【鯉月】夜明けの訪れる場所

しずよ

  1. 一、
  2. 二、

二次創作(腐)につきご注意ください。
本誌231、232話のコタンでの一週間のお話です。

一、

 いつからこんな野望を持っていたのか鯉登は忘れてしまったのだが、隣で眠っている月島がいびきをかいていたならば、その鼻をつまんで止めてやるのがささやかな夢のひとつだった。
 しかし約三ヶ月間共に過ごした樺太ですら、月島のいびきで起こされることはなかった。杉元の寝言や谷垣の歯ぎしりで目が覚めた夜なら幾晩もあり、そんな時には杉元のすねを蹴ったり谷垣の手の甲の毛をむしったりして騒音を止めた。それから月島の寝顔をそっとのぞき込む。彼はそれらの音には動じず、いつもとても静かに眠っていた。物音に敏感にならずに軍人として命取りにならないか。鯉登はわずかに不安を覚える。
 顔を寄せると、かろうじてすうすうと小さな寝息が聞こえる。鼻が低いからいびきをかかないのだろうか? そんな取るに足らない想像をしながら、月島の寝顔を飽きもせず見つめた。そして寝息に自分の呼吸を重ねていると、まぶたは自然と重くなっていった。



 昨日インカラマッの出産が落ち着いてから、隣のチセで鯉登と月島は休んでいたのだが、実は鯉登は明け方まで起きていた。
 眠れなかったのではない。月島の呼吸が止まっていないか、確認するためだった。
 うつらうつらしても赤ん坊の泣き声でハッと目が覚める。そして月島の脈拍に触れ、鼻の前に手のひらをかざして呼吸を確かめ、そして体温が下がっていないか指先や首元に触れた。
 鯉登に「まだ遅くない」と説得された月島は、それ以降は心ここにあらずの姿で稲妻の子供を抱っこしていた。危なっかしいので子供の世話を交代した。
「なぜ馬で追わなかったのだ?」
「……家永に何かの薬を打たれて、落馬する危険性があったからです」
 鯉登は冷水を浴びせられた気がした。
「な、何かの薬って……、体は大丈夫なのか?」
「はい、体が重く感じる以外には特に体調の変化はありません。毒物とは違うと思います」
「ずいぶん腑抜けているなと感じたのはそのせいか……。息苦しいとか眩しさもないのか?」
「呼吸はできます。視力も問題ありません」
「そうか」
 直ちに解毒の必要な物ではなさそうだ、と鯉登も判断した。
 それは樺太にいる間に、谷垣から聞いた話だった。一年ほど前、刺青人皮を持つアシリパを山中で見つけた直後、アイヌの鹿捕獲用の罠にかかったことがあると言っていた。それにトリカブトが使われていて、アシリパの祖母の家で回復するまで滞在したと語った。
 そんなふうに日常的に使用される割合の高い毒物なら、家永もトリカブトを所持していた可能性は十分ある。神経性の毒物ならば、動けなくなるだけではなく息もできなくなると聞いた。だから月島に使われたのは、モルヒネではないか。が、鎮静剤であれ多ければやがて呼吸が浅くなり死に至る。
 芥子の花を携えた鶴見の顔が、不意によぎった。
 鯉登はかぶりを振る。
 病院へ谷垣がインカラマッを奪還に来たと気が付いた時、鯉登に何か算段があった訳ではない。ただ、谷垣も月島も救いたかった。鯉登にとって谷垣は造反者ではなく、単なる途中離脱者だったからだ。裏切りとは違う。だから月島に谷垣を殺害させることだけは、どうしても止めさせたかった。その一心だった。
 自分で自分をなぜ追い込むのだ。鯉登は歯ぎしりする。こんな不器用な男は見たことがない。自分のことを蔑ろにする月島の態度だけは、鯉登はどうしても許せなかった。
 私がこんなにも大事にしたいと思っていると、少しは伝わっただろうか。
 すうすうと規則正しく聞こえる寝息に、自分の呼吸を重ねる。すると、急に体中の力が抜けて、腕や足が重たくなった。そう思った矢先、遠くからまた赤ん坊の泣き声がかすかに聞こえた。
 鯉登ははっとして目が覚める。
 まるで母親のようだな。
 今晩、何度目かの覚醒で、鯉登は自嘲してひとりほくそ笑む。思わず頭を撫でてやりたくなって、手を伸ばした。
 こんな厳つい子を持った覚えはないが、信じていた者に騙されたと思い、十年間一歩も前に進めないでいた月島の手を引いて、日の当たる場所へ導いてやりたいと思う。明けない夜はないのだと、教えてやりたい。
 本人に伝えたら、きっと迷惑そうな顔をするだろうけれど。
 赤ん坊は約二時間おきに泣いて、周囲の大人たちを起こした。きっとあちらのチセでは、インカラマッや谷垣が赤ん坊の世話をしているのだろう。
 ヒトは頭が発達しすぎている。これ以上頭が大きくなれば産道を通れないから、自分では何もできない未熟な状態で生まれてくるしかない。誰かがいないと生きられない。だから月島にも、生まれたばかりの月島基を、大切に慈しむ誰かがいたはずなのだ。その母から、鯉登はたすきを引き継いだような気になっていた。
 いや、違うな。月島の母だけではない。これまで月島に関わったすべての人がいたからこそ、今の月島基なのだ。鶴見中尉殿だって、月島を育ててきた重要なひとりだ。だからその意味でも、私は鶴見中尉殿のことを真っ向から否定することはできない。彼がいなければ、私は月島と会うことはなかった。では私にたすきを渡したのは、鶴見中尉殿ということになるか。
 鯉登がとりとめなく来し方を考えていると、ふわりと空気が動いた。月島が寝返りを打つ。自分で動けるなら安心だな。寝返りひとつでこんなにも安堵して、親たる者の気持ちがますます分かった気がした。
 誰かに心を寄せてここまで親身になるなんてこと、この先一生ないかもしれない。まだ二十余年しか生きていないのだけれど、鯉登はそれだけは妙に確信できた。
 かすかに歌が聞こえてくる。アシリパの祖母が、子守唄で寝かしつけているんだろう。そういえば稲妻の子の名前は何というのだろう。明日聞いてみよう、と鯉登は思った。
「……基ちゅう名前はだいがつけてくれたど。月島に似合うちょっ、よか名前や」
 でもやっぱり自分は育ての親には向いていない。見返りがほしい。だから鯉登はそっと唇を重ねた。



