コンビニ

自分の存在を消すかの様に、静かに玄馬は引きこもっている。7畳の部屋の中で何を思って暮らしているのか

2015年6月28日日曜日。梅雨入り宣言が出されて一週間がたつというのに、空は青く晴れ渡り気温は30度を超えていた。暑いことで有名なここ、雫市に夫の転勤により住むことになって、6年が過ぎていた。これが空梅雨というやつか。あのしとしとと降り続く、うっとおしい雨が恋しいと思ってしまう。
私(花月52才)と夫(卯玄52才)は、日曜日の午後に潮書店へと来ていた。二人とも本好きで、話は合うのだが選ぶ物は全く異なっていた。好みが違うことで本に関する世界観が広がり、話しててとても楽しい。書店の中は冷房が効いていて、ゆっくりと本を選ぶことが出来た。お気に入りの本を買う事が出来て、楽しい気持ちで駐車場へとむかう。それにしても、外は、暑い、暑すぎる、この暑さだけは慣れることは無いようだ。車に乗り込みクーラーを全開にする。
「喉が乾いたから、何か飲み物を買いにいこう。」と私
「よし、近くのコンビニに寄ろう」と夫
車を走らせてすぐに55のマークを発見
「55のマークがあった、そこに入ろう!」私が大きな声を出すと、「わかった」と夫が車を55の駐車場に滑り込ませた。
車のドアを開けると、暑い。太陽から逃げるようにコンビニのなかに入った。
す、涼しいです。まっすぐ飲み物のコーナーへと向かった。私達がが選んだのは、スポーツドリンク。夫がポケットから小銭入れを出しながらレジへ向かう。私が二本のスポーツドリンクをカウンターに差し出す。
「いらっしゃいませ」とカウンターの中の店員が丁寧にお辞儀をした。
「えっ」と、思った。
「袋にお入れしますか?」と店員が丁寧に尋ねた。その姿を食い入るように見てしまう自分を止められない。
「いえ、大丈夫です。」と私が、なんとか答える。ああ、絶対に不審がられている。
心臓がドキドキ鳴っているのが解る。私の頭の中は?でいっぱいになっていた。顔を上げる事が出来ない。暑さも忘れて、下を向いたまま車に乗り込む。すぐに
「お父さん、今のコンビニの店員さんって玄馬?じゃないよね。」と夫に聞いた。
夫は哀れみのこもった声で、
「玄馬に似た店員さんだったのかい?」と聞いてきた。
「似てるっていうより、玄馬そのものだった。 感じがした。」
「うーん、俺達に内緒でコンビニで働いてたってか。よく顔は見なかったからなぁ、まあ、黒い服を着ていたからそう見えたんじゃないのか。」とニッコリ微笑む夫。
そう、確かに玄馬は黒い服しか着ない。でも、だからといって、いくら私でも黒い服を着ているから玄馬だなんて思わない。
あんな瓜二つの顔、体格、背の高さ、そして手のかたちを見たら、、、
それにあの丁寧なお辞儀の仕方や言葉使い、優しい商品の受け渡しかた、その一つ一つが玄馬に重なっていた。玄馬がコンビニ店員になっていたらこんな感じだろうと想像できる姿だった。
潮書店から自宅迄車で約10分、私の頭のなかはパニックを起こしていた。夫からスポーツドリンクを飲む様に言われ飲んだ。帰るよと言われコックリ頷いた。
「家に着いたら、解る事だよ。」
確かにそうだ。家には必ず玄馬が居る。今までも、多分これからも。
夫に言われてドキドキしながら、玄関の鍵を開ける。築31年の、古い借家(卯玄の会社が社宅として提供してくれた家。3LDK二階建)柱、ドア、階段に使われている木が年を重ね、良い味をだしている。お風呂とトイレと台所の一部がリフォームされていて、最新式になっている。ここの広い台所が私は大好きだ。とても落ち着く。
各部屋に古いがしっかり働いてくれるクーラーが設置されているのがありがたかった。
「ただいま」
そうそう、 玄関ドアも新しくなっていた。ドアを開けると、どっしりとした二階へと続く階段が見える。その先に七畳の玄馬の部屋がある。
なんとなくそっと言ってみる。そんな私の声にかぶせるように、夫が大きなこえで
「ただいま、帰って来た。」
と、階段の上を覗いている。
いつもと変わらず、階段を音もなく玄馬が降りてきた。
「おかえり」
と、静かに言いながら私達をみつめる。そして再び音もなく、階段を上がって行く。
「ほれ、ちゃんといるよ!」
夫がやれやれという感じて、私を見下ろしている。身長差20センチ、時としてその見下ろし方に私が見下されているように思ってしまうことを、夫は知らない。
大学卒業と同時に始まってしまった、玄馬のひきこもり。暴れる訳でも、暴言を吐く訳でもなく、自分の存在を消すかのように静かに玄馬はひきこもっている。七畳一間の自分の部屋で、ひっそりと、何を思って暮らしているのか。私も夫も時間が解決してくれると思っていた。それまでは気のすむまてひきこもっていたらいいと・・・
しかし、6年が経ってしまった。
「玄馬、あなたは今の生活で満足ですか?」と、思いきって聞いたことがある。
「俺は、今の生活に不満はないけど、お父さんとお母さんには申し訳ないと思っているよ。でも、もう少しだけ待ってもらえないかな。」と、玄馬は頭を下げた。
「そうなんだ、わかった。それならばそれでいいよ。」
そして、今日もまた変わらず、ひっそりと引きこもる、玄馬がいる。まるで、全ての気配を消して、生きているのか死んでいるのかわからない状態で。
それにしても似ている。目の前の玄馬はまるで生きているのか死んでいるのか、全く覇気というものが感じられない。一方コンビニのそっくりさんの、なんと生き生きしていたことか。
でも、私は聞いてしまった。玄馬が後ろを向いた時に、音にならないため息をはく音。それと同じ音をコンビニのそっくりさんも後ろを向いた時に吐き出していた。
これはどういう事なんだろう。なにがなんだか訳がわからない。玄馬と瓜二つの彼はいったい何者?
今、何故、此処に存在しているの?
何がどうなっているのか、解らない。玄馬が二人存在しているという事なのか。そんな現実ばなれしたこと、到底受け入れられる筈がない。夜になってもあまり気温が下がらないのでクーラーを入れたまま寝る事にした。タオルケットをしっかり掛けて、いつもならすぐに眠りに着くのに、今夜はなかなか寝付けない。無理もないか。 諦めて階段を降りて、台所へ行き電気をつけた。油断してた。そこには冷房の切れた台所に一匹の茶色の虫が。私は踵を返して階段を這うようにかけ登り、卯玄を起こした。寝ぼけ状態の卯玄が身体を起こして、「ゴキブリが出たの?」と聞くのて、私は激しく首を縦にふり、「台所、台所」と連呼した。卯玄が台所に降りて行き、すぐに「よーし退治した」と聞こえてきた。私はおそるおそる階段を降りて、台所を覗くと、ティッシュ片手に卯玄が「見るかい?」と聞いてくるので、激しく首をブンブンと横に降った。ゴキブリホイホイを鬼のように三個組み立て台所に二個、階段の下に一個おいた。
「薬でかなり弱っていたから、すぐに捕まえられたよ。」と言われても、油断してはいけない。そんなこんなで、その後私はすぐに寝付くことができた。私の頭の中の疑問、不安、焦り、沢山の思いが一気に吹き飛んだようだ。私にとって世にも恐ろしい虫がもたらした効果だった。

