『暁蕣花の咲く処』』(ある子竜の物語)第3章〈3〉 ~フラットアース物語②

〈3〉


そこは大きな池になっていた。その池の周りで、たくさんの仲間達が(うめ)き声を上げながら、のたうち回っていた。僕は(あわ)てて、仲間達の所へ走って行った。
けれども、近付いてよくよく確かめると、仲間達の苦痛は、精気(エネルギー)の薄い場所にいきなり放り出された事が原因だ、と言うことが分かった。仲間達の感覚器が、まだ新しい環境に順応しきれずに、元の環境との差を痛みとして感じているのだ。

見れば、池の中も仲間達で一杯になっていた。そこでも多くの仲間が、苦しそうな声を上げていたが、一部の仲間は、すでに感覚器の調節が出来ている様子で、水の中からじっと辺りの様子を(うかが)っていた。
その様子に一安心して、一先ず辺りを探索してみようかと、考えていた時だった。

池の中央付近から鋭い警戒音が上がって、二つの力がぶつかり合う衝撃波が、周辺の水を揺らした。それに刺激されたかのように、池のあちらこちらから争う波動(こえ)が聞こえ出し、たちまち池全体に拡大して、辺りは騒然となった。
警戒の声が聞こえたことで、仲間達の感覚器は、現状を把握するべく順応を急いだ。そのおかげで、苦痛に(うめ)いていた仲間達は、我に返ることが出来た。だが、意識を取り戻した仲間達が、まず始めたことはお互いに争うことだった。

それは、僕にとって信じられない光景だった。
だって、ついさっき……そう、あの奇妙な穴から出る前までは、仲間達は皆、仲良く、お互いに協力しあって生きていたのだ。そうでなくては、あの流れの洞窟で、大多数が生き残ることは難しかっただろう。
それなのに、である。それなのに、目の前の仲間達は、隣り合う仲間に対して威嚇(いかく)の声を上げるばかりでなく、実力行使で争って、そして……。
そして、あろうことか、負けた相手を喰ってしまったのだ。

「やめてくれ、やめて!」
僕は思わず大声を上げていた。しかし、僕の上げた声に対して返って来たのは、(うな)りのような警戒と畏怖の波動(こころ)だけだった。争いは一向に止む気配もなかった。
僕は、取っ組み合いをしている仲間を引き離そうと、池の中に飛び込んだ。
ところが、僕が近寄って行くと、周辺にいた仲間達が一斉に、一定距離の外に逃げて行ってしまったのだ。

僕は、訳が分からなくなった。結界より内側に、他者が入って来られないのは当たり前のことだ。しかし、目の前の仲間達の反応は、その範囲を越えていた。
仲間達は、僕の結界の範囲よりも更に遠く、倍ほども距離をあけて、それ以上は近付いて来ようとしなかった。それも、これまでにはなかった行動だった。

それでも、僕は必死に、元の通り仲良くしようと仲間に訴えた。けれど、誰ひとりとして、僕の声を聞く者はいなかった。僕は悲しくなった。大勢の仲間に囲まれているにも関わらず、僕はひとりぼっちに戻ってしまっていた。
僕はそれ以上、相争う仲間の姿を見ていられなくなって、池の中から出た。だが、そこでもやはり大勢の仲間が争っていた。

ここでの争いは、少しでも水に近い場所(ポジション)を確保しようという争いだった。
池の濁った水は、僕達が出て来た流れの洞窟の精気(エネルギー)に比べれば、きわめて薄いものだった。しかしそれでも、乾いた大気よりは、濃い精気(エネルギー)の匂いがした。だから、仲間達は皆、少しでも多くの精気を得ることが出来る水の中を目指していた。
呻き、怒り、渇望、威嚇、悲鳴、痛み、それらがこの場所に満ちている全てだった。

