明瞭な夢を暮らす(曖昧さ回避)

物書き子

明瞭な夢を暮らす(曖昧さ回避)
  1. 明瞭な夢を暮らす
  2. 必死だった私と、見捨てた私 : 幼少期のこと
  3. しあわせサンプル
  4. 人間ではない
  5. 母のこと①
  6. 母のこと②
  7. 母のこと③
  8. 母のこと④
  9. 母のこと⑤
  10. 母のこと⑥
  11. 母のこと⑦
  12. 母のこと⑧
  13. 母のこと⑨
  14. 母のこと⑩
  15. 知らなかったことを知る : 無意識の妬み
  16. 取り込みたい
  17. 幾つであっても
  18. 窓辺トリップ
  19. 銀賞

明瞭な夢を暮らす

この現から醒めたらば。──インクブス・スクブス/京極夏彦

私のはぜんぶ夢でした。夢のように他人事で、それでも間違いなく私の人生なのです。



非常に個人的なことを書いてしまおうと思う。
誰も興味はないだろうし、別に役立ちもしないだろう。でも私は文章として残して、顔も知らない誰かにひっそりと見てもらいたかった。そういう欲がある。
家族のことと、私の性質、夢中になったこと。愛すべき人たち。
書きやすい部分から、好きに書いていこうと思う。

現は夢。夢は現。私の今生きるこれは夢なのかもしれないと、度々思うことがある。生きる実感が何だかはっきりせず、薄い膜が張っている世界に暮らしているように感じたのは一体幾つのときからだったか。自分の年齢をきちんと自分の年齢として扱えたのはいつまでだったか。
寂しいような、諦めのような、諦めていっそ心地良いような。私が暮らすのは音量音質明瞭度が曖昧な繭の中。水の中。あるいはその両方のような。ぼんやりと苦しかったような、寂しかったような。
けれど振り返ってみればその歩みは決して全部が苦しさや寂しさ絶望だけではなくてところどころ途切れずプツンと目立つ煌めきがあって、それが淡水パールのネックレスのように愛らしく連なるので、結局その全てがいとしい。いとおしい。私の人生が結局は愛おしい。

色んな人がいる。だから私だけが特殊とも、可哀想とも思わない。それでも私にとって一番特別なのはやはり私の人生だ。この夢のような、あぶくのような人生でも書き残して振り返りたいと思うくらいには特別なのだ。
“人間”になろうと努力していたいじらしいわたしへ。
踏み出すことをずっと恐れていた臆病なわたしへ。
けれど正しさと優しさを愛す、強いわたしへ。

戻って来ないすべての過去の**ちゃんへ。


落ち着いて見渡してみれば、きっと世界は

必死だった私と、見捨てた私 : 幼少期のこと

どこから話したらいいのかわからない。皮膚の痒みを感じるのに、具体的にどこが痒いのか探り当てられないようなもどかしさがある。何を話しても的を得ているような気がするし、全くの的外れのような気もする。

私は虐待を受けたのだろうか。わからない。辛い経験をしたのだろうか。わからない。
だけれども、物心ついたときにはすでに厭世的だった。
どうして私は生まれたんだろう。
何か手違いで間違って生まれてきたんじゃないかな。
私はぜったい子供なんか産まない。だって、こんな思いをするんだったら、こんな。
こんなに苦しいんだったら。
私みたいなおかしい子が生まれてきたりしたら、かわいそうだから。
お母さんになりたくない。大人になるのが怖い。
幼稚園生のときひたすらこんなことを考えていたのを覚えている。
子どもは死にたいという気持ちに自覚的でない。そういう語彙を持ち合わせていない。でもきっと、私はあの頃からずっと死にたかったんだな。

多分、愛情深い家庭の子だった。なのにどうしてこんなことを思ったのだろう。どうして両親に対して、自分が生まれてきたことを申し訳なく思ったのだろう。
繊細すぎる性質だったのだろう。そうとしか言いようがない。
けれど、私の繊細さを私は愛している。その性質は私に生きづらさをもたらしはするが同時に生きる喜びも与える。感受性をフルに用いてそれを表現として外に出すとき、自分の性質がこうで良かったと、そんな風に思えるのだ。

記憶は三歳くらいからあると思う。自閉的な子どもだった。母に「はっきりしない子」、よそのお母さんに「おとなしい子」と言われるとごめんなさいという気持ちになるけれど、だからといって快活な子になるにはどうしたらいいか分からない。臆病で、よく泣いて、のろまで過集中なところがあって周りのことが見えていない。でも触れたものごとは深く考えて理解しようとしていた──と思う。
一人が好きだった。考え事に集中できるからだ。あの頃の記憶はいつも春だ。社宅のアパートの外で雑草を摘んで集めて、何か複雑なものを作ろうとしていた。そんな風には見えなかっただろうけれど、そういうつもりだった。時間の概念がなかった。だから突然幼稚園に通うことになったとき、急に忙しくなって息苦しくて、ついて行けないと感じたことを覚えている。あの生活にもう二度と戻れないと理解したとき、この先のことを思って恐怖した。

入園前は自由にやっていたけれど、幼稚園生活を始めて、「私は普通にしていたらみんなとずれちゃうんだな」と自覚した。実際はどうだか知らないけれど、そう感じた。活発さが違う。社交性が違う。絵の描き方や歌い方が違う。外見がおかしい。みんなが出来ることが出来なくて、みんなが理解できることも分からなくて、お漏らしの癖は治らなくて。自分の存在が恥ずかしい。だから自分の好きなものも、自分の好きなことも恥ずかしい。見られたり知られたりしたら恥ずかしいこと。

いい子になりたい。普通になりたい。
毎日泣かないようにしたいな。お漏らししないようにしたいな。
そうしないと私はきっと捨てられてしまう。こんな私だもの。

これが前提である。私はそういう子どもだった。

しあわせサンプル

情報過多だったのだろうと思う。

たとえば情報が砂のような質感のもので、それがざらざらと常に流れているのだとしたら、ひとりひとりの受容体はザルのようなものだと考える。私のザルの網目はおそらく平均より細かい。なので少しずつしか受け止められない。多すぎたり、流れが速すぎたりすると目が詰まったりキャパオーバーになってしまう。
自覚はなくとも身体は訴える。泣き虫やお漏らしや鼻詰まりは精神的なものが原因だったと思うし、小学校入学と共に毎日悩まされた頭痛もそうだったのだろう。子どもって痛みを感じる鋭さが特に強いのだろうか。あの頃の頭痛は今思うと小さな体でよく耐えていたなと思うような強い痛みだった。

何しろ、人生の初心者なので分からない事だらけだった。母や先生やクラスメートが「あなたが悪い」と言えばそれは真実となったし、私も執拗に自分を責め続けた。
「考えてごらん。どの環境でも、誰とでもトラブルになるということは**が悪いんだよ」とよく言われたものだった。私自身もその考え方が俯瞰的で理にかなっているように感じられた。
甘えた、自分贔屓な考え方はしたくはない。物事を正しく判断したい。私は悪い子で、問題だらけ。どこへ行ってもいじめられる。だから私にはきっと何かとても不快で大きな欠点があるのだろうと思ったのだけれど、それが何であるのか皆目見当がつかない。分かりさえすれば、一生懸命直すのに。それを知る為に人の心が読めたらいいのに。切実だった。
──どうやったらいい子になれるのかな。
子どもってどこまでも健気だなと思う。今はとてもそんな風に頑張れない。自分の限界も考慮に入れず、文字通り壊れるまで頑張ってしまう。虐待を受けて最終的に死んでしまう幼い子がいるけれど、そういう子も似たような思考だったのではないかと思っている。自覚のないままとことんまで自分を追い込んでしまう。
でも、頑張れたのは希望があったからなのだろう。今すごく頑張れば、とても素敵ないい人間になれるのでは、愛されるのではと思っていた。

私はいつでも姉だった。だからなのか、自分がまだ甘えてもいい小さな子どもだという意識が薄かった。私が「小さな子ども」だったとき、二歳年下の弟は常に「もっと小さな子ども」だった。比較すると、私はどの年齢でも「手のかからない大丈夫な子」に分類されることとなる。実際はまるで頼りなかったのだけれど。
どうして私はいつも漠然的に「ごめんなさい」と思っていたんだろう。その一方で時々小爆発のように「私のことを分かってよ! 」と泣いては母に当たってしまったんだろう。


これぞ私の欲しかった幸せ、というモデルケースのような思い出がある。
五歳だか六歳だかのときに、家族四人でアスレチックへ出掛けたことがある。雲梯(うんてい)を渡っていたとき、手が滑って一番高い位置から私はぽとりと落下してしまった。幼児だったし、下は柔らかい土だったしでちっとも痛くはなかったのだけれど、両親が顔面蒼白になってこちらへ駆けて来てくれるのが見えたら嬉しくなってしまった。
とりあえず心配してもらおうと思って大袈裟に泣いた。父が私を抱き上げてくれて、私は父にしがみついて一層泣く。物凄く贅沢なことをしている感覚があった。母も私に「どこが痛いの? どこを打ったの? 」と一心に聞いてきて、私はそのとき両親の注目の的だった。弟より自分が優先されているのが嬉しく、その日のレジャーも中止となって私のために即病院に行ってくれたのも嬉しかった。あのときの腹の底からの幸せ、あの感覚を私はもう一度味わいたいのかもしれない。

きっと、愛され気遣われたことは幾度もあったし、今訊いたとしても両親はそう言うだろう。私が気付かなかったり、甘えだったり、求めていた形でなかったり。あるいは忘れてしまっただけなのだろう。
ちょっとした事に傷付きやすくて、愛情の受容能力がひどく低いのは自覚している。
分かりにくい子とか難しい子とよく言われて、それもまた傷ついたのだけれど、まあそうだろうと自分でも思う。優しいけれど扱いの難しい繊細すぎる子。でもちょっと、あれは誰にもどうにもならなかったな。


大人になったとき、父が「お前は不幸だったな」と言ったことがあった。実の父親から太鼓判を押される不幸な子ども認定。でも私、その言葉が何だか嬉しかった。多分父のあれは「ごめんね」という意味なのだ。

全然いいよ。まるで無かったことのようにされるより、ずっと嬉しい。

人間ではない

自分がなぜおかしいのかずっと考えていて、「人間ではないのだな」と結論づけたのは小学二年生の頃だった。それが一番しっくりくる答えのように思われた。

家に「あかちゃんがうまれるまで」のようなタイトルの絵本があり、小さい頃からよく読んでいた。卵子が“あかちゃんたまご”、精子が“あかちゃんむし”と言い換えられていて、物凄い熾烈な競争のなか、一番最初にあかちゃんたまごに辿り着いたあかちゃんむしがそこに取り込まれ、一人の人間が育っていくのだと。あなたもそうやって生まれてきた一人なのだと、そういう説明の仕方だった。
絶対におかしい、と思ってしまった。
いつも人に遅れをとってしまう積極性の薄い私がそんな(はげ)しい競争を勝ち取れるはずがない。そうすると、何かのイレギュラーが発生して私をかたちづくる精子が意図せず偶然取り込まれてしまったのではないかと。
もしくは私の命は人間用の命ではなくて、本来は虫のようなか弱い生命として生まれる用の命だったのではないかと。
生まれて来るのなら私でない誰かの方が絶対絶対良かったに決まっていた。母は私たち姉弟に「お母さんがお父さんと結婚しなかったら、二人とも生まれて来なかったんだよ。だからお父さんと結婚して良かったんだ」とよく言った。母を悲しませたくなくて、言われる度にこにこしていたけれど、心は押しつぶされそうだった。
なぜ産んだの。お母さん。
あなたは、よく考えて子どもを持とうって決めた? 私みたいなのが生まれて来るって想像していた? 私みたいな難しい子が。あなた好みでない、かわいくない私が。私にしてみれば、母が別の人と結婚して、別の子を産んでいたほうがずっと良かったのにな。
裏口入学的な後ろめたさがあった。本来ならば存在するべきでなかった私が何かの手違いでここにいる。それを漠然と一言で表す言葉がきっと「ごめんなさい」なのだった。
──生まれてきてごめんね。クラスにいてごめんね。でも学校は絶対通わなきゃいけないところだから、許して。
本当に考えが飛躍しすぎ。私の中では結論が固く決定していて、それを裏付ける理由をこじつけたいが為の歪んだ思考である。
愛情をかけて私のために苦労してくれる人たちに対して、とんでもなく失礼な考え方だなと思う。感謝に欠けているよな。でもやはり、どうしてもそれが本心なのだった。

ジブリ映画「平成狸合戦ぽんぽこ」を見たとき、強く共感したシーンがあった。映画の終盤、狸と人間との共生の妥協案として、狸たちは人間の姿に化けて本物の人間に紛れ社会人として生活することを選択する。けれどそれは狸たちにとって常に負担のかかる状態らしく、なにか疲れていたり気を抜いたりした一瞬に、ふっと本来の姿に戻ってしまう。それはまるで日々を「普通に見えるように」と気を張って暮らしている私のようだと思った。私には、そんなふうに見えた。
家での私は狸だった。全ての場所で人間のふりはやはり無理があった。学校では何があっても穏やかで人に優しく、決して泣かないよう、常ににこにこしているようにと気をつけていたけれど、家での私はわがままで、よくめそめそ泣いていた。弟への当たりもきつかったのだと思う。今思えばアスペルガーめいたところや場面緘黙(ばめんかんもく)的なところがあったのだろう。

ちゃんとしたい。ちゃんとしたいけど、出来ないな。
ただみんなと同じように振る舞うだけのことが、どうして出来ないんだろう。どうしてただリラックスして同年代の子と他愛ないお喋りをしたり、不自然に思われない仕草をしたり、自分の意見をはっきり言葉に出して言ったり、そういう当然のことが出来ないんだろう。自分は生まれるべくして生まれて、親には愛されて当然でという、そんな考えを持てないのだろう。
人よりずっとエネルギーを使って暮らしているような気がする。みんなの自転車のギアは「平」なのに私のは「軽」になっている気がする。タイヤのインチが小さい気がする。