次の日、午後1時に、私は一人で愛車マーチで、例のコンビニへ行ってみた。ドキドキが止まらない。駐車場に入ったはいいが、コンビニの中に入る勇気がない。困ったものだ。見つからない様に車のなかから、コンビニの中の様子を覗いてみる。するとそこに仕事を終えた、玄馬のそっくりさんが裏口から出てきた。そのまま自転車に乗って走り去ろうとしている。あれはやはり(覇気があったら多分こうなっているであろう)玄馬の姿だ。私は、後をつける事にした。その玄馬のそっくりさんは国道aa線を10分走ったあと、左に曲がった。片道一車線の歩道のある道路をひたすら真っ直ぐ走って行くと、左側に鬱蒼とした、林が見えてきた。右側は家やスーパーや銀行が並ぶ、見慣れた風景だが、左側は太陽の光を遮るほどの、鬱蒼とした小高い林が続いていた。その左右であまりに違う景色が、何故かわたしの心をざわざわさせた。その林の入口あたりから、一棟4戸建ての団地が、林の奥迄ずらーっと並んでいた。その林の入口にある団地の前で玄馬のそっくりさんは自転車を止めた。私は少し手前に車を止め、様子を伺う。良く見ると団地は延々と奥迄続いていて、奥の方は完全に林に埋もれていた。
あんな所に人は住めないだろうに。
見ていると心がざわざわしてくる。
玄馬のそっくりさんは林の入口、一番手前の陽のさす建物のドアを開けて入ろうとしている。ドアを開けてから一瞬、振り返り、それからドアの中へと消えていった。
「おいで」と言われている気がした。
私は車から降りてロックをしていた。疑問だらけの頭の中、身体だけが勝手に動いていた。気がつくと、玄馬のそっくりさんの入ったドアの前まで歩いていた。そしてドアをノックしてみる。返事がない。「失礼します」と小さく言ってからドアを開けた。
まぶしい!
眩しくて目を開けることが出来ない。額に手をかざして恐る恐る少し目を開けてみた。真っ白なレースのカーテン越しに、朝の光がさしこんだ部屋。その中央にベビーベッドが見えた。ここは、覚えている。
北国北市、私と卯玄が結婚して初めて住んだ二階建てのアパート204号室。玄馬が生まれた時に用意した、リビングの隣の3畳位の陽当たりのよい小さな子供部屋が光りかがやいていた。おじいちゃんの用意してくれたベビーベッドが懐かしい。リビングの中を玄馬を抱っこした、若き日のわたしが歩き回っている。時々レコードに針を置きに行っている。
これもまた懐かしい、良く寝かしつけるのにかけていた、エリッククラプトンのティアーズ・イン・ヘヴン。卯玄の大好きなクラプトンのレコードを良く拝借していたっけ。この曲を聞かせるとグズっていた玄馬が、そのうち寝てくれるので、子守唄替わりに針を置いていた。玄馬は本当に良く泣く子で、あやしながら家中をよく歩き回っていた。この不思議な状況を目の当たりにしながら。私はただただ懐かしくて目を細めて笑みをこぼしていた。
「ふー」と、ため息が出る。
「えっ」
私はコンビニの駐車場に戻っていた。
「うん?」私は寝ていたのか?夢を見ていたのか?ダメだ混乱しすぎている。
さっき見た団地まで行ってみようと車を発進させたが、手が震えている自分に気がついた。だめだ、いったん家へ帰ろう。
おちつけ、落ち着けと自分に言い聞かせながら、慎重に運転をして家に到着した。
いつもの癖で「ただいまー」と言いながらドアを開ける。いつもと同じように、玄馬が音もなく階段を降りてくる。
「おかえり」と言うと、再び音もなく階段を上がっていく。「はー」と思わずため息がもれていた。台所に行き冷蔵庫をあける。中から冷たいお茶を出してコップに注ぎ、ごくごくと飲んでいるといつの間にか玄馬が側にいて、「どうかしたのかい」と声を掛けて来た。私の目をじっと見つめている。
「うーん。コンビニで玄馬のそっくりさんを、見た気がする。でも、玄馬はずーと家にいたんだよね?」
「うん、そうだね。」と、穏やかな玄馬の返事。
「うん、何かあまりに似てたので、びっくりしただけだよ。」
「そっかー、面白い体験だね。」笑みをこぼしながら玄馬は言うと、静かにリビングから出て行った。
もう一度、あの団地に行ってみようと思った。
玄関で靴を履きながら、「玄馬ーちょっと出掛けて来るからー」と声をかける。
「はーい」と、返事を聞きながらドアの鍵をかける。さっきよりは落ち着いた気持ちで、車に乗り込み、団地へと向かった。 さっきたと同じ場所に車を止めた。いたいた、玄馬のそっくりさんが。今度は手前から二列目の右端の建物の前で、腕組みをして、壁に寄りかかっていた。私が近付くと、しっかりと私の目をみて頷いた。それからドアを開けた。私も一緒に。一歩踏み出すと。
寒い
雪が降っていた。北市北幼稚園の園庭をスキーウェアーと、私の手編みの毛糸の帽子を被った幼い玄馬が友達とそり遊びを楽しんでいた。ふざけあいながら、大笑いしている。私も思わず笑みがもれ、目を閉じていた。あの頃は、韓国から来た友達のためにみんな韓国の文字で名札をつけていたっけ。お互いを知ろうという気持ちが、ぐっとお互いの距離を縮めていた。お互いを知ることが、喜びになっていた。そこにいじめは発生しない。
「ふー」と、ため息をついた。
三列目
目を開けると、桜の花びらが舞っていた。いっちょうまえに、ネクタイを閉め、スーツ姿の玄馬が真新しいランドセルを背負って歩いていた。その姿を眩しそうに見つめる私と夫。
でも玄馬が六年生になって間もなく、卯玄の転勤で転校を余儀無くされてしまった。転勤先は東葉都緑区。
私は目を閉じて、その時の切ない気持ちを思い出していた。ごめんね玄馬、大好きだったクラスメートと、遊ぶことが出来なくなってしまったね。
「ふー」と、ため息をついた。
四列目
それから目を開けると
「冷たい」雨が降っていた。
