすらなれるのではないのかね?」

3.5

「はせちゃんってさ、ショタコンジジイの目的知ってるの?」
 坂崎くんはうつぶせに枕を抱きながら、スマートフォンをいじっていた。口調は軽く、でも芯だけはしっかりとした声だった。
「私は興味ない」
 私は隣でシーツを肩まで被っていた。安い場末のラブホテル。天井の装飾が目にうるさくて、私は必然的に横に居る坂崎くんの方を見ることになる。若い、筋肉質な男の身体。上腕筋に汗が滴っている。
「というか、上司をショタコンジジイ扱いはどうなの?」
「いいんだよ、あんなド変態」
 坂崎の乾いた笑いはことの重大さを嘲笑うようだった。ブリーチした茶髪を指に巻いて、何を見ているかも分からない目でスマートフォンをスクロールする。何を見ているのか私には興味が持てなかった。
「人工女性器の開発とか言って、あいつ、両性具有者を人工的に創ろうとしている」
 ふーん、と私は返事をした。私たちは利用されているのだ。薄々気付いていたが、私には関係のないことだった。
「横に連れている天使ちゃん、いるだろ? あれが被検体」
「フラスコベイビー?」
 そっか、と坂崎くんは私の言葉に納得する。
「はせちゃんは前の研究にも参加してたのか」
 私は肯定して続けた。
「村上室長の野望は哀しみから産まれたの。このことを知っているのは研究室内でもごく僅か。私は興味なかったから誰にも言うつもりがない」
「そりゃ細胞にしか興味ないもんな」
 そうだよ、と私は坂崎くんの胸の中に頬を寄せた。汗と性の香りがする。坂崎くんは香水を使っているようで、微かに若葉のような甘い香りがした。
「彰子ちゃん、大丈夫かな」
 震えている声に、坂崎くんは私を抱き寄せ、背中を優しく撫でた。
「あきちゃん今日見せられてるんだっけ。天使の正体を」
 皆本彰子ちゃんは私の可愛い後輩だ。そして村上室長に好意を寄せているのは――程度はどれほどかは分からないにせよ――明らかだ。
「絶対ショック受けてるよ。明日来ないんじゃないかな」
「あきちゃん、そういうとこ弱いからな」
「なんで村上室長は見せるつもりになったんだろう」
 さあね、と坂崎くんは笑い、愛人にでもするつもりなんじゃないの、と冗談を言ってのける。この男の話はどれが本気でどれが冗談なのか分からない。そんな彼と恋仲である自分が信じられない。でも、細胞だって時には嘘を吐く。全てが真実という世界はつまらない。
「坂崎くんはいつ知ったの?」
 私は素朴な疑問を呈する。
「ちょっと興味本位で研究室を探索していたら見つけた、ってところ。俺は別に働いて給料貰えればなんでもいいし。でね、なんで天使ちゃんが歳を取らないか知ってる?」
 坂崎は続けた。
「天使ちゃんは産まれては死んでを繰り返しているんだよ」
 どういう意味? と私は顔を上げた。目の前に挑戦的な大きな瞳がある。
「死んでも代わりがいくらでもいるってこと。フラスコベイビーは今でも産まれ続けている」
 私は息を吐いた。私の研究がとんでもないことに使われている。でも、私にはそれを問い詰める義理も意志もない。ただ、私は好きなものに囲まれて生きていられたらそれでいい。
「はせちゃん、えっちな顔になったよ」
 坂崎くんが大きな手で私の頬を包む。そのまま口づけが落ちてくるのを待った。柔らかく、濡れた質感に私は嬉しくなる。
「生殖細胞の採取でもする?」
 生意気なことしか言わない後輩に、私は溶かされている。
「坂崎くんの生殖細胞なんて見慣れたよ」
 まあまあそんなこと言わずに、と坂崎くんは私に覆い被さる。彼の影にいるとき、私は何事からも守られている気がする。彰子ちゃんにはそんな人がいるのだろうか。自分の研究を認めてくれて、自分の生き方を肯定してくれる人が。
 可愛い後輩はどうしたら報われるのだろう。
 そこまで考えて、私は思考をシーツの海に放り投げた。

