『暁蕣花の咲く処』(ある子竜の物語)第2章〈2〉 ~フラットアース物語②

〈2〉

一体何が起こったのか分からなくて、混乱していた。
もぞもぞと指の間がくすぐったい感じがして、その手を持ち上げると、一匹の小さくて茶色の甲殻を持つ虫が、大慌てで()い出して近くの岩陰に(もぐ)り込んで行った。
あれはよく一緒に食餌を運んだ仲間だったかなと考えて、何かが違うと感じた。
(そう……あれは仲間とは呼べない。だって大きさが違うし、体が硬い甲で覆われている。仲間って言うのは、外見が似ているものだ。それに……。)

それに、と頭の中で定義を読み上げる声がした。
そもそも、あれは強固な実体を持つ生物だ。固定化された肉体を持ち、それ故に身の内に持つ精気(エネルギー)が制限されている。定形の体は、その大きさを変えることが出来ない代わりに、接触に強いと言う安定した身体の構造をしている。

声は続けてもう一つの定義を提示した。
反対に、我々は流動的な身体を持つ生物だ。不安定な実体を持つ代わりに、身体の輪郭(アウトライン)の自由度が高く、身の内に精気を蓄えることで大きくなる。肉体が固定化されず波動体であるが故に、波動(からだ)の構成を変えて、さまざまな生物の姿に成り変わる事ができ、その能力を千変万化の変化(へんげ)と言うのだ。

(そうか、変化だ。……あの小さな虫達のことを知りたいと考えていたから、無意識の内に変化した。)
変化することで、その生物の生活環や行動様式を読み取ることが出来る。そして、そうやって他の生物を知ることは重要なことだ。
と、また頭に浮かんで来た定義を読みながら、どうやら、そういった世界に対する知識と、体験した事柄の記憶とは、別の形で保存されているらしいと考えていた。

記憶は、思い出そうとしてもさっぱり出てこないのに、言葉は次々と浮かんで来て、一度も不自由を感じたことはなかった。それがどういう仕掛けになっているのか分かれば、記憶を修復することも簡単になるのに、と思って肩を(すく)めた。しかし、出来ないことを、とやかく考えていても仕方のないことだ。それよりも、と頭を切り替えた。

(さっき、何かを思い出せそうだと思ったはずなのだけど……。何だっけ?)
あれは確か、風に吹き飛ばされる前だったと思って、記憶を順にたどり、暗闇の中の朱色の光を思い出した。その景色に反応した記憶の一片には、確かに良く似た光景が映し出されていた。二つの景色は一つの言葉を導いた。

(朱色の光は、たぶん灯火だ。)
灯火という言葉は、夜、明かり、蝋燭(ろうそく)燭台(しょくだい)(つな)がり、さらに家、村や町という言葉を引き出してくれた。夜と明かりはいいとして、蝋燭、燭台、家、村や町はそれが何を示しているのか、よく分からなかった。いや、定義は浮かんでくるので、言葉としては分かるのだが、その意味することが良く飲み込めないでいた。

蝋燭と燭台は一組になっていて、(しょく)は小さな明かり。それは見たままで、説明になっていない気がした。もう少し広げると、燭は持ち運びできる小さな火だ。
だがすぐに、どうして火を持ち運ぶ必要があるのか、という疑問が浮かんで来た。月明かりや星明かりのない夜や暗い場所、特に家の中で手元を明るくする為なのだけど、それなら、明るくすることに何の意味があるのか、家とは何なのかとか、次から次へと新たな疑問が増えて行くばかりだった。

けれど、それらの言葉に共通していることが一つあった。それは〈ヒト〉が行う行為であることだった。家とはヒトが居るところで、ヒトは家を集めて村や町をつくる。それに、ヒトは明かりがないと障害物を見分けることが出来ない。だから暗い場所では明かりを持ち歩く。とすれば、あの灯火の下にはヒトが居るのだ。

(それなら、あそこまで行けば、父と母を探すことができる。)
そう思って嬉しくなった。これまでは漠然(ばくぜん)と外に行くことを考えていた。それは外に出れば、何か父母につながる手掛かりに出会えるだろうと思っていたからだった。そして、その探していた手掛かりを見つけたのだ。

(だけど、ヒトと父母とに何のつながりがあるのだろう?)
そんな疑問が頭に浮かんできた。
(それは、父と母がヒトだからだ。)
けれど、それではおかしいと、頭の中に先程の定義が繰り返された。確かに何か違和感があった。何かが食い違っているという気がするのだが、同時に間違っていないという確信もあった。