中学生の制服を着た玄馬が、びしょ濡れになりながらもゆっくりと歩いていた。そうだった、思春期真っ只中の玄馬は何故か傘の存在を無視していたので、しょっちゅうずぶ濡れで帰ってきていた。テストがあっても、学校でも家でも、勉強するという事も全く無視していた。それでも成績は上位の為、担任からカンニングを疑われたことがあったっけ。全てがうざくて尖っていたが、高校受験を期に勉強と真剣にむきあうようになった。目指したい高校を見つけたのだ。そして、無事に合格。あの時の玄馬の満面の笑顔を今も、はっきりおぼえている。
私は目を閉じて、苦笑いしていた。
五列目
「はあー」と、ため息をついて目を開けると、そこは、日差しの中何もないただ空っぽの部屋があるだけだった。その中を歩いてみたが足が異様に重たい、まるで水のなかを歩いている感覚だった。歩いても歩いても同じ空間が続くだけ。
六列目
玄馬の高校生活と大学生活が続くと思っていたのに。そこはやはり、異様に重たい足で歩いても歩いても、そこには何もない空間が広がっていた。
七列目。も同じだった。
私の記憶では、行きたいと思えた高校に入学して、真面目に勉強に取り組んでいた。なにやら目標も出来た様子だった。その目標の為に大学を選んだのではなかったのか。それなのになぜ今玄馬は引き込もって居るのか?
この何もない空間が玄馬の未来だというのか。
目を閉じて大きなため息をついていた。そして目を開けると。何故か自宅の玄関の前に立っていた。コンビニの玄馬のそっくりさんは、何処にいるの。聞きたい事がたくさんあるというのに。どっと疲れが出た再びあの団地に戻る気力は残っていない。
いつもの癖で玄関を開けると「ただいま」と声がでていた。
音もなく階段を降りてくる玄磨の気配をほっとした気持ちで感じていた。
「お帰り」
「ただいま」
そして再び音もなく階段を上がっていく玄馬がいる。
今日1日の出来事を、夕食後に夫としっかり向き合い話してみた。「うーん、なんか現実離れした話しだね。お母さんの頭の中の話なんじゃないのかな?それとも、幻覚が見えたのかな。うーん、心配だから1度病院にいってみないかい?」
心配顔で夫が私の目を覗き込んでいる。
ここで、私がいくら頑張って説明したところで、ますます夫の不安が増すばかりだろうから、ここはひとまず。
「うん、そうだよね。変な話だよね。知らないうちに寝てしまって、夢を見たのかも知れない。ごめんね、忘れて、忘れて。」
その言葉に、夫は大きく頷いて
「うん、きっとそうだよ。疲れているのかも知れないから、お風呂に入ってゆっくり寝たらいいよ」
とピースサインを出す夫。に、私もピースサインをかえした。
翌朝、私はもう一人の玄馬のいるコンビニへ車を走らせていた。店内へ入りスポーツドリンクを手にレジへ向かう。玄馬のそっくりさんが「いらっしゃいませ」と、頭をさげた。
しっかりと目を合わせ「玄馬だよね?」と聞くと、柔らかく微笑みながら頷く玄馬。良かった。会えた。
回りの景色が流れて行く、まるでビデオの早送りのように。コンビニから道路そしていくつかの団地の横を通りすぎ辛うじて陽がとどく団地のドアの前に二人は立っていた。
八列目
何故か行きたくないという気持ちが私の中でざわざわと湧きあがっていく。
「お母さん、行くよ。」
玄馬の声に励まされて、ドアを開ける。
そこは、やはり何もない空間がひろがっていた。いや違う、玄馬の七畳の部屋だ。一歩足を踏みだすが、足が重たい。床がまるで液体のようになっている。足元に目を凝らして見てみたら、液体ではない蔦だ、無色の蔦が床を壁を天井を覆っていた。その中に浮かび上がってきたものは。足と手と口を無色の蔦に絡み付かれたまま立っている玄馬だった。
「ただいま」と玄関から声が聞こえた。
すると玄馬をからめとっていた蔦だけかしゅるしゅるとほどけて消えていった。玄馬が目をあける。それからふらりと部屋を出ていった。音もなく階段を降りる。「おかえり。」と、玄馬の声が聞こえた。再び玄馬が部屋に戻ると玄馬は無色の蔦にからまれていった。
「なんて事を」私の口から思わず洩れた言葉。目に涙が溢れた。涙を拭うと。見渡す限りの霧が広がっていた。その霧の中に見えてきたのは。卯玄の姿だった。卯玄が離婚届の用紙をテーブルに置いている。そして、そのまま霧の中にきえていった。
思い出した。
そう、玄馬が大学を卒業する半年前の出来事だった。夫の浮気を知ってしまった。浮気と言うより本気の恋をしたのだと思う。と、その時は思った。私が離婚を切り出した事で夫はその恋に終止符を打った。その後も連絡のやりとりがあったのは、知っていた。同じ職場なのだから仕方がないと思っていた。玄馬の就職が決まった夜の事だった。
「お母さん、すまないが彼女から連絡があって癌で入院したそうなんだ。申し訳ないが残りの人生を彼女と過ごしたい。今こそお母さんの離婚の申し出を受け入れたいと思っている。」と、一方的に言うと離婚届を置いてそのまま家を出ていってしまった。私は何も言い返す事もできず、ぼーぜんとその場に立ち尽くしていた。その後は夫は出張に行っているだけと、何度も自分に言い聞かせて、普通に玄馬と生活を送った。その後玄馬が大学を卒業して就職先の北国市へと住むため、家を出た。そして一人になった私は、何もかも投げだしたくなっていた。卯玄が去った寂しは、玄馬がいることで、忘れる事ができた。でも玄馬を無事に旅立たたせたら、力が抜けてしまった。寂しい思い、悔しい思い、情けない思いで先が見えなくなってしまった。思考力が停止してしまうのを感じた。体も心も動きを止めてしまった。 空っぽになってしまった。だからなのか、だからそんな私がこの世界を造ってしまったのか。 優しい夫とずーっと家に居てくれる、引きこもりの玄馬を作り出し、その世界に生きようとしたのか。いつまでも3人一緒の生活を続けたかっただけ。私が透明な蔦を作り出し玄馬の動きを封じてしまった。私は自分の顔を頭を抱えた。

