ダリア

「ねえ」
「なんだい、由紀子。」
「一緒に死のうよ。」

 通りのトラックのクラクションが長く響く。
 平日、喫茶店で由紀子はそのように会話を再開した。
会話の入りが息を付くように自然であった。僕はその言葉に、呆気に取られてしまった。
コップの中の氷が解けた音が僕の中で反響する。
 少し時間が経って、焦って店内の周りの様子を見渡した。客は全くこちらを見ていない。どうやら周りの人には聞こえてはいないようだ。ドラマにも良く使われるこの喫茶店は、有名人の写真が陳列している。暮らしの”日常”が充溢するその空間らしく、登場人物達が昼に集まって、雑談するときに使われる。客も仕事で使うとというよりかは、日常使いの客が多かった。近所に長らく住んでいるであろうご老人の方や会社員の少しばかりの休憩場所として使われている。

 周りを確認した後、一息つき僕は口を開いた。その信号は青になり、トラックは走り出した。

「どういうことだい?」
「どういうことって?一緒に死ぬってことよ。それ以上でもそれ以下でもないわよ。」

 頼んでいたアイスコーヒーが届いた。知らない豆を冒険しようとしたら、苦手な酸味のあるものだった。好きな苦味が来る前に、酸味が舌に刺さる。しかし、その奥には果実的な爽やかさが顔をわずかに覗かせる。

 口をコーヒーで塞ぎ発言を物理的に延ばした。その中で、彼女のことを反芻してみた。
 僕と由紀子が付き合ってからは2ヶ月だが、知り合ってからは3年ほどになる。お互い同学年だが、大学は違うもの同士だ。
 由紀子は僕とは違う大学に通ってる東京の美大生である。元々、東京の女子校出身である。僕の入っている大学の美術サークルで出会った。元々、自分の大学だけで、一通りの美術活動はできるものの、彼女は態々最寄り駅が近い自分の大学のサークルに入ってきた。特に素晴らしい才能が溢れるサークルではないし、熱い空気もない内輪なものである。僕自身も大学の最寄りの風景を美しく”内輪な”工夫なき絵を描くことが主である。景色を「描く」というよりも単にキャンバスに景色を「入れ込む」といった方が正しいかもしれない。そういえば、由紀子には入部の理由ははっきりとは聞いていない。サークルに入ってきた時の飲み会では、「今までと違う人たちの中で自分の作品を作りたいの。」と笑っていた。その反面、その時の視線は僕を貫く程の熱いものだった。普段と違う環境や人に囲まれたら、自分の作品の表現にどう現れるかを探求する”実験”の一環だったのだろう。人生のサイエンスに自らの人生を材料として組み込む彼女は一際理性的な人なのかもしれない。

「例えば、僕が由紀子に着いてくといったら、どうするつもりだい?」
「もし協力してくれるなら、華美に死にたい。自分で出来る限りの、もうこれ以上にないって程のこの世との別れ方をしたいわ。」

 店内のBGMがクラシックからメロウなジャズに切り替わった。ここの店内のBGMのチョイスはどういう基準なんだろう。僕はコーヒーにミルクを入れて、マイルドにする。

 「どうして、死にたいのかい?」
 「さっきも言ったでしょ。死にたいから死にたいの。なんで息したいのと言われて息したいとしか答えないでしよ。それといっしょよ。」

 由紀子は理由を教えてくれない。一息ついて考えてみた。身近に不幸が最近あったのである。死について考えても、別に悪いことではない。僕自身、昨年金沢の母方の祖母を亡くした。一昨年には母方の祖父を亡くした。母は、最近都内の自宅では憔悴しきっている。元々は明るい母であった。しかし、何となく明るく振舞っているが、やはり何処か顔に影を忍ばさずにはいられない。何となく、家の料理の味も薄くなったように思える。僕は味が濃い方が好きである。母の料理の存在感も薄くなったように感じた。しかし、気を使ってそれは言えないままであるけれども。そう考えると、死とは、その人だけのものではない。その人と対をなして、傍にいる人も“死ぬ”。集団的な、波紋的な、蜘蛛の巣のような、複雑な形を帯びてくるものなのか。


