恋と海牛

 うちゅうのことをおもっても、わからないことばかりのように、せんせいのことは、ちっともわからないし、しらないことばかりで、じゃあ、ぼくは、せんせいのどこか好きなのか、と思い悩んで、ループ。無限に、こたえのみえない迷路で、さまよっている感じ。そういうのが、恋だって決めつけたようにいう、兄のことが、ぼくはきらいだったよ。はやく、くらげにでも、いそぎんちゃくでも、ひとででも、なんでもいいから、海のものになればいいのにって思っていたし、実際、兄は、うみうしとなって、海のものになったのだけれど。

 教室で飼われていたはずなのに、いつのまにかいなくなって、青白い花が咲く校庭の花壇の、土の下で眠っているものは、三日月の夜にだけ、発光する。

 コーヒーに角砂糖を、三つもいれて、シフォンケーキの大きさに対して、おかしな割合のホイップクリームが、シフォンケーキ本来の甘さを掻き消すように、けれど、フォークについたホイップクリームをなめとる姿も、せんせいはかわいい。せんせいのこと、わからないこと、しらないこと、ばかりだけれど、かわいい、ということだけは、はっきりしている。せんせいは、かわいくて、ツミブカイのだ。兄は、黄色いからだのうみうしとなって、世間では、きもちわるいのにかわいい、などと囁かれているが、ぼくはひそかに、下品だ、と思っていて、かわいい、という言葉は、せんせいのためだけにあればいいと思うし、では、かわいいからせんせいが好きなのか、と聞かれれば、ちがうとこたえるし、かわいいところも含めて、好きなことは確かなのだが、改めて、どういったところが好きなのか、と考えれば考えるほど、わからなくなって、でも、好きで、好きで、好きで死にそうで、兄のいうとおり、これが、恋、であることは重々に承知しているのだ。癪だけれど。

恋と海牛

恋と海牛

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-02-02

CC BY-NC-ND
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