消毒の匂いがする。
顔を上げると、ここは病院?
エントランスに、車イスが一台。そこに誰かが座っていた。大きな窓越しに、見えているのは見事に咲き誇った花壇。それを車椅子の人が窓越しに見ている。いや違う顔は下を向き自分の手を見つめている。淡い水色のストライプの入ったパジャマを着て、髪の毛は肩までの長さで切り揃えられ、茶色のゴムで結ばれている。
やはりそうか
車椅子に座っているのは、私だ。
そうか私はこうして理想の世界を作り上げそこに閉じこもってしまった。
平和で幸せな日々。居心地が良い。
そうだよ、このままがいい。このままずーっと・・・本当にそう思うの?
玄馬の蔦に絡まれた姿が頭ををよぎった。私だけに都合の良い世界。それが望みなの、でも、でも、平和で幸せな日々。そう、このまま全てを忘れて、このままで良い。だってとっても居心地がいいから。

物言わぬ車椅子の私の目から涙がこぼれていた。口元が微かに動いている。私は
「なに」と、耳を近づけてみた。
「ゼンブチガウ」と、微かに聞こえた。
「ぜんぶちがう」と私が聞き返すと、俯きながら首が微かに前後に揺れた。
「違うって何が」とわたしが呟いている。
「ワタシジャナイ。コノセカイヲツクッタノハ、ワタシジャナイ。」
車椅子の私が、何かに逆らって懸命に手を上げようとしている。
「大丈夫。このままがいい。ちがってなんかない。」
私は私の手を握りしめた。
私の身体から力が抜ける、立っていられない、倒れる。そのまま私は車椅子の私の中に倒れこんだ。私の中に・・・
私の口から、暗く重たい声が轟いた
「ジャマスルナ」

ここは潮書店。私が手にしているのはジェフェリー・ディヴァーの文庫本。そう待ちに待ったリンカーン・ライムシリーズの文庫本を見つけて、私は最高に嬉しい。顔がどうしてもにやけてしまう。卯玄も欲しがっていた、戦闘機の本を手に嬉しそうにしている。二人でさっそくレジへ向かった。るんるん気分で外に出た。それにしても暑い。あまりの暑さにくらくらしながら車にのりこんだ。クーラーを全開にして、コンビニへ向かった。私がスポーツドリンクを2本もって、卯玄が財布から小銭を取り出しながらレジへ向かった。そこには笑顔の可愛い店員さんが、丁寧に対応してくれた。えっ・・・
違和感を感じる。あれ、「お父さん」と声を描けてみる。
「うん、どうかしたの?」と優しい笑顔を見せる夫。まっ、いいかと思ってしまう私家に着いて「ただいま」と声をかけると、いつも通り玄馬が音もなく階段を降りてくる。「お帰り」と静にいうと、いつも通りに音もなく階段を上がっていった。でも、よーく見てみるとその背中には無色の蔦が絡み付いていた。無色の蔦が、無色の
がらんとした空間が広がる玄馬の部屋で蔦に覆われた玄馬が・・・そうだ、そうだ
ちがう、ちがう
あの日コンビニでもう一人の玄馬にあった筈だ。
ぜんぶちがう
私は大声で叫んでいた。
これは作られた世界。誰かが造ってしまった世界。何かにすがり着くように手を伸ばした。誰かの手に触れた。この手を離してはだめ、必死ですがりついた。私の体が消えて行く。