 豊原に逗留していた時のこと、ひとりで歩けるほどに首の怪我が回復してきた月島に、鯉登は自分の外套を差し出した。その右腕には穴があった。
「これは……」
「キロランケに刺された所だ。補修を頼む」
「……お待ちください」
 月島は背嚢から針と糸を取り出す。
 入隊して初年兵が真っ先に覚えることは、戦い方ではなく裁縫なのである。訓練で衣服が擦り切れたり靴底が外れるなどは日常茶飯事であり、それはすなわち実際の戦場でも同じことを意味する。軍靴は本当によく壊れるから、何度も補修する。それができないと行軍もままならないし、怪我や病気にかかる危険性もある。繕いものひとつとっても、命に直結する場合がある。
 それで月島も例にもれずに裁縫はうまかった。樺太へ上陸した当初、クズリに襲われて背中に開いた穴も、月島に繕ってもらっていた。そして大泊港で杉元に刺された左胸の穴は、そのままで北海道へ帰ってきた。
 小樽の軍病院に入院してから、鯉登はみたび月島に外套を差し出した。
「月島、ここも頼む」
「もう樺太ではないのですから、この服を仕立てた店にお持ちになった方がよろしいと思います」
「お前もうまいじゃないか」
「……お褒めに預かり光栄ですが、私のはあくまで応急処置です。店できちんと補修してもらった方が、長く着られるでしょう。私が明日、仕立て屋にお持ちしますよ。店は旭川ですか?」
「……結構だ」
 月島の態度が冷たいのかいつも通りだったか、よく分からなくなっていた。インカラマッに「月島も占ってくれ」と頼んだ時に顔を背けたのにも違和感があったが、果たして月島は前からこうだっただろうか? 樺太ではこんなに素っ気なくなかった気がしたのは記憶違いか。それとも、私は大泊港で選択を間違ったのだろうか?
 傷が開いて血がじわりと染みてきた気がしたから、慌てて手で押さえた。
 押さえたそこに血はなく、乾いた病衣だった。
 はっとして鯉登が勢いよく上体を起こす。隣に月島はいなかった。
「しまった、寝過ごした」
 外に出ると子供たちが走り回って遊んでいた。隣にあるアシリパの祖母の家からは、子供の泣き声が聞こえる。泣き声と言うのは憚られるような、愛情を希求するその声。
 オソマがちらりと視線を向けるから「月島はどこに行ったか知らんか?」と尋ねた。
「兵隊さん? 谷垣ニシパと山へ行った」
「山? どうして」
「ヒモにならないためだって」
「は?」
 麻紐とかの話ではないよな。あれか、婦女子に労働させ養われる情夫のことか。
 鯉登は顔をしかめる。確かにここにいてもすることは特にない。それなのに昨夜も食事を提供してもらい、寝床まで用意してもらっている。ヒモか。ヒモだな。それは嫌なので、鯉登も後を追って山に入ろうとしたが止めた。狩りの経験はないから、足手まといだ。
 そこにオソマの母が林から戻ってくる。背中には袋を背負い、絞り口からは大きめの丸い葉が飛び出していた。
「それは?」
 鯉登が尋ねる。
「トウレプよ。あんたらがオオウバユリって呼ぶものよ。本来の旬はもうちょっと先だけど、もうこんなに大きく育ったのを見つけたのよ」
 見れば一メートルくらいある。
「それをどうするんだ?」
「そこの川で土を落として、茎と根を分けるのよ」
「私にやらせてくれ」
「ふふ、助かるわ。昨日産まれたあの子の沐浴の準備もしなきゃいけないと思っていたから。じゃあお願いね」
 沐浴か。そうだな、新生児の世話を母親ひとりでこなすのは大変だろう。鯉登の家には母の他にばあやとねえやがいて、家事と幼少時の自分の世話を分担していたことを思い出した。
 鯉登はサラニプと呼ばれる背負い袋と小刀を持ち、小川へ向かった。そこにしゃがみ根っこの間にある土を丁寧に洗い流す。そして根と茎の間にある球根のようなふくらみ──鱗茎を切り取り、サラニプへ戻す。どんなふうに食べるのかは聞いていないが、玉ねぎに似ていると思った。そして切り離した根は捨てずに、小川のほとりに埋めるように教わった。来年もまた芽吹いて成長したオオウバユリを食べるためだ、と言う。
 洗い終わってコタンに戻ると谷垣と月島もちょうど戻ってきたようだった。
「ふたりとも山へ行っていたのか?」
「ええ」
「何か捕れたのか?」
「ええ、エゾシカです。谷垣が一発で仕留めました。その場で解体したので肉だけがこれに入っています」
 谷垣と月島が袋を掲げる。そして谷垣が狩猟の話をする。
「すぐに血抜きをしたから臭みはないはずだ。今の時期の雌は繁殖前で脂がのっている」
「そうか、ふたりともご苦労だったな」
「少尉殿もどこへ行かれてたんですか」
「その先にある小川だ。植物の根を洗っていた」
 三人は食材をオソマの母へ手渡した。感謝されると月島は無表情になるから、スヴェトラーナの両親に再会した時と一緒だな、と鯉登は思った。まったく難儀な奴め。
「それよりも月島、もう薬は抜けたのか?」
「……はい、大丈夫かと」
「……」
 鯉登は無言でねめつける。なんだその間は。きっとまだ本調子ではないのだろう。とにかくここにいる間に、回復に努めさせなければ、と心に誓う。残り六日。
 午後は川漁で使うすくい網の手入れをオソマの父や兄弟から教わって過ごした。 
 そして夜が近づくにつれ、少なからず緊張している自分に鯉登は気が付く。ふたりきりになって、今夜も我慢ができるのだろうか。



 寝転がって間もなく、月島が静かに話し始める。
「枕がありませんね」
「ああ、この集落では普段使わないのかも知れないな」
 月島が足りない物を口にするのは珍しいことだった。これまでならその種の不平不満を口にするのは鯉登で、月島はそれを諌める立場だったのに。
 樺太で地元の住人に泊めてもらった際にも、枕を使う習慣のない家はあった。その時には何も言わなかったし、だいいち、枕ひとつで不満を述べるようでは軍人など務まらない。外であろうと黙って眠るものである。
 本当に、月島らしからぬ言葉をこぼすものだから、鯉登は月島の目の前に腕を差し出した。
「腕枕ならしてやれるが」
「……」
 月島は大げさに目を見開き、しかし何も言わなかった。これまでなら冷徹な視線と大げさなため息とで「必要ありません」と、拒絶していたに違いないのに。
 月島は黙って頭を持ち上げた。「お願いします」
 鯉登は目をむく。今までならこんなことはなかった。しかし驚いている場合ではない。鯉登は素早く腕を床に横たえる。すると月島はその上に静かに頭を乗せた。
「……」
「……」
 ふたりはしばらく何も話さなかった。だから鯉登は猛烈に心配になっていた。月島は内心呆れてるんじゃないか、と。
 それから五分経っただろうか。これは、結構重たい。正座なら剣術や書道の稽古で、子供の頃から慣れている。しかし腕を圧迫する鍛錬はしたことがない。すぐに痺れて根を上げてしまいそうだ。世の中の男は一晩中この試練を耐えているのか? やはりヒトの頭部は発達しすぎている。鯉登が頭の重さに動揺したりさっそく痺れ始めたから手を結んだり開いたり忙しなくしていると、月島が静かに話を始めた。
「少尉殿」
「なんだ」
「昨夜はあまり眠れませんでしたか? くまがあったので……」
 月島が自分の目の下を指さす。昨夜のことを正直に話したら、月島のことだから恐縮するかもしれない。何か別の言い訳をしようと、頭を巡らせようとした。でも、この先どんな些細なことでも、月島に隠し事をするべきではないと思った。
「一晩中、わいを見ちょった。薬のせいで呼吸が止まっちょるんに気づかんかったや、後悔すっじゃろうが」
 それでも正直に伝えるのは恥ずかしいので、早口の方言になる。それでも月島の表情が変わったから、鯉登はおそるおそる尋ねてみた。
「いま何と言ったか分かったのか?」
「はあ、だいたいは」
「……薩摩弁もわりと聞き取れるようになったんだな」
「はい、あなたの補佐について、もう一年になりますからね。それにロシア語より分かりやすいですよ」
「ロシア語と比べるな月島ァ……」
 しかし月島が謝罪を口にしなかったことに安堵した。そうだ、それでいいんだ。やっと分かったか。生まれや育ちは関係ないのだ。我々は同じ高さの地面に並んで立つ同胞(はらから)ではないか。
「少尉殿」
「なんだ」
「ありがとうございました」
「うん」
 鯉登にとってはそんなのは当たり前だけれど、ひょっとして鶴見と月島は違ったのだろうか。同志を募るのは簡単ではないだろうから『目的を達成するためには月島を失っても致し方ない』という暗黙の了解があったのなら、鶴見もまた健全とは言えない。月島は鶴見にとっても、換えのきかない腹心のはずなのに。ふたりの間に横たわる歪みが、鯉登には納得できない。だから考える。大泊で月島の悪夢語りに出てきた第二師団の男は、本当に鶴見の仕掛けなのか。違うのではないか。
 ああ、何か──。
 鯉登の頭の中で、点と点が繋がろうとする。その時に月島の声が不意に割り込む。
「……明け方、あなたに呼ばれた気がして目が覚めたんです。でもまぶたがとにかく重くて、またすぐに眠ってしまいました。──少尉殿、あれは何とおっしゃったのですか?」
「ああ、あれか……」
 鯉登が視線を逸らすから、月島は眉をひそめる。
「起きている私にはとても言えないことなんですか?」
「いや、そうじゃないが……」
 実は下の名前を呼んでみたかっただとか、さすがにそれを言えるわけないではないか。
「少尉殿」
「なんだ」
 今晩、三度目。月島がとりとめもなく自分を呼ぶことが、珍しくてくすぐったい。
「あの、腕が痺れて感覚が無いのではないですか?」
 月島はそう言って、掌をつねる。が、痛みはなかった。
「……そ、そんなことはない! まだいける!」
「いや、痩せ我慢なさらずとも。痺れにくいやり方があるのです」
「そ、それを最初に言わんか月島ぁ!」
「すみません」
「というか腕枕の仕方も知らん子供だと思っただろう?」
「思いませんよ」
 そう断言した月島は、少し微笑んでいた。
「腕は私の首の下に置くんです。そうしないと、なかなかの拷問でしょう」
「首の下? それだとお前の首だけ上がるから、返って辛いのではないか?」
「そうです。首の下に腕を置くには本物の枕も必要なのです」
「それは腕枕の意味がない気がするな……」
「ええ、なのでもう一つの方法は、腕の付け根に頭を乗せるのです」
そして月島は、鯉登の腕の付け根辺りに頭を乗せた。「ここだと痺れにくいです」そうして月島は横向きに寝て、頭のおさまりのいい位置を探って少し動き、やがて右腕を鯉登の胸に回して病衣をつかんだ。
 なんだこの近さは。月島の頭がすぐ近くに見えるし、突然の積極性にうるさく騒ぐ心臓の音が丸聞こえではないか。恥ずかしい。
 それにしても月島は誰かに腕枕をした経験があるのだな。そう思うと胸のうちが妬けてもやもやとする。昔のことは聞かないのが鉄則だと鯉登も分かっているけれど、本当はどこの誰にしてあげたのか聞きたくてしょうがない。
 まさかしてもらった側ではないよな? もしそうならさらに別の何かが生まれてしまうぞ月島……。
 規則正しい呼吸が聞こえて、月島が寝入ったのだと分かった。まったく、こちらの気も知らずに。また今夜もしばらくは眠れないかもしれない。