僕はただ、その場を離れたくて池から飛び立った。上から眺めた池は、とても大きなものだった。それでも、数多くの仲間達がそこから(あふ)れて、池を幾重にも取り巻いてひしめき合っていた。
騒然としている池を飛び越し、周りを取り囲む茶褐色の岩壁の切れ目が見えて来た所で、池から離れる方向へと急ぐ、数名の仲間の姿を見つけた。彼らは、僕と同じように、仲間達の争うその池から逃れようとしているかに見えた。

どうやら仲間の全員が正気を失ったわけではないらしい、と僕は安堵(あんど)した。
けれど、彼らは、僕が近付いて来るのに気が付くやいなや、悲鳴を上げて一目散に逃げ出してしまった。彼らから感じられたのもまた、警戒と恐怖の波動だけだった。
逃げて行く仲間の姿を呆然(ぼうぜん)と見送って、僕はあることに気が付いた。彼らは皆、最も小さな気力の仲間達だったのだ。池に戻って確かめると、そこに集まっているのは最も小さな気力の仲間達だけであることが分かった。
(他の仲間達は、どこへ行ったのだろう?)

辺りを見回しても、そこからは池と、それを取り囲む茶褐色の岩壁以外に、何も見つからなかった。だから僕は、逃げ去った仲間の後を追いかけて、岩壁の間を登って行くことにした。
やがて岩の道が途切れ、濁った黄色の空が見えたところで、先を歩いていた仲間達は、一斉に翼を広げて飛び立って行った。道はそこで、深い谷となって落ち込んでいた。
辺り一面に霧の立ち込める谷の向こう側には、ほぼ垂直にそびえ立つ高い岩壁が、延々と続いているのが見えた。
飛び立った仲間達は、一団になってその高い岩壁の向こうへと去って行った。

辺りはとても静かだった。これまで過ごして来た洞窟の中とは違って、そこには様々な生物の波動があった。けれどもそれは、かつて見た〈外〉の様子とはかけ離れていた。記憶にある〈外〉の世界と比べて、光も風も弱々しく、生物の波動はずっと少なかった。
見上げると、濁った黄色の空には、紅みがかった月のような天体が見えた。それが、本当に月なのかどうかは分からなかった。それは、僕の知っている月とは、少し違っているようにも思えた。

背後で仲間の(うな)る声が聞こえて、僕は考えるのをやめた。振り返ると、数名の仲間が遠くからこちらの様子を(うかが)っているのが見えた。
僕は、何か用があるのか、と(たず)ねたが、返って来たのは、やっぱり(おび)えの感情だけだった。僕が少し身動きすると、彼らはぱっと逃げ散って行った。けれど、しばらくするとまた集まって来て、じっと僕を見つめた。

僕は何だか居心地が悪くなって、少し離れた岩棚の上に移動することにした。僕が離れると、遠巻きにしていた仲間達は、恐る恐るその穴を出て来た。そうして彼らも、そこから翼を広げて飛び立ち、先の仲間達と同じように高い岩壁の向こうへと姿を消した。どうやら、僕は出口を(ふさ)ぐ邪魔者になっていたらしい。

その穴からは時間をおいて、数名一組になった小さな気力(ちから)の仲間達が出て来た。そして皆、迷うことなく真っ直ぐに岩壁を越えて行った。
(あの岩壁の向こうには、何があるのだろう。)
僕はひとまず、仲間達の後を追って、岩壁の向こうへ行ってみることにした。
吹き上げる風をつかまえて飛び立つと、僕の身体はどんどん上って行った。
視界を遮る黒い岩壁が途切れた時、そこに見えたのは果てしなく続く茶褐色の大地だった。大地は所々で盛り上がって、茶色一色の場所に多少の陰影を添えていた。その地平の先に、何か黒い帯のようなものが横一線に続いているのが見えた。