目を開けて!
はっと気づくと私は車椅子に座っていた。
側では玄馬が心配そうに私を私の目を覗きんでいた。私の手は玄馬の手を掴んでいた。私の目が玄馬の目をとらえる。玄馬の顔がほころんだ。
私はうんうんと頷きながら、車イスから立ち上がった。
ぜんぶちがう、そうだその通りだ。
「玄馬、私はお父さんの身勝手な話しに、ぼーぜんとなどしてはいない。心底呆れて開いた口が塞がらなかっただけだよ。卯玄が出ていって寂しいだって、そんな暇はなかった。玄馬としっかり生きていく事しか頭になかったよ。玄馬が独り発ちして寂しいなんてこれっぽっちも思わなかった。 だって行き先は北国市だよ。
私の故郷の北国なのに。私も全てが片付いたら引っ越すつもりだった。だから心底嬉しかったし、安心した。これからの事を考えてわくわくしかなかった。そんな私が脱け殻になるなんてあり得ないよ。何故私があの世界を作り出したのか私にはさっぱりわからない。だから私じゃないよ。この世界を作ったのは。」
玄馬が音もなく息をはいた。
「その通りだよ、お母さん。俺 訳がわからなくて、突然会社にひつじクリニックから電話があって、あなたのお母さんが意識不明で入院されましたと言われたんだ。
会社の人達にすぐ帰りなさいと言われ、色々手配をしてくれて、ようやく病院に駆けつけたら、すでにあ母さんはあの状態だった。ひつじクリニックは完全看護なので20時を過ぎたら、帰るように言われて病院を出たんだ。喉が乾いたから道路の向こうに55を見つけてコーラを買って外に出たら、声を掛けられたんだ。
夜の景色に消えそうな、もう一人の俺に。
「僕が解るかい?」と
お母さんの事で既に頭がパニックっていたからか、あまり驚きもしないで、
「どういう事なのかな、何が起きているのか教えてくれ。」と俺は答えていたんだ。
もう1人の俺は、「うん」と頷くと、
「一緒に来てほしい。」と言うと、ゆっくり歩き出した。俺は黙ってついていった。そしてあの団地に着いたんだ。
ベビーベットのある部屋から始まり、俺が引きこもる迄を。ても、俺は引きこもりはしてない。もう1人の俺が出来上がる迄の事だと理解した。
それから、俺達が向かったのは、あの鬱蒼とした林の中に続く団地の、九列目の棟の前だった。ドアには沢山の蔦が絡まり、それが俺達か入ることを断固拒否しているのが、伝わってきた。
俺はどうにか、この世界に留まれないかと、この世界の俺に相談してみた。
「それじゃあ、この55のコンビニにアルバイトで勤める事は出来るかな?」と言われて、「それはできるけど、それからどうする?」
「うん、いつになるか解らないけど、必ずお父さんとお母さんが、買い物に来るから、それが、この世界に入れる鍵になる。そうしたらお母さんを、あの団地に連れていってくれないか。僕は自由に動けないから。」
「よし、解ったやってみるね。」

「そして、今に至った訳だよ。」
玄馬がふーと、息を吐き出した。
私は、この不思議さと、理不尽さにくらくらしながらも、やるべき事が解ってきた気がした。
「そうか、そうだったんだ。解った。まずは、一旦家に帰ろう。玄馬も一所に来て。」
「うん、解った。」と、迷わず玄馬が答えてくれた。
一緒に車に乗り、走り出したが、景色が違う。いつに間にか、ひつじクリニックの駐車場に戻っていた。
「もおー、いったい、どうなっているの?何故家に帰れないの?」
私が呟くと、玄馬が腕を組んで何やら考えている。
「これは、あくまでも俺の想像だけど。引きこもりの俺の世界は、もう存在しないんじゃないのかな。車椅子のお母さんと造られた世界のお母さんが消えたと同時に、あの世界も消えてしまったんだと思うよ。」
「ちょっと待って、じゃあ私は三人目の私って事?良くわからない、そこらへんは、どうなっているの?」
玄馬がやれやれという顔で「そういうことじゃなくて、今居るお母さんが、本物って言うか本来のお母さん。それだけの事だよ。」真剣な目を向けてくる。
「うん、そうだよね。でも引きこもりの玄馬も消えたのかな。少し胸が痛いよ。」
くすっと、玄馬が笑っている。
「やれやれ、俺は俺なんだけどな。」
「うん、解ってるよ。ごめんね」
と、私が意気消沈していると、
「多分俺の知っている、俺とお母さんの家は存在していると思うから。そっちに行ってみよう。運転、変わるね。」
玄馬と席を交替して、再び車をスタートさせた。そうだった、私達は離婚後、使い勝手の良さそうな、中古のマンションを借りて、そこに住んでいた。
まだ混沌とする、記憶が何とも歯がゆい。
私達のマンションは、ちゃんと実在していた。玄馬がカードキーでマンションの入り口をあける。それから301号室のドアを開けた。私が玄関に足を踏み入れた瞬間、どしゃ降りの雨が。と思ったら、それは記憶が頭のなかに降りそそぐ音だった。
「思い出した。何もかも・・・。玄馬、私の携帯は使えるかな。」
「ほい、携帯だよ。大丈夫だよ。」と、玄馬が携帯を手渡してくれた。私はすぐに、卯玄の実母に電話をした。
「おばあちゃんに、電話するね。」
おばあちゃんは、すぐに電話に出てくれた。「もしもし、弥生さん、花月です。お久しぶりです。お元気ですか?」
「花月さん、良かった。連絡が取れなくて心配してたよ。ちょっと確かめたい事があってね。元気なのかい。」
離婚してからも変わることなく、私に優しく接してくれる元義母の弥生さんに、私は心から感謝していた。
「はい、ありがとうございます。玄馬も私も元気にしてます。実は私も確かめたい事がありまして。」
「ひょっとして、卯玄の封印の事かい?」
「はい、そうです。」
弥生さんの話によると、
私から還された卯玄の封印された箱を、最近になって、卯玄が、取りに来ていたという。勿論、弥生さんが簡単に手渡す筈はなく、その場で私に電話をしたという。しかし、電話は繋がらなかった。それで、弥生さんは卯玄に、
「弥生さんときちんと話しをしてからじゃないと、この封印の箱を渡すことは出来ないよ。」と話した。すると卯玄は
「そうなのか、解った。じゃあまた出直して来るから。手渡せる日を連絡してくれ。」と言って帰った。でもその後箱が消えてしまっていた。卯玄に箱の隠し場所が解る筈もなく、そもそも卯玄の持つ力と封印の事をなぜ卯玄が知る事が出来たのか。そこら辺の事情も確かめたくて、私と連絡をとろうとしていた所だった。
「そうでしたか。」私は今迄の不思議な体験を全て話した。弥生さんは、その間一言も口をはさまずにいてくれた。
「そうかい、なんか良からぬ事が起きていそうだね。私と花月さん意外に、箱は開けることが出来ない筈だけど、うーん、それで卯玄は今何処に居るのか、解るかい?」
「はい、多分と思える場所があるのて、これから行ってみます。」
「そうかい。解ったよ。何か解ったら連絡して下さい。それじゃあくれぐれも気をつけて。玄馬にもよろしく伝えてくださいな。それじゃあまたね。」
電話が終わるのを待って、玄馬が質問してきた。そりゃそうだよね。と思いながら、玄馬と向き合った。
「不思議な事が続くね。それでは、これから弥生さんの話を説明するね。弥生さんの旧姓は、空谷と言うのは知っているね。」

