秘石物語 第一部

序章

 世界は三つある。

 一を天界という。天界は神が住む聖なる世界である。
 二を現界という。現界は人間が住む限りある世界である。
 三を冥界という。冥界は神と人とが創った想念の世界である。
 これら三つの世界は古の掟によって、星辰が揃う夜に交わり、明の朝に生まれ変わる。

 時に人間は、冥界を地獄と名付けたり、天国と称したり、あの世と逝ってみたり、宇宙と形容したりする。場合によっては、天界のことも違った名で呼ぶ。つまるところ人間は、天界や冥界のことを正しく知りえなかった。同様に、天界に住む者や冥界に住まう者も現界のことを正しく理解するのは困難であった。
 創造主の意によって、三つの世界は互いに互いのことをよく知りえないのである。

 その為、天界から冥界を知るべく降った神がいた。
 現界を夢見て冥界から昇った者がいた。
 三つの世界には、様々な経緯により全ての世界に精通する者が現れた。
 現界ではその者らを≪魔導師≫と呼ぶ。
 魔導士は、世界の運命を知る(さだめ)にある。
 三つの世界が一つに交わりしとき、世界は新たに生まれ変わる。
 それはつまり、始まりを意味するのと同時に終わりをも意味する。

 ――――世界の終焉を知った魔導士たちは、それぞれの想いを抱いた。


 ◇

 
 天界ではその日、大事件が起こった。

 時を司る古の神の宝蔵に盗みが入った。
 盗まれた秘石の名を「明石」と言う。この石の別名を始終の石と呼ぶ。
 現界で一人の青年が名乗りをあげる時、天界では明石を巡る一つの冒険が始まろうとしていた。

 天界の悪戯小僧の雷三は、師の仙龍を見つけるや否や声を張りあげた。
「仙龍様ぁ!」
 雷三の要件を聞くことなく、仙龍は眉一つ動かさずに即答する。
「ならん!」
「まだ何も言ってないじゃありませんか」
「何も言わんでいい。さっさと修行に戻るがよい」
 まるで取り合う気のない仙龍に、雷三はむーっと口を尖らせながら諦めんと食いついた。
「時秤師様の御邸宅に」
「ならん!」
「盗みが入ったというお話ですが」
「ならん!!」
「犯人を見つけに」
「ならんっ!ならんっ!ならんっ!」
 激昂する仙龍に負けじと雷三はびっくりするほど大きな声で宣言する。
「僕が明石を必ずや見つけてきますっ!!」
「なーらーんーっっ!!!」
 一歩も引かず、両者、見合って見合っての姿勢で挑む。
 どちらも負けん気十分で、一向に譲る気配はない。激戦の火花が飛び散っている。
 さて、二人が廊下で押し問答を繰り広げていると、近くの扉がすーっと開かれた。
 現れたのはこの社の主、桜模様の着物をきた女神の和歌姫である。
「和歌姫さまっ!」
 和歌姫の姿を見るや否や、雷三も仙龍も懇願するように助けを求めた。
「この分らず屋に言ってやってください、絶対にダメだと」
 和歌姫は両者を見比べてにっこりと笑う。
「お二人とも、御客人が来ているのに廊下で騒ぐとは一体何事でしょうか」
 ニコニコと笑いながら拳をあげて和歌姫は穏やかに問いかける、メラメラと怒りの炎を瞳に宿らせて。
「げっ」
「あいや、これは失礼致しました!」
 顔を引きつらせて早々に謝罪する仙龍と、降ってくるげんこつに備える雷三。
 両者の耳には、和歌姫の怒号ではなく、くつくつと笑う声が聞こえてきた。
「紫峰社のお弟子方は元気があってよろしい」
 現れたのは古神のフツヌシである。
「フツヌシ様っ、いつこちらに?」
 仙龍が心底驚いて目をぱちくりとさせれば、フツヌシは一礼をする。
「お久しぶりです、仙龍殿。なぁに、少し頼まれ事がありまして」
 フツヌシは雷三へと視線を向けた。見定めるようにジッと雷三を捉えて、一つ大きくうなずいた。
「よし、決めました。和歌姫様、くだんの件は雷三君にお願いしたい」
 訳が分からずきょとんとする雷三を横に、和歌姫が驚く。
「なっ。本気ですか?」
「もちろん。二言はありません」
 あまりにも爽やかな笑みで返答するので、和歌姫は「はぁ」とやや諦めたように息をついた。
 フツヌシは腰を下して雷三の目をまっすぐ見て問いかける。
「雷三くん、始終の石を見つけてきてくれるというのは本当か?」
「男に二言はありません」
 しばし無言のうちがあって、フツヌシは雷三の肩に手を置いた。
「よし、では頼んだ」
「えっっっ!!」
 あっさりと言ってのけるフツヌシに仙龍は思わず硬直する。これはどうしたことかとフツヌシと和歌姫とを交互に見遣って、困惑の末に口を開いた。
「お、お、お、お待ちください! フツヌシ様! 雷三はまだ七歳の童子にして、仙としては赤子同然の未熟者で御座います。相手は秤宮に入り込む輩。現界の魔導士なら屈指の強者、冥界のならず者なら神格に相当します。そのような者を御すだけの力がないのは一目瞭然でございましょう。未熟者めに賊の調査を命じられるのは聊か酷というものでございます。どうか今一度、お考えを」
 仙龍の奏上に答えたのは和歌姫である。
「天界の一年は現界の十年に相当します。人間にして言えば雷三は七十の翁。十分、事を成せる年齢です」
「なっ、和歌姫様っ!?」
「仙龍」
 ぴしゃりと和歌姫の一声が響く。
「時に、何か事を成すのに未熟も達者もないのです。あるはただ己の心の行いのみ。信ずれば必ず時運は巡ります」
 フツヌシは深く頷いた。仙龍は和歌姫に返す言葉もなく、雷三の旅立ちを承諾したのであった。

 こうして雷三の始終の石を巡る旅が始まる。
 新たなる門出の日に、仙龍が雷三へと静かに語りかける。
「よいか、雷三。天界と現界と冥界の三世界には大きな隔たりがある」
 そんなことは解っていると言わんばかりに雷三は頷いた。
「だが、似たところがあるのもまた世の事実である。さて、天界で盗みが滅多に起きないのはなぜだと思う?」
 雷三は首を傾げて師を仰いだ。
「法が優れているからだ。しかし、法が失われれば徳というものが現れる。徳が失われれば仁愛が始まり、仁愛が滅べば正義が産まれ、正義が廃れれば礼儀に変わる。して、礼儀が無くなったら何が始まると思う?」
 雷三は思考を巡らせる。が、答えは出ず、仙龍の続きを待った。
「礼儀とは戦乱の先駆けに他ならない。戦乱が起こり、無法が蔓延るようになる。無法の中であっては、お前の学んだ神術も、お得意の説法も、天界の法ですら役には立たん。しかしそんな中であっても唯一、役に立つものがある。それは一体なんだと思う?」
「わかりません」
「まごころ、だ。ただそれだけが役に立つ」
「仙龍様。まごころ、とは一体どのようなものですか」
 無垢な瞳のままに尋ねてくる雷三に、仙龍は思わず破顔した。
「なるほど、さすがは主様だ」
 未だ不思議そうに顔を顰める雷三の頭を撫でて、仙龍はゆっくりと告げる。
「雷三よ、お前の旅はまごころを見つける事であり、それによってだけ達成することが出来るものである。しかし、わしが言う〝まごころ〟は所詮わしの〝まごころ〟であって、お主の〝まごころ〟には成らないのだ。お前自身が見聞し、習得せねばならんぞ」
 明確な答えを示さない師に雷三はさらに怪訝な顔をした。
「本当に無法の中で、仙龍様がおっしゃるような優れたものがあるのですか」
「言ったであろう。無法の中であって、ただただ役に立つのはそれだけだと。よく現界と冥界とを見極めてきなさい」
 道標は全て示したと言わんばかりの仙龍に、雷三はつい思いの丈をぶつける。
「仙龍様……、天界に犯人はいないのでしょうか」
「それは有り得ぬ」と、すぐに返事がくる。 
「どうしてですか」
 一点の曇りもない瞳が仙龍の顔をじっと捉えた。仙である者は本来、衰えない。だが、仙龍の顔には皺がある。ちょうど日が掛かってそこに影が出来た。
「石の場所はすでに解っておる」
「えっ」
 驚く雷三の上を一羽の鳥が飛んでくる。
「この文鳥のあとを追っていけば、そこに石はある」
 二人の元に訪れた鳥は丁寧にお辞儀をした。
「雷三様。お初にお目にかかります。文鳥のカズハと言います」
 茫然とする雷三に、仙龍はにっこりと優しく微笑んだ。
「良いな、雷三。まごころだけがお前の助けになる、忘れるなよ」

第一章

 さて、章改まって此処は現界。

 ここに一人、世界の理不尽かつ摩訶不思議な理について悩む青年が居る。
 魔導士が世界の真実を語るとき、青年は大きな声で名乗りを挙げた。

「この内藤宗也の名にかけて。花月エンカ、お前を成敗しよう!」
 内藤宗也は幼馴染の花月エンカの妄言を一掃するべく、声を張り上げる。
「いいか、エンカ! 世界は一つであるっ! 現実はまさに此処にある! 二次元の妄想からいい加減に目を覚ませ! 冥界の魔王など存在しないっ! 勇者は画面からは出てこれないっ!」
 ビシッと指をさして、告げる。
「天使や悪魔の御伽噺を信じるのは中学生までにしなさいっ!」
 エンカは「ふっ」と右眼を隠して意味ありげにニヤリと笑う。
「残念だよ、宗也。君ほどの男なら、この無常な世界を理解できると思ったのだが――――」
 目の前で依然としてカッコつける赤髪女の正気を取り戻すべく、宗也はエンカの肩をぐらぐらと揺らした。
「いったいお前のSAN値はどこに行ったんだぁーっ?! 何をして失ったんだ? 神話生物か? 神話生物なのか? 神話生物に会ってしまったのかぁ!? 一体なにをしたら正気に戻るんだぁ~っ!! 冥界や天界は存在しないっ! 人類は魔法なんて使えないっ。なぁ、フツーに考えてみろ。邪神なんてこの世界にはいないだろ? ……いや、確かに先日のセッションでは禍々しい邪神がいたけど……。だが、それもっ! 前回のセッションで滅んだだろうがぁぁあ!!」
「ちょ、宗也、落ち着け」
「お前が落ち着けぇ~~~~ッ!!!」
 ゼェハァと息を切らせながらに恨みがましくエンカを見る。
「大丈夫か?」
 依然としてケロっとしている幼馴染に思わず「はぁ~~~」っと重い重い溜息が出た。
 宗也は、(自称)魔眼を持つ幼馴染の隣で現実のこの世界を想う。

 俺こと内藤宗也はフツーの高校生だ。
 魔王も勇者も存在しない現代に生きている。
 そうだとも。現代日本において、魔法使いだ魔導士だ魔王だ勇者だ悪魔だ天使だ怪物だ神だと言おうものなら、それは創作の世迷言(フィクション)で、現実に持ち込もうものなら、それは中二病でありロールプレイでありゲームであり宗教でありオカルトである。
 これが俺の世界の常識……のはず、なのだが。
 俺と同じ環境で育ったはずの幼馴染は、今やその右目に冥界の領主と契約を交わしたと宣うのであった。
 …………正直に言うならば、この痛々しい行動には、いや、この症状には見覚えがある。
 なにせ俺にも程度は違えど似たような時期があったからだ。そう、あれは忘れもしない中学二年生の時。
 思春期の中高生の心の中で忽然と沸き上がる厨二という病である。
 もし中二病という黒歴史を未然に防ぐ万能薬があるならば、いますぐこの自称魔導士に投与したい。
 しかし知っての通り、現実というのは残酷で、そんな秘薬(エリクサー)など元よりこの世界には存在しないのだ。
 
「宗也、ぼーっとしてどうしたんだ?」
 宗也の内心など知らないエンカは純粋無垢な瞳で顔を覗き込んでくる。
 深紅の眼は、まるで曇りない鑑のように、ただひたすらに透き通っていた。
 宗也はエンカの瞳に映りこんだ自分の姿を見て、改めて姿勢を正して現実を告げる。
「いいか、エンカ。高校生にもなって魔王を信じるのは、サンタクロースに夢見る小学生と一緒だぞ」
 ビシっと容赦なく世界の真相の裏を語る宗也にエンカは首を傾げる。
「奴の正体はお前も知っての通り、言ってはいけないことだろう」
「真実は語るべからず、だな」
「ああ、そうだとも。少年少女の夢は壊せないからな。知っていても決して口に出すもんじゃない。いまだに信じてる純真がいるかもしれん。だが、俺たちも今やその真実に辿りつき、大人の階段を上り始めている。夢物語とは決別しなければならない年頃にまでなったんだ。俺たちもあの頃のサンタクロースのように大人になってくんだよっ……!」
 壮大な空を眺めてから、宗也は学生鞄を持ち直して自分よりも背の小さい幼馴染を撫でる。
「だから、魔王退治のために夜の学校に忍び込むのはやめようなっ?」
 子供に言い聞かせるようにする宗也に対し、エンカはむすっと頬を膨らました。
「子供扱いするなっ!」
「いや、質の悪い子供だろ……」
 ペシッと宗也の手を軽く払ってエンカは言う。
「宗也、君は時の魔術師だろう」
 突拍子のないエンカの一言に瞬く間に宗也の顔が赤くなった。
「――――っ! やめろぉ~~~っ! 俺の黒歴史を掘り返すなぁ~~~!!!」
「君は特別だ。私たちにはない特別な才能()を持っている」
「うわぁぁぁああ!!! いたたたたっっ!!」
 そうである。
 エンカ同様、宗也も少年の時代には、魔法使いに夢見る時代があった。
 無論、エンカのような重度の厨二ではないけれども、時の魔術師ごっこをするぐらい、痛々しい時代があったのだ。
 過去の自分の醜態を振り返ってつい頭を抱える。
「それ以上は、やめろっ……。やめてくれっ」
 ぷるぷると震えて悶えている宗也を他所に、エンカはさらに言葉を続ける。
「私は魔導士だ。誰も気づかずとも、誰もが知らずとも、誰にも分らずとも、魔導士たる私は知っている。君に待ち受ける運命を。…………だからこそ、私は誰よりも君を信じている。君にしか出来ないことが此の世界にはあるから。君は世界にとって特別な存在だ」
 エンカは一呼吸おいて告げる
「―――――――頼む、宗也。世界を救ってくれ」
「グハッ」
 RPGさながらのとどめの一言を受けて、宗也は顔を真っ赤にしてエンカをまじまじと見た。
「……言ってて恥ずかしくないか?」
「大真面目だ」
 数秒の沈黙の末に、宗也は大きく息を吸ってから吐く。
「ハッキリ言うがな……。救世主(ヒーロー)なんて柄じゃないんだよ。それに世界を救う理由もない。ついでに言えば日本は平和で魔王の侵略も期待できんだろう。邪神も成りをひそめてゲームで遊んでるぐらいには暇してる」
「だが、次の満月には」
「いいか。エンカ」
 エンカの言葉を遮って宗也は断言する。
「間違いなく黒歴史になるぞ、傷が浅いうちに世迷言世界とはおさらばしたほうがいい。なにせこれから華の高校生活が始まるんだ。いい加減、魔導士ごっこはやめにして青春を謳歌しようぜ?」
 いまだ納得いっていないエンカが宗也を見上げて尋ねる。
「…………なら、もしもの話だ。もしも魔王がこの世界に出てきたなら、宗也はどうする?」
 まっすぐと真剣な眼差しでエンカが聞いてくるのでつい苦笑する。
「そんなもん俺が倒してやんよ」
「……そう、か」
 エンカは短く言葉を切ってから急に走り出した。
「あ、おいっ」
 そしてすぐに振り返って宗也の前に立ちはだかる。
 ちょうど夕陽が沈む最中で、エンカの赤髪がより一層に栄えた。
「宗也。私も、君に言っておくことがある」



 もし此の世界に魔王が出てきたら――――――――。



  ◇



 宗也はエンカと別れた後、ぼんやりと空を眺めながら歩いていた。
 沈みゆく太陽を見ながら先ほどの幼馴染とのやりとりが脳裏に浮かぶ。
「もし、魔王が出てきたらねぇ」
 苦笑交じりに言って、田んぼだらけの田舎道を眺める。
 こんな平凡な世界であって、魔王の空想を信じ込むのはファンタジーの域を超えている。
 いや、もしかしたら平和すぎて逆に非日常的なことを想像したくなるのかもしれない。
「中二病おそるべし」
 黒歴史の笑い話であると感じる反面で、何かを宣言しようとした時のエンカの顔が頭から離れずにいる。

 ――――もし此の世界に魔王が出て……、き、たら……、…………、………………わた、しは……。

 エンカはそれだけ言って後の言葉に詰まったのである。
 一瞬の、長い沈黙の後、エンカは笑ってこう言った。
「やっぱなんでもないっ」
 先ほどの決意に満ち溢れた顔から一転して、何事もなかったように笑う。
 だが、その一瞬の間に垣間見た表情は、時が止まったのではと想うほどエンカの透き通る瞳を酷く濁らせた。
「たくっ。何考えてんだか」
 あれだけ真剣に言っといて、何もないなんてことはないだろう。
 されども、どれだけ考えようと中二病女子の痛々しい胸の内を想像することは困難である。
「はぁ~……、夜の学校ねぇ」
 魔王が出るだかなんだか知らんが、悩みがあるなら相談ぐらいは乗ってやるか。
「しょうがない、肝試しに付き合うか」
 宗也がスマホを取り出してエンカに連絡を入れようとした時、ちょうど背後から呼び止められた。
「よう、久しぶりだな」
 振り返ると見知らぬ男が立っている。
 風変りな服装をしており、この辺では見たことのない顔である。
「えーっと、どちら様ですか?」
 男はガクッと肩を落としてわざとらしく溜息を吐く。
「はぁ~~~、やっぱりというかなんていうか。いや、わかっちゃいるが、悲しい、悲しいねぇ。親友に忘れられるのは。あぁ~、お兄さんかなしいなぁ~」
 大げさにわざとらしく悲しみを表現してくる男に、宗也は眉を顰める。まじまじとその顔を凝視するも、全くと言っていいほど心当たりはない。
 なにせ男は三十歳後半で、いうなればいい歳した大人である。宗也には、年の離れた友人はいない。さらにいえばこんな胡散臭い知り合いもいない。もっと言えば、裏社会にいるような人相の悪い男に目をつけられるような覚えもない
「えーっと人違いじゃないですかね?」
 さっさとこの場を切り抜けようとする宗也に対し、男はニヤリと笑う。
「いいや、人違いなんかじゃないぜ? 内藤宗也。俺はお前に用があってきた」
 思わず、硬直する。
 初対面の、人相の悪い男が、自分の名前を知っている。
 内心で恐怖を覚えて顔を引き攣らせている宗也を捉えて、男は見透かしたように「クカカ」と笑う。
「一応言っとくが、俺は健全な民間人だからな?」
「えーっと……?」
「まぁ、思い出せなくてもいいさ。今日はお前に頼みがあってきたんだ。託したいものがある」
 男は言葉と共に、宗也にあるものを差し出してきた。
 いったい何事かと恐る恐る目をやれば、そこにあったのはなんとただの石ころである。
「――――これは、何でも願いが叶う石だ」
「はひ?」
 唐突に飛び出すメルヘンワードに宗也は呆然とする。
「ほとんどお前専用のもんだけどなっ。なぁ、宗也。もし願いが叶うならお前は一体何を願う?」
「何って言われても……」
 話の展開に脳がついていかず、宗也が目をぱちくりさせれば、男はまた「クカカ」と豪気に笑って言葉を添えた。
「いいか、人生は一度きりだ。悔いなく生きるか、後悔して死ぬか。どっちかだ。一計を抱き、やり遂げるもやり遂げぬも果ては全てお前次第。始めあれば終わりあるもんだろう? なぁ、宗也。お前は俺の親友だ。それはいつだって変わらねぇから、……だから、余計に後悔はしたくねぇんだ」
 男は一呼吸おいて、宗也をまっすぐと見据えた。
「なぁ、友よ。この石から感じねぇか、魂の波動を」
 真剣そのもので語り掛けてくる男を前に、宗也の常人なる思考は、ついに一転して一つの結論に辿りついた。
「…………おじさん、その年で中ニ病はかなりきついと思います」
 冷たく言い放つ宗也の言葉がグサリと心に突き刺さり、男はその場に膝をつく。
「お、っじっ……さっ」
 あまりの衝撃に大ダメージを避けられない模様である。
「おじさんって、おじさんって……、おまっ、……それは、そ、それは……ちがうだろぉ――――!?」
 唐突に立ち上がって訴えてくるおじさんの迫力に宗也の顔が引きつる。
「は、はは……。お、おにいさん?」
「そうっ、それ! それだよ、宗也くん。おじさんではないよなぁ? おじさんには見えないよな? おじさんのわけがあるかっ、ああそうだとも。俺はまだ若い!」
 皺がある顔でおじさんがぶつくさと「まだ若いまだ若い大丈夫だ大丈夫だ」とダメな様子で繰り返している。
 宗也はこの問答の中で、ふと既視感を覚えた。なぜかは解らないが、おじさんが友人に似ているような気がした。「クカカ」と豪気に笑う顔といい、顔の人相の悪さといい、どうにも心当たりがあるような気がしてきた。しかし、それはあってはならないことだ。なにせその人物は、自分と同い年なのだから。
「しっかし中二病おじさんかぁ」
 トホホと言わんばかりに苦笑して、立ち上がる。
「まっ、俺もエンカのこと痛い奴だと想ってたし、人生そんなもんなのかもな」
 突然出てきた幼馴染の名前に宗也が反応する。
「エンカのこと知ってるんですか?」
「あたぼうよっ! この石をお前に渡そうって言ったのはエンカだからな」
「エンカが……、なんで」
 再度、石を凝視して宗也は嶮しい顔になる。
「あいつもああ見えて大変なんよ」
 男は軽く笑ってから、ひょいっと石を宗也に投げ渡した。
「っと」
「つーことで、託したからな? その石」
「えっ?」
「後の事、任せた。なぁに。お前のこと、信じてるから」
「ちょっ」
 意味も解らず困惑する宗也が引き留めようとするも男は素知らぬ顔で踵を返す。
「んじゃ」
「ちょっと待って!」
 男は振り返ることなく返答する。
「待ってほしくても、待ってくれないのが時間ってもんだろ」
 語調を強めてさらに続ける。
「俺は、お前が願う先を知ってる」
 男は改めて振り返り、真っ赤に沈みゆく太陽を背にして宗也を見据えた。
「人生は長いようでいて短い。好きだってわかったときに後悔したって遅い。たくさんの人間がいる世界で特別の誰かを見つけるのは、簡単じゃねぇ。そんな中で出会うたった一人を守れないような男にはなるなよ」
 まったく理解が追い付かずについ空返事になりつつ、不思議と何の変哲もない石へと視線が向いた。 
 腑に落ちないことがたくさんある。理解できないこともたくさんある。
 そして何より、今自分が行おうとしている行為は合理的じゃない。
 だが……、この石には不思議と予感がする。
 何かある気がする。
 戸惑いながらも宗也は石を握りしめた。
 と同時に、男の体が透けていく。 
「え……?」
「俺は内藤宗也を信じている。だからこそ――――」
 と、男は言葉を区切る。
「託すぜ、天の秘宝。始終の石を!」
 その言葉とともに、太陽のように明るく笑う男の姿は、あっという間に消えて無くなった。
 消えゆく時に男がうっすらと囁いた言葉が脳裏で反響する。



 ――――――――例え、恨まれたとしても変えてやるよ、この世界。



 ◇


 帰宅した宗也は自室のベットの上で石を眺めながらに思考を巡らしていた。
 跡形もなく消えていった奇妙な男が残した石は、何度鑑定してもただの石ころである。
「…………」
 だがしかし、ありふれた現実と呼ぶには、あまりにも怪奇的な別れ方をしたのも事実だ。男が消えゆく姿はまるで幻想のようで、残した言葉は物語的で、どこか現実離れしていた。
 何よりも残されたこの石は、物語の始まりに相応しく、手の内でこれから何かが始まる事を予感させる。ただの道端に落ちている石ころと何も変わらないはずなのに、不思議と空想へと宗也を誘うようだった。
「…………」
 宗也は寝返りをうって姿勢を変える。

 ――――どんなに現実を帯びようと、フィクションはフィクションであるべきだ。

 幼馴染の惨状を知るがゆえにこの十九文字は頑なに宗也の心に存在する。
 にもかかわらず、頭はまったく別なことを思考する。もしかしたら、と何かあるのではないかと思わずにはいられないのである。
「なんでも願いが叶う、かぁ……」
 ぼんやりとつぶやいて、宗也はなおこの現実に苦悩する。
 どれだけ空虚な言葉を紡がれようが、現実にそんな便利なものはない。
 そう思考する一方で、どうしても先ほどの男の消えゆく姿が脳裏に浮かんでくる。
「まるで夢と現実の狭間にいる気分だ」
 宗也は苦笑しつつ、半信半疑ではあるものの、このなんとも言い難い状況から抜け出すべく、何かを願ってみることにした。
「う~ん。何がいいかな……、あっ、そうだ!」
 心を定めて石に願う。

 ――――エンカの中二病を治してくれ!

「…………」
 宗也が願いを口にするも周囲はシーンっと静まり返ったまま、変化はない。
「やっぱそんな話あるわけないよなぁ」
 溜息交じりに再びベットに転がりこむと、ちょうどスマホが鳴った。
 見ると、同級生の梅原慎吾からの電話である。
「もしもし」
『よう! 今、平気か?」
「ああ、大丈夫だよ。どうした」
『実はさぁ』っと慎吾が用件を切り出した。
 要約すると、ゲームの攻略に行き詰ったので手伝ってほしいとのことであった。
『頼む! エンディングみるのに協力プレイが必須なんよ』
「まだあのゲームやってたのか」
『おうッ! あたぼうよ!』
 陽気に答える慎吾とは裏腹に、宗也は「手伝ってもいいけど」と言葉を濁す。
 というのも、慎吾がはまっているブラインドクロードというゲームは、超が3つはつくであろう高難易度のゲームである。マルチエンディング式で周回プレイが出来るのだが、全三十七のエンディングのうち既存プレイヤーがクリアしたエンディング数は二十であり、うち一つでもエンディングに到達したプレイヤーはゲーム購入者の一割未満だとされている。
「エンディングまでイケルかは怪しいぞ」
『大丈夫だって。事前準備はバッチリだ!』
 なぜだか分からないが、慎吾はこのゲームに熱狂している。
 ストーリーは平凡で、主人公が勇者の剣を女神から託されて現代社会に侵略してくる魔王を喰い止める、というありふたりなものなのだが、ただ
普通と違ったところがあるとすれば、それは前述した通りに通常では考えられないほどの難易度にある。単純な操作からはとても考えられないほどの高度な駆け引きを要求される。
 そして最も厄介なのが、このゲームは攻略サイトを見れば解決できるようなものではなく、プレイ事に臨機応変に対応しなければ絶対にクリアできない点である。なにせこのゲームには高度なAIが搭載されており、オンラインで様々なプレイヤーから攻略法を学習した人工知能は、常に進化して強くなってゆく。
 人類の敵となったAIはプレイヤーを常に窮地に貶めるべく、暗躍する。ありとあらゆる妨害を行う悪質なゲームマスターに支配された空間は、地獄のように理不尽で、奈落のように先が見えない。ひたすらに絶望があるのみである。
 並みの精神の持ち主にはとてもクリアなどできないだろう。

 ――――このゲームは、プレイヤーとAIとの対決である。

 と、宣伝されただけあって、AIたる魔王は本気で勇者を殺しにくるし、世界を滅ぼすのであった。

 そんな悪質なゲームマスターに臆することを知らない慎吾。つまり、慎吾は並みの人間ではない。
 彼の闘争心は、相手が強ければ強いほどに上昇するかのようで、末恐ろしいものがある。
「……まぁいいけどさ」と半ばあきらめつつ、宗也はゲームを起動した。
 そうして二人は幾度となく訪れる難所を切り抜け、慎吾の目指した一つのエンディングに到達する。
「よっしぁぁーーーー!!」
 あまりの達成感からか、二人して歓喜の雄たけびを上げた。
 エンディングシーンを見ながら、慎吾は満足そうに笑う。
『クカカっ、やりきったなぁ!』
 その笑い方があまりにも印象的で、ふと宗也は現実に引き戻された心持になる。
 なにせ慎吾の癖のある笑い方はあの謎の男そっくりだからだ。
「…………あのさぁ、慎吾って兄弟いる?」
『あ? おいおい、俺らって何年の付き合いだよ……』
 心底呆れた様子で慎吾が言えば、宗也のほうも分かっていたといわんばかりに口を開く。
「姉がいるだけだよなぁ」
『おうよ。どうしたんだよ、急に」
「実は今日さぁ、……なんつーか慎吾ぽい人にあったんだよね」
『俺っぽい人?』
 まったく心当たりがない慎吾が不思議そうにする。
「ああ、……大人になった慎吾、……みたいなひと」
『おおぉおぉ? 大人の俺かァ。なぁ、どんなんだった?」
 興味津々に尋ねてくる慎吾に宗也はありのままの感想を伝えた。
「なんつーか、……中二病おじさん」
 一瞬の沈黙の末、慎吾が爆笑する。
『アハハ、中二病おじさんってっ、それ本当に俺ぽいかぁ?』
「見た目はそっくりだった」
『見た目ねぇ』としみじみ言って慎吾はドヤっとする。
『イケメンだったっつーことだな!』
 ひたすら前向きな友人に、宗也は飲もうとしたお茶を吹き出しそうになるもなんとか堪えたのであった。
『で、その俺ぽい人となんかあったん?』
「……ああ。笑うなよ?」
『おうよ』
 宗也は今日出会った男の話を慎吾に伝える。
『なんでも願いが叶う石って、クカカッ、それメルヘンすぎっ』
「本当にそっくりだったんだぞ!」
『他人の空似だろ?』
「だけどっ」
 それだけ言って言葉を区切る。
 何度考えようが、何度疑おうが、答えは変わらない。
 宗也を親友と呼び、癖のある笑い方をする、人相の悪い男は、梅原慎吾だけなのである。
『で、その願いが叶う石は使ったか?』
「一応はな」
『まじかっ! 願い叶った?』
「わからん。なんの変化もないからな」
『ほほう? じゃぁ、宗也くんは何かを願ったのだね。一体何をねがったんだぃ、宗也くん?』 
「別に大したことじゃないよ」
 なんとなく返答に困った宗也の言葉から慎吾は長年の経験ですぐに看破する。
『どーせ幼馴染のことだろ』
「そ、そんなわけあるかっ」
 気恥ずかしさから否定してみるも動揺が隠せず、語尾が震えた。
 慎吾はニヤニヤしながら質問する。
『じゃぁ、エンカちゃんとは何もないと?』
「だ、だからっ、た、ただの幼馴染だぞ」
『幼馴染といえば、恋愛ゲームでは不動の立ち位置なんだけどなぁ』
「ゲームじゃないから! 現実だからな?! そんなんじゃねぇからっっ!」
 慎吾は「ふーんっ」と意味ありげに呟いてから宗也に畳み掛ける。
『じゃぁさ、俺の願いを願ってみてくれよ』
「は? 慎吾の願い?」
『おうよ』
 まさかこいつ……と、宗也は内心で恐々とする。
「もしかして、え、え、え、エンカのことがす」
『ちがーう! 違う違う、エンカちゃんはかわいいと思うけど、そうじゃなーい!」
 その言葉に宗也は少しほっとした。
『俺の願いは魔王召喚だ!』
 電話越しにニカっと笑う無邪気な慎吾の姿が容易に想像でき、つい呆れてしまう。
「ゲームに洗脳されすぎだろ」
『ブラインドクロードは最高だろうっ。平和な日常の終わりこそ現実をよりリアルにするのさっ』
「まぁ、いいゲームだけどさぁ」
『ゲームシステムもさることながら、ストーリーも最高なんだからな!』
 このちょっと夢見がちな親友をみて、宗也は自らの心情を口にした。
「フィクションはフィクションであるべきだ」
『へッ、夢のない男はモテないぞ?」
「うるせぇ~」
 二人して笑ってから慎吾が提案する。
『どうせタダなんだし、モテたいとかそういうのも願ってみれば?』
 世俗的な願いを挙げる慎吾に、宗也は苦笑を漏らす。
 正直に言うと宗也はそういった男女のいざこざに巻き込まれたくない派である。一般的な願望がほぼ皆無である。
 モテるモテない、金持ち貧乏、強い弱いという価値観よりも大事な事がこの世の中にはあると想うのだ。
 たくさんの人に言い寄られる姿を想像するよりも、自分を好きになってくれた一人を大切にしたい。ありふたりなこの日常を大事にしたい。空想的な出来事より平凡でいい。特別よりも普通であることを大事にしたい。
『なぁ、どうよ?』
 慎吾が同意を求めてくるも、宗也は首を振る。
「悪くはないと思うけど、趣味じゃないんだよなぁ。そういうの」
 宗也が言えば、慎吾は豪気にクカカと笑った。
『まぁ確かに。宗也がモテたいっ!とか叫ぶ姿みたら笑うかも』
「おいっ」
『でもさぁ』
 慎吾は一呼吸おいてから、夢を語る。
『好みの女に毎日学校で会えて少しずつ仲良くなって両想いになって、……ってのは悪くないんじゃねぇの? 俺らも高校生なんだしさ、青春願うのは悪じゃないだろ?』
「まぁ、……そうかもな」
『だろ?』
 それから一通り話が盛り上がって用件を終えてから電話を切った。
 宗也は再度石を手にして考える。
「確かに慎吾の言う通り、信じる信じないかは別にして、やるだけタダだよな」
 そう想って再び宗也は願う。
 
 ――――彼女が欲しい。

 宗也は自分の願いが思春期そのものなのでつい苦笑した。
 そして、依然として変動のない石を見て、今日おきた不思議な出会いはきっと夢なのだと割り切ることにした。
「フィクションはフィクションであるべきだ」
 自分の願いは自分で叶えるべきだ。
 こんな得体の知れない石に、どれだけ乞おうが現実は変わらない。
 事実を認識して、石を机の中に閉まったのであった。

第二章


 ――――天の石が盗まれし時、現の宝にも異変あり。


 世界には秩序(ルール)が存在する。
 魔術には無限の可能性が宿っている。
 ゆえに、欲深い人間がその(ルール)を知れば、世界の均衡はあっという間に乱れるだろう。魔術の乱用を防ぐため、一部の魔導士たちは魔術を管理する組織を作った。

 ここにエルリズと呼ばれる組織がある。
 前述したとおり、エルリズは魔導士たちが作った特殊な組織であり、魔術の管理を目的とした機関である。
 魔術師たちの司法機関と称されるエルリズ本部で、一人の少女が声を震わした。

「賢者の石が盗まれ、た……?」
「シッ声が大きいですぞよ、マリア様」
 マリリー・マリアはすぐさま周囲を見渡した。
 画廊が並ぶ廊下は静まり返っており、気配はなくも術式で溢れている。
 絵画の中の天使は、無用なお喋りを嫌う。
「この事はご内密にお願いします、なにせあの石は――――」
「止せ。どこに耳があるかわかったもんじゃない」
「しかしこれを追求せずにして」
「一体、どこの馬の骨が嗅ぎつけたのやら……」
「やはり裏切者が」
「やめろ、それこそ禁句だろう」
 口々に思惑を漏らす高官らにマリリーは難しい顔で俯いた。
 その様子を察してか、四角い仮面をつけた者が柔らかい声で場を治めんと声を揚げる。
「無用な心配はいりませぬぞよ、皆様方。なにせアラン卿がただいまお調べになっておいでだ。魔導士様のお手にかかれば賊などすぐに見つかりましょう」
 仮面の裏の表情は読み取れずとも、このエルリズを統べる偉大なる魔導士アランに篤い信頼を寄せているのはひしひしと伝わってきた。
 マリリーは仮面で見えぬはずのその目をしっかりと捉えて、深く頷く。
 すると、暗がりからコツコツと足音が響いてくる。
 官らは一斉に声を殺してその人物を確かめんと目を凝らした。
「こんなところに居たのか、マリア」
 現れたのは、魔聖騎士団長のルバイドである。
「アラン卿がお呼びだ。我々全員に招集命令が出ている」
「わかりました」
 官らは恭しくルバイドを礼して、そそくさと立ち去っていく。
 その中で唯一、仮面の者だけは一度立ち止まりてマリアへと丁寧にお辞儀をする。表情は見えずとも、なぜかその仮面の裏には優しい表情が伺えるような気がマリアにはした。
 マリアも丁寧に一礼を返し、そしてすぐにリバイドの後を追いかけた。
「シカク様は信仰が篤いですね」
 マリリーが嬉しそうに表情を緩めれば、すぐさまルバイドは苦言する。
「あまり信用するものではないぞ、マリア。官は敏い。高官ともなれば巧みだ。魔術は使えずとも人を操る術に長けている。騎士たるもの、うかつに官に情をかけるな。いつ彼らの政争の道具にされるかわかったものではない」
 ルバイドの声色は冷たく、その眼は恐ろしいほどに鋭い。
 つい怯んだマリリーが顔を伏せれば、ルバイドは少しだけ困ったように表情を緩めた。
「何より官というのは噂話が好きなものだ。あることないことなんでも話す。真面目に聞き入るときりがなくなるぞ」
「はぁ、まぁ……それは、なんとなく、わかります」
 ルバイドは足の速度を少し遅めて、歩幅をマリアに合わせる。
「お前は若い。官にとっては恰好の的だろう。見ているとどうも心配になる」
「私は頼りないのでしょうか」
 シュンっとなるマリアに、ルバイドは笑う。
「どうだろうな」
 その顔は先ほどの険しい表情とはうって変わって、とても優しげだった。
「しかし、アラン卿が新米のお前を含めて全員を招集するとは」
「先ほど官らが話していたのですが、あの……」と、マリアが言い淀む。
「賢者の石の件か」
「はい」
 ルバイドは小さく呟いた。
「やはり官は信用ならんな」
「ルバイド様?」
「なんでもない、行くぞ。マリア」
 そうして、マリアたちは聖域へと辿りつく。

 天法の間と呼ばれるこの一室には、聖なる魔導士が鎮座している。
 荘厳な扉を開くと、中には神々しいまでの光を放つ聖遺物、珠焉(たまいずく)の書が周囲を照らしていた。
「やぁ、来てくれて嬉しいよ。聖女(マリア)
 この魔導士、現界に住まいし不死なる男、名をアランと言う。
 魔術師の多くは、彼を天使と崇め奉る。八つの純白なる翼を持ち、深き慈悲と至言の魔術を操る彼は、魔術連合の盟主の一人。
「実は君に頼みがあるんだ」

 不死なる天使が天を指さすとき、神意が示すは――――。
 


 ◇



「フェ~~~~~ックション」
 宗也はデカいくしゃみをして鼻をむずむずとさせた。
「風邪か?」
 後ろの席から慎吾が全然心配してなさそうに聞いてくる。
 宗也は、杉のあいつを思い出し、首を振った。
「花粉かな」
 外は満開の桜吹雪が舞っていた。
 入学式とともに開花した桜は今、絶頂を迎えている。
「こらー、そこ!静かにっ!」
 ホームルームの最中で、担任の中沢先生がごほんと一つ咳払いをして仕切り直した。
「えー、実は、今日から新しいお友達がクラスに加わります」
 突然の転校生にクラス中が湧く。ざわざわと騒めく中、一人の少女が教室へと入ってくる。
「転校生のマリリー・マリアです」
 現れたのは、凛とした乙女である。

 春の香を纏う彼女は、桜のように可憐で、ずっと見ていたくなるほど美人だった。
 呆然と、その美しさに見とれている宗也の横に、彼女が座る。
「よろしく」
 やんわりと微笑みかけるマリリーは、まるで天使のようだった。

 ――――昼休み。

 美少女転校生の登場で、当然クラス中が沸き上がった。
「スウェーデンから来たんだってよ」
 情報の早い慎吾が仕入れてきた内容を披露し、興奮冷めやまぬ様子で話しだす。
「ご両親は外交官なんだってよ! つか、こっちに来たばっかなのに日本語ペラペラで凄くね? しかも声も可愛いのなんの、勉強できそーだし美人で優しいし、やばっ。俺恋してるかもッ☆?!」
「ふーん」
 宗也は興味なさげに弁当箱から一つ卵焼きを頬張る。
「ちょ、なにその俺全然気にしてないですみたいな雰囲気!」
「一体どうしろと」
「そこは恋敵らしく反応してほしかったわぁ~。は?俺のほうが愛してるし、みたいな?」
 うきうきしながらおちゃらけている慎吾とは対照的に、宗也は顔をおもっくそ歪めて真顔になる。
「…………キモ」
「ひどっ、ひどいっっ、ひどいよ宗也くん。謝って!」
「あーうん、ごめんごめん」
「まったく心がこもってなぁ~いっ!」
 面白おかしく騒いでる慎吾を他所に、宗也は話題の転校生をちらっと見た。
 マリリーは女子に囲まれて楽しげに談笑していて、そこにクラスの顔の良い男子が混じって、華やかにしてる姿は、つまりは自分とは住む世界が違う人なのだと認識せざる負えなかった。
 宗也はどちらかと言えば地味な男子である。顔は中の下で、成績は普通。運動神経はど真ん中、目立つ要素はほとんどない。こんな自分と美少女とはどうやったって釣り合うわけもない。
 感傷に浸る宗也がぼんやりとすれば、一瞬だけマリリーと目があう。
 が、すぐに宗也は気恥ずかしさからか視線を反らしてしまう。
 いったい何をやってるんだと内心で葛藤し、もう一度恐る恐る目を遣れば、マリリーは同級生らと楽し気に談笑していた。
「あっ」
 突然、慎吾が何かに気づいたようで声をあげた。
「あそこにいるのエンカちゃんじゃないか?」
 言われて振り向けば、教室の扉からエンカがひょこっと顔を出して覗き込んでいる。
「本当だ。何やってんだ、あいつ」
 エンカの視線の先を探れば、じーっとマリリーを見ているようだ。
 慎吾が「はっはーん」としたり顔になって探偵のような口ぶりで話始める。
「先日、君は何でも願いが叶う石を手に入れたのだったね。ワトソンくん」
 突然の話題の切り替わりに宗也は「何を言ってるんだこいつ」と内心で想いつつも、ひとまずは慎吾のノリについていくべく頷いた。
「その石にもしや君は、彼女が欲しいとか願っちゃったりしてないかね?」
「ギクっ」
 ピンポイントで当ててくるので、宗也は思わず黙る。
 その沈黙を肯定と捉えた慎吾は名探偵気取りに話を続けていく。
「そこから辿っていくと……、ああ。もちろん、これはあくまで推察の域をでないのだがね、わかってしまうこともあるのだよ。つまりこれは――――恋という事件の始まりなのではないかな?」
「なぁに言ってんだ。こいつ」
 思わず心の声が飛び出した宗也は慎吾の推理を否定する。
「何度も言うけど、エンカはただの幼馴染だからな? 恋とか、そういうのは絶対ないから」
「でもさー 宗也が昨日エンカちゃんを恋人にーとか願っちゃったからー」
「んなもん願ってないっ! 願ってないからっ! エンカと恋とか……、あ、……あるわけないだろ!」
 ふーんっとニタニタしつつ、慎吾がさらに粘る。
「しかし、だね。内藤くん。そのただの幼馴染がわざわざ美少女転校生を見に来るとかって、それ相応の理由があるからじゃないのかね?」
 慎吾の指摘に宗也は再び黙り込む。
 確かに、親しい宗也だからこそ謎に思う。エンカが転校生を見に来る理由が思いつかないのだ。エンカの性格上、気になったらハッキリ言う奴だし、わざわざ偵察の如く覗き込むような真似をするとは思えない。
「で、だね。ワトソンくん。その、ただの幼馴染が突然恋に出会うような理由がなんと今この瞬間に存在するのだよ。君が昨日未来の俺から渡された不思議な石の効力によって、エンカちゃんは恋をしている。だから、美少女の様子が気になってしまうのではないだろうか」
 慎吾がどやぁっと言えば、宗也は仏頂面で即答した。
「いや、それはないな」
「ちょーっ! 今のは頷くシーンだったよ、ワトソンくん?!」
「本当にエンカが俺に恋してるなら、視線の先にいるのは俺であって、マリアさんじゃないだろ」
 冷静に分析する宗也に慎吾が「まぁそうかもだけどさぁー」と口を尖らせた。
「だいたいあの石は、……きっとなんかの間違いで」と言いかけたとき、ふと誰かの視線を感じた。
 見れば、今度はエンカと目が合う。
「ッ?!」
 宗也は少しドキっとなった。なぜかわからないが鼓動が早くなって、顔が少し赤らむ。自分自身の謎の衝動に戸惑いつつも、エンカに「よう」と軽く挨拶する。
 なるべく普段通りの調子を装って、変にならないように気を付けて、先ほど見てしまったエンカの健気な顔を思い出さないように。
 すると、エンカが宗也のもとに近づいてくる。
「しゅ、しゅ、しゅ、宗也。わわわわ私は決めたぞ」
 なにやら目をぐるぐるとさせているエンカの様子を不審に思いながら、宗也が訊ねる。
「ん、何を?」
「ほほほほほほ本日、超常現象部を創設する!」
「はひ?」
 唐突なエンカの宣言に、横で傍観していた慎吾が持っていた炭酸飲料を吹き出しそうになってゲホゲホとしている。
 呆気にとられている宗也に迫るように、エンカが顔を近づける。
「そそそして、君を部員第一号に任命することととにしたっっ!」
「はひ?」
「だ、……だめ、か……?」
 宗也は、思いっきり動揺するエンカにつられて、つい「いいけど」と返答してしまった。
「よしっ。じゃぁ、今日教室に居てね!迎えに行くから」
 エンカは「約束だよ!」と嬉しそうに笑って教室から小走りで出て行った。
「超自然現象かぁ」と、慎吾がしみじみと言う。
「な、なんだよ」
「いやぁ、若い。若いなぁ~~っと思ってね!」
「お前と同い年だろ……」
 クカカと豪気に笑って「それもそうか」と慎吾は付け足し、深々と呟く。
「青春だなぁ」
「おいっ」
「いやいやだって超常現象(オカルト)部ってねぇ? 漫画でしか見たことないし」
「ぐッ。確かに現実離れしてるが……。……ってか、そういう慎吾はなんもないわけ?」
「俺?」
 慎吾は「う~ん」と腕を組んで何やら考え込む。
「また野球部入るの?」
「おうよ。レギュラー入りを目指すんよ」
「うちの野球部って強豪って話だよな」
「ああ、平和で寛大な中学とは大違いで今日、入部試験なるやつがあんだよなぁ」
 えっ。と宗也はまじまじと慎吾を見る。
「それもどうも狭き門だとかで有名で、まったくやんなっちゃうぜ」
「……ガチそうだけど、本気で入るの?」
「あたぼうよっ!」
 クカカっと豪気に笑う顔は太陽のように明るい。
「……まっ、慎吾ならどうにかなるか」
 これは素直な宗也の言葉だった。
 慎吾は根っからの野球少年というわけではない。中ニの時に転校してきて、そこから野球を始めたので実はまだ一年ぐらいしか経験がないのだ。しかし、そのハンデをものともしないほど、運動神経が飛びぬけて良い。中学の時も、あっという間にレギュラー入りして、気づいたころにはチームを支える存在(リーダー)になっていた。
 小学生のときから野球をやってきたような連中のなかで、慎吾がリーダーとしての地位を築けたのは、運動神経の良さだけではない。持ち前のセンスと有り余る体力。そしてサッパリとした性格と不屈な精神。慎吾だからこそ、今回もあっという間にチームのヒーローになるんじゃないかって気がしてる。 
「強豪って聞くと先輩怖そうなイメージあるけど、どうだった?」
 何気なく宗也が尋ねれば、慎吾は「あー」と空返事をする。
「ん?どうした?」
「実はさー、知り合いがいんだよ」
「ああ。中学んときの先輩?」
 違う違うと首を振って、慎吾はちょっと困ったように笑った。
「小学のときの、……知り合いってやつ」
「へー」
 何気なく答えて、慎吾の過去を回想する。
 慎吾曰く、引っ越してくる前はかなり荒れていたらしい。
 同級生と悪いことをたくさんしていたとぽつりと話してくれたことを思い出す。
「まぁ、そんなわけで馴染みやすいと思うぜ。きっと」
 普段明るい慎吾が唯一、表情を曇らすのは転校してくる前の話をするときだけだ。
 だからこそ、この確かな違和感に宗也は目を瞑る。
 きっと聞かれたくないことがあるんだろうと想う。
「ま、頑張るさ」
 軽く言ってのける慎吾に、宗也は飛び切りのエールを送る。
「応援してるぜ。英雄(ヒーロー)
 少しばかり揶揄うように言う宗也に慎吾はクカカッと豪快に笑った。


 ◇



 放課後、宗也は教室でエンカが来るのを待っていた。
 賑やかな教室の一角でぼんやりと沈みゆく太陽に魅入っている。
 普段通りの、なんの変哲もない光景なのに、なぜか今日はどうしようもなく夕日が儚げで目が離せなかった。
 時計の音色が室内に響く。時間が巡れば巡るほどに闇が深まるのを肌で感じてため息をつく。

 ――――待ち人は来ず。されど、時は止まらず。

「内藤くん」
 突如聞き慣れない声に呼ばれ、驚いて振り向けば転校生のマリリーと目が合う。
 だいぶ時間が経っており、教室にはマリリーと宗也しか居らず、周囲は不自然なほどに静まり返っていた。
 しんとした教室でマリリーは柔らかく微笑む。
「だよね。今、平気?」
「あー……うん」
「野球部、見てたの?」
 言われて校庭に目を向ければ、ちょうど窓の外では野球部の入部試験が行われていた。
 それとなく慎吾の姿を探すと先輩たちと何か話している姿が見えた。
「隣いい?」っとマリリーが椅子に手をかける。
 宗也は内心で驚きつつも頷いた。
 どうして自分に声をかけてくるのか不思議に思うが、こうして話せることが嬉しくもあるのだ。
 マリリーが静かに横に座った。そして、何を話し始めるわけでもなく、ただ傍にいる。
 無言に耐えられなくなった宗也がそれとなく口を開いた。
「この時期に転校してくるのってなんか珍しいね」
 何か気の利いたことを言おうとしたが、口から出たのは他愛無い話である。
 入学式の一週間後に転校してきた事はクラスでも話題となっており、おそらくマリリーはこの質問を他の生徒にも再三尋ねられたことだろう。
「日本の仕様がよく分からなくて」とマリリーは苦笑交じりに応える。
「ご両親は日本人じゃないの?」
 まるで初めて聞くかのように質問を投げかけて、その実その答えをすでに知っていると内心で苦笑した。
「うん、どっちも違う国だよ」
「それなのに凄いなぁ~。俺は英語とか苦手だからさぁ、バイリンガルの人ってかっこよく感じるよ」
 マリリーがニコリと笑う。
「……でも、花月エンカさんもいろんな言語が話せるでしょう?」
「え」
 今までのありふたりな会話から一転して、唐突に現れたエンカの名に宗也は驚きを隠せない。それに加えて、エンカが多言語を喋れるなんて、宗也は知らない。まるで知らない幼馴染の一面を告げられ、どこか虚を衝かれた心持にもなる。
 宗也は困惑しながらも二人の関係を模索する。すると、ちょうど昼休みのことが思い起こされた。
 もしかしたら二人はどうやら面識があるのかもしれない。
「ねぇ、宗也くん。彼女とはどういう関係?」
「えぇ~っと幼馴染だよ。ただの」
 ただの、の部分を強調して伝えるも、マリリーは複雑な表情を浮かべている。
「逆に聞くけど、エンカとどういう関係なの?」
「……どういう」
 マリリーは眉を顰めながらに小さく呟いて、沈黙した。
 神妙な顔つきのまま黙っているマリリーに怪訝に思いながらも、宗也はありのままを言う。
「なんていうか二人が知り合いって意外だな」
 全然似ても似つかないタイプで、共通点らしい共通点も見当たらない二人だ。
 いったいどんな経緯で互いを知ることになったのか不思議で不思議でしょうがない組み合わせでもある。
 なにせエンカは厨二真っ最中で、言動がどこか痛々しくて、人を寄せ付けない雰囲気があって、地味なわけではないが派手というよりはどこか悪目立ちしてるようなやつで、どちらかといえば問題児だ。
 対するマリリーは優等生で、誰にでも優しくて、美人で欠点なんて見当たらない。非の打ち所がないタイプだ。まぁ、転校初日だから完璧に思えるだけかもしれないが、人として纏っているオーラがどこか違う。
 二人を対比して、宗也は一つ気づいた。
 ……ああ、似ても似つかない二人だが、二人ともどこか現実味に欠けているところが似てると思った。
 まるで漫画や小説に出てくる完璧な美人と、その漫画と小説を追い求めるがゆえに奇行を繰り返す少女。
 どちらも現実に生きてるはずなのに、現実という名の平凡とはかけ離れたモノがあって、なにかこの世ならざる遭遇ができるのではないかという予感をさせる。
 それは、宗也が平凡ゆえに二人を異質に感じる故なのか、それとも本当に二人が異質だからそう思わざる負えないのか。
 どちらにしろ、二人とも特異な存在だった。
「てか、エンカが英語得意とか初めて知った。もしかして塾で一緒だったとか?」
 咄嗟に話題を振って、マリリーを見る。
 依然として、マリリーはなにか思い詰めているようである。
 そんなにエンカとの関係を探られるのが嫌だったのかと思いつつ、それとなく視線を外した。
「花月さん……ううん、花月卿は――――」
 マリリーの声とともに、冷たい金属音が響いた。
「きっと私が討たなければならない敵なのだと思う」
「え?」
 宗也の喉元に何か冷たいものが当たった。それが何か認識する前に視界が暗転する。
「うわっ」
 唐突に、マリリーは宗也を押し倒した。
 まったく状況を飲み込めない頭をフル稼働させて、目の前の光景を整理する。
 そうして見えたのは、剣を握る少女である。
 なぜかマリリーの手には鋼剣が握られており、喉元には恐ろしく冷たい銅剣が突きつけられている。
 ――――殺気。
 あまりの気迫に、思わず固まってしまう。
「内藤宗也。君を断罪する」
 突然の宣告とは別に、にごくりと息を飲む。冷酷な宣告以上に宗也は彼女にくぎ付けだった。
 窓から春風が柔らかく吹いた。すると、マリリーの髪に沈みゆく夕日の色が添えられる。黄金の髪が淡い匂いを漂わせて周囲を輝かす。紅と黄金が蒼闇に交わる瞬間は、まさに絵画そのものだった。黄昏(たそがれ)に現れる少女は妖魔の如く、男人の心を奪う。
「美しい……」
 絶世の美女がそこに居たのだ。息を飲むほどの美しさに圧倒され、そしてずきりと胸が痛んだ。
 なぜか脳裏にエンカとの思い出が駆け巡る。懐かしい一幕が警鐘の如く、響いた。


 ――――逢魔時。
 魔の者に人が惹かれるのは決まって黄昏(こうこん)の刻。
 宵五つ。出会うべき者たちが、逢わなければならない時間。
 だが、忘れるなかれ。
 魔の誘いに乗るも乗らぬも、キミ次第。
 神が決めるものにあらず己で決めるが運命なり。
 逢魔時の次を、人定(ひとさだめ)と呼ぶ。
 避けられぬ出会いはあれど、避けられる運命(さだめ)は必ずある――。

『ねぇ、マモノってどんな生き物なんだろう』
 幼き日の記憶の中でエンカが不安げに尋ねてくる。
「ゲームに出てくるヤラレ役」
『しゅーやは怖くないの?』
「ああ。全然怖くないね」
『じゃ、じゃぁ! もしマモノに私が襲われたら助けてくれる?』
「ばーか、んなもん居るわけないじゃん。作り話だよ」
『も、もしもだよ! もしも、本当に出てきたら……?』
 エンカが心配げに聞いてくるのでついデコピンしてやったのを今でも憶えている。
 幼き日のエンカは、今とは少し違っていつも迷信に怯えていた。
「そんときは必ず俺が守ってやるよ」
『そ、そうか! ふふっ。なら私も』
「うん?」
『私も、……もし、宗也が魔の者と出会って困ったことになったら、…………必ず助けるよ』 