転機は突然訪れた。
高校に入学して環境が変わったら、急に知らない人にでも自然な笑顔で自然に話ができるようになった。初対面の子と一緒に帰って、コンビニに寄って、同じ飲み物を半分ずつ分け合うような、そんなことがストレスなくできるようになって驚いた。ああいうのはどうすればいいかなんて考えるものじゃない。今までみんな自然にそれをやってきたんだな、努力なしに。
そんな基本的なことを十六歳にして初めて知った。
そうして思った。
なんだ、私はちゃんと人間で、みんなもただの人間で別に“人間様”じゃない。
私の人間年齢は十六歳から始まったと思っている。人より十六年遅れて、やっとスタート地点に立った。だから私の精神年齢は多分実年齢−16なのだ。

母のこと①

私と母との関係を一言で表すならば「癒着」だと思う。

他の人と私との人間関係には大抵、適切な距離感が存在している。でも私と母にはきっとそれが無かったのだろう。私たちは、互いの境目が分からないほどに癒着していた。
母の強すぎる母性と私の生存本能が最悪の形で作用していた。母はきっと私のプライバシーに踏み込み過ぎていた。個人としての尊厳という考えがそもそもない。無意識とはいえ私の個人的領域に入り込んで支配しようとしていたのだと思う。
母が本当の意味で私のことを愛していないというのは、知っている。きっと自分でも良く分かってはいないと思うけれどね。母が愛しているのは母自身なのだ。“自分の産んだ自分の子ども”が好きなだけで、それはべつだん私でなくても誰でも良い。
ねえ、私のこと、自分の延長だと思っているでしょう。自分の延長だからこそ、自分の好きなように扱ってもいいのだと思っているのでしょう? そして思い通りに行かないから不満なんでしょ。傲慢ね。

砂のような“情報”と、ザルの網目のような“受容体”の話をしたけれど、母の網目はかなりざっくりとしているのだと思う。
自分の発した言葉で相手がどんな気持ちになるのか考えられない。相手の気持ちを想像できない。思い込んでしまったらそれ以外の可能性が考えられず、決め付けてしまう。そうして、全く悪気なく、“自分が間違っているかも知れない”という可能性を考慮できない。だから、私の目の細かい気持ちは母の受容体からぼろぼろと零れ落ちてないもののように扱われてしまう。

父と母の結婚式の話(あるいは誰かの結婚式に出席した時の話かも知れない)を聞かされるとき、度々笑い草として出てくるエピソードがある。 
披露宴で出て来たご馳走の中に、殻が金色に着色されたゆで卵があったそうだ。剥くと白身部分が茶色で、みんな味付けされた煮卵だと分かったそうなのだけれど、母はその可能性を考えられず「白身が白くない→おかしい」と即座に判断して「この卵、腐ってますよ! 食べない方がいいですよ! 」と出席者に言って回ったのだという。
これはただの笑い話だけれど、全てにおいて母はそういう人だ。

普通のことを普通にするのが苦手な私は、だから母にとっておかしな子なのだった。
私を私として見てくれず、「子どもはこう」という母基準のテンプレートに当てはまらない私に彼女はよく「異常」という言葉を使った。「意地悪な子」「卑怯な子」「裏表がある」「出来ることをわざとやらずに手を抜いている」。
「異常だよ」という言葉、今でも傷つき続けている。私のこれは異常なんじゃないか、おかしくて恥ずかしいんじゃないか、とつい自分に疑念を抱いてしまう。それが私のスタンダードとなっている。
どうして私の話も聴かないで勝手に結論付けてしまうんだろう。
どうして私の動機を善意に捉えてくれないのだろう。複数の可能性を考慮しないのだろう。でも言えない。私はうまく言えない。言い方が分からないし、どこに違和感を感じるのか分からない。
知っている。母には悪気はない。だから(たち)が悪い。
「コーラは毒だよ! 」「漫画は不健全だよ! 」「金髪は不良だよ! 」「ダイエットなんて見た目ばっかり気にして不健康だよ! 」「はっきりしないのは悪だよ! 」
母はいつも強くて過激な言葉を使ったけれど、きっと自分自身がそういう強い言葉を使わないと理解ができない人だったのだろう。でも子どもの私にはその言葉は強すぎて怖かった。母の愛情表現の言葉でさえも脅迫的に聞こえた。彼女はいつも強い口調でこう言うのだ。
「お前は! 大事な娘だよ! 」
動物みたいな恐ろしく強い母性を示す人だった。私は恐怖で支配されていた。だってこの人から捨てられたら、私は死んでしまうもの。私のお母さんはこの人しかいないもの。

私はどうしても母を愛することが出来ない。親には敬意を払いたいのに、母を思うとき自然な温かさや感謝を抱くことが難しく、ことごとく情報止まりになっている。
母と私のことをできるだけ詳細に書き記したいと思って色々書き留めたのだけれど、私の中で母への愛情があまりにも欠けているので単に母に対する誹謗中傷のようになってしまいそうで、やめた。


だから出来る限り簡素に記すことにする。私が母を見限った経緯(いきさつ)について。

母のこと②

後々気づいたことなのだけれど、私が私特有の個性を発揮することが母には不快に感じるようだった。

大人しくて繊細すぎるところ。すぐ自分の世界に入ってしまうところ。はっきり発言出来ないところ。そして私の描く絵。
弟はいかにも子どもらしい素直な子だった。思ったことをそのまま言う伸び伸びとした性格は母には分かりやすく、可愛らしく映るのらしかった。
母に好まれる私になりたかった。それは私にとって死活問題だった。
今日気に入られても、明日はどうだか分からない。ひと月後は分からない。何かわがままを言って、おねだりをして嫌われるのが怖い。とにかくひたすら「申し訳ない」という強迫観念に囚われていて、自分独自の“良い子ポイント”のような概念を作り出してコツコツ貯めるような感覚で暮らしていた。

弟は母を困らせるようなことを言った。でも私はしない。
良い子ポイントひとつ。
母の定めた決まりをきちんと守った。
良い子ポイントひとつ。

ポイントの分だけ、愛される根拠が増えるのだと思っていた。振り返ると、何かしらの決まりを守ることや母を煩わせないことによってそれを貯めようとしていたのだろう。私が母に甘えるとか、嬉しそうにすることによって喜ばれるなんて考えもしなかったな。自分は存在自体がマイナスポイントで、出来るだけ迷惑をかけない良い子になることが一番喜ばれると信じていた。どうしてだろう。
何が原因か、私には絶対的に「誰かに愛されている、その資格がある」という感覚が不足している。
ネグレクトではなかった。種類はどうあれ程度の差はあれ、愛されていないわけでもなかった。衣食住に困ったこともない。気紛れで捨てられるはずもなかったのに、なぜそれを固く信じて恐れていたんだろう。母の機嫌の良し悪しは敏感に感じ取れる癖に、愛情を感じ取る力はどうにも薄い。いつもどこか淋しい。

良い子になりたいと願っていた割に、私は全然良い子にはなりきれなかった。学校ではガチガチに緊張していたために出来ないことが多くて、迷惑をかけっぱなしだった。お喋りが出来なさ過ぎて、他の子の会話に耳を(そばだ)てては暗記して、こう言われたらこう返すんだなとシミュレーションしたりとか。出来るだけ目立たないよう、クラスの他の子たちから浮かないようにと意識し過ぎて、トイレに行くとか花に水をやるとか教室の本を借りるとか、とにかく自主行動的なことが出来なかったりとか。情報量が多くて混乱してフリーズして、自分のやりたいようにやるという、ただそれだけのことが私には高すぎるハードルだった。
私にとって、“学校に行ってその環境にとどまっている”ということそのものが、かなりのエネルギーを要した。私の情報容量はあっという間に限界値に達してしまう。それを超えると頭痛がしてくる。そんな訳でほぼ毎日頭痛で、下校の頃にはぐったりしていた。
家では相変わらずよく泣いていた。泣くのが癖になっていたとかそういうことでもなくて、一回一回が本当に辛くて悲しかったからなのだけれど、それにしてもしょっちゅう泣いていたなと思う。母が不快に感じているのは知っていた。「うるさいからやめて」とよく言われたものだった。
私が泣くのは昔からただひとつの理由のみ。
自分の存在が、おぼつかない。


勝手なやり方で母に尽くしていた。「尽くして」なんて言われてもいないのに。母好みの私になりたくて、自分の好みも意見も態度も母に受け入れられるものに変形させていた。
母は子どもの頃から何でもかんでも私に話していた。父の愚痴から、よそのお母さんの中傷、自分の思ったこと、教育的なあれこれ。学校から帰ると私が学校でのことを話す間も無く、母は浴びせかけるように自分の話したいことを語り始める。私の周りで起こったことや、自分の気持ちは話せない。受け止めるので精一杯で、母に同調するしかない。むしろ母の言うことは全て正しいのだと信じて疑わなかった。その中に、弟の話題があった。
二つ下の弟は、私が小学三年生の頃入学してきた。しばらくして、弟はクラスメートにいじめられるようになった。弟はすぐ母に泣いて訴えて、母はそれをなぜか私に“相談”するのだった。
「メガネをかけてるからね、“メガネザル”って言われるんだって。給食の牛乳のストローの袋に付いてる糊を、メガネになすり付けられるんだって。可哀想にねえ」
「うん」
「体も小さいからねえ。一年生になったばっかりなのにねえ」
「うん」
「**くんは本当に悲しそうな泣き方するでしょ。可哀想になっちゃう」
母はしきりに可哀想に可哀想にと言っていた。
聞きながら、傷付いていた。弟がいじめられているのは可哀想だ。でもなぜそれを、私に相談するんだろう。弟と同じ、子どもであるはずの私に。同じく一年生からいじめられて今年度から三年目になる私に。なぜ真っ先に父に相談しないのだろう。私にそれを言って一体何になるというのだろう。
押し潰されそうに苦しかった。
あのね、私まだ九歳だよ。言われた私はどんな気持ちになるか、重荷になりはしないかと考えてはくれないの。私にはそういう配慮はしてくれないの。
ねえお母さん、じゃあ、私が自分もいじめられていると打ち明けたら同じように「可哀想に」って言ってくれる? 同じことを言ってくれるかなあ。もしどうしようもなくなって、耐え切れなくなったら、やるべき事をやっても八方塞がりみたいになったら、私もお母さんに言ってもいいかな。「可哀想に」って慰めて、抱っこしてくれるかな。

ここでも「良い子ポイント」が発動して、私は自分もいじめられているのだと言うことが出来なかった。ただ、少し希望になったのは、母は自分の子がいじめられたことに対して“可哀想に”と言ってくれるという発見だった。可哀想にと言ってくれて、母が味方になってくれたなら、私は学校でどんなに辛い目にあっても心強さで頑張れるかも知れない。でも、それは本当に自分で出来る限り頑張って、どうしても駄目だと思った時にしよう。なるべく自分でなんとかしよう。
私は「母親にいじめられていることを相談して助けを求める」ということを最後の手段、希望の光みたいな場所に据えてしまった。

いよいよ本当に駄目だと思った時、思い切って母に相談して後悔した。
母は味方してくれたのだろう。実際私がいじめられていると知って、彼女が何を思ったか分からない。第一声目は何だったろうか。「担任の先生に手紙を書きなさい」だったかな、それとも「弱そうにしてたらなめられるよ」だったろうか。
いずれにしても、“私に落ち度があって、対処の仕方が悪い”と言われているように感じて、気持ちの持って行きどころがなかったのを覚えている。
「よく相談してくれたね」「よく耐えてたね」「可哀想にね」。
端的に言えば、私はこの言葉だけで良かった。それだけで、私のぎりぎりの心は救われる気がしていた。
いじめなんて人の心から発生する。先生が注意したって、私が毅然としていたって、人の心を押さえつけることなんか出来ない。であれば、私は心の支えになる味方が欲しかった。
お母さん、**くんみたいに、私のことは「可哀想」とは言ってくれないの。私がいじめられるのは私が弱くて異常だからなの。お母さん。
以降、母は私のために良かれと思ってか、いじめの主犯格の女の子のことを見下したり小馬鹿にして笑うようなことを度々した。あの時は何となくもやもやしていたけれど、今なら分かる。いじめをしていた子だってあの時たった九つで、幼く不安定な子どもだった。よその家庭の大事な娘だった。それを分別も力もあるはずの大人がからかうなんて、絶対にしてはいけないことだ。母は根本的にいじめっ子と同じことをしていた。だからあたかも自分がそれを受けているようで傷付いたのだ。
私、いじめてきた子のことなんて全然恨んでいないのに。だって相手は人間様で、生まれるべくして生まれた人で、一方私はすごく変なんだもの。されたことは悲しかった。だけどいじめられた事といじめてきた人は私の中で分離していて、苦しさが除かれればそれで良かったんだ。母に優しい言葉をかけて貰えなかったことの方がよっぽど苦しかった。

いじめの延長と言うべきか微妙だけれど、学校で描いた絵は人に取られてしまいがちだった。
子どもの絵だし、特別上手いわけでもなかったけれどクラスメートから「ちょうだい」と言われることが多く、「うん」としか言うことのできない私は大抵家に自分の絵を持ち帰ることが出来なかった。でもあるとき持ち帰れたことがあって、母に褒めてもらうを楽しみに下校した。
母から肯定の言葉を貰った記憶はない。しばらく私の絵を眺めて、それから
「悪いけど、邪魔になるから捨ててもいい? 」
と言われたことだけ覚えている。
「うん」
と私は言った。そう答える他にどうしたら良かったのだろう。頭が真っ白になって、その返事しか思い付かなかった。

私の絵は母から憎まれているような気がずっとしていた。母自身も絵を描く人だった。
もっと幼い頃は母と私と弟で、花かなにかを真ん中に囲んで写生大会をしたものだった。でもあるときから母は「絵を描いて」とねだっても描いてくれなくなった。「**の方が上手いから」と適当なことを言ってはぐらかしてしまう。好きなように描いた絵も、「もっと子どもらしい自由な絵を描いたらいいのに」と言われてしまう。
以降、私は持ち帰れた自分の絵は母に見せずに弟と私の子ども部屋に自分で貼って飾るようになった。

