紺と灰色の水の中

主人公紹介

麻婆豆腐の臭いが鼻から離れない。
食べたのは4時間も前なのに、頭の横にあるブラックチョコレートの臭いより強く口から臭う。
お腹は空いていない。
喉も渇いていない。
眠いわけでもない。
女は厚いヒートテックを着ている。
着ているものは下着とそのヒートテックのみだ。
12月の夕方はもちろん寒い。
だから女は胸下から毛布をかけている。
ただ朝から晩まで毛布にくるまってベッドの上で寝転がっているだけ。
いや、くるまっているのではない。
毛布の上に布団、さらにその上に毛布を乗せて被っているのだ。
右の目尻からつっ...と涙が垂れた。
痛くも痒くも悲しくも寂しくもない。
頭を右に傾けているから重力に従って水滴が伝った、ただそれだけのこと。


若い女だ。
見た目は大学生に見えるが、実はまだ高校一年生だ。
実際、彼女は精神もまだ幼い。
頭の位置をずらすと短い髪がそれに対応した。
女性にしては短い。
前髪を重ために切っており、その時の流行とは程遠い。
しかし女はその髪型がよく似合っており、自分でもそれを自覚していた。
気の強そうな目だ。
同年代が羨むくっきりとした二重、長いまつ毛、よく膨らんだ涙袋。
そしてその下には幼稚園のころからから消えたことのないくまがある。
女は身動ぎをした。
毛布の中で足を動かした。
肉付きがいい。
良すぎるくらいだ。
全体的にぽっちゃりとしている。
女はそれを良しとは思っていないが、変えるのは億劫なのだ。
女は自らの足の裏をもう片方の足のふくらはぎにひたとくっつけた。
温かい。
それとも足の裏が冷たかったのだろうか。
彼女は手も冷たかった。
短い指のその先は本当に冷えていた。


女は自分の部屋のベッドで寝転んでいる。
ベッドのすぐ横にはナイトランプがあり、ほのか、というには多すぎる光量を放っている。
女はチョコレートを1粒取り、食べた。
紙で包まれているタイプのやつだ。
紙はぐしゃっと丸め、頭の横に置いた。
女の部屋は汚い。
プリントが散乱している。
畳んであった洗濯物も朝に女の母親が蹴り飛ばしたせいで部屋の隅に丸まっている。
使わなくなった教科書や参考書が蒔かれてある。
部屋の中での移動はその中で行うのだが、女はそれらを踏んで行うのだ。
埃のことは諦めた。
女はアレルギーをまったく持っていなかったし、細かいことが気になる性質ではないのだ。


昨日で女の学校は冬休みに入った。
しかし女はここ1週間外に出ていない。


女の名前は鹿田 英麟(しかだえり)といった

過去

鹿田英麟の家庭は母子家庭だ。
彼女が2歳の頃、両親は離婚した。
彼女の兄は9歳だった。
名前は恭丙。
恭丙は父方に引き取られた。
英麟と恭丙はあまり似ていない。
異父兄妹なのだ。
けれども恭丙は英麟の父親に育てられたため、どこか性格の面で似ているところがあるのかもしれない。
しかし彼は14の頃に戻ってきた。
英麟は7歳、小学生の頃ゆえあまり覚えてはいないが、祖父母の家で母親と兄、祖父母が話し合っていたことは覚えている。
そのときは急に出来た「お兄ちゃん」に慣れず、恐怖すら感じていた。


英麟は母親を尊敬していた、少なくとも中学生までは。
英麟は幼稚園のころから文学に親しみ、多くの本を読んでいた。
小学1年生のころから塾へ通い、多くの習い事をした。
そのことで周りの友だちに引け目や羨みを感じることはなかった。
府内の最難関と言われる学校に中学受験をして合格し、半年も経たずに転校した。
理由はわからない。
クラスメイトに嫌われたからかもしれないし、コーラス部の先輩が怖かったからかもしれない。
どれにせよ英麟の中学1年、2年記憶が曖昧なため真実はわからない。
ただ、転校の手続きを済ませて車に乗り込む母親は確かに泣いていた。
英麟は地元の中学に通うようになった。
家から徒歩5分の中学校は面倒くさがりの彼女には最適だった。
高校受験のため塾へ通うようになった。
彼女はそこで学び、恋をして友情を育んでいた。
それでもやがて行かなくなった。
家から出なくなり、本を読まなくなり、部屋からも出なくなった。
理由はわからない。
初恋の人との思いのすれ違いかもしれないし、学校での居場所がわからなくなったからかもしれない。
英麟は覚えていないからわからない。
ただ、毎朝自分のベッドの横に立つ母親の顔が日を経るごとに哀しく歪んでいったことは覚えている。
それでも自分は行動を変えなかったことも。