あの月のような天体は、もう空の低い所へ降りて来ていた。
見渡す限り、そこには一本の木もなかった。ただ、点々と草(むら)らしき黒い影が見えるばかりだった。どの方向を見ても同じような景色が続いていて、道らしきものは見当たらなかった。
僕は途方に暮れた。一体どこへ向かったら良いのか、全く判断がつかなかったのだ。闇雲に飛び回るには、そこはあまりにも広かった。

その内に、月のような天体が地平線の向こうへ姿を隠し、空は濁った黄色から暗い紅へと変わって行った。その空を月の代わりに歩き出したのは、ぼんやりと(にじ)んだ大きな何か、だった。それは先に沈んで行った月の何倍も大きかったが、光はごく弱く、その色は紅なのか黒なのかはっきりとは分からなかった。それはまるで、巨大な原体(プラズマ)みたいに見えた。

しばらくそのよく分からない天体を眺めていたら、谷の方から仲間の波動が近付いて来て、僕の横を通り過ぎて行った。僕は急いで、その仲間の後を追い掛けた。
彼らが向かっていたのは、地平に見える黒い帯のようなものだった。
近付いて行くと、黒い帯は谷となって姿を現した。更に近くなると、その谷には、多くの木が生えていることが分かった。そしてそこには、大勢の仲間の波動があった。

谷の目前まで来ると、先を飛んでいた仲間達はひとりずつ、谷に沿うように左右に分かれて去って行った。僕は、そのまま真っ直ぐに谷に向かって行くことにした。
谷は段々に深くなって、(もや)の立ちこめる底へと続いていた。それは規則正しく一直線になっていて、手を加えて作られたものであることが見て取れた。その一段一段に、等間隔で並んだ木が生えていた。そして、その木々の周りに、仲間達が集まっていた。

仲間達は、木の手入れをしているようだった。見れば、その木々には、たくさんの小さな花がついていた。花には、小さな虫達が盛んに飛び回っていたが、その虫も、変化(へんげ)した仲間達の姿だった。
果実で一杯になった(かご)を担ぎ、谷の底から登って来る仲間達の姿もあった。そうかと思えば、小枝を束ねて運んでいる者や、黒い土の塊を入れた籠を持って谷を歩く者、空の籠だけを持って谷へ下りて行く者の姿もあった。
果実の籠を持った仲間達は、谷に沿ってずらりと列を成した大岩の間を通り、姿が見えなくなった。僕は谷を飛び越えて、その大岩の間へと下りて行った。大岩は谷際から奥へ、更に幾重にも並んでいた。そして、そこにも大勢の仲間達が動き回っていた。

大岩だと思っていたものは、どうやら建物らしかった。岩の側面には出入りする為の穴が、幾つも開けられていた。どれも同じように見えるその細長い建物には、各々異なる役割があるようで、そこに出入りする仲間達が持っているものは、それぞれに違っていた。
僕は、その建物の一つに近寄って行った。そこには、果物の積まれた小籠を囲んで一休みしている仲間達の姿があった。

ところが、ここでも仲間達から返されたのは、恐れの波動だった。悲鳴こそ上げなかったものの、周りにいた仲間達は皆、僕が近寄った途端に、さっと離れて行ってしまったのだ。それでも僕は、何とか仲間達と話をしようと努めた。けれど、仲間達は遠巻きに僕を見ているばかりで、意思の疎通は全く図れなかった。次第に、僕も疲れて来て、どうしたら良いのか分からなくなって黙り込んだ。

その沈黙をどう受け取ったものか、遠巻きにしていた仲間の中から、ひとりがおずおずと少し前に出て来て、数個の果実を地面に置いて、急いでまた離れて行った。
僕は動かなかった。それが何を意味するのか分からなかったからだ。
地面に置かれた果実を挟んで、僕達はしばしの間、無言で見つめ合っていた。そうやって相手の波動を探っている内に、ぼんやりとした映像が、僕の核心(あたま)に構成された。
それはさっき見た、果実を食べる仲間の姿をしていた。それに、誰かの後ろ姿が遠ざかって行く映像が続いた。