「じゃあ、どうすればいいかな」
「ちょっと待って!何か、迷ってそうな顔じゃない?その顔だと、私からごめんよ。」


 僕が最初に美術に興味を覚えたのは、祖父が祖母との旅行で撮ったスペインのアルハンブラ宮殿の写真を見せてくれたことだった。そこには、様々な幾何学模様が描かれている。シンメトリーの美しさに小学生時代に魅了された。本当の美しさは静かに潜んでいる。僕は近くにあった方眼ノートをその写真をそっくりそのまま写そうとした。定規とコンパス、分度器といった幼気な武装で静かな美しさを汲み取ろうと懸命に手を動かした。気付いたら手の右側面が真っ黒だった。
 それから、地元の中学高校では美術部に入り、風景画をメインに描いていった。しかし、風景画に選ぶテーマは人のいない風景しか描かなかった。誰もいない校庭。誰もいない駅舎。誰もいない教室。別に祭りや運動会のような人がいる風景を描きたくなかったわけではないが、それを見た時の騒めきがどうしても受け付けないものがあった。美しい題材は囁いてくる。その声を受け取った時に僕の題材が決まるのだ。
 
「わかったよ。少し考えさせてくれ。」
「駄目よ。今決めて!私は激しく死を迎えたいの!激しく、熱烈な形で!それは『今』しかないの!花火だって、あの盛り上がった場で上がるからいいんじゃない!」

 彼女は新しい作品の挑戦をしていた。彼女は今まで、風景画や人物画を中心に書いていた。所謂シンプルなスケッチ画であり、まさに、そこの風や息がこっちに伝わるのではないかというほどの出来栄えであった。それは、まさに僕の美術の流儀と似ていた。

 最近、夜に道具を取りに部室を寄った。すると、黒いワンピースの由紀子が、色とりどりのアクセサリーや植物を袋に大量に持って床に広げ、正座をして対峙していた。普段、由紀子は、筆を走らせるところしか見ない。静かに動かない由紀子は珍しい。僕は気になって、何をしているのかを尋ねた。由紀子は、「二次元と三次元の境を私たち擽る世界が作りたいの!」と熱を吐き捨てた。

 この前、由紀子から連絡が来て、今月末の学園祭で出す予定の作品を見せてくれた。すると、その想いが現れていた。キャンバスに、白黒で第二次世界大戦中の東京の浅草の焼け野原の街並みを写真の如く描いた。そこに、真紅のダリアを3輪貼り付けられていた。タイトルは「爆心」。僕は、それを見た時、心が頗る痒くなった。華麗さと残酷さ。平面と立体。その間をかき消す様に同時に経験させてくれた。

 僕はその時、気づいた。由紀子は人生に美しさを追求しようとしている!

 BGMはクラシックに変わっていた。今度はピアノの旋律が入っていた。ピアノの潤った冷たい音は曲の輪郭を締める。

 人は生れ落ちた時は盛大に祝われる。一方で、死ぬときはしめやかに送り出される。なぜ、人は生まれたら祝われ、死ぬときは悲しまれるのだろう。別に死が派手でもいいじゃないか。生死が対称的でないとは薄々とは感じてはいた。しかし、対称でなくてはならない理由はない。

 死ぬって事は、美しくあっても良い。熱烈で良い。いや激烈でなければならない。そうでなくていい理由などがありはしない!

