RETURN

 ドアを開けた瞬間、しまったと思った。
 昔の話だ。
 部屋の中には彼女と、明かに父親と見える初老の大男(!)が立っていた、そして今まさに大男はつかつかと僕の方にやって来てこう言おうとしていた。
「何だ君は。」
「朝(あさ)ちゃんのクラスメイトです・・・明日の授業の事で話があって。」
「明日は日曜だ。」
 あぁ、何て間が悪いんだ。
「間違えました、あさってです。そうですよね、明日、日曜ですよね。はは。じゃあ明日又来ます。お邪魔さまでした。」
「待ちなさい。」
 そのまま去ろうとした僕を、彼は呼び止めた。
「はい?」
「ちょっとあがってらっしゃい。」
 僕はくつをぬいでそうした。朝美は不安気に父親を眺めている。
「朝ちゃんのお父さんですか。」
「そうだ、が、君があれかね?」
「はい?」
「朝美の。」
「朝ちゃんの? 友達?」
「恋人か。」
 僕の明らかにとぼけた態度に少しいら立ったように彼は言った。おびえて即答する。
「いえ。」
「本当か。」
「もちろんですとも。」
「朝美にそれらしい男が居るか知っているかね。」
「朝ちゃんに?」
 立ったままの朝美に目を向けて、一息入れて、答える。
「いませんよ。」
 大嘘だった。

 僕はその頃大学三年。地方出身で、東京の私立に通っていた。ところがその私立というのが、とんでもないバカ田大学で、いや、冗談で言うバカ田じゃあなくって、本当のおバカ。だから色々大変だった。
 何が大変って、精神的、経済的・・・前者ではおバカからの劣等感、後者では高い学費、生活費(もちろん親が払ってはいたが)。朝美とは二年になって、ゼミが一緒で知り合った。
「一年の時会わなかったね。何の授業取ってた?」
「あたしぃ、留年しちゃってぇ。」
 照れ笑いする彼女も地方出身の一つ上。Very Shortの髪を七色に染めたり、ピアスを二つも三つも開けたり、指輪は最低五個。ブレスにアンクレット・・・要するに何でもやりたがる頃だった。sexに関してもそうで、とにかく誰にでも手を出した。僕も出された一人なのだが、彼女の良いところは、そういう事を表に出さない。経験豊富なのを自慢している女なんかいるが、彼女はあれじゃない。だから知らず知らずの内に、えっ? お前もbrother? って感じで・・・隙が無かったのかな。その意味じゃあ褒められないか。でも、僕は彼女が好きだった。女性としてではなく、友人として、楽しめる奴として。
 僕らは一緒に誰かの部屋や、夜の街で飲んだものだった。それから公園や、川や、人気のない道を、バカ話しながらさまよう。時には東京出の奴も居たが、大方地方出の奴、しかもうちの大学の奴ばかりで、最後はいつも仲間意識の話になった。俺達はバカだよな、うんばかばか。でもそれが どーしたっていうんだよ。東京に出て来て楽しんでいる。世の中、楽しめる奴の勝ちだよ。死んでも田舎になんかReturnしねぇぞ! って。

