人体消失薬

第四回文学フリマ京都(2020年1月19日開催)にてコピー本を無料配布した、読み切り作品です。

 1284年、聖ヨハネとパウロの記念日、6月の26日。通りに現れて笛を吹いた男は、色とりどりの布でできた衣装を纏っていたので、のちに『まだら男』と呼ばれた。

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 人体消失薬が、このラボで開発されたって? どこからそんな与太話を聞き込んできたんですか。ネットの都市伝説とかそういう類ですか? ああ、あなたが冷やかしで言っているのじゃないのはわかります。あなたは終始真剣ですね。若いっていいですね、未来がたくさんありますね。馬鹿にする気は全くありませんよ。私? 何歳に見えます。いや、そんな質問はつまらないでしょう。話を戻しましょう。
 いわゆる、連続人体消失事件は、もちろんみんな知っていますよ。この研究所にいる人間も知っています。連日ニュースになっていて、しかも昨日はあんなことがあったんでは、知らないはずがありませんね。オリンピックの表彰台で、ゴールドメダリストが消えるんですから。衝撃度合いも宣伝効果も抜群ってわけです。
 いいや、ここのラボでは消失薬は作っていません。作れません。理由? 簡単です。その薬は確かに一度、できたのでしょう。ですが二度と再現できないのです。なぜなら、出来上がった直後には、製法共々、開発者が消失したからです。断っておきますが、私はその現場を直接見ていませんよ。
 順を追って話しましょうか。そもそもなぜそんな薬が必要になったんだと思いますか? そうですね、害虫・害獣駆除薬の。……なんですって、『イナクナール』? なんちゅう商品名だ。いや自由ですよ、企業さんがそうつけて売り出したんなら、そうでもなんでもいいじゃないですか。あなたの言う人体消失薬が、その薬品と同じ路線で研究されていたのは、あなたもご存知なんですね。まぁそのぐらい、ネットでちょっと検索すればわかる話かもしれませんね。
 あの薬は便利でしょう。この部屋にももちろん置いてあります。あなたも使っている? ああそう。薬品が消費されていくので、定期的に補充しなきゃいけませんが、虫やネズミの死体を片付けなくていいのが、一番いい点だと思いませんか。あれが、人間にも使えるか? それは無理ですよ。虫やネズミと我々では、表面の組成からしてだいぶ違いますし、それよりも大きさが桁違いです。我々は、一気に消せるサイズじゃないんですよ。
 いずれにせよ、この研究室では確かに、人体消失薬の研究をしていました。なぜ人間を消すような薬が必要だったのか。なぜだと思います? 消失マジックに使うためじゃないですよ、もちろん。兵器? いきなり物騒ですね。まぁそういう使い方も、すればできるでしょうが。量産してばらまいたら、前線では兵士の頭数を減らせるでしょうし、敵国の市民を大量消滅させることだってできますね。無人のドローンで標的を消す? 実に物騒ですね。しかし消失薬はきっと、暗殺には向きませんね。ええ、死体も残さずに消えてしまうんでは、確かに相手を始末したのか、失敗してターゲットが失踪したのか、わからないじゃないですか?
 でも、そういった穏やかならぬ利用については、そんなに考えていませんでしたよ。誰が? って我々が。ラボのメンバーもですし、政府がね。ここは政府の、政府による、政府のための研究所ですから。ええ、国民の科学と技術の発展。そういう文句も掲げていますがね、政府のためになれば結果的に国民にも恩恵が及ぶっていう、当たり前のことを言っているだけです。とりあえず、うちの国が関わっている戦争は今のところないわけでしょう、兵器が第一ではないですよ。抑止力? うーん、まあねえ。現状、建前としては大量破壊兵器が白眼視されているので、デモンストレーションの機会選びに難がある気はしますが、人口調節などに有効活用の手はありそうですね。もちろん他国の人口の話です。数は力ですから国際関係では人口バランスが相当大事ですよね。そして、どこかの街で人だけをそっくり消して、インフラや環境を無傷で残せるっていう意味なら、人体消失薬はきっと、中性子爆弾なんかよりもエレガントな解法でしょうね。大体、消える人は苦しまないみたいですから。
 いや、この想像も、昨日のニュースなんかを見て思っただけで、実際には私は、誰かの消失を目の前で見たわけでもないし、まして誰かや自分に試したわけでもないんです、誤解しないように。何度も言っていますが、ここでもどこでも、あの薬を作れる場所はこの地球上にないんです。ないはずなんです。製法が完全に失われましたから。じゃあメダリストや他の消失者達がどうやって消えているのか? それこそ謎ですよ、うちには関わりのない。警察が全部、ずっと調べていて、それでもどうやって消えたかの原因は、わかっていないんでしょう。消失者、いや警察には失踪者って呼べと言われそうですがね、消えた人間達も延々、見つかっていないままで。