二、

 まぶたに光を感じて、月島は少しずつ目を開ける。起床喇叭(ラッパ)でもなく、飢えや寒さ以外で目覚めた朝は、これまでの人生でほとんどなかった。すぐ目の前にぼんやりと映る辛子色のふわりとした布地が見えた。鯉登の外套が毛布がわりに掛けられていた。
 昨晩、寄り添って寝ていたはずの鯉登の姿は隣になかった。もう起きたのか。自分が肩にもたれていたから、寝苦しかったのではないだろうか。
 月島は起き上がると、外套を手に取り胸の部分を広げて確かめる。おおよそ十センチにわたり穴が開いている。大泊で杉元から刺された箇所だ。あれから直してなかったんだな……。月島は軍病院でのやり取りを思い返す。
 鯉登が自分に繕いものを頼む理由は承知している。だからこそ応じられなかった。これ以上、鯉登と個人的に親しくしてはならない。そうして樺太から北海道へ帰る駆逐艦で、離れる選択をしたはずだったのに。


 
──撃ち方、始め!
 大陸で何度も下された号令は、月島の耳にずっとこびりついている。退避命令ではなく、雌雄の決する場面で攻撃の手を止めろと言われたことがあっただろうか? いや、そんな司令官は、ひとりもいなかった。
 しかも、鯉登はこれまでわがままを言うことはあっても、それはあくまで私事であって命令ではなかった。そう、初めて鯉登から下った命令が「撃つな」だったのだ。 
 青天の霹靂。
 軍人としての月島の十余年分の価値観を、一瞬でひっくり返した。そして絡まってこんがらがった人間関係を、手品のようにほどいた。本来の鶴見から目を背けていた月島には、そんな芸当は一生できなかっただろう。そのくせ自分は鶴見からの命に唯々諾々と従っているつもりだったのに、谷垣を追った一連の行動は、実は自分の意思でもあったことを浮かび上がらせた。
 驚いて脱力して腑抜けて、それから手が震えてきた。鯉登と谷垣を、撃たなくて良かったと心から思った。
 将官になるために生まれてきたような男だと思った。
 少しだけ涙が滲んだのは内緒だ。そしてせめてもの償いに、外套を縫おうと思った。
 針と糸を借りたいと、インカラマッからアシリパの祖母へ伝えてもらった。すると「裁縫ができるのか?」と驚いていると言う。そして一転して物憂げな表情をするから、月島は気になった。
「アシリパちゃんと杉元ニシパが元気でいるかどうか、心配されているようです」
 インカラマッから聞き、月島は口ごもる。「第七師団が追い詰めた挙句に逃げられた」と、谷垣もインカラマッも責めない。祖母に対する気遣いだろう。こういう優しさが満ちた場面は月島には居心地が悪い。慣れていない。糾弾される方がまだマシだ、なんて思ってしまう。
 ああ、これこそが鯉登少尉殿の言う『健康的ではない』姿勢なんだろうな。
 鶴見仕込みの思考の傾向を変えなければ、と気を取り直して、すうはあと小さく深呼吸をする。
 そうして心の歪みが取れると、月島は谷垣と似たような気持ちに傾いていることに気が付く。できることならアシリパと祖母を無事に再会させてやりたいとすら思う。月寒の地下に閉じ込めておく鶴見の計画が、妙案だとは思えない。しかしどうすればいいのか。
 鯉登の顔が思い浮かぶ。
 あの男ならどのような選択をするだろう。考えが知りたい。きっと自分には見えていない風景を見ているはずだ。海の底にいては、光もまっすぐには届かない。「私を通して鶴見中尉殿を見ろ」と言うのはそういう意味だろう。
 大泊以降、鯉登のことばかり考えている。自分が護ってあげているつもりだったのに、結局自分が鯉登に護られてしまった。
 本当は、自分は鯉登とどうありたいのだろうか。
 針と糸を借りた月島は、自分たちのチセに戻った。糸は白っぽい色で、鯉登の外套とは違う色だ。だから仮縫いのつもりで始めた。月島の玉結びの作り方は、人差し指にくるりと巻きつけ指から抜く方法ではなく、針に糸を三回巻きつけるやり方である。糸の螺旋が鯉登の軍刀に重なって見えてしまい、気恥ずかしくなってしまった。
 ひょっとして、とうの昔に自分の答えは出ているのではないか、と。