(父母と言うのは親のことで、親と子は同じ姿をしているもの、で……? えっと、少なくとも仲間より近いはずで。……だから?)
だから、固定化された肉体を持つ生物であるヒトの子供が、波動体の生物であるはずがないのだ。それは最も遠い存在であり、むしろ目の前を逃げて行く虫達の方がよりヒトに近い、そう結論を出した。

だがそれは、とても納得できるような答えではなかった。
(だって……父と母は父や母だ。母から生まれて、父に守られていた。確かに二人の子供だったはずだ。)
頭の中はさらに混乱していた。とにかく落ち着いて考えようと思って、岩陰から風のこない穴の奥に戻って身体を丸めた。そして結界を最外側の警戒線にまで拡げて、小さな生物達を出来る限り遠ざけた。なるべく邪魔が入らないようにしたかったのだ。それから、じっくりと(わず)かに覚えている記憶を探った。

一番鮮明なのは、暗い穴に落ちて行った時の事だ。激しい痛みが、その記憶を(つな)いでいた。
(それからその直前、一面の白い色と黒い口。そう、あの口を目掛けて落ちて行ったのだ。)

しかし、そこに至るまでの出来事は、曖昧(あいまい)でよく分からなかった。覚えていないと言うより、何がどうなっているのか確認できない光景だった。ただ、白い景色と、ものすごい速さで後ろに飛び去って行く木々が見えた。
(それから、そうだ。ぴかぴか輝く大きな鏡が下に見えた。それを見て、母と……それから寝室かな。そう、白い寝台を思い出したのだった。)

順序よく(さかのぼ)ることが出来たのはそこまでで、後は空白の中に、連なりの断たれた記憶がぽつりぽつりと浮かんでいた。空から落ちてくる白い欠片、これは雪のことだ。
(白いと言えば、目の前で揺れる小さな白い(かたまり)、あれは雪ではなかったのだろうか?)

しばらく考えていたが、それらの違いは、良く分からなかった。けれども、それを思い出すと体が暖かくなる感じだから、きっと雪とは違うものなのだろうと思った。
次に浮かんで来たのは黒い影だった。目前にそびえる黒い影、それを目指して必死に走っていた。その黒い影は、西に傾く太陽に照らされた一つの塔の姿につながっていた。

それから先は暗闇だった。何も見えない暗闇に、声だけが聞こえていた。
それは夢だった。夢に見て忘れないようにと留めておいた記憶。そこには父母の声が刻まれていた。姿は浮かんで来なかったけれど、その声はしっかりと思い出すことが出来た。

生まれて来てくれて嬉しい、と母の波動(こえ)がささやいた。あなたに会えて嬉しいと。それから母は、私のかわいい子と言って、あやしてくれた。母が背中に当てる手が、穏やかな調子の振動を伝えて来て、いつもその波動に揺られて眠ったのだ。

(だから……だから、父さんも母さんも、本当に父さんと母さんで……。だから確かに、父さんと母さんとは親子だ。)
それでは説明になっていないと、どこかで声がした。だが、今はそれ以上考えたくなかった。父や母と親子ではないなんて認めたくなかった。

(だって、違和感なんて全然なかった。父や母と暮らしていた毎日に、そんな疑問なんて浮かんで来なかった。)
けれど、本当にそうだと言う証拠は何もないのだ。記憶が戻らなければ、正しいとも違うとも言うことが出来ない、だから、何としても記憶を修復しなければと思った。
たぶん今は、それが優先事項だ。この段差を埋める何かしらの記憶があるはずだ。それを見つけることを最優先にしようと決めた。

結界を縮小して排他線(アウトライン)に体中の気力(ちから)を集めた。意識を記憶の修復に向けるために、防御は最高強度にしておく必要があった。残る気力は、大気から精気(エネルギー)を取り込んで蓄えること、これは大きくなるのに必要なことだから、常に働いている機能だ。それから〈核心(コア)〉を維持すること。〈核心〉を失えば死んでしまうのだから、これも当然だった……に振り向けて、それ以外の必要のない感覚器は全て閉ざした。

これで侵入して来るモノに対しては、何の抵抗も出来なくなるが、最高強度の防御をしているから、大抵はそれで防げるはずだった。それで駄目なら(あきら)めるしかないが、この辺りで、そんな危険性のあるものには出会ったことはなかったから、たぶん大丈夫だろう。

そうして目を閉じ、聴覚も嗅覚も触覚も閉ざして用意を整えると、意識は全て核心の中の記憶に向けた。
それは、暗闇の中に浮かぶ無数の光のようだった。それらを見上げ、どれから始めようかと、ひとつひとつを眺め渡したが、どれも同じようにしか見えなかった。だから、一番手近にあった一つを手に取った。そして、そこに映し出された光景を、記録と照らし合わせ始めた。