高校生くらいの頃「お母さん私の絵好きじゃないんでしょ」と言ったことがある。母は肯定した。「だって暗いし、目に輝きがないんだもん」。

それから私は目に光を入れないで描くのが怖くなった。

母のこと③

母のいいところは何だっけな。

何だったろうな。やってもらったことは沢山ある。私は母のどういうところが好きだったのかな。きっとあったんだと思う。でもすっかり忘れてしまった。あんなに話したのに、コミュニケーションを取れた感じが全然しないの。いつもずれていて、糠に釘といった感じで、体力ばかり異様に消耗する。食品のクリームを化粧品のクリームの話と勘違いをして食い違うみたいなの。


私は空想の世界に過剰に没入してしまうタイプらしい。
割とほとんどいつでも、ひとり頭の中でごっこ遊びをしていた。絵を描きながら、リカちゃん人形を用いて、通学中、そして寝る前に。鼻が詰まって寝付きの悪い子供だったから、演じなかった夜は多分ない。
私は何処かの国の美しいお姫様の役をして、ひたすら優しい王子様のシナリオを考える。お姫様の本当の気持ちも動機も、口下手で上手に言えない彼女に先回りして分かってくれる。うまく言えないからとその動機を勝手に判断して「狡い、卑怯だ」と詰ることはない。
『お母さん』が満たしてくれないものを、私は『王子様』に求めた。そうして無条件に愛される疑似体験をした。私の本当に求める王子様は、お母さんだったのかも知れない。そうして自分で自分を抱きしめた。可哀想ね、可哀想ね、**ちゃん、**ちゃん。そして母はいつも来なかった。

それから一人の時間がどうしても必要で、子供部屋でリカちゃんを用いて『世界名作劇場』ばりの壮大な物語を組み立てて演じているとき、絵を描いているとき、不意に部屋の襖を開けられるのを酷く嫌った。自分の世界を誰かに見られるのは恥ずかしく侮辱される感じがして、私はよくパニックになって大声で泣いた。個人の領域を侵される感覚がしたのだ。

私が泣くことを母はいつも“拗ねている”と表現した。
『拗ねている』って、便利な言葉だなと思う。泣いている私を拗ねている事にすれば、母は私に対する責任を放棄して、小馬鹿にして非難すれば良い。母の解釈に則れば、私は『傷ついている』のではない。意地を張っているだけ。その本音を探って、心に寄り添う必要は生じない。
ああそうだ、それで「**は自分を大事にしすぎる」と言われたんだ。感情なんか大事にするんじゃないよって。母の図式では感情的=泣くことという括りになっていた。

小学五年生くらいの頃、こんな事を言われた。
「引っ越しの時にさ、荷物運びを手伝ってもらって、もし誰かが『この段ボール傷付けちゃった、ごめんね』って言ってきたら『そんなの良いよ、段ボールだし』って言うでしょ。でももしそれが宝石箱とかだったらそうは思えないでしょ。**は自分のこと宝石箱だと思ってるんだよ。自分のことが大事大事だから、すぐ泣くんだよ。自分は段ボールと思ってれば良いんだよ」
そうだ。そう思わなくっちゃ。
私は段ボール、私は段ボール、私は段ボール。
馬鹿なのか、いじらしさなのか、あのとき私は母の言葉は正しいと受け止めた。そして自分が段ボールだと思うよう、努力していた。とにかく良い人になりたかったのだ。
そのおかしさに気付くのはやっと今更だ。
お母さん。私ちゃんと思っていたよ。段ボールどころか、自分のこと人間じゃないってずっと思っていたよ。
自分だけ特別と思わない方がいいよと、半ば馬鹿にするようなニュアンスで母は言う。でもその一方で私のことを異常と言う。結局どっちなんだろう。

母も母なりの基準できっと優しい。でもあの人の優しさは物をどっさり与えたり、外食に連れて行ってくれるという示し方だった。真ん中が空洞なのに周りだけ賑やかに飾り付ける感じ。私はそれをされると何だか馬鹿にされたような、申し訳ないような気持ちになってしまう。


親に敬意を払いたかった。感謝を出来るだけ表したかった。それは当たり前で正しい事で、私にはそれが全然足りていないのを自分で分かっていた。
悲しくて、煮え切らない気持ちは勿論あった。でも、親は絶対的に敬うべき目上の存在だ。私はなんだかんだ言って養ってもらっている身だ。
そして、“お母さんはいつか絶対分かってくれる”という盲目的な信仰を抱いていた。いつか私の思っていたことも、密かに耐えていたことも全部分かってくれるんだ。そして私に目を向けてくれるんだ。大人になって、家を出るまでにはきっとそうなるんだろうな。
そういう未来を勝手に想像して、それが私の希望となって、だから頑張れたのかも知れない。

母のこと④

家族のボスは父ではなく声の大きい母で、母が家の決まり事を取り仕切っている。

母には自分独自のルールというのが強くあるようだった。
勿論効率の良い家事の仕方や生活パターンというのはあるだろうし、誰にでも多少こだわりは存在するのだろうけれど、その融通の利かなさは一般より強いように私には思えた。予定外を楽しむことが苦手なのだ。
子どもの扱いにしてもそうで、母は私の選択や行動を自分で管理しなければ気が済まないようだった。
母の世界には善と悪、白と黒しか存在しないようなところがある。「これはこうすべき」「こう考えるべき」「この道へ進むべき」と、母はいつもすでに決定したことのように自信たっぷりに言う。それ以外のことは悪。そして私の身に危険が及ぶことに敏感だった。

高校生になっても、文化祭の準備期間などで夕方六時くらいまで学校に残っていたりすると、母が電話をかけてきて校内放送で呼び出されてしまう。怪我や病気の時も大袈裟に騒いで心配した。そのくせ感情の分野には無頓着で、私含め人を断罪し批判するような事を平気で言う。その傷つきは全て「わがまま」括りにされてしまうのが酷くちぐはぐだった。
自分の基準が全く正しいとなんの疑いもなく思ってしまえる人だったので、私を支配しているつもりはなかったのだろう。むしろ善意で私の道を整えようとしているのだった。けれど私は母の粘土人形ではない。性質も好き嫌いも感情も違う。それに、母は私の内面の事情を知るつもりがなかったのだから食い違いが生じるのは当然のことなのだった。
その一方で、私は母を尊敬してもいた。私はまだまだ子どもで、母は年長者だ。経験があるからその分視野も広いはずだ。だから、母が私のためを思って言う意見に全く耳を貸さないのも愚かだという気もしていた。自分が反抗期と呼ばれる時期のさなかにいる事も承知していた。無根拠な反抗はしたくはなかった。“反抗期だから反抗していい”なんていうのは自分をコントロール出来ない、未熟な人間のすることだ。

ただひとつ、私が一貫して主張して衝突の元になったのが「私の気持ちをちゃんと聞いてよ」ということだった。この手の話になると私は幾つになっても感情の調整が出来ずに激しく泣いてしまう。その都度母はうんざりした顔をする。慰めてくれることがあるかと思えば、余計傷付けられるパターンもある。撫でたその手でつねるようなことをする。
「私のことを分かってよ!」
と言えば
「**だってお母さんのこと分かってくれないじゃない」
と返される。
「なんでそんなに嫌そうな顔をするの、感情移入をしてくれないの」
と泣いて訴えれば、深刻な話なのにずっと微笑んで聞いていたりする。そして「あ、洗濯物を取り込む時間だ! ごめんね! 」と相談が唐突にお開きになってしまうことも珍しくなかった。
洗濯物の取り込みなんて、幾らでも手伝うのに。少しくらい取り込むのが遅くなっても、「ちょっと冷たくなっちゃったね」と言いながら私と一緒に取り込んだら良いのに。予定外を受け入れられない。私と向き合わない。
「空が青いねぇ」
と母はよく言った。不自然に話題を切り替えようとするときに用いる常套句だ。いつも躱される。逸らされる。そしてそれ以外はありったけ自分の話をする。
昔から自分の興味のない話はスルーして、時には軽蔑したりして、自分のことを話題の中心にして話す人だった。それを思いやりのないやり方とさえ思っていない。目に見えるもので判断する。その割に自分の価値観もころころ変わりやすくて、辟易する。

美術系の趣味に長けている人がいて、私がその人との会話内容を話したときのこと。その人が見せてくれた作品のあれこれについて詳しく尋ねて細かな技術や事情を教えてもらったことがある。たとえ自分に興味のない分野でも、詳細まで聞き込むことによってその人を知ることができるし、学ぶことも多い。けれど母はその話を聞いて一笑に付した。
「えー! その人のこと、そこまで持ち上げてあげなきゃ駄目なんだ。そこまで踏み込んであげなきゃ駄目なんだ! 面倒臭い! 」
不信感は少しずつ、じわじわと私の中で積み重ねられていく。母は、自分も絵を描く人のはずなのに、他の人の技術に敬意を払わない。技術がいくら高くても、好みに合わなければ平気で馬鹿にしたりする。

『そこまで踏み込んであげなきゃ駄目なんだ 』って。
そうよ、駄目に決まっているじゃない。そうでなければ本当の意味でその人の事を知ることが出来ないじゃない。特にそれって親子には必要なことではないの?
少なくとも私は必要性を感じていたよ。だってここは、私の本拠地なのだから。私の本当のこと、出せるのは世界でここだけなのだから。
つまり母は、私の人間性についても“そこまで踏み込んであげなきゃ駄目”なんだとは微塵も思っていなかったらしい。思いつく自分の話をひたすらすれば、それを面白おかしく語って私が笑えば、それで私はここが安心出来る満たされる場所と思うはずと決め込んでいたらしい。深い話は、どこでもしてはいけないらしい。
母は私の外側だけ整ってさえいればそれで良い。健康で安全でいればそれでいい。私が何を考えているかなんて知りたいとも思わない。知る必要性を感じていない。
泣いているのは『拗ねている』ことで、私の気持ちを正確に伝えようとする努力は『難しい事をごちゃごちゃ言っている』と捉えられる。私は私の感情をどこまで押し込めればいいのだろう。
いまだに母親から与えられた淋しさに上回る淋しさを経験したことはない。
日本の家庭ではありがちなことなのかも知れないけれど、家族なのにずっと互いと深いつながりが持てない、深い話ができない聞けない聞いてもらえないというのはやっぱり不幸だったよなと思うのだ。それが子供の頃から何年も続いたんだもの。不幸だと思っても良い。結構みんなそうだよと言われたとしても、それは不健全な家族のあり方だ。


かなりの年齢まで、私の伝え方が恐ろしく下手だからそうなんだと思っていた。悪いのは結局私で、もっと色んな方法を試みなきゃ、努力しなきゃと思っていて疑いさえしなかった。

母のこと⑤

小さな我慢は積もり積もって、私を卑屈にならせているのだった。

十九のときに一人暮らしをすると決めた。理由は複数あったが、親にいつまでも迷惑をかけたくないという気持ちもそのひとつだった。
世間知らずだったのでどうやって部屋を借りていいのか分からず、情けないけれど母と二人三脚のような形で計画して、結局実家からそれほど遠くない距離にあるアパートに入居することとなった。
多分その頃だったのではないかと思うけれど、私が休みの日、母は毎週のように一度も行ったこともないレストランやカフェを開拓しては、私をランチに連れて行ってくれた。多分それは母なりに私が喜ぶことをしたいと思ってのことだったのだろう。子どもの頃から母の“ご褒美”のやり方はそうだった。
スーパーで一緒に買い物に行ったとき「今日はご褒美! 好きなもの買っていいよ! 」
レストランへ連れて行って、デザートまでつけて「ご褒美だよ! 沢山食べな! 」
これは本当に私の落ち度なのだけれど、そういう時私が受ける感覚は嬉しさより申し訳なさとある種の緊張の方が(まさ)った。「お母さんが私を喜ばそうとしてる、喜んでるって分かりやすく表現しなきゃ! 」というプレッシャーと、お金を使わせている申し訳なさ、子どもの胃袋なので沢山食べなと言われても食べきれないこと。
私が本当に欲しかったのは母からの是認と興味と安らぎで、そのためにコツコツと“良い子ポイント”を貯めていたはずだった。
それを思うとなんだか無性に淋しくなってしまった。
ああ、この数回の食事の権利の為に私は今まで母に尽くしてきたんだっけ。これが母から私への愛情の総決算なんだろうか。
感謝しなければと思っていた。甘えた考えだとも思った。でも、ぼんやりとそんな事を考えていた。もらうべきものをもらい損ねてしまったというような感覚が残った。
誰からであってもそうなのだけれど、「物」をもらうことに対して私は嬉しさよりも苦痛──申し訳なさとプレッシャー──を感じてしまう。
口では勿論「ありがとう」とは言う。でも本心は違う。優しくして貰っているのに素直に感謝出来ない、喜べない。面倒な人間だなと自分でも思う。

実家近くのアパートを選んだことが後々弊害になった。
一人暮らしを始めたものの結局私と母の距離感は以前とあまり変わりなく、知り合いや友人も母と共通の人が多かったため、生活から母を排除することが出来なかった。いや、排除しようなんて思っていなかった。感謝すべき、敬うべき、大切なお母さんだったのだから。私を深くは理解してはくれなかったけれど、自分の子を強く想う気持ちはあの人の中では今もずっと変わっていないのだろう。
周りに「母に感謝しています」「尊敬しています」といつも言っていた。本当にそう思っていたし、身内含め誰かを中傷したくなどはなかった。 
けれど(これは後から気付いた事なのだが)、定期的に母と接触することによって私の情緒はひどく不安定になるのだった。

