涙の妖精リューレ

――ざざあ、ざざざ……――
 僕は今、膝元まで水につかっている。
小波の立つこの場所で、もしずっとうつむいていたら、きっとここはどこかの浅瀬だろうと思ったに違いない。
素足の裏には砂場のじゃりのような粒があたって少し痛い。僕は思いきって顔をあげてみた。

(ここは夢の中なんだ。)
なんとなくそういう気がしていた。そうでなければこんな不思議な光景が、目の前にひろがるはずがなかったから。

 ここは確かに僕らの通う小学校の校庭だ。でもいつもと様子が全然違う。
あたりはしん、と静まっていてひとっこひとり見当たらない。それになにより驚いたことに、校庭全体が洪水にでもあったみたいに、すっぽりと水で覆われているのだ。
水面は風もないのに波立っている。僕のいる場所はそれこそ膝元までの水位しかないのだが、向こう側にみえるジャングルジムやアスレチックの”パオパオ”は、半分くらい水中に沈んでしまっている。そうかと思えば反対側の飼育小屋とブランコのあたりなんかは、少し水がひいていて、干潟のようになっている。まるで校庭が小さな海につかまってしまったみたいだ。

 ふいに風がさあっとそばを横切った。
そのとき目の前の海水が急に盛り上がって、それが女の子の形になった。僕はしばらくぽかんとして見つめていたけれど、その女の子が、半分沈んだ運低棒の上にふわっと飛び移って、こっちをじっと見つめていたので、なんとなく声をかけてみた。

「君は、誰?」
「キミ?私はキミじゃなくてリュ―レよ。名前のことをきいているのなら。」
「リュ―レって言うの。僕は(カイ)だよ。」
「あら、そうなの。」

それだけ言うと、女の子は水の中に飛び込んだので、僕は慌てて待って、と呼びとめた。

「なんなの。」

彼女は水面から半分くらいだけ顔を見せた。

「リュ―レってここで何してるの?」
「なにしてるかって?住んでいるのよ、決まってるでしょ。人間の心の中ってけっこう住みやすいものなの。」
「ここって僕の心の中なの!」
「人ってすぐそうなのね。残念だけど、ここはあなただけの世界じゃないわ。ホラ、この子達を知ってるでしょう?」

そう言って一度水からあがって、リュ―レが手を差し出すと、波の上にキラキラしたいろんな色の宝石がいくつか現れた。
よく見るとそれぞれの中に僕の知った顔ばかりが映っている。人間のものだけじゃなく、動物のもある。あれは妹の留美(るみ)が世話している、飼育小屋のウサギたちだ。その薄黄色い石がすうっと飛んで、リュ―レの手の中に収まるところを、見たか見ないかのところで、その日はとうとう目が覚めてしまった。

1. トパーズ


 朝ご飯のとき、妹の留美がこんなことを言った。

「お兄ちゃん、チビね、死んじゃったんだ。」
「え?チビってあの……。」
留美は飼育係で、四匹のウサギの世話を任されていた。それぞれに勝手に名前をつけて、自分のペットみたいに毎日可愛がっていたはずだ。死んだのはどうやら一番小さい子供のウサギらしかった。僕は何故か今朝の夢を思い出してはっとした。
「チビ、お空にかえるんだよね。」
「ああ、多分な。」

僕はとっさにあいまいな返事をしてやっただけだった。 その日はいつもよりはやく寝床についた。

やはり気が付くと僕はそこにいた。
でも今度は前よりも水位の浅い、飼育小屋とブランコに近い場所だった。僕はウサギのことが気になって飼育小屋を覗いてみたが、中はからっぽだった。いつもならニワトリやインコなんかもいて、すごく騒がしいのに。とりあえず、僕がリュ―レを探すためにもっと深いほうへと移動し始めたその時に、背後から急に声がした。