「何をしているっ!」
 突如、閃光が走る。
「――――ッ?!」
 次に雷鳴が轟く。
 ハッとして宗也は正気に戻った。
「あ、あのっ!」
 現れたのは二人。
「…………」
 一人は凛とした幼い黒髪の少年で、こちらをジッと見据えている。
 もう一人は、その少年の後ろでおどおどするこの学校の女子生徒である。


 ◇


 遡ること数十分前――――。

「盗みはだめ盗みはだめ盗みはだめ」
 始終の石を奪還するべく現界にやってきた雷三(らいぞう)は、一つの試練にぶち当たった。
「だって僕は盗みを糺しに来てるッ! 天の使者たる僕が物を盗むなんて絶対してはいけない! ……ことだよね?」
 文鳥のカズハを見遣って同意を求めるもカズハのほうは目を反らす。
「雷三様、不法侵入もよろしくはないかと思われます」
「な、なんとッ」
「案内したのはわたくしですが」とカズハは付け足して気まずそうにした。
 雷三は、宗也の室内にこっそりと侵入し、件の盗品「始終の石」を奪還できる大チャンスにある。しかし、その前に立ちはだかるは倫理であり、道徳であり、良心であった。目の前にある物をとることは、果たして窃盗とどう違うのだろうか。という疑問につい立ち止まってしまったのである。
「泥棒からなら泥棒しても良い。現界には、こういう(ルール)はあるだろうか」
 息詰まった雷三が尋ねてみるも、カズハは首を傾げるばかりで返事をしない。
 それでも根気強く返答を待っていると、やっとのことで答えが来た。
「わたくしは人間のルールには疎いものでどうにも。なにぶん、ただの文鳥ですから」
「現界のルールと人間のルールは違うのか?」
 カズハは雷三の素朴な疑問に目を丸くしてから答えた。
「そりゃぁもちろん違いますよ。人間は自分たちで法律(ルール)を決めていますから、いいもわるいも人の勝手というやつです」
「なんと……」
 今度は雷三が目を丸くする。
 そうして、幾たびほど思案を重ねて一つの結論を出した。
「よし、じゃぁ聞きに行こうッ!」
「え? 誰にですか」
「決まっているであろう。この部屋の主に、だ」
 カズハは驚いて大慌てて首を振る。
 しかしカズハが何かを言うよりも早く、雷三は得気げにカズハの嘴の前に人差し指をかざして言葉を封じた。
「案ずるなかれ、カズハ。この部屋の主の気配を探すぐらい朝飯前だ」
 雷三はジッと魔力の痕跡を探りだす。
 喧噪大き現界であっても天の才は衰えず、すぐに主なる内藤宗也の影に辿りつく。
「――――よし、見つけたッ、いくぞ。カズハ!」
「あ、お待ちください」
 意気揚々と進んでいく雷三の後をカズハは追いかける。
「ここか」
 宗也の通う三つ葉高校の前に到着した雷三は、洋城の如く威厳ある校舎を見上げた。
 遠目からでもわかるほど、放課後の校内は賑わっており、人があちらこちらで右往左往としている。
 目的もなく漂う人もあれば、部活動に熱を入れるものもあり、人の気は散漫としていて厄介である。
 侵入に骨が折れると見立てた雷三は、姿消しの術を己に施して、念入りに経路を探り始める。
「ら、らぃ、らぃぞうさまぁ~……」
 遅れてやってきたカズハがぜぇはぁと息を荒げながらへろへろと飛んできて、雷三の肩にぴょこんと乗る。
「バテたのか」
「もうだいぶ年でございます」
 息を荒げるカズハの呼吸を整えてやれば、カズハは「あぁ、ありがとうございますぅ……」と照れ臭そうに頬を染めた。
 そうして、一通りの準備を終えた雷三らは人に会わぬようにタイミングを見計らい校内へと進んでいく。
 すると目についたのは仰々しい下駄箱の群れであり、ついそれに興味が沸く。
「この建物は収容所か何かか?」
 それにしては外見がまるで見合っていないと不思議がれば、カズハが人の知識を披露する。
「確か、ここは学校と呼ばれる施設ですよ」
「学校?」
「天でいうところの学び舎でございます。この国の子供はここに集まって本を読んだり遊んだりしているようです」
 ふーんっと相槌をうってから時折現れる学生に疑問が沸く。
「人の子とは大きいのだな」
 雷三は人の見た目にして七歳程度の子供である。その為、高校生は目上に感じられるのだ。
「雷三様はまだまだお小さいですからね」
「なっ、……た、確かに小さいといえば小さいが」
「なぁに、お気になさるな、雷三様。あと百年もすれば貴方様も大きくなりましょう。今はお小さくとも必ず立派になりましょう。ええ、ええ。今は本当にお小さいですが、気になされることはありませんよ。人も知らず知らず大きくなっていくものですから」
 と、つらつらと悪気なくいろいろと述べてくる文鳥に、雷三はむっとなる。
 まさか天仙である自分が人などに妬くことがあると思っているのかと訴えんとするも、ぐっとこらえて話頭を変える。
「とにかく急ぐぞ。人に姿を見られては後が面倒だ」
 雷三は念入りに気配を探って、人のいない経路を導きだした。
「よし、こっちだ」
 遠回りになりつつも、確実に宗也に近づいていく。
 そうしてやっとのことで宗也の居る階についたとき、小さな悲鳴が聞こえた。
「きゃっ」
 何事かと思って見上げれば、ちょうど女子(おなご)が足を滑らして階段から落下する瞬間が視えた。
「危ないッ!」
 すかさず神術で風を編み出して衝撃を抑え込む。
 咄嗟のことであったが無事に尻が着地する感覚を得て、雷三はホッと一息ついてから少女の傍に近寄った。
「大丈夫か」と、手を差し伸べると、女子は呆然として瞬きする。
「子供が、浮い、て、る…………」
 少女は目をぱちくりさせながら、口をぱくぱくと動かして、指をふるふると震わせる。
 この世の者ではない異物と遭遇したと暗に訴えてくる少女の顔に、カズハが「アチャー」と翼で顔を覆った。
「あっ! いやっ、これは……だな」
 人に見られるのはマズイ。
 天の密命で現界に舞い降りた身として、むやみやたらに人に見られるのは非常にマズイ。
 なんとか弁明しようと考えてみるも思いついたのは苦肉の策だ。
「すまぬ、人の子よ。見なかったことにしてくれ!」
 即座にとんずらしようとすれば、すぐに女子が声を挙げた。
「あっ! 待って」
 さっと身を引き、術を用いて姿を隠してみるもどうにも調子がおかしい。
 後になって冷静に考えてみれば、雷三は隠れ身の術で姿を消している。本来であれば、術が使えない人間には実態を見破られるわけがない。
 なのに少女には雷三の姿が見え、おまけにがっちりと手を掴んでいる。
「な、なんだ?」
 奇妙に思ってこの娘っこの気を探るも、どうにも普通の人とは勝手が違う。
 なんというかこれは……。
「あ、あのっ。あなたが助けてくれたの?」
 目をぱちくりさせながらも言葉を紡ぎ出すた少女の問いに、雷三は戸惑う。
「まぁ、そうだが……。なぁ、おまえ生きてるのか?」
「えっ」
 質問の意図が分からず少女がぽかーんとする。
「ももももしかして、私。死んじゃったの……?」
 動揺し始めた少女がアワワと口を動かしてユラユラと瞳を揺らす。
「確かにさっき落ちたとき、全然痛くなかった。それにさっきのって……、もしかして走馬灯だったりして……? え? うそっ……、わ、私。死んで……」
「お、おい。泣くな」
「うぅ~~……。私、何もまだ宗也君と何も…………」
 ぶわっと零れ落ちる涙は抑え込んでいた感情をみるみると暴き始める。
「ずっとずっと好きだったのに……、なにも出来なくて、うぅ……、勇気がなくて……。なのに、なんで、あんなへんな夢をみるのか、わかんなくて……。うぅ……」
 ぼろぼろと涙を流し、わーわーと騒ぐ少女に雷三はアタフタとする。
「おい、落ち着け」
 少女の扱いに困っていると騒ぎを聞きつけた他の生徒が「なんだ?」と気にし始めるのが感じ取れた。
「や、やばいっ!」
「これ以上、人に見つかるのは得策ではありませぬね」
「しょうがない。こっちだ、こい」
 雷三は少女の手をぐいっと引っ張って人の居ない教室へと駆けこむ。
 勢いよく扉をしめて術を練る。気を操り、外の生徒たちの関心を他所へと向けるべく、四方八方の箇所で音を鳴らす。パリンと窓を割ってみたり、ドンっと物を落としてみたり。あれやこれやと音を奏でれば、生徒らの関心はまた別の事柄へとうつっていく。
 そうして生徒らの気が逸れたのを確認して雷三は胸を撫でおろした。
「よし、これで問題ないだろう」
 改めて少女に目を向ければ、依然としてうぇんうぇんと泣いている。
「大丈夫か」
 雷三はポケットから三色糸のハンカチを取り出して、少女を慰めた。
「なぁ、カズハ。この女子は死んでいるように見えるか?」
 少女の生態を掴みかねている雷三が疑い半分で尋ねれば、カズハは首を振る。
「いいえ、わたくしめには彼女は生きているように思われます」
「……確かに、死んでいるなら彼女の泣き声に人が寄り付くわけがない」
「え?」
 少女が顔を上げてきょとんとした。
「えーっと……じゃぁ、わたし……って、もしかして生きてる?」
「ああ。おそらく生きてはいるのだと思う」
 雷三の言葉に瞬く間に少女は顔を赤らめる。
「ご、ごごごごめんなさいッ」
 カァっと顔を朱色に変えて頭を下げる少女に、雷三は難しい顔になる。
「……しかし、おまえのソレは……」と、言葉を止めて腕を組んだ。
「まぁまぁ。わたくしには生きていると思われますので、もし勘違いをしたとなれば、それはまぁ、雷三様の勘違いというやつでして、貴方様の勘違いではありませぬよ」
 カズハがチュンチュン鳴くと、少女は「わぁ」と感嘆をあげて微笑んだ。
「なんだか鳥さんが慰めてくれてるみたい」
 どうやら少女には文鳥のカズハの声はまるで聞こえていないらしい。
「人間には鳥の言葉は通じぬのか」
「えっ、君は鳥の言葉がわかるの?」
「ああ」
 少女は改めて雷三を見た。
「さっき助けてくれてありがとう。もしよければ名前を教えてくれる?」
「雷三だ」
「雷三君……」と、小さく言ってから少女は雷三と向き合う。
「私は式枦(しきる)ひよこ。この学校の一年生です。本当にありがとう」
 雷三がひよこと名乗った少女の顔をまじまじ見れば、表情は明るく生気に溢れている。外見に異常は何一つとして感じられない。しかし、ちょっと気を探ると、その魂は此の世界にとって紛れもない異物である。
「お前は魔導士か?」
 疑惑を含んで尋ねれば、やはり少女は知らず存じぬの様子だ。
「ごめん。よくわからないけど、もしかして小説とか絵本とかに出てくるヤツのこと?」
「いや……。いい。お前はいわゆる普通の人間なんだな」
「うん、たぶんね。雷三君みたいに宙に浮いたりすることは出来ないから。ねぇ、雷三君って一体何者なの?」
「ボクは――――」
 と、言おうとしたとき、隣の教室からガタンと何かが倒れ落ちる音がした。
 怪しく思って気配を探れば、――――これは殺気。
「まずいっ!」
 雷三はひよこが止めるのも聞かず、大慌てで教室から飛び出した。


 ◇


 雷三は、マリリーをじっと見据えた。
 マリリーは雷三が教室に飛び込むや否や、すぐさま宗也から離れて戦闘態勢に入った。
 激戦を制した戦士のような俊敏な動きに、雷三はごくりと息をのむ。
 今まで見てきた人間とは明らかに纏う雰囲気(オーラ)が違う。マリリーは人並みならぬ耀きを持っている。
「……これが魔術師か」
 天界に住んでいたころに伝え聞いた存在。
 生まれて初めて見るソレはこの世ならざる異様な気を漂わせ、この世界を拒絶しているようでさえあった。
「そういう君は魔物か?」
 マリリーが静かに尋ねる。
「冥界から迷い込んでくる魔物にしては……、君はどうも特別だな。一体なんの用で此処にいる?」
「その男に用がある」
 宗也を指させば、マリリーは目を見開き驚いた。そうして失笑混じりに吐き捨てた。
「…………魔物が人間に用事か」
 そして目を瞑り、賞賛する。
「やはりシカク様の懸念は正しい」
 マリリーは剣先に魔力を集中させ、一気に放出した。
 発光を帯びた刃から瞬く間に一太刀の閃光が放たれる。
「神聖なる裁きの一太刀、―――ホーリー・グリント!」
 雷三は自ら目がけて放たれた一撃を避けるべく、身を翻す。
 音速にも等しい一撃を軽やかに躱し、マリリーへと反撃を加えようとしたとき、ふと気づいた。
 マリリーの瞳には、確かな勝利の確信が宿っており、その視線の先に雷三は居ない。
 咄嗟に避けたはずの閃光を目で追えば、虚空に消えるはずの閃光が急カーブして、宗也を捉えている。
「なっ!」
 マリリーの狙いは、初めから宗也だった。
 殺害を目的とした容赦のない一撃を放ち、確実に息の根を止めようとしている。
 雷三へと殺意を向けつつ、本当の目的は宗也の殺害であった、なんて。
 殺しを専門としている人間じゃなきゃ、できない芸当だ。
 咄嗟のことで反応が遅れた雷三が身を挺して庇おうとするも、間に合わない。
 最悪な未来がよぎった瞬間、一人の少女が宗也を庇うように前に出た。
「危ないっ――――!」
 間に入ったのはひよこである。
 一瞬、雷三の脳裏に淡い期待が浮んだ。
 というのも、ひよこは普通の人間ではない。前述した通り、マリリーとは違うが、マリリー同様にこの世界の異物であるが故、もしかしたらひよこにも何か魔術の類が使えるのかもしれない。
 事実、ひよこの瞳は確固たる決意に満ちており、凄まじい気迫で宗也を守ろうとしている。
 これほどの精神の持ち主ならば、何か特別なことを起こすのではないかと、そんな予感をさせる。
「……っ!」
 しかし、現実は非情である。
 どれだけ待とうが、ひよこに変化の兆しはない。ただただ死の運命がひよこに近づいていく。
 一瞬一秒が永く感じられる中で、宗也もろとも、消し炭になる未来が浮かぶ。雷三が何か術をと思えども、時はすでに遅し。
 ひよこの身に閃光が触れるその瞬間――――。
「――――そこまでだ」
 静かな声が室内に響いた。
 同時に、マリリーが放った閃光は影に呑み込まれる。
「魔術連合特殊部隊のマリリー・マリアだな」
 宗也は呆然としながらも慣れ親しんだ声の、その名を呼んだ。
「……エン、カ?」
 エンカは宗也とひよこを背で守るように、マリリーと対峙する。
「天使に仕える聖騎士が民間人を襲うなど、一体どういう了見だ?」
「……花月エンカ」
 二人を守ったのは赤髪の人間である。
 雷三は現れたエンカに驚きを隠せない。なにせなんら変哲のない人間が、いとも容易くあの魔撃波を相殺したのだから。
 エンカは、宗也と変わらないオーラの持ち主で、ひよこのような死人の気もなければ、マリリーのような希有な気もない。この世界に来てから幾人も見た平凡な人間の(オーラ)そのものだ。その平凡で何の変哲もない人間が、天童である雷三にすら出来ないことをやってのけたのだ。
 困惑する雷三をよそに、エンカはマリリーへと問責する。
「魔術の根も葉も知らない人間に手を出すなんて天使の僕がどういうつもりだ」
 マリリーは、突然現れたエンカに一瞬の動揺を見せたが、すぐに平然を装って質問を返した。
「花月卿こそ何のおつもりですか。私はそこの魔物の討伐を行おうとしたまでのこと。……それなのに魔物を庇うなんて。魔連の掟に反します」
「君が狙ったのは宗也だろ」
 エンカは雷三と宗也、そしてひよこを見て続ける。
「魔術は何かを傷つけるものじゃない。皆を助けるためにある」
「…………っ!!」
 マリリーはその目を大きく見開いた。
 相当ショックを受けたのか、一瞬たじろぐのがわかった。
 いったい何に驚き、何にショックを受けたか。雷三にはその心中はわからなかったが、彼女の目に徐々に憎しみが宿っていくのがわかった。
 エンカはマリリーの変化を気に留めず、更に言葉を続ける。
「第一、冥界から来る者ならなんでも討伐せよなんて(ルール)はないはずだ」
「魔物は三世界の境界線を脅かす存在。それを、魔導士たる御人が、この世界の歪みを見逃すと?」
 マリリーの動揺を意に返さずにエンカは雷三を見る。そして確信をもって尋ねる。
「君はどこから来た?」
 雷三は、エンカの深紅の瞳を捉えて、そのあまりの透明度に驚いた。
 どこか和歌姫様に似ているような、それでいてナニカが違っている不思議な瞳。
 親近感からか、雷三はつい白状してしまう。
「天界から来た」
 言ってはいけないと知りつつも、真実を答えないでいるなど不可能だった。精錬された鏡の前では決して事実を偽ることはできないように、信念を前にして、偽りを述べることなど出来ないのである。
「ハッ、魔物が天を語るか」
「私もこの子は天の子だと思う」 
「なっ」
「エルリズのマリア、剣を納めろ」
 絶句したマリリーの瞳が揺れ、そして溢れでる感情が言葉として噴出する。
「ふざけないで! 魔物の戯言を信じろというのっ!」
「魔導士の私の言葉を疑うのか」
「くッ――――!!」
 動揺を隠せなくなっているマリリーは苦々しく言う。
「私はっ! …………私はっっ、貴方を魔導士だとは想ってはないっっ」
「ならば、アランの言葉を疑うと?」
「っ! それはっ………」
「とにかく剣を納めて。宗也は賢者の石を盗んでいない」
「ッッ!!! なぜ極秘事項(それ)を知っている!?」
 エンカは小さく息を吐き、淡々と言う。
「私は魔導士。此の世界のことで知らないことのほうが少ない」
 そのように断言するエンカの瞳は夕日の傾斜ですこし揺れた。
 どこか寂しげにも聞こえるその言葉の真意は、雷三にも宗也にも分からない。
 ただ今分かるのは、マリリーが感情を高ぶらせていることだけである。
「何が、魔導士だ! あなたのような人の、いったい何が魔導士だっ!」
 マリリーの声が室内に響く。
「すべてを知っていると豪語なさるなら、なぜあの男を始末しないっ!?」
 咎を責め立てるようにマリリーはエンカを非難する。 
「黄金の神手の盟主であるロッテンバウアーは黒い噂の絶えない男。本来であればあのような忌まわしき魔術師は断罪されるべきなのに……っ! あなたがいるせいでアラン様は手をだせないでいるッ!」
「バウアーは……」
 エンカは俯きつつ、脳裏に浮かぶ悪評の絶えない男を思い出しては苦笑した。
「善い奴とは言えないけど、悪い奴でもないんだ」
「詭弁だ!」
 が、その曖昧な弁護は空しく、かえってマリリーの逆鱗に触れてしまう。
「アラン卿を惑わし、罪人を野放しにする貴女は悪だ」
 はっきりと告げ、マリリーは決意した。
「アラン様のお目を惑わすあなたをこのまま放置しておくことはできない。……これは謀反。だが、正義だ。世界を守りし聖騎士としての、使命」
 息を整え、エンカを見据える。揺らがぬ信念のもと、マリリーは剣を握りしめた。
「今、ここであなたを討つ」
 勢いよく切り込みにくるマリリーを見据えて、エンカは小さく息を吐く。
「マリア」
 エンカは迫りくる刃を前に、悲し気に微笑んだ。
「――――君は強いね」

第三章

 現在、現界は深刻な事態に陥っている。
 第二次世界大戦はあらゆる魔術師たちを表舞台に引きずりこみ、その存在を諸々の人に知らしめた。エルリズを初め、多くの魔術師たちが戦火の渦に巻き込まれた。
 この事態を重く受け止めた一部の魔導士らは、魔術連合なる組織を創設した。通称、魔連である。
 いくつかの誓約の元に魔導士と魔術師らを集め、魔術の力でもってして、事態を速やかに収束させたのであった。無事に戦争は終わり、世界の均衡は守られたと思われたのだが……。

 ここにひとつ、大きな問題が発生した。
 ―――――魔術が大勢の人間に知られたのだ。
 多くの人々が魔術の無限の可能性に魅入られたのは言うまでもないだろう。
 心の無い人間が欲望のままに魔術を扱えば、瞬く間に世界の均衡が失われてしまう。
 魔連はこの事態をも魔術で、なかば強制的に解決したのである。
 そうして魔術を秘匿する代償として、世界を大きく歪める結果を招いてしまうのであった。

 さて。
 時代は巡り、2021年。
 本日、魔連に重大な議題が持ち込まれた。
 魔術連合の発足以来、盟主会議が行われるのは今回で二十四回目の事である。

「まさか本当に盟主全員が集まる日がくるとは」
 二十四の時計盤を模した議席には、二十四人の人物が座っている。
 中央から議席に向かって動かぬ針が三本あって、その軸となる中心には三席の空席がある。
「前回は欠席が七人も居た」
 議席に座す盟主の一人が咎めるように横を見た。
「おいおい、俺様だけを見るんじゃねぇ~よ」
 めんどくさそうに扇を仰ぐ者の横で、更に申し訳なさそうに頭を下げる者がいる。
「すみません。うちの魔導士様がどうしても行くなと仰っていたので」
「……それでお主が代理か。まったくあの不届き者は」
「まぁまぁ。魔導士なら必ず来いというものではありませんよ。これはあくまで盟主の集まり。魔術師風情でも組織の長になるぐらいは出来ますから」
「笑顔でディスってんじゃねぇよ。腹グロ野郎」
 遠くから非難の声が挙がれば、すかさず賛同の声が鳴る。
「同意。我ら術師、導士なんぞに劣るにあらず」
「あーはいはい。あんたら盟主は、雑魚の中ではちょ~つよな雑魚だもんね~」
 険悪な雰囲気を意に介さず、盟主の中でも飛び切り若い者が声を押し殺しながら嘲笑する。
「ハイゼンさんがちょーつよとかっ、やっばっ! ちょっと世界が狭すぎない? それ」
 名指しされた男はカッとなって、顔を真っ赤にして立ち上がって声を荒げる。
「貴様ァッ! 我を侮辱するかッ!」
 すると、遠くから失笑混じりのヤジが入る。
「まったくやり取りが子供染みているねぇ」
「そーですよー。ハイゼンくんもミドラもまぁまぁ落ち着いて。みんなで仲良くやりましょうよ」
 先ほど腹グロと称された者が愉快そうに仲裁に入れば、ジト目の男がめんどくさそうながらも口を開いた。
「お前が吹っ掛けたんだろぉが」
 幾人かが口論する傍で、一人黙々と時代遅れのゲーム機をいじる者もいる。
 ぴぴっぴっ、と室内に電子音が響く。口論はいまだ続いている。
 そうしてそれらの騒音を一掃する審判槌が鳴り響いた。
 先ほどまで空席だった中央の三席に、顔が同じ三人の人物がいつの間にか座している。
「盟主の皆様。本日はお集まり頂きありがとうございます」
 透き通るほどの美しい声に、一同の視線が集中する。
「僭越ながら私たちロードーテートが本日の議長を務めさせて頂きます」
 ロードーテートなるものは瞬き一つせずに法典を開く。
「それでは議題を――――」

 今宵、魔術連合にて二十四の盟主会議が行われる。


 ◇


 エンカは溜息まじりに会議室を後にした。
 盟主会議の重要参考人として招集されたはいいものの、宗也の処遇についてはほとんど蚊帳の外で、埒が明かない状態である。
 宗也をめぐって、確実に世界が動き始めていることをひしひしと感じ、否が応でも歩く速度が速くなった。
 盟主らの幾人かは気づいている。

 ――――内藤宗也が特別な存在であることに。

 宗也は、この歪んだ世界にとっての、脅威であり、救いであり、破壊者であり、救世主である。
 世界のために、なんとしても彼を守らなければならない。
 それがこの世界を歪ませてしまった一人としての、責任。
「…………これは私が選んでしまったことだ」
 エンカは噛みしめるように言って、足早に廊下を進んでいく。 
 あのまま議論をつづけたとして、宗也を無傷のままに家に帰すなんて芸当は今のエンカには出来なかった。盟主たちは一癖も二癖もあって、彼らを真正面から説得するなど不可能である。
 となれば、さっさと切り上げて得意である隠密行動に切り替えたほうが良い。
「…………」
 だが、二十四人の盟主は強い。
 まして同じ魔導士を敵に回すというのはそれ相応の覚悟が要る。
「…………それでも、やるしかないんだ」
 エンカの脳裏に、先ほど対峙したマリリーの姿が浮かんだ。
 マリリーが使命の元に剣を抜いたように、エンカもまた自らの宿命がゆえに剣を抜こうとしている。
「あの子は強いな」
 しみじみと言って、足を止めた。
 エンカは剣を抜こうとしているだけで、その実、戦えずにいる。
 魔導士としての宿命が争うことを拒む。いともたやすく手に入る未来の予想図が、エンカがこれからやろうとしていることを咎めている。
「なんでも、……わかる、か」
 吐き捨てるように言って、失笑した。 
 現実問題として覚悟だけではどうにもならないのだ。何より力が必要で、その力を今のエンカはもっていない。
 そして最も辛いのが、この人並み外れた予見の才である。エンカの今の力では盟主である魔導士らを敵には回せない。敵に回せば、即ち宗也の死を招く結果になるだろう。
 悲しいほどに的確な予感は常にエンカを苦しめる。
「…………」
 だが、このまま放置する訳にもいかない。
 悩みが尽きぬままに、黄金の蝋燭で彩られた派手な廊下を歩いていけば、趣味の悪い置物が目にとまった。
 この廊下は、エンカの所属する会派の長、ロッテン・バウアーが取り仕切る一角で、彼の趣向があちこちに施されている。
 世の中は金だと豪語するバウアーは、自分を模した金の石像をこれ見よがしにあちらこちらに置いているのだ。
 趣味の悪い像に足を止めると、ちょうど待っていたといわんばかりに物陰から声がした。
「議会はどうなったん?」
 懐かしい声につい顔が綻んだ。
「無礼だぞ、ネイロ。花月卿は魔導士。そう気安くされては困る」
 メガネをクイっと持ち上げた青年が、ネイロと呼ばれている猫背の少年を諫めれば、アイドルのように可愛い女の子が飛び込んで来る。 
「カーエンおっひさぁ~~~!」
「っておい」
 急に抱き着かれて驚きつつも、エンカはその少女を抱きしめ返した。
「ねぇねぇ。怒られたのぉ~?☆ 怒られちゃったのぉ~~?? いえーい! 悲しんでるぅ~~!?」
 エンカは腕の中でひときわ嬉しそうにはしゃいでいる少女の顔をしみじみと見て、その名を呼ぶ。
「――――リンリ」
「やっほッ。バウアー様が心配してたからぁ~、りんりも来ちゃった☆」
 リンリは眩しいほどの微笑みで、楽し気に言う。
「…………こんなところに来て、大丈夫なのか?」
「う~ん? なにが~?★」
 とぼけた顔で笑うので、エンカのほうはちょっとばかりバツが悪い。
「…………いや、なんでもない」
「えぇぇ~? なぁにカーエン。気になるぅ~~☆」
 きゃぴきゃぴとするリンリに、眼鏡のトウダがいらだった様子で口を尖らせる。
「花月卿は疲れている。あまり騒ぎ立てるな」
「トウダ、宗也はどこにいる?」
「イワン博士の実験室に居ます。恐らく記憶開示の処置を施されているのかと」
「…………宗也を奪還する」
「それは魔連の連中を敵に回すということですか?」
 トウダが眼鏡をクイッと持ち上げて即座に問えば、エンカは静かに頷く。
「わぁ~。カーエンすっごぉ~ぃ♪ 魔連本部で宣戦布告なんて痺れるぅ~~☆★」
「でも、それはさすがに悪手じゃないかなぁ?」
 唐突に、嫌に耳につく不快な声が間に入ってくる。
「いくら花月卿が魔導士とは言っても、ねぇ。無断で容疑者を釈放するとなると、盟主(僕ら)も黙っていられなくなるからなぁ」
 きんぴかに光る黄金の石像が動く。
「万が一にでもそうなれば、俺だって花月卿を討伐する側に回らないといけなくなる、……そんなのはさすがに勘弁してほしい」
「バウアー。まだ会議中じゃないのか?」
 石像を通して語りかけてくるロッテン・バウアーにエンカは眉を寄せて尋ねた。
「えぇ。まだ継続中ですよ。だけど、まぁ安心して欲しいです、花月卿。宗也くんに手を下すなんてのは絶対にないですから」
「先ほどの流れはそういう感じではなかったが」
 バウアーは嫌に鼻につく笑みを浮かべて、涼し気に答える。
「会議なんてのは結局、根回しが一番大事ってことですよ」
「あッ、バウアーさま☆」
 リンリは動いたきんぴかバウアー像に向かって容赦のない一撃を言い放った。
「こんな気色の悪い像で動くとかぁ~、ちょー気持ちわるぅ~ぃ★☆★」
「ブホッ」
 横にいたトウダは思わず噴き出してしまう。
 そうして、トウダは曲がった眼鏡をクイッとしながら自身の上司であるバウアーを擁護するべく奮闘する。
「た、確かにバウアー様の成金趣味は……、いやだがバウアー様の趣味が悪いとかそういうことではなく、……ええぃ! リンリ、貴様それが上司への口の利き方かァ!」
 一人悶々と憤ってるトウダを他所に、バウアーはニコニコした笑みでリンリへと語り掛けた。
「リンリ、手を出してごらん」
「なぁ~にぃ~?」
 リンリがバウアーへと手を出せば、像の手から黄金に輝く金貨が落ちてきた。
「きゃぁ~~~! バウアー様、素敵ぃ~~!♪」
「ハハハ、どう? 俺ってやっぱカッコイイ?」
「うんうんっ★ カッコイイ~ッ! ちょークールかもぉ~~!!」
 リンリからの賞讃を得たバウアーはドヤァとした顔でエンカとネイロへと視線を向ける。
「部下に好かれる上司って素敵だと思わない?」
「思わない」と、二人は声を揃えて否定する。
「えぇ~……、ひどいなぁ」と苦笑しているバウアーへ、エンカは再び問いただした。
「本当に宗也は無事に帰れるんだな?」
 念を入れるように強い視線で訴えかければ、バウアーは以前として涼しい笑みを浮かべたままで答える。
「ええ、もちろん帰れます」
 そうしてさらに付け加えた。
「花月卿は忘れていらっしゃるようですが、魔導士は魔導士に甘いのが常。同胞たる貴方の御仲間が魔導士の友人たる彼を殺すなんてのは絶対にないです。んで、魔術師なんてのは俺のようなのばっかりですから、何も心配はいりませんよ」
 この男の言葉を鵜呑みにするわけではないが、エンカにはエンカなりの情報網がある。その筋で視れば確かにバウアーの言う通りで、議会で決まる宗也の処遇はそこまで酷いものにはならないかもしれない。
 だが、ただ一つ。どうしても気がかりなことがある。
「アランはそれで納得するか?」
 エンカの一言にバウアーの顔が陰った。
「あー、彼ですかぁ~。うーん……」
 ネイロが口を挟む。
「確か、エルリズんとこの奴が内藤クンを殺そうとしたんやっけ」
 エンカはより一層厳しい顔になってバウアーを見た。
「ま、表だっては彼だってもう仕掛けられないと俺は睨んでますよ」
「裏では何をしでかすか分からないけどねぇ~?★」
「それこそ条例違反だ。正当な理由が立つなら喜んで――――」
 眼鏡の奥でトウダの瞳が怪しく揺れる。
 その言葉の先を制するようにバウアーが口を開く。
「アラン卿の場合、俺に対する私怨の線が濃厚なだけで、花月卿に害意を向けるとは思いませんがね」
 バウアーがちょっと困ったように苦笑すれば、エンカはもの言いたげな厳しい視線を送る。
「睨まないで頂きたいなぁ」
「そうよそうよっ。バウアー様が悪いわ!!」
 リンリが唐突な雷同を始めて、バウアーを攻め立てる。
「えっ? な、なにか悪いことしたかなぁ」
「リンリいい子に待ってたのにお小遣いくれなかったぁ~~」
 ネイロは先ほどのやり取りを思い起こしてもの言いたげにリンリの顔をじろりと見た。
 だが、リンリの目に映るのはバウアーのみで、うるうると瞳を揺らしながら一途な視線を向けている。
「ああ、もうしょうがないなぁ」と、嬉しそうに懐から金を出すバウアー。
「きゃぁ~~~!☆ バウアー様、素敵! もう最高ぉ~!! 一生ついてくかもぉ~!☆」
「……部下に慕われてる上司って素敵だと思わない?」
 再びエンカらに賛同を求めれば、きっぱりと断言される。
「思わない」
「う~ん?」
 エンカはやれやれと苦笑をし、気持ちを切り替えた。
「私はもう行く」
 そうして歩みだそうとしたとき、脳裏に一つ疑念がわいた。
 後ろ髪をひかれるような思いでつい踵を返し、エンカはバウアーと改めて向き合う。 
「バウアー。一つ言っておく。悪い事をしていると必ずしっぺ返しがくるからな」
 エンカの鋭い視線を受けて尚、バウアーの笑みは崩れない。
「それはご忠告ですか」
「魔術は秘匿されるべき。なぜなら魔は強大で誤った扱い方をすると取り返しがつかなくなる。故に、何より問うはその心。術を与えるものの心を問え。心なきものに魔術は与えるべからず」
 魔術の箴言を説いて、バウアーに訊ねる。
「これが魔術師が守るべき最たる(ルール)だ。それを忘れて、誰にでも魔術を教えればどうなると思う?」
 じっと目の前の魔術師の眼を見れば、彼は一寸の迷いなく即答する。
「よりよい世界になると思います」
 一切の悪気もなければ後ろめたさも感じていない、淀みなき澄んだ瞳のままの返事である。
 この一瞬にしてエンカは、ロッテン・バウアーとはこういう人物だということを改めて思い知るのであった。 
「卿は誤解なさっている。そもそも善悪は人が定めるもの。卿が仰るソレは天が勝手に定めた(ルール)。天が定めし掟と、魔連が善しとするルールと、我々の善悪とは別ですよ。そして俺は、俺がやってることが世界の掟に反するものだとはちっとも思ってません」
 エンカは深々と溜息をついてから、さらに忠告を重ねる。
「アランだけじゃない、魔導士の中には君を疑ってる者がある。ヴィーチェと繋がりがあると勘ぐる者も多い。魔連は彼等とは特に仲が悪いのは知ってるだろう。あまり不和を呼ぶ行動は避けてくれ」
「ええ、もちろん心得ております」
「ならッ――――」
「あなたも、それをよく理解しているからこそルールを破ろうとなさっているのでしょう?」
 その一言にエンカの動きが止まる。
 この男をただの魔術師と呼ぶには、どうにも違和感がある。
「このまま魔連の定めた偽りの法律(ルール)に従っていては世界はもたない。天にもいろいろある。冥の思惑もさまざまだ。だからこそ今のままでは、明の暁には現界は破滅する以外の道がなくなる。……違いますか?」
 涼し気に尋ねてくるバウアーは相当の確信を得ているのか、かなりの強気だ。
 そしてこの強気な態度こそが違和感の何よりの証左である。
 一介の魔術師であるはずが、こいつは世界について知り過ぎている。
 知り過ぎた魔術師は――――…………。
「……っ」
 エンカはそこに思い至る寸前に頭を横に振った。
 ――――今はまだ、ソレを考える時期ではない。
「…………いい。もういく」
「ちょ。花月卿、待ってや」と、ネイロは慌ててエンカの後ろを追いかけていった。
「あーあー、行っちゃったねぇ。バウアー様に怒ったのかもよぉぉ~~?」
 リンリが二人の後ろ姿を見送りながら、もの言いたげにバウアーをちらっと見れば、当人は困ったように肩を窄める。
「ボクってほら、あまり理解されないからさぁ」
「魔導士様は世界の法律に縛られると言いますが、花月卿を見ていると時々可哀そうになりますね」
 トウダはエンカが見えなくなった廊下の先へと視線を向けて弱く言った。
「えぇ~~~! そうかなぁ? アーンな自由な人たち他に居ないと思うけどぉ☆」 
「自由など此の世界にありはしない。ルールなど壊してナンボ。新たに作るがその(さだめ)
 バウアーは小さく呟く。
「魔連の魔導士は頭が固くて聊か困るな」
「……だーいじょうぶよっ☆ バウアー様♪」
 リンリはゆっくりと目を閉じて口を開く。
「カーエンは必ず私たちのために動いてくれる。だって私たち仲間だものッ☆ 死んでも死んでもずぅ~~っと仲間。私たちの絆って永遠だもんッッ☆ いざとなったら魔導士の掟さえも壊してくれるよ♪」
 そうして、クルッと廻ってニコッと微笑む。
「ね? だから私たちもカーエンのために、カーエンの大事なものを守ってあげよっっ☆」
「そうだね。いやぁ、りんりはやさしいなぁ」
「えへへぇ~、もっと褒めてぇ?☆ ……あっ」
「ん? どうしたの?」
 リンリは窓の外を見て、宝物を見つけた子供みたいに無邪気な笑みでソレを指さした。
「青い鳥!」
「へぇ。鳥がこんなところに迷い込んでくるなんて珍しいねぇ」
「青い鳥は幸運の前兆だよ★ きっといいことあるよぉ?♪」
 窓から見える一匹の鳥は、カァと鳴いて黒い翼を広げた。


 ◇ 


 何が起こったかは重要ではない。
 何を知ったかが重要なのである。

 記憶は、多次元的解釈によってのみ、本当の姿を現す。
 何が起こったかを語る人の中に、この世界の正体を知る者などいない。
 夢想的な記憶は永遠の睡眠へと人を誘い、幻想的な時間は人々の牢屋と化す。

 目覚めよ、人よ。
 目が覚めたらそこは――――。

「――――ッ!」
 宗也は勢いよく起き上がった。
 荒い息遣いのままに周囲を見渡せば、自室のベットの上に居る。
「……ゆめ、か?」
 それにしては妙にリアルな夢を見た気がする。
 確か……、と夢の内容を回想しようとするも、妙に頭が痛む。
「いッ!」
 どんな夢だったか、痛みで記憶が曖昧になっていく。
 おぼろげな記憶の端で、エンカと会ったような……。
「あれ?」
 そういえば一体いつ家に帰ってきたんだろうか。
 確かエンカが来るのを教室で待ってて、それから……?

 ――――ピッピピ。

 突如、ベットの片隅にある目覚まし時計が警鐘を鳴らした。
 針の示す先を見れば、すでに時刻は朝の八時である。
「やばっ!!」
 大慌てて立ち上がった宗也は身支度も早々に部屋から飛び出し、学校へと向かう。
 ギリギリ授業前に間に合うことに成功したものの、必死の思いで駆けてきたので全身汗だくだ。
「おいーっす!」
 元気爽快な慎吾の出迎えにゼェハァと息を切らして、返事をする。
「なんだね、内藤少年。そんなに疲れて。……まさか昨日――――」
「なんもないッ! ただの寝坊だ!」
 慎吾のあれやこれやの妄言が始まる前に宗也のほうが先手を打つ。
 ハァと息を整えながら荷物を机に降ろせば、慎吾のほうは心底驚いたのか声を荒げた。
「な、なんだって~?! やっぱマリリーちゃんとなんかあって寝れなかったのか!」
「え?」
 身に覚えのないことに首を傾げる。
「昨日二人きりで教室でいたのはそういうことかよッ! やっぱり俺の見間違いじゃなかったんだな!」
「…………?」
 何を言っているんだ、こいつは?
 喜々として慎吾が尋ねてくるが、そんな記憶はない。そして、そのような記憶はないのだが、何かつっかえたものがある。
 宗也が返事をせずにいれば、その無言をまったく違う意味で解釈した慎吾がうきうきとし始める。
「おいおい、まさか本当にあったんかッ?! うわぁ~~! まじかよ。転校初日の右も左も分からない女の子にあんなことやこんなことをしちゃうとか。宗也くん、最低ー! けだものぉ~!」
「お、おい。落ち着け、どういうことだよ。俺は昨日放課後にマリアさんとなんか逢ってないぞ」
「うそ仰い! 俺はこの両の目で見ましたー! お前ら二人がイチャコラしてるシーンを!」
「は、はぁ?」
 動揺しまくる宗也に、慎吾のほうはニヤニヤとする。
「まぁ据え膳食わぬは男の恥と言いますし、……そっかぁ。宗也くん、大人になったかぁ」
「ちょっとまて!」
 宗也は、一人勝手に妄想を膨らませていく慎吾の肩をガシっと掴む。誤解を訂正するべく反論を入れようとする。
 しかし記憶を探るも、なかなか昨日のことが思い出せずに言葉に詰まった。
 何をしていたか、と言えばエンカが来るのを待っていた事までは覚えている。
 だが、その先は……?
 不思議とまるで思い出せない。
 そうこうしているうちに、ガラリと教室の扉が開かれて教師が入ってきた。
「えー、今日は」と、教師の挨拶と共に朝のホームルームが始まる。
「ま、後で詳しく聞かせてもらいますわ。ヘヘヘ」と、慎吾が嫌らしい笑みを浮かべてヒソヒソ声で告げてくる。
 宗也はすぐさま反論しようとするが、担任と目が合い口を噤んだ。
 内心でぐぬぬと堪えて、記憶の隅を探してみるも、自分にはマリリーと話した記憶などない。
 きっと慎吾の誤解に違いない。
「…………?」
 ただの誤解で、あるはずもないこと、なのに……。
 同時に昨日なにをしていたかも思い出すこともなく、確信をもって慎吾を論破する目途もない。
 悶々とした心持でマリリーのほうをチラっと見ればちょうど二人の視線が交差した。
「――――っ!」
 咄嗟のことで驚いたのはマリリーだった。
 宗也よりも先にマリリーが視線を外し、なんだかもの言いたげに俯いた。
 昨日とはまるで違う反応である。まるで慎吾の言ったありえないことが現実味をおびえてくるような錯覚さえ覚える。
「俺、何したんだ……?」
 宗也は、自分の失われた記憶に疑問を抱いたのだった。


 ◇


 昼休み。

「で、どうだったん?」
 慎吾は依然として興味深々である。
「だから、覚えてないって」
「覚えてないなんてことあるかヴォケィ!」
「まじで覚えてないんだって」
 宗也が困惑しながら一貫した主張を続けるので、痺れを切らした慎吾が口を尖らせた。
「じゃぁ、宗也君はどこまでなら覚えてるんですか」
「……エンカを待ってたところまでだな」
「ハッ、まままままさか」
 何かがクリーンヒットしてしまった迷探偵は、閃いた迷推理を披露するべく、ゆっくりとした口調で持論を繰り広げる。
「エンカちゃんがあの場に居たとなると、まさかそれで三角関係に……? あぁ、なるほど。謎は全て解けたよ、ワトソン君。つまり、あんなことこんなことのアッアッな場面を昔からの幼馴染に目撃されてしまったわけだ。そして、君に想いを寄せていた少女らの間でひと悶着があった。そうした修羅場の最中、何かの拍子で机の角に頭をぶつけた君は記憶を失くしてしまったと? ああなんてことだ、ワトソン君。まさかこれが初体験の真相だとは」
 なぁ~に言ってんだ、こいつ。
 頓珍漢なことを言ってる慎吾をジトっと見て、異議を入れる。
「……なるほど、じゃないんですよ、ミスター慎吾。あなたの推理は根本的に間違っています」
「では聞こう。体に異常は?」
「見ての通り、至って健康です」
 慎吾はフッとキザったらしく息を吐く。
「犯人はいつだって普通を装おう。まったく如何わしい限りだ。いいかい? 自分は健康だと思っている人ほど病気を見逃しているのだよ。事実、君の記憶は失われている。これを脳の異常だとしないなら一体何を正常とするつもりかね?」
 ドヤァとしたり顔で言う慎吾を見ながら、おにぎりを頬張った。
 一時的に本題から脱線したことで正気に戻った宗也は、最もありそうな事を再び慎吾に問いただす。
「つーか、慎吾の見間違いなんじゃないの? 当事者である俺が本気で心当たりないんだぞ?」
「だったら、俺が二人を見た時刻に一体何をしてたか言ってみてくださーい」
 慎吾が子供ぽい口調ながらも的確に反論してくるので、思わず沈黙する。
「本当に覚えてないんだって」
「そんなことあるかヴォケィ!」
 と、再度漫才の如くやりとりが行われるのであった。
 何度追求されようが、宗也は身に覚えのないの一点張りで、その一点張りに慎吾は当然納得など出来ないのである。
 が、埒があかないと思った慎吾が卵焼きを箸で持ち上げながらため息をついた。
「ま、いいけどさー。ずるいよなぁ、転校初日に女の子に襲われそうになるとかさー、どこのラブコメの主人公だよ」
「襲われる……?」
 その一言に宗也は怪訝な顔になる。
「慎吾、お前一体何を見たんだ?」
「ん?」と、卵焼きを頬張った後に慎吾が箸をぷいぷいさせる。
「えー、わたくしはですねぇー、マリリーちゃんがー、宗也くんをー、押し倒した衝撃的なシーンをー、目撃してしまったわけですよぉ~」
「ブホッ」
 んなことあるか!
 宗也が必死になって否定しようとしたとき、突然大きな声で呼びかけられた。
「あ、あの!」
 聞き覚えのない女の声だ。
 不思議に思って振り返れば、見覚えのない女子が立っている。
「ん、なに?」
 宗也が要件を尋ねると、女は思いっきり頭を下げた。
「きききき、ききのう、は、あああありが、とうございましたぁっ!」
「はい?」
 キョトンとする宗也の横で、慎吾が苦笑していつもより優しい顔になって野次を飛ばした。
「ひよこ~、落ち着けぃ! カミカミだぞぉ!」
「あっ、ぅう梅原くん。こ、こん、にちあ」
「なぁ~に、きょどってんの?」
「きょきょきょどってなんか」
「いや動揺ぷりやばいでしょ。あ、もしかして宗也くんの顔が怖いんか?」
 と、宗也より顔の怖い慎吾が嬉しそうに言う。
「ちちちちがっ、こここわくなんか」
「ああ、もう。どうしたんだよ、本当」
 どうやら慎吾はこの女子と親しい間柄のようだ。
「知り合いか?」
「ん? ああ、うん。隣のクラスの、式枦ひよこ。中学から一緒だぞ。つか、宗也に用事て。何かあったん?」
 慎吾が首を傾げれば、宗也も首を傾げる。
 お互い分からないことが解ったので、渦中の少女に視線を向ければ、ひよこは顔を真っ赤にして口を開いた。
「あ、あののの、わわ、わたし、おおおれいがしたくて」
「御礼?」
「……参り的な?」と、すかさず慎吾が茶々を入れると、さらにひよこが動揺する。
 宗也が「余計わからなくなるだろうが」という意図を込めて睨みつければ、慎吾は嬉しそうに「へへ、わりぃわりぃ」と小声で応える。だが、あまり反省の色は見られない。
「き、きのう。ちゃんと言えなかった、からっ! ……ほ、ほほんとうに助けてくれてあああありがとうございましたっ」
 一体なんのことを言われているのか。
 見覚えのないことで、再度確認するようにひよこの顔をまじまじと見るも、一向に解らない。
 頬を染めて感謝しているひよこに、宗也はただただ当惑するばかりである。
「え……っと、俺何かしたっけ?」
「は、はいっ! 昨日、私と雷三くんを助けてくれました!」
 更には聞いたことない名前までもが出てくる。
「そ、それで、ららいぞうくんから伝言が」
「雷三くん?」
「う、うん…っ! い、いまうちに住むことになって、そそそれで、宗也くんと改めて会って話がしたいって」
「はぁ」
「だ、だだだから、ここここここんど、わゎっっわた、し、のっ。しっっしっっの~~~ッ!!」
 と、顔を赤くして息を詰まらせていくひよこの様子に、慎吾のほうが気を揉んだ。
「おいおい、大丈夫かよ」
「だだだだだだだだだぃだだだだだぃじょじょじょじょじょ」
「あーあー、だめだ。こりゃぁ。おい、ひよこ。体調わりぃーなら保健室行ってこい」
「え? いあ、わわっわわるくくなんなななんててててて」
「呂律回ってないぞぉ~?」
 ぐるぐると目を回しているひよこを慰めるように諭す慎吾。
 二人の様子を心持離れた場所から眺めている宗也は状況を整理するべく脳をフル稼働する。
 だが、いまいち状況が掴めず困惑を深めるばかりである。
「あー、こりゃ熱ありますわ。つーことで、俺ひよこを保健室につれてくから!」
「え? ああ。うん。行ってらっしゃい」
「おうよ」と、ニカッと笑った慎吾はひよこを引っ張って教室から出て行った。
「一体、なんだったんだ……?」
 ひよこが残した言葉の数々は、さらに宗也の記憶に疑念を与えるのであった。



 ◇


 宗也が弁当を食い終わるころ、保健室から慎吾が神妙な顔つきで戻ってきた。
「大丈夫だったか?」
 慎吾はどこか上の空で応じる。
「あ~……うん、まぁ」
「ああいう女子の知り合いいるなんて、なんか意外だな」
 しみじみと言って、慎吾を見る。
 慎吾は陽気な目立つタイプだ。
 近寄ってくる男子も女子もノリが良く、何をするにも派手な連中が多い。
 対して、先ほどの女子は慎吾の周りにいる派手なタイプとは真逆で地味。
 そんなわけで不思議なのである。
 どうやったら二人が知り合いになれるのか、まるで接点が思いつかない。
「ま、それ言ったら俺も地味か」と宗也は内心で苦笑した。
 宗也はインドア派、つまりは陰キャ寄りで、慎吾とは似ても似つかない。
 どちらかといえば陽キャの枠を超え、不良に分類されるであろう慎吾と、優等生タイプの宗也。
 傍から見ればきっと、どうしてこの二人が仲いいのかと不思議に思うだろう。
 宗也は、先ほどの少女と自分とをつい重ねてしまう。
「慎吾って地味な奴に優しいよな」と、皮肉交じりで言えば、慎吾が心外そうに言い返す。
「うぉぃ、宗也もひよこと中学一緒だぞ? 地味だからってまったく知らんのはあかんやろぉ~」
「全然見覚えないけど……、違うクラスだよね」
「そりゃ違うクラスだけどぉ~、同学年の顔ぐらいはだいたいわかるだろぃ」
 それを言われてしまうと宗也は肩身が狭い。
「ま、確かにひよこは地味だから印象残らんかぁ」と、慎吾がカラッと言ってのける。
「つーか、他のクラスの奴と一体いつ知り合ってたんだ?」
「ん~? 俺のホームランが園芸部の庭にクリーンヒットしたときにな。いやぁ~、あんときは危なかったぜ~。廃部の危機かと思ったわ」
 意気揚々と語る慎吾に、宗也は苦笑した。
 そうして事の次第を一通り話し終えた後、急に真面目くさった顔になって、慎吾が訊ねる。
「なぁ、宗也」
「ん? なんだよ急に」
「本当は昨日何があったんだ? ……ひよこがあんなに………」
 慎吾は顔を伏せて言葉を止めた。そうして改めて向き直るようにじっと宗也を見据える。
「茶化した俺が悪かったよ。だからってのは都合がいいかもしれねぇけどよ、本当のこと教えてくれねぇか」
 真摯に尋ねてくる慎吾の眼は、本気(マジ)だった。
 この真摯な目を見て、つい実感してしまう。
 慎吾は悪く見られがちだが、その実、超がつくほど根がまじめで誠実な人間である。
 今も街の不良なんかとは、くらべものにならないほどの恐い顔をしているが、その中には確かな信念が宿っており、誰をも屈服させる誠意が感じられた。
 慎吾には、きっとウソ偽りは通用しない。目の奥底に、真実を追い求め、虚偽を許さぬ信念が垣間見えるから。

 ――――畏怖さえ覚える。

 間違いなく、慎吾は男だ。
 男の中の男だ。こんな迫力のある友人を持ってることが少し怖いくらいに、彼は漢である。
 宗也はふぅっと一つ息を整える。
 この男を前に嘘をつく気などさらさら起きない。何より親友の真摯の問いかけに虚偽でもって応えるなんてことはしない。 
 だが、知らないことはどうしようもない。この誠意でもって人を屈服できる男を前にして、知ってて当たり前のことを知らないと正直に告げるのは、ちょっとばかり勇気のいることだった。
「……悪い。まじで覚えてないんだ」
 真剣な表情で問うてくる親友に宗也は真実を告げる。
 何度聞かれようが、宗也には本当に身に覚えがないのだから答えは変わらない。
「マジかよ……」と、愕然とする慎吾。
 宗也も自分で自分が信じられない。たった昨日の出来事を覚えていないだなんて。信じろというほうが無理のある話だ。しかし、事実なのだからどうしようもない。
 慎吾も同じ心境なのか、ぽりぽりと頭を掻いて顔を伏せた。
 記憶を失ったなんてにわかには信じられないことだが、それでも慎吾は宗也を信じてくれたようだ。
「記憶がなくなるなんて、ほんと不思議ってレベルじゃねぇぞ」
「まったくだな」
 宗也は心から同意する。
 自分の身に起きたことは理不尽で不可解で、まったく説明のつかないことである。
「本当に自覚してるかァ? 最近、宗也の周りは不思議現象多いぞ? 変な男からなんでも願いが叶う石なんて貰っちゃうしぃ、転校生に押し倒されちゃうしぃ~、記憶も無くしちゃうしぃ~~、もうラノベの域ですわぁ」
 さらっと言ってのける慎吾に宗也は苦笑する。
「あっ。イイコト思いついた! 記憶戻す方法あっかもよ」
「え?」
「カーエン。カーエンに聞いてみたらどうよ」
「カーエン?」
 聞き覚えのない名前に宗也は首を傾げる。
 慎吾が「わからんかぁ」という顔になってから、にやりと笑う。
「エンカちゃんよ」
「ああ」と、そこで初めて合点がいく。
「エンカの名前を区切ってカーエンって。なんか昭和の業界人みたいだな」
「クカカ、確かに」
 豪気に笑う慎吾の横で、宗也は少し感慨深い心持になる。
 初めて聞くエンカのあだ名が、まさか慎吾からとは。
 どうせその場の思いつきだろうが、なかなかいいセンスである。
 エンカを思い出せば、なんだか少し心が軽くなる。そうして、前向きな気持ちで失われた記憶を取り戻すべく、打開策を練っていく。
「確かにエンカを待ってたのは間違いないからな。あいつならもしかしたら、その後何があったかを知ってるかもしれない」
 二人は顔を見合わせて頷く。
「何があったか解ったら、必ず教えろよ」
「おう。期待するような昼ドラ展開はないから安心しとけ」
 慎吾がクカカと豪気に笑うと、ちょうどスマホが鳴った。
 エンカからのメッセージ通知だ。
「お?」
 見れば『オカルト部始動! 放課後、生徒会長室にて待つ!』との内容である。
「生徒会長室……?」
 聞き慣れない単語に首を傾げて、ソレを思い出すべく回想する。
 確か、この学校の生徒会はとても強い権限を持っていたはずだ。
 本来であれば教員らが行う学校運営のほとんどを生徒会が仕切っている。学園内の経費総括や校則の規定、および違反者への取り締まりに、行事企画の発案に、教師人事から生徒の補修の有無まで。
 噂では生徒らの内定から教師の給料や昇進、校内のありとあらゆることの権限を握っていると囁かれている。
 そして、その噂を裏付けるかのように、校長室ならぬ生徒会長室なるものが存在するのである。
「もしかしたら部活創設で何か揉めたのか……?」
 宗也の脳裏に、ちょっぴりと嫌な予感が掠めるのであった。