僕はその映像の通りに、地面に置かれた果実の一つを持って、そこから立ち去った。
僕がそこを離れるとすぐに、遠巻きに様子を(うかが)っていた仲間達が、元のように働きだす気配が伝わって来た。
僕は谷から姿が見えなくなるまで離れてから、足を止めた。そして、そこにあった小さな岩の上に腰を下ろした。手にした紅い果実を見ながら、僕は仲間達のことを考えていた。

流れの洞窟から出て、あの奇妙な穴を(くぐ)り抜けた後、仲間達の様子は一変した。互いに争うようになり、同調音話(シンクロフォーン)も使えなくなった。そして、僕のことを恐れるようになった。
流れの洞窟で暮らしていた時には、仲間は皆、気軽に話し掛けて来てくれた。小さい気力の仲間などは、どうやったらそんなに大きくなれるのかと、(うらや)ましそうに聞いて来たものだった。正直、それには、分からないと答えるしかなかった。けれど、それで仲間が嫌な顔をすることもなかった。
強い流れの場所では大きな気力の者がそれを遮る壁になり、状況の微妙な変動は、小さな仲間達が真っ先に知らせてくれた。そうやって、協力しあっていたはずなのに、洞窟を出た途端に、同じ仲間が争い、喰いあった。

(そう言えば、この谷では、仲間達は争っていなかった。)
その事に気が付いて、ようやく少し元気が出て来た。僕は、手にしていた果実にかじりついた。それはとても甘くて、水分(エネルギー)をたっぷりと含んでいた。食べ終えると、僕は再び、谷へと向かった。今度は、いきなり仲間達に近付いて行ったりはしなかった。
代わりに、谷に沿って飛びながら、仲間達の仕事の様子を見て回った。

谷は延々と続いていて、行けども、行けども、終わりが見えなかった。谷で作られていたのは、果樹だけではなかった。草のようなものが植えられた場所もあれば、中型の動物を集めている場所もあった。その動物は、そこで働いている仲間達よりも大きな体をしていた。けれどもその動物は、気力(ちから)で言えば小さな存在(もの)だった。

仲間の気力と言えば、この農場のような谷で働いている仲間達、それは流れの洞窟で一緒だった仲間達の何倍もの数だったが、どの仲間も、流れの洞窟の仲間と同じくらいの気力しかなかった。
つまり僕は、仲間達の誰よりも飛び抜けて大きかった。
もしかすると自分が異常なのではないか、という不安が、次第に僕の中に生まれて来ていた。だから仲間達は、僕のことを恐れるのではないだろうか。だとしたら、僕の居場所はどこにもないのではないのだろうか、そんなことを考えはじめていた頃だった。

上空を通り過ぎて行く波動(ちから)を感じて振り返ると、僕とほとんど同じ大きさの仲間が、僕が最初に出て来た、あの池のある谷の方からやって来て、真っ直ぐどこかへ向かって行くのが見えた。
(ゆう)々と長い尾を(なび)かせて飛ぶその姿に、僕はしばらく見()れていた。それから我に返って、(あわ)ててその後を追い掛けた。

何の目印もないような茶色一色の大地の上を、仲間は迷うことなく飛び続けた。濁った黄色の昼が過ぎて……そちらの方が明るいので、僕はそれを昼と呼ぶことにしていた、紅黒い夜が来ても、仲間は飛び続けていた。
大地には所々に黒い谷、作られたものではなく本物の谷があって、その周りにだけ、少しの草が生えていた。
それから昼と夜が繰り返されて、農場の谷を飛び立ってから十日後の昼、ようやく地平の端に何か黒いものが見えた。それが、急峻な山だと言うことが分かるようになり、その(ふもと)に半円形の谷があることがはっきりと見えて来たのは、もう夜になってからだった。

