盗む女 後編

盗む女 後編

狭いベッドが置いてあるだけの余分な装飾も備品もない部屋は余計無機質に感じた。
麻酔はとうに()めている様子だが麻耶は壁際に横を向いた切り身動(みじろ)ぎもしないでいる。
看護師たちの控え室があるのだろう、明るい談笑の声が廊下に反響し間近に聞こえて来た。一箇所あるだけの開き窓の外に針葉樹が見えていて、時折雀類(からるい)混群(こんぐん)が賑やかに餌を求め(まつ)わりつくようにその小さな頭を覗かせていた。
「─エナガやったっけ、あん小ちゃな鳥。─可愛らしなぁ─」彩音がそうぼんやり呟いた少しの間の後、
「─ちょっとの間、ほっといてんか─一人にさせてや─」小さく声を震わせて麻耶が口を開いた。
「─あ、─うん─」そう言いパイプ椅子から立ち上がりドアノブに手を掛けた。出掛け際、
「─かんにんな─」背に聞こえた彼女の声は明らかに泣き声だった。
病院にかかり正式に受胎を診断された嬉しさも束の間(つかのま)、三月目に入り間もなく突然トイレで出血したのだった。
「─どうやら、お胎の中で育ち切らなかったんでしょう─。直ちに堕胎の措置をしなければなりません─」気の毒そうに眉を寄せ診断を告げる女医の言葉を前に二人とも暫く応じることが出来ずにいた。目醒めの前の良くない夢から起こされるのを待つようにただ眼を合わせ(またた)きもせず動けずにいた。

春薄暮(はるはくぼ)の情景が(うつ)ろで目に沁み入るように悲しく感じた。
病院の近くに造成され間もない閑静な住宅街がありその中央に造られた広い敷地の公園のベンチに腰掛けていた。夕餉(ゆうげ)の支度をしているのだろう、どこからか味噌汁の良い匂いが漂ってくる。そう言えば朝方の緊急事態から何も口にしていない。
「─下賤(げせん)やわ。─こないな時にもお腹は空くもんやねんな─」そう自嘲するとやるせない気持ちがより一層押し寄せて来るようだった。男との関係が致し方ない縁のなかった事だとするならば、授かった命を一体どう解釈すれば溜飲(りゅういん)が下がるのだろう。紛れもなく彼女を選び母胎に宿った命を─。恐らくは多くが経験しているのだろうあまりにも哀しい事実は果たしてこれこそが「宿業」なのだろうか─。
『人はこの世に使命を持ち産まれ出ずる。だが時としてそれを果たせぬまま輪廻(りんね)に準ずることも多い。だがそれは決して志し半ばではなく、時の縁(えにし)の巡り合わせに不遇であったが故のこと。例えば悪縁の命は業火に焼き尽くされまた命の修行を繰り返し、短い命はまた使命を輪廻へと繋げる。生きることに苦しみが多いのは当然のこと。生とは即ち、修行。過去世より(にな)った「宿業」を繰り返し繰り返し、ただ乗り越えて行く修行の道である─』とはまだ彩音が中学の時、夏に海の事故で亡くなった親友の葬儀の際の寺の住職の説法だった。いくつもの悲しい葬儀に参列し棺を見送る度、何故かその説法を思い出した。歳を重ねながら少しずつその意味が分かって来た気がするが、今日のあまりにも深く悲しい出来事に(ことわ)りをこじつけることはしたくなかった。
不意にまた()き上げる涙をぎゅっと眼を閉じて辛うじて耐えると彩音はやっと腰を上げた。
病室に入ると麻耶は既に帰り支度を整え、ベッドに腰掛けていた。退勤時間が近いのか看護師たちの声は先刻より賑やかさを増して聞こえる。
「─もう、ええんか─?─歩けるか─?」掛けてやるべき言葉が見つからなかった。
「─うん」そう応えて上げた泣き()らした眼元にまだ涙が滲んで見えた。
「─行こか─」そう言い荷物を持ち労わる思いで彼女の背に腕を回し支えるようにして廊下に出、また笑い声が高らかに耳に響いて来た次の瞬間、辛うじて(こら)えていた感情がいきなり弾けた。声の洩れ聞こえる控え室の前に立つとドアを開け放ち、
「─あんたらな、何が一体おかしいんやッ!─娘がな、うちの子がついさっき、お胎ん中で児ぉ、亡くしたんやでッ!知っとるはずやッ─!そんな患者がおる分かっとって─ようも愉快そうに─ようも、そないに─」激昂(げきこう)し声を震わせながらそう(なじ)りつけ言葉を切ると、彩音はその場に(うずくま)り声を詰まらせ泣き出していた。
帰りのタクシーの中で二人は一言も言葉を交わさなかった。何かを言えばまた泣き出してしまいそうで、泣けば何かを叫び出してしまいそうで、ただ黙って互いに寄り添い合っていた。