 ◇



「だめです!」
 宗也が生徒会長室に着けば、扉からはエンカと誰かの言い争いが聞こえてくる。
「花月卿、貴方には身分というのがあるんですよ」
「その高校生の身分として、部活動をするのに何か問題があるか?」
「大有りです。だいたいオカルト部なんて……。一体何を企んで……、……って」
 コツコツという足音の後、ガラリと扉が開かれた。
「盗み聞きとは、ずいぶん良い趣味をお持ちですね」
 現れた生徒会長はクイッと眼鏡を上げて宗也を睨みつける。
「す、すみません」
「私が呼んだんだ、邪険にしないでくれ。トウダ」
 親し気にその名を呼ぶエンカに、十宇田(トウダ)会長は深々と息を吐いた。
「俺のところに呼ばないで下さい……」
 トウダ会長からは、面倒事は御免だという意思がひしひしと伝わってくる。
 会長は嫌々ながらも、宗也を中へと招いた。
「なかなか頷いてくれないトウダが悪い☆」
 エンカが誰かの真似をして、大げさに言えば、会長は滅茶苦茶イヤそうな顔になって沈黙する。
 一体だれの真似をしているのやら。
 宗也にはその人物に心当たりはないが、少なくとも会長はその人物があまり好きではない様子である。
「はぁ」
 深々と生徒会長は宗也とエンカとを見比べてから、本題へと入った。
「我が校には、部の新設時に5人以上のメンバーが必要であるという規定があって、二人だけの部活動など到底許可でき」
 と、会長が言い終える前にエンカが話の腰を折った。
「わかった。じゃぁマリアを誘おうと思う」
「ブハッ」
 眼鏡がずり落ちた会長はクイクイと治しながら小さく言う。
「…………だめです」
「5人集まればいいんだろ?」
 もの言いたげな会長がエンカから視線を外し、宗也をまじまじと見て訊ねる。
「君は本当にオカルト部なんてものに入りたいですか?」
「ああ、もちろんだとも! 宗也は超常現象が気になって気になってしょうがないのさ!」
 と、宗也が何か言う前にエンカが応えた。
「…………マリアさんが誘いに乗るとは俺には思いませんけど。それに今どき、オカルト部なんて流行りませんよ」
「ふふっ、それはどうだろうな? トウダ。世界は広いものさ。意外と世界の深淵を覗きたい生徒は多いかもしれないぞ?」
 るんるんとするエンカに会長は深々とため息をついたのであった。
「さぁ。宗也、聞いてたな?」
「へ?」
 矛先が宗也へと向く。
「これから部員を確保しに出発するぞ。私はもう一人の部員候補に話をつけてくる。だから宗也は教室にいるマリアを誘ってきてくれ」
「ブホッ」
 ちょうど一息ついていた会長が啜っていたお茶を吹き出しそうになって、ゲホゲホと咽た。
「だ、大丈夫ですか?」
 ひどい様だったのでつい宗也がその身を案ずれば、「……だいじょうぶです」と会長は不服そうに眼鏡をくいっとした。
「んじゃ、頼んだ!」
「あ、ちょ」
 嵐の如く去っていくエンカに、宗也はただただ呆然とする。
「君も大変ですね」
 会長がしみじみと言う。
「ご愁傷様です」
「はぁ、まぁ」
 なんとなく居づらい雰囲気を感じ、早々に退出しようとした時、ぽつりと吐いた会長の言葉が耳に入ってくる。
「………………あんなに楽しそうに笑う花月さんを見たのは久々かもしれません」
「え?」
 ぼんやりと窓を見ている会長の姿は、まるでどこか此の世界ではない遠くを見ているようだった。
 儚げな姿がやけに気になって、つい宗也は疑問を投じた。
「十宇田会長は、エンカとお知り合いなんですか?」
「ええ。もうずいぶん長い、……本当にずいぶんと長い付き合いです。あなたなんかよりも、ずっと」
 会長はどこか寂し気に、それでいてとても優しい顔で笑ってみせる。
 その笑みは、胸が軋むほどの、何かを連想させた。
「何度生まれ変わっても、何度死ぬ羽目になったって、俺はきっと彼女に忠誠を誓います。それが……、俺の約束事ですから」
 眼鏡の奥で怪しく光る会長の眼は決意と悲愁に満ちている。
 いったいどういう意味なのか、何を伝えたいのか。
 宗也が何も言い出せずにいると、会長がフッと表情を崩して笑う。
「なんて、部外者に言っても理解できないですよね、すみません」
 どこか皮肉を込めた物言いである。
 しかしその一方で、抗いがたい何かから藻掻いているような、弱弱しさが垣間見えた気がした。
 会長はなんとも言い難い笑みで宗也を一瞥してから、机に目を伏した。
 そうして次に宗也と目を合わせたときには、初めて生徒会長を見た時と同じ、厳しい顔立ちに戻っていた。
「さ。早くここから出て行ってください。用事が済んだ人間に長居をされると迷惑ですから」
 宗也が追い出されるように退出すれば、会長は別れ際に言葉を添えた。
「体、大事にしてくださいね。人生って以外とあっさり終わってしまうものなので」
「え? は、はぁ。大事にします……」
 会長の言葉に違和感を感じながらも宗也は頭を下げて、そそくさとこの場を後にするべく扉を閉める。
 その僅かな間に、会長はぽつりと呟いた。
「……次も運よくイワン博士が治してくれるわけではありませんからね」


 ◇


 宗也が教室に戻ると、エンカの言う通りマリリーが居た。
 他に生徒はおらず、一人で校庭を眺めてる様は、どこか寂し気だ。
「あ」
 宗也に気づいたマリアが小さな声を挙げる。
 目が合えば、なんだか昨日のことが()び起こされてくるような……。
「…………?」
 昨日、何かあったっけ?
 何かが思い出せそうな気がして、何かを思い出さないといけない気がして、記憶の蓋に再度手をかければ、激しい頭痛に襲われた。
「いっ!」
「ッ! 大丈夫?」
 激痛のあまり踞る宗也の元にマリリーが駆け寄ってくる。
「あ……あぁ、大丈夫」
「…………痛むの?」
「ちょっとな」
 宗也は痛みに堪えながらも笑みを浮かべて、平然を装った。
 すると、マリリーの顔が歪む。酷い顔だ。
「……………………ごめん。…………私のせいだ」
「えっ? どうして? マリリーさんのせいじゃないよ。なんか、今日朝から頭痛がしててさ」
 宗也が驚きながら言えば、マリリーは俯いたまま顔を上げようとしない。
「ほんとちょっと立ち眩みしただけだから。心配しないで」
 弱弱しく身を縮めているマリリーを元気づけようとそっと肩に手を置いた。
 マリリーは酷い顔のまま宗也を一瞥し、絞り出すように呟いた。
「……きみには、……きっとなにを言っても、決して……、許してはもらえないだろう。だって私は…………君のことを………。だけど…………、だけどッ、私はまちがったことはしてない……。まちがっていないはずなんだ。……私は……だ。…………ただの……なんかじゃない。正義に忠誠を誓った……、だから、ぜったい、まちがってない。君は……、盗んでいなくとも。たとえその身で知らなくても、……きっと奴等に関係していると…………」
 マリリーは肩を震わせながら押し殺した声で断片をぽつりぽつりと語る。
 意味するところはよくわからなかったけれど、マリリーは苦しんでいるようだった。
 そうして悲し気な表情で、宗也へ改めて問う。
「覚え、てる……?」
「何を?」
 疑問が絶えない宗也が首を傾げれば、その疑問を許さぬようにマリリーは強く言う。
「何かを」
 宗也は当惑しつつも、ありのままを答えた。
「何も覚えてない」
 その回答に安堵したようにマリリーは肩の力を抜く。
「…………そっか。なら、よかった……。憶えてないからこそ謝れる。本当にごめんなさい。あなたに罪はないのはわかってるから……、わかってたのに、……先走ったわ。……ほんとうにごめんなさい」
 そして口元を緩めて目を細めた。
「それから……。わたしのこと、守ってくれて……、ありがとう」
 まったく身に覚えのない謝意を受け取るのは、これで2回目である。
 ひよこの件といい、マリリーの件といい、いったい何があったんだ?
 ふんだんに疑念を含んで、宗也は首を傾げてマリリーへと問い直した。
「おれ、何かしたっけ?」
 マリリーは宗也が応えるや否や、首を振った。
 そうして、夕日の赤みを帯びた琥珀色で照った黄金の髪を耳にかけて、ゆっくりと口を開く。
「………………ううん、何もないよ」
 黄昏の最中に、どこか寂し気に、そしてどこか安心したように微笑むその姿は、まるで絵画のようだった。
 この一枚の絵画を宗也はどこかで見た気がする。だが、どうしてもどこで見たのか思い出せない。
「絶対、なんかあったと思うんだけどなぁ」
 宗也は確信にも似た強い感情を抱きながら、ポリポリと頭を掻く。
「……覚えてないなら、きっと何もないわ。必要のないものだって世の中にはあるでしょう」
 柔らかく言うマリリーはいかにも意味深である。
 慎吾の言う通り、これは昨日放課後で一緒に居たのかもしれない。
 とはいえ慎吾の妄想とは違って、いかがわしい何かではないものだという確信も同時に強くなる。
「魚の骨が喉元につっかえたみたいで、なんか変な感じだよ」
 困ったように宗也が笑えば、マリリーも柔らかく笑った。
「さぁ、帰りましょう」
 話頭を変えるように、マリリーは立ち上がる。
「よければ駅まで一緒に帰らない? 私、この辺全然わからないから。……あ。もしかして教室に忘れ物でもして戻ってきたの?」
「いや……、そうじゃなくて」
 納得いかないものの、マリリーにはこれ以上記憶のことは聞けないだろうと思い、本題へと移った。
「実は、部員集めしてて」
「部員? 一体なんの?」
「えー、っと。なんつーか、オカルト部的なやつ?」
 マリリーは目を丸くしてから、クスッと笑う。
「宗也君、オカルトに興味あるの?」
「いや、俺はそんなに興味ないんだけど……、その、エンカが。あっ、エンカってのは、幼馴染なんだけどさ、そいつが部員が足らないからどうしてもって」
「花、月……さんが……?」
「うん、マリアさんのことも誘ってくれって頼まれてさ。もし、よければだけど、入らない?」
 マリリーの動きが止まる。
 さきほどまでの調子から一転して、まるで時が止まったように動かない。
「マリアさん?」
 不思議に思って顔を覗き込めば、マリリーはハッとしたように元に戻った。
「えーっ、……と、うーん。どうしよう。私、オカルトとかよくわからないし」
「あー、その点は俺も全然。まったく何もわからないよ。だいたいあいつのいつもの突発的な思いつきだし。何をするんだかもさっぱりで」
「――――でも、愉しそうだからいいよ」
「そうだよなぁ。やっぱ無理だよな。……って、え?」
 断られると思っていただけに、返事を理解するのに一瞬フリーズした。
「ほ、本当に?」
「うん。本当に」
「何するかもわかんないんだよ?」
「オカルトするんでしょ?」
 揶揄うように質問で返してくるマリリーの様子に、宗也はつい目を点にする。
「本当に、いいの?」
「うん、いいよ。……少しだけ宗也くんに付き合うよ。助けてくれたお礼にね」
 大人びた余裕のある笑みに、宗也はポリポリと頭を搔いた。
「その、……助けた記憶はないんだけどな」
「ふふっ」
 マリリーの入部が決定するや否や、宗也のスマホが鳴った。
 見ればエンカからで、次なる御題が記されている。
『新部員と共に旧館にて待つ!』
「旧館?」
 そんなところあったか?と宗也が首を傾げれば、マリリーのほうが答えた。
「旧校舎のことじゃないかしら? 確か、学校の北側にあったはずよ」
 こうして、二人は旧館へと向かう。

第四章


 三つ葉高校旧校舎には、三つの都市伝説が存在する。

 一つ、旧校舎には地図上に乗っていないエリアが存在するらしい。
 運悪くその場所に迷い込んだ者は二度と戻ってこれないというのがもっぱらの噂である。
 また、この噂に拍車をかけるように、数年に一度、旧校舎付近で行方不明事件が起こっている。

 二つ、旧校舎にはエイリアンの拠点が存在するらしい。
 これは肝試しをしていた生徒らが「エイリアンを見た」といったのが事の始まりだとされている。
 しかし、この手の噂は他にもあって「悪魔が住んでる」だとか「怪物の巣だ」とかの世迷言で溢れており、真偽は定かではない。

 三つ、旧校舎には旧日本軍の軍事基地が存在していたらしい。
 世界中央情報局(WCIA)から流出した極秘資料の中に超重要拠点として記載されていたというのだ。
 事実、日本の情報が集まる国会図書館にて、それらしき資料は存在するのだが…………。

 以上、三つの噂話を聞いた生徒らが、一度真偽を明らかにしようとして奮起したことがある。
 そうしてその勇敢なる生徒らは、数日後、帰らぬ人となって戻ってきた。
 つまり、死人が出たのだ。

 事態を重く受け止めた生徒会が警察と共に調査に乗りだし、事の真偽を明らかにするべく動き始めた。
 真相がわかるかもしれないと期待が膨らみ、また多くの生徒らの関心の的となったのは想像に易い。
 たくさんの注目が集まる中、生徒会が下した結論は――――『絶対に旧校舎には近づくな』――――である。
 この宣言が生徒らの間を駆け巡ったのは言うまでもないだろう。
 闇に葬られた事件は語り継がれ、知られてはいけない話として、今でも三つ葉高校の生徒らの間で花を咲かせるのであった。

 …………しかし、今学期はまだ始まったばかりである。
 入学したての生徒らはまだ、この話を知らない者もいる。

 そして、奇しくも今日。
 一人の生徒が旧校舎にやってきた。

「ここが旧館か」

 この者、名を寒山(かんざん)(しげる)という。
 その名の通り、読んで字の如く、寒い頭をしている。
 厳冬の如く機運の持ち主で、悲しくも名前のほうは茂っており、それを揶揄されてはもっぱら苦心しているのである。

「立派な建物だ。……とても日本のものとは思えない」

 三つ葉高校は、学歴指標で言えば中の中だが、外観は最上級で、そんじょそこらの観光名所とは比べようもないほど美が凝らされている。
 巧みな技の連発で、これほどの建造物は、時間と金とそして何よりも技術が必要であり、よほど名のある者でなければ作れないだろう。
 そして外観のみならず内観のこだわりもすさまじいものである。
 時に、目を疑いたくなるほどの高価な壺が、ただの一輪挿しの花瓶として使われていることを茂だけは知っている。
 豪商の隠れ屋敷だと言われれば納得するほどの、おかしな金銭感覚によってこの学園はつくられているのだ。
 そしてこの奇怪な事実をより強調するのが、深緑に隠れしこの旧館である。

「……これにしよう」

 懐からタブレットを取り出して一本の筆を構え、吟味する。
 寒山茂は少しばかり美術品に詳しい普通の学生だが、フリーズイング・モウンタインは巷で有名な絵師である。
 素人からプロまで集まる世界の絵の投稿サイトForAで一躍有名になり、その天才的な才能が全世界を駆け巡り、今や世界中で話題になっている。
 最も、当人である茂はそういった世間の関心事には疎く、自分の作品が一人でに出歩いてるとは知らないのだが。

 茂にとって、ネットの称賛よりも現実の陰口のほうが身近な関心ごとであり、またその関心事は常に茂を悩ませる。

 つい先日も、名前はふさふさなのにと揶揄われ、年の割りに云々と陰口を叩かれ、挙句の果てには嘲られる。
 人と見た目が少し違うだけで、世間は茂を嘲笑していい的として捉えてる節があり、気弱な性格が祟ってか、好き放題に言われている。

 あまりにも心労の多い日々で、疲弊からなんとなく目にとまった公園でぼんやりと物思いに耽っていた。
 そんなとき、あの少年少女らに出会ったのだ。

 心清き幼子らにせがまれて何か特別な絵を贈ろうと心に決め、今に至る。

「さて」

 絵師なる男が、旧き舘で色を奏でるとき――――。


 ◇


「こんなところにペンが落ちてる」
 宗也とマリリーは旧校舎に到着し、扉前に落ちているタブレット用のペンに目を止めた。
「誰か先客がいるのかしら」
 不思議そうにマリリーが首を傾げながら周囲を見渡した。
 旧校舎は学校の裏山にあり、周囲は不気味なほどに静まり返っている。
「エンカのもの……にしちゃ、見覚えがないな」
「彼女は落とし物とかするタイプ?」
「いや、あんまり。……あー、そういえばエンカは逆に落とし物をみつけるの上手かったな」
「でしょうね」
 呆れながらにマリリーがまるで解っていたといわんばかりに即答するので、つい宗也はもの言いたげに見遣った。
 が、マリリーはその視線を意に介さず、先を急ぐ。
 ギシィと軋む音と共に扉が開かれる。
「一応入れるみたいよ」
「しっかし、よくこんな山奥に、こんな立派な物を建てたなぁ」
 旧校舎は現代においても一線を画す建造物だ。
 日本ではほとんど見かけることのないバシリカ建築様式の建物で、小尖塔(ピナクル)がついた翼廊には繊細な彫刻が施されている。その様はゴシック調の、いかにも西洋の大聖堂である。
「大正時代の建物ね。確か、日本では西洋ブームが来てたでしょう。その名残だと思う」
「あー。確かに。ステンドグラスとか、それっぽいな」
 宗也が指したカラフルなステンドグラスには十二人の人物が描かれている。
 扇をかざす傲慢そうな人物に、聡明そうな老婆の姿。少し頼りなさそうな若い青年に、無邪気に笑う子供の絵まで。
 中には、日本人らしからぬ人物の姿も多数見受けられた。
「これは……」
 マリリーが足を止め、ステンドグラス上に書かれた天使の姿に見入っている。
 その天使は、よく絵画などで描かれる姿と違って、独特な八つの翼を持っていた。
 イメージする天使像から少し離れているものの、穏やかで神聖な雰囲気はしっかりと伝わってくる。
「よほど腕のいい職人が作ったんだな」
 小さく賞賛して、宗也は一つ気づいた。
 十二人の中で、この天使だけが架空である。
 ほかのステンドグラスには、人種の違いはあれど、すべて人間が描かれているのに、この天使だけは架空の生き物だ。
「…………なぜ、ここに……、……アラン様が……」
 マリリーが一瞬声を震わせて何かを呟いたが、すぐに首を振って、「それより」と話題を変えた。
「……新校舎がアウグストゥスブルク城を模倣しているなら、此処は聖ヴィート大聖堂の模造ってところね」
「本当にここ学校だったのか……?」
「ええ。本当に学校だったはずよ。だけど」と一呼吸おいて、マリリーは意味ありげに呟いた。
「旧日本軍の軍事基地だった、なんて話もあるぐらいだけど」
「え?」
 宗也は素っ頓狂な声と共にマリリーの顔を見る。
「転校してくる前にこの学校の歴史を調べてきたの。ほぼ間違いないわ。まっ、一体なんの施設だったのかまではわからなかったけどね」
「なんでこんなとこに旧日本軍が基地なんか作るんだ?」
「さぁ? なんででしょうね」と、マリリーは肩を竦めて笑う。
 宗也は改めて建物を見上げてから、その真意を鑑定するべく、ゆっくりと扉の中へと入っていく。
 中に入ってすぐに、あまりの荘厳さに思わず息を飲んだ。次には称賛が口から出ていた。
「…………すげぇ」
 アーチ状の天上に、巧みな装飾が施されている石柱。ステンドグラスから射し込むは神々しい光である。そして、ひときわ目につくのはあちこちに施されている十字架だ。
 神秘的な館内はまさに大教会のような造りで、入口から続く廊の奥には祭壇らしきものが置かれている。
「本当に学校だったのか」
 宗也が再度疑問を口にすれば、マリリーも半信半疑になったのか、黙ったままである。
「なんだか魔術師が好きそうな建物ね」
 ぽつりと漏らしたマリリーの言葉に、宗也は頷く。
「RPGとかに出てきそうだ」
 宗也が内部に興味津々としていると、人の話し声がうっすらと聞こえてきた。
 マリリーと顔を見合わせて、声の近くへと足を運べば、エンカと見知った女が口論をしている。
「なんでっ、この私が、あんたなんかの手伝いをしてやんないといけないわけっ!?」
「人が足らないんだ、頼む」
「はぁ~~? 嫌なんですけど~~。なんであんたなんかの為にこの私が……。 ……、……。……まぁ、どうしてもって懇願するんだったら手伝ってやってもいいけど……………って」
 口の悪い女が宗也とマリリーに気づいて、腕を組む。
「ちょっと、何よあんたたち。ここ、一般生徒立ち入り禁止なんですけど?」
 女は宗也をギロリと見て、露骨に嫌そうな顔になった。
「げ、内藤宗也」
「げ。粂下(くめか)ユイ」
 粂下ゆいは、エンカの従妹であり、宗也の腐れ縁だ。
 同い年で同じ学校で、ず~~~~~っと同じクラスの奴なのだが、まぁ仲は良くない。
「なんであんたが此処にいんのよ」
「それは俺の台詞だ。なんでユイがこんなところいるんだよ」
「は? 私がどこに居ようが私の勝手でしょ」
「なら俺がどこにいようが俺の勝手だろうが」
「はぁ? あんた。さっきの私の言葉聞いてなかったわけ? ここ一般生徒は立ち入り禁止なんですけどぉぉ~~??」
「ユイ、私が二人を呼んだんだ」
 エンカが間に入るように言えば、ユイがむすっとした顔で抗議する。
「ここの管理者は私よ。勝手に集合場所に使わないでくれない?」
 ユイはぷんっとそっぽを向く。
「だいたい私、部活動なんかやらないからね」
「数合わせに必要なだけだから、名前だけ貸してくれ。他は何もしなくていいから、お願い」
「ちょ、ちょっとー!! 少しは私の力を頼りなさいよ!」
 エンカは眉を顰める。
「頼るというなら例の件をだな」
「ッ! バッ~~~ッ!」
 ユイが大慌てでエンカの耳を勢いよく引っ張った。
 エンカは赤く張れた耳を抑えながらうるっと目を滲ませる。
「い、痛い……」
「あんたが悪いのよ。もう」
「暴力女」
 宗也がボソッと口にすれば、すかさずユイはギロリと睨む。
「何よ。内藤のくせに生意ね。なんか文句あるわけ?」
「ああ。あるとも。エンカが痛がってるだろ」
「エンカが悪いんだからいいのよ」
「よくねぇよ、暴力女」
「はい暴言ー。女子に暴言吐くとかホント最低ー」
「お前なぁ~~ッ! 俺は事実を言っただけだろっ?!」
 二人の小学生並みのやり取りに、渦中のエンカがやれやれと肩を窄める。
 宗也の反論をまるで気にしてない様子で、ユイはエンカのほうを見て腕組をした。
「だいたい今どきオカルト部なんて流行らないわよっ」
「オカルト部ではない、超・超常現象部だ」
「どっちだって同じでしょ」
「ちがーっう!」
 問答を繰り広げる三人に、マリリーは溜息を漏らす。
「はぁ。あなたたちはいつもこうなの?」
「よく見ればあんたは……、……エ、エルリズのマリアじゃないっっ。な、な、なんであんたが此処にいんのよ?!」
「私が呼んだからだ」
 エンカがさらりと答えれば、ユイは顔を真っ赤にして激怒した。
「あんっッッ馬鹿!!! ちょっとこっち来なさい!」
 勢いよく引っ張られていったエンカは、ユイと物陰で何やらコソコソと話し込んでしまう。
「あの二人は仲がいいの?」と、マリリーが首を傾げて訊ねる。
「うーん、微妙なところだ」
 宗也は、ごにょごにょとしている二人の話にそれとなく聞き耳を立てた。
「バウアーだって今度ばかりはあんたの勝手を許さないわよ。協定があんの、忘れたわけ? あんただって、旧館(ここ)がどういうところか分ってるでしょ」
「だからこそマリアにはこの場所を知ってもらったほうがいいと思うんだ。なにせここは――――」
「うわぁ~~~~~~~!!!!」
 突然、旧校舎全体に悲鳴が響いた。
 声は男性のものであり、何かに襲われているような緊張感があった。聞き慣れない悲鳴は嫌に耳に残り、得体の知れない恐怖を連想させる。
 宗也はその切羽詰まった叫びに一瞬、後ずさる。
「なんだ……?」
 この場にいた全員が自然と顔を見合わせた。
「他にも誰かいるの?」
「いいえ、いないわ。エンカがカギを開けっぱなしにしたから、あんたたちが入れただけで、本来は厳重に鍵が掛かってる。誰かが入ってくるなんてありえない」
「そういえば、入口にペンが落ちてたぞ」
 宗也が入口で拾ったペンをエンカへと手渡した。
「これは……。私が来た時にはなかったものだな」
「ちょ、ちょっと! じゃぁ、エンカが来た後に誰かが中に入ったってことじゃないの!」
「な、なんと……」
「よし、じゃあ探そうか。もしかしたら建物が老朽化してて床が抜けたのかもしれない」
 宗也が冷静に分析すれば、ユイは真っ向から否定に入る。
「そんなことあるわけないでしょ。ここは――――」
「ユイ」
 エンカがユイの言葉の先を封じた。
「宗也の意見は合理的だ。ここは昔の建物。一番、可能性がある。とにかく叫び声の主を探そう。私はユイと一緒に左側を見ていく。君たちは右側を探してくれ」
「わかったわ」
 こうして、四人の旧館探索が始まった。


 ◇


「とんだことになったわね」
 旧校舎内を散策しながら宗也は、マリリーの言葉に頷いた。
 あんな切羽詰まった悲鳴を聞くのは正直これが初めてである。
「何もないといいんだけどな」
 不安を打ち消すように言うも、自然と足が早くなる。
 新校舎とはまるで造りが違う荘厳な廊下は、何か、特別な何かを予感させてやまない。
「結構広いわね。手分けして探す?」
「いや、老朽化してるなら俺らも床落ちする可能性があるよ。万が一に備えて、一緒にいたほうがいいかもね」
「了解」
 マリリーと共に教室を見回っていく。
 扉に出会うたびに中を覗き込んでみるも、人影もなければ床穴が空いてる様子もない。ただただ綺麗に清掃された教室の探索が続くばかりだ。
「……………」
 だが、探せば探すほどに違和感が強くなる。
 なにせ廊下にも窓枠にも教室にも、埃一つない。ひび割れや建付けの悪さなどは見られず、老朽化とは程遠い状態である。
「ユイのやつ、頻繁に来てるのか? 旧校舎ってわりに、すげぇキレイにされてるんだな」
「……あの二人、何かこの建物について知っているようだったわね」
 宗也は無言のままに頷いた。
 先ほどの会話を思い起こせば、当然たくさんの疑問が浮かぶ。
 まだ入学して間もないはずのユイは旧館の管理権があると豪語する、まるで自らは一般生徒ではないような口ぶりで。
「あいつ、いつの間に旧校舎の清掃係なんかになったんだ?」
 宗也が素っと呆けた調子で言えば、マリリーは黙ったままだ。
 返事がないばかりか、マリリーの足音までもが聞こえなくなったので、つい嫌な予感が脳裏を掠めて振り返ってみれば、マリリーは何やら考え事をしている様子である。
「どうかした?」
 宗也の呼びかけに、マリリーは顎に手を当てたまま小さく息を漏らした。
「きっと、こっちには何もない線が濃厚ね」
 マリリーのそっけない返事に、宗也はそれとなく返す。
「ま。探してみないことにはなんともな」
 ひとつ、またひとつと教室を待っていく。
 なんら異常はなく、ただの空き教室が続くばかり。
 宗也はまた次の扉へと手をかける。
 すると、ふと胸がざわついた。
 なぜだろうか。
 不思議と何か心に引っかかるものがある。嫌な予感にも似た、得体の知れない違和感がある。この場所だけナニカが決定的に違う気がする。
「どうしたの?」
 きょとんとするマリリーの横で、宗也は違和感の正体を念入りに探す。
 なんとなく目に留まったのは扉に刻まれたクローバーの紋章だった。
「あ! ここ」
 宗也は扉を指さした。
 すぐさまマリリーも視線を向ける。
 だが、マリリーには他との違いが分からないのか、首を傾げるばかりである。
「そこがどうしたの?」
「三つ葉のクローバーだよ。ここだけ他の扉にはない彫刻がされてる。ほら、ここ」
 その場所に、宗也は手で摩った。
 マリリーにも解るようにその紋章をなぞっていけば、彼女の顔色がみるみると変わっていく。 
「これは……、ヴィー、チェ……の、紋章……………?」  
「ヴィーチェ?」
「……どうして、こんなものが学園に……」と、声を震わし、マリリーは自らを落ち着かせるべく深く息を吐いた。
「宗也くん。世界には未解決な事件が多い。これは言わずともわかるわね」
「え? あ、ああ。まぁ」
 唐突な話の転換に、宗也は首を傾げながらも同意する。
「そのいくつか存在する未解決事件には一つの共通点がある。それが、この紋章。ヴィーチェの紋章よ」
 マリリーは扉の紋章へと手を翳す。
「…………殺戮は神のため。神の為の儀式。終焉には血が必要で、世界の明けには犠牲が居る。世界を封じる悪しき者が滅されるとき、真の光と共に幸福が世に満ち溢れるだろう」
「な、なに? その物騒な言葉は」
「これはヴィーチェが出したとされる犯行声明文の一節よ」
「聞いたことない組織名だけど……」
 マリリーは静かに言う。
「未解決の、それもおおよそ共通した人物が殺される時、彼らはこのメッセージと紋章を残していくの」
 マリリーは扉から離れて足早に歩いていく。
「えっ、まだ調べ終わってないよ」
「ここには何もないわ。あるとすれば必ず向こう側よ」
 スタスタと歩いていくマリリーの背中を、宗也は納得いかないながらも追いかけた。
 すると、再び叫び声が響いた。
 今度は聞き覚えのある甲高い女の声である。
「これって……」
 悲鳴はユイのものだった。
 聞き慣れた彼女の声が今はまるで違う響きである。
 異変がひしひしと身に伝わり、恐怖がより鮮明に浮かび上がる。
 逡巡する宗也を置いて、マリリーは颯爽に駆けて行く。
 一目散に悲鳴の元へと向かうマリリーの姿にハッとさせられ、宗也は遅れながらもそのあとを追いかけた。



 ◇



 宗也が初めてソレを目撃した時、すぐに思い浮かんだ言葉は穢れだった。
 次にイメージが湧いてきて、この世において最も近しいものがあるとすれば、それはヘドロのように思われた。
 排水溝とか淀んだ川とかに浮かぶ、ドロドロとした物体。
 不思議なくらい清潔な旧校舎とまるで正反対なソレを、眼を凝らしてよく見れば、黝く発光しているのがわかった。
 通常のヘドロとは比べられないほどに、淀んだ空気を纏っている。
 しかも悍ましいことに、じりじりとだが確実に、この得たいの知れない黝い物体は動いているのだ。

 禍々しい邪気を放つ、この世から逸脱したナニカが、だんだんと成形されてゆく。そうして出来上がった頃には不気味な雄たけびが響いた。
 身の毛もよだつ恐ろしい声が辺り一面に轟く。建物は震え、空気が怯えた。

 黝い巨体は、おおよそ此の世の生き物とは言い難く、想像のはるか上をいく化物だった。
 あまりの恐怖に、宗也はその場から動けなくなってしまう。
 呆然と眼前の怪物を見上げれば、ソノ眼玉ハ宗也ヲトラエテイタ。
 死を感じるには十分だった。

「――――宗也君ッ!」

 マリリーが悲鳴にも似た声をあげた。
 咄嗟に踵を返すも、巨大な塊はその見た目に反して俊敏である。
 瞬く間に宗也の頭上は暗くなった。
 巨大な手が包み込むように迫ってくる。
「あっ」
 死が肌に触れようとしている。走馬灯が脳裏を走っている。
 すると必然だろうか。幼馴染の声が聞こえた。
「宗也っ!」
 エンカの声だ。
 つい先ほどまで身近に感じられた声が今はひたすらに遠い。
 宗也の身に抗いがたい運命()が迫り近づきし時、
 ――――影が蠢いた。
 突如顕れた禍影が怪物より早く宗也を包み込む。
「どうしてここにいるんだっ」
 気づけば、エンカの隣に居て、遥か遠くに怪物の姿が見えた。
 宗也は、エンカの咎めるような声に、妙な安心感を覚えてしまう。
「助かっ、た、の……か?」
 エンカの顔を伺えば、表情はひたすら険しく、額には汗が浮かんでいる。
「なんでこっちに来たんだ」
「きたら、……だめだったか?」
「……っ……いいや、来てくれて助かったのかもしれない」
 哀愁とも悲愴とも違う、なんとも言えない表情でエンカは顔を伏せる。
 そうして一呼吸おいて、次に顔を上げたときには、いつも通りのエンカになっていた。
 普段通りの調子で、エンカは自らの影に手を置いて闇杖を召喚する。
 化け物は、獲物を奪われたとわかって、怒り狂うように咆哮をあげ、身震した。
「なんのための役割分担だと思ってんのよ。ねぇそこんとこ、わかってんの、特殊部隊(エリルズ)のマリア!」
 咎めるようにユイが大声を上げれば、すぐさま怪物の標的はユイへと移る。
「わかっているわッ――――! 一般人を巻き込むなってことぐらい」
「そうよ! そんための別行動だってのにっ! なんで内藤を此処に連れて戻ってきたのよ!」
 マリリーが銅剣を召喚し、化け物へと馳せる。
「ヴィーチェの紋章があって、あなたの悲鳴が聞こえたからよっ!」
 一直線に駆けたマリリーは、化け物の攻撃を躱して、巨大な腕の上へと飛び乗った。
 足場を得たマリリーは颯爽に頭部へと昇り、化け物の眼玉めがけて魔力を込めた一撃を放つ。
「――――聖なる波動(ホーリー・サージ)!」
 閃光が眼玉を貫いた。
 化け物は歪な悲鳴をあげ、もがき苦しむ。だが、すぐにその苦しみは怒りへと変わり、閃光によって塞がれた眼玉の代わりが浮かび上がる。全身に沸々と眼孔が現れ、全ての眼玉をマリリーへと向く。
「っ、硬いな」
「ヴィーチェの紋章ですって?! なっ……、あいつらが此処に入り込んだってこと?!」
 ヒステリックな調子でユイが叫べば、エンカはため息交じりに合点する。
「……なるほど。道理で最近、冥界からの訪問客が多いわけだ」
「ちょっとエンカ、あんたそれでも魔導士なわけっ?! なんで気づかなかったのよ!」
「すまない。まさかクローバーが干渉してくるとは思わなかったんだ」
「あんたが本気だしたら情報なんていくらでも――――って、きゃー!!」
 怒り狂った化け物はなりふり構わずに建物の残骸を放り投げる。
 予期せぬ名に動揺してか、一瞬反応が遅れたユイは足場を失い、転げ落ちてしまう。
 化け物はその隙を見逃さない。あっという間に魔の手がユイへと迫る。

「――――慈悲の(アイエス)、断罪せよ」

 マリリーの銅剣(アイエス)が色を発す。
 目にも止まらぬ鮮やかな一太刀が曲線を描く。
 すると黄光の線が走る。数秒遅れて音が鳴った。無音の一太刀が描いた曲線に沿って、化け物は真っ二つに斬られ、たちまちその巨体はバランスを崩した。
「まったく。あなたは口は達者だけど、肝心の戦闘はおざなりね」
 尻もちをついているユイを引っ張り起こせば、不服といわんばかりに猛抗議がくる。
「うるさいわね! 私は研究員なのよ! あんたみたいな脳筋騎士とは違うの!」
「それでよく黄金の神の手の会員になれたわね」
「バウアーんとこなんかに所属してないわよ! 私はイワン教授の弟子よ! あんたのその剣を開発してやったのも、エルリズの魔道具を作ってんのも、ぜーんぶイワン博士なんだからね、私に感謝なさいよ!」
 無茶苦茶な暴論をかざすユイに、マリリーは苦笑する。
「とにかく封印を急ぐぞ」
 マリリーが封印術の構えに入れば、エンカが声を張り上げた。
「ダメだ! マリア。あの中にはまだ人間がいる」
「何?」
「食べられたんだ、あれに。まだ生きてる!」
 マリリーは信じがたい様子で怪物とエンカとを交互に見合った。
「肚、……ううん、胃の部分ね。あそこに生命反応があるわ」
 ユイが指さした部分は、ひときわ厚く守られており、ブヨブヨとした液体の塊の中で唯一、鎧骨を纏っている部位だった。
「ただでさえ硬いのに厄介だな」
 マリリーが難色を示せば、ユイが懐から回転式拳銃(リボルバー)を取り出した。
「それは?」 
「対魔物専用の、超高火力魔具よ。特別に作ったんだからっ。これならあいつに確実な一撃を入れられるわ」
 口早に説明しつつ、ユイは魔法陣が刻まれた特殊弾丸を装填して、照星の先の標的を見通す。
 マリリーが与えた一撃が深いのか、いまだ体勢を崩したままでいる化け物は恰好の的である。
「エンカ! 中の人間は任せたわよ」
 ユイの呼びかけに、エンカが静かに頷く。
 マリリーは慌てて、ユイを制止した。
「あれを貫けるほどの攻撃が生身の人間に当たったら」
「お黙り!」
 照門を覗くユイは魔力を集中させながら、マリリーを見ずに笑った。
「一対一で勝負したんならその実力ぐらいわかるでしょ。うちの魔導士を舐めないで頂戴」
 マリリーは言い返さず、その場で黙った。異論はないようだ。
 ユイは照準を定め、魔力を注入する。すると、魔脈が銃器に浸透し、光を帯び始める。
「ターゲットロックオン、出力最大。起爆設定完了。派手にいくわよーっ!!」
 持てる全ての魔力が弾丸へと注ぎ込まれ、ユイは深く息を吸う。
「発射ぁぁああ~~~ッ!」
 銃声と共に、淡い光渦が発射された。
 化け物に難なく命中した光の渦は、ぐるぐると摩擦を起こし、骨鎧を抉っていく。バキバキと鈍い音が周囲に響き、骨肉が削られていけば、ぐったりとする青年の姿が視えてきた。
 破壊的な威力を持つ光渦が青年に届くまで、僅かコンマ数秒。
 常人ではとても追いつけぬ領域だが、その僅かな機会(チャンス)を魔導士たるエンカは逃さない。

 ――――音もなく、光もなく、影が揺らいだ。

 瞬く間に青年は蠢く影に包まれ、その姿が見えなくなったのと同時に、光渦が解き放たれた。
 眩い光とともに爆発が起る。黝い化け物の破片が無残にもあちこちに飛び散り、心臓部がむき出しになった。
「マリア、いまだ!」
 エンカの一声を待っていたといわんばかりに、マリリーが封印術を行使する。
 聖女の喚び掛けに精霊が召喚され、大きな十字架でもって、化け物の心臓部を突き刺した。飛び散った破片がじりじりと集い、神々しい光の中、新たな十字架が生成されていく。
 そうして、封印の儀式が終われば、黝い十字架が地面に零れ落ちた。これが魔物を封じた断片である。
 エンカは、その十字架を拾い上げて、すぐさま胸ポケットへとしまい込んだ。
「ひとまずこれで大丈夫だな」 
 安堵したように皆が息をつく。
「いったいなんなんだよ……、さっきのは」
 困惑混じりに宗也が言えば、その声に反応してか、倒れていた青年が目を覚ました。


 ◇



 寒山茂が目を覚ますと、辺りは一変して廃墟のような有様だった。

 繊細な彫刻のあった石柱は砕かれ、燭台が置かれた祭壇は壊され、ヒビ一つなかった石床はいまや土がむき出しになっている。
 瓦礫が散乱する廃墟の中で、四人が心配そうに茂の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か」
 茂は、見覚えのない四人に驚きながらも、こくりと頷く。
「あなたたちは……?」
「見ての通り、あんたと同じ学校の生徒よ」
 気の強そうなツインテールが棘を含んで、茂を睨みつける。
「ねぇ、あんたさ。ここがどこだか解ってんの?」
「え。っえーっと、きゅうこう」と、茂が言い終える前に彼女は声を荒げる。
「そう、旧校舎! ここは一般生徒立ち入り禁止の旧校舎よ! なんであんた勝手に入ってきてんのよ」
 ツインテールが捲し立てれば、横に立っていた男子生徒が眉を顰める。
「目覚めたばっかのやつに掛ける言葉がソレかよ……」
「はぁ? 目覚めようが寝てようが、こいつもあんたも不法侵入には変わりないのよ」
「落ち着けユイ」
「落ち着けですって? よくもまぁそんなことが言えるわね。だいたいね、エンカ! あんたが悪いのよ!」
 赤髪の少女に飛び火すれば、彼女は申し訳なさそうに目を伏せて謝罪する。
「悪かったよ。……まさか魔物が出てくるなんて思わなかったんだ」
「……魔物」
 その一言に呼応するように、先ほどまでの記憶が脳裏を駆け巡った。
「あ、あっ……、たしか、おれっ」
 得たいの知れない黝い化け物に遭った。
 この世の者とは到底呼べぬ、奇怪な生物に遭遇した。

 そして――――。

「俺、あれに喰われたはずじゃ……」
「ええ。あなたはアレに食べられて、無事に腹から出てきたばかりよ」
 パクパクと口を動かす茂に、金髪の少女が冷静に状況を説明し、微笑んだ。
「見る限り、とくに怪我はなさそうね。よかったわ」
 茂はこの柔らかく笑う金髪の少女には見覚えがあった。
「もしかして、……マリリー・マリアさん?」
 マリリーはこくりと頷く。
「あなたは――――」
「か、寒山。寒山茂です!」
 茂の名にユイが首を傾げて訊ねる。
「聞かない名前ね。どこのクラス?」
「えっと、一年二組です」
「は? 私と同学年なの、その見た目で?」
 ユイはまじまじと茂の薄毛を見て、軽い嘲笑を示して意味深に付け足した。
「ふーーーーーん。まぁ別にいいけど?」
 露骨な反応に、茂は嫌な心持になる。
 
 ――――また自分の容姿が人の笑いの種になっている。
 
 このどうしようもない頭の現象が心を浸蝕する。恥ずかしく、また悔しい気持ちになる。だが、それを表に出せば尚一層に惨めになる。
 どうしてこうも自分を蔑む人は素直で、どうして自分自身は素直になれないんだろうか。―――――

 内心で唇を噛みしめて、口元を緩めて笑った。
「つーか、なんで一年の癖に旧校舎に来たわけ? 都市伝説を知らないの?」
 ユイの高圧的な言動は、ただ事実を述べればいいだけの簡単な質問を難題へと変えていく。
「えーっと、その……」と意味もなく動揺してしまう。
 返答に窮している茂を庇うように、宗也が問答に加わった。
「都市伝説ってなんだよそれ。聞いたことないぞ」
「三つの都市伝説よ。宇宙人が出るとかどうとかってやつ」
 宗也とマリリーは顔を見合わせて首を傾げた。
「マリアが知らないのはしょうがないけど。本当に知らないの、内藤」
「ああ。知らない。有名なのか?」
「この辺の地域じゃ結構有名な話よ。旧校舎には近づくなって」
 宗也は建物内部を見渡して苦笑する。
「確かにボロボロで危ない場所だな」
 エンカが静かに付け加える。
「数年に一度、行方不明が出てる」
「え? まさか……」
「さっきの魔物が表に出てくるんだ」
 宗也は言葉を失い、口を開けたまま瞬きする。
「あの……、先ほどの黝い化け物は一体なんなんですか?」
「アレが何かを聞けば、君らはもう戻れなくなるぞ」
 エンカは穏やかな口調のまま、茂と宗也とを見据えた。
「忘れたほうがいい記憶だってある。宗也、それに寒山。知ってしまったら、もう二度と知らない状態には戻れない。楽園の果実を一度でも口にしてしまったら追放されるように、……もう戻れないんだ。残酷だけど、真実の味が甘いとは限らない。知らないほうがいいことだって世の中にはたくさんあるよ」
 ふいに寂しげな表情を浮かべて微笑むエンカは、赤髪がよく似合っていた。
「知らないからこそ笑っていられる事実もあるんだよ」
 茂は目を伏せ、宗也は顔をあげた。
「あんな危ない生き物が跋扈する世界を知らないままでいるなんて、俺は嫌だね」
 茂は、即答するその姿に驚き、顔をあげて二度見した。
 あの禍々しい化け物を目の当たりにして、内藤宗也は絶望するどころか英気に満ちている。
 同じ混沌を目にしながら茂とはまったく違う心境に達した宗也にある種の感動さえ覚えた。
「こっち側に足を踏み入れたら、もう日常には帰れないぞ」
「お前はその非日常にいるんだろ?」
 宗也が向き合えば、エンカは目を反らす。
「…………私は宗也の何倍も強いんだ。心配はいらない」
「確かにな。本当に魔法を使えるなんて知らなかった。それに……」と言って、宗也はちらっとユイを見た。
「ユイが銃刀法違反のクソ野郎だとは知らんかったわ」
「どーゆー意味よ、内藤!」
「そのままの意味だろ。お前、拳銃持ち歩いてるとかヤバすぎ」
「――――っ!! そんなこと言ったら、マリアだって剣を持ち歩いてるヤバイ奴でしょ!」
「私は持ち歩いてはいない、召喚しただけだ」
 キーキーと騒ぐユイを一瞥して、宗也は再びエンカと向き合う。
「つーことで、俺は真実が知りたい」
「本気なんだな?」
「ああ」
「……巻き込んで悪かった、なんて、……もう言わないぞ? 知ったからには宗也だって世界に対してケジメをつける必要がある。それでも、……知りたいのか?」
「お前の奇抜な行動にさんざん巻き込まれてんのに今更だろ。もう慣れた。だいたいケジメなんて自分でつけるもんだ。そんな当たり前のことを、俺はエンカに言われないと理解できないように見えるのか?」
「……いいや、その通りだ。……今更ごめんなんて謝らないからな」
「ああ。俺らの仲だ。謝る必要なんてない。存分に迷惑かけろよ、エンカ」
 エンカはどこか諦めたような、それでいてすごく嬉しそうに微笑む。
「ありがとう」と宗也には聞こえないように、エンカは小さく言った。
「……それで寒山はどうする?」
 全員の視線が茂に集中する。
「今日起こったことを黙っていてくれるなら、いつも通りの日常に戻れる。もう危険な目に遭うこともない。すぐそこには平和な日々が待っているよ」
「お、おれも!」
 茂は声を張り上げる。
「俺も、知りたいですっ。魔法とか魔物とか、その……、本当に実在するなら此の世界の真実ってやつを知りたいですっ! あんな生き物にまた襲われるのかと思うと怖いけど、……それでも、宗也さんのいう通りで、あんなのが暗躍してる世界で、いつも通りの日常を送れって言われたって……。どうせなら、おれだって、俺だって! 世界の悪と戦いたいです!」
 茂が胸の内を打ち明ければ、聞き慣れない声が室内に響いた。
「別にあれは世界の悪ってわけではないんですけどね」
 振り返れば、メガネをクイッとする不機嫌そうな男が立っている。
「騒ぎを聞きつけて来てみれば、なんですか。これは」
 男の鋭い眼光はエンカへと向けられた。
「花月卿、一体何をお考えですか」
「……トウダ」
 現れたのは、この学園の生徒会長である。



 ◇



 宗也は、生徒会長の不機嫌さを察して、少しばかり距離を置いた。

 トウダ会長はとてつもなく不機嫌で、始終眼鏡をクイクイさせてエンカへと集中砲火していく。
 いろいろとトウダにチクチクと問いただされた末に、エンカは降参した。
「悪かったよ、トウダ。素直に白状するから許してくれ」
「それでいったい何を企んでいたんですか?」
「実はここを部活動の拠点にしようと思ったんだ」
 あっさりと白状したエンカの一言に、トウダは言葉を失い、しばしの沈黙が生まれた。
「会長……?」
 宗也が、まるでフリーズしたかのように動かなくなったトウダを恐る恐る呼びかける。
 その声にトウダはハッとし、エンカを凝視するのであった。
「花月卿……。あなた、本当に何言ってるか解ってます?」
「わかっているとも。それより、トウダ。ここにヴィーチェの紋章が見つかったようだが」
「さりげなく話をそらさないで下さい」
 トウダは、呆れたように溜息をし、眼鏡を一度くいっとしてから姿勢を正して、意味ありげにマリリーへと視線を向けた。
「それで、君が許可なくここの調査を行ったと?」
 双方、嶮しい顔である。
 ややきつい物言いのトウダに対し、マリリーは毅然とした態度で挑む。
「していません。混沌が現れたので退治したのみです」
「はぁ。一般生徒は立ち入り禁止にしてるんですけどね。なんで勝手に入れたのか」
 トウダの矛先はユイへと変わる。
「鍵の所有者は君でしたね」
 エンカがすぐさま反論する。
「だが、総責任者はトウダだ。表の名義上はこちらも三つ葉学院の一部だからね。トウダがまったく知らなかったなんて言い分は通らないぞ」
「ちょ、厄介事を押し付けないで下さいよ。番犬(マリア)科学者(ユイ)がいるんですよ。第一、そこのポンコツの会派に管理権を譲渡してますんで」
「なっ! 誰がポンコツですって!」
「あなたですよ、イワン博士の不良弟子」
 ユイが頬を膨らまして睨みつけるも、トウダのほうはまるで取り合う気はないらしい。
「トウダ生徒会長、改めてお伺いしたい。此処は一体どういう場所なのですか」
「あー……」
 マリリーの申し出に、トウダは眼鏡をくいっとして、難色を示す。
 ちょうど日差しが眼鏡にあたって、レンズの奥が伺えなくなる。
 その眼鏡の奥にはいったいどんな表情を浮かべているか。まるで表情が解らぬままにトウダは淡々と説明を始めた。 
「まぁなんて言いましょうか……。此処は少しばかり冥界との境界線が弱ってきている場所でして。よく冥界からの迷子がやってきてしまうんですよ。なので、余計な問題が起きないように俺らが管理してるんです」
「何故、こんな厄介な土地を魔連本部に報告しなかったのです。本来ならば、危険地域に指定しておくべきでは」
「それを一般魔術師()に訊ねられても困るのですがね……」
 やれやれと言った具合でトウダは首を振って、説明する。
「一応、知ってることをお話するならば、ここは魔術師連合が創設される前に造られた建物です。長い歴史があるそうですよ。………魔連の盟主様たちにとっては、思い出の土地と言っても過言じゃないほどに、ね。だからまぁ、過去のいざこざを掘り返されたくないから危険地域の登録をしなかったんじゃないですかね。俺は詳しくは知りませんけど」
 投げやりに言いつつ、マリリーを見下すように眺めては、眉一つ動かさず告げる。
「だいたいこの場所の存在は、あなたの飼い主であるアラン卿も知っておりますよ」
「アラン様が……?」
「ええ」と、静かに頷き、厭味ったらしく言葉を付け加えた。
「来る途中に見ませんでしたか? あのステンドグラスを。まさか忠犬と名高い貴女が気づかなかったとは少し意外ですね」
 マリリーは思い当たる節があるようで、トウダから視線を外して、洩らすように小さく息を吐く。
「……あなたたちが管理してる場所でヴィーチェ絡みの偶然が起きるとは思えないけど……」
「それはあらぬ誤解というやつですよ、世界の番犬(エルリズ)のマリア。私たち魔連に加盟する者にとって、ヴィーチェは悪だ。ヴィーチェ排除で全ての魔術師は一致しています。同じ敵を持つ味方同士、余計な勘ぐり合いはやめましょう」
「……………」
 貼り付けたような薄っぺらい笑顔のトウダに、マリリーは無言のまま眉を顰める。
「それに繰り返しになりますが、ここは俺らの場所じゃない。そこのポンコツ会派の管理地ですから」
「トウダ、さっきから聞いてれば失礼しちゃうじゃないっ! 一体誰がポンコツよ!」
 猛抗議するユイに対して、トウダは冷たい視線を向けた。
「目上の者には敬称をつけなさい」
「私は天才なのよっ! なんであんたなんかに」
「礼儀を重んじないやつは駄目ですからね。今、多少人より秀でた才があろうと、そのうちあなたより優秀な人に先を越されるのが見て取れる」
「なっ! この私が誰かに負けるっていうの!」
「ええ。あなたみたいな傲慢な人間は、そのうち鼻っ面をへし折られるのが世の常ですから」
 やれやれと額に手を当てて頭を振っては、失笑交じりに云う。
「傲慢な魔術師の末路なんてこっちは見飽きてるんですよ」
「あんた。たかが数十年しか生きてないくせに、言うじゃない」
 ユイはパチンっと拳を合わせて、目をメラメラと燃やして息巻いた。
「いいわ。今に見てなさい。私は誰よりも優れた魔学者になってやるから!」
「あーはいはい。その日が来たらなんでも好きな名称を付けて呼んであげますよ。今はただのポンコツですけどね」
 ムキーっと顔を真っ赤にするユイを軽くあしらって、トウダはエンカを見る。
「私も、先輩をつけたほうがいいかな?」
「まさか。御冗談はおやめください」
 そうして、トウダは諦めたように溜息をついた。
「紋様の痕跡を調べるなら、確かに俺が見に行ったほうが早い。マリアさんは戦闘要員ですし、ユイは探知能力皆無のポンコツですからね。…………はぁ、しょうがない。その場所に案内してください」
「マリア、頼めるか?」
 マリリーはいまだ険しい表情のまま、無言のままに頷いた。
「? ……花月卿はご一緒なさらないのですか」
「私は此処に残るよ。二人に事情を説明したい」
「説明するって一体何を?」
「此の世界について、だ」
「………まさかとは思いますが、記憶を消去しないということですか?」
「ああ」
 またしてもトウダが言葉を失い、エンカを凝視した。
「本気ですか……?」
「もちろん本気だ」
 エンカが即答すれば、トウダは宗也を意味ありげに見遣る。
「…………宗也くんは――――」
 何かをぽつりと言った気がする。
 だが、宗也にはその言葉の先は聞き取れなかった。
「……………わかりましたよ。我らが魔導士。あなたの命令は絶対だ」
 トウダの言葉にエンカは目を逸らす。
「ありがとう、トウダ。……そしてごめん」
 懺悔するように弱弱しく言うエンカに、トウダは慰めるように言葉を添えた。
「我が魔導士よ、あなたは正しい。――魔導士とは正しいことをも知る者だから。しかし、その正しさがゆえに、……あなたはいつも苦悩なさる」
 一呼吸おいて、ゆっくりとトウダが微笑む。
「花月卿、俺は魔導士じゃない。今も昔もただの人です。だから間違うことがあっても、あなたを咎めることはありません」
 その顔は、普段の生徒会長からはとても想像できないほどに優しく、どうしようもないほどに切なかった。
「何が起こったって俺はあなたの仲間ですから」
 
 ――――仲間。

 トウダの言葉には深い慈愛と確かな信頼とが窺える。
 しかし、仲間とは、こんなにも呪縛的な言葉だったろうか。
 どうしようもないほどに優し気に言うトウダには、なぜか有無を言わせない圧があって、それに縋るような弱さがあった。
 ふと宗也は生徒会室でのやり取りを思い起こした。

 ――――「ええ。もうずいぶん長い、……本当にずいぶんと長い付き合いです。あなたなんかよりも、ずっと」
 ――――「何度生まれ変わっても、何度死ぬ羽目になったって、俺らはきっと彼女に忠誠を誓います。それが……、俺らの約束事ですから」

 トウダとエンカが、いったいどんな約束事をして、どういう経緯で仲間になったのか。
 それは宗也にはわからない。だが、二人の関係はひどく特殊で、どこか歪んでいるように思えた。
「それは……っ」
 違和感を呑み込むように宗也は言おうとした言葉をひっこめた。
 すべては憶測に過ぎない。
 第一、現実的に考えて、高校生の二人が永遠のような時間を生きてきたなんて、ありえない話だ。

 ――――だが……。

 エンカの胸ポケットの中にある混沌に輝く十字架を見て、宗也は考える。
 もしかしたら、がこの世界には存在するのかもしれない。
 揺らぐ常識の中で、エンカが儚げに言う。
「ああ、私たちは永遠の仲間だ」
 宗也の心中を知ってか知らずか、エンカは今度はトウダをちゃんと見て「ありがとう」と小さく笑うのであった。
 エンカの返答に満足したのか、トウダはマリアとユイを連れて調査へと向かい、残された者たちは静かに腰を下ろした。