「おにいちゃん!」

隣のブランコの一番端っこのやつに、妹が乗っていた。膝には朝食時に話していた仔ウサギのチビが、ちょこんと座っている。

「おまえ、どうしてここに……。」
「おにいちゃん、さっきるみに気づいてなかったでしょ、びっくりした?」
「まったく、驚かすなよな。それでおまえなんでここにいるんだ?」
「チビが一緒にあそぼうって。あ、それとねぇリュ―レを待ってるんだ。おにいちゃんも?」
「リュ―レを知ってるのか?」
「だって留美のお友達だもん。」

その時さあっと例の風が吹き渡った。海水が女の子の形に盛りあがる。リュ―レだ。
僕と留美は同時に彼女の名前を叫んだ。

「ルミちゃん、こんにちわ。あら戒、あなたも一緒なのね。」
「るみのおにいちゃんなの!」
「知ってるわ。さあチビ、おいで……。」

そう言うと、留美の膝にいたチビが、一瞬空気中にもやのように溶けて、それがまた集まってぼんやりした薄黄色い石になった。そして、すうっとリュ―レの手のひらの上まで、ひとりでに飛んでいった。僕は思わず息をのんだが、妹はそんなこと当たり前だ、とでも言うように、まるっきり平然としている。そしてリュ―レにむかって、こう話しかけていた。


「もうチビ、おそらにかえれそう?」
「そうね、もう大丈夫みたいよ。ルミちゃんのおかげで、チビはもう帰れるわ。」

留美の顔が喜びと安堵とでいっぱいになっていた。目がちょっと潤んでいる。

「まだ泣いちゃだめよ。チビが最後に言いたいことがあるって言ってるわ。」

リュ―レはそう言うと、その薄黄色の石をもう一度留美のほうへ向かって投げた。石はちょうど、僕と妹の真上あたりの空中で止まった。中には仔ウサギがほわっと浮かびあがる。


――ルミちゃん、今までありがとうね、ボクお星様になって空からみてるよ――

「うん、チビ元気でね。私たちいつでも一緒だよ。」


妹は泣いていた。でもちゃんと笑顔はくずしてなかったから、僕はおもわずクシャ、と頭をなでてやった。そうだ、ルミえらいぞって心の中でつぶやいた。

妹が最初に流した涙の一粒は、足元の水面に落ちずに宙で止まってビー玉みたいな形になって光っていた。

「さあ、あなたの涙の一粒が、この仔を天国へ連れて行くわ。」

厳かにリュ―レが言い放つと、止まっていたビー玉の涙がすうっとチビの石のほうへ飛んでいった。そして石にあたるとパチンとはじけて、その飛沫で虹ができた。さらに、うつろな薄黄色だったその石が、みるみる透きとおった鮮やかなトパーズ色に変わった。僕と留美ははっと息をのんだ。そして次の瞬間、ものすごい勢いで流れ星のようにキラキラと尾をひきながら、その宝石は空の彼方に消えていった。

 「おにいちゃん!」

次の日の朝は二段ベッドの上の留美が、珍しく僕をおこした。(いつもは僕が留美をおこしているのだ。)

「おはよう。」
「おはよう……留美……か……。」
「チビ、天国にもう着いたかな。」
「ああ、もうきっと着いてるさ。」

こういう時、同じ夢を見たかどうかなんて、僕達子供の間ではとっても当たり前なんだ。
そんなの、答えはイエスに決まっている。


 2.オレンジ・クォーツ

 5時間目のクラブ活動のときに、僕は妹と共有した夢のことを、親友の純也に話した。(ちなみに、僕らは『理化実験クラブ』だ。) 

 「へえ、すごいじゃ俺も一緒にみたかったなあ、その夢。」

アルコールランプに試験紙を近づける手を止めて、純也は素直にそう言った。戒はどうも自分のことを話すのがあまり得意ではないようなので、とぎれとぎれになった内容を、ある程度こっちで考えて、くっつけてやらないと話が先へ進まない。けれど最近では、純也のほうがその「中身当て」をするのを結構楽しんでいる。