「─そら、えらいことやったなぁ。可愛そうに─。あんたも、ほんまに難儀なことやったなぁ─」眉を(ひそ)めて鈴村が口を開いた。鈴村は店から近い場所にある中堅の会社の人事部長を務めていて本来の地元であるこの地に一年前、東京の本社から単身赴任して来た。ふらりと一見で立ち寄りカウンター越しに棚に並んでいる酒の種類に眼を見張ると、
「─驚いた─プロやなあ─!玄人の店や─」そう感慨深げに言い以来常連として訪れている。仕事柄なのか聞き上手で穏やかな物言いがどこか夫に似ているような気がし気構えなく色々なことを話せるのだった。時折アフターに誘われ麻耶を伴い食事をすることもあり、彼女も「おっちゃん」等と無遠慮に呼ぶ間柄になっていた。
「─早よ、忘れるよりせんないわなぁ。まだ若いんやさかい─」つまみのピスタチオの殻を右手の指先で割り口に入れながらそう言うとふと目線を宙に留めて、
「─公平なんぞ、ほんまにあるんかのう─。なんやあの子のこと見とると、信じ難いのう─」深く吐き出すようにそう付け加えた。
物心ついた頃から施設で育ち、しかし折り合いが良くなくなるとそこでの生活も窮屈で居心地が悪くなった。本来なら二十歳までは保護されるべきとの法制があるのだが、麻耶の居た施設は受け入れている人数が多く在学中の者以外ほとんどが十八の歳を待たずに自立を迫られる。施設内でも盗癖を見咎(みとが)められた彼女は周囲の(そし)りに耐えきれずに十六の歳で厳しい社会の現実に身を投じたのだと言う。
現在に至って店に来るまでの経緯の全てを話すことのない理由は、そこに辛酸を舐めつくし思い出したくもない事実があるからに他ならないのだろう。
(くだん)の恋が初めての恋愛だった。彩音はそう確信している。あれほど愉しげに生き生きとした彼女を見たことがなかった。まだ(つたな)い人生経験の少女を毒牙にかけ(たぶら)かせ挙句(あげく)(もてあそ)び、「愛」という一縷(いちる)の光明さえ踏みにじった狡猾(こうかつ)な男の所業がどうしても許せなかった。
「─憎んどんねやな。麻耶を傷つけた男を─」険しい表情をしていたのだろう、心情を察した様に鈴村が呟いた。
「─それより、先に進むことや。憎しみや怒りからは、なあんも産まれへん。あんたらの、行く手の邪魔んなるだけや─」そう穏やかに付け加え向けられた笑みが不意に亡き夫の面影に重なると、
『─何があってもな。夜が明ければまた、始まりや。お天道さんに掌を合わせたら、また一日が始まる。─先に進むだけや─』初めて店を訪れ泣き伏せていた彩音に掛けてくれたそんな言葉が記憶に蘇るのだった。
「─せや。こないだ、頼まれた話しな。何件か口利きできるで─」鈴村はそう言うと黒革の鞄から大振りの封筒を何通か取り出した。

「─ちょっと、早よしてや。さっきっから、ずっと待っとんねやで─」口を尖らせて麻耶が空のアイスペールを振っている。
「何やのん?自分で行ったらええやん─」歳上のホステスにそう(たしな)められるのだが歯牙(しが)にも掛けぬ様子で新人の子に使いを促した。
「─ちょっと、ママ。どないか言うてよ、何やねん、あの態度」別なホステスからもそんな不満が洩れ聞こえる。言う通り彼女の動向には目に余るものがあった。
辛い堕胎からひと月ほどしてまた店に出るようになったのだがどこか傲慢(ごうまん)で無遠慮な言動が目立つ様になっていた。当初は痛ましい内情を察し優しく接しようと誰もが労わる目で見ていたが度重なる我儘(わがまま)な振る舞いに気遣いもやがて反感に変わって行った。