 彼女が全身で向かい合おうとする道を、理解することができた気がした。

「わかった。死のう!せっかくならこの場所で迎えようよ。」
「やった!嬉しい!」

 僕は改めて息をせずに言った。僕たちは見つめ合い、両方の手の指を強くまぐあわせた。アイスコーヒーの氷は完全に溶けていた。由紀子の目を見ると、力強い赤さがみなぎっていた。
 
「あの高層のビルから飛び降りようよ。昨年末、丁度バイトの研修があのビルの25階あった。あのビルの屋上から飛び降りればいい!そしたら、僕たちが死んだ後も、ニュースで取り上げてくれるだろう?遺書なんて挟むのはどうだい?僕たちの物語を作り上げようよ」
「うん!」

 僕たちは、そこで、”死ぬ”準備を始めた。遺書には紙と封筒が必要と思った。しかし、丁度二人とも授業が無かったから、それらを持ち合わせていなかった。なので、近くのコンビニで買うことにした。
 由紀子を喫茶店に待たせて、外にあるコンビニに駆け出した。僕は由紀子に一番近くのコンビニはビルの中に併設されているものだと教えてもらった。ビル群に向かって僕は駆け出した。

 外に出て、ふと喫茶店の方を顧みた。
 この喫茶店はビル群の外れにある。ひっそりと佇む二階建ての建物の一階が喫茶店である。ビルの金属の中で、喫茶店の木の装飾は温かく映える。高層ビルは僕には無機質、無色の死に絶えた森林のように思える。”夢”を売っているかのようなビル群は、目線は上を向いて屹立しているのだろうが、見下ろしているようにも見える。複数の”目”を持つように聳え立つ大きなそれは何を見透かそうとしているのだろう。僕たちはこのビル群を抜けないと大学に通えない。しかし、何かを急かすように見てくる屍の巨人の視線の中で、この喫茶店はこの近辺で、唯一人が人らしく在れる所である。僕たちは、キャンパスから、そんな巨人の目を潜んでやってきて、コーヒーと共に日常の取り止めのない日々をこの空間で煎るのである。 
ビルの一階にあるコンビニを駆け入った。レポート用紙と封筒を買った。少し「最期の遺書」にはあまりに質素で心寂しいが、内容を血肉があふれる程に充実すればよい。(この袋の中の計画を君たちはわからないだろう!と内心で叫んだ。)秘密裏に高まる思いをビニール越しに確かめる。
 喫茶店に走って戻ってきた。喫茶店の空気は、僕の吐く息よりぬるい気がした。喫茶店には歌謡曲が流れていた。カウンターにはご老人が目をつむりながら、首を揺らし、口ずさむ。
 そのまま自分の席に向かうと、由紀子は首を垂れて、夢中に何か指を動かしていた。由紀子を振り向かせる為に袋を机に叩きつけるように置いた。

「帰ってきたよ。由紀子。何してるんだい?」
「ダリアよ。ダリアをちぎってたの。この前の作品で使った余りよ。カバンの中に潜ませてたのを忘れたわ。この花にはお世話になったから、静かに眺めてたのよ。そしたら、不意にちぎりたくなってきたの。」

彼女は華麗に広がるダリアの花びらをひとひらずつ綺麗にちぎっていた。そして、机に整然と整列させて置いている。

「どうしたの?」
「こんなにダリアって花びらがあるのよ。花びらって不思議よね。これ見てよ。少しの溜息で飛ばせそうよね。遠くからだとあんなに完璧に威張ってるのに、近くだとこんなにか弱いわ。でも、か弱いけど、繊細な色をしてるの。絵具では作れない色よ。私はダリアのことを知ってるようで知らなかったわ。」
由紀子の掴んだダリアは、以前の学園祭に使った時のダリアであった。それは少し時間が経っていたので、若干萎み、色もくすみ、かつての盛りは見られない。しかし、そんな”熟れた”ダリアを夢中に由紀子は見つめていた。

ダリアを眺める由紀子の眼を引きつけるべく、コンビニの袋を突き出した。
「ほら、買ってきたよ!」
「あっ、ありがとう。」

由紀子に純白のルーズリーフを力強く差し出した。

「そうね。書くんだったね。ペンを出さなきゃ。」

ダリアを静かに横に寄せて、机の上で遺書を書く準備を始めた。背筋を伸ばして向かい合い、僕と由紀子はルーズリーフを向かい合わせる。「書こうか?」「うん。」という言葉を合図に僕たち二人は書き始めた。