 エンカがゆっくりと語り始める。

「さぁ、この幻惑的で狂気的でどうしようもないほどに救いがたい世界について話そうか」

第五章

 時計が動く、針が廻る、因果が巡る――――。

 時計塔の鐘の音が街全体に響き渡った。
 重々しく、それでいて清涼な響きに観光客が思わず足を止める。
 この街―――ブロードヘルム―――には奇妙な時計塔がある。 
 明世の柱と呼ばれるソレは、太陽が宇宙の頂上に至るとき、月の鐘でもって世界の終焉を知らせるといわれている。

 この伝承に関して詳しく知る人はいないが、街のシンボルとして、観光名所として、この時計塔は人々に愛され続けているのである。
 そしてなんとも奇妙な話なのだが、この時計塔がいったいいつからこの街にあり、いったい誰が作ったモノなのか。
 それは誰にも分からない。しかし、誰が知らずとも長い歴史を歩んできたことは誰の耳にも明らかだった。

 古びた時計塔の鐘の音は、この街の、あるいはこの世界の、歴史を感じさせる趣がある。
 世界が動乱の渦に呑まれたとき、この国で祝杯があがるとき、そしてこの街で革命がおこったときも、変わらず時間を数え続けた時計塔。
 時代が変わっても、人々はこの時計塔の音色に感銘を受けるのであった。

 趣ある鐘の音が止み、大勢の観光客が再び歩み始める。
 その中で一人、この時計塔をいまだ見入る青年がいる。
 彼は、ほかの見物客がいなくなったのを確認し、時計塔の中へと続く扉を開いた。
 長い階段を上がって辿り着いたのは、クローバーの紋章が刻まれた一室である。

「やっと、やっと、――――――やっとだ!!」

 青年が部屋にはいると、老人が奇声をあげた。
 時計塔の鐘の余波に身を揺らすように、干からびたミイラのような老人が身を震わせている。
「長き大戦の後、老いぼれどもに抜かれた部品が帰ってきたッ!」
 二十四の大小さまざまな時計が置かれている一室で、狂気を含んだ声が響いた。
 老人は、皺くちゃの手を掲げて、天を掴むように虚空を握りしめる。
「ようやっと、ようやっと…、ようやっと……っ、古の時計が動く時がきたのだっ!」
 焦点の定まらぬ眼で老人が歓喜すれば、青年はうれしそうに目を細めた。
 老人の影から闇より這い寄るようにシルクハットをかぶった女が現れる。
「……しかし、肝心の鍵はいまだ奴等の手の内に」
「忌々しき魔導士どもめッ! 天より神の力を与えられながら、その神の権利に浩然と牙をむく無法者どもめが」
 老人は血管をむき出しにして、怒りを顕わにする。
 そうして、椅子の横に置かれている荘厳な杖を握りしめた。
「――――必ず時は来る。神聖なる円盤が聖なる頂に至るときが――――。全ての権限は神に帰す。時も然り。その絶対的秩序を破り、善明の運命さえも捻じ曲げようとする無法者どもを我ら使徒は討たねばならぬ」
 杖を手にすると同時に、老人の容姿はみるみると変容していく。
「明は近い、人々の解放は目前だ。偽りの歴史は焼き消え、真実の歴史が刻まれる。悪党は劫火に焼かれ、善人は生命の書物に名を刻まれる。――――ああ。血だ、血が必要だ。赤い潤滑油が要る。もっとたくさんの時刻を巡すために」
 ミイラのような老人は一転して、若き紳士へと姿を変えた。
「……なぁ。クローバー。全ての歯車たちは我らの元に帰すべきだと思わぬか」
 紳士の呼びかけに、青年は無言のままにニコリと笑う。
 その顔には、肯定もなければ否定もない。ただ狂楽だけが宿っている。
「動かぬ時などない。止まる時間などない。いいや、万が一にもそれが成されるのであれば、その権利は神のみにある。人間風情にはない。思い上がった魔導士にも、何も知らぬ魔術師にも、その権利など決してあるものか!」
 ひときわ大事そうに飾られている古時計の前に、紳士は傅く。
「この狂った世界を終わらせるため、正常なる時間を取り戻すため、人があるべき姿に戻るために。我らヴィーチェは此処に在らん。願わくば、三界の秩序が聖なる神の助によって糺されんことを」
 古時計に忠誠を誓う紳士を見て、クローバーの名を持つ青年は、心底愉快そうに目を歪めるのであった。



 ◇



 チャイムが響いた。
 夕暮れを告げる音色は、旧校舎にまで届く――――。 

 宗也は、熱心に耳を傾ける茂と違って、エンカの話をいまだ信じられずにいる。
 先ほど出会った魔物の存在が脳裏を掠めつつも、理解することを脳が拒絶している。
 なにせ、今までエンカから聞かされていた世迷言が、実は世界の真実であるなど、どうやって信じられるだろうか。
 第一、万が一にでもフィクションが現実に成り得るならば、……それはいつかこの世界の終焉をも実現させるだろう。
 口数が減っていく宗也と違って、茂は好奇心の赴くままにエンカに訊ねていく。
「つまり、世界は三つあって、神も天使も悪魔さえも実現するということですか」
 エンカは少し困ったように微笑する。
「まぁそういうことではあるんだが……。なぁ、寒山。君は何をもってソレラを神と崇め、天使と名づけ、悪魔と呼ぶんだ?」
「え」
 エンカの問いかけに茂は答えに窮する。
「この世界は、人心ではよく解らないことであふれている。もし人の考えで此の世の全てを理解出来るならば、世界はこんなに乱れていないだろう」
 エンカは苦笑して、一呼吸置く。
 そうして改めて言う。
「悪魔も天使も神も実在はするよ。だけど、それらの多くを創り出したのは創造主ではない。創造主の子供たち、つまり神や人間で、それらが自らの想像物を勝手に天使や悪魔と名付けて争わせているんだ」
 人間が悪魔や天使まして神の創り手……?
 にわかには信じられない話を展開していくエンカを、宗也はジッと見る。
 エンカは一呼吸おいて、さらに世界の真相を語っていく。

「――――世界は三つある。

 一つ目は天界、これは想像主を頂点に置いた神々の住む世界。
 二つ目は現界、これは言わなくてもわかるね。私たちが住んでる現実世界だ。
 そして、三つめが冥界。冥界は空想が形を成す世界。想像の集大成とでも呼ぼうか。
 厄介なことに私たちの思考は冥界と繋がってる。
 目に見えない考えがさまざまな形に成って冥界に現れる。時にそれは、天国という楽園を生み、地獄という罪状を拵え、偶像という神さえも造り出す。
 そうして、多くの魔術は冥界で育ち、現界や天界へと持ち込まれた」

 淡々と語るエンカに、宗也は疑い半分で聞きながら、ことの真偽を探すべく思考する。
 だが、どれほど考えを巡らせてみるも、行きつく答えは、実は此の世界をよく知らない事実だけである。
 宗也がもの言いたげにしていると、エンカはまた困ったように微笑んだ。
「今すぐ理解する必要はないよ。ただ、自分の考えが世界に多くの影響を及ぼす事を覚えておいてくれ」
 エンカは、先ほど手に入れた混沌の十字架を宗也に手渡した。
「冥界からやってきた無形の者は魔物と呼ばれ、世界の境界線を乱す存在として退治されることが多い。先ほどの魔物は、冥で生まれ、現界にやってきた。現界のモノとはまったく異なる性質を持っている」
 黝い光を放つ十字架は、確かにこの世のものとは思えない輝きを放っている。
「……人の想像によって生まれた者が、その創造主(作り手)を襲いに来るなんて……、滑稽な話だろ」
 自嘲気味に言うエンカは、どこか悲し気だった。
 宗也はエンカと十字架を交互に見て、十字架の感触を確かめる。
 十字架の奥底で、暗くどす黒い何かが動き回っているような気配がある。その淀んだナニカは妙に宗也の好奇心を擽った。
 混沌の輝きに宗也が魅入っていると、エンカが遮るように十字架へと手を翳す。暗に「深くは見るな」と訴えてくるエンカに、宗也は無言のままに十字架を返した。
「あ、あのっ」
 茂が声をあげて、エンカへと質問を投げかける。
「どうすれば魔術が使えるようになりますか」
「逆に尋ねたい。寒山はどうすれば魔術を使えるようになると思う?」
「えっ……えーっと魔法の杖を振るとか……、呪文を唱えるとか……?」
 茂のぼんやりとした回答に頷いて、エンカは自らの影へと手を翳した。
 すると、影に虚空が顕れ、一本の闇杖が浮上してくる。
 影より召喚されし暗黒の魔杖を、エンカは茂へと放り投げた。
「なら、茂はその杖を使って適切な呪文を唱えれば魔術を行使できるかな」
「え」
 唐突な言葉に、茂は固まる。
 茂は促されるままに詠唱をし、そうして力いっぱいに叫んだ。
「――――影よ動け!」
 響いた声は、空虚に消え、なんの変化も起さない。
「……動きません」
 茂はガックリと肩を落とし、エンカはゆっくりと頷いた。
「魔術がある事を認識しても世界の基盤は何も変わらない。杖や呪文、魔法陣を知っていたってそれだけじゃ意味がない。冥界がある、天界がある。ただこれを認識しただけでは力は使えない。根源である魔力を見出さないと」
 エンカはしっかりと茂を見据えて、言う。
「酷なことを言ってしまうと、魔力を見出すことが出来ない者に、魔法の規則を教えたって何の意味もないんだ。どうすれば魔術を使えるようになるか。それを1番に知っているのは、その力の持ち主である寒山だけだ。私が何を教えたって寒山が力を出す術を知らない限り、魔術は使えないよ」
「それはずいぶん難しそうですね……」
 見るからに落胆する茂に、 エンカは苦笑した。
「だが、魔術は特別なものなんかじゃない。誰にでも使えるありふたりなものだ」
 茂はシュンとした頭を擡げた。
「けれども、誰もが魔術の存在に気づくわけじゃない。気づくだけの素質ある者が魔術師の称号を手にする」
「なら、いつかは俺も使えるようになりますか」
 エンカは沈黙し、厳しい顔で忠告する。
「先人として一つ言っておくけど、血を持たぬ者が魔術師になるのは並大抵じゃないよ。一長一短で成し遂げられるような美談でもない。魔術の習得に理屈はない。それこそ努力と呼べるかどうかさえ怪しい絶望を味わう時だってある。…………苦労の絶えない道を歩むことになるよ」
「それでも使ってみたいんです」
「一体、何のために?」
 その問いかけに、茂は黙った。
「欲望のために欲するならば、お勧めはしない。決して己の心を満たす術ではないから。…………だけど、その心にまごころ、世界を想う気持ちがあるならば、必ず手にすることが出来るだろう。どれほど時計が回ろうと、天界の神は慈悲深く、創造主が私たちを作った事実は変えられないから。古の盟約によっていつの世も苦境を助けてくれるさ」
 エンカは茂へと柔らかく微笑む。
「魔術を得たいなら、此の世界と徹底的に向き合ってごらん」

 ――――なぜだろう。

 なぜか、茂の瞳からは涙が零れた。
 脈略のない一滴が頬をつたって、落ちてゆく。
 一体、何が悲しかったのか。あるいは何が嬉しかったのか。その心意は茂にもよく分からなかった。
「あ……、す、すいません」
 エンカは、涙を拭く茂を見ないようにしながら、もう一つの可能性を伝えた。
「……本当は術は二種類あるんだ。冥界生まれの魔術と、天が人に託す神術。もしかしたら寒山は、魔術よりも神術のほうが向いてるのかもしれないね」
「え……。それは」と、さらに訊ねようとする茂に、エンカは小さく首を振って制止する。
「これは教えてはいけないことだから。秘密だよ」
 エンカは今度は宗也へと視線を移した。
「それで、宗也は他に聞きたいことはない?」
「昨日の放課後……、何があった?」
 咄嗟に宗也は本題を切り出した。
 ドタバタ続きでなかなか話す機会がなかったが、もともとこのためにエンカに会いに行ったのである。
「…………魔物が現れ、マリリーが襲われた」
 エンカは一瞬、視線を斜めにそらして困ったように苦笑した。
「この場所以外にもあの化け物が出るのか」
「んー……、稀にね」
 エンカは立ち上がって、混沌によって壊された祭壇へと近寄っていく。
 ガラスの破片を拾い上げて、覗き込めば、歪んだ世界が映し出された。
「ただ、最近その稀が多いんだ」 
 ステンドグラスから赤い夕陽が差し込んできて、エンカの真っ赤な髪をさらに赤く染める。
 深紅の色が宗也の記憶を呼び起こす。夕暮れの帰り道、エンカが言葉を濁した、あの日へと―――。
 核心へと迫るには十分だった。
「もしかして魔王復活のときが近いってか?」
 数秒の沈黙の後、エンカはゆっくりと頷く。
「…………うん。彼はこちらの世界に来たがってる。彼が現界に来るのは、阻止しないといけない気がするんだ」
「気がするってなんだよ」
 エンカは苦笑して、視線を落とした。
「魔王なんて呼ばれてるけど、べつに彼は悪者じゃないよ。そう、確かに悪くはないのだけど……、彼がこの世界を壊したがってるのは事実で、……それは阻止したほうがいいことのように思うんだ……。なぁ、宗也。本当にこの世界は、……壊れないほうがいいのかな」
 自信なさげに訊ねてくるエンカに、宗也は力強く返答する。
「そんなん当たり前だろ」
 断言して、想う。

 みんなのために世界を守るとか、そんな高尚なことを言いたいのではなくて、ただ世界が壊れたら、きっと困るのは自分だからだ。
 いったい誰が好き好んで住処を失いたいと思うのか。
 いったい誰が魔王に日常を荒らされたいと思うのか。
 世界が壊れて困るのは、この世界に住まうすべてだ。
 魔王降臨なんてのを願うのは破滅願望の持ち主か、あるいは自暴自棄な人間か、はたまた現実に失望した二次元オタクぐらいか。
 それか、向こう見ずでただひたすらに強敵と戦いたい勇者ぐらいだろう。
 平和な日常を退屈に思うことはあっても、壊したいとは思わない。

 ――――「もし、此の世界に魔王が出てきたら、宗也はどうする?」

 エンカは静かにあの日と同じことを問うた。
 夕暮れに染まるエンカは、どこか黄昏ていて、今にも消えてしまいそうなぐらい儚かった。
 宗也はエンカを一瞥して、息を吐いた。
 魔物と遭遇して自らの非力さを痛感したばかりだ。
 マリリーたちが雑魚と呼ぶあの魔物でさえ、宗也にとっては脅威なのに、それ以上の魔王なんて大それた存在と対峙するなんて不可能だ。
 宗也がどんな行動をしようが、どうにもならないのである。無力な宗也の意思とは関係なく、魔王は世界を侵略するだろう。

 ――――「最高のゲームだよな!」

 脳裏に、慎吾と遊んだゲーム、ブラインドクロードが浮かんでくる。
 圧倒的な力を持った魔王は、容赦なく人々を倒していく。特別な力を持つキャラクター以外は、いてもいなくても同じ。
 あんな苦境を楽しめるほど宗也は強くない。親友と違って、強大な敵を前にして喜ぶ精神など持ち合わせていないのである。
「……はぁ」とため息をついて、エンカを見る。
 どんなに無理だと分かっていても、目の前で落ち込んでいる幼馴染を放っておくことなんて出来なかった。
「退治する」
 と、言って、諦めたように笑う。
「なんて、かっこいいこと俺には言えない。自分が非力な存在だってのは、さっきの魔物を目の当たりにして痛感した。だから……、できることなら魔王と戦わずに勝ちたい」
 笑って、エンカへと問い返す。
「なぁ、エンカ。もしかしたらだが……、魔王をこちら側に来させない方法があるんじゃないか?」
「あるには、……あるよ」
 エンカは宗也に背中を向けたまま、言葉をつづける。
「だけど、……それはいろんなことと引き換えだ。ナニカを失ってまでこの世界を守りたいか?」
 いまだこちらを見ようとしないエンカを宗也はじっと見た。
 壊れた祭壇を食い入るように見ている姿はひどく印象的で、落ち込んでいるのは火を見るより明らかだった。
「いったいどんな代償が必要なんだ?」と、訊いてみるも返事はない。
 宗也は、どうしようもないこと、それもかなり滑稽で、通常ではとても想像がつかないことで、落ち込む彼女を幾度となく見てきた。
 よくよく考えてみれば、今更過ぎることについ苦笑が漏れる。
「悪いな、エンカ。お前の考えはおれにはよくわからん。ましてこの世界のことなんて知る由もない」
 そういって、宗也はエンカへと語り掛ける。
「だけど、世界ってそんな簡単に壊していいようなもんじゃねぇだろ」
 吹っ切れたように答えた宗也をエンカはちらっと見る。
「守りたいかどうかで言えば、……そうだな。エンカの言葉を借りるが、守ったほうがいい気がするんだ」
「どうして……?」
「この世界には手のかかる幼馴染がいるからな」
 ポンッと頭に手を置けば、エンカがドキッとしたように目を丸くした。
 そうして、小さく呟く。
「そんなの……、理由にならないよ……っ」
「ばーか。なるんだよ、俺にはな」
 宗也はエンカの頭をぽんぽんと撫でた。
 少し照れくさそうにして、エンカは小さく言う。
「…………確かに、壊すのは惜しいのかもしれない」
 やっと吹っ切れたのか、エンカが顔をあげる。
「魔王は強いよ。王の異名は伊達じゃない。本気で世界を壊しに来る」
 そこまで言って、エンカは宗也と茂とを見据えた。
「出来ることなら彼を止めたい。超常現象部はそのための活動をする。……そして、世界の崩壊を止めるためには、君たち二人の力が必要になる時が来る。どうかお願いだ、手伝って欲しい」

 宗也と茂は顔を見合わせて、力強く頷いた。 



  ◇



  
 宗也は、エンカと別れた後、茂と共に帰り道を歩いていた。

「まさか本当に魔王が存在するなんてっ!」
 茂が興奮混じりに言えば、宗也が苦笑交じりに頷く。
「確かにな。あーあー、いつもだったら魔王なんて存在しないって一掃するところなんだけど、……あんな化け物を目にしちゃうとなぁ」
 宗也はしみじみと今日の出来事を振り返った。

 失われた記憶を求めて、エンカを追いかけていたら、いつのまにかとんでもないことになった。
 この世に存在するはずがない魔物に遭遇し、同じくこの世界では架空でしかなかった魔術師らに助けられ、気づけばエンカの世迷言が現実味を帯びてゆく。そうして、いろいろ話し込んでいるうちに、寒山という仲間と共に魔王の入界を阻止するべく躍起になっている自分がいる。
 旧校舎で遭遇した魔物は、宗也の常識を根底から覆すのに十分だった。突如現れた黝い怪物は固定概念を吹っ飛ばし、この世界を作り替えたといっても過言ではない。
 魔物の出現によって、ファンタジーの壁が壊され、現実と空想の境界線が曖昧になって、二次元的世界が現実へと台頭してきた。
 いうなれば、一つの革命的思考変換が起こり、またすると当然のように疑問が湧く。

 ―――――この世界とは何なのか。

 エンカの話した内容をそのままに解釈するならば、この世界とは、つまりは神も悪魔も天使も魔物も魔王も魔術師も存在する超不思議ファンタジー世界である。
 と、するならば、いったい今まで宗也が知っていたはずの現実とはなんだったのか。

 思考の迷宮に彷徨いつつある宗也に、茂は意気揚々と心境を打ち明ける。
「なんだか勇者パーティーに加わったようで、わくわくします」
「勇者パーティーって…。エンカを勇者に例えるなんて面白いな、寒山」
「え。勇者は花月さんではなく内藤くんですよ」
「え? 俺?」
 宗也は素っ頓狂な声をあげて、すぐにぶんぶんと手を振って否定した。
「冗談だろ? 勇者なんて柄じゃないって」
「そんなことありません。内藤くんはかっこよかったです。あんな化け物と対面して、まったく動じないなんて」
 目を輝かしている茂に対し、宗也は怪物の前で動けなくなった惨めな自分を思い出す。
「い、いやぁ~、俺腰ぬかしてただけだし……。つーか、カッコイイ所なんてあったか…?」
「はいっ!」
 茂が目をキラキラとさせて、力強く頷く。
「……それよりさっ。その呼び方、なんか慣れないや」
 気恥ずかしさからか、宗也は話題を逸らしにかかる。
「え?」
「内藤じゃなくて宗也でいいよ」
「じゃあ宗也くんと」
「君もいらん。呼び捨てにしてくれ」
「それでは宗也とお呼びします。自分のことも茂と呼んでください」
「オーケー」と、頷いて宗也は茂に対して、改めて訊ねた。
「茂ってもしかして中学一緒だったりする?」
「いえ、中学は違うところです。俺の家はちょっと遠いんで」
「え? マジ?」
 茂がこくりと頷けば、宗也は驚きを隠せない。
「三つ葉高ってど真ん中の高校だぞ。わざわざ遠くから来るような名物的なものあったっけ?」
「ど真ん中だなんてっ。……宗也くんは気づいていないかもしれませんが、三つ葉高校の造りは相当すごいですよ」
 なんのことか全くわかっていない宗也が首を傾げれば、茂が目を光らせる。
「とても此の辺で拝めるような代物ではありません。様々な伝統的建築技が施されてる。一見すると、気づかないような細微な技が、さりげなく、それでいて確かに存在しているんです、まさに神の域ですよ! あんな素晴らしいものを毎日拝めるなんて、とてもすごいことなんですよ! それに、あれほどのものを維持できる経済力もすさまじい……。並みの高校だなんてとんでもないっ」
 へぇ~っと宗也は感心した。
「茂は建物とかに詳しいんだな」
 宗也は、まったくといっていいほど建造物にも芸術品にも興味がない。
 だが、自分と異なる物に惹かれて、それに詳しい茂の話が妙に面白く感じて、ついついあれこれと聞いてしまった。
 二人が談笑を弾ませていると、気づけば三つ葉公園の前まで来ていた。
「あ」
 茂が公園で何かを発見したのか、立ち止まる。
 見れば、宗也の妹の朝子(あさこ)が砂場で遊んでいる。
「あ。お兄ちゃんっ!」
 視線に気づいた朝子がこちらに駆け寄ってきた。
「寒山お兄ちゃん。昨日ぶりだねっ」と、朝子はニコっと笑う。
「え? 知り合い?」
 まさか自分ではなく茂に寄ってきたとわかって、宗也は驚いて二人を交互に見遣った。
「なんだ、おにいちゃんもいたのっ」
「えっ? もしかして朝子ちゃんは宗也の妹なんですか?」
 不意を突かれたように茂が言えば、朝子は首を振った。
「うーうーんっ。ただ一緒のお家に住んでるだけのカンケーです」
「うっわー。可愛くない妹ー!」
 アッカンベーっと朝子が舌を出す。
「あーあー。お兄ちゃんじゃなくて、茂お兄ちゃんが本当のお兄ちゃんだったらよかったのに」
 白羽が立った茂は肩身が狭そうに苦笑を零した。
「茂お兄ちゃんはね、お兄ちゃんと違ってお歌が上手なんだよっすごいんだよっ」
「歌? へぇ。俺、音痴だから羨ましいな」
「え? いや、あのっ、歌唱のほうではなく」
 誤解を正すべく異論を唱えるも、それを許さぬように妹が話を広げた。
「うんっ! あのねあのね、すごく上手なんだよ。雷三くんもね、キレイなお歌だって言ってたもんっ!」
 目をキラキラとさせる朝子に、茂は照れくさそうにする。
「なんだ、新しい友達が出来たのか」
「うんっ。昨日ここで一緒に遊んだのっ」
 宗也は「へー」と話半分で聞き流して、どこかで聞いた名に首を傾げる。
「雷三くんのコキョーにはね、わかのお姫様がいるんだって。カンザン先生のお歌を聞くと、わかひめさまを思い出すって言ってたよ」
「ん? わかひめ……?」
「うんっ。わかのおひめさま!」
 そこで初めて合点がいく。
「…………もしかして、歌って詩か?」
「ええーっと、……はい。自分は和歌が趣味なんです」
「今どき珍しいな」
「ねぇ。今日もお歌を歌ってくれる?」
「えーっと……」と逡巡する茂を見て、宗也が朝子を止めた。
「こら。あんまり困らせるな」
「ちぇ~」
 朝子は頬を膨らませるも、すぐに表情を変える。
「あ。そうだ、茂お兄ちゃん。私ね、ジュツが使えるようになったんだよ」
「じゅつ? それは一体どんな術ですか」
 茂は幼子の視点に合わせるべく、身を屈める。
「雷三くんが教えてくれたのっ。こうやってね、気を巡らせて、ふぅ~~って息を吹くと……っ!」
 朝子は、落ちていた桜の花びらを拾い上げてから、ふぅ~~っと息を吹きかけた。
 すると桜が勢いよく舞った。
「ほら! 見て! 桜が生き返ったっ!」
 目を輝かす妹の無邪気っぷりに宗也は呆れかえる。
「それのどこが生きてるんだよ」
「はい、お兄ちゃんにはジュツの才能はありませぇ~~~んっ!!」
 ツンっとする朝子に、茂は優しく微笑みかけた。
「花びらがとても綺麗に見えますね」
「へへっ。ジュツは奥が深いんだからねっ」
 朝子が嬉しそうにすれば、宗也がついていけない様子で溜息をつく。 
「はぁ。とにかく帰るぞ」
「え~~~っ! まだ茂お兄ちゃんと遊びたいっ!」
 駄々をこねる朝子を引っ張って宗也は、自宅へと歩いていく。
「おれん家、ここだから」
「あ。はい。ではまた明日」
「茂お兄ちゃんっ!」
 朝子がうるっと瞳を揺らして訊ねる。
「また遊べる?」
「ええ。もちろん。また俺と遊んでやってください」
「うんっ」
 朝子は、ニパッと明るくなって嬉しそうに笑った。

第六章

 もし、なんでも願いが叶うなら――――。
 もしも、小説やアニメのように、願望がどんどん叶っていくのなら?

 ――――それってとっても素晴らしいことでしょう?

 式枦ひよこは困惑する。
「ひよこ、一生のお願い!」
 友人の竹中里奈に懇願されれば、なお一層に後退る。
「それは……っ。本当に叶うんだったら凄いと思うけど……」
 到底、何でも願いが叶う絵空事が現実にあるとは思えない。
 もし万が一にでも、なんでも願いが叶う力が存在し、すべての人の願いが叶ったら――――。
 それは天国の始まりでもあり、また地獄の始まりでもあると想った。
「里奈ちゃん……、やっぱりなんでも願いが叶う石なんてあるわけないよっ」
 繰り返しひよこが言えば、里奈は負けじと切り返す。
「じゃあ信じなくてもいいからっ。一緒に行くのだけでいいから付き合って。お願いっ!」
 二人組じゃないと中に入れないらしいのっと里奈は付け加える。
「同い年の、同じ月に生まれた、同じ背丈の二人組じゃないと駄目なんだってっ。この条件に当てはまるのひよこだけなのっ、本当に本当にお願い! 一緒に行くの付き合って!」
 困り果てたひよこは、話の出所となった里奈のスマホ画面を凝視する。

 ――――なんでも願いが叶う石。通称、四葉(幸運)赤石(セキイシ)
 
 最近オカルト掲示板で話題になっている代物だ。
 夕方の四時四十四分に、四つ葉市四番町四の、クローバータワーの四階に行くと、地図上には存在しない奇妙な場所(フロア)が現れる。その一角に置かれている赤い石に願い事をすると、どんな願いでも叶うらしい。
 眉唾な話なのだが、件の掲示板には、二人組の男が「大金が欲しい」と赤石に願う動画がアップロードされている。
 その動画には、男たちが願い事を口にした瞬間、赤い石がこの世ならざる光を放ち、禍々しい天上から大量の札束が降ってくる様子が映っていた。
 異様な映像に掲示板が沸く。
 悪質なデマと冷静に分析するものから、本当だったと茶化すような書き込みまで。様々な意見が飛び交い、みなが半信半疑、いや、ほとんどの人はまったくといっていいほど信じていなかった。ただの与太話で終わるはずだったのだが……、一昨日から事情が変わった。
 とある名もない芸人が「人気ドラマの主人公に抜擢されて、ちょーモテモテになりたい!」と、しょうもない事を願った動画を掲示板にアップロードしたのだ。当初は、赤石が輝くこともなく、なんの変化も起きずにいたので、芸人が「この話はたんなるデマだ!」と激怒し、虚偽の証明のために投稿したものだった。
 しかしその翌日、状況が一変した。
 なんと人気ドラマの主演俳優が交通事故で出演困難になり、急遽似ても似つかないこの芸人が大抜擢されたのである。
 芸人は一夜にして、今話題のモテモテ有名人として連日持て囃されている。
 この一件で噂は加速した。
 今や里奈が信じ込むほどに本当だったという書き込みで溢れている。
「でも……」と躊躇するもひよこは里奈に迫られ、つい頷いてしまう。

 そうして里奈の願いを断り切れず、クローバービルへ行くことになったのだった。



 ◇


 
 ――――放課後。

 宗也は、人ならざる術に驚愕する。
「……魔術万能すぎだろ」
 魔物の出現でボロボロになった旧校舎は、一夜にして綺麗さっぱり元通りに戻っていた。
「本当にすごい。魔物が暴れて廃墟のようだったのに……。一日でこんなに綺麗になるものなんですね」
 隣にいた茂が建物内を見渡しながら言えば、ユイがエッヘンと鼻を鳴らす。
「フンッ、当たり前でしょ。魔術を使えば修繕なんて朝飯前よ」
「別に貴女がしたわけではないんですけどね」
 ユイが威張れば、すかさずトウダが水を差し、二人の間に火花が起こる。
「遅いぞ、宗也」
 エンカが階段から降りてきて、ビシっとポーズを決めて宣言した。
「本日より超常現象部、始動だ!」
「一応言っておきますが、正式に部活動を始めるには顧問となる教員も必要ですからね」
「そ、そんなぁ……。五人いればって言ったじゃないかっ」
「人の話を最後まで聞かないからですよ」と、トウダ会長は眼鏡をクイッとして、苦笑する。
「しかし、花月卿。本当にこの六人で魔王の入界阻止など出来るのですか」
 魔連に協力要請をしたほうがよろしいのでは……と、マリリーが嶮しい表情でエンカに耳打ちした。
「むしろ俺たちだけでやったほうがいい。こんな活動を魔連に知らせたら一体どんな妨害を喰らうことになるやら」
 トウダが呟けば、エンカも頷く。
「私もトウダと同意見だ。全員が全員、邪魔してくるとは思えないが、よくも思わないだろう」
「そんなことはありませんっ! っ……、いえ……。しかしです、宗也くんも寒山くんも、魔術の根も葉も知らない一般人。万が一にでも戦闘になれば」
「それなら問題ないわ」
 ユイがガサゴソと鞄を漁って、小型の四角いボックスを披露する。
「隠れることに特化した防御壁用の魔具よ。これを使えば問題ないわ」
「だが、魔王が万が一出てきたら」
「だーかーらー、万が一にでも魔王を出さないための活動でしょ? 現状、ちょっと境界線が緩んでるだけの話よ。緩んだ場所を閉めればいいだけ。冥界の魔物にはまた逢っちゃうかもしれないけど、どうせ雑魚しか出てこないだろうから大丈夫よ」
 ユイがエンカをチラっとみてから、言う。
「こっちには魔導士(エンカ)もいるんだし、大したことにはならないわ」
 しかし、未だマリリーは眉間に皺をよせている。
 反論することはないが、同意することもない様子である。
「マリリー。想うところがあるのは解る。だが、魔連は決して手を貸してはくれない。私たちでやるしかないんだ」
「魔連は世界秩序を重んじる組織です。どんな理由があれ、世界の破壊を目論む魔王を決して許しはしないでしょう。なのに協力が見込めないなどというのは――――」
「討伐と研究で一致してるからですよ」
 トウダの声が嫌に透き通ってあたりに響いた。
「魔連と一括りで言っても、魔導士の御考えと、魔術師の思惑とは違います。さらに言うと、個人の思想も当然異なっているわけですが……。まぁ大まかに言えば、魔導士さまは世界秩序をなによりも重んじている。ゆえに私利私欲のために魔術を行使する輩を懲罰し、またそれらを封印したいとお考えのことでしょう」
 トウダは棘を含むニュアンスで、さらに続けて言う。
「対して、魔術師は魔の探求がしたいんですよ。魔王なんて恰好の(研究材料)でしょう? 万が一にでも捕獲に成功するのなら、魔術は更なる発展を遂げる。そして念のために聞いておきますが、マリリーさん」
 ギラリと光った眼鏡の奥でマリリーを見定めて、問いかける。
「あなたは、魔術の発展と世界の平和。どちらが大事だと思いますか?」
 マリリーの返事はない。
 瞬きせずに、トウダをじっと見据えている。
 数秒の無言の後、マリリーはゆっくりと口を開いた。
「世界平和のためにエルリズの騎士は存在する」
「なら、よかったです。番犬に邪魔をされずに済みますからね」
 クイッと眼鏡を持ち上げたトウダに、マリリーが反問する。
「私もトウダ会長にお尋ねしたい。あなたたち黄金の神の手は、いったいどちらを優先しているのか」
 睨むマリリーに、トウダは肩を竦めて答えた。
「俺は花月卿の意向を何より重んじているので。どちらをとるかは卿のお考え次第だ」
「私は世界の平和を大事に思うよ」
 エンカが優しく微笑む。
「争いはいつだって悲しい。魔王がこちら側にきたら少なからず被害が出る。……防げる被害を放置しておくのは、きっと違うと想うんだ」
「なら、決まり。このメンバーで魔王の現界侵略阻止をするわよっ」とユイが諦めたように笑った。
 宗也は皆の顔を見て、深く頷く。



 ◇



「それで、一体どんなことをするんだ?」
 宗也が尋ねれば、ユイはノートパソコンから視線を外さずに返事をする。
「まずは場所の特定ね。この辺りの魔脈を確認してるからちょっと待って頂戴」
「魔脈って何?」
「魔力の通り道よ。そうねぇ……。簡単にいうと、電線みたいなものかしらね」
「ふーん……」
 カタカタとキーボードを素早く打つ音が室内に響く。
「電線ってことは、電源とか発電装置とか、そういうのもあるのか?」
 興味本位で訊ねるも、返事はない。
 どうやらユイは宗也の疑問に答える気はないようだ。
 それとなくユイのパソコン画面を覗いてみるも、数列が並ぶばかりで宗也にはよくわからなかった。
「お茶が入りました」
 茂が奥の間から淹れたての湯気が漂う緑茶を茶盆にのせて運んできた。
 宗也は「サンキュー」と苦笑交じりに受け取り、一夜にしてただの教室から異次元オフィスに変貌を遂げた旧校舎の一室をしみじみと眺め入る。
 魔術によって、快適さと個性とを兼ね合わせたこの部室は和洋折衷以上の進化を遂げていた。
 エンカの盆栽空間に、ユイの近未来的スペースと、トウダ会長の書斎、マリリーと宗也と茂のオフィス用机が置いてあって、さらに隣の部屋にはキッチンと保健室が完備されている。
 異様な光景ながらもちゃんとまとまっており、便利でおしゃれな快適空間が出来上がっていた。
 つくづく魔術が此の世ならざる力であることを痛感する。
 宗也が感慨深くしていると、ユイの我儘が始まった。
「ちょっとっ! 緑茶とかありえないっ。お茶と言ったら紅茶でしょっ!」
「す、すいませんっ。淹れ直してきますっ」
 茂があたふたとしながら、小走りでキッチンへと入っていく。
「ありがとうぐらい言えないのか」
「は? なにに感謝するポイントがあんのよ」
「茂はお前の召使じゃないんだぞ」
「はぁ? 誰も淹れてくれなんて頼んでないんだけどっ。あいつが勝手にやってるだけでしょ」
 イライラケージが溜まっていくユイに、宗也はつくづく呆れてしまう。
「お前そんなんばっかやってっと、いつか本当に痛い目みるからな」
 宗也の忠告に、ユイはフンッとそっぽを向いた。
「お待たせしましたっ」
 ユイは紅茶を手に、少しの間、考える。
 内心で苛立ちながらも茂をちらっと見れば、のんきな顔でヘラヘラとしている。
 そのヘラヘラ顔があまりにも間抜けだったから、納得いかないながらも、茂にだけ聞こえる声でユイはぽつりと呟いた。
「………………………ありがとっ」
 その声を聞き逃さなかった茂が驚いて、瞬きする。
 一方、ユイは何事もなかったようにカップを啜り、思いっきり顔を歪めた。
「苦ぁ~~い!! これ、ストレートじゃんっ!」
「す、すいませんっ」
「こんなんじゃ苦くて飲めないっ!! 角砂糖もってきて!」
「お前なぁ~~! どんだけ我儘なんだよっ、そんぐらい自分でやれっ!」
「いいんですよ、宗也。俺が勝手にやってることですから」
 苦笑交じりに茂が言えば、宗也は嘆く。
「お人よし過ぎる、お人よし過ぎるぞっ。そんなんじゃ人生損するぞっ! 茂、目を覚ませ。こんな性悪女に尽くしたってなんのいいこともないんだぞっ?!」
「内藤っ! いったい私のどこに性悪要素があったっていうのよっ!」
「なんだか盛り上がっているみたいね」
 ガチャリと扉が開かれ、マリリーとエンカが部室に戻ってきた。
「ユイと宗也は仲がいいんだ。いつも二人で楽しそ」
「仲良くないぞ(わよ)、エンカ!」
 二人は息ぴったりで、エンカへと猛抗議を入れた。
 その様子にマリリーは苦笑しつつ、本題へと入るべく古びた地図を広げて、みんなに見せた。
「とりあえず指定された場所に探知機を設置してきたわ。これで何かわかるといいのだけど」
「十分よ。…………よし、見つかったわっ。ここよ」
 羊皮紙の古びた地図が瞬く間に光る。光が立体像へと変わり、フォログラムが出現する。
 地図上に現れたのは、三か所。

 一つ目は、現在地である三つ葉高校の旧校舎。
 二つ目は、四つ葉市四つ葉町のクローバ・ビル。
 三つ目は、五区の五龍(いたつ)大学である。

「今現在、境界線が緩んでいるのがこの三か所ね」
「四つ葉ビルに五龍大か。どちらもまぁ近場だな」
 宗也が皆を見て言えば、エンカだけ顔を伏せている。何やら思案している様子である。
「そうね。遠いところから探すより近場から探しましょうか」
「待って、旧校舎の調査は私に任せて頂戴。なんたって、ここの管理者は私なんだからね。あんたらはほかのところ見てきて」
「ポンコツユイに任せて大丈夫なのか……?」
「誰がポンコツよ! 私はあんたの百倍強いのよっ!」と、ユイが頬を膨らます。
「まぁ。彼女の師匠が封印に協力してくれると仰っていたから問題ないと思うわ」
「となれば、ここから始めるか」
 宗也はクローバー・ビルを指さした。
「具体的にどんなことをしていくんですか?」
「まず、冥界と現界の境になってる場所を探すことね。境界線が緩んでる場所には必ず≪世界の歪み≫が存在してる。その歪みを見つけて封印する。魔王の侵入口さえ塞いでしまえば、奴は現界には出てこれないわ」
 ユイは宗也へ忠告するべく迫る。
「ただし、注意なさいよ。歪みあるところに魔物在りっていうお決まりのパターンが存在してるんだからっ」
「またあの化物と遭遇することになるんですか」
「ええ。おそらくは……」
「私はここで旧校舎の封印をチェックするから一緒には行けないけど。マリアとエンカが居れば大丈夫でしょ」
 宗也は、ポリポリと頭を掻きながらに言う。
「足手まといってのは、……どうもなぁ」
「そうは言っても、すぐに魔術が使えるようになるわけないんだからしょーがないでしょっ」
 ユイがツンっというと、部室の扉が突如開かれた。
「魔術は誰でも使えるものだよ。だから君らにだって、すぐに使えるようになるさ」
 室内に入ってきたのは、白衣の少年である。



 ◇



 
 少年はニッコリと笑う。
「二度目の初めましてだね、内藤宗也」
 宗也は、見覚えのない金髪美少年に首を傾げる。
「だれ……?」
 一体いつどこで会ったのか。改めて記憶を探れば、なんと以外な場所にその姿形を見出した。
「もしかして…………、旧校舎のステンドグラスの……?」
 少年は一瞬驚きながらも、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
「確かにこの建物のステンドガラスには僕の姿が模されているね」
 それにしては……と、宗也はこの少年を疑問に思う。
 歴史的建造物から出現したはずなのに、その姿形に本来見られるべき変化がない。
 仮にステンドグラスが大正時代に出来たものであるなら、それはつまり、まったく老いていないということを意味する。
 もっとも魔術という超常現象(ありえないこと)が実証された世界では、そう驚くことでもないかもしれないが。
 宗也が様々な考えを巡らせていると、少年はニコリと笑って自己紹介をする。
「僕の名前はイワン。イワン・ロースタージュ・ディルベルト。みんなからはイワン博士なんて呼ばれてるよ」
 よろしくね、と小さな手を差し出した。
 宗也は一度イワンの顔を見てから、ゆっくりと握手する。
 すると、なぜか悪寒がした。
 恐る恐るとその原因を探れば、手の感触がどうにも人間のソレとかけ離れている。
 硬いというか……異様に細いというか。
 不思議と魔物が封印された十字架を思い出した。
 手袋をしていてその素手は見えないものの、なぜだかあの十字架の感触に似ているように思えてならなかったのだ。
 必然と此の世ならざる感覚に疑問が沸く。
「もしかしてイワンさんは魔物、とか……?」
「え?」と、宗也の言葉にイワンが目を丸くしてから笑う。
「アハハハっ、僕が魔物かぁ~。うーんっ。なかなか良い着眼点だけど、ちょっと違うかな」
 愉快そうにするイワンの横で、マリリーが苦笑する。
「イワン博士はオープン・ザ・アイの盟主。その階級の魔術師にもなると……、確かにみんな化け物揃いね」
「僕なんてまだまだかわいいほうだよ」と、イワンはチラっとエンカを見る。
「博士はこんな見た目でもすっごいお爺ちゃんなんだからっ。手が骨皮だけなのは、そのせいよ」
 宗也は、白の手袋で見えないソレを眉を顰めながら観察した。
「やめてよっ。これでも気にしてるんだからっ」
 イワンは手を後ろに引っ込めて茂へと話題を変える。
「君が寒山、寒山茂だね。……うんうん。君もイイモノをもってる」
 宗也と茂を見比べてイワンは嬉しそうに言う。
「これから生まれてくる新たな魔術師を心より歓迎しよう。ささやかながらこれは僕からの贈り物だよ」
 イワンが取りだしたのは懐中時計と筆。
「宗也くんにはどんな時間をも刻む懐中時計を。寒山くんにはどんな状況でも描ける筆を」
 宗也は奇妙な懐中時計を受け取って、その蓋を開いた。
 中には二十四と刻まれた時計盤があり、三本の針が規則正しく廻っている。
 円盤の数字が十二ではなく二十四なのは珍しいが、それ以外はとくに普通の時計と変わらないように思われた。
 魔術的痕跡を探るも、ユイが持っている魔具のような大層な術式は見当たらない。ちょっとおしゃれなだけの懐中時計である。
 茂のほうも同様で、ただの水彩用の筆に首を傾げる。
「あのっ。これは一体どんな術が使える道具なのでしょうか」
「特別なものには特別な力が宿る」
 イワンが無邪気に笑って、二人に質問を投げかけた。
「では、ただの時計と普通の筆を特別に扱ったのなら? それは特別な物になり、特別な力を宿すようになるだろうか」
 宗也が即答する。
「ならない。動作にはそれ相応の仕掛けがいる。特別に扱ってるだけでは変化はおきない」
 宗也の回答を得て、イワンは茂を見る。
「寒山くんはどう思う?」
「俺は…………、もしかしたら特別な力を宿すようになるかもしれないと思います。……それはきっと心情的なものですが……」
 言葉を濁しつつも茂が答えれば、イワンは二人を見て満足そうにする。
「ふふっ。そっかそっか。なるほどねぇ~。ふふっ、ほんと良い二人だね、花月卿」
 矛先がエンカに向き、イワンはニッコリと笑う。 
(あなた)が選んだだけはある」
 イワンはユイを一瞥してから口を開いた。
「僕らだって初めから魔術が使えたわけじゃない。ちゃんとそこに至る道を通ってる。魔力なきものに魔術は扱えない。だが魔力は誰もが持ってる力。そして時に、人はそれを――――夢を実現する力――――精力や活力――――と言う。僕ら魔術師は、その力の根本を魔力と呼んでいるだけだよ」
 イワンがさらに続けて言う。
「魔力さえ自分の中に見出せば、いとも簡単に術の行使は出来る。君たちなら、ありふたりなものを特別に想う力をなんて名付ける?」
 宗也は一度思案して、ゆっくりと口にした。
「幸運、かな」
「ならその幸運力を鍛えてごらんよ」
 もしかしたらそれが魔力に化けるかもしれないよっ、と、イワンが硫黄色の瞳を細めて笑った。



 ◇



 イワンの助力によって魔脈調査はさらに進み、クローバービルの四階付近に歪みがあることが判明した。
 明日の潜入捜査に備えて、今日はよく休養するように早めのお開きとなったのだった。
 帰宅してすぐ宗也は自室のベットの上で、イワンから貰った懐中時計を眺めていた。
「幸運力と言ってもなぁ~……」
 部屋の壁天井を見上げて現実を思う。
 ゲームじゃあるまいし、神の領域にも等しい幸運パラメーターを鍛えるなんて現実に即していない。
 いや、ゲームですら、今どきは幸運力にむやみやたらと比重を置かない設定になっている。なにせ幸運はいとも簡単にゲームバランスを壊す。
 なかなか上昇しない上に、仮に上昇したとしても盤面を壊すほどの変化を与えないのが、良いゲームバランスの鉄則だ。
「まっ、ゲームルールでいくなら、魔術は幸運力ではなく精神力に由来するのが王道か」
 寝返りをうってからゲームと魔術を関連付ける。
 王道RPGで魔法といえば、MP(マジック・ポイント)に関係するもので、知力精神力に由来するのがお決まりだ。
 宗也は、イワンの言っていたことを思い出す。

 ――――魔力は、――――夢を実現する力、――――精力や活力といったもの。――――ありふたりなものを特別に想う力。

「………意外とゲームと同じで精神力や知力に関係してるものじゃないか、それって」
 一人で疑問交じりに口に出して言ってみる、当たり前だが壁天井は何も答えない。
 だが、幸運力という神が定めし数値よりもよっぽど訓練の対象として現実味があるのは間違いないだろう。
「ふっ」
 宗也は一人虚しく目を背けて笑う。
「自慢じゃないが、精神力も知力も尖ってはいないだろうなっ」
 さらにいうとエンカのように確固たる意思力があるわけでもなく、想像力が豊かなわけでもない。慎吾のように、コミュニケーション能力に優れているわけでもなく、統率力に恵まれているわけでもなし。魔術師気質もなければ英雄気質もない。
 つまるところ平凡で、RPGに出てくる村人Cになれる自信がある。
「それじゃ魔術なんて使えるわけないじゃーん」
 思考を放り投げて、枕に顔を埋める。
 すると、宗也のスマホが鳴った。マリリーからの着信だ。
「もしもし?」
「宗也くん。今平気かしら」
「大丈夫だよ、どうしたの」
「実はっ」とマリリーが早口で用件を告げる。
 要約すると、明日調査に行く予定だったクローバー・ビルで、ここ数日不可解な事件が起きているらしい。
「なんでも願いが叶う石……?」
「ええ。四時四十四分にその場所に行くと、なんでも願いが叶う石に辿りつくという噂話が流行っているんだけど」
 凄い既視感を覚えて、数日前に謎の男(推定:未来の慎吾)からもらった石を見た。
 机の上に置きっぱなしにされてるそれは、依然として普通の石ころである。
「動画があるから、よければ見て欲しいの。何か思い出すことはない?」
 送られてきた動画ファイルを開けば、二人組の男が赤い石に金銭を要求する様子が映し出された。
「この男たちにも赤石にもまったく見覚えがないな」
「……そっか」
 マリリーが落胆したように溜息をつく。
 ふと、宗也は疑問が沸いた。
「…………俺、マリアさんになんでも願いが叶う石の話をしたことあったっけ?」
「え? いえ……ないけど……。ねぇ、もしかして何か知っているの?」
「実は昨日」と、宗也は謎の男から――――なんでも願いが叶う石――――を受け取った経緯を説明した。
 マリリーの声が受話器越しに震えるのがわかった。
「……そ、その男は……ほん、とうに、梅原くんだった、の……?」
「断言はできないけど、俺には慎吾が大人になったようにしか見えなかったな」
 やや自信なさげに言ってから、宗也はマリリーに魔術の説明を求める。
「魔術で時間軸を移動することは出来る?」
 マリリーは息を飲んでから答えた。
「私も詳しくはわからないのだけど……、魔術の多くは冥界の影響を受けているの」
「冥界イコール人の想像世界ってことだよね」
「ええ、そうよ。魔術は冥界に密接に関係していて、人の想像によって創られた術だから、たいていは思いのままに出来る……。だけど、限界なき無限の創造術だからこそ、やってはいけないことも定められているの。その最たるモノが時間よ。時間は三世界で共有してるものだから、天界の神が管理している領域だと伝え聞いてるわ。万が一にでも、人間の勝手な考えで、時間を操る魔術師が現れたら、必ず討伐する掟になっている」
 お互い想うところがあり、黙った。
 先に沈黙を破ったのはマリリーだった。
「実は昨日、私はあなたを殺そうとしたの」
 突然の激白に宗也は言葉を失う。
 動揺する宗也に、マリリーは昨日の放課後の経緯を淡々と説明していく。
「私は魔術連合特殊部隊のエルリズに所属している。エルリズは世界規則(ルール)の番人として、ルールの違反者を取り締まっている組織よ。そしてあなたには嫌疑がかけられた」
「な、なんで? 俺、魔術なんて……」
「ええ。見ただけで分かったわ。あなたはきっと何も知らないって。だけど……、あなたにかけられた嫌疑は二つ。一つはイワン博士が創り出した現界の秘宝≪賢者の石≫の窃盗罪、そしてもう一つは――――時への関与の疑いよ」
「俺がタイムトリップして盗んだってこと……?」
「詳細なことはわからないわ。でもシカク様が仰ったからには相応の確信があったのだと思う」
「ちょっとまって! もしかして、俺の記憶が一部なくなったのって……、時間が巻き戻ったから……?」
 宗也がややパニックになって言えば、マリリーは冷静に否定する。
「いいえ、貴方の記憶はイワン博士の術によって消されたの」
「ちょ。あいつ人畜無害な顔してチャッカリそんなことしてたのか」
 マリリーは少しばかり悩んでから、小さく言う。
「……ずいぶんと強行手段を使って記憶を引き出したという話だから。忘れたままでいたほうがいいわよ」
「わかった。忘れる」
 宗也はあっさりと記憶を放棄した。
 気にならないわけではないが、あの細い手の感触には、何か知らないほうがいいこともあるのではないかという気がした。
「私たち魔術師には時間に関与する術はないから。……多少横暴なことをしてでも、逃がすわけにはいかなかった」
 マリリーはさらに弁明する。
「シカク様は私に貴方の処刑を命じられたわ。それは正式なエルリズの意向ではないけれど、私はシカク様を信頼している。何よりアラン卿がわざわざ日本の学校を勧めたからには何かしらの意図があるのだと思ったわ。御二人のご意向を察して、私はあなたの処刑を強行することを選んだ。例えそれで私が断罪されることになったとしても…………。世界秩序を守ることが私たちの役目だからっ。………だけど」
 数秒の沈黙が生まれた。
 マリリーがゆっくりと声のトーンを下げて言う。
「花月卿が現れて、その嫌疑に異議の申し立てをなさったの。その結果、あなたの疑いは晴れたわ」
「エンカは魔物に襲われたって言ってたけど……」
「……ええ、魔物にも襲われたわ。さんざんな目に遭った」
 マリリーは自嘲して、言葉を漏らす。
「花月卿にやられて瀕死だった私をあなたが庇ってくれたのよ」
「え?」
「卿は、私を庇ったあなたが大怪我をして、ひどく動揺なされていたわ。……魔導士様があんなに動揺するなんて初めてみた」
 少し意外だったわとマリリーが小さく付け加える。
「そのあと、トウダ先輩らがあなたと私とその場にいた民間人とを捕縛して、今件に関して、盟主様たちの間で議論が行われたの。その結果―――――」
 ごくりと宗也は息をのむ。
「あなたは賢者の石の窃盗にも時への関与にも無関係。ただの民間人として無罪を言い渡された」
 正直、宗也は落ち着かなかった。
 先ほど伝えた話は、おそらくマリリーに再び疑念を抱かせただろう。
「マリアさんは俺のことをまだ疑ってる?」
 宗也の言葉にマリリーはなんとも答えない。
 やっとのことで返ってきたのは、エンカの話である。
「…………魔導士と呼ばれるだけあって花月卿も立派な方よ。私も卿を信頼したいと思う。シカク様の言葉を疑うわけではないけど、……どうしていいかわからなくなったわ」
 マリリーは小さく息を吐いた。
「この件は私の胸だけに留めておくわ」
 粛々と告げられ、宗也はなんとなく視線を反らして窓の外を見た。
 すると、見知った人物が目に留まった。
 ツインテールだ、ピンクのツインテールがこちらを見ている。
 窓の外からユイが何やら必死になって宗也に合図を送っている。
 いったい何事かと慌てて窓をあければ、怒声が響いた。
「内藤っ! あんた、どんだけ長話してんのよっ!」
 ユイが超跳躍(ハイジャンプ)して、2階にある宗也の部屋へと侵入してくる。
「お、おいっ! 勝手に入ってくんな。土足であがるなっ」
「私だってこんなとこきたくて来てるわけじゃないのっ!」 
 ユイは宗也を睨みつけて、その手からスマホを奪い取る。
「マリア、あんたもよ!」
「ユイ? ……もしかして何かあったのか」
「ええ、あったの! 大事件がありました! それなのにあんたら呑気に話し込んでるんだもんっ。困っちゃうわよね! それで本当に騎士様なわけ?」
「悪かったわ。それで一体何があったの」
「三つ葉高校(うち)の生徒がクローバー・ビルに行ったきり帰ってきてないらしいのよっ! 件の噂話を信じて出かけたって話なの。さっき親御さんらから連絡があってトウダ会長は対応に追われてる。エンカは寒山連れてクローバー・ビルに先にいってるわっ」
「歪みで行方不明者ね……、了解。今からクローバー・ビルへ向かうわ」
「ええ。そうして頂戴」
 ユイは一通りマリリーとしゃべってから電話を切った。
「あんたも今からクローバー・ビルに向かって」
「おいおい。こんな時間にか?」
「当たり前でしょっ。こんな時間もあんな時間も、朝も昼も夜もないのッ! 時間は待ってくれない。のんびりしてたら悲劇は防げないのよっ」
 ユイがビシっと言う。
「あんた。災厄を回避する英雄だって自覚、ないわけ?」
「英雄って……」
 一瞬戸惑うも、宗也はすぐに首を振った。
「悪いけど、そんなんじゃねぇよ。俺には何の力もない」
「力なんてのは勝手についてくるもんなのよ」
 ユイは宗也を睨みつけて、さらに言う。 
「私だってあんたみたいな足手まとい、行かないほうがマシだと思う。行ったってどうせ邪魔にしかならない。……だけど、それじゃあだめなの。あんたじゃなきゃ止められない悲劇もあるのよ」
「……どういう意味だ?」
 怪訝な顔で宗也が訊ねれば、ユイはプイっとそっぽを向く。
「教えるわけないでしょっ。私、あんたのこと大っ嫌いなんだからっ」
 ユイはツインテールの髪を靡いてから、腕を組んだ。
「あとは内藤次第よ。どう生きるか、どうしたいか。それは自分で決めなさい。この物語の主人公はあんたなんだから」



