不調法
思いもよらぬチャンスが転がって来た。
お前がついて来るとか来ないとかどうでもいいがとにかく俺は行くよ。と僕を叩き起こすや否や早口にまくし立てた男は、その大きな背中を暗がりの奥へ消した。しばらく放心してから、同じ檻の中で生活していた男が去ったほうへ近づく。曖昧な輪郭に手を伸ばすと、冷たい鉄の感触。いつもの硬さ。体重を預けながら横へ伝った僕は不意に支えるものを失って、前のめりによろけた。反射的に踏み出せた足は、本来鉄にぶつかって痛めるはずだっただろう。それが抵抗なくして前に進めたことに加えて、先ほど男が残した一言である。それの意味するところを感じ取って初めて、僕は遅れながらも現状を理解した。好機以外のなにでもなかった。
一緒に拘束されていた、意外にも親切なあの男がどうやって扉を開けたのか──切ったのではないだろうから鍵を盗んだか作ったか──そして一体これからなにをしようとしているのか──脱走を図るのだろうが──考えるよりもさきに、僕は上着を脱いだ。そして自身がこれから成さなければならないことにふさわしい、前々から悔しい思いで見つめていた一角を目指して歩き出す。
変に感傷的になったのか。なにも考えずにいようとしようがしようまいが、頭の中に溢れるものがあった。
一番初めに強く意識したのは、中学生の頃だった。僕は二年生の夏、席替えで神様に感謝する。
いつも見ることができた彼女の白い首筋は、とてもきれいだった。新たな席に着いた僕の目に飛び込んできたそれと風が吹いたことで鼻腔をくすぐった匂いにうずいたのを、今でも覚えている。その時から、長い艶やかな黒髪を頭の上で結んだことで露になるうなじに、何度手にしたシャープペンを突き刺そうと思ったか分からない。叶えば飛び散るはずの紅と目の前の無防備な白とのコントラストを想像し、一日にいく度も恍惚とした。無意識に握りしめていた芯の出たペンが目に入って我に返り、もう少し一瞬前の妄想とそれが生じさせる興奮とに浸っていたかったなと静かに落胆する。と同時に、あのまま欲望に従い手を振り下ろしていたらと心底恐怖する。鮮明に、これ以上ないくらいに現実的に、それを遂げた自らの姿を妄想していたからこそ分かるのだ。そしてその二つは大きく深い。内にある理性に感謝しながら、そんなものなければよかったのにと嫌悪する。繰り返す自己矛盾が苦しくて、授業中は息が詰まった。
成人し社会人として就職したさきで出会った色の白い女性や、出張さきで見かけた柔らかそうな肌を持つ女性を前にして、僕はたびたび戸惑った。首を振って頭を働かせないことには、どうにもおかしなことを口走ってしまいそうで。なにも知らずにい
る純白に爪を立ててしまいそうで。そのあとには毎度のように、重い重い自己嫌悪と行動を起こさなかった悔恨が待っていた。
再び彼女に出会ったのは、たまたま入った和菓子店だった。記憶にこびりついていた麗しい姿が急速に巡る。馬の尾のようだった彼女の黒髪はだんご状にまとめられて、その艶やかさは一層増しているように感じられた。陽光に輝いて見えたかつての白肌も息を呑むほどに透きとおっていた。長くしっかりしたまつげが彩る鉄黒の瞳と、視線が交錯する。
瞬間、なにかが弾けて飛んだ。
僕は彼女に声をかけた。しどろもどろになりながら、なんとか言葉をつなげたのだろう。美しい女性が頷いて、僕は改めて彼女と会えることになった。
帰路に着いた僕はそれからどう上手くやろうか考え始めた。今から行おうとしていることは、ニュースを眺めている途中自分がよく顔をしかめるような、そういう事件の部類に入るんだろうかと思い、それはそうだろうと腑に落ちる。歯が音を立て出して、余計な思考は追いやった。
とにかく方法を練らなければならなかった。僕は片づけかただけを決めて、カッターナイフを一本、予備の果物ナイフを二本用意した。そんな大それたことをするつもりはまったくなかった。本当に、少し背伸びをしたような、少し遠くへ一人旅に出かけるような感覚だったのだ。
