追憶の温泉ホテル

1.終電車

 今日も終電近くになってしまった。締め切り間近の今週は、連日、残業が続いている。
 バブル崩壊後、仕事は次第に忙しくなった。危機を乗り越えるため、人員整理や部門の統廃合など合理化を行ったからだ。
 合理化経営は奏功し、多少のわだかまりを残しつつも会社は息を吹き返した。
 思い切った決断を行ったのは、もちろん当時の経営陣だったが、それを実行したのは従業員の手柄だ。
 当時、うまく気持ちを切り替えた者だけが会社に残った。うまくと言っても「要領よく」ということではない。今残っているのは、当時、再就職先が見つからなかった無能者か、家のローンに縛られ人生が詰んでいた債務者だけだ。

 国内工場のほとんどは海外移転し、その工場も身売りして、いつの間にかウチの会社は商社と化してしまった。工場の下請けは切り捨てられていった。

2.兵共の夢

 それにしても今日は酷かった。同時に何個の仕事が流れていたのだろう。家に着いたら早速眠りたい。叶わない夢だが。
 バブル絶頂期に結婚した妻は、バブルが終わったことが分からない。会社の金で夜遊びしたり、接待でもてなされているのが仕事だと勘違いしている。会社で遊んでいる訳だから、家事を手伝い子供の勉強を見ろというのは当然だろう。
 ある意味一番幸せな時に主婦になった訳だから、再び会社勤めするのは難しい。ギャップを乗り越え、気持ちの切り替えをするには難しい年齢になってしまったからだ。

 当時、頭の切り替えが出来なかった奴は、もうどこにも残っていない。もし、そいつが役員だったら、その会社を潰してしまっている。

 バブルは人を狂わせ、その人の人生をも変えてしまった。いい思いをしてきたと言われても仕方ないが、それは考え方だ。
 生き残った奴は、世の中の出来事を見分ける、不思議な力を持った。おかしいこと、おかしくないことの違いがなんとなく分かる。おかしいことに遭遇すると脳が警鐘を鳴らす。ほんの少しの違和感でも冒険と感じてしまう。
 反対に見分ける力がない奴は、漏れなくバブル被害者となった。例えば社員旅行を企画する人種だ。一旦贅沢に慣れてしまうと貧乏に戻ることが出来ない。生活レベルが下がることが何より恐怖なのだ。

 ご時世だからと言ってしまえば身も蓋もないが、それでもこうして暮らしているだけ幸せか。

 体が悲鳴を上げている。
 休みが欲しい。
 何かに癒されたい。

 ふと中吊り広告が目に入る。旅行雑誌の記事だった。
(温泉か、もう10年は行ってないな。小学生の娘は幼児のときに連れて行っただけだから、温泉で寛ぐなんて文化は全く理解不能だろう。温泉の入り方さえも分からず、このまま大人になってしまうのか。廃れてしまう文化なのかも知れないが、せめて1回でも経験させてやりたい。)

3.家族

 帰宅してひととおり主夫の仕事が終わると妻に相談する。
「親離れする前に温泉を見せてやりたい。綺麗な温泉でなくて構わないから勉強のために。」
 勉強という言葉に妻は反応した。
「別に行ってもいいけど用意が面倒くさい。」
「これなんかどうかな、カニの食べ放題だって。」
「カニなんて新宿で食べたほうがよっぽど安いし美味しい。」
「一泊1万5千円からあるらしい。」
「きちんと調べてよ。もっと安いところあると思うよ。」
 うまくいった。結局、安い宿を妻が探すことになった。

 翌日、休日出勤から帰宅すると、妻がネット検索の成果を示した。
「このプランが一番安い。ホテルもそんなに悪くなさそう。」
「カニの食べ放題がついてるんだ。こんな山の中でカニが取れるんだろうか。」
「取れる訳ない。人寄せのために無理して買ってる。」
「それでもひとり1万円は異常に安い。」
「じゃあ、これで良いのね。子供の予定が入ってない再来週の土日に予約入れるから会社行かないでね。」
「わかった。それまでに仕事が終わるようにする。」