たとえば、安定したメンタルを保つことが出来ないので何かを長期的に継続することが難しい。「よし長編小説を書くぞ! 」と思っても母と接して気持ちがうち沈み、何もかもがどうでも良くなって毎日続けようと思っていたことが出来なくなる。平安な気持ちが四日続けば良い方だった。
自分に自信を持つことも難しかった。母はよく他人の言動を批判的に決めつけてそれを私に話して聞かせた。母の中では自分が絶対正義だった。「女性的」「お父さんに似てる」というのは母基準で好ましくないことだったし、誰かに気に食わない言動をされたときは相手が悪いと決めつけては私に話した。私は愚かだった。真剣に聴いた挙句、その内容を半ば信じていた。人の中傷は心をすり減らす。母が人の悪口を話す度、私の自尊心は傷ついてゆく。
そうすると、正しい基準というのが何なのか段々分からなくなっていく。私の数少ない自分の好きなところとして、人の魅力に気づきやすい、というのがある。“自分は人間ではない”と思っていた時代の副産物なのか、私には「自分より相手の方が上」という考えが根付いていた。その人の短所なんて私の至らなさに比べたら全く取るに足りないもので、それよりもこういうところが凄いな、素敵だな、敵わないなと自然と思うことができる。でも母はそういう人の悪口も平気で言っていて、私には見る目がないのかも知れないと混乱してしまう。
それらの会話を「**は長女で頼りになるから何でも話せるなぁ」というおべっかで全部包んで、実際はごみ箱のように私に毒毒しいものを投げてよこすのだった。多分、無意識。酷いことをしているなんて、母は思ってはいない。


割愛するが、そういう日々の中で私はすっかり参ってしまった。もともと自尊心もなく、生きている意味がよく分からないでここまで来た。自分の生存を喜ぶ人もいないように思われた。家族は──あれは、私が家族だから関わろうとしてくれるだけだしな。そのままの、ただのいち個人としての私なら、誰の興味にも引っ掛かりはしない人物だろう。

私は余裕のあるときに人に助けを求めることが出来ない。苦手なのではなく、出来ない。まだ余裕がある段階で助けを求めるなんて甘えだと思ってしまう。相手の予定を考えてしまう。やり方がよく分からない。なんと言えばいいのかも分からない。だから「助けて」と言うことは滅多にないけれど、その代わりそれを言う頃にはかなり切羽詰まった状況になっている。学生時代にいじめられていた時と同じだ。そして、それを言える相手は母しかいない。だって私は誰かに助けを求められるような価値のある人間じゃないから。一方母は少なくとも私を誕生させたのだから、責任は少なからずある。
普段業務連絡でしか使わないけれど、思い切って母に電話をかけた。母はすぐ出てくれた。
「**か。どうした? 」
母の声を聞いたら堪らなくなった。
「お母さん、あのね。私、もう駄目だ……」
それ以上は何も言えなくなってしまった。母はしばらく次の言葉を待っていたようだが、やがて盛大な溜息をついた。
「お前は、またそんなこと言ってんの? 」
続けて矢継ぎ早に色々なことを言っている携帯電話を耳から離して、そっとベッドに置いて枕で埋めた。しばらくして取り出したら、電話は切れていた。
私はどうして黙って静かに死ねないのかな。馬鹿なのかな。甘えた考えだからかな。何で死ねないかって、怖いからだよね。
幼い自分が大嫌い。突き詰めて考えれば誰のせいでもない、私が悪いからこんな風になっているんだよ。

後日、夜に母が部屋に来て言い争いになった。「どうしてお母さんは人に対してそんな酷い態度を取れるの、どうして相手の気持ちを知ろうとしないの」といういつものお決まりの論争だ。私は母を酷く責め立てた。母も追い詰められていたのだろう、初めて私にこんなことを言った。
「だってお母さん、人の気持ちとかよく分かんないんだもん! 」
母は続けて言うのだった。
「**やお父さんみたいにさ、自然に人の気持ちを察するとか出来ないんだもん。分かんないから“人間観察”とか言って頑張ってよく見てみるけど、お母さんそんな普段から自然に出来るわけじゃないんだよ」
普段決して自分の弱みを語らない母である。それがそんな事を言うものだから、驚いてしまった。
それから、どういう風に話が転がったんだっけ。どうなったんだっけ。そもそも同じ日だったのかも定かではない。でもとにかく、私に対して攻撃的な事を母が延々と言っていたような気がする。
聞きながら、思っていた。どうしてこの人はいつも強烈で破壊的な言葉を使うのだろう。どうしてそういう言葉を使うのが平気なんだろう。私には何を言っても構わないと思っているのだろうか。
あまり覚えていないけれど、会話の終わりはこうだった。
「お母さんは、私のことを一体何だと思っているの」
私は床に直接座って泣いていて、母は椅子に座っていた。私を見下ろした母の顔は無表情で、呆れているように見えた。
「娘だよ」
突き放したようなその言い方を耳にしたとき、不思議なことが起こった。
部屋の明かりをパチンと消したみたいに、何かが途絶えた感覚がした。
ふっと目の前が暗くなったような、冷静になって我に返ったような、感情を失ったような。
立ち上がって、母を置き去りにしてアパートの部屋から外へ出た。道にも畑にも雪が積もって固まるような真冬だった。コートを着るのを忘れたけれど、どうでもいいような気がした。
どうでも良くて、人がひどい泣き顔の私をどう見るかも構わなかった。人の家の畑の真ん中を足跡をつけて横切った。その畑のきわの掘建て小屋で、どうすればいいのか途方にくれた私は、そのまましゃがみ込んだ。
──明日から私はどうするのかな。
明日、朝が来たら私はいつも通り仕事へ行くんですか。社会人としてきちんと振る舞わなければならないのですか。穏やかににこにこして、お腹が空いたらご飯をたべて、人の話に相槌を打って談笑するのですか。本当に?
なんのために。
“地球から見たら個人の悩みなんてちっぽけだ”と母はいつも言った。けれど、生きて行くにはそのちっぽけなことすら変えられずにそのちっぽけな事をこなして耐えて生きてゆかねばならないのです。変えられないのです。死ぬことすら簡単ではないのです。


夜更けに部屋に戻ったら母はいなかった。
以降現在に至るまで、私は母とまともに会ってもいないし、話してもいない。

母のこと⑥

電気がつけっぱなしの誰もいない部屋へ戻ったらすっかり脱力してしまった。

身体は芯まで冷えていて、頭は混乱していてとても眠れそうになくて、無性に誰かに慰めて貰いたくなった。
時間帯も考慮せず、私は初めて用事もないのに声を聞くためだけに他人に電話をかけた。ひろこさんという、同い年の友達のお母さんだ。互いが互いを親子ぐるみで見知っている。ひろこさんは起きていて、電話に出てくれた。
「遅くにごめんなさい。今日お見かけした後ひろこさんの車が(わだち)にはまっちゃったって聞いたから、大丈夫だったかなって思って」
素直に“こんなことがあって辛くなって電話しました”とは言えなかった。ひろこさんを純粋に心配して電話した風を装った。
「それでわざわざ電話してくれたの? ありがとねえ」
「いえ……」
「最初ちょっと焦ったんだけどね、近くのタイヤ屋さんのおじさんが気付いてくれてね」
「うん」
「それでね、『ここはまる人多いんだわ』って手伝ってくれてね、それからね……」
「うん」
ひろこさんの声を聞いたらなんだかほっとして、うん、うん、と相槌を打っているうち涙がぼろぼろ出て止まらなくなった。穏やかな声を聴いているだけで癒された。少し気持ちが落ち着いて、なんとか眠れるような気がした。
ひろこさんは私が泣いていることに気付いたのだろうか。一通り話してから、「それで、**ちゃんは何かあったの? 」と訊いてくれたので驚いた。母と話してもそういう流れになったことはない。“なんか元気ないね、どうしたの? 話聞くよ”という気遣い方をこんなにスムーズにされるのが新鮮で嬉しくて、思わず声が詰まった。
「あの……」
あの、と言ったきりかなり長い間黙り込んでしまった私を急かさずに、ひろこさんは辛抱強く付き合ってくれた。
私の途切れ途切れの要領を得ない話を聞き終えたとき、ひろこさんは
「よく話してくれたねぇ」
と言ってくれた。それから「よく生きててくれたねぇ」とも。
翌日ひろこさん親子に会って、ひろこさんの娘ののぶちゃんが黙って私を抱きしめてくれた。
母を部屋に入れることも、実家に帰ることもそれきりやめた。
一度母が人の大勢いるところで「**、この間はごめんね! 」と大声で言ってきたので「それは分かったから後でね」と返したけれど、その後母から「あの時のことについて話したい」と言ってくることはなかった。



自分で自分のことを「伊勢谷友介に似ている」と言ってしまえる自称“ダンディ”の田中さんという人がいて、ダンディ田中さんにも話を聞いてもらった。というか、あちらの方から近づいて来てくれた。彼は実際ダンディというよりかは頭脳派のインテリ系で、理解力や分析力に長けている。作った原稿を彼にチェックして貰うのが私の常だった。
彼は話をひと通り聞いて、「でもそんな事は私が円熟していないからいけないんだろうな、私が駄目だからだな、という結論に結局落ち着くんです」と言い添える私に彼は言った。
「うーん、どっちかっていうとお母さんの方に問題があるんじゃない? そういうこともあると思うよ」
「……本当ですか? 」
他人からそんな事を言われるのは初めてだった。いくら苦しくても、親は敬うべきで、耐えられない自分が幼いのだと思っていた。田中さんは続けて言う。
「お母さんとも話したんだけどさ。**ちゃんは“自分のここが悪いのかも知れない”っていう話し方をするでしょ。でもお母さんは“あのときはこうだったから”って言い訳をしたり“**のここがおかしいんじゃないか”っていう言い方をするんだよね」
「はあ……」
「いいんじゃない、しばらく距離を置いても。悪いことでもないと思うし、別に」
それから「ギリギリになる前に人に助けを求めること」と念押しされた。

私に出来ることはなんだろう。
とりあえずは、母と距離を置く。でも決して憎まない。憎むと自分が消耗するし、精神衛生上良くない。憎まないためには和解すること、さもなくば許すことだ。
和解する為に母と面と向かって話し合う精神力はもう私にはないように思われた。というか、何年も母と分かり合おうと試みた結果が今の状況だった。人を変えることなんか出来ないし、変えようとするなんて思い上がった考えだ。だったら自分を変えていく。自分の心の持ちようを変えていく。
「許す」ってなんだろうと思って調べてみた。
許す事とは忘れること、手放すということ。許したからといって、その問題が大したことはないとか、傷付きが癒えるとかそういう事ではない。ただ、水に流す。問題を蒸し返さない。
手紙を書こうと思った。
私が母と距離を置く理由、それから今までの感謝と謝罪、私が母のことをどう思っているのかを。私はもう大人だった。だから大人同士として、きちんと意思を示して、きちんとした手紙を書こう、そう思った。

『お母さんへ

お母さんに感謝したいことが沢山あります。
一生懸命育ててくれたこと。三十六色の色鉛筆をプレゼントしてくれたこと。まだ妹も生まれていない小さい頃、親子三人で写生大会をしたこと。そういう温かい思い出は私の中にずっと残っています。それから私に大事なことを色々教えてくれました。本当に感謝でした。

私はお母さんにとって難しい、大変な子だったのかも知れません。きっとお母さんをイライラさせたことも多かったと思います。不満も沢山言って困らせました。それは私の駄目なところです。
ごめんなさい。

私は正しく生きたいです。生きるならきちんとしたいと思っています。
拗ねているわけではないのですが、私には極力接触しないで欲しいです。私の今までの傷つきが大きすぎたためです。そのことだけは分かって欲しいと思います。

ただ、お母さんを責めるわけではないですが、ずっとお母さんに自分を見て欲しかった、認めて欲しかったと思ってしまうのはそんなにいけないことだったのでしょうか。今はそんなことばかり考えてしまいます。

まだまだ寒いのでお身体に気をつけてお過ごし下さい。

**より』

もっと上手な書き方があったのかも知れなかったけれど、いざ書いてみたらこれだけでもう私の精一杯だった。たったこれだけを書く作業に、驚くほどのエネルギーを費やした。母のことに関わるたびに、私はすっかりくたくただ。
母に出す前にひろこさんにチェックして貰った。嫌味になっていないですか。敬意を払えていますか。後半の言葉は含めても良かったですか。
「いいんじゃない」とひろこさんは言った。
「ちゃんと分かりやすく書けてるし、後半のここ、ちゃんと自分の本音を言うの大事だよね。これ大事だと思う」

手紙を出した。出してとりあえず責任は果たせたとは思ったけれど、途端に気持ちが軽やかになった訳でもなかったし、悲しみや苦しみや憎しみを手放せたかと言えばそうでもなかった。理不尽さはずっと感じてしまっていたし、いつ突発的に母が訪ねて来るかと思うと恐ろしかった。自分を責めなくて良いと言われてもうまく出来ず、ギリギリになる前に人に頼ることについては今も出来ていない。
当時は特に混乱していて「とにかく許さなきゃ、許さなきゃ」という思いでいっぱいだったのだろうと思う。

しばらく経ってから、母から手紙の返信が来た。

母のこと⑦

『**へ

**、手紙ありがとう。この前はごめんね! 
お母さんは、**の事を大切に思っているよ!!

お母さんも病気のことについて色々調べてみました。うつは脳の病気なんだよ。だからそうなってしまうんだよ。**は悪くないよ。

人は誰もが不完全です。欠点に注目するのではなくて、お互いを許すことが必要になってきます。意地を張らないで人を許すこと、これがとても大切だと思います。
お母さんは**のことが大好きだよ!

