ノーズ・オア・マウス

ノーズ・オア・マウス

「お前はどっから飲んだの。鼻から、それとも口から?」
 夕飯時、何の前触れもなく突然、母が尋ねてきた。
 飲むなんて、口からに決まっているじゃないか。
それをそれとも鼻とはこれいかに……

 どうやら、胃カメラの飲み方を聞きたかったらしい。
 数年前、大病を患い母は入院した。
 手術は無事成功したが、
今でも月一ペースで大学病院にて受診している。
 経過観察のため行う諸検査、
その一環でこの度、胃カメラを飲むことになったそうだ。

「前も言ったどれ、口からって。なして覚えでいらんねの?」
 口をとがらせる僕。
「ごめんごめん、わるがった。すぐ忘れんのよ、年だがら」
 恒例の言い訳、昔から母は忘れっぽい。
 因みに母は鼻を選び、結果異常なしだった。

 再就職のプランは何ひとつ持たず、故郷へ戻ってきた。
 当時35歳、正社員の口を探すには難しい年齢。
 平日はハローワークへ通い、失業保険をもらい職を探した。

 大学卒業後、地方に都会と土地は変われど、
書店勤務一筋で社会を渡り歩いてきた。
 書店員歴13年、喜びも悲しみも数多く経験し、
やり尽くした感が自分の中では強かった。
 それゆえ再始動後は新しい景色が見たく、
未経験の業種を希望し数社の面接を経て、
観光土産品の製造販売会社、その倉庫番に就いた。

 社員には土地柄から癖の強い人が多く、
仕事の内容よりも人間関係に悩むことが多かった。
 話を聞いてくれる先輩がいて非常に助かったが、
それでもストレスを感じる場面は増えていった。

 ある日、胃がキリキリ痛み出した。
 ジリジリと体力が奪われていく。
 このままでは倒れかねない……
 近所の病院を受診した。

 診察の結果、後日胃カメラで精査することになった。
 平日の休みを検査に当て、口から飲む方法を選んだ。
 楽ではないが精度が高いに越したことはない。

 検査当日。
 看護師さんから麻酔薬を渡された。
 喉の奥に照準を当て飲むタイプ。
 しかし緊張し、僕は舌にかけてしまった。
これでは全く意味がない、不安は募る。

 検査室に入り、ベッドへうつ伏せとなる。
胃カメラを呑む瞬間がやってきた。
 麻痺していない喉へチューブが入り、
食道を蛇のようにニョロニョロ進んでいく。
 透明な消化液を吐き出しオエーと声を漏らす、涙目で。

「あら、飲みこむの上手ね~」
 担当の女医さんから、幼児を褒めるような賞賛を受ける。
 初のことで上手いも下手も分からないし、
子ども扱いされているみたいで気恥ずかしい。

「まあ、食道も胃もきれいね~」
 てらてらしたピンク色の内臓がモニターに映しだされた。
 確かに。我ながらいい色をしている。
 ただ、頭をなでられているようで何だかむずがゆい。

「少し逆流性食道炎の傾向があるわね。お薬出します?」
 チューブは入ったまま、声は出せない。
若干ならと、首を振って断った。

 胃から食道へと管が戻っていく。
この感覚も気持ち悪い、早く済んでほしい。
 すると突如、女医さんの高鳴る声が。
「わあ、勝ってるのね。すっご~い」
 何のこと?意味が分からない。
 唯一使える聴覚に頼り、耳を澄ます。
 
 そして分かった、歓声が起こった理由を。
 今日は夏の甲子園、わが県の代表校が登場する。
そして検査と試合の時間帯は重なっていた。
 看護師さん伝いで経過を聞き、喜びの声を上げたのだ。

 施術はほぼ終わっている、
あとは体内から器具を取り出すのみ。
 だが僕の苦しみは続いていた。
 専門家が気を緩めている、
自分の体に問題が無いのは明らか。
 胸をなで下ろすのと同時に、
ベッドの上にポツンとひとり、
置き去りにされたようで寂しくもあった。

ノーズ・オア・マウス

ノーズ・オア・マウス

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-02-02

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