「─あ、ちょっと。そこのボックスはうちが入るから、うちのお客やねん─」他のホステスと談笑している常連のちょっと目イケメンを認め麻耶がずけずけと席に割り込んだ。思わずホステスが睨みつけるようにすると、
「何やの、あんた。うちの彼氏やねんで、なあ?」と一瞥(いちべつ)した目線を甘えるように瞬時に変え男の肩にしな垂れ掛かるのだった。
カラコンをリリーブラウンに変えすっかり慣れたメイクにも自分のスタイルを確立させた彼女の風貌は曽て(かつて)の少女を思わせる面影は残されておらず、造作された夜の灯りに映える男を魅了して止まぬまさに蝶の如くの(つや)やかさを放っているようだった。だがそれは思いつきにも似た単なる変貌であり決して成長ではないことを彩音は当然認識していた。
主であった夫を失い生業として店を存続させて来たが彼女を長い期間、偽りに満ちた夜の仕事に同行させてしまっている現状が誤ちであることを再び後悔していた。
『─しばらく、ここにおったらええ─』初めて麻耶が訪れた晩の夫のその言葉から身近に置いた時間が長過ぎた。
(わび)しく世知辛(せちがら)い日常を外れ、たったひと時の癒しを求めて来るその接客のその先に普通の女性としての幸福などあり得はしない現実を誰よりも知っているはずなのに─。
今更ながらだが、娘の幸せを当たり前に願う当たり前の母親にならねば─。幻想的な店の照明に浮かび上がる美しい肢体を見つめながら彩音は改めてそう決意していた。

「─あのな。ええお仕事があるんやて─」唐突に意味が飲み込めない風に麻耶が見返した。
「─おっちゃん、おるやろ。あんたにな、どないやろ言うてな。昼間のお仕事やねん─」彩音がそう付け加えると彼女は怪訝(けげん)そうに味噌汁に入れた箸の手を止めて、
「何やねん、今更」そう言って箸を宙にぶらぶらさせさも愉快そうに声を立てて笑った後、
「─あんな、あーちゃん。うちにはもう、この仕事しかあらへん。昼間の仕事やらやらへんて。この仕事で接客極めてな自分の店、持つんや」そう返しきっぱりした目で彩音を見つめた。
「─何を言うねん。これからなんやで?あんたは。これからちゃんとしたええ人見つけて所帯持って、ちゃんと幸せにならんと。おとんかてそう願っとるはずや。うちかていつまでもあんたに夜の仕事さしとくつもりはないねんで─」そう言うと彼女は不意に顔を曇らせ手元に眼を落とし暫くの間の後、
「─なれへんわ。そんなん─なれる─わけが、あらへん─」そう呟き薄く笑った。

「─何があかんねんな」鼻白(はなじろ)んだ様子で麻耶が眼を上げた。
「─そんなもん、どないなとこかも分からへんやないか」眉を顰め彩音が応えた。
「─ちゃんとサイトもあるねんで?スマホ、見てみ?まだ新進の事務所やねん─」色めき立っていた表情を俄かに曇らせて麻耶が反発した。
日曜の今日、午後からウインドウショッピングに繁華街を歩いていると唐突に芸能事務所のスカウトを名乗る男に声を掛けられ、とりあえず近々にある雑誌のモデルのオーディションを受けないかと誘われ先ずは契約をと迫られたのだと話した。
「─あちこちでニュースにもなっとるやないか。ようさん女子が(だま)されたり、脅されたり─そんなん、うちはよう承諾せえへんよ」語気を強めてそう言うと少しの間の後、麻耶は肩をすぼめ実は既に署名をしてきてしまった実情を(つぶ)らな上目遣いを()らしながら小声で洩らしたのだった。

「─ほな、行ってきます」折からの雨に傘を広げそれでも手を振り愉しげに出掛けて行く背中を見送りながら安堵していた。
人脈の多かった亡き夫の伝手や広告代理店に勤めているという客を頼りに調べてみたのだが芸能事務所はどうやら裏社会に通じているような実状はないらしく、とにかくまた麻耶に元気な笑顔が戻ったことが何よりだった。契約後、雑誌を含めた幾つかのオーディションに合格したのだと嬉々として報告する様子は初めて若者らしい溌剌(はつらつ)さに輝いて見えた。
「─えっ!すごいやん!ほな、これから雑誌とかドラマとかにも出たりするねんな。めちゃカッコええわっ」同僚のホステスたちのそんな羨望の声に笑みを返せるほどの素直さが初々しさにも満ち微笑ましく目に映るのだった。
栗花落(ついり)の雨が出掛けの足許を濡らして来る。
暮れかけた繁華街の雑踏を舗道に出来た水溜りに映り込みゆらゆら揺らぐ街灯の明かりをぼんやり見ながら歩いていると雨音に混じり不意に、
『─人生はな、潮の満ち引きみたいなもんや。引いたと思ても、やがてまた満ちて来る─』いつかの夫の穏やかな声が聞こえた気がして彩音はふと足を止めて薄闇の雨空を見上げた。