空谷家は、能力者としての不思議な力が遺伝子の中に組み込まれていた。
その能力とは、命の時に触れる事ができる力。命の時を与える事、命の時を止める事、命の時を入れ替える事、等が出来る力とされている。
その力は、千年も昔から受け継がれてきたもの。その力は、弥生さんの息子である卯玄にも受け継がれている。丑玄は、その力の事は知らされていなかった。これだけの時が流れ、その事にも沢山の人達が関わっている。だからその力を知らずに一生を終える人も少なくない。弥生さんは、卯玄には知らせないほうが良いと判断したからだ。
私が卯玄と結婚した時に弥生さんは全ての事を私にを話してくれた。そして、これからは私が卯玄の力を封印するように、申し使ったのだ。その力を封印出来るのは、時に関わる、時の流れを連想させる名前を持つ者だけ。私は花月、暦に存在している名前。

「さあ、玄馬、行きましょう。」
「ちょっと待って、今の話だと俺にもその力とやらが在るって事なのか。」
「ああ、やっぱり気づいたか。」
「そりゃ、普通に気づくだろう。」
「だよね。そうだよ、玄馬の遺伝子にもしっかりと組み込まれている事だよ。その力が暴走しないように、あなたの干支である馬の一文字を使って、玄馬と命名したんだよ。その命名の和紙と木で出来た箱が、あなたの力を封印している。それと私の力でね」
玄馬が一点を見据えて動かない。玄馬が何かを考えている。
「お母さん、行く前にお願いがあるんだけど。いいかな。」
「うん、一応言ってみて。」
「行く前に俺の封印を解いてくれないか。」と真剣な顔で申し出る玄馬。
「やっぱりそうきたか。その前に大事な話をしないとね。その能力、力には匂いがあるそうだ。だから一度でも封印を解くとその匂いが玄馬についてしまうんだよ。」
「それって加齢臭みたいな?」
「ちがうわ、その臭いは誰も感じる事はできないけど。嗅ぎ師という一族にのみ、それが解るそうだ。嗅ぎ師は千年も前から存在していて、その時の権力者に、仕えていた。私は一度も遭遇したことはないけど。だから匂いが着くという事は今の時代の権力者にも狙われるという事なんだよ。多分昔も今も、人が持つ欲望は変わらなく存在する、している。それでも封印を解いてほしいですか?」
と、私が尋ねると、玄馬がくすっと笑って
「何で敬語なんだか。その臭いも花月のなを持つお母さんが側にいたら、消すことが出来るんだろう。それじゃあ大丈夫。封印を解いてくれ。」と微塵の迷いもない。
「解った。」とは言ったものの、冷蔵庫の消臭剤でも完璧に臭いは消えてないよね。私の消臭力は、いかほどのものなのか。一抹の不安はあるが、私は玄馬の要求を承諾した。