 ◇



 ユイに急かされるようにして家を出た宗也は、クローバー・ビルに向かう途中で、その異変に気付いた。
 クローバー・ビル周辺は、うっすらと甘い香りが漂っており、その微香の中には仄かな血生臭さが混じっている。
 近づけば近づくほど、錆びた鉄の嫌な臭いが増してゆく。だんだんと瘴気が色濃くなるにつれ、生々しさを帯びてゆく。
 思わず、口を覆った。
 血肉の香りは、心を浸蝕するには十分で、尋常じゃない事態がこの先待ち受けているのは明白だった。
 咽かえるほど強烈な血の臭いに吐き気を催しながらも、宗也は目的地へと到着し、すぐに此の世ならざる光景に絶句した。
 クローバー・ビルは悍ましい魔物に襲われていた。
 赤黒い触手のようなものがまとわりついており、内部からはうっすらと悲鳴が聞こえてくる。
 触手は気色悪い不規則な動きを繰り返し、その様といったら、先日みた黝い魔物と比較にならないほどにグロテスクである。
「……っ」
 ブニョブニョとしたゲル状の中で、ちらりとナニカが浮かんでいるのが見えた。……いや、見えてしまった。
 半透明の魔物の体内には、見てはいけない何かが入っている。見覚えのあるナニカが入っているのだ。いや、見たことはない。見たことはないのだが、確かに見たことがある何かが入っている。
 すぐさま脳が警鐘を鳴らす。宗也は堪えきれずにその場で吐いた。
「宗也君っ!」
 先に到着していたマリリーが駆け寄ってくる。
「だ、大丈夫ですか……?」
 宗也同様にげんなりとしている茂が心配そうに宗也の背中を摩った。
「……ありがと、ちょっと落ち着いた」
 宗也は、改めてクローバービルへと視線を向ける。
 クローバー・ビルは、赤黒い物体に侵食されつつある。
 気味の悪い触手がビルにまとわりついており、本体らしき部分が四階からはみ出ている。
 触手は不規則ながらも一貫した動きを繰り返し、加えて、この名状しがたき生物の何より悍ましいのは、時折内部が透けて見えることだ。ところどころに首が見え、腕が見え、人の……いや、ナニカの肉が見えた。
 肉の塊をふんだんに蓄えているソレは、さらなる獲物を求めて、徐々に外へと這い出そうとしているのだ。
「一体、何をどうしたらこんな化け物が生まれるのかしら」
 マリリーが溜息交じりに言えば、エンカが答える。
「人の創造とは厄介なものだ。意図せずして、怨みを形にしてしまう」
 エンカは影より蠢く杖を召喚して身構えた。
「私はこの子の浸蝕を食い止める。君たちは中に入って生存者の救出に向かってくれ」
「このビルの中に入るんですか?!」
 茂の悲鳴にも似た声を遮るように、マリリーが頷く。
「わかった。私一人で」
「ダメだ」
 マリリーが言い終える前に、エンカが制止する。
「宗也と寒山も一緒に連れてってくれ」
「非常事態よ。これだけ人を喰らった魔物相手に彼らは連れていけない」
 エンカとマリリーが互いに見つめあっていると、ちょうど一人の少年がビルの前で立ち止まった。
「これは……」
 宗也は、その少年に奇妙な既視感を覚えた。
 どこかで逢ったような気がする。
 記憶を探る宗也の横で、エンカがぽつりとその名を呼んだ。
「雷三」
 雷三と呼ばれた少年は、あいた口が塞がらないのか。化け物とビルとを呆然と見上げている。
「これは魔物だよ」
「それにしては……」と、雷三は信じられない様子で、エンカと赤黒いソレとを見比べてから弱く云う。
「ひよこが帰ってきてないんだ……。気配を辿ってきたらこの場所にたどり着いた」
 エンカがゆっくりと目を閉じる。
 その時、宗也は肌身でその異様さを感じた。
 この世界的異変をなんと名状しようか。
 漠然とした言葉でいうならば、何か世界全体が揺らいだような気がした。
 エンカは目を開けると同時に、苦しげに胸へと手を当て、答える。
「……っ。中にいる。だがこの先どうなるかはわからない」
 雷三は拳を握りしめて、強く問う。
「生きてるんだな?」
「ああ」
 こくりとエンカが頷けば、雷三は迷うことなくビルへと進んでいく。
「雷三!」その背中めがけてエンカが叫んだ。
「宗也も連れてってくれ」
 雷三が宗也を見る。
「一緒に来たいか?」
 強い口調で問われて、宗也は息を飲む。
 行きたいか行きたくないかと聞かれれば、正直なところ行きたくはない。
 だが、……別れ際のユイの言葉が頭に浮かぶ。
 時間は待ってはくれない。残酷だが、今死にそうな人を助けられるのは今しかない。
 ――――自らの手で止められる悲劇があるならば、止めたい。
「あぁ、行きたい」
 雷三は、決意に満ちた瞳で頷いた。



 ◇


 
 宗也、茂、マリリー、そして雷三の4人は建物内部へと入っていく。
 幸いにもエレベーターは稼働しており、すぐに四階に到着することが出来た。
 しかし、四階には赤黒い魔物の姿はなく、また動画内に写されていた赤石の気配もない。なんの異常もないフロアがあるだけだった。
「この建物は何か細工されているな」
 言うや否や、雷三は仕掛けを探るべく壁を調べ始める。すると、すぐにソレを指さした。
「これだ。この術式が邪魔してて中に入れなくなってる」
 雷三が指さした場所には、三つ葉のクローバーの模様が描かれていた。
「……厄介な術式ね。これを解除するには時間がかかるわ」
 宗也は茂を見て、訊ねる。
「何月生まれだ?」
「え? ……えーっと、十二月です」
「マリアさん」
 宗也が茂の横に立って、云う。
「幸いにも俺と茂は、同じ年月産まれの同じ身長だ。時間は違うが、もしかしたら掲示板に書いてあったやり方で中に入れるかもしれない」
「待って。二人だけで内部に入るのは危険よ」
 宗也は小さな雷三を一瞥して、その肩に手を置く。
「でも、生きている人がこの中にいるかもしれないんだろ」
 マリリーは顎に手を置いて思案を重ねてから、溜息をついた。
「わかったわ。だけど約束して。絶対に無理しちゃだめ。やばいと思ったら何がなんでも逃げること。いい?」
「ああ」
 深く頷くと、くいっと引っ張られた。
 見れば、雷三が宗也の袖を掴んでいる。
「あの石は持ってきたか?」
「ん? ……もしかして、これのことか?」
 家を出る時、なんとなく持ってきたあの石、謎の石――――なんでも願いが叶う石――――を雷三へと見せた。
 雷三は石の上に指で文字を記して祈る。
「万が一にでも危なくなったら、神を信じろ」
 健気に云う雷三に、宗也は柔らかく笑った。
「ああ。大事にもっておくよ」
 ユイから預かった魔具と、イワンから貰った懐中時計、そしてなんでも願いが叶う石を持って、宗也は茂とともに例の方法で、再び四階へと昇ってゆく。
 到着を告げる音が鳴り、エレベーターの扉が開かれれば、先ほどとは一転して異様な光景が広がっていた。
 天井も壁も床も、まるで化け物の胃の中のように赤黒いナニカに包まれている。
 まばらに人間が倒れており、入口すぐには一人の女子生徒が横たわっていた。
「おいっ、大丈夫か」
 急いで近づき、息があるかどうかを確認する。
「……ぅ……っ。ここは……?」
「クローバー・ビルだ。立てるか?」
 目が覚めた女の子に肩を貸した。
「あ、……はいっ……って、しゅっしゅっ宗也くんっ!?」
 口をパクパクとさせる少女に、宗也はもちろん見覚えがあった。
「あれ、もしかして式枦さんっ?」
 ひよこはコクコクと激しく頭を振って同意する。
「ちょ、あんま激しく揺さぶっちゃだめだよ。ってか、大丈夫? 顔すごい真っ赤だけど」
 目をぐるぐる回しながらひよこは謎のガッツポーズをする。
「はわわわ……っ。だ、だだだだいじょうぶですっ。わたし、これでも大腿筋はしっかりしてるんで!」
「大腿筋?」
 何を言いたいのかよくわからないが、ひとまず彼女は無事らしい。
「まぁ……元気そうでよかった」
 宗也は顔を引き攣らせつつも、ひよこをエレベーターへと促す。
「とにかく、急いでここから脱出したほうがいい。立てるか?」
「ま、まってください! まだ友達がいるんですっ」
 ひよこはここに二人で来た経緯を途切れ途切れになりながらも説明する。
「噂を聞いて二人でこの場所に来たら……、思いのほか大勢の人が居て。それで順番待ちをしてたんですけど、急に真っ赤な光が起こって、……突然赤黒い触手が現れてみんなを…………っ」
「それじゃあ里奈さんはまだこのフロアのどこかに?」
「はい。おそらくは……」
 宗也は周囲を見渡した。
 まるで怪物の胃の中のような異様な空間が広がっており、時折それらがドクンと脈打つ。
 ところどころには人が倒れていて、中には……無残な遺体もあった。
「ひっ……!」
 ひよこは死体と目があったのか、肩を震わした。
 怯えるひよこの前に立ち、宗也はそれらが見えないように視線を塞ぐ。
「とりあえず里奈さんを探してみようか」
「そうですね。どこかにいるかもしれません。行きましょうか、宗也」
「わ、わたしも一緒行きたいです!」
「危ないからひよこさんはここで」
「友達なんですっ……! 大事な友達なんです。こんな状況でじっと待ってるだけなんて、出来ないです……っ!」
「……わかったよ、一緒に探そう」
 宗也と茂が互いを見遣れば、ちょうど二人の影が蠢いた。
『宗也、寒山。無事かっ!?』
 影を通してエンカの声が聞こえてくる。
「エンカか?」
『ああ。二人だけで中に入ったんだな』
「まぁな。とりあえず本体が居そうな場所には着いた。それと多分、雷三が探してた子も見つかったよ」
『そうか……。今、マリリーたちが術式の解除を行っているんだが、どうにも時間がかかりそうだ。そっちに要となる魔法陣があるはずだ。それを見つけて、魔法陣を消してくれ。そうすれば二人もそちらに行ける』
 エンカは強い口調で云う。
『間違っても赤黒い魔物に手を出しちゃだめだぞ。刺激したらいけない。危ないと思ったらすぐに逃げてくれ。それと、ユイから渡された魔具は持ってきたか。それを影の上に置いて欲しい』
 宗也はポケットから四角い箱を取り出し、云われた通りに置いた。
 すると、蠢く影が箱を包み込み、黒い光を発する。同時に、箱に刻まれた術式が鮮明になり、闇を帯びた。
『これを持っていれば、とりあえずは怪物にバレずに移動できる。絶対この魔具から離れないでくれ』
 宗也に捧げるように実態化した影が箱を差し出す。
『術の範囲はそこまで広くない。固まって行動するんだ。触手に触れられても、むやみやたらに動かないこと。いいね?』
「わかった。なぁ、エンカ。里奈って子がいるんだが、その子の場所はわかるか?」
『……探してみるっ』と言葉の後に、また世界中の影がわずかに揺らいだ気がした。
 その一瞬の異様さに、宗也は背筋が冷たくなる。
『っ……はぁ、……その場所から見て、一番奥の部屋にいるよ。たぶん赤石が置いてあるフロアかな……。ただ、なんだか様子がおかしい。気を付けてくれ』
「おーけ、わかった。んじゃちょっくら救出作戦といきますか」
『魔法陣の解除が1番だからなっ!』
「わかってるよ」
 宗也たちは立ち上がり、奥へと進んでいく。



 ◇



 歩けど歩けど屍が続いていく。
 入口の近くでは人の形を保っていたけれど、奥に進めば進むほどに屍は血肉と化しており、人体と形容することが難しくなっていく。
 鉄の錆びた臭いが鼻孔をくすぐれば、背けたくなる現実が否が応でも目に入る。
 目玉があった。生気を失った目玉がじっと宗也を見ており、それは徐々に赤黒い物体の中に埋もれてゆき、まるでそのさまは怪物の一部になってゆくようだった。
 宗也は、悲惨な光景を前にして一つの可能性に辿り着く。

 ――――此のバケモノは人の血肉によって実態を得ている。

 この赤黒い物体は、おおよそ此の世界に本当に実在するのかも怪しいほどにぼんやりとしているのだが、屍がただの肉と化せば化すほど、その姿形は鮮明になっていく。血だまりがあるところでは、魔物は活発に脈を打つ。目玉が取りこまれた箇所は、色濃く世界に存在する。入口部分とは、そのリアリティがまるで違う。

 ――――空想が人の血肉を得て、現実を侵略している。

 嫌な汗が出て、つい額を拭った。
 すると、化け物の一部と化した眼玉が宗也を見た。
 思わずギョっとする。先ほどの死人の目玉は、今やキョロキョロと周囲を見渡せるほどに、不気味な生気を帯びていた。
 つい宗也はユイから託された魔具を握りしめる。
 目玉は新たなる同胞を探しているのか、必死になってあたりを見渡す。 赤黒い怪物の中に埋もれていた死骸の耳が、ピクピクと動く。
 宗也たちの足音に気づいているのだろうか。魔物は執拗に宗也らを探しているようだった。
 だが、魔具の力によって守られている宗也たちの姿形を捉えることは出来ず、すぐに別の場所へと移動する。
 幾度の恐怖に駆られながらも、宗也らは魔物に見つかることなく、無事に件の赤石が置かれている部屋の前にたどり着いた。
 扉を開けば、眩い赤黒い光が差し込む。
 燦々と光り輝く赤石に圧倒されていると、か細い女の声が響いた。
「お会いできて光栄です。内藤様、寒山様。そして式枦様」
 シルクハットをかぶったスーツ姿の女性が赤石の隣で悠然と佇んでいる。
 彼女は宗也らを見るや否や笑った。
 その無邪気な笑みは、その真赤な瞳は、どことなくエンカに似ている。
 呆然とする宗也の横で、ひよこが叫んだ。
「里奈ちゃんっ!」
 里奈は、赤石の前で跪いて、ぶつぶつと何やら呟いている。
「そ、その子に何をしたんですかっ!」
 茂が声を張り上げて訊ねれば、スーツ姿の女性が答える。
「いいえ。私は、何もしておりません」
 余裕の笑みを浮かべる女の近くには、難解な魔法陣が描かれており、その手には三つ葉模様の教典がある。
「ヴィーチェとかいう組織のメンバーか」
 謎の女性はただただ笑みを浮かべているだけで、返事はしない。
 女と一定の距離をとりつつ、ひよこが再び叫んだ。
「り、里奈ちゃんを返して!」
「返すもなにも、彼女は元より自由です」
 里奈は口元をうっすらと動かして、ずーっと上を見上げている。
 ひよこが里奈のもとへと駆け寄って、その肩をゆすった。
「里奈ちゃんっ! しっかりして」
「…………で…、かな……て。な……でも、…………かなえて。願い、を叶、えて……」
 里奈の瞳にはほとんど光がなく、道中に見たあの眼玉と変わらない異様さがあった。
「彼女は此の世界が嫌になってしまったんですね」
 女が天使のような優しさで微笑みかける。
「さぁ、この現実を滅ぼしましょう。思い通りにならない世界なんて、いらないでしょう?」
 パチンと指が鳴れば、風が舞う。
「ああ、どうして世界は、こうも人の願いを阻害するのですか? 人の世はなんて不公平なの? 誰もが自分の願いを持ちながら、その全ては達成できないことを知っている。あぁ……、なんて憐れな仔羊たちよ。私は、貴方たちを救いたい。あなたたちの(願望)こそ本来現実と成るべきなのに」
 風が上へと吹く。見上げればそこには虚無があった。
「創造こそ力なり。力こそ形なり。形を以て現になれ」
 虚無がぐるぐると回り始める。
「人の願いこそ何よりの創造物。なぜ、現界のボンクラどもはそれを阻害するのでしょうか。人の夢を(うつつ)に表す者がなぜ迫害されるのです? 人は無限の力を有してる。無限の此の世界に限界を与えるなんて………、天神も魔導士も狂っています」
 渦海と化した天の虚空から異形の巨腕が伸びてくる。
 宗也らを握りつぶそうと、その手を伸ばしている。
「創造は血を欲している。形になりたくてウズウズしている。さぁ、あなたも、この忌まわしき限界を破る力になって、その夢を叶えてください」
 赤黒い巨腕が虚無からこちら側に迫ってきたとき、――――蠢く影が侵入口を塞いだ。
 女から一瞬にして笑みが消える。
「…………カーエン」
『宗也! 魔法陣を消せ! 早くっ!』
 宗也は急いで駆けだし、女の近くにある魔法陣の一部を足で消した。
 すると、この部屋を覆っていた赤黒い物体がうねうねと意思をもって動き始める。
 触手から悍ましい目玉が現れ、ひよこと茂をじーっと見た。
「やばいっ!」
 姿消しの魔具は宗也の手にあり、その効果範囲から外れた二人は、魔物の標的となってしまったのだ。
「……あらあら」
 女は再び歪んだ笑みを浮かべる。
 その視線の先では、ひよこと茂が触手の群れに囲まれている。
「ひっ――――!」
 血肉を欲する触手が勢いよく二人へ襲いかかった。
「くそっ――――!」
 宗也が駆け出すも間に合わない。
 無理だとわかっていても、届かないと頭では理解していても、咄嗟に手を延ばした。
 ……手を伸ばさずにはいられなかった。
「止まれぇぇぇえええ――――っ!!」 
 鼓動が鳴る。
 力いっぱいに、不可侵の領域に手を伸ばす。
 一秒一秒がまるでアニメのコマ送りのように視える。
 触手が迫る。時計が回る。二人が動く。女が笑う。
 ドクドクと脈打つ胸の内に合わさるように、チクタクと脳裏に音が宿る。
 なぜだろうか。
 宗也には円盤が見えた。此処にはないはずの、どこか遠いところで眠っているはずの、色を失いつつある時計が見えた。
 円盤には二十四の数字が刻まれており、三本の針が絶え間なく廻っている。
 ちょうど三針が重なるとき――――、全てが色を失くした。
「あれ……?」
 周囲は、しんっと静まり返る。
 先ほどまで生気を帯びていたはずの、すべての生き物が止まっている。
 女も動かず、茂も動かず、ひよこも動かず、触手も止まったまま。
 全てが静止する中で宗也だけが存在している。
「…………もしかして……」
 宗也はすぐに首を振った。
 今、この現象について考えるよりも茂たちを救出するのが先だ。
 触手の群れを掻き分け、二人の手を引いて部屋から出ようとしたとき――――。
 時計が動く音が聞こえた。すると、すぐさまあらゆるものの色が浮かび上がる。
 元に戻ったひよこが目をつぶったままに、思いっきり叫ぶ。
「きゃぁぁぁっ……んぐっ?!」
 宗也は大慌てでひよこの口を手で塞ぐ。
「落ち着いて。大きい声だすと奴らにバレる」
「んーんーんーーっ! んーっ……っっっ!! ……っっっっ?!」
「どどどどどして宗也がここにっっ」
 状況を呑み込めない茂が困惑しながらも周囲を確認すれば、ちょうど触手たちの会心の一撃が空を切った。
「た、助かった……っ」
「みたいだな」
「…………うそっ。なぜ? あなた……いったいなにを……っ?」
 女は信じられないといった様子で眉を顰めて、宗也を見遣った。
「内藤宗也。あなたはナニモノですか……?」
『さぁ、いったい何者だろうなっ!』
 突如、蠢く影が沸き起こり、謎の女を捕縛した。
「久しぶりだな、ナイラート」
 エンカが雷三とマリリーと共に颯爽と現れ、武器を構える。



 ◇



 その真赤な瞳に映るのは、同じ赤い瞳を持つエンカだけだった。
 ナイラートは、足を蠢く影に捕縛されながらも、シルクハットを深く被り直す。
「カーエン。なぜあなたは仔羊の願いを邪魔するのですか」
 エンカは影蠢く魔杖をナイラートへと向けて、答える。
「現実と乖離した創造を現界に当てはめれば、それは当然歪みを生む。ナイラート、人の願いにも種類があるんだ。なんでもかんでも現界に持ち込んで良いわけではない」
「嘘」
 ナイラートは無表情のままに云う。
「魔術を使っているのに、他人の願いを阻害する理由を述べるのですか。……カーエン。あなたまで創造主の息子たちから力を奪う気なのですか?」
「ナイラートっ! 現実を見ろ。人を襲うために冥界から魔物が出現してるんだぞっ」
「だから何です」
 ナイラートは不思議そうに首を傾げて問い直した。
「人間が同族殺しをするなんて、いつものことではないのでしょうか」
「それは違うっ! 人は平和を愛している。争いはよくないことだろう!」
 エンカの言葉にナイラートは眉間に皺を寄せて、真摯に問いかける。
「カーエン、あなたのほうこそ歪みなきこの事実を見て下さい。人間たちの心を見て下さい。彼らは常に争いを欲しています。血肉を頬張ることを好んでいます。他者より優れることを望んでいます。それなのになぜ彼らの願いを邪魔するのですか」
 ナイラートは、深紅の瞳に光を宿して、恍惚とした表情で語る。
「これだけ多くのモノを想像しうる人間たちの力は素晴らしい。人は空を飛べません。しかし今、人は翼で空を駆けるようになりました。本来翼無きものは飛べないはずなのに……、飛んで移動できるようになったのです。ああ、この素晴らしき人間たちをなんと形容しましょうか。創造主の子らが形成する無限なき結晶体は、世界にとっての輝きです。人の創造によって全てのモノは産まれ出る。なのに、なぜ、あなたはそれらが現実から乖離してるなどと断言できるのでしょうか? 冥界より現れる魔物もまた、決して現実から乖離しているものではありません。人の子の、心から生まれ出る結晶体なのです。この素晴らしい赤子に、なぜあなたが勝手に定めた善悪で、好し悪しの判断をするのですか。なぜ魔連の基準で罪なき子らが裁かれなければならないの?」
 ナイラートは美しい深紅色に染まった唇をゆっくりと動かし、エンカへと微笑みかける。
「ねぇ、カーエン。創造主の息子らが創り上げたこの世界を、あなたはもっとよく見るべきです。偽りの天によって(閉じこめら)れたこの大雲に、この久遠なる宇宙(そら)と、無限の可能性に溢れているこの大地を。何一つ、定まっていない。無法無秩序な世界こそ本来の姿なのに……。それなのになぜあなたは、人の可能性の道を塞ぎ、善悪の奴隷と化すのですか」
「……君が天を語るか」
「はい。私もまた天の意思の一部なので」
「君の言う素晴らしい人間たちを、クローバーは滅ぼそうとしているんだぞ」
「彼は……、人間たちに対する優先順位が低いだけで、滅ぼしたいとは思っておりませんよ」
 エンカは目を伏せて、赤黒い魔物を見た。
 異形となった人の創造物は狂気を孕んで、肉を欲している。新たな餌を求めて、今なお地上への侵略を企てる。満たされることのない虚無な空想から、限界が存在する現実へと這い出そうと必死に藻掻いている。
「命は、……尊いものだ。むやみやたらに奪っていいものではない」
「カーエン」
 ぽつりと、ナイラートが言う。
「あなたは同じ口で魔物の命を奪うのですね。そしてやはり人間は命より快楽を優先させたがる。人間として生きている貴女は、まずこの事実と向き合うべきです」
「ハッ――――!!」
 掛け声とともに、マリリーが剣を抜いて斬りこんだ。
 閃光はいとも簡単にナイラートの体を貫く。
「あらあら。人よ、なぜ私に剣を向けるのですか」
「ヴィーチェの、ナイラート・ホルラッテルだな」
「はい。お会いできて光栄です。聖女のマリリー・マリア」
 ナイラートの傷口からは、ポロポロと闇が零れ落ちてゆく。
 血の代わりに溢れ出ている闇が、彼女の瞳からも滴り落ちる。
「ああ。悲しい、とても悲しいです。アランの弟子よ。もはや聖女までもが血を厭わなくなったのですね。一体どこでアランは間違えたのでしょうか。ああ、聖女マリアよ。あなたは本当に聖なる神をご存じなのですか。救世主の母と同じ名を持つあなたがなぜ剣を握るのでしょうか。慈悲が進化の根本に屈するなどやはりあってはならないことなのでしょう」
「……な、なんだ。こいつッ」
 エンカが強く警告する。
「ナイラートの言葉に耳を傾けちゃいけない。ひどい狂言だ」
「あはは。私は何も間違っていないのに。ひどい、ひどいですよ。カーエン。私たち同じものから生まれた姉妹なのに」
 深紅の瞳は歪み、闇の涙が床に広がる。その闇泉より漆黒の光が発せられる。暗黒より現れし無数の手首がナイラートを拘束していた蠢く影に触れると、その影が石化してボロボロと剥がれ落ちてゆく。
「ああ。同胞よ、どうして私たちは同じものから生まれ出たはずなのに、こうも違う道を歩むのでしょうか」
「……………望む世界が違うからだ」
「しかし、同じ世界に生きている」
 エンカは涙が枯れたナイラートの深紅の瞳をじっと見て云う。
「私は人の(欲望)を欲しない」
「ああ、なんて愚かな姉妹よ。人は争いにより進化するというのに……、なぜ? なぜ? なぜ? なぜなのでしょうか。名前を変えると心まで変わってしまうの? そんなバカげた話があるならば、なぜスぺードはいまだにあのように無様なのでしょうか。ああ、聖なる神よ。私たちはあなたから生まれた同じ存在なのに。なぜこうも違った道を歩ませるのですか。あぁ……なんて惨いことっ。世界を愛する心は何も変わらないというのに、こうも違うなんてっ! はぁ……、悲しすぎて笑えてくる」
 ナイラートは、赤石へと手を翳した。
「聖女マリアよ。赤石(これ)はあなたにお渡しします。血を吸いし魔石はよく育ちますよ。アハハッ、どうかアランによろしくお伝えくださいね。此のナイラート、あなたがた聖なる神の下僕(げぼく)の繁栄を切に願っておりますので」
 赤石が輝く。あたり一面が真っ赤に染まり、視界が奪われる。
「クッ! 待てっ、ナイラートッッ!」 
「いやですよ、カーエン。人の願いを否定するあなたの話を、なぜ私は聞かないといけないのでしょうか。ああ、また逢いましょうね、聖女マリア。それに――――内藤宗也」
 赤い光の中で、宗也が見たものは、人を惹きつけてやまない淫靡な女の、狂気を帯びた笑みだった。

第七章


 太陽の光を浴びながら、雷三はその青い壁を見つめた。
 確かに此の世界には天井(げんかい)が存在する。
 天の落し(大気)は人の住む領域を定めている。
 無論、人だけではない。樹木、鉱物、獣に虫に。息ある者全て、天壌の(しくみ)の一部であり、それが故にこの世界は存在している。
 例え人がそれに気づかなくても、生きとし生ける者全て、宇宙の律の中で生きており、その律を編んだ宇宙が生物を想うのは、つまりは我が子を思うのと同じである。
 太陽の子供たち、月の兄弟姉妹たち、そして大地に住まう大人たち。

 ―――――みんな、宇宙が作った宝物。

 大事な宝物を守るため、時に宇宙の住人たる太陽は人に勇気を授け、月は深い愛を与え、そして大地は多くを育む。
「なんて素晴らしき世界だろう」
 自然と雷三は賞賛が出ていた。
 この地球という箱庭について深く想えば、妙に優しい気持ちになってくる。
 太陽の光を浴びていると心も温かくなってくる。
 こんな穏やかな月日の巡りに、一体なんの不満を抱こうか。
 晴天を前にして悪略を抱くは難しい。
 雷三が穏やかに天を見上げていると、一つ、キラリと光った。
 目を凝らしてみると、青壁(たいきけん)に向かって突進するものがある。

 ――――ロケットだ。

 煙焔をあげて自らを浮上させんと物質の塊が雄たけびをあげている。
 ちょうど時つ風が吹いた。
 止んだと想えば、次には桜の花びらが巻き上がった。
 春の香りがする。萌芽の息吹きを感じる。されども、花片はゆらゆらと落ちていく。
 桜が舞う中で見守っていれば、人智の結晶体は青壁を超え、太陽の方角に向かって旅立った。
 雷三は、昨日遭遇した魔物を思い出す。
 現界を求めて這い出してきた魔物と、この世界の限界を越えんとする人間。
 双方はどこか似ていて、……なぜだろうか。
 妙に悲しく思われた。
 この完成された天地を前にして、なお人々の探求は止むことがない。その事実が今この瞬間、広々とした地球を少しばかり息苦しくした。
 なにがそこまで人を駆り立てるのか。天界に住む雷三には人間のことなどよくわからない。
 人が正しいか間違いか論ずることなど到底出来ない。
 ただただ脳裏に浮かんだのは、自らの師である仙龍の言葉だった。
「まごころ、かぁ」
 しみじみと言って、その正体を探るべく地を歩み始める。



 ◇



 宗也はパソコンの電源を入れた。
 ニュースサイトで昨夜の魔物騒動の記事を探してみるも、一向に見当たらず、つい溜息が出る。
「あの後、どうなったんだろ……」
 ネットサーフィンをしながら昨晩の出来事を思い出す。
 ナイラートと呼ばれた女が消えた後、エンカとマリリーそして雷三により、迅速な魔物討伐が行われ、現界の脅威は消え去った。されど、人の血肉はそのままで、ひよこの友人である里奈も決して正気に戻ることはなかった。
 遅れて到着したイワン博士率いる白衣姿の集団が、ナイラートが残した赤石と、壊れたレコーダーと成り果てた里奈を回収していったが……。
「あんなに人が死んで報道すらされないなんて」
 昨日、少なくとも宗也は数十人の惨たらしい死骸を見た。
 肉だけとなった屍にも家族がおり、友人がいて、暮らしがあった。
 人命が失われたにも関わらず、世間はいつも通り、アイドルのゴシップやら国家政策の論評やらに明け暮れている。
「はぁ……」
 この当たり前すぎる日常に、また一つ溜息が出る。
 魔術という超事象を知り、魔物という宇宙的脅威を目の当たりにした今、この平和的世界に疑問を抱かずにはいられなかった。
 変な焦燥感を覚えて、ひたすらに情報を漁っていると、ちょうど一つの記事が目に留まった。
 学生の集団自殺だ。
 記事には、喧伝的な見出しとは違い、幸いにも未遂で終わった狂気的な顛末が事細かに記されている。
「…………はぁ」
 また、嫌な溜息が出た。
 生きたくても生きられない人が居る一方で、死にたくても死ねない人がいる。
 正直、皮肉だと思う。どうしようもないほどの、皮肉。
 此の世界は、こんなにも命が軽かったのだろうか。
 改めて世界というやつを振り返れば、確かに世界はちっとも平和なんかじゃない。
 現に今、見てるニュースサイトには殺人事件や誘拐事件の見出しが羅列されている。
 強盗、災害、テロ。こんな不穏な世界を平和だと錯覚していた自分自身に眩暈がする。
 ただ自分の前に悲劇がないから、自分には関係ないから。

 他者の惨劇に無頓着になっているのだとするならば――――。

「よしっ」
 沈みゆく気持ちを鼓舞するように宗也は立ち上がった。
 こんなところでグダグダ考えてたってしょうがない。
 うじうじと悩んでいるより、前を向いたほうがよっぽどいい。
 宗也は身支度も早々に家を出て、街へと向かう。
 すると途中、見知った顔を見つける。
 端正な顔立ちの少年が、中華屋の看板をみつめながら相当に悩んでいる。
「こんなところでどうしたんだ」
 昨夜出会った雷三という少年に声をかければ、雷三は迷うことなく天津飯を指さした。
「食いたいのか?」
「まごころは食えるものなのか」
 と、返されて、宗也は思わず目を点にする。
 よくよく見れば、天津飯の上には「まごころ有!」とテロップが貼られていた。
「お。もしや君、まごころをお探しかぃ?」
 聞きなれない声に呼ばれて振り返れば、そこには一人のウサギが立っていた。



 ◇



「ようこそ、五龍(いつりゅう)大学へっ!」
 ウサギ、もとい着ぐるみ男に誘われて、宗也と雷三は学問屋(大学)の敷居を跨いだ。宗也とほとんど背丈の変わらないこの男は、どうやら五龍の大学生だったらしい。
 こっちだよ、と手招きする男の後を追う。
「……もしかしてその恰好、私服ですか」
「まっさーかー。これは商店街のマスコット、三つ葉ちゃんでぇ~す、……もしかして知らない?」
 宗也が首を傾げれば、兎男はガクっと肩を落とす。
「はぁ、地元民にすら知られてないとは……。やっぱりバニーガールの恰好のがインパクトあってよかったんだよ」
 ぶつくさと文句をいう兎男に、宗也は言いづらそうに切り出した。
「あの……、その恰好のまま、こんなとこ来て平気なんですか……?」
「大丈夫大丈夫、これも知名度アップのためだから。それに研究室に行ったらちゃんと着替えるって。しっかし、俺の可愛いバニーさん姿が見られなくて残念だったよね、君ぃ~」
 宗也は男のバニー姿など見たくないと内心思いながら苦笑いした。
 横でじっと話を聞いていた雷三が純粋無垢な瞳で訊ねる。
「ここにまごころがあるのか?」
「まぁ、坊ちゃん」
 兎男は、わざとらしく驚いたふりをして、得意げな調子で雷三へと質問を投げかける。
「もしや坊ちゃんは、まごころというやつが目に見えて、いとも簡単に手に入るものだと思っていますん?」
 これには雷三のほうが黙ってしまう。
「生憎、まごころという奴は目に見えなくてねぇ。目の前にあっても気付かないときてやがる。こいつは厄介だ。捕獲しようにも捕まらない。さてはて、どうしたものかと悩んだ末に、ウサギさん。イイコト思いついちゃったわけですよん」
「いいこと?」
 雷三が興味深そうに兎男を見上げた。
「今日ね、そのまごころの在処を知っているだろう御仁が来るのでね。よければと思って誘ったのさ」
「まごころ捕獲作戦でもするのか?」
 まっすぐに訊ねてくる雷三に、兎男は噴き出す。
「違う違う。まごころは捕まえられるようなもんじゃないんだって」
 兎男は「まぁついてきてごらん」と二人を連れて、どんどん進んでいく。
 そうして、案内されるままに研究室の前にやってきた。
「遅いぞ、卯月。って……、なんだ御客人か」
「あいさ悟浄。天津飯の前に居たから、君と話が合うだろうと思って連れてきたんだ」
 ちょうど廊下から現れた男はノートを片手に、宗也と雷三を見て苦笑する。
「そいつはまぁご愁傷様」
 宗也の頭二つはでかいであろう悟浄を見上げて、雷三が早々に訊ねる。
「まごころを知ってるのか」
「うーん、まぁ知っているといえば知っているが……」
 悟浄は困ったように頬を摩って、卯月を見た。卯月は得意げになって笑う。
「な? ここに誘って正解だったろ」
 ウキウキした様子の卯月が扉を開くと、中では一人の青年が同衆に囲まれながら演説を行っていた。
 青年が主張を轟かせる。
「つまり、悪を絶つには、まずその根本である心根を探し出さなきゃならない。一人の極悪人に、全ての罪を押し付けるなら、それはありもしない罪状に変わって、必ずや同じ惨劇を繰り返すようになる。歴史を見てみろ。悪人というやつが現れる。まるで世界が定めた運命だと言わんばかりに、あちらこちらに現れる。こんな定例行事の、過去の繰り返しをいつまで我々人類はしているつもりなのだろうか。
 社会とは人が作る。ならば人は生まれながらの悪人か。俺は決してそうは思わない。ただ悪しき習慣がいまだ世にのさばり、人の思考を犯し、心を穢し、身体を罰し、そうして物事の当然となる所業の末に、悪人という存在が量産されているだけではないのか。因襲に従うが故に悲劇が繰り返されているだけではないのか。これらの悪習(仕組み)を看破せずにして、どうして人は産まれながらに悪を持つなどと言えようか」
 静寂に包まれた室内で、全員の顔を見渡してから青年が訴えた。
「だからまず私は皆さんに言いたい。悪を是正するためには、まず心に目を向けよと」
 賛同する声が沸き起これば、青年は興が乗ってさらに続ける。
「国家を道具に例えるならば、法はさながら刃物である。巧みな者はそれでもって一国を治め、下手な者は人心を傷つける。死刑あればこそ後悔もある。故に、国を治めるにはまず法を定めるのではなく、徳を説く。法を信じていればそれでいいなんて道理はない。罪を重くすれば世の中がよくなるなんて仕組みもない。道徳なくして、何が国家だっ!」
 青年が叫んだ。
「追従することを善とし、法を守ることを最善とするならば、しかるに最善である憲法の前に悪人が現れるのは何故か。これを明かさずにして、ただ厳罰を重くせよ、ただ法に追従せよと要求するは愚の骨頂である」と続き、男はさらに論じた。
 まごころとはだいぶ遠ざかったところで青年が最後のくだりに入る。
「奇しくもここに集まる者はみな文士。これは科学に対する挑戦状だ。数学に対する踏み絵、図形に対する刀狩り。文学の中に潜む道徳を最上とする者の集いであるっ!」
 青年が鼻息荒く呼び掛ければ、腰を上げて雷同するものがある。
 その様に、雷三が素朴な疑問を投げかける。
「…………・・が嫌いなのか」
「まぁ……、あんまり好きではないな」
 悟浄は、ぽつりと答えて難しい顔になって佇んでいる。
 歓声の中、青年が話を終えると、次に老人が表に出てきた。
「啄木鳥くんの話は元気がよく誠貫な響きがある、とてもいい演説でしたが、しかし気になる点もある。少々、この老いぼれの話に耳を傾けて貰えませぬか。みなさま」
 ゆったりとした語り口の老人にみなの視線が集中する。
「徳を重んずればこそ人の環があり。人の輪があればこそ法則がある。諸兄らが数式図形科学を悪と断ずれば、善の環から外れてしまう者がいる。して、聖人は国を治めるときに、和を尊ぶことを説き、和を乱すなとは唱えませんでした。故に考えてみると、道徳を重んずればこそ他者の理も尊ぶがよろしいように思われる。己を正し、また人の正しさに目を向けるなら、おのずと治まるが天の(ことわり)でございましょう。されども、己の身を正さずにして、人を糺そうと躍起になれば、それは必ず人の世にいらぬ紊乱を招くでしょう」
 と難しいことを言ってのける。その後、老人は手短に話を終えて、恭しくお辞儀をして下がった。
 皆々その内容の意味するところを理解しているかは置いといて、同様に拍手を送る。
 こうして、小さな演説会は終わった。
 卯月は、青年らの議論が興隆しつつある場から抜け出して、宗也らを連れて老人へと駆け寄る。
 集団から少し離れた場所で文士らを見守っていた老人は、卯月の顔を見るや否や破顔した。
「よう来てくれた、兎敬(とけい)
長啓(ちょうけい)。お久しぶりです」
 傍に座っていた黒服が横槍を入れる。
「卯月、最近めっきり顔を見せなくなったとケイシィが嘆いていたぞ。やはり理系者は肩身が狭いか」
「冗談でしょう、荒木さん。俺は文理に拘る気はないんで、そんなの気にしたこともない。あー、ケイ先生には悪いことしたかな。とかくまぁ兎というやつは時間がないものなんで。ご勘弁を」
「して、そちらは……?」
「ああ」と一呼吸をおいてから、にやぁ~っと卯月が宗也らを見る。
 場違いな雰囲気に委縮する宗也に対し、雷三は堂々としており、すぐさま本題へと入った。
「まごころを探しにきた」
 黒服の荒木が驚嘆する横で、長啓は動じることなくゆったりと構えて復唱する。
「まごころ、でございますか」
 長啓が確かめるように年季の入った杖を握り直して、白髭まみれの口で言う。
「私には、これはまごころで、あれはまごころではない等と論ずることは到底出来ませぬ。まごころなるものを定義すれば、必ずや後の世に要らぬ論争を招きましょう。もし天仙に奏上できることがあるとすれば、それは誠の道の道標でございましょうな」
「まことの道?」
「言う成ると書いて誠と読みます。命と書いてここ日本国においてはミコトと読みます。ジツゲンと書けば、実言(みこと)の字を当て嵌めることが出来ましょう。言成(言ったことが行われる)と書いて厳正(ルールを守る)とも読めましょう。つまるところ、誠の道とは言葉を守って行動に徹する、言動一致のことでございます」
 真摯に耳を傾ける雷三へ、さらにつづけて長啓は述べる。
「ではどのような言葉で何を実施するべきなのか。それは各々で考えなければなりますまい。どんなことを実現したいか、どんな風でありたいか。どのような言葉を使って、どんな行動をしたいのか。それにより、どのように自分を動かし、どのような人生を歩むのか」
 真白の毛深い眉を動かして、長啓は快い笑みを浮かべた。
「天仙が善き行いをして善き言葉を使うなら、自然とまごころは身につくようになりましょう」
「善行とは、どんなことだろうか」
「それもまたイロハでございますよ」
 雷三は長啓の瞳を捉えて、さらに仰ぐ。
「では翁が考える良いこととはどんなことか教えて欲しい」
 長啓は蓄えた白髭をさすってから、少しばかり思案して明かす。
「みなが喜ぶことでしょうな」
 純朴な翁の答えに雷三は目をぱちくりとさせる
 雷三が感慨深くしていると、そっと間に入ってきた者がある。
 長啓はすぐに気づき、その男を呼ばわった。
「ケイシィ、どうした」
「実は……」と、ケイシィと呼ばれた若い男は長啓へと耳打ちをする。
 宗也は、この青い眼をしたケイシィなる人物に見覚えがあった。
 ステンドグラスだ。
 三つ葉高旧校舎のステンドグラスにその姿形があった。イワンほどではないものの、この男もまた当時のままの姿に等しく、老いを一切感じない容姿をしている。
 宗也がケイシィを凝視していると、報告を聞き終えた長啓がぽつりと呟いた。
「エンカも大変じゃの」
「え」
 予想外の名に呆気にとられる宗也に、長啓は柔らかく微笑んだ。
「兎敬」
 報告を終えたケイシィが卯月を見遣る。
「昨日、クローバー・ビルに居たというのは本当か」
 宗也はさらにぎょっとなって、目を見開く。
 一同の視線が卯月へと集まる。
「ええ、まぁ。はい。って、あれ? なんか厄介事ですか?」
 卯月はまるで知らない様子で首を傾げた。 



 ◇



「そりゃぁもちろん、なんでも願いが叶う石を探しに行ったんですよ」
 卯月は、オカルト板発祥の赤石の噂話を説明し、そこに至る経緯を話した。
 眉を顰めながらに聞いてるケイシィと違って、陽気な調子で荒木が訊ねる。
「で、願いは叶ったのか」
「いやぁ~~~……、それが……、実は赤石が見つからなかったんですん」
「じゃあ辿りつけたら何を願うつもりだったんだぃ?」
 ケイシィの問いかけに、卯月は長啓を見る。
「魔心というやつを知りたくて」
 雷三のソレとはどうも響きが違う言葉に長啓の眉がピクリと動く。
 荒木が不満そうに卯月を見遣る。
「なんだ、そりゃあ。お前の願い事というからこっちは期待したのに」
 残念がる荒木に、ケイシィも苦笑交じりに同意した。
「卯月のことだから、東京タワーとエッフェル塔を合体させるとか、北極にしか咲かない桜を植えるとか、スマホを黒電話に変えてしまうとか。そういう面白みのあることを言いそうだ」
「ああ。そうだな。こいつ、ひねくれものだからな。……なぁ、卯月。男ならもっと大きいことを願えって」
「大きい願いって、例えば?」と卯月が催促すれば、荒木は一瞬沈黙してからドヤる。
「それを考えるのが若者の仕事だな。青年よ、夢を叶えろってな」
 すかさず卯月が満面の笑みで挑発する。
「なるほど、道理で荒木さんはおじさんなわけだね」
「てめっ」
 瞬く間に鬼のような嶮しい顔になった荒木だが、すぐにゴホンと息を整えて切り返した。
「まぁ、俺ほどの聖人君主になると、願いなんてのは後世の繁栄以外には思いつかないってこった」
 ドヤァっとする荒木に、卯月は梅干しを食べたときのような酸っぱい顔で応じる。
 そうして卯月がケイシィを見た。
「ケイ先生は、なんでも願いが叶うと言われたら何を願いますん?」
「俺ですか? う~ん……。正直、今更何を叶えたいかなんて問われても困る」
 ケイシィの回答に、やはり荒木は不満げである。
「なんだ、ケイシィ。お前には願望がないのか」
「まぁ。とくに不自由してることがありませんからね」
 深々と溜息をもらして荒木が呟いた。
「幸せなこって。あー、藤原の奴が聞いたら激昂しそうだ」
 卯月の関心が、今度は宗也と雷三へと向く。
「じゃあ、御客人の二人は、何でも願いが叶うなら――――、いったいなにを願うんだぃ?」
 雷三が一歩前に出て、即答する。
「世界平和だ」
 勇ましい姿に長啓は微笑んだ。
「子供というのは可愛くていいですね」
「やっぱ男児たるもの、こういう威勢が大事だな。俺もガキのころは世界を変えるって息巻いてたもんだ」
 満足げに笑う荒木は雷三の頭をぽんぽんと撫でる。
 卯月が次は宗也の番だと言わんばかりに視線を向けて、問う。
「んじゃ、高校生君は一体全体どんなことを望むんだぃ?」
 再び問われて宗也は思惟する。
 卯月のソレは単純な願いではなく、もっと広大な夢についてを求めている。

 ――――もしなんでも願いが叶うなら…………。

 ハッキリとしたビジョンなんて微塵もない。かといって、自室で願ったような思春期満点なことを大っぴらに言いたいとも思わない。何か広大な夢を語るには現実は至らないことばかりである。
 考えた末に出てきたのは、苦し紛れの「わからない」という言葉だった。
「なかなか今の時代は青年に夢を描かせぬか」
 長啓が寂しげに言う。その言葉にケイシィが応える。
「ある意味、私たちよりも大人だ。よく現実を見ている。学校で社会の縮図を学び、すでにその予想図を得ている」
 荒木が泰然と構えて宗也と向き合う。
「だが青年。学校は縮図は教えても寸法は教えない。まして、人の認知はいうほど正常ではない。社会はそれほど正しくない。知っていると言いながら、知らないことで溢れてる。絶対正義があるならば、おかしなことがたくさんある。これを学ばずにしてどうするよ」
 ケイシィが頷く。
「――――学問は啓くためにある」
 反芻するように言ってさらに続ける。
「世界は人のためにあり、言葉は愛するためにある。同時に、言葉は世界を定義する。だが、定義されたモノが正しいかどうか、歪んでいないかどうか。それはモノを知る人にしか解らない」
 ケイシィは繰り返す。
「――――学問は啓くためにある」
 長啓が穏やかに言葉を添える。
「世界は碩学(せきがく)の徒を求む。未だ定義されぬ事象も多く在る。夢を見るより現実を知るがよろしいが道理。夢を語るよりも真実を語るほうが遥かに尊い。されども、時に現実は真実を憎みて、心地よい夢に人を誘う。それもまた、世界の掟。まして世界の民が、偽りの夢を真実だと思うているなら、なおさらに先覚者は厳しい道を歩む」
 長啓は一瞬だけ目を伏せてから顔をあげて穏やかな笑みを浮かべる。
「文学は人心に富む。人の心なくして創造はない。己の夢が解らぬうちは、心を育むがよろしかろう」
 荒木が宗也の肩にがっしりと手を置いて、告げる。
「青年よ、現実を叶えろ」



 ◇



 長啓らと別れた後、宗也らは卯月に誘われて食堂に来た。
「それじゃあ、昨日宗也と雷三もクローバー・ビルに行っていたのか」
 悟浄が驚きながらに言えば、卯月が興味津々として身を乗り出す。
「もしかして二人は赤石を見つけたの?」
 宗也は戸惑いながらも頷いた。
「マジかぁ! やっぱ赤石あったんかぁ~。くぅ~~……、なんで俺らじゃだめだったんだろ」
「そりゃあまぁ身長差だろうな」
「えぇ~……、25㎝ぐらい大した差じゃないのに」
 雷三がさりげなく悟浄と自分との背丈を比べて、内心で卯月に同意した。
 悟浄は苦笑しながら、手にしていたコーヒーへと口をつける。ブラックコーヒーを眉一つ動かさずに飲んでいる。
「ねぇ、実際の赤石ってどんなんだった?」
「真っ赤な石だった」
「……えっ、それだけ? ねぇ、本当に見たの?」
「ああ、見たぞっ」
「宗也と雷三はまるで条件違いなのになぁ。なんで行けたんだ?」
「それは……」
 と、宗也が言葉を濁らせる。
「ねぇ。見たのなら何か願ったんでしょ?」
 卯月がせがむように言えば、即座に雷三が首を振った。
「何も願っていない」
「えぇ~! 坊ちゃん、嘘でしょうっ?!」
「本当だ」
「じゃあ、何のために行ったのさっ」
 納得いかない卯月に対して、雷三と宗也は顔を見合わせる。
「まぁ。聞かれたくない事情という奴は誰しもあるだろう」
 悟浄が「それより」と話の方向を変えた。
「どうして雷三は、まごころなんてものを探してるんだ」
「それは」
「本当はもっと違うものを探しに来てるんじゃないのか」
「おいおい、悟浄。無粋なこというなよ。君は幼子の情がまるでわからない奴じゃないだろう?」
「雷三、お前は幼子か」
 まっすぐと聞いてくる悟浄の顔を一度見てから、雷三は答えた。 
「いいや。七十の翁だ」
「ん?」
 卯月の耳がぴくりと動いて、凄く嬉しそうに歯を見せる。
「いやぁ~、子供というのは面白くていいね!」
「ま、まぁ……。七十の(おじいちゃん)でもいいが……」
 困惑しつつも、悟浄が本筋に戻す。
「とかく、まごころを探すより目的を遂行したほうがいい」
「目的」
 雷三が小さく復唱する。
「何か他に大事なことがあったんじゃないのか。本来の目的を忘れてはいけない」
 悟浄に諭されるように言われ、雷三は宗也の顔を見た。
 無論、その目的を知らない宗也は不思議そうに首を傾げる。
「卯月、君も同じだぞ」
「俺?」
 飛び火した卯月は、自分の顔を指さして、さっぱりわからないと態度で示す。
「なんで魔心なんてものを探そうと思ったんだ」
「んー、魔法という奴に興味があってさ」
「魔法?」
 机に肘をついた卯月が意味深に訊ねる。
「なぁ、悟浄。君は世界についてどう思う?」
「どうって……」
 悟浄は空を確かめるように窓の外を見て、しみじみと言う。
「広いなぁ~と」
「おーい、もっと哲学科らしい答えにしてくれよ」
「といわれてもなぁ」と、悟浄が頬をさする。
 卯月は改めて姿勢を正してから、意気揚々と内情を打ち明けた。
「実は黒羽(くろば)がさぁ、俺に赤石を教えてくれたんだよね。んで、あいつが言うんだよ。統計には魔法が潜んでるって」
「奴も負けず劣らずの数奇者だな」
 悟浄のさりげない一言に、卯月は頷きつつも反対を入れる。
「しかし、あいつは侮れないよ。聞いてくとすごく面白くってねぇ。統計なんてのを一々とってると、確かに奇跡的可能性に何か理由を求めずにはいられなくなる。で、黒羽がいうんだよ。魔法は統計の一部だ、科学の一部だ。だが、世界規則である自然法を知ってるだけじゃ完成しない。法則に力を与えないと作用しない。魔法を完成させるためには心がいる、その名も魔心がってね」
 宗也は卯月の話に親近感を覚えた。
 黒羽と呼ばれる人物が語った内容は、どことなくエンカの絵空事に似ているように思われた。
 どこか現実離れしつつも、どこかで現実と繋がっているような、人を惹きつける二次元的な世迷言。
 卯月はさらに続ける。
「あんまりにも黒羽がいうからさぁ。俺、なんだか出来るんじゃないかなって気がしたんだよね」
「魔法が使えるって?」
「ああ」と卯月が頷く。
 悟浄はなんとも言えない顔になりながらコーヒーを啜って、黙っている。
 宗也も悟浄と同じように、手にしていたブラックコーヒーを呑んだ。苦い。
「それにさ、あいつが言うんだよ。ケイ先生らは何かを隠してるって。何か大事なものがこの場所には眠ってるって。その証拠にほら」
 卯月が指さした先には、古時計が置いてある。
 年季の入った外装と振り子式である以外は、とくに変わった様子はない。
「あそこの時計の針、決まった時間にだけ虹色に光るんだよ」
 もうすぐだよっと卯月に言われ、半信半疑で眺めていると、ちょうど五十五分になったとき、一瞬七色に光ったような気がした。
 確かに七色に光ったが……、この些細な現象を魔法と呼べるほど宗也も五条も子供じみてはいない。
「光の加減だろ。それか内部の細工か」
 宗也の内心を代弁するかのように悟浄が言えば、卯月が反問する。
「じゃあ、どんな細工で、どんな加減なら、この七色現象は起きるんだぃ?」
 悟浄が窓と古時計の角度を考え、さらには構造について思案する。
 卯月は悟浄に反撃される前に先んじた。
「言っとくけど、事前に確認してそういう仕掛けは見つからなかったんだ。細工が謎である以上は、科学で証明できない以上は、この奇跡を魔法と呼ぼうじゃないか」
 意地悪く笑ってみせ、卯月はさらに黒羽を妄信する。
「それに黒羽に教えてもらったのはこれだけじゃない。この学校にはまだまだ秘密がある。全ての魔法の仕組みを解くには魔心が要る。だけど、まごころ成る心を知ってる奴はほとんどいない。たまに出入りする長啓に何か聞いてみればわかるんじゃないかってさ。ほら、長啓はとても物知りな御人だろ? なんでも知っている長啓ならもしかしたらってね」
「嘘臭いなぁ」
 正直な気持ちを漏らす悟浄である
「それでも解らない以上は自分で探すしかないだろう? だから、昨日赤石に魔心をくれっ、魔法を使えるようにしてくれっ、と願いに行ったわけですよ。ウサギさんは」
 卯月は、身を乗り出して宗也を見ては味方を増やすべく話を広げる。
「なぁ。高校生君。どう思うかぃ? 魔法はあると思うかぃ?」
 宗也は返答に窮する。
 あるかどうかといえば、ある。
 というよりも、その魔法の目撃者である。
 だが、それを口に出すのはどうにも憚られる。
「あったら……、きっと世界は無茶苦茶ですよ」
「え? なんでさ。夢がかなうかもしれないよ。それこそあの赤石のように、なんでも――――」
 卯月が一瞬、止まる。
「?」
 不思議に思ってさりげなく顔を覗き込めば、卯月はにっこりと笑った。
「まぁ、魔法があろうがなかろうが、科学にはその可能性があるね! 俺は、科学は神をも殺しうると思っているよ」
 意気揚々という卯月に、悟浄がなかば呆れるように言う。
「神なくして発展なしだぞ」
「えー? それはどうだろう。哲学の御仁の中には、すでに神は死んだと豪語なさる方までいるじゃないか」
「それは個人の見解だ。哲学全般は神を否定していない。それに寺の息子として言うけれど、気軽に殺すなんて言葉を使うもんじゃないぞ」
 腕組する悟浄に、雷三が訊ねる。
「悟浄は伽藍(がらん)のご子息なのか」
「ん? ああ、まぁ。伽藍というほど立派な寺ではないが……」
 卯月がにやりと笑う。
「ガラーンっとしてる寺ですってね」
「まぁ。近所の人はよく来てくれる」
 雷三は顔を伏せた。そうして、何かを考えた末にみなに視線を向ける。
「神のこと、嫌いなのか?」
 幼子の少し寂しげな疑問に、卯月と悟浄は互いに目を合わせた。
「俺は好きだぞ。哲学なんてのをやってると、どうにも信仰が要る」
 さらりと答えた悟浄と違って、卯月は考えている様子である。
「宗也はどうだ?」
「俺は~……」
 うーんっとちょっとばかし悩んで、返答する。
「そもそも神がいるんだかいないんだか。よくわからないからなぁ」
「神はいるぞ!」
 雷三が席を立って訴えれば、悟浄が苦笑交じりで感心した。
「学問の徒よりも子供のほうが詳しいようだ」
「そりゃあまぁ、子供はそういうものだから」と、卯月があしらえば、雷三は厳しい顔つきで問う。
「卯月は信じていないのか」
 どこか悲しみを帯びて問われれば、卯月は目を瞑る。
「うーん、完璧に信じていないわけではないよ。だけどさ」
 言葉を区切って、口を開く。
「もし、神が居るというならば、なんで…………、こうも世界は悲しいんだろうね」
「悲しい?」
 無言で卯月は頷く。
「世界は悲劇で溢れている」
「人間は幸せじゃないのか?」
「ああ。万民は幸せじゃないだろうね。今日も自殺者がいる、殺人も起る、強盗だっているし、悪口だって蔓延って、争いが絶えない。こんなにも不幸が蔓延してる。これでどうして神がいるなどと言えるんだぃ?」
 卯月の小さな訴訟に雷三は何も言い返せず、黙っている。
「神がいるというよりも、神がいないからこそ、こんな世界になっていると考えたほうが妥当なのかもな」
 悟浄の推察は卯月を納得はさせなかったが、新たな可能性を与えるには十分だった。
「……もしかしたら迷信の域にまで堕とされた神がいつの日か、……もどってくるのかも。――――それかあるいは……、神は俺らの考えるような存在じゃないのかもねっ!」
 そうしてひとつ、小さく呟いた。
「もし、神が降臨した暁には、…………きっと俺ら人間は無力なままじゃいられないよね」
「なぜだ?」
 卯月の言葉を聞き逃さなかった雷三がその顔を伺う。
 表情には迷いがなかった。自信に満ち溢れている卯月が反問する。
「この世界を創りし偉大なる想像主様が現代人の惨状を見て、いったいどう思うだろうね?」
 卯月はにっこりと笑う。
「―――――……きっと滅ぼしたくなるんじゃないかなぁって俺は思うよ」