充満している消毒の匂いが余計に気持ちを不安にさせるようだった。
つい先刻の男とのやり取りを思い返しながら外科の診察室を探していると無機質な渡り廊下に時折、金属が触れ合う音や籠りながら響き渡る子どもの泣き声が聞こえて来る。
「─何しろ、いきなりのことでしたから」そう言い困惑気味に眼を上げた男を蒼白(そうはく)に見つめ返すと、
「─いや、当社としましては今回の事を公にするつもりはございませんので。彼女も相当な怪我を負ってしまっていますし─。ただ、かなり高額な機材を何台か損壊されてしまいました─。その件につきましては、また後日ということで─」終いの言葉尻りを(にご)し丁重に頭を下げ待合室のソファから腰を上げた。それが弁償を意味していることは容易に理解出来たがそれよりも麻耶の怪我の方が心配だった。何故詳細が説明されないのか合点が行かなかったが男の言葉からは事の顛末(てんまつ)も経緯も何も推し量ることさえ出来ない。
当初から予定していたPVの撮影の途中、突然アクシデントが起きた。彩音の求めにそれだけ答えた男の説明の真意に思考を巡らせてみても事実に行き当たる筈もなかった。
診察室の前の長椅子で待つ時間ももどかしく丁度カルテを抱え忙しげに通り掛かった看護師に経過を聞こうと声を掛けようとしたその時、診察室のドアが開き漸く顔を(うつむ)けた麻耶が出てきた。右腕の手首から肘にかけ螺旋(らせん)に幾重にも包帯が巻かれ手首の辺りの純白の繊維に滲んで見えている血の赤が痛々しかった。

「─いつの、ことや─」一点を凝視したまま眉を顰め瞬きもせず彩音が口を開いた。暫くの間の後、
「─十五、─誰も、知らへん─見られへんように、しとった─」乾いた声を震わせ麻耶が応えた。
椅子に深く掛け美しく伸びた左脚を肘掛けに乗せ開いた内腿の奥に(えぐ)り削られたような深い傷痕が見えている。それは麻耶の言う通り、指の先で粘土を抉り取ったみたいに深く傷ましい陰影を残していた。
『─黙っとるんやぞ─誰ぞに、─言うてみい─殺したるぞ─写メも、ばら撒いたる─言われて─』そこで言葉を切ると向けている黒眼がちの大きな瞳から涙が(こぼ)れ落ちた。
施設を早く出て来た理由の真実を初めて知り彩音はあまりの(おぞ)ましさに震撼し絶句した。折に触れ彼女が不安定な挙動を現した要因は親に放棄されたトラウマのみならず思春期に受けた性的な虐待にもあり、しかもその相手は施設長だったと言う。
『─何で捨てられたんか、分かるか─出来損ないやからや─お前が─要らん子ぉやったからや─』真夜中、自分の寝室に連れ込み行為に及びながらそう執拗に耳元で囁いたと言う。男が自分の中に欲情を吐き出し果てるとついには堪らなくなり麻耶は泣きわめき半ば発作的に自分の指を股間に移すと渾身(こんしん)の力を爪先に込め秘部に近い肉を抉り取った。途端に吹き出す血飛沫(ちしぶき)が二人共の下半身を濡らすと、男は驚愕し眼を大きく見開きやっと(おび)えた様に身体を放したのだと言う。
『出来損ない─』─。
あの日─。繰り返していた愛おしい我が娘の哀しい言葉の所以(ゆえん)がやっと飲み込めると居た堪れない気持ちが衝き上げ、涙が(せき)を切ったように溢れ出て来た。
「─かんにん、な─」麻耶が潤んだ目を向けた。彩音が見つめ返し首を振ると少しの間の後、
「─ほんまはな、─初めてやなかったんや─流してしもた子─」呟くようにそう言った。
「─え─?」咄嗟(とっさ)に意味が解らず聞き返すと苦しげに(うな)る様に二度深く呼吸をした後、
「─そん時、─でけた子─堕したんや─こないだが─二度目やった─せやさかい─バチが─当たった─んや─」(かす)れた声でやっとそう応えた。長い沈黙が流れた。返してやるべき言葉が見当たらなかった。過日、普通の幸せを願う話しをした際、
『─そんなん─なれる─わけが、あらへん─』自嘲しそう応えた暗澹(あんたん)とした表情を思い出していた。
「─ええから─。─もう、何も言わんで、ええ─」せめて寄り添う思いでそう言葉を掛けると、
「─誰にも─言わんかった─そんなん─よう─言えへんやろ─」途切れ途切れに震えたその言葉が長い間独り苦しんで来た彼女の心情を伴い、彩音の内に沁み入る様に伝わって来るようだった。

