「好きです」が社交辞令の世界
檸檬、という漢字をみていると、ちょっとくらくらして、現実と夢のくべつがつかないときみたいな感覚に、なりました。
わたしは、どうしたらいいのでしょうか。
偽善者とよばれるのは、いやです。でも、誰かを、たとえそれが顔も知らない誰かでも、傷つけたくはないと思うのです。わたしの、無責任な言葉や、態度で。しかし、じぶんが傷つきたくないという理由で、うすっぺらなやさしさをふりかざすのは、なんだかちがうような気がする。愛せればいい、すこしでも、どこかひとつでも、愛せればいいのに、どうしてか、なんでか、愛したいのに、どうしても、なにかが、わたしのなかの、わたしが、漠然と、ただ愛することすらも、ゆるしてくれない。
本屋さんで、ひとり、文庫の棚の前で暫し、ぼうっとしているあいだにも、わたしの人生は、一分、一秒と過ぎてゆき、この、ぼうっとしている時間が、ひどくもったいなくもあるし、それでいて、こういう瞬間もたいせつにしたい、と思わないと、にんげん、やってらんないよ、とも思うのです。斜陽、という漢字をみていると、ふしぎとからだが、斜めに傾いてゆく感じです。
漫画の新刊コーナーではしゃいでいる高校生。新書をじっくり選んでいるおじさん。お料理の本をなんとはなしにながめている風の女の人。車の雑誌を読み耽っているお兄さん。話したことのない誰か。名前も知らない誰か。彼らを、もちろん、愛せる自信がないことを、うっすらと嘆いている、十八時のわたし。
「好きです」が社交辞令の世界