 ◇


 
 卯月らと別れた後、宗也は雷三と共に河川敷を歩いている。
 気がつけばだいぶ時間が経っており、周囲は暗くなり始めていた。
 夕陽は温かく心地よいが、広々した道には人影はなく、どこか寂しく気である。

 四月の春風にしては、今日は少し肌寒い。
「宗也」
 雷三が宗也を呼ばわった。
 振り返れば、雷三は立ち止まっており、ぎゅっと袖を掴んで俯いている。
「どうした」
 宗也は屈んで、雷三に目線を合わせた。
 だが、雷三は地面を見るばかりで目を合わせようとはしない。
「宗也は、……しあわせか?」
 健気に聞いてくる雷三はどこか不安げである。
 この惻然として塞ぎこんでいる少年に、宗也は少し意地悪になって聞き返す。
「俺は不幸に見えるか?」
 無論、雷三はすぐに首を振った。
 なぜ幸せなんてのを聞いてくるのか不思議に思って宗也が次を待っていれば、雷三はそれきりで何も言わなかった。
 沈黙が生まれる。春風が吹く、青葉が揺れる、星が輝く、月が出でる。
 夕日がだんだんと地平線の彼方に飲まれていく中、宗也は雷三の頭を撫でた。
「幸せなんてのは考えるものじゃないよ。……きっと味わうもんなんだ」
 どこか達観した予測を含んで宗也が語り掛ければ、雷三は顔をあげた。
「人間はみな幸福を味わえるのか?」
 途端、主語が広がればなんとも言えなくなる。
 宗也自身の話ならともかく、全員となると難しいのは言わずもだ。
 それでも、宗也は希望的観測を含んで力強く頷いた。
「ああ」
 雷三と目が合う。
 澄んだ瞳には宗也自身の顔がくっきりと映し出されている。
「雷三は人を幸せにしたいのか」
 雷三がこくりと頷いた。
 その健気さに、思わず笑みが零れる。
 子供の一生懸命さにはつくづく救われるものがある。
 宗也は内心で、昨夜出会った魔物を思い出し、そして比較してしまった。

 ――――執念の産物とでも言おうか。

 冥界は人の思想が形を成す世界。
 その想像の世界から生まれたものは、誰かを殺さなければ満たされないような怪物で、まるで此の世の憎悪を孕んでいるかのようだった。
 もし、誰かを憎まずにはいられない心が人の中に蔓延っているとするならば――――。

「…………」
 首を振って、雷三と向き合う。
「悩んでくれてありがとうな」
 宗也は雷三の頭をくしゃくしゃと撫でて立ち上がる。
 さぁ帰ろうと手を引くように宗也が言えば、雷三は宗也の腕を引っ張った。
「どうした?」
「宗也は誰かを助けたくてあの石を盗んだのか」
「盗んだ?」
 まったく身に覚えのないことに困惑する。
「いったい何のことだ?」
 雷三は意を決して本来の目的を打ち明けた。
「その石を探しにボクは来たんだ」
 指さされた場所(ポケット)を探れば、未来の慎吾から託された石が出てくる。
 何の変哲もない石を見て宗也は確認するように問いただした。
「これ、雷三のものなのか?」
 雷三は首を横に振って、小さく言う。
「その石は……、天界の宝物なんだ」
「え」
 つい硬直してしまう。
 確かに未来の慎吾は別れ際に天の秘宝とは言っていたが……。
 正直いって、こんな道端に落ちてるような石が神々の宝だと言われても、にわかには信じられない話である。
「ボクは天からその石を奪還するべく、現界(ここ)に来た」
「天からって……。えっ。もしかして雷三は天使で……っ。ってか、これ、盗品なのか!?」
 雷三がこくりと頷く。
「宗也はその石が欲しかったのではないのか」
「欲しいもなにも……、いったい何が出来るんだ、この石で」
「石を託した男は何と言っていた?」
 一瞬、逡巡してから、未来の慎吾が語ったことを口にする。
「なんでも願いが叶うって――――」
「その石にそんな力はない」
 あっさりと告げられ、宗也は少しばかり拍子抜けした。
 雷三が天を見上げる。
「なんでも願いが叶う、か……。人の願いは、いったいどんなものなのだろうか。いいことを願ってくれるだろうか。それとも悪いことを欲するのだろうか。そもそも、人の考える善悪とは何なのだろう」
 雷三の瞳に、再び宗也が映し出された。
「この石を盗んだ男は、すくなくとも此の世界を、ナニカを変えたかったのではないかとボクには思われた。…………それが善事か悪事か分からない以上、少しばかり秘石の行く末を見守りたいと思う」
 少し迷ってから雷三が言う。
「……少しの間、その石を宗也に預けてもいいだろうか」
 宗也は、あまりにも健気に訊いてくる雷三の姿に、つい破顔した。
「ああ。いいよ」



 ◇



 宗也と別れたのち、雷三はカズハを呼ばわる。
「どうなさいましたか。雷三様」
 遠くで見守っていたカズハは呼ばれて飛び出て、すぐに雷三の手のひらに乗った。
 雷三は小さな忠君の文鳥に決意を打ち明ける。
「ボクはもう少し現界にとどまろうと思う」
「それは宗也様のお傍で石を見張るという事ですか」
 カズハが確認するように言葉を重ねれば、雷三は否定もしなければ肯定もせずに、まっすぐと言う。
「人間の心意が知りたい」
 カズハはそっと目を反らす。
 そうして、ビル群を見て、零すように言葉を繋いだ。
「宗也様は私にはイイヒトのように思われます。今日出会った人間たちも、やはりイイヒトなのでしょう。人間はイイヒトですが、…………」
 雷三もカズハと同じようにビル群を見た。
 森を削った大地を見た。月光よりも輝かんとする電光を見た。春風に吹かれまいと聳え立つ建造物の群れを見た。
 雷三は、カズハを撫でる。
「悪くなりたくて悪くなる人など、いないよ。悪事をしたくて悪事をする人などいない」
 確固たる意志をもって告げる雷三に、カズハは一瞬、瞳を揺らしてすぐに首を振った。
「そうでございますな。しかし、いえ……、だからこそ、お気を付けください」
 カズハが強く言う。
「どんな人間もキッカケさえあれば、いかようにでも変わるものです」
「ならばきっと、いいきっかけがあれば、どんな人でもよくなれる」
 雷三はカズハをぎゅっと優しく包んでから、改めて告げる。
「ボクが天界に戻るのはまだまだ先だ。この事を和歌姫様たちに報告してきてはくれぬか」
「わかりました。…………あの、雷三様」
 改めて呼んでくるカズハを見れば妙に悲し気な顔をしている。
「どうした?」と慰めるように聞くと、カズハがチュンと啼いた。
「私には、神もまた、同じなのだと思われます」
「どういう意味だ」
 カズハは、言うか言うまいか悩んだ末に、口にした。
「神もまたイイカミばかりですが、イイカミだけではないという事です」
 どこか遠まわしな言葉はカズハなりの心遣いなのだろう。
 雷三は天界の神々の姿を思い出す。優しい姿ばかりが浮かぶ。穏やかな様子が浮かぶ。時に厳しいけれども、常に他者を尊ぶ神の姿が脳裏に浮かぶ。
 雷三はまったく同意しない。カミと名のつくものに、悪い者がいるなどあってはならないことだから。
 しかし同時に、カズハの言葉を否定することができなかったのも事実である。
「……そうだな」
 小さく呟いて、夜空を見上げる。
 御月様が煌々としており、星々は一段とキレイだった。
 天へ飛び立つカズハを見送って、雷三がこれからの行く末を案じていると、ちょうど一人の青年が目に留まった。
 妙な気配のする青年だった。
 魔導士(エンカ)とも魔術師(マリリー)とも違う。
 数多と見てきた普通の人間なのだが、……どこか天界の神々の気配に似ているように思われた。
 気になって探ってみたが、その気配はやはりただの人間でしかなく……、妙に気の引く男だった。
 つい気になって目で追えば、自然と視線が一致する。
 特徴的な、淀みなき翡翠色の澄んだ瞳が雷三を捉えている。
 青年は目を細めて、ゆっくりと口を動かした。

 ――――みつけた。

 うっすらと春風にのって、クローバーの香りがした。

第八章


 ひよこは、雷三を寝かしつけたあと、電灯の下で日記を綴る。
 今日、里奈のお見舞いに行った。その際にイワン博士から説明された里奈の容体について書きまとめていく。
 里奈の体調は無事に回復し、いつも通りの生活を送れるまでに戻ってはいるのだが……。
「心が抜かれた状態っ……」
 ついペンが止まって口から内容が飛び出した。
 イワンは里奈の状態をそのように形容した。
 話すことや動くことはできても、どことなく虚ろで、普段通りであっても何かが決定的に失われていた。
 イワンが言うには、里奈は人としての根源を失っており、本当の意味で元に戻すには、心を取り戻さなければならないという。
 そのためには冥界で彷徨っている里奈の心を見つける必要がある。
 普段なら到底信じられない話だったが、魔物という此の世ならざる物と遭遇した後では、自分の常識などもはや当てにならないのである。何より、イワン博士は瀕死だった宗也を治癒した人物だ。その驚くべき術を知ってしまった以上、信じないわけにはいかなかった。
 きっとイワンが提案した通りに、冥界と呼ばれる世界に行けば、里奈を救うことが出来るのだろう。
「……いったい里奈ちゃんはどんな願いを叶えたかったんだろう」
 結局、赤石に何を願おうとしていたかは教えてくれなかった。
 しきりに「なんでも願いが叶うって、それって凄いことじゃないっ?」と嬉しそうに語ってばかりいた。
「なんでも願いが叶うかぁ」
 ぼんやりと呟いて、ページをめくる。
 改めてみれば、日記は大好きな人のことで埋め尽くされていた。
「……はぁ」
 思わず溜息が出る。
 願いはあっても叶える勇気のないダメダメな自分を知る。
「宗也君っ……」
 その名を呼んでみるも、当然返事はない。
 返事はないが、名前を口にすればするほど想いが募る。
「……好きですっ」
 もう何百回目になる告白の練習をしてみるも、いざ本人を目の前にすると、うまく言葉が出ない。
 会話すらままならないほどに、宗也が気になってしまう。
 大好きで、嬉しくて、どうしていいか分からなくなってゆく。
 練習ではうまく出来ても、本番ではイメージ通りにいかないことを嫌というほどに知っている。
「はぁ~~~っ」
 また、重い重い溜息がでた。
 いったいいつまでこの片思いは続くのだろうか。
 幼稚園から始まった恋の花はいまだ散ることなく、この身に咲き続けてはいるけれど……。
「…………この先、何があるかわからないよね」
 魔物との遭遇、魔術師との出会い、そして雷三との生活。
 何より最近、変な夢をずっと見ている。
 まるで近い将来を案ずるかのような、不思議な夢。
「……魔物かぁ」
 実は、ひよこには魔物に見覚えがあった。
 もっと言うと、赤い石にも見覚えがあった。
 なにせ毎日、夢に出てくるのだから。
「あーあ、ちょっとだけなら素敵な夢なのになぁ」
 夢の中では、ひよこと宗也は両想いで、すごく幸せそうで……、だけど。

 ――――必ずどちらかが死ぬ結末が待っている。

 ちょうど窓から月が見えた。
 ちょっとだけ欠けているお月様は、煌々と輝いていて、ひたすらにキレイだった。
 とある作家の翻訳が脳裏に過り、つい言葉に出してみる。
「月がきれいですね」
 一人で褒めても応えてくれる人はもちろん居ない。けれども、もしかしたらお月様は聞いているかもしれない。
 そんな夢見がちなことを考えながら、ひよこは月に願う。
「どうか宗也君が幸せになれますように」
 さらに願いを重ねて、祈る。
「宗也くんが死ぬ結末なんてありませんように」
 そして最後に心を添える。
「その為なら、私はどうなってもいいから」


 ――――恋愛は、必ずしも当人たちを幸福へと導かない。

  ただ各々が、勝手に幸福だと解釈するだけである――――。



 ◇



 日曜日、宗也はエンカに呼ばれて超常現象部の部室に来ていた。
 クローバー・ビルの一件で新たな発見があり、また今後の方針を決めるべく、今日は全員が招集されたのだ。
 ユイの不機嫌そうな声が部室に響く。
「ここ。子供は立ち入り禁止なんですけど」
「子供? 一体どこに居るんだ、それは」
 さりげなく部活動に紛れ込んでいた雷三が不思議そうに首を傾げれば、すかさずユイが声をあげる。
「あんたのことよ、ガキんちょ! 一体どこから入り込んだわけ?!」
「ボクは子供ではない。七十の翁だ」
「馬鹿言わないで頂戴! どこからどうみても子供でしょ!」
「現界と天界では時間の価値が大きく異なる。僕は君たちのような年の取り方をしない。人間でいえば僕は間違いなく、七十の翁だろう」
 エンカは苦笑交じりに無言で聞いている。
 見かねたマリリーが仲裁に入る。
「ユイ、落ち着いて。冷静に考えてみなさい。天仙が加わってくれるのは有益なことよ」
「本気? このおちびチャンが何の役に立つわけ?」
「実際、クローバー・ビルの戦闘では助けられたわ」
 マリリーの言葉にエンカも加勢する。
「私は異論はないよ。むしろ、助けて欲しいぐらいだ。雷三は強い」
 エンカがこう言えば、ユイはぷいっと顔を背けながらもそれ以上は何も言わなかった。
 その様子を宗也はなんとなく疑問に思う。
 いつものユイならもっと食いついてきそうだが、今日はどうも消沈気味である。
「一つ疑問なのですが」
 ふいにトウダが訊ねる。
「なぜ天界からの使者がこうも長く現界に滞在するのです?」
 その問いかけに雷三は口をきつく噤む。
 返事がないので、トウダはさらに追求した。
「境界を超えることは、三世界に住まう者全てにとって、限りなく危険な行為。その上でさらに長期間の滞在となれば、それ相応の理由がいる。たとえ神々だろうと、三世界の均衡を壊しうる行動は(よし)とはされないでしょう。それなのに、なぜ天仙は今だ現界にいるのでしょう」
「それは……」
「何よりも、です。本来であれば天界の神々は、現界に異変があれば連合の特殊部隊エルリズを使って事を行うのが通例です。わざわざ天仙を派遣し、まして滞在させるとは……。よほどのことが今の現界にはあるのですか」
 迫るように言って、トウダは眼鏡を持ち上げて改めて聞き直した。
「それとも、ついに番犬組織(エルリズ)は天に見放されましたか」
「なっ」
 マリリーが絶句して口を開ければ、すぐさまエンカがトウダを諫めた。
 トウダが過剰な疑念を詫びるも、雷三は顔を伏せたままである。マリリーが不安げに瞳を揺らす。
 見かねたエンカが両者の間に入る。
「エルリズを天界の神たちが見限るなんてのは絶対にないよ」
 エンカの言葉に、マリリーはどこか安堵したように肩の力を抜く。
「そういうもの、なのですか」
「そういうものだね」とエンカは苦笑交じりに言う。
「雷三の要件は、少し特殊なんだろう」
 宗也は内心で頷いた。
 雷三は終始の石を探しにやってきている。
 現在、終始の石は宗也の手にあるが、この事実を知られたくないと雷三は言った。
 とくに魔術師たちには絶対に知られたくないという。なんでも世界の基盤に関わる力がこの石には宿っており、扱い方を誤れば世界そのものを滅ぼしかねない。
 万が一にでも、邪な考えを持っている人間に知られれば、とんでもないことになるのは必然で、また邪な考えがなくても魔術師たちの魔力に共鳴し、石が暴走してしまう可能性もある。
 宗也のような魔術の根の葉も知らない人間ならともかく、魔力が扱える者たちには絶対に教えないで欲しいと、きつく念を押されているのであった。
「残念だけど、君たちに連絡がいかなかった理由を僕は知らない」
 雷三はきっぱりと言い切って、マリリーを見る。
「知らないなりに知っていることを言うのなら、僕は現界にある物を探しにきたんだ」
「探し物、ですか……?」
 マリリーが訝し気に訊ねれば、雷三は頷く。
「その過程で、すこし気になることがあるので長く滞在することにした。僕の滞在と天の意向とは関係ないことだ」
「ならもうその要件は終わっているんですか?」
 トウダの問いかけに雷三は肯定も否定もせず、「これ以上は言えない」と口を閉ざした。トウダもマリリーも思うところはあっても、それ以上の追及はしなかった。
 エンカが本筋に戻すべく、話を進める。
「とにかく、これからは思った以上に厄介なことになる。強い仲間が加わってくれるのは私たちにとっても大事なことだ」
「あのヤバイ女と、またひと悶着ありそうなのか・・・?」
 エンカは小さく頷く。
「実は昨日、イワンの研究所がヴィーチェに襲撃されたんだ」
 突然のことで驚く宗也に、ユイが顔を伏せがちに当時の状況を説明する。
 襲撃当時、イワン率いる調査チームは赤石の解析を行っていた。
 数十時間に及ぶ調査の結果、赤石は現界の盗まれた宝、賢者の石の一部だった事が判明したのだ。
 その直後だった。
 赤石が光輝き、研究室が真っ赤に染まる。
 気づけば黒いローブを来た集団が現れ、戦闘になったという。
「もしかしてユイもその場にいたのか?」
「ええ……、まぁ……。でも、……私は、平気よ」
 ただ……っと言ってユイは目を伏せる。
 軽く息を吐いて、淡々とその続きを口にする。
「イワン博士が負傷したの。それに死人も出たわ」
 思わず、宗也は黙った。
 ナイラートが所属しているヴィーチェとかいう組織は予想以上に物騒だ。
 そういえば……っと、宗也はふいに思い出す。
 旧校舎でマリリーが言っていた。未解決の殺人事件、おおよそその現場には狂言めいた声明文が遺されるという。そして、それらはヴィーチの犯行だと彼女は言った。
 当時は魔法なんて信じていなかったから意味がわからなかったが、つまりヴィーチェとは、いわゆる魔術師たちの犯罪組織。いや、異常な宗教にハマったカルト信者とでも言おうか。
 狂信者たちは魔法を扱うことが出来、窃盗も殺人も厭わない。むしろ、その声明文から察するに、……そういったことを目的としているのだろう。
 なんて危険な奴らなんだ。
 魔術師(マリリー)たちが彼らと敵対するのはいうなれば必然で、例えるのなら正義と悪の関係なのだろう。
 しかし、疑問に思う。
 赤石を渡したのはヴィーチェのメンバーのナイラートである。
 なぜ一度返却したはずの赤石をわざわざ奪還しに来るのだろうか。
「もしかしたらあの石そのものがナイラートの罠だったのかもな」
 赤石には発信機のようなものがつけられていて、それを追ってヴィーチェは研究所を襲撃したのかもしれない。
 宗也が憶測を口にすれば、エンカが首を傾げる。
「うーん、それはどうだろうな」
 エンカは別の可能性を指摘する。
「ナイラートは気まぐれな奴なんだ。ヴィーチェのメンバーであるのは確かだが、組織に忠誠を誓っているわけじゃない」
 第一、ナイラートが仕掛けた罠にしては、その痕跡がいっさい見られないという。
 赤石の解析には、魔連の盟主であるイワンも加わっており、イワンほどの実力者が罠に気づかなかったとは考えにくい。加えて、後にエンカも現場の調査を行ったが、イワン同様に罠の痕跡はないと結論を出した。
 ナイラートの性格上、勝手に行動することが一番あてはまるとエンカは言う。
「だが、組織の意向を無視できるものなのか」
「宗也は自分の目的と組織の命令とが一致しない場合、それでも組織に従うか?」
 エンカの言葉に宗也は黙る。
「ナイラートの目的は、現界と冥界を繋げることだ。その為なら、多少の裏切りも平気でやるだろう」
「世界を繋げて一体どうしたいんだ?」
 宗也の漠然とした疑問に答えたのは雷三だった。 
「明か」
 エンカが静かに頷く。
「人には終わりがある、死ぬことが決まっている。これが世界の決定事項。人は死から逃れられない」
 そして同様に、とエンカはさらに続けて言う。
「世界にも終わりがある。終焉が約束されている。此の世界は、必ず滅びることになっている」
「でもそれは何千万年後の話だろ?」
 いいや、っとエンカが首を振る。
「明はそこまで遠い未来の話じゃない」
「そんな……」
 つい愕然とした。
 世界の滅びを体験するかもしれない時代に生きているなんて……。
 ハッキリ言って運が悪いというレベルじゃない。いったい誰が好んで滅びゆく世界に生まれたいのか。
「でも人生ってそんなものよね」
 唐突に、ユイが呟いた。
「誰だっていつ死ぬかなんてわからないわ。いつかは死ぬのを知ってても、いざその時になったら受け入れるしかないのよ。……まして生まれてくるときは死を知らずに生まれてくるもの」
 全員が黙り込む。
 死にたいなんて思わないし、死ぬ未来なんて想像できない。
 しかし想像できなくてもいつかは死ぬ。その未来が必ず来ることを知っている。
 沈黙を破ったのは、トウダだった。
「罠であったにしろそうではなかったにしろ、ナイラートは歪みを利用して世界を結び付けようとしている。それは百パーセント滅びに近づくことです。おまけに赤石は賢者の石の一部だった。賢者の石が誰の手に渡って、どんなことに使われようとしているのか。これでようやく答えも出た。……やつらが今後も歪みにちょっかいを出してくるならば、戦闘は免れないかもしれませんね」
 トウダの意見にエンカは同意する。
「なら宗也くんと寒山くんは」
 マリリーはそれだけ言って催促するようにエンカを見た。
 エンカはなにやら思案した後に、頷く。
「わかった。なら宗也たちには特訓をしてもらう」
「と、特訓……?」
 ああ、とエンカはニコリと笑う。
「最低限、自分の身を守れる程度には魔術を習得してほしい」
 確かにヴィーチェのような危ない連中と対峙するのも、足手まといでいるのも御免だ。エンカの提案は宗也にとっても有難かった。
 なにより宗也自身、魔術を使ってみたかったのも事実である。
「マリア。頼めるか?」
「……ええ、わかったわ」
 こうして、宗也はマリリーと共に魔術の特訓を行うことになった。



 ◇



 エンカの提案により、宗也は魔術の特訓を開始する――――。

「と言っても、いったい何をするんだ?」
 エンカの話では、魔力を見い出さない限り、魔術を扱うことは出来ないという。
 なんの力も持たない宗也には、魔力がどういうものなのか、何に由来して、何に依存して、何によって発揮され、何によって上昇するものなのか、まったく分からないままである。
 この現実世界で、魔術というチート技が存在するならば、みんなが魔術師を志すだろう。

 しかし、現実はどうだ。

 現実は魔術が空想であることを物語る。現実(リアル)でないことを教育する。絵空事の中に抑え込む。御伽噺にのみ魔術は存在するのみである。
 事実、エンカたちが披露した数々の超常現象(魔術)は、とてもこの世の法則では説明できないことばかりであり、万が一にでもこれらに説明がついたとき、多くの人が困窮するだろう。 

 魔術で怪我が治せるのならば医者の立つ瀬がないだろう。
 魔術で腹が膨れるというならば料理人の労働も農家の生産もこの世界には不要である。
 魔術で家が作れるというならば作家(建築士)の図面などあってないようなものだ。

 魔術で――――なんでも思い通りになるならば――――、誰だって苦労はしない。

 それが出来ないからこその、現実だ。
 魔術というチートがないからこそ、地道があり、努力があり、技術が産まれ、科学が進歩し、人間は成長する。
 その一挙一動はこそが進化である。
 未知は、情報として蓄積され、法則に基づき分類され、時間によって成熟し、言葉によって定義される。この一連の流れこそが人類の進化の過程である。
 科学(歴史)こそが、人類の進歩の確固たる証拠だ。
 もし万が一、この世に本当に魔術があるならば、多くの人々の努力は、影で嘲笑されていたと言わざる負えない。
 なぜ空想や妄想ではなく、偉大なる魔術(真実)を学ばなかったのか、と。
 どうして魔術の可能性を否定し、己の狭い世界に閉じこもっていたのか、と問わずにいられないだろう。
 同時に、神にも問う。

 ――――なぜ人々の、魔術の(無限の可能性)を塞いだのか、と。

 宗也が悶々と思考を巡らせていると、マリリーが準備室からホワイトボードを引っ張ってきた。
 マリリーはボードに属性を書き込んで線で結び、五芒星を描く。
 そうして赤外線体温計らしきものを宗也へと向ける。
「それは?」
「魔力測定器よ。まず宗也君の潜在値を調べましょう」
 マリリーが魔力測定器を宗也の額へとあてれば、ピッという音ともに値が出た。その数値をホワイトボードに書き込んでいく。
 ちょうど終わりに差し掛かる頃、マリリーの手がゆっくりと止まった。
「うそ……」
 絶句し、マリリーは目を見開く。
「属性値がゼロなんてあり得るの……?」
「属性値?」
 宗也が首を傾げれば、マリリーが困惑混じりに説明する。
「……え、えぇ。魔力には種類があるのだけど……、そうね。ゲームに例えるとわかりやすいかしら」
 まず基本魔力。
 これはいわゆるMPであり、術の行使に必要不可欠なものである。
 術の規模によって消費魔力が変動するので、この数値が高ければ高いほど優秀だという証明でもある。 
 次に属性値。
 この世界には基本五属性(火水木土雷)があり、この属性値が高いほど、該当の属性の術を扱うに長けている。
「宗也くんは……その」
 と、マリリーが言いづらそうにしながら、瞳を揺らす。
「属性値が全てゼロなの」
 呆気にとられてしまう。
 クリアーボードを見れば、確かにマリリーが書き込んだ属性の横には、丸もといゼロと書き込まれている。
「つまりそれって……、魔術の才能ないってこと?」
 宗也が言えば、マリリーはより一層に難しい顔になって答えた。
「正直に言ってよくわからないわ。魔術は属性が全てじゃない。ましてこの測定器は全属性を網羅しているわけではないから」
 どうやら特殊属性なるものがこの世界には存在しているようだ。
 主に、光と闇があり、それ以外にもさまざまな属性があるのだが、現状の機械装置では測定不可能だという。
 マリリーは腕組をしながら説明を付け加える。
「花月卿が典型ね。彼女は影を操ることに長けている。けど、影は基本属性には含まれていない。かといって一般的に知られている闇属性にも分類されていないの。私の仲間に闇属性の人がいるけれど、その人は決して影を操れないから。……特殊属性は本当に謎が多い上に貴重で、わからないことのほうが多いのよ」
 困り果てたようにマリリーは言って、考え込んでしまう。
 宗也はホワイトボード上に書かれた唯一の0以外の数字を指さした。
「じゃぁこれが俺のMP?」
「ええ、そうよ。宗也くんのMP24」
「初期値にしては、高いほう? 低いほう?」
 マリリーは一瞬いうか言わないか悩んだ末、口にする。
「圧倒的に低い数値ね」
 断言されれば、やはり落ち込んでしまう。
 魔術(無限の可能性)を見せつけられたにも関わらず、その才が乏しいなんて。
 なんだか疎外感さえ覚える。
 みんなが特別な力を持っている中で、自分ひとり平凡の域を出れないような感覚。
 意気消沈している宗也に、マリリーが慰めるように言う。
「でも安心して。MPは修行をすればちゃんと上昇するから」
 それより……っと、マリリーは言葉を濁した。
「属性値ゼロってそんなに珍しいものなの?」
「珍しいなんてものじゃないわ。見た事もなければ聞いたこともない。普通はどんな人でも最低10の合計値は出せるものなのよ」
「グッ」
 つまり、宗也はとんでもなく魔術の才能がないということなのだろうか。
 途方に暮れていると、ふと顔を出したものがある。
「そうなると魔具は使えないか……」
「うおっ!!」
 エンカがいつの間にか隣にいた。
 顎に手を当てて考えをしているエンカに、マリリーが応える。
「得意な属性に呼応させて魔力を引き出していくのは不可能ね」
 マリリーが「ところで」とエンカへと視線を向ける。
「寒山君のほうはどう?」
「向こうもだいぶ苦戦しているよ。ユイと雷三が熱心にやってるけど……」と、言葉を止めた末に、改めて言う。
「寒山も属性値ゼロなんだ」
 マリリーが再び驚愕して、目を見開いた。
 エンカに何かを言おうとするも、なかなか言葉が出てこない様子である。
「まぁ、MPはかなり高いみたいだけどね」
 そのせいでユイの好奇心の餌食にされてすごく大変そうだとエンカが苦笑交じりに付け足す。
「それはっ……。……見つけようと思っても見つからない逸材ね」
 マリリーは小さく首を振ってから厳しい顔でエンカへと申し出た。
「魔力が高いならまだしも、宗也くんの場合は……。どうやって護衛術を教えるつもりです? 正直、私たちの手に余るのでは……」
「うーんっ」
 悩みながらもエンカは宗也に問うた。
「宗也は魔術を使いたいか?」
「ああ」
 もちろん、使いたい。
 魔術の存在を知った以上は、是が非でも使いこなしてみたい。
 魔術には無限の可能性がある。これを見て見ぬふりすることなど到底出来ない。
「なら、特訓はしてもらう。だが、歪み探しは――――」と言って、エンカは言葉を止めた。
 マリリーが早くその決断をするようにじっとエンカを見据えている。
 その様子に、つい宗也の脳裏に言葉が浮かぶ。 
「エンカが危ない目にあうかもしれないのに、俺は蚊帳の外か」と。
 わかってはいる。
 エンカは強い。心配することなどない。
 同行したところで足手まといになるだけだ。
 宗也がついていないほうがエンカにとってもマリリーにとっても、有益である。
 忽然と名状しがたき感情が沸き上がるも、すぐに覆い隠した。
「安心しろよ、無理に行きたいなんて駄々こねないさ。エンカらだけでやったほうがきっと安全だし間違いないだろ」
 宗也は普段通りを装って、内心を悟られないようにエンカの頭を撫でた。
 すると、エンカが小さく声を荒げた。
「それじゃ――――。だめなんだっ」
 俯きながらに言って、エンカはハッとしたように顔を挙げた。
「あっ、いや……、……その、なんだっ……えーっと」
 マリリーが懐疑的な視線をエンカへと向けている。
 その瞳は、どうして無力な民間人を戦闘の場に送り込もうとするのか、と疑念を募らせている。
 マリリーの咎めるような視線に耐えかねて、エンカが息を吐いた。
「わかった、マリアの言う通りにするよ。宗也と寒山が歪みに行くのは危ない。ここで二人には退場してもらったほうが……、きっと安全で、正しいことなんだろう」
 ようやく宗也と寒山を離脱させたことにマリリーが安堵する。
 その横で、エンカが小さく自嘲した。
「私はちっとも魔導士らしくないな」



 ◇



  翌日、魔力(MP)を上昇させるべく猛特訓が始まった。
 腹筋に力を入れ、上半身を持ち上げる。その繰り返しをして、早数十分。
「ただの、筋トレでっ、魔力がっ、本当にっ、上昇するのか――――っ?!」
 半ば叫ぶように宗也が訴えれば、マリリーが苦笑する。
「一応、効果はあるはずよ」
 前途多難な道である。
 つい脱力した宗也が動きを止めれば、すかさずユイが檄を飛ばした。
「そこ、休まないっ!!」
 宗也は、ユイを恨めしく見つつも筋トレを再開する。
 その隣では、茂がゼェハァと息を切らせながら、腹筋(クランチ)に励んでいる。
 最初はお互い余裕があったが、さすがに数十分も筋トレをしていると疲労が隠せなくなってくる。動きが徐々に遅くなっていくのがわかる。遅くなればなるほど、苦痛の度合いが増していく。
 精神を鼓舞するように宗也が叫ぶ。
「うぉっーーー!!!」
 ヤケクソになりながらも懸命に腹筋をする宗也の隣に、エンカがしゃがみ込んだ。
「順調そうだな」
 と、エンカは言って、突如宗也のシャツをめくってヘソをつつく。
「ハフッ」
 突然の不意打ちに思わず変な息が漏れてしまう。
 不可解の行動の犠牲者である宗也よりも、もっと困惑しているエンカが顔を真っ赤にする。
「へへへへ変な声をだすなっ!」
「そんなところをつつくな!」
 これも訓練経過を見てるんだっとエンカは顔を赤らめながら、言う。
「ほ、ほんとにっ、こんなんでっ、魔力がっ、あがるのかっ?!」
「結局のところ、精神力に由来する部分が大きいからな」
「精神力ってっ、筋トレ以外ではっ、鍛えられっ、ないのか――――っ?!」
「他にもあることにはあるが……」
 魔力をあげるには、肉体と精神を極限の状態にさせる必要がある、とエンカは説明する。
 分っていたことだが、限界を超えるには、それ相応のピンチに身を置く必要があり、簡単に突破できるものではないようだ。
「あ、あっ、あっとっっ、な、なん、何分、ぐらいっ、やれば、いいですかっ」
 茂が息も絶え絶えに訊ねれば、エンカはさらりと答えた。
「この調子だと、あと三時間ぐらいは必要じゃないかな」
「三時間ッ?!?!」
 悲鳴のような声が出る。
 さすがに三時間は肉体によくない。オーバートレーニングなのは疑いようもなく、心が折れそうにもなる。
「ギブするか?」
「ぐっ……」
 つい、息を飲んだ。ハッキリ言って既にしんどい。
「本当に追い詰められる状況じゃないと上昇しないんだ。意図的に状況を作り出すのは難しいよ」
 嫌ならやめてもいい、辛いならやる必要はない。
 と、暗に諭してくるエンカに反発するように宗也は雄たけびをあげる。
「やってやるぅ――――!!!」
 そうして、三時間後。
 宗也は一人、腹筋をしていた。
 あの後、エンカらは歪みの調査に向かい、茂は慣れない運動の末に倒れて医務室へと運ばれた。
 なんだかんやありながらも、訓練終了のアラームが室内に鳴り響く。
「終わったぁ――っ!!」
 三時間みっちり特訓をやりきった達成感と倦怠感で横たわった。
 すると、ひやりと頬に何かが当たる。
「おつかれさまです」
 見れば、少女が冷えたスポーツ飲料を宗也に差し出した。
 確か彼女は――――。
「式枦ひよこさん……?」
 宗也が名前を呼ぶと、ひよこは頬を紅に染めて微笑む。
 どうしてひよこが部室にいるのか疑問に思いつつも、差し出されたペットボトルをすぐに受け取って口にする。
 極限を徹底的に追及した特訓は、水分補給さえも許されず、なまじ拷問のような所業であった。
 そしてこの特訓が拷問の如く強烈になったのは、身体が壊れたとしても魔術で治せるから問題ない、という魔術師たちの暗黙の了解のせいである。
 壊れないなら上昇しない、と言わんばかりの訓練に、ユイはともかく、エンカとマリリーは「辛いならやめていい」と事あるごとに口にした。恐らく、この一応の成果が出る特訓は、人道に反しない程度のモノで、彼女たちが本気で魔力上昇を考えるとき、人の域をいともたやすく脱してしまうのだろう。その辛さを知っているが故の言葉なのだと思った。
 ごくごくと食らいつくように水分補給している宗也に、ひよこが心配げに声をかける。
「だ、大丈夫ですか?」
「サンキュ、助かったよ……」
 苦笑まじりに宗也は、いつからここに居るのか、またどうして部室にいるのか、汗をぬぐいながらにひよこに訊ねていく。
 ひよこは雷三と一緒に暮らしており、特訓の話を聞いたのだという。
「宗也くんも魔術を使いたいんですか」
「ああ」
 宗也は即答する。
 ひよこが不安げに瞳を揺らしながら、さらに訊ねる。
「あのっ……その、どうして、その……、魔術を使いたいって思ったんですか」
「どうして、か」
 改めて問われると難しい質問である。
 魔術がそもそも何なのか、宗也はいまいち分かっていない。
 わかっていないながらも魔術について簡潔にまとめるならば、魔術とは冥界の産物であり、つまりは人の想像の集大成であり、無限の可能性であり、それらは万物の法則を無視できる唯一無二の術であり、そして魔術を使いこなすにはとてつもなく長い道のりがいるということだった。
 どうしてこの道を歩もうと思ったのか、目を瞑って考える。
 出てきた答えは……。
「魔術の可能性に夢を見てるから、かな」
「夢、ですか」
「うん、夢だね」と、小さく笑う。
 宗也の顔をじっと見てからひよこがソレを呟いた。
「――――もしなんでも願いが叶うなら」
「え?」
 唐突な言葉に驚いて、ひよこの顔を見た。ひよこはどこか悲し気である。
「叶えたいことがないなら全知全能の力なんて……、あってもなくても変わらない、と想います……」
 宗也は無言で同意した。
 確かにその通りである。最もであり、真理であり、答えでもある。
 だが、同時に違う考えも浮かぶ。
 この世界に生きる人間であって、なんでも願いが叶う力を欲しない人がいるだろうか。思い通りになる世界を求めない人がいるだろうか。なんでも願いが叶うなら、憤ることも、苦しむことも、悲しいこともなくなる。全ての願いが叶う。それを求めることはいけないことだろうか。
 ……いけない、とは言われないだろう。

 だが、その先にあるものは――――?

 ひよこが言う。
「魔術を求めて訓練するよりも……、叶えたい現実に向かって努力したほうが、……きっと苦しくなくて、楽です。目的がないのに力を欲しても、……それってきっと虚しいだけだから」
 切なく笑うひよこの顔に、宗也は思わず見惚れた。
 なぜかそこに真実を見た気がした。
 考えてみると、どうも手段を得ることが目的になっていた。いつの間にか、ただの可能性に魅入られていた。
 本当に欲しいモノは――――。
 つい気になってひよこに問う。
「式枦さんは、なんでも願いが叶うなら何を叶えたい?」
 ひよこの瞳が揺れる。一度ギュッと口を噤むのがわかった。ナニカを決心するのがわかった。
 宗也には、ひよこが勇気をふり絞ったのがわかった。
「宗也くんが大好きです。付き合ってください」
 夕陽が沈みゆく室内で響いた声は、とても愛おしかった。

第九章

 陽だまり。
 青空の光源は情熱を帯び、奥ゆかしい。
 碧風の源流は清涼に由来し、心地が良い。

 黒羽ヤマトは日に照らされながら世界を想った。

 此の世界はいつだってどうしようもないくらいに平和で穏やかだ。
 この状態をある人曰く、自然()権威()を使わぬがゆえに起こる事象だという。またある人曰く、自然が権威を行使しているが故であるという。しかし実際は、自然が所有する権威を行使しようがしまいが、結局のところは人がどのように認識するかが世界の根底を成している。
 つまり言ってしまえば、自然には自然の、人には人の、物事の解釈が存在するということだ。

 人の解釈は凄まじい。

 本来、人は神にも似る力を持っている。自然を凌駕することが出来る。
 人間に限界など存在しない。無限の領域にこそ人の住むべき世界がある。
 ……にも関わらず、いやそれがゆえに、人の力を封じた者がある。

「もし誰もの願いが叶うなら――――」

 この絶対的な呪縛をなんと呼ぼうか。

 ある人はソレを自然と呼ぶ。
 ある人はソレを科学と学ぶ。
 またある人はソレを神と崇める。

 そして我々は、この呪縛的な法則を魔術と称した。

「探しました、クローバー」
 唐突に呼ばれて振り返れば、シルクハットの女が立っている。
「待ちくたびれたよ、ナイラート」
「なら見つけやすいところにいて下さい」
 半ば冗談で言ったにも関わらず、ナイラートのそっけない返事に黒羽は微笑んだ。
 本当の待ち人はナイラートではなく違う人なのだが、どうやらナイラートにはそんなことはどうでもいいらしい。
 自身の欲求に忠実で、他者の心境などまるで興味のないこの物言いこそがナイラートの魅力だ。
「それでなんの用だぃ」
「要件は2つあります。まずはドゥーグ様からの伝言です。近々、扉を開くと」
「時期は?」
「次の満月の夜に」
 来週の日曜日だね、と黒羽が小さく頷く。
「そしてもう一つの要件は、……実は変な奴に出会いました」
「へぇ、どんな不審者だぃ?」
「内藤宗也という青年です。不思議な術を使うかもしれない人間です」
「ああ」と、黒羽は合点する。
 やはりナイラートほどの人物でも時の巡りに関することは、あまり認知ができないようである。 
「クローバーなら何かご存じかと」
「まぁ知ってはいるね」
「教えてください」
 黒羽はナイラートから視線を外し、太陽を見た。
 依然として、太陽は情熱を燃やしている。世界に君臨している。遠く彼方で輝いている。
「その前に、一つ聞いてもいいかな、ナイラート」
「はい。なんでしょうか」
「ヴィーチェの研究所から赤石を動かしたのは君かぃ?」
「はい、私です」
 迷わず即答され、苦笑した。
「ダイロが困っていたよ。あれは今後に関わる大事なモノだからね。俺のところまで泣きつきに来た」
「そうですか」
 悪びれる様子もなく、まして興味もないのだろう。
 ナイラートらしいといえばナイラートらしいが、あまり度が過ぎるのは少々困る。
「太陽が心地よいね、ナイラート」
 黒羽が突然に話頭を変えれば、ナイラートは眉間の皺を深めた。
 ナイラートの視線の先にあるのは、黒羽の背中であって太陽ではない。
 光を遮るようにシルクハットをかぶりなおして、ナイラートが言う。
「ええ、さぞ太陽は気持ちがいいでしょう。人類を心の底から見下せて」
 その言葉に、黒羽は思いっきり笑った。

 ――――どんな気持ちで、此の世界を眺めているのだろう。

 再び、黒羽はナイラートと向き合う。
「やっぱり俺とナイラートは似ているね」
「質問に答えて下さい。内藤宗也は何者なのですか」
 ナイラートが急かすように訊ねてくるので、にっこりと笑った。
 お互いに、相当なひねくれものだという自覚がある。
 似た者同士で、目的のためなら手段は選ばない(たち)である。
 だからナイラートが赤石を見れば、人々に本来の可能性を与えたくなる気持ちが黒羽にはよくわかった。
 だが、これから行うのは多少の可能性の範疇では収まらない。全てを根底から覆す計画だ。ナイラートの気まぐれで、いたずらに邪魔をされたくはない。
 さて、どうしたものか。
 黒羽は少し困ったように目を細めて、ナイラートに答えを与えた。
「宗也くんは赤石の正統な所有者だよ」
「それはどういう意味ですか?」
「彼はね――――」と、言いかけて黒羽は止める。
 何かの気配がする。
 此の世のモノではなく、おそらく世界の機先の。
 時代が動く。いや……正しくは――――。
 再び太陽を見れば、太陽が揺れた。
 その様に、黒羽ことクローバーは静かに笑う。


 ――――運命(ルール)が元に戻った。



 ◇



 木漏れ日。
 
 宗也はまるでデートに向かうような気持ちで、家を出た。
 ひよこに告白されたあの日から、二人は付き合うことになった。今日も一緒に登校するべく近所の神社で待ち合わせをしている。
 朝日が巨木の隙間から差し込んでスマホ画面を照らした。時刻は、待ち合わせの三十分前を指している。
 早めに待ち合わせ場所に到着して、ひよこの来る方向をじっと眺める。
 このちょっとした待ち時間が宗也は嫌いじゃない。むしろ、好ましいとさえ思う、心躍るような気持ちでいられるから。
「宗也くん~っ!」
 仔犬が駆けてくるように、嬉しそうな顔でひよこが走ってくる。
「お待たせしましたぁ~!」
「俺も今きたとだよ」
「よ、よかったぁ~」
 さて行こうか、と宗也が手を差し出せば、ひよこは顔を朱に染めながら、それでいてとても幸せそうにその手を取った。
 二人は仲良く歩き始める。

 宗也はしみじみと想う。

 告白されたあの日から、なんだか世界が変わったように明るくなった。
 この一連の流れを運命と呼ぶには突然で、宿命というには面識がなく、両想いになったというには宗也の中に元よりひよこは存在していない。にも関わらず、これら全てが運命で宿命で両想いであるとしか言いようがないのだから不思議である。
 付き合ってまだ3日しか立ってないのに、ずっと昔からひよこと居るのが当たり前だったのではないかと想うほど、彼女の隣は居心地がよかった。
 本当にどうしてだろう。
 こんなにも彼女が愛おしくて仕方がない。
 些細なこの時間がどうしようもなく好き。

 ちらっとひよこの顔を伺えば、同じようにこちらを見たひよこと目が合った。
 二人の視線が交差すれば理由もなしに笑みが零れる。
「…………」
 正直言って、いや、なんども繰り返しになるが、宗也にはこの状態は謎である。
 恋をすると人は変わるというが、正しくは世界が変わるのであり、人生が豊かになる。
 そう言い切れるほどの劇的な変化を宗也は体験している。
 今までたいして見向きもしなかった自然の温もりが、とんでもなく些細な出来事が、ひよこと関連を持つだけで、どれもこれも輝いて見える。
 これほどの奇妙な現象はどこを探したって見つからないだろう。
 そして実に奇妙なことに、この恋という事象には、なんの脈略も必要なく、なんの伏線も存在しない。

 ――――ある日突然、訪れる。

 その衝撃に自分でも困惑しているのだが……、それでもなんでも、堪らなく幸せだった。
「…………っ」
 ひよこと見つめ合えば、ついあの日のことを思い出してしまう。
 好き、とひよこに言ってもらえた時、なんだかそれだけで十分な気がした。大げさかもしれないが、言うなれば世界の全てがそこにはあった。
 きっと第三者から見れば「何を馬鹿な」と言いたくなるだろう。
 理由のない恋心は、自分に好意を持っている相手なら誰でも良い、そんな薄情者の烙印を押される時さえあるだろう。
 だが、いまはそんなことはどうでもいいのである。
 自分をずっと見てくれていた存在(ヒト)が居た。
 この事実がどうしようもなく嬉しくて、特別で、尊くて……、言葉にならないくらいの、幸せ。

 宗也は半ば浮かれながらに、ひよこと話しながら学校への道を歩いていく。
 すると、ふいに公園の掲示板に目が留まった。見れば、来週の日曜日に六区の六月池(みなづきいけ)周辺で夜桜祭が開催されるらしい。
 普段なら気にも留めない内容なのだが、デートにおすすめ!という、安い売り文句に惹かれてしまう。
「来週の日曜さ」
 と、それとなく切り出してみた。
「もし暇だったら、これ、行ってみない?」
 宗也が指さしたその場所にひよこが微笑む。
「わぁ、行きたいですっ」
 満面の笑みで返されてホッとしていると突然、後ろから茶々が入った。
「ほーん、初デートが六月池ねぇ」
「わっ?!」
「よっ」と卯月がニコニコとした顔で挨拶する。
「う、卯月さん……」
「いやぁ~~、青春だねぇ。青いね、青いよ、本当空がたまらなく青いねぇ!」
「からかわないでくださいよ」
「いやぁ~、からかってないからかってない」と、ニマァっと嫌な笑みを浮かべながら、卯月が話題を振る。
「ところでさ、君。六月池の別名を知っているかぃ?」
 心当たりがない宗也が首を傾げると、隣に居たひよこが答えた。
「もしかして鏡水(かがみいけ)ですか?」
「ピンポーン、その通り! ミズがナイのに池がある、と言ってね。ほら、六月の別名に水無月(ミナヅキ)ってあるだろ? あれに因んでね、鏡に行けば水があるという御話がある」
「鏡?」
「ああ。太陽に鏡を宛てると火が生まれるだろう? それに対抗するように、昔は月に鏡を宛てると水が生まれるといわれていたそうなんだ」
「えっ。本当なんですか?」
 目を丸くして半分ぐらい信じたひよこが訊ねれば、卯月はちょっぴり意地悪な顔で笑う。
「うーん、そうだな。水滴ぐらいならつく日もあるとだけ言っておくよ」
 苦笑で宗也が応じると、さらに卯月は話を進めた。
「まぁそんなこんなで、六月池には月と鏡で作ったという昔話があってねぇ。昔の嘘と本当が入り混じったよくわからない伝承なんだけど、それが結構面白くて。詳しく知りたいなら水月神社の巫女様に聞いてみるといいよ」
「水月神社」
 と、小さく呟いて、宗也はその巫女の顔を思い出した。
 紫瞳の巫女はそういう類の世迷言に詳しく、子供のころはエンカと二人でよく遊びに行ったものだ。
 卯月に言われて思い出したが、そういえば昔、六月池の伝承を聞いたことがあるかもしれない。
 ――――満月の夜に確か……。
 宗也が回想し終わる前に、卯月が口を開いた。
「それにね、こんな話もあるんだよ。満月の夜の日に、鏡水に人の手が映ったら――――……」
「映ったら……?」
 もったいぶって言う卯月はクスクスと意地悪く笑って、すっとぼけた。
「さぁ? どうなるんだろうね? 神の考えることなど人にはよく解らんもんだろう」
 人を食ったような顔で、まったく食えない奴が笑ってみせる。どうやら教える気はないようである。
 宗也は、その笑みになんとも言えない気分になった。
 そんな宗也の気を知ってか知らずか、卯月は楽し気に言う。
「次の日曜日は満月だから、行くなら気を付けたほうが良いよ、宗也くん。大事な人なんだろ?」
「……ええ、まぁ。はい」
 それとなく言えば、ひよこが頬を染め、卯月がわざとらしく羨む。
「あーあー、なんだか熱いったらありゃしないよ。まだ4月なのにねぇ。はぁ、独り身には辛い春があったもんだ」
 さっさと撤退することにするよっと言葉を残して、卯月はそそくさと退散した。



 ◇


 夕暮れ。
 
 授業を終えて帰宅した宗也は、玄関を閉めるやいなや拳を握りしめた。
 ひよこと一緒に登校して、昼食を食べて、一緒に下校して、そうして明日の約束をする。
 帰宅して真っ先に感じるのは、まさに幸福である。
 教師の小言も親友の揶揄いも苦ではないほどの、達成感。
「俺、リア充してるわ……っ!」
 一人で小さく言って、幸福を噛みしめる。
 悶々としている宗也の背中を、冷やかな目線が突き刺した。
 妹の朝子が険しい顔で宗也をじーっと見つめている。
「ただいま。なにか用か?」
「ふ・か・お」
 と、謎の言葉を残して、朝子はそっけなく部屋の中に入ってしまう。
 宗也はすでに姿が見えなくなった妹に向かって、小さく訊ねる。
「ふかおってなんだよっ……」
 言葉遊びが好きな妹は、新しい単語を覚えるたびに造語する。
 造語は、辞書に囚われない自由な言葉と言えば聞こえはいいが、意味するところは曖昧で、理解しにくいことがある。
 加えて朝子の場合、古詩の表現を好んで使うため、意図するところを察するのは難題を極めた。
 詩なんてまるで興味のない宗也には、妹が作り出した数々の造語は、まったく理解不能な産物であり、怪奇に等しい暗号文だ。
 但し、今回はその言葉の意味は分からなくても、その意図は察しられた。
 要は、玄関でニヤけてる宗也に呆れたのだろう。
「はっきりキモイって言われたほうがまだ解りやすい……」
 苦笑まじりにいって宗也は自室に入った。
 机に荷物を置いて整理していると、置かれたままの明石が目に留まる。
 いつ見ても、この神界の秘宝たる石ころは、なんの変哲もない石塊である。
 なんとなく石へと手を伸ばしたが、止まった。
「…………」
 ひよこと付き合ってからというもの、宗也は魔術と距離を置いた。
 魔術という超常現象を追いかけるよりも目の前の小さな幸福を大事にすることを選んだ。なんでも願いが叶う力よりも、目の前の小さな積み重ねを尊んだ。
 エンカに「大事なものが出来た」と告げた時、それが必然の分岐点となった。
 ここでファンタジーの断片である明石に触れれば、なにかその決意が揺らぐ気がしてならなかった。
 改めて自身の心意を確認するべく目を閉じれば、あの日、泡のように消えて居なくなった大人の慎吾が脳裏に浮かぶ。
 
 ――――待ってほしくても、待ってくれないのが時間ってもんだろ。

 甦った記憶が告げる言葉を噛みしめて、答える。

 ――――同じことは二度と起こらないのが、時間だ。

 改めて目を開ける。
「今という時間を大事にするよ、慎吾」
 だから、宗也は、明石を雷三に返すべく石を手に取る。

 ――――フィクションはフィクションであるべきだ。

 どれほどフィクションに焦がれようが、魔術という可能性に満ちようが、フィクションが現実の幸福を凌駕することはない。フィクションが現実の壁を壊し、こちらに迫ってこようとも、だ。
 このありふたりで平和で、とても些細な奇跡には、絶対勝てないだろう。
 この平和を影で守ってくれている特別な存在、つまりはヴィーチェと戦っている魔術師たちに感謝をすることはあっても、同じようになれるとは到底思わないし思えない。
 人間、誰しも違った道を歩む。
 エンカが魔術の道を歩むなら、宗也は平凡な道を歩んでいるのである。
「今という時間が、この平凡な日常が、俺にとってはどうしようもなく大事なんだ」
 さて、この恋、この平凡な奇跡をなんと表現しようか。

第十章


 ――――儚いもの、かな。

「確かに、人を愛するのに魔術(特別な力)なんていらないね」
 黒羽ことクローバーは、まだ見ぬ彼に向けて、言葉を贈った。
「ええ。そうね」
 背後から同意する声が聞こえて、目を伏せる。
 夕暮れになって、ようやく待ち人が来たようだ。
「愛することを至上の幸福とするならば、人は魔術などなくても幸福になれるわ」
 クローバーはその言葉に頷く。
「だが、愛は必ずしも万人を幸福にはしない」
 言ってから、宇宙を見上げた。
「だからこそ俺は確信しているよ」
 青天井に邪魔されようが、確固たる真実として、この世界は存在し、このルールがある。
 クローバーは、宇宙の輝きを求めるように手を伸ばした。
「時の魔術師は必ず俺と同じ結論に辿りつく、と」