「─とにかく、契約書にも明記されてます通りの仕事しかさせておりません。彼女が執拗に嫌がっていた理由はいまだに分かりませんがPVを撮り各代理店にアピールする上でセミヌードに近いビジュアルを求めることは当たり前のことなんです─」苛立(いらだ)ちを隠さずに男が言った。
PV撮影はシチュエーションを変えながら進行して行く。徐々に肌を露出する演出に途中、麻耶はかなり抵抗を示したがスタッフの説得に不承不承(ふしょうぶしょう)頷いた。終盤になりBGに合わせ大型扇風機で送った風が横たわる麻耶の着た薄手の生地のスカートのフレアを大きくめくり上げた時突如、激しく暴れ出したのだと言う。アングルを変え撮影していたハンディカメラ2機、メインの大型カメラも転倒させレンズを破損させた。そしてその際機材の鋭利に突出した部分で右手首からを深く裂傷(れっしょう)してしまったらしかった。封印した筈の奥深くに棲みつく鬼が突如、(まばゆ)い光源の許に(さら)されてしまう─。盗癖や不審な挙動、彼女の奇行の理由の全てがあまりに悲痛な「過去」に追い込まれた挙句の衝動に他ならないものであることを改めて理解した気がした。

まんじりとも寝つけず居間のソファに掛け煙草を(くわ)えたが暫くの間忘れたように火をつけずにいた。そのまま灰皿でそれを揉みくちゃにして捨てた後、また新たな一本を咥えシャンデリアの下がった天井を見上げ背を(もた)れると漸く火をつけ吸付けた煙と一緒に深い溜め息を吐き出した。じっと眼を閉じるとまた泣き腫らした麻耶の哀しい顔が浮かんで来る。
「─どないにしてやればええ─?なぁ、─あんた─」そう呟くと思わず声が詰まり彩音の目元もまた濡れそぼるのだった。

機材の損壊は保険金により賄われたと言うことだったが麻耶は当然事務所との契約を反故(ほご)にされた。
自らの過失とはいえやはり数日は喪失感を露わに半ば茫然としていた。
だがやがて遣り場のない風にまた店に出始め暫くすると溜め込んでいた鬱屈(うっくつ)を一気に吐き出すかの様に今度は外で遊びを重ねるようになった。店が跳ねた後もアフターの客と夜明かしして飲み歩きまた外泊を重ねることもしばしばだった。
「─よしゃ!ほな、今日も朝帰りや!」奥のボックス席で陽気に声が上がった。麻耶が外で遊ぶきっかけになった男だ。最近頻繁に来店する男は建設関係の会社を経営していて投資でも儲けているのだと言い傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に麻耶を口説いている。実際落としていく金も大きく上客だった。
「─いややわあ、うち所帯持ちはもう、こりごりやねん」華奢(きゃしゃ)な肩を抱かせ満更(まんざら)でもない風に艶のある笑みを向け麻耶が言うと男は何やら耳元で囁き笑っている。
彩音の中でまた憂慮が産まれるとそれを嘲笑うかの様に男は彼女を夜明かしに伴わせるのだった。
「─あかんなぁ。また、妨げんなっとる─」カウンターでロックグラスを舐め賑やかな席に耳だけ傾けながら鈴村が眉を顰めた。
その晩も帰ることはなかった。電話を入れてみるが応じずに、
『─ちょっと遊んでる。心配せんでな』間を置いていつもと同じそんな短いメッセージが返るだけだった。