 なんとなく聞き覚えのあるホテル名だった。前に行ったかも知れない。
「ここの温泉は確か子供の時に1回、入社したての部内旅行で1回行ったことある。」
「どんな感じだった?」
「ホテルが川沿いにたくさん立ち並んでいて歓楽街って感じだった。」
「子供が遊べるところあるの?」
「駅から歩いて行けるところには何もない。市内まで出れば何でもある。沿線には鉄道会社でやってるレジャー施設があった気がする。それと、スキー場が一山超えたところにあったけど今もあるかなあ。」
「11月じゃスキー場やってないし、あたしも子供もスキーやらないでしょ。アウトレットとかないの。」

 子供がアウトレットで楽しむとは思えなかったが、この際はどうでもいい話だ。
「高速道路でもっと奥に行かないとない。確か会社で行ったときは、電車で行ってどこにも寄らずに帰ったと思う。」
「まあ子供の勉強のためだし、カニがあるならいいか。」
 商談をひとつ取りまとめた。

4.観光列車

 都内のターミナル駅から観光特急が発車した。結局、温泉まで2時間という近さと、翌週からの仕事のため車は諦めてもらった。社員旅行のような気分で、さっそく売店でビールを買おうとする。
「レジャー施設に先に行くのに、酔っぱらってちゃ子供の面倒見れないでしょ。」
「車内で食べるお菓子と飲み物買おうとしただけだよ。」
「家からお茶とお菓子持ってきたって、ちゃんと聞いてないの?」
「そうだった。忘れてた。」

 温泉行き特急は定刻に発車した。今日はまず沿線のレジャー施設で遊び、次に温泉ホテルに向かう。最寄り駅から温泉ホテルへは送迎もあるが、温泉街を歩いて行く計画だ。
 指定された席に座ると妻子は、あっという間に眠ってしまった。
「往復の車内も貴重な旅行の時間なのにな。」
 よく言われるようなことを言ってみた後、車内販売のビールを待った。残念なことに、こういうチャンスに限って売りに来ない。
「仕方ないな。どっかで売ってないかな。」
 席を離れビール求めて車内を徘徊する。土曜日の午前中にも関わらず乗客は少ない。
 同じ車内では小学生位の男の子ふたりを連れた夫婦が、席をボックスにしている。自分も幼い頃、親に連れられて温泉行き列車の乗ったことを思い出す。あの時、親はどういうつもりで子供を連れ出したのか。鉄道が趣味だった自分と弟は「特急列車に乗れる。」と「昆虫採集」が目的だった。
 結局、ビールは見つからず手ぶらで席に帰る。ボックスシートの親子連れは、いつの間にかシートをふたり掛けの元の状態に戻していた。子供たちは親の前のシートに並んで座り、車窓の流れゆく景色に夢中の様子だった。
「子供の騒がしさに嫌気がさしたか、それとも子供たちのほうから親と離れたか。」
 鉄道好きだった自分と弟は、親と話すより、自分たちの世界に浸り特急列車を満喫したかった。親は残念がったが、子供の自分には親はどうでも良かった。

「どこに行ってたのよ。」
 席に戻ると目を覚ました妻に聞かれる。
「トイレ行ってた。」
「レジャー施設の駅に着いたら起こしてよね。」
 また眠ってしまった。
 自分も眠ろうと思うが、気がはやって眠れない。
(子供の頃から鉄道好きだから、眠れないのかも知れない。)
 ものごころついて、もうとっくに鉄道趣味から卒業したはずなのに、気持ちが落ち着かないのである。
 仕方なく車窓を眺める。窓からは稲刈が終わった秋の田園風景が広がっていた。
「この辺も随分変わったな。」
 社員旅行の時は酒を飲んでいたので気付かなかったが、線路沿いに見える家の数は格段に増えていた。建物も近代的で昔の面影は無い。線路だけが変わらずに残っている。
 途中駅を過ぎると単線になり、島式のホームで、反対側から来た列車が待ち合わせをしている。
「特急のために長いこと待たされたのだろうな」
 妻や小学生の娘には興味のない景色だった。