「チビってあの飼育小屋のうさぎだろ?一番ちっこかった奴。」
「そうなんだ。留美ちゃんよく手の上にのっけて可愛がってたもんな、かわいそうに。」
「何でわかったの。(妹が飼育係だということ)」
「俺達親友だろ?(お前のことならなんだって知ってるさ)」
「なるほどね。」
「さあ、実験の続きやろうぜ。」

そう言うと、お互いの右手をパチンと合わせて、左手でひじを組む。これが僕らの間での”親友の合図”なのだ。その後、アルコールランプの炎反応をみて、結晶の入ったビーカーに白い粉末をサラサラとたして、ガラス製飼育ケースの中のカタツムリに餌をやって、ちょうど終業のチャイムが鳴り、二人は校門までダッシュで競争して、残りはハーモニカを吹いたり、大声で叫んだり、笑ったりしながら、いつもの道を一緒に楽しく帰った。

 その晩俺は蒲団の中で、戒に聞いた夢の話思い出した。あいつがはなしている途中は、(そんなことできるかよ)という思いも少しあったが、他人に滅多になつかないあいつが、自分のことを話すときは、いつだって真剣な瞳をしているのだ。それに妹の話だって、あいつの口から聞いたのはこれが初めてだ。もちろん近所同士だから、留美ちゃんのことは前から知っていたけれど。

“妹と見られる夢なら、親友の俺だって見られるよな。”

そうだ、戒と俺が同じ夢を見られないはずはない。

 気が付くと俺は校庭(グランド)に立っていた。

(これがあいつの言ってた夢だな。)
戒の言うような、あふれる海水なんてどこにもなかったけれど、校庭は一面浜のように砂利があって、裸足の裏にささって少し痛い。どこからか微かに潮の香りがする風が吹いている。

(あいつ、来てるかな。)

そう思ってあたりを見渡すと、はるか真ん中のほうに、なにやら小さい人影がいくつかあった。てっきり戒と留美ちゃんだと決めつけて近寄ってみて、純也はおもわず息をのんだ。風に乗って、不思議な歌声が聞こえてくる。


――ひき潮じゃ、引き潮じゃ、――
――みんな集まれ、竜巻つくれ――
――ひき潮どきだけ、遊べやホ―イ――


そこには老人のホビット達が、大勢いたのだ。

(そうか、いまはここ引き潮なんだ)

彼らは歌いながら、各自が持っている木の枝で、ちょいと地面の砂利を掻きまわす。するとそこから小さな竜巻が出現した。
そして、その上に馬にでも乗るようにひょいっと飛び移ると、何メートルも上空へ昇ったり、前や後に進めたり、時には急降下したりして遊んでいるらしかった。竜巻は彼らが乗っている間にだんだんと小さくなって消えるか、最後に彼らが自分たちの手にのせて、ふうっといと息で上空に飛んでいき、そこで消えてゆく。一人の老人が、純也に気がつくと、親しげに声をかけてきた。

「ほう、純也(ジュンヤ)君か。さあさ、こっちへおいで。」
 
すると他の者達も純也のほうに視線を向けて、

「おや、純也君じゃあないか。」
「そらじっとしてないで。」
「竜巻つくって遊ぼうや。」

純也は目をぱちくりさせた。自分はこの人達のことを全然知らないのに、むこうはまるで親戚かなんかみたいに、気軽に自分の名前を呼んでくれている。

「わしらが誰かなんて、ききっこなしじゃよ。」
「ひき潮どきには、遊ばにゃならん。」
「竜巻つくって、飛ばさにゃならん。」

その人達は全員、白銀色の髪の毛に、金色か琥珀色の眼をしていた。ひとりのホビットが、純也に近づいてきて、

「ほれ純也、こうしてな……。」

と言いながら、純也に木の枝を持たせて、その横で砂利にうずを書くようにして、くるくるっと掻きまわすと、穴の中にあっという間に小さな竜巻ができた。砂利が一緒にグルグルと回っている。今度はそれを、まるでキリでたこ焼きをとり出すみたいな手つきでヒョイっと地上にとり出した。