翌日の昼近く、漸く帰宅した麻耶の服から深い酒の香と煙草に混じって石鹸の匂いが漂っていた。化粧の肌が疲れて荒れて見えた。
「─妊娠でもしたら、どないすんねん─?また辛い思いすんねんで─?」ただ今、と一言だけ言い怠そうに二階に上がろうとする背中にそう声を掛けると足を止め振り返ることなく、
「─かめへんよ。─どうせ、産まれては来いへんのやから─」そう応えた。抑揚のない素っ気なくまるで他人事を思わせる返答だった。
その晩も男は遅い時間に来店した。
「─麻耶、いてるか─?」木製のドアを開けた途端酔眼を見回しそう声を張った。既に酩酊(めいてい)しているらしく呂律(ろれつ)も怪しい。おぼつかない足取りで入りいつもの席にドスン、と腰を下ろすと辺りを見回した。
「─麻耶あ、どこにおるんやあ」無遠慮な声を再び張り上げ珍しく不機嫌な様子だった。
やがて化粧を直していた麻耶が現れ隣に掛け媚笑(びしょう)を向けると漸くしまりのないその口元を緩めた。
「─何や、おったんかあ。─昨夜はよかったでえ。餅肌やねんな。吸いつくようやった」そう言い綺麗に染めた艶のある髪を愛おしそうに撫でつけながらまた彼女の耳に何やら囁いた。
「─ええっ!ほんまに─」そう言い一瞬飛び退き見返すと男はさも愉快そうに声を立てて笑い、
「─バレてもうたんや。もうこそこそせんでええ。約束の店も出したるしこの際や。一緒んなるか」肩に乗せた手を伸ばし豊満な胸をまさぐりながら艶やかな唇に口づけようとした。麻耶が笑いながらその顔をやんわり突き放そうとした時、カウンターにいた鈴村が静かに席を立った。平日のかなり遅い時間で店内は閑散としていた。眉を顰めボックス席を窺っていた彩音が気づく間も無く鈴村は二人を見下ろす形で立っていた。
「─こん子はな、これから幸せんなるんや。ええか、これ以上ちょっかいかけてみい。わしが承知せえへんで。分かったら、早よ往ね」大柄の身体を仁王立ちして低く抑えた声で男に向かい静かにだが有無を言わせぬ語調でそう言った。

「─何で、邪魔するんやっ!おっちゃん、何なん─?うちの親でもあらへんのに、何を言うてんねん─!」閉店後の静まり返った店内で麻耶が怒りをまくし立てた。男は鈴村の威圧に鼻白んだ様に捨て台詞を残し早々に退散していた。
「─あかんのや。今のままや、あんたがダメんなる」媚びるでもなく鈴村は頰を赤らめ怒り心頭の彼女の前にゆっくり腰を下ろすと目を見据え静かに口を開いた。
「─今までな、せんどしんどい思いを乗り越えてきたんや。幸せにならんとあかん─。あん男は、あんたの行く道を妨げるだけや」淡々と鈴村が言うと、
「─せやから、何言うてんねん!うちに店持たしてくれる約束してんねやで!?うちの夢やねん!」麻耶が睨みつけながら言葉を返した。
「─ほんまか?それが、ほんまにあんたの夢なんか?」前に組んだ自分の(しわ)深く大きな拳に眼を落とし鈴村が訊き返した。ひるんだ風に一瞬麻耶が何かを言い(よど)むと、
「家庭やろ─?家族を持つことが、ほんまのあんたの夢やないか─」声を落としてそう言った。
「─そんなん、叶わんのや─!どうせ叶わんのなら、もう辛抱なんかせんでええやないか─!何をどう我慢したかて、うちは幸せになんかなれへんのや─!─何をしても、─何も─上手いこといかへん─。あの人なんかな、三べんも結婚して子どもこさえて─浮気繰り返して家庭壊してな、せやけど会社経営してまた家族持ってな─なのにな─あんまりや─不公平やないか─!」鈴村に向けた眼差しを震わせて麻耶が返した。瞬きもせずに向き合う二人の間に長い沈黙が流れた。
「─好き勝手に生きたもん勝ちや─。辛抱なんか阿呆らしいわ─」そう呟いた彼女の瞳から大粒の涙が流れた。