5.駅前風景

 レジャー施設でひととおり遊んだ後、ひと駅隣の目的駅に着いた。
 駅は近代的に改装されていたが、特急用に延長された長いホームは変わらなかった。
 改札を出て駅前の土産屋街を散策する。売っているものは、どこの観光地でもそう変わるものではないが、何故か、観光気分を盛り上げてくれる。
「今夜は、どこのホテルにお泊まりですか。」
 土産屋の女将が仲良くなった妻と子供に聞いている。昨今は海外からの旅行客がほとんどで、国内の旅行者は珍しいのだ。
「○○ホテルです。」
 妻が答えている。一瞬、女将の表情が変わったが直ぐに戻り、
「○○ホテルのお茶請けのきゃらぶきは、ウチが卸元だから、ホテルでは買わずに、帰りにウチに寄って買って下さいね。」
 営業に余念がない。妻と女将は海外からの旅行客について四方山話をしている。ホテルの備品を持ち帰って困るだとか、そんなことだった。
「世の中、世知難くなりましたね。」
 女将に丁寧に送り出されホテルに向かう。川沿いの橋元に豆腐屋があったが、いつの間にか廃業している。谷間のホテル街は日が暮れるのが早く、提灯形の街路灯には灯りが点っていた。

6.昭和レトロ

 あっという間に予約していたホテルに着き、チェックインの手続きをする。大袈裟なシャンデリアに照らされたロビー、「国際観光旅館」の札も懐かしい。フロントにいた自分位の年齢の男性は、ホテルの支配人だろうか。チェックインシートを出したのはその妻か。昔はたくさんの従業員がいたのだろうが、今はほとんど家族経営になっているのだろう。従業員も客もまばらだ。
 部屋に着くと沢沿いの窓を開け景色を眺める。沢の反対側に見えるホテルは廃業したのだろうか、この時間でも灯りが点っていない。自分の側のホテルでは団体客の宴会が始まったのだろうか、騒がしい声がする。
 荷物を放り出すと、娘はお茶請けのきゃらぶきを食べ始め、妻がお茶を入れた。座椅子に座り、なんとなく湿っぽい部屋を眺める。部屋の調度品は現代風ではない。ガラスコップとその横にあった栓抜きも昭和を感じる。
 ノスタルジーに浸る間もなく、妻と娘は浴衣に着替えると大浴場に向かった。自分は部屋に備え付けの冷蔵庫を開け、何も入っていないことが分かると館内散策を開始した。
 ホテルのフロント、ロビー、ジュークボックス、土産の売店、食事場所のダイニング、ゲームコーナー等、時代に取り残されているようだった。大浴場に向かった妻と娘は部屋の鍵を持っていないので、自分は自販機を見つけると早々に部屋に戻った。

 手に入れた缶チューハイを開けて、改めて部屋を眺める。今となってはホテルより、家のほうが近代的で清潔だ。
 大規模なホテルは改装することが難しく、多くの旅行客は昔のようにホテルに贅沢さを求めることはしない。では一体何を求めるのか。自分の場合は癒しだが、当時を知らない若い世代は、見たこともない古い設備で、果たして「癒される」のだろうか。

7.夕食

 食事時間前には大浴場に行った妻と娘が戻ってきた。自分も浴衣に着替えてダイニングに向かう。
 夕食は予め調べていたとおり、ビッフェ式だった。思ったより宿泊者がいる。宿泊者の多くは家族連れだ。
 早速全員でカニを求めてコーナーに向かう。他の宿泊者たちもこれが目当てなのだろう。あっという間にカニはなくなり、従業員が空になった皿を取り替える。
 カニを皿にのせてテーブルに戻ると、従業員が酒の注文を聞きにくる。
「ビールを瓶で下さい。コップは2つ」
 子供用のジュースは飲み放題なので、妻と自分用の飲み物だけを注文する。子供はポテトフライとフルーツばかりを食べている。普段、高価なものを食べさせていないので、こんな時、食べられるものが少ないのだ。妻は娘に少しでも元が取れるよう高価な食材のものを食べて欲しいのだが、子供には何が高価なのか分からないし、その有り難さも理解できなかった。
 ひとしきり家族でホテルのこと、大浴場の印象を話す。女性用の浴場は沢に沿ったガラス張りできれいだったらしい。浴槽は泳げるほど広く、ほとんど貸し切り状態だったそうだ。

