空、わたし、宝石

かなしいから空をみるのでしょうか。空をみるから、かなしくなるのでしょうか。いずれにしても、空とわたしはかなしさによって引き寄せられ、結びつき、こうしてつながっているのだと、わたしは思っています。わたしのほかにも空とつながっているひとがいるとしたら、そのひとは一体なにによって空に引き寄せられたのでしょうか。ひとの数だけ空がある。空がたくさんあるというわけではなくて、空の秘めている顔がわたしたちによってその彩りを豊かにしているような、そんな心地になるのです。とは言いましても、目にみえる空が実際に泣いたり笑ったり、話しかけてきたりするはずはありません。わたしは空には目があると信じているのですけれど、それをだれかに告白しようなどとは決して思わないのです。信じているもの、また、信じるという感情はみずからのうちに大切にしまっておくからこそ、美しく、愛おしいのではありませんか。その想いが強ければ強いほど、軽い気持ちでまわりに言おうなどとは思わないはずです。少なくとも、わたしは思いません。ひとには宝石にみえないものを宝石だと言ってひけらかすのは、じぶんも、じぶんにとってのその宝石の価値も下げてしまう、あさましい愚行です。その宝石がわたしは、かなしさでした。わたしとあの空は、目にみえるものではなく、目にみえないもので、かなしさでつながっているのです。古いことばでは、かなしいは「哀しい」のほかに、「愛しい」ともあてられているのをご存知でしょうか。純粋な哀しさ、純粋な愛おしさ、愛おしさへの哀しさ、哀しさへの愛おしさ、「かなしさ」とひとくちに言い表しても、それがもつ機微、按配はさまざまなのです。いまもこの世界で、おなじ瞬間にそれぞれの空をみて、おなじ感情に浸っているのだとしたら、たとえじぶんが哀しみの渦に呑まれていようとも、そのことそのものが愛おしいのではないでしょうか。雲がでていようと雨がふっていようと、ひとつの空には数えきれないほどの宝石が散りばめられていて、わたしたちそれぞれの心の深い深いところで、今宵もその輝きを増していくことでしょう。

空、わたし、宝石

空、わたし、宝石

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-04-28

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