 それは最悪の部類に入る経験だった。
 極寒の国境という辺境を旅している最中だから、体を求められても致し方ないと月島は割り切った。遊女の健康管理の行き届いている店を知っている訳ではないから、鯉登の横根が張ったらアシリパを探すどころではないからだ。
 人が出払った隙に立ったまま後ろから突っ込まれて、何度か腰を振って鯉登はすぐに果てた。上手い下手以前になんて自分勝手なんだ、と心中で唾棄した。だから、二度目をどう回避しようかと、様々な言い訳を用意した。もし力でねじ伏せられたら、それよりも強い力で対抗して仕舞いにするつもりだった。それなのに、ふたりきになるとあろうことか鯉登から謝罪を受けてしまったのだ。
 この前は頭に血がのぼり気持ちばかりが先走ってしまい、月島のことを思いやることができなかった、と。
 月島は大いに面食らった。
 面食らって動揺して胸が大いに騒ぎ出した。それで初めての時とは真逆に、鯉登は月島をこわれもののように扱った。だからこの胸騒ぎを、好意だと勘違いしたのかもしれない。
「……痛ッ」
 最後の玉止めで、不覚にも針を指先に刺してしまった。赤い血がぷくりと珠を結ぶ。そして仮縫いのつもりで始めたくせに、無意識に返し縫いをして糸止めまでしていた。
 外套を目の前に両手で広げて、塗った箇所を確かめてみる。糸の色は大して違和感ないが、やはり目立つ。これでは手術の縫合跡と一緒だ。


 
 裁縫道具を返してから、月島は谷垣に聞いてみた。
「鯉登少尉はどこへ行ったのか知らないか?」
「えっ、まだ戻ってないのか? 胸の傷から血が滲んできたと言うから、ヒグマの脂をばあちゃんから分けてもらって塗ってたんだ。それで手が臭いと言ってたから小川に洗いに行ったはずだが……」
「どれくらい前の話だ?」
「えっと、二時間前だと思う」
「二時間も? 探してみる」
「はい、軍曹も気を付けて」
 確か昨日、植物を洗いに小川へ行ったと言っていたから、そこかもしれないと見当をつけた。あまり遠くへは行かないはずだが、また小動物か何かを見つけてふらふらしているかもしれない。
 この村の人々が踏みしめて自然とできた道に沿って、月島は茂みの中へ入って行く。数分もしないうちに川に行き当たる。それは月島の想像より川幅が広く、流れる水の量も豊富だった。雪解け水なんだろう。しかし辺りに鯉登の姿はない。
 川を伝ってさらに林の奥へ歩く。十五分歩いたが鯉登の姿はない。本当にこちらに来たのだろうか。それからさらに五分ほど歩いたところで、地面が傾斜し始めた。山への入り口だ。昨日も確か、この近辺から山に入ったのだった。すると木々の向こうに見覚えのある小屋が見えた。「アン」だ。アイヌの鷲猟用の小屋だと、昨日谷垣に教わった。昨年、アシリパと杉元と白石がコタンに寄った際に、ここで鷲を捕まえてきたらしい。
 その小屋の出入り口に掛かるすだれの下から、人の足が二本はみ出していた。見覚えのある長靴だったから、月島は思わず叫んだ。
「少尉!」
 月島は慌てて駆け寄り、すだれを手でよけた。鯉登は敷き詰められた藁の上に横たわっていた。
「少尉殿! 一体何があったのですか!」
「……月島?」
 横たわったまま目を開けて、鯉登は不思議そうに返事をした。
「大丈夫ですか? 谷垣から傷が開いたと聞きましたが……、ここで一体何を?」
 月島は青ざめる。
「大丈夫だ月島。私はここで休んでいただけだ」
 起き上がって、なだめるように手のひらを上げる。月島が小屋に入り正座するから、鯉登も長靴を脱いで揃えた。
「あの、なぜ足を外に投げ出していたのですか?」
「この中で足を伸ばして寝られなかったのだ。だから足だけ外に出していた」
「そ、そうでしたか……」
 月島は悪い予想ばかりしていたから、いっしゅんで気が抜けてしまった。確かにこの小屋は狭い。鯉登の身長より小屋の幅がわずかに狭かったらしい。
 そして自分の外套は眠っていた月島に掛けたから、集落の男性から上着を貸してもらったらしい。アイヌの文様が入った服を羽織っていた。
「あの、傷を見せてください」
「いや、本当に大したことはない。心配かけたようだな。すまなかった」
 傷を隠すような態度の鯉登が、月島はどうにも腑に落ちない。しかし大丈夫だと言うから食い下がるのは止めた。
「あの、寒くないですか? 外套お持ちしました」
「ああ、ありがとう月島」
 鯉登は外套を受け取り、借りた上着を脱いでなぜか月島に羽織らせた。
「村の者が借してくれたのだ。この服は樹皮の糸で作られているらしい。ほら、温かいだろう」
「あの、眠っている間に掛けてくださりありがとうございました。とても暖かかったです」
「うむ、……あッ! 繕ってくれたのか?」
 鯉登は袖を通してから胸の辺りを確かめた。
「はい。先ほど裁縫道具を借りました。糸の色が違うので、あくまでも仮縫いです。帰ったらちゃんと店に出してください」
「いや、このままでいい」
「ここだけ目立ちますよ」
「だからいいんじゃないか。月島が菊田特務曹長の命令に背いてまで私を救護しようとしてくれたことを、忘れないで済む」
 そう言って楽しげに笑う。
「……そ、それはできれば早く忘れてください。それにあの場では、谷垣も特務曹長に背いたと言っておりました」
「フフ、そうだったのか」
 月島の言い訳を、鯉登はますます楽しそうに聞いていた。思い返してみたら、あんなにあからさまな態度もないだろう。
 月島は顔が火照ってきたので、いつものように軍帽の庇を下げようとしたのに、額の前で空ぶった。そうだ、軍帽は落としてきたのだった。赤い頬を隠せないのが恥ずかしい。だから月島は視線だけ背けると「軍帽の下では百面相をしていたのだな」と鯉登がしみじみと述べた。もっともな感想に月島が何も言えないでいると、にわかには信じがたいことを続けた。
「思うに、月島の方が母上より過保護だ」
「え……、ええ?」
 月島はつい大声で驚きの声を上げる。
「母は武家の娘だから、おっとりしてそうに見えても父上同様に躾には厳しかった。だから兄さぁが……いや、やめておこう」
 先ほどまでの鯉登の楽しげな表情は、なりを潜める。うつむいて口をつぐむと、それだけでこの騒がしい上官は沈痛の面持ちに見える。鯉登の昔話には兄が時々出てくるけれど、それを月島に詳しく話すことはなかった。意図的に兄にまつわる詳細は省いているのだろう、と思っていた。
 その気持ちが月島にはよく分かる。誰かに話したら、記憶の中の大切な人が話した分だけおぼろげになっていく気がするのだ。
 そうして鯉登に触発された月島も、自分の中にある真珠のような記憶を大切に手繰り寄せてしまい、鯉登から手が伸ばされことに気がつかなかった。大きな手が後頭部に回されてハッとする。それから鯉登が「捕まえた」と言う。
「な、なんですか」
 月島は鯉登の突拍子のなさを警戒する。
「月島の目は不思議な色をしているな。光の当たり具合で幽暗な蒼色に見える時がある」
 そうしてじっと見つめるから、月島はいたたまれなくなって、真夏でもないのに汗が吹き出してきた。
「そういう口説き文句は私ではなく女性に言ってください」
「口説かれていると気が付いたか。しかしここは薄暗くてよく見えない。もっと近くで見せてくれ」
 鯉登が真剣なまなざしで顔を寄せるから、月島は魔法にかかったように動けなくなってしまった。そのまま手で顔を引き寄せられてふたりして前かがみになり、鼻と鼻の頭がくっつく。
「近すぎて見えないでしょう……」と恥ずかしまぎれに言うと「月島はアオスジアゲハをみたことはあるか?」と聞いてきた。後頭部を押さえる手から力が抜けたので、月島は背筋をまっすぐに伸ばして問い直した。
「アゲハチョウですか?」
「普通のアゲハチョウは黒い羽の中に黄色が差しているが、青緑色の紋様の蝶がいるのだ」
「それがどうしたのですか?」
「子供の頃、私を慰めに来てくれた」