 カニを食べ終わると、次の食材を探して皿を持ってテーブルを回る。鮎の塩焼きがあったので、それをいただき、ついでに日本酒を注文する。妻用にはワインを注文したが、露骨に嫌な顔をされた。
「飲み物を頼んだら安いホテルを苦労して探した意味が無いじゃないの。返してきてよ。」
「このホテルもカニとか出して、経営的に大変な苦労してるんだから、少しでも貢献してあげようよ。酒代が唯一の儲けなんだから。こういうホテルが無くなったら、もう、遊びに来ることも出来なくなってしまうし。」
「そうね、頑張ってくれてるんだから、まあいいか。でもあなたのお小遣いからにしてよね。」
 妻はホテルの地道な努力が分からない。バブルが崩壊し団体客がいなくなった今、大規模なホテル経営がどのくらい難しいのか、それでも笑顔で客を迎え、笑顔で送り出す。サービス業ではない自分でも、ホテルの苦労が判る。
 日本酒でしたたかに酔うと、部屋の鍵を妻に預け自分は大浴場に向う。ダイニングの舞台では、いつの間にか歌謡ショーが始まっていて、妻と娘はそれを観覧することになったからだ。

8.ゲームコーナー

 タオル片手に館内見物する。途中、ゲームコーナーを通ると、行きの車内で見かけた兄弟が対戦型のテレビゲームに興じている。親は疲れて部屋で休んでいるのだろうか、姿が見えない。
「同じホテルだったか。」
 偶然だが、そんなに珍しいことでもない。特急列車の目的地はこの温泉だし、この温泉街でも営業しているホテルは少ないのだ。

 少年たちは飛行機から放たれるミサイルで、相手と戦う白黒画面のテレビゲームに熱中していた。浴衣姿でしばらく兄弟の対戦を眺める。
 飛行機はゆっくりと方向を変えるため、なかなか相手方向に機首を向けミサイルを発射できない。もどかしい動きでやっと方向を変えてミサイルを発射しても、敵はもうそこにはいない。時間が過ぎるとゲームオーバーになり、決着がつくまで100円玉を投入する。100円玉が尽きると兄弟は両替機を探した。ところが、手に持っているのは懐かしい500円札で両替機には入らなかった。
「そのお金は入らないから、フロントに行って両替してもらったらいいよ。」
 兄弟は礼をいうとフロントのほうに走って行った。

 小学生の頃、ホテルの夜の楽しみといったらゲームだった。親は子供から解放されたいから、お金を与えて遊ばせるのだ。子供たちは普段ゲーム機で遊べないから、ホテルで遊べるのは大歓迎なのだ。
「今時は家庭用のゲームが普及してるから、きっとアーケード用のゲーム機って、かえって面白いんだろうな。」
 そんなことを考えながら大浴場に向かった。

9.大浴場

 大浴場はガラス張りでがらんとしていた。プラスチックのかごに浴衣を入れ、洗い場に入ると、想像通りの大袈裟なゴシックと和風が混ざった大浴場だった。
「今時だったら、和風にするとかもう少しセンスある風呂にするよな。」
 懐かしい感じの洗い場で体を洗う。コーナーには観葉植物が置かれている。ガラス張りの窓の外は渓谷の景色が広がっているのだろうが、あいにく暗くて見ることができない。外には温泉街であることを唯一証明する朱色の提灯が寂しげに点っていた。
 バブル全盛期であれば、こうした洋風の大浴場もさぞ賑わったことであろうが、今はかえって珍しく、「よく残してくれたな」と感慨深くなる。入浴客の桶の音が高い天井にこだました。

 体をひととおり洗い、いよいよローマ風の浴槽に浸かり足を延ばした。
 疲れがどっと押し寄せてきて、これが夢に見た「癒し」なのかと勝手に解釈する。このまま、ずっと浸かっていたいところだが、日頃、長時間風呂に浸かる優雅な暮らしをしていないため我慢できない。風呂から上がり、また浸かりを繰り返す。
 昨今の日帰り温泉施設では、サウナや外風呂など、様々な趣向の風呂があって退屈しないようになっている。ここの風呂は自分が浸かっている浴槽だけのようだ。