 あの薬が実際にあったらよかったと思うか、って? それは思いますね。あれはね、遺体の処理に非常に有効なんですよ。液化葬って聞いたことがあると思いますが。調べてきた? 偉いですね。色々調べて、学校のレポートにでもするんですか。なんでも構いませんが。そうです、遺体を専用液に入れて、言ってみれば高温高圧で煮込むようなものですね。それで分解の速度を早めて処理するのです。お骨と灰が少々残って、環境負荷は火葬よりも断然少ない。土葬よりも当然衛生的。非常に良い処理方法です。これがもし、装置や大量の水も省略して行えたら、もっとエコだと思いませんか。ふりかけるだけでご遺体が、結び目でもほどくように美しく消えていって、お骨と灰になる。エコロジーかつエコノミー。消失薬は、本来、そのために開発されていたのです。
 安楽死? まぁそういう利用にも使えるのでしょうね。想定上、その薬を使えば有機物をほとんど一瞬で分解して消えるわけですから。頭から被ってしまえば、死んだという意識もなしで、消え去ることも可能でしょう。ちょうどあの、メダリストや連続消失事件の消失者のように、ですか? 見た目上は、そうですね。重ねて言いますが、あれがその薬だとは、私は絶対に思いませんけれど。あちらこそ、消失マジックのトリックではないんですか。
 “不要な”人間に使う? 不治の病人や障害者、老人や働く意欲のない人間に、ですか? どこからそういう論が来るんです。不寛容の社会が顕現してきたってところだな。それは優生思想とか選民思想で、差別と人権侵害の源ですよ。……まぁ、本音を言えばね。政府としては稼ぐ人間、またはこれから稼ぐ見込みのきちんとある人間が必要なので、そうじゃないお荷物は減らしたいっていうのは、ずっとありますよね。
 すくすくと、極力手をかけずに育って、一刻も早く労働年齢に達して、能力と限界のギリギリまで、働ける限りは働き続け、働けなくなったらポックリ死ぬ。経済的かどうかっていう観点からなら、そういう、まさに働き蜂が理想ですよね。ミツバチの死因の大半は過労死だって知ってました? いや専門じゃないです、これはそういう噂を聞いただけですからメモしないでいいでしょう。とりあえず労働の役に立つ以外の人間については、ほんの少しだけ、人類の多様性は確保されていますよっていう、国民に対して安心させる宣伝用に、残しておく程度で、ですかね。そんなことも、もし消失薬があれば、ナチスのガス室とかよりはよっぽど綺麗に実現できるかもしれませんよね。死んだってことにさえ気づかないうちに、処理する必要のある死体も残さずに消えるんですから。
 そう考えると、ほとんど温情だと思いませんか。私だって、明日にでも脳がダメになったら、その薬があれば、もしもあれば、ですが、消してもらって結構なぐらいですよ。サラブレッドだって、競走中に転んで脚を折ったら、たいてい、安楽死させるものでしょう。いや、彼らは脚を折ると、残りの脚で巨体を支えなければならなくなって、その負担が大きすぎるので大概、別の病気を併発して、結局は衰弱死か、ショック死してしまうんだそうですよ。長くたくさん苦しむだけ可哀想じゃないですか。私としては人間も同じことだと思いますね。どうせ死ぬのに、長々と苦しんでいたいとは思いません。
 それで消失薬が、どうやって、開発された直後に消えたのか、でしたね。消えた部分については、直接見ていないので伝聞にはなります。そこはしかし、確かな話で、単純に開発者が持って失踪したから、などではないんですよ。疑いようもなく彼女は消失しました。ええ、女性です、研究員で。
 結構、綺麗な人でしたがね、そんなに若くはないですが、若く見えました。独身だったからかな。え、セクハラ? セクハラ発言ですか、これが。まぁそうか。既婚や未婚について言うのはNGですよね。ただセクハラっていうんなら、私よりももっと、いや。やめとこう。いいえ、知らないでいいことです。とにかくここはなんというか、男社会ですのでね、どうしても女性が少ないし、色々ありますよ。彼女みたいに優秀じゃなくて経験もない凡才の若造でも、多分男だって理由で彼女より上の役に就いたり、普通にありましたから。彼女も、ラボへの貢献度は相当、高かったと思うんですが、それに見合うほど評価されてたのかな。詳しい待遇まではわかりませんけれどもね。
 さっきも話していた、あの、市販されてすごく売れている害虫・害獣駆除薬は、かなりの話、彼女の研究で出来上がっていたようなんですよ。ようだ、っていうのは私とは研究開発の部門が違うんで、どれぐらいが彼女のやったことなのかとかは、詳しく知らないです。でも、結論として言えば、全てがラボの成果品として権利関係なんかも全部ラボのものになって、それから政府が制限をつけて法律を変えるだの特許だなんだと手間仕事で儲けて、企業が製品化してあちこち儲けて、ですが彼女にはまぁ、下心のあるチーフが再々夕飯でも奢ったとか、なんかそんな感じでうやむやにされたと。そうですよ、全然、フェアではないですけども。だからって彼女には、この職場を辞めても行く場所がない。というか、ここには政府のテコ入れが相当ありますから、上から睨まれたら、似たような機関には再就職できないよう手を回すぐらい、しかねない気配もなきにしもあらず、なんて持って回って言っても冗談ですけど。私の目が据わっている? 気のせいでは?
