夏生の弁当箱

老婆心温


「母親がいないから躾がなってないのよ」
「そうね、暴力的よね」

 これは挑発だ。俺を怒らせたくて仕方ないようだ。オバちゃんのやり口は汚ねぇ。聞こえよがしに悪口を言う。

 この手に乗れば親代わりの姉ちゃんが来たと同時に蜂の巣状態になる。
 俺は聞こえない振りを決め込む。

「そうなんですね」
「はぁ? どなたですか」
「夏生がお騒がせしまして」

 姉ちゃんがやって来た。

 ヤバイ。オバちゃんたちに闘志満々だ。姉ちゃんは頭がいいから口も長けていると麦婆は言う。そこに負けず嫌いな性格が手を組んでゴングは鳴り響いた。

「母親がついていながら甘やかすから」
「な、何よ」   

「ノロノロしてんじゃねぇーよ」

 姉ちゃんがドスの効いた声でオバちゃんにそう言った。

「な、なんなんですか」
「そう言ったみたいですよ、息子さん」
「えっ、あ、それは」
「ウゼー、って蹴ったんですって」
「……」

 姉ちゃんは今、来たばかりだ。何故、喧嘩の内容を知っている。

 秋子先生が俺に耳打ちをした。お姉さんから電話があったから簡単に説明しておいたから。

 姉ちゃんは手際がいい。幼なじみの運転する車に乗って学校に向かいながら電話で内容を把握して解決策を頭に持参し、いざ出陣という訳だ。

 クラスの学級委員、楓とお婆さんが近づいて来た。

「ねぇ……」
「何だよ」
「夏生くん、ありがとう」
「あ、いや、俺は別に」
「楓のこと、ありがとうございました……」
「あ、はい、どうも」

 それを見ていた姉ちゃんはニヤリと笑う。オバちゃんたちに向かって顎を突き出し腕組みをする。

 勝った、と姉ちゃんの目が言う。

 挑発の仕返しは完了したようだ。
 オバちゃんたちには成す術がない。
 これでチャンチャン、ことなきを得た。

 チャイムと同時に解散……

「待ってよ、夏生、一緒に帰ろう」
「俺、部活だから」
「あ、そうだね」
「弁当、美味しかったよ」
「夕飯は何がいい?」
「カレー」

 こんな日は特に一緒になんか帰れない。俺は姉ちゃんに頭が上がらない。心配ばかりかけているからだ。

 父ちゃんは仕事ばかりで家にはいない。

 姉ちゃんは、俺の母親をしていた。俺を産んで神様になった母ちゃんは、姉ちゃんから子ども時代と青春時代を奪ってしまった。

 六歳しか離れていない姉ちゃんは幼い頃から俺と言う生き物を預けられて自由を奪われて来た。

 俺がそのことに気づいたのは姉ちゃんの幼なじみの太陽さんからメシをご馳走になった日だ。

「姉ちゃんのどこがいいの?」
「全部」
「マジ、ありえねぇーよ」
「渚は美人だろ?」
「まぁ、美人かも」
「渚は優しいだろ?」
「まぁ、優しいかも」
「他に何か必要か?」

 太陽さんは昔から姉ちゃんが好きで、ずっと姉ちゃんを見て来たと言った。

 小学生の頃、学校帰りにみんなが鞄持ちジャンケンをしている中で、渚だけは走って幼稚園にお迎えに行くのが不思議だったと言う。

 太陽さんは、内緒で姉ちゃんの後を付いて回る日々だったらしい。
 そして、自分も夏生のお迎えをしていたのも同然だぞ、と言って感謝を求められた。

「それって、今ならストーカー?」
「アホ、護衛だ」

 太陽さんはある日、姉ちゃんから玉子焼きの作り方を習いたいと言われた。

 (コッコの店)と言う玉子焼き専門店をやっている太陽さんのお母さんに、玉子焼きの作り方を習いたいと。

 頼まれて浮かれた。自分が頼られていると思ったから。

「なんで玉子焼き?」
「お前なぁ……」
「なんだよ」
「お前が弁当箱を投げつけたんだろ」
「マジかっ」

 姉ちゃんの泣きべそをかいた顔が浮かんだ。小学生の姉ちゃんが泣く前の顔を俺は一生、忘れられない。

( 夏生、姉ちゃん死んじゃおうか )

 弁当箱を投げつけた記憶はない。きっと小さ過ぎる記憶なのだろう。いろいろあり過ぎて小さなことは記憶の奥の奥にしまわれている。

 太陽さんの記憶によると、姉ちゃんはコンロの火が怖くて早く作れるスクランブルエッグを作った。

 それを遠足の日に俺の弁当箱に入れたが、みんなの弁当みたいに厚焼き玉子がいいと言って姉ちゃんを困らせた。

「夏生、味は美味しいから」
「グチャグチャなのは、玉子焼きじゃない」
「ごめんね、お姉ちゃん作れないの」
「姉ちゃんなんか死んじゃえ」

 姉ちゃんは弁当まみれになってボソリと言った。

(夏生、姉ちゃん死んじゃおうか)