仲間は、その半円形の谷へ向かって飛んでいるように見えた。しかし、彼は谷が近くなると、速度を落として、そこに広がる荒れ野に降り立った。彼はそれ以上、先に行くつもりはないようだった。僕は、仲間に声をかけてみた。
「ねえ、ここに何があるの?」
けれど、仲間は僕の問いには答えてくれなかった。それどころか、こちらを振り向こうともしなかったので、僕はその仲間に近寄って行った。
相手の結界を感じ取った僕の感覚器が、危険だとしきりに騒ぎ立てたが、僕はそんなこと気にも止めなかった。それよりも、仲間に聞きたいことがたくさんあったのだ。
「どうしてここに来たの?」

警戒線に接触して来た僕に対して、仲間は(うな)り声を上げた。僕は、結界に触れないぎりぎりの所へ退いて、敵意がないことを示した。
「何をしているの? ……ねぇ、どこから来たの、そもそもここはどこなの?」
彼はこちらを見据えたまま、何も言わなかった。それでも構わずに僕は質問し続けた。
それに対して仲間は、いきなり威圧的な波動を送りつけて来ることで応えた。僕は、大急ぎでそこから逃げ出さなければならなかった。

(あれに触れたら、(たま)ったものじゃない。)
どうしたら良いものかと、離れて様子を(うかが)う僕に対して、仲間は、ふん、とでも言いたげに一度こちらを(にら)みつけると、どこかへ去って行ってしまった。
(しつこいと思われたのだろうか。)
独りに戻って、僕は少し寂しくなった。けれど、そんなに落ち込んでいたわけでもなかった。同じような気力(ちから)の仲間がいると分かったことで、僕の気分は随分と楽になっていた。

僕は、荒れ野に点在している褐色の草地の一つに移動した。草地は、大地の割れ目のような小さな谷に沿って広がっていて、その細い谷間から立ち上る薄い(もや)が、草地に(わず)かの湿りを与えていた。
その草地に集まる小さな生物に変化(へんげ)したりしながら、僕はしばらく辺りを探索して過ごした。その内に、僕のいる草地にひとりの仲間がやって来た。

その時、僕はその草地を離れていた。そろそろやることもなくなって来て、ここを離れようと考えていた頃合だった。そこに現れたのは、僕よりも少しだけ小さな気力の仲間だった。
小さいと言っても、その気力は農場の谷にいた一番大きな仲間の三倍くらいはあったから、農場の仲間から見たら僕と同じだと思うはずだ。

僕はこれまでのことで()りていたから、すぐにその仲間に近付いて行くことはしなかった。彼は始め、しきりに僕を気にするような視線を送って来た。けれど、僕が離れた所に留まっていることを確認すると、ひとしきり辺りをうろついた後で、草地の真ん中に座り込んだ。
どうやら彼は、そこに集まっていた小さな生物に興味をそそられたらしかった。しばらく顔を寄せてそれらを観察していたかと思うと、彼はおもむろにその生物の一つに変化した。単純な生物から、次第に複雑な生物へと変わるその姿を、僕は離れた所から眺めていた。

その変化(へんげ)には、何か目的があるようには見えなかった。彼は、短い時間で次々と姿を変え、それを日に何回か繰り返していた。
その様子が変わったのは、彼がこの草地に来て半月ほど過ぎた頃だった。
それまで短い間隔で変化を繰り返していた彼が、ぱったりとそれを止め、その代わりに、体を地面に伏せたまま身動き一つしなくなったのだ。
何か気になるものでもそこにあるのだろうか、と僕が考えていたら、突然、仲間の波動が縮小しだした。同時に姿もみるみる薄くなって、核心(コア)の紅い光だけがより鮮やかになった。
そして、驚いて見つめる僕の目の前で、波動(ひかり)は爆発するように元の大きさを取り戻し、そこからひと回り凝縮して形を成した。彼は、人形(ひとがた)になっていた。

