沈黙

俺を欺く俺よ。お前は一体、俺の何を知っているというのだ?俺ではない俺が、俺が使うはずのない言葉を勝手に憶え、勝手に俺の裡に棲み、あることないこと吹聴していやがる。嗚呼、お前の理性というやつはこうも脆く、こうも虚しいものだったのか。俺が一途に可愛がってきた、築き上げてきた感情は俺の知らないところで、惰性と倦怠に穢され、ただ抜殻に諂い阿る、卑しいやつに成り下がってしまった。失望、幻滅。そんなくだらない言葉ではとても言い表せない。言い尽くせない...。否、言う必要などないじゃないか。言ったところで、何になるというのだ。何事につけても決着を渇望する、それこそお前が嫌厭している感情じゃないか。生を営む限り俺を含め、万物は流転する。一時の安寧は所詮、一時の安寧。ただの弥縫策に過ぎないのだ。俺を俺たらしめる、永劫不変の核心は虚無だ。虚無感情に還るときこそ、俺は絶対的な俺になる。深淵に溶け込む、一切の雑念を飛ばす、限りなく無機物に近附いていく。それが俺の本来の姿だ。沈黙は森羅万象を包み込む慈愛。究極的な美。正しく在るには俺は少し、言葉を覚えすぎた。俺を翻弄し、呑もうとする言葉も感情も、確実的な沈黙の前では凡てが無に帰する。俺が俺に欺かれたのではない。俺の歴史は疾うの昔に夭折していたのだ。こうなれば最早、あらゆる言葉が瑣末な事態に過ぎない。感情を象っているのだって、世界をバラバラにしたのだって、言葉じゃないか。俺は言葉を愛していた。重ねて、憎んでもいた。言葉に罪はない。言葉だって生きるし、死ぬのだ。自身の意志に依らず誕生してしまった、俺達と同胞じゃないか。恨んでどうする。恨んだところで何になる。恨まれるべきは俺達の方だろう。愚者どもめ。嗚呼、忘却は愛か。それとも殺害か?それを司るのは、司るべきは誰なのだろうか。俺がこうなってしまったのも、愛の意義を履き違え續けてきたからだ。眼に捕えられないものを信じるのは愚かだと言えるか?神が人類の創造物だと断言できるか?俺だって宇宙の欠片だ。俺にとっては、宇宙も神も愛も、総てが同じ意味なのだ。たまたま言葉を知ってしまっただけだ。俺達に名前が無かった頃は、俺達はひとつの宇宙で、神で、愛だったはずだ。誰かは俺のこの言葉を戯言だと嗤うかもしれないが、それでもいつか俺達はひとつになる。人間は愚かだ。言葉は愚かではない。誰もそれに気附かない。気附こうとしない。嘘偽り繕いを繰り返し、自ら紛い物になろうとしている。真摯さが缺落している。本当に月を見たことがある人はどれだけいるのか。慈愛こそが最高善だ。そしてそれは沈黙だ。沈黙も詩だ。永遠に詠まれる詩だ。人は死んでから完全な姿になるらしい。ならば嘗て愛した言葉たちと死ねるのは最も尊いことだ。忘却は愛か否かと思い倦ねていたが、生命が朽ちるまで俺に出来ることは忘れずに慈愛を貫徹することだけだ。虚無感情が俺の本体だと言ったが、それを繋ぎとめ支えるのは沈黙と愛だ。これ以上多くの言葉も感情も、必要ないのだ。汝、沈黙を侮り欺く勿れ。さあ、俺を恒久的愛慕心にいざなった嘗ての同胞達よ!共にひとつとなるまで、自然に身を任せようではないか!

沈黙

沈黙

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-04-07

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