意識を集中して、ただひたすらその記憶(コード)に合致する記録(ノート)はないかと探し続けたが、その一つを照合するだけで長い時間がかかった。もうそれを諦めて他の欠片にしようかと思い始めた頃、その記憶と全て一致する記録を見つけた。

ほっと溜め息をついて、その欠片をあるべき場所に収めた。それは〈記憶(メモリー)〉の中間あたり、繋がりの失われた部分では、比較的今に近い、つまりどちらかと言えば新しい記憶だった。

遠くに白い山々が見えていたから、あの山のどれかに、落ちて行った黒い穴があるのかもしれない、とその記憶を見ながら思っていた。
辺りには多くの原体が集まっていて、それらが、呼ぶ声が聞こえる度に、それに応えて鳴いていた。共鳴していたのは何も原体達ばかりではなかった。その声が聞こえると波動(こころ)(ふる)い立つのが感じられた。

次に手に取ったのは、暗い朱色の光だけが見える記憶だった。そこに残る音だけが手掛かりだったが、その少ない情報では、漠然と記憶のこの範囲としか分からなかった。
なので仕方なく、その辺りにその欠片を置いた。次もその次も、同じような暗朱色の光と、一定の調子で聞こえる音だけの記憶だった。それは、とても心地よくて、眠気を誘うものだった。その光景は、卵の洞窟に少し似ているなと思いながら、その欠片を先程の記憶の近くに取り分けておいた。

その次もそのまた次も、と手にした欠片は、暗朱色の記憶ばかりだった。困ったことに、それらは情報量が少なくて、場所を特定し難かった。記憶の照合は一向に進まず、大体その辺り、と思われる場所に、記憶の欠片が積み上がって行くばかりだった。
(これじゃあ、(らち)が明かない。)
なおも無数に残る手付かずの欠片と、一ヵ所に積み上げられた行き場を特定出来ない記憶の山を見つめて、深い溜め息をついた。

しかし、記録(ノート)によればこの暗朱色の記憶は、繋がりの失われた部分のほとんど全てにあたるようだった。それを確認して、もう一度溜め息が出た。それは記憶の修復が不可能だと言われているのに近かった。どうにかならないものか、と考えながら記録から離れて、意識を記憶の欠片に向けた。

確かに、(のぞ)き込んだ欠片のほとんどが暗い朱色をしていた。そうでない波動(いろ)を探す方が難しかった。それでも、根気よく探せばあちらに一つ、こちらにも一つと(まぶ)しい波動の欠片が見つけられた。

(そうだ、こっちの方が少ないのだから、これを探せば……。)
そうすれば一つを処理するのに時間はかかるけれど、一致する場所が見つかる可能性が高い。そう思い付いて、手にしていた暗朱色の欠片を脇に押し遣り、見つけた欠片に手を伸ばした。

その眩しい記憶は、ごく短いものだった。
母の波動に包まれて窓から庭を見ていた。閉めきられた窓の向こうに、緑の葉を茂らせた木が見えて、誰かが呼ぶ声が聞こえていた。
そこで記憶は切れていた。小さな欠片はすぐにでも場所を特定できそうだったが、結構これが難航した。似たような記録が何ヵ所も見つかって、何度も確認してみたものの、結局どこに当てはまるのか決められなかったのだ。だから、その欠片は取り敢えず当てはまりそうな記録の始めに置いて、次の記憶を探すことにした。

次の欠片は暗闇の色をしていた。その闇色の中に、ぼんやりと(にじ)んだ朱色が浮かび上がり、すぐにはっきりとした炎の形になった。燭台の上で炎が揺れて、こちらにも赤みを帯びた灰白色の壁に、幾つもの影が踊っているのが見えた。母の声に目を上げると、黒い瞳がじっとこちらを見つめていた。体の底からふつふつと浮かび上がって来るくすぐったい波動に、思わず笑った。嬉しい、と伝えるつもりだった。けれど、まだ体は上手く反応してくれなくて、唇の端が少し動いた気がしただけだった。

ふと、壁に映った影の一つが近付いて来て、母の瞳が動いた。その瞳を追いかけて、近寄ってきた影を見上げ、思わず母にしがみついた。嫌なやつだと思った。嗄れた波動(こえ)が、笑いを含んで母に向けられた。不安そうな母の声が聞こえたが、それを(さえぎ)って(しゃが)れ声が言った。
「気楽にしておいで。……目は父親似だね。きっと、立派な体躯の男に育つさ。」
影がのびて来て頬を撫でた。それはとっても暖かな波動をしていた。母は安堵したように笑って、それから子守唄を歌ってくれた。