お母さんより』

母からの手紙は全部捨ててしまったので正確ではないし、もっと色々書いてあったと思うけれど、文面と大体の内容はこんな感じだったと思う。
母の特徴的な四角い大きな丸文字の鉛筆書き。“大切に思っているよ”“脳の病気”など強調したいと思われる箇所には赤鉛筆で波線アンダーラインが引いてある。封筒は無し。紙はいつも使っているレポート用紙で、しかも真っ直ぐ切れていなかった。私は一番素敵なレターセットを選んで書いたんだけどな。

正直、とてつもなく色々ずれていると感じた。
母は自分の勝手な判断で私を鬱病にした事で落ち着いたようだった。確かに過去に調子が悪くなったとき、心療内科に診察にかかった事はある。結局鬱の診断は下らず、そのときの先生の話を母に報告はした。けれど彼女の思い込みの激しさで、彼女の中では私は鬱病ということになっていたらしい。母としては自省するより、噛み合わなさの原因を病気と私の未熟さのせいにした方が都合がよかったのだろうと思う。そこであっと気付く。ある時期、知り合いの方から突然手をぎゅっと握られて「**ちゃん……。頑張ってね! 」みたいなことを言われて戸惑った経験が数回あった。あれは多分、母が勝手に勝手なことを言いふらしたんだな。そういう事例は一度や二度でない。病気自体に偏見はないけれど、やはり事実と異なることを広められるのは嫌なものだ。

離れて段々、母のおかしさが見えてくる。
たとえば対人トラブルの多さ。それを対人トラブルだと気付いておらず「おかしくて可哀想な人がいて、なぜかお母さんは一方的に嫌われている」と私に話して聞かせる。
謝ることの出来ない(かたく)なさ。「お母さんすぐ謝れる人だからさ! 」と彼女は自分を評する。確かにぶつかったとか食器を割ったとかならすぐに謝れる人だ。でも、やはりここでも人とのトラブルに弱い。自分が折れるということを知らず「事実はこうで、経過はこうだ。だからこう。仕方のないこと」と変な理屈を持ってきて結局謝らない。
いつも人を上から目線で小馬鹿にするところ。自分が善で相手が悪と思ってしまえる尊大さ。
そして母の具体的な欠点を直接指摘すると開き直ってしまう。「そうだねぇ、完璧な人間は一人もいないからねぇ! 」といった具合に。即座にそんな反応をするものだから、上手いなぁと感心してしまうほどである。
母はいつも謎に自信満々なので、私などはすぐに母の言動をそのまますっかり信じきってしまう。子供のうちは信じていられた。
でも今は考えるほど、これまでの不可解なさまざまが繋がってしまう。
小さい頃に見聞きした言動を当時は分からなくてもずっと憶えていて、大人になったときふっとその意味を悟ってしまう、と書いたのは誰の言葉であったか。
母はあんな性格だけれど愛情深い人だし、私の言いたいことを理解してくれると信じていた。でも実際は一筋縄ではいかなかった。こんなに思考が拗れている人だなんて思っていなかった。

母は相変わらず私に執着していた。
距離を置きたいという私の希望も、母には響いていなかった。何事もなかったように話しかけてきたり、私のアパートの玄関前に野菜や食べ物をどっさり置いて行ったりする。相手の都合を考慮せず自分のやりたいようにやる。きっと分かって貰えると一瞬でも期待してしまった自分にうんざりした。こういうことをされると恐怖と怒りでいっぱいになる。
やめて欲しい。本当にやめて欲しい。こういうの、ひどく消耗するから。
これは駄目だと思ってもう少し詳しく長い手紙を再び書いた。お願いだから勝手な“プレゼント”はやめて欲しい。それよりも接触しないで欲しい。あの日私は“母親”を失ったのだと思っている。私はあなたのことを諦めて、母は死んだも同然ということにしている。一方あなたも私を失った。私という娘はもういない。見えて動いて喋りはしても意志の疎通が出来ないテレビの中の人とでも思ってください。
もしどうしてもというのなら、とりあえず向こう五年は一切の接触をして来ないでください。
書いて、その内容を田中さんに報告したら彼が動いてくれたのか、接触は三分の一くらいには減少した。
手紙に毒々しい感情を含めないようにするのに苦労した。いくら責めたい事があったとしても失礼なことは書かない。母の中傷を周りに広めない。最低限の敬意は払う。でも、私の悲しみや傷つきは怒りと複雑に絡み合っていた。許すとか許さないとかの前に、ただただはちきれそうな感情をなんとか抑えている状態なのだった。


私の中の小さい女の子が暴れだしたのはその頃だった。
あの子は突然やって来る。ふとした事がきっかけで、子どもの頃に受けた痛みがフラッシュバックしてしまう。
たとえばほんの小さなこと──小さい子がお母さんと仲良く手を繋いでいるだとか、逆に蔑ろにされているだとか──を目にしたとき。感情を制御する力が弱まる夜中の時間帯。生理前のPMSの時期。夜中寝ているときに泣いて飛び起きることもあった。
外出先でも仕事中でも気が緩むと泣けてきそうになって困った。
家にいて気が緩むともう制御がきかなかった。衝動に身を任せて泣くより他なかった。
私本人が泣いているというよりか、閉じ込められた子どもの私が内側から騒いで喚いて、私はその子に乗っ取られて泣いているという風だった。コントロールがまるで利かないのだ。
私の中の、化け猫みたいに肥大して歪んだ、執念深い子どもの私。
彼女は大人の私の足に縋り付いて歩行を妨げる。そして泣きながら搾り出すように言っている。

お母さん、どうして私のこと好きじゃないの!
お母さん、助けて! お母さん、助けて!
置いてかないで! 私のこと置いてかないで!

この期間がとても長かった。子どもの頃の私の我慢は、その時きりのものとしては済まされなかった。無意識に自分の能力以上のものを抱え込んでいたのだろう。あのときは“喉元過ぎれば熱さを忘れる”だと思っていた。もっと頑張れるはず、私はもっと苦しい目に遭わなきゃ良い人になれないという自罰的なところがあった。
でも、何年も経って大人になった今、複雑性PTSDのような症状となって子どもの**ちゃんの苦しさが跳ね返ってきた。
母と離れて、目の前の母への対応をしなくていいようになったから本来処理すべき私の中の悲しさがやっと溶け出して出てきたのだろうと思う。ある意味解毒なのだった。解毒なのだった、なんて今だからこそ呑気に言えることなのだけれど。


やがて父の実家に必要が生じて、両親はそちらで同居することとなった。今までより母と距離が離れることに、私は心底ほっとしていた。

母のこと⑧

アブサロムのようになろうと思った。

聖書に出てくる、古代イスラエルの王ダビデの子、美しい王子であるアブサロム。彼はその立場や能力、美しさゆえに思い上がって勝手な行動をした結果、父王の怒りを買って王宮から離れた土地に逃亡することを余儀なくされる。その間アブサロムの心に生じた変化は何か。物理的に離れて生活しているうち、親に対して抱く自然な愛情が彼の中ですっかり薄れてしまったのである。

彼のように反逆的な人物になりたいとは思わなかったけれど、母のことを想ったり期待したりするのにはすっかり疲れてしまった。私は母に対する情をすっかり捨てて忘れ去ってしまいたかった。
手紙にも書いた通り、物理的に死ななかったというだけで私はあのとき母に殺されたようなものだった。私の中でも母は死んでしまった。自分の母親は既に死んだと思うよりなかった。そうでも思わないと母親の愛を獲得したいという強すぎる気持ちを手放すことが出来なかった。

子どもは大人が思うよりずっと命がけで生きている。心を全開にして、何もかもあけっぴろげて。だから裏切られたと感じたときに、無防備に晒したその柔らかい部分ごと、魂ごと削り取られてしまう。瀕死の子どもの私は、いびつな形のまま成長出来ずに大人の私の中に取り残されてしまったのだろう。

非常に残念ながら、私のおかあさんは死にました。

死んでしまったのだから今さら何にも届かない。小さい頃からの願いも決して叶わない。頑張れば得られるはずと思っていたものは、本当はいくら頑張っても得られるものではなかったんだよ。期待してはいけないものだったんだよ。実際本当に私の歳で物理的にお母さんが死んでしまった人だって沢山いる。そういう人だって強く生きてるじゃないか。私ばっかり甘えてはいられない。
他人から見たら、単に母と娘のよくある(いさか)いに見えたかもしれない。でも私が闘っている相手は母本人ではなかった。私は、生存権を獲得するために闘っていた。

友達が本当によく助けてくれた。
数はそんなに多い方ではないけれど、大人になって世界が広がってから私は良い友達に恵まれた。にぎやかな場所に行ってわいわい騒ぐというようなことはあまりしないのだけれど、一緒にご飯を食べたりお互いじっくり話し合ったり何かを創作したり、そういう時間を持てると満たされる感覚がする。
まどかちゃんという、人間的に尊敬している思慮深い友達がいる。自分の美しさを知っている上であそこまで浮ついたり思い上がったりしない人を私は他に知らない。
彼女は私が弱っているといち早く気が付いて、そういう時にこそいつにも増してそばにいてくれた。「だって苦しい時にこそ一緒にいるのが友達だよ」と彼女は言う。そうしてまずは私に好きなだけ喋らせる。泣いたりしても咎めない。それから、押し付けがましくない言い方で私を強めてくれるのだった。
私が自分の中のインナーチャイルド──私の中の子どもの私──がしがみついて、泣かせて来て参っていると話した時もまどかちゃんはよく聞いてくれた。
「……もう終わった事なのにね、昔のことをいつまでも思い出させるの。いつまでもそこにこだわる自分もやだなと思うし、でも小さい頃苦しかった私がずっと消えないの。纏わり付いて来る感じで、もうどっか行ってくんないかなって思うの」
まどかちゃんは穏やかに相槌をうって、それから私に問うた。
「でも、じゃあさ、**ちゃんは現実にわんわん泣いてる小さい女の子が目の前にいたとして、その子に対して“うるさいからどっか行ってくんないかな”って思う? 」
「思わない……」
実際の母は、その状態の小さい私にそう言ったのだけれど。
「だよね。逆になんとかしてあげたいって思うでしょう。安心させて慰めてあげたいって。**ちゃんの中のその子にも、そうしてあげたらいいんじゃない」
私は聞きながらただただ情けなく泣いていた。
逆に、別の友達のこまちゃんは私のプライベートな事情は追求せず、ただただ私を自分の部屋に呼んで猫を触らせてくれたり、一緒に外にご飯を食べに行ってくれたり、面白い話をして私を笑わせてくれた。彼女といるとリラックスして飾らないで過ごす事ができた。
北島のおじいさんは私の日記も小説も余すことなく読んでくれて、過剰な程に褒めてくれた。実は、見知っている人に自分の文章を読んでもらうというのはとても嬉しい。私は喋ることがいまいち上手くないから自分のことを認識の誤差が少なく知ってもらえるような気がして。そして私の文章は、私の魂のようなものだから。それに真摯に向き合って貰えるというのはかなり癒されるのだ。


 

ひろこさんが、行きつけの小児科の先生が信頼出来て、メンタル的な相談も受け付けているから話だけでも聞いてもらったらどう、と提案してくれた。週に一回は大きな病院で心療内科も担当してる人だからさ、と。面倒臭いしお金がかかったらやだな、と思ったけれど、一回だけならと思ってひろこさんに付き添ってもらって行ってみることにした。
ゆるい雰囲気だった。
個人の小さな医院だし本来は小児科だしで、内装があまりにかわいい。ぬいぐるみや絵本がずらりと並んでいる。

先生本人はアロハシャツを着ていた。水色の。

母のこと⑨

何かの助けになるかと思って、母とやり取りした手紙と直近の日記を持ち込んだ。
いつもそうなのだけれど、相談事というと私は何をどう話したら良いのかが分からなくなる。それが診察も兼ねているとなると尚更で、一体何から話したものかと少し戸惑った。


結局最初は「ホルモンバランスの乱れか生理前のPMSがきつくて、毎月のことなので感情の浮き沈みの激しさについていけない、精神的な安定を保ちたい」というようなことを訴えた。普段は抑えられていることも、その時期には感情の波立ちが抑えきれないこと。仕事中にもそうなってしまって困っていること。
「それは具体的にどういう風になるの? 」
「子どもの頃のこととかを、ばーっと思い出してしまって止まらなくなって泣いてしまったりとか。良くないことだと分かってるんですけど、今になって母への怒りが抑えられなくなったり、死にたくてたまらなくなったりだとか」
メンタル的な苦痛を話すとなると、どうしても子ども時代のことに飛んでしまう。その流れでやはり幼少期のことを尋ねられる。
「それは、たとえばどんな? 」
「何から話せば良いか、ちょっと漠然としてるんですけど……。親に対して、ずっと申し訳ないと思っていて。この家の長女が私でごめんなさいって」
「何歳頃から? 」
「多分最初から、物心ついた頃からだと思うんですけど」
「そうなの。うーん、そう」
うーん、あのね、と先生はやたら唸ってからこう続けた。
「子どもの頃からの違和感って、先天的なものである可能性が高いのね」
「先天的? 」
「うん。子どもってさ、本来もっとわがままだよ。申し訳ないどころか、自分は居て当たり前とか思ってるよ」
確かに、弟や妹を見ているとそう感じることはあった。自分が何をやっても嫌われたり捨てられたりしないという無根拠な自信を謎に持っているように見えた。自分の好きなこと、やりたいことを恐れずに主張していたっけな。
自分がどこかしらおかしいという自覚は早くからあった。だから高校生の頃から「私は何かの病気なんじゃないか、障がいがあるんじゃないか」と思って色々な本を読んだりして調べてはいた。
“よりによってなぜ私だけがこんな目に”という言い草を時折耳にすることがあるけれど、私の思考は逆なのだった。例えば、「〇人に一人の確率で発症する病気」だとか「飛行機が墜落する確率は〇パーセント」とかいう情報を目にすると、私はその数パーセントに該当する存在なのだと自然に考えた。私は「クリアランスセール! 全品値引き! 」と銘打っているのにもかかわらず手に取った商品をレジに持って行くと「こちらはセール対象外です」と言われてしまう商品ような存在だと。そんなわけで自然と自分の異常性を疑っていた。
AC(アダルトチルドレン)、場面緘黙症、高機能自閉症やアスペルガー症候群、醜形恐怖症などがその候補だった。その中で先生が指摘する“先天的”という括りで絞ると、高機能自閉症とかアスペルガー症候群なども含まれる『自閉症スペクトラム』が当てはまる。
私も一時期自分が自閉症スペクトラムなのではないかとかなり強く疑っていた。コミュニケーションの取り方がさっぱり分からなかったこと。誰かの行動を見てそれをその通り真似ようとすること。すぐ自分の世界に没入してしまうところ。そういった子どもの頃の違和感を説明しつつ、気になっていることにも触れた。
「でも、調べるほどどうしても“人の気持ちが読めない、分からない”っていう点が違うなって思って。私は逆に人の気持ちを知るのが好きで、考えすぎるくらいだと思っていて。セルフ診断みたいなのをやっても、子ども時代の状態と大人になった今とでは診断結果が違っていて。毎回結構微妙なラインになるんです」
「うーん。僕も専門家じゃないから詳しくは分からないんだけどね……。ちなみに、僕自身はアスペルガーなのね。**さんが急に話せるようになったっていう現象、僕は中一の時に来たの。それが嬉しくて逆にお喋りになっちゃったんだけどね。なんか僕と通じるものがあるなぁと思って」
「そうなんですか」
そういう経験を持つ人が自分以外にもいるという事を聞くのは初めてで、新鮮だった。
「聞いてるとACは二次障害っていうか、大元の原因が自閉症スペクトラムでそうなっちゃったていう感じがするなぁ」
「はあ」
「あとね、自閉症スペクトラムは遺伝の要素が強いっていうのは知ってる? 」
「えっ? 」
何度も調べたはずなのに、その情報は初耳だった。
「お母さんの手紙見せてくれたでしょ。読ませてもらって思ったんだけど、あの書き方、お母さんの方も感覚が鈍いのかも知れない」
ずっと自分を責めていた。私がおかしいのは私ただ一人のせいだと思っていた。難しい子である自分が、申し訳なかった。
「ちゃんとしたところで診断しないと何とも言えないけどね。**さんが日記に書いていた“ちょっとだけ違うからこそ苦しい”っていうの分かるよ。参考になるかも知れないから、この本読んでみるといいよ」
こうして私は診察を終えた。「薬で症状を抑えたいというよりかは、自分が何者なのか知りたいんです」と伝えたら、薬は処方されず、診察代のみの請求額は数百円だった。
「自閉症スペクトラムは遺伝の要素が強い」という情報は私の中で貴重だった。気遣って診察を勧め、付き添ってくれたひろこさんに感謝した。
そしてふと思う。母には、心から尊敬や信頼が出来る友達というのはいたのだろうか。あの人は、人生の中で全幅の信頼を置ける、心温まるような友情関係を体験したことがあるのだろうかと。
常に他人を見下して笑うようなことをしていたから、自業自得だとは思う。でも、切ない人だなと思った。