「純也もやってみな。」
「とりだす時は、コマまわしの容量じゃぞ。」
「おお、なかなかうまくやりおるわい。」

純也の枝が少し大きかったせいか、老人たちのより少し大きめの竜巻ができた。それを見ていた彼らは子供みたいにきゃっきゃとはしゃいだ。やはりどの顔にもまったく覚えがなかったが、みな親切で面白い人達だったので、純也はちょっとだけ夢中になって遊んだ。

(あいつもはやく来ればいいのに。)

と心の隅ではやはり戒のことが気になった。

 しばらくして、空が曇り始めた。すると老人たちはめいめいの遊びをやめて、一ヶ所に集まりだした。

――ほれひき潮も、終わりだぞ――
――リュ―レと海がやってくる――
――わしらは他へ、移るとするか――
そしていっせいに、今度は少し細長い竜巻をつくり、それに乗ると、雲の間の空目指して、渡り鳥のように次々と飛び立ってゆく。
――純也君や、また遊ぼうな――
――それじゃあ、またな――

最後の一人がそう言ってウインクをして、飛び去って行ってしまった。

 やがて空全体に灰色の雲が敷きつまり、ぽつぽつ、ぽつぽつと水滴が落ちてきたかと思うと、銀色の細い糸のような雨が、しとしと降ってきた。純也は持っていた枝でもう一度竜巻をつくってみようとしたが、湿った砂利の上では、もう何も起こらなかった。次第に雨は大粒に変わり、ザァザァと音を立てて強まった。あっという間にあちこちに水たまりができ始め、みるまにその水かさは増してゆく。さっきホビット達がやたらと地面に穴をあけていたので、水がそこに溜まってゆくのだ。水たまりは雨脚のスピードよりもはやく、地面の底から湧き出してくる泉のような勢いでだんだんと地面の部分を奪い、覆い尽くしていく。

 純也は待っていた。誰もいない、淋しい雨のふる校庭で、立ちつくすしかなかったが。まわりの風景がだんだんと、戒の話していた風景のそれに近づきつつあることを、純也は直感で確信していた。ただあいつが来るまでに目が覚めなければいい、とそれだけを強く心に念じた。

 「純也……。」

雨が止んで、雲間からすこし青空がのぞいた、ちょうどその時。ふいに背後で声がした。振り向くと、そこに戒がいた。
わかってたんだ、あいつがくるってことは。俺達は親友なんだから。

「遅かったぜ、戒。」

 本当に、こんな奇妙な夢の中で。俺はこのまま一人でここに、とり残されるのかと思ってたんだぜ?そんなことはまるで知らない、という顔つきで、あいつはただボンヤリと俺を見ている。まったく、心底世話のかかる奴だ。なんだかほっとしたら肩の力が抜けてきて、足元がグラついた。あいつが俺のほうへ顔色を変えて駆け寄ってくる。

「大丈夫かい、びしょ濡れじゃないか。」
「たいしたことないさ。」
「純也……、もしかして泣いてるの?」
「バカヤロー、お前のせいだぞ。」
「………。」

 ドサッ、と戒の胸に体が落ちた。
あいつは意外にもしっかりと俺を受け止めて、よろめきもしなかった。いつもとは、完全に立場が逆だ。俺は黙って泣いた。

 “本当は、俺が戒を必要としていたんだ”
 “やっぱり純也には、僕が必要なんだね”

同じ夢の中で、親友の二人はやっぱり同じことを考えていた。

 純也の流した最初の涙の一滴が、水面に落ちるときに暖かなオレンジ色にキラリと光っていたのを見たのは、おそらく戒と、遠くのジャングルジムのてっぺんから二人のことを始終見ていたリュ―レだけだろう。