暗闇色のその欠片は、暗朱色の記録が途切れてすぐの位置に、収まるべき場所を見つけられた。震える手で欠片を本来の場所に戻した。

似ている、とそう声は言っていた。父に似ていると。それは少なくとも、仲間に見えると言うことではないだろうか。全く異なるものを指して、似ているとは言わないはずだ。深呼吸して心を落ち着けてから、もう一度その記憶を確認した。

確かに、記憶の中の身体は母と似ていた。大人と子供の大きさの差はあるが、それだけだった。ただひとつ違うのは、その体の内側に(かす)かな、意識を()らしてやっと感じられる程度の弱い〈核心〉があるということだった。
とは言え、核心は外に現れている波動と同期して、すっかり隠れてしまっていたから、そこにあるはずだと知っているから見分けられる、という程度でしかなかった。記憶の中のその姿は、ほとんどヒトだった。

その新たな事実に困惑した。記憶の中の体と今の姿、全く違う二つの姿が、上手く(つな)がらなかったのだ。定形のヒトと波動体である今の姿は、最もかけ離れた存在だと言っても良いくらいだった。生まれた時にヒトなら、父母の子供であることに何の問題もないが、今度は今の姿の説明が出来なくなってしまう。

(いつ、どうやって変わったのだろう?)
それ以外に覚えている限りの記憶は、全て今の姿をしていた。再度ひとつひとつの記憶を(さかのぼ)りながら、そのヒトの体の記憶と、呼ぶ声に引き寄せられて暗い穴に落ちて行った記憶との間に、何があったのかと考えていた。

白い景色の中、呼ぶ声に呼応する原体達に囲まれていたのは、穴に落とされる直前のことだ。それ以前の記憶となると、夕闇の迫る中を、塔の影と灯火を目指して必死で走っていた、あの記憶だった。
呼ぶ声が聞こえていたけれど、それを無視して帰ることだけ考えていた。それから、同じ塔を見上げた時の嫌な感触、あれは警戒線だった。
その記憶を見ながら、そういえば、あれが初めて出会った結界する存在(もの)だったな、と思った。その記憶の中でも声が呼んでいた。呼ばれていたけれど、聞かぬふりをしていた。

(だって、声はずっと呼び続けていたし、思っていたよりもずっと遠くで呼んでいることが分かったから、もっと後で、もっと大きくなってからでも良いかって思った。それよりも、あの時は面白そうなことが目の前にあって、それで……。)

不意に、タッターンという鼓声が暗闇の中に聞こえて来て、記憶の欠片の一つが激しく震えた。それは、さっき(のぞ)き込んだ(まぶ)しい記憶(かけら)だった。そちらに意識を向けるまでもなく、ぱっと取りどりの波動(いろ)が広がって、短いその記憶が再生された。

母の腕に抱かれて居室にいた。窓越しに庭の木が見えて、呼ぶ声が聞こえた。
体の内側では〈核心(コア)〉が力強く明滅していて、定形のヒトの身体の内側に、(ふく)れ上がった流動体の身体が、危うい均衡で留まっていた。呼ぶ声がすると、内側の〈核心〉が一時波動(ひかり)を増した。それは見ていて、ヒトの体を破壊してしまわないだろうか、と不安になるほどの極限の均衡だった。

もう一度鼓声が響いて来て、手を離して欲しくて母の腕の中でもがいた。母は扱い難そうに抱きかかえていたけれど、おむつでも()れているのかしら、と(つぶや)くと寝(かご)の中に下ろしてくれた。
それとほとんど同時に扉を叩く音がして、母は玄関に出て行った。すると呼ぶ声に応えて、内側の声が行こうと(ささや)いた。
(まだだよ。だってまだ、皆がそばにいるもの。)

こんばんは、と幼い子供の声が聞こえ、続いて家の中で走っちゃだめよ、と父の従妹の声がした。
「夕食をこしらえて来たの。一緒にどうかと思って。」
「助かるわ、いつもありがとう。今日は特に手が離せなくって、どうしようかと思っていたところよ。」
「最初はそんなものよ。この子も手を焼かせてくれたもの。」
父の義従妹は、そう言って笑うと、小さな娘を連れて調理場へ入っていった。それを見送った母が、長椅子の側まで戻って来ない内に、突然家の奥から大きな音がして、わぁっと泣き出す声がした。調理場からは白い煙が湧き出していて、それを見た母は、慌てて調理場へ走って行ってしまい、辺りには誰もいなくなった。