 鯉登の話はこう続いた。
 八歳の頃、兄が亡くなり艦や海を見ると体調を崩すようになってしまった。父の仕事の見送りであったり、学校行事で行ったとしても、海からできるだけ離れたくて、吐き気を我慢しながらいつも高台へ走って逃げた。
 その中腹にある寺院に兄の眠る墓があった。境内の井戸で口をゆすいでいると、アオスジアゲハがひらひらと舞っていた。何かを語りかけるような舞い方が、まるで鯉登を励ましに来たように見えた。そして本来はもっと目の覚めるような青色の羽なのに、鯉登の近くにやってくる蝶はくすんだ青緑色をしていた。自分と同じく落ちこぼれなのかもしれない、と思った。
 何度か遭遇するうちに、鯉登はその蝶を捕まえたくなって追いかけた。しかしアオスジアゲハは空の高いところでも易々と俊敏に飛び回るから、どうしても捕まえることができない。その様子を見ていた住職が「そん蝶はいつも同じ水場、同じ時刻に現るっ。じゃっで無理に捕めようとせんで眺むっ方が良か」と助言した。
「いつも同じ場所と時間に現るっなんて嘘や! 子供じゃて思うて馬鹿にすっな」と鯉登が反論すると、住職は「まてつでんいらっしゃい」と小さく微笑んだ。
 蝶は冬の訪れる前に姿を消した。そして春が訪れ夏の来る直前、本当にその蝶はまた寺院の井戸端に現れた。少しくすんだ緑色の蝶だった。
 それは鯉登が鹿児島から引っ越しする年まで毎年続いたのだと語った。
 すると黙って聞いていた月島が、やや首を傾げて鯉登に尋ねた。
「あの、私は蝶のことは詳しくないのですが、そこにやってきたのは同じ個体だったのですか?」
「別の蝶のはずだ。私も不思議に思い調べたのだが、寿命は羽化からわずか二週間ほどだった」
 月島もにわかに興味がわき、その蝶を見てみたいと思った。
「む、月島も見てみたくなったろう?」
 月島の心の変化に機敏に反応する鯉登に驚いてしまう。そんなに顔に出ていたのだろうか。
「え? はあ」
「ここにくる前にオソマたちに聞いたのだ。この辺りでアオスジアゲハを見たことがあるか? と」
「いるんですか?」
「見たことはないそうだ。北海道には生息していない蝶なのだろう。……と、思ったが、ここにいたのだ」
 鯉登は健やかに笑い、しかし月島を抱き寄せる腕は健全な理由ではなかった。
「あなた一体なんの話をしているんですか」
 瞳の色の話が、ここに繋がるのか。月島は居心地が悪くなり、目をそらす。そうすると鯉登は顔を近づけ目を覗き込む。
「そういう風に、警戒している月島が月島らしくて良いな。昨日のように積極的に迫られると、何か裏があるのか、あるいは自尊心をすり減らすためにわざとやっているのかと勘繰ってしまう」
「誰が誰に迫りましたか!」
 昨晩の腕枕の件を見透かすように言うから、月島は焦ってまくし立ててしまった。
「そういう意図ではなかったのか?」
 真意を探ろうと鯉登がますます顔を近づけるから、ぷいと顔を背けてしらばくれた。
「……そうか、それではもう帰るか」
 言葉の後に小さくため息が聞こえたような気がして、月島は内心気が気じゃなくなってしまった。鯉登が長靴を履き外に出たから、月島も後を追った。



「自分で自分の気持ちが分からないから、抱いてください」と正直に伝えたら、「私を利用するな」と鯉登は不機嫌になりそうだ。それとも快楽がほしいだけなのか。
 二日前までだったら、そのどちらもあってはならないと断罪していただろうから、自分が変わったことに手ごたえを感じていた。食べて交わって眠って、そうして生きていることを体の隅々まで実感させる自分の中の本能は、まだ厭わしくもあった。月島の目の前で死んでいった者たちの顔が浮かんでは消える。
 その夜、鯉登の寝息が聞こえ始めてから、月島はひとりでチセを出た。そして暗い中をなんとか川沿いに歩いて行き、アンに到着した。
 昼間の鯉登と同じように、月島は藁の上に寝転んだ。鯉登が羽織っていたアイヌの衣服を持って来て、月島もそれを毛布がわりにかぶる。そこはかとなく鯉登のにおいがしてきて、気持ちが高ぶった。
──月島。
 名前を呼ばれて抱きしめられるような幻想。
 本人が隣に寝ているより残り香の方がいいなんて、これでは片恋を拗らせているも同然ではないか。でも違うとも言い切れなくて、もやもやする。昨夜の腕枕を誘う大胆さは生来の自分で、駆け落ちにいざなった二十一歳の自分に戻ったかのようだった。
 それなのに鯉登は、月島には手を出さずに軽い触れ合いだけで満足している様子である。今夜も何もしなかった。
 果たして樺太ではそうだっただろうか? 北海道に戻ってきたから、もう用済みなんだろうか? 
 確かに彼の地では義務的に応じていた。それは結局、心で何も感じないための自衛であったのだが、鯉登にはそういう態度の方が都合よかったのだろうか。
 月島は軍袴の前釦をはずして少しずり下げた。褌の上から性器の形をなぞるとぞくりとした。そこはすでに布地をわずかに押し上げている。正直な体の反応が恥ずかしい。男に欲情するなど、流行りの小説の中だけの出来事だと思っていた。
 今夜はひとつの決心があった。前を触らないで後ろだけで達したい。今まで後ろで自慰をしたことがなかったから、これも鯉登にもたらされた大きな変化のひとつだ。
 月島はヒグマの脂が入った袋を袋嚢から出した。怪我の治療のために分けてもらったものだから、己の身勝手な欲望のために使うことに罪悪感はある。それでも鯉登とつながりたい気持ちが消せない一番の原因は「私を信じろ」と言われたことだ。
 信じられる人。それは月島が長年欲しくて欲しくてたまらなかったものだ。
 かつて信じた人は自分の前からいなくなり、そして次に信じた人は自分を欺いた。もうこの先、そんな人は誰ひとり現れないと思っていた。
 だから今夜だけは不埒な行いを許してほしい。月島はアイヌの人々の信じる神にそっと許しを請うた。
 人差し指ですくい取り、蟻の門渡りに塗り広げる。ぐっと指の腹を肌に沈み込ませると、腹の中にあるこなれた部分が反応した。だから穴の周りも滑らせて、指を慎重に入れる。一本なら痛みもなかった。中に油分を足し、二本目が入るように丁寧に広げる。そしてへそ側の浅い内壁を擦る。
「……う、」
 快楽が閃光のように腰から背筋をせり上がる。
 人差し指と中指で同じところを続けて擦り続けると、そこは次第に熟れた男の悦びを月島にもたらした。それは同衾を始めた頃に、鯉登が月島の体に熱心に教え込んだ成果だった。
 指を挿入されて浅いところを擦られて『この辺りは気持ち良くないか?』と聞かれても、違和感だけでよく分からなかった。それが同時に陰茎を擦られると、今まで意識したことのない場所から想像を絶する快楽が生まれた。
『ああっ、やめ……、そこ触るの止めてください!』
 この体は本当にオレの体なのか。こんな自分は知らない。
 月島は自分が変えられていく恐怖に慄いて、鯉登に叫び懇願した。けれど止めてくれなくて、まるで子供をあやすように穏やかに月島をなだめた。
『大丈夫だ月島』
──何が大丈夫なもんか。
 そう反論したかったけれど、月島の口からもれるのはすべてなまめかしい声で、挿入された鯉登の指での刺激は次第に凶暴になっていく。
『うっ、あ、あ、し……少尉、……あっ、駄目……! 駄目です!』
 半ば泣きながら訴えたのにそれでも止めてくれなくて、月島の中で眠っていた欲望は暴かれて引きずり出されて白濁を散らせた。
 樺太での出来事を思い出すだけで、頭や胸や腹の奥が熱くなる。目を閉じれば、今も自分の穴をかき乱すのは鯉登の指だ。
「ん……、あっ、少尉…、こ、鯉登……少尉」
 誰にも聞かれないから、臆面もなく鯉登の名を呼んだ。陰茎は勃ち上がり布に抑えられて窮屈だけれど、触らないように開放しなかった。先からは体液が滲み出て、布をじわじわ濡らしていくのが分かる。
 ここだけでもいけるだろうか。月島はこの先に待ち受ける絶頂の強さを知っているからこそ、もっと奥まで貪りたくなった。



