ひのえ

 私の目の前に、雑草が生えている。
 おかしいなと思う。雑草を刈り尽くし、茶色い土がむき出しになった庭。そこに図々しく根ざしている、名前も知らない雑草。
 私は素手でその根本を掴んだ。
 土を掘り返しながら、引き抜いていく。手応えが少しずつ生じ、雑草はブチブチと音を立てながら根っこをちぎれさせ、そしていきなり引き抜けた。
 私はその反動で後ろによろける。
 柵があると思っていた。
 けれど、私の背中を支えるものは何もない。
 違和感と恐怖。けれど体勢を立て直せない。
 何もない。柵も、地面さえも。
 私は真っ逆さまに落ちていく。
 何処までも何処までも。真っ暗闇を、ひたすら落下していく。


 じっとりと生温かい何かに突っ込んで、ようやく落下は止まった。
 身体に痛みはなかった。やわらかい何かに沈み込んでいる。土の匂いがして、もがくように顔を上げる。
 上からは丸く光が差し込んで、私の下にあるものが見える。
 それは山になった雑草だった。
 思わず声を漏らして立ち上がる。その足場のじわりとしたやわらかさにうまくいかず、再び前のめりに倒れる。湿った土の匂い。
 ここはどこだ。必死に顔を上げ、そして言葉を失った。
 ひたすらに暗く、果てしない。おびただしい量の雑草と土塊が山になり、それが延々と闇に溶けている。
 薄暗い空間。死んだ空気。全てが死んでいる。死骸の上に、私はいた。
  そう気づいて、とにかく立ち上がって走ろうとする。しかしうまくいかない。足元から、死んだ生命を踏みつける感覚が伝わってくる。どろりと足に絡みつく。悲鳴が聞こえるような気がする。重く暗い断末魔。人の言葉でさえない悲歌。
 どこへも逃げることができない。走っても走っても闇の向こうには闇がある。積み上がった死骸だけが、黒洞々たる世界を、ただ重く満たしている。
 走れば走るほど身体が重くなっていった。
 ゾッと背筋が冷える。足元から、死の悲歌が聞こえる。それが少しずつ重さを増していくのだ。まるで呪詛のように。足をつたい、脇腹を這い、耳元に流れ込んでくる。そして脳内を蹂躙する。
 必死で踏み出した足が、まるで泥沼を歩くように沈んだ。
 いやだ。助けて。苦しい。助けて。ほしい。生きたい。死にたくない。死にたくない。死にたくない、死にたくない。生きたい生きたい生きたい――――。
 私は引きずり込まれる。
 雑草の泥沼の底へ。
 土塊の底へ。手を伸ばす。伸ばす。誰にも届かない手を。私は引きずり込まれる。
 闇の底へ。更に深く。

 その場所は、この世界の深淵だった。
 枯れた死骸の静けさよりも、私に絶望を感じさせた。
 ぎゅうぎゅう詰めになった箱の中、腕や足、えら、羽、髪の毛、粘膜。歪に欠けた存在が私を押し潰す。
 その足が欲しい。腕が欲しい。髪がほしい。目がほしい。生きたい。死にたくない。命になりたい。ほしい。生きていたい生きていたい死にたくない死にたくない死にたくない。
 腐った片腕に足を引きちぎられ、干からびた何かに血を搾り取られ、目をえぐり取られ、奪われていく。
 痛みは感じない。そこにはあるのは、もはや恐怖とも違った。
 胸を満たすのは絶望的な悲しさだった。
 ああ生きたかっただけなのだ。
 死にたくなかっただけなのだ。
 うぞうぞと動きまわる生命のなりそこないたちは、ただ泣いていた。
 生きたかったと泣いていた。
 私を引きちぎってもその悲しみが満たされることはないのだろう。
 ただ泣いていた。泣くこともできない目で。言葉さえ持たぬまま。
 私は、腕になった。足になった。目になった。髪になった。けれどそれで、新たになにかが生まれることはなかった。
 ばけものが更に、醜いばけものになっただけだった。


 ふっと目を開ける。
 息を吸う。天井が見える。手をかざす。腕があり、足がある。
 朝だった。
 起き上がる。
 着替え、顔を洗い、朝食を食べる。
 家を出る時、ふと玄関脇の庭へ目をやった。
 そこには色とりどりのパンジーが咲いていた。私はそれらに水をやった。
 アスファルトの上を歩いた。

 深淵の上を、歩いた。

  • 小説
  • 掌編
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