人形(ひとがた)と言っても、それはあまりヒトには似ていなかった。耳は尖っていたし、腕も少し長過ぎるような気がした。
どちらかと言えば、その姿は、母のお腹の中で聞いた物語に出て来る〈猿猴(さる)〉に似ていると思った。お話の中の猿猴(さる)は黄色くて長い毛並みをしているそうだけれど、目の前の仲間の姿は、全身が元の姿と同じく紅い色の短毛で(おお)われていた。頭のてっぺんにある髪の毛は短めで、逆に後頭部から首にかけては長い毛が生えていて、全体的に元の姿とほとんど変わらないと言っても良いくらいに思えた。

それでも、彼が立ち上ると、少しヒトらしく見えるようになった。彼は不思議そうに自分の手足を見つめ、それから歩き出そうとして、失敗した。
前に踏み出した足に上半身が追いつかず、腕で均衡を取ろうとしたが、そのまま地面に突っ伏してしまったのだ。それから、ひっくり返ってみたり、尻餅をついたり、つんのめったりしながら、彼は次第にその体に慣れて行った。
そうやって人形で歩けるようになると、彼は元の姿に戻り、そして、翼を広げて飛び立って行った。僕は、彼がどこに行こうとしているのか、とても興味があった。だから、彼が気にしない程度の距離をあけて、後を追いかけることにした。

彼が向かった先は、あの半円形の谷だった。
半円形のその谷は、不思議な場所だった。谷に近付くにつれて、大気は少しずつ熱を帯び、密度を増して行った。加えてそこには、地面に向かって引く力が強く働いていて、次第に飛ぶことが難しくなって行った。更に近付いて、谷の外縁には周囲をぐるりと取り囲む高い壁がある、と分かるようになった頃には、もう飛び続けられなくなっていた。だから僕は、歩いてその壁を目指すことにした。前を行く仲間も、同じように地上に降りて歩いていた。

谷に沿って巡らされたその高い壁に、何ヵ所かの門が設けられているということは、遠くからでもはっきりと見えた。仲間は真っ直ぐに、その門の一つに向かって行った。
そこには人形をした数名の仲間が立っていた。前を行く仲間は、門に立つ仲間と何やら話をしていたようだったが、一度門を離れて人形に変化すると、今度はそのまま門を通って、姿が見えなくなった。

僕もその後を追いかけて、仲間が通って行った門に向かった。門の横に立っていたのは、先に門を入って行った仲間が人形になったのと、大体同じような姿をした仲間達だった。但し、違うのは彼らが服を着ていたことだった。それは見たことのない形をした服だった。その服を着た仲間は、草地で仲間が変化した時にみた裸……と言ってよいのだろうか。まぁ、服を着ていないから裸なのかも……それよりももっと、ヒトに見えなかった。服を着ていることで、逆にヒトとの差異が強調されている感じがした。

僕は恐る恐るその門に近付いて行った。門はそそり立つ壁の高さに見合う、巨大なものだった。その門の左右に立っていた仲間の片方が、近寄って来る僕のことをじろりと睨むと、門の前に立ちはだかった。
「ここより先は、人形(ひとがた)でなければ通ることは出来ない。」
流れの洞窟を出てから初めて聞く明瞭な念話に、僕が驚いていると、横に立っていたもうひとりの仲間が、何かの包みを放って寄越した。僕が慌ててその包みを受け取ると、仲間はもうそれ以上用はない、という様子で、元のように門の脇に立った。

僕は包みを抱えたまま、その仲間達を交互に見た。僕の頭の中は疑問でいっぱいだった。
(一体この先に何があるの? どうして、人形でなければならないのだろうか。)
目の前にそびえ立つ壁は、波動(ちから)の干渉を拒んでいて、その内側の様子を探ることは出来なかった。
僕はここがどこなのか、門に立つ仲間に聞いてみようと思って、声をかけようとした。ところがそれよりも先に、仲間が苛々とした声で、向こうへ行けと僕に言った。
「ここを通るなら、それに着替えて来い。同じことを何度も言わせるな。」
その剣幕に、僕は走ってその場を離れた。