 あんなの間違ってる。間違ってる。
 そう言い訳していたのに私の中に芽生えた感情を私は受け入れられずにいた。この感情は前から持っていたものだ。だけど、私はあれを見せられて、痛いほど感じた。
 これは、狂おしいほどの嫉妬だ。
 村上室長と天使の性行。初老の男性と少年の性行為。研究者と被検体の性行為。好きな人と他人との性行為。
 私はあの後、逃げるように家まで帰った。昨日のような高揚感などない。村上室長の湿った笑みがまだ背中に張り付いているようだった。
「なんでよ! なんで私に見せたのよ!」
 私はベッドにカタツムリのぬいぐるみを叩きつけていた。こうすることでしか怒りが治まらない。下腹部が痛い。病んだ性器が痛い。私の心が痛い。
「天使を創るなんて間違ってる! 何よ! 私に何をさせようっていうのよ!」
 叫んでいたら咽せて涙が頬を汚した。破れたぬいぐるみから羽毛が舞った。――まるで天使の羽根のように。
 白い羽根の真ん中で私は笑い転げた。もういい。私はどうなったっていい。でも。
「私を抱いてよ! なんで天使と――人工物とセックスするのよ!」
 笑っているように泣いて、泣いているように笑った。
 私は何か間違っていますか?

 翌朝、私は痛む下腹部を押さえて研究室に顔を出した。
 村上室長の隣には天使がいる。でも私は知っている。あの天使は、昨日の天使とは別物だ。
「皆本君。おはよう」
 舐めるような口調。湿った笑み。こけた頬。傷んだ髪。この男のどこがいいのだろう。
「おはようございます、村上室長」
 理由などないのだ。ただ、惹かれてしまう。これがただの憧れだったらいいのに。
「皆本君、今日は診察の日だねぇ。十時半に講義が終わるからその頃に診察室に来なさい」
「はい」と小さな声で返事するのが精一杯だった。
「あきちゃん元気ないね。余計しょぼくれて見えるよ?」
 坂崎の軽口にも返事ができなかった。代わりに長谷川先輩がバインダーで殴ってくれたが、いつもの日常にはもう戻れない。知ってしまったから。知りたくもなかったけれど、知れてよかったのかもしれない。
「彰子ちゃん、集中できないのなら実験は参加しなくていいから。私たちは命を扱っているの」
 長谷川先輩の言葉に私は何も言えなかった。
 私たちは命を扱っている。人が産まれるために性はある。その性を弄んでいるのは村上室長だ。私は、決意を固めつつあった。