「それで行くっていうのは、あの団地だよね。」
「そうだよ。卯玄 あなたのお父さんの所へ。多分あの鬱蒼とした林の中の団地に、あなたの父親が居る。」
「僕は行ったけど、とにかく蔦が絡み付いていて、とても入れる状態じゃなかったよ。」と、ため息混じりに玄馬が答えた。
「うん、かもしれないけど今一度確かめたいから、一緒についてきてくれないかな。」
「うん、解った。行ってみようか。」
私はウインドブレーカ、帽子、運動靴を身につけた。リュックの中に虫除けスプレー、軍手、タオル、水筒、等を詰め込み、玄馬に運転をお願いして、あの鬱蒼とした団地へと出発した。
家からそんなに離れていないのに、このジャングルみたいになっている、林の中へと、この暑さの中私達は入って行った。
10列目の団地の入り口についた。なるほど、つたが厳重に絡み付いていた。
その蔦は、緑色ではなく、深い藍色をしていた。「やはりそうか」
「玄馬、私から少し離れて。」
玄馬が移動するのを見届けてから、私はその絡まった蔦に手を押し当てた。すると蔦は茶色の枯れ葉となりハラハラと下へ落ちていった。
「おおー、凄いな。どうしてそんな事が出来るんだろう。」玄馬が落ちた枯れ葉を掬おうとしたら。とたんに全ての枯れ葉が消えていった。
「説明は後。今はそのドアを開けてみよう。」私がドアを開けると、そこは、真っ暗な部屋になっていた。目が慣れてくると見覚えがある。引きこもりの玄馬の部屋だ。ドアは開け放たれているのに、外の光が差し込まない。そんな中で気配がした。玄馬がいる。暗闇のなか、床に足を投げ出し、壁に寄りかかって座っている。俯いてただぼーっと座っているだけ。本来の玄馬が近づいて行く。それから俯く玄馬の肩に触れた。そのとたん全てが消えていった。その部屋も消えていた。あるのは、古びた団地の部屋だけ。私達は、更に鬱蒼としたつぎの建物
11列目の前に歩いていった。
やはり蔦にしっかり絡み付かれたドアに私はてをかけた。蔦はやはり枯れ葉となって足元に落ち、玄馬が一歩踏み出すと、消えていった。
ドアを開けると、凄まじい音が部屋を震わせていた。そこで玄馬が歌い踊りまくっていた。本来の玄馬が慌てて、その肩に触れると、全てが消えた。そこもさっきと同じ古い団地の部屋だけがあった。
更に鬱蒼とした、蔦で、何処にドアがあるのかわからない
12列目の建物の前に着くと、
私は金縛りにあった様に身体が動かなくなった。声も出せない。玄馬が私の異変に気づいて駆け寄って来てくれたので、どうにか玄馬の腕の中に倒れることが出来た。玄馬に触れられた事で、金縛りが溶けた。ドアに絡み付いていた蔦に触れようとしたが、静電気のような傷みが手を貫いた。「うわあ、」と思わず声を上げてしまった。玄馬が私を建物から遠ざけた。「お母さん、俺が行くから」と言うと、身体ごと蔦に触れようと体当たりした。蔦が消えて現れたものは、そこには手首から血を流した玄馬が横たわっていた。身動きしない玄馬を本来の玄馬が見下ろしている。そして、その肩に触れると横たわっていた玄馬が消えていった。
不本意な姿の自分を見せつけられ、辛いだろうに。それでも次に待つ13列めの建物へと足を進める。
そこは、全てが蔦で出来上がっていた。触れようとすると、今度はごそごそ音がする。蔦の葉の中を無数のゴキブリがうごきまわっていた。私は素早くその場を離れた。気絶しそうなのをどうにかこらえた。
固まってしまった私の横を、玄馬が通りすぎて行く。ドアのノブらしき所に手を伸ばす。そこだけ蔦が消えてドアノブが姿を現した。「お母さん、行くよ。」と言われても周りはそのままで、ごそごそという音も聞こえている。「無理です。」と私が答える「大丈夫だよ、全部幻覚だから、よーく見てて」と、玄馬がゴキブリをわしづかみした。ように見えたが、玄馬の手には何もない。それでも私には無理だよ等々とぶつぶつ言いながら動けないでいたら、玄馬が引きずりこまれるように家の中に消えてしまった。ばたんとドアの閉まる音が聞こえたと思ったら、また全てが蔦に覆われてしまった。ごそごそという音が一段と大きく聞こえる。
ああーどうしよう。私がぐずぐずしているからこんな事に、思い出せ玄馬が言ったことを、見せてくれた事を。
「大丈夫だよ、全部幻覚だから、よーく見てて」
そうだ、これは幻覚と幻聴だ。リュックの中に軍手を入れてたはず、私は震える手でリュックを下ろし軍手を取り出す。「よし」という気持ちはあるのだが、身体がついてこない。どうしよう、どうしよう、身体が震えてしまう。考えるな何も考えるな。目をつむれ。ただ手を真っ直ぐ伸ばせ、そしたらドアを掴め。引っ張れ。ガチャという音が聞こえた。目を開けるとそこには、古びた団地の部屋があるだけ、蔦も虫も消えていた。腰が抜けてしまった。そうだ玄馬は無事だろうか?
私の目に飛び込んできたものは。
玄馬が張り付けになっている。キリストみたいに手と足を杭で撃ち抜かれて。なんて事を
「卯玄、いるんでしょ出てきなさい。」
私は怒りで我を忘れて叫んでいた。
「おーこわい」
卯玄の声が聞こえる。
「玄馬を助けたければ、全てを潮書店からやり直すと言いなさい。あの世界て幸せに暮らそう。それが一番だと思わないか?」
苦痛に歪む玄馬の顔。口から血を吐き出している。目から血の涙を流し、タスケテとつぶやいている。
「わかったから、もうやめて。全て卯玄の好きにしていいか、、、」
「お母さん騙されるな」玄馬の声が遮った。
「くそー、おとなしく寝てればいいものを 。邪魔するな」 卯玄の怒りに満ちた声が聞こえた。
張り付けの玄馬が消えて行く。
「もうー痛えなー。このくそ親父が」
玄馬が頭を抱えてうずくまっていた。
「良かった。無事だったんだね。」と泣き笑いの私。
「無事じゃないけどね。あのくそ親父に棒みたいな物で思いっきり頭をぶん殴られたから。」
玄馬が卯玄を睨んでいる。そこには杖をつき、やっと立っている 卯玄の姿があった。あの体格の良い卯玄が半分くらいに痩せ細っていた。