僕は、無我夢中に筆を進めた。僕の生い立ち。僕がこの死を通して追求したいもの。自分が美しさを追求する気質の持ち主だということ。そして、由紀子とそれを果たそうとすること。ルーズリーフには、文字が丁寧に同サイズの長方形に収まる様に書いた。遠目から見ても美しくある。それが僕の目指すべき形だ。

彼女の方を見た。しかし、彼女は空中をうつろげに眺めていた。
彼女の紙に目をやると、書き出しの「遺書」としか書いていなかった。全く筆の進まない彼女に、どうしたのかと声をかけた。すると、彼女は「あまり、書きたいことが中々浮かばないわ。いざ、自分の終わりを直視すると、見えにくくなるものね。」諦めの言葉をこぼす由紀子だが、必死に考えた顔ではなかった。

「それなら、そのダリアを入れたらどうだい?由紀子のシンボルじゃないか。」「そうね。そうしよう。じゃあ、このちぎった花びらをつなげてもう一度生き返らせるわ。それを封筒に入れるわ。」
彼女は、ちぎったダリアの花びらをのりで付け合わせた。そして、花を復元させ、封筒に崩れない様に静かに入れた。彼女なりの表現として、僕は尊敬を持って見つめていた。

僕は自分と由紀子の遺書の入った封筒を自分のコートの内ポケットに入れた。
「よし、行こうか。」と声をかけた。コーヒーは氷と混ざった苦い水と化していた。僕はそれを一気に飲み干した。会計を払い、力強く扉から出た。扉の揺れるベルは喫茶店の空間にこだました。


喫茶店を出て、目的のビルまで、由紀子を連れて行った。
僕は急ぎ歩きで、これからを想像した。
僕は黒のコートを、彼女は赤のコートを着ている。
夕焼けに映えながら二人で抱き合って落ちていく…
圧倒的な色鮮やかさを自らが達成出来ることに、足音は力強くなった。

二人はビルに着いた。入り口のフロアをそそくさと走り過ぎ、裏口についた。
そこには非常階段がある。この前、ビルをバイトの研修のときに探索していたときに発見したのだ。裏口の金属製の階段から昇っていった。階段を上がる音はピアノの音階をあがるように心に高なりを覚えさせた。25階へと高みに昇っていく。その先に叶えるたいものがあると願いながら、駆け上がった。


僕らは外に出た。屋上は、塀に囲まれた空間だった。エアコンの室外機が陳列されたり、用途も知らない金属製の管が並べられている。ビルにとっては血管のようなものだろう。地面のコンクリートは黒ずんでいた。どれだけの日の光が当たってもこの影は取れないだろう。
 冷淡な空気が吹きつけた。ビルの入り口では温かかった風が、上に来ると、非常に寒い。かじかむ僕と由紀子は顔を上げると圧倒的な都心の景色が広がっていた。落ちゆく夕日で景色がオレンジに染まる。少しビルたちの顔が綻んだように見えた。
あえて、景色の感想は言わなかった。言ってはならないと思った。言ったら醒めてしまうように思った。だから、ゆっくりと由紀子に言った。
「さあ、行こう。」
「うん。」

僕らは歩みを続けた。
塀を越えて、遂にビルの縁の上に立った。

「ねえ、、」
由紀子が話しかけた。
「えっどうしたの?」
「足がすくんでしまうわ、、どうすればいいのかしら、、」
ビルの縁に立ちながら、由紀子の手を握っていた。強く握っては弱く握り、弱く握っては強く握ってを繰り返す。彼女の熱の息遣いを感じ取る。

僕は由紀子に叫んだ。
「一緒に死のう!」
その時、一歩目を踏み出したのは僕の方だった。
しかし、進むはずの足は僕だけだった。
彼女は繋いでいた手を離した。
言葉がなかった。ただ、落ちるのは僕だけである。
時間が記憶に強くゆっくり縫い付けられる。

ポケットから逃げるダリア。風に揉まれるダリア。暮合の雲に霧消する。
落ちゆく僕。風に揺られる僕。僕はアスファルトに混ざりこむ。
僕は彼女の方を見つめた。彼女の目は萎んだダリアが映っていた。

ダリア

ダリア

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-02-29

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