『月島、挿れるぞ』
 指で急き立てられて月島が前後不覚になっている間に、鯉登は挿入してきて根元まで埋めた。指どころではない大きさが苦しくて、心臓は激しく胸を打つ。どこもかしこもいっぱいいっぱいだ。でも痛くはない。時間をかけて広げたし、十分に濡れている。だから鯉登が腰を揺するたびに、ぐちゅぐちゅと耐えがたい音がする。苦しい。でも自分は様々な苦難を経験してきた。耐えられないことはない。嵐が過ぎ去るまで黙って耐えるだけだと思った。それが役目だと思っていた。それなのに。
『……は、ああ、……あああっ!』
 抑えられない声が出た。前立腺より一段奥に、もっと感じるところがあった。信じられない。あれで終わりじゃないのか。我を失う恐怖に月島は絶望し、それとは裏腹に摩羅をぎゅうぎゅうにしめつけた。鯉登に懸命にしがみつき、発したこともない声をあげる月島の体の癖を、鯉登はすぐに覚えてしまったようだった。
 樺太で鯉登が月島にもたらしたのは、他人から肉体を支配される恐怖と、ひとりでは得られない快楽だった。
 それで心だけが平穏でいられるはずはないのだが、並より強靭な肉体と精神を持つ月島は、それらをも克服できるとたかをくくっていたのだ。
 