門から姿が見えなくなる所まで来ると、僕は手にした包みを開いてみた。そこには、門に立つ仲間が着ていたのと同じ、暗い紺色の上衣と生なりの下衣、それに帯という一(そろ)いが入っていた。ただ帯の色だけは、門にいた仲間が着ていたものと異なっていた。
僕はそれらを、一旦傍らに置いて、かつて出来なかった人形への変化(へんげ)が出来るようになっているか試してみた。それは、意外と簡単だった。一度、身体が内側から解けて行くような感覚があったかと思うと、すぐに凝縮してがっちりと密に形を成した。
地面に足が着いた感触があって、僕は目を開いた。目を閉じたつもりはなかったのだが、人形に変わると優先される感覚も変わるようだった。元の姿の時は、実際に見るという視覚をあまり使っていないと言うことに、人形になることで気が付いた、そんな感じだった。

ところが、思っていたよりも簡単に変化できたまでは良かったのだが、人形になった僕の背丈は、元の姿の時より遥かに小さくなっていた。荒野で見た仲間の姿や門の仲間と比べても、半分くらいの身長しかなかったのだ。無論、彼らの大きさで作られた服など着られたものではなかった。

僕は困り果てた。あの門に立つ仲間の剣幕からして、人形にならないとそこを通してはくれないだろう。けれど、貰った服は大きすぎて着ることは出来ないし、変化した僕の身体は仲間のような毛も生えていなくて、ヒトのようにつるつるしていたから、服を着ないわけにも行かなそうだった。仕方なく、僕はもう一度、門の所へ戻ることにした。

再び元の姿のまま戻って来た僕を見て、門に立っていた仲間は、あからさまに不快な顔をした。僕は何か言われる前にと、急いで事情を説明した。
「そんなことがあるわけがない。」
僕の説明を半ばで遮って、仲間は今にも怒りだしそうな顔で言った。
「だって、本当のことなのだもの。僕にはあの服は大きすぎるし、だからと言って、裸で歩きまわる訳にも行かないでしょう?」
「当たり前だ。そんなみっともない格好でうろつくことは許されん。」
「だから、このままの姿でここを通して欲しいのだけど……。」
僕のその言葉を聞いた途端に、仲間の表情が一段と険しくなった。
「ええい、ならん! ならんと言ったら、ならんのだ。」
噛み付くような大声で、その仲間が言った。その声に、何事なのかと、別の仲間が門の脇に設けられていた小屋の中から顔を出した。

「ここを通りたければ、人形で来い。」
門に立つ仲間は、それだけ言うと、ぎっ、と僕を(にら)みつけて沈黙した。
僕は何とか分かって貰おうと、もう一度詳しく事情を説明した。けれど、その仲間はもう何も答えてはくれなかった。
「それだけの気力(ちから)があるのなら、変化(へんげ)出来ない訳はないだろう?」
小屋から出て来た仲間が、横合いからそう声をかけて来た。その仲間は、門に立っている仲間よりも一回り大きな気力、僕とほぼ同じ気力を持っていた。
その為なのか、その仲間の顔の造作は、もうひとりの仲間と比べて、少しだけヒトに近い感じがした。

「人形になれないのではなくて、大きくなれないの。」
僕は、話を聞いてくれそうな仲間が現れたことで、勢いづいて言った。
「大きくなれない……? どういう意味だ、それは?」
「言葉通りだよ。貰った服は大きすぎて、僕には着られない。だから、もっと小さな服があると良いのだけれど……。」
途中から仲間が呆れたような笑い声を上げたので、僕はむっとして話すのをやめた。