 ――――全ての終わりは始まりに繋がる。

「あなたから愛なんて単語が出てくると、なんだか悪寒がするわね」
 嫌悪を含んだ声に思わず満面の笑みが出る。
 一つ小さく息を吐き、クローバーはようやくその人物と顔を合わせた。
「愛しい君があんまりにも遅いから、つい愛なんてものを考えてしまったよ」
「あら? それはごめんなさいね。興味のない相手との約束だったから、つい忘れていたの」
 涼しい顔で返されて苦笑する。
「うーん、ひどいなぁ」
 内心で、もっと嫌そうな顔が見れると思ったのに、と呟いた。
「……いいわねぇ、学生って幸せそうで」
「これから何が起こるか知った上で、何をどうしたら幸せなんて単語が出てくるのか。俺にはよくわからないな」
 改めて、その名を呼ぶ。
「ダイヤ。君は相も変わらず悲劇が好きだね」
 ダイヤと呼ばれた女は黄玉色(こうぎょくいろ)の瞳が特徴的だった。
 宝石のような輝きを持つ眼は、夕日の赤みを一切寄せ付けない確固たる決意に満ちている。
「ここから先は時間通りに運行するわよ、一寸狂わずに。あなたの意思など関係なく」
「悲劇の再来、不幸の超特急。ああ、かわいそうだな」
 わざとらしく言うクローバーにダイヤが呆れる。
「あなたが言うわけ、ソレを」
「ボクは悲惨な運命には常々、胸を痛めているのでね」
「……あぁ、そう」
「それよりもハートの件はどうなんだぃ?」
「順調よ。ハートはもうじき現界(こっち)に戻ってくる」
「そっか。それはよかったね」
「問題はスペードよ。あいつが戻れるかどうかは怪しいところだわ」
 ダイヤは溜息をついて、クローバーへと視線を向けた。
「どうするつもり? スペードなしではカードは揃わない」
「さすがにアダムは厄介だなぁ」
「かなり根深く殺したみたいね。本人の意思が壊れつつある」
「でも、完璧に消滅させたわけじゃない。断片があるならちゃんと戻ってこれるさ」
「で、あんたはそれまで傍観者を決め込むわけ?」
「俺らがどんな横槍をいれたって、最終的に決めるのはスペードだから」
 翡翠の瞳を細めて答えれば、ダイヤは一つ息を吐いて背を向けた。
「え、もう帰るの?」
 去りゆく背中に声をかければ、そっけない言葉が返ってくる。
「あなたと違って私はやることが山積みなの」
「君は忙しいのが好きだね」
「あなたは相も変わらず暇そうね」
「俺は」
 ダイヤは深々と溜息をついて、返事をした。
「結果のわかるものを見届けたいなんて暇人以外のなんでもないのよ」
「もしかしたら僕らの予想が外れるかもしれないよ?」
 そう、もしかしたら知らないことが起こるかも。
 喜々として、クローバーはさらに付け加える。
「なんたって時間が巻き戻ってるんだからねっ!」
「時間が巻き戻ったからこそ同じだって言っているのよ。ねぇ、あなたと私は同胞でしょ? 知らないことなど――――」
「わからないことなんて何もないはずなのに」
 ダイヤの言葉を封じて、クローバーがその空虚な言葉を口にした
「すべてを知って、なお分からないものがあるとすれば――――」
 それだけ言って笑った。
「……運命(ルール)に理由をつけたって何も始まらないよ」
 ダイヤは一瞬だけ眉間に皺をよせ、すぐ元の冷たい表情になって言う。
「魔王の件はあなたに任せるわ」
「……任せる、か」
「なに、不満かしら?」
「いいや。魔王くんとは、どうにも奇妙な縁があると思ってね」
「あっそ」
 そっけなく答えて、早々にこの場を後にしようとするダイヤである。
 去り際に、ついクローバーは訊ねてみた。
「カーエンは」
 と、口に出してから止まる。
「……何?」
 ダイヤに催促されれば、自然と続きが浮かんだ。
「カーエンは、宗也くんの友人なんだってね」
「そうみたいね」
「彼女はどう動くかな?」
「……気づいていたわよ、時間が巻き戻ったのに」
 ダイヤがしみじみと言う。
「やはり魔導士でも格の違いがあるわね、アランは気づいてはなかったから」
「えっ……、君はアレを魔導士と呼んでるの? ……ねぇ、ダイヤ。もしかして何か悩み事でもあるのかな? 俺でよければ相談にのろうか?」
 本気で心配してくるクローバーをみて、ダイヤは思わず黙った。
 無言のまま、すごく嫌な顔をしているダイヤに、クローバーは満面の笑みを送る。そうして本題へと入った。
「カーエンは運命を捻じ曲げる、かな?」
「さぁ?」
 まるで関心を示さないダイヤに、クローバーはつい肩を窄める。
「興味ない?」
「ないわね。誰が何をしようが、私の進路は何も変わらない」
 ダイヤはそっけなく言って、無駄話には付き合ってられないといわんばかりに、速足でこの場を後にした。
 去ってゆくダイヤを見送って、クローバーは再び沈みゆく太陽を見、そして手を伸ばした。
「選べる道は一つだけ」
 クローバーもそしてダイヤも軌条(レール)の上を歩いている。
 この(レール)に、疑問を持ったことはない。まして、この道以外の選択肢もない。
「だけど、時々思うよ」
 もしかしたら、僕らとは違う道もあったのではないか、と。
 手が届きそうで届かない太陽を確かめるように触り、空虚な感触に目を細める。

 ――――不可侵の領域に手を伸ばした君だからこそ、例え(方法)は違えども、必ず同じ結論(場所)に辿りつく――――。



 
 ◇



 逢魔が時。
 それは出会うべき者が逢わなければならない時刻。

 エンカは、水月神社の鳥居をくぐった。
 小さな山の上に立っている本殿へ向かうべく、階段を上っていく。
 百九十九段ある厄介な石階段は、幅も歪なら高さも歪だった。学校の階段の三個分の高さがあると思ったら、次にはその高さが三分の一にまで狭まっている。形も大きさも全てがてんでバラバラで、昇りやすさも利便性をも意識されていない。このデコボコとした石たちを(階段)と呼ぶには少し疑問があるが、それでも自然と風景にはよく馴染む階段だった。
 太古から続く道は、樹木に覆われており、何かこの世の秘密が隠されているのではないかと思えるほどに神秘的である。
 聖域に続く階段を半分ぐらいまで昇りきると、ちょうど太陽が見える場所に出た。
 この場所から見える夕日はひときわ燦燦と輝いていて、神々しい。あまりの絶景に、つい足を止めて見入ってしまう。
 太陽の暖かみには正直、救われている。
「……宗也」
 エンカは、始めて出来た友達の名を呼んだ。

 かけがえのない存在――――。

 代わりなんてどこにもいない特別な幼馴染。
 たまたま生まれたとき家が近かったから、たったそれだけの理由で、エンカの傍に居てくれた特別な人。

 ……だけど。

 宗也は限りある世界(現界)に生きる人間で、特別でも何でもない。ただの人間(部品)
 終わることが決まっていて、死ぬことが決まっている、世界細胞の一つ。
 この世界の(仕組み)から外れているエンカとは決定的に違う存在。
「魔導士は、全てを知る運命にある」
 呟いてから、唇を噛みしめた。
 決して何も言わないように強く口を結ぶ。
 自然と、涙が出る。
 自分の感情など何も分からないように、エンカはその涙を拭った。
 知ったところで、変えられなければ意味がない。意味がないなら、この感情などあってないようなものである。
「……魔導士は、全てを知る運命にある」
 再び呟いて、噛みしめる。
 わからないことがないほどに、自分では、もう……、この世界は、どうしようもないことで溢れてる。
「私は、此の世界が――――」
 堪らなく好きで、堪らなく嫌い。

 時々、全てを壊したくなるときがある。
 すべてを壊してしまいたくなるときがある。
 なにもかもなくなれば、世界の運命(ルール)だけは変えられそうな気がするから――――。

 自己嫌悪を含んでエンカは夕日を見た。
 徐々に闇に呑まれ、そして沈んでいく太陽は、ただひたすらに明るかった。
 眩い光は、ときに人の心を慰め、そして励ます。
 再び零れ落ちた涙を拭って、エンカは頂上を目指して歩き始めた。

 そして、辿り着いた先に待っていたのは―――――。



 ◇ 



 エンカは待ち人をじっと見た。
 世界の部品でありながら、歯車であることをやめた男を。
 八つの白き翼を持つ(アラン)はエンカを見て、微笑む。

 ――――天使。

 魔術師たちはこぞってアランをそのように呼ぶ。
 アランの8つの純白の翼がまるで天使そのものだと口を揃えて言う。
 時にそれを聞いて不思議に思った一人の魔導士が魔術師たちに尋ねた。
 
 ――――いったい君たちはアレに何を期待しているのか、と。

 魔術師たちは、天使が正しいことを望んだ。
 ゆえに、彼は至言の異名を持つ。
 魔術師たちは、天使が慈悲深いことを望んだ。
 ゆえに、彼は慈悲をも司る。

 しかし、魔導士たちはその正体を知っている。

 彼は天使などではなく、また至言とは程遠く、慈悲深くもないことを。
 ある時、一人の魔導士が呟いた。
「アレは私たちの至言と慈悲によって天使と名付けられたに過ぎない」と。

 ―――――そして数日後、アランの事実を呟いたこの魔導士は現界から姿を消したのだった。

 改めてエンカがアランと向き合えば、ちょうど夕日が差し込んだ。
 純白の翼は、真赤な夕陽に照らされて、意図もたやすく赤く染まってしまう。
 無垢な白だからこそ、知れば知るほど何色にでも染まりうる可能性を秘めている。
「こうして二人きりで話すのは、いったいいつぶりでしょうか」
 アランのひどく優しい問いかけに、つい後ずさりをした。嫌な記憶と共に右目が疼く。
 この慈悲深い天使の、過去の所業を思い出し、わずかに声が震えた。
「……12年ぶりだな」
 12年前、この場所でエンカはアランに――――。
 エンカは、右目を確かめるように触って、アランを凝視する。
「どうか睨まないでください」
 困ったように微笑する天使はどこか悲し気である。
 いまだ罪悪感に苛まれているような仕草に、思わずエンカのほうがため息をつく。
「……わかってはいる」
 過去の件でアランを責めるのは無意味であって、今から話さなければならない問題とは無関係だ。
 しかしどうしてもこの天使にはそれ相応に想うところがあり、苦手意識がどうにも抜けない。
 慈悲深くまた至言の如く透き通った声を聞くと、否が応でも右目が痛む。 
 しかし、この感情は私情に過ぎず、世界とは無縁であることを魔導士たるエンカは知っている。
 エンカの感情(痛み)と世界秩序は、まったく別であることを痛いほどに知っているのだ。
「君があの部屋から、……いや。魔連から出てくるなんて珍しいな」
 出来る限り友好的な態度を示そうと、エンカは穏やかな口調で話しかけた。しかし、アランはエンカの好意を軽く受け流し、神妙な顔になって口を開く。
「あなたには……、また謝らなければならないことがあります」
 じっと見据えて、エンカはその先の言葉を待った。
「同胞であるあなたに我が騎士が剣を向けたと」
「――――違うだろ! アラン」
 話の途中で、エンカがすぐに異を唱えて睨む。
「何が、ですか」
 不思議そうに訊ねてくるアランに嫌悪感が増し、つい声を荒げてしまった。
「私に、ではなく、一般人(宗也)に魔術を使ったのが問題なんだっ」
「それはまぁ、……そうですが」と、アランはどこか納得いかなさそうに首をかしげた。
 その素振りに慈悲など微塵もなかった。
 冷酷なまでの無関心。慈悲深いはずの天使は、犠牲者に特になんの感情も抱いてはいない。
 エンカの苛立ちを感じてか、アランは申し訳程度の謝罪を付け加える。
「確かにエンカの仰る通り、それもよくなかったことですね」
「マリアが私に剣を向けたことはなんとも思っていない。むしろ彼女を咎めないでやってほしいくらいだ」
 だけど宗也の件は……と言いかけて口を閉ざす。
 いったい誰の差し金でマリアが宗也を襲ったか、そんなことは容易に想像できた。
 今の反応から察するに、アランにとって宗也はどこまでいってもただの一般人だ。宗也が何者であるかに気づいていない。
 となると、……真実を知りながらマリアと接触できる者は必然と絞られる。
 エルリズ内部で絶対的な発言力を持ち、また人心を操ることに長け、世界の真理を知る者など、あいつしか居ないのだから。
 組織の内情を知っているだけに、アランに何を言っても通じないことは明白だった。
「あなたが許すと仰ってくれるのなら、この件は不問と致しましょう」
 無垢なる天使は微笑する。
「しかし組織としての規律もあるので、彼女には少しばかり反省してもらっていますが」
「……それで、マリアの様子を聞きに来たのか?」
「まさか」と笑って、話を切り出した。
「あなたなら知っているのではないかと思いまして」
「何を?」
「何かを、です」
 はぐらかした物言いをするアランを一瞥してから、エンカは小さく息を吐いた。
「生憎、知ってることが多すぎてなんのことなのかさっぱりだ」
「近頃どうも歪みが活発すぎて困りますね」
 唐突に、アランが言う。
「あなたのご友人までもが魔物に襲われたそうじゃありませんか」
 不慮の事故が起こるのはどうにも悲しいものだとアランは微笑する。
 エンカは慈悲深くてわざとらしい天使を前に、目を伏せて無言のままに応じて内心で思惑を巡らせた。
「しかしです。偉大なる魔導士(同胞)よ。なんでも知っている魔導士(あなた)の前で、どうして不慮の事故など起こり得るのでしょうか」
 あぁ。嫌な話題だと想った。
 とくにアランからソレを言われるのは、ひどく自分が間違っているような気がしてしまうから。
「おまけに、歪みから出てくる魔物風情に、魔導士である貴方が遅れをとるなどということがあり得るのでしょうか。いくら転生して間もなく、力の大半をいまだ封印しているとはいえ、あなたは正真正銘の魔導士。なんでも知れるだけの力を持つあなたの前で、不慮な事故などありえない」
 エンカが何も言わずにいれば、アランは確信へと迫る。
「私なりの推測なのですが……、宗也くんが魔物に襲われて瀕死の重体を負ったのは、本当は不慮の事故などではなくて、死ななければならない運命(ルール)だったから、では?」
 つい口を強く結んだ。
 アランの推測はおおよそ当たっている。
 ただ一つ、気づいていない点があるとすれば――――。
 エンカはどこか諦めたような風を装って、ゆっくりと語る。
「ああ、その通りだ。……だが、あいつは私の……初めてできた友達だ……、……いきなりそんなことを言われたって……」と、俯きがちにエンカが答えれば、天使は慈悲でもって慰める。
「友人を失うのは誰だって受け入れがたいことですよ、エンカ。あなたは悪くはない」
「ありがとう、アラン。……君は同胞(私たち)ばかりを大事にするから、この気持ちはあまり理解されないかと思っていた」
「それは誤解です、エンカ。私は人々の愁いに常々心を痛めています」
 アランの優しい言葉に、ついエンカは肩の力を入れる。
 やはりアランとエンカとは根本的に違う。魔導士として、もって生まれたモノが違いすぎる。
 この忌まわしき真実に今だけは少し救われたような心持になって、それでいてひどく罪悪感をも覚えた。
「どうして宗也くんが世界秩序(ルール)に引っかかったのかは謎ですが、大方、時の魔術師関連なのでしょう」
 アランが探るように訊ねれば、エンカはその通りだといわんばかりに頷く。
「時間軸が動いたんだ。過剰な自浄作用が働くのも当然だろう」
 そう。
 現在、世界は第二次世界大戦後の改変よりさらに深刻な状態になっている。
 時の魔術師は、その力を使って時間を巻き戻した。これにより三世界は大きく乱れた。
 この乱れこそが歪みの正体であり、歪みの発生はすなわち魔物の出現を意味し、魔物との遭遇はすなわち民間人にとっての死である。
 時間軸の変動によって、あちこちで不可解な怪奇事件が起こりつつあり、そしてこれから先、歪みによる犠牲者が増えることが確定しているのだ。
「世界は人の犠牲によって、自らの歪みを調整しようとしている」
「早く止めなければなりませんね。……しかし、時の魔術師は本当に厄介な存在です」
 アランは悲し気に言って、そうしてエンカをじっと捉える。
「偉大なる影の魔導士よ。貴女にお願いがあります」
 仰々しく頼むアランを一瞥して、エンカは涼しい顔でその心意を探る。
「なんだ?」
「時の魔術師がどこにいるか教えていただけませんか?」

 ――――……あぁ。
 
 エンカは内心で、よかった、と呟いた。
 真赤な夕日に照らされて赤く染まった翼より、さらに真赤なエンカの瞳が妖しく光る。
「契約をしよう、アラン」


 ◇



 ――――どんな誓いでも必ず守らなければならないというのなら、あなた自身は契約などしないほうがいいのだろう。

 約束の満月の日。
 宗也は意気揚々と待ち合わせの場所に向かう。
 今日は、待ちに待ったひよことのデートの日だ。
 待ち合わせ場所で佇んでいると、唐突に見知らぬ青年に話しかけられた。
「人の心って難しいね」
 翡翠の瞳の青年がぽつりと言う。
 どうやら宗也と同じようにこの場所で誰かを待っているようだった。
 しかし青年は、悲痛な面持ちで悲壮感を漂わせている。
 ひどく落ち込んでるような態度に、つい宗也は思ったことを口にしてしまった。
「もしかして振られたんですか?」
「え?」
 宗也の予想に反して、翡翠の青年は首を傾げる。
 そうして数秒の沈黙の後に、今更ながら質問の意図に気づいたようで「あー……」っと感嘆を漏らした。
「……あっ、いや、そのっ」 
 不躾な質問が口から飛び出てしまい、むしろ宗也のほうがばつの悪い思いをする。
 弁明を試みるも何も思いつかず、しどろもどろになってしまう。
 こんなことを見ず知らずの人に言うべきじゃなかったと後悔するも後の祭りである。
 なんとか弁明しようとしている宗也を見て、青年が苦笑まじりに言う。
「あぁ、振られ慣れてるから気にしないで」
 あっさり返されて、思わず二度見した。
「むしろ君のほうこそ、待ち人来ず、じゃないのかい?」
「いえ……、俺は待ち時間より早く来ただけなんで」
「殊勝だねぇ」
 と、青年は人の好さそうな笑みで関心している。
 そして唐突に、青年はとんでもないことを言い出した。
「君はさ、愛、してる?」
「はぃ?」
「だから愛だよ。愛、してる?」
 思わず、無言になる。
 ……いったいこの人はなんなんだろうか。
 困惑してる宗也を他所に、青年が少しばかり意地悪そうに笑う。
「まぁ、愛してくれなきゃ困るのだけどね」
「は、はぁ……?」
「なんでも願いが叶うなら――――」
 と、どこかで聞いた言葉を呟いて、翡翠の目がじっと宗也を捉えた。
 このくっきりとした瞳に微かな既視感が湧く。
 一寸の歪みなき高潔が宿る眼は、どこかエンカのようで……。
 宗也が呆然としていると、青年がその続きを口にした。
「っていう悪魔のささやきがありました」
 意地悪く言ってから、青年が目を細めて問いかける。 
「その囁きに耳を貸してしまった青年は、願いを叶えてもらう代償に、一体なにを約束したでしょうか」
 一瞬、後退った。
 動揺が表れたのは青年の言葉に対してではない。自らが勝手に膨らませた想像に対して、だ。
 しかし、宗也が思い至った可能性はあくまで空想にすぎず、現実では悪魔なんて出てきていない。
 あの石――なんでも願いが叶う石――に願った通り、宗也はかわいい彼女ができた。願いが叶ったのは紛れもない事実だが……、決して悪魔に願ったからではない。
「……っ」
 それに、あの石には願いを叶える力はない、と雷三は断言した。だから、なんの問題もないはずなのに……、なぜか妙な胸騒ぎがする。
 咄嗟に平然を装って、青年に問いなおす。
「えーっと、それってどういう意味ですか?」
「さて、どういう意味でしょう」
 質問を質問で返してくる男は、ニッコニコの笑みである。
 人の好さそうな笑みを浮かべたままに、青年が語る。
「もし何でも願いが叶うなら――――、俺はあらゆるものを無力化させることから始めるね」
 確固たる意志が宿る眼は、夜だというのに仄暗いところがひとつもなかった。
「悪魔を超えて神さえも、……いや、宇宙の始まりすらも無為にしてみせる」
 再び、宗也は思ったことが口から飛び出る。
「変人だぁ……っ!」
 確信する。
 これはエンカ並みの変人だ。
「うっわー、初対面でソレを言う? ちょっと傷つくなぁ」
「ちょっとですか」
「うん、ちょっとだね」
 まったく傷ついていない様子で、青年は嬉しそうに笑う。
「なにせ言われ慣れているのでね」
「は、はぁ」
 振られても動じない。
 変人扱いされても,まったく動じない。
 この人の並み外れた鋼のメンタルにちょっとだけ関心してしまう。
「おーい、黒羽!」
 遠くで誰かを呼ばわる声がしたのでみれば、卯月が近寄ってきた。
「よっ、卯月。それに悟浄も来たのか」
「って高校生くんじゃん」
 宗也が軽く挨拶すると、悟浄が不思議そうに訊ねる。
「こんなところでどうしたんだ。もしかしてデートか?」
 つい図星をつかれて言葉を失った。
 動揺して口をパクパクしている宗也に、悟浄が苦笑する。
「すまん、冗談で言ったつもりだったんだが」
 卯月がニタニタして畳み掛ける。
「そうなんですよぉ~、悟浄さん、彼、これからデートなんですよぉ~」
「うわー、その絡み方うざいやつだよ」
「えー。黒羽にソレ言われんの?」
 心外そうに卯月は返して、改めて黒羽を紹介する。
「こいつが俺に魔心を教えてくれた、噂の黒羽くんです。悪魔と書いてクロバと解きます」
「へぇ、その心は?」
「心優しい天使です」と、シレッと黒羽が返した。
 悟浄がいぶかし気な様子で黒羽を凝視すれば、黒羽は「ふふ」っと一人勝ち誇ったように笑ってる。
「全然しっくり来ないけど? ってか全然謎掛けになってないじゃん」
 卯月が抗議するも、黒羽はどこ吹く風で笑ってる。
 その様子を見て、悟浄がこっそりと宗也に耳打ちした。
「卯月に負けず劣らず変わってる奴だから、あんまり関わるなよ」
「ひどいなぁ~、悟浄。むしろ俺は君らよりよっぽど正常な側なんだけどなぁ。……まぁ、俺らのような奴とも仲良くしてよ。君の知らない意外な新境地に辿りつけるかもよ?」
 地獄耳の黒羽が楽し気に言えば、同じく耳が良いウサギも同意した。
「そーそー俺たち、奇人変人魔人ペア! 魔心求めるラービット」
「……嬉しそうに訳の分からんことを言うな」
 悟浄が眉間に皺を寄せて言うと、黒羽がふと言葉を漏らす。
「そういえば最近は黒を悪い意味で使ってはいけないそうだよ」
「ちょっと待てぃ~~っ! 悪魔が悪いと誰が決めた! 天使の語る正義が必ずしも善行ではないことを、人類の歴史が証明しているではないですか! ねぇ、悪魔さん」
「そうだね、ウサギさん。悪魔だってたまにはいいことをしてるものだよ」
 二人のやりとりに悟浄が深々と溜息をつく。
「はぁ、……まぁ、どう転んでもお前が天使はないからな。黒羽」
「えー? 俺はホンモノの天使より、よっぽど優しいよ?」
「卯月を唆さないでくれ」
「そんなつもりはないのだけど。誤解を与えているのならごめんね?」
「悪びれていないだろう」
 悟浄に睨みつけられて、黒羽が悲し気に言う。
「あぁ、俺は悟浄の天使にはなれないのかなぁ」
「……悪寒がする物言いをするな」
 嫌がる悟浄に、ニッコニコの黒羽である。
 悟浄は深々とため息をついて、黒羽と卯月の耳を引っ張った。
「とにかく行くぞ」
「ちょ」
「お前らを野放しにしておくと無粋なことをしでかしそうで困る」
「いたっいたたっ! 痛いって悟浄」
「わー」
 と、二人は引きずられていく。
 去り際に、黒羽がにっこり笑って口を動かした。

 ――――またね。

 っと、呟いたような気がした。



 ◇



 嵐のように現れては消えていった黒羽らを見送った後、少し遅れてひよこがやってきた。
 ひよこは来て早々に息を切らせて謝罪する。
「ごごごごごめんなさいっ、仕度にてまどってしまいました……っっ」
「俺もさっき来たところだから大丈夫だよ。……あっ」
 宗也はひよこの髪が乱れているのに気づいた。
 肩で息をしているところを見ると、どうやらここまで大慌てで走ってきたのだろう。
 その様子が頭に浮かんで、つい手が伸びる。
 さりげなく触れた髪は肌ざわりのいい柔らかい感触がして、愛おしかった。軽く髪を梳いて微笑みかけると、ひよこが頬を紅に染める。
「あ、ありがとうございます」
「行こうか」
「はぃっ……!」
 二人は手を繋いで、桜並木を歩いていく。
 満開の桜が咲き誇る道は、満月と祭提灯に照らされて、神秘そのものだった。
 時折、散りゆく花びらが頭上で舞った。まるで月が桜を輝かすようである。春風で木々が揺れる度、キラキラとした結晶体が空中で踊り祝う。
 うっすらと栄える精華は、ただひたすらに可憐だった。
「キレイだね」
 宗也がそれとなく言えば、ひよこが柔らかく微笑む。
 このさりげない一瞬が、なんだかお互いの気持ちが共有されているようで嬉しかった。
 どこか現実離れした幸福感に包まれながら、幻想郷に続いていくような神秘的な道を進んでいく。
 すると、屋台などの出店が並んでいる通りに出た。
 りんご飴や水風船などの定番の屋台から奇抜な流行を取り入れた変わった出店まで、かなりの数がある。
 二人は出店を見回りながら、人込みの中で外れないように手をつなぎ、常にその存在を確かめ合った。
「俺、夜桜祭って始めて来たなぁ。結構賑わってたんだね」
「ええ。毎年商店街の方々が頑張ってるみたいです」
「正直、小さいお祭りだからって侮ってたよ。そういえば、ひよこって誰かと来たことある?」
「去年は里奈ちゃんと一緒に来ました」
「ああ、彼女か」
 宗也は、自分が初めてではない事実に、内心でちょっとだけ残念がる。
 こんな些細なことで嫉妬してしまう自分に呆れつつ、ひよこの友人の話がもっと聞きたくなった。
 どんな風に友達と過ごしているか、どんな風にひよこが今まで過ごしてきたか。
 ひよこの事がもっと知りたくて、話を振る。
「そういえば里奈さん、全快したみたいでよかったね」
「…………」
 急にひよこが無言になって、足を止めた。
「ん、どうしたの?」
「宗也君」
 呼ばわれて首を傾げる。
「そのっ、……里奈ちゃんのこと、……イワン博士から何も聞いていないんですか」
「とくに聞いてないけど」
「そ、う、ですか」
「何かあったの?」
 ひよこは頷き、答える。
「心が抜かれた状態だと聞きました」
 深刻な顔で告げられて、学校で時折みかけた里奈を思い起こした。
 クローバー・ビルでの一件以降、何度か見かけているが、とくに調子が悪いとか異常があるようには見えなかった。だから心が抜かれたと言われてもまるでピンとこない。
 不思議に思っていると、ひよこのほうがその疑問を口にした。
「心がこの世界にはないって、いったいどういう意味なんでしょうか」
「んー」と、宗也は考えてみる。
 心がない。
 言葉にすると、まるで冷血非道な人間のように思われるが、無論そういう意味ではない。
 魂がない状態という表現がしっくりくるかと思ったが、魂がないというには、学校での里奈の姿は生き生きとしているようにさえ見えた。
 なんと形容するか悩んだ末に、宗也は口を開く。
「……ゾンビみたいな感じかな」
「ゾンビですか?」
 ひよこが首を傾げる。
「ただ生きててるだけ。生きることに彷徨ってるっていうのかな……。生きる目的もなく、叶えたい夢もなくて、目標がなくて、なんのために生きてるのかわからない感じ」
 そこまで行って、宗也はふと思った。
「って考えてみるとさ」
 と、前置きを入れて、改めてひよこを見る。
「生きてる定義って難しいね」
 宗也の言葉にひよこがキョトンとする。
「ただ呼吸をしてるだけで生きているっていうなら、里奈さんは間違いなく生きてる。俺には普通の人間のように思われる」
 そう、里奈は生きている。
 心が何かよくわからない人間にとって、間違いなく里奈は宗也たちとなんら変わらない。
「だけど、その状態を心がないと魔術師(イワンら)に言われると、なんつーか考えさせられる。生きるってどういうことなんだろうって。心って、なんなんだろうって」
 ふいにエンカの言葉を思い出してしみじみと口にした
「冥界は空想が形を成す世界だって、エンカが言ってたんだ」
 旧校舎で初めて此の世ならざる魔物(モノ)と遭遇して、冥界の断片に触れて、宗也なりに辿りついた結論がある。
「――――それってきっと、なんでも願いが叶う世界、なんだろうな」
 満月を見上げて、ひよこが月に語り掛けた。
「なんでも願いが叶うなら」
「……その言葉って、実際はちょっと違うんだ」
 宗也もひよこと同じように、煌々と夜空に君臨する月を見上げて言う。
「冥界での本当の意味は――――誰もの願いが叶う――――ってことなんだと思う」
「誰もの願いが叶う……?」
「それって、どんな世界なんだろうね。みんなの願いが叶う場所ならいい世界だって言えるのかな」
 ひよこは顔を伏せて言う。
「もし本当にあらゆる人の想像が形になったら、それってちょっと、……不安です」
「どうして?」
「……ひとって、善いことだけを望む生き物ではないから」
 ひよこの言葉に宗也は内心で同意する。
 クローバー・ビルで出会った血肉を求めて這いずるあの怪物が、まさにその答えのように思われた。
 しかし、宗也は自らの結論に反論する。
「俺はさ、人は善いことを願うものだと思う。だからきっと悪いことがしたくて、悪くなる人間なんていないんだと思う」
 宗也が力強く言うと、ひよこは微笑んだ。
「私もそうであってほしいと思います」
 二人が話ながらに歩いていると、ちょうど六月池に辿りついた。
「ここが六月池……っ」
 夜桜に囲まれた古池は月の輝きを得て、淡い青色に発光していた。
 青く輝く池の中央には、くっきりと満月が映し出されている。
「綺麗だ」と宗也が褒めるより早く、周囲がどよめいた。
 周囲がざわつく中、うっすらと「ライトアップなんてあったか……?」と小さな声が聞こえてくる。
「……?」
 ひよこもなんだか様子が変だ。
 視線の先を追えば、池の中を覗いている。
 不思議に思って宗也も見れば、水そのものが青く光っているのがわかった。
 突然、ひやりと冷たいものが鼻先に触れた。
 頭上を見上げれば白い結晶体がゆらゆらと落ちてくる。

 ――――雪だ。

 季節外れの白雪が降っている。
「見て下さいっ!」
 ひよこが悲鳴にも似た声をあげて、池の中央を指さす。
 示された場所を凝視すると、……無数の腕が伸びてきているのがわかった。
「……え?」
 唖然とする宗也の背中に誰かがぶつかった。
「おっと」
 彼は、すぐさま謝罪を口にする。
「ごめんっ、ぶつかっちった。怪我無い?」
「え? ……ええ、大丈夫です」
「そ、悪いね」と笑う青年は、特徴的な四葉のクローバーのペンダントをしている。
 宗也はこの形に見覚えがあるような気がしたが、はっきりとは思い出せなかった。
「おいっ、ハチ。もたもたすんな、さっさと行くぞ」
 ハチと呼ばれた青年は、すぐに黒パーカーの後を追いかけて行く。

 ――――なぜだろうか。

 池の中に垣間見える無数の手よりも、宗也はこの青年の異様な瞳が気がかりだった。
 不自然なほどの高揚感に溢れ、期待と希望と夢とに満ちた、場違いなほど楽しそうな濁った瞳。
 呆気にとられている宗也の横で、ひよこが息を飲む。
「……くるっ」

 水面から歪な腕の軍勢が浮上した――――。

第十一章


 来たる夜の、来たる時の、来たる人の――――。
 
 北の空が蒼く染まった。
 青藤桜の花片が舞い散るこの場所で、世界は人知れずに変調する。
「見送りに来てくれたのかぃ?」
 ここに一人、また一人。
 新たなる始まりのために終わろうとしている者たちがいる。

 トルベロ・T・トリンティアは、かの偉大なる魔王の出陣を祝うために、冥界の辺境、青藤桜に囲まれた鏡池(キョウチ)にやってきた。
「ああ、お前の間抜け面で乾杯しようと思ってな」
 今にも消えてしまいそうな背中に言葉を投げかけて、ニヤリと笑う。
 そしてト再度確認するように、トルベロは問い直す。
「本当に行く気なのか?」
「もちろん」
 一点の迷い無き返答に、思わず口元が緩んでしまう。

 魔王とは、やはりこうでなくては――――。
 魔術を極めれば必然と此の世界の裏も表も知る羽目になる。

 真実の断片を味わって尚、王を名乗らなければならなくなった憐れなこの王の決意を垣間見る度に、トルベロは胸が躍るような気持ちでいっぱいになった。
 世の中の無限の苦悩と永遠の苦渋とを背負っている彼の後ろ姿は、悲痛であり、悲惨であり、悲劇であり、またとてつもなく高貴であって、英気に充ち、傲慢で、とんでもなく独りよがり。
 その姿はまるで昔のトルベロにそっくりだった。

 似ても似つかないはずなのに、今や同じ道を歩むことになった同士。
 夢幻の狭間に閉じ込められたトルベロにとって、魔王はなによりの救いであり、また勇逸無二の希望でもある。
「なら、乾杯しようぜ?」
 その門出を祝福するべく、持参したワインをあけようとしたとき、ひんやりとしたモノが首筋に当たった。
 トルベロが首筋を確かめようとすれば「動くな」と、低い声が聞こえてくる。
 自然と嫌な予感がした。
 殺意を帯びた剣先は、寸でのところで止まっているものの、生きた心地はしなかった。
 冥界の領主であるトルベロの背後をとれる人物なんて、この世界には数えるほどしか居ない。
 その数少ない者たちの中で、真っ先に浮かんだのは、容赦を知らない少年の姿。
 ごくりと息を飲んだトルベロに対して、当の訪問者は非常にうれしそうに言う。
「なぁトルベロ。俺は、お前に魔王を止めろ、って言ったよな? 忘れたとかはナシだって御約束したよなぁ~?」
 剣を片手に満面の笑みで責め立ててくる青髪の少年に、トルベロは降参のポーズを示した。
「ジィド、勘弁してくれよ。俺は見送りに行くって言ったろ? 止める、とは言ってねぇ~んだよなぁ」
「ごたごたうるせぇ! このバカネズミがッ!」
 剣ではなく足で蹴りを入れようとしてくるジィドを躱して、トルベロはサッとスーツの襟を整える。
 ジィドは舌打ちして、剣の矛先を変えた。
「なぁ、レオ。善い世界には善いルールがある。あんたがこれからやろうとしてることはさぁ、善い世界にとっての、合法か違法か。応か否か。ハイかイイエか、イエスかノーか。善行か悪行か。なぁ、どっちだよ」
 ジィドに剣を向けられて尚、魔王レオは鏡池を覗いたまま、その視線を決して外さない。
 レオがなんの反応も示さないので、ジィドは痺れを切らせて声を荒げた。
「おいっ! レオ! 聞いてんのかよっ!」
「ああ、聞いてるよ」
「なら答えろよ!」
 急かされても、やはりレオは返事をしない。
 ジィドは苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちをして、むしゃくしゃと頭をかいた。
「なぁ、現界にいく必要なんてねぇだろ。魔王様、此処(ここ)があんたの居場所だ。冥界(ここ)じゃあ、あんたは満足できねぇ~っていうつもりかよっ!」
「ボクの幸せはここにはないんだ」
 即答されて、ジィドは悪態をつく。
 冥界は何でも願いが叶う至上の楽園である。
 この楽園の中で幸福がないと断言されるのは、つまりは、この世界が実は監獄に過ぎないといわれてるようだった。
「じゃあさぁ! お前の幸せって一体なんなんだよ……っっ!」
 イライラとした調子でジィドが反問するも、レオは柔らかく笑うだけで何も応えない。
 返事がないので、ジィドの眉間の皺がさらに色濃くなっていく。
 その様にトルベロがつい堪えきれず、会話に加わった。 
「つまりは、最高の不幸が欲しいってことだろ」
「はぁ?! バッカじゃねぇのっ! 楽園から出てくとか呆れてものがいえねぇよっ!」
 いまだ悪態をついているジィドの横で、静かに佇んでいた黒装束の女がゆっくりと口を開いた。
「冥王はきっと許さないわよ」
 女の声に、レオが振り返った。
 ヴェールを被った彼女は、その表情は見えないものの、レオを(ねめ)つけるような鋭い声で言う。
「あなたがあちらとこちらを繋げるならば、必ず死神から()われることにもなるでしょう。ここは無限の世界。……それなのにわざわざ有限を求めて出ていくのね?」
 レオは少し視線を外して、困ったように笑った。
「シャトリーナ。俺はね、キセキを求めてるんだよ。俺達(・・)は、この場所では、決して幸せにはなれないんだ」
「馬鹿言わないで頂戴。私達(・・)は幸せよ?」
「君は幸せかもしれないが……、だがあの子は――――」
 と、レオが言いかけたとき、トルベロが両者の間に入った。
「まぁまぁまぁ~、いいじゃねぇ~かよ」
 シャトリーナとレオに空のワイングラスを渡して、餞別の真赤な果汁(ワイン)を注ぎ込む。 
「我らが王子が立派になって戻ってくるなら、そりゃ俺ら全員にとっても最高に楽しいってことだろっ?」
 レオの横でじっと主人の動向を伺っていた従者が、手渡されたワインを問答無用で捨てる。
「バカネズミ、レオ様は魔王様であってもはや王子ではないのです。あまり軽々しく接しないで頂きたい」
「あーはいはい、金魚のフンのアルベルト。レオ様はてめぇにとって永遠の肛門だもんな。他のやつに触られたくなんかないよなぁ~~?」
「なッ?! な……、なっっ、な!! なにを言ってるんですかっ、あなたはっ!!!!」
「うるせぇうるせぇうるせぇ~~~っ! 大きい声だすんじゃねぇ~~よぉ!」
 飛び切り大きな声で怒鳴るジィドに、シャトリーナが溜息をつく。
 皆の楽し気なやりとりに、ついレオも笑みを零した。そうしてシャトリーナに向き合って、改めて告げる。
「僕がいない間、あの子のことを守ってやってほしい」
 誠意に溢れた真摯な言葉に、シャトリーナは一瞬だけ動きを止める。
 不自然な静止の後、腕を組んで思いやりに溢れた言葉を口にする。
「あなたが二度と私たちの目の前に現れないことを、現界の魔導士たちにめった刺しにされることを、心の底から祈っているわ」
「うーん、ひどいなぁ」
「その言い方よっ!」
 ジィドが嬉しそうに目を細める。
「お前ってそっくりだよな、あいつに」
 一瞬、誰のことを指しているのか分からずにレオは驚いたが、すぐに心当たりが出来て苦笑した。
「…………教え子は先生に似るものだからね」
 一滴の血の繋がりがなくとも、長年一緒にいたせいか、似てしまうものがあるようだ。
 トルベロは、懐かしい面影をレオから感じて、居ても立っても居られず、身を乗り出す。
「なぁ、クローバーに逢ったらさぁ、今度ポーカーしようぜって言っといてくれよ」
「大富豪じゃなくて?」
「大富豪はダメだろ。うっかり革命しちまうかもしれねぇ~からなっ!」
 喜々として話すトルベロに、ジィドが「わかってねぇなぁ」と得意になって言う。
「いいか、クローバーじゃ勝てないんだぜ? ジョーカーを討てるのはスペさんだけだ。スペードを失くした今、最後の大勝負、千代万世の大革命は起こせねぇだろ?」
 トルベロは、愉し気なジィドの姿が意外で、ついその顔をまじまじと見てしまう。
「スペさんだけじゃねぇ。俺ら全員、役者が揃わねぇと意味がねぇんだからなっ!」と、笑う青髪頭(ジィド)は、とても幼げで無邪気だった。
 わざわざこんなところまで追ってきたのだから、無理やりにでもレオを止めるのだと思っていた。しかし、意外にもジィドにはその気はないようだ。もしかしたらトルベロと同じで、この監獄に飽きたのかもしれない。
「……意外と乗り気じゃん」
 トルベロがぽつりと漏らせば、ジィドは目を見開いてから、表情を崩して笑う。
「本当は止めたいんだぜ? わざわざこの楽園を壊して、渦中の地獄(現界)に導こうとする大馬鹿野郎を見過ごすなんてしたくねぇよっ! だが……」
 言葉を止めて、ジィドは俯く。
 そうして深々とため息をついてから、言葉を続けた。
「たくっ……。ヘタレの魔王様よ、あんたは此の世界に必要な存在で、あっちの世界には不要な存在なわけ。そこんとこ、ちゃんとわかってんか?」
 顔を覗きこむように訊ねてくるジィドに、レオは柔らかく笑う。
「見過ごしてくれるのかぃ?」
「俺が黙ってても死神は見過ごさねぇだろうがな。だが、当分は内緒にはしておいてやるよ」
 ジィドはニヤリと意地悪く、それでいてどこか優し気に笑って、剣を納めた。
「せいぜいシキに殺されんなよ」
「十一勝」
「あ?」
「最後にシキと戦ったのは、百年前だな」
 ぽつりと呟いたレオの言葉に、ジィドは驚きを隠せず絶句した。
「おまっ……、まさ、か……、あ、あいつに勝ったことあんのっ……?」
「早食いでならクローバー先生にだって勝てるよ。魔導士は食が細いからね」
 平然と答えるレオの言葉に、ジィドは面食らう。
 横では「確かにそうだな」とトルベロが大きく笑う。
 そのやりとりを見ていたシャトリーナが溜息交じりに、場を濁した。
「十一って、円盤では一足りない数字よね」
 さりげなく漏れたシャトリーナの一言に、ジィドが目を反らしながらに返事をする。
「十三よりはマシなんじゃねぇの? 余るってのが1番辛いだろ」
「まぁまぁまぁ。なんにせよ、一は始まりを意味する。十字がついたってそりゃ変わらねぇさ」
 トルベロはワイングラスを掲げて、乾杯する。
「新たな始まりを祝福しようじゃねぇか」
 赤い雫の極上の香を楽しんで、その味の愉快さを想像して笑った。
「楽しんで来いよ、レオ」
「ああ、楽しんでくるね、トルベロ」


 ――――――――例え、永遠を壊すことになったとしても変えてやろうじゃないか、此の世界。

第十一章


 来たる夜の、来たる時の、来たる人の――――。
 
 北の空が蒼く染まった。
 青藤桜の花片が舞い散るこの場所で、世界は人知れずに変調する。
「見送りに来てくれたのかぃ?」
 ここに一人、また一人。
 新たなる始まりのために終わろうとしている者たちがいる。

 トルベロ・T・トリンティアは、かの偉大なる魔王の出陣を祝うために、冥界の辺境、青藤桜に囲まれた鏡池(キョウチ)にやってきた。
「ああ、お前の間抜け面で乾杯しようと思ってな」
 今にも消えてしまいそうな背中に言葉を投げかけて、ニヤリと笑う。
 そしてト再度確認するように、トルベロは問い直す。
「本当に行く気なのか?」
「もちろん」
 一点の迷い無き返答に、思わず口元が緩んでしまう。

 魔王とは、やはりこうでなくては――――。
 魔術を極めれば必然と此の世界の裏も表も知る羽目になる。

 真実の断片を味わって尚、王を名乗らなければならなくなった憐れなこの王の決意を垣間見る度に、トルベロは胸が躍るような気持ちでいっぱいになった。
 世の中の無限の苦悩と永遠の苦渋とを背負っている彼の後ろ姿は、悲痛であり、悲惨であり、悲劇であり、またとてつもなく高貴であって、英気に充ち、傲慢で、とんでもなく独りよがり。
 その姿はまるで昔のトルベロにそっくりだった。

 似ても似つかないはずなのに、今や同じ道を歩むことになった同士。
 夢幻の狭間に閉じ込められたトルベロにとって、魔王はなによりの救いであり、また勇逸無二の希望でもある。
「なら、乾杯しようぜ?」
 その門出を祝福するべく、持参したワインをあけようとしたとき、ひんやりとしたモノが首筋に当たった。
 トルベロが首筋を確かめようとすれば「動くな」と、低い声が聞こえてくる。
 自然と嫌な予感がした。
 殺意を帯びた剣先は、寸でのところで止まっているものの、生きた心地はしなかった。
 冥界の領主であるトルベロの背後をとれる人物なんて、この世界には数えるほどしか居ない。
 その数少ない者たちの中で、真っ先に浮かんだのは、容赦を知らない少年の姿。
 ごくりと息を飲んだトルベロに対して、当の訪問者は非常にうれしそうに言う。
「なぁトルベロ。俺は、お前に魔王を止めろ、って言ったよな? 忘れたとかはナシだって御約束したよなぁ~?」
 剣を片手に満面の笑みで責め立ててくる青髪の少年に、トルベロは降参のポーズを示した。
「ジィド、勘弁してくれよ。俺は見送りに行くって言ったろ? 止める、とは言ってねぇ~んだよなぁ」
「ごたごたうるせぇ! このバカネズミがッ!」
 剣ではなく足で蹴りを入れようとしてくるジィドを躱して、トルベロはサッとスーツの襟を整える。
 ジィドは舌打ちして、剣の矛先を変えた。
「なぁ、レオ。善い世界には善いルールがある。あんたがこれからやろうとしてることはさぁ、善い世界にとっての、合法か違法か。応か否か。ハイかイイエか、イエスかノーか。善行か悪行か。なぁ、どっちだよ」
 ジィドに剣を向けられて尚、魔王レオは鏡池を覗いたまま、その視線を決して外さない。
 レオがなんの反応も示さないので、ジィドは痺れを切らせて声を荒げた。
「おいっ! レオ! 聞いてんのかよっ!」
「ああ、聞いてるよ」
「なら答えろよ!」
 急かされても、やはりレオは返事をしない。
 ジィドは苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちをして、むしゃくしゃと頭をかいた。
「なぁ、現界にいく必要なんてねぇだろ。魔王様、此処(ここ)があんたの居場所だ。冥界(ここ)じゃあ、あんたは満足できねぇ~っていうつもりかよっ!」
「ボクの幸せはここにはないんだ」
 即答されて、ジィドは悪態をつく。
 冥界は何でも願いが叶う至上の楽園である。
 この楽園の中で幸福がないと断言されるのは、つまりは、この世界が実は監獄に過ぎないといわれてるようだった。
「じゃあさぁ! お前の幸せって一体なんなんだよ……っっ!」
 イライラとした調子でジィドが反問するも、レオは柔らかく笑うだけで何も応えない。
 返事がないので、ジィドの眉間の皺がさらに色濃くなっていく。
 その様にトルベロがつい堪えきれず、会話に加わった。 
「つまりは、最高の不幸が欲しいってことだろ」
「はぁ?! バッカじゃねぇのっ! 楽園から出てくとか呆れてものがいえねぇよっ!」
 いまだ悪態をついているジィドの横で、静かに佇んでいた黒装束の女がゆっくりと口を開いた。
「冥王はきっと許さないわよ」
 女の声に、レオが振り返った。
 ヴェールを被った彼女は、その表情は見えないものの、レオを(ねめ)つけるような鋭い声で言う。
「あなたがあちらとこちらを繋げるならば、必ず死神から()われることにもなるでしょう。ここは無限の世界。……それなのにわざわざ有限を求めて出ていくのね?」
 レオは少し視線を外して、困ったように笑った。
「シャトリーナ。俺はね、キセキを求めてるんだよ。俺たちは、この場所では、決して幸せにはなれないんだ」
「馬鹿言わないで頂戴。私たちは幸せよ?」
「君は幸せかもしれないが……、だがあの子は――――」
 と、レオが言いかけたとき、トルベロが両者の間に入った。
「まぁまぁまぁ~、いいじゃねぇ~かよ」
 シャトリーナとレオに空のワイングラスを渡して、餞別の真赤な果汁(ワイン)を注ぎ込む。 
「我らが王子が立派になって戻ってくるなら、そりゃ俺ら全員にとっても最高に楽しいってことだろっ?」
 レオの横でじっと主人の動向を伺っていた従者が、手渡されたワインを問答無用で捨てる。
「バカネズミ、レオ様は魔王様であってもはや王子ではないのです。あまり軽々しく接しないで頂きたい」
「あーはいはい、金魚のフンのアルベルト。レオ様はてめぇにとって永遠の肛門だもんな。他のやつに触られたくなんかないよなぁ~~?」
「なッ?! な……、なっっ、な!! なにを言ってるんですかっ、あなたはっ!!!!」
「うるせぇうるせぇうるせぇ~~~っ! 大きい声だすんじゃねぇ~~よぉ!」
 飛び切り大きな声で怒鳴るジィドに、シャトリーナが溜息をつく。
 皆の楽し気なやりとりに、ついレオも笑みを零した。そうしてシャトリーナに向き合って、改めて告げる。
「僕がいない間、あの子のことを守ってやってほしい」
 誠意に溢れた真摯な言葉に、シャトリーナは一瞬だけ動きを止める。
 不自然な静止の後、腕を組んで思いやりに溢れた言葉を口にする。
「あなたが二度と私たちの目の前に現れないことを、現界の魔導士たちにめった刺しにされることを、心の底から祈っているわ」
「うーん、ひどいなぁ」
「その言い方よっ!」
 ジィドが嬉しそうに目を細める。
「お前ってそっくりだよな、あいつに」
 一瞬、誰のことを指しているのか分からずにレオは驚いたが、すぐに心当たりが出来て苦笑した。
「…………教え子は先生に似るものだからね」
 一滴の血の繋がりがなくとも、長年一緒にいたせいか、似てしまうものがあるようだ。
 トルベロは、懐かしい面影をレオから感じて、居ても立っても居られず、身を乗り出す。
「なぁ、クローバーに逢ったらさぁ、今度ポーカーしようぜって言っといてくれよ」
「大富豪じゃなくて?」
「大富豪はダメだろ。うっかり革命しちまうかもしれねぇ~からなっ!」
 喜々として話すトルベロに、ジィドが「わかってねぇなぁ」と得意になって言う。
「いいか、クローバーじゃ勝てないんだぜ? ジョーカーを討てるのはスペさんだけだ。スペードを失くした今、最後の大勝負、千代万世の大革命は起こせねぇだろ?」
 トルベロは、愉し気なジィドの姿が意外で、ついその顔をまじまじと見てしまう。
「スペさんだけじゃねぇ。俺ら全員、役者が揃わねぇと意味がねぇんだからなっ!」と、笑う青髪頭(ジィド)は、とても幼げで無邪気だった。
 わざわざこんなところまで追ってきたのだから、無理やりにでもレオを止めるのだと思っていた。しかし、意外にもジィドにはその気はないようだ。もしかしたらトルベロと同じで、この監獄に飽きたのかもしれない。
「……意外と乗り気じゃん」
 トルベロがぽつりと漏らせば、ジィドは目を見開いてから、表情を崩して笑う。
「本当は止めたいんだぜ? わざわざこの楽園を壊して、渦中の地獄(現界)に導こうとする大馬鹿野郎を見過ごすなんてしたくねぇよっ! だが……」
 言葉を止めて、ジィドは俯く。
 そうして深々とため息をついてから、言葉を続けた。
「たくっ……。ヘタレの魔王様よ、あんたは此の世界に必要な存在で、あっちの世界には不要な存在なわけ。そこんとこ、ちゃんとわかってんか?」
 顔を覗きこむように訊ねてくるジィドに、レオは柔らかく笑う。
「見過ごしてくれるのかぃ?」
「俺が黙ってても死神は見過ごさねぇだろうがな。だが、当分は内緒にはしておいてやるよ」
 ジィドはニヤリと意地悪く、それでいてどこか優し気に笑って、剣を納めた。
「せいぜいシキに殺されんなよ」
「十一勝」
「あ?」
「最後にシキと戦ったのは、百年前だな」
 ぽつりと呟いたレオの言葉に、ジィドは驚きを隠せず絶句した。
「おまっ……、まさ、か……、あ、あいつに勝ったことあんのっ……?」
「早食いでならクローバー先生にだって勝てるよ。魔導士は食が細いからね」
 平然と答えるレオの言葉に、ジィドは面食らう。
 横では「確かにそうだな」とトルベロが大きく笑う。
 そのやりとりを見ていたシャトリーナが溜息交じりに、場を濁した。
「十一って、円盤では一足りない数字よね」
 さりげなく漏れたシャトリーナの一言に、ジィドが目を反らしながらに返事をする。
「十三よりはマシなんじゃねぇの? 余るってのが1番辛いだろ」
「まぁまぁまぁ。なんにせよ、一は始まりを意味する。十字がついたってそりゃ変わらねぇさ」
 トルベロはワイングラスを掲げて、乾杯する。
「新たな始まりを祝福しようじゃねぇか」
 赤い雫の極上の香を楽しんで、その味の愉快さを想像して笑った。
「楽しんで来いよ、レオ」
「楽しんでくるね、トルベロ」


