睡眠

 深い
 深い深淵を覗いているかのようだった。

 それは、深い海だった。
 何もかもがうまくいかない現実を映し出す水面の鏡のように、私の手足はうまく動いてくれない。

 光が閉ざされ、
 幻想的な暗闇がそこには広がっていた。

 なにも見えず、何も聞こえない。
 ただ、懐かしの家の匂いさえも閉ざされて、それは海の水でふさがったからだろうか。

 息苦しい。

 暗闇という恐怖が脳内を轟音という禍々しい音で響いている。
 とてつもなく壮大な旅が始まろうとしているのに、まるで、幼子を離さんとする母親のように、我が身をその度に手放さなんと、必死にしがみついている。
 私に子などいた覚えなどない。しかし、確かに感じる母性という記憶はどこかに眠っていて……。
 はて、誰の記憶だろうか。
 私は男だ。しかし、私は女だったかもしれない。

 意味もない、単なる沈むだけの、沼のような哲学に身を沈め。

 答えなどないそれに問いを続ける。
 仕事などもうどうでもよい。そもそも仕事などない身なのに、どうして日々の終りがこんなにも重苦しいのか。
 私には、答えの見つからない哲学だった。

 人生は哲学の連続だ。答えなど見つからない。

 ただそこにあるのは、明日という非常な現実だけ。
 息苦しい毎日を送っている。

 誰にも言えない罪を背負いながら、誰にも吐けるはずのない悩みという巨躯の巨人に押しつぶされながら、私は、ベッドという唯一の安らぎに身を預け。そして深い深い眠りに落ちるのだ。
 不安が過っては消えてゆく。

 人生は無駄だ。

 その無駄の連続で今日が出来上がり、また明日という今日が始まる。
 その螺旋という、完成するはずもない。今日が怖くてたまらない。未完成なのが当たり前の日常の中で、完璧にしろという世間の声や目が邪魔で、今日を満足に生きられない。

 嗚呼、なんて悲しいのだろうか。

 眠れずに、もがく日々。
 なんの、変化も求めず、ただ当たり前を求めては、その末刺激を求め、そして分かっていた結末のように、後悔の涙を呑む。
 酒という、合法的な麻薬を呑まなければやっていけない。
 人生、何かに酔っていなければ、ならないのだ。
 皆、そうだ
 皆、誰かに命令されたわけでもなく、何かに酔っている。

 神が決めたのだろうか。

 いいや違う。神なんて存在しない。
 深いような浅い眠りの中で、私は、己の神学を自分に言い聞かせるように唱える。

 神は存在しない。
 神は居ない。
 神は助けない。

 いつだって、見ているのは自分だった。遠くで黒く染まっていた私が私を見ている。
 病的に染まっているのは、私だからだろうか。
 何故、そんな色になっているんだい、と聞いた。そしたら、彼は何も答えずただ泣くばかりだった。

 嗚呼、何故泣くのだ。
 何故お前が泣くのだ。
 何故、私がやりたいことをお前はやるのだ。

 仕切られた箱の中で、その箱という町の中で、外の世界すら知らず、知らされず、出ることさえも許されず。老いてゆく。
 大人になっていくのではない。死んでいくのだ。

 生まれた時から人は死に向かってゆく。

 人は死ぬために生きるのだ。

 死から目を背け、私達は今日も無駄で今日を作っている。
 寝ては起き、今日という拷問を生きては、素晴らしいと豪華する。

 そんな明日という今日が嫌いで嫌いで仕方がなかった。

 消えていなくなりたい。

 誰かの、声と後ろ盾が居なければ、生きていけない身分で、皆は笑って嗤い合う。
 そんな後ろ盾に、不満の声を漏らし、いざというだけに猫を被るのだ。

 そんな世界に私は生きている。

 私は醜くも感じる。
 人間は植物などではなかった。しかし、私は植物だった。どちらかといえば、雑草だ。踏まれては、いずれ邪魔者扱いされ、引き抜かれ、燃やされ灰になる。

 その灰でさえ、誰の肥料になることもなく。ただ死んでいく。

 その魂が消えてゆくこともなければ、私が私であったという形が残ることもない。
 それが、私に課せられた罪への罰だった。
 死んだ方がまだましと呼べるこの魂を生きるという名の罰を、なんて呼べばいいのだろうか。

 嗚呼、沈んでゆく。

 今日も、また沈んでゆく。

 貴方は、誰ですか?

 見知らぬ女性が立っていた。

 私はどこへ向かえばいいですか。

 女性は私の手を握って、聞き取れぬ言葉で何かを伝えたのだ。

 その言葉が、楽園へ行きましょうだったのか、地獄へ行きましょうだったのか、それすらも分からない。
 だってそれからの映像がないのだから、禍々しい地獄も華々しい楽園も、私の目の前には現れず。

 水面から酸素を求めるようにして、私はその悪夢から、めざめる。

 これは夢なのか。
 それとも現実なのか。

 夢にしてはリアル過ぎるし、現実にしてはどことなく作られた世界のような気がした。

 しかし、それは私の見るいつもの光景で。

 鏡に映る私の顔はいつの間にか老けていた。

 音割れした、ラジオから古臭いDJと最近流行りのJ-popを混ぜたような、趣味の悪いBGMが流れ、その濁流を乗りこなしたサーファーが陽気な声で、「おはよう」と告げるのだ。
 苦いコーヒーと、マズイ煙草に火をつけて、腐っても尚、回り続けるこの街にくたばれと内心吐きつつ、私はラジオを消した。

 これは夢なのか。
 それとも現実なのか

 夢にしてはリアル過ぎるし、現実にしてはどことなく作られた世界のような気がした。

 クソみたいな今日はいつまでも繰り返し続くのだ。

睡眠

2020/3/14

睡眠

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-04-11

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