夢の虚実嘆
投稿テスト第二弾のショートショート。ちょっとした事件があった後のことです。
「僕は、空を飛びたかったんだ。」
彼は、そう呟いた。私の記憶の中で。
私が彼に出会ったのは、一年と少し、前の事だ。
高校の入学式で彼は遅れてきた。普通の学力を持つ人間が人並みに勉強すれば、誰だって入ることが出来るであろう、学校。校舎は古く、体育館はあまりの古さのために取り壊しが決まっているが、遅々とした新校舎建設工事のため、その惨めな姿を校舎の傍に残している。私の家はその体育館のすぐ近くにある。それこそが私のこの高校の志望理由でもあった。
入学式が始まって、校長の気だるい祝辞が長々と続いている所に彼は駆け込んで来た。校長の祝辞は中断され、生徒達の安堵の声は狭い体育館に低く響いた。私は教師が彼に向かい呶鳴っているのを聞きながらぼんやりとしていた。自分以外の人間が他人によって何をされようと、私に影響が無い限り全く興味を覚えなかった。呶鳴り声が止み、彼はのんびりと席に着いた。私は目立っても至って平然としている彼の様な人間には近づきたくなかった。私は、翳で時を過ごす事を望んだ。
彼は、とかく目立った。或る時集団リンチが行なわれた。受刑者は文芸部の鉛筆のように細い男子だった。どうやら部誌に匿名の人からの投書と称し、我が校の生徒会の腐敗を風刺した文章を載せたらしい。馬鹿な奴である。自らの非力さを認識していなかったのか、「ペンは剣よりも強し」等という絵空事を信じていたのかは知らないが、いずれにしろとぼけた奴である。だが、奴は自らの馬鹿らしい失策の代償を充分には受けなかった。周辺の人々の行為を遮ったのは、彼だった。両手で数えても指が数本足りないくらい存在した人々を、彼はたった一人で退散させた。そしてその隙に奴は何処かへ逃げ去ってしまっていた。
彼は、成績も良かった。試験の校内順位上位者の張り出しにはその名が必ず現れた。決して安定してはいなかったが、充分良いといえる成績だった。
そんな彼と私との接点は、クラスが同じである事と、部活だった。私は小学校の頃から近くのテニスクラブに通い、高校でもテニス部に入った。同時に彼も同じ部活に入った。しかし、彼は全くの初心者で、ルールすら知らなかった。彼は練習熱心で、速いスピードで上達していったが、結局私より上手くはならなかった。或る時、学校からの出場枠をかけて彼が勝負を挑んできた。面倒だとは思ったが、私はその相手をし、彼に快勝した。その時から彼は私の周りに頻繁に出没するようになった。私は彼に話し掛けられてもごく普通に、そして極力、内に冷淡さをこめて返事をするよう心掛けたが、何ら効果は無かった。
彼の眼差しは、私の弱さを覗き見ているように思われた。そして、彼は私にとっては攻撃道具のように感じられる言の葉を、情け容赦なく私の胸に撃ち込んできた。単純な人間には温かいであろう同情の言葉は私を卑下しているようにすら感じさせ、彼の極めて素直な感情表現は、松明となって私の胸を内より焦がした。
ある日、彼が自らの夢について私に語ったとき言った台詞がある。
「小学校の頃に、澄み切った空の青さとその奥深さが、僕の心に、空を自らの力で飛びたいという衝動を創り上げたんだ。でも残念なことに、僕には翼が無かった。鳥たちを羨ましく思っているよ。今でもね。」
彼は、自らの欲望を自らの身体的理由の為に果たせないからと言って嘆いていたのである。彼もまた俗物であった。
そのほぼ一週間後、英語の授業において、空を飛びたいという夢を蝋で作った翼によって成し遂げ、そのまま命を失ってしまうという狂気に満ちた青年について書かれた英文を使用した。彼は大変異常な感銘を覚えたらしく、その後の授業中ずっと机に向かい無益な呟きを発し続けていた。
その日の夕方、夕陽が今にも沈もうとしている時、私は彼に呼び出され、屋上にいた。屋上の縁に腰掛けた彼は私に真剣な眼差しを向け、言った。
「僕はどうやら、夢を現実のものに出来そうだよ。君も頑張ってね。」
それだけ言うと、微笑んで手を振り、立ち上がって私に背中を向けた。そして、軽やかに足を踏み出し、飛び立っていった。地面に向かって。
次の日の朝、私は彼が地に還った事を噂に聞いた。夢多く、夢に生き、夢に死んで行った彼の幼稚で一途な生き方が、私には何故か格好良い様に思えた。私は彼を追うつもりは無い。私は私の生き方を死ぬまでずっと変えないつもりでいる。
しかし、記憶に残る彼の言葉が時に私の行動の邪魔をする。
…私はここに宣言する。
私には、夢など、要らない。これこそが、真理である。
夢の虚実嘆