 そうですね、このラボでは、というより世間的には、開発研究に携わっていた、その、彼女、研究員が研究データを持って、失踪したということになっています。持ち出されたデータについては部外秘ということになっていますが、そうです。例の、消失薬の製法です。失踪した彼女の、その後の処遇? それはどうなったのか、私は知りません。妥当なところでは、家族が失踪届を出したとか、そういう感じではないでしょうか。家族、ええ、私はそういったことはよく知らなくて。どこかに実家や親御さんか兄弟姉妹ぐらいはいてもいいのではないですか。人事の事務方は私達のところとは別棟なので、お尋ねになるならそちらへ……、といっても、個人情報の守秘義務がありますから、教えてくれないでしょうがね。それにまた、失踪届を出そうがどうしようが、彼女は本当に消えてしまったのですから、警察は彼女を探すよりは、昨今の消失事件の消失者を見つけ出す方が、ずっと有意義だと思いますね。
 問題の薬ができた日、というよりも彼女が消失した日は、私の同僚がその場にいました。薬ができたというのも、彼女の消失も、ひとえにこの同僚の目撃証言のみの話になります。ですが、私はその人の話を信用しているので。その同僚も、この施設では数少ない女性ですから、同じ「彼女」呼びだと紛らわしいですね。消えた研究員を「彼女」、目撃していた女性は「同僚」と呼びましょうか。なぜ、同僚一人の目撃証言を信じるのかというと、それがあまりにも作り話のようだからです。逆説的ですが、この同僚のことを知ったらわかると思いますね。同僚は、はっきりいってそういう想像力の、全く働かない人ですので。簡単な作り話も、多分、することができないんじゃないかな。ユーモアや想像力が必要な時には、適当に店にでも行って……いや、ネットで検索をかけて、か。それらしい有り合わせでなんとか繕うんじゃないかと思うぐらい、古典的な言い方をすればコチコチの人ですね。実務的な面に特化して、ここや生活の環境に適応してきた結果の一つなのかもしれませんが。話が逸れました。
 同僚の話によれば、彼女はその時、薬を完成させたと宣言し、小さなガラス製のアンプルを持って、椅子から立ち上がったそうです。いえ、事故ではありません。昨日のニュースのオリンピック生中継、表彰台で消えたメダリストを覚えてます? え、動画も出せるって? いや、もう一度見たくはないので、結構。あれも生放送だったからカットできなかったわけですね。今時、テレビを見ている人間もそうそう多くはないですが、さすが公告費用のごっそりかかっている巨大イベントですから、それなりの人数が見たんでしょう。データも即時、録画できて出回って。多分、不適切な動画ということで消され回っているはずですが、いたちごっこですね。見る人はもう、とっくに見てしまったわけですし。
 で、あの時、メダリストが言っていたことは覚えていますか。私も細部まで正確に覚えているわけでもないですが、ざっと言えば、「ここまで競争させられてきて辛かったけれど、運よく今、こうして自分がここに立てた。でも今、この瞬間が最高で、ここからは降りるだけになる。山と同じで、登った分だけを自分で降りていかないといけない。自分達の大半は、ピークを超えたらすぐに見向きもされなくなり、それぞれ独りで、衰えていく自分を受け入れられずに抗いながら、それでも生きるなら結局は挫折と折り合いをつけていく、そんな孤独な下り坂が待っている。だが自分はそうはしない。今後、もう競争する気もない。よーいドンと言われて、競う強さがあったのではなく、競わない強さがなかったのだと、ここに来て思う。追い上げておいて梯子を外されるのがこの高みで、自分は既に登るだけ登った。だからこれ以上の利用はお断りする」。そんな感じじゃなかったでしょうかね。笑顔で金メダルを掲げて言うにしては、あまりに予想外で、常識的なコメントの枠外でしょう。聞いていると、急に途中から意味がわからなくなるような。自分で望むのでなければ、誰が強制しても、そんな素晴らしいパフォーマンスができるようにはならないと思うのですが、途中から話が「ここまで追い上げられた」というようにねじれるのは、何なのでしょうね。今まで求めてきたはずの新記録でも勝利でもなく、結局あのメダリストの望んでいたことはなんだったのか……それも、もうわからないわけですけれども。