 ――――――――例え、永遠を壊すことになったとしても変えてやろうじゃないか、此の世界。



 ◇



 現界にて。
 
 虚無の手の軍勢は、鏡池に映し出された満月を突き破り、浮上した。
 黒煙と共に勢いよく現れた歪な手の軍勢は、まるで火山が憤怒したように、ものすごい勢いで立ち昇る。火柱の如く天空へと伸びていき、そうして遥か頭上で限界点に到達して急降下してくる。
 手の軍勢が降ってくる。何かを探して、なにかを求めて、ナニカを欲して、手を伸ばしている。
 歪な軍勢が凄まじいスピードでこちらに向かってくる。その様は、頭上から地獄の亡者が手を伸ばしているようだった。
 その場にいた誰とも知れぬ人が甲高い悲鳴を上げる。
 ただ硬直するしかなかった人々が、警告音にも似たその悲鳴によって、咄嗟に正気を取り戻して駆けだした。と、同時に落下してきた虚無の手の軍勢が無防備な人間たちへと襲いかかる。
「キャーーーー!!!!」
 宗也はひよこの手を引いて、樹木の下へと駆けこんだ。
 ほとんど無意識だったが、この行動が功を奏した。
 間一髪で、落下してくる手の軍勢に当たることなく、また虚無の手に捕まることなく、二人は難を逃れることができたのだ。
 咄嗟のことで息を撫でおろすも、安堵することなどできず、周囲が瞬くまに地獄絵図へと変わったのは言うまでもない。
 逃げ遅れた人々は、虚無の手に掴まれ、悲痛な声をあげている。
 この忌まわしき手たちは、掴んだものに集まってくる習性でもあるのか、すぐに群れとなって獲物の全身を覆い尽くした。その光景は、まるで蜂の軍勢に襲われるかのようで、しかし蜂と比べるにはあまりにも悍ましい姿。
 憐れな犠牲者たちは、くぐもった悲鳴を発しながらのたうち回るも、その抵抗虚しく、グシャリと何かが潰れる音と共に倒れ込んだ。
 嫌に鉄臭いにおいが周囲に漂う。動かなくなった物体からグチャグチャという不快な音が発せられ、赤い液体が滲みだす。
 一つ、また一つと、歪な手の群れが形成されては、肉と骨とをへし折る音が響いた。
 悲惨な叫びと懇願とが入り混じる狂気の中、皮肉なことに宗也は気づく。
 元凶である虚無の手の軍勢らは、彼らが手であるが故に、それら一切を聞くこともまた見ることも叶わず、ただひたすらにナニカを求めて、手を伸ばしては集まって、掴んでは壊してを繰り返している。
 この光景に、宗也はひよこをぎゅっと掴んだ。
 ナニカを求めて病まない精神を具現化したかのような怪物には、正直、見覚えがある。
「クローバー・ビルでみた魔物にどこか似ている」
 たが、今まで見てきた魔物とは何かが決定的に違う。
 血肉を求めているという点は瓜二つで、現界に存在してはならないところがまさにそっくりだったが……。
 前者の魔物らと違って、この虚無の手の軍勢は、透明ではなく鮮明な姿形を得ている。半透明な部分など存在しない。人の手そのままの姿をしている。現実には存在し得ない空想上の、いわゆる二次元的なナニカではなく、確固たる人の形を成している。
 いうなれば、人の空想にすぎない物が、その想像主である人の姿形を真似て、こちら側に這い出してきたのだ。
 なんとも言い難い気味の悪さを覚えて、背筋に嫌な汗が流れた。
 この魔物は、おそらくこれまで遭遇してきたものとは一線を画すのかもしれない。
 此の世界にとって、何か不吉なものを孕んでいるようにさえ思われた。
 さらに嫌なことに気づき、宗也は息を飲んだ。 
 前回の魔物の遭遇時には、エンカたち魔術師らと共に居た。だが、今回は違う。なんの力も持たないひよこと二人きりだ。
 クローバー・ビルでの惨状が脳裏に甦る。目の前の惨劇の光景が、より鮮明に事実を告げる。
 魔物と人との関係は、捕食者と餌との関係だ。遭遇は即ち死を意味する。
 宗也は魔物への対抗手段を一切持ち合わせていない。魔術というチート技がなければ、人は無防備な餌に過ぎないのである。
 見つからないようにするのがせいぜいで、万が一にでも目があえば、それは全ての終わりを意味する。
「…………だが」
 幸いにも、この魔物には目はついておらず、捕まらなければ逃げ切れる可能性がある。
 宗也は逃げ道を探すべく、周囲を見渡す。
 そして気づいた。
 この虚無の手の軍勢は、誰かを掴んだ瞬間に、他の彷徨っていた手が一斉に方向転換をする。その瞬間、逃げられる通路が確かに出来上がるのである。
 巧く囮を使えば、おそらくこの場から逃げることが出来る。
「宗也くん……っ」
 ひよこがギュっと宗也を掴んで、あらぬ方向を指さした。
 示された場所を凝視すれば、宗也らと同じようにジッと身を隠している人たちがいた。
 どうやらこの場にはまだ数名の生き残りがいるらしい。
 つい、先ほど思い立った作戦が脳裏に浮かんだ。だが、すぐに首を振った。
 どんな理由があれ、他者を犠牲にする方法を宗也は嫌悪する。例え、この場で生き残ることが出来たとしても、後の人生で後悔なくスッキリとした心情でいられるかは別だからだ。
 囮を使って生存して、他人を犠牲にして生きて、それで自分だけは悠々自適に暮らして、安心して気持ちよく過ごせるとは、宗也にはとても思えないのである。今がよければそれでいい、とは、なれないのである。
 どうせ生きるなら後世一生、清々しいままに生きたい。
「……っ」
 これは心からの想いだった。
 だが、宗也の信念とひよこの生命とは、まったくの別の問題だ。
 現状を打開する方法がある以上、避けては通れない道だろう。
 宗也は意を決して、ひよこに話す。
「こいつら、掴んだものに集まる習性があるから、誰かが囮になれば助かると思う」
 淡々と告げ、ひよこへと微笑みかける。
「俺が囮になる。だからひよこは」
「ダメです」
 ギュッと袖を掴んで、ひよこは力強く言う。
「みんなが助かる方法を探しましょう」
 ひよこの理想的な言葉とは裏腹に、目の前の現実は、すでにみんなが助かる道などないことを告げている。
 なにせこの場にはもうあちらこちらに死体が溢れており、この死んだ人たちはなにをどうやっても助からず、またその死骸の仲間は今この瞬間にも増えているのだから。
 皆が助かるなんていうお綺麗なものは、すでにこの場には存在し得ない。
 宗也はぎゅっと拳を掴んで、空を見上げた。
「危ない道を私なら安全に渡れる」
「え?」
「昔、エンカがいってた言葉だよ。あいつは何をやるにも運があった。俺にも運があるなら、この状況も切り抜けられるだろう」
 ひよこは、一瞬だけ目を見開いて、声を荒げた。
「それはただの無謀です!」
 やけに耳に響く言葉だった。
 宗也は内心でひどく驚く。ひよこに怒られたのは初めてで、普段は大人しい彼女がこうも怒りを顕わにするなど露ほども思っていなかった。
 ひよこは厳しい表情のまま、さらに告げる。
「花月さんがそのように言えるのは、彼女が魔導士(特別)だからです。私たちとは違うからです。運なんて不確かなものを当てにして物事に挑んでいるわけじゃないからですっ。そのことがわからない宗也くんじゃないでしょう!」
「だけど、このままここに居ても」
「他にも方法はあるはずです。私たちは魔法を使えないけど、だけど、何も出来ないわけじゃないですから!」
 強く言われて、宗也は改めて考え直す。
 現実を直視した上で、魔法が使えない宗也が思いついた苦肉の策が自己犠牲であったのだが……、こうも強く否定されるとは思わなかった。
 しかし、冷静に考えてみれば当然だとも思えた。
 宗也が誰かの犠牲を欲しないように、またひよこも宗也に犠牲になってほしくないのだろう。
「……はぁ。当然だな」
 ひよこに怒られ、彼女の気持ちに触れて、少し頭が冷えた。
 確かにいろいろと思考放棄していたかもしれない。
 普段は考えることが趣味のような宗也だが、こういう土壇場――――いうなれば理論じゃどうにもできないこと――――を前にすると、どうも感情が勝ってしまうらしい。感情だけで物事を押し通すような無謀野郎を止めてやれるのが自分のいいところだと思っていたのだが、どうやら違ったようだ。
「慎吾と居るときは冷静でいられるんだけどな」と心の中で苦笑する。
 宗也よりも冷静で、筋の通らないことはしっかりと諫めてくれるひよこをとても頼りに想う。
 安心を得て、焦りと恐怖で鈍っていた思考が正常に戻るのが分かった
 落ち着いて考えれば、自然と思考の幅も広がる。
「……そうだ!」と、宗也が閃いた。
「動くものに反応するなら、別に人じゃなくてもいいのかも。木の枝とか、何かを投げればそちらに行くかもしれない」
 言い終えるや否や、宗也は近くに落ちてあった枝を拾う。
 ひよこと顔を見合わせてから放り投げた。
 小枝は一つの手に当たり、すぐに他の歪んだ手の軍勢が方向転換をする。
 宗也の予想通りだ。短い間だが、確かに逃げ道が浮かび上がる。
「よしっ」
 手ごたえを感じ、声が出た。
 周囲にいた人たちも宗也らの意図を察したらしく、近くに投げられるものがないか探し始めた。
 息を整え、タイミングを見計らって、生き残っていた全員が一斉にモノを投げる。逃げ道がきちんと確保できるように出来るだけ遠くに。
 わらわらと歪な手の軍勢が枝へと群がっていく。
 その瞬間に逃げ道が出来る。
 誰とも知れない人の合図の元、みなが一斉に駆け出した。
 途中、こちらに向かってこないように、さらに遠くにモノを投げつつ、みんな必死に走った。
 こちらの作戦通りに方向転換する怪物の様子に、つい宗也は心が躍った。
 ――――やっとこの場から出られる。
 外がどうなっているかは分からないが、少なくともここより安全だろう。
 宗也が生還への道に胸を膨らませていると、ふとグイっと足を引っ張られた。
「えっ………?」
 何が起こったのか分からないまま足が(もつ)れてその場に倒れこむ。
 嫌な感覚をおぼえながら、恐る恐る足元を見れば、まだわずかに息が残っている人間と目が合う。
 手の軍勢に捕まってすでに体のあちこちが潰されており、腹部から下はもう人の形をしていなかったソレが譫言(うわごと)を呟いた。
「――――オレ、をミステテ、逃げるなんて、許さなイ……」
 息も絶え絶えの中、男が言う。
「――――ゆるさ、ないから」
「――――おま、え、ら。……だけ、……にげ……る……なんて、……許さな、……い、から」
 悲痛な訴えに宗也のあらゆる思考が止まる。
 気付けば、ほとんど無意識で男を抱きしめていた。
「ごめん」
 何の意味もない謝罪だったけど、なぜか無性に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。唐突に口から飛び出た言葉は、なんの脈略もない一言だったが、心の底からの言葉であった。
 どうして宗也らだけがこの手に捕まることなく助かって、この人たちだけが死んでいくのか。
 世界とは、なんて理不尽なのだろう。

 もし、の話をするならば――――。
 否、確かな予測の元に語るなら――――。

 宗也とひよこが無事に木の影まで逃げられたのは、つまりはこの人たちが捕まってくれたおかげなのである。この人たちが捕まって囮になってくれたから、宗也とひよこは≪偶然なる幸運≫を手に入れて、無事に木の影に避難できたのだ。手の群れが≪偶然なる不運≫な人たちへと向かっていたから、宗也らは無事に逃げることが出来るのだ。
 つまり、宗也らが助かったのは、この犠牲者たちのおかげ。

 ―――――意識しようがしまいが、人は元より屍の上に立っている。

 頭の中でぐるぐると不条理な此の世の摂理が駆け巡る。この理不尽な運命の差に理由を探してみるも、その答えは宗也にはわからない。
 なんとも言い難い感情が湧き出してきて、この場から動けずにいると、死にかけの男がシクシクと咽び泣くのがわかった。    
「宗也くんっ!!」
 出口付近で、ひよこが叫ぶ。
 どうやら彼女は無事に逃げ切れたようだ。
「……よかった」
 必然と肩の荷が落ちた。
 ひよこの安否が知れただけで、もう十分だった。もうここで、宗也の仕事は終わったのだと思えた。
 もともと彼女を守るために犠牲になってもいいと思っていた。例え死ぬことになったとしても、ひよこが生きてくれるなら何の問題もない。
 手の軍勢がじりじりと迫り来る。
 呆気なく壊れる囮では、とうてい満足できなかった手たちが、宗也の元に集まりつつある。
「ああ、俺はこの場で死ぬ」と想える瞬間だった。
 ほとんど無抵抗のまま、宗也は虚無の手にガッシリと掴まれた。
 宗也を破滅へと導く手は、想像よりもずっと小さかった。想像よりもずっと必死だった。必死になってナニカを求めて、ナニカを見つけて、決して手放さんと震えている。まるでその様は、ナニカに怯えているようにさえ思えた。
 小さいはずなのにその力は恐ろしく強い。此の世ならざる見た目にふさわしい異常な握力だ。
 ミシミシと骨が軋んでいく。ジンジンと血管が塞き止められる。肉が裂けるような感覚に思わず悲鳴が出る。
 決して声には反応しないはずなのに、また一匹、また一匹と、まるで呼ばれているかのように集まってきては宗也を捕まえる。
 この絶望的な状況に反して、宗也の内心はひどく穏やかだった。
 なにせ目の前には無事で居てくれるひよこの姿が見えたから。
 あっという間に群がってきた手たちに全身を覆われかけた時、――――閃光が走った。
「大丈夫か!」
 薄れゆく意識の中、辛うじて見えたのは雷三の姿だった。



 ◇



 宗也はゆっくりと目を覚ました。
 目の前には闇が広がっており、いっさいの光という光が存在しない虚無がある。
 いったいここはどこだろう、と闇の中を彷徨っていると声が聞こえた。
「――――宗也」
 聞き慣れた声に呼ばれて、その方向へと歩いていく。すると光が輝く何かを見つける。あまりの眩しさに目が眩んだ。
 その隣には誰かが立っていて、その者は、太陽のような笑みを浮かべて、ナニカを伝えるべく口を動かす。
「宗也くんッ――――!!」  
 気付けば、抱きしめられていた。
「無事でよかったっっ、よかったですッ。ほんとによかったッッ――――!」
 ひよこが涙をぽろぽろと流しながら、宗也を力強く抱きしめる。
 肩を震わして泣きじゃくるひよこをほとんど無意識で抱きしめ返す。
 やや気まずそうに雷三がぴょこんと顔を出した。
「無事でよかった、一時はどうなることかと」
 おぼろげな意識の中で、宗也が訊ねる。
「……ここは?」
 目覚めたばかりの宗也に雷三が説明する。
「荒木の経営している病院だ。宗也が手の魔物に襲われた後、偶然にも悟浄たちと出会って、ここに運んできてくれたんだ。……しかし、まぁ意識が戻ってよかった。かなりやられたみたいだから、……そのっ、どうなることかと」
 雷三は宗也の全身包帯まみれの体を見て、顔を伏せた。
 数秒の沈黙が生まれる。
 沈黙の中、宗也は全身の感覚を確かめた。
 包帯の適度な圧迫感と、また仄かに尾を引く手の感触とが入り混じり、だんだんと意識がはっきりしていくにつれて、あちこちが痛んだ。
「あの――――」と、宗也は言いかけて押し黙った。
 あの、胴体から下が無くなった男の、その後を聞こうとして口を結ぶ。
 あの人が助からなかった理由と、自分が助かる理由とを模索しては、その違いに苦しむ。
 どうして、と問うたびに、どうしようもない答えが浮かぶ。その答えに辿りつくたびに、心が痛んだ。
 雷三が俯きがちに話を続ける。
「あの魔物たちは、一応僕が退治した。だが、……どうも変なんだ。倒しても倒しても、……いや、倒せば倒すほど六月池から沸いてきた」と、言って雷三は窓の外を見る。
 気になって窓のほうへと視線を向ければ、大きな腕が見えた。
 先ほどの手の軍勢があちこちに見えた、さらには青黒い化け物までいる。
 絶句する宗也の横で静かに雷三が言う。
「街中に魔物が溢れかえっている」
「冥界の扉が開かれたんだろう」
 唐突にカーテンが開いた。
 中に入ってきたのは五龍大学で出会った黒服の荒木である。
 荒木は宗也を一瞥してから、隣のベットを見た。
 つい同じように視線を向ければ、悟浄が居心地わるそうに病床(ベット)に臥せている。
「お前ら二人とも運がいい。魔物と出会って生還できる人間はそう多くはねぇ。……日頃の行いの賜物だな。よく神に感謝するこった」
 荒木が頭をぽりぽりとかいて小さく言えば、後ろからそれを皮肉る者がいる。
「神がいるというのなら、ぜひ問いたいものですねぇ。なぜあのような悍ましい生き物たちを此の世に降臨させたのか」
 現れたのは、白衣姿の小太りな男性である。
 この小太りの男は宗也の傍に来て、早口で身体の具合をあれこれと訊ね始める。
「ああ、そうですか、痛みはまだ残っていると。しかしまぁ、とりあえずは無事に意識が戻ってよかったですね。ああ、そうだ、骨が何本かいってますので、当分は動いたらだめですよ。だいたい一か月ぐらいは入院が必要ですかねぇ。ひとまずの手術は負えてるので安心してください。リハビリの開始は――――。ああ、いったい、なにがどうなったらこんな怪我をしてくるのか。あっ……、言わないで下さいよ、できれば想像したくありませんからね。はぁ……。埒外の惨事が身近なものになるなんて」と、口早に言って嘆いたかと思えば、ハッと気づいたように男は名乗った。
「こいつは失敬、私は隆連(りゅうれん)と言います。そこの荒木先生のツテで、この病院を預かっている、まぁ雇われ医師というやつですね。安心してください、私はとても腕の良いお医者さんだと近所でも評判なんですよ、なにせ」と、聞かれてもいないのにあれやこれやと話出す。
 その様子に荒木は苦笑して付け足した。
「まぁ腕は確かな医者だ」
 雷三がつられて苦笑する。
 二人の様子を意に介さず、隆連はひたすらに話をつづけた。
「――――ああ、しかし、どうするんですか、荒木さん。あのような化け物が徘徊する世界になるなんて、いったい誰が想像しましたか? ………いやほんと誰が想像しちゃったんでしょうかねぇ、あんな化け物を。はぁ……。考えただけでも先が思いやられますよ。どうするつもりなんでしょうね、我らが大先生方は。まさかこの惨事を見て見ぬふりとか? いや、そんなわけないですよね? こんな異常事態を放置するなんて…………、まさかそんなことあるわけないですよね荒木さん。長啓様だってきっと嫌ですよねっ、きっと動いてくれますよねっ。自分の教え子が傷つくのなんて、嫌にきまっていますよね? それとも……、やっぱり……、どうでもいいと想っているのでしょうか。ああ、どうしよう! ずーっとこのままだなんて言われたら! 大変ですよ! 一大事だッ! ……ああ、しかし待ってください。……どうしましょう、嫌な考えばかりが浮かんでくる。だって彼らが知らなかったなんてこと、絶対ないんですから。それなのに、こうして惨事が起こったってことは、つまりその……、俺らは――――」
「おーちーつーけー!」
 止まらぬ調子の隆連に、荒木はガツンと喝を入れる。そうして懐からタバコを取り出した。
「学生の前で、その話はすんじゃねぇ」
「……患者のいるところで、タバコは吸わないでください」
 正論で返され、荒木は大きく笑った。
「確かにそうだな、隆連の言う通りだ。俺はちょっくらタバコ吸ってくるから、ここは任せたぞ」
「院内は禁煙ですよ?」
「安心しろ、外で吸ってくる」
 隆連の肩をポンポンと叩いて荒木は踵を返す。
 ひらひらと手を振って出ていこうとする荒木を、悟浄が慌てて止める。だが、静止も虚しく、荒木は「任せておけ」とだけ言って、笑って出て行くのであった。
 呆気にとられている悟浄の横で、隆連がホッと胸をなでおろす。
「やっぱこういう時に頼りになりますよね、あの人。普段はどうも冴えない人なんですけどね、こういうときにはやっぱり荒木さんの部下でよかったなぁっなんて思いますよ、まぁこういうときだけですけどねっ」
「先生っ、止めなくていいんですか?! 外は化け物で溢れてるんですよ!」
「ええ、ええ、大丈夫です。止めなくったってへっちゃらです、むしろ止めたっていいことないですよ。ああみえて荒木さんは強いんですから、そりゃもうほんと強いんですからね。あんなへんちくりんな魔物なんか瞬コロですよ、イチコロですよ、なんたって腕だけはいいですからねあの人。実力でいったら、うちの盟主様とトントンなんでしょうかねぇ荒木さんは。あっ、でももちろん、長啓様とは違いますがね。そうだなぁ、わかりやすくいうなら、藤原様が嫉妬するぐらいには、荒木さんもまた御強いんですよ」
 何を言ってるんだかいまいち分からないが、宗也なりに察しがついたこともある。
「もしかして、……荒木さんは、魔術師なんですか?」
「魔術師?」と、悟浄が首を傾げれば、隆連が勢いよく頷いた。
「ええ、ええ、そうですよ荒木さんは魔術師なんです、しかもただの魔術師じゃなくて超強い魔術師です。どうです、安心安全でしょう? ……っと……、やべっ……。あー、いや、えーっと」と、言い淀む。
 雷三が澄んだ瞳で隆連をジッと捉える。
 恐ろしいほど澄んだ瞳が、まるで鏡のように隆連を映し出した。その様に隆連はアタフタとして、手振りを交じりて否定する。
「いやいやいや、だめだ、だめですよ。その、ちがいます、そんな目でどうか見ないでください。本当に違うんですから、ええ、えぇ、そうですともそうですとも、違うに決まっているじゃありませんか! だって魔術師なんているわけないでしょうっ。本当に、いちゃいけない存在なんですからね。ああ、いけない、いけない。そうだ、こんなところでこんなことしてる場合じゃなかった。なにせ私は忙しい身でしてね。なんたって巷で人気のお医師様ですからねっ!」
 と、苦し紛れに述べてから隆連はスタスタと扉のほうへと向かっていく。
 そうして別れ際に、宗也らに忠告する。
「いいですか? 絶対に、この病室から出てはいけませんよ。安静にしててくださいね。万が一にでも外にでようものなら、どうなってもしらないですからねっ。絶対にここにいてくださいね、約束ですよ!」と早口で言って、そそくさと退出した。
 残された宗也らは顔を見合わせる。
「魔術師って、どういうことだ?」
 宗也がこれまで知り得たことを悟浄に説明した。
「にわかには信じられない話だが……」
「だが、事実だ。ボクは天界から来た、此の世界の住人じゃない」
 雷三がさらりと応えれば、悟浄は目を丸くしてから外をちらっとみた。
 窓の外には依然として魔物が跋扈している。
 悟浄は雷三と魔物とを見比べてから、深々と息を吐く。
「確かに、この世界しか存在しないとは言い切れないな」
 雷三が改めて皆に訊ねる。
「これからどうする? ここで状況の好転を待つか、それとも何か封印の目途を探すか」
 雷三が問いかけると同時に、ずっと黙っていた卯月が顔をあげた。 
「どうするっていっても、どうしようもないんじゃない?」
 ぶっきらぼうに言って、卯月はスマホを机に放り投げる。
 どこか投げやりな様子であり、またいらだっているようにも見えた。
「あんな化け物を前にしちゃうとさぁ、嫌でも思うよね。俺らなんて虫けら同然なんじゃないかなぁって」
「卯月」と、悟浄が苦い顔で制止する。が、卯月は止まらない。
「いいかぃ悟浄。どうするなんて聞かれたって俺らに選択肢なんてほとんどないんだよ。宗也くんと悟浄は負傷してて動けない、俺と彼女(ひよこ)さんは悲しくなるほど無力。この状況で、何故だとか、どうするだとか、聞かれたって困るんだよ。どうしようもないんだからさっ」
 卯月はさらに声を荒げた。
「だいたいさ、黒羽を六月池に置いてきてんの。はぐれて、そのまま。なぁ、この意味わかるだろう? あいつ見捨てて、俺らだけ逃げてきてんだよ。で、俺はそれが最善だと思ったからここにいるわけ。なぁ、これって間違い? この状況で、どうする?って……。どうもできないってわかってるからこうなってるんじゃん。どうするの結果が今なんだよ。逃げる以外の選択肢なんてなかった。それなのに、どうするって……」と、卯月は繰り返し、言葉を区切る。
 唇を噛みしめる卯月に、悟浄は顔を伏せた。
 同様に、宗也も何も言い出せず、口を閉ざす。
 気まずい沈黙を破ったのは、ひよこだった。
「花月さんたちはどうしてるんでしょうか」
「なるほど、エンカならこの状況にも心当たりがあるかもしれない」
「連絡をとってみようか」
 宗也がエンカへと連絡を入れるべく、ひよこからスマホを受け取る。
 すると、パリンっと乾いた音が鳴った。次には硝子が飛び散った。
 慌てて音の方向へと視線を向ければ、大鎌を持った謎の黒装束が窓から病室へと入り込んでいた。

「――――」

 すぐさま雷三が身構えて戦闘態勢に入る。しかし、すぐに絶句した。
「な、………ぜ、……、あな、たが……ここ、……に?」
 雷三の小さな呼びかけに応じることなく、黒装束は大鎌を翳す。
 その瞬間、宗也は死の気配を感じた。

 ――――死神。

 大鎌と黒装束のせいだろうか。
 まっさきに浮かんだのは、死神という単語であり、次に脳裏に浮かんだのは、死神によって刈り取られる自分の魂。
 常軌を逸脱した空想と現実とが入り混じる中で、死神は静かに大鎌を振り下す。

 一つ、確かな未来が浮んだ。

 宗也には鮮明な一つの結果が視えた。
 首が飛んで、胴が朽ちる。
 全てが真っ赤に染まる予感。

「宗也君ッ――――!!!」

 ひよこの叫び声で、空想的な未来はより鮮明になる。
 まだ残っている首と、これからそれを奪う大鎌と。

 死を司る神と、大切な彼女(ひよこ)と――――。
 ――――死の間際、颯爽に顕れる幼馴染の姿が確かに視えた。


 ◇


 
 ――――影が蠢きしとき、月夜の灯が煌めいた。


 大鎌の動きがぴたりと止まる。
 色濃い死の香りが漂う中、眼前にいる死神と目と目が合う。 
 彼は、笑っていた。
 その笑みの真意を汲み取ることは出来なかったが、ただ彼が微かに喜んでいることは宗也にもわかった。
 狂気に満ちているとも、慈愛に満ちているとも、なんとも形容しがたき笑みのまま、死神が言う。
「惜しいか? この世界よりも――――」
 その問いに答えたのは、本来この場にいるはずのない幼馴染だった。
「いいや、惜しくはない」
 蠢く影より現れしエンカは、死神へと闇杖を向ける。
「ならば、なぜ邪魔をする」
「……あなたがたのやり方が気に入らないからだ」
 エンカは小さく答え、闇杖を握りしめる。
 蠢く影が四方八方から伸び、大鎌を覆い隠した。
 途端、宗也は息を吐出する。
 荒い呼吸を繰り返しては、いまだ生きている事実に震えあがった。
 この短い間に、何度か生死の境を彷徨ったが、今回ばかりは逃げられないと本能が告げていた。
 その証拠に、いまだ死の光景が鮮明に焼き付いており、いまだ生きていることに体が逆らおうとしている。呼吸をすることを身体が拒んでいる。
 自分ではどうしようもないほどに、身体は死神の命令に従おうとしているのだ。
「宗也は……死ぬの……?」
 雷三の声が響く。
 震える言葉に、宗也は抗いがたい運命を感じた。
 エンカが無表情のままに、雷三の疑問と宗也の不安に答える。
「彼女が死ぬか、宗也が死ぬかの、その二択だ」
「えっ……」
「私は、どちらも死ぬのが最善ではないかと想っている」
 エンカの返答に雷三が絶句する。
 動揺を意に介さずに、エンカが問う。
「死ぬことは悪か?」
 問われて、宗也は想う。
 死にたくない――――、と。
 善悪ではなく、ただ事実として死にたくはない――――、と。
「……わか、らない。でも、殺すのはよくないことだと――――」
「ならば、死神は悪か? 彼は生き物を殺す運命にある」
 言って、エンカは死神を見た。
 死神は影によって身動きを封じられており、ピクリとも動かない。
 雷三は、死神を見上げてから、苦い顔になって力なく答える。
「それは……っ、神と人とは違うからっ」
「ならばこそ私は問おう、天仙よ。神だけが許されて、人は許されないこの世界の(ルール)の歪さを――――」
 エンカの使役する闇影が雷三へと伸びていく。
「死を許容できるほど、人は、世界のルールに納得していない。なにせ皆が決めて作った法律(ルール)ではないからだ。まして世界を知らない者すらいる。にも関わらず、もしひとたびこの(ルール)に触れたならば、故意であろうと過失であろうと、必ず処罰を受けなければならないと定にある。人間に逆らう力はなく、ただその規則(ルール)に蹂躙されなければならないとするならば――――。私はこの現状を前にして、――――(ルール)を犯した故に刑に処す――――、このような判決を受け入れることは出来ない」
 雷三の動きを封じ、エンカは確固たる意志が宿る深紅の瞳で訴えた。
「まして、今の世界は悲惨だ。――――法を遵守すれば幸福になれる――――、これが本来、世界が持つべき規則(ルール)じゃないか。それなのに今の法律(ルール)はなんだ。誰の為の(ルール)だ。世界の為の、あらゆる者のための、ルールを制定してこそ天界の使者()ではないのか。天と称して、自らを神と称して、世界を区分して、神の幸福のみを守るためだけに世界規則(ルール)を利用しているだけじゃないか。現界や冥界の惨状には目もくれない。今の規則(ルール)は、法律(ルール)を守れば守るほど、多くの者が幸福から遠のく仕組みが成されている」
 雷三は、エンカの訴えに首を振る。
「そんなことはない」と、心の底から否定をしたかった。世界は幸福だと叫びたかった。皆が幸せだと言いたかった。
 だけど、現界は違った。
 現界は、誰もが幸せな世界じゃなかった。
 違法をする人がいる、盗みをする人がいる、さらには人を殺そうとする者もいて、人を恨む心が蔓延っている――――。
 悲しくなるほど、此の世界は平和で、幸福で、安らかなのに、誰の心も乱れてた。
 事実を噛みしめながら、それでも雷三は世界を信じる。
「……でも、大神さまは間違えないから」
 雷三が鏡のように澄んだ瞳で言えば、エンカは真っ赤な瞳でその心を射貫く。
「ならばいつの日か、その間違えない大神によって、間違わなければならなくなった人たちを雷三は見ることになるだろう。その人たちを君は裁くか?」

 そんな権利、僕にはない――――。

 云おうとして雷三は口をつぐんだ。
 何も答えない雷三に、エンカが問いかける。
「何が正しくて、何が間違いか、なんて……、本当は誰にも分からないものだよ」
 エンカは窓の外に広がる世闇を覗いて、さらに言葉を続けた。
「世界は創造主によって生成された。世界のあらゆるものを生み出したのは、全て創造主の責任だ。この世界は創造主の意によって秩序(つく)られている。にも関わらず、悪があり、罪があり、穢れがあるのは何故か。あらゆるものをつくった創造主はなぜ違法をも創るのか。時の魔術を使えるようにしながら、一方では、時の魔術は禁忌だと説いているのがこの世界だ。過去の改竄はルールに反する。始原に反する。始まりの捏造は、創造主の意を踏みにじるも同然。にも関わらず、時の魔術が存在するこの事実。人に時の魔術を扱えるようにしていながら、罰せよと命じるこの真実。一体、創造主は何を考えているのか。一体なにを想って此の世界(ルール)を創ったのか」
 雷三は目を瞑って、蠢く闇影から逃れんと抗った。
「わ、からないよ……っ」
「この世界の悪も、また創造主が生み出したに過ぎない。人が世界の歪みを生むことも、また世界の悪となることも、全て――――」
 エンカは、雷三に別れを告げるように云う。
「創造主を崇拝している天界に住まう君が、この確固たる矛盾にどう向き合うか、楽しみにしてる」
 そうして死神と再び対峙した。
「高潔なる天の使いよ、あなたは矛盾している」
 死神は、首を一回転させて、エンカを見遣った。
「人の理で我を断じるか」
「神の独善で、人を殺すのか」
 間髪をいれず即答するエンカに、死神は悠然と返答する。
「我は、死を望まぬ者には死を与えない。死を欲する者のためにある。魔導士よ、それが解らぬ使徒ではあるまい」
「宗也、君は死を望むか」
 もちろん、望むわけはない。
 死にたいと思ったことなど、一度としてない。
 だが、否定しようと首を振ろうとするも体が言うことを聞かない。まるで死を求めているかのようで、呼吸さえおぼつかなくなってゆく。
 死の運命から藻掻くように、必死になって叫んだ。
「――――生きたい!」
「我を呼ぶ者、即ち、死を求めし者。偽りは許されぬ」
「宗也、君は本当に死を望んでいるのか」
 エンカが鼓舞するように、再び問う。
 だが、宗也の回答するより早く、死神が口を開いた。
「人の口は嘘を吐く。心が叫ぶ声すら脳には伝わらぬ。真実は心に在り」
 死神の大鎌が大気を震わす。
「口と心と能とを有しながら己の業に気づかぬ憐れな子よ。どうかその心に問うてみるがいい。口は心を欺きはしないか、心は能を封じはしないか、能は口を偽りはしないか。よく己に問うてみるがよい。人は自らを択ぶ者。誠を貫くことも、また嘯くことも、全ては人の心のままだ」
 じりじりとだが、確実に大鎌が動き始める。
 大鎌を封じているはずの闇影がだんだんと薄くなってゆく。
「我は永遠の約束を守りし者。再生を司る者、復活を祝福する者、決して人を滅する者ではない」
 プチンっと影が途切れた。
 拘束から解き放たれた大鎌を、死神は掲げる。
「この終わりは新たなる始まりに繋がる。安心するがいい、人の子よ。安寧なる時を約束しよう」
 ひどく安心する声だった。
 宗也の脳裏に恐怖など微塵もなかった。
 穏やかな景色――――、まるで花畑が広がっているような、そんな錯覚さえ覚える。
 ゆっくりと下される運命(安らぎ)に、自ら首を差し出した。
「ダメェ――――っ!」
 ひよこの叫び声で、ハッとなる。

 ――――こんなに簡単には死ねない。

 まだやりたいことがたくさんある。
 出来ることなら、まだひよこと一緒に居たい。
 我に返ったように、宗也が顔をあげたとき、目の前が暗闇で覆われた。
 エンカが使役する蠢く影だ。
 闇影が宗也を包み込む。
 決して、何も見えぬようにと――――。

第十二章

 月と水とが共鳴する。
 御鏡(おんきょう)徒刑(とけい)(こよみ)が浮かび上がる。

 ――――青星、輝く夜のこと。 

 煌めく月夜の真下にて、池に浮かぶは魔法陣。
 円盤に刻まれし罪科の仕組が、月と水とを輝かす。
 月水の、契り暦の巡りにて、廻り始める時計盤。
 連動せしは世界軸。渦に飲まれる境界線。

 世界の楔が一つ、外れた時のこと――――。


 魔王レオナルド・ヴィンセントは世界の淵より、帰還した。

 現界に降り立つや否や、因縁の再会を果たす。
 出会った当初から何一つ変わらない恩師は、何を知らせなくとも、この場で待っていた。
「御無沙汰しております、クローバー先生」
 レオナルドは心からの敬意を込めて、御辞儀をする。
 クローバーはニッコリと笑って、冥界より帰還せし魔王を出迎える。
「お帰り、レオ。少し背が伸びたんじゃないか」
 まるでたまの休日に地元に帰ってきた親戚の子供を出迎えるような軽い調子で返されて、レオナルドはより一層に姿勢を正した。
 クローバーと最後に会ったのは、およそ三千年前である。
 三千年越しの再会にも関わらず、感動の「か」の字もない気さくな態度は、実にクローバーらしく、それが懐かしくもありまた怖ろしくもあった。
 目の前で悠然と佇み、人の好さそうな笑みを浮かべているクローバーは、その容姿からは想像できないほどに悠久の時を生きている。
 その姿形からは想像もできないほどの、神々しさと禍々しさを内に宿している。
 ふぅと小さく息を吐いて、言う。
「冥界で魔王なんて呼び名を頂きましたが、俺はきっと先生には及ばないでしょう」
「寂しいこと言うなよ、レオ」
 相変わらずの人の好さそうな笑みを浮かべたまま、クローバーが言う。
「いつの日か、俺を超えるんじゃなかったのかぃ?」
「…………何も知らなかったガキのころと比べたら、確かに少しばかり背が伸びたので」
 昔の言葉を引き合いにだされ、苦々しく思いつつも平然と答えた。
 最高に性格がいい恩師は、なんでも知っている魔導士なだけあって、的確に嫌なところを突いてくる。
「確かに君はだいぶと変わったね」
 そうだとも。クローバーのいう通り、クローバーは何も変わらない。変わったのはレオナルド自身だ。
 魔王としての地位が、あるいは魔王としてのし上がるために積み重ねた所業が、レオナルドにこの世界の真相へと続く道を示した。
 真実の道は永く暗く閉ざされており、計り知れないほどの陰謀の中にある。いまだ出口(答え)が見つからない。しかし、その道中で垣間見たいくつかの真実を少しばかり口にするならば、この男クローバーは紛れもなく化物であり、この三世界を作りし者の一人である。
 何も知らない未熟者だった当時とはどうしたって抱く感情が違う。
 レオナルドは魔王となってから永く忘れていた感情を噛みしめる。
 どれだけの所業を繰り返そうが、幾重にも及ぶ禁忌に身を染めようが、もう久しく感じることがなかった圧倒的な恐怖。
 今更こんなところで思い出し、それを小さく口にした。
「あなたは本当に怖ろしい人ですね、クローバー先生」
 しおらしい態度のレオナルドに、ついクローバーが肩を窄めた。
「今から世界征服を企てる魔王がそんな弱気じゃ困るなぁ」
「…………何度考えてもやはり先生のほうがよっぽど魔王らしい」
「俺はどちらかといえば四天王ってやつだと思うけどね」
 レオナルドは記憶の奥底で眠る残りの三人を思い出し、苦笑する。
「とはいえ、王なんて呼ばれるのはごめんだな」
「そうは言っても実力の世界です。先生を差し置いて魔王と呼ばれることに、些か腑に落ちないところがありますよ」
「苦情は冥王に言いなよ、君を選んだのは彼なんだからさ。……あぁ、どうせなら冥王こそ魔王を名乗ればいいのにね」
 しれっととんでもないことを言ってのけるクローバーに、レオナルドは半ば驚き呆れながらに返事をする。
「無茶を言わないでください。所詮、魔王なんてのは戦闘狂の証です。戦えない者に与えるべき称号じゃない」
 王にだって種類がある。
 聖帝と尊ばれるほどの誉れ高き王もいれば、暴君と揶揄される愚劣な王がいるように、その実態は多種多様だ。
 冥王はそんな多種多様な実態の中でも、数少ない模範的な存在だった。戦うことを忌み嫌い、みなの平和を愛する明君。
 しかし、冥界というあらゆる者の願望が叶う世界では、残念ながら彼の理念は無に等しく、また冥王など居ても居なくても変わらない存在だった。
 求められている役割が違えば、王などお飾りに過ぎないのである。
 レオナルドは、王とひとくくりにされ、理想の人物像を要求され続けた自身の過去を思い出し、つい眼を反らした。
「なんでもかんでも冥王に求めるのは酷ですよ。魔王には魔王の、冥王には冥王の、役割があるんですから」
 クローバーがにっこりと笑って、問う。
「……じゃあ、レオは戦えるんだね?」
 澄んだ翡翠の瞳に、レオナルドの姿が映し出される。
 一点の曇りなき瞳の奥底には、いまだ達し得ない目的への渇望が伺える。
 レオナルドは師匠譲りの笑みで、応えた。
「そのために戻って参りました」
 クローバーは頷いて、天と対峙する。
「さぁ、始めようか」

 ――――新しい世界の為の、終焉を。



 ◇


 宗也は、再び暗闇の中で眼を覚ました。
 先ほどまでいた死神はいなくなっており、ただの暗黒だけが目の前に広がっている。
 病室で目覚めた時と違って、宗也の意識はハッキリとしていた。
 宗也は闇の中で当てどなく光を探して歩き始める。すると真っ赤な夕暮れのような淡い光がうっすらと見えてくる。
 ぼんやりとした輝きに導かれて歩いていけば、そこには幼馴染が立っていた。
「エンカ」
 宗也が呼びかけると、エンカが振り返る。
 互いに名を呼びあって、見つめ合う。
 宗也には、無言で意思の疎通ができるほど仲がいい自負があった。だが今となっては、エンカのことがよくわからなくなった。
 エンカのことだけじゃない。この世界のことも、未来の慎吾のことも、あの石のことも、そしてあの死神のことも。
 どうして自分がこんな目にあって、どうして今この場所にいるのか、まったくわからないまま、ここに居る。
「だけど、人生ってそんなもんなのかもな」
 ふと笑って宗也が言う。
「どうして今ここにいるのか。これからどうなっていくか」
 疑問を投じて、宗也は自らが導き出した答えをエンカに訊ねる。
「わからないなりに分かったことは……。なぁ、エンカ。俺はもしかして死ぬべきなのか?」
 宗也の言葉に、エンカが顔をゆがめた。ひどく辛そうな顔だった。
 悲しむエンカを見たくなくて、咄嗟に安心させようと手を伸ばす。
 だが、エンカは宗也を拒むようにその手を払いのけた。
「私は、二人とも死ぬのが最善だと思っている」
「どういう意味だよ、それ」
「人はいつか死ぬって意味だよっ、宗也」
 そんなの当たり前じゃんよ。
 と、内心で答えながらも、その事実[終わり]がいつ来るかはなかなか分からないことを思い知る。
 たかだか十数年の人生があなたの運命でした、と言われたとき、いったいどれだけの人がその運命とやらの結末に納得できるのだろうか。
 少なくとも宗也は納得はしていない。だが、宗也が納得しようがしまいが、時間は関係なく進んでいく。
 諦めるしかない現状を前にして、運命の理不尽さを痛感した。 
 宗也は諦念に至って、折り合いをつけるべく、思考する。

 ――――人生は良くも悪くも一度だけ。

 どうやったって時間は巻き戻らないし、二度目の人生なんて幻想である。
 生まれ築いたものはただひたすらに死んで手放す運命にあり、その別れがいったいいつくるかは誰にもわからないものだ。
 ……本当に、いつ死ぬか誰にもわからない。
 医師が全人類の余命を当てられるわけもなければ、預言者が宣告してくれるわけでもない。
 今日死ぬかもしれないし、明日死ぬかもしれないし、もしかしたらそれは数十年先かもしれないし、あるいは百年先かもしれない。
 そしていい記憶も、悪い記憶も、恋人も、友人も、家族も、金も、物も、技術も、ありとあらゆるものを死んだら失う。
 死ねば終わりと知っていながら、それでもナニカを求めずにはいられない人の生とは、なんと儚いんだろう。

 ――――誰もが死ぬことを知っていながら、生きている。

 誰もがいつかは終わりがくることを知っていながら、まだ終わらない気で生きている。いつかは死ぬことを受け入れながらも、明日を見出しては未来を想って思考する。
 やりたいことがあって、欲しいものがあって、計画を立てて、あるいは目標を決めて、人生を築いていく。
 その過程は、とても希望的であり、ひどく絶望的に想えた。
 だが、悲しくも、頭ではいろいろ想うところがあっても、心では「それが人生だ」と割り切れてしまう宗也がいた。
「世界にはルールがある」
 エンカが涙をふり払って、言葉をつないだ。
「世界には秩序[ルール]がある、規則[ルール]がある、法律[ルール]がある、掟[ルール]がある。……時間[ルール]があるんだ。どうしようもないほどに、みんながルールに縛られていて、囚われていて、この誰が定めたかもろくに知らないルールを律儀に守って生きている。抗う術がないと思い込んで、その思い込みこそが法則[ルール]の原動力となることも知らずに保守し続けるんだ」
 まるでプログラムされた仕組[システム]を忠実に守り続ける機械のようだ、とエンカはどこか寂し気に言った。
「ねぇ、宗也。機械は人が作った。……なら、神には、あるいは天使には、悪魔には、魔物には、それらを作る能力はないだろうか」
 宗也はふと想う。
 確かにいままで考えたことがなかった。
 神が作った法律が存在するならば。
 天使が作った機械が存在するならば。
 悪魔が作った制度が存在するならば。
 いったいどんなモノなんだろうか。
 そこまで思い至って、一つの可能性が浮かぶ。
 もしかしたら、この世界にはすでに、天使や悪魔、あるいは神が作り上げたモノが存在するのかもしれない。
 仮にそうだとするならば「いったいなんのために?」と疑念が湧き、なぜか自然と類推が浮かんだ。
「まるで魔術のようだ……」
 宗也が初めて魔術についてエンカから教わったとき、エンカは言った。

 ――――魔術に人がかかわって良い事例もあれば悪い事例もある、と。

 同様に、歴史が証明する。
 機械や法律に人が関われば、良い事例もあり悪い事例もある、と。
「しょせん、魔術も科学も法も、目的のための道具に過ぎない。技術は、使い手の心によって結果を確かに変える」
 エンカはきっぱりと告げる。
「同じ道具を使ったからといって、同じ結果を出せるわけじゃない」
 だから、とエンカは宗也を見た。
「何より問うは、その心。――――何を求めて、汝、力を得るか」
 宗也はごくりと息を飲む。
 そして、エンカはその答えを待たずして、さらに話を進める。 
「神が世界を作った。……けれど、世界を作れるのは神だけじゃない。人は創造主のコドモだ。本当は人ができないことを探すほうが難しい。だが、人は、まるでその力を封じるように、自分たちには何の力もないと思い込んで、理不尽であろうとなんだろうと、ルールに従って死んでいく」
 エンカは真っ暗闇の、遥か彼方を見た。つられて宗也も同じ場所を見た。視線の先には暗黒が続く。闇があるだけである。
 何も見えなかったけれども、本当はそこに何か隠されているのではないかと思った。ナニカがある気がした。そこに明確な理由はないけれども、なぜだか妙にそう思えてならなかった。
「現界だって、冥界だって、そして天界だって、皆が一緒だった時代を忘れてる。……みんなで、生きてきた時間を忘れてしまったんだ。これは神の世界、あれは人の世界、これが神の領域で、あれが人の領域で、悪魔天使は争って、……こんな具合で分類されていて、みんなで一つのものを作ってきたことが失われてしまった。法は、もはやすべての者のためには使われず、それぞれの思惑によってのみ行使されている。……天界の神々も、冥界の領主たちも、現界で生きる人間も、多くの者が大事なことを忘れてるんだ」
「大事なことって」
 宗也がゆっくりと訊ねれば、エンカが答えた。
「心だよ」
 エンカは更に続ける。
「ルールを知っている人は、ルールを守らないものを異端と呼ぶ。無法者と名付ける。だけど人々は、そのルールが誰によって作られ、何によって守られ、どのような結果をもたらすか知らずにいる。どのような歴史によって、どのようなルールが生まれたのかまったく知らないままに従うんだ。……なぁ、法律[ルール]を犯せばどうなる」
「刑罰が与えられる」
「うん、裁く人がいるならね。だけど、裁判官がいないルールでは?」
「無視されるか、あるいは嫌われるか」
 宗也が言えば、エンカが頷く。
「現界の何も知らない人たちからすれば魔術は異端だ。とてもこの世の沙汰とは思えないだろう。人の持つ常識や学術で魔術を見れば、私たちがやることは法則[ルール]違反だから。……だから、魔術師はよく悪者として扱われる。ペテン師と呼ばれる。空想の中に押し込められて、詐欺と譬えられる。実際は、世界のことなんて何も知らない人たちに嘘だ虚偽だと罵られるんだ」
 エンカの瞳にはなんの感情も見受けられなかった。
 無情であり、高潔であり、一天の曇りもない。
 淡々と告げるその姿を見て、どうしてエンカが魔導士として崇拝されているのか、少しだけわかった気がした。
「魔術を知った者にとって魔導士とは最大の先駆者であり……、魔導士[私たち]にとっての最大の異端者は――――」
 エンカが止まる。
 何かを言おうと唇を動かそうとして、ぴたりと動きを止める。
 何もないままに時間が経つ。長いような短いような沈黙の末、エンカが語る。
「己で導き出さなければどんな真実も事実に劣る。道は自分で歩むもの。未知は自分で啓くもの。例え闇が世界を覆ったとしても世界の(事実)は揺るがないから」
 エンカは何かを吹っ切るように強く言った。
 その目には迷いや弱さは一切なく、深紅の瞳はまるで火炎が灯っているのではないかと思うほど、強い光が宿っていた。闇の中であっても明るかった。この輝きこそが暗闇であっても灯っている、夕日のような淡い光の正体だと気づいた。
 改めてエンカを見て、宗也は妙な安心感を覚えた。不思議と力が湧いてくる。
 ……いや、いつだってエンカのそばは落ち着く場所で、彼女は宗也を勇気づける。昔からエンカは自信家で、揺るがない決意を持っていて、自慢の幼馴染だった。
 なんだか昔のエンカに戻ったような気がして、宗也は小さく安堵の息を漏らした。
「…………」
 エンカが実は魔導士だとわかってから、あるいは宗也が魔術の才能に乏しいと実感してから、二人の間にどこか小さく距離ができた。
 平凡な宗也にとって、エンカは異質すぎる。
 あまりにも違う存在である彼女に壁を感じてしまったのだ。
 それに……、昔と違って、今のエンカは、仲間に囲まれて楽しそうだ。その姿は、宗也がいなくても大丈夫であることを物語った。
 手のかかる幼馴染は、気づけば宗也の窮地を救ってくれるヒーローで、自然とみんなの中心的存在となっていた。それがどこか寂しくもあり……、理由をつけて自分から距離を置いたのだった。
 ……だけど、エンカはもともと手のかかる幼馴染なんかじゃなくて、頼もしい幼馴染だ。
 エンカは何も変わっていない。たとえ変わったところがあったとしても、やはりエンカはエンカのままだ。
 ふと、エンカが手を差し伸べる。不思議に思いつつも宗也はその手を取った。
「世界の呪縛(ルール)を解いてこそ―――――、本当の意味で、運命は変えられる」
 エンカがまっすぐと宗也を見た。
「時の魔術師、内藤宗也。時を操る者よ、君だけが忘れられた過去を巡ることが出来る」
 笑って、言う。
「――――もし、なんでも願いが叶うなら、私は君も魔王もそして彼女(ひよこ)も幸せになれる道を望むよ。みんながともに生きれる道を選ぶ」
 その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「私たちにとって最善であると知りつつも、君が生きることを望む」
 エンカが言い終わると同時に、世界が反転した。
 暗黒が開かれ、世界に七色が放たれる。
 何が起こったかわからず、周囲を見渡せば、暗黒に亀裂が入っていた。暗闇しかなかった空間には、まるで卵の殻にヒビが入ったかのように、くっきりとした割れ目が浮かび上がっている。その割れ目からは光が漏れていて、徐々に大きくなっていき、まるで雛が孵化するように、ゆっくりと光の結晶体が闇の中から生れ出た。
 いったいこの闇の中には何が隠されていたのか、いったい闇はナニを覆っていたのか。
 その正体を探るべく目を凝らしてみれば、そこにはあふれんばかりの輝きを放つ円盤が見えた。
 色の無いキレイな円盤は、宝石とも鏡とも言えない形状をしていたが、しかし三本の針のようなものがついており、規則正しく巡っているのがわかった。

 ―――――時計だ。

 透明な輝く時計が闇より開花した。
 生まれ()でた円盤時計に宗也が圧倒されていると、エンカの声がうっすらと響く。

「暗黒が晴れし時、運命は正される」



 ◇



 宗也は、時計の輝きに圧倒されて目を瞑った。
 次に目を開いたとき、そこは六月池だった。
 先ほどまで一緒にいたエンカの姿はなく、透明な輝く時計も見当たらず、負傷していたはずの怪我は完治しており、池の周囲にあったはずの死骸も、歪な手の魔物もキレイさっぱりいなくなっていた。
 今は、桜が咲き誇る六月池の前で、ぽつんと一人でいる。
 静寂の、桜吹雪が舞う、六月池はひときわ美しい。
 鏡のように澄んだ水面には満月が灯っており、春風が吹くたびに光の粒が現れる。水面がミラーボールのような役割を果たして、満月の煌々とした光がさざ波が立つ度に産まれる。キラキラとした光の粒が姿形を変えて、現れては消えていく。その様は、どこか儚くも力強い。
 宗也は周囲を見渡して、想う。
 現れては消えていく光の粒は、舞い上がっては散っていく花弁は、まるで人の一生のようだ。
 ついその光景に見入っていると、背後から声がした。
「宗也くん」
 振り返れば、ひよこが立っている。
 無事に再会できたことに喜び、すぐさま駆け寄れば、ひよこが倒れこむように宗也に寄りかかった。
 べっとりとした生暖かい液体が手に付着する。嫌な予感がした。
 恐る恐る確かめれば、ひよこの背中には深い傷がある。大鎌が突き刺さったかのような痕であり、背中から胸まで貫通していて、致命傷であることは明らかだった。
 息も絶え絶えのか細い声でひよこが言う。
「無事に、……あえて……よかった。あの後、なにが、あったかわからなくて」
 脈が、脳に伝う。
「気づいたら、ここに、いて。死神さんの姿も、宗也くんの、……姿も見えなかったから……」

 ――――ひよこは死ぬ、と。 

「私……、何か、間違えたのか、な……」
 涙が頬に伝う。
「……どうして」と、弱く言って、口を結ぶ。
 宗也は、ひよこをぎゅっと抱きしめて、理由を求めてはいけない答えに肩を震わせた。
 憶測でしかないけれど、真実は全て闇の中だけど、それでも確かに見えたことを話すなら、……ひよこが負傷したのはおそらく宗也のせいだ。
 死神が宗也の命を刈り取ろうとした時、影に包まれながら確かに一瞬だけ、ひよこが飛び込んでくるのが見えた。
 そのあと何が起こったかは分からないけれど、どうしても浮かんでくるのは嫌な憶測ばかりだ。
 宗也が犠牲になるべきだったのに、ひよこが身代わりとなってくれたのだと、思わずにはいられなかった。
 再度、手に付着した血を確認する。
 どうしようもない現実を痛感しては、ただひたすらに心が痛む。

 ――――これが、悲しいだけの感情であったならば、どれほどよかっただろうか。

 残酷にもこの場において、宗也の人並外れた才能が発揮された。
 慎吾のような英雄気質も、エンカのような魔術師気質もない、平凡極まる宗也だが、ただ一つ、ずば抜けた才がある。
 彼は、つまるところ、人並み外れた悟性の持ち主で、悲しくなるほどに思慮深かった。
 宗也は、自ら思考する者であり、真理を求める者である。
 今も因果を明らかにするべく探求をやめない。思考するたびに、開けてはいけない(可能性)が脳裏にちらついた。
 なぜエンカが宗也を闇に包み、異空間へと導いたか。

 ―――――なぜエンカは宗也を隠すことを選び、ひよこを守ろうとはしなかったのか。

 場違いな考えが浮かぶ。
 こんなことは間違っていると思いながらも、思考が止められない。
「っ……」
 エンカほどの力の持ち主ならと思わずにはいられない仄暗い期待と、もしかしたら守ろうとしてくれたかもしれないというわずかな希望とが相混じった。
 いくつかの解釈を入れて、限りなく自分にとって都合がいい真実を求めるも、残酷な事実ばかりに辿り着く。なにせエンカが言ったのだ。
「私は二人とも死ぬのが最善であると思っている」と。
 宗也もひよこも死ぬのがエンカにとっての最善である、と。
 すべて推測でしかないけれど、エンカはもしかしたら初めから知っていたのかもしれない。
 宗也が死神に狙われることも、ひよこが死ぬことも、知っていて―――。

 ――――しばし、持たざる者は、持つ者へ怒りを向けるという。

 行き場のない感情がその矛先を得ようとしている。
 エンカに怒りを向けたってどうしようもないことは、心の中では宗也が1番に理解している。
 けれども、理由を求めずにはいられない精神が魔術に因果を見出した。無限の可能性がある力に、今起こり得た結果の理由を求めた。意味のないことだと知りながらも思考をやめなかった。
 ポケットに忍ばせておいた、あの石を取り出して、願う。

 ――――もし、なんでも願いが叶うなら。

 なんでも願いが叶う力があるというのなら、なぜそれが今この瞬間に行使されることがないのだろう。全知全能の神がいるというのなら、なぜこんな悲劇が産まれるのだろう。
「……ちくしょぅ……ッ」
 今考えていることも、これまでの思い出も、そしてこれから先の未来のことも、何も考えたくなくて、宗也はひよこをぎゅっと抱きしめる。
 ひよこの体は驚くほど冷たくて、悲しくなるほど優しい温もりがあって、どうしようもないほどに儚かった。
 宗也は今にも消えてしまいそうなひよこを繋ぎとめようと、力を籠めた。
 しかし、体を合わせれば合わせるほど弱っていくのが感じられて、自分の無力さを痛感する。どうしようもない事実が胸に突き刺さる。
 肩を震わせる宗也を抱きしめて、ひよこが言う。
「私は……、宗也くんと一緒に入れて、……本当に幸せでした。だから……、こうして死ぬことに……、なんの後悔も、ありません」
 だんだんと生気が失われていく中、ひよこは微笑む、 
「……ここで、私はいなくなっちゃうけれど……、しゅうやくんの、人生は……、これからも続くから……。誰も、……悪くないから。どうか、……誰のことも、……責めないでください。…………宗也くんは、……幸せになって……、これからも変わらず、笑顔で…………、楽しく、……生、……きて……」

 精一杯の笑みを浮かべて、ひよこは事切れる。
 抱きしめていた手が震えた。彼女の体がまるで魂が抜けたかのように軽くなって、もうこの場にいないのだということを悟った。
 周囲には、キレイな光の粒が舞っている。
 光が空に向かって消えてゆく様は、まるでひよこの魂がこの場所から離れていくかのようだった。
 ああ、もう二度とないだろうなと思った。

 もう二度と、彼女には会えない――――。

 ――――人はいつか死ぬ。ただ遅いか早いかだけ。

 ならば、この苦痛は、この決別は、この悲痛は、誰もが味わうものなのだろうか。誰もが喪失のために生きているのだろうか。
 こんなものが人生だというのなら、いったい人は何のために生まれて、何のために死んでいくんだろう。
 ひよこを抱えたまま、宗也は咆哮する。
 天上なる空へ、言葉にならない声で訴えるように感情のままに叫ぶ。
「なんで、……こんな、…………っ」
 まるで奪うために与えているかのような、この世界の摂理――――。
 力なく天を見上げたとき、蠢く影が闇より現れた。
 ゆったりと近づいてきた影が突如、二人を引き裂く。
 影がひよこを六月池の中へと引きずり込む。
 咄嗟のことで宗也はその場から動けなかった。
 ぽちゃんと音がしたときには、もうそこにひよこの姿はなくなっていた。
 六月池の対岸に、エンカの姿が見えた。
「ど、……う、して……」と、問いかけるも返事はない。
 エンカは、無言のままに闇の中へと消えてゆく。
 その真意は謎のまま、全てが明かされることはなく、ただ目の前には闇が続くだけ。
「どうして―――――ッ!」
 虚空に問いかけたとき、足音が聞こえた。
「――――契約(ルール)は絶対だ」
 振り返ると、そこには翡翠の瞳をした青年が立っている。
「誓いは永遠。例え肉体が朽ちるとも、決意は永遠だ」
「え、いえん?」
「この世の摂理(ルール)に疑問を持っているのは何も君だけじゃない」
 そうして、青年は優しい口調でこう告げた。
「君が本当に彼女を求めるなら冥界に行くと良い」
「冥界……?」
「そこに行けば、なんでも願いが叶う力が手に入るよ」
 青年が人の好さそうな顔で、ニッコリと笑う。
「よければ案内しようか?」



~ 完 ~

 第二部に続く

秘石物語 第一部

秘石物語 第一部

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日
2020-04-29

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 序章
  2. 第一章
  3. 第二章
  4. 第三章
  5. 第四章
  6. 第五章
  7. 第六章
  8. 第七章
  9. 第八章
  10. 第九章
  11. 第十章
  12. 第十一章
  13. 第十一章
  14. 第十二章