香ばしい湯気が鉄板から上がっている。
「─わしな、嘘ついとってん」泣き腫らした眼をふてたように俯けている麻耶に時折気を配る目線を送り、器用にお好み焼きの生地を伸ばしながら鈴村が口を開いた。
彩音が眼を上げると、
「─単身やないねん。えらい昔に娘、亡くしてな。五年前にな、嫁も死なしてしもてな─独りもんやねん」そう言い薄く笑い、年寄りの戯言(ざれごと)やと思うてな。終いまで聞いてや─。そう前置きして話始めた。
「─わしが店に通い始めたんは、ようさんある酒が気に入ったりママさんがベッピンさんやからだけとちゃうねん。─実はな、死に損のうた晩にふらっと立ち寄ってんねん─」彩音が驚いた眼を向けると鈴村はまた口元を僅かに緩めた。
「─嫁はな、─わしが殺した─。仕事にかまかけて、見殺しにしたんや。─えらい咳が続いとってな。風邪や。寝とき寝とき、─そない言うて、病院にもよう連れてかんやった─。─吐血して、初めて連れてって─末期の肺癌やって。─何でもっと早うに連れて来んかったんや。近くにおれば気づいてた筈やって、えらい医者に詰られてな─。─近くにおらんかったさかいな─朝六時に家出て、帰るんは毎日夜中やった。─毎月命日に墓に参ってな─あの日も─。その晩やった。─何や、もう何もかんもどうでも良うなってな─気づいたら、踏切の前やった。─カンコンカンコン、えらい長いこと鳴りよったなあ─ふと足が前に進んでな、遮断機上げて中に入り掛けたんや。ほしたら袖をグッと掴まれて─振り向いたら、幼い子供やった─。女の子でな─幼稚園くらいやな─丁度、亡くした娘くらいやった─。おっちゃん、あぶないで─怖い目で睨まれて、そない言うてグッと掴まれてん─まん丸な目が不意に娘とダブってな─うっかり泣いて抱き上げてまいそうやった─一緒におったおかんが、わしの顔見てな─眼えつぶって、何べんも首振りよった─電車が過ぎて、向こうに渡って見えなくなるまで二人とも見守るみたいに、ジッとわしを睨みつけとった─」鈴村はそこで言葉を切るとコテで生地を見事に返し、手元に眼を落としたまま、
「─何や、不思議やった─。そうや─、娘と嫁や─。わしを守ってくれたんや─そないなことぼんやり考えながらふらふら歩いとったらママさんの店、見つけてな。─入って直ぐ左の奥の鉢に眼が止まった─山法師(やまぼうし)や─、驚いた─。嫁の好きやった花でな、─若い頃、まだ一緒んなったばかりの頃や。山歩きが好きで、山法師の実見つけると摘んで帰るんや。─あけびみたいな味やねんて、皮剥いて黄色い実を口に放り込んでくれた─。あゝ、そうや─。縁やねんな─。危ういところを救うてくれたあの母娘も、この山法師も、この店も─何かしら理由があるから、わしは今ここに居てるんや─。たった今、生きとるんや─。麻耶─。あんたとも縁やねん。もう、あんた─あんたらのことは─他人事ちゃうねん─。麻耶─辛いな。生きることは、ほんまにしんどい。何べんも何べんも自分さえ消しかけることがある。けどな、また燃やすしかないんや。自分の気持ちの埋もれたもんに、もう一度火を灯すんや。何べんも、何べんでも。─死んだ娘にな、教わった─生きてれば、あんたと同じくらいや─ベッドで握りしめた掌はな、終いまで温かやった─小さいけどな、温かやった─。人はな、人を感じる。相手の温みを感じるから掌を繋ぐんや─」そう言って立ち上がると麻耶の横に来て徐にその掌を握り、
「─ええ子やないか、あんたは─。この掌かて、こんなけ温くいやないか─。店を持つことなんぞ、あんたの幸せやない。あんたの愛したおとんがな、きっと見守っとるんやで─きっと、きっとや。─ほんまの幸せになれる─」穏やかに笑みを向け潤んだ声でそう言い、何度も何度も大きく頷いた。