 内診台に乗ると、私の膣から血液が流れ出すのが分かった。病んだ性器は、私の在り方そのものかもしれない。私が性器を見せても、彼にとってはただの観察対象。
「ううむ、筋腫がかなり大きくなっているねぇ。腹痛の方は?」
「常に痛むようになりました。出血も酷いです」
 そうか、と私の膝の間で村上室長は呟く。
「筋腫だけを摘出することもできるが、子宮自体を摘出した方がいいのかもねぇ」
 その言葉に私は頭を殴られたようだった。私は女性ではなくなる。戸籍上は女性かもしれない。ジェンダーは女性かもしれない。けれど、生物として完全な女性ではなくなる。
「子宮を」
 ん? と彼は首をかしげる。
「子宮を、取ったら私のことを抱いてくれますか」
「そんなことを考えていたのかね、皆本君は」
 村上室長は内診台を下げて、私の顔をまじまじと見る。
「私が女性器を失えばどちらの性でもなくなります。私は天使にはなれないんですか? なんなら人工女性器の移植被検体になったってい――」
 まくし立てる私の口は、私の愛した人の手で塞がれた。
「皆本君。私は君に研究者として協力して欲しいと言っているのだよ。優秀な君にね」
「私は、村上教授にずっと、触れたかった」
 一筋の雫が頬を伝った。感情が私を追い越す。もう、どうなったってよかった。
「私は、村上教授のこと、ずっと好きでした。天使じゃなきゃダメですか。私を抱いてはくれませんか」
 彼はとても悲しそうな顔をしていた。何を思ってそんなに悲しい顔をしているのだろう。私は、村上教授の支えにはなれないのだろうか。
「皆本君、そこに座りなさい」
 内診台の横にある診察台に腰を下ろす。合皮の冷たさが私の熱を奪う。それでも私の中でくすぶる熱は、確かにそこにあった。
「皆本君、君は優秀な研究者だ。君に協力して欲しいと言っているのだよ」
 村上室長が私の隣に腰掛ける。石鹸の匂いの奥に針葉樹のような香りがする。こんなにも近くにいて、どうして触れられないのだろう。
――――触れないでいたのは、私が恐れていただけだった。
 私は村上室長の唇に噛み付いた。どうなったっていい。この人に触れたいと思って何がおかしい。この人を手に入れたい。乾いた唇を割って侵入する。村上室長は、拒否も肯定もしなかった。
「私は、私は村上教授のことがずっと好きでした。この気持ちは間違っていますか? 研究者である前に私は人間です。もう、どうなったっていい。私はあなたへの気持ちでいっぱいいっぱいです」
 涙がファンデーションを溶かした。袖が汚れたってもういい。
「そうか」
 村上室長は長い腕を伸ばして私を抱きしめた。求めていたぬくもりの濃さに吐き気がした。私はこうされたかったのだろうか。手に入れてなお戸惑う。
 彼の長い舌が私の口腔を弄ぶ。はしたない水音が診察室に響く。彼の手が私の乳房に触れる。ゆっくりと寝かされて、彼の長い髪が天蓋のように蛍光灯から私たちだけの世界に隔離した。こんなにも近くに好きな人がいる。私に触れている。熱量に浮かされる。でもこの人は、天使と……。
「皆本君、泣くのはおよしなさい」
「だって、教授が天使と――」
 彼は私の嫉妬の言葉をふさぐ。
「今は私だけを見ていなさい」
 彼の手が私の性器に触れる。手袋越しじゃない、彼の質感がする乾いた指が。私の病んだそこに侵入する。誰かの甘い声が脳内でハウリングする。私じゃない。昨日聞いた天使の声だ。私は天使になれるのだろうか。彼の求めるものは何だ。私でいい、と言って欲しい。
 私の病んだ性器に、指より柔らかく、熱いものが侵入する。悲鳴が聞こえる。私の声であって欲しい。でも、この人は被検体A、天使を抱いていた。でも実験は失敗し、天使が孕むことはない。もし私が孕んだら、彼を神にできるだろうか? いや、ない。だって、私は、ただの研究員。人の子でしかないのだから。
 律動に合わせて涙がぽろぽろと目尻を伝う。こんなにも求めていたのに。どうしてこんなにつらいのだろう。目を開けてみると、私が求めていた村上教授がいた。目線が交わる。彼は湿った、哀しい雄の笑みをした。
 私の身体は不規則に震え、やがて波のように収縮するのを感じた。全身の毛穴が開き、病んだ性器から甘いものが全身に広がる。怖い。ひとりになりたくない。私はこの人から離れたくない。終わらないで。
「いったようだね」
 ぐずぐずになった私のまぶたに口づけを落とす。それだけで私の身体は悦びに震えた。でも。
「いやっ――」
 私の性器から、愛する人が出て行く。私は、一人になってしまう。
 村上室長はペーパーを数枚渡し、身なりを整えた。
「満足したかね? 皆本君」
「わたし、わたしは」
 もう喉も思考も枯渇していた。
「私も久しぶりだったが――」
――――雌との交尾はつまらないな。
 今日はもう休んでもいいとだけ村上室長は言い残して、私をひとりぼっちにした。