私は診察内容を早速ノートに書き留めた。
それから、自閉症スペクトラムについてもう少し掘り下げて調べてみることにした。
私の目は節穴だった。今まで調べていたつもりでも、見落としていた情報が幾つもあった。勿論全ての情報を鵜呑みにするのは危険だ。特にネットの個人ブログの記事のようなものはどうしても信憑性が薄くなる。専門家の意見だとしても、学術的な論評だとしても100パーセント信じられる情報というのは基本的にない。最新の情報なのか確かめねばならないし、信頼の指数は書籍→雑誌→新聞の順で低くなると聞いたことがある。ネット情報であればその指数はさらに低くなるのだろう。ただ、それらの情報を出来るだけかき集めて並べて比較してみると、偏りのない結論を導きやすくなる。例えばひとつの意見に対して正反対のことを述べているような記述がどこかにあった場合、それに関する他の中間的な見解も集めてみたりする。自分の導き出したい意見に偏りたい気持ちを抑えて、そのようにひとつの事象に対して複数の見解を集め並べてまさにスペクトラムの環にしてみると、「これはここに焦点を当てた場合の意見だったのか」と見えてくる瞬間がある。
私が特に無知だったなと感じたのは、「アスペルガー症候群には幾つかの型がある」と知った時だった。ひとくちにアスペルガーといっても、その出方は人それぞれで、中でもざっくり四つに分けられる型があるということだった。
積極奇異型、受動型、孤立型、大仰型。
それぞれの型の特徴は、やはり本やサイトによって微妙に違ってはいたけれど、これも集めて総合してみた。
端的に纏めると、積極奇異型は相手との距離感をぐいぐい詰めて一方的なものを押し付ける傾向。受動型はとにかく受け身で自分から動けないきらいがある。孤立型はひとりの殻に閉じこもって黙々と作業しがち。大仰型は堅苦しいほどの自分ルールがあり、それを乱されるのを酷く嫌がるタイプ、と分けられるようだった。
母にも、私にも大いに当てはまるような気がした。
受動型の特徴に関する記述で、はっとするようなことが書いてあった。

“・一見軽度と思われがち。いつもにこにこしていたりする。
・アスペルガーといえば一般に空気が読めない、マイワールドな言動が多いという印象だが、受動型の人は逆に空気を読みすぎている場合が多く、周りを必要以上に気にしてしまい、それがコミュニケーションの弊害となる。周囲を見て何とか合わせようとしていく人が多い。
・アスペルガーであることをなかなか分かってもらえない。普通(定形発達)の人と同じことを求められてしまうがそれが出来ない。”

私が子どもの頃苦しかったのは、まさにこの特性ゆえではなかったか。色々なことを考え過ぎて動けなくなり、周囲に馬鹿にされたり母に「出来るくせに手を抜いてズルをしている」と詰られたのではなかったか。
その母が特に当てはまるのは積極奇異型ではないかと思えるのだった。

“・不相応に大きな声で話したりする。話す距離が近すぎる。
・知っている知識を一方的に話し始める。
・根底にあるのは想像力の欠如。
・相手の立場に立って考えたり、合わせるということが難しい。”



借りた本を返すついでに、もう一度診察を受けに小児科へ行った。
借りた本の共感した点/出来なかった点と私なりに調査をして立てた予測を先生に伝えた。
「強さの程度は分からないですけど、私と母はそれぞれ型の違うアスペルガーの傾向があるように思えました。色々混じっているなと思ったんですけど、母は積極奇異型、私は受動型の傾向が強いのかなって」
先生は熱心に私のまとめたノートを見てくれた。
「そうだねえ。専門家じゃないけど、そんな感じするね。自閉症スペクトラムは発達障害だけど、言ってしまえば個性で病気じゃないからね。だから治るとか治すってものじゃ無いけど、経験によって定形発達の人たちに寄せていくことも出来るものだから。**さんは今ほとんど克服できているんじゃない? その点で言うと、話を聞く限りお母さんの方がアスペルガーの傾向が濃そうだね」
ざっくりと言ってしまえば私は「社会性の障害」、母は「想像力の障害」。私は対人関係の形成が難しい傾向にあり、母は柔軟性に乏しく変化を嫌う傾向にある。
人に気持ちを伝達するのに難しさを感じる私と、人の気持ちを感じ取るのに難しさを感じる母。“だって人の気持ちとか分かんないんだもん”と吐き捨てた母。小さい頃は、母は自分の思う通りに出来た。私の話を聞きもせず、一方的に自分の話を私に浴びせていられた。私はそれを受け止めるのに精一杯で、自分の気持ちを言葉で上手に伝えられなかった。
「最悪の組み合わせだね! 」
と先生は笑った。
「ほんとそうですね! 」
私も思わず笑う。本当に最悪。潔いくらいに最悪だな。
「この組み合わせはさ、とにかく子ども側が苦しいの。これが逆の組み合わせだったらまだ良かったんだよね。お母さん考えるから」
どうしてあんなに思い込みが激しいのか。どうして大人のくせにあんな幼い文面の手紙しか書けないのか。
傷つけられた、その事実は間違いないのだけれど、母も別に意地悪でそうしている訳ではなかったのだな。あれはおそらく母にとって不可な分野だったのだ。

友人のこまちゃんとの会話を思い出した。確かあの時私が「私だってそんなに絵が上手いわけでもないから、別に楽々描けてる訳じゃないんだよね。でも時々“あなたならチョイっと描けちゃうんでしょ”みたいに思われることがあってもやもやする」とこぼしていたんだっけ。そうしたら彼女にこう言われたのだ。
「確かにそうなのかも知れないけど、本当に描けない人からしたらそういうレベルのことを言ってるわけじゃないと思うんだよね。絵を描くことそのものが無理っていうか、“不可”っていうか」
「不可……! 」
「字とかなら、頑張れば綺麗に書けると思う。絵もお手本があれば真似出来ると思う。でも、無から何かを創造することは不可みたいなね。そういう能力が無ですみたいなね」

私は無意識にピンポイントで母にとって不可な分野を執拗に求めて追い詰めた。母も子どもの頃から私の不可な部分を責め立てて攻撃した。そうやって知らず知らずに互いが互いを追い詰めていたんだな。
これが母。そしてこれが私だ。ぼろぼろのすかすかの欠点だらけで、傷付けて苛つかせて、それでもそれが互いの本当の姿。異常な親子関係の痛ましさだ。


私は確かに異常です。けれどあなたは更に上をいく異常で、だけど本当は、全人類が異常です。

母のこと⑩

私のお母さん。あなたはもうすっかりお婆さんでしょうか。早く弱ってくれたらいいなと、非情なことを思ってしまいます。

時折ひどく意地悪で時折ひどく優しかった私のお母さん。
あなたを愛しきれなくて、あなたを憎みきれないの。
許して、期待して、縋ってを繰り返していた。そして手酷い傷を負った。
あなたが私を憎むか愛すか、どちらかだったらすっぱり離れられたのにね。ひどいよね。

ひどいよね。



単純なもので、強情なまでの母の変化のなさが「歩み寄る気持ちの不足」ではなく「能力的に調整不可な事案」である可能性が高いと分かったら、母に対する憎しみや怒りの分量をぐんと減らすことが出来た。
母は人の内面や感情を読み取るのが苦手な人だった。情報は外側から読み取るしかなかった。だからあんなに見た目に執着したり、その人のたった一言だけで判断を下したりしたのかと。カッとなりやすいのもそのせいだと思う。おそらく理由や可能性を何パターンか考えるということが出来ないのだ。いろいろが紐解けてきた。
その段になって初めて、私が母を許そう許そうと思いながらも怒りを捨てきれなかった原因は、無意識に母を高く評価していたからだということが知れた。
言い方は悪いけれど、「なんだ、この程度の人間だったんだ」と相手の評価を下げてしまうと無理なくすっと怒りを捨てることができるのに気が付く。正しいやり方なのかは不明だが、ある意味自分が優位に立てる思考なのだった。
感情的にも身体的にも、傷がついたら痛いに決まっている。その痛みを軽視して、痛いと感じてはならないとか、早く正常な状態に戻らなきゃとか焦ったところで即座に傷が塞がるわけではない。傷付いた直後に「そんなことより早く許そう」と焦るのは無理のあることで、痛いときには素直に痛がる期間を設けてあげても良い。それは甘えなんかじゃない。今になってそう思う。
正式なアスペルガーの診断はしないことにした。
まず第一に、高額。そして高額な割に私の場合メリットが少ないように思われた。仕事に支障が出る程に特性の現れ方が顕著な人には必要な診断なのかも知れないが、私はその点ではまあまあ普通に仕事ができる程には順応出来るようになってきている。社会性も育ってきていると思う。そうすると、「ただ自分自身を納得させるため」という要素が大きな割合を占める。
自分なりに調べてみて、私はおそらくグレーゾーンにいるように思われた。定形発達にもなりきれず、かといってアスペルガーの特性もそれほど強烈な訳でもない。自分で気付いていた通り、たぶん“ちょっとだけ違う”という立ち位置。
もう、それでいいと思った。

「少なくとも五年間は接触しないで欲しい」と宣言していたその五年が経過していた。けれどその間、驚くほどに母はそれを破っていた。彼女の中では約束を破っているという感覚はなく、私はいつまでも機嫌を損ねて拗ねているというような認識でいるのだろう。
信じられないような言動やトラブルも色々あった。色々あったけれど、端折る。
とうとう北島のおじいさんが家族間に割って入ってくれて、どうしても連絡の必要が生じるときはお互い彼を通してする、ということになった。にも拘らず、母はしばらくして私に直接メールをしてきた。即ブロックしたけれど、母の気配を感じるだけで私の手足は震え、情緒は途端に安定を失う。
北島のおじいさんにそれを報告しただけで、私はぼろぼろ泣いてしまった。

けれどそれから母から受けた痛みは快方に向かっているようだった。徐々に幼少期のことを突然思い出すことが少なくなっていき、夢中になれるものに出会って心がそれで満ちるようになったらPMSの精神不調も随分と楽になった。私の中にいたはずの小さい女の子はそういえばもうずっと出て来ていない。そうなると、泣く回数がぐんと減る。
恥ずかしながら、丸一ヶ月いちども号泣せずに過ごすという経験を初めてした。二ヶ月、三ヶ月と記録は更新されていった。気持ちを安定させて、一つの目標を定めて取り組むことが劇的に容易になった。感情の安定は、人をこんなに生きやすくさせるんだな。
そうしてある時ふっと、私はもう母の顔をはっきりと思い出せないことに気が付いた。母への興味が失せていた。それに気がついた時、にわかに心が軽くなった。