胸に手を当て苦しそうに息をしている。
その姿を冷ややかな目で玄馬が見ている。
「お母さん、騙されるな。弱々しくしているけど、俺が気絶する程の力で棒を振り下ろす事が出来ている。その弱々しさは、やはり作られた物なんだろう」
睨み付ける玄馬を嘲る様に卯玄の口元が歪んだ。
「そんな訳ないだろう。俺がお前を棒でぶん殴る。そんな力もないし、大切な息子にそんな事出来る筈がない。俺はお前の父親だぞ。玄馬、俺を信じろ。」
肩で息をしながら、卯玄が玄馬がを見つめた。だからと言って、玄馬の心はぶれない。そんな二人をみつめながら、私は静かに卯玄の背後に近付いていった。
「ずいぶん痩せてしまったね。辛そうだけど大丈夫?」と、私は尋ねた。
「えっ」と振り向く卯玄の身体が、強張るのを感じた。警戒している。
私はにっこり微笑みながら、
「素敵な杖だね、触ってもいい?」と尋ねた。「あっ、うんちょっと待って」と杖を持ち替えようとしている。それを見逃さずに、私は杖を奪い、素早く卯玄の側から逃げた。杖を奪った時、卯玄の体からべりべりと何かが剥がれる音がしていた。私は卯玄の何かを剥がし取ってしまったのだろうか。じっと杖を見てみた。その杖は深い藍色の蔦が固まって出来たものだった。まるで生き物の様に脈打っているのを感じる。
卯玄が力を抜かれたようにその場に踞ってしまった。。

弥生さんが電話した時に教えてくれた事がある。
「それから、こんな事になるなんて思ってもいなかったから、必要ないと思って伝えてなかった事がある。嗅ぎ師は、蔦を自由に扱う事が出来るそうだ。それからその蔦は深い藍色をしているそうだよ。深い藍色の蔦を見たら、嗅ぎ師が近くに居るという事を忘れないで。」

いつの間にか私の手を離れ、杖が宙に浮いていた。杖に絡み付いていた蔦が人の形を作り上げていく。
卯玄が顔を上げ、うっとりとその様子を見つめている。そこには卯玄の彼女、今は卯玄の妻になっている筈の小春さんが、美しい姿でまるでモデルノ様に立っていた。

「小春さん、お元気そうですね。癌を患っていたと聞いてましたが。完治されたのですか?それにしてもずいぶんお若い。それは卯玄の力によるものですか?」と、私は冷静に聞いていた。
小春さんがにっこり微笑む
「さすが花月さん、ぜんぶお見通しのようね。もともと癌は無かったけど、この若さは我が夫、卯玄の力によるもの。」
少し間をおいて私の様子をうかがっている。自分が発した言葉に私が傷つくのを待っている。私は動じることなく、
「卯玄の能力をどうやって知ったの?」
不思議でたまらなかった疑問をぶつけた。
小春さんは、拍子抜けした顔はしたものの、目を閉じ話してくれた。
「私が卯玄と知り合った頃は、私も卯玄も自分が受け継いでいる能力の事なんか全く知らなかった。卯玄との不倫がとにかく楽しくって。もちろんその時の夫の事はちゃんと愛していたから、お互いバカになって不倫を楽しみましょうと、私は提案したの。夫には絶対にばれないから、私を信じてと。それなのに卯玄は奥さんにばれて、離婚を切り出されたって言って、私との関係を終わらせてしまった。」と、悲しそうに私を見ている。
「その時味わってしまった不倫の楽しさを私は忘れられなくて、次々に不倫を重ねていったの。そうしたら夫にばれてしまって。あっという間に離婚させられていた。」
卯玄との事も、あなたの元のご主人は知っていましたよ。あの頃
私はあなたの夫から何度も電話を受けていた。卯玄の同僚という立場を利用して、「仕事の事で、至急連絡を取りたくて、、自宅に電話させてもらいました、ご主人はご在宅ですか」
休みの日、夜、夜中、出勤時間、
多分奥さんの不在中、卯玄の在宅を確認したかったのだろう。でも、いずれも卯玄は不在だった。
「何度もごめんなさい。私は・・・・
浅田という者です。それだけです。」
ふっ という声と共に電話は切られた。
その後浅田さんからの電話は途絶えた。
浅田というのは偽名。ほんとうは本当の名前を名乗って全てを話したかったのだろう。それを飲み込んでくれた。胸が痛くなった。
離婚は当然の成り行きだろう。

私は、会社にも居ずらくなって辞めてしまった。ぶらぶら夜飲み歩いていたら。声を掛けられたの。いつものナンパかなと思ったら、それが見てびっくり、そこには立派な紳士が立っていた。「私はこういう者です。少しお話しできませんか。」と名刺を渡された。そこには有名な会社のCEOの文字が。名前は加久見 新 とあった。
私は満面の笑顔て黒塗りの高級車に乗っていた。着いた所がこれまた立派な日本家屋で、美しい庭の池には錦鯉がたくさん優雅に泳いでいた。気後れしながらも、立派な洋風な応接間で黒い皮張りのソファーに座り待っていると。加久見さんと一緒に精悍で若そうなのに、圧倒されそうな存在感を纏った男の人が現れた。
「こちらが我が社の会長をされてます。平会長です。」
平会長は、全てを見抜く程の鋭い目を私に向けた。
「四谷小春さん。初めまして。突然こんな所にお招きしてしまい。申し訳なく思っております。」
私は、思いがけない優しさと丁寧な物言いに思わず姿勢を正していた。言葉が出ない。
「話というのは、私の元で個人的な仕事をしていただけないかと願っております。もちろん報酬は貴方の提示されるがままお支払い致します。住居もこの家の中で、貴方の希望に添うお部屋をご用意します。いかがでしょうか。」
静かに返事を待っている。
「勿論、承諾します。それは私を愛人として住まわせるという事をですか。」
おそるおそる私は聞いてみた。
平会長は、おやおやという顔をして
「入ってきてくれないか」と声をかけた。
すると奥の立派な襖が音もなく開けられ、そこには品の良さそうなお婆さんが凛と正座していた。
「紹介しましょう。妻のむつきです。」
お婆さんが両手をつきお辞儀をした。

コンビニ

コンビニ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-04-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 自分の存在を消すかの様に、静かに玄馬は引きこもっている。7畳の部屋の中で何を思って暮らしているのか
  2. 2