 私は、ひとりぼっちだった。両親共に医者で、姉も医学部。私には医者になる道しかないとずっと言い聞かされていた。
 他の生き方など知らない。寝食を惜しんで勉学に励み、親が選んだ大学の医学部に入る。それからの生きる道筋も、喜びも、何も知らない。私には何もなかった。
 遊び方も知らなかったから講義には出られる限り出た。気付いたら成績は医学部主席だった。だからなんだというのだ。私には、この道しかないのだ。
 ゼミ選択をするとき、私は戸惑った。一本しかなかった道が分岐する。私に選択肢が与えられたのだ。
 私は何を基準に考えてきたのだろうか。どう選んだらいい。
 ナイフの切っ先が眼球に向けられた気分だった。私は死ぬんだ。頭が考えることを放棄して、顔がぐずぐずになるまでベッドでカタツムリのぬいぐるみを抱きしめていた。
 ゼミ選択の申請日、私は逃げることもできずにキャンパス内を当てもなく歩いた。フレアスカートにサックスブルーのブラウスの女子大生は笑っていた。彼女と私はどこから違うのだろうか。彼女は男子学生と腕を組んで歩く。彼女は恋を知っている。私は、何も知らない。
 結局、私はゼミ選択の申請書を出さなかった。これでもう終わりだ。卒業にはゼミでの研究が必須だった。
 私の人生もここまでだ。選ぶ力を持たない者は、生きることも死ぬことさえも選べない。
 数日、私は自室に引きこもった。様々なものが頭をよぎったような気がするけれど、どれもたいしたことではない気がする。たまに鳴る携帯電話は無視した。両親や姉からの叱咤など聞き飽きていた。もう、私のことなんて、誰も知らないのだから。
 雨戸の隙間が明るくなり暗くなるのを何度か繰り返した頃、また携帯電話が鳴った。煩わしい。電源を落としてしまおうと携帯を手に取ると、知らない人からの着信だった。
 私は何を思ったのかその電話に出た。選択することを拒んだ私が、選択した瞬間だった。
「もしもし、体調はいかがかね?」
 湿っぽい、男の声だった。
「どちら様ですか?」
 布団から這い出てベッドに腰掛ける。久しぶりの音に頭痛がした。
「私は村上正隆だ。国立※※大学で教授をしていると言えば分かるかね?」
 私の思考が明瞭になるのを感じる。
「覚えています。多機能性幹細胞の講義をなさっていた」
「そうだ。皆本君、君はまだゼミ選択をしていなかっただろう? 是非私の元で研究しないかね?」
「えっ、でも、私」
「話は直接するほうがいいだろう。この番号も君の知り合いから勝手に聞いたものでね。今、電話していることは内密に頼むよ」
 私は君に期待しているんだ。と村上教授は言い残し、翌日研究室に来るよう言われた。
 私、まだ生きていていいんだ。
 村上教授は「よく来てくれた」と私を歓迎した。私が講義を受けていた頃とあまり変わらない。頬がこけて、髪が切られることなく無造作に伸びている不気味な出で立ちだった。白衣は最低限の頻度でしか洗っていないように見える。でも、私はこの人に求められた。だから、私は尽くさねばならない。
 聞くと私の姉はかつて村上教授の研究室に所属していたらしい。私が学内に知り合いがいなくても、姉に聞けば分かることだとすぐ合点がいった。
 私は村上教授のように誰かを救える人になりたいと思った。道を踏み外したとき、正してくれる誰かになりたかった。
 この感情が「憧れ」であったらよかったのに、と今の私は思う。
 じゃあ村上教授――村上室長が人としての道を踏み外しているとしたら、正すのは私だ。

 翌日、鎮痛剤を服用してから研究室に出勤した。昨日よりずっと頭が冴えている。視界が明るい。坂崎に何か軽口を言われたようだったがあまり気にならなかった。
 村上室長と目が合う。湿った笑み。昨日見た笑みとは違う、秘めた笑み。隣には何番目なのか分からない天使がいる。天使の頬を撫でて、今日も可愛いと瞳を細める。
 天使が彼を裁かないのならば、私が天使となって彼を裁こう。
「あきちゃん、たまには俺と昼食どう?」
 昼前、坂崎が珍しく私を誘った。彼が持つスマートフォンには〈もう一つの研究見たんだろ?〉と表示されていた。