「嘘を言うな!」
 朝美の親父はそう怒鳴ってテーブルを殴った。部屋中の物がびくっとする。あぁ、しかし今や朝美に危機が訪れていた。
「なら何で妊娠する!」
 そこまでバレちまったのか、と僕は朝美に目をやった。バツが悪そうに彼女はうなずく。
「あたしぃ、妊娠しちゃったぁ。」
 と朝美が大講義室で、文化史概論の時間に告げた。えっと僕は声を詰まらせる。僕でないことは明白だった。朝美とやったのは知り合ったばかりの頃、二回だけだし、紳士な僕は避妊を心がけて いる。だから、彼女は友人として僕に相談したのだ。
「どうしよう。」
「ばかだなぁ、誰のだよ。」
「分かんなぁい。」
「何でゴムさせなかったんだよ。」
「だってぇ、持ってないとか言う人いたし・・・」
 とにかく僕ら仲間内やbrothersで話合い、ゴムを使った使わないにかかわらずカンパして堕ろさせてあげよう、だって朝美が、女の子が可哀いそうじゃないか。女の子はいつも同じにやっているというのに、男のつけたつけないで人生の重大事に直面してしまうなんて。病院は、皆を代表して三井君が捜すこと。はい、決まり。そして今日は、その病院が見つかったのを報告に来たのだったが、Bad timingだった。
「お前なんだな。」
 しばらく苦しげにうめいていた朝美の親父は、ふと顔を上げると僕に詰め寄った。
「お前なんだな。うちの朝美にひどい事したのは。」
 朝美は一人娘だった。箱入りだと聞いている。そんなに大切なら、一人っきりで東京なんかに出すなよな。しかし取り乱しようのひどいのと、確かにやってはいるので、圧迫させる雰囲気に勝てず、弱々しく分からないくらいにうなずいた、すると途端に親父に一発やられてなぎ倒された。は ずみでテーブルに頭が当たる。何せ大男だ。気が遠くなるかな、と感じた時、朝美の叫び声で現実に引き戻された。
「やめて! 違うのよ、三井君は関係ないの!」
 朝美は泣いていた。
「違うの、三井君じゃあないの。別の人なのよ。」
 じゃあ誰だよって親父は言うだろうな。そしたらどう答えるんだよ。分からないんだろう?
「アタシ、騙されたの。捨てられたの。逃げられたの。彼はもう戻っては来ないの。」
「朝美・・・」
「そうよ、アタシ、バカだったの。世間知らずだったの。さんざ遊ばれた末、妊娠したと分かったら即これよ。困って三井君に相談したら、アタシの代わりに病院捜してくれるって、過去は忘れて出直せよって言ってくれたのにぃ。」
 それから朝美は泣きくずれた。嘘っぽいけど大丈夫かな? 大丈夫じゃないだろう。親父も迷っているようだ。いや、しかし一人娘の泣きに押されて、彼はヨロヨロと僕の方に近付いて、手をさしのべた。
「すまない・・・立てるかね。」
「大丈夫です。」
「しかし君も・・・はっきり違うと言えばいいのに。」
「いえ・・・兄貴みたいに親しくしていた奴なんで、代わりに責任取りたくて。」
 確かに兄弟さ、嘘じゃない。
「その相手なんだが・・・。」
「ダメよ! 三井君、言っちゃだめよ! 死んでもダメ!」
 すかさず朝美が、間髪容れず。待っていたよ。絶好のcombination。やっぱり俺達って最高の仲間だよな。
「朝ちゃんがあぁ言う限り。」
 僕はきっぱり答えた。
「言いません。」

 二週間後の休日、僕は大学近くの喫茶店に呼び出された。朝美はまだ帰ってこない。あれから親父に連れられて田舎に戻り、手術を受けたらしいのだがどうしたのだろう。でもまぁ朝美のことだ から、このまま実家に居着いちまうなんて事はないだろう。だって俺達は死んでもReturnしないって誓い合った同志だ。いつまでも東京に残るって言ったのだから。早く帰って来いよ。又楽しくやろうぜ。
「この前は、すまなかった。」
 朝美の親父はもう来ていて、僕を見るなりあやまった。電話か何か、連絡があるだろうとは思っていた。子供の父親の事なんだろうな。僕も彼と同じ、コーヒーを頼んで向かい合う。
「実は君に聞きたいのだが・・・。」
 そら、やっぱり。でも答えは一つしかない。
「朝ちゃんの相手の事なら、僕の口からは言えません。どうか、本人から聞いて下さい。」
「そうか。」
 親父はふうっと息を吐いて黙り込んだ。その姿は無上に同情心を煽った。僕にも妹が居た。地元に就職していて彼氏も居るらしいが、夜遅い日は、うちの親父は寝ないで待っているという。たとえそれが何時になろうと、翌日いくら大変であっても。
 だから僕は、その時彼の側に立ってやりたいと願った。朝美はあの通り手に負えないやりまくり女だが、彼のためにそれは嘘だ、虚偽だと思いたかった。朝美は遊び慣れた、年上の、見かけだけの男に引っかかった、世間知らずの哀れな娘なのだと。
「朝ちゃんの具合いはどうなんです?」
「もうすっかり良いよ。若いし、健康だし。」
「どうするんですか? これから。」
「どうしようか・・・。」
 顔をそむけたまま答えていた彼は、いきなり僕と目を合わせて、ゆっくり、意味をなぞるように言った。
「朝美の相手の事なんだが。」
「はい。」
「本当に居るのか?」
 僕は口をつぐんだ。
「三井君。」
 彼は答えをせかす。やっぱりバレていたのか。今日、前よりいっそう不幸そうに見えたのは、このせいだったのか。しかし僕には朝美のような、気のきいた言い除れを生み出す才覚は無かった。
「おっしゃる・・・通りです。」
「というと。」
「実在しません。」
 途端に彼は僕をぶん殴った。喫茶店の店内で。客がいっぱい居る中。例によって倒れた僕は、隣のカップルの、女のふくらはぎにぶつかった。
「やっぱりお前だったんだな!」
 あぁなるほど。そういう方面から考えていたのかと納得できたのもつかの間。彼はさらに僕に襲いかかって、殴りまくった。店中大騒ぎで、店長が怒っている。出てって下さい! 出てってください! それを聞きながら僕は、あぁ、修羅場なんだな、と思った。
 気が済んだ彼は
「お前なんかに世話にならんとも、朝美はうちで幸せになる!」
 と怒鳴って皆の見守る中、金も払わずに出ていった。
 残された僕は、観衆の視線にさらされながら、早く帰ってこいよ、朝美。こんな最高な事、めったにないよ。お前の満足するよう、おもしろおかしく話してやるから早く帰ってこいよ、と笑って いた。
 次に朝美に会ったのは、二十年後だった。