 届かない。
 月島は愕然としていた。
 あの頭の中の回路が焼き切れそうな快楽を生み出すところに、自分の指は届かない。
 月島は急に虚しくなって、抜き差しする手を止めた。頭が冷えると爪先まで体温が下がる気がする。先ほどまでの情熱はどこへ行ったのか。興奮が醒めると自分のしていることが、本当に虚しくなった。脂でぬるつく指を拭くものも持っていない。褌の中も先走りで濡れて不快だ。
 月島は大きくため息をつき、どうしようか考えた。汚れたままここで眠ろうか、チセへ戻ろうか。
 もし鯉登が起きてしまって自分がいないことを心配していたら、それも申し訳ない。ここに来る前の寝顔を思い出してしまうと、急に鯉登のそばにいたいと思ってしまった。
「……帰ろう」
 月島は服をすべて脱ぎ、小屋のすぐ近くにある小川に入った。川の水はまだ冷たく震えるような水温だったけれど、くすぶる劣情を洗い流すにはちょうど良かった。そして月島が洗っている最中に、ぽつりと水滴が頬を濡らした。空を見上げると厚い雲が垂れ込めているのが夜目にも分かる。弱い雨が降り出した。月島は少しだけ雲を眺め、そして冷えてしまった体でアンに戻った。
 こんな小雨を、涙雨と呼ぶのだと昔教わったことを不意に思い出した。これは人が泣いているのか、それとも空が泣いているのか、とその人に聞いてみたけれど、どういう返答だったか忘れてしまった。
 濡れたまま服を着て中途半端に服が湿るけれど、外が雨なら乾かさなくても一緒だ。これなら「不寝番のつもりで外を回っていて、雨に降られた」と言い訳ができる。
 そうして嘘を本当にするために、月島はコタンの周辺を見回って、一時間後にチセに戻ってきた。
「こんな時間にどこをほっつき歩いているんだ、月島軍曹」
 なんとチセの前に鯉登が座っていた。彼は外套も羽織っておらず、髪や服は濡れていた。
「……し、少尉殿こそ、早く中に入ってください」
 まさか本当に起きて待っているとは思わなかった。月島はひどく動揺しながらチセへ入った。
 服を脱ぎ囲炉裏に似たところに火をくべて、その周りに薪用の枝を差した。それから脱いだ服を枝に引っ掛けて、火にあぶって乾かす。ふたりとも全裸になっていた。
「フフ、バーニャを思い出すな」
「そ、そうですね……」
 鯉登は陽気に笑うが、月島は全裸なのが気恥ずかしかった。裸なんてもう珍しくもないだろうが、今は鯉登に対する劣情を見透かされそうで、見られたくなかった。
 そして鯉登が布を上に敷いた藁の上に寝転んで、自分の外套を上に掛ける。
「ほら、月島もこちらに来い。狭いが何も掛けないよりいいだろう」
「は、はい」
 いくぶん緊張した月島が、言われた通りに鯉登の隣に入ってきた。
「月島、なぜこんなに冷えているんだ?」
 触れた肩が異様に冷えていることに、鯉登は驚いている。
「雨の中を歩いていたので」
「それはそうだが……。まあ良い。横向きに寝てみろ」
「は? こうですか?」
 月島は鯉登の方を向くように横寝した。
「こちら側を向くんじゃなくて、私に背を向けるのだ」
「はあ」
 言われて月島はごろりと半回転して、鯉登に背を向けた。自分だけが後ろから見られているのは落ち着かない。すると突然、首の下に左腕が差し入れられ、右腕は月島の半身を抱きしめた。背中には鯉登の胸や腹がぴったりとくっつく。
「こうするとあたたかいだろう?」
 鯉登も雨に打たれていたにも関わらず、体はあたたかかった。気持ちがいい。月島の前に囲炉裏の火が揺らめいており、だんだんと体温を取り戻す。じわりと心もほぐれていった。眠気に襲われる。今は午前零時頃だろうか。
 そうして月島が目を閉じ意識が途切れ途切れになった時に「月島」と呼ばれて、はっと目が覚めた。
「……は、すみません、少尉殿。おかげさまでだいぶあたたまりました、ので……」
 鯉登の手がよこしまな動きをした。月島の体をだんだんと下に降りていく。そして臀部をなぞり、すぼまりを指で探ると、鯉登はよもやのことを口にした。
「かすかにヒグマの脂のにおいがすると思ったのだが……。もしかして、ここに塗ったのか?」
 月島は息が止まるかと思った。まさかにおいで勘付かれるとは思ってもみなかった。小川で中までは洗い流していない。だから指を入れられたら一発で分かる。何と返せばいい? どうしたらごまかせる? 急に心臓は早鐘を打ち全身を血がかけめぐる。頭は真っ白で何も思い浮かばないが、早く何かを言わなければ。
「……あの、……それは」
「ひょっとして、自分で慰めていたのか?」
 言い当てられて頬がかあっと熱くなる。月島は焦って何も答えられなくなる。こんなのは、鯉登にだけは知られたくなかった。
「警戒している月島が月島らしくて良い」と言うくらいだから、鯉登は厳格な月島基を好んでいるのだ。だから、自慰をするにしたって尻を使うなんて、しかもその時に想像したのが鯉登だなんて知られたら、軽蔑されそうだ。
 月島は自分の欲深さを恥じ入り、何も言えなくなってしまった。鯉登はというと、答えが聞けるのをじっと待っている。
 パチパチと乾いた小枝の焼ける音だけが聞こえる。そうして数分が経過して、月島はようやく観念して口を開いた。知られたくはなかったが、常に愚直に向き合ってくれる鯉登には嘘もつきたくなかった。
「……あの、言い訳がましいとお思いになるかもしれませんが……、その、最後までは……できなくて……」
 月島が消え入りそうな声で、にごして言う。すると鯉登は起き上がって座り、月島の両肩を掴み仰向けにした。眉間にしわを寄せ厳しい表情で月島をにらむ。
 ああ、嫌われたか。男を欲しがる月島は、鯉登にとっての月島ではないのだ。やはり自分の人生は、何もかも思う通りにはいかない。死に恥をさらして惨めな気持ちになる。
 明日からは大勢の部下の中のひとりに戻ろう。
 そんな決心を固めようとしていたら、鯉登は月島に覆いかぶさり抱きしめた。ぎゅうぎゅうと両腕に力が込められるからとても苦しい。いったい何がどうしたんだ。すっかり気が動転して固まってしまった月島の耳に、小さく「済まんかった」とつぶやくのが聞こえた。
「少尉、鯉登少尉殿。あの」
「月島、さみしい思いをさせてしまったな。気付かなくて申し訳ない。私は自分が情けない」
 腕の力が弱まったかと思うと、鯉登はわずかに上体を上げて、月島に謝罪した。
「あの、少尉殿。あなたが謝るようなことでは……」
 また謝罪されてしまった。オレなんかを気遣う必要ないのに。月島はそう謙遜しながらも、呆れられたのではないことに安堵して、それから嬉しさがこみ上げた。
「一昨日、私の説得を受けて魂の抜けたようなお前をそのまま抱いたら、なんだか弱みにつけこむ卑怯者のようで嫌だったのだ。──格好いい男だと思われたくて、背伸びをしてしまった」
 そうしてわずかに頬を赤くして、拗ねたように視線をそらす。その板についた子供のような仕草が「格好いい男」とは程遠いと思うのだが、鯉登のそのみずみずしい発露が月島は嫌いではなかった。いや、正確にいうと好きだった。
 自分には無い物を手にして生まれ、自分にある物を持たない男。だから不釣り合いなふたりなのに、お互いに執着してしまったのかもしれない。
 連帯して同情して執着した先に、恋や愛があるのかまだよく分からないのだけれど。
「月島ぁ」
 自分にしか使わない甘えた声音で、鯉登が呼ぶ。何ですか、と言おうとして、その裸の腰をぐいと押し付けられる。そこはすぐに挿入できそうなほどに固く大きくなっていた。鯉登の興奮が伝わると月島の胸の内も熱くなり、過去に散々可愛がられて泣かされた体のあちこちが呼応した。
「あの、このまま挿れていいですよ」
 月島がそう言うと、鯉登は目を見開いて、猿叫でもあげそうなそぶりを見せた。次の瞬間その声を飲み込んだのか、ひとつ咳払いして確認してくる。
「……いや、しかし、それはいくらなんでも準備が足りないと言うか……」
 珍しく鯉登がしどろもどろだ。初夜の失敗をいまだに引きずっているらしい。
「大丈夫ですよ。私は、その──あなたがほしかったんです」
「つ、月島……!」
 鯉登は口を寄せてきた。角度を変えて触れ合わせて、くちびるをぬるりと舐めて舌を差し入れる。ひとしきりそこを味わうと、鯉登は毛布がわりの外套の袋嚢に手を伸ばした。そこからヒグマの脂入りの袋を取り出すと、その中身を自分の陰茎に塗った。そして、ぬるつく指を自分の脇腹で粗雑にぬぐう。
 この鯉登の癖を月島はいつもこっそりと盗み見た。本来なら手を拭く時にはきちんと手拭いを使う躾の入った男だから、その大雑把な仕草はとても貴重な場面だった。そうして常を忘れさせ、切羽つまらせているのは自分なんだという充足感が、月島の胸に広がる。
 月島は足を割り立て膝にして、鯉登をその間に導く。股のくぼみに鯉登が陰茎を沿わせてぬめりを分け合うように、何度か往復する。素股のように亀頭が月島の陰嚢を押し上げて、小気味よく袋を揺すられただけで、月島は自身をかたく勃ち上がらせた。すると何を思ったのか、鯉登は脂を入れた袋を月島の陰茎にかぶせて、こすり始めた。
「ちょっと! ……ん、あ、何するんですか……!」
「気持ちいいだろう?」
「や、やめ、……あっ、止めてください!」
 月島は叫んで鯉登の腕をがっしりと掴んで止めた。
「よくなかったのか?」
「いや……、それ非常にまずいです。……すぐに出てしまいます」
「出しても構わんぞ。負傷して長らく相手をしてやれていないのだから」
「あの……、私はあなたのもので達したいんですよ」
 月島が伏し目がちにようよう伝えると、鯉登は限界まで目を見開く。目の色が変わった、と思った。荒々しく月島の両膝を胸に付くほどに折り曲げて、無防備にさらされた穴に突き入れた。
「……く、ふ……」
 奥に腰を進めながら、鯉登が苦しげな声をもらす。はーっと、大きく息を吐いて止まった。まだすべて入ってないけれど、深呼吸を繰り返してやり過ごしている。つながったところばかり見ていた鯉登が顔を上げたので、目が合った。その額や鼻の先や顎には、今にも滴らんばかりの汗が浮いている。ひたむきなその余裕のなさが、とても好きだと思った。
 丁寧に体を暴いて望む快楽を与えようとしてくれる男。
 嬉しさや心の痛みを鈍くしていたのは鶴見ではなく、他でもない自分自身だ。だから正直になるとこんなにも満たされて、そしてこの気持ちを鯉登にも返したいと思ってしまった。
 この優しくて愛しい人の未来が、輝かしい日々でありますように。
 祈るような気持ちで月島は鯉登に手を伸ばす。刺された腕の傷跡は少し薄くなった。そして胸の傷はまだ生々しく触ることもできない。これからもっとこの体に傷を増やしていくのだろうけれど、それでも国防を担う以外の何者にもなってほしくはないと思った。
 きっと自分のように、この人から護られる人がたくさんいるはずだ。
 そして彼の目に入ろうとしている汗を手で拭う。その月島の働きかけに「珍しいな」と鯉登は目を丸くして、微笑む。笑顔を向けられると胸がつまって、過日の自分を取り戻した気がした。目が潤んできたから隠そうとしたら、両手とも握られた。
「隠すな」と鯉登が迫る。
 ゆっくりと抜き差ししながら一番奥まで到達する。鯉登は体を倒して月島に口づける。舌で舌を舐めて絡ませて、その合間にわずかに離した口で呼吸をすると、吐息も唾液のように混ざり合った。ぴちゃぴちゃと湿った音がだんだん大きくなったけれど、外の雨脚も強くなっていたから、ふたりのたてる水音はそれにかき消された。
「あ、あっ、……、ん、あっ、少尉。……鯉登少尉」
「月島、もっと、……もっと私の名前を呼んでくれ」
 雨音に混じって、ゴロゴロと雷鳴が小さく聞こえた。「稲妻の子供が雲を呼んだのかもしれないな」と鯉登が荒い息の合間に言う。月島はというと、夕張から小樽へ戻ってきた日を思い出した。鶴見の自宅を出てから誰にも会いたくなかったから、兵舎へ戻らずひとり朝まで港で過ごした。やりきれない思いを煮詰めて、あの髪と同じように海に捨てた。今なら帰る場所がある。
 月島は鯉登を目に写した。あんな悔恨を繰り返すことは、多分もうない。月島は最後まで戦うための武器を手に入れたような、そんな強い気持ちになった。
 鯉登と視線が絡むと、きつく抱き締められる。そして首筋に顔を埋められて、肌を強く吸われた。腰を打ち付ける間隔が早まる。
「……月島、……そろそろいきそうだ」
 鯉登がそう言って再び月島の陰茎に手を伸ばしてきたから、月島はやんわりとかわしてその手を握った。
「私も……です」
 かたく目を閉じればやがて耳は音を拾わなくなり、頭の中が白んでくる。達することしか考えられなくなって、自分の体は鯉登のためだけにあるような気になってくる。
「──笑うたり怒ったりすっ月島を……じゃっでもう……」
 浮かされたように鯉登が言うけれど、月島にはよく聞こえずに何も答えられなかった。
「……う、ああ!」
 そして腹の中でびくりとふるえるのを感じて、彼の熱を受け止めた。