(今しかない、行こう。)
そう決心して〈核心〉に凝縮していた気力(ちから)を解放した。そうすると、体の中心から末梢に向けて、熱い波動(ひかり)が伝わって行くのが感じられた。その熱に触れて、体を構成していた波動がゆっくりと解けて拡散して行き、自由になった内側の波動が、外側の身体を押し開こうとして、次第に圧力が高まっていった。それがある地点まで高まった瞬間、全てがほどけて内側の波動(ひかり)が外に(あふ)れ出た。体がふわりと浮かび上がり、着ていた服が滑り落ちて下にわだかまった。

その感じは、小さな虫の姿から変化を解いた時に、少し似ていた。少しと言ったのは、あの時は、体の大部分が最初から流動体のままで、変化で変わったのは、ほんの表面だけだったからだ。言わば小さな虫の形の殻を被っていたという感覚に近い。
ヒトの体の場合は、それとは違うような気がした。それでも、その感じは変化に似ていると思った。

それなら記憶の中の姿は、ヒトに変化していたのだと、と納得しようとすると、即座にそれを否定する声がした。ヒトに変化することは出来ない、と声は言った。
(出来ないはずはない、だって千変万化のはずだ。)
より複雑な、高度な構造の生物に変化(へんげ)するには気力(ちから)が必要だが、逆に言えば、気力さえ足りていれば、変化できないものはないはずだと思った。

現に記録された定義にはそう記されていた。だが、但し、とそれには続きがあった。ただし、ヒトを模すことは出来ない、と付記は告げていた。
どうしてと問うと、恐らく、と答えがあった。恐らくそれは、二形を持つからだ。我々は元々、今の姿とヒトに近い姿の二つの形を持っているから、ヒトを模そうとしても元々の姿になってしまい、ヒトには変化できないのだろうと言われているのだ。

それなら、そのヒトに近い姿になったと言うことだろうか、と考えていると、それも不可能だろうと返ってきた。
定義によれば、今の気力ではヒトに近い姿、それは人形(ひとがた)と呼ばれているけれど、その人形になることは、まだ出来ないのだ。もっと気力を溜めて大きくならないと、人形になる能力は身に付かないと言うことだった。

それに、どういう方法かは分からないけれど、ヒトは一目見てすぐに、人形をした我々を仲間と異なると見分けることができる為、ヒトに混ざることは困難だとも定義は教えてくれた。
だとすれば、記憶の中のあの姿は、どう説明すれば良いのだろうか?
ヒトに変化したのでもなく、人形でもないのなら、考えられるのは、初めからヒトだったということだけれど、ヒトは体を変えることが出来ないのだ。

(それとも、ヒトの体と今の姿の二形を持っているってこと?)
するとそれに対して、それはそもそもヒトと呼ばない、とそっけない答えが返ってきて、それもそうかと呟いた。
(分からないことばかりだ。)

それでも、分からないと嘆いているだけでは進展しないし、本当に知りたいことはそう多くはなかった。ヒトかどうかなんて、この際どうでも良いのだ。父母の子供なら、いや、父母が子供だと思ってくれているのなら、それで良かった。

だから三度目、記憶を再生した。今度は注意深く、少しの波動(こころ)の変動も見逃さないようにと、記録された言葉を〈同調音話(シンクロフォーン)〉も使って見直した。

母は泣き笑いをしていた。優しくこちらを見つめる母は、無事に生まれてくれて本当に良かったと、何度も心の中で繰り返していた。同時に、こんなに小さくてこの子はちゃんと育つだろうか、と片隅に不安が(よぎ)った。その不安を見透かしたように声がかけられた。大丈夫と笑う声に、母は思い切って不安を打ち明けようとしたが、それを遮って相手は言葉を続けた。
「心配しなさんな。……きっと、人並みに育つさ。」
それを聞いて、母の張り詰めていた波動(こころ)が緩み、今度こそ母は心から笑っていた。

記憶の見直しを終えても、どこにも違和感は感じられなかった。表に現れた言葉と、波動から読み取れる思念(こころ)にも差異はなく、母もその場にいた仲間も、こちらを異なる生物だとは感じていなかった。その事に安堵して、ひとまずその記憶から離れた。

それよりも、と思った。
(それよりも、家を離れてどれくらい時間が経ったのだろう?)
父や母に何も言わずに、家を出て来てしまったことを思い出して、無性に不安になった。
(早く家に帰らなくては……。)

『暁蕣花の咲く処』(ある子竜の物語)第2章〈2〉 ~フラットアース物語②

『暁蕣花の咲く処』(ある子竜の物語)第2章〈2〉 ~フラットアース物語②

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-08-17

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