不可思議な国2️⃣

不可思議な国4️⃣

私が異民になったわけ


-原発爆発で改めてわかった日本人-

 原発が爆発したその瞬間から「想定外」が流行語大賞になる勢いだ。「絆」や「東北魂」、「福島魂」などというのまで現れて、聞いた事もない精神の鼓舞が蔓延した。出来立ての共助が絶叫した。
 あの戦争の状況と酷似しているのではないかと、私は驚愕した。陳腐な日本人の厚顔な釈明が、懲りもせずに闊歩する風景が、再び、立ち現れたのだ。
 だからこそ明確にしなければならない。福島原発は爆発すべくして爆発したのだ。想定外の事など何一つなかったのである。
 大地震も大津波も予測されていたし、原発の脆弱も指摘されていた。原発の建設そのものに反対した私達は、爆発すら考えていた。50年も前の事だ。あげくに、東京電力の出鱈目さ加減は繰り返して指摘され、原子力安全保安院の馴れ合いや非力も暴露されていた。
 佐藤栄佐久元知事は、とりわけ、プルトニウムに強硬に反対した。東京電力を叱責して監視を強化し内部告発を奨励した。保安院の独立性を求めた。
 原子力村の談合も白日のもとにさらされていたのである。
 「想定外」の一句でこれほどの事態を忘却しようとする、この国の国民性ほど不気味なものはない。


-理想-

 ナチズムやファシズムは総括されているし、今日でもこの叡知は続いている。だが、あの戦争の天皇を頂点とする体制翼賛会全体主義の検証は、まったく手つかずだ。だから、血ばかりでなく思想も継承しようとする安倍の様なひょうきん者が跋扈するのだ。
 日本国憲法第9条は戦争を放棄している。すなわち、国際紛争を解決する手段としての日本国の交戦権を否定しているのだ。その為の武装を否定している。従って、自民党は自然法の自衛権は有する、すなわち、自国が攻撃された時に防衛する武装は許される、すなわち、専守防衛の武力しか持たない自衛隊は合憲であると、憲法を解釈してきた。だから、自国が攻撃されていない場合の他国防衛、すなわち集団的自衛権は行使できない、と、憲法を解釈した。
 この憲法第9条と世界情勢から帰結する基本政策は、非武装中立主義の政策であるべきだったが、日米安保条約を締結してそれを放棄した。それでも、憲法の理想を追求する姿勢は内外に示すべきだったろう。だが、核廃絶に対する不十分な態度に明らかな様に、唯一の被爆国でありながら、それすらも出来ていないのである。理想で飯は食えないなどと、したり顔で平気な者がいる。私はそうは思わない。理想や理念なくしてなんの人生か。そのために朽ち果てても悔いはない。
 岸政権は、片肺安保だとして改訂を画策し、基地提供の見返りにアメリカの日本防衛義務を付け加えた。日本はアメリカの核の傘に入ってアメリカの子分になった。しかし、アメリカが無条件に日本を守るなどというのは幻想だ。アメリカの国益が最優先するのは当然だろう。尖閣で中国漁船事件が勃発した時に、外務大臣の岡田がヒラリー・クリントンに追いすがっていたのは国辱ものだった。
 岸の孫がアメリカの確約を得やすくするために、安保法案の成立を画策している。祖父の岸の民族主義はこの程度のものだったのだ。日中国交正常化を成し遂げた田中角栄などは、状況とはいえ、思惟の堅固さを頷ける。
 司馬遼太郎は坂の上の雲と言い、明るい明治と言った。だが、西郷の征韓論とは何だったのか。日清、日露戦争をなぜしたのか。明治維新とはそもそも何だったのか。翻って、秀吉の朝鮮出兵や、そもそも、朝鮮半島と日本の歴史的な関わりなど、司馬は深刻に探究したのだろうか。


-靖国神社-

 明治政府が長州から「招魂社」という神社を移転したのが、靖国神社の起源だと、聞いた。即ち、藩命で殉職した長州藩士を神として祀っていたものを、国家規模に鞍替えしたものだ。
何という傲慢で安直な御都合主義だろうか。
 いったい、こうして安易に作られた、この国の神とはいったい何なのか。
 神道には教義がないというから、こんな出鱈目が許されてしまうのか。それとも、この国の生来の国民性なのか。余りにも不気味で、私は断じて同化できない。
 幼い頃、敷地内に氏神の小さな祠が二ヶ所あったが、明治女の曾祖母にお参りする習慣はなかった。近くに八幡神社があって墓石が並んでいた。祭りなどの行事は一切なかった。初詣の記憶もない。すぐ側に「考古館」という施設があった。神主の住まいだったのだろうか。展示されている警察官だった曾祖父の制服の金モールを見に行った記憶がある。
 1955年頃には、私の体験では、少なくともあの寒村の神社は存在感を失っていたのだ。
 靖国神社は武器をご神体にしているのか、戦争博物館と見間違う、武器を陳列した施設がある。こんな宗教施設が世界にあるのだろうか。