「少しはお寛ろぎになれましたか?」
 さっきフロントにいた支配人と思しき中年男性から声をかけられた。
「ええ、お陰様で癒されました。」
「この温泉は少し離れた川の上流に源泉があって、どのホテルもそこから引き湯しているんですよ。」
「これだけホテルが立つと、温泉の割り当ても大変なんでしょう?」
「ええ、温泉街が活気があった頃は本当に大変でした。」
「旅館組合があって、ウチの先代が組合長をやってたんですが、まとめるのが大変でね。今はバブルも終わって営業してるホテルも少なくなったので、そういった争いも懐かしい思い出になりました。」

「失礼ですが、このホテルのご主人ですか。」
「私で2代目になります。当時はたくさんの団体さんが、東京から来ていただいたので、ホテルを建てることができました。」
「昔のままの風情を、よく残していただきましたね。私も子供の頃に1回、会社に入りたての頃に社内旅行で1回、利用させていただいた記憶があります。当時はどのホテルに泊まったのか覚えていないのですが、懐かしい気持ちになりました。」
「実はこのホテルはバブルがはじけて先代が亡くなった時に1回、営業を止めたんです。私は当時、東京で大学に通ってまして、親父の仕事は継ぎたくなかったので、そのまま東京で就職したんです。それで1回はホテルを手放したんですが、やはり景気が悪くて次の方も長続きできなかったんですね。結局、廃業しました。」
「どの位、ホテルは閉鎖されてたんですか。」
「15年くらいでしょうか。東京の会社で希望退職者の募集があって、それをきっかけにUターンしました。ホテルの権利はただ同然だったのですが建物は荒れていましたし、営業を再開するまで5年かかりました。」

「どうしてまたホテルを再開しようとお考えになったのですか。」
「地元への恩返しでしょうか。私はここで生まれ育ちましたから、たくさんの方が生活に困っているの見ておりました。何か働き口を作れないか、お手伝いできることはないかって考えるとホテルだったんですよ。」
「ホテルは地元の役に立つんですね。」
「ええ、ホテルは地元に支えられて初めて営業できるんです。逆にいうと経済基盤がない場所にはホテルは建てられません。料理人や客室係、レストラン、掃除、洗濯、歌謡ショーの芸人さんなど、たくさんの方の協力で成り立ってるんです。ホテル内で働く方だけではなく、食材を提供してくれる農家、牧場、石鹸とかタオルを供給してくれる業者さん、昔の「つて」でお願いしました。ほとんどの方が高齢化で休業していましたから、自家用に僅かに作っているものを分けていただいたりしてます。こうしてお客さんに来ていただけるようになって、序々に協力の輪を広げてきました。」
「夕食のカニが美味しかったですよ。家族もお腹いっぱい食べることができたって喜んでました。」
「あれは学生時代の友人の協力なんです。水産物卸をしているので、特別に毎日、運んでもらってます。鮎は召し上がりましたか。」
「美味しくいただきました。日本酒がよく合うんですよね。」
「近所の養殖をしている家にお願いしてるんです。一旦廃業したんですが、息子さんも私みたいにUターンで戻ってきまして、何か仕事はないかっていうことで再開していただいたんです。」
「そうですか、街が活性化してきているんですね。」
「序々にですが、みんなバブルの再来を求めているのではなく、何とか、町の特色を出そうとしているんです。まずは人を呼ぼうって訳ですね。」
「カニのHPはインパクトありましたね。それと湯葉でしょうか。妻もあれを見て、ここに決めたみたいです。」
「ありがとうございます。そう言っていただけると頑張り甲斐があります。湯葉は駅前のお豆腐屋さんで作っている、地元産の食材のものなんです。湯葉に限らず出来るだけ地元産の新鮮な食材を使っているんです。」
「それで恩返しと云う訳ですね。」
「ええ、今はまだ充分に地元の支えにはなっていないのですが、それでも働いた分だけ、収入が得られる状態でないとみなさん続きません。そういう人が増えて活気を取り戻せたら良いなと思ってるんです。」
「歌謡ショーの人たちは、どのような方なんですか。」
「ひと駅隣に鉄道会社がやってるテーマパークがあるでしょ。無理を言って、あそこの楽隊の方に来ていただいてるんです。昔は東京から住み込みで来ていただいていたんですが、今はそこまでお金はかけられませんから。従業員用の宿舎が近所にあるんですが、そこはまだ、手を付けていないんです。」
「妻と娘が感激していました。」
「楽しんでいただければ嬉しいです。」
「ええ、本当に癒されました。私は昔を知っているので、懐かしい気持ちになりました。」