 名前を呼ばれた気がして返事をした。が、うまく声が出たかどうか、自分の耳では分からなかった。
──ああ、夢か。
 月島が目を開けると同時に、鯉登が出入り口から戻ってきたところだった。その手には二人分の朝食があった。
「少尉殿、おはようございます」
「起きたのか」
 慌てて衣服を拾おうとしたけれど、立てない。足の付け根に力が入らなくて、がくがくと震える。月島はぺたりと座り込んだ。
「あの、少尉殿。私の服を取ってもらえますか」
「無理するな。もうしばらく休め」
 枝に掛けている月島の服を、鯉登は集めて寄越し、それから月島の隣に腰を下ろして食事を始める。
 生命そのものだな。その様子を見ていた月島は思った。そして月島の視線に気がついた鯉登が、妙な質問をしてきた。
「月島はいびきをかかないのか?」
「寝ている間のことは自分では分かりませんよ」
「疲労がたまればいびきをかきやすいと思ったのだがな。まあ良い。今日も明日もまだ時間はある」
 そうして楽しそうに話す姿は、また以前の鯉登に戻ったように見える。同室で眠る者がいびきをかいたら、普通は嫌なんじゃないのか。一体何を楽しみにしているのか非常に不可解だが、幻滅したくなかったので敢えて理由は聞かなかった。
 一日二十四時間一年三百六十五日、いつでも格好いい男でいるつもりはないらしい。それでも子供のような面をのぞかせると世話を焼きたくなるのだから、うまくできていると月島は思う。惚れた弱みである。ただ、どちらが先に惚れたのかは今のところ確かめていないので、勝負はついていない。



 出産から七日後、谷垣とインカラマッと赤ん坊を見送って、鯉登と月島も軍病院へ帰ることにした。鯉登が乗ってきた馬に、ふたりで乗る。鯉登が前で手綱を操り、その後ろで月島がしがみついていると、犬ぞりでの旅路を思い出した。いま思うと、月島が本当の自分に向き合う時間が動き始めた旅だった。
 ここから病院まではそう遠くはない。しかし「コタンから帰って来た」と目撃証言されないために、最短経路では帰らないことにした。谷垣たちが南へ向かったから、自分たちは海沿いに東へ向かうことにした。
「この馬もコタンではすっかり世話になったな。落ち着いて毛艶も良くなった。後で使いの者に礼を持参させよう」
「え? 少尉殿のお宅に仕える方にですか?」
「うむ。そうは言っても使用人に直接持参させるわけではない。両親もこちらに住んで五年は経つから、人脈もそれなりにある。だから素性を辿れないように、十分注意はする」
 こうした月島にはできない方策をとれるのが、鯉登の強みであり上官としての矜持なのだろう。今回の顛末は、半分は自分の責任であるので申し訳ないと思うが、鯉登に全面的に任せようと思った。それほどまでに月島の中では鯉登に対する信頼が厚くなっていた。
「痛み入ります。足が付かないよう、くれぐれもお気を付けください」
「案ずるな。──月島はずっと疑心暗鬼で生きてきたのだろうから、信じろと言っても今すぐにはできないかもしれない。だがな、私がお前を裏切ることはない。それだけは忘れるな」
「……はい」
 月島はなんだか胸がいっぱいになって、ひとことだけ返すのが精いっぱいだった。
 他人に自分の氏素性や思考を探られてはならない。そうしないと騙されて、ろくなことにならない。月島はずっとそうやって自分の身を護ってきた。それは小さい頃からの習い性だったのか、それとも情報将校から学んだ処世術だったのかは、今となっては分からない。
 自分には価値なんてない、と言いながら、なんと矛盾した生き方だろうか。実は虚勢を張って生きていたのだと、鯉登は見破ったのだろう。恥ずかしい。それでも彼にならば、誰にも触らせない心や体の奥底まで知悉(ちしつ)されても、後悔しないと思った。
 この人はオレから何も奪わない。
 午前中にコタンを出発したふたりは時間をかけて行きつ戻りつ、迷路のように複雑な道程を選んでいく。時刻はすでに夕方で、鯉登の肩越しに見える夕陽がまぶしい。
「それはそうと、お前はまだ『人殺しの子は人殺し』だと思っているのか? そう言ってただろう?」
「よく覚えておいでですね」
「ああ、なぜあんなに将来を断言するのか、不思議に感じたのだ」
 どうしてなんだ? と鯉登が理由を尋ねたならば、月島は父親を殺害した過去を告白するだろうと思った。しかし鯉登は理由までは聞かなかった。そして「今でもそう思うのか?」と重ねて聞いてくる。
「……いえ、今は分かりません」
 分からないとは言ってみたが、正直ちっともそうは思わなかった。まっさらな瞳の子供そのもので、成長すればきっとコタンの人々と手を取り合って生きていくのだろうと思われた。
 環境が人を作るのだと鯉登が言う。だから稲妻の子はあの場所で生きるアイヌとなるだろう。
「信じられんか?」
「少尉殿がそうおっしゃるなら、そうなるのだと思います」
「月島ぁ、見届けねばならぬものが増えたな」
「……その子供もですか」
「そうだ。子供がどう成長したか五年後、十年後もこうして一緒にあの場所へ、確かめに行こう」
「五年後、十年後ですか」
「十五年後、二十年後もだ。少なくともあやつが大人になるまではな。だから月島も長生きしろ」
「それは命令ですか」
「バカタレ。約束だ」
 そう言って鯉登は左手を手綱から離して、小指を月島に差し向けた。
 月島は漠然と自分の人生は短いものだと思い込んでいた。そして二十年も同じ人と一緒に過ごした経験がないから、それは暗闇の中を歩くような提案だと思った。
 それでも夜が明ければ朝がきて、雨が降ったあとには太陽が顔をのぞかせる日が来るのだと、そう言って鯉登が隣で笑うのなら、きっとそのとおりになると月島は思った。
〈了〉

【鯉月】夜明けの訪れる場所

【鯉月】夜明けの訪れる場所

  • 小説
  • 短編
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日 2020-04-24

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work