 二十年後。休日の新宿で、路上のパフォーマンスを眺めていた僕の視界に気になるものが映った。誰だっけ。どこかで見たぞ。
「朝ちゃん!」
 ぱっと頭の中で、答えがひらめいたと同時に叫んでいた。女は振り向き
「三井君。」
 と答えた、懐かしい声で。
 お互いに駆け寄り、何も言えずにただ笑顔を見つめ合う。やがて僕が、記念すべき第一声を放つ。
「誰それ、ツバメ?」
 フフフと彼女は笑う。嬉しさのあまりのつまらない冗談。嬉しさのあまりのそれに応じる笑い。
「長男よ。」
「すっかりおばさんになっちゃったわ。」
 しばらく買物していらっしゃいと、中学生のボクは、ママと、見知らぬ小父さんからお小遣いをもらって、行ってしまった。済んだらあのお店にね、と二人が今居るレストランを教えられて。
「しかも、普通の。」
「Unbelievableでしょ。」
「いやいや、似合ってるよ。母親振り。」
 それからしばらく、旧友のその後を話す。朝美は何も知らない。どーしてだっけ、そーだお前、 急に居なくなっちまったんだよ。そして、二十年間ずっと話したかった「三井君、朝美の親父に喫茶店で殴られる」事件を、軽快に、朝美の喜ぶように語った。どうだ朝ちゃん、おもしろいだろう。笑っちまわねぇか朝ちゃん・・・?
 朝美は笑っていなかった。
「朝ちゃん・・・?」
 朝美は泣いていた。誰も気付かないくらい、粛々と。
「朝・・・」
「それから父ね、死んだの。」
 朝美の話によると、東京の警察から電話があって、道路で倒れたところを救急車で運ばれたが、 間に合わなかったそうだ。くも膜下出血だった。何故東京で死んだかについては、大よそ見当がついていた。自分のことだろう。それでいながら何も言わない母に、朝美はいら立っていた。死ねば 娘を思い通りにできると思ったら大間違いよ。何でお父さんは東京に行ったの? アタシの事なんでしょう?
 母は泣きながら、ようやっと答えた。三井君がね、お腹の子の父親に違いないって行ったのよ。 殴ってやるって行ったのよ。お父さん、それで血圧が上がっちゃったのね。普段おっとりした人だったから、余計にこたえたのね。
「それが私のReturnだったのね。」
 朝美はそれから、生前の父が集めてきては勧めていた見合いを、片っ端から受けまくった。見合 いする相手、皆OKしていたが、今までの遊びがたたって、相手の方から断わってくる一方だった。おかげで結婚するのに二年かかったわ。主人は地元の役所の公務員。あの子の他に下に二人、男の子と女の子がいるの。母も同居していて、まぁ幸せよ。
 やがて息子が戻って来たので、子供相手に、母親の昔話を茶化して話したりしながら食事を終え た。店を出て別れる時朝美は振り返って、三井君、あなたのReturnは?と尋ねた。僕は肩をすくめてbye-byeと言った。

RETURN

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都会を満喫する女子大生・朝美ちゃんと友人と父親の話。バブル期くらいの時代の話です。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-02-22

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