「ホテルのロビーとかシャンデリア、ゲームも昔のまま残しているんです。」
「そう思いました。こだわりがあるんだなって。」
「ええ、出来るだけ昔のままにしています。昭和の名残ですが、今はかえって新しいかも知れないって。あの時代を知らない若い方も、確かにそういった時代があったってことを、分かってもらいたいなって。」
「バブルがはじけてそういう経験も、ずっとマイナスだったと思ってましたが、マイナスはマイナスで次の世代が繰り返さないように、しっかり伝えて行きたいですね。」
「そうなんです。時代に目を塞がず未来に目を向けてね。」
「今日は貴重なお話、ありがとうございました。月曜から会社ですが、お話をお伺いしてまた頑張ろうって気になりました。」
「私のほうこそ、つまらない話で申し訳ないです。旅館街でも頑張ってる方が増えているので、是非、明日はいろいろ見て行って下さい。」

 同世代の支配人の話は面白かった。「町おこし」って言うのだろうか、明るい未来を信じて自ら作っていく「やる気」のある人だった。悲観的になっていた自分を、新たな方向へ導いてくれたような気がした。
 部屋に戻ると妻と娘は既に寝ていた。テーブルには鮎が皿いっぱいに載せられている。私のためにわざわざ持ち帰ってくれたらしい。ふたりを起こさないように、鮎を肴にして、また日本酒を呑む。自分のわがままに付き合ってくれた妻と娘に感謝して。

10.ホテルの朝

 沢の水音で目が覚めた。妻と娘は起きていて、朝食に行く支度をしている。
「鮎、美味しかったよ、ありがとう。」
「あなたのいびきと歯ぎしりがうるさくて、眠れなかったわよ。」
「それはごめん。」
「支度して朝食に行くわよ。湯葉を食べなくちゃね。」

 昨夜と同じテーブルで朝食をいただく。妻と娘は洋食、私は和食党だが名物の湯葉は誰もが皿に取っている。新鮮な牛乳と焼き魚、味噌汁、納豆と卵も嬉しい。
「日本人で本当に良かったな。」
「朝からお米なんてよく食べれるわね。昨日は、また呑んだんでしょ。今日は帰りの電車で呑まないでよね。」
「うん、もちろん分かってる。朝からはさすがに飲まないよ。」

 準備をするとチェックアウトぎりぎりの10時近くになってしまった。タオルとハブラシを持ち帰ろうとする妻を注意する。
「ぎりぎりの経営でやってるんだから、持ち帰らないほうが良いよ。」
「でも持ち帰らないと、次に泊まった人が使うことになるのよ。」
「次に泊まった人が使うかどうかは、次の人が考えれば良いんだよ。どうせ持ち返っても使わないしゴミになるだけだから。」
「ハブラシも資源だからね。そうするか。」

 土産物コーナーを見物した後、フロントでチェックアウトの手続きをする。支配人に昨夜のお礼を言う。
「知ってる人なの?」
 妻が不思議そうに聞いてきた。
「昨日の夜、大浴場で話をしたんだ。なかなか苦労しているみたいで面白かったよ。」
「そうなんだ。」
 それ以上は聞いてこなかった。自分はいろいろ聞いた話をしたいのだが、またの機会にしよう。結局、土産物は買わずホテルを後にした。

 支配人が言ったように、温泉街では様々な店が細々と営業していた。タクシー会社の小さなガレージ。洗車している運転手と目があったので挨拶すると、
「また来て下さいね。」
 挨拶を返された。町の暮らしの息吹を感じる。人々の生活の営みが続いていた。

11.土産屋再訪

 昨日と同じルートで駅に向かう。途中の豆腐屋で湯葉を買おうとしたが、やはり営業していない。
「ホテルには自宅で製造したものを卸しているのかもね。」
 妻は期待していたので残念な表情である。
 橋からの景色を眺める。娘が立ち並ぶホテル群から昨日宿泊したホテルを探しているが、この角度からは見えなかった。遠くからはどのホテルが営業を続けているのか、よく分からない。
 妻と娘は昨日の歌謡ショーで覚えた歌を歌っている。昔ながらのホテルだったが、確実に娘の記憶に刻まれたことを嬉しく思った。