-ベトナム戦争と沖縄-

 「あの時、沖縄の米軍基地からベトナムに出撃していたのは公知の事実だ」誰の発言だったか、記憶が薄れたが、参加者の誰も何も言わない。ある討論番組を見ながら、私は出鱈目な昔話を聞くような錯覚に陥った。この国はお伽の国なのか。
 60年代の終わりに、若かった私達は沖縄からの米軍機出撃を指弾したが、佐藤内閣は否定した。だから、青春をかけて激突したのだ。だが、政治の嘘の深奥までに攻めこむことは出来なかったのだ。
 安倍が国防政策の大転換を強行している。普天間に替わる辺野古移転も、そうだ。民意を無視して、なぜ、ここまで執着し、拘泥するのか。再び、アメリカとの密約は隠されてはいないのか。
 
 1917年のロシア革命で世界情勢が激変した。資本家が妖怪と恐れる資本主義を全面的に否定する社会主義国家が、ユーラシアの大国、ロシアの帝政を人民の武力で打倒して姿を現したのだ。
 第二次世界大戦で、最終的にはヒットラーに共同で対処した英米ソも、その内実は戦後を見据えて激しい対立を画策した。 原爆投下、北方四島の占領はその反映であったろう。
 戦後、東西ドイツの分割、中華人民共和国の建国、朝鮮戦争は米ソ対立を顕在化した。
 1960年代、アメリカで黒人差別に抗議し公平を求める、公民権運動に火がついた。ケネディ大統領は、これを支持してベトナム戦争に懐疑的でもあったから暗殺された。
 この頃、世界は米ソ冷戦構造のただ中にあった。社会主義陣営と資本主義陣営が、世界を二つに分けて対峙したのだ。
 キューバ危機は、第三次世界大戦すら想起させる切迫した事態だった。
 米ソの代理戦争のベトナム戦争が激化した。
 世界中で、戦後の一瞬、爆発的に産まれた若者達を中心に、反戦の嵐が吹き荒れたのだ。
 この頃、佐藤内閣は、安保条約の自動延長を目指し、沖縄返還を悲願とした。成田空港の用地強制収容問題(成田闘争)もあった。大学には授業料値上げや民主的運営を巡り意義申し立ての運動が拡大する。高度経済成長は公害を引き起こし随所で破綻をきたしていた。
 60年安保を主導した新左翼は低迷する革新政党を凌駕して革命を夢想した。
 こうした状況が70安保闘争に引き継がれたのである。私は、そのただ中でもがいていたのだろう。