 消失薬ができた、と宣言した彼女が言ったことも、あのメダリストが言ったことと、どこか似ていたようです。私が直接聞いたわけでもないので、表現の正確さを期待されては困りますが、要点は似ていました。これまでも、まさに今も、期待されていた成果を上げたが、いつもそこには何もなかった。これ以上、利用されるのをお断りする。……そういえば、その後の展開も、昨日とずいぶん似ていたようです。
 彼女はアンプルを頭の上にかざして、指でパチンと割った、そしてなんだかすごい速さで、糸でできた像でもほどかれたらこんな様子だろうかという具合で、頭から爪先までが服もろとも、見るまに空間にほどけて消えていった、と。床は無機物でしたから残りましたが、その上には、骨も灰も何一つ落ちていなかった。ガラスのアンプルに見えたものも、どうにかしてうまい具合に、中身が活性化しないように薬剤で内張した、有機質の物で作ったカプセルだったようで、床にかけらが落ちさえせずに、彼女と一緒に消えて無くなった、と。昨日の表彰台と全く同じですね。
 目の前で見たままを私達に話して、しかし同僚は、それを自分では全く信用せず、開発者の彼女が何かのトリックで、消失薬が完成したように見せかけ、見かけ上「消え失せて」みせたのだと考えていました。ラボのメンバーも上司や警察も、みんなそうです。空間にほどけて消えるなんていうことは不可能なのだから、どうにかしてそんな風な目眩し、ごまかしを見せて、失踪しただけだ、と。みんなそう考えて、床下や天井まで徹底的に調べられましたが、彼女はもちろん、トリックの仕掛けの、手がかりさえも見つからずです。ですから少なくとも彼女に限っては、本当に焼失したし、彼女の消失に伴い、唯一無二の消失薬も消失した、と私は信じるわけです。
 ええ、彼女の研究データは残されていたので、それを調べれば消失薬の作り方を知るなり、それを作るのは不可能だと証明するなり、どちらかはできそうに思うでしょう。ところがデータは、その日よりも以前に、全部がフェイクに書き換えられていて、復元不可能になっていました。彼女は消える前に、データもきっちり片付けていったというわけです。
 彼女を見つけることも、薬を再現することも不可能。ですので、はじめに言いました通り、消失薬は、できたとしてもその直後には消滅しており、このラボであれどこであれ、その後は二度と、作ることは不可能なのです。私達が昨今の、いわゆる連続人体消失事件には無関係だとわかりましたか。
 もしも、彼女が消える前に薬を量産して、昨日消えたメダリストを含む、人体消失事件の当事者達に渡していたとしたら、ですか? 期間的に、それはないんです。そもそも彼女が消えたのは一年以上も前の話ですよ。人体消失事件はここ二ヶ月ほどの話でしょう。
 これは、一つ企業秘密に関わることになるので、あまり詳しくは言えませんが、消失薬は作ってすぐに使わないと、効果が失われます。すぐ、といって一日やそこらは保ちますが、せいぜいそんなものです。消失薬のアイデアの基本は、微生物の活動と化学反応を早めて、腐敗を超スピードで進行させることです……なんてことは、液化葬について調べてからおいでになったとのことですし、よくわかってらっしゃると思います。微生物、というのは生物ですから、いつまでも生きてはいないわけですよね。害虫やネズミぐらいならば、設置薬で片付けられる、という理由もこれです。特許の工夫を詳しくは言えないですが、あの設置薬は、定期的に薬品を足す必要があるにしても、毎日ではないですよね。そんなに面倒だったら製品化しても売れなかったでしょうしね。長期間、効果を発揮して置いておける工夫、それは微生物の活動と化学反応を、普段は容器内である程度抑えておいて、設置容器内で虫なりネズミが入った時に活性化するという仕組みです。二液式の接着剤? まぁ、相当違いますが、ものすごく乱暴に言えば、混ぜて使うというあたりは当たらずとも遠からずというところですね。とにかく、その仕組みに乗せようと思うと、薬の反応量も限られてしまい、小さな生き物なら消失させられますが、大きければ無理になるんです。まぁ、それが安全装置の役目もしているわけです。補充薬もそれだけで効果があるものではなくて、装置内に入れて初めて、そこで反応を起こして消失薬が随時生成される。そういう仕組みだからようやく販売の認可が出るんですよ。外で反応が起こったら怪我人が出るかもしれない。手や指が入れられない設計になってはいますが、今後も絶対に、装置に指を入れてみようなどとは試さないことです、これはあなただけにではなく、誰にでもご注意したいですね。
