きまぐれ

小澄桂馬

 ある夏の日。私の暮らしていたワンルームにひとりの青年が越してきた。大家の老年女性とともに入ってきたその青年は、私に気づくと、やわらかい笑顔で「こんにちは」と言った。
 私は自分の住処を荒らされるのが不満だったので、ぷいと顔を背けたが、とは言え勝手に入り込んでいる身、多少の気は使い、邪魔にならないよう少し横に移動した。
「あらこの子、また入り込んで」
 大家は、知っているくせにわざとらしく言った。
「もう、新しいヒトが入るんだから、サッサと出ておいきよ」
「いやぁ、僕は構いませんよ」
 青年はそう言って、無遠慮にも私に触れようとしたので、私はすくっと立ち上がり、身をかわすように部屋の隅に退避した。
「あれ、嫌がられちゃったかな」
 青年はちょっと困った笑顔でそう言ったが、すぐに、入居時の説明やら引越しの荷物の受け取りやらに呼び立てられ、しばらく私はその様を見ているだけとなった。
 荷物が運び込まれるのに合わせて、私も自分の荷物を隅に寄せた。荷物とは言っても大したものはないが。それを見た青年が「偉いやつだなぁ」とつぶやいたのを聞いて、その上から目線に少しムッとなって顔を背けた。
 青年の荷物はあまりなく、寝具と一台の小食卓、少しの衣類に少しの本に一台のノートパソコン。この狭いワンルームに対しても少ない荷物。もっとも、何もなかった今までに比べると、狭くなっているのには変わりないが。
 青年は私のために、部屋の角に少しばかりのスペースを残しておいてくれた。
「そこが君のエリア。で、残りが俺のエリアな」
 青年のエリアの方が圧倒的に広いことに不満の声を上げたが、「俺と君とじゃ体のサイズも違うし、第一家賃は俺が払ってるんだからな」と悪びれる風もない。しかたない。我慢しよう。
 青年は平日の日中はどこかに出かけ、それ以外は家で本を読んだりノートパソコンをいじって過ごした。同じものに四六時中没頭しているように見える。私には耐えられそうもない。
 気の利くことに、青年が買い物に出かけるときはいつも、私の食事も買ってきてくれていた。いけすかないやつだと思っていたけど、ちょっとだけ好感度が上がった。
「うまそうに食べるなぁ」
 と言って嬉しそうに頭を撫でようとしてくるので、その度に身をかわして睨み付けないといけないのだけはどうにかして欲しい。彼はちょっとなれなれしいというか、無作法なきらいがある。
「そう言えば、君の名前ってなんて言うんだ?」
 ある日、今更そんなことを聞かれた。普通、名前なんて初めてあったときに尋ねるものだろうに。
 私の名前。私の名前は何だろうか。名前がなくて困ったことはない。誰もがそれぞれに、私のことを好き勝手に呼ぶ。ずっとそうだったし、知り合いもみんな大体そうらしい。きっとこれからもそういうものだろう。
「こんな名前はどう?」
 彼は得意気に言った。
 好きにすればいい。
 彼がいつも食事を買ってきてくれるのと、ときどきおもちゃも仕入れてきてくれるので、私はあまり外に出かける必要がなくなってしまった。たまに運動しにでかけるくらいだ。いくらでも自堕落な生活を送れる。
 彼は洗濯や洗い物が嫌いらしく、洗濯物を干したり取り込んで畳んだりしているときが特に苦痛そうだ。よく「お前が手伝ってくれたらなぁ」とぼやいていた。
 いつも食事をもらってばかりでは流石に悪いので、ある日、代わりに洗濯物を取り込んで畳んでおいてやろうと考えた。
 窓の外の、そこそこ高いところにかけてあるが、高いところはお手の物。簡単にハンガーに飛びついた。と思ったら全部地面に落ちた。仕方がないので、一つ一つ窓から部屋に投げ入れた。
 次はこれらをハンガーから外して畳まないといけない。ハンガーから外すのは容易なものだ。しかし、畳むのはどうすればいいのだろうか。よくわからないが、衣類を折り曲げているのだけは確かだ。まぁ適当にやっておいても誰も死にはすまい。
 三十分もかからずに仕事を終えた私は、この上ない満足感とともに、帰ってきた彼が驚く顔を早く見たくてうずうずしながら残りの一日を過ごした。
 ようやく彼が帰ってくると、
「げ、なんじゃこりゃ」
 思ったとおり驚きの声を上げた。
「何だこの泥だらけの洗濯物……ってうわ、ところどころ穴があいてる」
 ……ちょっと予想とは違う反応だ。
 買い物袋もそのままに、私の畳んだ洗濯物をどんどん広げていく。ちょっと待て。せっかく私が畳んでやったというのに、なんで台無しにしていくんだ。
 私が不満の声を上げると、彼は「お前がやったのか……」と悲痛というか何とも言えない感じでつぶやいた。
 そうだ私が畳んでやったんだ。強くそう主張する。
「そうだよなぁ。僕が手伝ってって言ったんだもんなぁ……」
 彼は悲痛な面持ちのまま笑みをこしらえて、私の頭を撫でた。ついうっかり逃げ損ねてしまったが、このときは悪い気持ちはしなかった。
「でも、もう洗濯物は手伝わなくていいから」
 一瞬でムカついた気持ちになった。
 さて、洗濯物を手伝えないとなると、またしても何もすることがなくなってしまった。
 洗い物はパスだ。私は水があまり好きじゃない。知り合いも大体は濡れるのが嫌いな奴ばかりだが、私はどうもその中でも比較的水嫌い過ぎる方らしい。雨の日は絶対に外に出ない。水浴びなんて絶対しない。あいつが私も一緒に風呂に入らせる度に、死ぬかという思いをしている。
 することがないのは仕方がないので、結局それまで通り、適当にだらだら過ごすことにした。ときどきは新しいおもちゃであいつと遊ぶようになった。あれ以来、たまには頭を撫でさせてやるようにもした。
 夏も終わりそうなころ、久しぶりの散歩から戻ってみると、あいつは部屋の荷物を梱包していた。
 私がどうしたのかと尋ねると、「今まで邪魔して悪かったね」となんでもない風に言った。そして、あいつはその日のうちに部屋を出て行った。
 あっという間の出来事で、私には理由を問いただす間も、意義を唱えて引っかいたり噛み付いたりする余裕もなかった。あっという間のことで、彼が本当にこの部屋に住んでいたのかも定かではない。ただ部屋は元通り。ワンルームのままの広さだ。
 私は猫。猫に名前なんてない。誰もが適当につけては好き勝手に呼び、そのうちまた呼ばれなくなる。名前なんてなくても特に困ったことはない。

きまぐれ

きまぐれ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-05-22

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