中学2年生の12月、英麟は一時保護所に入った。
母親の精神が病みに病み、英麟との共依存に陥ってしまっていたのだ。
下手すると自分は娘を殺してしまう、そう母親は判断した。
家に帰ってくることが極端に少なかったためにネグレクトと判断されたのか、申し込みは受理されて英麟は一時保護所に入った。
彼女は3ヶ月の間、そこで過ごし、施設に入ることとなった。


これは鹿田英麟が恵露園(けいろえん)に入所してから現在まで、そしてそれからを書いた物語。

新しく来た子

恵露園は4つの組に分かれている。
りんご組、いちご組、ぶどう組、めろん組。
りんごといちごは女の子、ぶどうとめろんは男の子の組だ。
「なんかグミの種類みたいやんな。」
たつきが言う。
たつきはぼくらの学年のリーダーみたいな存在だ。
走るのが速くて声が大きい。
「それにめろんだけなんかおしゃれやんね。」
かずとが言う。
かずとは誰とでも仲良くなれる。
要領がいいっていうのだろうか、中学生や高校生の人ともびびらずに話しているのがすごい。
「まひろはメロン嫌いやからいちごでよかったわぁ。」
間の抜けた声。
まひろは女の子でとてもおっとりしている。
3年生ってもっとうるさくてもいいと思うんだけど。
「まひろはおんなやからまずめろんちゃうやん。」
笑いながらさくらが言った。
活発な女の子。
髪の毛を短くしたら男子って言ってもいけるくらい。
今は日曜日のお昼すぎ。
午前中は走り回っていたから中学生のみんなは建物の中でテレビを見ている。
中学生の人は最低でも12歳。
ぼくより3歳も違う。
みんな新しく入ってきたぼくを空気みたいに扱った。
でもこの子たちはぼくが入ってきてまだ1週間経たないうちから色々説明してくれた。
「ここにいる誰もが通ってきた道なんやねんから。」
かずとが言った事を思い出す。
「おれはまだここに来て1年経ってへんからはるやに共感してんねん。
まぁでもそんな人見知りってわけじゃなかったから結構すぐ慣れれたけどな。
でもはるやはちゃうやん?
明らか人見知りやん。
やからおれは話しかけてんねん。」
といった裏がよく見える話をしたけれど、かずとはいいやつだ。
同じぶどう組でもよく世話をやいてくれる。


「なぁ、あれまた新しい子来るんちゃうん?」
たつきが木に登りながら言った。
そんなにすぐに来るのか?
ぼくが来てからまだ半年も経っていないのに。
半信半疑でたつきの目線の先を見ると、軽自動車が園の駐車場にとまろうとしていた。
かずとがヒューと口から息を吐いた。
理由はわかる。
「かわいい。」
そう、かわいい。
一時保護所にいるときは髪は絶対低いところで結ばないといけない。
前髪が伸びている子はちょんまげにしないといけない。
車から降りた子は前髪をちょんまげにはしていないものの、後ろ髪は低く結ばれている。
服も一時保護所からの支給だからかわいいわけが無い。
それなのにここまで9歳児に思わせるとは.......!
切れ長なのに大きな目。
下唇が少し厚い。
鼻筋は通っていて、それでも小さい。
「でっか。」
そう、大きい。
身長が横にいる女の人よりも大きい。
165は超えているだろうな、というような。
あとなんだろう、がっしりしている。
肩幅が広い。
何かスポーツをしていたのかな。
ぼくら5人がじーっと見ていると、彼女がこちらを向いた。
ぼくと目が合ったのかな。
笑って手を振ってくれた。
照れくさくなって横を向いたらさくらが手を振っていた。
なんだ、ぼくじゃないか。
恥ずかしい。
「ねえ、そろそろもう1回ケイドロせん?」
まひろが言った。
嫉妬かな?
まひろはたぶんぶりっこしてる。
まぁ、かわいいはかわいいんだけれど作られた感があってあまり好きじゃない。
「やなー、やろか。」
たつきが応じる。
グラウンドに走っていくときに彼女の後ろを通った。
気になってチラッと見てしまった。


また目が合った気がした。

紺と灰色の水の中

紺と灰色の水の中

筆者の体験を元に書いてます。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-12-25

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