 消失薬は、作ったその場では大きなエネルギーがあるけれど、そのままにしておけば微生物自体も含む有機物の分解に使われ、急速に、というより一気に、爆発的に、言ってみればできた途端に、全て失われるのです。だから、そんな薬を、アンプルに入れて持ち歩いた後で使っても、人間を一人消せるほどに活性させる、となると。いくら遡っても使うせいぜい前日に、しかもよほどうまい具合に、アンプルを割れば最大限の活性化をするよう作られた消失薬でなければ。そうでなければ、いざ使っても反応は起きず、中の液体が手を汚す程度のことになるはずです。
 だから、人体連続消失事件の消失者達が、自分達でもこんな、このラボのような設備を持っていて、開発者の彼女並の知識と技術も持っていて、消える当日か前日までに、薬自体と、持ち運ぶためのアンプルをも完璧に作り、そして実際にその消失の現場で自分を消すために薬を使った、という場合にだけ、「本当の」人体消失は可能なのです。ね。考えれば、不可能だというのは、わかりますよね。だから、彼らのことは、どうやって消えたのか、ではなくて、どのようにして「消えたように見せかけて」失踪したのか、という方を調べるしかないでしょう。
 そういえば、人体消失事件が連続・多発するようになってから、電車への飛び込みなんかはどうも、著しく減っていっているらしいですね。自殺志願者が、いつ消えるかわからない我が身の大切さに目覚めて思いとどまるようになっている……のならいいのですが。消失が多発していると見せかけて、そういった自殺志願者を狙ったどこかの危ない団体による拐かし、みたいなことの方を、考えて捜査した方がいいんじゃないかと私は思います。
 なぜ消えるのか、を調べないのか、ですか? なぜとは? どうやって、という意味なら消失薬ではない、というか、このラボからは消失薬は作り出されていない、とお答えしていますがね。違う? 理由、ですか。消失者が消える理由? ああ、言うなれば動機ということですね。不思議なことですね、人気絶頂のアーティストが舞台で消え、メダリストは表彰台から消え。民間で消えている人がどういう人なのか、私は知りませんけれども、消えてもらっては周りが困るような人が、きっと自ら消えるのでしょう。催眠術でもかけられているように。ハメルンの笛吹伝説を思い出しますねぇ。ネズミが笛の音に操られて、川へ飛び込んで溺死する。その後、再び笛の音に呼ばれて、街から子どもが消えてゆく。そうですね、それでは一体誰が笛を吹いているのか、ということになりますか。いえ、誰が笛吹、なんていうのは、ただ伝説を思い出しただけですよ。例え話です。
 違うのですか。どういうことです。彼女が笛を吹いている? 彼女って、消失薬を作ったとされる人物ですか。彼女は消失薬とともに本当に、消え去ったのですよ。彼女だけはその薬で消え去ったと私は言い切れます。それが、どうやって一年も後になって、他の人を消す、……ではないな、他の人が「自分自身を消す」という、そんな現場を実現させているというんです。それこそ、トリックで消えたように見せかけて失踪したのでない限り、もう一度現れるなんていうことは……、作り方をデータにして、時差をつけてこっそりと頒布する? こんなラボがなくても作れるっていうんですか? それはまた思い切った……もしそうだとして、なぜ、彼らは、消失者は消えるのです。あなたの言うのが、自分で消失することを選んで、実際に消失薬を作って、準備万端、用意して、いざさらば! と消えているってことだとしたら。死んでしまうってことですよ。いや死ぬよりも、なんというか、消えてしまうんだが。だって消えてしまえば。もう利用。されない。まさか。馬鹿な。そんな、……それだけのために?
 

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 『先端科学技術研究所員が語るハメルンの笛吹伝説』の再生は以上です。もう一度データを再生しますか。あるいは次のデータ、『キッチンで簡単にできる人体消失薬の作り方』を再生しますか?

人体消失薬

人体消失薬

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-01-23

Copyrighted
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