「で、どこまで見たの?」
 私たちは研究室からほど近い喫茶店に居た。私はサンドイッチとホットコーヒー、坂崎はナポリタンとアイスティーを頼んだ。
 私は極力小声で話す。
「室長が天使と性行為してるところまで」
 あっは、と坂崎が腹を抱えて笑う。
「あのショタコンジジイ趣味悪いなあ。あきちゃんが自分のこと好きだって気付いててやってるんでしょ? で、なんて言われたの」
 研究を手伝えと言われたと伝えると、坂崎はさらに笑った。
「手伝えって、あんなの人として許されると思ってるのかな」
「許されるわけないでしょ」
 私の語気が強くなったので、坂崎がまあまあ、と私を制する。
「坂崎はなんで知ってるの」
「研究室の作りがなんかおかしいなあと思って探検したら偶然発見? ってところ。俺、医学部に入る前は工学部志望で建造物について趣味で勉強してたんすよ。親が開業医だから医学部行かされましたけどね。配電とか不明な空間があるから興味本位で歩き回ってみたら不審なドアがあって、ピッキングしたら地下室への階段があったってね。下ったら大量の天使ちゃんたちがうようよ。まあ引きましたね」
 あれは誰でも引くわ、と私も同意した。
「他に何か知ってることは?」
「天使の現物を見てるあきちゃんの方が詳しいんじゃないの?」
 そうね、と私はコーヒーに口をつける。ここのは酸味が強いようだ。
「両性具有の天使なんて創造物、創ってどうするのよ」
「まあ変態科学者っぽくはないですか? 昔はまともだったって聞きましたけど」
「そう、ね」
 私を導いてくださった村上教授はこんな人じゃなかった。天使なんて居なかった。人として、間違っていることはしない人だった。
「そうそう、一つ噂なら知ってますよ」
 私の心臓が脳まで拍動した。
「あのショタコンジジイ、奥さんを交通事故で亡くしてるらしいっす。もう十年以上前のことっすけどね」
 村上室長に奥さんがいた……?
「そのあたりはもっと先輩に聞かないと真相は分かんないんすけどね」
「なら心当たりがあるわ」
「お? そうなんすか?」
 私の姉は、村上研究室の元職員だ。
 飲食代を私が一括で払うと、私は姉に電話をかけた。

「久しぶりね、彰子とこうして飲むの」
 姉がカクテルグラスに口をつける。カウンターに肘を置いて、背後で流れるクラシック音楽に酔いしれているようだった。
「お姉ちゃん忙しそうだから。突然ごめんね」
 いいのよ、と姉は目元を赤くして微笑んだ。私にはない、可憐という言葉が似つかわしい姉の微笑みだった。恥ずかしくなって私も彼女と同じジャックローズを口に運ぶ。
「お姉ちゃんは最近どう?」
 姉が眉をひそめる。
「今日だけで中絶手術が三件。ホント、嫌になっちゃう。望んでも訪れない命がある一方で、望まれない命がある」
「そうね……」
 私の性器は死んでしまった。もう誰の子も宿すことができない。でも、私たちの研究は命を宿すためにある。
「彰子は、多機能性幹細胞の研究だっけ」
「そう。人工女性器の開発と移植の研究。この前、霊長類での実験に成功したよ」
「それは素晴らしいわね」
 姉が私の髪を撫でた。薄暗い店内では私たちの他に誰かいたとしても、私たちだけの世界になる。だからきっとここで話題にしても、情報が漏れることはないだろう。
「お姉ちゃん、村上室長のことなんだけど」
 彼の名を口にしたとき、姉の口から呆れた息が漏れるのを感じた。
「村上室長って、奥さんいたの?」
 姉は額に手を当てて「いたわよ」と答えた。
「私が研究室に入ったすぐくらい。交通事故でね。そのとき奥さんは妊娠中だったの」
 ジャックローズを煽ると、姉は憎しみの瞳で続けた。
「その日から私たちの研究内容が変わったわ。脳死状態の女性からの妊娠出産を可能にする研究に」
 私のなかであのおぞましい光景を思い出した。そうか、あれは村上室長の奥さんだ。そして、天使は――。
 私の中でこの推論を幾度となく否定した。そうであって欲しくないと願った。けれど、そうなのかもしれない。そうでないと言って欲しかった。
「彰子、今からでも遅くない。あの研究室を辞めなさい。村上室長は人として間違っている。あなたの気持ちを尊重したいけれど、人の道から外れているわ」
「お姉ちゃん、やっぱり天使って村上室長の息子なの?」
 私の声は震えていた。否定して欲しい。そうじゃないと言って欲しい。けれど、姉は、
「そうよ」
 残酷なまでに、姉はまっすぐ肯定した。姉は私の手を握る。暖かくて繊細な手だった。
「実の息子への性的虐待。それが彼の研究内容なの。彰子お願い、村上室長から離れなさい」
 私は姉の手を握り返して誓った。
「お姉ちゃんありがとう。でもその前にやることがあるの」
――――村上教授を正しい道に導くのは私だ。