3.ローズ・クォーツ
 
 最近、真理江は授業の合間(あいま)によく眠ってしまう。後列で窓際の座席には、春の日差しがぽかぽかと降り注ぐ。先生に気づかれる気配もまるでない。
そして決まって午後の授業中、不思議な夢を見るのだ。

 波の音と潮の香りがする。

“あら、またきちゃった……。”

広い海の真ん中あたりには、たくさんの睡(すい)蓮(れん)が浮かんでいて、彼女はそのなかのひとつの、薄桃色の花弁のところに、ぽつりと座っていた。花弁のあいだから水底をみると、そこにはジャングルやらブランコやら、大きな校舎らしい建物などが、すっぽりと収まっていた。真理江を乗せた睡蓮の茎がその下にある砂利の地面のところまで、ずうっと伸びていた。時折ソーダ水のように、小さな気泡がふつふつと立ち昇ってきてはそのままシャボン玉になって辺りに浮かんでいる。水面下の光景は、波の影響を少しも受けていないようだ。

 ふいに風に混じって笛の音がしたので、真理江は顔を上げた。

  “オカリナの音だ”

中学で吹奏学部に入っていた彼女の耳が、瞬間的に音色を聞き分ける。そういえば、覚えのあるような旋律 (メロディー)だ。音を追ってみると、向こうの白い睡蓮のなかに、女の子が見え隠れしていたので、真理江(まりえ)は手でそっと水をかいて、 自分の花をそちらへすべり寄せた。

女の子はいつも吹くのを止めて、 ちらりと視線を合わせたが、またすぐに目を閉じてオカリナを吹き鳴らし始めた。
真理江(まりえ)はその子に話しかけたかったが、笛の音以外何物も受け付けない、とでもいうようなまわりの静けさのせいで、声が出なかった。

 女の子のオカリナは、同じ曲をずっとくり返し奏でていて、何度も同じところで一瞬とまり、また始めへ戻っているようだった。
真理江(まりえ)はこの旋律に覚えがあったので、再度途切れる部分がまわってきた時、女の子に聞こえるように、続きを歌った。

――ラーラララ、ララ、ラーラ……。――
女の子は瞳をぱっちりと開けて、手をとめてしばし聞き入り、歌い終えた真理江に言った。

「あなた続きを知ってるの。」
「ええ、今のがそうよ。」

真理江(まりえ)は先に話してもらえたのが嬉しくて、にっこり微笑んでそう答えた。

「この笛で、もう一度教えてくれる?」

女の子はそういうと、持っていた白い陶器のオカリナを、花弁の間からすっと差し出した。
真理江は少しとまどったが、吹奏楽部ではフルートを担当していたので、どうにかなるわと思いきって受け取った。
ちょっと吹いてみると、奏法は案外同じだったので安心した。

「全部だと、こうなるの。」

正確に始めから、そして続きを、最後に終わりの旋律まで吹き終わると、吹き口をちょっとぬぐってそっと返した。女の子は少し顔を赤らめながら笛を受け取り、先ほどの旋律をなぞるように奏でた。今度はきちんと吹き終わることができたので、真理江は小さくパチパチと拍手をしてあげた。

「ありがとう。」
「うまくいってよかったわね。」

女の子は真理江の言葉に小さく頷くと、笛を腰帯のあたりにしまい込み、とぷん、と水の中へ入っていって、そのまま下へと泳いで降りて行ってしまった。真理江が水中に向かって訊いた。

「あなたの名前は。」   

と呼びかけると、立ち昇る泡のひとつが耳の横でパチンと弾けて、  

「リュ―レ、よ。」

と言う声がした。胸の中ではあの旋律が蘇る。
 ――これ、みんなとの思い出の曲だわ――

やっと曲名が思い出せた。するとなんだか急に懐かしさがこみあげてきて、少しの間泣いてしまった。
 真理江の澄みきった涙は薄ピンク色の宝石の粒に変わり、キラキラと水面下へ落ちていった。

 はっと顔を上げると、授業はもう終わっていた。夕焼けの茜色が窓から指しこんでいる。
もうすぐけだるいS.Tも終わるらしい。髪についた涙の残りが、薄ピンク色にきらりと反射したが、それはきっと夕焼けのせいなんかではない。


4.エメラルド

「私、引っ越すかもしれないんだよね。」
お昼休み、悦子はさらっと友人達にそんなことを打ち明けてみた。皆はどっと笑った。
「マジでー!?」
「うっそでしょお、エコったらあ。」
「なあにたくらんでんだよ、おまえ。」

(今日は本気で言ってるんだけどなあ。)
いつも明るいエコ=悦子は、槙田園芸店の一人娘だ。この街に一つしかない園芸店なのだが、不況のあおりで客が激減してしまい、経営が困難になってきたので、店主である父親が、ある決心をした。

“店を取り壊すか、改装してやり直すか。”

経済的に、もうどちらかを選ぶしかなかった。そして前者に決った場合は、祖父のいる実家に帰る手はずになっている。けれど、悦子はどうしても後者をとりたくて、今日まで粘っているのだ。

「本当なんだって。私ンとこの店、つぶすかもち直すかの一大事なんだよお?」
皆はエコのふざけた口調の中に、ある種の真剣さを感じて一瞬沈黙した。
しばらくして、エコの一番の理解者ともいえる真理江が、落ち着いた瞳で聞き返した。
「じゃあお店がつぶれるって決まったら、引っ越しちゃうってことなのね?」
「私は断固反対なんだけどね。」

ようやく皆にも事の真相がつかめてきたようだ。

「そんなあ、エコいなくなるのヤだよお。」
「あたしも。」
「ねえ、みんなでエコの店流行(はや)らそうよ!」

(みんな、なんだかんだいってるけど、優しいなあ。)

悦子の家は父子家庭だ。母は数年まえに他界した。母との思い出がつまるこの街を出て行くなんて、絶対に嫌だ。祖父も父の実家も好きだけれど、今この家を離れたくない。

それになにより、 悦子はここの草木たちが、この園芸店が大好きなのだ。その点では父も変わりないはずなのに。これから皆にこれだけのことを全部言おうかどうかと迷ううちに、始業のベルが鳴ってしまったので、皆はバラバラと散っていった。

その晩悦子は不思議な夢を見た。
昔通っていた小学校の校庭に、立っていた。何故か足元、くるぶしの辺りまで水に浸かっており、渚にいるような気分だ。
目の前に少女が微笑んでいるのだが、その姿は胸から下が海水に溶け込んでいる。

「あなたは誰?」
「私はリューレよ。名前のことをきいてるのなら。」

そういうと少女はおもむろに、目の前の水面に人差し指をすっと置いた。すると、その下の砂の中からあっという間に、小さな緑の芽がいくつも吹き出し、悦子の目の高さまで伸びた。

「あなたは草花たちが、家族が好きなのね。私もいつか、愛する場所に環(かえ)りたい……。」
「どうしてかれないの?」

思いを実行するのは自分自身のはずだ。悦子はそう瞳でリューレに訴えた。少女は悲しそうな微笑みでそれに答えると、緑の息吹たちを残して打ち寄せる波の間に姿を消してしまった。

緑の息吹たちはやがて悦子を包み込むように絡まり合い、その中にいると何故だかとても暖かくて、悦子は母の温もりを思い出した。その次には友人達の笑顔がよぎる。そして、真理江の瞳も。

いつのまにか、頬に涙がつたっていた。決して人前で涙は流さないエコだったが、それは自分のせいで他人を悲しませないために、だった。

“私は今悲しくて泣いてるんじゃない。”

あふれだす涙が落ちるたびにそこからまた緑の芽が生まれた。そして気がつくと、水面の色までエメラルド・グリーンに染まっていた。

次の日の朝、父がついに最後の決断を述べた。

「悦子、この店は続けるからな。」
「!!!」
「母さんもそのほうがいいらしい。」

そう言うと、父子は仏壇のその人の写真の方へ、同時に顔をむけた。その様子に母はまるで安心したとでもいうように、優しく頷いてくれたようだった。



5.真珠(パール)

「それでね、エコがこんな夢を見たって言うんだけど、実は私もおんなじ女の子が出てくる夢を見てたのよ。」

朝食のとき、姉の真理江がそんなことを言いだすので、純也はごはんを喉に詰まらせて、あやうく窒息するところだった。

「だからねえ、リューレっていう女の子が、あんた達の小学校の校庭の海に住んでる夢なのよ……。」

「ぐっ、校庭の……海……。」

それは完璧に、あの夢だ。一万円かけてっていい、と純也は思った。まさか自分と戒の(留美ちゃんも、)他にもあの夢を共有している人がいたなんて。少しショックだったが、姉には悟られないよう努めた。まあ彼女は天然なので、気づくはずもないのだが。

「おかしい話よね、気にしないで頂戴。」

これは戒に報告しなくては。何故だか純也はそう思った。そして学校へ行くとすぐ、戒の席まで走っていって、全部話した。

「本当なの。」
「間違いない。そのリューレって子を俺は直接見てないけど、小人のじいさん達が歌ってたんだ、<リューレと海がやって来る>って。俺が行ったときはきっと引き潮だったんだよ。」

なんとその夜は、四人が四人とも例の夢に集合していた。
皆それぞれの顔ぶれに驚きはしたが、夢独特の緩慢な空気のせいか、妙に落ち着いていた。そこに、ふと一陣の風が吹き渡る。

“リューレだ”

皆が同時に、全く同じ名前を思い出した。
それぞれの心から名前を呼ばれたその娘の表情は、いつものように悲しげではなかった。そっと差し出している彼女の両手の上あたりに、四つのキラキラ光る宝石が浮かんでいた。

「みんな、ありがとう。」

リューレは波に持ち上げられて、今にも空へと向かうような高さから、四人にむかってこう続けた。

「あなた達のくれた涙の結晶で、私は本当の海へ環ることができるわ……。」

戒以外の全員は、その宝石たちが自分の流した涙の粒だと直感で悟ったが、戒だけは違った。

「ちょっと待って、リューレ。僕は君に、まだ何もあげちゃいないんだ。」
「あなたからも、ちゃんと貰っているわ。」

そう言って、すっと片手をあげた。すると周囲の波という波、水という水が彼女の手の先に集結して、ひとつの深い紺色の宝石(サファイア)になった。五つ揃ったそれらのまばゆい光がリューレを優しく包み込んだ。彼女は微笑みながら、ゆっくりと天空へと昇ってゆく。

「僕はあなたに何をあげられたの?」
「あなたからもらったのは、“愛そのもの”だわ。」

そういうリューレの声はだんだんと涙声に変わっていく。

「もう、行くの。」
「本当の海は、天(そら)のむこうにあるのよ。」

彼女は天に溶けてゆきながらも、美しく微笑んでいた。その瞳からは涙が湧いてこぼれ落ちる。
その涙は雨のように五人に降り注いだ。それは清らかに真白く輝く、真珠の粒つぶだった。

“さようなら、リューレ。”

皆は無言だったが、心をこめた瞳を彼女へと向けた。
もう彼女はひとりではないし、友情の大切さも知ったし、感動する心と、温もりと、愛とを持って、環るべき場所へと向かうことができる。彼女の姿が消え、その最後の涙の一粒が落ちたとき、地面の砂利は茶色い土に変わり、潮風は止み、海の香も消えてしまった。皆無言で、いつまでも空をみあげていた。

僕らの校庭はもう、海なんかではなくなったのだ。

終わり☆

涙の妖精リューレ

涙の妖精リューレ

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日
2019-10-19

CC BY-NC-ND
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CC BY-NC-ND