声のお守り

声のお守り

 母の好きな歌のひとつに、さだまさしさんの『案山子』がある。
離れて勉学に励む子に向けた父親からのメッセージソング。
 この歌がテレビで流れる度、僕が東京に住んでいた時を思い出すという。
 因みに加山雄三さんの奥さんもこの歌が好きだそう(母談)。

 在京時後半、週に5日は母と連絡を取るようになった。
連絡というより雑談、その日あった何でもない話や重大事を語り合う。
 きっかけは職場の異動だった。
 勤務体系は同じく昼から閉店までの遅番と変化はなかったが、
通勤時間が長くなった。
 閉店時間もその前後における諸作業も変わらなかったが、
勤務先からアパートまでの距離はだいぶ離れることとなった。

 地下鉄からJRへと路線を乗り継ぎ最寄りの駅へと着き、
夕飯の買い物を深夜まで営業している駅前のスーパーで済ませ、
アパートに着くと、大抵午後11時を過ぎていた。
 以前の勤務先は2駅先の場所だったため、
同じルーティンをこなしても帰宅はざっと見て1時間ほど早かった。

 駅前からアパートまでは歩いて10分。
 僕がスーパーを出て部屋のドアを開けるまでが、
母にとっては就寝前、憩いのひと時であった。

 長らく洋裁を仕事としてきた母。
 当時は実家の旧母屋、その一室を改装した仕事部屋で、
縫製工場から外注として仕事を請け負っていた。
 一着に精魂込めるサンプル品から、
品質を保ちつつ数十枚縫い進める量産品まで。
 気を使うポイントがそれぞれ違うし、
縫い直しとして返ってくることも少なくない。
 朝早くから仕事を始め、
夕食後も夜遅くまで仕事部屋でミシンを踏む日が多かった。
 くたくたになって自室へ戻ると、
就寝までのわずかだが貴重な時間、テレビを観て過ごす。

 そんな中、フリーの時間が重なることで親子の習慣はできた。

 電話をかけるのは僕の方から。
「おう、母ちゃん。久しぶり」
「こんなして話すの、何日ぶりだべ?」
 昨日も電話したのにこんな切りだし。母はケラケラ笑ってくれた。
 
 書店員という仕事柄、
僕は仕事中、標準語を使わなければならない。
 同郷の友人や知り合いはいなかったため、
普段方言を使う機会は無に等しかった。
 だが、時間をかけ体に沁み込んだものは簡単には消えない。
電話口では母以上のズーズー弁になってしまう、どうしても。
「あたしより訛ってんな、お前」
 よく母に言われたものだ。

 母が入浴中の際は代わりに妹が電話に出た。
「今母ちゃん、風呂さ入ってるよ」
「うん、わがった。まず切るはね」
 そう妹に伝え、いったん電話を切る。
 少し待つと着信、母からだ。
この場合、会話は僕がアパートの部屋に入ってからも続けられた。

 電話で口論になることはほぼなかった。
 とはいえ、特にいさかいがあったわけでもないが、
気分的に話をしない時もあった。
 それでも2、3日経つと何とはなしに電話をかけ、
何でもない話をしていた。

 あの頃から思っていた、この状況は特殊だなって。
 こうなった要因は母が子離れできないことより、
僕がマザコンである、その側面の方がずっと大きいと思う。

 帰郷後、母がこんな話をしてくれた。
 当時、父方の祖母に認知症の傾向が表れだした。
徘徊、虚言、奇行の数々。
 ご近所に押しかけ、嫁に金を盗まれたと言い触れ回る。
認知症特有の初期症状。
 周囲の理解もあり誤解は生じなかったが、
母は毎日がとても辛かった。

 ある日の買い物帰り、母は死にたくなった。
自殺を考え、山へと車を走らせていた。
 その時、バイブモードの携帯が振動した。着信表示は息子。
母恋しくなった僕が休日の午後、電話をかけてきたのだった。
 電話に出た母。平静を装い僕と会話を交わすうちに、
死にたい気持ちがしぼんでいったという。
 通話を終えると家に帰った。
「あの時、私はお前に助けられたんだ」
 母はそう言ってくれた。
 
 甘ったれが役に立った、そんなことより。
 あの日の奇跡に、生を選んでくれた母に僕は感謝したい。

声のお守り

声のお守り

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-01-25

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