「そんなことはないだろう。いいや、ある訳がない。ここに来る若竜は皆、もう成竜(おとな)になる大きさだ。服が多少緩いくらいは、帯で調節すれば済むことだ。」
仲間の言葉には、ちょっと馬鹿にしたような響きがあったから、僕も意地になって言い返した。
「本当に、本当だってば。見ていて!」
その時はもう、恥ずかしいなんて気持ちはすっかり忘れていて、僕はその場で人形に変化してみせた。
(しゃく)に障ることに、元の姿なら目の前の仲間と同じだった僕の背丈は、人形になると相手の(へそ)の高さまでしかなくて、僕は仲間を見上げる格好になった。それでも馬鹿にされまいと、精一杯力を込めて仲間を見返した。

仲間達は、呆然(ぼうぜん)と口を半開きにして、僕を見ていた。すっかり固まったその表情が少し解けて来た時、仲間の心の中に生まれていたのは、驚きだけではなかった。漠然(ばくぜん)とした恐怖がその内に紛れ込んでいて、僕は少し怖くなった。これまでに出会った仲間達が、何度も僕に対して示した感情に、それは良く似ていたからだ。
「そんな……そんな馬鹿な。ありえない……。」

仲間達の混乱した(つぶや)きが聞こえ、最初に僕の相手をしていた少し小さな気力の仲間は、後退りして門にぴたりと身体を寄せた。出来ることならこのまま門の内側に逃げ込みたい、と思っていることが、彼の波動から伝わって来た。一方の僕と同じ気力の仲間の方は、首を振りながらしきりに、有り得ないと繰り返していたが、その目はもう僕を見てはいなかった。
僕は、自分のしたことを後悔した。折角、念話(はなし)が出来て、ちゃんと相手をしてくれる仲間に出会えたのに、これで相手を怖がらせてしまって、農場の谷の時と同じように、ここから去れと言われたら、今度はどこへ行けばいいのだろう。

「あの……。」
不安に駆られた僕は、そっと仲間に声をかけた。それにも関わらず、仲間達は飛び上がった。同じ気力の仲間の方は、ついでに壁際まで飛び退いた。
「ありえない。……いや、あってはならない! お前……そう、お前は産洞に帰れ。まだ、ここに出て来る時期(とし)じゃあない。まだまだ大きくなれるのだから。……ほら、早く行け。行けったら!」
僕と同じ気力の仲間は、投げつけるようにそう言うと、小屋の中に逃げ込んで行った。残されたもうひとりの仲間は、それを恨めしそうに見遣ったが、僕が見ていることに気が付くと、真っ青な顔で一歩後ろに退いた。と言っても、もう背中は門にくっついていたから、そういう気分だった、と言うべきだろう。

僕はそこから逃げ出した。半円形の谷から充分に遠ざかって、飛ぶことが出来るようになると、僕は翼を広げた。そのまま、荒野を越えて、農園のある谷も通り過ぎ、あの池のある最初の谷に戻るまで飛び続けた。
半円形の谷で出会った仲間の念話から分かったことには、どうやら、僕の一族は成竜(おとな)になるまでは、仲間が産洞と呼んだこの谷で過ごすものらしかった。みんな、この谷で十分な気力(ちから)をつけてから、農場の谷や半円形の谷へと出て行くのだ。

気力が必要なだけあれば、人形(ひとがた)の時も基準の大きさに、つまりは、あの服が着られる背丈になると、こちらは僕の核心(コア)の中の記録が教えてくれた。
だとすれば、今、僕のするべきことは、気力を()めて大きくなることだった。だから、僕は最初の池に戻った。この世界の大気は精気(エネルギー)をほとんど含まず、乾ききっていた。その大気の中では生長は全く望めなかった。少しでも精気の強い場所と言って、僕が知っていたのは、池のあるその場所だけだったのだ。

『暁蕣花の咲く処』』(ある子竜の物語)第3章〈3〉 ~フラットアース物語②

『暁蕣花の咲く処』』(ある子竜の物語)第3章〈3〉 ~フラットアース物語②

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-09-01

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