 悲しい顔で俺を見ていた。大きな黒目から大粒の涙が浮かんでは流れた。

 姉ちゃんは母ちゃんじゃない。まだ子どもだった姉ちゃんは泣き方を忘れたのか、涙も鼻水も流したままで拭うようすもない。声も出さずに泣き続け、一点を見つめたまま動かない。

 俺はずっと忘れていた記憶と向き合うことになった。

 父ちゃんは仕事で家にいないと思っていた。

 他に帰る家があるから姉ちゃんと俺を預けている麦婆の家に帰って来なかったんだと知ったのは、高校の入学式で父ちゃんに会ったときだった。

「あ、姉ちゃん父ちゃんだ」
「違うわよ」
「父ちゃんだよ」
「夏生の家族は麦婆と姉ちゃんだから」
「……」

 姉ちゃんは遠くを見ていた。目の前の父親を間違えるはずはない。確かに父ちゃんだが姉ちゃんは見ようともしない。

 俺は父ちゃんの座る保護者席に近づいてみた。隣では水色のスーツを着た見知らぬ女性が笑っている。

 そこへ、俺と同じリボンをむねにしたセーラー服の女の子が近づいて話しかける。

「パパ、ママ、写真撮って」
「おぅ、ママと並べ」
「パパも一緒に撮ろうよ」

 姉ちゃん、姉ちゃんと麦婆が俺の家族、の意味がわかったような気がするよ。
 夢を見ているようだ。こんなことあるんだな。
 親って、家族って何なんだよ……

「写真、撮りましょうか」
「ああ、お願いします」
「……」
「お、おまえ……」

 歪んでいた。俺と言う生き物を姉ちゃんに預けっぱなしの男の顔が醜く歪み始めた。

 姉ちゃんから子ども時代と青春時代を奪い、自分だけは幸せな家庭を持っていたとは、高校の入学式に、生涯忘れられない贈り物をしてくれたもんだ。

「パパ、早く」
「あ、ああ……」
「あなた」
「……」

 パパ、と姉ちゃんもそう呼びたかったに違いない。
 三人で写真を撮って帰りに食事に行きたかったに違いない。

 姉ちゃんの大事なものをこのセーラー服女が盗んだのか、いや違う。
 姉ちゃんが捨てたものをこのセーラー服女が拾ったんだ。

 今日の入学式を嬉しそうに過ごすこの女の真新しいセーラー服は、大きくなあれ、と言う親心が入っているからなのか、大きめに作られていてカメラを受け取る手の平が半分隠れていた。

「ありがとうございます」
「いえ」

 このセーラー服女もまた知らないのかも知れない。俺や姉ちゃんの存在を。

 アイツが走って追いかけて来た。

「ま、待ってくれ」
「……」
「夏生、あ、あれだ……」
「何ですか」

俺は、馬鹿だ。

 ほんの少しだけでも待ってしまった。この男が罪悪感から謝罪して、入学を祝うような言葉を……。

「家族には言わないでくれ」
「はぁ?」
「前の家族の話はしてないんだ」
「前?」
「あ、金は送るから」

 予想外の言葉に、優しさの欠片もない言葉に、俺は悪態を吐く。

「入金忘れたら、娘を殺すぞ」
「ああ、必ず送るよ」

 いつから俺と姉ちゃんは前になったのだ。最初から母ちゃんはいない訳だから離婚することもない。どうしたら親子に前とか今とか、分かれ道が出来るのか、俺の頭ではわからなかった。

 姉ちゃん、あの日、死んじゃおうか、って言った日に姉ちゃんはこの現実を知ったんだな。長いこと、一人で頑張らせちゃったな。

 姉ちゃんと太陽さんが走って俺のところにやって来る。

「夏生、探したんだよ」
「おう、何だよ」
「お弁当、食べたの?」
「空の弁当箱だ、ごちそうさーん」

 俺は空の弁当箱を姉ちゃんに渡した。入学する前から部活に参加する我が校の野球部は、入学式でも関係なく朝練があり、寝坊した俺は朝飯を食い損ない腹ペコだった。

 姉ちゃんは弁当を作り入学式の前に部室で食べなさいと言って渡してくれた。

 ずっと俺のために作り続けた姉ちゃんの弁当。

 高校生になりました、と言う感謝の気持ちを、俺は俺なりに弁当箱に思いを詰め込んだ。

「渚、弁当箱がカタカタ言うぞ」
「太陽が振るからよ」
「何か入ってるよ」
「からっぽよ」

 太陽さんは弁当箱を開けて姉ちゃんに見せた

「渚、ほら、やっぱ入ってるよ」
「何が?」
「感謝が……」
「えっ?」
「ひまわりのハンカチだよ」
「な、夏生……」

 何年ぶりだろうか、姉ちゃんの泣きべそを見るのは……

 姉ちゃんへ

「姉ちゃんが姉ちゃんだから有難い」

夏生の弁当箱

夏生の弁当箱

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-12-03

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