「─ちょっと前なら、ヨシキリの鳴き声も聞こえたんやけどなぁ─」伸び切った雑草を踏み分けながら彩音が言った。久しぶりに歩く雑木林の中はすっかり高くなった空からの陰影の深い陽射しと爽やかな風が心地良く感じた。
「─ヨシキリって、─何やのん?」日頃から昼の陽射しに馴染んでいないからだろう、もう額に汗を滲ませ息を切らして麻耶が訊いて来た。
「─ギョウギョウシ、ギョウギョウシって鳴く鳥やねん。葦って葉っぱ脚で開げてな、自分の卵守るねん。ここにうちの子がいてるんやで。来たら許さへんで、言うてな─」彩音が笑ってそう応えると、
「─それはええけどな、─ちょっとだけ休まへんか─」眉を寄せて麻耶が立ち止まった。
国が管理している林道には所々にベンチが設けられていて二人はそこに腰掛けた。行き掛けに買ったペットボトルの水を美味そうに喉に流し込むとどこからかピィーッ、と甲高い鳴き声が聞こえチョットコイチョットコイーと可笑しな声が続いた。
「あ、コジュケイ─!キジや!羽を広げると綺麗やねん」辺りを見回しながら彩音が言った。
「─ふうん。詳しいねんな、鳥のこと─」感心した風に麻耶が笑った。
「─おとんに教わってん。自然が好きでな、まだ知り合うたばかりの頃や、店も暇な時があって時間にゆとりがあった頃、釣りやら山やらに良う連れてってもうてん」木漏れ陽を見上げ懐かしむ様に彩音が応えた。
「─何や。うちがまだ知らんことも、ようさんあるねんな」少しふてた様に麻耶が外方を向いた。彩音が笑って、
「─あるんかなあ、ほんまに。山法師の実」そう言うと、
「おっちゃんが言うんや。あるやろ─」そう応え上目遣いで彩音を見、何やら含み笑いをした。
「何やのん、けったいやな」怪訝そうに彩音が言うと麻耶はニタニタ笑い、
「─ええ人やな。おっちゃん」意味ありげにそう言った。無言で見返すと、
「─どっか、おとんに似とるしな」そう言い舐める様に彩音の顔を見回した。
「阿保ちゃうか、─」思わず顔を赤らめそう返した時、
「─あ、あの樹ちゃう─?」突如立ち上がり指した指の先に灰褐色の幹が見え、その下に散りばめた様な紅い実が点在している。

「─ほんま甘いわ─!マンゴーみたいやな」小振りの袋一杯に詰めた実を摘み皮を剥くと水菓子みたいな香りがし食べると仄かだがしっかりした甘味が口の中に広がった。
「おっちゃんにも、お土産やな」そう言い満面の笑みを浮かべた麻耶を見つめた彩音の眼から突然、大粒の涙が零れ落ちた。
「えっ!どないしてん、あーちゃん─?どっか痛いんか─?」咄嗟に取り成そうと麻耶が近寄ると彩音は首を振り手で制した後潤んだ眼差しを向け、
「─悔しいんや。いつまで経っても、あんたの言葉が消えへん─。覚えとるやろ─出来損ないや、自分をそう言うたこと─」咎める口調でそう言い、涙を押し込むように目頭を指先で抑えた後、
「─麻耶─?ええか、生きる言うんは、前を向くことや。一歩でも先に行く。理由があるさかい、歩いて行ける。うちの理由は、あんたや。─あんたが、うちの生きる理由やねんで─うちにとって、たった一人の大切な娘や─おとんがな─守ったってくれ。今までせんど、傷ついて来たんや。頼んだで─、どないか、守ったってや─。 そない言うてな─」そこで言葉を切ると俯き啜り上げ少しの間の後また眼を上げ、
「─二度と、言うてみい、─え、─出来損ないやなんて、二度と─二度と、言うてみいや─」やっとそう言うとぎゅっと麻耶の華奢な身体を引き寄せた。抱き寄せた娘の頰は柔らかく山法師に似た水菓子の匂いがした。
「─おおきに。─ありがとう─」途端に顔を歪め麻耶が声を詰まらせると、
「─何や、ちゃんと言えるやないか─、ありがとうが─。初めて聞いたわ─いつもいつも、かんにんや、ごめんなさい─って。─せんど、泣き顔ばかり見て来たねんで─もいっぺん─もいっぺん、言うてえや─」乱れる程愛おしい娘の髪を撫で回しながら耳元で言葉を震わせたその時、不意に強い秋風が山法師の卵の形の葉をばらばらと揺らした。
「─ありがとう─」─お母ちゃん─確かにそう言った麻耶の言葉は、喝采(かっさい)にも似た葉ずれの賑やかな音に優しく包み込まれた─。



─了─

盗む女 後編

盗む女 後編

  • 小説
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更新日
登録日
2019-08-24

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