 私は午後のデータ解析を終えると、坂崎を連れ出した。今日も村上室長は天使を侍らせていた。でも、そんな日々は間違っている。終わらせるんだ、私の手で。
「あきちゃん、今日はいい顔してるね。怖いけど」
 一言余計だけど、私には使命がある。彼を裁くんだ。愛しているから。好きになってしまったのだから。
 坂崎が勝手に作った合い鍵で地下室への扉を開ける。石鹸の匂いが濃い空間。彼の中に入っていく感覚は消えなかった。
「あきちゃんも悪い人になったねえ」
「合い鍵まで作ってる坂崎よりはマシじゃない?」
「俺は昔からこうなので」
 開き直る坂崎に呆れつつも、薄暗い階段を降りる。降りた先にある最初の部屋。ベッドに横たわる不気味に腹が膨らんだ女性。彼女は、
「村上室長の奥さん、だって」
 げっ、と坂崎が不快な声を出す。
「ショタコンジジイの上に嫁さんを被検体に? はー、どれだけ変態なんだ、ジジイ」
 坂崎が呆れるのも分かる。でも、これは彼女のための研究なんだ。
「村上室長の奥さん、交通事故で死んではいなかった。脳死状態だったの。それからこの研究室の研究内容は大きく変わった。『脳死状態の女性の出産は可能か』という実験にね。私の姉がそのチームにいたの。見事実験は成功。今も彼女から村上室長の息子が、天使が産まれている」
 繋がれた管の数々。微かに振動を続ける心臓。死なせない、という思い。私は、一生彼女に勝つことはできない。でも、この装置を止めたら、私は彼を手に入れることはできるのだろうか。
「やめときな、あきちゃん」
 生命維持装置に伸ばした手を坂崎に捕まれる。
「脳死状態が生きているかどうかの議論はさておき、俺たちが目指しているのはジジイの嫁さんを殺すことじゃない」
「そう、ね」
 私は力なく腕を下ろした。
 隣の部屋に進む。幼子から少年まで、順番に産まれ続けている天使たち。両性具有にされるためだけに産まれてくるフラスコベイビー。彼らも管に繋がれて眠っている。起きている者は私たちを興味深そうに目だけで観察していた。深い瞳に写るものは何。薄気味悪い、天使のなり損ないたち。
「何度来てもキモいな、ここは」
 坂崎が少年たちを見て回る間に、私は研究データを探していた。天使たちがいない壁際には大きな金属製のチェストがあって、開けようとしても錆び付いていてうまくスライドしない。
「坂崎、ちょっと手伝って」
 はいはーい、と坂崎が力尽くでチェストのドアをスライドさせる。金属が擦れる嫌な音に天使たちも顔をしかめていた。チェストの中には実験の記録と思われる手記が詰まっていた。
「えーと、一番古いので十七年前っすかね」
 ファイルボックスに書かれた日付を確認していく。その一番左端に古いノートが数冊入っていた。一番古いノートの一行目は十七年前の七月七日、村上教授の人生が変わった日のことだった。
〈これより私は研究を開始する。私が愛した彼女と、産まれてくるはずだった天使ちゃんのために。これは私に与えられた啓示なのだ。全ての生と性のために。〉
 青いインクで丁寧に書かれていた。同じページに妊婦の――おそらくは奥さんの子宮エコー写真と、染色体検査の結果が貼られていた。
「天使は、産まれてくるはずだった子供は両性具有者だった……?」
 私は読み続けた。
〈被験者Mの経過は良好。私の遺伝子を持つ受精卵は着床し、発育を続けている。〉
〈被験者Mが破水。二時間後に帝王切開。三人の我が子が産まれる。〉
〈天使ちゃんを被験者Aと呼ぶことにする。被験者Aは全て男児。被験者Aの発育に問題はなし。しかし知的発達に遅れあり。被験者Mの状態が良好なため第二の人工授精を開始する。〉
〈人工女性器の開発順調。初めて被験者Aに移植する。しかし移植三時間後に拒絶反応あり。その後死亡する。〉
 この記録のあとに、鉛筆書きでメモが記されていた。
〈私は二度目の我が子の死を迎えた。我が子が死ぬ度に、私も死んでいる。この研究が終わるまで、私は何度死ねばいいのだろうか。〉
 ノートを持つ手に力が入る。折れてしまいそうなほどに。私はなんでこんな人のことを……。
「あきちゃん、あきちゃん」
 顔を上げると、ハンカチを持った坂崎がいた。
「あきちゃん、泣くほどつらいならもう関わるのやめたら?」
 私は坂崎の胸の中で泣きじゃくっていた。声を上げて泣いた。天使たちが私を見詰める。私はこの人のことを、天使たちを、
「私は、村上教授のことを救いたい」
 そっか、と坂崎が私の背中を撫でる。このときだけは、泣くことを許して欲しい。

