三階の君

三階の君

 まだ夏の暑さが残り、季節は秋に変わっていこうとしている朝の通勤時間、ある賃貸アパートの三階で洗濯物を干している女性に何となく目をやった。特に何があるわけでもないのだが、パンパンと洗濯物のシワを伸ばしながら洗濯物を干すその仕草が気になって見ていた。次の日もそのまた次の日も私は気になり、三階の洗濯物を干す女性を見つめていた。
 ある日のこと、いつものように通勤途中に三階の女性をまた眺めていると、急に強い突風が吹いた、洗濯物のタオルは女性の手から離れ、ちょうど私の足元へ落ちた。「すみません!」と女性はベランダから覗き込み私に声をかけると急いで部屋へと入っていき、5分ほどしてアパートから出てきて、私の方に駆け寄ってきた。拾ったタオルを女性に渡すと「どうも、拾ってくださって、ありがとうございます」とお辞儀をしてお礼を言われた。「いつもこの時間に洗濯物干されてますね」私は思い切ってそう女性に声をかけてみた。「え~、まぁ~専業主婦をしていますので、と言っても、いつも洗濯物は一人分なんですけどね」とハニカムようにして女性は答えた。「旦那さんは?」と続けて私が尋ねると「海外出張に行ったきりでもう、2年くらい戻ってきてないんですよ」と女性は答えた。私は何となく腕時計を見て「あ、引き留めてしまってすみません、それじゃ、これから私、仕事がありますので」と少し気まづくなりかけた空気を遮るようにその場を去ろうとした。「お仕事頑張ってくださいね」と女性は笑顔で私の方を見て声を掛けてくれた。「はい、頑張ります」と私も少しハニカミながら答えた。
 それからというもの、雨天以外の通勤日は通るたびに私は彼女の住む三階のベランダを眺めていた。そして、彼女を見かけるたびにお互い会釈だけをするあいさつをするようになっていった。
 そんな日々が続いていたある日、また、いつものように三階のベランダを眺めると珍しいことにそこに彼女の姿はなかった。「今日は居ないのか」とそんなことを思いながら私はアパートの横を通り過ぎて行った。それからというもの何度通勤の度に三階のベランダを見ても彼女の姿を見かけることはなかった。「引っ越したのかな?」と私はそう思い、気になってはいたがそれ以上気にするのはやめようと思い、とくに調べたりすることはなかった。
 ある日、また、通勤途中に三階のベランダを見ると、今度は男性が洗濯物を干している姿を見かけた。「あ~、旦那さんが帰ってきたのかな?」と思い私は少し安心して、会社へ向かった。
 それから一週間ほどして、会社に新しい社員が入社してきた、私は新入社員の顔を見て驚いた。新入社員はこの前見かけた、三階のベランダで洗濯物を干していた、男性だったのだ。私はタイミングをみて彼に尋ねてみた。すると、彼は不思議そうに「いえ、私は独身ですし、今のアパートは5年くらい前から住んでますけど」と不思議そうに私の質問に答えてくれた。「そうか、変なこと聞いて悪かったね」と私は起きている状況が頭で整理できず、困惑しながら自分のデスクに戻って仕事を続けた。
 私の見た彼女は一体何だったのだろう。今でも彼女の長い黒髪も優しそうな声や笑顔も眩しいくらい白いワンピースを着ていたこともはっきりと記憶にあるのに、私は一体何を見たのだろう。自動販売機で買った缶コーヒーを飲みながら私は物思いにふけっていた。

三階の君

三階の君

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-02-04

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