笑い茸小唄
笑い茸、お酢につけると怒りたけ
笑い茸、蜜につけると子泣きたけ
笑い茸、塩につけると苦虫(にがむし)茸(きのこ)
笑い茸、糠味噌漬けで腐れたけ
そのまま食べると笑われる
それでそのまま、土の中
土の中から甘茸
そんな歌がこの村にある。この歌がどうして作られたのか知る人はほとんどいない。しかも、歌うことのできる者もいない。正しいかどうかわからないが、それなりの節回しで歌うことができるのは、寺の梅ばあさんしかいない。
市のはずれの、赤見川沿いに、古い寺がある。昔ここが村だった頃は、唯一の寺で、村に住む者はだれもがこの寺の檀家だった。その寺は赤(せき)勝寺といって、本堂には木の仏様ではなく、大人の男の背丈の倍ほどもある、大きな万年茸が安置されていた。この寺の脇の梅の古木から生えたものだそうである。その昔、本堂には誰が作ったかはわからないが、それなりの阿弥陀様が祀ってあった。それが、江戸時代の飢饉のおりに、阿弥陀様がいなくなり、檀家衆はその年に生えた万年茸を本尊としたということである。
梅ばあさんは住み込みでその寺で働いている。
私はこの歌の書かれた紙を持って、その節回しを聞かせてもらうために赤勝寺を訪れた。住職は忙しく留守であったが、梅婆さんが待っていてくれた。
梅ばあさんは私がもっていった笑い茸小唄の歌詞を見ると、知っているとうなずいて、そのいわれを話してくれた。
ひどい飢饉の年は野草や山の物を食べ、村人は飢えをしのいだ。よくあることである。悪いことは重なるもので、ある飢饉の年、いつも採ってきて食べる草や、木の実のできが芳しくなく、いつもは食べないような草まで食べてしのいでいた。ところが、秋になると山の中に茸がニョッキニョキと生えはじめたのである。
これは天の助けと、村人たちはこぞって茸狩りに山にはいった。山にすむ動物たちにとっても食べる物が少なくなり、茸をめぐって動物同士の争いが起こっていた。そこへ人が割り込んだ結果、動物たちは人に対して凶暴になり、攻撃的であった。山では熊に襲われることがよくあり、狐や狸にしても、咬みつかれる者が続出した。咬まれただけならばいいが、動物たちの持つ伝染病で、帰らぬ人となった者も多くいた。動物たちを捕らえるにも、鉄砲をもつ家はなく、人々は近くの山に入るのも命がけになっていた。
そのとき、村人の家の周り一面に生えた茸があった。村人はその茸が毒茸だと知っていた。笑い茸(きのこ)と呼ばれていたが、今の笑い茸(たけ)とは違うものである。
誰しもが、笑い茸を食べる方法はないものか考えた。村の長老たちの中には、塩漬けにしたらいいとか、煮たらいいとか、言う者もいたが、本当に安全かどうかは、食べてみるしかないと言う結論になった。
そこで、食べてみてもいいという村人五人が集まって、一つずつ試すことにした。
最初に、グツグツ煮て食べることにした。子供を八人抱える家の爺様が一本食べた、そのとき爺様は「大丈夫じゃ」と言ったが、夜になると、大きな声で叫んだり笑ったりくりかえし、次の朝冷たくなっていた。
村はずれの一人暮らしの爺様が、酢漬けにしておいた笑い茸を食べた、すると、大笑いしながら村の中を走り回り、だれかれとなくなぐりかかり、とうとう川に落ちて死んじまった。酢で茸の毒が他人を攻撃させるよう働くようになったようだ。
庄屋さんのところのばあさまは、これで死んでもいいと思ったのじゃろう、一本の小さな笑い茸を、隠し持っていた蜂の蜜につけておき、まず周りの蜜をなめて、それから食べた。その婆さまは、笑うことなく、泣き出した。甘くておいしかったからではないようだ。砂糖につけたことで、茸の毒は泣かせるようになったのである。あまりにも涙がでて、やがて出なくなり目が乾き、とうとう目が見えなくなって、婆さまは縁側から庭に落ちると、頭を石にぶつけて死んでしまった。
猟師の家の爺さんが、いつも穫ってきたシカやイノシシの肉にまぶす塩を笑い茸にふった。その爺さんは、次の朝、塩漬けの茸を水でもどして食べた。爺さんはこれは旨いと、みんな食べたのはいいが、ゲップをすると、胃の中から苦い水が逆流してきて、あまりの苦さにのたうち回って死んでしまった。
味噌屋のばあさんは糠味噌付けが得意だった、笑い茸を糠味噌につけ、一夜漬けをつくって食べた。食べたとたん、婆さんは腐りはじめ、あっと言う間に溶けるように死んでしまった。
やっぱりだめかと、村人たちは皆がっかりした。勇敢に笑い茸を食べてくれた五人の老人は赤勝寺に葬られ、村人に感謝され祀られたのである。
住職は五人を懇(ねんご)ろに弔った。それから八日後、五人の埋められた土饅頭から茶色の茸がニョキニョキと生え、墓一面に覆い尽くした。
住職はその茸を一本とると、生のまま少しばかりなめてみた。
それはとても甘く、今までにない味であった。住職は思いきり全部食べてみた。からだに異常はなく、むしろからだがぽかぽかしてきた。