-国対政治の謀略-

 15年9月18日、20時30分。いつもの報道番組を見ていた。「プライムタイム」だ。衆議院内閣不信任案が否決されて審議が終了した。キャスターが、「予想したより審議時間が短い。枝野の趣旨説明が短いのではないか」と、指摘した。総理補佐官が、「枝野の原稿はまだ半分読み残っていた。発言中に議運から示唆があった様だ」と、引き取る。出演者がこもごも発言する。
 「参議院で新たな問責を追加する秘策が確認されたのではないか」「だから衆議院は無理に長引かせなくても良いという判断か」等など。この時、衆議院開会の予鈴が鳴る。
 19日0時半に本会議を招集するという1分間の本会議だという。再び議論が始まる。「衆議院本会議を設定したのは、参議院で採決できなければ60日ルールでやるぞという参議院に対する抑止力ではないか」「参議院で頑張っているから連帯の禁足の意味だ」等など。ここでこの議論は終わった。
 この事象から私は推理する。なぜ、推理するのか。その最大の理由はこの国の論理構造への怒りだ。
 今国会での成立を望まない意見が6割ある。この声に応える為には、法案に反対する政党はフィリバスターや牛歩などあらゆる戦術を駆使すべきだ。これが私の考えだ。
 しかし、この国では、法案への態度を問わず、世論調査を肯定しながらも、とりわけマスコミは合法的な戦術に過ぎないフィリバスターや牛歩を批判する。「丁寧に話し合え」の大合唱だ。いったい、なぜこうした論理構造があるのか。「話せばわかる」とか、「和の精神」なのか。
 こうした手法は、私の経験では、権力側が利権を守るために使う常套手段だ。抵抗を押さえ批判を抑圧する論法なのだ。
 私などは服装、挨拶の仕方、交渉の内容からデモや集会、ストライキの指導までまでさんざん経営側、時には労働組合内部からも批判されたものだ。闘争と言う位だ。驚くには当たらない。
 自民党が割れていた。60日ルールを使ってでもスケジュール通り19日未明までに可決したい衆議院側。一方、60ルールが適用されると存在意義が問われるのを危惧しながらも、衆議院よりは前進した独自の決着をしたい参議院自民党の思惑と方針の相違だ。
 自民党と同様に民主党も割れていた。岡田発言を額面通り受けとれば、あらゆる戦術を駆使して廃案にしたい執行部と、参議院自民党同様に、自主採決で独自性を保持したい参議院民主党である。それは副議長である輿石をボスとする連合系が主流を占める。
 維新などは10月の分裂が確定して、辛うじて統一行動を保っている有り様で、与党と対案の協議をしていた。元気、次世代、新党改革が与党と妥協した。これが参議院の自民と民主の隠された共通意思だ。
 こうした情勢で、5党合意が決定した段階で、参議院の自民党と民主党が談合してすべての脚本を書いたに違いない、と私は確信する。
 岡田は、「あらゆる手段で廃案にする」と、大見得を切ったが、参議院民主党には、もとより、そんな決意も方針もない。60日ルールでいつでも審議権を取り上げられてしまうからだ。そして、衆議院で再採決を野党が否決できる確証もない。野党全体がフィリバスターや牛歩に及び腰だからだ。
 必然的に、日程をこなして整然と採決する結論にならざるを得ない。従って、かつてマスコミに叩かれてトラウマがある牛歩はもとより、フィリバスターなどは論外で、はなから選択肢になかったのだ。この戦術を主体にしなければ廃案など夢物語なのに、だ。岡田の豪語は一瞬にして崩壊したに違いない。採決直後の彼の表情が多くを物語っている。
 ご丁寧にも、あろうことか、フィリバスターを封じる10分の発言制限までかけた。前代未聞である。福山は言論統制だと咆哮したが、なんの事はない、単なる申し合わせに過ぎないのだから、党として反対した上で従わなければ良いのだ。彼が従ったのは参議院民主党が全体で賛成したからだ。福山も同罪だ。しかも、内実を隠して情念で有権者に訴えた分だけ罪は深い。官房副長官だった原発の時の所業と全く同じ構図ではないか。民主党など野党には、この発言時間制限決定の実相を開示する重大な責務がある。
 これは、まさに、55年体制の手法で、弛緩した国対談合政治の極みだ。 民主党は今また、政治センスの無さを自ら明らかにした。この党は最も肝心なところで状況の真髄を理解できない。
 民主党はフィリバスターや牛歩を徹底的に駆使して廃案に追い込むべきだった。少なくとも19日の正午までは審議を引き延ばして世論を探るべきだった。十分可能だった筈だ。撤収はそれからでも遅くはない。国会前に結集した人々は熱烈に支持しただろう。これぐらいの芸当に怯む様では、到底、政権など取れないだろう。
 そもそも、憲法学者が違憲発言をするまでは、岡田などは自衛隊員のリスク増を全面にだして、情念に訴えていた。しかも、彼は過去に一部集団的自衛権の必要性に言及しているのだ。この党の鵺性は何も変わっていない。
 今回の民主党の対応は次の選挙になど決してプラスでは繋がらないだろう。  私の推理は、近々に自民党によってリークされ、余すところなく暴露されるだろう。
 廃案を切実に希求した国民は、精神のバランスを保つために以下の思考をするだろう。
 5党合意を評価すれば、少しではあるが安らぐかもしれない。違憲訴訟が、かつてない規模で提起されるから、その結論を待つのも賢明のうちだ。ホルムズ事案が消えたのは安心材料だ、等などである。
 こうして、反対運動は雲散霧消して、民主党の支持率に特段の変化はないだろう。この党は、いずれにしても、解党しなければならない。もはや、命脈は尽きたのだ。
 やはり、唯一の有効な抵抗手段をかなぐり棄てた共産はどうか。まさに、この党の実態も体制内自己保存党で、漫画的なほど不甲斐ない。志位などは言語道断の詐欺師だ。次の国政選挙で、あてもなく候補者擁立をし共闘をかなぐり捨てたら、この党も大衆から見放されるだろう。
 こうした状況でフィリバスターや牛歩をしたのは山本一人だ。法案採決で10分やった。全員がやれば900分だった。彼はそれを実証した。それだけでも覚悟を決めた異民の功績だ。大衆と共にあり資質を丹念に磨いて欲しい、と願うばかりだ。