何ヶ月かのちに北島のおじいさんが偶然母と直接顔を合わせる機会があった。そのとき、母は「**はメールしても何の反応もしてこない」とこぼしたそうだ。
「え? 約束が違くないですか? 」
私の報告を受けていた北島のおじいさんがそう返したら、母は
「それってまだ有効だったんですか! 」
と答えたそうだ。「だって解除しますなんて言ってないですよね」と言われて初めてはっとなったそうで、想像を上回る母の思考に呆気に取られてしまった。以前アスペルガーは遺伝性質が強いということを軽く伝えた際も、即座に返ってきた言葉が「じゃあおばあちゃんから遺伝したんだ! 可哀想に! 」だったのにも相当驚かされたけれど、家族外の人が対応してもそうなるのか。
「いやぁ、お母さん思った以上に難しいと思ったよ。“**のために頑張る!”って意気込むから一見騙されちゃうんだけど、全然分かってないですよ、全然」
普段周りを気遣って和やかにさせる、誰に対しても優しさに富んだ対応をする北島のおじいさんが私以上にきっぱりと「全然分かってない、全然駄目」などと険しい顔をして言うので驚いてしまった。
母はその性質上、目に見えるものを重視する傾向にある。だから北島のおじいさんのような権威ある人の言葉は効果的なようだった。
家族という閉じたコミュニティに歪みが生じている場合、第三者が介入するという方法はとても効果的だと感じた。問題のある家族関係は、個人経営の会社に独自の不可解なルールがのさばっているのと似ている。是正は、外側からでないとなかなかされない。
母は「**に手紙を書きたい」と言ったそうだ。北島のおじいさんはそれを制した。
「**さんに今必要なのはそれじゃない、それは**さんを余計苦しめる事だって伝えてね。今出来ることは、何もしないでいることだって言ったんですけどね。どうしても何かやりたいみたいで」
「すごい情熱ですね……」
「そうなの。そして何日後かに本当に手紙を書いてきてね。チェックして下さいってね……。いやぁ、でも全然駄目だったけど」
彼は続ける。
「ほとんど駄目な内容だった。**さんを責めてたり、同居してるお姑さんを責めてたり、アンダーラインが引いてあったり。それ以前に、なんていうか文章力がこう、子どもみたいというか……比べちゃいけないんだけど、失礼ながらどうしてこの人からこんな文豪が生まれたんだろうって不思議に思っちゃった」
私への手紙の添削を依頼する母とそれを受ける北島のおじいさん。この歳になって人に厳しく叱られる経験をする母。なんというか、二人とも私のために頑張ってくれて……という奇妙な気持ちになった。
「母からの手紙、私も最初に見たときは身内だから適当な書き方なのかな、私のことを馬鹿にしてるのかなって思ったんですけど、違うんですね。今思えばそういう書き方しか出来ない人なんですね」
私のためにそこまでして下さって本当にありがとうございます、と言ったら「もしきちんとした手紙が書けたとして、そうしたら読む気はある? 」と問われた。
「ごめんなさい。読まないと思います。言い方は悪いですけど、ある意味私は母をもう見限ってしまっているんです。今後話すつもりも会うつもりもないですし、私の中では決着が着いてしまって。でも、母は対人トラブルが多い人なので、今回のことは母にとって凄くいいことなんじゃないかと思います」
子どものことでそこまで出来るって偉いなと思うよ。でも、あなたはあなたで頑張って。私とは無関係で頑張って。そんな気持ちだった。
「お母さん、かわいいよね」
真っ直ぐでさ、と北島のおじいさんの奥さんのともこさんは私に言った。
「本当熱心で真っ直ぐですよね。母のへこたれなさ、凄いなと思いました」

大方の傷が癒えたとしても、人格形成の時期に受けた幼少期の傷つきや空虚さは、きっと生涯そのままなのだと思う。
色々な人の体験記などを読んだり経験を聞いたりしても、子供の頃抑圧された経験というのはすっかり染み付いてしまうものらしく、生活環境が改善されても、親から自由になってもそれは残ってふとした瞬間に影を落とすものらしい。苦しさがすっかり消滅することはない。それは仕方のないことで、受け入れていくしかない。でも、少なくとも受け入れ方が分かった。北島のおじいさんは“訳もわからずとりあえず大人になってしまったので大人として生きる**さん”ではなくて、“蔑ろにされて放っぽり出されたままの**ちゃん”を気遣ってくれたのだ、だから母に怒りを感じて叱ってくれたのだ。そう思った。

私の強すぎる母性はおそらく母譲りだ。
私はそれを厭うている。強すぎる母性は人を盲目的にならせるから。親子関係を歪め、圧迫して縛り付けるから。母と子の境目も分からないくらいになって自分の所有物のように扱ってしまうから。
言ってしまえばあれは本能で、決して利他的な清い気持ちから生じたものではない。自分に湧き上がるものに忠実であるだけだ。
心から「母を尊敬しています」と言える人間でありたかった。でも出来なかった。私は自分で思っているよりずっと優しくない。

私、やっぱり人としてお母さんのことを好きとは思えないな。

私は「私」として母から愛されなかったけれど、母も私から愛されなかったのだな。幼かった私は母を愛していたのではなく、生きるために縋っていただけだったのだから。
「北風と太陽」の寓話のように、“愛情らしきもの”の強引な押し付けは恒久的に見ると逆効果になる。結果的に相手は自分から離れていってしまう。
今でも母は私の意向を無視して元の関係に戻りたいと希望している。
でも、元の関係に戻りたいって何だろう。お互いあんなに不快な思いをしたというのに、あの異常な関係性を再び復元したいのだろうか。あの関係は、私が私を押し込めて無理をしていたから成り立っていたものだ。
そうだね。私がまた多少無理をすれば、物理的に全く不可能では無いかもね。でも過労死した人って、全く不可能なわけではないから出勤して働いたんだよね。でも最終的にその人は死んだ。
そういうことだよ。あなたの望んでいることは。




さようなら、お母さん。今後会うことはないし、すがるような事はもうやめるよ。やめているよ。
なぜならあなたは無意識に、私が全く価値がない人間のように言い続けてきたのだもの。私はそのもとにいてすっかり疲弊してしまいました。
私はとびきり素晴らしい人間ではないけれど、それなりの美点もあるはずです。だから私はそれを愛したいし、伸ばしたいのです。そのために関わらないと決めました。一緒にいるならやる気が出て嬉しくなって、互いに成長していける人と居たいと思うのが当然のことでしょう?

お互いがお互いのことで嫌な思いをしたよね。だったら、なぜ再び会う必要があるのかな。
あなたは私を傷つけているつもりなんかなかった、とさぞ驚くでしょう。だから、そう思っていてもいいよ。あなたの好きに思っていていいの。何をしていても、それはあなたの自由だよ。
「あなたのせいで私はこうなった」というのは言うつもりはないし、それは頭の悪い考え方だと思っています。何があっても、これが私の人生です。
あなたは今までも、今でも自分の子供たちのために頑張ってくれているよね。会いたいとも、元気でいてとも思えないけれど、あなたなりに日々を過ごしてもらえればなと思います。

私もまた、正しい道からそれないように、自分独自の考え方にさえ毒されないよう気をつけなければと思っています。

**より。

知らなかったことを知る : 無意識の妬み

“北島のおじいさん”、という怪しい自称の人がいる。

両親と同い年か年下で、しかも私は両親のこともまだ老人だと思ってはいないのにその人はそう自称している。警戒心を抱かせないための心遣いなのかもしれない。
以前は高校の音楽の先生をやっていて、二十代の頃は三枚目路線で(?)俳優のオーディションにも合格したこともあるという変わった経歴の持ち主だ。柔軟な感性を持った芸術家タイプの人である。
私の数少ない理解者の一人で、多忙のなか私の(よう)でもない話に嫌な顔ひとつせず付き合ってくれる。「いやぁ、**さんの話には毎回啓発されるねぇ」と言ってくれるのが嬉しくて、つい子どものように何事も包み隠さず話してしまう。私の小説をご夫婦揃って読んでくれたり、書いた歌詞に曲をつけてくれたりしたのも嬉しかった。

あるとき北島のおじいさんが私にあれこれ質問を重ねてきたことがあった。
「いや僕もね、結構いじめられてきた方なんだけど、**さんもそうだったって言っていたでしょう。それっていつからだったの? 」
状況の飲めない私は迷いながら答える。
「そうですね……。強い立場になったことは一度もなかったんですけど、明らかにいじめられていたのは小学生から中学生にかけて、ですかね」
「全期間? 」
「良い先生に恵まれたことがあって、その二年間は風当たりが弱まったこともあります」
「高校の頃は? 」
「お喋りのやり方が分かったので、何とか周りに紛れ込めました」
「社会人になってからは? 」
「仕事の出来るほうではないので上司には好かれませんでしたけど、同僚の方には今までと打って変わって敬意を持って接して貰えるようになってちょっと戸惑いました」
でも、どこへ行ってもなんとなく変わり者というポジションは一貫していたように思う。
立て続けの質問を終えた北島のおじいさんはしばらく考え込み、「いやぁ」と切り出した。
「実はね、この間、ずっといじめられ続けた経験を持つ男の子の身の上話をひたすら聞くっていう機会があって。男の子っていうか四十代ですけどね。“子”じゃないけどね。その人はもう幼稚園から学生時代から、なんと社会人になってまでずっといじめられ続けたそうで。引きこもりになった期間もあったらしくて」
「それは、大変でしたね」
「大変でしょう。でね、通っている心療内科の先生にその事を話したらしいんですよ。そしたらね」
意外な事実が分かったそうなんですよ──北島のおじいさんは少し勿体ぶってみせた。
「先生によると、“いじめられる経験”自体は割と誰にでもあるんだと。でもそれほど長期化する人っていうのは逆に珍しいそうなんですね。最近の研究で分かってきた事らしいんだけど、そういう人の特徴っていうのがあるそうで。その人はそれを聞いて救われたそうなんですよ。いや僕もねスッキリしたというか謎が解けたというか。**さんは何だと思います? 」
「何でしょうかね。その人のことは分からないですけど、私の場合は“変わり者で鼻につくから”だとずっと思ってはきました」
「って思っちゃうでしょう? 実は逆らしいんですよ」
「逆? 」
「魅力があるからだって」
私はこのとき眉間に皺の寄った妙な顔をしていたと思う。
「魅力……魅力ですか。ちょっとピンと来ないです」
「そう。確かにね、純粋に魅力が前面に出ている人とは違うらしいんだけどね。そういう分かりやすい“魅力ある人”は分かりやすく人気者になる。逆に単に“変わってる人”というのも意外といじめられない。その時々でからかわれたり、一時的ないじめの対象になりはするけど長期化はしにくい。で、“どこへ行ってもずっといじめられる人”というのは、他の人にはない魅力や才能を持ってはいるんだけど、一方で目立つ弱みも持っているらしいんですね。周りはその弱点にここぞとばかり飛びかかって来る。無意識の嫉妬でね」
その男の人と話していて感じたことなんですけどと北島のおじいさんは続ける。
「やっぱり魅力的なんですよ。話し方というか考え方というか、他の人と違うものを感じる。僕も腑に落ちちゃって。**さんにも同じものを感じるからね、これはちょっと話しておきたいと思って」
ここまで話を聞いても、私はそのケースに自分が当てはまると考えるのには抵抗があった。正直今もそうである。

確かに私は昔から、人に極端に好かれるか極端に嫌われるかのパターンに二分されることが多い。子どもの頃は圧倒的に嫌われる率が高かった。大人になってなんとか社会に馴染めるようになったら私をフラットな視点で捉えてくれる人が増えたけれど、未だに強く好かれたり強く憎まれることはある。
私がそれに当てはまるか、その「最近の研究の結果」が全力で信用出来るものなのかは別として、要するに“出る杭は打たれる”なのだと思った。きっとその男の人は本当に能力のある魅力的な人なのだろう。でも打ち込みやすい格好の杭のようなものがあった。子どもであってもそこに危機を感じ、自分でもなぜかわからないまま攻撃する。

もし、そうなのだとしたら、人って自分で思うよりもずっと弱くて狡い性質を持つのだと思った。無意識だなんて怖い。
でも結局どんなに打たれ続けても魅力というのは消えないものなのだな、とも知って慰められる。優しさ柔らかさしなやかさは抑圧されても硬化することなく、そのままその人の性質のままでいる。

取り込みたい

人の魂を見たい。渇望に近い。

誰かの表現を見るのが好きだ。既に知っている人ならばなおのこといい。あるとき友達が小説を書いていることを知ったとき嬉しくなってしまって「読ませて」と少し強引に頼み込んだ事がある。女の子が主人公の、ティーン向け小説のようなきらきらとした青春恋愛ファンタジーだった。描写の中に、主人公の女の子が美容室でイメージチェンジをするシーンがあった。彼のお姉さんが働いている美容室と同じ、席を移動せずにシャンプーが出来る設備の描写があって、微笑ましくて嬉しくなった。
私は彼の原稿を受け取ったその夜に、姿勢を正して読んだ。人が心血を注いで創りだしたものに出来る限り敬意を払いたかったのだ。小説作品なんてほぼその人の内面だから。適当な扱いはしたくなかった。私に読ませてくれたのが嬉しかった。

人の心なんて分からない。分からないから不安になるし、分かりきれないと知ってはいても知りたくて、知らない感性に触れたくて、そして信じたい。出来るだけ優しい方向に信じたい。
ではどうすればその人の内面を少しでも垣間見ることができるか。

古代ギリシャで哲学がもてはやされた時代、哲学かぶれだった人々の挨拶は「こんにちは」ではなく「悲しいではないか、友よ! 」だったのだとどこかの資料で読んだことがある。変な挨拶だなと思ったのだけれど、羨ましくなってしまった。
最初の挨拶が「こんにちは」だと、続く言葉は当たり障りのない話題になりがちで、もっと言えば「こんにちは」だけで終わってしまうこともざらだ。最初の挨拶が「悲しいではないか」だと、続く話題が深い内容に移行しやすい。
そして「悲しいではないか!」の挨拶が不自然となった現代、深い話題に移行しやすい装置というのが芸術とか創作ではないかと思ったのだ。
芸術ならば、年齢差も性別の違いも飛び越えられる。ただの人と人として相手を深く知る事ができるのは嬉しい。
個々の「自分はこんな事を思っている」を知りたいだけなのに、その難しさ。私自身のコミュニケーションの取り方の下手さ、不器用さ。
どうして「知りたい」と思う相手がたまたま異性だったりすると、恋愛感情みたいに見られてしまうのかな。仕方ないのかも知れない。でも淋しいと感じてしまう。人間であるという点では変わりないのに。
どうして本音を語り合う関係になるのにこんなに年数がかかるのかな。

表現活動はその点で好きだ。完成品も見たいけれど、同じくらい過程を見たい。なぜそれを創ろうと思ったのか、表現しようと思ったのかも訊きたいし、あわよくば自分でもその技術をものにしたい。
好きな絵はあるけれど、買いたい欲しいとか飾りたいという欲求はあまりない。
好きな小説、好きな歌はあるけれど、手元に置きたいという欲もあまり無い。
そう、私の基本的な欲求は自分の中へ取り込むことなのだろう。
というか、人の内面が知りたいのだろう。



