コップと天国


夏の蒸し暑い夜。眠れずにいた私は庭先で足を揺らしながら空を仰いでいた。
「ねえ、あなたは天国って知ってる?」
そう隣から声がする。まるで自分だけは世界の秘密に気付いていて、無知な私に教えを説くような声音だった。しかし、おかしいことに先程まで独りだったのだし、突如として気配が世界に現れたような不自然な感覚に、しかしこの人の神秘が、私の漣を黙らせてしまったように感じた。
あなたの答えなんて興味ありませんというように、君は口を開く。
唇を舐め、何度か呼吸をして、言葉を紡ぐ。
その様は真っ直ぐに射る弓のように。
「天国はね、コップを覗いた向こうに見えるもの」
そう、くすくすと笑い、すべてが透明になっていった。夜空に星々が滲み出し、色とりどりの光を放つ。虫が鳴いている。風が吹いて木々が揺らぐ。私はしばらく、ぼんやりとただ座っていた。遠くから俯瞰して眺めるように空も、海も、山々を眺めていた。ただある。呼吸をする。生きる、生きて、それだけをする。ふと、立ち上がって台所のコップを取りに行った。片手で片目を押さえ、目に押しつけるように覗いてみた。真っ暗闇であった。目をぎょろぎょろと動かしたけれど、やっぱり真っ暗闇だった。そんな真っ暗闇に、ほんの少しの安堵と、生きていくことの苦しみに笑いが込み上げた。

コップと天国

コップと天国

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-03-31

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