-発言制限-

 参議院はいらない、というより、自滅して自らその存在を否定した。自爆したのだ。
 15年9月19日。1時。安保法案採決の模様がNHKで放送されていた。福山演説の途中から見た。言論統制だ、と声を荒ららげている。
 10分間の発言制限をかけたのだ。またやったかと、思った。何かの短いニュースで、誰かの問責なのだろう、山本が議長から発言を止めろと注意されている場面だ。フィリバスターをやっているんだなと、思った。違った。真逆だ。発言時間を制限していたのだ。
 17日13時。特別委員会で鴻池解任の審議が始まった。福島や山本の演説に、佐藤が、「時間は決めていないが良識の範囲で」という趣旨で言い訳をしながら、まとめる様に、すなわち、止める様にと注意するのだ。執拗というほどではない。それに呼応して与党席からなのだろう、非難めいたヤジが強まる。二人は特段の抵抗もせず、暫くして発言を終えた。国会審議はすべて時間が決まっているのではないか。解任決議審議は時間を決めないのかと、不思議に思った。あるいは最後の局面でそうした妥協が図られたのか。いずれにしても、佐藤の言う通りなら、もっと話したいそぶりの福島や山本は納得するまで続ければいいのにと、思った。
 強行採決は目前だ。鴻池が戻ればやるだろう。そうなれば本会議に移る。委員会最後の場面なのだ。躊躇しながら発言するなどと言うのは愚の骨頂だ。国民に訴える絶好の機会ととらえ、審議の引き延ばしのためにフィリバスターを駆使する場面ではないのか。発言した野党の5人がそれぞれ3時間やれば日をまたぐ。 強烈なインパクトになって世論の動向も探れた筈だ。しかし、野党はそれをしなかった。それどころか、なんと弛緩した空気だ。解任演説が当の鴻池賛辞の大合唱だ。山本などは酒席の話を持ち出す始末だ。まるで鴻池が戻って委員会が続行される錯覚すらかもしだしている。
 憲法が課題の激突法案なのだ、情を絡めてもどうなるものでもあるまい。私流に言えば、鴻池は自民党の末端の交渉要員に過ぎない。権限が全くないのだ。期日までに採決せよ、出来なければ衆議院に移すと、厳命されているのだ。見識があり古武士であればあるほど哀れな立場なのである。
 戦術とはいえ、情に走ってどうなるものでもない。委員会最後の場面なのだ。テレビも入っている。法案の出鱈目を訴える絶好の機会ではないのか。しかし、野党の彼らにその戦略はなかった。不甲斐ない腑抜けだ。
 公明、元気、次世代、新党改革に至っては演説すらしない。馬脚丸出しだ。
演説の出来といい、フィリバスターに挑戦できなかった事といい、共産党や山本を含む野党のていたらくを象徴する場面だった。
 参議院本会議は動議で10分間の発言制限をかけたのだという。福山が言論統制だと絶叫したが、どの政党からも国民に対して何らの釈明もない。各党は自らの発言時間を規制する動議に対してどう判断して、どう対応したのか。国民に開示する重大な責務があるのではないのか。しかし、いずれにしても、動議は単なる申し合わせに過ぎない。そもそもフィリバスターも牛歩も議事妨害の手段だ。天恵の様なシルバーウィークをはさんで審議未了、廃案も視野に入っていた。世論の支持も、国会前集会の声援もある。成し遂げる唯一の戦術はフィリバスターと牛歩だった筈だ。これが出来るか出来ないか、それだけが問題だった。
 野党の発言者は押し並べて時間制限に従った。だが、動議に従ったなどという弁明は成立しない。すなわちフィリバスターと牛歩を自ら否定したのだ。法案には反対したかもしれない。しかし、彼らは弁論ですら抵抗をしなかった。いったい、どうすればこの様なていたらくがあり得るのか。
 筋金入りの反骨を自認する異民の私などには、到底理解できない対応だ。所詮、国会議員などは予定調和の闘いしか出来ないのだ。
 9月20日だ。この時点でこの事を論じたマスコミはない。原発爆発の時の構造は何も変わっていないのである。


草也

労働運動に従事していたが、03年に病を得て思索の日々。原発爆発で言葉を失うが15年から執筆。1949年生まれ。福島県在住。
筆者はLINEのオープンチャットに『東北震災文学館』を開いている。
2011年3月11日に激震と大津波に襲われ、翌日、福島原発が爆発した。
 様々なものを失い、言葉も失ったが、今日、昇華されて産み出された文学作品が市井に埋もれているのではないかと、思い至った。拙著を公にして、その場に募り、語り合うことで、何かの一助になるのかもしれないと思うのである。 
 被災地に在住し、あるいは関わり、又は深い関心がある全国の方々の参加を願いたい。

不可思議な国2️⃣

不可思議な国2️⃣

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-01-29

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted