「害虫」の手記または遺書

 「害虫」だと言われました。誰かはわかりません。誰かに言われました。正確には書かれました。とあるインターネットの匿名掲示板で。どういう経緯でそう罵られたのはわかりません。憶えていません。とにかくそう書かれました。私は反論しませんでした。私はショックを受けたからです。それは悪い意味ではありません。それを書き込んだ人にとって、それは罵倒だったのでしょうが、私にとってのそれは、天啓とも言える一文でした。それは、きっと私の人生を変えます。いつか必ず。そう確信し、そして感動し、その興奮が冷める前にと、今こうやって筆を取り、ぼろのノートにこんな駄文を書き込んでいるのです。
 我ながらおかしな話です。こんなノートを読む者など誰もいないだろうに。それでも書き残したいと思ってしまいました。たとえこれを読む者が永遠にいないとしても、そんなことは私には関係ないのです。書きたいと思うから、ただ書くだけなのです。
 しかし、勢いで書き始めてしまったものの、いったい何を書き残したいと思っていたのか早くもわからなくなって参りました。何せこのようにモノを書くなんてことは滅多にしませんから。それでもせっかく書き始めたのですから、なぜ私が「害虫」という一言にいたく感動したのかについて書いておくことにしましょうか。
 まず私のこれまでの人生についてです。といっても、私の人生など水道水のようなもので。無味無臭と称するのがぴったりのものです。生まれは良くもなく悪くもなく、育ちも良くも悪くもなく。また、学業も良くもなく悪くもなく、運動等も良くもなく悪くもなく。現在の職場も、率先して行きたいというわけではありませんが、今日の飯代を稼ぐためなら仕方ないといった程度の度胸ができるくらいのものです。性格は内向的で、友人と呼べる存在はついぞ出来ませんでした。当然恋人もいたことはありません。世間一般でいう童貞というやつです。しかし、私はそんな人生を恥だと思ったことも、悔いたこともありません。かといって誇りに思ったことも、満足したこともありません。まさに無味無臭です。何の味も何の匂いもしないのだから、感想の持ちようがないのです。私にとって私の人生や私自体に価値はありません。しかし、無価値かと問われれば、それも首を捻らざるを得ないのです。
 と、なんだか自分でもよくわからないことを書いておりますが、これは今頭に浮かんでいることを適当に羅列しているだけに過ぎません。私は今まで私という存在についてほとんど考えずに生きてきました。何となく生まれ、何となく育ち、何となく黙り、何となく流され、何となく止まり、何となく影を踏み、そして何となく死んでいく予定でした。過去形ですが、「何となく死ぬ」という予定は変わりません。私は今までのように、これからも大して自分というものについて思考せず、ただ死へと向かっていくでしょう。だからこの文章は、きっと私の最初で最後の思考です。それが良いか悪いかはともかくとして。
 さて、それではなぜ私が「害虫」と言われて感動したのか。それについて、それについてですが、未だに私の中ではっきりとしておりません。感情を言葉にするというものは難しいことです。ましてや私のような怠け者には。
 けれども今筆を取っています。筆を取ってしまいました。筆を取ってしまったからには、書かざるを得ないのです。誰が決めたというわけではありません。単純に、今の私がその証拠です。上手く言葉にできないとほざいておきながら、私はまだ筆を置けずに、だらだらと意味のないことを綴っています。どうにか言葉にするための時間稼ぎをします。こんなことをしていて何になるのでしょうか。きっと何にもなりません。しかし、書く手は止められません。意味などないからです。意味などないことが意味だからです。それが書くことです。書くことに意味はありません。書いていることにも意味はありません。それでも書きます。なぜか書きます。それには理屈も理由もつけられません。衝動です。ただの衝動です。そしてその衝動を止める術を、残念ながら私は知りません。結局のところ、衝動に駆られて筆を取った時点で、私には最後まで書くという道しか残されていないのです。
 と、愚にもつかないような文章稼ぎを致しましたが、やはり私の貧弱な脳味噌ではこの興奮を言い表すことは不可能のようです。強いていうなら、この興奮は、「害虫」という私に向けられたその単語が、私に初めて貼られた値札だったせいなのかもしれません。先述の通り、私の人生は無味無臭です。私は私の人生に何の感想もありません。そして私以外の人々も、私の人生に関心などありません。道端に転がった石ころにわざわざ値札をつける人はいないでしょう。私は今まで値札をつけられたことがなかったのです、他人からも自分からも。それなのに、私は今日初めて値札をつけられました。パソコン画面の向こうの、顔も名前も知らない見知らぬ誰かが、私に「害虫」という値札を貼ってくれたのです。無価値なのかも曖昧な私に、マイナスの価値をつけてくれたのです。道端の石ころのような私に、わざわざ。
 それは本当に良いことなのでしょうか。少なくとも私に対して「害虫」と述べた人は、そんなこと考えていなかったでしょうに。わかりません。けれど嬉しかったのです。嬉しかったから今これを書いているのです。それにやはり意味はありません。嬉しかったという感情にも意味はないのです。ただその事実があるだけです。その事実を書き留めているだけです。
 これは私の人生において、きっと最も重要な出来事です。誰かが貼ってくれた「害虫」という値札は、生涯の私の価値そのものになりました。これは揺るぎません。揺るぎようがありません。私はこのことを胸に抱いて、ゆっくりと死んでいくのでしょう。
 ところで、この文章はいったい何なのでしょうか。今更なのですが、これは手記と呼んでいいのしょうか。遺書と呼べばいいのしょうか。あるいは、ただの走り書きなのかもしれません。いずれにせよ、そんなことはどうでもいいことです。初めから終わりまで、この文章に意味のあることなど何もないのですから。どうせ読む人などいないでしょうが、もしこれを読んでいる人がいるのなら、その意味はあなたが決めてください。
 長々と書いてきましたが、ようやく衝動が落ち着いて参りました。そろそろ筆を置きます。もう私がこのノートにこれ以上の文章を書き記すことはないでしょう。もし、本当にもし、これを読んでいる人がいるのなら、勝手ながら、私はあなたに値札をつけます。あなたは「害虫」です。私と同じ「害虫」です。それを胸に、死んでいってください。私が救われたように、あなたも救われてください。それでは。「害虫」より。

「害虫」の手記または遺書

「害虫」の手記または遺書

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-10-12

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