住職は村人たちに、その茸を分け与えた。腹の減った子供たちは大喜びで食べた。
土饅頭から生えた茸は滋養に富んだもので、少し食べただけでお腹がくちくなった。茸は採れば採っただけ生えてきた。
その年の冬は蓄えたその甘い茸で村人たちは飢えずにすんだという話であった。子供たちはその茸を食べるとき、親から笑い茸を食べて死んだ五人の老人のことを必ず聞かされた。その茸は歌となり村に伝わることになった。
そういう梅婆さんの話であった。
「その茸、今は生えないのですか」
私はたずねた。
「こちらに来て見なされ」
私は梅婆さんに促されて、寺の一番奥の墓に案内された。角のかけたあまり大きくない墓石がひっそりと建っている。
「これがその五人の爺さん婆さんの供養の石ですわ、後で建てました」
そして、「ほれ」と墓石の根本を指さした。
そこには真っ赤な小さな茸が生えていた。
「今ではなあ、赤い茸になって、こうしてたまに生えますのじゃ」
そういいながら、梅婆さんはその茸を摘んで採ると、口の中にいれた。
「私がいただいているのです、甘いですよ、だから私はまだまだ生きます」
腰は曲がっているが、しっかりした受け答えで梅婆さんは私を見た。
「おいくつになったのですか」
「年なんて忘れちまいましたが、だいぶ前に、百八歳を越えましたので、それからいくつか足さなければなんねえな」
きれいにはえそろった歯を見せて笑った。
「この供養のお墓に生える茸は、土饅頭から生えた甘い茸なのですか」
「そうじゃけどな」
「この話を、市の広報に載せていいですか」
昔は村だったこの町も、今では市になっている。私は市の広報につとめる職員として働いている。
「そりゃあ、ええよ、みんなもっとお参りにこにゃいかんから」
「甘い茸の歌ものせたいのですが、一度歌っていただけますか」
持っていった歌詞の紙をみせた。
梅婆さんはおかしな節回しでそれを歌った。それが最初に書いた笑い茸小唄である。
次の市の広報に、梅婆さんの写真とともにこの話をのせた。昔の飢饉や五人の老人の献身さよりも甘い茸が有名になり、墓を訪れる人が増えた。梅婆さんは墓の周りをきれいにして、誰彼となく知っていることを話した。梅婆さんと一緒に写真を撮りたいという女子大学生が何人もおとずれた。広報には梅さんが百八歳以上と書いたから、長生きにあやかりたいとのことのようだ。
それはちょっと失敗だった。広報の室長にお目玉を食らった。
赤勝寺の住職から、梅婆さんはまだ百になってないと連絡があったからだ。私も戸籍を調べてみた。九十八であった。それでもいい年である。梅婆さんはいつも百八と言っているらしい。まあ信じたのだから仕方がない。
それから、それ以上に大変なことが起きた。
市内で二人が原因不明で亡くなった。保健所の調べで、二人とも赤勝寺に訪れ、甘い茸をもらって帰った人だった。甘い茸は毒だったのである。
梅婆さんが平気で甘い茸をかじっているのを見た私は、そんなことが起こるとは思ってもいなかった。それ以降、茸の採取は禁止された。私もかなりの叱責を受け、給料が一時減額され、部署の移動を命じられた。
専門家が調べたところ、笑い茸(たけ)が変化した茸で、味は甘いが、毒はもっと強くなっているということであった。
では、なぜ梅婆さんは食べても大丈夫なのだろうか。昔の飢饉の時の人たちはなぜ大丈夫だったのだろう。
私は梅婆さんをふたたび訪ねた。そしてこう聞いたのである。
「おばあさん、この茸を食べて死んだ人がでました。どうしておばあさんには毒じゃないのでしょう」
「今もわしは食っとるよ、ないしょだけどな」
梅婆さんはまた私を墓のところにつれていった。
墓には、消毒したにもかかわらず、赤い茸が顔をだしていた。
梅婆さんはそれを採って口に入れると、「甘いよ」、
おいしそうに飲み込んだ。
首を傾げていると、梅ばあさんは、
「あんたさんが持ってきた歌はな、途中までしかなかったな、あたしゃ見せられただけ歌ったがな、その後はなこうなんじゃ、
生で食らえば蜜甘茸
湯がけば下すし、
日に干しゃ大きな土饅頭
というのさ」
梅婆さんは変な節回しで歌った。
私はそれで納得した。五人の老人をたたえる歌と言うより、そこに生えた茸の食べ方を注意する歌であったのだ。湯に入れたり、日に干したりすると、危ないよという歌なのだ。熱や他の処理をすると、逆に毒になる茸だった。
飢饉の時、村人に食べ方を教えるためにできた歌なのだろう。当時の人々も梅婆さんも生のままで食べたから大丈夫だったのだ。
毒茸、食べると危険と書いた看板を無視して、私は顔を出したばかりの赤い茸を採るとかじってみた。
甘い汁が、口の中にじわーっと広がってきた。
うまい。
笑い茸小唄
私家版 第九茸小説集「茸異聞、2021、一粒書房」所収
茸写真:著者: 東京都日野市南平 2015-9-20