──彼女はやっぱり、美しかった。
思えば、こうなることは必然だったのだ。物心ついた時から好意の女を人として見ることができていなかった──自身はむしろそう見ていたからこそ渇望したのだが──とすると、僕は先天的に歪んでいるのだろう。ならば、末路は決まっていたに
違いない。後悔する。どうせ不道徳に身を堕とすのなら、もっと早くに実行していればよかった。今まで抑えてきたこの努力は一体なんだったのか。内に渦巻いているこらえ難い欲求不満をどう発散すればいいか分からず頭を抱えて悶えて呻いた日々は、
身を裂かれるほどの苦痛は、まったくの無駄だったのか。そのとおりだ、と誰かに囁かれようものならもう、僕は狂ってしまうかもしれない。あの頃にもし理性のタガが外れて、周囲の言う狂行に走っていたら、僕はこの人生の大半をせめて上辺だけでも
普通の男として生活することができていなかっただろう。もっと狡猾で、醜悪で、残酷な人生を送っていたはずである。無理矢理にでもそう思わないことには、やっていけない。今すぐにでも奇声を上げるかもしれない。それはこの、あまりに不幸な身の
上と世に対する絶望や怒りからではないだろうか。ただただ僕は一人の男として人間として生物として当たり前のことをしただけではないのか。おいしい料理を求めてそこに腹を満たす以上の意味を持たせるのと同じだ。至極単純なことなのだ。たまたま僕は、それが許されないことだっただけなのだ。この結論は違うのか。分からない。もう、なに一つ、左も右も前も後ろも頭上を足元もなにもかも分からない。だが少なくとも僕が自分のしたことに罪を感じるのは、まださきのことだろう。反省していないと言えば嘘になる。多くの人に迷惑をかけて遺族を悲しませたのだと責められ諭され、僕は申しわけないですと頭を下げた。できうる限りの罪滅ぼしをしていきますと謝罪した。それは、僕を憎悪と軽蔑の目で見るその人たちの言うとおりだなと思ったからで。今回起こした騒動で世の注目を浴びたことを誇らしいとはこれっぽっちも思っていないし、彼女がいなくなったことで嘆く人々のことを考えると心が痛まないこともないからだ。あまりに下手くそな演出のひどい反省をしていると、みんなが糾弾したけれど。それでも僕は下げた頭を上げなかった。冷たい視線や容赦ない罵倒をすべて受け入れた。反論などできもしないと諦めたからである。『する資格がない』のとは違う。『しても意味がない』のとも少し違う。『なにもできなかった』からである。アウェーだったのだ。問答無用なのだ。そう納得して猛省する僕と、その姿で溜飲を下げる──たとえわずかでも──人々。実に平和的。
だけれど頭を冷やしてよく考えた時、おそらく僕に悪気はない。殺意でなく悪気。誰もが当然のように求める快楽がある。それを僕も味わいたかっただけなのだ。なぜだかこんなことでしか得られないのだ。それしかなかったのだ。にもかかわらず僕は、なぜ囚われた。なぜ裁かれた。なぜ罵られた。──一旦は嚥下したはずの異論が再び僕の中で正論となり、思えば思うほど次々と疑問が増える。そこを見ると、僕は自らを罪人だとは思っていないようだ。自分の所業を罪だと認めることと反省することは、僕の認識では微妙にずれているらしい。自身がずれているから、それもずれる。
どれもこれもすべてがずれる。これまでずっとずっと長い時間をかけて蓄積されたずれのせいで僕は、生まれた時からこうだったのだと思い込む。そしてまた変わらずに、ずれて歪んで軋んでずれる。首にかけたシャツと伸びる身体も軋む。蛍光灯が頭
上で明滅した。
もし僕が僕を責める人たちと同じように他人を愛したり傷つけたりして、同じように同じ生きものとして通じ合うことができていたら、僕はもっと普通に死ねたのだろうか。
最後の最後に、世界がずれた。
不調法