8(完)

 私は落ち着きというものを保っているのに必死だった。誰かに名前を呼ばれれば肩に力が入り、横に立たれるだけで心臓が跳ね上がった。
 私は、申出書という告発文を書いた。村上室長がしている研究データのコピーと簡素な申出書を封筒に入れて、わざわざ隣町の郵便局にまで行って送付した。
 申出書には私の名前がある。しかし開けるまでは私が送ったとは分からない。
 私が村上室長を救うんだ。私が村上室長を裁くんだ。
「彰子ちゃん、最近変だよ」
「長谷川先輩、私、何でも――」
「あきちゃん月経前症候群なんすか?」
 全てを知っている坂崎がおどけて言う。私の口角は少し和らいで、うるさい、とバインダーで殴った。
「坂崎くん、彰子ちゃんの代わりに細胞採取してあげる」
「あきちゃんは別に細胞欲しがってないじゃないっすかー」
 いつものごとく綿棒を構える長谷川先輩を制して、逃げ惑う坂崎を捕まえる。
「おやおや、元気な研究室だねぇ」
 村上室長が天使の肩を抱いて研究室にやってくる。私は少し背筋を伸ばす。
「いいじゃないっすか、活気があって」
「坂崎は騒いでないで仕事しなさい」
 私の言葉に、これからしまーす、とデスクに戻る坂崎のことが相変わらず苦手で私は溜息を吐いた。
「皆本君、君がいるからこの研究室は締まりがあっていい」
 湿った笑みを向けられて、私は嬉しいような、もうすぐこれが終わるのだと思うと寂しくもあった。告発文を送って一週間。私の一週間は一生のように長く感じられ、一瞬のように過ぎ去っていった。
「皆本君、少しいいかね?」
 告発書は名前を出さないようにと書いておいた。しかし恐怖で足がすくんだ。
 研究室の廊下で、村上室長が白衣のポケットから茶封筒を出す。
「これを書いたのは、君だね?」
 封筒の中から、A4用紙出される。ゴシック体で「申出書」と書かれている。私の唇が血の気を失って震えていた。
「君が私の研究に賛同してくれなかったことは非常に残念だ。どうしてこんなことをしたのかね?」
「村上教授のしていることは、間違っています。私が止めなくちゃ、あなたは死に続ける」
 彼はにたりと笑い、私の頭を掴んだ。
 一瞬、口を塞がれる。
「それは君が決めることじゃないんだよ。私は、私の創造(研究)をしているんだ」
 彼は雄弁に語る。
「嬉しいことにねぇ、私の研究に使えない天使ちゃんを引き取りたいという研究者はこの機関にたくさんいるんだよ。みんな可愛がってもらっているようでねぇ。我が子たちは愛されているんだ」
 そうそう、とさらに続ける。
「君には開業医をしているお姉さんが居たねぇ。明日からそこで働きなさい。後のことは心配いらない。私がなんとかしよう」
 私の舌が動かない。私はもうこの人と一緒にいられない。
「人を裁くのは人じゃない。天使なのさ」
 村上室長が部屋に戻ると、私はその場でうずくまった。
 蝋で固めた私の羽が溶けて落ちるように、真っ暗な闇に、私の意識が堕ちていった。

天使創造

天使創造

国立大学の医学研究所に一通の申立書が届いた。それは産婦人科村上研究室にて人道から外れた実験をしているという密告書だった。――村上室長は天使を創ろうとしている。村上室長を止められるのは私しか、裁けるのは私しかいない。私は村上室長のことを愛しているから……。

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更新日
登録日
2020-05-31

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Copyrighted
  1. 申出書
  2. 3.5
  3. 8(完)