「どうしたら、もっとお客さんが来てくれるかなあ。」
 娘に質問する。
「お父さんみたいに忙しい人が増えれば、自然とお客さんも増えるんじゃないかなあ。」
「あんまり仕事が忙しいと、温泉にくる時間さえも、なくなってしまうよ。」
「忙しくないと本当に「行きたいって」ならないんじゃないかなあ。」
「そうだね。本当に忙しくならないと温泉の有り難さって感じないかもね。」
「あなたはお酒が飲めれば、温泉でなくても良いんじゃないの。」
「そんなこと無いよ。」

 駅前の土産屋で時間を潰す。
「ホテルどうでしたか。」
 女将が妻に尋ねている。
「楽しかった。」
 娘が答えた。
「昔ながらの形で営業していて、懐かしい気持ちになりました。」
「そうですか、それは良かった。」
「きゃらぶきはありますか。」
「これですよ。お茶漬けにしても美味しいから、試して下さいね。」
「会社用のお土産はいらないの?」
「会社の連中には温泉に行くって、言ってないから、特に買って帰る必要ないよ。」
 妻と娘はキーホルダーとかを品定めしている。絵はがきは主に外国客用か。富士山とか浮世絵とか、温泉とかけ離れたものも多い。自分は温泉まんじゅうの製造場所をチェックする。市内で製造されたものに混じって、僅かだが地元で製造されたものもある。
「確かに頑張っているんだなあ。」
 女将に送り出され帰りの特急に乗ると、急に睡魔に襲われ眠ってしまった。
「お父さんはいつも呑んでいるか、寝ているかのどっちかだよね。」
 妻と娘が話しているのが僅かに聞こえた。

12.クレジットカード

 旅行から戻って2か月が過ぎた頃、妻がカード会社から請求が来ないと騒いでいる。確かに控えはあるのだがホテルが請求を忘れているようだ。
「カード会社に電話して調べてもらったほうが良いかな。」
「カード会社もホテルから連絡があって始めて請求を行うはずだから、ホテルが忘れているならカード会社でも分からないと思うよ。」
「それならホテルに電話したほうがいい?」
「わざわざ請求忘れてるって電話する人いないよ。いつか引き落とされるはずだから、その時に支払えばいいよ。」
「まあ、そうだよね。」
 こんなやり取りがあって、請求の件は決着した。

(そういえば、あのホテルどうなったかな。新しい集客方法を考えついたかな。)
 リビングのノートパソコンでホテルを検索する。同じ部屋で妻と娘はバラエティ番組を見ていて、時々、大笑いしている。
「一体、何が面白いのかなあ。」
 いつもの風景だが自分には楽しめない。

 ホテル名で検索してもあのホテルが出てこない。違う地域のものばかりだ。妻がブックマークしたURLは旅行会社のパッケージプランのページで、2か月経っているのでそこのページは当然変わっていた。
「ホテル単体でHPは持ってないのかもな。」
 あの人数でHP更新までやるのは不可能だ。
「ストリートビューはどうかな。」
 住所で検索すると見たことがある街並みが現れた。この橋を渡って右に折れてずっと直進して…。街外れまで行ってしまった。来た道を戻ってみる。心当たりの場所はトタンの塀に覆われていて建物の形が分からない。
「撮影車が通った日にちょうど改装中だったのかな。それにしても草が生えたりしてて随分長い間改装してたんだな。」
 ストリートビューを閉じて検索画面に戻る。
「口コミでも良いからなんか情報ないのかなあ。」
 それらしい情報はなくて、画面に表示される検索結果は「廃墟マニア」が投稿した動画サイトになっていた。