「**ちゃんって、本の世界にぐっと入りきってしまって凄く影響を受けるタイプなんだね」
そう言われた事がある。言われて初めて自覚する。本の世界は私の知らない世界の擬似体験で、先人の知恵で、著者や筆者の頭の中だ。私は馬鹿みたいに影響されて、信じきってしまう。
少し危険だな。でもやはり自分でも同じようなことをやりたくなる。「気がついたらその世界にいた」というような、そんな文章を書きたくなる。馬鹿みたいに影響を与えるようなものをつくりたいと思ってしまう。

幾つであっても

父の実家には古い振り子の時計があって、時折ネジを巻かないとそれは機嫌を損ねて正しく機能しなくなった。父が子どもの頃からずっと茶の間にあった代物で、振り子時計のネジを巻くのは子ども時代の父に割り当てられた仕事だった。
時計のガラス戸を開けそこに置いてあるネジを取り、二つあるネジ穴に刺してギッ、ギッ、と巻いていく。巻いた直後時計が途端に元気になって時間の刻み方まで早まるような気がして面白い。
父が小さい頃はネジ穴に背が届かず、踏み台に乗ってネジ巻きをしていたそうだ。
それが、中学生くらいになったある頃、踏み台を使わなくてもネジ巻きが出来ることに気付いたそうだ。父が自分のことを「大人になった」と感じたのはその時だったそうだ。
「なんだ、大人じゃねえかと思ってな。もう何でも出来るし、婆ちゃんより力もあるし、大人の世界ってこんなんかって、何でも分かったような気になってな」
と笑い話として父は私たち子どもに話して聞かせる。
思春期特有のある種の万能感。手が届かないと思っていた大人の“当たり前”が出来るようになった時、急に世界が開けるような感覚にその年齢の子たちは驚き惑うのかも知れない。
私はいわゆる“普通の子ども”ではなかったから中学生時代にはその感覚を得られなかったけれど、初めてアルバイトでお給料を貰った時、自分の銀行口座を持った時、一人で電車や新幹線に乗って遠出できる立場になった時に感じた驚きと新鮮さは鮮やかに覚えている。
私にはもうそういう事が許されている。私は大人になったんだ。社会的に一人前と見なされたような不思議さだった。
 

一方でちゃんと覚えてもいる。自分が子どもだった時のこと。
もうこんなに長い間生きているのに、まだ自分が子供の年齢であるのが不思議だった。一年って、人生って長いなと思った。
大人が思うほど中身は子どもじゃないのも知ってた。十二歳くらいの頃、自分がまだ“子ども”のカテゴリに入れてもらえる事が不思議だった。本当に純粋な子どもって七歳くらいまでじゃないかと思っていた。
色んなことを考えた。こんなに色々思って考えて、気を遣っているのに、よその大人たちは特に、小さい子に対するような話し方をする。

忘れてはいない。覚えているよ。
そしてあの時いつでも必死だったこと。全力だったこと。

でも、やはり今振り返ってみたら、私はあのとき結局子どもだったのだ。世界が狭く、出来ないことが多過ぎた。自分で自分を養って、行政手続きを踏んで生活することすら出来なかった。もっと単純なこと──毎日ご飯を作るとか洗濯をするとか、そんなことさえ親任せだった。
社会の仕組みなんて全然分かっていなくて、仕事ってどうやってするのか判らなくてそれ故に怖かったりして。
不思議だな。
大人になりたくなかった。自分は子どもだからぎりぎり存在が許されているのだと思った。
でも私はちゃんと大人になってしまって、あんなに怖く大きく見えた十代の子たちが子どもに見える。私だって、中身は未だに子どもなのだけれどね。

重圧や忙しさに追われさえしなければ、大人はもっと魅力的になれると思うの。ずっと自由で、ずっと無邪気になれると思うの。
大人も、子どもも好き。もっと言えばそういう括りなんか無しにして、その人はその人だと思う。幾つになっても。

窓辺トリップ

たとえばと考えながら窓を見る。

私の窓辺はきちんと窓辺として機能している。私はそこに邪魔くさい家具など置いてはいない。そんな野暮なことはしない。

ベランダに通ずる大きなガラスの引き戸とは別に、ただ顔を覗かせるための、ただ陽光を通過させるための、ただ風を入れるだけの、窓として使うための窓。
私はそこに、あこがれの窓辺の写真をぼんやりとした加工を施して貼り、その写真となるべく同じになるよう私の窓辺を整えている。
二面ある窓の片側には、薄い生成(きな)りの布地を取り付けた。カーテンとしての機能はごく低いけれどそれで好いし、それが好いのだ。私の理想の窓なのだ。
その窓に寄り添って考える。そこから見える景色のこと。その風景のこと。細い小川と小さな畑に挟まれた、心許ない小道のこと。そこの地面に触れた数知れない足の裏のこと。写真にも残らない昔の時代、この土地のこの地面に足の裏を触れて歩いた人のこと──。

私の窓辺のあるこのアパートは、私の生まれた日には存在していないもので、アパートの東側の跨線橋は鉄道が通る前は存在していないもので、ではほんの数十年前、この場所は一体どんな姿をしていたのか。そんなことを考える。
百年前、五百年前、千年前はと考え出すときりがない。
もちろん、土地の使い方は変わっただろう。いや使われていない時代もあったろう。道にアスファルトなんか敷かれていなかったろう。
それでもこの地面の存在は変わらない。使用していた空も太陽も月も変わらない。
全く無名で今は忘れ去られた人たちが、今はほとんど無として扱われている人たちが、かつてはこの同じ場所で生き生きと、感情と思考を働かせて暮らしていたことを思うと、なんというか──なんというかくらりとする。

この感覚は知っている、と思う。

この感覚はあの写真を見たときと同じものだ。
あの白黒の画質の悪い写真。
写っていたのは雑多な町の通りと。
忙しなく行き交う人々と。
そして少年。
坊主頭で、服はぼろぼろで、道の端に座って物乞いをしている五歳ほどの少年。
戦争孤児なのだ。
たしか図書館で何かの資料として見たものだと思う。とにかくそれは衝撃で、この子は果たして大人になれたのだろうかとか、なれたとしてももう高齢で死んでしまっているのではないかとか、その子がその時座っていた同じ道路を今は何も知らない人達が何も知らないで歩いているのかとか、そのようなことをぐるぐると考えた。


おなじ国、おなじ地域、おなじ場所。
窓から見えるこの景色を、時代を越える壮大な巻き戻し再生で見てみたい。
この場所を歩いた人。転んだ人。帰りの道すがらの学生のお喋り。
ここで笑えるようなことがあったかも知れないし、珍しいこともあったかも知れない。恐ろしいことや、もしかしたら誰かが死んだことも。
昔の誰かの強い思いは確かに残ることもある。けれど、大多数の“誰か”の強い思いは事実として時と共に消え去る。
その人の内に秘めた思いはその人が死ぬと同時に失せる。
失せるので、その人が生きていた時代も、その人の日常の服装も、髪型も、習慣も、言葉遣いも生活様式も、ただ上辺だけの歴史として分類されたままになってしまう。物語感が拭えない。
実際は実際に実在して、わたしの見ているこの地面を歩いたのかも知れないけれど。

思う。
私は偉業を成し遂げて後世に名を残したい訳じゃない。だけど、私が死んだら私のすべてが消えて無くなるというのは、堪らない。私は何かを残したい。何かの印を残したい。少なくとも、「おばあちゃん家の古い土蔵を漁っていたら、昔の人のこんなものが出てきた」くらいには。



そんなことを考える。
私の整えられた窓辺で、現代に生きる私はそんなことを考える。

銀賞

どれだけあなたが忘れた世界でも僕は憶えているの
憶えているの
かたちをなくした日々の背骨と、記憶の熱が
あなたを忘れさせてくれないのと、図鑑の中で僕はもがいている ──図鑑 


どうしてだろう。
どんなに幸せだと感じる時でも、死にたいという気持ちが消えたことがない。

きっと私のそもそもの思考が「幸せに生きたい」ではないのだろう。“生きたい”という意思がひどく薄い。自分はどこまで行っても余所者だと感じる。
勿論死に伴うであろう痛さや苦しさは怖い。今この場で頭上から危険物が落ちて来たなら私は咄嗟に身を庇うことだろう。けれど、そういう事を言っているのではないのだ。
基本的には呑気に生きている。毎日暗い気持ちで泣き暮らしているわけではない。昔と比べてずっと生きやすくはなっているし、絵や小説を書くとき、サイクリングや一人旅をするときは生きている喜びを純粋に感じる。
幸せにはなりたい。
ただし望んでしまうのは「幸せに死にたい」なのである。
その気持ちは、外側で何があっても微塵も動かない。

「将来のことを考えている」という意味の違いにあるとき気付いたことがある。多くの人は“将来をちゃんと生きる”ために今を精一杯生きている。そのために車を持ったり結婚したり家を建てたりするのだな。歳をとっても安心して暮らせる手筈を整えるのだな。
私も、将来のことを考えて生きているつもりでいた。でもそれはどうやら一般の“将来を考えている”とは違うようだ。今を精一杯生きているのに変わりはないが、それは“将来の死を見据えて”のことなのだ。いつ死んでも大丈夫なようにという準備の仕方なのだ。だからこれからも生きねばならないような手続きをするのがひどく億劫で、そういう理由で車とか家族とか家を持つのに抵抗があるのだなと気が付いた。死と結びつけてしか、私は将来の計画を立てることができない。ちゃんと遺せて死ねるようにと死の準備を見据えて私は小説を書いた。自分がまるで覚悟なく夢の中でふわふわと生きていると感じる所以だ。

十代の頃は特に死を強く望んだ。罪悪感が強烈で、今すぐにどうにかして何とかしてというような切羽詰まった思いがあった。でも、私の生きた形跡を何も遺せずに死ぬのは嫌だと思った。
十代を通り越して随分と経っても、死にたい気持ちが消える気配はない。幼少期の頃から自然と抱いていた私のその思考は、思春期の一時的なものではなかった。このままでは死ねないという焦りがあって、そうすると私の思考はすぐ小説へと結び付く。
まだ書きたい小説作品を書けていない。伝えたいことを伝えられていない。書けるまでは、死ねない。
そういう思いで書いたのが『金魚邸の娘』という長編小説であった。拙い私の筆だ、傑作ではないかも知れない。でも、力作なのは間違いのないことだった。
これを書き切ったことによって私の心の重みは一気に軽量化した。私には『金魚邸の娘』がある、だからいつ死んでも大丈夫、という自由が手に入ったような気がして驚く程に安心した。誰に読まれなくても良い、とにかく遺せたという自己満足が重要なのだった。同時に、人生の気が抜けたような状態に陥ってしまったりしたけれど。

一昨年の夏、交通事故に遭った。気が動転して、怪我の痛みも感じなかった。そして後から考えた。ああ、これがもっとどうしようもなく酷い事故だったとしても、私は痛みもその他色々なことも感じなくて済んだのではと。自殺と違って自分は可哀想な被害者で、覚悟も無いまま気がつけば死んでいて、遺したいものはもう既に遺せていて。そういう死に方っていいなと思った。それが酷く羨ましくなってしまった。
のちに、そういう思い──事故で偶然死んでしまう可能性のある幸福や、今が幸福だからこそ死にたいという気持ち──を短編小説『蝶を封じる』で描いた。

聖書によると永遠の命は賞なのだという。賞であるとパウロは述べている。
「命は賞」か。確かにそうだ。でも、永遠の命が金賞だとするならば、私にとって死は銀賞だ。銀賞もまた良い。それだって充分魅力的な報いだ。というか、私はこれまでの人生で賞といえば銀賞を貰うことが多かった。決して頂点にはなれない、いつも二番目。私にはそれくらいがお似合いだ。一番良いものは取り逃がすくらいが私らしくて丁度良い。
だから、下さいと思ってしまう。とびっきりの優しさでなくて良いのです。私には他の人よりちょっと少なめの優しさを、下さい。私には穏やかで優しい、幸福な死をください。私の一番欲しいものは何だろうと考えたとき、そこに行き着いてしまった。
考え方としては良くないものだと承知している。でもどうしても変えられない。たとえどれだけ誰かが私を愛そうと、どれだけ私が誰かを愛そうと、どれだけ幸福が降りかかろうとも、遺したいものを遺せてしまった私の抑止力にはならないのだと思う。
人に話したら叱られるかも知れない。あるいは同情されるかも知れない。けれど、そうされたところで思ってしまったことは思ってしまったことだ。怒られても泣かれても、心が動いて気持ちが変わるわけでもないしなぁと思えるのだ。
勿論生きているうちは精一杯生きたい。人に優しくしたい。正しい基準を守りたい。
けれど、生が継続することについての怖さはいつもついてまわる。私は継続が怖いと思ってしまう。永続が信じられない。いつか飽きられてしまう、捨てられてしまうという恐怖がどうしても拭えない。

大好きな人たちの将来を見れなくても良い。あの人達は、私がいなくったって全然幸せだ。妹に至っては、むしろ私が存在しない方が彼女の幸福なのではと思ってしまうほどだ。幸せでいてくれさえすればそれで良い。彼らに私の死の影響は微塵もないのだから。ただ、私があなたに与えることの出来た嬉しかったことだけ憶えていてよ。それを時々思い出しては、嬉しい気持ちになってよ。私のこと、大好きなままでいて。
みんなみんな幸せでいて下さい。私含め、幸せになってください。そのために私に幸福な死を下さいませんか。

どうしようもなく歪んだ私はそんなふうに切望してしまうのである。

明瞭な夢を暮らす(曖昧さ回避)

明瞭な夢を暮らす(曖昧さ回避)

現は夢。夢は現。私の今生きるこれは夢なのかもしれないと、度々思うことがある。 非常に個人的な自叙伝を書こうと思う。私、脳内の片隅で、私のことを覚えていて。

  • 随筆・エッセイ
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-02-06

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