 少しでも情報が知りたいので動画をクリックする。動画はドローンが収集した空撮だった。駅前の橋から順番に廃墟となっているホテル群の上空を飛んでいる。屋上には赤錆びたタンクがあって、どのホテルもかなり崩壊が進んでいる。建物と同じ高さに高度を落とすと部屋をパンしていく。泊まったホテルの看板が見つかったが、隣のホテルと同じ色をした廃墟だった。自分の止まった部屋のカーテンは破れて、垂れ下がっている。最下段のガラス張りの突起物はゴシックと和風が混ざった大浴場だ。荒廃していて一目では大浴場だと分からない。
 建物の隣にはアパートのような鉄筋の建物があって、これが支配人が言っていた「従業員用宿舎」らしかった。
「こんな状態でよく改装できたなあ。外に張り出したパイプも1個1個取り替えないといけないだろうから、確かに5年かかるよな。」
 コンクリートも朽ちてボロボロになっていた。支配人一家の苦労が偲ばれる。
「一旦取り壊して、建て替えたほうが早かったんじゃないかなあ。」

 動画が終わり撮影日が表示される。撮影日は我々が泊まった前月だった。
「そんなことないよな。現実に泊まった人がいるんだから。」
 慌てて動画をアップしたのでタイピングミスしたのだろう。

 今度は衛星画像を見てみることにする。撮影日は1年前、この日なら営業が始まっているだろう。
 どの建物も人気がない。衛星画像も同じように荒廃していた。
 一体、自分が泊まったホテルはどうなってしまったんだろう。本当に営業を再開していたのか。我々3人は本当にホテルに泊まったのだろうか。妻と娘はバラエティに集中しているので、自分が混乱しているのに気付いていなかった。

13.支配人への手紙

 妻に旅行会社からきた予約確認メールを探してもらう。消してしまったのか、結局見つからなかった。あのあと、妻にも娘にもホテルの現状のことは話していない。聞いて得することは何もないし、怖がるのが明白だからだ。結局、カード払いにしたホテル代の引き落としは無かった。

 どういうことなのか自分なりに考えてみる。支配人は再建したと言っていたが、それは支配人の願望で、現状は再建までは至っていないのではないか。我々は支配人の気持ちの世界に宿泊し癒されて帰ってきた。ホテルに関わる人々からたくさんの活力をもらった。
 反対にホテル関係者には喜んでもらった。そう、ウィンウィンの関係だ。でも、あれは幻だったのだ。街の復興を目指す人たちの熱い思い。ある人は存命かも知れないし、ある人は鬼籍に入っているのかも知れない。それを調べても意味はない。私たちは、空想の世界から、現実に帰してもらった訳だから、それで十分だ。
 もしあのとき妻が歯ブラシやタオルなどの備品を持ち帰っていたら、今頃、どうなっていたのだろう。土産のきゃらぶきをホテルの売店で買っていたらどうなったのだろう。考えると少し怖くなる。
 そういえば、土産屋の女将が備品を持ち帰らないよう注意していた。外国人を引き合いに出してはいたが。ホテル名を知った時も、一瞬、表情が変わった。きゃらぶきを自分の店で買ってくれと言っていた。
 あの女将はホテルの本当の姿を知っていたのかも知れない。それで妻、娘と仲良くなったから、現実の世界に戻れるようアドバイスしてくれたのか。
 全くの他人でも、いずれかの縁で繋がった関係。出会いは大切にということか。妻と娘に救われたな。

 先週、ホテルの支配人宛にお礼の手紙を送った。電子メールではなく本物の郵便はがきだ。
 もう1週間経つが郵便は戻ってこないから、多分、届いたのだろう。
 いつか元気な返事が返ってくることを待っている。
 ホテルが復興することを信じている。

追憶の温泉ホテル

追憶の温泉ホテル

疲れ果てた中年サラリーマンが、温泉旅行をきっかけに社会、家族、運命を考え直す深い物語です。 なるべく軽く読めるよう短編にしたので、伏線を回収できなかったところが1箇所あります。 書き終えてみたら分類はミステリーでした。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日
2019-08-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1.終電車
  2. 2.兵共の夢
  3. 3.家族
  4. 4.観光列車
  5. 5.駅前風景
  6. 6.昭和レトロ
  7. 7.夕食
  8. 8.ゲームコーナー
  9. 9.大浴場
  10. 10.ホテルの朝
  11. 11.土産屋再訪
  12. 12.クレジットカード
  13. 13.支配人への手紙